これは朝日新聞への投書原稿とそれに対する説明文です。
多少の修正の上、「大量失業生む小泉構造改革」と題して2001年6月17日付に掲載されました。

8年ほど前、「政治改革」という聖域があった。一部政治学者の空論がマスコミでもてはやされ、それに乗った細川内閣は人気絶頂だった。少数の良識的なマスコミ人や政治家の異論は「守旧派」の烙印を押された。結果はどうだったか。「政治改革」で実際に行われたのは小選挙区制の導入であり、企業団体献金は事実上野放しだった。こうして自民党は政権復帰後、民意を歪めた過大な議席を得て、KSD事件などの金権腐敗政治が続いた。

 今また「経済構造改革」という聖域がある。空前の支持を得た小泉首相は「構造改革なくして景気回復なし」というが、これはマスコミがあげて国民意識にすりこんだ一部経済学者の神話にすぎない。左右の立場を問わず、多少なりとも冷静な論者たちは現時点での「構造改革」の強行が不況を悪化させることを指摘している。拙速な不良債権処理は大量の失業を生むが政府にまともな対策はない。社会保障の充実などで国民生活の不安を解消しなければ深刻な消費不況は打開できないのだ。しかし企業献金という「合法的」な賄賂政治を続けて恬として恥じない小泉首相の目は国民ではなく財界を向いている。これでは景気回復は望めない。遅かれ早かれ小泉内閣は細川内閣のように失速するであろう。 

   

  追伸

 投書文面は短文で独断的印象を与えますので、以下に説明を加えます。ご高覧くだされば幸いです。

 投書文面では小泉政権を細川政権と並べて切っておりますので、改革への国民の期待に水をさす議論だと思われるかもしれませんが、改革一般へのシニシズムの立場はとっておりません。たとえば長野県の田中知事の改革は本物だと思います。田中知事は情報公開・県民対話を進め、無駄な公共事業を見直し、県民生活を優先する姿勢を示しています。この無党派知事は明らかに通常の保守政治とは違った改革を行っています。

 問題は改革の中味です。無駄な公共事業に象徴される政官財癒着構造の改革は焦眉の課題ですが、その先に目指すものが国民生活を優先した経済(市民主義=ケインズ左派など、ないしは経済民主主義=マルクス経済学の立場)なのか、それとも財界本位の弱肉強食の経済(新自由主義の立場)なのかが問われます。マスコミでいう「守旧派」対「改革派」の図式では、もっぱら「改革派」とは新自由主義を指すか、あるいはせいぜい市民主義との未分化なダブルイメージで語られています。従ってマスコミの「守旧派」対「改革派」図式は実は、利権ばらまきか弱肉強食か、という不毛の選択を強いるものであり、国民の改革への期待を新自由主義の方向へミスリードする役割を果たしています。

 この改革の見極めの重要なメルクマールのひとつが企業献金に対する姿勢です。小泉首相はこの問題ではまったく開き直っています。KSD事件についてもまともに取り組んでいません。企業献金とは直接は関係しませんが、企業献金型政治の腐敗につながるものとしての機密費・上納問題でも塩川大臣の問題に象徴されるように本格的にやる気はありません。企業献金型政治は単に政治・行政の腐敗につながるというだけでなく、経済政策についていえば、その内容がもっぱら財界本位、国民軽視に貫かれることになります。

 景気対策にそれは如実に現われます。この長期不況の最大の問題点は個人消費の不振です。消費税の引き下げ、社会保障の充実、リストラの規制などによって国民生活を支援するというメッセージを送ることこそが政治の使命です。ところが財界本位の視野にはこれは入ってきません。まず大型公共事業を乱発する。効果がないと銀行・ゼネコン支援にと不良債権処理に乗り出し、中小企業は切り捨てる。予想される大失業にもまともな対策はない。これでは景気回復どころか国民経済への深刻な打撃すら心配されます。保守派の論客、松原隆一郎東大教授からも、構造改革こそが不況の原因だと指摘されています。各民間シンクタンクも大失業を警告しています。まともな近代経済学者の次のような辛辣な評価がとどめです。「こうした政策は、政府が何かをやろうとしている姿勢を示すだけの、いわばアリバイづくりの政策として止めておけば無難、実行などしたら大変という政策なのである」(山家悠紀夫神戸大学教授、「全国商工新聞」5月28日)。

 小泉首相が痛みに耐えよと訴えても国民は支持しているのだから、「構造改革」は正しいとか、今がまんすればその先よくなるのであり、今甘いことをいっていては将来駄目になる、というような議論があります。

 これだけ不況が深刻で、国家と地方の財政も大赤字となると、だれしも漠然と「何の痛みもなしに経済を良くすることはできないだろうな」ぐらいのことは思います。だからこそ国民はこれまでさんざん痛みを耐えてきたのです。しかし小泉「構造改革」がもしそのまま実行されたらどんなに酷いことになるかは国民には知らされていないのです。とても耐えられないような痛みであることがわかれば誰も支持はしません。

 たとえ目先の景気が悪くなろうとも「構造改革」で日本経済を強化しなければ世界のなかで生き残っていけない、という議論については、そもそも経済とは何のためにあるのか、と問いたい。弱肉強食の新自由主義では、経済のために人々の生活があるのですが、本来は生活のために経済があるべきなのです。グローバリゼーションと大競争を何の規制もなしに続けていけば、人々の生存権の否定と経済の完全なカジノ化に行き着きます。自然と人間は破壊されるでしょう。すでにこれに対して世界の多くの人々が反対に立ち上がっています。今あるようなグローバリゼーションの在り方は決して唯一の必然な道ではありません。ただそれに順応するのではなく、日本のような巨大な国民経済がどちらのほうを向くのかが問われているのです。

 強大な輸出競争力を誇る産業を頂点とする、一点突破的ピラミッド型・格差構造型の国民経済(それはもはや空洞化しつつある)から、多様な生活志向の重層的な内需循環型国民経済への転換が求められます。個人消費を重視した景気対策というのは単に目先のばらまきではなく「経済のための生活」から「生活のための経済」への転換にそうものなのです。

 今日の「小泉現象」は国民的ヒステリーの様相を呈しています。「朝日」紙上では加藤周一、高村薫、関川夏央各氏などの的確な論評がありますが、率直にいってこの危険な状況を招いた最大の責任はマスコミにあると思います。

 直接的には自民党総裁選挙報道の行き過ぎです。その取り上げ方にしても例の「守旧派」対「改革派」図式で、「改革派」小泉候補を持ち上げてきました。そうした下地としてはマスコミにおける普段からの「構造改革」への無批判的礼賛とそれによる国民への浸透があります。

 そうした政策次元の問題とは別に、政治のワイドショー化、政治家のテレビタレント化もあります。森前首相バッシングのとき、すでに危惧していたのですが、失言批判がいつのまにかその政治的内容批判よりも森氏のキャラクター批判にすり変わっていました。バッシングの強まりとともに政治的内容はどんどん希薄になり、自民党政治自体の政策的行き詰まりは、森氏の劣悪なキャラクターの問題に解消されていました。

 国民的欲求不満が極致に達していたとき登場した小泉首相の率直なキャラクターが国民的カタルシスを与えたことは、新聞投書などにはっきり見て取れます。ここには政策の入る余地がありません。「政治がわかりやすくなった」という人が増えて国民が政治に関心を持つのは、従来のわかりにくい政治に比べれば確かに進歩なのですが、「誰が何のためにわかりやすくしているのか」を問わないとすると大変危険なのです。著名な女性経済学者、ジョーン・ロビンソンは「経済学を学ぶのは何のためか」と問われて「経済学者にだまされないため」と答えています。政治家にだまされないために政治学を学ぶのは大変でしょうが、せめてテレビをながめて良しとするのではなく、新聞を批判的にじっくり読むということが必要ではないかと思います。「そんな暇はない」という人もあるでしょうが、その人はそんな生活・仕事ひいては社会の在り方が誤っているのではないかという問いを是非して欲しいのです。

 「夕陽妄語」5月24日で加藤周一氏が指摘しているように、残念ながら日本の民主主義は「民衆の権力」という本来の意味にはとうてい到達しておらず、政治家へのおまかせ主義なのです。ハンセン病訴訟の控訴断念での小泉首相礼賛にはそれが集中的に現われています。控訴断念は遅すぎたくらいで礼賛するようなことではありません。確かに従来の首相がそうした当り前のことさえしなかったことを思えば進歩ではありますが。

 大切なのは控訴断念を勝ち取った力は元患者たち自身の運動だということです。権利とか民主主義は憲法にもあるように主権者国民自身の不断の努力の賜なのです。恥ずかしながらこの度の元患者たちの闘いを私は知りませんでした。最初はわずか13人で匿名で、様々な妨害をはねのけて裁判に臨んだということです。多大な苦難がしのばれます。たまたま私は知人から控訴断念を求める電子メールを受け取りましたので、それを知り合いに転送し、政府へ要請メールを送信しました。偉大な闘いのほんの末端に加われたことは、もちろん自慢できるようなことではありませんが、本当によかったと思っています。このように大きな運動でなくてもいいのです。国民一人ひとりの回りには自分たちの生活にかかわる問題があるはずです。多くの国民が少しでもそういうものに関わって、おまかせ主義から民主主義に前進したとき、「小泉現象」のようなことは起こらなくなるでしょう。

 小泉首相のタカ派体質については改めて触れるまでもないことです。田中外相の一連の「問題発言」は非常に興味深いのですがもう少し行方を見る必要があります。ここでは「構造改革」問題を中心に小泉政権の先行きを考えてみたいと思います。これまで全否定のような見方をしてきましたが、部分的な改良が進むことはありえます。たとえば不十分ながら道路特定財源の問題が焦点になっていますので、これが多少改善されるかもしれません。これは実現すればプラスの方向です。福祉の切り捨ては「守旧派」の抵抗が少なそうなので進む恐れがあります。これはもちろん国民的にはマイナスの方向です。公共事業の見直しは「守旧派」の抵抗が強いし、そもそも小泉政権は総論をスローガン的にいうだけで具体的な削減に踏み込む意欲がなさそうです。そして今や最大の問題とされてしまっている不良債権問題は難しいところですが、新自由主義の経済学者の机上の空論のように進むとは思えません。そうなってしまったら百万人の失業でえらいことですが、つぶされる側の抵抗も強いでしょうから、易々とはいかないでしょう。

 このように複雑な展開が予想されるのですが、マスコミの姿勢が問題になります。本来ならば一つひとつの問題を国民生活の観点から評価していくべきですが、おそらく従来の「守旧派」対「改革派」図式で小泉内閣支援・与党内の「守旧派」たたきに終始しそうに思われます。「守旧派」を悪者にしておけば小泉「構造改革」の問題点から目をそらし、第三の道の可能性をふさぐことができます。

 そのようなことにならないように、国民生活に具体的に起こってくる苦難に目を据え、真の改革を考えるよすがとなることをせめて朝日新聞には期待したいのです。「政治改革」翼賛体制時代に敢然と小選挙区制反対を貫いた、現在は「朝日」OBの石川真澄氏の良識を是非受け継いでいただきたいと期待しております。

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