これは2000年9月29日執筆で、初めに「要約」があり続いて本文があります


                  「今日の政治経済イデオロギー」の要約

拙文のねらい  国民生活を守り発展させるためのイデオロギー闘争の課題・観点を示す。

 

イデオロギーの鳥瞰図

  グローバル化、対米従属の国独資、政官財癒着などへの対応によって分類した五潮流

  (1)ブルジョア教条主義:新自由主義など

  (2)ブルジョア現実主義:ケインズ右派など

  (3)真正保守主義、反動派

  (4)市民主義:ケインズ左派など

  (5)科学的社会主義

 

ブルジョア教条主義の成立(根拠)と帰結

  ブルジョア教条主義の特徴と自己認識は、市場メカニズム=自由競争信仰だが、その本

  質は資本至上主義である。資本主義経済では「領有法則の転回」によって、資本関係が

  市場関係として捉えられる。市場の自由、市場万能論と見えるのは実は、資本の自由、

  資本至上主義である。

  自由競争段階では市場の自由が資本の自由の直接的な基礎になっているが、独占段階で

  は資本によって市場の自由は変容させられる。

  ブルジョア教条主義ではしかしこれらはすべて市場の自由として認識される。

  ブルジョア教条主義の推進するグローバル化・規制緩和の帰結は、生活・労働の破壊と

  経済のカジノ化である。

 

イデオロギー諸潮流と今日の政党状況

  自民党:新自由主義を中心としつつ、ケインズ右派、真正保守主義をも利用して階級支

          配を維持しようとしている。

  民主党:新自由主義的経済政策を基本としつつ、市民主義的政治手法を取り入れている

          が、これは危険なミスマッチである。

 

論争の焦点の明確化

  マスコミの流布する「国民的常識」では、問題の核心がずらされスケープゴートが設定

  され排撃される。

  消費税では、益税・滞納問題などで中小業者がスケープゴートにされ、消費税の定着・

  改悪に利用されている。階級闘争の観点から制度論も考える必要がある。

 

経済政策の理念的課題

  景気回復か財政再建かという論争があるが、真の問題はそれぞれの中身である。両者が

  「経済大国=生活小国」という歪みを縮小するようなやり方で達成されねばならない。

  低成長期における経済の中心は個人消費であり、日本経済再建の中長期的展望は、環境

  適合的な生活様式とそれに応じた、内需的連関の多様な産業編成による多面的生活要求

  充足を可能とするような国民経済の建設である。

 

経済思想における強者主義と弱者主義

  「資本至上モデル」から「生活重視モデル」への転換という考え方に対して、経済発展

  のインセンティヴがないという批判がありうる。しかし「経済の活力」の中身そのもの

  が、資本の価値増殖から人間生活の豊かさへ変わるのであり、そこでは弱者が経済的主

  体となりうる。


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          今日の政治経済イデオロギー

 

  現在、世界的にはグローバル化が進行する一方で、日本の政治経済は深刻な行き詰まり

状態にある。これを打開すべく新自由主義「改革」が進められようとしている。旧体制と

国民、双方向からの抵抗を押し切るためには、「改革」への国民的統合が欠かせない。こ

の思想的動員に向けて主要なマスコミはフル回転している。

  国民の生活と労働を守り発展させるためには、旧体制と新自由主義「改革」をともに克

服する必要がある。そのカギの一つは国民の思想的統合を許さず、我々の新たな国民的常

識を対置していくことである。その前提として、マスコミなどの議論を整理し、政党状況

とも照らし合わせていくことが求められている。

  経済の計量的検討や具体的政策提言がなくては、新自由主義「改革」に対抗できないの

は当然である。ただここではそうした検討・提言の姿勢を定める考え方の次元に関して若

干の見解を表明するものである。

 

                  イデオロギーの鳥瞰図

  初めに今日のイデオロギーの鳥瞰図を示したい。観点としては、今日の日本社会の本質

を対米従属下の国家独占資本主義と捉え、支配層による国民からの収奪とそれへの反撃と

いう階級的立場から、グローバル化への対応を基軸にして諸潮流を規定する。

  グローバル化に対して、それを推進する立場、それへの反動の立場、それらへの両面批

判の立場の3つがある。これはおおまかにいって世界共通の立場である。ところで今日の

日本資本主義は、先の本質規定に加えて政官財癒着構造、企業社会といった重要な特質を

合わせ持っている。一方にそれを客観的条件とすれば、他方には戦前戦後の政治経済の独

特な発展を背景とした様々な保守派・反動派あるいは市民主義などのイデオロギー諸潮流

が存在するという主観的条件もある。グローバル化という世界共通の光線がこうした日本

独特のプリズムで屈折する中に現れてくる万華鏡的風景をさしあたって5つくらいにまと

めてみたい。

 

  (1)ブルジョア教条主義

        新自由主義、市場万能論、効率至上主義、資本至上主義、規制緩和万能論。

        今日の主流派。

        グローバル化・カジノ化推進。対米従属の国家独占資本主義の強化。政官財癒着

        の「怒れる批判者」としてマスコミで売り出す。福祉国家の破壊。

            *なお左翼の教条主義は空虚な大言壮語をはくだけか、せいぜい暴力的妄動

              に終わるだけだが、ブルジョア教条主義は、世界市場での大競争を背景に

              強力に自己貫徹する。その非現実性は人間の生存権を実質的に否認する点

              にあるが、それが露呈するのは人民が反撃に立ち上がったときである。

  (2)ブルジョア現実主義

        ケインズ右派等の旧主流派。既得権益擁護の姿勢のため(1)から守旧派と揶揄さ

        れる。対米従属の国家独占資本主義の枠内だが、グローバル化・アメリカ礼賛・

        規制緩和万能論には懐疑的。

  (3)真正保守主義、反動派

        グローバル化への反動。社会不安などに対して伝統的権威主義・保守主義による

        安定を図る。市場原理主義へは鋭い批判を見せるが、外国人排斥・人権攻撃・歴

        史修正主義など危険な攻撃性と巧みなポピュリズムを有する。対米従属国家独占

        資本主義の枠内。

  (4)市民主義

        ケインズ左派、旧「構造改革派」等一部のマルクス派等。経済理論では(1)と、

        政治理論では(3)と対決している。

        基本戦略:市民社会(市民的公共性)によって国家と市場とを相対化する。今進

        行しているグローバル化・カジノ化・規制緩和には批判的でオルタナティヴを模

        索。政官財癒着には市民運動的批判。

        対米従属の国家独占資本主義にも批判的だが、国家・政党一般を忌避し、国家の

        民主的変革の観点が弱い傾向がある。これは上の基本戦略を無力化する恐れがあ

        る。しかし最近では財政・地方自治等に具体的提案を出し注目される。

  (5)科学的社会主義

        経済民主主義、大企業への民主的規制。政官財癒着・企業社会だけでなく対米従

        属の国家独占資本主義体制そのものの根本的変革を目指す。日本共産党の立場。

        国民の生活・労働・営業の実態から出発した現実的政策で保守層を含めた広範な

        支持を追求する。

 

  現実にはこれらの諸潮流が一方で対立しながら他方では連携して各政党のイデオロギー

を形成している。マスコミなどでは、自民党と民主党との違いがあいまいだとして、「改

革派」と「守旧派」に再編すべきだ、という議論があるが、これなどは新自由主義的「改

革」をよしとして、それを基準にしたまったく単純かつミスリーディングな議論である。

ここにはまた「市場−政府」図式だけで平面的に考えて、市場の役割の増大=政府の後退

をもって「改革」とするという粗雑な論理が前提としてある。

  我々の基準は端的に言えば、今日の階級関係の中で国民からの搾取・収奪をいかに減ら

し、その生活・労働・営業の発展を克ち取るかということである。政官財癒着の是正、社

会福祉の充実、政府と市場の適切な役割分担などといった問題は制度的には複雑多岐にわ

たるが、この基準がはっきりしていることが最低限必要である。

  逆に言えば、今日の支配層の真の基準は、搾取・収奪を強化するということであり、市

場を強化する「改革」が基準だというのは、真の基準に奉仕するかぎりでの表の看板に過

ぎない。銀行に公的資金を投入するような市場無視が臆面もなくできるのは、この真の基

準が露呈したものである。しかし何が起ころうとも、「市場の自由」を唱えていられると

いうのがまさに「改革」派のブルジョア教条主義たる所以である。

 

                  ブルジョア教条主義の成立(根拠)と帰結

  ブルジョア教条主義の特徴及び自己認識は、市場メカニズム=自由競争信仰といえるが

その本質は資本至上主義である。まずその成立根拠を資本主義経済の構造から明らかにし

たい。

  様々な次元での生産的労働・非生産的労働の重層的体系として、社会的再生産が存在す

る。資本主義経済は、そのような内実を、商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係がそ

びえたつという形態において運動させている。ここでは「領有法則の転回」が作用して、

資本主義的搾取関係は、現象的には自由・平等な商品交換関係に解消される。

  「領有法則の転回」に眩惑されて、資本主義経済のこのような立体的構造を、「市場経

済」という平面的認識において捉えるのが資本家的意識であり、新自由主義の基礎である

新古典派経済理論である。本質的には、市場の自由は資本の自由を実現するための土台で

あり、資本の自由とは人間から見れば資本の専制に他ならない。これを自由な諸個人のア

クションから形成される市場と見ることはまったく逆立ちしている。

  しかもこの本質的な関係は、資本主義の自由競争段階にはそのままあてはまるが、独占

段階になれば、資本は市場を独占的状態においてしまう場合も、国家権力を介入させる場

合もある。このように二重の意味で市場の自由は侵害されうる。資本の自由を強化させる

のに有用であれば市場の自由は拡大される(政府規制の緩和)が、有用でなければ市場の

自由は縮小される(たとえば持株会社の解禁による独占資本の市場支配力の強化)。さら

に資本の自由を拡大するのに国家権力によって市場原理を否定する場合さえある(たとえ

ば銀行への公的資金の投入)。

  ここで特に注意すべきは、持株会社の解禁は独占資本の支配力強化で結果として自由競

争の侵害になるのに、「独占禁止法の規制緩和」ということから、あたかも市場の自由が

拡大されるかのように錯覚されることだ。拡大されるのは資本の自由であって、市場の自

由ではない。独占的市場にあっては独占禁止法という政府規制が自由競争を促進している

ことが忘れられてはならない。図式化すればこうなる。

 

      (ケース1)競争的市場

  政府規制→市場の自由↓,資本の自由↓      規制緩和→市場の自由↑,資本の自由↑

      (ケース2)独占的市場

  政府規制→市場の自由↑,資本の自由↓      規制緩和→市場の自由↓,資本の自由↑

 

  どちらのケースでも「規制緩和」によって、資本の自由は拡大する。しかし市場の自由

は競争的市場では拡大するが、独占的市場では縮小する。つまり「規制緩和」政策の基準

は市場での自由競争の促進ではなく、資本の利潤追求の促進であることが分かる。

  さらに銀行への公的資金の投入とそれにともなう「徳政令」では、資本の利益のために

市場原理そのものが踏みにじられることは誰の目にも明白である。

  このように市場の自由のあり方は様々であっても(否定されさえしても)、資本の自由

が拡大されるという点では一致している。

  まとめれば、今日の経済を現実に規定しているのは資本の自由だが、まずこれが市場の

自由に錯覚される。資本関係は市場関係として現象するからである。次いで市場の自由は

人間の自由に立脚するのだから、全体として見れば資本主義経済は人間の自由を実現する

「市場経済」として意識される。しかし本質的には、諸個人の自由から生まれた市場は逆

に諸個人を規定し、市場から生まれた資本は資本家をその人格的担い手として労働者を搾

取する。資本の自由とは人間に対する資本の専制である(資本家もまたカローシする)。

  このように人間の自由が市場の自由を経て資本の自由にからめとられていくのが、市場

の自由に立脚した資本の自由という、自由競争段階の資本主義の基本的関係である。独占

段階はこれを否定するわけではないが、資本の自由の主導の下に市場の自由は様々な変容

を受ける。一方では、規制緩和で市場での自由競争を強化して弱者を淘汰し、他方では、

大企業どうしの合併で市場への支配力を強化する。両者は市場の自由の方向性としては反

対だが資本の自由の拡大では共通する。ブルジョア教条主義はこれら資本の自由(=人間

に対する資本の専制)に集約される関係の全体を、独占段階にあっても、それらが何らか

の市場を経由して実現していくことから、市場の自由として描くのである。そしてまた競

争の主体は人間であるように見えることから、市場の自由は人間の自由として描かれる。

もちろん競争の主体は人間ではなく資本である。人間の自由に基づく競争ならカローシは

ない。

  大規模小売店舗法の廃止などの規制緩和で大スーパーが進出し個人商店がつぶれるとい

うのは、単に市場で大が小を淘汰するという量的意味を持つだけではない。質的には資本

(G−W−G′)が小経営(W−G−W)を駆逐するということである。規制緩和をその

一局面として含むグローバル化は、「自己増殖する価値」としての資本の支配を究極まで

推し進めようとしている。

  資本の無限の自己増殖過程は人間にとってどういう意味を持つだろうか。一つには、そ

れが生産過程を包摂するものとして見た場合には、人間の生活や生理的限界を省みること

がないということである。価値増殖衝動からすれば長時間過密労働には際限がない。二つ

には、生産過程の内外を問わずいえるのは、価値増殖さえすればよいので価値の担い手の

素材・使用価値の内容は問わないということである。実体経済が好調ならば生産的に資本

投下されるが、不調ならば投機に流れ、社会的再生産の混乱と経済の腐朽化が加速する。

  資本主義の黎明期、スミスによって資本主義経済はあたかも社会的再生産一般を担う、

「生産資本の循環」において捉えられた。市場=資本の自由の前途は明るく見えた。資本

主義の黄昏期にもブルジョア教条主義=新自由主義は市場=資本の自由を説く。しかしこ

こでは「自己増殖する価値」は生産拡大よりもリストラ=減収増益を意味し、生産過程が

このように停滞しているなら、資本は投機(G−G±g)というゼロサムゲーム的寄生に投

下される。個別諸資本の「貨幣資本の循環」の総体はもはや社会的再生産の発展を展望で

きにくくなっている。こうして今日のブルジョア教条主義の二大帰結は、生活・労働の破

壊と経済のカジノ化といえるだろう。

 

                  イデオロギー諸潮流と今日の政党状況

  レーガン=サッチャー以来、新保守主義は「自由な経済と強い国家」を標榜してきた。

グローバル化の下では、確かに多国籍企業に規制を加えるような国家、労働コストや税金

の高い福祉国家、そうした大きな政府は小さな政府に取って代わられる。しかし弱肉強食

の競争の展開は不可避的に社会不安と国民の抵抗を呼び起こす。ここではまさに階級支配

装置としての国家が強化される。経済における新自由主義が政治的には権威主義国家を必

要とするのである。グローバル化で国家が後退するというのは幻想である。

  今日の日本の自民党政府も基本的にはその線であろう。ただし極めて日本的特徴に満ち

ている。経済においては確かに新自由主義路線が基本だが、ゼネコン支援型公共投資に見

られるように利益誘導型ケインズ主義が生き残り、両者は対立しつつも二人三脚で独占資

本の国家財政への寄生(減税と公共事業)を演出してきた(二宮厚美「日本の財政危機と

国家破産」『経済』2000年9月号、参照)。政治的には「強い国家」といっても極め

て反動的なそれであることが特徴である。戦前的なものへの反省がない。しかも国民には

強圧的であると同時にアメリカには従属した国家になっている。それらを端的に表現して

いるのが、99年に成立した「君が代・日の丸」法・盗聴法・ガイドライン関連の戦争法

などである。

  日本独占資本の階級的利害を代表する自民党は、先のイデオロギー鳥瞰図によれば、新

自由主義を基本としつつも、ケインズ右派や反動派をも使い分けてその支配を維持しよう

としている。従って自民党批判としては、新自由主義路線の反国民性を明らかにする(そ

れは改革の名には値しない)のを本筋としつつ、既得権益性や反動性なども含め、相互矛

盾もつきながら多面的に行う必要がある。

  それでは野党第1党の民主党はどうであろうか。党首が自民党との違いを問われて、「

改革を断行する熱意が違う」というような程度の答えしかできない党である。政策的には

大差なかろう。ただし「改革」が売り物なので、自民党よりも新自由主義に純化している

といえるだろう。2000年6月の総選挙で課税最低限度額の引き下げを公約したのがそ

の象徴といえる。政治的には政官財癒着の打破などで市民運動的手法を取り入れている。

しかし小選挙区制(これこそ新自由主義に対応した選挙制度であり、今回の総選挙で民意

に反して自民党政権を救った最大の要因だ)にこだわる救いがたい頑迷さもありで、プラ

スマイナスあれもこれもひっくるめて「改革」である。

  以上のように民主党は新自由主義の経済政策を、少しばかり市民主義の匂いのする政治

手法で包んでその全体を「改革」と称しているといえよう。

  テッサ・モーリス=スズキ「新たな市場に出荷された古い偏見」(『世界』2000年

8月号)は反動的な「石原現象」の意味を、オーストラリアの経験に照らして見事に解明

しているのみならず、日本の民主党への評価にも示唆的な部分を含んでいる。オーストラ

リア労働党政権は、政治的には多文化主義と先住民アボリジニの権利への積極的な政策を

展開する一方で、経済的には新自由主義的政策を推進した。その結果、一部の地域経済へ

の深刻な打撃、農村の不振などによって社会不安が蔓延した。そこにポーリン・ハンソン

という無名の女性が登場して、その不安の原因をアボリジニやアジア系の移民になすりつ

けて人気を博し国会議員になった。以後、人種主義の高揚のもとで暴力事件も起こってい

る。ここからは、新自由主義政策のもたらす社会不安が反動政治の温床になることととも

に、そういう状況下では、政治的に進歩的な政策が反動勢力の標的になることが分かる。

政治的な民主主義の前進は、新自由主義「改革」と両立するものではなく、国民の生活と

営業を守る経済民主主義と合わせて実現されねばならない。民主党が新自由主義的「経済

改革」と市民的政治改革とを合わせて提起しているのは危うい路線である。

  民主党が無党派層にアピールするのは、自民党政治の行き詰まりを改革してくれるとい

う期待からだろう。しかし民主党のいう「改革」の意味を分析的に明らかにして、自民党

以上に新自由主義的な「改革」は批判し、政治的に民主主義を伸ばそうとしている部分は

評価すべきであろう。

        以上では「改革」の中身を政治と経済に分けて考えるという方法を主に取って

        きたが、他の重要な観点についても若干触れておきたい。一つは「改革」の対象

        をどの次元まで捉えるか、ということである。普通には、たとえば「政官財癒着

        構造の打破」という。しかし「対米従属の国家独占資本主義体制の変革」という

        より深い次元を見据えた上で、政官財癒着構造を問題にするならば、アメリカ企

        業の自由のために日本の癒着構造を批判するような愚は避けられる。

          もう一つの観点は「改革」の対象たる旧体制の二面性、従って「改革」そのも

        のの二面性という問題である。日本の国家は成長促進のための経済介入型国家と

        して政官財癒着構造をとってきたが、他方では国民の運動を反映して福祉国家と

        しても不十分ながら整えられてきた。これを「小さな政府」がよい、という掛け

        声でいっしょにつぶしてしまうのが「改革」である。福祉国家の破壊の方が主な

        狙いだろうが、あくまで政官財癒着の打破の方が大義名分として掲げられる。こ

        のような二面性は他にも現行の社会福祉や教育の性格そのものをめぐって、など

        様々な次元で存在する。こうした二面性を捉えれば、新自由主義「改革」の真の

        狙いもそれがもてはやされる理由も理解でき、それへの批判のあり方も定められ

        るだろう。

 

                  論争の焦点の明確化

  以上で「二大政党」の自民党・民主党のイデオロギー的基盤を見たが、次にイデオロギ

ー闘争、政策論争の手法について考えてみよう。

  マスコミの流布する「国民的常識」と切り結んで、真の国民的常識を形成する努力が必

要であろう。マスコミ的議論で目立つのは争点を核心からずらしてスケープゴートを設定

することである。これに対して問題の核心のありかを示し、その観点から、争点ずらしの

意味とそれが可能になる客観的根拠をも明らかにして殲滅的批判をする必要がある。

      多くの人々が感じる経済不況や社会不安、そして急激な変化の時代に経験する、実

    在しながらも、漠然としている恐怖を利用し…中略…恐怖や不安の真の原因を追求せ

    ず、むしろ恐怖を可視のスケープゴートへと誘導する。

                            テッサ・モーリス=スズキ  前掲論文  P187

  グローバル化、新自由主義のもたらす社会不安が反動勢力によって外国人排斥などのス

ケープゴート戦略に利用される。このようなすり替えの仕組みは一部の反動勢力だけでな

く、広く「不偏不党」のマスコミによっても様々な問題に適用されている。

  リクルート疑獄などで政治腐敗への批判が頂点に達していたとき、問題を選挙制度にす

り替え小選挙区制が導入された。実際に選挙をして小選挙区制の害悪が事実としても明白

になっても、それには決して触れず、たとえば並立制による重複立候補と「復活当選」が

問題だと再度すり替える。これなどは比例代表制の意味やそもそも政党本位の選挙とは何

かということがまったく分かっていなくて、政治家個人本位で政治を捉える後進性の現れ

である(ゲプハルト・ヒールシャー  『前衛』97年1月号参照)。

      都市対地方、負担する側対受益する側という構図が明確になった。

                  オリックス会長  宮内義彦(「朝日」2000年6月28日)

  この宮内氏の言葉が象徴するように、総選挙前後に、都市と地方の対立を政治の中心と

する論調が強まった。公共事業に寄生する地方、意識の遅れた地方住民、過大な負担にあ

えぐ都市、意識の進んだ都市住民といった、いかにも都会から発信するマスコミの尊大さ

があらわな調子である。ここからは同じ自民党でも地方選出の議員はだめだが、都市選出

の議員は真剣に考えているという具合になる。しかし東京や大阪でも無駄な公共事業はお

おいに行われているし、地方の衰退は農業切り捨て政策こそが最大の問題ではないだろう

か。そうした自民党政治の行き詰まりを地方住民のせいにして、都市住民のルサンチマン

を煽るのはまったくのすり替えである。

  こうした争点ずらし・スケープゴート戦略の中でも、分断支配の性格を持ち、その影響

力も大きい消費税問題についてやや詳しく見たい。

  新聞の投書欄でよく見かけるのが、消費税の益税と滞納への庶民の怒りである。中小零

細自営業者などがやりだまに上げられている。こうして労働者・消費者と業者との間にク

サビが打ち込まれる。このような声をも背景にして、「改革派」の学者が消費税の最大の

問題は益税・滞納であってこれらをなくすために、インボイスを導入したり、免税売上額

を下げるか撤廃するなどの「改革」が必要だと御託宣をたれている。

  結論を先に言えば、消費税の最大の問題点は逆進性であって、それよりも小さい問題と

しての益税・滞納をなくすには、消費税を廃止して逆進性という大問題といっしょに葬れ

ばよい、ということである。この根本的解決法は実現するとしてもずいぶん先の話になる

ことは疑いない。しかしこの観点なくして当面の問題も正しく考えることはできない。

  問題を益税にしぼろう(滞納についてはたとえば「赤旗」97年4月2日付の関本秀治

氏の話参照)。真面目な納税者から見れば益税などとは確かにとんでもない話で、犯罪に

見えよう(法律上は認められているが)。非課税業者が消費者から5%の消費税を取れば

それがまるまる益税になり、取らなければ損得なしのように見える。

  しかしこれは消費税の多段階課税の仕組みを理解していないことからくる誤解である。

非課税業者といえども仕入・経費には消費税がかかっているのが普通であり、消費者から

5%の消費税を取ればその一部が益税になるが、とらなければ損税が発生する。またこの

不況下では価格を維持する力のない中小業者は本体価格を下げた上で消費税を転嫁してい

る場合もある。これでは形式的には転嫁していても実質的には転嫁できていない。業者の

多くは益税でほくそ笑んでいるどころか、消費税そのものに反対している。

  確かに益税そのものは問題であり、現行の消費税はその他にも様々な矛盾を抱えている。

なぜそうなっているのだろうか。消費税は業者を含む国民の大反対を押し切って導入され

たために、3%と税率を低くしたり、非課税業者を容認したり、簡易課税制度を設けたり

など、政府の側は「小さく生んで大きく育てる」つもりで当面は多くの譲歩をした。つま

り現行制度の矛盾の根本的な原因は、階級闘争の妥協形態だという点に求めらる。

  これを理念的にすっきりさせるためには、消費税制度そのものをなくしてしまうか、非

課税業者・簡易課税制度などをなくして消費税制度を純化するか、どちらかである。現実

的には両者は階級闘争という同一平面上での綱引きの両端なのだが、理論的には次元が違

う。消費税制度そのものの是非はより深い問題であり、消費税のあり方は二次的な問題で

ある。残念ながらマスコミ的「国民的常識」では、根本問題が忘れられ、消費税の存在は

前提にして、そのあり方だけが議論される。そうなれば「純粋な消費税」のほうが合理的

に見える。これでは、理論的大義は「改革派」の学者のほうにあって、業者などは自己の

利害だけを主張しているように見える。

  消費税が当面存続するのはやむを得ない現実である。しかしその現実だけにはまって根

本問題を忘れていると、この綱引きでは理論的に負け、国民的共感は得られない。当面の

問題としても、税率の引き上げと制度の改悪を阻止するためには、中小零細業者をスケー

プゴートにすることなく、ずらされた争点をもとにもどして、消費税そのものの最悪の大

衆課税としての性格を常に問題にしていかねばならない。

  以上は各問題の中身についての「争点ずらし・スケープゴート戦略」への批判である。

ところが石川真澄「『バイパス政治』の果てに(連載・現在学・入門<33>)」(『世

界』2000年9月号)は問題設定そのものにおける争点ずらし(その時代にとってもっ

とも重要な課題を避けるために、別の課題をさも重要であるかのように扱うこと)を指摘

している。

  具体的にいえば、「政治改革」の名による小選挙区制の空騒ぎのときに本当にしなけれ

ばならなかったのは経済の舵取り(バブルとその崩壊への対策など)ではなかったのか、

ということである。小選挙区制反対の論客であった石川氏は、反対側からとはいえ、この

空騒ぎに参画して、経済問題から目をそらさせた責任が自分にもある、と厳しく反省して

いる。確かに体制側が出してくる「大問題」は、いま具体的に解決しなければならない問

題を隠してしまう。

  仕掛けられた戦いは防戦しなければならない。しかしその防戦の一方で本当に大切な問

題は別にあることをそのときどきに提起していくことが必要である。そのためには大局的

構想力が必要であり、それを国民的レベルに提起していく力も必要である。

 

                  経済政策の理念的課題

  故小渕首相の「二兎を追うもの、一兎をも得ず」発言以来、まず景気回復が先か財政再

建も同時か、という「論争」がある。言葉上の結論としては、景気回復も財政再建も同時

に、というのが正しい回答だろうが、しかし真の問題は、景気回復と財政再建のそれぞれ

の中身である。

  小渕流コースは<財政赤字を増やしても公共事業→景気回復→経済成長と消費税率引き

上げによる財政再建>である。対して民主党などは<小さな政府による歳出削減、規制緩

和など経済構造改革の断行→景気回復→経済成長と消費税率引き上げによる財政再建>で

あろう。現実に進んでいるのはリストラによる減収増益型の企業業績回復による景気回復

である。皮肉にも二つの間違った政策ではなく、「民間による自立的回復」である。リス

トラに手を貸している限りでは政府も「正しい」景気回復策をとったということか…

  このような景気回復も財政再建(「調整インフレ」によるそれも含めて)も国民の利益

にはならない。「実感なき景気回復」といわれるのも当然である。これでは「経済大国=

生活小国」という歪みをますます拡大してしまう。福祉や雇用への不安をなくして国民の

消費意欲を引き出して景気を回復させ、むだな公共事業を削減し、大企業・金持ち優遇税

制を改めて財政を再建せねばならない。

  つまりただ統計数値をながめて、経済成長率が上がり財政赤字が減ったので、景気が回

復し財政が再建されてけっこうだ、とはならない。国民生活にプラスになったのか、経済

の歪みが少しでも是正されたのか、という中身が問題である。

  そこで問題提起したいのは「消費を温めないかぎり景気は回復しない」という言い方を

いつまでも続けるのは正しいだろうか、ということである。最終消費とはある程度独立し

た形で、企業業績の回復によって資本蓄積が進んで経済成長が実現する可能性はある。そ

れを完全に否定してしまうのは過小消費説的誤りである。現在、統計的には景気は回復過

程にある。もちろん様々な反対要因もあるから予断は許されないが、政策が間違っていよ

うがいつかは景気は回復する。それが資本主義的景気循環の法則である。従っていつまで

も「回復しない」といい続けるのでなく、景気回復の中身が問題だという言い方に変えた

ほうがよいであろう。

  同様に、トリクルダウン理論の一種の日銀の「ダム論」を批判する際にも、「そのよう

なことはありえない(そういうふうには景気回復しない)」といってしまっては間違う可

能性もありうる。確実にいえるのは「そのような景気回復のあり方は国民にとって望まし

くない」ということである。経済の客観的側面とそれへの価値判断(=政策的方向性)と

は区別する必要がある。景気の客観的動向を「読み間違えた」と判断されると、政策的価

値判断までも正しくないと思われる恐れがあるからである。

  とはいっても、90年代不況と財政赤字の深刻さは戦後最大であり、どのような立場で

あれ日本経済の再建が容易でないことも確かである。このような厳しい状況に至った様々

な具体的原因についてはここでは措くとして、その遠因としての経済の歪みについて、思

いつくままに述べてみたい。それはまた日本経済の中長期的展望ともかかわることのよう

に思える。

  ゲプハルト・ヒールシャー「ヨーロッパには『労働者への連帯感』がある」(『前衛』

2000年9月号)に見られるドイツの労働条件の有利さと労働者の権利意識の高さとに

はまったく驚かされる。もし一昔前なら「だからドイツは停滞しているのだ」と日本人は

いっただろうが、今は何もいえない。人間的な労働をしているEUはそこそこの経済状況

なのに、カローシ的労働の日本は最悪の不況下にある。恐ろしい(見方によっては素晴ら

しい)逆説である。

  トヨタに代表される超過密労働とケイレツ支配とによる効率的システムは、おそらく世

界に比類無いものだろうが、財界は、日本企業の競争力は落ちた、もっとリストラを、と

いって労働者を締めつけている(競争力については為替レートの問題が関係しているだろ

うが、他の要因も考慮せねばならないかもしれない)。非人間的労働が労働者にとって悪

いことはいうまでもないが、上の逆説からすればそれは国民経済にとっても悪いことでは

ないかと思える。

  島田峰隆「労働時間短縮で雇用増やしたオランダ」(『前衛』2000年8月号)では、

ワークシェアリングとパート労働者の権利向上とで失業を克服した「オランダ・モデル」

が紹介されている。国民みんなが幸せになるためには、競争・効率に血眼になるより、助

け合いをしたほうがよさそうだ…

  寺沢亜志也「日本経済の再生と個人消費回復への道」(『前衛』2000年9月号)は

以上のような問題意識にある程度答えてくれる。寺沢氏によれば「高度成長期に日本の経

済を引っ張ったのは、民間設備投資だったが、安定成長期になると個人消費が経済を引っ

張るようになった」(P11)にもかかわらず、自民党政治と独占資本が個人消費を痛め続

けた(たとえば円高の下でのコスト切り下げ競争、福祉政策の貧困など)結果、日本経済

は疲弊してしまった。多彩な個人消費の発展とそれに応える産業構造をもった懐深い国民

経済の建設こそが、貧困な生活と企業社会という日本経済の歪みを正す中長期的目標であ

ろう。

        ここで、このような展望を考えることの理論的意義について述べたい。拙文で

        は初めにイデオロギー諸潮流への批判基準として、国民からの収奪とそれへの反

        撃という階級的観点を強調した。これは「市場−政府」図式などの表面的な資本

        主義経済観(資本関係も商品=貨幣関係に解消する「市場経済」観)よりも本質

        的な見方を提起したものである。しかしこの場合の階級的観点は主には分配論的

        性格が強いといえる。「大企業のぼろもうけを社会に還元する」というようなス

        ローガンも分配論である。こうした場合、現在の強搾取・強蓄積構造は前提にし

        てその成果を国民的に分配するということになる。当面はそれが中心になるが、

        中長期的には、生産のあり方そのものを人間的労働に基づくものにして、そこか

        ら生活も変革していくことが中心となる。ここでは効率至上主義の新自由主義の

        生産論との社会像における対決が避けられない。いかにゆたかな生活・労働・社

        会ビジョンを示していけるかが問われるだろう。

  このオルタナティヴは価値論とも関連している。新自由主義=ブルジョア教条主義が資

本至上主義であるというのは、個別諸資本の効率追求=価値増殖に一元化された社会への

「改革」を要求している(それに役立つかぎりでいわゆる市場原理主義が行われる)から

である。規制緩和で消費者利益が強調されるが、そこで想定されている消費とは、剰余価

値追求に適合的なアメリカ型生活様式による画一的大量消費である。あたかも消費に合わ

せて生産があるように見えるが、実際には逆に生産に合わせた消費が社会的に強制されて

いるのである。その生産において使用価値がいかに軽視されているかは、最近の雪印や三

菱自動車の不祥事など枚挙にいとまがないし、その労働過程の厳しさもいうまでもない。

価値によって使用価値・労働・消費生活が規定されるのは確かに資本主義の原理だが、そ

れを放任すれば人間の生活は疲弊していく。

  これに対して吉田敬一「国民本位の経済構造転換と中小企業の新たな役割」(『経済』

2000年10月号)は、商品の使用価値的区分から出発して、生活様式・文化のあり方

から、生産力の質に関わる人的要素(技能・熟練)にまで説き及んで、大企業中心社会に

代わるオルタナティヴを提起している。

  吉田氏によれば、機能性重視で量産量販・低価格型の文明型商品と、オリジナリティ重

視で非量産型の非価格競争力を持つ文化型商品とがある。日本はこれまでもっぱら文明型

産業が急発展してきたが、今後は文化型産業を育成する必要がある。二本足が揃って初め

て豊かな生活が実現する。両者は「存立基盤と課題が根本的に異なっているため、競争原

理やルールも別途の原則が適用されねばならない」(P100)。「文明型の需要の充足を中

心とした大企業の担当領域と、文化型の需要の充実に関わる中小企業の担当領域を区分し、

その棲み分けを可能にするような、国民経済レベルでの社会的規制・ルールづくりが課題

となる」(P108)。

  今日の深刻な不況を打開するには、個人消費の拡大が不可欠だが、中長期的には環境制

約などから大量生産=大量消費は抑制されねばならない。労働と消費生活のあり方の質的

転換が求められている。人々が多忙の中で消耗品や耐久消費財をいっせいに使い捨ててい

くような生活様式から、ゆとりの中で各々のお気に入りの商品を大切に使い続けていくよ

うな生活様式へ(いわば個人消費の外延的発展から内包的充実へ)。それに応じた国民経

済のあり方として、大企業覇権主義から中小企業の役割の増大へ、国内・国際の競争をて

ことしたピラミッド型産業編成による外需型一点突破拡大主義から、内需的連関の多様な

産業編成による多面的生活要求充足主義へ、という中長期的変革像が描けるだろう。

  ただしグローバル化=大競争の中で、現行の「資本至上モデル」から「生活重視モデル

」への転換をいかに図っていくかが問題である。そのカギを握るのは日常生活の次元から

国際経済機関の次元にまで至る人々の戦いであろう。毎日のゴミ処理からWTOでのデモ

行進まで。

 

                  経済思想における強者主義と弱者主義

  国民生活を重視した経済という考え方に対しては、そのような甘いやり方では経済発展

のインセンティヴがない、という批判がありうる。確かに効率を上げ生産力を高めるため

には、弱者から資源を収奪して強者に集中したほうがよい。経済格差こそが活力の源であ

る。本源的蓄積以来、資本主義の歴史の基本線はそのような強者主義の実践であった。

  これに対して疎外された弱者は経済の果実の分配を要求した。弱者主義の始まりは現実

に促迫された弱者救済主義であろう。しかし弱者救済は資本の活力を弱め、生産を停滞さ

せる(ここに階級性を読み取るべきである)ので、「社会全体の利益=公共性」の観点か

ら強者主義に反撃される。

  これまでの拙文の主張は、このような「経済発展」や「経済の活力」の中身そのものを

変えようということである。弱者を救済の対象とするのでなく、生活の豊かさが実感でき

る経済の中で生き生きとした生産的主体としようというのである(弱者救済主義から弱者

主体主義へ)。

        ところでここで弱者とか弱者救済とかいうのは、特別の貧困層と生活保護など

        だけをいうのではなく、一般の労働者層と社会保障をも含めていっている。こと

        さらに弱者という抽象的であいまいな言葉を使ったのは、労働者階級の立場に立

        つといっても、ここでいう強者主義(生産力主義・効率主義)の経済社会像にと

        らわれている場合があるからである。

  強者主義の経済と弱者主義の経済とが競争した場合、前者が勝利するように思われる。

たとえば新自由主義が福祉国家を駆逐したように。これは絶望の結論である。

  しかし社会進歩とは本来大局的には、動物的な生存競争=弱肉強食から人間的共同への

歩みであろう。たとえば19世紀イギリスの工場法は、資本に労働時間短縮を強制するこ

とで、それが技術進歩のインセンティヴとなって、イギリス資本主義の繁栄をもたらした

のである。日本の戦後改革は戦前の野蛮な半封建的資本主義を近代的な資本主義に転化さ

せ、労働基本権も認めるなどして、より人間的な競争のルールを作り、新たな生産力発展

の基礎を築いた。これらからいえることは、人間を大切にした労働のあり方への変革は、

(それが歴史的必然性を体現しているなら)その時代に応じた新たな経済発展の段階を準

備するということである。その道を阻害する粗暴な経済のあり方には競争の機会を与える

のでなく、社会的規制を加える必要があろう。

  強者主義は「資本の自由」=「疎外された労働」を原理とする世界経済と国民経済の編

成の表現であり、弱者主体主義は「人間の自由」=「人間的労働」を原理とする世界経済

と国民経済の編成の表現である。二つの道をめぐるせめぎあいが我々の行く末を決すると

いえよう。

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