これは名古屋市中区の中生涯学習センター「日曜サロン‐古書、出会いの喜び」
(1998年7月19日)でのスピーチの記録です。

 

   古書―出会いの喜び 

 

 御紹介いただいた…

 ご紹介いただいた新栄の文化書房の刑部です。私のところは、大学

堂さんや人生書房さんのような由緒正しい古書店ではないし、現在の

不況下、風前の灯火で、商売人失格であり、本来ならとても人様にお

話できるような立場ではありません。ところがたまたまこの場にふさ

わしい方々が諸般の事情で参加できないということで、お引受した次

第です。こういう話をするのは初めてで、それはずっと前から決まっ

ていたのですが、やっぱりぎりぎりまで内容は考えてなかったわけで

す。ところがこの前の月曜日に人生書房さんから急に電話がかかって

きまして、ちゃんと原稿を作ってやってくれ、と…。私、根が真面目

なものですから、あわててこうやって原稿用意してきたのです。冗談

まで一箇所考えて書いてあります。で、何か私が冗談言ったらちゃん

と笑ってください。原稿に(笑)って書いてありますからよろしくお

願いします。

 内容はともかくとして、資料の多さでごまかそうということで、ア

レコレ持ってきました。このB5のパンフレットは当店の古書目録で

す。社会科学関係書を中心に ページにわたって二千点ほど掲載され

ています。細かい字がぎっしりでずいぶん読みにくいのですが、印刷

代を押さえて 円で郵送できるように仕方なくこうなっています。興

味のある方はどうぞご自由にお持ち帰り下さい。

 『古本屋の自画像』、『古本屋の蘊蓄』、『古本屋の来客簿』、

『古本屋の本棚』という四冊のエッセイ集も持ってきました。これら

は全国の古書店主が書いたもので、商売の話、本の話など、実にバラ

エティに富んでいて古書マニアはもちろん、一般の方が読んでも十分

に面白いと思います。私もこの内、三冊に一つずつ拙文を載せてもら

っています。新聞・雑誌の書評でも好評で、「朝日」の名古屋版でも

記事として紹介されました。「日曜サロン」では本来は商売は禁止な

のですが、話の資料として特別に許可していただきましたので、興味

のある方はお求め下さい。

 で、最後にこちらは皆様にお配りしてあるB4の紙、二枚をご覧く

ださい。一枚は、「天声人語」と私が「朝日」に送った手紙の一部で

す。これについては後で話の中で少し触れたいと思います。もう一枚

のほう、「洋書、和本、その他」とあるのは名古屋古書組合の機関紙

「名古屋古書月報」に投稿したもので、本の分類についてちょっと考

えてみたことが書いてあります。とても読みにくいのですが、頭の体

操にはなります。興味のある方は読んでみてください。もし時間が余

るようなことがありましたら後で説明したいと思います。その裏の

「K君への手紙」は「大市会報」というのに投稿したものです。余談

ですが、ワープロで、「おおいちかいほう」を変換しましたら「多い

近いほう」と出ました(笑)。余談ついでに、「びんぼうひまなし」

を変換しますと「貧乏暇な死」と出ます。私のワープロは主人に似

て、ひねくれているというか、ひがみっぽいというか、とにかく屈折

しています。私の店のレジも主人に似て怠け者で、もう十年くらいに

なりますが、スーパーのレジの一週間分くらいしか働いてないんじゃ

ないかと思います。

 脱線はこのくらいにして、大市とは名古屋古書組合が年に一回行う

大がかりな市で、全国の業者が参集します。これは半年以上かけて準

備をするのですが、私の所属する中市会というのが担当になった年に

は、機運を盛り上げるために「大市会報」を出しました。その最大の

狙いは市への出品を大いに募ることです。で、この拙文はある同業者

を持ち上げてたくさん出品させようとしたものです。ま、ほとんど遊

びですが。

 

 業界の現状と若者たちの文化意識

 前置きがやたらと長くなりましたが、ようやく中身に入ります。大

学堂さんは若い世代の代表としてインターネットなどの新しい動向を

話されると聞いています。いわば業界の明るい側面、未来に向かう話

かと思います。私のほうはどうも暗い話にならざるを得ないかと思い

ます。

 私は以前、病院で事務をしていたのですが、あまりお役に立ちませ

んし、目まぐるしさにストレスがたまるばかりです。古本屋ならあま

りあくせくせずに何とか食っていけるのではないかと甘い考えで転職

しました。高校時代の恩師の紹介で、鶴舞の三進堂書店に一年間弱勤

めました。ここの岡田社長のお世話で新栄に独立したのが八八年のこ

とです。当時のことは、『古本屋の自画像』の中に「駆け出し古本屋

の記」として書いておきましたので、読んでいただけると幸いです。

一つだけ紹介しますと、鶴舞で店員をしていたときにはなかったこと

として、お客さんから本の値段を聞かれることです。ここにお集まり

の皆さんは古本の値段が記入してある場所はご存じだと思いますが、

新栄の私の店では今でもそれを知らずに質問されるお客さんがいま

す。古本屋街である鶴舞ではそういうことはめったにありませんでし

た。つまりそれほど一般世間では古本というのはマイナーな存在だ、

と思い知ったわけです。ちなみに私のワープロでは「古本」は出てこ

なくて、「振る本」という訳の分からないヤツが出てきます。困った

もんです。逆に言えば、まだこれから知らせていける可能性がある、

市場拡大の余地がある、ということになります。

 しかしどうもそういう新しい市場は非組合員の大手チェーンストア

ーがごっそり持っていきそうなのがここ数年の情勢のようです。古書

組合加入の昔ながらの古本屋としては、量販店になじまない個性的な

商品で勝負すべきでしょうが、私などのように雑本の他には学術書の

基本図書なんかを扱っていますと、不況のほかに活字離れという敵も

あります。店でもあまりいい話はないわけですが、新聞・雑誌なんか

を見ていますと、どうも「教養の崩壊」現象さえ指摘されるようで

す。

『世界』一月号に教育学者の佐藤学氏が「『学び』から逃走する子ど

もたち」という論文を書いているのですが、これは戦慄すべきレポー

トです。一言で言えばここ数年で、子どもたちが全く勉強しなくなっ

ているということです。はや小学校から授業が成立しない「学級解

体」が一部にみられます。ある県立普通科高校の授業風景はこうで

す。

 

  女子生徒は誰一人としてノートを筆記しなかったし、授業の内容

に関して教師と応答した生徒もいなかった。表情が暗いわけでも教室

で騒いでいるわけでもない。何度も手鏡を出して髪を整え、ときどき

教師や友達に笑顔のメッセージを送り、腕時計を何度も見ては授業の

終わるのを待っている。 (六五ページ)

 

 さらに佐藤氏は、ルーズ・ソックスなどの「容姿の画一化と外から

のまなざしへの過剰な意識は、彼女たちの自我が霧散している状況を

象徴している。もはや、自己実現という内部へのこだわりは高校生の

意識から消滅しつつある」と断定しています。予備校でさえ「授業内

容の半分は講義内容とは無関係なパフォーマンスで費やされている」

そうです。古本屋に関係したところでは、高校二年生の男子では、七

○%以上が月に一冊も本を読まない、しかも毎年五ポイント近い勢い

で読書離れが進んでいます。「知育偏重」などとうそぶいていられる

状況ではありません。友人の高校の非常勤講師にこの論文のことを驚

いて聞いたら、平然とした調子で、よく書けてるねえ、あんなもんだ

よ、という反応で、また驚いたわけです。

 受験戦争も含め、こういう教育状況の中で若者たちの文化意識がど

うなっているか、先ほど説明しましたB4の紙の一枚目の右下方をご

覧ください。

 

  とりわけ映像文化は、もっとも越境性がつよい。そもそも、日本

におけるトレンディ・ドラマの人気は、教養に対する拒絶反応とも言

える。学校制度によって、文学はいまなお「知」や「教養」としての

特権が保障されているにもかかわらず、若者はその特権性に対し、あ

からさまに逆襲をしはじめた。文学について語ることが、若い人のあ

いだで「ダサイ」と見られるのはそのためである。

 

  そういった傾向は、消費文化が急速に増殖する中国の都市部でも

同じである。「教養」が知識の∧消費∨を拒む構造を内包しているた

め、受験や学校教育で知のカーストにうんざりした若者は、露骨に嫌

悪感を示した。彼らは「文学」や「芸術」を知の固定資産として生涯

を通して保有することに対し、猛然と反発を示した。それが彼らが日

本の連続テレビドラマにつよく惹かれる理由である。中国の若い視聴

者たちは、「違う文化」に興味を持つのではなく、教養に反抗すると

いう共通する心情に共鳴したのである。

 

 (張競「文化が情報になったとき−中国の メディアに見る日本の

イメージ」九○ページ、『世界』四月号所収)

 

 これに対して世のおじさんたちの反応の一つの典型が、三月三一日

付の「天声人語」です。現在の勉強しない・没個性的な状況を嘆い

て、昔と変わらない古本屋を見直そう、というわけです。私たちにと

っては有り難いお話です。

 しかし世渡り上手は違います。角川から独立した幻冬舎の見城徹氏

は「快楽を伴わない活字はだめです」「漱石がなぜ読み継がれてきた

か。それはおもしろいから。高尚だからじゃない」(「朝日」夕刊七

月一一日)と、おもしろ主義を宣言します。ちなみにこの文章は題し

て、「顰蹙(ひんしゅく)は金を出してでも買え」。なかなかあっぱ

れな挑発と開き直りです。もっとも見城氏はこうも言っています。

「書くことでしか自分が救われなかったんですよ。書かざるを得ない

から書いた。これは『表現』の基本です。そうやって生まれた作品が

ベストセラーになる。編集者にとって最高の喜びです」。なかなかの

見識だと思います。これが郷ひろみの『ダディ』についての言葉でな

ければ素直に全面的に賛成なんですが…。

 

 古本屋に何ができるのか

 こういう中で古本屋に何ができるかといって、余りできることもな

いようですが、良い本を売ることでしょうか。良い本とは何かという

のが難しいわけですが、先の見城氏の言葉は核心をついていると思い

ます。著者の内面にあるやむにやまれぬ何かを同時代の人々・社会に

届ける本、それこそが存在理由のある本だろうと思います。ここに

『原稿を依頼する人、される人』(高橋輝次編、燃焼社刊)という本

がありますが、著者と編集者との出逢いの中でいかに優れた本が生ま

れたか、興味深いエピソードが満載です。その中で言語学者の鈴木孝

夫氏(むしろ最近は物を買わない・捨てない生活の実践家として有名

ですが)はこう書いています。

 

  岩波書店の新書担当者が私に、日本語の隠れた面白いしくみにつ

いて何か書いてみませんかと言われたとき、私は即座に書きましょう

と答えた。私の中に、世界で私だけが書ける本、これまでの長い学問

遍歴の殆どすべてが一つの集合体に結晶した本が書けるという自信と

喜びが、 一気に吹き上がってくるのをこの時に感じたのである。

(鈴木孝夫「私は書くことが大嫌い」四四ページ)

 

 本とはこうでなくちゃいけません。本も商品ですから売れる必要が

ありますが、それは結果としてそうなって欲しいわけで、最初から売

ることだけを目的に、著者の魂の入ってないものが横行しているのは

残念です。

 先に若者たちが教養を拒否しているということを紹介しましたが、

この新しい現象のベースには案外、日本での伝統的な学問観が横たわ

っているのではないか、とも思います。日本の庶民は学問に対して一

見、裏腹な姿勢をとってきました。一方では、むやみやたらとありが

たがる「わけわからずの教養主義」みたいなものが根強くあります。

これは立身出世主義から受験戦争に至る「勉強の社会的強制」によっ

て助長されてきました。他方では「学問なんか何の役にも立たん」と

いう気分も色濃くあります。エリート官僚たちが演じる様々な失態

は、それを証明するかのようです。

 この二つは打ち消し合うどころか、おそらく明治から現在まで両立

し続けているのではないでしょうか。これらは対立するように見え

て、実は学問本来のあり方に対する無理解(あるいは失望とか諦め)

という点では共通しています。学問とは現実を把握する(真理を追求

する)ことを通じて、人々の自由を拡大し、社会を発展させるもの

だ、とは考えられていません。それどころか、結局何の役にも立たな

いか、せいぜい∧他人を押しのけて私的利益を得るための手段∨くら

いに思われています。こうして学問は生きた現実から切り離されて、

嫌われものとなりました。敬して遠ざけるか、あからさまに罵倒する

かの違いはあっても。

 学問が難しいのはある程度はやむをえないことです。高い山ほど登

りがいがあるというものです。しかし若者たちから拒絶されるような

権威主義的学問ではいけません。受験勉強と結び付けられて自由を奪

うものとイメージされてはいけません。時代と社会、人々の生活のあ

り様、それらとの結びつきを忘れない学問ならば、逆に人々もそれに

近づいてくるのではないでしょうか。

 もちろん古本屋は学問をつくるわけではありませんし、学問以外の

本も扱います。だから様々なレベルで、時代の気分を捉える感性が必

要です。しかし学術書をそれなりに扱うものとしては、学問のあり方

とかそれへの接し方に関心があります。それもまた時代の気分を捉え

る感性を抜きには考えられないのです。そこを本当にくぐったものだ

けが社会を変える力となります。

 先の「天声人語」の最後に∧古いものがすべて、歴史のくずかごに

捨てられてしまうわけではありません。この仕事が単なる懐古ではな

く、歴史を進める力の一部であればよいが、と思っています∨と拙文

が引用されていますが、人々が学問や教養というものを信頼し我が物

とすることができるようにすることこそが未来を開く力の少なくとも

一部にはなると思います。その一助として、良い本を見いだして、時

代の気分に命中させる「この仕事」のために、見識と感性を磨くこと

が求められています。

 誤解のないように言うのですが、私は若者たちに絶望しているので

はありません(彼らのことをよく理解してないのは事実ですが)。以

前、新聞の投書欄を見ましたら、中年男性のものだと思いますが、頻

発する少年事件に関連して「父親の権威」が大切だという意見を載せ

ていました。数日して今度は確か一六才くらいの少年が、父親の権威

よりも子どもにきちんと論理的に説明する能力のほうが大切だ、とい

う見事な反論をしていました。大人にも優る分析力や表現力を持った

子どもたちが、一部ではあれ、確かに存在します。「市場化・消費文

化化・情報化」の巨大な波を乗りこなして教養にも到達するような若

者が出現するのを期待したいところです。

 

 古本屋として具体的にどう努力するのかという肝心な問題が抜け

た、取って付けたような話になってしまい、失礼しました。御清聴あ

りがとうございました。

 

(「名古屋古書月報 」第70号)

                                     随筆集・目次に戻る

MENUに戻る