これは2002年4月24日、『前衛』編集部あてに送った文章です |
不況対策に賃下げ?!
日本共産党は、リストラ規制・サービス残業禁止・賃上げ・社会保障の充実・消費税率の引き下げなどによって労働者・国民の生活を擁護することで個人消費を回復して不況を打開しようとしています。商業マスコミでは、例えば消費税率引き下げをいう近代経済学者の主張が出たりすることはたまにはありますが、個人消費を中心にした政策を体系立てて問題にすることはなく、無視しています。要するにポピュリスト的な無責任・非現実的な提案だと思っているのでしょう。対米従属・独占資本本位の経済像以外は想像さえできないマスコミの立場からすれば当然なのですが、私たちとしては無視にもめげずよくかみ合った論戦を展開して、マスコミの作り出す「国民的常識」をひっくり返す必要があります。
そこで一つ提起したい課題は、労働分配率の上昇を理由にした賃金抑制論の克服(理論的かつ政策的に)です。たまたま手元にある経済企画庁編『日本経済の現況2000』には「厳しい状況が続く雇用情勢」とある一方で「高止まる労働分配率」とあります。失業と賃金抑制でなぜ労働分配率が高まるのか、矛盾しているように思えるのですが、同書では「雇用情勢が依然として厳しい背景としては、労働市場のミスマッチの拡大やバブル崩壊後の労働分配率の上昇を背景とする雇用過剰感の強さを指摘できよう」(68頁)と、資本の立場でいともあっさりと「統一」されています。要するに利潤に対して賃金が割高だから雇用できないのだ、というわけですが、失業者が多くしかも働いている人も賃金が抑えられているのになぜ労働分配率が高くなるのか、についてはまったく説明されていません。
ここで賃金引き下げ下における労働分配率上昇のモデルを作ってみます。
A 付加価値:100 の内 賃金:50 利潤:50 → 労働分配率50%
・
B 付加価値: 70 の内 賃金:40 利潤:30 → 労働分配率57%
つまり賃金を引き下げる以上に付加価値、従って価格が下落している、ということになります。『日本経済の現況2000』によっても1999・2000年では労働分配率前年差の寄与度では物価寄与度が高くなっています(78頁)。もっともこれでいくと、実質賃金は結果的には上がるのだから労働者には問題はなく、それで利潤が圧迫されるのだから賃下げは当然だ、という主張もありえます。そこで賃金上昇による労働分配率上昇のケースを見てみます。
C 付加価値:100 の内 賃金:57 利潤:43 → 労働分配率57%
Aケースで価値通りの価格が実現されていたとすると、C でも同様に実現されていますが、Bでは実現されていません。個別資本の立場からは、Bではとにかく資本部分は曲がりなりにも確保して剰余価値の一部分だけが実現できなかった、と映ります。そこで再生産は何とかできるのだから、さらなるリストラで利潤を確保しようとします。しかしこのように個別資本が再生産を確保しさらには利潤を回復したとしても、それが価値の実現不能の下で行われれば、社会的再生産の縮小をもたらします(再生産表式を思い浮かべればよい)。要するにBは縮小再生産過程を現わしています。ここで、投資を高めるために利潤を確保する必要があるので賃下げで労働分配率を下げる、というのはまったく景気対策にならないどころか不況促進策ですらあります。商品価値の実現さえ不可能なほど個人消費が低迷しているのにそれを放置してさらに冷え込ませるようなことをしては、積極的に投資して利潤を確保しようという前向きな動きに転ずることはなく、リストラで利潤を確保する後ろ向きな動き(縮小再生産過程)が続くだけです。これが、「合成の誤謬」による「デフレスパイラル」と無概念的に呼ばれていることの中身ではないでしょうか。
一般論としていえば分母と分子のそれぞれの動き方を見ないで比率値だけを問題にすると間違うといえます。労働分配率が高いのだから賃下げだ、というのは乱暴な議論です。上の例でいえば、BをAに戻せば賃上げして労働分配率を下げられます。こういうと実質賃金で考えるべきところを名目賃金でごまかしている、という反論がありそうです。しかし実質賃金も名目賃金と物価との比率値です。そこでは一定の生産力構造に対応する価値体系が社会的再生産を保障しているのであり、商品の価格や労賃がどこまでもフレクシブルに動けるわけではありません。実質賃金が同じといっても名目賃金と物価とが同率でスパイラル状に下落しているような状況、あるいは物価下落のほうが大きくて実質賃金が上がるような状況は上述のように社会的な縮小再生産過程の現われであって、正常ではありません。
以上の話、つじつまが合っているかどうかも問題ですが、頭の中での話ですので、そもそも現実に合っているかと思って『前衛』4月号の寺沢亜志也「経済と暮らしの破局へ暴走する小泉政治」を見返してみました。すると1997年に対して1998年から2001年までずっと消費者物価の下落以上に可処分所得も消費支出も下がっているではありませんか。実質賃金の上昇どころではありません(実感としてもまったくそのとおりなのですが)。現実は本当に厳しくて労働分配率の上昇というのはどこの話だという感じです。あれこれない知恵をしぼって考えても結局ハズレだったようで、これらの統計値の相互関係をどう考えたらよいのか、何か統計技術ないし解釈上の問題なのか理論的問題なのか、ご教示願いたいのです。一つ考えられるのは付加価値の減少の原因として個別商品価格の低下よりも売り上げ数量の減少による部分が大きいのではないか、ということです。そう考えれば物価下落の幅は少なくなりますし、不況下での生活切り詰めの実感にも合うのですが…。
以上、首尾悪しき話を冗長にしてしまいましたが、以下のさらに関連する話題におつきあい願えると幸いです。
労働分配率の問題は以前から引っかかっていたのですが、改めて考えてみようと思ったのは、『世界』5月号の伊東光晴、河合正弘「対談 デフレに有効な政策はありうるか 橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか』を読む」を読んだためです。伊東氏は尊敬する経済理論家ですが、その政策論については付加価値税論者である点などから以前より違和感は持っていました。そして今回の対談には失望しました。失業や賃下げを当然視する議論を展開しています。しかしさすがに調整インフレ論などの与太話とは違ってきわめて理論的であり、それだけに真正面から問題にすべきものだと思い定めたのです。
この対談の基調は、橋本氏の著書を要約した河合氏の次の言葉に集約されるでしょう。
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本書の一九九○年代不況の分析では、付加価値生産性に比べて賃金が上昇し、労働分配率が高くなったために企業利潤が圧迫されて設備投資が抑えられたこと、その結果、景気がさらに低迷し、企業倒産の続出や雇用不安を背景に消費が落ちたこと、そしてそれがさらに設備投資を抑制するという悪循環に陥ったことが示されています。こうした状況から抜け出すためには、金融政策など経済政策は無力で、賃金の引き下げによる労働分配率の低下が必要だということになる。 135頁
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上述したように、ここには労働分配率という比率値の独り歩きがあります。「労働」分配率という言葉に引きずられて賃金だけを見るのが間違いの元です。「付加価値生産性に比べて賃金が上昇し」といっても賃金そのものは下がっているのであり、労働分配率の上昇の原因は、商品の販売量の減少と価格下落によって付加価値生産性が下がっていることにあります。ならばその対策は賃下げではなく商品価値の実現を促す諸方策でなければなりません。比率値の分母・分子の読み間違いでまったく転倒した結論が出てきます。
伊東氏はインフレ・ターゲット政策批判との絡みでヒックスのIS・LM理論を批判して、「投資に与える影響において利潤率こそが決定的に重要であって、利子率はそれに比べるときわめて小さい」(135頁)といっていますが、確かに特に今日的局面では説得力があります。しかし利潤率を確保するのに賃下げというのは短絡なのです。
河合氏はインフレ・ターゲット政策によって「人々の期待インフレ率を変えることができ、企業の投資や家計の消費を刺激することができる可能性があるわけです」と主張しますが、まったく不健全な考え方だと思います。一般には、商品価格の騰落について、通貨的要因による名目的変化と、商品側の要因(商品の生産性と商品への需給)による実質的変化とを区別しませんが、ここに問題があります。現状では少なくない商品(労働力商品を含む)が価値以下の価格で販売されています。従って需給ギャップを埋めて価値の実現を図る必要がありますが、それはあくまで実体経済への支援策による価格の実質的変化であって、通貨価値を下げて商品価格を上げる名目的変化そのものは実体経済の改善ではないのです。もちろん現実には実質的変化と名目的変化との間に明確な境界線はないでしょう。名目的変化が実質的変化を促すことはありえます。しかし通貨価値を維持しつつ景気を回復することが基本姿勢であるべきで、それを意図的にはずしても今度ははたしてインフレを意図のままに操れるかは疑問です。
伊東氏は「構造改革」とインフレ政策との対決点を明快に指摘します。要するに利潤率の回復のため、名目賃金を下げるのか、実質賃金を下げるのかの違いです。われわれからすれば同じ穴のむじなですが、この対談では事実上、伊東氏が「構造改革」派で河合氏がインフレ政策派になっています。新自由主義の鋭い批判者、ケインジアンの伊東氏が「構造改革」派と同じ主張をしている!もちろん伊東氏は河合氏の指摘に同意しつつケインズに従ってマルクスをも参考にして、物価下落の下でも債務は下がらないからそれが資本循環を阻害する、だから名目賃金の引き下げよりも有効需要政策による物価上昇での実質賃金の引き下げのほうが有効だ、ということを承認します。しかしグローバル経済下では安価な輸入品のため物価は上昇しないからケインズ政策はもはや不可能であり、名目賃金の引き下げしかない、と主張しています。しかしグローバル化の下でも懐の深い市場を持った内需循環的な国民経済を形成することが大切であり、それこそが国民生活を豊かにする道でしょう。ともに「上からの道」である「構造改革」ともインフレ政策とも違う「下からの道」がここにあります。
伊東氏は「経済学者というのはコモンセンスがなければだめです」というが、この対談にコモンセンスがあるとはとても思えない。内橋克人氏が、小泉・竹中・塩川といったたぐいの人々を指して、生活感が感じられない、と指摘していたが、優秀な二人の経済学者もまったくそれと同じになってしまっています。今、巷にあふれる失業・生活苦を当然視して、もっと失業も増えるし賃金も下がる、と平然と言うのは、確かに資本の本性を反映したブルジョア経済学者のリアリズム(それは市場に投企する諸個人の明日あさっての確かな世渡り術であろうが、みんなで築く確かな未来の設計図ではない)ではありえても、人間的社会を目指す社会科学から見ればまったく転倒しています。碩学といえども出発点を誤ればその学識はとんでもないところに利用されることになるでしょう。
きわめて大ざっぱな言い方をすれば、恐慌論の主要な対立点の一つとして商品過剰論と資本過剰論とを上げることができます。もちろん恐慌では商品も資本も過剰になるのであり、理論は両者を統一的に捉えねばなりませんが、諸論の中では力点の違いは自ずと出てきます。日本において両論の双璧をなすのは、山田盛太郎『再生産過程表式分析序論』と宇野弘蔵『恐慌論』でしょう。山田の方からは、生産と消費の矛盾を恐慌の究極の根拠とし、再生産表式を重視した研究が展開されたのに対して、宇野の方では恐慌論から再生産表式を追放し、労賃騰貴による「資本の絶対的過剰生産」を中心とした研究が展開されました。 宇野が恐慌論から再生産表式を追放するのは、再生産の不均衡は価格メカニズムによって調整される、とするからです(これを指して高須賀義博は宇野理論を「マルクス経済学における新古典派」と呼びました)。
不況を考えるとき、実現問題(商品価値の実現の問題)を重視しなければ、もっぱら関心は労賃と利潤との対抗関係に向きます。『前衛』4月号、大槻久志「日本経済再生の要はなにか」によれば「デフレ・スパイラル」という言葉を使い始めたのは侘美光彦氏だそうですが、侘美氏は今日の不況の最大の問題点は物価下落であり、賃金がさほどに下がらないことである、としています。侘美氏は宇野派の研究者であり、伊東・河合対談のテキストの著者である橋本寿朗氏も確か宇野派ではなかったかと思います。私は労働分配率の問題を考えるときに、労賃と利潤の対抗関係以前に、実現問題の観点から付加価値の減少を問題にしなければならない、と思いました。それは、労賃が下落しても労働分配率が上昇するという矛盾を解決する必要があったからですが、あとから思うと商品過剰論の観点から資本過剰論の一面性を批判していたようです。理論上での「マルクス経済学における新古典派」は今日では現状分析・政策論においても新古典派を源流とする新自由主義的「構造改革」に同調しているようです(いささか乱暴な十把一からげか?)。われわれがそれに同調しないのは労働者・国民の立場によることはもちろん、理論的には価格メカニズムの批判的検討とその恐慌・産業循環論への組み込み(たとえば松岡寛爾「静かな均衡化と暴力的均衡化」/『景気変動と資本主義』大月書店所収)により実現問題を正当に位置付けているからだと考えています。
次に、個人消費を重視した景気対策という、われわれの「下からの道」は資本主義経済の性格とどのような関係にあるか、ということを考えてみます。
小西一雄氏はそれをわかりやすく説明しています(「いま日本の経済と金融をどうみるか」『経済』4月号)。
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総需要の項目の四つ---家計(個人消費と住宅投資)・企業(設備投資と在庫投資)・政府(公共支出)・海外(輸出など)---のうち、企業の設備投資が伸びることが景気がよいということであり、これが伸びないのが景気が悪いということです。 17頁
家計部門から出てくる個人消費と住宅投資が企業の投資を引き出すような成長構造に切り替えることが必要になります。輸出大企業と公共事業にリードされた成長から、家計にリードされた成長への転換という話です。
ところが、これは放っておいて自然にできるものではありません。個々の企業レベルでは、雇用の確保や賃金の確保よりも、その切り捨てに走ります。資本主義の内在的メカニズムには、家計を温めて景気をよくするというエンジンはありません。結局、政治の力で、これをコントロールするほかありません。 22頁
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資本主義のダイナミズムは本来は企業の投資が主導するのですが、今これが行き詰まっており、家計がリードする成長に転換することが必要です。しかしそれは資本主義の内在的メカニズムには反するので政治的に実現するほかありません。この投資主導の資本主義像は「生産のための生産、蓄積のための蓄積」というマルクスの資本蓄積論を継承した通説であり、そこからは家計のリードする成長への転換は政治的に行われるしかない、という結論も必然的に出てきます。
ところが寺沢亜志也「日本経済の再生と個人消費回復への道」(『前衛』2000年9月号:ちなみにこれは寺沢氏の多くの労作の中でも最良のものだと思う)によれば、「経済企画庁が戦後の日本経済を分析し、高度成長期に日本の経済を引っ張ったのは、民間設備投資だったが、安定成長期になると個人消費が経済を引っ張るようになった、という興味深い結果を発表してい」ます(11頁)。日本経済がこのように構造変化しているにもかかわらず、それに反して個人消費を犠牲にする政策をしたからダメになった、というのが寺沢氏の主張です。付け加えれば、このような構造変化は理論に対しても、<利潤の減少→投資の減退>という系列よりも<労賃の低下→購買力の縮小>という系列の優位、先の言葉でいえば、資本過剰に比較しての商品過剰の重視ということを提起しているように思えます。
資本主義の本性についての小西氏の説明はおそらく正しいでしょうし、日本経済の構造変化についての寺沢氏の指摘もおそらく事実でしょう。すると日本経済は一方ではその資本主義本来のダイナミズムを失ったといえますが、他方では強引な政治的転換を経ずともより人間的な経済に移行する可能性を広げてきたともいえます。渡辺治氏らによって「資本の法則の過剰貫徹」とまでいわれた日本資本主義が長期的にはこのように変化したことの原因と意味は深く考えてみる必要があるのですが、とにかくこの事実から出発して今後を展望することが重要です。
伊東光晴氏がケインズ政策から「構造改革」へ移行した根拠はグローバル化でした。われわれの「下からの道」がそこに割り込んでいけるのかが大問題です。まず国内市場を深くすることが必要ですが、世界市場においては、EUがアメリカに対して「単なるコスト競争だけでは負けてしまうので、市場競争の評価尺度を巧妙にずらしながら、米国型の覇権を崩そうとする戦略をとっている」(藤岡惇「シンポジウム グローバリゼーションと現代資本主義」『経済』5月号 45頁)ことがヒントになります。これは競争のあり方についての工夫ですが、世界民衆の反グローバリズムの運動と結んで資本や市場に対する民主的規制を強化することで資本家の意識と行動を変革することも可能です。古い話ですが、本田宗一郎はこう言っています(片山修編『本田宗一郎からの手紙』文春文庫)。
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マスキー法の一年適用延期が決まったときも、延期申請をしないというわれわれの考えかたは変わらなかった。この排気ガス問題に関しては、企業としての社会的責任から、どうしても解決しなければならないと思ったからだ。
法律として決まった以上は、絶対に守らなければならないし、技術的なことならいかようにでも解決できることだからだ。
こと技術的に解決しなければならないものを政治的に解決しようとすると、どこかに無理がでて、永久に悔恨が残る。損得勘定からいえば、一見、損をしているように見えても、やはり技術的に解決すべきものは、どのようにしても技術面からやらねばならない。
122頁
たとえばCVCCの開発に際して、私が低公害エンジンの開発こそが先発四輪メーカーと同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンスだといったとき、研究所の若い人は、排気ガス対策は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任の上からなすべき義務であると主張して、私の眼を開かせ、心から感激させてくれた。 182頁
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このように利潤第一主義に反することでも企業の社会的責任の観点から資本が主体的に取り組んでいくように、環境・労働などの分野での規制と誘導を強めることは国民生活の充実(それは成熟した深い市場をもたらす)と公正な競争に結び付いていくでしょう。要するに悪貨が良貨を駆逐することがないように、野蛮なむき出しの資本主義を退場させねばなりません。小西一雄氏のいうようにこれは政治や力関係の問題となります。