月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です。 |
2001年1月号
社会主義の見方のありがちな傾向が、かつての教条的な空言からシニカルな放言へと一転していく昨今、藤田勇氏の「20世紀の社会主義と21世紀への展望」は繰り返し熟読すべき理性的な論考でしょう。「ソビエト型社会・政治体制」の本質、共産主義者と社会民主主義者との違いの希薄化などあらゆる問題を考える上で必要なことが圧縮して提示されています。なかでも市民革命の時代から「新社会運動」の現代までが、自由・平等・民主主義の普遍的把握と階級的把握との関連の視点によって一貫して解明されているのが重要です。資本主義社会は商品経済社会という次元で見れば自由・平等な市民社会ですが、資本・賃労働関係を捉えれば不自由・不平等な階級社会です。従って市民としての自由・平等を実質化するためには階級闘争が必要です。逆にそれを担う社会主義の運動は市民的な自由・平等の普遍性を発展的に継承してこそ、その階級的利害を実現できるでしょう。市民運動と労働運動、また市民主義と科学的社会主義との共闘という課題がここにあります。
2000年12月14日
追伸
科学的社会主義の立場は現実的運動の次元ではできるだけ幅広い人々の結集に尽力しなければなりません。政策的には市民主義的立場との共通点があるのはいうまでもありません。いわゆる守旧派とか反動派の影響下にある人々も、グローバル化の悪影響を心配し、生活を守ろうという正当な要求から出発している点に注目する必要があります。「改革派」を名乗る新自由主義に期待している人々も自民党政治の行き詰まりを打開したいと思っているわけですから脈があります。
ただし理論の次元では立場を融解させることなく、科学的社会主義がアイデンティティを確立することが必要です。そうでなければ統一戦線の発展もないでしょう。
政策的には、新自由主義VS市民主義・科学的社会主義
ですが
理論的には、新自由主義・市民主義VS科学的社会主義
となるように思います。
資本主義をもっぱら商品経済として捉える点では市民主義も共通でしょう。確かに市場の暴走を批判し、人間の尊重を主張して新自由主義と厳しく対決しています。しかし搾取概念を認めて生産過程の社会主義的変革の展望をもってこそ、<市場-政府>論次元を超えられると思います。ただしこれは勉強不足による間違った決めつけかもしれませんが。
2001年2月号
昨年5月、私の零細古本屋のすぐ近所にブックオフが進出してきました。ただでさえ不振の売上はさらに悪化しました。なんと8月末に撤退!?しましたが、状況は悪化を続け店は人気ない倉庫と化し、遺憾ながら地域店としては失格状態です。ネット販売に活路を開くべく、作年末から全古書連による古書検索サイト「日本の古本屋」にデータを送り、名古屋の有志組織「古本長屋」で指導を受けながら自店のホームページを準備しています。死蔵してきた社会科学書が日の目を見るならば、古本屋としての本来の仕事の可能性が開けるものと、「IT」に小さな望みを託しています。
2月号のIT特集で、単に大企業の儲けのためではなく、すべての人々が安価に情報にアクセスできるなどのユニバーサル・サービスの重要性が強調されました(確かに私にとっても低コストで古書目録を提供できるのは重要です)。しかし現在のIT産業の非人間的労働を改善しなければ、そのような「民主的IT社会」は持続可能ではありません。J・ショアの「過剰労働と過剰消費の悪循環」は現代社会の一面を捉えており、ITについても野放図な便利さを求めた競争を規制することが必要でしょう。それは資本への規制だけでなく、私たちの生活の見直しをも含むものです。
2001年1月15日
2001年3月号
津田渉氏の「日本の株価と景気」は、米国株価の崩落・日本の景気低迷などを予想している。折しも2月8日、内閣府は昨年7〜9月期のGDP成長率を0.6%減と発表した。一次速報値の0.2%増からの大幅下方修正だが、設備投資の動向に中小企業も含めたことがその原因である。これによって景気の二重構造が明示されるとともに、大企業のリストラによる業績改善・輸出・公共事業という路線では景気全体を押し上げる力がないこともはっきりした。昨年拙文では、個人消費を犠牲にした「実感なき景気回復」が進みそうだとして、その可能性を否定するのは過少消費説的誤りであると主張した。しかし今回はその指摘は外れたようである。生産手段生産部門が資本蓄積を主導するという一般的な資本主義的拡大再生産像よりも、低成長期には設備投資よりも個人消費が経済を引っぱる(寺沢亜志也論文『前衛』昨年9月号)という関係の規定性のほうが強いのかもしれない。もしそうならば人間生活を重視した経済像への転換の歴史的必然性があるといえるのだろう。
2001年2月14日
2001年4月号
在日歴の長いドイツ人ジャーナリスト、G・ヒールシャー氏は、共産党を除く各党が失業問題を軽視している点を捉えて、「失業者に連体感のない」日本政治を批判しています。このように日本ではいまだに家庭も経済も個人的な「男の甲斐性」の問題に解消されているのが実態です。ところが角橋徹也氏の「オランダの男女平等社会実現へのシナリオ」によれば、このシナリオでは、アンペイドワーク(家事などの不払労働)の再配分は家庭内での個人責任ではなく、社会全体の問題として政策的に対処されています。ここには二つの問題があります。一つは経済の在り方であり、二つめは政策の在り方です。
日本では経済効率のために家庭が犠牲にされ、個人生活は希薄になっています。経済のために生活があります。オランダではよりよい家庭生活のために経済社会全体の在り方が改革されています。生活のために経済があります。ここでいう経済とは資本主義経済のことであり、日本は「ルールなき資本主義」であり、オランダは社会的に規制された資本主義です。まさに対照的な経済観があります。
経済法則と政策との関係において政策の積極的イニシアティヴが重要です。理想を描きそれを実現するシナリオを定めて積極的な誘導的政策を施行する必要があります。もちろん法則を無視した恣意的な理想では実現不可能ですが、「男女平等社会」というような本来人類社会が法則的に到達すべきでありながら、目前の様々な困難のためにそうなっていない課題については、助産婦的な政策があってしかるべきです。
内橋克人氏の名著『共生の大地』はそうした実験的政策の実践例と理論的考察の集大成であり、角橋氏のオランダ紹介もその系譜上にあるといえます。オランダモデルは角橋氏によれば「壮大なグランドデザイン」ですが、それが含む経済観・政策観は、構造的不況下の日本にとっても重要な意味があります。
株価の下落が続き、不況の深化が懸念されると決まって、「構造改革」の必要性の合唱となります。しかし不良債権処理や規制緩和などはやりようによっては、不況をますます厳しくすることになるでしょう。そもそも「構造改革」とは、多国籍企業を中心とした個別諸資本の利潤追求に適合するように国民経済と国家機構をリストラすることであり、独占資本の「壮大なグランドデザイン」を背景にしています。人間生活にとって逆立ちしたこのシナリオに対して、私たちは消費税の引き下げや福祉の充実など国民生活を擁護する逆方向の経済構造改革を実現する必要があります。それが単なる物とり主義ではなく新しい活力の有る経済社会像としての「壮大なグランドデザイン」の上に提示されねばなりません。「男女平等社会」モデルはその重要な一翼でしょう。他にたとえば地域経済と福祉を結合した森靖雄氏のライフ・エリア構想も有力だと思います。
高度成長期の延長的発想から、外需依存の輸出競争力を核とした1点突破型・階層的格差構造型国民経済から、生活重視をめざした有機的な内需連関型国民経済への根本的転換を描くことが(個人消費を重視した)当面の政策的対案にも説得力を持たせることになり、その際、オランダの経験は有力な例証となるでしょう。
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不況論議の中で、物価下落に関してデフレ論議が盛んです。内閣府はついに景気の現状をデフレと表現しました。しかしデフレとは財政・金融の引き締めにより通貨量が収縮して通貨価値が上昇して物価が下落することです。現在、国家財政は放漫であり、日銀も緩和政策を続けています。物価下落の原因は、安い輸入品、低下した消費購買力、その下での流通部門での値下げ競争などにあります。現状をデフレと認識することは、個人消費を温めるという不況対策に背を向け、インフレ政策に道を開くことになりかねません。
ここにはいかにも政府と独占資本の階級的偏向が有るといわねばなりません。しかしそれだけでなく、経済現象をその重層的構造から捉える科学的経済学と単層的にしか捉えない俗流経済学との違いも鮮明です。物価の上下運動を単純にインフレ・デフレと同一視することは非科学的で対策も誤らせます。
山田喜志夫氏の『現代インフレーション論』(大月書店、1977)では「インフレーション概念の明確化のために、好況による物価上昇とインフレーションとを比較考察し」ています(180ページから183ページ)。結論的には次のようです。
好況による物価上昇とインフレーションとは、両者ともに需給関係を介して生ずる市場価格の上昇である点では同一であり、現象 的には同一である。しかし、前者は価格の価値からの乖離の運動であり、価格の価値を上回る運動であり、したがって一時的であ ってやがて反転運動が生ずる。後者は価格の価値への一致の運動であり、したがって固定的なのである。
これを裏返せば不況による物価下落とデフレとの関係にも適用できるでしょう。
そもそも不換制にもとづく「管理通貨制」は恐慌をインフレで買い取るものでしょう。それはもともとインフレをビルトインした体制であって、そこでデフレが起こるのは、ドッジ・ラインのような悪性インフレ対策などの例外的な場合に限られると思います。個人消費の低下を放置したままでインフレ政策に進めば、悪性インフレの危険性とともに、(それが避けられたにしても)労働者・国民に犠牲が及ぶことになるでしょう。
2001年3月17日
2001年5月号
佐貫浩「今日の教育改革をめぐる対抗」は、教育問題に留まらず、社会科学全般に係わ
るイデオロギー問題に切り込んで多彩な問題提起に富む秀逸な論稿であり、繰り返し熟読
すべきものです。
新自由主義は政官財癒着構造の解体を唱えながら、資本による国民収奪の強化を目指し
ており、必然的にそこでは「改革」幻想を伴った議論の錯綜が見られます。さらに主流派
=新自由主義の周辺には傍流=保守反動の国家主義もまとわりつき、一層複雑になってい
ます。こうした中では、国民的利益をいかに守っていくかという観点を大前提にしつつ、
しかし単純な論理ではなく、一見対立する二つのものを統一的に見る、逆に一つのものの
中に二つの面を見る、といった視点が不可欠です。そうして初めて大前提が貫徹されるで
しょう。
教育問題でも、「日の丸・君が代」強制、歴史修正主義の教科書などに代表される国家
主義の攻撃と、学校選択論、学校スリム化論などの新自由主義の攻撃とが一見別々に加え
られています。佐貫氏は、新自由主義=「小さい国家」論では必ずしもなく、それが大企
業支援と軍事大国化という二つの国家主義を伴っていることを指摘して、両方向からの攻
撃を統一的に捉えています。
他にも、まず市場主義の土俵を設定することで、教育行政の公的責任を最初から見えな
くして、親・住民による批判をもっぱら学校・教師に向かわせる、という新自由主義の詐
術も洞察されています。しかも単なる批判ではなく、新自由主義を引き寄せる社会的土台
の変化にも目配りが利いています。
<学校選択の「自由」>と<校長権限の強化などの管理主義の強化>といった一見対立
する傾向も統一的に捉えられています。私はある意味でこれは、教育という公共的なもの
の中に資本=市場の論理が無遠慮に入り込んできた象徴だと思います。
資本主義的市場経済は社会的分業の無政府性と企業内分業の緻密な計画性とを統一して
います。それは「市場の自由と企業内の専制」として現れます。「学校選択の自由と学校
管理の強化」とはまさにその引き写しでしょう。本来の教育の公共性のもとでは、地域の
学校に通い、親も学校の運営に参加するというのが理想でした。そこでは市場の自由はな
いかもしれませんが、学校の中は民主的なものが目指されます。校長にお任せではありま
せん。
逆に図式的に言えば、「市場への規制と企業内の民主性」という社会主義経済の構造は
教育の公共性の論理に合致しています。資本主義的国民経済の中でも資本の論理が100
%貫徹しているわけではなく、公共性の分野は相対的な独立性を持っています。教育に資
本の論理を持ち込めばどうなるか。佐貫氏は底辺校の矛盾の深化が地域社会の崩壊を導く
ことを指摘しています。マスコミを席巻する新自由主義ではありますが、その論理の破綻
は教育など公共性の分野ではいち早く鮮明になるように思います。
まだ重要な論点がありそうですが、最後に学力問題について。佐貫氏は、大学生の低学
力について従来型の学習を強化するのではかえって矛盾が深まるとして、「日本型高学力
を実現してきた条件が同時に『学びからの逃走』を拡大してきた」と喝破しています。話
は変わるのですが、マルクス経済学を学ぶ際にも、受験勉強的偏向は抜きがたいものがあ
ると思います。学びから逃走しなくても、「苦役としての学習」にいそしんで「学習のリ
アリズムの喪失」となっている場合が少なくないのではないでしょうか。定石はただ暗記
してもダメで、その成立根拠を知り、自由に使いこなせてこそ意味があります(もちろん
ひとごととしていっているわけではありません)。今でいえば、マスコミが垂れ流す新自
由主義的な「改革」などの逆立ちした常識(それは生活や働き方への指南にまで及ぶだろ
う)をその論理の根底から、自分たちの生活に即した形でひっくりかえせる理論の力が一
人ひとりに求められています。
宮川彰「なぜ経済学を学ぶか−失業と賃金の法則をめぐって−」はそのような生きた「
学び」の助けとなるものであり、『経済』誌として今後是非充実して欲しい企画です。
アメリカ経済特集も大槻久志「日本経済の現局面をどうみるか」と合わせて、興味深く
拝見しました。その全体の中からアメリカ経済の強みと弱み、健全性と腐朽性とが大きく
浮かび上がってきました。ただ日米経済比較の視点からすると、農業問題を抜かせないと
思います。大規模農業の様々な問題点を抱えつつも強大な戦略的輸出産業として存在して
いるアメリカ農業に対して日本農業は壊滅寸前です。もちろん農業は今やリーディング産
業ではありませんが、いかに産業構造が「高度化」しようともその死活的重要性に変わり
はありません。日本経済の自立を考える際に必要な視点です。
大槻論文の最後にデフレ論批判がありました。賛成ですが、私としては以下に、貨幣論
と実体経済論との次元を区別する立場から、デフレと不況による物価下落とを区別した理
論的・政策的な単純モデルを提示したいと思います。
投下労働時間10時間の商品の価格の変化とその意味合いは以下のようになります。
不況の場合
10労働時間:10000円(価値通りの価格)
↓ 需要不足
10労働時間: 5000円(価値を下回る価格)
デフレの場合
10労働時間:10000円(価値通りの価格)
↓ 通貨量不足=通貨価値上昇
10労働時間: 5000円(価値通りの価格)
ここでどちらも商品への需給関係を通して価格が下落しますが、その意味するところは
全く違います。価値通りの価格とは再生産可能な価格であり安定的です。しかし価値を下
回る価格は再生産不可能な不安定な価格であり、需要の回復によってすぐに克服されるべ
きものです。今日の日本経済と国民生活の萎縮した状況はまさにこの状態です。財政・金
融が引き締められて通貨量が収縮しているわけではありませんから、当然そう見るべきで
しょう。
この不況状態で日銀のように物価下落を止めるためのインフレ政策を実施するとどうな
るでしょうか。
上の不況の場合におけるインフレ政策
10労働時間: 5000円(価値を下回る価格)
↓ 通貨量過多=通貨価値下落
10労働時間:10000円(価値を下回る価格)
*ここで価値通りの価格とは20000円
日銀のように単に物価を回復するだけの政策では再生産の萎縮は解決されません。やは
り実体経済そのものへのてこいれが必要なのです。
もちろん実際には貨幣的要因と実体経済とは複雑に絡み合っていますから、こんなに単
純にはいきませんが、労働価値論の視点から原理を分かりやすくあぶりだすとこのように
なるのではないでしょうか。インフレ政策に反対するには、現局面がデフレではないこと
をはっきりさせた理論的原則を提示する必要があります。
不況の打開には個人消費の回復が不可欠です。ところが一部に、この不況はむしろ正常
な状態であり、消費は飽和状態にある、とする議論があります。ここにはバブルへの反省
(あるいはもっと根本的には大量生産=大量消費型社会への反省)という問題意識がある
のでしょう。しかし250円の牛丼が飛ぶように売れるというような状況はとてもまとも
な消費状態ではありません。個人消費の疲弊は明らかです。いくら高邁な理想があったと
してもこのような社会を支持する人はごく少数でしょう。それはちょうど、ロシア革命後
のボルシェビキが戦時共産主義をもって本来の共産主義につながるものだと錯覚したのと
同じような誤りです。生活の萎縮した社会は決して持続可能ではありません。
では良き問題意識から出発したこの議論はどこで誤ったのでしょうか。バブル(あるい
は大量生産=大量消費、以下同様)の否定は不況、不況の否定はバブルといった対抗関係
で考えるのがおかしいのです。バブルも不況も「経済のための生活」であって「生活のた
めの経済」にはなっていない点では同根であることを見抜かねばなりません(ここで経済
とは実は資本というべきでしょう)。要するに人間的生活を作るために経済をコントロー
ルできるということが大切なのです。これは根本的にいえば、資本主義経済の二つの局面
を見て一喜一憂するのでなく社会主義経済に進もうということになります。もちろんそれ
が今日の具体的課題だというのではありませんが、今を批判的に見るためにはそうした観
点があるのが有利だと思うのです。
ただし消費については複雑な問題もあります。アメリカ資本主義を分析してジュリエッ
ト・ショアは過剰労働と過剰消費の悪循環を見い出しました。他方、上記のように不況の
日本では過少消費が経済のガンです。ではアメリカでは消費が過剰で日本では不足だとい
うことでしょうか。そうではないでしょう。逆の場合もあります。それではそれぞれの国
で階層別に過剰と不足が別れているのでしょうか。確かにそれはある程度いえるかもしれ
ませんが、貧乏人も携帯電話を持っていたりします。
資本主義経済ではそもそも様々な過剰と不足とが矛盾的に共存しています。ショアの洞
察は鋭いと思うのですが、現実は別の面も持っているようにも見えます。今日では古典的
貧困と生活の現代的病理が絡み合っているようで、単純な階層別の当てはめでは間に合わ
ないようにも思えます。その複雑な総体を明かにすることは、不況の克服や経済の健全な
発展にとっても重要でしょう。
2001年4月16日
2001年6月号
環境問題特集は理論から運動に至るまで豊富な内容になっています。
小松善雄「資本主義的生産と物質代謝・物質循環」では、マルクスの思想が通常考えられているような生産力主義的なものではなく「エコロジー的なアソシエーション社会主義」とされています。また「社会的総再生産過程は、人間と自然とのあいだの物質代謝と社会的物質代謝、さらに人間の自然的物質代謝を包括している」(P153)というマルクス再生産論の解釈も興味深いものです。
座談会では、日本の環境問題を技術主義的にではなく、大量生産・大量廃棄の日本型資本主義の矛盾として根本的に捉えることの重要さとともに、環境再生を地域再生として取り組む必要性が指摘されています。それを受けて傘木宏夫「環境再生に向けた各地の取り組み」は感動的な報告になっています。公害防止・被害者救済の課題だけでも大変だと思うのですが、本来の地域開発・環境教育などにつなげていく活動には敬服し、日本国民の未来を見る思いです。
早川光俊「環境NGOの現状と課題」では、環境NGOがすでに地球環境問題において不可欠の役割を果たしていることが生き生きと語られています。「国益や各国間の利害の対立から自由で、真に地球規模で考え、行動することのできる市民・NGOの役割はとりわけ大きなものがある。おそらく情報に精通し、自立し、行動する市民・環境NGOの存在なくして、地球規模の環境問題の解決はないと言ってよい」(P93)という言葉からはグローバルな変革主体形成論として大いに教えられます。ただし国益の対立と見えるものでも実は多国籍企業と各国民との利害の対立である場合が多いと思います。だから国民的に考えるか、地球市民的に考えるか、ということ以前に、資本の利益か、人間生活の利益か、という対立の方がまず土台にあるのではないかとも思います。
2001年5月15日
2001年7月号
小泉内閣の異常な人気の原因は様々ですが、その核は「構造改革」期待でしょう。なぜ「構造改革」に期待するかといえば、マスコミが「構造改革」はよいこと、せねばならないこと、として無批判的かつ系統的に国民意識に刷り込んできた成果でしょう。
「構造改革」受容の在り方は様々です。中味を知らないでムード的に支持している場合、中味を知った上で積極的に支持している場合、やむをえないと消極的に支持している場合などが考えられます。もっとも中味の理解も様々かもしれませんが。
従って小泉「構造改革」批判としてもそれぞれに対応する必要があります。まず中味を知らせること。焦点になっている不良債権処理が大量失業をもたらし、国民経済に打撃を与え社会をさらにすさませることを強調すべきでしょう。
話がややそれるのですが、大阪での精神障害者による小学生殺人事件も根本的にはこの観点から見ることが大切です。今もっぱら学校の安全性とか精神障害者の取締りとかに話題が集中しており、たしかにそれらは無視できることではありませんが、危険な管理強化論に流れる恐れがあります。加害者の状況を見ると、本人の特殊なキャラクターはあるにせよ、今日の社会状況の中で追い詰められていった様子(仕事・カネ)もうかがえ、この状況は弱肉強食の「構造改革」によっていっそう広がっていくでしょう。この殺人事件もカローシや保険金自殺と同じく今日の日本資本主義の自己表現だといえます。もちろんそのような一般論にすべて解消しようとは思いませんが、社会の安全性を究極的に支えているのは、誰もが安定的に働き生活できることであり、「構造改革」がますますそれを掘り崩すことに目を向けねばなりません。
「構造改革」の中味を知った上で積極的に支持している人は、今日の日本の学校教育や社会生活にはびこる競争至上主義の影響下にあります。ここでは社会哲学を議論する必要があるでしょう。新自由主義の推進するグローバリゼーションが結局何をもたらすかを訴えることが大切です。
中味を知ってあきらめて支持している人には、「構造改革」以外の道もあること、今日のグローバリゼーションの在り方だけが必然ではないことを知らせる必要があります。
私は新自由主義をブルジョア教条主義と規定しています。それは自由競争信仰を現代に受け継いだ空論だということです(ただしこの自由競争は独占資本の利潤第一主義の枠内にとどまるという点が大切ですが)。空論というのは、それが究極的には人間の生存権を否定しているから現実的でないという意味です。しかし人々の抵抗が不十分な限りでは、逆に大競争を通じて強力的に自己貫徹する現実主義として現象します。ここに「構造改革」論がはびこる根拠があります。これを打ち破るには本来の経済・社会の在り方を提示して、新自由主義的・グローバリゼーション的・「構造改革」的社会像を批判し、運動と具体例をともなった説得力あるオルタナティヴを差し示すことです。
グローバリゼーションの中で国民国家の租税基盤が浸食されるという問題は、新自由主義が「強力に自己貫徹する現実主義」に見える最大の難問のひとつでしょう。鶴田廣巳氏の「グローバリゼーションと法人税制」はこれに取り組んでいます。それによれば今日の税負担の国際的趨勢として、法人所得税が不変なのに対して、個人所得税・社会保険料・付加価値税が増大しています。法人税率は引き下げの傾向です。まさに大競争を通じて、各国民国家の政策として資本による国民大衆の収奪が行われています。
鶴田論文では、グローバリゼーション下の租税政策の危機が理論的に指摘され、日本の
企業組織再編成税制の紹介と批判的コメントが行われています。これで実態と理念はある程度理解できるのですが、対策となるとその困難さはわかっても、具体的方策は見えてきません。
小泉「構造改革」にしても結局はグローバリゼーション問題が主役です(「構造改革」をするのは国民生活のためではなく、資本が大競争に打ち勝つため)。上記のように国際的な税制の関連は日本国民の福祉にも影響してきますから、是非今後の解明が求められます。
2001年6月15日
2001年8月号
過労と暑さのせいか、せっかくの諸論文も字面を追うだけで内容が頭のなかに入ってきません。
竹中経済財政担当大臣は、日銀に量的緩和政策の一層の推進などを求めています。「不良債権」処理などの「構造改革」の断行による不況の深化の尻拭いをさせようというのでしょう。この方策の前提になっているのが日本経済の現局面をデフレと規定する見方です。実体経済の低落による物価下落をデフレとみなし、ひるがえってインフレ政策の導入で物価を上昇させれば、小泉「構造改革」による不況の激化を多少は相殺できると見ているのでしょう。
しかし建部正義氏の「デフレ問題と日銀の量的緩和政策」にあるように現状はデフレではないし、金融政策に過大な期待を抱くことはできません。実体経済への梃入れの代わりにインフレ政策に進めば、不況下の国民生活の萎縮状態を温存し、さらには悪化させ、経済の底堅い立ち直りの芽を摘みます。最高に首尾良くいったとしても大企業の利潤をそれなりに回復して国民には「実感なき景気回復」をもたらすのが関の山でしょう。最悪の場合には日本発小泉世界恐慌の可能性も否定できません。ま、いずれにせよ「構造改革」で非効率部門を淘汰して日本資本主義の生産性を全体として上げたところで、その結構なモノやサービスを消費すべき人々の所得がなくなっているのですから、再生産の停滞は避けられません。したがって最良でも最悪でも中間でも明るいシナリオはありません。机上の空論の経済政策を止めてもらうしかありません。
<サービス残業(過剰労働)とリストラ>セットは資本の法則の過剰貫徹として表裏一体であり、日本資本主義の象徴です。ここに資本への規制という暗転ならぬ明転の処置を施せば<ワークシェアリング(適正労働)と雇用安定>セットという逆の表裏一体が現われます。
「高コスト構造」論的見方のもとでは、低所得者が安い輸入品を支持し(したがって発展途上国の低賃金労働や児童労働を結果的に支持し)、日本の農民や中小業者などの非効率的な生産者を非難します。グローバル化の下ではこうしたメンタリティが定着し弱者同士の矛盾・対立が構造化しています。内橋克人氏の『共生の大地』には発展途上国の製品を買いたたかない公正貿易の運動が紹介されています。弱者にとっての悪循環から脱するにはそうしたグローバルな発想の転換で自らの生活を見直すことが必要な時代です。足の引っぱりあいでなく、みんなが仲良く向上できる道を求めたいものです。もちろんそれを精神主義的にではなく無理なくできる方法が必要ですが。
上の二つのことは、同じ資本主義社会を見るにしても、ゲシュタルト・チェンジのような逆の像があることを示しています。残念ながら今のところ、グローバル化・大競争・規制緩和・「構造改革」という新自由主義的経済像がポジであり、経済民主主義的経済像はネガとして人々の眼には見えにくくなっています。見えているはずでも気付かれないというところでしょうか。それをわかりやすく説明する科学としての経済学の出番です。
2001年7月18日
2001年9月号
松本朗氏の「日銀の量的緩和政策とインフレーション」は今日の焦眉の課題に対して、歴史を踏まえながら理論的解明に挑戦した力作です。
まずマルクス経済学の観点からインフレーション概念を規定した上で、通俗的用語法にも配慮して両面から「調整インフレ」の意味と帰結を考察しているのが適切です。結論的には調整インフレ論者が前提する外生的通貨供給論は誤りであり、内生的通貨供給の観点からみれば、日銀の量的緩和政策によっては、マイルドな景気回復もできず、インフレ(通貨減価)によって物価下落を阻止することもできないことになります。
三月の量的緩和政策への転換以後も物価下落に歯止めがかからない理由として、松本氏があげるメカニズムは逆説的です。普通、国債の増発はインフレの原因となりますが、日本資本主義の現局面では、不況・低金利・国債市中消化という縮小均衡的再生産構造下で、国債がインフレ・マネーを吸収する役割を果たしています。ベース・マネーの伸び率の乱高下に示される政府・日銀の金融政策の迷走にもかかわらず、これによって奇妙な均衡が続いているということでしょうか。もちろんこれは問題の先送りにすぎず国債暴落の爆弾を抱えているわけですが、松本氏はその分析は今後の課題としています。
するとインフレ・マネーの投入という「非論理の貫徹」によっては政策目的を果たせず、潜在的危機を拡大するだけということになります。もちろん危機の爆発は防がねばなりませんが、不況下の縮小均衡自体も問題です。バブル期にも今日と対蹠的に、金融緩和下のインフレ・マネーを土地や株などが吸収して物価安定と資産バブルが並立する、いわばバブル的均衡がありました。バブル的均衡も縮小均衡も実体経済自体の歪みの反映でしょう。
「調整インフレ」が仮に物価維持などの政策目的を達したとしても、基本的にはまずは再生産の実質的縮小を名目的に糊塗し、次いで実体経済への影響にしても階層格差的に作用することになります。実体経済への対策を欠いた政府・日銀の経済政策は偏在マネーが経済を撹乱するカジノ資本主義の手のひらの上での右往左往にすぎません。国民所得の六割を占める個人消費を真に国民経済の中心とする=生活を豊かにする重層的な内需循環的な経済の在り方(資金循環を含めて)を確立することこそが、歪んだ経済と経済政策への根本的代案でしょう。
2001年8月17日
2001年10月号
今日の物価下落と日銀の量的緩和政策をめぐって、8月号・建部正義論文、9月号・松本朗論文そして10月号・前畑雪彦論文(「現代貨幣論 貨幣数量説・金廃貨論批判とインフレ・デフレ論」)と、だんだん理論的に下向してきました。こうして政策批判も近代経済学への根源的な理論批判に基礎づけられたということでしょうが、何分にも難解で私の手には余ります。通貨管理は為替管理と信用管理との統一ということを起点にまた上向的展開を期待したいところです。
前畑論文では、貨幣の価値尺度機能を重視することで、通俗的な「商品数量=紙幣数量」という「実物対実物」等式の表象を批判的に分析して、その底にある「商品=観念的金=実在的金」という観念的等式と実在的等式との二重等式を明らかにしています。それを出発点として展開される、マルクス経済学の通説的インフレ論への批判をも含む論文の全体の理解はとても困難です。そこで現状分析との関連で、私の問題意識を述べるにとどめます。
論文の95・96ページにかけて価格メカニズムによって需給均衡価格としての価値が成立することが説かれ、続いて、価値尺度機能は「価値法則が自己を貫徹するための必然的な外的条件として、商品の価値に価格を付与する機能なのである」とされます。
日本経済の現局面において「価値法則の貫徹」がどうなっているかが問題です。「需給均衡価格としての価値」概念が必要なのは、それが再生産を保証するものだからでしょう。近年の物価下落の原因としては、労働生産性の上昇・輸入品の低価格・需要不足があげられます(通貨不足=デフレは原因とは考えられません)。このうち前二者は商品価値自体の低下をもたらしますが、最後の需要不足は価値と価格の乖離(価値以下の価格)をもたらします。問題は価格低下によっても需要が回復せず従って価格も回復しないことです。
そもそも価格メカニズムという静かな均衡化による価値法則の貫徹は単純商品生産の論理次元でいえるものです。資本主義的商品生産では価格メカニズムだけでなく、恐慌という暴力的均衡化をも含む産業循環の全体によって、価値法則は貫徹されます。ならば今日の需要不足の固定化は不況局面によるものであり、好況への移行によって解消されるといえるでしょうか。このような循環的要因は当然あるでしょうが、それだけでなく景気循環を超えた構造的要因もあるのではないかと思われます。
グローバリゼーション下の大競争とリストラによる労賃低下がその構造的要因の中心ではないでしょうか。発展途上国の低賃金労働との競争下にある今日、人件費は最大のコスト要因として扱われその削減は(企業利潤の増大もありうるが)商品価格の低下に結実します。他方、リストラ・不安定就労による所得減は需要不足の最大の要因でしょう。
労賃は労働力の価値であり、それは結局は労働者家庭の一定水準の消費生活を維持するのに必要な諸使用価値バスケットの価値です。一方ではこのバスケットの一部が安価な輸入品に代替され、他方では「おかずを一品減らす」とか「旅行は近場にする」などバスケットの中味自体が軽くなっています。前者は労働力の価値自体の低下を意味し、後者は労働力の価値以下への労賃の低下を意味します。このように今日の労賃低下では、労働力の価値自体の低下とそれ以下への労賃の低下とが相携えて起こっているのです。もっとも国民経済的観点からは、労働力の価値低下をもたらす安価な輸入品は、国内生産者の所得を奪うことによって、労働力の価値以下への労賃の低下と、購買力低下による物価下落の原因ともなります。
大競争の圧力などによって労働力の価値以下の労賃が固定されれば、それが新たな低水準での労働力の価値となってしまいます。それはまた需要不足を固定し、それに基づく価値以下の価格が新たな低水準の価値になってしまいます(投下労働をあがなえないものを価値とは呼べないのかもしれませんが、現実にはそれが均衡価格として需給の中心にあるならば、労働価値はそのように社会的に評価されたとしか言いようがないのでしょう)。資本主義的生産における価値法則は、一産業循環を通して、一定水準の内容を持った社会的再生産を保証するような価値体系を形成するものでしょうが、構造的圧力の下でこの社会的再生産の内容自体の劣化=人間的生活の貧困化を基礎とした低水準の価値法則へとシフトダウンしてしまうように思えます。このままでは産業循環を一つひとつ経過するごとにシフトダウンしてしまうようです。国際的な階級闘争による人権の確立を通して価値法則のシフトアップを勝ち取らねばなりません。大変なことですが。
以上では主に需給不一致という日常的変動の固定化による構造的問題を扱いました。以下では需給一致を前提にした問題を扱いたいと思います。
インフレ・デフレの問題を扱う際にそれを物価変動と同一視して、従って物価指数の量的変動でインフレ・デフレを定義することが一般に行われています。これは通貨価値の問題と商品価値ならびに商品需給の問題とをごちゃ混ぜにして、物価の上下を即通貨価値の上下とする誤りです。
物価指数は物価の変動を表わしますが、それは需給の問題を捨象すれば通貨価値だけでなく商品価値の変動からも影響されます。
物価変動率:P 物価上昇: P>1
通貨減価による通貨表現価格変動率:M インフレ: M>1
生産性上昇による諸商品価値変動率:C 生産性上昇:C<1
とすれば、Mはインフレ(通貨減価)によって商品価格が上昇する(あるいはデフレによって商品価格が下落する)ことを表現し、Cは生産性上昇によって商品価値が下落することを表現します。関係は
P=MC
M=P/C
となり、物価は通貨減価によって上昇するが、その上昇率は、生産性上昇による商品価値下落によって緩和されること、逆に言えば生産性上昇下においては、物価の上昇以上にインフレは進んでいることを現わしています。
たとえば10年前に物価が100、商品価値も100、現在は物価が200、商品価値が50という場合、
P= 200/100 =2
C= 50/100 =0.5
M= 2/0.5 =4
P=MC → 2=4×0.5
となります。
ところで10年前に物価が200、商品価値も200、現在は物価が160、商品価値が100という場合は
P= 160/200 =0.8
C= 100/200 =0.5
M= 0.8/0.5 =1.6
P=MC → 0.8=1.6×0.5
となります。
これは物価下落の下でもインフレが進行していることを現わしています。もちろん恣意的な数字を入れておりますので、現実性は主張しえないのですが、理論的にはそういうこともありうるということです。
安い輸入品による消費の代替も価値的には生産性上昇と同じ効果になりますから、今日の物価下落における商品価値自体の低下の占める位置はそれなりに大きいと言えそうです。その他に、需要不足による商品価格の価値以下への低下の問題、日銀が市場にじゃぶじゃぶになるほどマネーを供給していることをも考え合わせれば、物価下落を即デフレとみなしてインフレ政策を施すことは誤りであるように思われます。
いずれにせよ現状分析としては現実の経済数量を扱わねば説得力がありませんが、私としてはその基礎理論の一部について思うところを述べてみました。掲載論文の内容はほったらかして自分の思いつきばかりを並べて失礼しました。わずかでも意味があればよいのですが…
2001年9月16日
2001年11月号
先日知人より次のような意味のメールが届きました。
-----ネット上でアマゾンが送料なしで書籍販売を行っており、申し込んだらすぐに届いた。この上アメリカのように割引販売ができたらもっといいのだが------
とにかく安く早ければいい。消費者の立場としては確かにそういうことかと…。しかし新刊と古本という業種こそ違え、業者の立場とすれば大変な脅威です。大資本ならば確かに運賃を最低限に押さえることは可能でしょうが、ただというわけにはいかないでしょう。それを無料にするというのはダンピングです。有無を言わさぬ体力勝負で小さいものは押つぶすということです。グローバリゼーション・規制緩和下の競争の姿を身近に実感できます。「構造改革」の目指すものはこれでしょう。
ここには中小零細業者の生存権の問題があるのですが、それは消費者利益に反するという声も聞こえてきそうです。しかし消費者はそれでいいのだろうか。大資本だけが生き残るということは市場の多様性がなくなることではないだろうか。確か「生物多様性条約」というのがありますが、市場も一定の棲み分けを可能とするルールを設定して多様性を維持することが必要ではないでしょうか。
古本業界にはすでにブック・オフなどの新古書の量販店が進出して、未曾有の大不況とも相まって、大方が個人ないし家族営業の既存の零細店は大打撃を受け、廃業も続出しています。コミック・文庫・雑誌などの類、いわゆる雑本(その中味の高低は個々に様々でもあるし、人が生きていく上でエンターテインメントは大切な要素であることを考えれば、このような十把一からげの蔑称を使うべきではないかもしれません。しかし現実にはそのように総称しています。俗悪としか言いようもないものがけっこう多いこと、それにやはり学術書などのより文化的なものを本来は扱いたいという気持ちが、古本屋たちをして雑本という言葉を使わしめているようです)の市場は量販店に奪われました。まあこれは無理もない。とうてい太刀打ちできない。だからといって量販店に止めろというわけにもいかない、というのが商売人の意地でしょうか…
弊店もそうなのですが、専門店に特化する才能も資力もない零細古本屋の多くは雑本で一定の売り上げを確保して、余録としてささやかなそれぞれの志を果たす商品を扱ってきたのです。今はこの売り上げの土台の部分をはずされてしまいました。それぞれの志の部分が市場の多様性を形成しているのですが、これまでそれが存在可能だったのは土台があったからです。廃業を避けるためには土台再建の努力をするか、志で勝負するかです。
昨年5月に弊店のすぐそばにブック・オフが開店しました。ただでさえ減少していた売り上げはさらに打撃を受けました。ところがなんと8月末に撤退したのです。わずか3ヵ月余り。しかし弊店の売り上げは回復せず相変わらず坂道を転げ落ちています(「ブック・オフが来たから大変だ」と言っていたですが、「ブック・オフでさえダメな所でやってるんだから大変だ」と言い訳を変えております)。G-W-GとW-G-Wの違いです。剰余価値を目的とする大資本はダメならさっさと止めればよい。使用価値と生計を目的とする零細業者は本と店にしがみつきます。もっとも、正確にいえば、W-G-Wにおいて目的としての使用価値(終わりのW)は生活手段であって、古本屋にとっての本は(初めのWだから)この所得の流通範式の目的ではありません。しかし資本と違って生産(営業)対象のフレクシビリティなどとは無縁な零細業者は自己労働の所産としての特定の使用価値にもこだわるのです。このそれぞれの独断と偏見こそが結果として市場の多様性を支えています。
こうして私には雑本の売り上げの回復は無理だと思って専門書に力を入れています(といってもこの才と資では…)。幸いにして東京古書組合が運営し、全国の組合加盟店が参加できるインターネットの古書検索サイト「日本の古本屋」が立ち上がっておりました。これだけがわずかな希望です(組合のありがたさ!)。北村洋基氏の「IT革命と日本資本主義の課題」によれば日本でBtoCに過剰に期待することは誤り(174ページ)ですが、弊店では今年からネット販売に本格的に取り組みはじめてすでに店売を抜きました。といって決してアメリカのように「先進的」なわけではもちろんなく、店売が壊滅的であることの結果に過ぎません。両者合わせてもかつての店売の半分前後です。残念ながらまだ「焼け石に水」状態です(店売の数倍の労働を投下してもなお…)。しかしまあ弊店の可能性はわずかにここにしかなさそうです。
「構造改革」は金と労働力を非効率的分野・企業から効率的なそれへ移動することですが、これは、一方では上に見たように市場の多様性を喪失させ、他方では一見安価で豊かで便利な消費生活と引き替えに労働を非人間的にし、生活から余裕を奪います。
この労働の非人間化は、価格破壊とともに進む構造的な労賃破壊を基礎とした「価値法則のシフトダウン」によって促進されると思います。価値法則によれば商品の価値は社会的平均労働によって規定されるのですが、これは自由競争段階で産業循環を捨象した平均的次元において成立します。独占段階にあり、不況・労賃破壊によって構造的に需要が縮小していく今日では一部の優越な供給者によってその需要の大半をカバーすることが可能になります(いわゆる独り勝ち)。ここでは社会的平均労働は駆逐され、上層の「効率的労働」だけが生き残りこれが商品価値を規定するでしょう(こうしたことは独占価格論で議論されているのかもしれませんが不勉強ですので独断で言っております)。そして今日の「効率的労働」とは科学技術の発達による生産性の向上であるよりも(もちろんそれもあるが)、リストラ・サービス残業などによる労働強化を主要な内容としているのではないでしょうか。そうした労働強化を規制して人間的労働を前提するほうが科学技術への正常なインセンティヴを提供するでしょう。
思いつきで論理次元も錯綜しているかもしれませんが私はそのように考え、「構造改革」に人間的労働を対置することには価値論的意味もあると思っているのです。
米田康彦氏は論文「日本資本主義の構造と動態」において現状分析における経済理論の復権を提起され、それをコンパクトに展開されています。その中でも特に新古典派理論の復興には現実的基盤はない(「情報化による完全競争への逆流」はない)ことを明らかにされた点、経済成長の実現のためにはワークシェアリングによる剰余価値率低下の下でも経営者が投資を増加させるような決定態度の変更が問題の要点である点の強調が印象的でした。
三島徳三著『規制緩和と農業・食糧市場』への河相一成氏の書評では重要な理論的問題提起が行われています。ひとつには、国家独占資本主義による公的管理を階級的観点からどう見るか、について市民的公共性(自治)と公権力の公共性(支配の論理)との対立と吸収という論点です。もうひとつは、市場を商品流通の場だけでなく生活過程の場としても捉えて市民的公共性の側へ取り戻すという論点です。これらは支配層内の既得権益派とも市場原理主義派とも対決し国民が主人公になっていくという現実的に重要な課題に大いに関連があります。また理論的には私見によれば、それらは商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との関連(それをつなぐ論理としての領有法則の転回)、あるいは法的には市民法と社会法との関連を今日の情勢の中で考えていくことにつながるように思います。
2001年12月号
アメリカ流のグローバル化に対抗して、日本国民の生活を守りつつ、アジア諸国との協力友好関係を前進させることは、これからの日本の政治経済上の最重要課題です。その際に、低労賃などを武器とする中国などの競争力の前に日本産業の空洞化が進んでいることが最大の難問として立ちはだかっています。
これに対して、経済史・アジア経済論の小林英夫氏は、日本が生産基地としての魅力を取り戻すための具対策を提起しています(「朝日」11月13日「私の視点」欄)。そこでのインフラ改革での個々の提案などには妥当なものもあるでしょうが、基本的視点には同意できません。中国の労働力状況などの「大競争」的現実をそのまま前提した上で、資本への規制の観点はなく、逆に法人税引き下げなどの新自由主義的アプローチになっています。確かに現実の経済法則の作用を軽視すれば、歪みが生じますが、かといってその作用を野放しにして、「高コスト構造に対する構造改革」型の発想では国民の生活と営業を守ることはできないでしょう。ただしこれは私の勉強不足のせいでしょうが、国民の生活と営業を守りながらアジア諸国との協調を実現して行くような具体的提案を知りません。農産物のセーフガードの問題にしても、その発動によって日本農業を守ることは必要ですが、その先の見通しはわかりません。問題は農業に留まらず、製造業全体に及ぼうとしています。進行する産業空洞化と新自由主義的対策に対抗するオルタナティヴの提示が求められます。
この問題への具体的なオルタナティヴではありませんが、日本経済の行き詰まりからの脱却への中長期的見通しとして内橋克人氏の発言は参考になります。
ほどほどの成長は可能です。それを実践しているモデルは世界にたくさんあります。「浪費なき成長」です。市民参加型の資本主義へ向けて変わらざるを得なくなる。競争セクターと共生セクターが並び立つ多元的経済社会ですね。それこそ人類の望みであり、必然でもあると思います。 「朝日」11月14日
私は、もはや経済の問題は経済の枠内で処理はできないのですから、社会のあり方を変えることによって処理する以外にないと思います。つまり、象徴的にいえば「企業がつぶれても人間はつぶれない社会」につくりかえていくしかない。
たとえば、食料(F)、エネルギー(E)、ケア(C)の地域での自給自足の権利ということを私は言い続けています。実際それを実行しようとしている地域も増えてきました。
そういう社会への転換を軽視して、いまのマネー資本主義への追随によって、スムーズによりスピーディーに従来型景気回復を、と叫び続けるなら、いよいよ日本は人間にとって生きにくい社会へと突進していくほかにないのではないか、と思います。経済栄えて社会は滅びる、という……。
内橋克人・金子勝「米同時テロ以後の世界経済 マネー資本主義こそが問題の核心」
『世界』11月号 81、82ページ
マルクス経済学の研究者は現状に対して生産力主義的発想から新自由主義と同様な「現実主義」的政策に進むのではなく、逆に内橋氏のこうしたグランドデザインを理論的に基礎づけ、政策的に具体化していくことが求められるのではないでしょうか。内橋氏は主に生活者・小経営などの観点から問題提起しているようですから、大資本の達成した巨大な生産力をどう批判的に継承し、国民経済の中に生かしていくか(競争セクターと共生セクターとの編成の在り方)、また、アジアと世界の中で日本経済がどうあるべきか、についての変革的政策提起が必要でしょう。さらにそこに労働価値論による一貫した基礎づけが求められます(最近の「デフレ」論議などでいっそうその感を強くしました)。
資本主義の現実は「生活のための経済」ではなく「経済のための生活」であり、その忠実なイデオロギーとしての新自由主義は従って資本の現実主義として一貫しており、人間の労働と生活の観点からは一貫して逆立ちしています。そこでは資本の利潤と蓄積に関する経済指標が独立変数であり、労働と生活に関する経済指標は従属変数として現われます。資本の戦略への障害はすべて取り払われてあくまで最大限に自由であるべきであり、人間の労働と生活はそれに合わせて限りなくフレクシブルであるべきだ、となります。決して自主的にフレクシブルであるわけではなく、資本に合わせてフレクシブルにさせられているのですが、この全体を自由と感じるような疎外された経済主体の「自発的」労働のイニシアティヴの下にその他の非自発的労働を糾合して、ますます人間を圧迫する実体経済がつくられます。それだけでなくこの実体経済の果実を、情報=金融的詐術によって吸い上げるのが今日のアメリカ流グローバル資本主義=マネー資本主義です。
マネー資本主義の問題はとりあえず措きます。資本に対する人間の無制限なフレクシビリティを許さず、健康で文化的な最低限の生活を確保することが私たちの出発点です。経済と社会の仕組はそれに合わせて改革されねばなりません。これは資本の原理に反することでありその現実主義から非難されますが(石川康宏氏の「竹中平蔵氏の『経済理論』の批判的検討」に見る竹中氏の立場はまさにこれです)、それに抗して資本主義経済の中に生活者の現実主義を組み込んでいくしかありませんし、労働者階級の闘いはそれを実現してきました。
医療や社会保障の問題はもともと資本や市場の論理にそぐわない(小池晃氏の「小泉流『改革』は日本の医療を根本から破壊する」によれば厚生労働省も「医療は……すべての国民に公平に提供されなければならず、営利にはなじまない」としている)ものですが、今日ではそれをも無理やり経済的にフレクシブルなものとして処理しようという、ブルジョア教条主義むき出しの新自由主義の攻撃がかけられています。この攻撃の具体的な論理とそれへの反論は横山寿一氏の「医療の『民活化』にみる『改革』の構図」に展開されていますが、より原理的な問題については工藤恒夫氏の「社会保障はどうつくられたか」が参考になります。
工藤氏は、「自助」原則とは決して歴史貫通的なものではなく、他でもなく資本主義の生活原則であり、その実現の物的条件として雇用と適正な賃金の保障をあげています。そして現実の資本主義の歴史では「自助」原則は破綻し、労働運動が高まるという、経済的・社会的必然性から、「自助」原則を修正して社会保障が導入されたことを解明して、政府を批判する論者までが「自助」をいうことに釘を刺しています。
話の本筋からははずれるのですが、資本主義に対して社会主義社会での生活原則は「社会責任」であるとされます。今日でもキューバでは医療と教育が無料でありこれは重要なことだと思います。しかしソ連崩壊による社会主義へのマイナスイメージからは、生活原則としての社会責任も何か不自由なものであり、逆に有産階級に適合的なイデオロギーである「自助」原則こそが自由の実現であるかのような意識が生まれています。介護保健が措置制度を排したことをもって一面的に美化した一部の市民主義者などにそれが見られます。もちろんかつての「現存の社会主義」における「社会責任」が本当の意味では実現されておらず、おそらく官僚的で市民の自発性を抑圧するものであったことも問題なのでしょう。
今日、発達した資本主義国においても社会主義革命を直接目指すことは現実的ではありません。そこから資本主義に対する批判意識の弱まりが見られます。しかし以上に見たように資本主義とは本質的には人間の生存権を否定するものであり、医療や社会保障に限らず、生活を守るためには資本の法則に対する異議申し立てを続けなければなりません。これは一見すると反生産力的であり、そのことをもって歴史の法則=社会進歩に逆行すると見る向きもあります。しかし今日的生産力=「効率」の多くの部分はリストラ・サービス残業などによっています。これほどまでに労働と生活の状態が資本の従属変数であることを拒否し、独立変数とまではいわなくてもせめてまともな定数に留まることが必要です。そのような定数を前提にした上での生産力発展でなければなりません。人間を削ることを前提にした現実主義に陥らずに、具体的に可能なオルタナティヴの提起が求められます。
2001年11月18日