月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2011年1月号〜8月号)

                                                                                                                                                                                   


2011年1月号

         新興諸国発展の世界史的意味

 12月16日、菅内閣は2011年度予算編成の基本方針と同年度税制「改正」大綱を閣議決定しました。その中で法人実効税率の5%引き下げを盛り込んでいます。賃下げ・リストラなどによる大企業の過大な内部留保の蓄積こそが、まともな国民経済の再生産を阻害することによって、今日の日本経済の最大の癌になっているという時に、まさにこれ以上ない「タイムリーな」愚策です。しかも政府としては、投資や雇用の拡大に法人税率引き下げが資する、という大義名文を掲げているにもかかわらず、経団連などはまことに率直にそんなことは約束できないとしています。いわく「資本主義でない考え方を導入されては困る」。これは今日の日本資本主義の本質を表明した至言といえましょう。「資本主義でない考え方」というのは計画経済とか政府による規制とかを指しているのでしょう。つまり経団連は、(「善意」に解釈すれば)資本主義は市場経済によって雇用(という搾取形態)を維持するのであり、政府の指図は受けない、という「気概」を示したともいえますが、(実際のところは彼らの信仰する)市場経済によっては、まともな雇用など維持できない、お手上げだ、と告白しているのです(というよりも、だからどうした、と開き直っているのか)。だったら資本主義などやめたほうが人間のためになる。平野喜一郎氏の以下の指摘にはまったく同感です。

-------------------------------------------------------------------------------

 動機がどうであれ、資本主義は社会的な生産力を、これまでのどの社会とも比較できないほど、飛躍的にたかめました。社会的な生産力の飛躍的向上は、人間を勤勉にし、非合理的搾取を合理的搾取にかえたことなどとともに、資本主義の進歩的な歴史的役割です。資本主義は積極的意義をもって歴史に登場し、人類の歴史がどうしても通過しなければならないひとつの段階でした。ところが現在の資本主義は、一方で、最大の生産力である労働者を窮乏化させ、かれらの心身を破壊し、大量の自殺に追い込み、他方で、資本家を生産的な階級から、金融ゲームにふける不生産的階級に変質させています。そのことは、資本主義がすでにその歴史的役割を終えたことを意味しています。役割を終えたシステムが退場しないで居座っていることが社会にさまざまな矛盾を噴出させているのです。

   「入門講座『資本論』を学ぶ人のために」第4回 141ページ

-------------------------------------------------------------------------------

 とはいえこうした理解は世間一般では通用しないのが現実でもあります。そこで21世紀が資本主義から社会主義への移行の時代だということについて、いろいろと考えてみたいと思います。

 緒方靖夫氏の「世界の新しい流れをどうつかむか」では、まず将来に悲観的な欧米と明るいアジアとを対照させています。中でも「ASEANが世界の大国を呼び寄せるという構図」(17ページ)を指摘しています。これは「拡大する市場としての魅力や政治力の発展を含めた、アジア全体の力がもたらした現実」(同前)です。緒方氏はASEANの様々な努力を紹介しつつ「ASEANが求心力を高めた契機の一つとして、一九九七年のアジア通貨危機を克服したことが非常に大きな要因になっている」と述べています。当時、IMFに従った諸国が失敗したのに対して、反旗を翻して日米欧などから「金融鎖国」などと揶揄されたマレーシアが成功し、後にIMFが自己批判せざるをえなくなりました。「この事実が非常に大きな影響を与え、アジアに自信をもたらしました。また、国づくりは自分の頭で考えるという重要な教訓となりました」(18ページ)と緒方氏は総括しています。

 新自由主義グローバリゼーションを推進するというのが、多国籍企業の母国である先進資本主義諸国の姿勢でしょう。今次世界恐慌によってこの路線は大きな打撃を受け、一定の修正の動きはあるとはいえ、資本は立て直しを図っています。日本の菅政権などはまったく財界に忠実ですし、アメリカのオバマ政権も、中間選挙の敗北に見られる保守化の波に抗することは難しいでしょう(佐藤学氏によれば、もともとオバマの大統領選挙勝利そのものが金融危機による一時的な世論の変化によるもので、それは決して世論の構造変動ではなく、レーガン以来の新自由主義支持の基調は変わっていない。「自らの『成功』のツケを払わされたオバマ大統領」『世界』2011年1月号所収)。かつての中南米諸国など一定の発展途上諸国はこの路線に従属していました。西欧福祉国家は(労組や市民運動などの影響もあって)いくらかの批判的姿勢や独自の国内政策をとりつつも基本的には同調しています。これらに対して世界社会フォーラムなどに代表される左派的なオルタナティヴを掲げて正面から対決する勢力があります。これは国家権力を握ってはいませんが、現在の中南米のベネズエラやボリビアのような一部の左派政権はそれに近いといえます。中国やASEANなどのアジア勢はいわば第三の道であり、新自由主義グローバリゼーションに乗りながらも「国づくりは自分の頭で考える」姿勢です。東アジアではもともと開発独裁型の国が多く、新自由主義とは相入れないところがありましたが、グローバリゼーションへの対応の過程で、政治的民主化の進展とともに経済的にも新自由主義政策に近づいていったといえましょう。しかしアジア通貨危機で、IMF型の金融自由化や緊縮政策の失敗に直面し、あわせて米国市場とドルへの依存の危険性も痛感されて、アジア域内経済連関の充実など独自の方向性がよりいっそう追求されるようになったといえます。新自由主義グローバリゼーションという世界経済的環境は否定せずに、その市場で生き残っていくべく新興資本主義工業地帯として発展しているのだけれども、国民経済建設としては新自由主義とは一線を画する路線として捉えられるように私は思います。外資導入と輸出で発展してきた地域ですが、最近は内需が重視されるようにもなっています。

 緒方氏は中南米については、対米自立過程を中心に語っています。かつての武装闘争路線を脱して、選挙による政権交代によって、そうした変化が実現してきたことが注目されます。この流れが大陸規模になる上で、ニカラグアの経験が特に重要だというのです。武装闘争で1979年に独裁政権を打倒したサンディニスタ戦線のオルテガ大統領が、1990年の選挙で敗れたときに大方の予想を裏切って潔く下野し、サンディニスタ軍によるクーデターの企みも抑えたことが非常に大きな衝撃を与えました(24ページ)。武力によらず、あくまで国民の意思に従う確固たる姿勢を示したのです。そのオルテガ氏が2006年の大統領選挙で劇的なカムバックを果たしたことは、民主的選挙を通じた政治変革への確信をますます強めたのでした。個人的な感慨をいえば、1989年の東欧社会主義政権のドミノ的崩壊劇よりも、1990年のニカラグアでの敗北のほうに衝撃を受けました。「革命のロマンの時代は終わったか」。1980年代のニカラグアの変革は世界的には希望の星でしたが、米国の軍事的干渉による混乱によって人々は疲弊し、1990年からいったんは親米政治家に託しました。おそらく生活実感からの「休戦」的選択だったのでしょう。その後の過程についてはよく知らないのですが、再び変革の道が選びとられたということは「深部の力」は必ず作用することを示しており、日本の私たちにとっても教訓的です。

 続いて世界の構造変化、核兵器廃絶と貧困削減といった課題を見渡して緒方氏は以下のように結論づけています。

--------------------------------------------------------------------------------

 今回の世界経済危機を受け、世界各国に新自由主義を押し付けるアメリカ主導のグローバル化は大きな破綻に直面しました。一方で、資本主義のもとでは貿易・投資・市場が国境を越えて広がるという意味でのグローバル化は避けられません。マルクス、エンゲルスは、資本主義の発展による生産と消費の世界化は資本の革命的な役割であると指摘しています。今日、グローバル化を社会進歩への機会とする取り組みを進めることが、重要な課題となっています。これまでのアメリカ主導のグローバル化から、諸国民の権利を守り、各国が恩恵を受ける新しい国際秩序が求められています。

 同時にこうした世界構造の変化は、自動的に前進することはありえません。やはり社会の進歩と変革を求める人々の主体的な奮闘こそが歴史をつくるのだということを、世界各地での交流のなかでも強く感じました。      29ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 緒方氏の「社会進歩」には当然将来の社会主義的変革が含まれるでしょうが、ここではむしろ資本主義的グローバリゼーションの革命性が強調されています。その下で、アメリカ主導の新自由主義グローバリゼーションとは違った「諸国民の権利を守り、各国が恩恵を受ける新しい国際秩序」が人々の闘いによって克ち取られることを展望しているのです。ただしそのような民主的国際秩序が資本主義世界市場において可能か、可能とすればどのようにしてか、あるいはそれは社会主義的変革とどう関係しているのか、といった諸問題が残されているようにも思います。

 前出の平野喜一郎氏の「入門講座」ではマルクスの経済学批判プランに関連して世界市場に触れられています。プランでは「主体をもった一国の資本が他国の資本とつながり、それらが束になって国際経済を形成する」(152ページ)とされます。平野氏は以下のように注記しています。

--------------------------------------------------------------------------------

 世界の国々は主権をもっており、各国は国民経済という自立した<個別>として他国とつながるのです。ところが帝国主義・植民地主義は自国を「普遍」、他国を「特殊」のようにあつかい、限られたコーヒーなどの換金作物だけをつくらせます。植民地は国民経済を失い、自分たちに必要な食料すら作られなくなり飢餓にさえおちいるのです。 同前

--------------------------------------------------------------------------------

 平野氏はこの悪例として、かつてのソ連と東欧諸国との関係をもあげているので、必ずしも資本の作用としてだけ、こうした帝国主義的秩序を想定しているわけではないでしょう。ただもう一つの例としてTPPなどに見られるアメリカの「自由貿易」押し付けも提示しつつ、「この社会では<普遍>の資本は圧倒的な支配者であり、あらゆるものを手段として自己の支配下におきます」(同前)と述べているので、資本の本性と帝国主義的秩序との強い関係を意識していることは間違いないでしょう。

 今日、日米欧などの発達した資本主義諸国の経済が停滞ぎみであり、BRICsなどの新興諸国および「社会主義をめざす国々」(中国が両方に含まれる)が台頭していることをもって、資本主義そのものの行き詰まりと社会主義的発展の可能性とがしばしば論じられます。もちろんそれは大局としては誤りではないですが、注意しないと短絡的楽観に陥りかねません。

 注意点の第一は、中国などの「社会主義をめざす国々」がどのような展開を遂げるかは未知数であり、ソ連のように根本的な誤りに陥る可能性は残っているということです。これは比較的意識されていると思います。もう一つ注意すべき点は、新興諸国にしても「社会主義をめざす国々」にしても、その経済発展自体は基本的には、新自由主義グローバリゼーション下でそれぞれ独自に対応した資本主義的発展であって(たとえば前述のASEAN諸国の発展)、中国も含めて、決して社会主義経済の優位性を見せるものではないという点です(「搾取を廃絶した計画経済」が「搾取を動因とする市場経済」に対して優位に立つ状態ではない。今そもそも前者は存在しない。あるいはそこまで言わないとしても、「市場社会主義」が明確な姿をとっている状況でさえない)。したがって今日の先進諸国の停滞と新興諸国・「社会主義をめざす国々」などの台頭との対照が経済の面で意味するものは(長期的には資本主義から社会主義への移行の一局面と言えるかもしれないけれども)現時点で言えるのは、成熟し停滞して利潤率の下がった資本主義を、若い発展期にあって利潤率の高い資本主義が凌駕しようとしている、ということです。とはいえ、老いた資本主義が帝国主義的秩序で若い資本主義を抑圧してきたのに対して、後者が振興することで新たな国際秩序への移行を模索せざるをえなくなったこと自体は明らかな前進です。

 つまりアメリカを中心とする先進資本主義諸国の覇権が揺らぎ、世界政治でも経済でも民主化が不可避になっているのは当然社会進歩と考えられます。しかしそれが「諸国民の権利を守り、各国が恩恵を受ける新しい国際秩序」として結実するかどうかは予断を許しません。やがては中国の経済発展がアメリカを追い抜くと見られますが、それが単なる覇権国家の交代に終わるのか、新たな民主的国際秩序の形成まで進むのかが問われます。中国に限らず発展途上諸国の経済発展が、先進資本主義諸国の単なる後追いであるならば、新たな覇権争いに帰結します。しかし今次世界恐慌への対処に見られるように、多国籍企業主導の新自由主義的・帝国主義的秩序を規制して、新しい国際秩序を形成しようとする努力にこれら諸国が引き続き参加していくならば、時代は転換します。資本主義的経済発展であっても、多国籍企業など資本への適切な規制を含む民主的国際経済秩序が形成されるならば、その先の課題として各国の社会主義的変革が展望されます。

 本来ならば、発達した資本主義諸国の行き詰まりが社会主義的変革に転化したり、「社会主義をめざす国々」がその経済を社会主義的に実質化し、政治的にも後進性を脱し民主化して発展途上国の模範となれるような状況が、世界史的な社会主義への移行の時代のあり方です。しかし現状ではどちらも道は遠いという感じです。注目されるのは、21世紀の新しい社会主義を掲げている中南米諸国の変革です。もっとも、明確に新しい社会主義を掲げているのは、ベネズエラ・エクアドル・ボリビアの急進的左派政権であり、その他はさまざまな色合いの中道左派(あるいは単に中道)路線を進んでいます。いずれにせよ科学的社会主義出自でない中南米各国の政治勢力が新自由主義との闘いの中で政権をとり、独自の路線を追求する内にその最左派が西欧社会民主主義を超える「新しい社会主義」を掲げるにいたったことが注目されます。このように一方にベネズエラに代表される左派政権の路線的求心力を置くとすると、他方には中南米一の大国ブラジルなど中道(左派)政権の現実的影響力が鎮座していることも看過できません。発達した資本主義国の人民の立場から中南米の変革を見る場合、これまではどちらかというと政治的希望に重きを置いていましたが、今後はそれと並んで経済の現実を冷静に注視する必要があります。つまりベネズエラ革命などが政治革命から社会革命にいかに深化していくか、という視点は社会主義的変革を直接的に捉えるものですが、大国ブラジルなどがその国内変革とともに中南米や世界経済にどのような変化をもたらしているかという視点もまた、やや迂遠ではあっても中南米の社会主義的変革を底流で規定するものとして重要です。

 そのような問題意識に立ったとき、特集「激動する世界 新自由主義に抗して」の中では、座談会「新自由主義の破綻と世界経済の構造変化」における山崎圭一氏の発言ならびに所康弘氏の論文「中南米における地域統合の動向 新たな途上国間協力の行方」が注目されます。

 山崎氏によれば、中南米では1970年代に軍事独裁政権が広がり新自由主義政策が導入されました。80年代に軍事政権は打倒されたけれどもグローバル化に合わせて新自由主義はかえって定着し拡充しました。ワシントン・コンセンサスの構造調整が貫徹されたのです。しかしそれが民衆の不満を高め、2000年代に入って新自由主義と決別する政権が次々に誕生しました。これらは総じて中道政権であり、財政緊縮を堅持し公害防止や環境保全に熱心ではありません。しかし中南米政治のキーワードは「対決の政治」であり、国家に対して労働者・市民が、集会・デモ・ストライキ・一揆・反乱・革命という形態で対抗するのが活発です。市場はグローバル経済に統合されており、欧米の多国籍企業の工場誘致合戦が活発で、労組の組織率は下がっています。この逆境下で旧来の労働運動と新しい社会運動とが連携した「アソシエーション」のパワーが脱新自由主義政権を生み出しました(34-35ページ)。このように中南米の状況はなかなか複雑であり単純な楽観を許しませんが、まさに前述の緒方氏の言葉のように、グローバリゼーション下で人々の闘いが歴史を一歩一歩前進させているのです。ところで新自由主義構造改革によって緊縮財政がとられ、今も続いているのですが、これによって各国通貨への信認が回復され、かつての高インフレ時代に起こったドル化が終わりつつある、というのは米国にとっては皮肉な結果となっています(40ページ)。新自由主義との妥協による漸進的改革がかえって底堅い変革に定着することもあるわけです。歴史は一筋縄では行かず、経済を見る目も単細胞ではだめです。

 大国ブラジルの評価も簡単ではありません。周知のように「最低賃金の大幅な引き上げや、貧困層向けの給付金を大量に交付することにより、貧困層の底上げをはか」り教育の質もかなり改善しています(38ページ)。こうした内需重視政策により中国などとともに今次世界恐慌からいちはやく立ち直り、世界経済をリードしていることは、新自由主義の先進諸国が停滞しているのに対して、ブラジルは明らかに社会進歩の姿を示していると言えます。ルラ大統領が圧倒的に支持され、彼が後継者に指名したジルマ・バナ・ルセフ氏が事前の予想を裏切って選挙勝利し、初の女性大統領に就任することになったというのもうなずけます。金融面では2005年にIMFへの債務を前倒しで完済し、介入を受けることがなくなりました(36ページ)。産業面では欧米資本の参入が大きい一方で、世界市場に展開する国内企業も現われています。また資源大国として生産と輸出が活発であり、ブラジル経済は活況を呈しています(36-37ページ)。ただし上記の政策にもかかわらず貧富の格差は激しく農業労働は過酷であり環境問題も深刻です(47ページ)。

 政治経済研究所の「政経研究時報」No14-1(2010.6)所収の北村浩氏「ブラジルの経済と政治をどう見るか 山崎圭一・横浜国立大学教授の報告を聞いて」によれば、貧困問題の根源には、土地制度改革が進んでいないことがあげられます(2ページ)。北村氏の紹介によれば、山崎氏は「政権交代によって、社会政策に一定の進展は見られ、所得再配分への意欲は感じられるのだが、歴史的に固定された格差の構造的解消にはいたっていない」(同前)と評価しています。『経済』座談会で山崎氏は「ブラジルを例外として、ラテンアメリカ諸国は総じて生産性がまったく向上していない」(43ページ)という米州開発銀行(IBD)の批判を紹介しています。これは、新自由主義の高金利政策が製造業を抑制したことを批判するために言及されています。ところが例外のブラジルについても問題があります。北村氏は「国際競争力の向上も、コスト削減のために、生産拠点を内陸部に移し、そこの低賃金を活用しただけ」(3ページ)という山崎氏の指摘をあげた上で、以下のような疑問を呈しています。「結局、ブラジル経済はグローバル市場に統合され、その恩恵を受けつつも、新産業の創出や技術力の向上へと向かわず、コスト削減のための安易な生産拠点化をしただけという、世界資本主義の周辺に共通する現象と同じであったのだろうか」(同前)。こうしたことがあるので、内外の左派からルラ政権に対して新自由主義的だという批判もあるわけです。しかし北村氏としては「地域大国としての存在感」(4ページ)を指摘しつつ「ブラジルの社会運動の一部にも見られる変化、新自由主義に柔軟に対応し、市場経済とうまくつきあいながら、連帯経済やもう一つの社会秩序を模索するという姿勢は、やはり一定程度評価に値しよう」(同前)という角度からルラ政権を捉えようとしています。

 所康弘氏の論文では、まず北米自由貿易協定(NAFTA)の実態に米国の狙いを分析し(ここでは特にメキシコが引き込まれる過程と悲惨な結果とが克明にあとづけられ、日本がTPPに巻き込まれることの意味を明らかにしているといえる)、その中南米への延長である米州自由貿易地域(FTAA)構想の頓挫とFTA戦略による米国の巻き返しに言及されています。対中貿易の拡大など、市場の多様化によって、中南米諸国が米国のFTAA押し付けをはね除けることが可能になりました(このことからは、日本もアジア諸国などとの関係強化によってTPPに代わる発展を展望できることが示唆されよう)。

 そこでまず注目すべきは「中南米の主要な地域統合メルコスール(Mercosur、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ベネズエラ)」(66ページ)です。同機構は、対外共通関税設定と域内貿易自由化を進め、構造的格差是正基金を運用しています。またオリボス議定書で紛争解決を取り決め、常設仲介裁判所や議会の創設など制度設計ではこの数年間顕著な成果を遂げています(同前)。しかし元来同機構は新自由主義的政府間で取り決められ、「その本質的特徴も域内巨大資本により有利な自由貿易政策に多くの社会的関係を従わせることで」した(同前)。そこで論文では4つの問題点が指摘されています。(1)加盟各国内での経済格差が激しく、経済的社会的排除が克服されない。(2)域内格差もある。域内GDPの70%弱をブラジル一国が占める。(3)貿易依存度においてもブラジルは域内分が低く、ここを拠点に世界市場に進出している。他国は域内貿易に生き残りを掛けることになる。当然、発言力格差が生じる。在ブラジル多国籍企業や民族系巨大資本の対外政策の根本は基本的に自由貿易志向と市場競争の推進である。(4)かつてブラジルとアルゼンチンで見られたような域内覇権争いへの懸念がある(67ページ)。そこで所氏は「このように同機構が抱える域内不均衡は政治上の非対称性や協調関係の揺らぎの可能性として構造的に内在化されている。また今後も『代替的(オルターナティブ)な』方向へ向かうかも未知数である」(同前)と厳しく評価しています。

 メルコスールはこのように過渡的・二面的性格をもっていますが、中南米の人民は米国の覇権主義を拒否し変革への強い期待を持っており、「様々な社会・政治・経済領域で代替的な発展を模索する循環が現出し」(68ページ)ました。ベネズエラが主導する米州ボリバール代替統合構想(ALBA)や域内共通通貨スクレ(SUCRE)が展開し、その他にも様々な部分的協定が重層的に締結されています。それらを総合すべく2008年には南米諸国連合(UNASUR)が成立しました。所氏は期待を語ります。

-------------------------------------------------------------------------------

 自由貿易を骨子として時に金融協定などが付随してきた伝統的な統合形態を乗り越え、また投資自由化を全面展開し、多国籍企業・投資家の利益へ加盟国を従属させる米国主導型新自由主義的地域統合とも決別し、域内主導権争奪や国益のみに拘泥することもなく、域内需要創出と民衆の利益こそを礎石とした「代替的な」統合あるいは途上国間協力の模索が強く望まれよう。        68ページ

-------------------------------------------------------------------------------

 あえて図式化・単純化すればこうなります。中南米において「経済的現実」を代表するのがブラジルだとすれば、「政治的社会的理念」を代表するのはベネズエラです。ブラジルが柔軟かつしたたかに新自由主義に対応して独自の急速な経済発展を遂げてきたのに対して、ベネズエラは石油資源に支えられながらも、対米・対新自由主義では果敢にオルタナティヴを提起し実践してきました。今のところ両者は対立するのでなく相補的に中南米の変革をリードしてきたと言えます。ブラジルの持つ中南米域内と世界市場への大きな影響力は米国の覇権主義を牽制するものであり、ベネズエラが参加型民主主義で進める社会変革は人民の生活改善の実例として中南米人民を鼓舞するものでしょう。ブラジルがより民衆的な社会変革に踏み込んで深刻な社会問題を根源的に解決し、ベネズエラがその理念を堅持しつつ、新自由主義グローバリゼーションに飲み込まれない経済力を実現して、国際的影響力を拡大する、というプラスの方向で両者が交差するならば、将来的には中南米の社会主義的変革は夢ではなくなります(もっとも、逆に、それぞれに新自由主義グローバリゼーションに吸収される、というマイナスの交差もありうるのだが)。その帰趨を決する主体的要因は、米国的・多国籍企業的(=新自由主義的)「経済」に対する、各国の人民的「社会」による「対決の政治」のあり方でしょう。さらには、各国の経済政策や地域統合の理念があくまで民衆的利益に貫かれ、経済格差を初めとする様々な深刻な社会問題の解決が人民の参加を通して実現されるためには、多国籍企業を初めとする資本への規制が不可欠となります。そのような社会的経験の積み重ねの中に、人々を社会主義的変革に導く可能性があります。

 また最後は思いつき的大風呂敷みたいになってしまいました。繰り返し言えば、私たちが中南米変革を捉える勘所は、政治的希望を語る段階から経済的現実を注視する段階へと移っているように思います。それだけに問題は複雑であり、断定的なことは言いにくいのですが、中南米全体としては脱新自由主義の方向性は明確であり、世界的な新興諸国の前進を背景にして、ブラジルとベネズエラとの「対極的協調」を通じたさらなる変革が進む可能性は少なくないと言えます。

 例によって話がとりとめなくなりました。初めの問題意識は、現在の世界的構造変動が世界史的な社会主義への移行につながるものなのか、ということでした。私見によれば、発達した資本主義諸国の経済停滞と新興諸国の躍進という現実は、社会主義的未来に直結するものではありません。それ自身は、成熟し利潤率の下がった資本主義が、生成する利潤率の高い資本主義に追い越されようとしている状態です。新興諸国の発展が社会主義的未来につながるためには、まずこれまでの帝国主義的=新自由主義的な国際秩序を克服して「諸国民の権利を守り、各国が恩恵を受ける新しい国際秩序」を形成することです。中国などの新興諸国が新たな覇権主義的な国際秩序を形成する可能性はあり、これが防がれねばなりません。この民主的国際秩序そのものは世界資本主義の枠内でしょうが、多国籍企業などの国際的独占資本への規制を不可欠のものとします。このような国際経済環境は、発達した資本主義諸国でも新興諸国でも独占資本への民主的規制からさらには社会主義的変革へ進む可能性を増大させるでしょう。

 もちろん平坦な道はありえません。一典型として、複雑な現状と発展のあり方を「対決の政治」を通して経過している中南米の姿を見ました。私見は性急に図式化しすぎたきらいがあり、経済の現実をもっと冷静に見ることが大切でしょうが…。新自由主義に回帰した民主党政権の日本の閉塞した現状を分析し変革の実践に立ち上がることと合わせて。

 最後に一つの実例を補足しておきましょう。フィリップ・ルヴェリ氏の「グローバル企業に対するグローバルな抵抗 鉱山メジャーと労働者、エコロジスト、農民たち」(『世界』2011年1月号所収)は、グローバリゼーション下での新興諸国の勃興・多国籍企業・人民の運動の関係について考えるのに重要な事実を投げかけています。ブラジル発祥の多国籍企業である、鉱山メジャーのヴァーレ社は各国政府に取り入り、暴虐な労務管理と環境破壊で多大な被害を及ぼしています。各地で争議が頻発し、2010年4月には、同社の本社があるリオデジャネイロで世界中の被害者たちの集う最初の集会が開かれました。このことは以下のことを提起していると思います。(1)新自由主義グローバリゼーション下での新興諸国の経済発展をバラ色一色に描いてはならないこと、(2)どこの国であれ多国籍企業への民主的規制が今日の社会進歩にとって要であること、(3)民主的規制を実現するのに決定的なのは人民の運動であり、それもグローバル展開していく必然性があること。

 

          理論と現状分析

 以上に見た世界経済の構造変動は、国際通貨の面では、先進諸国通貨安と新興諸国通貨高、そしてドル基軸通貨体制そのものの制度疲労として現われています。こうした認識を中心にすえて世界と日本の経済を分析したのが紺井博則氏の「現在の『円高』問題を考える 金融・経済危機の中で翻弄される円相場」です。為替介入と金融緩和が目先の対策として行なわれていますが、論文の結論としては、真の「円高対策」は、国際的な貨幣資本移動の再規制と、物価下落をふせぐ賃上げであるとされます(137ページ)。この結論も重要ですが、この論文からはむしろ分析方法を学ぶことが大切であり、正確な理論による的確な現状分析はどうあるべきか、という観点から何度も読む必要があります。

 昨今も円高・ドル安というおなじみのパターンにはまっていますが、今回の独自性の把握とともにその背景を捉えることが必要です。また円相場の計り方も問題となります。今回の独自性としては上記のように、先進諸国通貨安と新興諸国通貨高という現象があり、いよいよドル基軸通貨体制への信任が揺らいできたということです。日本経済の先行きを考える際にも、従来のようにもっぱら対ドル関係だけでなく、対新興国通貨関係も重要となります。

 もう一つの視角として、実体経済と金融との関係、為替相場への影響でいえば貿易の状況と金利との関係という問題があります。特に米国の為替政策が「通商政策的視点から金融政策(金利政策)を軸心とする視点へと変容してきた」(130ページ)という問題です。米国の経常収支の赤字などよりもドル還流の持続可能性に焦点が移ってきました。米国とすればドル安で輸出を増やし、金利高(強いドル)でドル還流を促したいとして、日本などにその政策の下請けを強いてきたわけですが、新興国の比重の増大で(米国の勝手を許してきた)ドル基軸通貨体制そのものに疑問が突きつけられています。また今次世界恐慌後、先進諸国に共通した超金融緩和政策が通貨安競争とも相まって展開され、投機資金を生んだり、その新興国への流入によるバブル形成など、世界経済の不安定要因となっていることも重大です。

 論文では円相場の計り方にも注意が向けられています。購買力平価か実効相場かという論点、またどちらを採用するにしても、物価指数として、消費者物価指数を採るか輸出物価指数を採るかという論点もあります。ここにはグローバル企業の視点と人々の生活の視点との違いが反映されます。これらは「変動相場の下で国民経済的視点から見た通貨価値とはどのような基準に拠るべきか、という大切な問題を提起しているように思われ」ます(134ページ)。

 ところで当然の疑問として、先進諸国通貨安と新興諸国通貨高という中で、なぜ円高なのかが問題となります。「ひとつは依然として実需面で経常収支黒字を継続している点が」あります(137ページ)。「加えて、先進諸国の政策金利にほとんど差がない」(同前)下で、物価水準が下がっている日本の実質金利が相対的に高くなっているからです。

--------------------------------------------------------------------------------

 つまり、超金融緩和の継続による先進諸国間の国際的金利格差(短期も長期も)の縮小という構造のもとで、わが国における実質的物価下落が際だったものになっており、これが個人投資家を含めた間接投資における円買い要因(ただし性格は短期的投資に限定されるが)につながっている。     同前

--------------------------------------------------------------------------------

 この物価下落は賃金下落に先導されたものであり、賃金下落によるコスト削減は輸出競争力の強化を通じて貿易黒字拡大=円高を呼び込みます。「円高の進行下でもドル建て輸出価格の引き上げをできるだけ抑制し」(135ページ)、賃金抑制・下請叩きなどのコストカットで乗り切るので、輸出競争力は維持され円高に…、この悪魔のサイクルによって上記の「実需面で経常収支黒字を継続している」ことが説明されます。このように見てくると実体経済面でも金融面でも賃金の下落が円高に影響していることがわかります。こうして紺井氏は円高対策として、貨幣資本移動への規制とならんで賃上げを推奨しています。

 他に論文では、多国籍企業にとっては円高は収益増大の機会とさえなること、国内企業との格差ができること、日本の輸出依存度を過大評価してはならないことなどにも触れ、円高問題の通俗的理解を批判しつつ多面的理解を深めています。

 このように円高といえば表面的には、いったいいくらになるのか、というもっぱら量的な問題として捉えられますが(もちろんそれ自身が死活的問題でもありますが)、その背後には世界経済の構造変動や実体経済と金融との関係という質的問題もあり、また日本経済自身の抱える深刻な問題点も反映されます。また円相場をどの指標で捉えるのかについても立場の相違が出てきます。このように問題を全体的・立体的に、かつ人々の生活と労働の視点を踏まえて捉えるためには理論が大切となります。もっぱら平面的・数量的にグローバル企業の視点から捉える見方が大勢である中で気をつけるべき点です。

 

         断想メモ

 柴田徳衛氏の研究余話4「襲いくる公害」では、1970年に公害問題をテーマに日本で開催された国際会議のエピソードが語られています。バスでの施設巡りで、第五福竜丸(ビキニ水爆実験で被爆)がゴミの山に埋もれているのを見て、レオンティエフはいきなり立ち上がり「恥ずかしくないか!」と叫びました。四日市の現場案内では、カップは「こんなひどい公害がなぜ日本にあるのか?」と柴田氏に迫りました。私はマーシャルの言葉を思い出しました。「冷静な頭脳を、しかし温かい心をも」(Cool heads but warm hearts)。マーシャル、レオンティエフ、カップは、日本の言葉ではいずれも近代経済学者です。すぐれた業績は温かい心と矛盾せずにあったのです。マルクス経済学を学ぶ者はなおさらにこの箴言や彼らの学問と実践に敬意を払って超えようと努力すべきでしょう(といっても残念ながら読んだことはない)。

   ***   ***   ***   ***   ***   ***   ***   ***      

 二大政党が破綻状態でも支配層は新自由主義の政治は続けたいはずです。時代閉塞の状況の中で、こうした支配層の狙いと人々の鬱積した心情との交点にデマゴーグが登場します。みんなの党、橋下大阪府知事、そして河村名古屋市長等など。本来ならば政治革新に向かうべき民意はどのようにねじ曲げられるのか。まずは人々の政治への期待と裏切られた思いなどを、「議員定数削減への共感=ムダを削れ」を分析することから初めて、ていねいに解明しているのが、上脇博之・仁比聡平対談「なぜ衆院比例定数削減を許してはいけないのか」(『前衛』2011年1月号所収、特に84〜86ページ)であり、必読です。

 名古屋市における「河村クーデタ」を総合的に分析したのが、小林武氏の「いま問われる地方自治と民主主義 名古屋における住民の試練」(同前所収)です。本来は住民の大切な武器であるはずの直接民主主義の制度を首長が利用して「民主主義的」クーデターを敢行した経過とその意味を縦横に論じています。河村市長の二元代表制否定の姿勢が民主党政権の「地域主権改革」の先取りであるという意味でも、民主主義理解の普遍的発展の観点から論じられているという意味でも、一地方にとどまらぬ全国必読の論文でしょう。

   ***   ***   ***   ***   ***   ***   ***   *** 

 在日米軍基地の問題をめぐって、抑止力論の克服は重要な課題でありながら、十分に深められてきませんでした。小沢隆一氏の「『米海兵隊=抑止力』論批判とその方法 続・軍事同盟のないアジアをどう展望するか」(同前所収)は抑止力論の論理構造に切り込んでおり、きわめて重要な問題提起となっています。今後ともよりいっそう考えていきたい課題であり、何度も読み直したい論文です。

 豊下楢彦氏の「『尖閣問題』と安保条約」(『世界』2011年1月号所収)も注目すべき論稿です。尖閣問題にしても千島問題にしても、あらかじめ米国の狡猾な戦略が仕組まれ、それによる日露・日中の対立により、日米軍事同盟の強化が正当化される図式になっているというのです。尖閣諸島はもともと米軍が射爆場として使用してきたにもかかわらず、沖縄返還に際しては、「尖閣諸島の施政権は返還するが、主権問題に関しては立場を表明しない」としました。日中間に領土紛争が存在すれば米軍の沖縄駐留は正当化されるという思惑があったのです(39ページ)。今回の尖閣問題に際して、前原外相がクリントン国務長官から「尖閣は日米安保の対象」という発言を引き出したことが、あたかも外交上の成果であるかのごとくに考えられていますが、要するに米国にはめられているのです。千島問題でも四島返還論などというもともと成り立たない議論を無理を承知で米国は日本に押し付けることで、日ソ間に領土問題を残し楔を打ち込んだのです(45ページ)。豊下氏は、尖閣問題で中国がレアアースの輸出制限という「非軍事的な措置」を取っただけで国際非難を浴び孤立化したことを上げて、「国際社会の重層的なネットワークや国際世論が大きな『抑止力』として機能する」(47ページ)と論じています。米国にも中国や周辺諸国に対しても国連憲章と国際社会の規範に基づいた基準を求めるような「東アジアの新たな秩序形成に向け」(48ページ)た日本外交が確立されねばなりません。 
                                 2010年12月30日



2011年2月号

              生産力主義への批判

 河村名古屋市長や橋下大阪府知事のような、まともな見識を持たない首長が平然と努めておられるのは、何よりテレビ出演で培った人気のおかげですが、支配層の意向に忠実だからということも重要です。トップダウンの独裁者気取りで多少ふるまいが目立ちすぎても失脚させようとする力は働かない。以下のように、凡庸なイデオロギーの枠内で、陳腐で的外れな夢をさも一大事かのように語る姿は、お釈迦様の手のひらで舞う孫悟空さながらです。

-------------------------------------------------------------------------------

 国が国全体の成長を担う時代はもう終わり。今は国際的に都市が競争する時代です。世界はこれまで国を面でとらえ、全体として発展させようとしてきたが、グローバル時代になって企業が都市と都市の間を自由に行き来するようになる中、国内の都市を成長させ、点と点を結ぶ戦略に変わった。

 日本はそこが変わらない。国全体のことばかり考え、都市を強くするという発想がない。これでは国際競争に勝てません。

 僕が考えているのは三大都市圏の強化です。東京を、名古屋を、そして大阪を強くして、3都市を中央リニアで67分でつなぐ。日本の国内総生産(GDP)の7割、350兆円を稼ぐ巨大な経済圏ができるのです。実現すれば日本は一気に浮上すると思いますね。

    橋下徹大阪府知事「大阪都 その先に首相公選」(「朝日」1月1日付)

-------------------------------------------------------------------------------

 グローバル企業、国際競争、大都市、巨大インフラ。あるのは資本(これも点)で、人間がない。人間が暮らし働く地域(これは面)がない。福祉を切り捨てるのもよくわかる。大阪が沈んでいるのはそういう発想だからじゃないのか。これは、インフラ輸出などを麗々しくならべた菅政権の「新成長戦略」と同類の発想でしょう。「GDPの7割の経済圏」を聖視する価値観も、「GDPの1.5%の第一次産業のために98.5%が犠牲になっている」という前原外相発言と同様です。GDPの中における割合の大きさだけを見て、「小」が「大」を支えている質的内容には目を向けない。「大きいことはいいことだ」の高度成長はずっと以前に終わり、安定成長の下で経済の中身の成熟・質的充実を確保すべき時代となりました。つまり課題はまったく逆です。日本中で人々が生活を充実させ地域で生きていけるにはどうしたらいいか。トップダウンではなくボトムアップの発想が必要です。人々がどう生き働いているのかから出発して、地域経済と国民経済をどうしていくべきか、その立場から世界経済にどう対応していくべきか、が考える順序です。

 もう一つ言えば、「都市が競争する」などといかにも勇ましく主体的なように聞こえますが、実際には新自由主義グローバリゼーション下で多国籍独占資本によって都市が競争「させられている」のです。住民の福祉を切り捨てて、いったい何のために都市自治体はあるのでしょうか。新自由主義グローバリゼーションの悪影響から住民を守り、敢えて言えば、それを人間的に規制するために世界の諸都市と連携するのが真の改革派の首長ではないのだろうか。たとえばブラジルの革新自治体都市ポルトアレグレは世界社会フォーラム発祥の地として知られます。逆に橋下知事のナイーヴさにはあきれる。住民の生活と営業を切り捨てて多国籍独占資本用のインフラ整備をさせられる受動的姿勢を喜々として「改革」と言っておれるのだから。こういう勘違い逆立ち首長とそれを増長するマスコミはいい加減反省したらどうなのでしょうか(以上は話の枕として、イデオロギー面の批判に終わっていますが、具体的な政策批判としてはたとえば森裕之氏の「『大阪都構想』の実像は」/「しんぶん赤旗」1月8日付/、あるいは高寄昇三氏の「大阪都構想と橋下ポピュリズム」/『世界』2月号所収/等参照)。

 ここで全国商工団体連合会の国分稔会長とジャーナリストの斎藤貴男氏との対談を紹介します(「全国商工新聞」1月10日付)。国分氏は商売と生き方を語ります。

--------------------------------------------------------------------------------

 商売することは、自分の生き方なんですね。金属加工の仕事を私が続けているのも根っからこの仕事が好きだからです。寝ないで仕事をしたこともありましたし、街で見かけた金属製品を何時間も見つめたりもしました。大変なこともあったけど悔いはない。それが業者の生き方ではないでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------

 家業の鉄くず商の手伝いで町工場に通ったこともある斎藤氏は経済社会観を語ります。

--------------------------------------------------------------------------------

 80年代後半以降の日本では「大企業が栄えればすべてよくなる」。だから「生産性の低い中小零細、自営業者は切り捨てても構わない」という経済成長一本やりの考え方が社会の隅々まではびこってきました。小泉さんの時は「改革なくして成長なし」。民主党政権になっても新成長戦略ですから。手段と目的を取り違えている。

   ……

 大企業といっても、中小零細・自営業者に支えられているわけです。生産性が低いという一方的な決めつけがそもそもあやしい。

   ……

 大企業が世の中の主役であり、それに従うのが当たり前などという皮相な発想ばかりがまかり通る時代に、いいかげんにピリオドを打ちたい。中小零細の額に汗して働く労働の尊さはもちろん、多様な価値観や生き方を認め合い共存・共栄を図っていく。そういう時代をつくっていかなくてはいけないと思うのです。

--------------------------------------------------------------------------------

 ここには人間の生き方から語る、ボトムアップの経済論があります。資本の成長と競争が自己目的化された、トップダウンの経済論の倒錯ぶりがはっきりします。ただし現実にはそういう逆立ちした議論が支配的なのです。それが日本と世界を捉える正論だと思われています。最先端の生産力を握った資本が上から見てこそ全体が掌握できるように思えるからでしょう。

 しかし確かに実際の過程においては資本は全体を動かしているかもしれませんが、現実を正確に認識して捉えることはそれとは別です。資本を目的とし人間を手段とするのが資本主義の原理であり、それを極端に押し進めたのが新自由主義です。人間が生活し働いて支えるという、経済社会の歴史貫通的な本来のあり方と今やそれは抵触するに至りました。資本が目的で人間が手段であるという倒錯した原理であっても、生産力を発展させ、人間生活を破壊してしまわない範囲であれば、それなりに展開可能です。しかし今日の新自由主義の暴走は、実体経済における搾取強化と、金融面における過度の投機化とによって、維持可能な発展過程をすでに踏み外しつつあります。

 ここには貨幣資本の増殖に従属した生産力主義があります。生産力主義は人間の生活と労働を生産力追求に従属させるのですが、それもまた貨幣資本の増殖運動に従属しているのです。これに対して生産力そのものを敵視するのでなく、それを人間の生活と労働の発展に奉仕するようにコントロールすることが必要です。そのためには資本への規制が欠かせないのであり、それを支えるのは、人間が目的であり資本は手段であるという経済像です。しかし「人間のために善かれと思ってやっても必ず反対の結果になる」のだから、「市場にまかせよ」というのが支配的な議論です。これは「市場の自由」の名で実は「資本の自由」を絶対化することが前提になっている議論です。弱者のための経済政策に対する資本の反撃を無限定に認めるなら悪い結果になるのは当たり前です。

 逆立ちしていない正気の議論が説得力を持つためには、現場から地域経済へ、国民経済へ、世界経済へ、というオルタナティヴな経済像を提起することが必要です。そうでないと説得力を持たないだけでなく、生産力主義とは逆の偏向としての経済学的ロマン主義に陥りがちになります。困難に直面して展望を失った小経営の立場からの後ろ向きの批判として、しばしば反生産力主義的(反「生産力主義」ならよいが、間違って「反生産力」主義になってしまうことがある)であったり、もっぱら搾取・収奪への批判だけを見る生産関係主義になったりします。

 オルタナティヴな経済像の提起の前に、支配的な経済像としての生産力主義への批判を見ます。菅政権の新成長戦略は、「第二の道」たる新自由主義構造改革路線への批判として、「第三の道」と称していますが、実像としては前者の国家独占資本主義的変形強化版に過ぎず、強烈な生産力主義的色彩を帯びています。山下唯志氏は「財界との新たな連携による『第二の道』のバージョン・アップ」と呼んでいます(「菅政権の『新成長戦略』 経済の歪みさらに拡大」47ページ)。氏によれば、問題は「新たな成長分野を掲げ、その基盤を整備することで、はたして安定した内需と外需を創造し、富が広く循環する経済構造を築くことができるのかという」(43ページ)ことです。しかし『労働経済白書』2010年版によれば「成長分野の産業や企業が雇用を増加させたのではなく、雇用を減少させ、あるいは非正規雇用も活用することで利益を拡大した」(44ページ)のです。だから問題は次のように展開します。

--------------------------------------------------------------------------------

 2000年代においては、薄型テレビなどの成長した財があったにも関わらず、消費主導の内需主導の好循環は生まれなかった。問題は、2000年代において、成長する企業、産業がなかったことではなくて、なぜ、それが、安定した需要を生みださず、富が広く循環しなかったのかにある。そうした2000年代の経済構造そのものを変えない限り、いくら、成長分野の支援戦略を計画しても、それは、穴のあいたバケツで水を汲むような話となる。

      44ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 もちろん回答は「大企業一人勝ちの格差景気メカニズム」(45ページ)が問題であり、それを転換すべきだということです。ここでは回答より問題の立て方の方が大切です。経済成長そのものは必要だけれども、問題はその中身であり、「安定した内需と外需を創造し、富が広く循環する経済構造を築く」ようなものでなければなりません。いかにも生産力主義的な巨大インフラ輸出などを中心とする「新成長戦略」の目指す「成長」は「大企業一人勝ちの格差景気メカニズム」そのものなのです。橋下大阪府知事の構想もこのとおりの代物であることは言うまでもありません。経済における目的と手段をしっかり見極めて、自己目的化した「成長」を断固として排さなければなりません。

 そこでオルタナティヴの提起に移っていくのですが、都合により、考えていく余裕がなくなりました。藤田実氏の「『国民生活重視型』の産業転換へ」がこの課題への重要なアプローチを示しています。藤田氏は、為替レートとの関連で日本の諸産業の国際競争力を分析して転換の方向を提起しています。図式的には「国際競争力重視型通商国家か国民生活重視型産業国家か」(68ページ)と整理されます。支配的議論においては前者が暗黙の前提におかれその枠内でもっぱら語られるのですが、それでは国際競争の悪魔の循環から抜けられず、きわめてアンバランスな産業構造がひどくなるばかりです。こういう議論にとどまる限り、厳しい国際競争のため生活と労働を犠牲にするしかない、という結論が押し付けられるだけです。これに対して後者では、内需拡大を起点にバランスのとれた産業構造が実現します。「相対的に優位な産業だけでなく、劣位な産業も存続できるようになり、さまざまな産業が存続し、内需・外需という二つの需要基盤が存在するので、それぞれの生産も拡大する。……中略……資本財・消費財とも相互規定的=相互促進的に拡大し、経済全体が活動的になる」(70ページ)。このような中でこそ、先の「全国商工新聞」の斎藤貴男氏の発言にあるような「多様な価値観や生き方を認め合い共存・共栄を図っていく」「そういう時代」を切り開いていくことができます。

 藤田氏は国民生活重視型産業構造の強味を生かす上で環境関連産業が有力だとしています。もちろんそれに異存ないですが、日本の諸産業とその連関を全体的に見渡し、また各地の地域経済の実践に学んで、このオルタナティヴな産業構造像をより豊かにしていくことが必要でしょう。

 

         理論と現状分析

 『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論では、資本の有機的構成の高度化を一つの基礎にいわゆる貧困化論が展開され、第3部第3篇ではやはりそれを基礎に利潤率の傾向的低下の法則が論定されています。しかし経済理論上では、資本の有機的構成の高度化ははたして証明されるのかは一つの論点となっています(技術的構成の高度化は必ずしも有機的構成の高度化になるとは限らない、…等々)。また現状分析的にも、たとえば日本の高度経済成長期にはかえって有機的構成は低下し、従って消費手段生産部門の拡大の方が生産手段生産部門の拡大よりも大きい、という研究があり、また鉄鋼業などの重厚長大産業が中心の時代と比べると、ITC革命後、有機的構成は低下しているのではないかという見方もあります。ところが直観的には、最新鋭の機械の導入や、作業工程の省略などがリストラや非正規化につながるというようなことは、有機的構成の高度化と貧困化に直結しているように見えますし、先進資本主義諸国の停滞と新興諸国の高度成長とを比べるとやはり利潤率は傾向的に低下していくのではないか、という気もします。ここには理論そのものの問題と理論と現状分析との関係という問題があり、単純なことは言えません。

 利潤率の傾向的低下の法則の正否はともかくとしても、先進資本主義諸国の高度成長期が終わるに従ってケインズ主義から新自由主義の時代に移行しました。停滞する<V+M>の中から資本蓄積部分をいかに確保するか、がこの時代の資本の課題であり、Vを削減し、Mの中でも個人消費部分を圧縮する方法が必要とされます。

 ちなみに景気循環を考えると以下のようになります。好況のときは賃金は上昇するけれども労働分配率は低下し、不況のときは逆に賃金は低下するけれども労働分配率は上昇します。なぜなら景気循環に応じて付加価値(V+M)は大きく変化するけれども、賃金はそれほどには変化しないからです。好況時には賃金の上昇以上に付加価値が増大するので労働分配率<V/(V+M)>は低下します。不況時には賃金の下落以上に付加価値が縮小するので労働分配率は上昇します。これが通常の動きですが、低成長時代には付加価値の生産そのものが停滞するので、資本蓄積のためには常に賃金抑制を強化しなければならず、その結果、不況時にも労働分配率が低下することになります。付加価値の落ち込み以上に賃金を下げるのです。好況時にも賃金を上げないので、さらに労働分配率は下がります。このように労働分配率の恒常的低下というのは本来はきわめて異常な事態なのですが、新自由主義的資本蓄積はそれを実現したのです。

 いわゆる強欲の資本主義というのはその現象形態といえます。資本家諸個人の性悪や強欲が搾取の原因なのではなく、資本家というのは資本の運動の人格的担い手に過ぎず、そういう意味で搾取を敢行するというのがマルクスの理論的解明でした(だから性悪や強欲があるとすれば、それは搾取の原因というよりも、むしろ逆に結果と言ったほうがいいだろう)。新自由主義の時代において、資本家たる大企業経営者層は先の課題を抱えており、それを果たす人格的担い手であり、その課題に忠実に今日の労働者の惨状を招いています。しかしそのように断定するにとどまらずに、個人的利害においてもそれを積極的に担うインセンティヴを持つことを解明してこそ、単にマルクスの命題を観念的に適用するのでなく、現実の中に具体的に確認することになります。

 停滞する先進資本主義経済の一典型として、アメリカ資本主義は「バブル抜きでは力強い経済成長が起きにくい構造になってい」(下記論文の117ページ)ます。平野健氏の「アメリカの個人所得と新自由主義(上)」は「アメリカ経済のこのような構造がどのような利害関係から成り立っているのか、その問題を個人所得の分析を通じて探りたい」(117ページ)というテーマを掲げ以下のように敷衍しています。

--------------------------------------------------------------------------------

 ケインズ主義から新自由主義への転換は世界的な高度経済成長の終焉とともに起きている。そこでの中心的な利害問題は、生産された付加価値の分配においてトップ一%層が下位八○%層から所得を奪い取ることではなく、生産された付加価値の中から企業の将来の事業資金としての追加資本の蓄積を確保するために個人所得の増大を食い止め、圧縮に転じさせることであった。

 しかし資本運動の担い手である大企業経営者層(トップ一%層)にこうした意思決定をさせるためには、この目的の追求と彼らの所得の増大とが連動するような仕組みがやはり必要不可欠である。彼らは、経営者として資本運動の実質的意思決定者であると同時に、その個人的利害が資本蓄積の推進と重なっているという、その二点において資本蓄積の人格化としての資本家なのである。

 そうした仕組みとして有効に機能しているのが、これまで視野の外においてきた、ストックから発生する個人所得、すなわちキャピタルゲインとストックオプションであろう。           127ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 貧困・格差の問題を考えるとき、個人間とか、労働者同士とか、あるいは労働者と自営業者などとか、といった目に見える違いや競争関係にとらわれるのは、人民内部の矛盾に足をとられて大局を見失うことになります。そこで資本と労働という搾取関係に目を向ける必要がありますが、その際でも大企業経営者の巨大報酬などだけにとらわれると間違う部分があります。確かにそれははっきりしており、住まいや命さえも失う人々があるときにそれ自身、重大問題なのですが、問題は個々の資本家の強欲だけはありません。資本家と労働者との分配の量的関係だけでもありません。そのように労働者を犠牲にしてまでも、低成長下で資本蓄積を確保しようとする資本の運動が彼をつき動かしていることを見る必要があります。統計資料を駆使して「資本蓄積の人格化としての資本家」をその個人的利害を含めて具体的に捉えようとしたところに、平野氏における「理論と現状分析」の卓越した方法があるように思います。つまり経済的概念を個人行動の動機の次元で具体的に把握できるならば、逆に個人の行動を資本蓄積運動の一環として捉えることができます。貧乏人と金持ちの引き起こす実に様々に具体的なドラマを、その時代の資本蓄積の課題において統一的に把握することができれば、問題を、個々人のふるまいをどうかするという自己責任論的次元から、資本蓄積のあり方そのものを転換するという人民的な新たな課題の提起という次元に移していくことができるでしょう。

 ところで日本資本主義を見ると、実際のところは、賃金削減の対極にあるのは、役員報酬と株主配当の増大であり、その残りを内部留保に積み増しするのですが、これがまた投機を含む金融投資に回って現実的資本蓄積に向かう部分が非常に少ないのが実態ではあります(貨幣資本偏重と生産資本弱体化)。その結果、前世紀末から今日まで先進資本主義諸国でも例外的なゼロ成長経済になっています。つまり日本の資本家たちは低成長時代の課題を果たしていないということになります。もちろん新自由主義の課題なるものは、人民的には反動的なものであり、果たしてもらわないほうがいいのです。もっとも、日本資本主義の例外的な失敗は極端な内需不振によるものであり、この内需不振は賃金削減などの搾取強化が原因であり、この搾取強化は低成長下で蓄積部分を確保するためであったことを考えれば、新自由主義の課題を果たそうとしてやりすぎて、逆に失敗したと言えます。かつて日本経済上出来論が言われた1980年代には、「資本の法則の過剰貫徹」が問題となりました。あまりに資本への規制が弱いために、資本は搾取と経済成長を謳歌したというのです。ところが今では同様のやり方が国民経済を疲弊させ、アジアなどの新興諸国の出現で輸出一人勝ちができなくなり、内外ともに日本資本主義は行き詰まってきました。「過ぎたるは及ばざるが如し」で新自由主義の課題も果たせなくなったのですが、せっかく失敗したのだからこの課題そのものを放棄して内需主導の経済社会をつくる方向へ転換すべきでしょう。それならば今日の閉塞感は「夜明け前」だった、と後世評価されるでしょう。
                                 2011年1月30日




2011年3月号

         実体経済と金融

 勉強する時間を大幅に削減されるという、私にとっては人生最大の不幸の中に今います。拙文はそれへのささやかな抵抗です。

 2008年10月号の「筆者からのひと言」(163ページ)において、井村喜代子氏は「投機的金融活動は価値を生まないばかりか労働、資源、資産を浪費するものですが、それにもかかわらず膨大な収益をあげています。この膨大な収益はいかなる経路で収得され、いかなる内実のものなのか」という検討課題をあげていました。本号の同氏「世界的金融危機は続いている」にはその回答も含まれていそうです。

 この課題は直接的には投機的収益の源泉と性格にかかわるものですが、実体経済と金融との関係の捉え方にもつながります。投機的収益がかなり実体経済から独立してあげられ、それ故、膨大となった金融が実体経済を逆に支配するように変質したことをもって、金ドル交換停止以後の現代資本主義の本質的特徴である、と見るのが井村氏の立場であるように思われます。

 したがって井村氏は「投機的資金の基本は実体経済で生み出された剰余価値が実体経済で投資先がないため金融部面に投下されたものだという見解、およびCDO等の金融収益のすべては住宅ローン借り手の支払う元利金である、金融収益は実体経済において生み出されるという見解」(111ページ)を批判します。このように金融と実体経済を直結して捉え、金融収益の実体経済からの独立性を見ない見解では、現代資本主義の特性を看過してしまうということでしょう。確かに本来的には金融は実体経済を支えるものであり、金融収益も実体経済にその源泉があるはずですが、今日ではそうした本質的姿は、バブル崩壊と金融恐慌によって初めて確認されるのであり、「通常の」状態ではあたかも金融投機は実体経済から独立に展開しうるように見えます。しかもそれは単なる錯覚ではありません。「いまや銀行は信用創造(預金創造)による貸付を実体経済以外の投機的金融活動(ヘッジファンドを含む)に対して累増していき、金交換の心配の無くなった中央銀行・FRBが銀行の信用創造累増を支えるという関係が構築されてい」(97ページ)るからです。したがって「実体経済から離れて、『虚の金融資産価値』の自己増殖、『虚の金融収益』の自己増殖が進んでいくので」(103ページ)す。しかも「それは実体経済で生み出された付加価値(利潤・賃金)と同じものとして実体経済で生産された生産物・サービスを購入」(同前)できます。

 価値のないものが価値のあるものを購入できる。これは価値論的には投下労働と支配労働との乖離として捉えられます(投下労働量Aの商品が投下労働量Bの商品と不等価交換されるならば、商品AはB量の支配労働をもつといえる)。和田豊氏の『価値の理論』は、投下労働と支配労働との各理論次元における乖離の重層的体系(したがって不等労働量交換の重層的体系)として価値論を構想しています。そこでは、価値価格と生産価格との乖離というポピュラーな関係だけでなく、そもそも現実の個別具体的諸労働と社会的平均労働とが乖離するという根底的事実から出発します。通常の価値論では社会的平均労働としての抽象的人間労働をもって投下労働の出発点としますが、和田氏は個別具体的な諸労働をもって投下労働の出発点とし、それと社会的平均労働との乖離を問題とします。こうすればたとえば障害者の労働なども価値論の枠内で論じられます。こうした根底的関係を逆に延ばせば、投下労働がゼロである「虚の金融収益」の持つ支配労働をも価値論の枠内に捉えられるように思われます。額に汗して働く人々とバブル紳士との格差に対する怒りは、単に感傷や倫理感の問題だけではありません。それは<投下労働の体系としての国民経済(地域経済や世界経済でもよい)>という本源的内容と<投機をも含んで反映する市場価格の体系としてのそれ>という現代資本主義的形態との矛盾という土台を持っています。これは価値論の課題でもあります。

 閑話休題。「虚の金融資産価値」は、金融と実体経済のずれをもたらし、さらには恐慌=産業循環の運動の中では、資産価格と負債との動きのずれをもたらします。実体のない資産価格が崩壊しても、それが作り出した実体のない負債は残り、深刻な不況となります。「バブルは異常な資産価格の高騰を意味する。バブル崩壊は資産価格が正常な水準に戻ることである。単純に考えると、一から再出発することができるように思える。しかし、そうではない」。住宅バブル崩壊後、純資産・可処分所得比率が急減し「その水準は一九九○年代初めの不況時代を下回る。しかし、負債・可処分所得比率は九○年代の水準をはるかに上回る。バブル崩壊は資産を急減させたが、負債は減少させていない。こうして過剰負債だけが残される」(服部茂幸「アメリカ経済を『日本化』させたFRBの理論と政策」『世界』3月号所収、136ページ)。

 実体経済と金融とは日常的には乖離が増大し、本質的には一致するといえます。これは市場メカニズムと恐慌=産業循環との関係にたとえられます。前者が不断に均衡化作用を果たしているように見えながら実は長期平均的視点から見れば不均衡を増大させ、それは恐慌による暴力的調整によってのみ解決されます。近代経済学によれば、投機は市場の不均衡を是正するものですが、実際にはそれによって実体経済と金融との乖離が進み、両者は金融恐慌によって初めて一致できます。金融バブルが、停滞した実体経済まで引き戻されます。しかしアナロジーはここまでです。上記のように資産価格の急収縮に対して負債は高止りします。実体経済における恐慌=産業循環の働きとは違って、「一から再出発」ができません。バブル崩壊は慢性的な実体経済停滞のひきがねとなります。

 おそらくこうしたことも念頭にあって、井村氏は今日の状況を「かつての全般的過剰生産恐慌とは質を異にするものである」(井村論文、104ページ)として以下のように現代資本主義を特徴づけます。

--------------------------------------------------------------------------------

 08年後半以降の実体経済悪化・失業発生は、それに先立って生産が設備投資を軸に市場の制限を超えて相互誘発的拡大を遂げた結果では決してない。現代資本主義経済では実体経済が停滞したもとで、歪んだ金融活動の大膨張が需要拡大、生産・輸入の刺激等をつうじて実体経済を動かし、この金融活動の破綻によって家計の債務超過・消費の冷え込み、実体経済悪化・失業が惹起されるのである。      104ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 井村氏は、実体経済の停滞を前提に、投機的金融活動を主軸に現代資本主義を捉え、それ故、世界金融危機以後も「新自由主義の破綻」という言い方には同調しない点には大いに共感できます。投機的金融活動が劇的に活発化した金ドル交換停止後を一貫して新自由主義の時代として捉えることも妥当と思われます。ただし新自由主義をもっぱら金融面から捉えるのは疑問であり、直接生産過程における搾取強化、それによる資本蓄積を組み込んで理解することが必要でしょう。「生産と消費の矛盾」が不況を激化している関係も重要です。

 投機的金融活動によって歪んだ現代資本主義という捉え方についていえば、これは主にアメリカ資本主義からの見方であって、新興諸国を含めるならば、実体経済面により配慮した世界資本主義像がありうるように思われます。新興諸国や発展途上諸国といっても様々であり、新自由主義グローバリゼーションへの「従属」「対応」「対決」などがあります。アナロジカルにいえば、新興諸国や発展途上諸国と発達した資本主義諸国との関係は実体経済と金融との関係にたとえられ、歪んだ金融を実体経済を支える本来の姿に変えることが必要です。世界金融危機後の世界的な金融規制の動きはここにかかわりますが、そのためには発達した資本主義諸国での実体経済の正常化も不可欠です。金融と実体経済があまりにも乖離し、恐慌によって初めて本来の関係を思い出すのでなく、金融規制と内需循環型国民経済の形成とが車の両輪として不断に追求される経済政策が必要です。

 

         TPPと農業

 TPPに反対にする日本農業像が必要です。その生産力のあり方を示唆しているのが、村田武氏の「選択すべきはTPPではなく東アジアの連携」です。対米従属下で戦略的作物の市場開放を強制され、「日本農業の土台である水田農業の発展を担う経営を『水稲単作型大経営』に限定せざるをえないような制約が加えられ」ました(77ページ)。これが今日の農業危機の根底にあり、日本農業が宿命的に脆弱であるかのような錯覚をもたらしています。日本農業の本来のあり方に対して、消費者として今となっては想像力を喚起するほかありません。村田氏によれば「東アジアモンスーン気候地帯における最も環境適合的な水田農業における土地資源のすべてを活かしての農業展開、すなわち田畑輪換と輪作体系への農法転換をともなった本格的な水田複合経営の形成」(同前)が求められたのにできなかったのです。農民・消費者・施政者が共通の農業像をもつことが日本農業再建の前提でしょう。

 

         科学的社会主義による社会保障論

 『前衛』3月号所収、谷本諭氏の「憲法二五条にもとづく社会保障再生の共同・運動を 社会保障の歴史と理念から考える」は、科学的社会主義の原則的観点に立った社会保障論として貴重な論稿です。資本主義的搾取と生存権、資本のイデオロギーの性格、労働者階級の闘いと資本家階級の対応のあり方、労働者の変革主体形成、革命と改良、といったような多くの問題について、マルクス・エンゲルスの理論から始まって、ロシア革命の意義や社会民主主義への評価をも含めて言及されています。今日の日本の社会保障闘争の意義を根底的に理解する上で不可欠の問題提起となっています。


                                 2011年3月3日



2011年4月号

         財政危機の捉え方

 名古屋では河村市長がたいへんな人気で、今年自ら辞職して信を問うた選挙で圧倒的な得票で再選されました。彼が仕掛けた市議会解散のリコール署名も成立して、解散後の選挙でも河村派の「減税日本」が過半数は逃したものの第一党になりました。この「河村劇場」は民主主義の危機であり、これに対しては様々な批判が出ているので、総合的な批判はそれらに譲ります。ここでは彼の最大の看板「減税」について若干考えてみます。

 政府・財界の意向に沿って、いまやマスコミを上げて消費税増税翼賛体制が築かれ、増税やむなしの世論が優勢になりつつあります。しかし実際のところ、その大部分は「本音としてはいやだけれども仕方ないか」という気分でしょう。対米従属・財界奉仕の「二つの異常」政治は人民の利益に反するから、本来は人民が反対して政治変革に至るのが本筋ですが、そこを抑え込むのが体制側の巧妙さです(というか、それなりの危機意識をもって体制死守に臨んでいると言うべきか)。彼らにしてみれば「自発的支持」を取り付けるのが最重要であり、ブルジョアマスコミによる「啓蒙」はたゆまず実施されています。しかしいくら消費税増税やむなしと思い込まされていても、その痛みは容易に想像でき、できれば反対したいのです。そこに人気絶頂の「反逆児」河村市長が現われて、市民減税とあわせて消費税増税反対と言ってくれれば、飛びつきたくなるのも分かります。

 もちろん河村市長が実際にやった「市民税減税」は典型的な金持ち減税であり、庶民にとっての恩恵はまったくないかきわめて少なく、税収減によって国保料値上げとか市民病院の閉鎖や縮小など福祉切り捨てが進んでいます。もともと消費税増税反対を彼が声高に言っていたわけではないのですが、市民税減税と合わせて言われるところの「減税」の姿勢に支持が集まるのは、消費税増税を煽る世論誘導へのイヤケがあるためでしょう。つまり消費税増税と金持ち減税という両極の誤った政策がここに共存しているのです。消費税増税という体制側の「責任ある」政策のうさんくささが、金持ち減税という無責任な政策を生む土壌を提供しているのです。

 河村市長の消費税増税反対の姿勢がどの程度本気なのかはわかりません。彼の実施した市民税減税は財政赤字を増やし、福祉を削減することですでに持続不可能なことははっきりしているのですが、体制側はこの「反逆児」を必要としています。「二つの異常」に立脚する二大政党の不人気は歴然としています。もちろん多くの人民は「二つの異常」そのものが悪政の根源であることを捉えてはいません。対米従属も大企業本位もぜひとも必要なものである、あるいは仕方ない、ほかに変えようがないものである、と思い込まされています。したがって人民の不満を本当の変革に結実させないためには、ニセの争点をいくらでも設定して人民に目くらましを仕掛け続けることができればよいわけで、今はとりあえず河村市長、橋下大阪府知事などのトリックスターを泳がせておくことになります。彼らの政策は大枠としてはもちろん「二つの異常」の枠内にあり、それどころか新自由主義構造改革の尖兵です。多少の齟齬は許容範囲でしょう。孫悟空が「既得権益の悪者たち」をやっつけて派手に立ち回ろうとも、お釈迦様の手のひらの上であればどうということはありません。じゃまになればスキャンダルの一つもつかんで週刊誌に書かせれば終わりで、別の役者を探すだけです。

 体制エリートによる消費税増税誘導と「反逆児」「庶民派」河村市長による金持ち減税との「対立的」共存を打ち破るためには、人民的な立場からの責任ある財政再建策を提出することが必要です。ところで河村減税への批判として、「朝日」2月23日付の小野善康氏の議論が一般論としては説得力があります。それによれば結論的には、そもそも減税を政治の中心にすえるのは政治の自己否定だということになります。取るべきところからきちんと取った税金を有効に使うのが政治の役割であり、減税というのは、要するに使う能力がないからお返しするということになります。しかし小野氏は菅政権のブレーンとして消費税増税によって社会保障などを増やせばよい、という立場なので、私たちとしてはその部分には同調できません。

 財政危機を正確に捉え、消費税増税などによらない財政再建の道を、日本資本主義の経済構造の変革と合わせて提起したのが、梅原英治氏の「深化する財政危機と11年度予算(下)」です。梅原氏によれば1992年度以来の財政危機の要因は<1位 所得税の減収、  2位 社会保障関係費の増加、3位 法人税の減収、4位 公共事業費の増加、5位 国債費の増加>(5月号の「訂正」により、4位と5位とを逆転させた)となります。軍事費は増えていないから財政危機の要因ではありません。ここには冷静な事実認識があります。社会保障費が財政危機の重要な要因であり、軍事費がそうではないことがはっきり指摘されています。もちろん憲法9条や25条などの精神からすれば、財政危機の要因であるか否かを問わず、必要な社会保障費を確保して軍事費を削減し、その上で財政危機を招かないような予算運営が行われるべきです。つまり事実認識と価値判断(政策判断)とを区別することが必要です。社会変革の運動においてはしばしば両者が混同され、価値判断にとって不利な事実認識を避ける傾向があるので注意すべきです。冷静な事実認識の上にのみ、価値判断を実現する政策運営が具体化できるのです。

 財政危機の第一の要因である所得税収減少の原因としては、経済の長期停滞と減税優位の税制改革ならびに給与所得者の両極分解があげられています。新自由主義構造改革下における経済の長期停滞・構造変動と財政政策とがあいまって危機が作られているのです。

 財政危機の第二の要因である社会保障関係費の増大の原因が高齢化による「自然増」だけではないことが指摘されていることも非常に重要です。日本経済の構造変化(労働の非正規化、貧困化)が大きく影響しているのです。梅原氏は、社会現象を「自然」のようにみなす俗見を排してあくまで社会科学のメスを入れます。それによれば、社会保障関係費の増大の要因としては、社会保障給付の増大よりも社会保険料収入の低迷が大きくなっています。社会保険料については次のことが指摘されます。<1.生活保護など、社会保険料をともなわない社会保障給付の増大。2.事業主負担と被保険者負担が2003年から逆転。後者が多くなる。3.従業員の賃金・給与総額の低迷>。つまりここでも新自由主義構造改革による経済の長期停滞、労働の非正規化・貧困化が社会保険料収入を低迷させて、社会保障関係費を増大させているのです。

 したがって社会保障関係費の削減とか消費税増税による「財政再建」というのは本末転倒なのです。それらは社会危機の悪化と内需縮小による財政悪化を招きます。「回り道になっても、90年代以降の雇用・賃金構造の改善こそが社会保障関係費の増大を抑える近道なのであ」(56ページ)り、税収の増加を通じて財政再建につながる道だと言えます。

 今日の財政危機について梅原氏は次のように認識しています。

--------------------------------------------------------------------------------

 明治以来の日本の財政史をみても、現在の国債依存度や債務残高の対GDP比の大きさは太平洋戦争期以来のものである。裏を返せば、日本の経済・社会が戦争に匹敵するくらいの危機にあり、それが財政に反映しているわけである。   43ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 繰り返しになりますが、この危機を作り出したのは自然現象ではなく、かつては過大な公共事業であり、今では新自由主義構造改革による経済の長期停滞と構造変動・貧困化です。次いでこの危機の深刻さと克服方法をどう捉えるかが問題となります。

 確かに危機は上記のように深刻ですが、それを財政破綻と直結させるのは誤りです。梅原氏は昨今頻出している各種の財政破綻論を検討して、いずれも仮定が恣意的だったり勘違い・見落としがあるなどして退けています。

 そうした前提に立って、財政再建策が検討されます。まずは神野直彦氏らに依拠して債務管理型財政改革(これ以上、赤字を増やさないが、すぐには返さない。一種の債務凍結で、時期を限定せずに長期間で返済していく)が提起されます。ただし上記のように今日の財政危機は日本の経済・社会の危機の反映ですから、財政改革だけでなく、経済改革が必要となります。「財政の内容を、世界企業化を伴う輸出依存型経済に向けた運営から、生活安定優先の内需拡大型に向けた運営へと切り替えていくこと」(64ページ)が必要です。日本経済の長期停滞の打破に向けて、内需が自立的に拡大する好循環を再構築していくことが求められます。

 財政危機についてはヒステリックな脅迫論や逆に無責任な議論が横行する中で、以上のように梅原氏は冷静かつ視野広くまさに社会科学的に分析しています。消費税増税反対、社会保障充実などを求める私たちの運動が今まさに必要とする論稿だといえます。ただし今後は東日本大震災の復興をにらんで財政をどう運営していくのか、新たな展開が求められます。

 

         現代資本主義分析の対照的観点

 『前衛』4月号に高田太久吉氏の「世界不況は終わったのか 世界不況からの出口はどこに見出せるのか」(以下、高田論文)と大槻久志氏の「金融恐慌後の資本主義をどう把握するか」(以下、大槻論文)とが掲載されています。両稿は資本主義に対する循環論・構造論・体制論としてまったく対照的であり、『前衛』誌上の「事件」であるとさえ言えそうです。前者は今日の不況終結論に対して批判的であり、世界資本主義の構造的矛盾を強調し、資本主義体制そのもののあり方に根本的な問題点を見ています。科学的社会主義の見地ならではの分析視角で、新自由主義のみならずポストケインジアンへも(積極的評価も含めているが)ラディカルな批判を展開しています。後者は今日の不況からの回復に楽観的であり、構造論としても体制論としても、新興諸国をエンジンとした世界資本主義がいっそう発展する新段階を展望しています。結論的には私は前者が正しく後者は誤っていると考えます。両者を徹底的に比較検討することで、世界資本主義の現状認識やその方法について深く考えることができるはずですが、ここではとりあえず最小限気がついたことだけを書きます。

 大槻論文は今次世界恐慌に対する「財政資金投入と超低金利政策による景気支持が必ずしも失敗しているともいえない」(221ページ)としています。そして景気回復のみならず新興諸国による世界資本主義の新段階を展望しています。もちろん当面の恐慌対策としてそうした政策が必要なことはありますが、その結果として過剰貨幣資本が累積しカジノ資本主義が悪化することが軽視されています。世界資本主義の新たな発展を展望する以前に今日の深刻な矛盾を見る必要があります。それを何ら解決しない諸国政府の経済政策への批判なくして現代資本主義の分析はありえません。

 また大槻論文は輸出を重視しています。「結局、国内需要項目は増加を期待できるものは無く、景気の回復は輸出の増大に依存するより他はない」(224ページ)というのは現状認識としてはあたっていますが、政策目標としては誤りです。価値判断が現状認識に屈服し、変革でなく現状追随に陥っています。「内需が基本的に重視されるべきであって、外国の状況に左右される輸出に一国の経済が依存しているのは好ましくない」(同前)と一応触れられてはいます。しかし「孤立した経済は現実にはありえず、一定の輸出は絶対に必要である」(同前)とか、「日本経済は輸出依存度を気にする必要はなったくない」(225ページ)という理由で今日の日本経済の輸出依存体質を弁護しています。前者のような超一般論は日本資本主義の特殊な輸出依存体質を論じるのに何ら有効でないし、後者について言えば、確かに輸出依存度そのものは高くないけれども、にもかかわらず輸出の後退がなぜ国民経済に甚大な影響をもたらしたかが大問題だったのです。輸出大企業を頂点とするピラミッド型の産業連関が国民経済の中で大きな位置を占めていることが災いしたのです。国際競争力至上主義によるコストカットが内需を縮小し、そうした競争力維持が円高を誘発し、いっそうの競争力向上の号令が下る、という悪魔のサイクルによって、日本経済は疲弊してきたのです。ここを変革し、人間らしい労働と豊かな暮らしによる内需循環型の地域経済・国民経済を作ることが焦眉の課題となっています。確かに一定の輸出は必要であり、対米従属からアジア重視に変わる必要はあります。しかしそれは悪魔のサイクルからの脱出を伴わなければならないのであり、それを抜きにした輸出先の変更だけでは日本経済の病理は解決できません。

 世界資本主義の新段階という展望も妥当ではありません。大槻論文によれば、資本主義は、発展、成熟、停滞という段階を経て、停滞期になれば国家による景気支持が常態になり、高失業率も当然です。しかし先進国はそういう停滞期の段階でも、多くの人口と広大な国土を抱えた新興国が発展期にある以上、これから世界資本主義はいっそう発展する新段階に入る、というのです。

 確かに<発展、成熟、停滞>というあたかも自然史的過程を資本主義が経過するというのは大ざっぱには言えるでしょう。しかしこのような一般論から現状を天下り的に規定するのは大きな誤りにつながります。先進資本主義国が高失業率にあえいでいるのは、新自由主義構造改革による部分が大きいのであり、これを看過してはいけません。新興国の発展にしてもエネルギー・環境制約があり、深刻な格差問題、階級対立があります。現代資本主義は金融化によって深刻な寄生性・腐朽性をまとった世界資本主義であり、新興国もその中に位置付けられています。新興国の産業資本が稼いだドルはアメリカに還流して、世界資本主義の金融市場の投機の源泉となっています。資本主義生産関係に由来するこうした各国国民経済ならびに世界経済の諸矛盾は深く、けっして楽観は許しません。大槻論文の観点は、資本主義の矛盾を経済成長によって買い取る、という生産力主義であり、過剰貨幣資本・カジノ資本主義の克服、内需型の地域経済・国民経済への変革という構造的課題を看過するものです。

 大槻論文では、農民と都市住民との同盟関係にも触れられていますが、農業の生産性向上を中心に見ているのは問題です。確かにそれは必要ですが、農業については食料主権を確立して世界貿易を適切に制御することが第一の課題でしょう。日本の農民の労賃は二百円台で、最低賃金の三分の一ばかりですから、都市と農村との間には著しい不等労働量交換が行われていることになります。市場を絶対化する観点からは、これは両者の生産性の違いとして解釈されます。しかし国際価格の圧力が農産物の低価格を生んでいるとするならば、むしろ資本主義世界市場が一国の農業労働力の再生産を破壊することで、国民経済発展の障害となっている、と見るべきではないでしょうか。市場の失敗の一種です。したがって価格補償などによる所得の再分配は、バラマキではなく、不等労働量交換の是正と捉えることができます。国民経済にとって適切な労働配置による再生産の確保が第一であり、市場の機能は絶対視されることなく補助的に位置付けられるべきものです(都市と農村の具体的関係については例えば、「朝日」3月26日付の大川健嗣山形大学名誉教授「東京支えた東北を心に刻め」参照)。

 高田論文から学ぶべきことはたくさんあるでしょうが、若干だけ触れます。今日の世界資本主義の矛盾の根源に過剰貨幣資本を位置付け、そのまた根底に資本=労働関係という資本主義生産関係を捉えていることが重要です。それによって今次世界恐慌における空前の銀行救済と景気浮揚策を根本的に批判することができます。問題を「金融市場の失敗」という表層からではなく「資本の失敗」という本質から捉えたこのような論稿は多くはありません。

 現代資本主義の高失業率についても自然現象のようにではなく、「資本の失敗」に規定された新自由主義構造改革の帰結として、「金融市場依存型資本主義の再生産構造」(202ページ)という枠組みの中に位置付けられます。したがって新自由主義はもちろんのこと、ポストケインジアンの財政金融政策も批判され課題が的確に設定されます。それは内需循環型の地域経済・国民経済という政策目標と響きあうものとなっています。

--------------------------------------------------------------------------------

 工業国の膨大な失業者を吸収するためには、かつての高度成長期とは基本的に異なる質と構造を備えた、新しい、持続可能な再生産構造を確立することが、多くの工業国の緊急に取り組むべき歴史的課題になっているのである。    211ページ

 

 世界経済の現状は、すでに述べたように、われわれがオバマ改革の限界をさらに大きく乗り越えて、金融制度改革と不況克服策にとどまることなく、資本主義経済の根本問題である資本と労働の関係それ自体を大きく変革しなければならないことを示している。それは、なによりも労働三権に代表される労働者の権利と労働組合の交渉力の抜本的な強化、巨大金融機関と多国籍企業の反社会的営利活動を規制し、かれらの政治支配に終止符を打つための規制強化と政治改革、世界の数十億の労働者の労働の成果でありながら一握りの金融組織と富裕層の支配下に置かれている莫大な貨幣資本(金融資産)を、人間に相応しく、社会的に有用な労働機会の新たな創出に活用するための首尾一貫した経済政策、さらに、今やこうした経済政策の重大な障害となるWTO、TPPなどの国際取り決めの抜本的な見直し、あるいは廃棄にまで進まなければならないであろう。    218ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 これは大げさに言えば、グローバリゼーション下の世界革命像でしょうか。いささか大風呂敷の感もなくはないのですが、こうした構想がなければ眼前の現代資本主義の経済政策を根底的に批判する基準を持てないでしょう。現代金融の最先端に通じた研究者が科学的社会主義の見地をきちんと踏まえることで、真に批判的=変革的な現代資本主義像を提出したのが高田論文であろうと思います。

 

         追伸

 名古屋中民主商工会の事務局長であった長沢利政氏が3月8日亡くなりました。享年58歳。長沢氏は1月9日に脳出血に倒れ右半身マヒとなったものの、執念のリハビリによって、驚異的な回復力を示しました。杖歩行が可能となり職場復帰もいつになるか、と思われていた矢先に、心室細動による心不全で急逝しました。

 長沢氏はオークマを不当解雇され裁判闘争の後に、民商に就職され、持ち前の正義感と情熱で階級闘争の最前線に立ち続けました。ただ熱いだけではなく、税務署など相手をよく見て、押したり引いたり熟達した交渉術で会員の要求を実現してきました。まさに Cool heads but warm hearts を体現したすぐれた事務局長でした。

 昨年には日航労働者の不当解雇に反対する彼の連帯の手記が「しんぶん赤旗」に掲載されたのを喜んでいたのが思い出されます。仲間には会員には優しかったけれども、権力には厳しく闘う人でした。そのあまりに多忙な日々はこういう形でしか終われなかったのでしょうか。深く哀悼の意を表します。

 「長沢倒る」の報を受け、中民商にはシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)の日々が始まりました。確定申告の時期を控え、毎年恒例の3.13重税反対全国統一行動(今年は3月11日)さえも、(県連の援助が多少あるとはいえ)事務局長不在の民商が役員中心に奮闘することになったのです。「赤旗」を読む時間さえなくなりました。私にとってはこの最大の不幸の中でも貧しい勉強にしがみつきました。それにどれほどの意味があるのか分からないままに。本人にとってはありがた迷惑だろうけれども、この雑文を故長沢氏に献呈します。とき折しも3月11日、全国統一行動の日、東日本大地震で多くの命が失われたのに重なりますが。どういうものになるかは何とも言えないけれども、確実にこの衝撃は新しい時代をもたらします。そこへ私の貧しい勉強に出番があるのだろうか。
                                 2011年4月3日




2011年5月号

         資本の有機的構成の高度化をめぐって

 藤田実氏の「日本経済分析とマルクス経済学」では、資本蓄積論=再生産論の体系に沿って「生産と消費の矛盾」が過剰生産恐慌として爆発せざるをえないことが理論的に説明され、さらに今日の日本経済分析にこの視角が貫徹されるべきことが主張されます。

 資本間競争の強制による技術進歩は資本の有機的構成を高度化させることで、一方では労働力需要の相対的減少を通じて産業予備軍を増大させ、他方では利潤率を傾向的に低下させます。この中で利潤量を追及する資本は、一方では賃金水準を切り下げ、他方では生産を拡大しようとします。賃金引き下げは、生産された商品への需要を縮小するので、商品の生産と実現の条件は矛盾します。個別企業のリストラ努力が国民経済全体では不況促進に帰結する、という今日言うところの「合成の誤謬」が生じます。「こうして生産の無制限的拡大衝動と労働者の狭隘な消費限界という資本主義経済に内在する矛盾である『生産と消費の矛盾』が顕在化し、過剰生産恐慌を引き起こす要因となって」(70ページ)きます。

 もちろんこの「労働力需要の相対的減少」と「利潤率の傾向的低下」は一方的に進むものではなく、様々な反対に作用する諸要因との対抗関係の中で大局的には貫徹される、と説明されます。ここで両者に作用する「資本の有機的構成の高度化」について少し考えてみます。資本の有機的構成は「資本の技術的構成の変化を反映して変化する資本の価値構成」と定義されます。したがって現象的には有機的構成は価値構成と同一視されますが、本質的には技術的構成の変化を反映して変化する価値構成だけが有機的構成です。

 実際には技術的構成と価値構成とは必ずしもパラレルに動くとは限りません。技術的構成が高度化しても生産手段の価値が下がれば、価値構成が変わらないとか低下することもありえます。技術的構成が変わらなくても賃下げで可変資本価値が減少すれば価値構成は高度化します。しかしこれは有機的構成の高度化とはいえません。

 前者はおそらく高度経済成長期に該当し、当時は必ずしも「有機的構成」が高度化していない、という研究結果が存在するのは、実際には価値構成が技術的構成を反映していないためでしょう。今日特に問題となるのは後者で、まともに設備投資を行なわないけれども、リストラによって莫大な内部留保を抱えた大企業は価値構成が高度化していると思われます。しかしこれは有機的構成の高度化ではなく、資本蓄積運動の発展ならぬ停滞を反映しています。

 技術的構成は使用価値による概念であり、価値構成は価値による概念です。有機的構成は両者の統一です。使用価値と価値とがある程度パラレルに増大していくような資本蓄積が『資本論』の世界ではないでしょうか。そこでは資本の有機的構成概念は価値構成のままでも「素直に通用」します。しかし今日の発達した資本主義諸国の経済においては、使用価値的な停滞が顕著であり、価値的に糊塗しようとしています。もちろんそんなことは原理的に不可能であり、金融化・バブル化は遅かれ早かれ破綻が必然ですが。資本蓄積のダイナミックな展開が恐慌を導く『資本論』の世界と違って、その停滞が長期不況を導く今日の発達した資本主義諸国の経済では、「資本の有機的構成」は「素直に通用」しないように見えます。しかし技術的構成・価値構成・有機的構成という概念立てを見極めれば、逆に資本主義の発展期・停滞期を区別して見るきっかけともなります。

 停滞期資本主義では、必ずしも資本の有機的構成が高度化しない中で、賃下げ・リストラによって価値構成が高度化し「生産と消費の矛盾」が激化して長期不況となっているのです。このように有機的構成の高度化も価値構成の高度化の一種なので似たような帰結になります。しかし「有機的構成の高度化」が活発な資本蓄積を前提にするのに対して、「有機的構成の高度化ではない価値構成の高度化」=「技術構成の高度化を伴わない価値構成の高度化」は資本蓄積の停滞を前提にしており、反転攻勢の救いがありません。それは過小消費説的世界であって、短期的中期的には生活重視的で産業育成的な政策的対応が、長期的には資本主義経済そのものの止揚が求められます。

 

 

         中小業者の経済学的規定

 中小業者を組織していくのは難しく、たとえば民商では会費の集金も簡単にはいきません。この問題は具体的には運動論の課題であり、実践的に考えていくべきものです。しかし原理的に考えてみることも無意味ではないと思います。

 自営業者は基本的には「自分さえよければいい」という利己的存在です。これは悪口ではなく、市場経済に生きるものの必然的姿です。市場経済は自己責任に基づく弱肉強食の競争世界だからそうならざるをえません。しかし自営業者はその中で明らかに「弱」であるので、実際には一人裸で市場経済に立ち向かえば淘汰されるばかりです。そこで何らかの共同が必然となります。ここに様々な協同組合や民商のような組織の存在根拠があります。だからそうした組織の一員となった自営業者は利己的生き方の修正を迫られます(依然として市場経済に生きているのだから否定ではなく修正です)。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という精神をいくぶんかでも理解して実践しなければなりません。

 時間は自営業者にとっては所得の源泉となる可能性がありますが、その一部を所属する組織のために割くことが求められます。組織を維持するためには会費を払わねばなりません。市場経済では何らかの商品やサービスと引き替えに金を払います。しかしこの会費はそれとは性格が違います。何かをしてもらったからサービス料金を払うのとはわけが違うのです。組織の性格を理解しその目的を実現するために払うのです。民商ならば、確定申告や融資の相談にのる、不当な税務調査に抗議する、消費税引き上げ反対運動をする、その他中小業者の利益を守るあらゆる活動をするために、事務局員を雇う、事務所を維持する、宣伝活動費用を賄うなど多くの費用がかかります。会費はそのために払うのです。共同の組織の中では市場経済の原理は部分的に否定されます。

 今日の市場経済は資本主義的市場経済です。労働者は消費者としては直接に市場経済に直面していますが生産者としてはそうではありません。自営業者は生産者としても市場経済と向き合っています。この点では自営業者は労働者よりも資本に近い存在です。しかし同じく市場経済のアクターであってもその存在原理は違います。自営業者は市場経済の中で生業を営んでいるのに対して、そこで資本は利潤を追求しています。利潤追求を目的とせずに市場経済の中で生きているという意味では、自営業者は資本よりも労働者に近い存在です。自営業者の流通範式は W―G―W であり、資本のそれは G―W―G′ となります。ここには、生活に必要な商品を得るために営業する自営業者と、利潤を追求し資本の増殖を目的とする資本主義企業との違いが表示されています。なお労働者の流通範式も自営業者と同じく W―G―W です。初めのWは労働者の持っている自己の労働力商品であり、それを売って賃金Gを得て、消費手段として最後のWを買います。

 この二様の流通範式は、営業目的の違いを通して自営業者と資本との違いを浮き彫りにします。歴史貫通的には経済の目的は使用価値の生産と分配を通して社会の成員の存在を可能にすることですが、市場経済の場合にはそれを価値の交換という形で迂回的に実現します。ここでは使用価値ではなく価値の自己目的化(本来、価値は使用価値を交換する手段に過ぎないが)という転倒が生じる可能性が出てきます。資本主義的市場経済においては、この転倒は完成し、そのような質的転換にとどまらず、さらに価値量の追求が利潤追求という形で経済の根本原理まで高められ、政治・文化・イデオロギー等あらゆるものを支配します。

 自営業者は市場経済での営業活動を成功させることで自己の私的労働を社会的労働として認めさせます。これは自分の商品なりサービスなりの価値の実現を通して使用価値としての実現を克ち取ることです。市場において、価値量の追求としての利潤追求ではなく、このようにして生業を営む自営業者は、資本主義企業よりも使用価値にこだわることになります。いわゆる職人気質です。少数の巨大企業が市場を支配してしまうよりも、多様な自営業者が個性的な使用価値を提供する余地が残っていることが人々の生活に潤いを与えます。生産力主義的には、資本の成果による安価な商品の大量供給こそが社会進歩の象徴ですが、成熟した経済社会は多様な市場経済を容認します。G―W―G′がW―G―Wを駆逐してしまうことは決して進歩ではありません。

 発達した資本主義諸国の経済は停滞しています。一方におけるこの資本蓄積の停滞に対して、農林水産業や都市自営業者を含む小経営の多様な発展を組み合わせて、「停滞」を「成熟」に組み替えていくことが求められています。

 

 

         東日本大震災が問うもの

 『世界』4月号の政治論文を読んでいて、時間の無駄だったと思えるようなものがありました。それは、支配層の機関紙に成り果てた「朝日」とたいして変わらない政局モノに堕していて、残念ながらこの手の政治論文は以前から多いのです。しかし5月号で迅速に震災特集を組んだことには敬服しました。知識人たちがいちはやく「いざ鎌倉」と馳せ参じる対象として『世界』はいまだ健在であり、それを組織化する能力を持っていることが示されたのですから。内橋克人氏の怒りに触れることは「想定内」とはいえ、いつも啓発されるものがあります。この内橋氏や池内了氏石橋克彦氏らの論稿では、原発推進の政府・電力会社と御用学者による「科学の専門家・プロ」としての陰湿な批判つぶしの策動が告発され、奢りに基づいて学問を悪用する連中の醜悪な姿が浮き彫りにされています。

 被災者たちの理性的な助け合いの姿勢が世界中から賞賛されていることは、確かに日本人として素直にとてもうれしいことです。しかし右派筋がこれを保守的なナショナリズムに結びつけようとしていることは警戒しなければならないし、何よりこうした美談に隠れて、「糾弾より救援を」という言い方で、政府や電力会社などの責任をあいまいに後回しにするようなことは絶対に許されることではありません。「これだけのおぞましい悲惨を経てなおも過去の慣性のうえに社会再生など可能であろうか」(44ページ)という内橋氏の問いに正しく答えることが必要です。「過去の慣性の否定」とはいっても「構造改革の推進」などという真逆の答えもあり、それが着々と狙われていますから。

 その答えの前に一言。『世界』の特集で「想定外」に感銘深かったのは品川正治氏の論稿「原子力と損害保険 ブレーキをかける矜持と見識」です。氏については経済の一般的な話とか、戦地からの引き上げ時に新憲法に触れた感激などの話はこれまでも読んでいましたが、「損害保険業界で長く生きてきた人間として」(159ページ)のいわば本業の話題には初めて接しました。そこでは原発事故の補償問題に触れつつ以下のように述べられています。

--------------------------------------------------------------------------------

 私自身は、損害保険業とは、日本の全産業が成長に向かって走っているなかで、たった一つのブレーキ役であると考えている。もちろん、いくら力を入れてブレーキを踏んだところで、全産業がアクセルを踏む力にはかなわない。だが、私は「花見酒は絶対に飲むな」と言い続けてきた。みなが我が世の春を謳歌して酒を飲んでいるときに、ブレーキ役としての損保業界がそれに同調していては、本来の社会的役割を果たすことができない。当時、同業他社の経営者たちもそのような意識の人が多く、だからこそ損保業界はバブルに踊ることなく、バブル崩壊の際に一社の倒産もなかったのである。  162ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 この15年の業界再編で損保業という自覚が薄まり、金融業という意識が強まっていることに品川氏は危惧を示しつつ、上記のアクセルの象徴が原発であり、今回の大災害をきっかけとして「原発政策は抜本的に見直すことである」(163ページ)と結論されます。経済と科学が手を取り合って暴走しているときに、まさに「ブレーキをかける矜持と見識」が必要となります。これは保険業に限りません。資本主義経済はもともと過剰蓄積に向かって暴走する本質をもっており、今日のカジノ資本主義において、それは数倍加されています。暴走を防ぐのは資本への民主的規制であり、資本の側から見れば、暴走を自制することは企業の社会的責任の一つということになります。

 閑話休題。飯田哲也氏と鎌仲ひとみ氏の対談「自然エネルギーの社会へ再起しよう」は「過去の慣性によらない社会再生」を正しく提起したものです。

 今回の事故を受けてもなお原発存続の世論が過半数ですが、飯田氏は以下の三点に対する無理解を指摘します(120-121ページ)。第一は、事故に対する無限の賠償責任を考えれば経済性がないということ。第二は、老朽化した日本の原発は急激に減っていくということ。第三は、日本のエネルギーの未来には原発以外の有力な選択肢があること。

 三点目に関してはこう言えます。事故があった場合、「原発のような大規模一極集中型は、システムとしては極めて脆弱であ」り「自然エネルギーは小規模分散型で数多く散らばっているので、日本全国から見ればほとんどダメージはない」のです(122ページ)。

 次いで自然エネルギーと地域経済との関係が重要な論点となります。大都市と地方との関係はどうなっていくのか。

--------------------------------------------------------------------------------

 福島県や新潟県に原発を置き、危険とゴミを地域に押し付けて、安全――今回で東京も安全ではなくなったのですが――と便利は東京が享受していたのです。今後は、地域の自然エネルギーを増やして、東京はそれを高い値段で買って、そのお金を地域で回していくという新しい関係性を作り上げていかないといけない。

   …中略…

 地域でお金を回す構造をつくると、豊かさが地域に広がっていく。そういう構造にしていくのが自然エネルギーのあり方です。        124ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 これはまさに今次世界恐慌が日本経済に提起した課題…外需依存型から内需循環型の地域経済・国民経済への転換…とぴったり一致します。ただしこの展望の実現には多大な困難がともないます。

 一方で絶望と沈黙、他方で喧騒やカラ元気、と様々な感情が渦巻く被災状況の中でも、批判的ヒューマニズムを土台にした冷静なリアリズムが必要とされます。「震災後には『がんばれニッポン』という言葉が躍った。だが震災が浮き彫りにしたのは、『ニッポン』の一語で形容するにはあまりに分断されている、近代日本の姿である」と喝破した小熊英二氏の鋭い議論に耳を傾けましょう(「朝日」4月28日付「東北と東京の分断くっきり」)。

--------------------------------------------------------------------------------

 復興に水をさしたくはないが、懸念されるのはいっそうの過疎化だ。グローバル資本とグローバルシティにとって、食料と労働力の供給地は東北である必要はない。20世紀の国内分業で位置を定められてきた東北は、21世紀の国際分業競争の渦中で打撃をうけた。地震と電力供給のリスクがある東北から工場を海外へ移す動向も予想されている。町をまるごと失い、放射能におびえ、仕事と安全の未来もみえない状態が続けば、若者から先に東北を離れてゆく。この現実を直視し、日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有せずには、防災都市やエコタウンの構想も新築の過疎地と財政赤字を残すだけに終わりかねず、原発に頼らない地域社会も作れない。

--------------------------------------------------------------------------------

 このグローバリゼーションの現実を受け入れよ、という議論は支配層から必ず出てきます。もちろん小熊氏はそれを克服するため、事前にあえて怜悧に現実を提起したと思われます。内需循環型の地域経済・国民経済への転換という展望はグローバリゼーションへの民主的規制としての政策的イニシアティヴを抜きには語れません。「日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有」するという小熊氏の提起はその一つの局面に必要なものでしょう。

 ついでながら「朝日」4月28日付から(新聞社としての全体的な編集姿勢はダメでも良い記事は散見される)。1997年から「原発震災」を警告してきた石橋克彦氏は「逆向きの発想」を提起します。それは「社会の現状を与えられた条件として研究するのではなく、地震研究者だからこそ気づく危険性を示して社会の変革を提言するという発想」です。しかし実際には、与件としての体制社会が実施する原発のような危険なことを正当化する道具として科学は使われてきました。すべてを理解しているわけではない科学が提出した一定の結論(たとえば「被害想定」)が、あたかも確立した根拠として扱われてしまうのです(そして後の祭としての「想定外」弁明)。このように御用学者たちにおいては、社会的無批判性と自己の自然科学への過信が固く結合しているのでしょう。石橋氏の警告に対して、工学者たちは、専門外の地震学者は黙っておれ、と応じていました。自然科学が批判的な社会科学と結合することによって、こうした御用学問的悪用を防ぎ、逆に社会変革に向かうことができます。

 石橋氏のこの姿勢は一貫しています。阪神大震災から1年を経た1996年1月18日の「朝日」夕刊での論稿「自然と調和、分散型国土で」の的確さは見事なものです。これは主に都市を念頭においていますが、都市と地方との関係が問われる今回の東日本大震災について考え、さらにこれからの国土造りを展望する際に欠かせない視点を提供しています。

 「直撃する大地震の破壊力はすさまじく、社会・国土・都市の現状では、神戸・阪神間の被害に匹敵するかそれを上回る震災を何度か被って、全世界にも深刻な影響を与えかねない」。この的中した予言に続いて「将来の東海・南海巨大地震では、やや長周期の大揺れも三大都市圏や多くの地方都市を襲い、阪神大震災で無事だった超高層ビルや免震構造をも損傷する恐れがある」と述べられます。今回の地震における東京での揺れは、この指摘の正当性を示唆しているようです。そして「このような厳しい状況を認識すれば、都市という器の在り方を不問にして中身だけを技術的にいじる震災後の多くの防災都市論議がいかにも空疎に響く」と断言し、以下に展開される提言は必読です。

-------------------------------------------------------------------------------

 地震に強い都市づくりとは、結局、都市と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくることに帰着する。それは、自然の摂理に調和した国土づくりということであり、災害に強いばかりではない。地球の環境と自然、自然の一部としての人間の身体と精神を守ることによって、より高度な文明の実現につながる。

-------------------------------------------------------------------------------

 続いて東京一極集中や弱肉強食の規制緩和万能論が批判され、地方の一次産業・地場産業の振興、都市では小規模店などによるコミュニティの重視などが主張されます。先の飯田哲也氏の地域分散型自然エネルギーによる地域経済振興の提唱とも重なり、今次世界恐慌が提起した内需循環型地域経済・国民経済への転換にも連なる観点です。重ねて言えばそれらの実現は、震災復興にことよせて、新自由主義グローバリゼーションに乗った構造改革を徹底しようという路線との正面対決を抜きにはありえません。

 蛇足ながら、被災者たちの理性的な助け合いの姿勢に関連して思うところを一つ。被災地に暴動はなく人々は秩序正しくがまん強く、便乗値上げもほとんどありません。日本社会では、こうした非常時に私利私欲をむさぼったり、力ずくでことを運ぶのは恥ずかしいとされているためでしょう。もちろんこれは素晴しいことであり、私たちの立場からすれば「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』第1部第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」より)の萌芽がそこにあるとさえ言えます。しかし戦前・戦後を通じた日本資本主義の長い文脈の中ではむしろ逆にこれは「搾取と悪政に耐えるフレクシビリティ」という性格をもつとも言えます。自助と共助によって日々の困難を何とかやり過ごし、社会の変革というような「大それたこと」を求めないというセンスにつながります。おそらくこれは理論というより感性の深みにあり、それだけに強固です。演歌的世界とでも言うべきか…(確か古賀政男は「演歌が好きなうちは日本人は幸せになれない」と言っていた。偉大な作曲家は自己の仕事に深いアンビバレンスを抱いていたのだろうか)。そこで単純に図式的に言えば、もし社会変革の理論が(何とかその感性をも含めて)人々をつかむならば、資本主義的に抑圧されたみじめな人間像から共産主義的な自由な自立した人間像へ、という劇的な逆転を日本人は成し遂げるかもしれません。

 そんな夢想はやめろという声が聞こえる前に、もうちょっとは現実的な話を。世界から賞賛される被災者たちの姿を憲法9条とセットにして押し出すならば日本の信用を大いに高めます。これこそまさにわが国に最大の安全保障を提供する可能性をもたらすのではないでしょうか。かつて日本全体がいわば狂気の中で、侵略戦争に突入して行った歴史があり、今もなお支配層の中からそれを反省しない妄言が発せられることによって、世界でとりわけアジアにおいて日本国家と日本人は信用をなくし警戒されています。しかし理性に導かれるとき、日本人は平和な助け合いの精神に貫かれることが今回の災害ではっきりと示されました。津波の中で中国人研修生を助けて自らは犠牲になった日本人の行為が中国で大きな感動を呼んでいます。世界から同情され尊敬される日本に無理難題をけしかけたり、ましてや攻撃をしかけることは難しくなっています。今こそ憲法の精神に立って、武力によらない真の平和を東北アジアに構築していくイニシアティヴを日本政府がとるべきです。対米従属が骨までしみた支配層にそれは期待できないかもしれないけれども、かすかに思い出されるのは鳩山元首相の姿です。首相就任直後に国連安保理で彼は立派な演説をしました。「近隣諸国で核兵器開発が問題になるとき、世界では日本の核武装が懸念されるけれども、それは核兵器廃絶への日本人の決意を知らないものだ」というような内容を喝破したのです。あの頼りなかった首相のわずかな実績の一つだ(しかし重要な意義を持つ)といえます。これは多くの日本人の素直な気持ちと一致しており、憲法の理念にも沿います。日米軍事同盟や自衛隊はすぐにはなくせないかもしれないけれども、平和外交に舵を切ることは不可能ではないはずです。米軍の災害救助活動を奇貨として軍事同盟強化を図るような逆行を許さず、憲法と日本人の世界的信用こそが平和への闘いの最高の手段だということを高々と掲げたいものです。

 失われた多くの人命と被災者の厳しい現状を思えば、ずいぶんとりとめもないのんきな話をしてしまいました。妄言多罪。
                                 2011年5月3日



2011年6月号

         利潤率をめぐって

 不破哲三氏の「『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる」連載2、には、利潤率の理論的考察があり、佐藤拓也氏の「日本資本主義の長期停滞 投資の抑制と利潤の拡大を中心に」には利潤率の現状分析があります。理論も現状分析も私はとても十分に理解できてはいませんが、いくつかの論点について問題提起したいと思います。

 不破氏は「利潤率の低下の法則」を取り上げています。マルクスが「不変資本と可変資本」ならびに「剰余価値(率)と利潤(率)」をそれぞれ概念的に区別することによって、「利潤率の低下」現象を解明したことを不破氏は高く評価しています。しかしマルクスがそれを資本主義の危機論と結合させたことは批判されます。その根拠としては「利潤率の低下」はもっぱら生産力の問題であり、生産関係とはかかわりないから、ということがあげられます。

 確かにマルクスは生産力発展にともなう不変資本部分の相対的増大によって利潤率の低下を説明しているのだから、その限りでは生産力の問題だと言えます。また利潤率の低下は長期的現象なので、これを、周期的恐慌によって繰り返される利潤率の崩落と同一視するわけにはいかず、資本主義の危機論と直結するのも適当ではありません。

 しかし利潤率は剰余価値率や実現問題によっても規定されます。剰余価値率は生産力とも関係しますが、労働者と資本家との力関係という生産関係とも関係します。搾取強化によって賃金が下がり剰余価値率が上がれば利潤率の上昇要因となりますが、賃金の下落によって需要が縮小すれば商品の実現が制限され、これは利潤率を押し下げます。

 あるいは純粋に生産力の問題をとっても、生産力発展による生産手段価値の低下は不変資本部分の相対的増大を相殺する方向に働くことで、利潤率の低下を相殺する方向に働きます(資本の技術的構成の高度化が必ずしも価値構成の高度化になるとは限らないということ)。生産力発展による剰余価値率の上昇も利潤率の上昇圧力となって、利潤率の低下を相殺する方向に働きます。

 つまり「利潤率の低下の法則」はもっぱら生産力の問題であって、生産関係とは無関係だ、とは言えないし、生産力の側面をとっても、この法則の証明が自明のことだと断定はできません。

 しかしスミス、リカード、マルクスが認めたこの法則を誤りだとすることも躊躇されるところです。理論研究は様々に深化されているのでしょうが、ここでは現状分析とのかかわりで素朴な問題意識を提出してみたいと思います。

 資本主義の新興国と先進国との関係を見ると、前者では利潤率が高く、後者では低くなっています。これは「生産力発展による利潤率の低下」を裏付けるかのようです。ところが先進国では新自由主義構造改革の下で利潤率が上昇する傾向があります。佐藤拓也氏の前掲論文によれば、日本資本主義はその典型であり、慢性的な過剰生産傾向の下で、景気回復期にあっても投資を抑制し、不況期には資産を削減し、賃金は一貫して抑制することによって利潤率を上昇させています。こうして資本の技術的構成は停滞的かむしろ下落傾向なのに対して、価値構成は上昇傾向にあります。これらを見ると、投資を抑制しそれ以上に賃金を下げることで価値構成は上昇しているけれども、剰余価値率がさらにいっそう上昇して利潤率が上昇する、というのが新自由主義的資本蓄積の姿ではないでしょうか。これを図式的に示す数字例を以下に掲げます。

 

A) 400W′=200C+100V+100M 

B) 520W′=300C+100V+120M

C) 340W′=180C+ 70V+ 90M

 

 上の三つを資本主義国民経済のそれぞれの社会的総資本(W′)の状態をあらわしているものと想定します。(A)は原型であり、(B)は『資本論』的な生産力発展による資本の有機的構成高度化をともなう資本蓄積様式を表現します。生産力発展により、剰余価値が増大しています(相対的剰余価値と労働力との増大。消費財価値の低下により労働力の個別的価値は下がるが、資本蓄積にともなって労働力は増加し、可変資本の総額は不変。剰余価値は増加する)。(C)は新自由主義的資本蓄積を表わしており、不変資本の削減とそれ以上の可変資本の削減があり、しかし剰余価値の減少幅は少なくなっています。国民所得(V+M)を見ると(A)の200に対して、(B)は220と増大していますが、(C)は160に減少しています。以下にそれぞれの資本の価値構成(C/V)、剰余価値率(M/V)、利潤率<M/(C+V)>を示します。

 

    価値構成  剰余価値率  利潤率

A)   2     100%    33%

B)   3     120%    30%

C)   2.57    129%    36%

 

 ここには新自由主義的蓄積様式の反動性が現われています。労働者の生存権を無視して賃金を下げ、資本蓄積も抑制することで利潤率を上げ、余剰貨幣資本は不生産的な投機に回し、結果的に国民経済を縮小再生産させています。急速な生産力発展というその歴史的使命を果たし終わった経済的社会構成体としての資本主義はもはや歴史の舞台から去る他ありません。

 佐藤論文の最後にこうした新自由主義的資本蓄積様式からの脱却の困難が語られています。「巨大な資本を有効活用する方法にしても、そもそも社会的総資本の大部について、その投資決定が少数の大資本の手中にある以上、それを国民が意識的に利用することは極めて難しい」(120ページ)。つまり資本主義的生産関係そのものに問題があるということです。にもかかわらず少なくとも近未来においては資本主義の存続を前提に経済政策を考えざるを得ない、というのが民主勢力の課題であり、それを避けて通れないところに困難性があり、それを克服する実践と理論の創出に挑戦しなければならないのです。

 「利潤率の低下の法則」を現状分析の側面から考える際には、まずは資本主義の新興国と先進国(成熟国・停滞国)との関係を取り上げ、次いで先進国における新自由主義構造改革下での「利潤率の上昇」現象を取り上げる必要があります。また分析方法として、資本の有機的構成の高度化に由来する利潤率の低下という生産力的側面からの本筋をまずおさえつつも、生産関係的側面も含めた剰余価値率の動向や実現問題など、この法則に対して様々に働くベクトルを総合的に捉えねばなりません。利潤率は資本蓄積を規定するものであり、それ自身が非常に重要ですが、にもかかわらずそれは一つの現象であって、それをもたらす本質的要因を分析することは不可欠です。日本資本主義における長期停滞(それは先進資本主義諸国にも共通する)を司る資本の高利潤率と低蓄積率というパラドクスを新自由主義的資本蓄積様式として解明した佐藤論文の意義はきわめて高いと言えます。

 

         統計の利用

 恣意的な数式例にあまり説得力はないので、素人談義と違って、研究者の論文では現実の経済統計を様々に加工したり解釈を施すことになります。佐藤氏が指摘しているように、たとえば資本の回転の問題があるので、現実の統計からマルクス経済学でいう利潤率を読み取ることは大変に困難です(121ページ)。これは一時が万事なので、統計をマルクス経済学の概念に近似的に引き付け直して利用することになります(ただしその際に両者を混同してしまうことはよく見られる)。佐藤氏もたとえば資本の技術的構成と価値構成について統計から近似的に読み取っています(110-111ページ)。

 資本の生産性と労働生産性という言葉も登場します(111ページなど)。ここで注意したいのは、生産性とか生産力というのは本来は直接的生産過程における使用価値的概念だということです。実際には現状分析の論文では、統計的制約から、労働生産性といっても付加価値生産性であることがほとんどです。付加価値生産性であればすでに実現問題を含んでいます。佐藤論文での「資本の生産性」も、分子が付加価値であろうと売り上げであろうと実現問題を含んでいます。112ページでは「生産能力」と「生産性」という言葉が使い分けられ、前者が直接的生産過程の問題を扱うのに対して、後者が実現済みの「売り上げ」(ないしは付加価値)を前提にした概念とされています。生産性という言葉を使うと直接的生産過程の問題だと意識されますし、それは正当な意識です。しかしそこに落し穴があって、「労働生産性が低い」というのは労働者への攻撃になりますが、ほとんど実際には「付加価値生産性が低い」ということであり、実現問題の責任も合わせて労働者に負いかぶせるものです。

 「商」としての統計値には注意が必要です。佐藤論文での「資本の生産性」は固定資産に対する売上高ないし付加価値の割合を指します。「資本の生産性」は高度成長期に上昇し、その後下降しましたが、2000年代にまた上昇に転じました。しかしこの二つの上昇はまったく意味がちがいます。前者では固定資産が増大する中で、それ以上に売上高が伸びたのに対して、後者では売上高が停滞する下で固定資産を抑制することで「資本の生産性」の上昇が追求されました(110ページ)。「生産性の上昇」といえば活発な資本蓄積を前提に考えがちになりますが、近年のそれはまったく違うのです。これは「商」としての統計値ではそれ自身だけでなく、それを導く分母と分子との変化をそれぞれに見ないといけない、という重要な教訓です。

 

         利潤率と恐慌論

 1970年代はスタグフレーションの時代であり、グリン=サトクリフ・テーゼがはやったのはこの頃でしょうか。賃金と利潤との対抗関係に着目して、賃上げによって利潤を圧縮し資本主義の体制的危機を惹起して革命を起こそうという戦略だったように思います(違っていたらすみません)。しかし危機感を持った体制側は新自由主義構造改革を敢行し、労働運動を抑圧し、イデオロギー制覇も果たして、資本の強蓄積=利潤増の体制を見事に築きました(サッチャー、レーガン等)。1980年代から今日までは新自由主義構造改革の時代とも言えましょう。欧米のことはいざ知らず、少なくとも日本においては、労働運動の弱さから、賃金と利潤との対抗関係はあまり重要な問題にならずにきたと言うべきでしょう。1980年代あたりでは日本資本主義は「優等生」であり(「日本経済上出来論」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」)、プレモダンであるが故にポストモダンであるなどと言われたり、批判側からは資本の法則の過剰貫徹という言い方もありました(この「優等生」の裏で内需不足という日本資本主義の宿痾が形成されていたというべきではないか?)。

 しかしバブル崩壊後は一転して日本型システムは集中砲火をあび、米国崇拝の下、憑かれたように新自由主義構造改革に邁進し、悪魔のサイクル(円高→コスト削減→競争力向上→円高→、ならびに コスト削減=賃下げ→内需縮小→輸出ドライブ→コスト削減=賃下げ→)にはまりました。株主資本主義による利潤第一主義のいっそうの強化により、賃金圧縮はますます進み、内需不足は国民経済の縮小再生産に至りました。

 恐慌論においては、「搾取の条件と実現の条件とは違う」という重要命題があり、商品過剰と資本過剰との関係が重大問題となってきました。労賃騰貴による利潤圧縮が資本の絶対過剰を導くという宇野恐慌論の命題やグリン=サトクリフ・テーゼは少なくとも日本資本主義には当てはまらず、それどころか利潤率上昇を目指した強搾取によって内需不足による長期停滞に陥っています。この状況下で資本蓄積を抑制することで利潤率を確保する資本主義。利潤率が高くても資本蓄積を抑制する(資本蓄積を抑制するから利潤率が高くなっているのだが)というのは、高利潤率の下で資本過剰に陥っているということになります。これは商品過剰に対する資本の防衛反応だと言えます。商品過剰が利潤率を押し下げて資本過剰を導くという論理展開は以前からありましたが、今や商品過剰が「高利潤率による資本過剰」というパラドクスに帰結しています。これは恐慌論と言うよりもそのヴァリエーションとしての長期停滞論と言うべきでしょうか。
                                 2011年6月1日



2011年7月号

           恐慌論をめぐって

 

         利潤率の傾向的低下の法則と恐慌論

  不破哲三氏の「『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる」連載3は、マルクスの資本論草稿に対する文献的研究の形をとりながらも、内容的には不破氏自身の恐慌論(もちろんその全体像ではないけれども)をも提出しています。以下では、マルクスの恐慌論とはいかなるものであったのか、という文献的研究の問題は措いて、不破氏の恐慌論について若干の検討を行ないたいと思います。課題は三つあります。一つは、利潤率の傾向的低下の法則と恐慌論とはどのような関係にあるのか、二つ目は、経済学体系と恐慌論において「資本一般」という方法は放棄されるべきものなのか、三つ目は、「流通過程の短縮」という運動形態の発見は恐慌論においていかなる意義を持つのか、という問題です。

 利潤率の傾向的低下の法則と恐慌論との関係については、不破氏の立場ははっきりしていて、両者は無関係というものです。6月号の「連載2」では、前者はもっぱら生産力にかかわるもので生産関係にはかかわらないとして、よってそれは資本主義の危機とも恐慌とも関係ないと断じていました。前回の私の「感想」では、利潤率は剰余価値率と実現問題とに関係し、これらは生産関係とかかわるので、件の法則が生産力のみにかかわるというのは誤りだ、と批判しました。

 今号の「連載3」では「『利潤率の低下の法則』は強度に数学的な法則だ」とする立場から、「『利潤率の低下の法則』が資本主義的生産様式が新しい生産様式への交替の歴史的必然性を決定する法則、その意味で経済学の最も重要な、最も本質的な法則だと規定する」マルクスの立場が批判されています(160ページ)。さらには「革命勢力の強弱の度合いにかかわら」ない「強度に数学的な法則」から生産様式の移行にまで論及するのは「経済的崩壊論、自動崩壊論」(同ページ)だとして、厳しく批判されているところに、不破氏の問題意識が端的に感じられます。

 しかし私のようなあいまいな文系人間からすると、これは理系の人の割り切り過ぎに映ります。この法則の考察に際して、不破氏は利潤率を量的側面のみから捉えていて、質的側面を無視しています。経済学は資本主義経済を歴史貫通的内容と特殊資本主義的形態との両面から捉えるものです。したがって利潤率の増減だけでなく、資本の運動を形態的に規定する(資本が主人公でない社会では利潤率という形態が生産を規定しない)その質的意義をも捉えることが必要です。「利潤率の傾向的低下の法則」の捉え方としても、「長期的傾向として利潤率が低下していく」という結論部分だけでなく、そこに至る資本の運動の矛盾的経過を全体として捉える、という姿勢が重要だと思います。そこには恐慌論や資本主義の本質論との関連を見い出すことができるでしょう。私としてはこの法則の結論部分には十分に確信は持てないのですが、むしろそれを導こうとして、利潤率を中心に資本の運動を分析したマルクスの方法こそ重視すべきではないか、と考えています。

 富塚良三氏の名著『恐慌論研究』(増補、1975年、未来社)「資本蓄積と『利潤率の傾向的低落』―『法則』の論証、意義、その作用形態―」という論文があります。それを的確にまとめるのは私には難しいのですが、読み取れる範囲で紹介します。富塚氏は、「利潤率の傾向的低下の法則」を「恐慌における市場利潤率の崩落」と直結するのは誤りとしながらも、両者を機械的に切り離すのも批判し、「内的諸矛盾の激成過程としての利潤率の傾向的低落過程が、産業循環の周期的運動として現われ自己を開展するものとして、この連関は把握されるべきではなかろうか」(423ページ)と主張します。

 もう少し具体的には以下のようになります。まず『資本論』第3部第3篇で展開される「利潤率の傾向的低下の法則」は、第1部第7篇で明らかになる「資本の有機的構成の累進的高度化にともなう労働者人口の相対的過剰化のメカニズムの反面をなす法則にほかならないこと」(424ページ)を把握することが重要とされます。第1部第7篇では、一方における労働者階級の消費限界の狭さと他方における「生産のための生産、蓄積のための蓄積」という形で、「恐慌の究極の根拠」としての「生産と消費の矛盾」が論定されます。消費制限を無視しての生産の盲目的追求が個別資本に強制されるのは、資本主義生産は「利潤が唯一の動機および目的」(420ページ)であるという事情(利潤という形態の意義に注目!)の下で「利潤率の傾向的低下の法則」が働くためです。利潤率の低下を克服すべく、個別諸資本は特別剰余価値の獲得をめぐって熾烈に競争しますが、新たな生産方法の普及にともなって特別剰余価値は消滅し、社会的総資本にとっては諸商品の価値の不断の低下が帰結され、こうして果てしない資本間競争が強制されます。

 「利潤率の傾向的低下の法則」が再生産論=蓄積論体系の総括たる第3部第3篇に展開されていることに、富塚氏は注意を促し、「競争戦の激化を通じて、資本の蓄積と集中を加速し、資本主義的生産の内的諸矛盾を開展せしめる」という「この法則の資本主義的蓄積にたいする意義が把握されねばならない」(420-421ページ)とします。したがって「これを利潤率の単なる結果としての数量的変化の問題としてだけ論ずるならば、法則の意義は明らかにされえない」(421ページ)ことになります。

 以上のような資本蓄積の内的諸矛盾の激成過程の把握は(「資本一般」の論理内での、あるいは平均的・標準的考察の下での基本法則的把握の方法的視角での)恐慌の必然性の論証への不可欠の一前提ではあるけれども、この過程から直接に周期的恐慌そのものを導き出すことはできない、ということも富塚氏は断わっています。

 「利潤率の傾向的低下の法則」と恐慌・産業循環との関係について、松岡寛爾氏の「利潤率の傾向的低落の法則と産業循環―構造変動の基礎過程―」(同氏『景気変動と資本主義』大月書店/1993年/所収)はよりクリアに捉えています。この労作は、大きな構想を緻密な構成で実現し、委曲をつくして説明したもので、その内容への賛否は別としても、理論構築の偉容を実感できます。それだけに紹介するのは難しく、テクストそのものを注意深く読んでほしい、とさえ言いたいところですが、何とかかいつまんで紹介します。

 両者の関係について松岡氏は、直結説、断絶説、次元相違説の三者にまとめています。すると不破説は断絶説に、富塚説は次元相違説になります。松岡氏は直結説と断絶説の対蹠的一面性をそれぞれ指摘し、次元相違説を「二種類の利潤率低落を、抽象の次元の相違という観点から立体的に区別し、そのうえで両者の関連をとらえ」る立場と説明します。利潤率の傾向的低下は資本一般の抽象段階に属し、恐慌局面での急激な利潤率低下は諸資本の競争(いわゆる競争論)の抽象段階に属します。資本一般は総体としての資本を対象とし、長期平均として実在する法則を取り扱い、価値・価格の一致を前提します。「これにたいして、競争論は、体制再生産の運動形態の視点から、個別諸資本の相互強制が生み出すかぎりで、資本の運動法則を解明」(182ページ)し、価値・価格の背離において考察されます。「ふたつの抽象段階は、資本の本質論と現象論の関係にあり」(183ページ)資本一般の諸法則は競争論の諸法則を規制し、後者は前者を執行します(本質は現象を規定し、現象は本質を執行する)。

 ところで恐慌時の利潤率の崩落が競争論の次元に属する現象だというのは自明です。一つの産業循環は、不況・活況・高揚・恐慌という各局面を経過し、恐慌での日常利潤率の崩落は、局面的・現象的には不均衡を激成しますが、逆にそれによって長期的(産業循環の一期間)・本質的には均衡を達成します。それをも含めて一産業循環の平均としての平均利潤率が形成されます。転変きわまりない競争(現象)こそが理想的平均としての資本一般(本質)を執行するのです。

 それでは利潤率の傾向的低下の法則が資本一般に属するというのはどういう意味になるのでしょうか。傾向的に低下するのは平均利潤率であり、この平均は諸資本間の平均であるとともに、上述のように一産業循環期間における平均でもあります。だから平均利潤率が低下するというのは、数個の産業循環期間にわたっての平均利潤率の推移を見たうえで言っているのです。松岡氏によれば、各産業循環には生産力・剰余価値率などに応じた個性・課題があり、準備循環→淘汰循環→確立循環→典型循環→絶頂循環という5つの産業循環が1セットになって資本主義の小段階を形成します。平均利潤率の動向を見ると、準備循環から淘汰循環にかけては下がり、確立循環から典型循環・絶頂循環にかけては上がり、絶頂循環から次の準備循環にかけては大きく下がります。これは初めの準備循環より下がっています。こうして利潤率の傾向的低下の法則が実現します。また一産業循環をおおむね十年とすれば、一小段階は五十年程度となります。これが景気変動におけるいわゆる長期波動の本質的基礎とされます。

 この構想によれば、各産業循環を締めくくる恐慌による利潤率の崩落の程度は前後する循環の個性によって規定されます。たとえば典型循環から絶頂循環へは平均利潤率が上昇するので、典型循環の最後の恐慌は崩落の程度の軽いものとなります。逆に絶頂循環から次の準備循環へは平均利潤率が大きく下がるので、絶頂循環の最後は大恐慌となります。もちろんこのような言い方は経過の全体を後から振り返ってわかりやすく表現しているものであり、実際には前の循環が抱える内部矛盾のあり方がその解決形態としての恐慌のあり方と続く循環の出発点と個性・課題を規定しています。

 こうして「利潤率の傾向的低下の法則」と「恐慌時の利潤率の崩落」との関係は以下のように整理されます(以下で「長期」とは一産業循環期間を、「超長期」とは複数の産業循環期間を指します)。

------------------------------------------------------------------------------

 恐慌局面における日常利潤率の崩落は、長期について平均利潤率法則を執行し、そうすることによって、超長期について利潤率の傾向的低落法則を執行するのである。

                   230ページ

 傾向的低落法則は、平均利潤率の超長期動態法則である。したがって、傾向的低落法則は、日常的利潤率の崩落が執行すべき平均利潤率の水準を規定している。とすれば、傾向的低落法則は、日常的利潤率の崩落のていどを、間接的とはいえ基本的に規定していることになる。              231ページ

------------------------------------------------------------------------------

 松岡氏のこの見解を支持するかどうかは難しいところかもしれません。しかし少なくとも「利潤率の傾向的低下の法則」と「恐慌時の利潤率の崩落」とは無関係というのは、割り切り過ぎであり、資本蓄積の矛盾をその本質と現象形態において統一的に捉えようとする努力が欠かせないことだけは確かです。その際に、理論の様々な抽象度に自覚的であって、その重層的構築をなし得るか、さらにその理論体系の現実妥当性を説得的に示し得るか、というハードルがあります。これは一見観念的姿勢(理論→現実)とも受け取られかねませんが、現実の経済統計などによる現状分析だけには解消しえない理論研究の独自性を忘れるわけにはいきません。今まさに恐慌論は理論と現状分析の接点のハイライトにあります。

 

         「資本一般」の捉え方

 「資本一般」という方法そのものについて、不破氏は多くを語っているわけではなく、詳しくは連載の今後を見る必要があります。しかし「『資本一般』の枠組みを捨て」(143ページ)と肯定的に書かれているところを見ると、マルクスは「資本一般」を捨て、それは正しい判断であった、と不破氏は考えているようです。また6月号の「連載2」においては、マルクスにとって「資本一般」という方法は、恐慌論の自由な展開の桎梏であった、と捉えられているようにも思われます。

 そもそも「資本一般」とは何であるか、マルクスはそれを放棄したのか保持したのか、ということは「プラン問題」として長い研究・論争の蓄積があります。不破氏は「『多数の資本』の相互関係をも考察に入れ」「再生産論を第二部に取り込む」(同前)ことをもって、「資本一般」の放棄としていますから、そこでの「資本一般」概念はかなり厳しく絞られています。「プラン問題」の文献的研究においてはそれが争点になりますが、ここではそれは措きます。経済学批判プランの6分冊体系における「資本一般」よりも『資本論』の内容がかなり拡張されていることは共通に理解されていますが、それでも『資本論』の方法は「資本一般」を踏襲したものだとするのが「プラン不変説」であり、『資本論』においては「資本一般」は放棄され、6分冊プランの前半体系3分冊が組み替えられたとするのが「プラン変更説」です。

 問題としたいのは、「資本一般」という方法の意義です。『資本論』は資本主義の本質としての理想的長期平均の姿を解明し、産業循環などの具体的現象は「競争論」「信用論」以降において展開される、という重層的理論体系をとる(プラン不変説=資本一般説)のか、『資本論』(ないしはそれに当たる原理論体系)において産業循環の動態などまで解明すべきだとする(プラン変更説=前半体系説)のか、という方法論上の対立が重要な論点です。上記の富塚氏や松岡氏などは、方法的に「資本一般」を支持し、それを不可欠の基礎にして恐慌論なり経済学体系を構築しています。高須賀義博氏も資本一般説の立場をクリアに表明しています。

 高須賀氏は、資本一般論としての『資本論』の世界と、競争論以降の論理次元に属する産業循環論の世界との関係を「実体と形態、本質と現象の関係にある」と捉えます。その方法の意義・内容は以下のように明らかにされます。

------------------------------------------------------------------------------

 『資本論』の世界は産業循環の結果達成される資本主義の長期的構造であり、このもとで剰余価値の生産ならびに分配を明らかにしなければ資本主義の三大階級の経済的基礎は概念的に解明されないというのがマルクスの考え方であった。そしてこのために不可欠の理論的カテゴリーがマルクスの価値概念にほかならない。『資本論』の世界を産業循環論の世界と混同ないし同一視すれば、それは必ず価値概念を歪めるのである。

 他方産業循環は、『資本論』の世界、すなわち、「理想的平均における資本主義の内的構造」を自動的に生みだす平均化機構であって、これを解明する基本的カテゴリーは、市場価格(価格、賃金、利子率、為替相場等)である。これらの市場価格カテゴリーに誘導された無政府生産のシステムである資本主義の現実的蓄積が自己矛盾を含むがゆえに恐慌を勃発せしめ、自律的に反転することによって、『資本論』の世界が創出される。

      『マルクス経済学研究』(新評論、1979年) 247ページ

------------------------------------------------------------------------------

 さらに宇野派の大内秀明氏に対する批判によって資本一般説の意義はいっそう明確になります。

------------------------------------------------------------------------------

 方法論的に問題なのは、大内氏の立場では『資本論』の世界がまさに「永遠にくりかえされる如く」発現する産業循環の世界とまったく同じものになってしまい、「理想的平均における資本主義的生産様式の内的構造」論が原理的に消失してしまう点である。それは、産業循環を貫いて価値法則が貫徹する結果成立する資本主義の長期的構造にほかならず、それゆえにこの構造を概念的に叙述するためには価値・価格一致の想定が必要であり、換言すれば、理想的平均的資本主義は価値・価格一致を想定して描かれる資本主義像でもあったのであるが、それを否定して、循環運動をくりかえす円環的運動体の描写こそが経済学原理論の対象であるとすれば、そこから帰結されることは、価値概念の空洞化であり、本質論を欠く現象論である。      同前 245-246ページ

------------------------------------------------------------------------------

 大内氏は「マルクスの市場価値論を拡張して」「市場価値の循環的変動を説いている」のですが、「この考え方は社会的に拡大された需要供給論であって、労働価値論と相入れないことは詳論するまでもないであろう」(246ページ)と、高須賀氏の批判はなかなか峻烈です。

 ただし高須賀氏は「資本一般」=『資本論』には恐慌論は本来は含まれないとまで極論し、通説的恐慌論を否定して、たとえば富塚恐慌論では「資本一般」に循環的構造論が「密輸入」される(宇野派では堂々と導入されるが)ことで、資本主義の内的構造論があいまいにされた、と批判します(243ページ)。どうも高須賀氏の「資本一般」=理想的平均的資本主義はあたかも無矛盾なシステムのように捉えられてしまっているようです。資本一般と産業循環とが本質と現象の関係とされていますが、後者の運動によって前者が生み出されるという関係ばかりが強調され、前者の矛盾が後者の運動を生み出すという関係が見落とされて、ここでの資本一般はひたすら受動的で生気がなくなっています。松岡氏が言うように、「本質は現象を規定し、現象は本質を執行する」のであり、両面から見なければなりません。「価値概念の空洞化」や「本質論を欠く現象論」を防ぐ意味で資本一般論は大いに存在意義があるのですが、それを保証するのは「価値・価格一致の想定」です。この前提の下で資本一般論が資本蓄積の諸矛盾を含めることは何ら問題ありません。したがって「資本一般」=『資本論』に恐慌論が含まれることは問題ないどころか、資本の本質究明にとっては不可欠の内容であろうと思います。

 

         「流通過程の短縮」と恐慌論

 不破氏は、マルクスによる「流通過程の短縮」の発見によって、恐慌の運動論が確立し、「恐慌の周期性の問題に、見事に理論的な解決が与えられた」(前掲「連載3」、147ページ)と評価しています。確かに「流通過程の短縮」論が恐慌論において重要な意義を持つことは間違いありません。しかし率直に言ってここには過大評価があると言わざるを得ません。「『流通過程の短縮』という運動形態を推進の基軸に据えて」(同前)と言われますが、「流通過程の短縮」は恐慌のいわば舞台装置であって、推進の基軸ではありません。確かにそれによって資本蓄積がフレクシビリティを獲得することで「生産と消費の矛盾」が潜在的に増大し、恐慌の発現が激化されます。このように「流通過程の短縮」は事態を延期し深刻化させる場を提供するのですが、「流通過程の短縮」論は主体たる資本の過剰蓄積衝動そのものを解明したものではありません。したがってそれは産業循環の推進動機を描くことはできないので、産業循環の全体像には迫れません。不破氏が「経済循環のシミュレーション」として紹介している箇所も、好況が過熱に至り、恐慌として瓦解する過程は描かれますが、恐慌から不況を経て立ち直っていく過程は欠けています。

------------------------------------------------------------------------------

 市場経済では、どんな場合でも、さまざまな動揺や不均衡が起こります。しかし、需要と供給の変動に伴う価格の動揺の場合に見られるように、不均衡が起これば反対作用が起こって均衡を回復する、こういう均衡回復の作用が働くところに、市場経済の独特の性格があります。ところが、過剰生産の場合には、この均衡回復作用が発動せず、生産と消費との矛盾が累進的に拡大して、ついにはその強力的な解決である恐慌にまで至るのです。それはなぜか。ここに、恐慌の運動論が解決すべき大きな難問の一つがあったのですが、「流通過程の短縮」という運動形態の発見は、この問題を解決する力をもっていました。               

                        145ページ

------------------------------------------------------------------------------

 以上のように不破氏は問題の核心を的確に捉えて、非常にわかりやすく提起しています。ただし「解決」は不十分です。

 ここからは市場経済と資本主義経済との関係を立体的に捉えて、恐慌=産業循環の動態を具体的に解明する課題が浮かび上がってきます。私の知るかぎりではそれに迫った労作としては、松岡寛爾氏の「静かな均衡化と暴力的均衡化―競争論における試論―」(前掲『景気変動と資本主義』所収)を上げることができます。この論文は、需給変動と価値・価格の不一致とを前提とする「競争論」の論理次元で、市場経済の静かな均衡化と資本主義経済の暴力的均衡化との立体的関係を解明して、恐慌=産業循環の全過程を描いたものです。

 通俗的には(あるいは学問的に新古典派理論によって)、価格メカニズム=静かな均衡化によって市場経済の不均衡は解決されると信じられています。しかし松岡氏によれば、それは本来は単純商品生産という基盤が前提となって可能なのであり、資本制生産においては恐慌=暴力的均衡化が不可欠となります(近年、一世を風靡した市場原理主義が不況に対してまったく無効なのは、単純商品生産表象で資本主義を捉えるという致命的欠陥が大本にあるためだと私は考えています)。

 ところが資本制生産においても、静かな均衡化はなくなるわけではありません。その本来の作用基盤はなくなっても、その形式としての価格メカニズムは、資本制の下で新たな作用を営むことになります。それでは資本制は単純商品生産とどう違うのか。「価値増殖を目的とする資本は、その本性として蓄積衝動をもって」おり「蓄積は、個別資本にとって生存条件であり、競争によって強制される法則で」す(55ページ)。したがって厳しい生存競争の中で「追加投資は追加投資をよび、各個別資本は、相互に強制しあって、追加投資を一時期に集中させ」、「このような相互作用の社会的集計は、超過需要の継続的・構造的発生をものがたる」(56ページ)ことになります。ところで固定資本の補填・追加は「周期的恐慌の物質的な一基礎」と言われますが、それはあくまで資本蓄積にともなう超過需要発生機構が「固定資本の再生産をその運動のなかへひきずりこむことによって」(57ページ)成立するものなので、さしあたっては捨象して考えることができます。ほかの様々な要素も同様です。こうして周期的恐慌=産業循環の推進基軸は、蓄積衝動をもつ資本そのものであると捉えることができます。あれこれの舞台装置を導入する以前のシンプルな資本によって、競争論の論理次元において、恐慌=産業循環の動態を解明することが可能です。

 松岡氏は短期(日常)・中期(局面)・長期(一産業循環)の三つの視点をすえ、一産業循環を4つの局面に分けます。諸資本の競争による超過需要の継続的・構造的発生に対して、静かな均衡化=市場メカニズムは日常的変動を各局面条件に向かって均衡化していくけれども、それは同時に一産業循環という長期の視点から見れば不均衡の蓄積となります。それはもはや静かな均衡化によっては解消されず、暴力的均衡化としての恐慌によって解決されます。

--------------------------------------------------------------------------------

 資本制生産における静かな均衡化は、日常的諸変動の局面諸条件基準での均衡化と同時に、局面諸条件の本質的・長期的諸条件基準での不均衡化をもたらす。それは、局面条件の本質的・長期的諸条件基準での均衡化に関しては、まったく無力であり、そこに限界をもつ。これにたいして、暴力的均衡化は、静かな均衡化の限界をこえたところで作用し、局面諸条件を本質的・長期的条件にむけて均衡化するが、逆に、中期的経済諸量を不均衡化し、さらに著者の考えるところでは、景気回復のメカニズムを設定する。

 このように暴力的均衡化は、過去の長期にたいする本質的均衡化であり、現在の中期にたいする現象的不均衡化であり、著者の考えでは、つづく将来の産業循環の出発条件を設定するとすれば、それは、恐慌が、諸矛盾の爆発であり、強力的調整であり、つづく循環の準備であるという把握につうじるものである。また、景気回復のメカニズムが著者の思考するようなものであるなら、恐慌は産業循環をみずからのうちに含蓄しているという理解にも、つうじるといえるであろう。          85ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 ここで不破氏の問題提起に立ち返れば、生産と消費の矛盾が累進的に拡大し恐慌による強力的解決に至るに際して、確かに「流通過程の短縮」という運動形態が大きな役割を果たすことは間違いありません。しかしそれ以前に、市場経済と資本主義経済の均衡化機構そのもののあり方(その立体的関係)を、主体たる資本の本性との関係において考えることが必要であり、その上で様々な条件、いわば舞台装置を導入していけばよいでしょう。この前提を抜きに産業循環の「原因」をあれこれ探ることは本質論なき現象論に陥る危険性があります。恐慌論から単なる産業循環論への「発展」ではなく、恐慌=産業循環論への深化が求められます。「恐慌の運動論」とはそのようなものでなければなりません。

 連載2と3の中における、不破氏の恐慌論への言及は以下のような流れを持っているように思われます。

  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  

 (1)当初、マルクスは「資本一般」の枠内で恐慌の必然性を主張するため「利潤率の傾向的低下の法則」にその根拠を求めたが果たせなかった。

 (2)「多数の資本」の相互関係をも考察に入れ、再生産論を第二部に取り込むために「資本一般」を放棄した。第二部の執筆過程で「流通過程の短縮」が恐慌の運動論の構築に有効であることに気づいた。ここに「資本一般」から解放された、恐慌の運動論が成立し、産業循環過程を描くことができた。

 (3)恐慌を含む産業循環論を成立させることで、必ずしも恐慌によって資本主義体制そのものが瓦解してしまうわけではない、という認識に達した。

 (4)こうして恐慌による資本主義の自動崩壊論(あるいは恐慌を革命に直結させる理論)を克服することができた。

  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  ---  --- 

 以上はマルクス自身の認識の深化として描かれていますが、もちろん不破氏の問題意識に基づいて整理されたものです。マルクスの経済学研究と革命論との深化を合わせて提起するというのは、まさに不破氏ならではの優れた発想であり明快でもあります。しかしながらその前提である恐慌論(ならびに経済学体系の方法)の取り扱いに疑問が残ります。マルクス自身の恐慌論研究の深化がどのようなものであったか、という文献学的問題はここでは措きますが、不破氏が、「資本一般」という本質論を欠いた産業循環論をもって、恐慌論の深化と考えているとするならば、危ういと思います。だから経済理論と革命論(ならびに実践運動)との相互発展という美しい図式については、それが成立するならばよいと思いますが、そこにある経済理論(恐慌論)の中身そのものは検討を要します。

 以上、わずかな古い知識だけに頼って議論するのはいかがなものか、とは思いましたが、「素人なりの理論的使命」もあるのではないか、という不遜な気持ちもわいてきて拙文を書きました。妄言多罪。

                                 2011年6月28日



2011年8月号

         アラブ民主革命の捉え方

 西海敏夫氏の「グローバル経済とアラブ民主革命」は、なお進行中で予断を許さないアラブ民主革命について多面的に考察しています。以下では、豊富な論点の中から、発展途上諸国と米国を中心とする発達した資本主義諸国との関係という視点を選んで、アラブ民主革命における政治と経済について若干考えてみたいと思います。

 民主主義や人権は主に近代西欧のブルジョア革命によって確立されましたが、普遍性を持っています。しかしその世界化は実際には非常に奇形的に行われてきました。19世紀から20世紀にかけての帝国主義時代には、先進諸国は自国内の人権・民主主義とは対照的に植民地・従属国に対しては暴虐な支配をほしいままにしました。二度の世界大戦を経て民族自決権が承認され、少なくとも建て前上は人権と民主主義は普遍的なものとなりました。しかしアメリカ帝国主義に典型的なように「民主化」を標榜しつつ、その実二重基準を採用して、反共のためには「友好国」の独裁・専制は容認してきた、というのが世界の実態でした。

 対抗する反帝国主義勢力の側でも、民族自決という国際社会の民主的原則は追求しつつも自国内では独裁・専制ないしは権威主義的体制をひくものが主流でした(そこを衝いて帝国主義側は「民主化」による新植民地主義的支配を狙ってきたのですが)。しかし21世紀の現在、こうした両者の歪みはともに是正されざるを得ません。中東には、アメリカ帝国主義の最大の庇護国であり、周辺諸国を非民主的と軽蔑しつつ自らは植民地主義を実践して恥じない「民主国家」イスラエルがあります。この時代錯誤的なミニ帝国主義国家の周辺で、大方の予想を裏切って勃発したアラブ民主革命(先進国の政治学者の多くは中東地域は民主化とは無縁と思っていた)はまさに人権と民主主義の普遍性を示したといえます。もちろん普遍性とはいっても各地域では特殊な現われ方をし、中東ではアラブ民族主義の持つ「民族的人間的誇りの回復」(126ページ)という要求が今回の変革を導きました。アラブ民族主義が従来のように反帝国主義に作用するだけ(したがって国内の専制支配体制とセットだった)でなく、人民主権・民主化をも合わせて推進するようになったのです。その要因としては、この地域での社会の構造的変化をあげることができるでしょう。西海氏の以下の評価はそのような文脈において捉えられるように思います。

-------------------------------------------------------------------------------

 アラブ、イラン、トルコとも多様な形で市民社会形成の複雑なプロセスが進展している。今回のアラブでの民主革命は、イスラエルのみが中東の「民主主義」国ではないということを世界に見せた点で、また固定した宿命論的歴史観の限界を打ち破るという意味で巨大な意義を持ったのである。           130ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 またアルカイダに代表されるテロ闘争ではなく、非暴力の大衆闘争によって専制的政権を打倒したことも人権と民主主義の普遍性に連なります。これはゲリラ闘争主義を克服して民主的選挙によって次々に政権を奪取した中南米諸国の左派勢力の道とも符合します。そうして見ると、中南米諸国の多くがパレスチナ国家承認に踏み出している(128ページ)ことは(中南米・アラブ間の文化的歴史的関係という要因もあるけれども)変革勢力どうしの今後の世界的連帯を予想させるものです。

 先進諸国の支配層は、今回のアラブ民主革命をソ連・東欧の資本主義化と同一視して「アラブの春」と呼んでいます。しかしそもそも彼らの評価基準は「経済の新自由主義化=政治の民主化」という歪んだものであり、アラブの政治的民主化を機に、多国籍独占資本の活動の場をいっそう拡大したい、という非現実的な願望がここに現われているというべきでしょう。かつてブッシュ大統領は「自由」を声高に叫んで、フセインの専制からの解放=民主化を目的の一つに掲げてイラク侵略戦争を敢行しました。しかし彼の言った「自由」は人間の自由や政治的自由をよそおいつつ、その本質は石油利権などの資本の自由だったことが銘記されるべきでしょう。ブッシュのような最悪の大統領でなくとも、先進資本主義諸国の政府首脳の頭の中では、政治と経済における、自由や民主化のこうしたすり替えは同様でしょう。かつて資本の自由に抵抗した発展途上国の指導者たちは政治的自由や民主主義の資質を身につけていなかったかもしれません。しかし彼らに代わって主役に躍り出た民衆的主体は、政治的民主主義を実現しつつ経済的には多国籍独占資本の自由と対峙する勢力となっています。

 西海氏は1990年代のソ連・東欧の変革と今回のアラブ民主化との根本的違いを指摘しています。前者では変革以前には「市場経済化」にともなう混乱はまだ十分に経験していなかったのに対して、後者では市場化・規制緩和・民営化が生み出す「経済格差」や「権力と新興資本との癒着」などの矛盾がすでに人々の憤激を呼んでいました。したがってエジプトの暫定政権である「軍最高評議会」は、公務員給与の引き上げや福祉予算の拡充、資本への課税の強化など、社会的公正を求める民衆の声に応える経済政策を進めています(132ページ)。変革後にオルガルヒ(寡占的政商)の形成が進んだり、新自由主義的ショック療法が行われたような、ロシア・東欧とは段階がはっきりと異なります。

 こうした中で、エジプトの変革勢力は政治と経済に対する慎重で成熟した現実的姿勢をとっています。そこに注目した西海氏の次の言葉は先進諸国の変革主体にも共通する指摘ではないかと思われます。

--------------------------------------------------------------------------------

 今後の経済政策は、最低限度の社会的公正と経済発展とを両立させるという必ずしも容易ではない課題に挑戦しなければならない。そこには経済政策の「自主性」の確立をどれだけ確保できるかという問題がある。それは中長期的な経済構造をどう考えていくかという政策課題でもある。                133ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 

         経済政策の戦略設定と日本社会のあり方

 マルクスは労働運動を指導して、労働者の目の前の苦難を解決することにも力を尽くしました。しかしその根本的解決には社会主義革命しかないと考えていたでしょうし、そこで市場経済が長期にわたって存続するとは思っていなかったでしょう。今日では私たちの眼前にあるのは資本主義の枠内での変革であり、社会主義段階においても市場経済を通じた変革が考えられています。資本主義世界経済と国民経済のマネジメントという課題が科学的社会主義の立場にある者にも突きつけられており、そこでの市場運営の経験を抜きには社会主義経済に進むことはできないのでしょう。

 そこでさしあたってすぐに役立つのは、資本への民主的規制を実現してきた様々な経験に学ぶことです。未曾有の原発事故に際して、温暖化防止の観点も合わせれば、自然エネルギーへの移行が喫緊の課題となっています。その経済政策を考察したのが、遠州尋美氏の「再生可能エネルギー転換への道程 脱原発・脱化石をめざすドイツに学ぶ」(『前衛』8月号所収)です。そのいわば「哲学」は環境経済戦略(植田和弘氏)と呼ばれるものです。それは「低炭素社会化への投資が経済成長や雇用、生活の利便性への桎梏となるのではなく、むしろ、未来社会の基礎を築くことになるような経済戦略、すなわち、環境も経済もともに両立する戦略を構想し、それを実現する政策を展開すること」(45ページ)です。資本主義経済において「それを実現する」政府と市場との関係は以下のようなものであり、ドイツで実践されました。

--------------------------------------------------------------------------------

 低炭素社会に向かう確固とした意思とロードマップを政府が示して市場にメッセージを送り、市場が適切に機能する支援策を準備して再生可能エネルギー市場を確立するなら、そこに投資が集まり、技術革新が進み、着実かつ急速に低炭素社会を推し進めることができる。          44ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 以下、遠州論文では、政府による戦略認識の周知徹底と企業と人々への働きかけ、そして企業と家計に投資を促すインセンティヴを用意すること、その両面について詳しく紹介され解明されています。それに具体的に深く学んでいくことが大切ですが、ここでは措きます。先に「社会的公正と経済発展との両立」というエジプトの経済政策の課題を紹介し、それが「中長期的な経済構造をどう考えていくかという政策課題」であることに触れました。ドイツでは環境と経済との両立という困難な課題に対して、中長期的な経済構造を考えながら、当面する様々な工夫を組み合わせて実践しているといえます。

 近未来の世界の姿を見据えたドイツ政府の環境経済戦略は卓越しており、「新しい産業分野を切り開き、その分野におけるドイツの技術的優位を確固たるものにする」(45ページ)という狙いを持っています。対照的なのが日本です。財界は福島第二原発事故の惨状を前にしても「低コスト」の原発にこだわっており、政府も追随しています。いつまでも20世紀の未完成な技術に頼っている限り日本経済の未来はないでしょう。

 だいたい原発の「低コスト」も「安全」と同じく神話だったことははっきりしました。事故の補償を持ち出すまでもなく、これまでの膨大な財政支出や「核のゴミ」の処理、廃炉の費用などを考えれば原発が割高なのは明らかです。財界は自ら愛好する市場原理に逆らって、補助金まみれの「低コスト」に安住して、それが聞き入れられないなら、日本から出ていくと脅しているのです。

 これは新自由主義的資本蓄積様式にどっぷりつかった資本の末路の姿です。強搾取で労働分配率を下げて高利潤を実現しているけれども、それが同時に国内市場を狭めることで設備投資のインセンティヴをなくし、ますます搾取強化によって利潤を確保するしかなくなっています。低い資本蓄積率によって高い利潤率を確保する、というこの逆説的悪循環に陥った資本はなりふり構わず「低コスト」を追求します。その意味ではリストラ・賃下げも原発も同根であり、内需縮小による国民経済の破壊だけでなく、生産力発展を阻害し日本経済の未来をなくします。

 原理的にも、高すぎる剰余価値率は生産力発展を抑えます。低賃金でいくらでも利潤が確保できるなら新たな生産手段を導入する必要がありません。逆に賃金が上がったり、労働時間が規制されれば、生産性向上によって利潤を確保しようとします。環境規制も同様でしょう。19世紀イギリスの工場法によって労働時間が規制されたとき、科学技術の適用によって生産性が上昇しました。日本の戦後改革によっても、戦前的な劣悪な労働条件が改善され、労働主体の生産力の向上、国内市場の拡大、新技術の導入などによって生産力発展が実現しました。自動車の排気ガス規制においても、日本メーカーは先駆性を発揮してその後の世界の自動車市場をリードしました。

 つまり資本を野放しにした高い利潤率は人間(労働)と社会を破壊し、科学技術の適用による生産力発展を阻害します。生活・労働と環境を大切にする規制を前提にしたルールの下で資本を競争させることで、初めて健全な生産力発展が実現します。このルール設定は社会の意志であり、いかに人間的社会を形成するかというビジョンが問われます。ドイツの環境経済戦略はその一典型を示したといえます。

 逆に日本は人間的社会形成のビジョンを出しにくい社会ではないか、という疑念があります。搾取と悪政によく耐えて、日々をやり過ごすというフレクシビリティを日本人と日本社会は身につけているため、諸個人の人間的発達のために社会を変革する意志が社会的に形成されにくくなっています。当面の課題に真面目に取り組むという生活と労働のスタイル(きちんとした良い社会を築くという、本来プラスに作用するこの様式)が、搾取と悪政にぴたりと組み込まれているために、日本社会が持つコンパクトな真面目さ清潔さが、人々の生きづらさと表裏一体になっており、それだけにこれを打開することは困難です。たとえば日本の職場では午後5時に仕事がいっせいに終了することはありません。それぞれの仕事のきりがつくまで働きます。これがずるずると伸びて、悪い場合はサービス残業にまで至ります。個人的には持ち分をきちんとやり遂げ、そうして仲間とともに仕事を完結しようという良き意志が、絶対的剰余価値生産の手段にされています。目前の仕事に取り組む真面目さを、苦しみの中にではなく、快活な持続可能なものにするためには、何のためにどのように生き働くのか、という大きな視点(人間発達のための自由時間の尊重を含む)の下に置く必要があります。搾取と悪政への耐え方は、横並びという意味では集団的ですが、それは個々人が分断されることで形成されています。資本の専制支配を支える「分断された諸個人が埋没する集団主義」を打破するのは、「自立する諸個人の組織的連帯」ということになるでしょう。それを支えるのは「今、ここ」的真面目さを超えた人間的生活と労働への変革の具体的展望です。

 たとえば、公害対策として、自動車の排気ガス規制があたりまえの基準となったとき、人間社会は一歩高度な次元に上がったのであり、それを前提に経済社会が形成されるようになりました。この規制がない低次元の社会が続けば、低コストの高公害車両が高コストの低公害車両の普及を阻むことになったでしょう。今ドイツが指向しているのはさらなる高次元社会の形成であり、日本の財界と政府が守旧しようとしているのは(ドイツと比べれば)低次元の社会の持続です。しかし原発事故がその持続不可能性を証明しました。悪貨が良貨を駆逐する新自由主義グローバリゼーションの低次元世界か、脱原発と自然エネルギー普及を前提に、資本と市場への民主的規制を利かせたディーセントワークの高次元世界か、が問われます。目前の高コストをいとわず、高次元の社会を形成するのは、無理のない展望を基にした人々の意識の高まりであり、ドイツは文字どおりの国民的討論を経てそこに進もうとしています。日本も同じ課題をかかえていますが、そこでは(資本の専制に回収されないように)真面目さのヴァージョンアップが求められそうです。

 日本共産党の第3回中央委員会総会7月3・4日)では一方で「私たちは、理論的・政治的には、国際的にも誇るべき高みに達した党綱領という到達点をもっているのであります」「この綱領にふさわしい党組織をつくろうではないか」と訴えています。他方では日本とヨーロッパの労働運動の到達点の大きな差を指摘して「日本社会のあり方も変えていく必要があります。ヨーロッパでは当たり前になっているように、労働組合が大きな影響力をもちながら、政策決定に関与していく、そういう社会への発展も展望していく必要があるわけです」と述べています。ルールある経済社会への接近という観点からは、労働運動のみならずドイツの環境経済戦略も考えに入れることが適当でしょう。

 ここには共産主義と社会民主主義との理論・運動(そしてその成果)の対比という問題がありますが、以下では措きます。もう一つの問題は日本と西欧の社会のあり方です。……「理論的・政治的に国際的にも誇るべき高み」をもって対しても、なぜ明らかに西欧よりも日本社会は低位で後進的なのか(後発資本主義国としての歴史的経緯だけでは説明できないでしょう)。せめて西欧水準にまで達したい、という当面の目標は理解できるにしても、それにはこの社会のあり方をさらに的確につかむことも必要ではないか……

 大震災の被災者の姿勢に対する世界中からの賛辞の一方で、あまりに人間が粗末に扱われる政治経済の現実。これを別々に捉えるのでなく、表裏一体に把握することが必要であり、そうしなければ日本社会の抱える矛盾を説明できないと思います。日本人とその社会は確かにある意味で世界に誇るべき適正さを持っています。しかし「ルールなき資本主義」下で生活と労働の困難はいや増すばかりです。これは日本人の真摯さが強搾取の資本主義システムに包摂された結果でしょう。この仕組を具体的に解明し、人々の生活・労働の日常意識の機微に触れる形で変革の方向を提起することが必要です。その仕組の解明に資する研究は、おそらく私があまり知らないだけで、多くあるに違いありません(たとえば労働現場における「強制された自発性」という概念の提起とか)が、それらをわかりやすく人々に示すことが求められます。「現実はこうだが、本来は違う、ヨーロッパではこうだ」という言い方では外からの批判として終わってしまいます。確かに本来の姿とか、別の現実があることを伝えることは有用です。しかしそれだけでなく、身近な現実を現場の気分に即した形で変えていくことによって、日本社会の良さを保持しつつ人間的社会を実現する、という戦略が必要だと思います(たとえば日本の職場では、午後5時に仕事を機械的にいっせいに切り上げることは難しいでしょう。しかし長時間労働をなくすためには、現状を放置するわけにはいきません。仕事への責任感や達成感を尊重しつつ、何らかの割り切りができるような工夫が求められます)。これは、前述した「今ここ」的真面目さの克服、という課題(いささか外在的批判から発するかもしれない課題)と矛盾する部分があるかもしれませんが、「ディーセントワーク」「ルールある経済社会」の実現という展望の下で統一していかねばなりません。

 政治革命と社会革命とは相補的でありながら、次元の違う点もあります。とりあえず政治革命が成就した後も、社会革命が地道に進んでこそ革命過程は成熟していきます。逆に現状の日本のように政治革命は程遠くても、社会のあり方の変革を生活と労働の現場から進めていくことは政治革命を準備することにつながります。資本への規制が弱い日本社会では、「24時間戦える男」が働き方の基準であり、彼こそが「自己責任」を負える一人前の「市民」ということに事実上なっており、それ以外の人々にとっては、本来憲法の保障する幸福追及権や生存権は実際のところ欠落しています。このような社会的実態はもちろん異常なのですが、現実は人々の意識を規定しており、大企業中心の社会観や利潤第一主義がフツーの考え方になっています。そこに風穴をあける一つの手段として想像力があります。たとえば障害者の視点から日本社会のあり方を見つめ直すことが有効です。

 視覚障害者の三宮麻由子氏は都心のビルの30階で3.11大地震にあい、帰宅難民となった経験などを書いています(ルポエッセイ「感じて歩く7 災害と移動支援」『世界』8月号所収)。午後11時すぎにようやく迎えに来た両親の車で午前5時に実家に着くという難事だったのですが、エレベーターが止まったのでビルの30階から降りるのがまず大変でした。「各階で階段の段数や高さが違い、ペースを作って歩くことはできなかった」(157ページ)りして両膝が「爆笑」する結果となりました。「テナント間もしくはビルを巻き込んでシステマティックな誘導のあり方を検討するといった動きはなかった。地震を契機に、厚労省などで職場の災害弱者の安全について協議したという話も聞かない」(157ページ)。資本や政府にとってそうした時間とコストを費やすことはできないという状況なのでしょう。しかしあらゆる人々が参加できる社会こそが本当に活力ある社会に違いありません。

-------------------------------------------------------------------------------

 もちろん、一○○%の安全責任を取ってもらうことは無理だが、障害者に限らずあらゆる状況の人が能力を発揮して社会参加することが目指されている現代、災害時に移動を含めてできる限り人道的な支援を行うといった程度の指針でもよいから、何らかの指針が国などから示されると良いのではと思うのである。     158ページ

-------------------------------------------------------------------------------

 話がとりとめもなくなってしまいましたが、ついでにもう一つ話題を追加します。資本の求める効率主義とはまったく別世界で、しかし社会とそこに生きる人々の考え方を変える可能性を持った貴重な活動―今目に見えないが将来の社会革命の下地となるかもしれない活動―を紹介します。瀬川正仁氏のルポルタージュ「教育のチカラ第4回 子どもたちの再生に、すべてを」(『世界』8月号所収)は児童自立支援施設・横浜家庭学園の教務主任・宮川哲弥氏を紹介しています。宮川氏は中学校教員を志望していましたが、教育実習でのある体験から「居場所がない、たった一人の生徒に奉仕する教師になりたいと強く思うようになっ」てこの施設に就職しました(164ページ)。その「教育に対するブレのない情熱」(同前)は人を変え社会のあり方を変える力を持っていると思います。

-------------------------------------------------------------------------------

 もし、彼女たちを本気で立ち直らせたいと思うなら、施設を出た後の社会のバックアップ体制を、もっと充実させる必要がある。この学園で元気になり、退園していった子どもたちが、身を持ち崩してゆく。そんな場面を何度も見せつけられるスタッフたちは、仕事に空しさを感じていないのだろうか。その疑問をぶつけてみた。すると、宮川先生はこれをきっぱりと否定した。

 「この学園で子どもたちが頑張った時間は、決して無駄ではないと私は思っています。彼女たちは、ここで愛され、必死に頑張った。輝いていた自分の姿を心に刻み込むことができたんです。退園後、様々なことがあり、身を持ち崩すこともあります。でも、そのとき、彼女たちは、それは本来の自分ではないと思えるのです。本当の自分は、学園で頑張って、輝いていたときの自分だと。そして、そこに必死で戻ろうとします。先日も退園生から連絡がありました。『先生、いま、事情があって風俗店で働いているんだ。でも、そのうち、きっと看護学校に行き直して、看護士になるからね』という電話でした。人に愛され、自分も頑張ったという記憶を持てたことで、戻るべき自分の姿をイメージできるのです。そして、輝いていた自分を知っている人間が、この横浜家庭学園にいるということが、人生の励みになっているんです。そのためにも、我々はこの仕事を辞めるわけにはいかないんです」       172ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 人知れずこのような確信をもった活動をなす人々がいることが、この社会の希望であり、私たちもその中の一人でありたいものです。

 

         社会認識のあり方

 以上、かなり脱線しながらも、日本社会のあり方に問題がある、と言ってきたのですが、それではそれをどう認識するか、が次の問題です。その一般論を提起するような能力はないので、一つの問題の認識方法を例に考えてみます。

 大震災からの漁業の復興に関して、いわば漁業構造改革として大資本の参入を含む「水産特区」構想が「高台移転・職住分離」と合わせて提起されています。これに対して「効率一辺倒で、零細な漁業を含む地域経済を破壊してもいいのか」という批判をするのは間違いではありませんが、抽象的で漠然としており、いま一つ力が足りません。

 問題に具体的に切り込んで行くと、まず大資本の参入が本当にあるのか、が疑問とされます。大震災とも東北地方とも直接関係ない一般論ではありますが、山本浩一氏(静岡県定置漁業協会専務理事)は「先進的な資本主義国家では、資本の投資先はさまざまあり、残念ながら漁業生産は有利な投資先とはなりにくいのが現状です」として以下のように述べています(「しんぶん赤旗」2010年8月23日付)

-------------------------------------------------------------------------------

 第一に自然条件により漁獲生産量の変動が大きく、第二に魚価が不安定であり、第三には遭難や事故率が高い、第四には船や漁業資材など投資額が大きく、その割には塩害などで償却が早いのです。そのうえ、安い外国の魚介類の輸入は無制限同様なのです。

 これでは、どんな資本家でもチョット考えてしまうでしょう。

  ……中略……

 このまま行けば、漁業生産の場から地元資本が退場し、その後、すべての資本が退却しそうにも思えます。本腰を入れて、地元の協同資本、自営業者、そして労働者階級が、漁業生産を支えなければならない時代が来るかもしれません。

-------------------------------------------------------------------------------

 東北地方に即しては室崎益輝氏がこう指摘しています(「『高台移転』は誤りだ 本当の現場の視点に立った復興構想を」『世界』8月号所収)。

-------------------------------------------------------------------------------

 東北地方のそれぞれの港では、漁業と言っても、養殖業、ホタテやワカメなど、生産システムが港ごと違う。地域密着であり、切り離しての産業復興はあり得ない。そういう現場の特性を見れば、漁業が集約できないことはすぐにわかる。簡単に集約して株式会社化できるというのは、現場とは全くかけ離れた感覚である。    60-61ページ

-------------------------------------------------------------------------------

 構造改革を進める新自由主義は粗雑な生産力主義であり、弱肉強食で淘汰していけば、全体的には生産効率が上がると抽象的・一般的に考え、それですべて割り切るのでこういう錯覚が生じます(「マルクス主義者」も気をつける必要がある)。しかし間違い・錯覚はそれとしても、この無理筋には実際には別の狙いがあると考えると納得がいきます。

 この点で、片山知史氏(東北大学大学院教授)の談話は必読です(「しんぶん赤旗」7月30日付)。

-------------------------------------------------------------------------------

 今回の水産特区も「東北で試して、西日本にも広げる」「漁協の関与をなくして沿岸で好き勝手に活動したい」という意図を感じます。

  ……中略……

 水産特区の本質は、漁協による沿岸の一元的管理を否定し、企業の自由参入と活動を認めるところにあります。

 漁業権は、漁協に優先的に免許されるために「既得権益」「閉鎖的」と見られる向きもあります。しかし、海の生き物は誰のものでもなく、漁獲による紛争を避けるためには沿岸資源や魚場の管理主体は一つでなければなりません。

  ……中略……

 埋め立てや原発、空港建設など沿岸の開発にあたっては、漁業権補償が発生します。開発したい側にとっては、これが目ざわりでしょうがない。特区で漁業権をつぶしてもらい、海岸を自分のものにしたいのです。

-------------------------------------------------------------------------------

 この方向を排して片山氏は「東北の漁業復興は漁協を軸にした漁業者の共同体の力を信頼し、それを支援する方向で考えるべきなのです」とオルタナティヴの基本姿勢を提起しています。

 水産特区とセットで出てきている「高台移転・職住分離」については中山徹氏が経済学の立場から原理的にかつ現状に即して考察しています(「復興計画の問題点と今後のあり方を考える 高台移転の評価を中心に」『前衛』8月号所収)。原理的には、住宅の立地はその時代の生産構造と大きく関係します(102ページ)。近代工業の発展では、工場規模の拡大にともなって、効率性のいい都市形成のため、職住分離が進みました。しかし日本の漁業では家族的経営が続いてきたので、職住一体で、海がすぐ見えるところに住んだほうが生産性が高くなります。農業も同様であり、こうした事情が「長い時間をかけ、日本の気候・風土と一体化した農村・漁村景観を形成してき」ました(同前)。

 中山氏は「高台移転・職住分離」を完全に否定しているわけではありませんが、自然破壊の発生、大型公共事業費確保の口実にされること、国や県の主導で地域住民の意志が尊重されにくいことなどから否定的です。上記のように、現実にはこの地域の漁業の集約は困難であり、全国の海岸を私物化したい大資本の狙いから水産特区構想が出ていることを考え合わせると、職住一体の家族経営漁業を復旧して「日本の気候・風土と一体化した農村・漁村景観」を守ることが大切だと思われます。

 「高台移転」論を含めて、大震災復興の現状の問題点について、前出の室崎益輝氏の論文が徹底的な批判を展開しています。室崎氏は奥尻の復興計画の時点では高台移転論者でした。しかしいかによさそうな計画で漁師たちから支持されているように見えても、結果的には高台移転はほとんど実現しなかったという経過から、「漁師と海とのつながりがいかに大切であるかを痛感し」ました(57ページ)。今回の大震災の現地の声では、半数の人々が元に戻りたい、としています。これを室崎氏は「海のそばに住むことが、仕事だけではなく、歴史や文化を背負って生きることであり、海を捨てたら自分たちの存在価値はないとわかっているからである」(56ページ)と捉えています。こういうこともあって「現場の視点が基本にならないのは、被災者のことを考えていないのと同じである」(61ページ)という観点が確立されたのでしょう。阪神大震災などの経験にとらわれすぎることの問題も含めて以下のように指摘されます。

-------------------------------------------------------------------------------

 復旧、復興の判断基準は、過去の経験にではなく現場にある。現場を見て、現場の課題に応えるように方針と手段を考えなければならない。現場ではなく過去の経験を見るのであれば、霞ヶ関でも、仙台市内でもできると思いがちである。現場を見ようと思ったら、閣議や復興構想会議はたとえば気仙沼で開催すべきだし、被災地に大臣を張りつけなければならない。火災現場で消化活動にあたるときは、炎の広がり方を見て、どこからホースを入れるかを決め、近くに海があればそこから取水する。前回は川の水をとったからといって川を一生懸命探しているようでは間に合わない。

 日本社会の体質かもしれないが、一人一人の人間をなかなか見ない。ボランティアセンターでは「ニーズが上がってこない」と言う。電話も壊れ、疲れ果ててSOSの声も出ない人たちがいる中では当然である。ニーズがないかというと、そうではない。現場の人々の声に耳をすませば聞こえてくるし、現地へ行けば、一体何が求められているかはすぐにわかるのである。      60ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 実際には真逆の事態が進行しています。

--------------------------------------------------------------------------------

 被災者の気持ちと全く別のところで動いているのは、一部の国のトップの判断かもしれないし、そこにコンサルや業者が群がって勝手に道をつくっているのかもしれない。自分のそろばんしかはじいていない人たちが復興計画のセールスマンとなって、傷ついた人の傷を逆手にとって売り込んでいく。きれいで、輝かしい未来があるように見える絵である。そういう形で、いま復興計画がどんどんつくられている。    66ページ

--------------------------------------------------------------------------------

 もちろん私たちは創造的復興に名を借りた日本社会の破壊に反対するだけでなく、オルタナティヴを提起しなければなりません。「食糧自給率を高める、地産地消の文化をしっかり植えつける、エネルギーの無駄遣いをしない生活を見につける」(66ページ)ために

第六次産業化を進める「自立と連携の生活圏」(62ページ)をつくっていくことが求められます。

 私は新自由主義を「ブルジョア教条主義」と捉えています。それは現代の独占資本の利益を追求するという今日的本質を、「自由競争信仰」や「セーの法則」(かつて竹中平蔵大臣は国会答弁でもこれを使った)といった「資本主義時代共通のイデオロギー原理」(それは資本主義経済を市場経済に解消して認識している)にくるんで提供します。したがって自由競争の「敗者の生存権」は(というか、労働者の生存権そのものも)基本的に無視され、「過剰生産」は本来ありえないものであり、それは自由な市場を侵害した結果とされます。要するに今日の資本主義経済の現実は無視され(その本質は理解されず)、市場の「原理」にあわせて「改革」されるべきものとされます。この教条主義にもっとも忠実だった「小泉・竹中」改革によって日本経済は見るも無残な姿にされました。

 リーマンショック後も様々な曲折・修正はあるとはいえ、依然として支配層のイデオロギーの核心は新自由主義であり、大震災の上からの復興計画の魂もこれでしょう。復興計画に群がる大資本の利益を、「市場の自由」「効率性」といった「公共の利益」が覆います。ここで「効率一辺倒はいけない」という空中戦を交えるのも意味はありますが、現場に降りて行って、ブルジョア教条主義の現実無視を衝くことがより重要に思われます。「人間の現場」を見ない教条主義が「市場原理」や「効率」を振りかざしてこっそり「資本の現場」の利益を実現する(これはおそらく新自由主義の理論構造からくるものであろう)様子は室崎論文からもうかがえます。

 この節の本来の課題は「日本社会のあり方をどう認識するか」でした。大震災復興の問題点を題材にそれを考えようとしましたが、残念ながら「抽象論ではなく現実に具体的に切り込もう」というまったくそれ自身抽象論というか一つの「心構え」に終わっております。特に「日本社会の特質」にどう迫るか、という点にはさっぱり踏み込めていません。日本において新自由主義が強力であり「ルールなき資本主義」となっている現実を、ある意味「世界に誇るべき良い社会」である、という一面と表裏一体に捉えることがどうしても必要と思われます。その際もちろん日本特殊論を前提するのではなく、経済学・社会学その他社会科学の普遍的理論から説明されなければなりません。ある日本的なものを先天的に前提にしてそこからすべてを説明するなら非合理の闇に閉ざされます。その前に日本的なもの自身が何かが社会科学的に説明された後であれば、それを前提に諸現象を説明することは適切です。

 理論というのはすべて多かれ少なかれ抽象的であり、抽象的なこと自体は問題ではありません。問題はその抽象の性格・次元を自覚しているか、ということです。また的確な抽象をする前提としては、どのような現実をどう捉えるかが問われます。新聞・雑誌などを読んでいて、この現実感覚を刺激されることはきわめて重要と感じます。もちろんそれで自動的に理論が深まるわけではありませんし、やたらとそこから引用して雑文をこしらえるのもどうかとは思いますが…。

 不破哲三氏の古典講義のDVDをいくつか見る機会がありました。社会科学を効率的に学ぶには、わかりやすい適当な教科書をしっかり読むのが早道でしょう。古典は難しいし、当時の歴史的背景も理解しなければならないので、社会科学を習得するには非効率的です。しかし社会科学の勉強は受験勉強のように効率的にやる必要はありません。それに、教科書で諸命題を習い覚えて現実に「適用する」という安直な姿勢が身につくとすれば問題です。教科書類を否定はしないけれども、古典に直に触れることは大切です。

 マルクスは書斎で研究してから、おもむろに現実に降りてきた、というようなことではなく、革命家として不断の実践の中から問題意識をみがいて社会科学を作り上げてきた、ということを不破氏は強調しています。不破氏は歴史的背景とマルクスの問題意識をていねいに説明することを通して、受講者に、社会科学が立ち上がってくる現場を臨場感をもって捉えさせることに成功しています。これが重要です。

 知的生産においては、既存の知識を基に新たな考察を加えて新たな知識を生み出します。その際に既存の知識がなぜそのような内容を持っているのかを、生き生きと知っていることが新たな考察に大いに役立ちます。素人が社会科学を学ぶのはもちろん論文を書くためではありません。多くは自分の生きている社会を把握し、さらに進んではそこで何らかの実践をするためです。その実践はたとえば投機で儲けるというのもありますが、私たちの場合は社会変革の実践でしょう。実践の基準は経験とともに理論であり、それを基にして不断に決断が下されます。だからそこでは、常に直面する現実を前に、たとえ小さくとも知的生産が行われていると言うべきです。

 社会科学に限らず、学問というものを過去の知識の集積としてだけ静的に捉えるのでなく、人間の不断の実践と認識活動の一部として動的に捉えることが大切です。過去の知識が生まれてくる現場に立ち合うことは、今知識を生み出すことに役立ちます。ましてやマルクスのような巨人が革命家として当時の現実にどのように向き合ったかを学ぶことは私たちにとって大いに参考になります。以上のような意味においては、研究者も初学者も同じであり、古典をその時代背景とともに学ぶことには、きわめて創造的な意義があると言えましょう。
                                 2011年8月2日

                 月刊『経済』の感想・目次に戻る

MENUに戻る