これは1999年9月8日執筆です。

 

  当世古本事情

  底なしの不況と活字離れで古書業界も低迷している。売上がかつての  から  などとい

う話はよく聞くが、私の店も例外ではないどころか「最先端」を走っている。およそ商才

なく経営は苦手、時代感覚もずれている、ときている。だからここでは、私の思いや拙い

「分析」を並べるよりも、いくらかの事実を紹介するほうがよいであろう。

  先日、売れ残りだろうか、小田実の『被災の思想  難死の思想』という本が二○冊ばか

り弊店に持ち込まれた。九六年に朝日新聞社から発行されており、四六判で六五○ページ

の大冊、定価は三四○○円(本体価格、三三○一円)也。寡聞にして初めて見たのだが、

著者、テーマ、ボリュームからすればけっこうな本である。阪神大震災は戦後日本社会を

根底から問い直す大事件であり、それを著名人が告発している。ずしりと重い。けっして

古すぎるということもないはずだ。これを買い取って売らずして何が古本屋であろうか。

しかしこういう真面目な本を二○冊も売ることができるだろうか。……少し考え込んで四

千円で買った。一冊あたりわずか二百円。定価の一割にもみたない。六%弱。

  恐縮するほど安く買ったつもりだが、売れる見込みがあるわけではない。大方は同業者

の交換会(市)でさばくしかない。そこで一冊五百円の指値で売りに出したのだが、結局

全冊残ってしまった。

  ここで古本の流通について少し説明する。特価本という流通ルートがある。出版社が在

庫処分した本などが特価本卸問屋を通じて古本屋に流れてくる。問屋が古本屋に卸す価格

は本によってまちまちだが、例えば定価の三割というケースはけっこう多い。特価本にさ

れるということは、ある意味で著者にとっては悲劇である。多少時がたっているとはいえ

事実上定価を割った値段でどうどうと取引されるし(印税も入らないだろう)、古本市場

での希少性がないから軽視され、扱いもぞんざいになる。しかし特価本にされたというこ

とは少なくともその本の固有の価値が認められたということではある。一方、交換会の入

札では、例えば何十冊もの本を色とりどりならべても千円でしか売れないことは日常茶飯

事である。もちろん一冊一冊の定価は問題にならない。マスとしてしか扱われない雑本の

山である。

  私は『被災の思想  難死の思想』を定価の一五%弱の指値で出品して、せめて特価本に

準ずる評価を期待したのだが、市場はそれを拒否し、雑本並みを宣告してきた。きっと一

冊二百円でも売れなかっただろう。古本市場は独断と偏見のぶつかり合いだ、とはよくい

ったものだ。経済原則からすれば、不良在庫は早急に処分すべし。大銀行は国から金をも

らってでも不良債権を処理しているではないか。大メーカーも国の援助で過剰設備と過剰

雇用を「整理」するらしい。しかしそれをようやらんのが意固地な古本屋だ。私はこの本

を自家目録やインターネットに載せた(売値千円、情けない値ではある)。今のところ注

文はない。どうもダメなようだ。幸いにして店内で二冊売ることができた。−−あと二冊

で元が取れて、それ以上は儲けになる。なんと気楽な商売であることか!−−しかし今時

の現実に返ればもうさっぱり売れないという気がする。

  空前の経営難に際して(もちろんそれだけでなく時流ということもあるが)、古書業界

もインターネットに注目している。全古書連(古書組合の全国組織)が主催するインター

ネット「日本の古本屋」が一○月一日に発足する予定である。すでに各地で独自の取り組

みがあり、名古屋でも私の知り合いのA氏が中心になって年初より、合同電子古書目録「

古本長屋」が開設されている。私はパソコンを持っていないので、A氏の店へ電子目録の

入力に行くという居候状態で特別に参加させてもらった。

  A氏は堅い本を中心に扱ってきたが、私と違って時流もよく考え、経営的にも果敢に挑

戦してきたように思う。話好きで人のつながりを重視し良質の顧客を開発してきた。店の

一角にコーヒーの自動販売機とテーブルを置き、サロン風の空間を作った。最近では思い

切ってエロ本を扱うのを止めた。そして会員に定期的にEメールを送るという形のインタ

ーネット組織「古本長屋」を企画、発足させたのである。実に志の高い歩みを続けてこら

れたと感心していたのだが、先日A氏から廃業の決意を聞かされ、大いにショックを受け

た。−−経営的な行き詰まりもあるが、何より現状打開の意欲が失せてしまった。経営的

にはまだ打つ手はあると思うのだが…。若い人たちに伝えるべき我々のメッセージがある

と思ってやってきたが、結局、受け止めてもらえなかった−−A氏の失意は深い。古本屋

を襲う経営危機と文化的危機は様々な奮闘努力をも飲み込む勢いなのだ。現在、新たな代

表者を迎えて「古本長屋」存続の取り組みが模索されている。

  思い入れだけで商売ができるわけではない。稀には思い入れのおかげで成功する才人も

いるにはいるが、むしろ失敗することのほうが多いのは言うまでもない。そんなものを無

視して営利だけに徹してさえも生き残りが容易でない時代だ。それでも今、多少なりとも

思い入れを経済的に実現できないかと、多くの古本屋があがいている。

  古本たちが大量にゴミとなっていく。本が消耗品となるに比例して古本屋も廃棄処分さ

れるのだろうか。「古書」相手ならば、文化的資(史)料価値の次元で高尚な話にもなろ

うし、相応の商売にもなろう。しかし圧倒的多数の「古本」屋としては、せめてまともな

リサイクルが実現できて、そこで細々とでも生きていけないかと思うのである。確かに最

初からすぐゴミにしかならない本が多い。しかしまともな本も大量に捨てられていく(せ

っかく本が持ち込まれても、売れる見込みがなければ古本屋としてはそれを買えない)。

これを「所与の事実」として受け入れ、対策を考えるべきかもしれないが、それを受け入

れるのは抵抗がある。なんだか世の中全体が無教養になっていくみたいだ。そういえば近

頃、学生・生徒・児童たちの低学力が問題になっている。こんな思いは「傲慢な時代遅れ」

の証拠だろうか。

  古本屋をめぐる全体状況を分析し展望を見いだすような能力がないので、身辺雑記的な

現象紹介と(当初書くまいとした)「思い」という名のグチとに終わってしまった。誠に

恐縮ですが、私が実感をもって言えるのはこの程度なのでお許し願いたい。

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