月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2011年9月号〜12月号)

                                                                                                                                                                               

2011年9月号

         世界経済における資本への規制

 大震災後の状況でも、財界・独占資本は、五重苦だ六重苦だ、法人税を下げないと(=消費税を上げないと)あるいはTPPに加入しないと、その他言いたい放題で、とにかく言うこと聞かないと海外へ出て行くぞ、と脅迫しています。震災前からの主張をここぞとばかりに言いつのっているわけで、ここには、被災者の苦難も人民の生活苦も国民経済の行く末に対する痛みも責任感も感じられません。このように他への共感を欠いた利己心の追求に直面したなら、かのアダム・スミスも自由主義経済を考え直すのではないか、と心配になります。

 理論・現状分析・政策のいずれをとっても、結局焦点は新自由主義グローバリゼーションの是非に行き着きます。確かに現実認識と価値判断とは相対的に区別しなければなりませんが、価値判断優位の下に統一される必要があります(と言うためにはきちんとした理論的根拠が必要ですが、それは宿題とします。とりあえず最低限注意すべきは、価値判断から生じる「願望」やそこからまた誤って生じる「希望的観測」によって現実認識が歪まないようにすること)。「フクシマ状況」を前にしながら、国際競争のためには引き続き原発が必要だ―という類の「現実認識」を一顧だにする必要はありません。何しろここには利潤追求の現実はあっても、人間が苦しんでいる現実はないのですから、それはいかなる意味でも現実主義とは言えません(むしろ資本の歪んだ「理想主義」だろう)。そして社会にとって後者の現実こそが本質的であり、前者の現実は特殊歴史的な現象形態に過ぎません。社会的総資本の再生産が国民経済を形成し、その推進動機が利潤追求であるという現実は確かにありますが、国民経済のあり方の判断基準は人民の生活と労働が正常に再生産されているか、という深みから行なわれねばなりません。資本が国民経済を形成するという形態が、人民の生活と労働によって形成される社会的本質とますます相容れなくなっているという現実を、「フクシマ状況」は劇的に明らかにしたのです。それでもなお一挙に資本主義経済を止揚することが困難であるなら、利潤追求という形態を規制して、人間の社会を救うという当面の措置は必要不可欠です。それが正常な価値判断というものでしょう。しかしそこに立ちはだかる「現実認識」があります。それによれば、新自由主義グローバリゼーションの「現実」に照らせば、資本への民主的規制は不可能で不当だと言うのです。したがってこの「現実」を不動で不可侵で自然なものとして認める「理論・現状分析・政策」系列と、それを認めない「理論・現状分析・政策」系列とが対峙することになります。

 原理的には資本主義経済体制は労働者の生存を前提としますが、諸資本の競争(あるいは競争する個別諸資本)は労働者の生存権を否定する衝動を持っています。だから資本主義の存立には、自然史的過程としての経済に対して外から(主に国家権力によって)の規制がもともと不可欠です。新自由主義グローバリゼーションも例外ではありません。ところが世界市場には国家権力が存在しないため、あたかも資本への規制は不可能であり、またそうした反生産力的行為は不当である、とする見解が有力に見えます。それに基づいた新自由主義政策の展開によって、多国籍独占資本が野放しにされたことで、強搾取で貧富の格差は拡大し、金融のカジノ化が進み、環境破壊が深刻になりました。生産力の劇的発展と資本主義の寄生性・腐朽性の深化とによって、世界市場でも資本を規制しないと、人間社会と自然の維持が不可能となる事態に至ったのです。このように経済活動の本源的前提を破壊することによって、多国籍独占資本を中心とした新自由主義グローバリゼーションの「自然な生産力発展」は資本主義的生産様式そのものの存続を危機に陥れています。世界資本主義にとっても、資本を規制するのは、「不自然な反生産力的行為」ということはもはや言えず、逆に資本主義存続の前提でさえあります。別に資本主義を存続させたいわけではないけれども、諸般の事情ですぐに資本主義経済体制を止揚することが困難な段階では、最低限、資本主義によって人間社会と自然環境が破壊されるのを防ぐこと(資本への民主的規制)を当面の課題とせざるを得ません。

 そこで新自由主義グローバリゼーションの「自然な生産力発展」に対決する経済像としては、(1)その否定として、資本への規制は可能であることと(2)それへのオルタナティヴとして、内需循環型地域経済・国民経済(とその総和として世界経済)は可能であることを示すのが課題となります。そのような「理論・現状分析・政策」系列を構築しなければなりません。

 以下では前者の課題について述べます。食料の問題は、経済社会存立の土台であり、人間社会と自然環境との結節点でもあります。だからこの問題を通して資本への規制を考えることはきわめて重要だといえます。久野秀二氏の「世界食料不安時代の到来と食料主権(下)」ではまず問題の一般的側面は次のように捉えられます。

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 従来、国家の法的権限を飛び超えてグローバルに事業展開する多国籍企業を直接に規制するには限界があると考えられてきたが、多国籍企業による人権侵害行為を、「企業の社会的責任」イニシアチブのような自主的行動規範や、不作為になる可能性が高い本国政府ないし投資受入国政府の政策判断に委ねるのではなく、国家管轄権を超えて法的に規制するためのメカニズムが必要であるとの認識が国際的に広がっている。多国籍企業や国際経済機関が社会権的権利の実現(と侵害)に国家機関以上に重要な役割を果たしていることを考えれば、それらによる人権侵害行為を法的に裁くための国際法廷の導入も検討されて然るべき、との意見も支持を集めつつある。         125ページ

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 ここでは経済と法(および政治)との関係が提起されており、それについて理論的・一般的に考察することは大切ですが、いきなりそうするのは難しいので、まず食料問題をめぐって具体的に考えてみることが有効でしょう。その際のキー概念は「食料への権利」と「食料主権」です。

 「食料への権利」は「すべての人が物理的・経済的にいつでも適切な食料あるいはその入手手段にアクセスできることを基本的人権の一つと考える捉え方で」す(118ページ)。そしてそれは「国際法体系の中に位置づけられ、各国・国際機関が法的義務を負って実行に移すべき重要課題として具体化されてきた法規範的な概念であるという点が重要」です(119ページ)。国家の法的義務は当然であり、国際機関の中でも世界銀行とIMFは国際法・国連憲章に縛られることは明白です。これに対してWTOは国連との間に連携協定を結んでいませんが、GATT前文からすれば「WTO協定の原則であり目的であると理解されている貿易自由化と内外無差別原則の実現が、実は生活水準の向上や完全雇用の実現といった社会経済的目的のための手段であって、それ自体が目的ではない」(121ページ)と考えられるので、「『食料への権利』をはじめとする社会権的権利をWTO交渉で主張することは国際法体系に照らして十分に可能であるし、むしろ必要であると解釈することができ」ます(122ページ)。具体的には次のような諸問題があります。

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 国連人権理事会やFIAN等の市民社会組織を中心に、WTO農業協定をはじめとする自由貿易レジームのあり方、食料援助や国際開発協力のあり方、多国籍企業とくにアグリビジネスの行動と規制、農業技術の開発と普及、作物遺伝資源管理や知的所有権のあり方、国際農地取引やバイオ燃料政策の影響、そして投機マネーの農産物市場への流入など、農業と食料を取り巻くさまざまな問題に関わって、「食料への権利」に対する国際社会の責務が議論されているのである。           125ページ

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 以上のように、世界国家は存在しないとはいえ、少なくとも世界経済が多国籍企業にとっての無法地帯ではなく、実態は別問題としても、法的規制とそれを可能とする国際的枠組が現存することは明らかです。

 次に「食料主権」は「新自由主義的な農業政策・通商政策と農業工業化モデルに対するオルタナティブを表現するための概念として提示され」(126-127ページ)以下の内容を持ちます。

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 それは「すべての国と民衆が自分たち自身の食料・農業政策を決定する権利」であり、より具体的には「すべての人が安全で栄養豊かな食料を得る権利であり、こういう食料を小農・家族経営農民、漁民が持続可能なやり方で生産する権利」であり、そして「多国籍企業や大国、国際機関の横暴を各国が規制する国家主権と、国民が自国の食料・農業政策を決定する国民主権を統一した概念」である。      126ページ

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 「食料主権」は「グローバルな農民運動の中核を担っているビア・カンペシーナ」(126ページ)によって1996年から国際社会に提起されており、認知度も高まっています。「これは、国際人権法体系に根拠を持つ『食料への権利』論のような法規範的な厳密性と普遍性という点では弱点を抱えているものの、世界各国の生産と消費の現場から突き上げられてきたという『重み』があ」り(127ページ)、内容的にはより先進的で戦闘的です。したがって、国境保護措置や価格支持政策などを認めないWTOの農産物自由貿易体制に対抗するためには、「一方で『食料への権利』という国際的法規範に依拠し、他方で『食料主権』を求めるグローバルな市民社会運動の力に寄り添いながら」(130ページ)闘っていくことが必要です。

 これを一般化すると、資本への国際的規制は、一方では社会権などの法的根拠を明示しつつ、他方ではグローバルな人民の運動の力によって推進していく…こうして諸国家や国際的諸機関に一歩でも民主的規制を実施させる可能性が出てくる……久野秀二氏の論文からはそうした方向がうかがえます。

 

         懐かしい未来

 「新自由主義的な農業政策・通商政策と農業工業化モデル」に対するオルタナティヴとして、「食料主権」の経済像では、食料を小農・家族経営農民、漁民が持続可能なやり方で生産することが想定されています。ここでは自然と人間とのあり方が転換されます。食料生産だけでなく、暮らしにもこの転換は必要であり、それはすでに普通の多くの人々の意識の変化としても現われています。「物質文明とテクノロジーの進化の果てに幸福と豊かさがあるとは、どうやら二○世紀の終わり頃から日本人はもう信じていない」ようです(中村和恵氏の連載エッセイ「世界の本屋さん7 野蛮人と物差し」『世界』9月号所収、254ページ)

 藤井英二郎氏と甲斐徹郎氏との対談「緑が都市を変える、暮らしを変える」(『世界』9月号所収)は実に深く魅力的でわかりやすい内容となっています。近代化によって人々が家の中に「個」にこもることで、自然とのつながりや地域社会の公共性が崩れていったことが説得的に明らかにされ、「暮らしと樹木の循環」を再生することで今日それを復活する方向性が示されます。

 たとえば15世帯が入居している世田谷の「欅ハウス」では「各住居の玄関は必ずケヤキ側に向いているので、毎日の行き帰りに必ずケヤキの木を通過する。リビングもケヤキのある北側なので、夏場も暑くなり過ぎない。木の下は共有スペースで、樹木に囲まれた空間の心地よさを求めて人が自然と集ってきます。子どもたちもそこで遊べば、皆の目が届いて子育てが孤立しない」(213ページ)というような「コミュニティ・ベネフィット」(個人単位で実現できないような価値、同ページ)を実現しています。

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 産業界や国が推奨する省CO2住宅は、基本的には遮熱性や断熱性の高い建築部材や、高性能のエアコン、太陽光パネルといった、スペック(性能の高さ)を寄せ集めて、いい家をつくろうという発想だと思います。でも、これで快適になるのは家の中だけで、外の環境とは断絶されたままです。「共」が生まれない構造になっている。    215ページ

 これからは、そうした便利さを実現するための効率だけを追求するのではなく、幸せや、豊かさをデザインすることが求められている。幸せをデザインすることは、人間関係や、生活そのものに直接かかわることです。その地域の環境や文化、時間軸を超えて大切にされてきたものがあるかどうか、そしてそれを一緒に大切にする人がいるか――こうしたことまでデザインできないと、今後の高齢化社会を豊かなものに変えていくビジョンが見えてこない。        

 決して不便な世界へ回帰しようという話ではなくて、スペックをもう一度編集し、活用しながら、環境との関係性を見つめなおすべきです。いまの日本人には、環境と技術をどうつなげるかの空間構想力が足りない。残念ながら、外環境や、緑環境、設備、そして家をつくる人が、みんなバラバラになっていて、それぞれの立場でスペックを追求しているだけのように感じます。                    216ページ

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 技術開発が利潤目的の効率追求一辺倒で行われている一方で、何となく自然が環境が伝統的なものが求められている、というムードがある昨今です。しかしそれは単なる復古趣味ではなく、個人と社会の幸せや真の豊かさを追求する中で、最新の技術と連携をとりながら新たに創造していくものだということが、ここからわかります。これは「懐かしい未来」と呼ぶことができるでしょう(この言葉はNHKFMで大貫妙子さんから聞いたのを拝借しました)。

 「懐かしい未来」を創造するには、自然と社会を統一的に把握する視点が必要です。この点で多羅尾光徳氏の「環境問題を考える視点 ヒトは社会と自然の二つの環境に支えられている」は目の覚めるような論文です。これは、3月20日に東京都内で開かれた学生向け連続講座「マルクスは生きている」で行った講演「環境問題と『資本論』」に整理・加筆して『前衛』9月号に掲載されています。ぜひ多くの人々に読んでほしいラディカルな(根源的な)問題把握があります。

 この論文で啓蒙されるのは、自然の大きさや形と、そこでのヒトとその社会の位置が客観的に示されていることです。地球上の生物はほとんど緑色植物と従属栄養微生物であり、両者の間の物質循環が自然生態系の基本です。動物やヒトはほんのわずかであり、したがって動物が緑色植物を食べることから始まる生食連鎖は生態系の傍流に過ぎません(214-216ページ)。ここで人工生態系としての都市を見ると、緑色植物と従属栄養微生物が非常に少なく生物としてはヒトが圧倒的に多くなっています。都市は大気や水の供給と浄化を自然生態系に、食物を農耕地に依存しています。こうして見ると、大気・水・食料の存在を当たり前と思い、生態系の基本が生食連鎖であるかのように錯覚するのは、都市という(自然全体からすればきわめて特殊な)人工生態系に住むヒトの偏見にほかならないことがわかります。農耕地も人工生態系であり自然生態系に支えられています。

 「自然生態系が都市や農耕地にもたらし、農耕地が都市にもたらす恩恵のことを『生態系サービス』と呼びます」(218ページ)。都市の拡大は自然生態系と農耕地を破壊することで、生態系サービスに依存する都市に危機をもたらしています。「都市を持続させるために他の生態系をどのように配置し管理するのかが問われるようになりました。それが地球的規模の環境問題として認識されるになったのです」(220ページ)。また都市の活動そのものを生態系サービスの許容範囲内に収めることも必要です。

 これからの社会で「懐かしい未来」を設計していくことがなぜ必要か、という理由がここにあります。「懐かしい未来」は単なる感傷ではありません。自然の客観的構造とその中での人間社会のきわめて特殊な位置、そして生態系サービスを無視して進められてきた自然環境破壊の到達点、この両者を今理解しなければなりません。そうすることで都市のヒト中心主義の偏見から脱して、伝統に学び最新の技術を活用するという両面から、自然環境と調和した人間社会のあり方を創造してしていくことが可能となるでしょう。「懐かしい未来」を希望するのはその直観的表現であり、それを理性的に設計し具体化するのが課題なのです。

 ところで多羅尾氏は「これこれの魚がいなくなると寂しいとか、きれいなチョウがいなくなると大変だとか、そんなセンチメンタルな理由で生物の多様性を保全するのではありません。あくまでも人間の生存を成り立たせるためなのです」(220ページ)と、自然科学者としての客観的立場から啓蒙し叱責しています。しかしこれは狭い観点であって、そのような感傷が生じること自体が、生物としてのヒトの生存本能の現われだと解釈すべきではないでしょうか。ヒューマン・ネイチャー(人間の本質、人間の自然)は自己の存立に必要な生物多様性を求める感性を備えている、と考えてみるのです。それを内在的に立証するのは困難かもしれませんが、その方が人間という存在を大きく捉え、昨今の社会的ムードに根拠を与え、理性と感性を結んでいくことになろうかと思います。

 多羅尾氏は環境問題を資本主義的生産様式との関係で捉え、その根拠と解決策まで実に説得的に明らかにしています。それがむしろ論文の中心でしょうが、ここでは一点だけ触れます。環境問題を一人ひとりのライフスタイルの問題に解消する主張を徹底的に批判する中で電通の「広告戦略十訓」が紹介されています(213ページ)。

 (1)「もっと使わせろ」、(2)「捨てさせろ」、(3)「ムダ遣いさせろ」、(4)「季節を忘れさせろ」、(5)「贈りものにさせろ」、(6)「コンビネーションで使わせろ」、(7)「キッカケを投じろ」、(8)「流行遅れにさせろ」、(9)「気安く買わせろ」、(10)「混乱をつくりだせ」

 まさに生態系サービスの限界を突破させるような大量生産・大量消費・大量廃棄の戦略が赤裸々に語られています。ここでは商品の浪費はもちろんのこと、労働も浪費されていることに注意すべきです。生産性が上がって労働時間が減れば自由時間が増えるはずですが、それもまた新たな搾取の対象にするのが資本主義的生産関係の宿命です。自由時間を奪ってムダな商品を作る労働時間にしてしまったのです。生活時間に余裕がなくなり、「手間ひまかけずに金かける」消費生活スタイルが事実上強制されたのです。このように自然環境破壊は生活・労働破壊と表裏一体であり、人間発達を促すはずの自由時間を奪われ、本来不要な商品と交換させられてしまったのです。

 「懐かしい未来」は「広告戦略十訓」の対極にあります。伝統的で季節感がある精選された商品を大切に長く使う生活スタイルが自由時間とともにあります。こうした経済社会を支える中心勢力は、主に世界市場で活躍する多国籍大企業ではなく、地域経済に根差した中小企業・小経営・農林水産業者ということになります。

 全国商工団体連合会が7月10日に発表した「日本版・小企業憲章(案)」は小企業・家族経営の大切な役割を多面的に解明しています。以下に地域・風土・伝統・環境などへの役割を記した部分から引用します。

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 日本の風土が育んだ伝統建築の継承、再生可能エネルギーの活用など、風土と地域の特徴をつかんでいるからこそ、快適な環境づくりに貢献できます。地域住民との密接な関わりを生かした防災・人命救助など、小企業・家族経営は環境の保全や地域社会の存続、安全確保に知恵と力を発揮しています。

      ……

 使い古しの家具や電化製品を修理して再利用を可能にし、余り布から手織りの技術で新製品のカーペットを生み出すなど、小企業・家族経営はモノを大切にし、環境・リサイクルに貢献しています。

      ……

 小企業・家族経営は、歴史や風土、文化や伝統に根ざしたモノづくりを担い、その技や知恵を継承してきました。地域の子どもを見守り、まちのオアシスとなって明日への活力を生み出しています。インターンシップで学生にモノづくりの楽しさや中小企業としての生き方を伝えるなど、小企業・家族経営は、地域に豊かさと元気と展望をもたらします。

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 大企業は、消費者の生活の断片に向かって画一的な大量の需要を上から「創造」します。それに対して、小企業・家族経営は、地域住民の生活全般に向かって、その地域の文化・伝統に根差した小さな需要ごとに細やかに対応します。もちろん前者がまったく不要だというのではありませんが、これからは後者の役割が見直されて、環境と生活に優しい経済社会が展望されるべきでしょう。内需循環型の地域経済・国民経済の形成という課題とも合わせて重要な課題です。

 蛇足ながら、先の多羅尾論文から教えられるものに再び触れます。問題意識の持ち方と問題把握の仕方についてです。問題意識は漠然としていてはダメで、身近で具体的で痛切であるべきですが、しかしその問題意識が問題の全体状況の中でどの位置にあるのかをつかまないと、それは鋭いけれどもひとりよがりで客観性を持たないものになってしまいます。環境問題ならば、何よりも人間にとって、私にとってどうなのか、というところから出発することが多いでしょう。しかしそれだけだと人間中心主義に偏向して自然の全体像とその中での人間の位置を見失う可能性があります。社会の位置付けをどうするかも重要です。極端な偏向例が「環境問題=一人ひとりのライフスタイル問題」という把握です。自然と社会についてのバランスある見識が必要なのです。

 全体を客観的に広く見られるならば、当面する小さいもの狭いものを正しく位置付けられる、ということは、「人間と自然のサイクル」だけでなく「人間社会の労働のサイクル」にも適用されます。経済の現状分析でまずは対象に細かく精通することが大切ですが、それを社会全体の中に位置付けることも必要でしょう。ここに労働価値論の意義があると思っていますが、それについてはまた追々考えていきましょう。
                                 2011年8月31日



2011年10月号

          恐慌論をめぐって(続)

 

          (1)「資本一般」の意義

 不破哲三氏の「『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる」の連載全6回が完結しました。今回は当初の予定とは異なり、最終章として「いわゆる『プラン問題』とマルクスの経済学説の発展」が加えられ、筆者の見解がより明確になりました。

 ところで、マルクスのテクストへの解釈を中心とするこの労作を読み込むためには、本格的には『新MEGA』原書を参考にすべきであり、少なくとも邦訳の『資本論草稿集』は読んでいなければなりません。不破氏は随所に新MEGAの編集を批判するほどに本格的にテクストを読み込んでいるのだからそうすべきでしょう。しかし私ごときにそのような資力・時間・能力はありません。そこで残されたわずかな余地として、以下では恐慌論へのかかわりを中心に、この論文に現われた筆者の考え方を若干検討します。

 論文では、『1857〜58年草稿』の6分冊プランは現行『資本論』構想にとって変わられたとされます。確かに「賃労働」や「土地所有」の問題などを見ると、6分冊プランがそのままの形で維持されると考えることは不適当かもしれません。ただしプラン問題の核心は「資本一般」という方法にあり、これが『資本論』体系にも維持されているのか否かが重要です。これについても不破氏は、「資本一般」の構想から現行『資本論』構想への転換(156ページ)を主張し、プラン変更説の核心を保持しています。

 不破氏は「資本一般」を頭から否定しているわけではありません。

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 経済学の諸概念を科学的に規定しないまま過ごしていたことは、古典派経済学の悪しき特質の一つでしたから、「資本一般」の枠組みから出発するという方法論は、資本主義経済の基本的な諸規定の交通整理を行い、諸範疇を科学的につかみだしてその内容を規定し、また新しい概念をつくり出し、その内的な脈絡を明確にする上で、大きな有効性を発揮したと思います。           149ページ

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 このように方法的に高く評価しながら、研究全体を「資本一般」の枠組みで限界づけることの問題点を指摘しています。その主なものは「資本の流通過程」の研究において実現問題への接近をはばんだこと、剰余価値の利潤への転化の意義を看過させたこと、平均利潤率形成過程の考察をはばんだこと、「利潤率低下の法則」に資本主義没落の必然性を見させたこと、などです(149-150ページ)。しかしこれらは「資本一般」そのものの方法的欠陥ではなく、それを狭く捉え過ぎることや適用の誤りによるものです。

 実際、「資本一般」構想の枠内で地代論や再生産論や平均利潤率の形成過程が展開されるようになったことが論文でも紹介されています(155ページ)。ここでは、「多数の資本の相互関係を考察の枠外に置く」といったような狭い「資本一般」から、「資本主義経済を理想的平均状態において考察する」という大枠的な「資本一般」へと拡張されている、と考えられます。ここでマルクスが「競争」を「資本一般」に吸収してしまう決断をした、と不破氏は評しています(同ページ)が、ここに問題の鍵があります。このように拡張された「資本一般」に収まるような「競争」だけでなく、それをもはみ出してしまうような「競争」があります。それは需給不一致の下で価値(生産価格)から乖離する市場価格の短期的運動のあり方をつかさどる「競争」です。ここに「資本一般論」と区別される固有の「競争論」の領域を想定することができます。

 ここからの私の問題意識は、マルクスのテクストへの内在からはずれて、価値論や恐慌論をいかに構築していくかに傾きます。需給一致ならびに価値・価格一致を前提する理想的平均状態の資本主義(「資本一般」次元)の下で労働価値論が論証され、それを基礎にこの前提を取り外した市場価格の日常的変動(「競争」次元)を捉えることが必要です。このように上向法で価値・価格を概念的に捉えるために「資本一般」から「競争」へと論理次元が重層的に構築されます。恐慌論も同様であり、理想的平均状態の資本主義(「資本一般」次元)に内在する矛盾が、日常的な需給不一致の下で市場価格に先導(扇動)され恐慌=産業循環という変動を形成する(「競争」次元、逆にまたこれの長期平均像として結果的に「資本一般」の世界が生み出される)、その姿を上向的に捉えることが必要です。

 いずれにせよ資本主義経済を本質から現象へと概念的に把握する上で、需給一致ならびに価値・価格一致の前提を境界線に置いて、「資本一般」から「競争」へと上向する重層的理論体系を構想すること―これを、プラン問題から学び今後の理論的展開に生かしていくべき方法的核心と考えたいと思います。

 『資本論』が「資本一般」次元ならば、そこでは、資本主義経済の本質から生じる恐慌の必然性が捉えられ、恐慌=産業循環の具体的動態は別に「競争」次元で展開されます。繰り返しになりますが、「資本一般」論で労働価値論が論証され、恐慌の必然性が基礎的に論定され、「競争」論で市場価格の運動と産業循環の具体的動態が分析されます。両者が相まって資本主義経済システムと恐慌の本質と現象が全体的に捉えられます。恐慌の必然性を捉えるだけでは飽き足たらず、恐慌の運動論をも捉えようとするのは当然ですが、そこで逆に産業循環の現象を解明するだけで満足してしまうと問題です。恐慌=産業循環が資本主義経済の平均化システムとして機能し、長期平均的には「資本一般」の世界をつくりだすことを見ることが必要です。人類史の一段階としての資本主義経済体制の存続原理をここに見るのです。市場原理・価格メカニズムが資本主義経済の均衡化機構である、という通念(単純商品生産表象で資本主義を捉える立場)との正面対決がここにあります。「市場原理主義」批判として、その前提の非現実性・抽象性・アンティヒューマニズムなどがよく批判されますが、より本質的には、恐慌を資本主義にとって本質的必然的なものと見るか外部的偶然的なものと見るかが問われるべきでしょう。商品経済の価格メカニズムをも包摂した資本主義の恐慌=産業循環のシステムが資本主義経済体制の存続原理であることを解明して、そのアンティヒューマニズムの根源性を明らかにすることが重要です。この辺はまあ蛇足でしょうか。失礼しました。

 

         (2)『資本論』第3部・第2部と恐慌論

 「利潤率低下の法則」が扱われる『資本論』第3部第3篇は恐慌論にも論及しています。不破氏は「恐慌論の転換(運動論の発見)以前に書かれた」(136ページ)この部分は、要注意だと指摘しています。その根拠として1868年4月30日にマルクスがエンゲルスにあてた手紙を紹介しています。その中でマルクスは第3篇については、生産力発展による資本構成の高度化からこの法則を解明した経済学上の画期的意義を述べるのみで、恐慌論には言及していません。だから「第三篇旧稿にあった、この法則を恐慌論や体制的危機と結びつけて議論した部分はすべて取り除く」(同前)のが「恐慌論転換以後」のマルクスの真意だと、不破氏は見ています。しかしこの手紙は第3部の内容を全面的に説明したものではありません。マルクスは「君が利潤率の展開方法を知っておくということは、好都合だ。だから、君のためにごく一般的な形で道筋を述べておこう」(国民文庫『資本論書簡2』136ページ)として、第2部と第1部に簡単に触れた後に「次に第三部では、われわれは、そのいろいろな形態および互いに分離した諸構成部分への剰余価値の転化に移る」(同前、137ページ)として第3部の各編について説明しています。この主題から見て、第3篇の説明でも恐慌論に言及しないのは当然です。したがってこの手紙にそうした言及がないからといって、第3篇から恐慌論を除くべきだとマルクスが考えていた、ということは必ずしも言えません。

 それでは第3篇に「利潤率低下の法則」と恐慌論が混在することをどう捉えるべきでしょうか。私も「利潤率低下の法則」と恐慌論を直結することには反対です。しかし利潤率そのものは恐慌論にとって不可欠であり、第3部第1・2篇で剰余価値の利潤への転化、平均利潤率と生産価格の形成が解明された後に、利潤率と恐慌との関係を考察するのは自然なことです。「利潤率低下の法則」は生産力発展にしたがって淡々と利潤率が低下していく、という内容ではなく、諸資本の競争などをめぐる矛盾した資本蓄積の諸相の分析をともなうものであり、その部分が恐慌論との一定の関係を持ちます。したがって第3篇から恐慌論を放逐してしまうのではなく、内容を整序して、「利潤率低下の法則」を考察しながら、利潤率と恐慌との関係を探究するのがマルクの本意に沿うことではないかと想像します。第1部第7篇との関連でもこれは言えます。「資本構成の高度化を資本主義的生産の躍進の指標として意義づけた第一部の蓄積論」(136ページ)という生産力発展への不破氏の着目は事実の一面であって、他面ではそれが労働力需要の相対的減少に帰結し、相対的過剰人口を生み出し、両面相まって「生産と消費の矛盾」が(直接的生産過程の分析という枠内、つまり資本の流通過程の捨象という次元ではあるが)事実上、潜在的に指摘されるのがこの篇です。つまり第1部第7篇から第3部第3遍への展開を、生産力発展論という一本線で結ぶのではなく、恐慌論とあざなわれた二重螺旋で結ぶのが適切であると考えます。

 より根本的問題は、1865年の第2部草稿執筆過程における「恐慌の運動論の解明という大発見」(156ページ)が、恐慌論の転換のみならず、「著作全体の構想に決定的な影響をおよぼ」し「「資本一般」の構想から現行『資本論』構想へと転換」(同前)させるほどの画期的なものなのか、ということです。さらには、この大発見により産業循環論が形成されることで、恐慌と資本主義体制の危機=革命とを直結する見方を克服し、資本主義の高度な発展の中で社会変革の客観的・主体的条件が成熟していく、という新たな革命観へ転換させた、というほどの重要事なのか、が問題となります。

 まず疑問とされるのが、これほどの重大な転換の全体像についてマルクス自身が説明している箇所が不破氏の労作の中に明示されていないことです。マルクスの大発見ではなくて、不破氏の大発見なのではないか、という疑問が残ります。それ以上の問題点は、「流通過程の短縮」の発見を恐慌の運動論の解明における決定打とする見方です。これについては「『経済』7月号の感想」の中で詳しく書きました。「流通過程の短縮」は恐慌のいわば舞台装置であって、推進の基軸ではありません。産業循環のメカニズムは、資本の過剰蓄積衝動を推進基軸として、需給不均衡下での市場価格カテゴリー(価格、賃金、利子率、為替相場等)の日常的変動を「競争」論次元で解明することがまず基本となります。この分析を支える考え方なり舞台装置として「流通過程の短縮」とか「固定資本の補填」などがあります。

 もっとも、恐慌と革命の直結論を克服するには、資本主義の発展論とともに、恐慌を産業循環の一環として捉える見方があればよく、何も産業循環のメカニズム全体を解明する必要はありません。そういう意味では「流通過程の短縮」の発見を一つのきっかけとして、マルクスが恐慌論と革命論を転換した可能性はあります。しかし文献考証的には、そのきっかけを「流通過程の短縮」一つに絞るのが適当か、という問題があり、経済理論としては上記のように「流通過程の短縮」に対する過大評価が問題となります。

 このように見ると、1865年以降あたりに「恐慌の運動論の発見」によって恐慌論と経済学構想ならびに革命論を転換する特定の時期を設定して、その前後でマルクスの理論に対する評価を変える、という新たな見方は疑問とされねばなりません。たとえばその立場から、この転換時期以前に書かれた現行『資本論』第3部第3篇は未熟なのでそこから恐慌論を追放すべきだ、というのは、恐慌論の本来の発展方向をふさぐことになるのではないでしょうか。

 この問題は第2部とも関係します。恐慌についての「まとまった展開を『資本論』全三部のどこで行うのか」(143ページ)と不破氏は問い、第2部であろうと答えています。第3部ではない根拠を不破氏は次のように論じます。恐慌についての基本命題が1864年執筆の第3部第3篇で定式化されているので、当時マルクスはここで恐慌論を展開するつもりだったようだが、「第一巻刊行の後に書いた第三部構想には、その考えはまったく姿を消しています」(143ページ)と。しかし「第一巻刊行の後に書いた第三部構想」というのが、先に登場した1868年4月30日のエンゲルスあて手紙を指すならば、そこで述べたようにこれは第3部構想ではなく、「利潤率の展開方法」あるいは「いろいろな形態および互いに分離した諸構成部分への剰余価値の転化」という限定された主題について説明したものであり、そこに恐慌論が登場しないのは当然です。それは第3部において恐慌論を不要とする根拠とはなりません。

 次いで、この第3部第3篇にある(生産と消費の矛盾に関する)恐慌についての基本命題と同様のものが第2部第2篇に「注」として登場することが指摘されます。有名ないわゆる「注32」で、論争のあるところですが、不破氏は第2部第3篇の再生産論で恐慌が論じられることを示している注だと解釈します。それに異存ありませんが、問題はどのような恐慌論が想定されているかです。通説的な恐慌論では、ここでは「恐慌のいっそう発展した可能性」が論じられる、というように抑制的な調子となります。しかし「恐慌の運動論の発見」を前面に、第3部での展開をも排して、第2部で「恐慌の総括的解明」(144ページ)をするという不破氏の構想では、産業循環論をも含めた「総括」的展開が予想されます。しかし『資本論』の体系性を考慮すれば、第3部で登場する利潤概念・商業資本(=「流通過程の短縮」の具体的中心的担い手)・信用などがここではまだ捨象されており、とても「恐慌の総括的解明」に至るとは思えません。

 実は、恐慌についてのまとまった展開を『資本論』全3部のどこで行うのか、という初めの問題提起そのものに問題があります。通常は、『資本論』なり「経済学批判プラン」なりに沿って恐慌論も体系的に積み上げて構成されます。抽象から具体への論理次元の上向として恐慌論は組み立てられます。資本主義経済の本質的・体制的・総括的矛盾である恐慌は経済学体系の総がかりで取り組むべきものであり、そこをはずせば産業循環についての現象論に陥る危険性が出てきます。商品経済の本質的解明に始まり、資本主義的搾取と資本蓄積の動態をおさえ、恐慌の必然性を基礎的に論定して、産業循環現象と「世界市場と恐慌」の総括的解明に至る、マルクスの壮大な経済学批判体系を生かして発展させることが大切ではないでしょうか。

 「資本主義の病理をもっとも深く解明した経済学者であると同時に未来社会を探求しその実現のためにたたかい続けた革命家であったマルクスの真骨頂」を「マルクスの経済学説の発展とその革命理論の発展とのあいだの内面的な相互作用」(162ページ)に見る、というのが論文の結論です。ただしそれを1865年以降の特定の時期を中心にして具体的に論証しようとした不破氏の試みは果たして成功したでしょうか。いまなお別様に論証されるべき命題として残っているように私には思えます。しかしこの結論の美学はマルクス自身のものであり、不破氏のものであるにとどまらず、私たちのものでもあります。それを導きの糸としてより勉強していきたいものです。

 

           

          社会保障をめぐる断想的メモ

 社会保障は社会政策の一環として資本主義体制を支えるものでありながら、それ自身は非資本主義的な性格を持ちます。したがって新自由主義構造改革においては常に削減攻撃の対象となります。新自由主義とは資本原理主義であり、資本主義と異質なものを排除して資本の利潤を最大化する性質を持ちますから。しかしその異質物なくして成り立たないのが現代の資本主義です。抽象的に言えば、労働者の生存を前提にしながらも資本間競争の下でそれを否定する衝動に駆られるのが、資本主義企業の矛盾に満ちた行動原理であり、これが資本主義国家の政策としては、社会保障をめぐる対抗として現象しています。もっと言えばこれは「生かさぬよう、殺さぬよう」という搾取社会一般の支配原理の資本主義的現われということになります。

 もちろん社会保障をめぐる対抗の主軸は、資本対労働という資本主義社会の基本的階級関係にありますが、それが資本そのものの本質的矛盾に反映されると見るのです。資本は資本主義社会の支配者として現実的には労働に対して優位にあるのですが、根本的には経済にとって不要な階級として劣位にあり、本来的には労働の存在に依存し従属しているはずです。資本は剰余価値を獲得するために労働を必要としますが、獲得する剰余価値の増大のために労働者の生存を保障できないほどの低賃金(を初めとする劣悪な労働条件)を強要しています。これは労働の否定でありそれは資本の否定に帰結します。賃金・労働条件の水準は階級関係に規定されますが、それを低めようとする資本側の衝動はブーメランのように自己否定をもたらすのです。資本の本性にはこの本質的矛盾を回避するものがない以上、外部的に解決するしかありません。その際に、そもそも経済社会とはどういうものであるのかという内実を資本主義的形態の奥底に見ることが大切です。

 日野秀逸氏相澤與一氏の『社会保障の基本問題』から次の部分を引用しています。「資本主義の社会保障政策も、大きく見れば、『共同社会における労働力と住民(国民)生活の再生産』の最低限を『共同』で確保・保障しようとする社会的営みの一つの歴史的形態である」(「被災地から再建・復興を考える」下132ページ)。歴史貫通的な経済社会のあり方の観点から資本主義の社会保障政策を捉えるとそのようになるわけです。ここからは社会保障の本質の非市場性と搾取対抗性とが浮かび上がってきます。

 関野秀明氏は『資本論』の商品の物神性論にまでさかのぼって社会保障の本質の非市場経済性を論じています(「福祉・保育労働者は低賃金でよいか 『市場重視の社会保障改革』の経済学的本質」)。ただし現代経済は圧倒的に商品経済であり、そこに生きる人々は物神性から逃れられず、新自由主義構造改革の市場化イデオロギーが浸透する基盤は強固です。私たちは、今や日常的となった福祉切り捨て攻撃に具体的に反撃するととも、関野論文のような原理から学んでいくことも必要であり、ここにいっそうの説得力が求められます。

 小川政亮氏は以下のようにレーニンを引用して社会保険の根拠を明らかにしています(「権利としての社会保障の歴史と展望」18ページ)。

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 賃金労働者が生み出す富のうち、彼らが賃金として受け取る部分はほんのわずかであるから、彼らの最も切実な生活要求を満たすにはとうてい足りない。こうしてプロレタリアは、傷害、疾病、老齢、廃疾の結果、労働能力を失う場合、また資本主義的生産様式と深く結びついている失業の場合にそなえて、自分の賃金の中から貯蓄するあらゆる可能性を奪われている。だからすべてこのような場合の労働者保険は、資本主義的発展の進行全体によって、いやおうなしに命ぜられる改革である。  

  『レーニン全集』第17巻 488〜9ページ 大月書店

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 社会保障を否定する自己責任論の根拠は新古典派理論にあります。その経済像は、完全競争市場における自由な経済主体個々のアクションが経済社会を形作っているという原子論的イメージです。ここでは何の規制もない自由な諸個人は発達可能であり、無限の可能性があり、自己責任もとれるように見えます。これは、どのような経済社会をも商品生産経済の立場から捉えることで、その本質を見失っている、という物神性の問題はここでは措くとしても、労働者への搾取がまったく看過されていることは厳しく指摘されるべきです。もっとも、搾取概念の否定はブルジョア経済学の魂なのでそれは当然ですが、私たちの立場からすれば、搾取の事実の無視こそが予定調和的な市場経済像の核心であり、労働者にとって厳しい現実の隠蔽の原因です。レーニンが指摘した現実にあるように、搾取される労働者は「市場経済の中での自己責任」を担う基盤を剥奪されているのです。だから労働者の生存のためには、何らかの形で搾取に対抗するか搾取の結果をフォローすることが不可欠となります。それは資本主義一般に言えることですが、いったんそれを修正して形成した福祉国家を再び破壊して、むき出しの資本主義国家を作った(作りつつある)新自由主義には、よりいっそうあてはまります。何しろ現代の日本では労働力の再生産が不可能になっているのですから。

 百年前の啄木と同様に「時代閉塞の状況」が昨今語られています。これは多義的な内容を持ち、それをていねいに扱うことは必要ですが、社会科学的に本質をつかむことが今最も求められます。

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 日本の政治・経済・社会の現状を端的に特徴づける表現として「閉塞」がたびたびメディアに登場している。筆者は、「閉塞」の核心的内容を、「生命・生活の再生産の不調」と見ている。人間的生命活動の根幹に労働があるのは、言うまでもない。また、生命の具体的存在形態は生活にほかならない。つまりは、現代日本の課題を「労働と生活の再生産の不調」と表現してもよい。    
  日野秀逸氏前掲論文 129ページ

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 この不調を補い「労働と生活の再生産」を支えるものとして社会保障があります。まさに搾取への対抗性をそこに見ることができます。ただし社会保障が資本主義の本質的矛盾の緩和だけにとどまるのか、非市場性と搾取対抗性を全開にして社会主義まで前進できるのか、ということは当面する歴史的課題となってはいないとはいえ、取組の姿勢の差として現われ、現状の改善(改悪の緩和)の程度に影響することでしょう。

 唐突な断想ですが、こんなことを思います。労働価値論には「労働力の価値」という概念があり、生活の再生産に必要な消費手段の価値としての賃金が、資本主義経済の存続原理として位置づけられています。これに対してブルジョア経済学は価値概念の欠如した均衡価格論で、賃金を含めた諸価格のフレクシビリティが理論の根幹にあり、労働者の生存を保障する賃金という考えがないようです。そこでは利潤追求に従属した生産力主義が労働・生活権を蹴散らしています。経済社会の歴史貫通的本質と特殊歴史的形態との両者の主従関係をどう捉えるか、というか、そもそもそういう問題を提起しうるのかどうか、という問題もあります。働く人々の困難や社会保障の問題を考えるのに、労働価値論と均衡価格論との対抗から出発することも必要と思えます。

 

 

         相互理解・認識・言葉

 最近、気になった発言などから。

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 理解は偶然、誤解は当然  (相手を敬う心がないと、自分の意志は伝わらない)

    須田成志(サッポロビール購買部シニアフィールドマン)

       「朝日」夕刊8月29日

 

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 人間が他の人間をわかることはありえない。絶対に。

   ……中略……

 わかったという幻想があるだけという。

 しかし、わからなくても、わかろうとし続ける。そこから、本当の対話が始まる。たとえわからなくても、決して諦めない。これが、愛だ、とも。

    渥美二郎「ステイケーション」 「しんぶん赤旗」連載小説、9月24日

 

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 日々の生活の中で友達や家族と交わしていることばだけでは表現しきれない「何か」が自分の中にありました。文学に触れると、自分が感じていることを表現してくれることばと出会えたのです。

   ……中略……

 本と向き合うと想像力が広がり、日常の平板さを突破できた。自分と同じ考えの人が19世紀のドイツにいた。そういう発見が、孤独感から解放してくれました。

   ……中略……

 本は、聞く耳を持って考えようとする人にだけこっそり教えてくれる秘密を持っている。玉石混交の膨大な情報が高速で行き交う時代だからこそ、ゆっくり時間をかけて読み、ゆっくり考えることが大切です。

   ……中略……

 安直に「癒やし」とか「絆」とか言ってもむなしい。「がんばろう日本」というかけ声が、募金などで人を動かす面も確かにある。しかし、被災した人たちが本当に何を考え、何を感じているか。彼らの思いと私たちの思いとの距離を、出来合いのことばで埋めてしまうと、何かの瞬間に溝が現れてしまう。

   ……中略……

 デリケートな説明をするには語彙がないとできない。平易なことばだけでは、誤解を増長することもあります。

   ……中略……

 ことばなんて通じなくても酒を飲めばわかり合える、という話が嫌いなんです。そこでわかり合える内容は、楽しかった、ということぐらい。体験こそ大事だと話す人もいますが、体験を自分のものとして回収するには、ことばが必要です。そのためにも、語彙は豊富なほうがいい。

       平野啓一郎 「朝日」9月27日 

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 平野氏の話には大いに共感します。それでもなお、言葉の表現からこぼれ落ちる現実はいくらでもあります。アナログをデジタル化して回収しようとするような不自然さを言葉は逃れられません。そこに言葉以外の様々な表現様式は迫ることができます。しかし言葉による理性的思考と、豊富な語彙による表現の追求とには、かけがえのない価値があることを決して忘れてはなりません。

 

 

         蛇足

 「赤旗」と「朝日」の文芸時評と論壇時評を読んでいますが、四つのうちで面白いのは、斎藤美奈子氏の文芸時評(「朝日」)だけです。小説を読まない私が文芸時評を読むのは無意味かもしれませんが、対象とは別に独立した読み物としての面白さが評論にはあります。9月28日付で斎藤氏は老大家の「弛緩」に切り込んで臆するところがありません。この人には筆で自立した女性の矜恃が感じられ、印象さわやかです。評論には、対象に向かうある覚悟が問われるところがあります。そう思うと、拙文も一種の評論の端くれだとするならば、その覚悟のほどが実に心もとなく感じられますが…。
                                 2011年9月28日



2011年11月号

 3月11日の東日本大震災によって、2011年は日本資本主義の転機として語られることになり、人々の生活と意識の転換点ともなるでしょう。それとは直接かかわりありませんが、私にとっても今年は重大な年となります。1988年に開店した古本屋の店舗の営業を10月25日に終了しました。以後はネット販売で細々と営業せねばなりません。11月末までの在庫の移動や処分などに向けて、夏あたりから準備し始めて、今は忙殺されています。はたして拙文に意義があるかどうかは別としても、もっときちんと書きたいという思いはあります。しかし残念ながら11月号の感想は断片的になります。

 科学的社会主義の核心には、変革の立場での理論と実践の統一がありますが、もちろん言うほど簡単なことではなく、それをどのようにつかんで生かしていくかが問われます。今生きる私たちにとって、それぞれの様々な立場や条件によって、その統一のあり方は多様ですが、古典家たちから学んでいくことには共通の意義がありそうです。10月号まで連載された不破哲三氏の労作「『資本論』はどのようにして形成されたか」では、マルクスの実践活動・革命観と経済理論との密接な関係と両者の相互発展とが追求されました。今号、友寄英隆氏の研究ノート「『資本論』と自然災害などによる再生産の撹乱」は、マルクスの「理論的命題の含意」を「時事的分析とのかかわりで、より深く理解」しながら「理論的展開の時期によって」「理論的意味合いが発展していること」を解明しています(141ページ)。その中で考察の方法として目を引いたのは、資本循環論によって「一般的世界市場恐慌」と「特殊な恐慌」とを区別した点です。『資本論』第2部第1篇の資本循環論は非常に地味なところですが、これまで『経済』誌上でも工藤晃氏や二宮厚美氏が効果的に活用しており、現代資本主義を本質的に分析する際にいっそう重要な視点とされるべきだと思います。

 「直面する現実を具体的な資料にもとづいて分析することは、二一世紀に生きるわれわれ自身に課せられた課題である。マルクスから学ぶべき大事なことは、まさにそうした現実分析を基礎に理論を探究する姿勢、その点にこそある」(159ページ)という友寄氏の結論は、一見まったく一般的に見えますが、この論文をよく読み込んで深く味わうべき言葉であろうと思います。

 最近、愛商連(民商の愛知県連)の税・社会保障学習運動交流会や名古屋市と愛商連との交渉に参加して、現実の厳しさを直視しつつ、改めて憲法の生存権や公務員の立場などの基本的原則に立ち返ることの大切さを痛感しました。景気低迷とともに、特に税の滞納が深刻化して、行政からの取立も非人道的になっています。犯罪者よばわりなどの暴言が日常化しています。それまで一定の分納を続けていたのに、急に一挙に返済せよ、というような事例が多くなっています。おそらく泣き寝入りしてサラ金などから借りて納税し、いっそうの困難に陥っている人々も多いだろうと思われます。民商は行政の横暴を許さず、当事者会員を先頭に原則的に闘っています。

 国や自治体の異常な徴税姿勢は、日本資本主義が税収不足という危機に陥ったことの反映であり、それへの根本的反省を欠いた筋違いの行動です。しかしそこには彼らなりの危機感があり、強い「使命感」さえ感じられます。そしてそこにあるのは、単純化して言えば、「払うべきものを払わないヤツが悪い」という部分的真理を見境もなく拡張して、滞納者が陥った困難を何ら直視せず、生存権を無視し脅して何が何でも無理な返済を実行させる、という思考方法です。憲法を守るべき公務員にあるまじき姿勢です。こうした「形式論理」を個々の実情と様々な具体的制度や最終的には憲法のような原理原則にも照らし合わせて規制し運用していくことが必要です。何よりも厳しい現実に対する情理ある受け止めから出発しなければなりません。そこからは今日の日本資本主義のあり方も見えてきます。私としても、単純な理屈の延長線上に現実を裁断しがちになることを思えば、「役人」の姿勢を他山の石として自戒すべきでもあります。こうしたことは机上からではなく、実践からの実感を通して得られることです。貧しいながらも最近感じた「理論と実践の統一」の一局面です。

 蛇足ながら、最近、天明の大飢饉に際して江戸幕府が政治姿勢を転換した、という歴史番組(教育テレビ)を見ました。百姓一揆の続発、年貢の途絶という危機を受けて、幕府は人民を救済する政策への転換を決意したというのです。当時配属された代官が、今で言えば子ども手当のようなものを実施し、間引きを防いだりして、民の生活を重視し政治を安定させた、として、今日でも福島県のある地方ではこの名代官を称える行事が残っているそうです。こうしたことが事実とすれば、長期不況と大震災に際しても、人民犠牲の政治を続ける現代の日本資本主義の政府と支配層は、封建時代の支配者にも劣ります。危機の捉え方が逆立ちしているのです。

         脱原発への道

 『世界』11月号が再生可能エネルギーの特集をしています。脱原発の訴えで大きな反響を呼んだ城南信用金庫の吉原毅理事長へのインタビュー「脱原発へ、信用金庫にできること」は金融や信用金庫とは何かという原点に立った発言です。「良識は健全なコミュニティから生まれます。コミュニティとは人がお互いに話し合い、お互いに学びながら成長していく場所です。コミュニティを構築して初めて健全なお金の流れができるのです」(159ページ)。これは、金が社会の主人公なのではなく、金は社会のあり方の反映だという見方でしょう。吉原氏へのこのインタビューは、経済とは経済学とはそもそも何であるか、ということについて考える意味でも、多くの人々に読んでほしいものです。脱原発はそうした良識の上にあるのです。

 田中優氏の「脱原発・脱CO2のエネルギー政策を」は自然エネルギーへの転換以前においても、電気の需給を社会的に適切に調節することで脱原発は可能であることを説得的に立証しています。さらに原発から抜け出せない仕組に問題があるとして、「総括原価方式」と「発送電の未分離」という現状を批判しています。これが残っている限り問題は解決しないという主張です。原発体制に対するラディカルな批判だといえます。これらの議論は脱原発・自然エネルギー派に共通したものだといえるでしょう。ところが前段についてはいいとしても、後段については反批判もあります。

 やはり脱原発の立場ながら、自然エネルギー派の主張を厳しく批判した伊東光晴氏の「続・経済学からみた原子力発電 選択すべき政策は何か」はきわめて論争的かつ問題提起に富む論稿であり、脱原発の方向性を考えるに際して見逃すことはできません。

 伊東氏は高コストを理由に地熱以外の自然エネルギーを当面の代替エネルギーとしては問題外とします。また電力産業における「総括原価方式」と発送電の「垂直統合」や地域独占を擁護します。自然エネルギー派は両者を原発体制の核心として、「総括原価方式」の廃棄と発送電分離を主張していますが、伊東氏はそこにある事実誤認や論理矛盾を厳しく指摘し、そうした政策の帰結としての米英などにおける重大な停電の発生などの問題点も指摘しています。そこで脱原発に向けては、節電と天然ガスによるLNGコンバインドサイクル発電そして地熱発電によって可能であるとしています。

 伊東氏は経済理論と事実認識の双方に通じており、そこから電力をめぐる市場と規制との関係の現状をよく分析し(たとえば電力会社の基本方針を決めるのは実質的には資源エネルギー庁であること)、あるべき政策方向を提起しています。公益事業論を考慮することで、「総括原価方式」と発送電の「垂直統合」や地域独占そのものは擁護し、その廃棄ではなく改革が必要である、という議論には説得力があります。自然エネルギー派はこの批判に答える必要があります。

 ただし伊東氏が太陽光発電を初めとする自然エネルギーを高コストな「政治商品」と批判し、実質的にその開発を批判しているのは問題です。自然エネルギーは安全性・環境適合性だけでなく、地域経済改革の重要な要素としても注目されており、ドイツなどの経験からも一定の実績があります。単なる今日の効率性だけでなく、未来を見据えて政治的にリードして新たな経済社会を形成する観点から評価する必要があります。

 自然エネルギー派は、原発利益共同体への強烈な批判と新たな経済社会を目指す志向性を持っており、これは大変に正当だと思います。これらの点が伊東氏の論稿には希薄だと思われます。だから理論と事実認識の立場から、「総括原価方式」と発送電の「垂直統合」や地域独占そのものは擁護し改革が必要だとする点は説得力がありますが、現実問題として原発利益共同体が健在なうちにはその改革は不可能です。逆に総括原価方式の廃棄や発送電分離の方向では混乱が予想され、脱原発は困難となりかねません。

 伊東氏の自然エネルギー派批判は原発利益共同体に利用される危険性もありますが、むしろ自然エネルギー派が伊東氏の批判をよく検討して、より堅実な脱原発の方向性を見い出すという形での両者の共同が望まれます。

 このイデオロギー配置を見ていると、新自由主義構造改革をめぐる「守旧派」と「改革派」との対峙が思い出されます。原発利益共同体はもちろん「守旧派」にあたりますが、自然エネルギー派が「改革派」というわけではありません。しかし一歩踏み外せば新自由主義「改革派」に陥る危険性はあります。今日「新しい公共」概念が注目されていますが、これはいわば新自由主義と市民主義との接点にあるとも言え、現状においては政権によって新自由主義的に利用され、「国家と市場とを市民社会の自立で相対化する」という市民主義の文脈からは離れているように思われます。自然エネルギー派の主張が新自由主義的な単なる電力自由化に利用されることがないように気をつけるべきでしょう。伊東氏の論稿は理論と事実認識の両面から、電力における市場と規制とを分析し的確な政策を提起する方向性を示すことで、「守旧派」と「改革派」との対立を止揚するきっかけとなりうるものだと思います。

 上記とは関係ないですが、飯田哲也氏は脱原発のマジョリティ化という問題意識からイデオロギー配置を見ています。新自由主義やネオナショナリズムとどうつきあっていくか、というように視野を広げており、この人のロマンティシズムとリアリズムとがどのような成果を生むのか、が注目されます(崔冽氏との対談「エネルギーシフトへアジアの共同を」151ページ)。

         断想メモ

 増田正人氏の以下の発言は、価値論と地域経済・世界経済のグローバルガバナンスとの関連を指摘しています。グローバリゼーションの中で内需循環型の国民経済・地域経済を形成していくことが価値論次元からも考察されるべき、という示唆として受け止め、深めていきたい問題提起です。

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 地域経済を支えられる経済を作る、つまり、まじめに働くことに価値をおき、労働と生産に価値をおける経済制度にしていくことが本当の復興を実現する道だと思います。そのためにも、知的所有権重視で労働に価値をおかない経済的枠組みをつくってきたWTO(世界貿易機関)のあり方を変えていくことが必要です。東北の復興は、単なる地域の問題ではなく、世界経済のグローバルガバナンスの問題とあわせていかないといけないと思います。       

  岡田知弘、石川康宏、鳥畑与一、増田正人、米田貢座談会

    「3・11で露呈した日本資本主義の矛盾」 38ページ

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        エピローグ

 古書店の開業以来、BGMはおおかたNHKFMで、さまざまなジャンルの音楽を流していました。10月25日、店舗営業終了のときには、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番と第二番が聞かれました。特に第一番の第二楽章はポピュラーであり、以前より葬送にふさわしい名旋律だと思っていました。図らずもわが店を葬るときに聞くことになるとは、感慨深いものがあります。
                                 2011年11月3日





2011年12月号

         社会=歴史認識へのアプローチ

 大門正克氏と柳沢遊氏の「高度成長への視座 シリーズ『高度成長の時代』から現代へ」は、研究者たちの問題意識が克明に語られ、非常に興味深い対談です。

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90年代の後半になると、北海道拓殖銀行と山一証券が破たんし、年間の自殺者が3万人を超える事態となり、現状の変化のあまりの急激さに、日本人が自らの歴史的位置を見失い「歴史意識の浮遊」状況に陥っていったように思えました。その状況に対し一人の社会科学者として、日本の高度成長が達成した各種のしくみや制度、人々の生活水準の内実をもう一度点検するとともに、その後の日本社会の推移を踏まえて、何を継承し、何を今後克服していく必要があるのかを考察したいと思ったのです。    109ページ

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 バブル崩壊後、一方で、人民にとっては長期停滞の中で、高度成長期がノスタルジックに美化して捉えられたり、他方で、社会学の社会システム論、経済学の新古典派などの隆盛の下で、「研究者の想定した平板な人間像を前提として、経済成長のメカニズム、機能だけが論じられるという研究傾向が強まってい」たりします(116ページ)。そのような情緒と「社会科学方法論」との分裂的並存は克服されねばなりません。個々人の生き方を多様に深く捉えつつ、社会科学諸分野の総合力を前提として「『構造』と『主体』との関係性を動態的に問う歴史学の再構築」(115ページ)が求められます。そうして「歴史意識の浮遊」状況を克服して「日本人が自らの歴史的位置」の確立をめざす過程において、「橋下徹」現象(*)から覚醒し、東日本大震災と原発事故から、新自由主義構造改革とは真逆の新しい日本を形成する変革的な意識主体が生まれるでしょう。

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 (*)大阪の「橋下徹」現象は名古屋の「河村たかし」現象などともあわせて、米国でいえば「茶会」現象段階に相当するのではないか。新自由主義的でありまた(ある意味正反対の)保守反動的・俗物的ポピュリズムを併せ持つという点で(ただし「橋下徹」現象の突出したファッショ性は特異ではあるが…)。これは日本の現時点の政治段階的な低位性を象徴するものだろう。米国では「ウォール街を占拠せよ」という核心を突いた「99%人民」の運動が発生し、人々の意識をそちらの方へと昇華しうるか、というせめぎ合いの新段階に入っているようだ。日本でもその段階に相当するようなものを築くために、「二つの異常(対米従属と大企業・財界奉仕)」を衝いた運動の盛り上がりを作り出していけるかが問われるだろう。二大政党による閉塞状況への「変革」願望は渦巻いており、それが「橋下徹」現象の源泉なのだが、もちろんそれは真の社会進歩の方向へも転化しうる。この諸刃の剣を制するには高い政治技術とその前提としての深い理論が必要であり、ここでの議論に引きつけるならば、日本人の歴史意識の確立が求められるといえる。

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上記の引用部分は、高度成長の研究を通して、歴史意識の確立を今日の現実変革と結びつける、ということでしょう。ここで私は現代史認識と社会変革との密接な関係を一般的に指摘した周知の名言を想起します。

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 現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。              スウィージー『歴史としての現在』序文より

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 実在した高度成長は決して唯一の必然的過程だったわけではなく、いくつかの可能性の内の一つが実現したものでしょう。史的唯物論の真髄は、現実にあったことを唯一の必然として解釈することではなく、いくつかの可能性を考える中で、なぜそれが現実化したのか、またその他がなぜ潜在的可能性にとどまったのかを探ることだと思います。そうすることで「勝者の歴史」や現実弁護論を克服して、今生きる私たちに新たな変革の可能性を提供できるでしょう。こうして「歴史としての現在」はどのようにして形成されたのかを知り、それがどのような矛盾を、したがってどのような潜在的可能性と方向性とを持ち合わせているかを知ることができます。私たちは現在の「形と結果とを動かしうる力をもっている」ことを自覚できるのです。

 たとえば今日にいたる農業の衰退について、単に生産力主義的・結果論的に必然性の一言で片付けるのでなく、下記のように、潜在的可能性を切り開く努力と屈折の過程として捉えることは、現在の現実の中に「芽のある失敗」を見いだして新たな可能性を開拓するよすがとなるかもしれません(逆にそれは、他の華々しい諸産業の中に「芽のない成功」の側面を見いだして注意喚起することにつながるかもしれない)。

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出稼ぎ問題が深刻化し、何とか人々を村にとどめて、内部循環的な構造をつくっていくための必死の努力が取り組まれました。米作と畜産と、野菜の複合経営を協同で行い、ある程度の成功をおさめますが、最終的には消費社会の波にのまれ、屈折していくという状況を鮮やかに描いています。 …中略… 一口に「農家の衰退」と一括できない個々の農家の苦悩が、描かれてよいと思いました。

こうした生活向上にむけた多様な努力を、必ずしも成功に至らなかった面も含めて取り上げる方法は、今後の歴史研究に対する問題提起になっているのではないでしょうか。

     118ページ 

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上記の「内部循環的な構造」という言葉は、対談のキーワードの一つである「内需の問題」に連なっています。新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴとして、また構造改革型震災復興路線へのそれとして、「地域内循環」「開発主導ではなく、内需主導による循環」(118ページ)がクローズアップされています。大企業は、個々人のニーズの共通部分を断片的に捉えて大量生産・大量消費を担ってきました。これは大企業が「需要」を上から大量に創出する意味を持ち、経済(社会)理論もまたそれを反映してここに「研究者の想定した平板な人間像」が成立したのではないでしょうか(人間と社会のどこを切っても同じにしか見ない。金太郎飴的アプローチとでも言おうか)。それは歴史の一段階としては一定の意義あることでしたが、「底辺への競争」をともなうグローバリゼーションの中では逆に生活=労働破壊として作用しています。これからは、各地域に生きる諸個人のそれぞれのニーズを全体的に捉えてきめ細やかに対応する小企業を中心とする内需循環型の地域経済を想定の出発点とすべきでしょう。

 
 これは私にとっては、民商の「小企業憲章(案)」などからの発想ですが、歴史研究からの以下の発言と重なる部分があります。「内需の問題を、地域に即した産業史、一人ひとりの住民の生存、暮らし、雇用のあり方とつなげて考えることが大事だ」(117ページ)。地域を軸にして人間と社会を総括的に捉えようというこの発想が、湯浅誠氏の貧困論に学んでいることも注目すべき点です。

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 湯浅氏の貧困論(『反貧困』岩波新書、08年)は、家族、教育、労働、社会保障から落ちこぼれる問題に加え、人間関係、自分への自信といった精神面も含めた、「溜め」を問題にします。前の話との関係で言うと、この貧困論は個人をとりまく社会の全領域を考えないといけないんだ、という提起になっています。学問の側が、政治、経済、社会を切り分けてきた領域を、貧困論の側から、全部串刺しにしてつかむという課題を投げ返されているのです。                  116ページ

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 もとより社会科学が専門分化し、それぞれの理論が様々な抽象レベルを持つこと自身は研究の発展にとっては欠かせないことです。現実を見るときにそれらを総合し重層的に組み立てることができればよいのです。その組み立てにおける現実認識と問題意識のあり方が問われることになります。そもそも資本主義経済の本質をつかみ損ねた新古典派理論を土台として経済・政治・社会等を全体的に把握し、政策展開ができるという発想が間違っているのであり、史的唯物論とマルクス経済学を土台とした総合的把握を(新自由主義グローバリゼーションなどの現代資本主義社会に対して)いかに形成して対抗していくかが課題なのです。そこでの切り口の鋭さ・新鮮さが理論構築力の前提となります。どうやらあまりに凡庸な結論となってしまいましたが、いまのところそれくらいしか言えません。

 

         グローバリゼーションへのオルタナティヴ

 『世界』12月号が非常に充実していて、特集「世界恐慌は回避できるか?」を初めとして、沖縄問題、自然エネルギー、大阪都構想など盛りだくさんです。以下ではごく一部に触れます。

 内需循環型の国民経済・地域経済を形成する課題をたびたび強調してきましたが、グローバリゼーションの中でどうそれを果たすかが問題の前提としてあります。三木義一氏の「グローバル化と税制と納税者 ロビン・フッド再登場の意味するもの」と金子文夫氏の「金融取引税から国際連帯税へ」の両論文が問題の所在と解決方向を論じています。特に三木論文は、富裕層と大企業が国境を越えることで巧みに税を逃れている実態を克明に描き出し、これを規制して国際的な課税体制を整えることが、投機の抑制とともに、公正な税制にとって不可欠であることを明らかにしています。私たちはグローバリゼーション下におけるこの問題の深刻さをきちんとリアルに認識する必要があり、それなしには内需循環型経済は構想しえません。思えば19世紀の『共産党宣言』も資本の無慈悲な文明化作用をこれでもかと描き出し、対抗策として世界革命=「万国の労働者団結せよ」と結んでいました。いわば世界市場生成期資本主義のグローバリゼーションへのビビッドな認識と対抗がそこにあったわけです。現代のある意味で反動的な新自由主義グローバリゼーションの厳しさを正確に認識しつつ、大げさに言えば「世界革命」としての「金融取引税・国際連帯税」を初めとする国際的な公正課税原則というオルタナティヴを克ち取っていく運動が非常に重要となっています。しかもこれが一部の「過激な主張」では決してなく、広範な支持を獲得しつつある現実的運動としてあることも両論文から学べます。

 その他、『世界』12月号では、飯田哲也氏の「公共政策から見た自然エネルギー 伊東光晴氏の批判に応えて」が11月号の伊東論文への反論となっています。さすがに自然エネルギー問題では最新の知見に通じた飯田氏の議論に説得力があるように思えますが、発送電分離など電力市場改革の問題では伊東氏の反論も待ちつついっそうの議論の深化を期待したいところです。

 大阪ダブル選挙(府市合わせ首長選挙)は「維新の会」のダブル勝利に終わりました。ファシズム対反ファシズムという性格の選挙であったことは確かであり、負けたとはいえ、反ファッショ側も一定の健闘によって今後の闘いの拠点は作りえたとはいえます。ただしそうした表の選挙性格とは別に「大阪都構想」そのものについて掘り下げた検討も必要です。やはり『世界』12月号、金井利之氏の「『大阪都構想』とは何なのか 『府市合わせ首長選挙』の背景と本質」は、もともと2010年4月に設置された「大阪府自治制度研究会」のメンバーであった筆者によるものであり、全体的にはあまり首肯できませんが、鋭い洞察を含むと思います。はやりの制度改革の背景として「制度の正当性を保障するのは経済成長である」という思想を指摘し、その手段として「選択と集中」が押し出しされていることも指摘しています。そこから見れば、大阪都とは、府内の大阪市外を切り捨てて選択と集中を図ることであるのだから、「大阪府が大阪市を吸収する外観で、大阪市が大阪府を吸収する」(121ページ)ことになります。筆者はそれを批判しているわけではありませんが、まさに大企業中心の新自由主義の発想が「自治制度改革」にも貫かれていることが見事に描かれています。
                                 2011年12月2日

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