以下は2003年、イラク戦争などについて朝日新聞に投書していずれも没になった四文書およびその一部の編集部宛の説明文です。 独断的な印象を与えたりするのがいけないのだと思いますが、今後とも機会があれば平和と暮しの声を発信していく予定です。採用されるされないは別にしてもマスコミに進歩的な世論を感じさせることが重要です。 お時間がありましたらご笑覧ください。。 |
イラク戦争などをめぐって
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2003年2月6日
小さな悪は罰せられるが、大きな悪は平然と通用する。一人殺せば殺人犯だが、戦争で大量に殺せば「大統領」である。特定企業の便宜を計って献金を得れば世間から「ムネオ」とカタカナで呼び捨てられ逮捕もされる。しかし財界あげて政党・政治家を丸ごと買収して消費税を一六%にすると言えば、久しぶりの本格的「財界総理」と賞賛される。悪い世の中を良くすると見せかけてさらに悪くするには「改革」と称する。まず「政治改革」で小選挙区制を導入して民意が議席に反映されない政治を作る。これで批判的議員を減らして「構造改革」で弱いものいじめの経済を作る。こうして準備万端整った。しかし自分の会社の労働者や下請けに対して乾いたタオルを搾るようにしていた経営者が国民全体からも搾り取ってうまくいくものではない。どこの企業もリストラで利潤を増やそうとしているが、おかげで日本経済全体はますます不況に沈んでいく。企業経営と国民経済の運営は別の話だし、ましてや大衆課税で企業負担を減らそうなどという財政の私物化は論外である。企業献金を廃止して財界による政治支配を追放しない限り本当の改革と国民生活が豊かになる経済は実現しないだろう。
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追伸
激越な調子で傲岸不遜と思われる文章になってしまいましたが、ニュースを読めば憤懣遣る方なくなるのです。
まずアメリカのイラク先制攻撃は国際法の蹂躙以外の何者でもなく、たとえ国連がアメリカの脅しに屈して「決議」なるものを上げたとしてもとうてい容認できません。そこにはまともな議論に値する論理は何もなく、軍国主義日本の「鬼畜米英」「暴支膺懲」と同次元という他ありません。
奥田日本経団連会長の消費税16%の提唱には、国民もここまで馬鹿にされたかと…。政財界・マスコミの議論は「企業をまず儲けさせよ。さすれば下々にもおこぼれが回るであろう」ですから、不況対策でもとにかく企業負担の軽減と大衆負担への転嫁となりますので、私のような議論はポピュリズムでかえって経済を悪くする、という見方が大勢なのでしょう。しかし法人税率の低減など大企業よりの政策はこれまで実施されてきても不況対策としては失敗しています。「国民の負担を軽減せよ。さすれば企業も儲かる」。発想の逆転こそが必要なのです。高度成長時代には企業の投資が経済を引っぱっていきましたが低成長時代では個人消費が中心です。輸出・公共事業頼みから福祉・環境重視の内需循環型経済への転換が求められています。
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2003年4月23日
「日本全国酒飲み音頭」の替歌
世界どこでも帝国戦争音頭
ベトナムじゃ失敗して戦(いくさ)負けたぞ
負けた負けた負けたぞ戦負けたぞ
けれどもグレナダはすぐにつぶせた
すぐにすぐにつぶせたすぐにつぶせた
パナマはノリエガで戦できたぞ
できたできたできたぞ戦できたぞ
チリでは戦じゃなくてクーデターできたぞ
できたできたできたぞクーデターできたぞ
アフガンじゃテロの仇で戦できたぞ
できたできたできたぞ戦できたぞ
イラクもフセインで戦できたぞ
できたできたできたぞ戦できたぞ
北朝鮮じゃ核問題で戦やろかな
やろかやろかやろかな戦やろかな
日本は何でもいいから戦支持だぞ
支持だ支持だ支持だぞ戦支持だぞ
理由なんかどうでもいえるから戦できるぞ
できるできるできるぞ戦できるぞ
はっきりいってふざけた歌だけど、戦をもてあそぶの
はもっとふざけている。戦する者がこれに怒るなら知
性がないのだし嘲笑するなら心がないのだ。
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2003年5月19日
石油利権、中東支配、世界への威嚇などを目的としてアメリカはイラクを侵略した。その際、公然と先制攻撃戦略を唱えるとともに、テロ・大量破壊兵器などの問題を喧伝したが、それらは戦争を正当化する根拠としては国連で認められず、反戦デモが世界を席巻した。つまりアメリカは無法な目的と論理で侵略を敢行して世界平和の脅威となり、その際、様々な口実を弄したが世界中の人々と各国から見抜かれ支持されなかったのである。
有事三法案が衆院を通過した。日本を侵略する意思と能力を持った国が存在しないのにそれを制定するのは、「備えあれば憂いなし」という口実の裏に本当の目的があるからだろう。国会での政府答弁によれば、アメリカの先制攻撃に関連して海外の自衛隊が攻撃されそうでも有事法制は発動されるという。つまり「守りの備え」ではなく「攻めの備え」なのだ。九四年にアメリカが北朝鮮攻撃を断念した理由の一つとして日本の有事法制の未整備があげられる。従って現時点での有事立法は無法なブッシュ政権にフリーハンドを与える恐れがあるといえる。「有事法制が国民を守る」というのは、「イラク戦争がテロ防止に役立つ」というのと同類の危険な思い込みなのである。有事三法案は廃案しかない。
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追伸
投書文面に関連していくらか述べます。ご笑覧下されば幸いです。
いまだにイラクでは大量破壊兵器は見つかっていません。もっとも米軍が「見つけた」としても誰も信用しないでしょうが。仮に実際に発見されたとしても大量破壊兵器の存在自体が戦争を正当化する理由にはなりません。戦争によらず国連の査察によって廃棄することが可能だったのですから。
ブリクス委員長も言っているように、アメリカはある時点で戦争を決断していたのでしょう。後はそれを正当化するために理由をあれこれつけ、策を弄し、威嚇もしたのですが、支持されなかったのです。
確かにテロも大量破壊兵器もならず者国家の存在もそれ自体重要な問題です。しかしそれらが戦争を正当化するものでもないし、戦争で解決されもしません。イラクの大量破壊兵器も国連の査察で解決できる直前まできていたように、人類は様々な懸案を理性的に解決しうるのです。しかしそれではアメリカは都合が悪いわけです。唯一超大国として力によって世界を支配したい。少なくともネオコンはそう考えています。ここにきて21世紀初頭の世界平和の最大の問題は、大量破壊兵器を一番多くもった最大のならず者国家=アメリカをいかに規制するか、ということになりました。
様々な口実が見透かされたアメリカは結局戦争目的として「民主化」ということを言い始めました。民主化とはそれぞれの国民自身の課題であるのだし、アメリカの言う「民主化」とは親米化以外の何物でもないことは、軍事独裁政権を支持してきた実績からして明らかである以上、これも戦争の根拠にならないことは明白です。テロ防止、大量破壊兵器の廃棄、「民主化」等などをナイーヴに信じるか信じた振りをするのが日本などのアメリカ従属国の政権の姿勢です。しかし直接政治に責任を負わない体制派のインテリたちは、そのばかばかしさないしは偽善ぶりを批判してあからさまに本音を述べます。福田和也氏はアメリカの非正義を認識しつつ実利を追及するシニシズムの立場から、現実的で誠実であろうとするならば、自分たちが「怪物」アメリカの前に立ちすくんでいることから出発するしかない、としています(「朝日」夕刊4月15日)。そして当然のことながら反米・反戦の立場に対しては、「怪物」に向かって国連や国際法を持ち出すのは感傷的自己満足にすぎない、と批判しています。他にもマスコミでは、国連は無力だ、アメリカの力だけが現実であり、アメリカに従うしかない、という議論が見られるようです。
事実として国連や国際法は無力だったのでしょうか。安保理で米仏を中心とする議論が盛んだったころ、マスコミの観測は、どうせフランスは妥協する、拒否権を使えるわけはない、安保理を無視して米英が戦争に突入したら国連の面子は丸つぶれだから、安保理は戦争容認決議を上げざるをえない、というものでした。なるほど玄人筋の見方というものはそうか、と思ったのですが、私としては、フランスがどうするかは知らないが、安保理が戦争容認決議をしたらそれこそ国連の権威は失墜し、国連存立の原点を汚し、歴史的汚点を残すことになる、と思いました。事実の経過は私の見方が正しかったことを証明したのであり、もし戦争容認決議などが上がっていたらそれこそ国連は無用の長物と化していたでしょう。世界を席巻した反戦デモはなるほど戦争自体を防ぐことはできなかったのですが、戦争を半年に渡って遅らせ、国際法による平和秩序を形成しようという世界の人々の意志を表明して、21世紀のあるべき世界像の基礎をすえたといえます。その意志に支えられてアメリカの横暴に屈しなかった国連はその世界像を実現すべき機関として何とか踏みとどまったのです。反グローバリズムの世界的運動や非同盟諸国会議もそれを実現する力となっていくでしょう。もちろん圧倒的な軍事力・経済力を持ったアメリカが最大の影響力を行使する、という事態はしばらく続くでしょう。残念ながらアメリカの侵略戦争という犯罪を裁く声は安保理にはありませんし、アメリカのイラク占領に対する効果的な対抗策もすぐには出てきそうもありません。しかし大義なき力の支配がいつまでも続くというのは、軍事的勝利に酔った思い込みに過ぎません。
「発想はあまりに中世的であり、新しいのは兵器システムだけなのだ」「高度に技術化された蛮人が世界を仕切ろうとしているのである」という辺見庸氏の言葉(「朝日」3月22日)はイラク戦争とネオコン戦略の本質を衝いています。福田和也氏も引いているように、ネオコンのケーガンは、カントの啓蒙主義の説く理性による平和ではなく、ホッブズの説く権力・暴力による秩序こそが現代世界にあてはまり、今日の世界秩序は国際法・国連ではなく、アメリカの力が維持しているのだ、としています(ネオコンのこのホッブズ解釈が正しいのかどうか、ホッブズ研究の権威である水田洋名誉教授に是非聞いてみたい。「朝日」紙上への登場をお願いしてください)。
イラク戦争の結果を見ると一見これが正しいようですが、辺見氏もいうように全くの前近代的思想に過ぎません。そもそも啓蒙主義の世界観は単なる空想的理想ではありません。それは近代的な商品経済の発達による自立した自由平等な人間の形成を現実的基盤として生まれました。商品交換の円滑な進行は暴力ではなく自由意志の交流によってこそ保障されます。いちいち暴力をふるったり、差別していたのでは非効率この上ない。従ってそこでのルールは「人間は無差別平等」となります。市民法はこうして形成されました。
戦争とは破壊と略奪に過ぎないのであり、社会を作り出しているのは、経済を基盤とした人間の日常の諸活動なのです。平和とか秩序というものはそこにこそ宿るのであり、前近代においてはそこでも経済外強制という暴力が支えとなっていたのですが、近代以降は市民の自由意志によって形成されるのです。もちろんこの商品経済=市民法の自由平等の世界は必然的に資本主義経済の貧富の格差の世界を生みだし、社会法によって調整されざるをえないのですが、その際にも市民法的自由平等の関係は前提されます。我々は、例えば通貨のように社会にとって根源的に重要なものも国家権力が作り出すかのように思いがちですが、通貨は商品経済の自立的運動の中から生まれてきたものを国家が承認して法定しているに過ぎません。ソ連経済が崩壊したとき、ルーブルの全面的流通に穴があき、物々交換やドルの流通が広範に生じたことはそのことを示しています。
確かに市民法の世界は一国内のことであり、国際関係はどうなのかということが問題となります。ここでも国際法は空想的願望ではなく、世界の人々の国際的交流と戦争の悲惨な経験を基礎にして、民族自決権の承認、戦争の原則的非合法化などが形成されてきました。そしてそれを守り発展させようとする運動が世界中で起こっているのです。これに反する無法な暴力が世界を支配することは決して持続できません。
ネオコンや追随する日本の「現実主義者」などは社会というものを軍事力を中心とした様々な力の観点からしか見ません。しかし国であれ世界であれ、社会を不断に形成しているのは人々の日常の諸活動であり、そこでは確かに様々な経済力・政治力などを背景にしながらではありますが、自由平等を建て前とした、誰もが守るべき一定のルールが設定されます。そのように内在的に生まれてくる秩序こそが平和の真の基盤なのです。これを外からアメリカの一国覇権主義の下に置こうというのは無理があり、現実的にもバブルの崩壊したアメリカ経済はそれを支えられないでしょう。
以上の議論は、「力」信仰への批判として、商品経済と市民法の観点から平和的秩序の根拠がどこにあるかについて、私なりの思いつきを述べたものです。思いつきですから、もっと考えてみるべき課題はあります。例えば商品経済を基礎とした資本主義経済の展開の観点からはどうなるのか、あるいは「力」信仰が前近代的だというが、むしろ一部の多国籍企業が世界経済を支配し、アメリカの軍事力などの力がそれを支えているという現状の反映ではないのか、というようなことです。
世論調査では国民の多くが有事法制に賛成しています。おそらく「備えあれば憂いなし」というレベルの漠然とした思いと北朝鮮脅威論が影響しているのでしょう。憂いなどはいくらでも作り出すことができることは、アメリカがイラク戦争の際に証明してくれました。従って備えはいくらあっても足りない。「備えあれば憂いなし」というスローガンは容易に「攻撃は最大の防御」に転化します。これもイラク戦争でアメリカが実践してくれました。
有事法案の最大の問題はそれが日本防衛というよりもアメリカの戦争への荷担に狙いがあるということです(残念ながら世論はここを意識しない---しないようにさせられている---ために有事法案賛成になっているのです)。日本を侵略する意志と能力をもった国が存在しないのに国民を戦争協力に強制できる法律を作るというのはそういうことです。
事実、1997年の新ガイドライン(日米防衛協力のために指針)では有事立法が「期待」されています。その後それにそう形で着々と関連立法が重ねられ、今回の有事三法案はキーポイントに位置するものでしょう。こうしてみると有事法制はアメリカからの要請と、それに乗って軍事力強化と国民抑圧体制整備をしたい日本政府の思惑からでたものといえます。少なくとも国民にとって利益はありません。
北朝鮮の脅威が声高にいわれます。確かに北朝鮮はならず者国家ですが、軍事的対応は絶対に避けねばなりません。今は日本では国民的逆上状態ですが、冷静に考えれば、北朝鮮が日本を侵略することなどありえません。日本にミサイルが飛んでくる現実的可能性があるのは、アメリカが北朝鮮侵略を始めたか決意したときだけです。アメリカの戦略こそが日本の安全にとっての最大の懸念材料です。イラク戦争によって、有事法制の持つアメリカの戦争への協力という意味が単に理論的可能性以上の現実感をもってきています。これが重要です。有事立法は、日本はいよいよ戦争をするぞという誤ったシグナルを送りかねません。
韓国のソウル北方から38度線まで、工場・住宅が立ち並んでいます。日本も日本海周辺に原発をたくさん稼働させています。戦争は絶対できないのが実情であり、韓国政府はそれを踏まえて平和の理念を実現させるための(経済協力などの)北朝鮮への現実的アプローチを展開しています。日本政府はその点はあいまいです。1994年の危機を回避できた最大の要因は当時のキムヨンサン大統領がクリントン大統領に対して韓国軍は一兵たりとも動かさないと言明したからでした(金大中前大統領のようにノーベル平和賞をもらうほどの立派な政治家でなくとも韓国大統領たるものはアメリカにもいうべきことはいう。韓国は本当に腹を括っている)。同時に当時、日本の有事体制はアメリカにとっては全く心もとないほどに未整備だったことも重要な問題でした。今、米国史上最悪の好戦的なブッシュ政権を前に日本が有事法制を整備することがどれほど危険かを考える必要があります。
では、ならず者国家・北朝鮮にどう対応するか。政治・経済政策などすべてを含めて小泉内閣で唯一評価できる実績は、小泉訪朝と日朝平壌宣言です。そこで問題点はあるにしても、諸問題を国交回復交渉の中で一括して解決していくという方向自体は正しい方針だったといえます。相手が無法者だからといってこちらも脅しで対応するのでなく、国際社会のまともな一員となることの利益を説いていくしかありません。実際、小泉訪朝では北朝鮮側が拉致問題を認めるなど全体としては大幅に譲歩したのであり、苦しい経済状態を抜け出すために日本の経済協力を切実に求めているのは間違いありません。ここを糸口とした大人の交渉が求められます。拉致問題については、人権問題という対応ではなく、報復とか力での威圧という方向にねじ曲げられていることが重大で、ナショナリズムを煽って日朝交渉の全体像を歪める作用をしています。
北朝鮮にも私たちと同じ人間の生活があり、その人達と仲良くなっていくという当り前の視点が忘れられてはなりません。誰もが平和を願っています。韓国とは人的交流が盛んになり、そのことが相互理解をずいぶん深めました。北朝鮮の人々とも草の根の交流が進めば戦争の危険はぐっと低くなります。そのことがまた北朝鮮の民主化に役立つに違いありません。
北朝鮮との国交交渉は実に歴史的に重要な意義を持っています。日朝の友好関係が確立されれば東アジアに安定した平和的発展の基盤ができます。米軍の撤退した真の平和を実現することが可能です。かつてベトナム戦争の前線であった東南アジア諸国からは米軍基地が撤去されました。もちろんたとえばフィリピンに対テロ戦争を名目に米軍が展開しているとか、各国と米軍との演習など密接な関係はまだあります。しかしASEANは米軍の抑止力による平和ではなく、自立した平和を目指して、各国間の話し合いによる懸案解決の実績を積んできました。ASEANの指導者の一人、マレーシアのマハティール首相は非同盟諸国会議でも指導的役割を果たし、イラク戦争反対の国際世論を積極的に作り上げてきました。この東南アジアの流れを北東アジアでも実現していくために、日本国民がその目をアメリカ一辺倒からアジアに向けることが望まれます。マスコミも世界とか国際とかいう場合にイコール・アメリカではなく幅広い報道姿勢が必要です。このように広く先までを見据えた姿勢があれば、北朝鮮問題を見るにしても感情的なナショナリズムから脱することができるはずです。
人類は暴力・無法と闘いつつ諸学問を積み上げてきました。日本国憲法もその文脈の中に置くことが可能です。今日、圧倒的な軍事力の行使、「力」信仰、シニシズムの横行に際して、改めて私たちはそれらを闘いの糧とし、新たな歴史を築いていきたいものです。最後に吉野源三郎に対する丸山真男の弔辞(岩波文庫『君たちはどう生きるか』の解説として掲載)から引用します。
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この作品にたいして、またこの作品に凝集されているようなあなたの思想にたいして「甘ったるいヒューマニズム」とか「かびのはえた理想主義」とか、利いた風の口を利く輩には、存分に利かせておこうじゃありませんか。『君たちはどう生きるか』は、どんな環境でも、いつの時代にあっても、かわることのない私達にたいする問いかけであり、この問いにたいして「何となく……」というのはすこしも答えになっていません。すくなくとも私は、たかだかここ十年の、それも世界のほんの一角の風潮よりは、世界の人間の、何百年、何千年の経験に引照基準を求める方が、ヨリ確実な認識と行動への途だということを、「おじさん」とともに固く信じております。そうです、私達が「不覚」をとらないためにも……。
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2003年6月2日
日本では平和問題については憲法九条に立ち返るのを常とする。確かにそれは平和を根本的に考える意味では大切だが当面の問題の性格を見損なう場合もある。衆院を通過した有事法制の最大の焦点は、一般的に平和をどう守るかという問題ではなく、日本国民が侵略戦争に巻き込まれるかどうかだと思う。防衛庁長官の国会答弁では、第一に公海上の自衛隊の艦船も「わが国」になりうる。第二に米国が先制攻撃戦略によりある国に最後通告して日本がそれを支持し相手国が日米へ応戦の意志を表明した場合は「武力攻撃予測事態」に該当する。だから日本国土が攻撃されていなくても、米国の戦争に関連して海外の自衛隊が攻撃されたり、相手国が応戦の意志を表明すれば有事法制が発動されうる。
現実には日本を侵略する意志と能力を持った国は存在しない。現在、日本国民が戦争に直面するのは、米国の侵略戦争に巻き込まれる場合が最も考えられる。九四年の北朝鮮攻撃が回避された原因の一つに日本の有事体制の未整備があげられるが、現時点での有事立法は、先制攻撃戦略を公言する無法なブッシュ政権にフリーハンドを与える恐れがある。「備えあれば憂いなし」はいつのまにか「攻撃は最大の防御」に変わってしまうだろう。
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追伸
政府は「備えあれば憂いなし」という抽象的なスローガンで、国民の中に「やはり戦争ができる準備は必要か」という漠然とした気分を作り出し、その上で具体的に北朝鮮の脅威を煽ることで有事法制が必要という世論を形成しています。北朝鮮問題については4月28日「声」欄の牛島宏助氏の「『脅威』抑止に重武装なぜか」が見事に反論しており、付け加えることはありません。
問題は「備えあれば憂いなし」という抽象的なスローガンから何となく有事法制が必要と思うことですが、5月23日「声」欄の佐々木二郎氏の「『備え』あって真の独立国家」には考えさせられました。有事法制によって「日本が真の独立主権として米国から乳離れする」というのは私の全く思いもよらぬ主張で、なるほどこのように思う人もいるのか、と自分のうかつさに気付きました。有事法制が(日本政府や財界の思惑もありながらも)米国からの要請で推進されていることは国民周知の事実だ、という錯覚が私にはあったのかもしれません。確かに政治・軍事・経済にわたって日本が米国の従属下にあるという現実から離れて、抽象的に考えれば、有事法制を整備することは独立主権を強化するように見えるかもしれません。
5月31日「声」欄の羽島尚子氏の「疑問がわいた9条の神聖化」にはさらに考えさせられました。この人は平和を願う真面目な気持ちから、憲法9条とそれを支持する人々とに対してなかなか説得力ある批判を展開しています。少なくとも私はこれに対して五百字で反論することは難しいと思います。
憲法9条は交戦権の否認と戦力の不保持というきわめてラディカルな原理を打ち出しており、確かにこれを基盤に平和を考えていくことは必要であり可能でもあると思います。ところが現実には日米安保条約と自衛隊があり、9条は空想的理想に過ぎないようにも見えます。そこから羽島氏のように突き詰めて考える人からは「理想ではあっても非現実的で信仰とも言えそうな考え方を、他人に強要できるのでしょうか」という言葉が聞かれます。一般世論では9条を支持するが、安保も自衛隊も賛成という矛盾がよく見られます。これは明らかにおかしいのですが、平和を願う気持ちから役立ちそうに見えるものは矛盾にかまわず何でも利用しようということかもしれません。
もちろん9条護憲勢力には一貫した平和の理念と運動があるのですが、常にその原理を打ち出して行くという単線的発想があるのではないかと気になります。現実には、理念と現実の矛盾、それを反映した世論の錯綜があり、それを背景として時々に具体的課題が問題になります。その際に常に原理から説得しようとするのでなく世論状況も勘案しながらもっと具体的次元で当面する課題に取り組む必要がありそうです。安保も自衛隊も賛成、場合によっては9条反対という人でも、平和を願うならば有事法制には反対ということはありうると思います。ブッシュの無法なイラク戦争を見た後ならば、有事法制によって日本がアメリカの侵略戦争に巻き込まれる危険が増す、ということが理解されやすいのではないでしょうか。
交渉によって北朝鮮を国際社会のまともな一員とすることができるならば、東アジアの平和的発展の可能性は大きくなります。現実にあわせて9条を変えるのではなく、9条にあわせて現実を変えていく道も見えてくるでしょう。それまで9条を守っていかねばなりません。そのためには時々の具体的課題の取り組みが重要であり、仮に有事法制が成立するようなことになっても、米軍支援法制への反対などが引き続いて闘われることになるでしょう。とにかく世論は重要です。それを的確に反映する「声」欄にはこれからも学ばせていただきます。