これは1998年6月3日付、フリー編集者、高橋輝次氏宛の手紙です。 |
独創を生む現場−自己表出の弁証法
高橋輝次編『原稿を依頼する人、される人』(燃焼社'98)
をめぐって
高橋輝次様
前略 素晴らしい本をありがとうございます。多岐にわた
る豊かな内容があります。そこから得られる多くの感想をきちんとま
とめる能力は私にはありません。乱反射をとっちらかったままに、相
変わらずのぜい肉だらけのうっとうしい文体で語ることになります
が、どうか忍耐強くおつきあいくださいますようお願いします。
多くの方の文章を読んで、編集者とは、著者個人の内的必然を察知
して形にして読者(というかその時代・社会)に提供するものだ、と
思いました。大げさに言えば、内から外へ、個別から普遍への命がけ
の飛躍を支える仕事とでも言いましょうか…。
…これはやはりものを書くことがなにがしか個人の想像世界のうち
で空中楼閣を築くようなものであるからかもしれない。ものを書く行
為とは、その意味で絶対的に個の世界への引きこもりであり、いぜん
として他人に自分の恥部をさらすような行為であって、そうであれば
こそ書きたての原稿を他者に読んでもらうことに不安に感じるのは、
書き手にとってはきわめて生理的な健康な反応なのかもしれない。…
いずれにせよ、著者であることは誰にも手の届かない世界へのたえざ
る移動であって、そこから首尾よく帰還するとき最初に出会うのは編
集者なのである。そのとき、編集者は共同体の側からこの独自の世界
への接近を企てる存在であり、その世界の独自性を測定し、既存の共
同性のなかでの位置づけを与えようとする仮想の裁定者となる。
(P343,344)
西谷能英氏による、著者と編集者とのこの見事な規定には感服しま
した。特に著者の独自性と不可分にある不安というものに焦点を当て
ているところに共感しました。またいつものように思いつき的な引用
で恐縮ですが、吉田秀和氏も同様の観点で書いています。
ブルックナーという人は無類の独創性を背負わされた大音楽家の一
人のくせに、そのためにかえって一生自信をもつことに成功せず、不
安の塊に苛(さいな)まれ続けた人であった。作曲することが、彼に
は唯一の救済の道であると同じ位彼の苦しみの源泉になった。
ショルティのブルックナーの中には、この天才の魂の中を吹き抜
け、吹きすさんでいた嵐(あらし)の一端がきける。(吉田秀和「音
楽展望」、97年11月18日「朝日」夕刊)
作曲家ブルックナーが著者ならば、指揮者ショルティは編集者でし
ょうか。私はこれを読んだときには、天才音楽家の話に限らず、およ
そ例外なく個性をもったあらゆる個人の自信の問題として考えまし
た。そこまで広げると余りにも漠然としてしまいますが、独創的な作
品を作り出す人々には間違いなく当てはまる指摘でしょう。彼らにと
って創作活動は、自己実現であり、生命の燃焼であり、それ故「唯一
の救済の道」です(例えば大江健三郎氏が自身と子息光氏とについて
言われるように、書くこと・作曲すること自体が癒しになっている
)。しかし彼らの作品が同時代の社会に受け入れられるかどうかは、
事後的にしか分かりません。当然創作過程には不安が生じます。そこ
には生活がかかっているという問題ももちろんあります。しかしそれ
のみならず社会的評価そのものが創作による自己実現の不可分の一部
分である以上、作品の不評は創作活動が自慰的行為との烙印を押され
ることを意味します。創作家の魂にとってはそちらの方がより本質的
問題でしょう。その場合でも世間の不明ということは大いにありえま
す。おそらくそうして消えていった「本物」は歴史上に多々あるに違
いありません。そうならないためには、強力な理解者が必要であり、
この本に出てくる編集者たちの驚くべき眼力は人類史上の知的損失を
最小限に食い止めているのです。不遇を嘆いた加藤一雄氏を励まし、
自信を共有した堀田珠子氏の文章には、編集者の慧眼から生じる著者
への本質的優しさがあふれています。
著者が自信を確立することはきわめて大切です。かといって不安が
ただなくなればいいわけではありません。不安が著者を押し潰してし
まってはいけませんが、それは不断に著者に反省を促し、自信が過
信・傲慢に転化するのを防ぎます。つまり唯我独存でなく、社会と歴
史のなかにある自分を意識させます。多くの方が触れているように、
優れた編集者は著者の社会的歴史的位置を客観的に把握しています。
それができているからこそ、著者の不安など内面に寄り添うことがで
き、さらには苦言を呈することもできます。福田芳夫氏の文章から
は、著者の慢心を諌め、時流に乗った安易な本でなく、著者ならでは
の本を作ることを忠告した編集者の愛ある苦言が聞こえてきます。そ
れを正面から受け止めて、自身の本来の仕事を成し遂げた著者も立派
です。創作に係わる自信と不安の弁証法が、著者と編集者とのプロフ
ェッショナルな関係を通して、見事な果実を生んだと言えます。
初めに「著者個人の内的必然」ということを書きましたが、それを
生き生きと伝えた鈴木孝夫氏と海野弘氏の言葉が印象的でした。
帰国後、この話を伝え聞いた岩波書店の新書担当者が私に、日本語
の隠れた面白いしくみについて何か書いてみませんかと言われたと
き、私は即座に書きましょうと答えた。私の中に、世界で私だけが書
ける本、これまでの長い学問遍歴の殆どすべてが一つの集合体に結晶
した本が書けるという自信と喜びが、一気に吹き上がってくるのをこ
の時に感じたのである。 (P44)
田島さんはあっさりと、「では、あなた一人で書下しをしたらどう
か」といったので、私の方がたまげてしまった。「でも、ぼくはこれ
まで十枚しか書いたことはありませんが」というと、「あなたは書け
る自信があるんでしょう」と田島さんは、息子のような無名の若僧に
向っていった。私は思わず「はい」といってしまったのである。(P9
4)
この「田島さん」のようにまるで著者に乗り移ったかのように「著
者個人の内的必然」を洞察した編集者のエピソードが他にも多く紹介
され、私を驚かせます。おそらく著者たちは意識的にか無意識的にか
その内面を何らかのサインに出していたのでしょう。それを見逃さな
い編集者の洞察力は、当該分野の豊富な知識とともに著者との全人的
つきあいの中からこそ形成されてくるのでしょう。そのこともやはり
多くの文章からうかがえます。そして著者に原稿を書かせる手管の見
事さも多く見られますが、ここで私があれこれ指摘するまでもないこ
とでしょう。
私は学術書の形成に特に興味がありますが、大塚信一氏や渡辺勲氏
などの文章を読むとまさに編集者が学問を作っている、あるいは編集
者が著者たちを組織し指揮して学問という交響曲を奏でている、そん
な印象さえあります(この場合、編集者は単なる指揮者ではなく音楽
監督にあたります)。渡辺勲氏については、拙文「東海林太郎と野呂
栄太郎」の末尾で氏の文章を引用させていただいたこともあり、注目
して読みました。編集者としての矜持にあふれていましたが、傲慢と
は感じませんでした。これだけ研究者を組織できる人であれば書かれ
て当然の内容でしょう。私流に言えば、「編集者個人の内的必然」を
研究者集団を通じて実現させたわけですが、決して研究者たちは単な
る駒として扱われてはいません。渡辺氏は研究会を運営するにあたっ
て、常に出版に結びつくように手綱を引き締めていますが、他方では
「出来るか出来ないかはまったく別問題にして、空想(想像)の翼を
思い切って広げてみて、どんなことを書いてみたいのかを発表してい
ただきたい」(P338)と提起して、研究者の自発性・未知の可能性を
尊重しています。研究者個人ではできないプラスアルファが生まれる
かもしれません。ここでは学問創造の観点から言えば編集者が「研究
者を超える研究者」としての役割を果たしているようです。
上野千鶴子氏はこう言われます。
活字になった発言に責任をとるのはあンたじゃない、私の方なん
だ。(P243)
テープ起こしをするなら、これももちろん許可がいる。さらにそれ
を印刷物にするなら、発言の当人が目を通すのはあたりまえである。
「ご面倒でしょうからこちらでやっておきました」なんて´配慮`は
論外。 (同前)
これは講演と活字との違いを論じたところですが、余人には代えが
たい著者固有の責任を強調しています。実は私には非常にお粗末な体
験があります。2年ほど前に、私の所属する中市会が名古屋古書組合
の大市会を担当することになり、私は組合員向けの大市会広報紙(と
いってもビラに毛が生えた程度のモノ)を編集していました。無事大
市会が終了して最終号に実行委員長A氏のお礼の挨拶を載せました。
その後、名古屋古書組合の機関紙の編集長B氏より、それを組合機関
紙に転載したいとの申し出がありました。B氏にしてみれば、A氏に
重ねて同様の文章を書いてもらうのは二度手間だろうという「配慮」
でした。それは別に問題ないのですが、うかつにも私がA氏に許可を
とらずに転載を承認したのが間違いでした。組合機関紙を見たA氏は
私に抗議してきました。−頼まれればちゃんと別の文章を書いてい
た。これでは知らない人が読んだら、私が手抜きして転載させたと思
ってしまう。私は手抜きの人生は送っていない−と。言葉は平静なが
ら実に強烈な批判を浴び、私は平謝りでした。私には著作に対する責
任感がいかに欠如しているか、いかに「手抜きの人生」を送ってきた
か、痛感させられたのでした。
上野氏のお怒りはごもっとも。だけど私なんかは−こんなに言いた
い放題言えるのは、売れっ子で、原稿依頼が途絶える心配がないから
だ、多少のことは大目に見ろよ、思い上がった人だ−などと反発心が
一瞬よぎります。先の失敗にも見られるように、どうも私は共同体的
甘えの人間で、市民社会的自立の厳しさに耐えられないようです。言
える人こそがきちんと正論を言って、著作家全体の権利を守るのに何
の不都合がありましょうか。
忘れてはならないのは、医療職の人は全体に多忙で、体力の限界ま
で体を酷使し、なお割に合わない原稿料でわれわれの求めに応じて原
稿を書き、われわれの注文に答えているということである。まさにや
りきれない日本というものの縮図がここに集中して現れている。
(P320)
私は以前に医療事務をしていましたので、樋口覚氏のこの言葉は非
常によく理解できます。樋口氏の言われるように、独り医療職の問題
だけでなく、日本社会全体に忙しさが蔓延し、子どもたちも巻き込ま
れています。活字文化の衰退の一つの重要な原因がここにあります。
「情報」「映像」と違って、「活字文化」はじっくりとした取り組み
を要求します。現代人はその余裕を持たず表層に流れる生活を送って
います。しかしそうした現実にもかかわらず、上の医療人のように経
済的インセンティヴの欠如をも超えて書いてくれる人たちが確かに存
在する。ここに我々のかすかな光明があります(我々とは活字関係者
のみならず現代社会人全体です)。この本も同様に厳しい状況の中
で、多忙な第一線の著者たちの「内的必然」を具現化したものでしょ
う。編集者・高橋輝次氏の貴重な仕事に拍手を惜しみません。
立派な本の刊行を心から祝したいと思います。正当な評価とともに
高橋さんに経済的果実がもたらされることを願っています。それでは
お身体に気をつけて、さようなら。
草々
1998年6月3日