月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2012年7月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2012年7月号

         日本電機産業の危機

 消費税を上げて法人税を下げよ、TPPに参加せよ、原発を再稼動せよ…等々の財界による勝手放題の要求にはあきれるばかりですが、彼らなりの危機感があってのことでしょう。その大きな背景の一つと考えられるのが、日本電機産業の危機です。「特に半導体・電子部品は、電機分野だけでなく自動車や工作機械、航空機その他現代のあらゆるものづくりの中核である。…中略…半導体・電子部品の生産量と質をどれだけ維持・発展させられるかは、電機業界だけでなく、これからの日本のものづくり全体にとっても、益々重要になっている」(坂本雅子「電機・半導体産業で何が起きているか ものづくりの危機と事業再編成の動向」78ページ)にもかかわらず、「日本の電機産業では、ものづくりからの全面撤退とも言うべき現象が起きつつある。これまでの産業空洞化とは質的に異なった日本国内での『ものづくりの崩壊』が始まろうとしている」(96ページ)のです。

 坂本氏はその原因の第一に技術流出をあげています。「日本の電機産業は、電機メーカー同士のみならず素材や装置メーカーがバラバラに自社のみの利益を追求して競争し、結局、韓国、台湾、中国企業への安易な技術流出を繰り返し、それが日本企業全体の首を絞める結果を引き起こしてき」(87ページ)ました。円高もあるとはいえ、「電機業界の惨状の原因は、この20年以上の電機業界の経営戦略、競争戦略そのもの」(96ページ)にあります。これに対して、日本企業は生産から撤退し、社会インフラ・原発等の輸出を中心とした「システムまるごと売り」に活路を見出そうとしています。これには巨大なリスクが伴い、膨大な公的資金が引き出されようとしています。坂本氏は「安易に日本の生産をまるごとつぶし、今度はまた安易に国家資金や国民の金融資産をあてにした商売に走ろうというのだ」(同前)と批判し「日本の企業はこれでいいのか。日本は今、経営者、官僚、国民の英知を結集して日本の技術と国内生産を守り発展させる長期の展望を模索すべき時ではないか」(同前)と問題提起しています。

 多国籍企業の個別資本としての利潤追求をサポートする機関に、日本経団連は堕していて、総資本の、ましてや国民経済の展望を考える立場にないように見えます。本来ならば企業の社会的責任として、国内生産と雇用を守ることを前提に、技術開発を行ない、経営戦略を組み立てることが求められます。しかしそれにしても、一方では日本の大企業は膨大な内部留保を抱えて使い道に困るような状態でありながら、他方ではリーディング産業・ものづくりの崩壊を招きつつあるというのは余りに非対称的な光景だと言わねばなりません。「富の蓄積と貧困の蓄積」が資本主義経済の基本的な矛盾・不均衡ですが、この不均衡・跛行状態も別様の表れと言うべきでしょうか。国民経済の観点から言えば、日本経済の潜在力が資本主義的に浪費され方向性を見失っている状態でしょう。残念ながら具体的なことは言えませんが、「ものづくりの崩壊」の防止は単に資本の問題ではなく、人民的課題としてあることは確かです。零細自営業者としての私は、民商・全商連の「小企業憲章」が指し示すような・小経営が主人公となった社会経済のあり方の今日的意義と展望を大いに推進することが第一だと考えます。しかし国民経済における大資本の位置を定め、バランスのとれた再生産構造を目指すことも重要です。グローバリゼーション下において、その生産力水準を代表する世界的な先端産業が健在であり、しかも生活密着型の地域経済が自立し、相まって内需循環型の国民経済が成立している、という日本の経済社会を実現しなければなりません。我がまま経団連にそれを期待できない以上、労働者・人民が生活と労働に即した要求を持ち寄り、それらを生産力と生産関係の両面から新たな国民経済構築にまとめ上げていく民主的な専門家と政治のリーダーシップが求められます。

 

         欧州債務危機と緊縮政策をめぐって

 世界注視のギリシャ再選挙(6月17日)において、得票では緊縮反対派が多数でしたが、特殊な選挙制度の問題もあって、議席では緊縮推進派がかろうじて勝利し、世界中が「安堵」している模様です。もし緊縮反対派の政権となり、ユーロ離脱で旧通貨ドラクマが復活すれば、通貨が暴落し国内的には超インフレとなり、対外的には借金が膨大になり確実に債務不履行に陥り政府は予算が組めず、等々…で人々の生活は大混乱、周辺国や世界経済の悪影響も必至というのが、大方の予想でした(たとえば「朝日」5月17日付)。しかし緊縮政策で人々の生活は限界に達しており、この1年余りで緊縮への不満が原因で欧州11カ国で政権交代が起こりました(「しんぶん赤旗」6月3日付)。緊縮政策の誤りを理論的・政策的に解明しオルタナティヴを提起することが課題となっています。

 宮前忠夫氏は以下のように問題を概観しています。

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 今回の欧州危機の克服をめぐる対立は、労働者・国民への犠牲転嫁策を迫るいわゆるトロイカ(欧州委員会、欧州中央銀行、国際通貨基金)主導の危機打開策・緊縮政策によるか、雇用確保、賃金・労働条件・権利の保護を基本としつつ経済回復・成長・雇用増を図るか、という路線対立が軸となっている。これに、「労働市場改革」、とくに新自由主義的規制緩和をめぐる対立・闘争が連動している。

 「激化する『社会的欧州』をめぐる攻防 新自由主義的緊縮政策との闘い」117ページ

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 欧州労連の主要ナショナルセンターのトップが発表した共同声明「新しい欧州社会契約を」(2011年12月8日)では、「投機に終止符を打ち、全EU加盟国の財政権限を保障するユーロ共通債の発行と欧州中銀の、最終段階の信用供与者への改造」などを打ち出しています(116ページ)。欧州では近年、国境を越えての派遣労働をめぐる争議が激増し、欧州司法裁は、労働移動の自由など経済的自由を労働基本権より優先する判決を出しています。このようにEUレベルで労働基本権が保障されていない現状に対して、欧州労連は諸権利の保障などを含む「社会的欧州」の前進を求めています(117-118ページ)。「社会的欧州」の観点から、欧州危機に際しての「問題解決の一当事者としての労働組合運動という自覚的立場」(116ページ)が表明されるのであり、労使関係の前進と危機の克服とは欧州労働組合運動においては不可分のものとなっています。本年5月10日欧州労連書記局声明は「緊縮政策が行き詰まったことの明確な承認、規制緩和促進の停止、持続的投資と雇用増、公平な課税、金融取引税の導入などを改めて要求」(118ページ)しました。

 田中宏氏の「欧州統合の到達点と経済危機の構図」は欧州統合を歴史的に振り返り、今日の危機について総合的に論じています。それは今日の危機の原因として、「南欧諸国の怠け者・浪費体質の神話」(125ページ)を批判し、「ギリシャは常に正しい決定を選択してきたわけではないにしても、ソブリン債危機に直面したのは主要には外部的システム要因、そして民間部門の要因によってであることがわかる」(128ページ)としています。田中氏は危機の「最も深刻なシステム要因」として「一方では、ユーロ圏の参加国や市民、企業は多くの経済的・政治的便益を享受できる(してきた)が、他方では、投資や金融操作によって生み出された高い金融的便益は経常収支の黒字を出し、対外投資を行う国や関係企業がそれを享受してきた点にあるだろう」(129ページ)と指摘しています。次いで、そうした中では「不況下では緊縮策を通じた財政の均衡化はほとんど不可能である。緊縮策は危機処理の負担を周辺国に転嫁し、コア諸国・企業をフリーライダー(ただ乗り)にするだけである」(130ページ)と断じています。論文はEUの歴史と現状を危機の問題意識に沿って多岐にわたって分析していますが、対策については十分に踏み込んでいるわけではありません。

 緊縮政策など、人々の生活と労働に痛みを強いる政策を正当化する理屈としていつも持ち出されるのが「市場の声を聞け」という常套句です。昨今の日本では「消費増税ができなければ市場の信認を失う」とかまびすしく、市場は「至上神」らしい。世界中から投機マネーが流入し、5月第4週における東京・大阪・名古屋の三証券取引所では外国人投資家が71.4%を占めています。東証によれば、売買注文の4割は、1秒間に500回以上の売買を行なう高速取引であり、それを行なっているのは10社程度に過ぎません(「しんぶん赤旗」6月5日付)。安住財務相は日本の株式市場についても外国為替市場についても実体経済を反映していないと述べています。「至上神≠ニ見えたものは、実は投機です。市場が実体経済を反映していないなら『市場の信認』は無意味です。賭場と化した市場の『信認』を得るのに汲々(きゅうきゅう)とするのでなく、生産、雇用、国民生活といった経済の基本を立て直すことこそ必要でしょう」(同前記事)。市場に盲従するのでなく、どうコントロールするのかを考えねばなりません。

 欧州債務危機に戻ります。ギリシャの急進左翼連合は緊縮政策に反対していますが、ユーロにはとどまる方針です。再選挙前の5月22日、ツィプラス党首はドイツ左翼党とともに「緊縮政策と銀行救済にたいする代案」(6項目プログラム)を発表しました。6項目は次のようです。<1.「覚書政策」の即時中止と融資の再交渉を 2.国家財政を資本市場への従属から解放する 3.やりたい放題の金融市場を厳しく規制し課税する 4.ギリシャは改革されたユーロ圏にとどまる 5.緊縮のいっそうの強制ではなく、景気・再建プログラムを 6.危機でもうけている者に負担を。高額所得者に課税し、資本逃避や脱税と効果的にたたかう>(「しんぶん赤旗」6月4日付)。これを受け「しんぶん赤旗」5月31日付「主張」は「提案の一つが国家財政を振り回している金融への対策で、財政を市場の支配から切り離すとともに、金融取引税の導入などによって投機を抑える効果的な規制を求めています。国内では、弱者へのしわ寄せではなく、高額所得者への課税強化や実効的な徴税が必要だと指摘しています」と紹介し以下のように結論付けています。

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 ギリシャをユーロ圏にとどめるには欧州の経済統合が進まなければなりません。当面の困難に対処するうえで有効とみられるユーロ共同債の導入もその一環です。ユーロ17カ国が共同で発行する共同債には、低利で資金調達できるドイツのメルケル政権が強く反対していますが、EU全体では導入支持が強まっています。

 緊縮政策には「自己責任」を迫る新自由主義が反映しています。欧州が連帯を強める方向で統合を進めるには、新自由主義を克服することが必要で、その点でもギリシャ国民の選択は重要です。

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 残念ながら「ギリシャ国民の選択」は選挙制度に阻まれて政権交代に至りませんでしたが、緊縮策に反対する人々の多数の意思は表明されました。「財政を市場の支配から切り離す」などの政策をいっそう具体化して、緊縮政策・新自由主義・自己責任論を克服し連帯の経済像を提示することは、欧州危機の解決にとどまらず、普遍的意義をもつ課題だと思います。

 

         労働者の発言権

 宮前忠夫氏の前掲論文にもあるように、欧州の労働組合運動は「社会的欧州」の見地から、労働者の権利のみならず経済政策にも発言権があり、資本の暴走をチェックし、新自由主義勢力とも堂々と対峙し、その上に経済危機に際しても問題解決の一当事者として対処せんとしています。もちろん欧州とて支配層の新自由主義は強力で、今回の経済危機に便乗した(ナオミ・クライン言うところの)ショック・ドクトリンで財政規律を各国の主権者からEUに取り上げることに成功しています(田中宏前掲論文130-131ページ)が…。しかしそれにしても私たちの国では「社会的日本」などと言っても何のことか分からなくて冗談にさえならないのだから、ここはさしずめ「新自由主義の楽園」なのかもしれません。一見新自由主義とは真逆の種々の旧弊や集団主義がしばしば指摘され、それを嘆いてみせる「改革」派がいます。しかしこれだけ自己責任論が普及し貫徹し、社会保障と労働組合が貧弱な社会はやはり立派な「新自由主義の楽園」と言うべきでしょう。かつて「資本の法則の過剰貫徹」と言われたのは同じことを指していたのでしょう。

 関越道バス事故について熊沢誠氏は過重労働に至る重層構造を次のように指摘しています(「しんぶん赤旗」6月20日付)。

 規制緩和→過当競争→格安バスサービス→業界の下請け構造→従業員間の格差構造

→「白バス」(自家用バスの無許可営業)利用

 さすがに命にかかわる事故が起こるとマスコミも過重労働や規制までは問題にしますが、もっと突っ込むべき課題があります。熊沢氏は「低価格サービスの背景にある労働条件のひどさ」を交通だけでなくサービス業・製造業などでも問題にし、消費者に提起する必要性を主張しています。さらには労使関係の視点が欠けていることが最大の問題です。「労働条件の決定について、労働者の発言権、決定への参加権を問題とすること」が大切であり、それを「否定するところには、民主主義はありえないし、サービス品質の維持も安全運転もありえないのです」。

 商品・サービスを提供する労働条件について消費者が無関心であり、労働条件の決定に関する労使関係で労働側が決定的に弱い。これらはおそらく欧州と違った日本の特徴だろうと思います。消費者としてだけ生活するなら、日本ほど至れり尽せりの便利な国はなく、それを維持するために厳しい労働条件があります。商品生産とサービス提供に際して、瑣末な追求が無限にあり(ただし安全性の追求は利潤を削減するのでさほど熱心ではない)、そのために生活を犠牲にして働く労働者がいる。そこから脱落するのは自己責任と見なされる。まさに資本の利潤追求にとって格好の社会的条件を兼ね備えたのが日本社会でしょう。ストライキのない「新自由主義の楽園」が出現します。

 まともな労働条件を主張するというのは、この社会体質への挑戦であり少数派たることを免れないでしょう。熊沢氏の『新編・日本の労働者像』では、職場に「企業社会」ではなく「労働社会」を築くことが労働組合運動の課題とされました。資本の組織する労働者間競争を抑制して、連帯によってディーセントワークを実現するのです。それは無制限の利潤追求に反することなので、この職場からの闘いは、大企業への民主的規制という国民経済の課題、あるいはグローバル市場・資本への規制という世界経済の課題ともかかわってきます。欧州などとの対比において日本社会の体質を見据えるとともに、世界資本主義のあり方をも捉えることが必要となります。「新自由主義の楽園」から「社会的日本」へ。

 

         支配層とポピュリズム

 ヘーゲルいわく「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」。『フォイエルバッハ論』でエンゲルスはこの言葉の革命的弁証法としての意義を力説しています。ならば橋下徹氏への支持が非常に高いという現実はきわめて不合理に見えるけれども、それはいかに合理的に理解できるでしょうか。それが分かれば、この現実の克服のヒントになるでしょうから、多くの人々が様々なことを語っています。

 そうした努力の中でもかなり強い現象説明力を持つのが、想田和弘氏の「言葉が『支配』するもの 橋下支持の『謎』を追う」(『世界』7月号所収)です。想田氏はツイッター上で橋下支持者や批判者たちと盛んに意見交換するうちに、「多くの橋下支持者は、橋下氏が使う言葉を九官鳥のようにそっくりそのまま使用するということ」(131ページ)に気づきました。それは次のことを意味します。

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 思考は、言葉です。思考の支配は、言葉を支配することによって成し遂げられます。橋下氏の言葉を進んで使う人々は、橋下氏の言葉によって思考を支配されているといえるのではないでしょうか。そして、思考を支配されているがゆえに、行動も支配されているのではないでしょうか。             132ページ

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 それではなぜ橋下氏の言葉はそのような支配力を持つのか。彼は「人々の感情のありかを察知し、言葉で探り当てることに長けているので」、その言葉は「人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなもので」、「(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じ」させるものとなっています(135ページ)。彼は「民主主義は感情統治」と言います。(136ページ)。想田氏はその趣旨を「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ」(同前)と解説しています。こうして「謎」が解き明かされます。

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橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。

そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコロ変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとっては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的に矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。       136ページ

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橋下氏はマスコミを巧みに利用してこの感情統治を実現しています。彼が毎日のように挑発的なネタを提供するので、マスコミはただそれを追いかけ彼のコメントを主体にしたニュースを流し続け、公共の電波が知らず知らずのうちに「橋下徹ショー」になってしまっています(138ページ)。

感情統治された橋下支持者には批判者の言葉はまったくのれんに腕押しです。ただしこれには批判する側にも問題があると想田氏は指摘します。たとえば「思想良心の自由を守れ」よりも「公務員は上司の命令に従え」というフレーズに心を動かす人々が多いということは、「民主主義的諸価値」が「ある意味形骸化してしまった」(139ページ)結果でありこれを立て直す必要があります。

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 そのためには、まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、「人権」や「民主主義」といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義していく作業になるでしょう。                 139ページ

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 想田氏はとりあえず言葉の問題として提起しているけれども、まさに草の根民主主義を作り上げていく運動の課題でもあることは間違いありません。「言葉の支配」「感情統治」を打ち破るには、様々な要求運動などを通じて、形骸化した民主主義を実質化し、直接運動に参加していない人々にも、何らかの方法でその経験をさらに押し広げていくことが必要でしょう。そうすることで生活の現実に根ざした民主主義的実感が、トリッキーなハシズム的実感に取って代わり、「言葉の支配」「感情統治」を克服することにつながります。

 想田氏の語り口はきわめて説得力があります。ただしその指摘は、コアな橋下支持者に対してはまさにぴたりと当てはまるでしょうが、その周辺の広範な支持層を見れば、支持の度合いに応じて当てはまり具合にも濃淡が出るはずです。ここにはマスコミの問題があります。マスコミは思想調査のような度外れた行為さえ事実上不問に付しています。また思想調査実施の一つの口実として、労組の「ぐるみ選挙」にかかわる内部告発がありましたが、これが捏造だったことが判明しても、橋下氏は開き直っています。かつて野党時代の民主党議員が国会で質問した際に、証拠に用いたメールがガセネタをつかまされたものであることが判明しました。このとき前原党首が辞任し、当該議員が後に自殺しました。それくらい重い事態に対して橋下氏も維新の会も当該議員も何ら責任を取らず、マスコミも追求しません。不真面目・無責任・厚顔無恥が橋下氏の処世術なのかもしれませんが、まともな社会で本来それは通用しません。しかし社会がまともでなくなって、「無理が通れば道理が引っ込む」状態です。一事が万事で、橋下氏のめちゃくちゃぶりはまともに知らされ問題にされることがないので、「感情統治」の度合いの低い支持層もなかなか崩れないのでしょう。

 このマスコミの体たらくにはいろいろ原因があるでしょうが、一つにはおそらく支配層の意向が反映していると考えられます。新自由主義的資本蓄積下では、富の蓄積と貧困の蓄積が拡大し、人々の生活と労働条件は下降しつづけます。支配層は「飴と鞭」の政策ではなく、「飴なしの鞭」を追求しています。賃金と所得を下げ、その上に増税と福祉切り捨てを強行しています。そういう政策を選択しているというよりは、新自由主義グローバリゼーションによる国際競争下ではそうせざるを得ないということです。「経済のグローバル化による制約」で「各国政府には市場に反発されない選択肢しかない」ので「国民に痛みを強いる政策を『決める』」ことになります。「グローバル時代の民意と市場のこんな相克に、だれもまだ解決策を見いだせていない」(大野博人論説主幹「朝日」6月17日付)。もちろん「多国籍企業が支配するグローバル市場」至上主義の「朝日」が「解決策」を見いだす気がないだけの話で、日本と世界の人民の立場からはオルタナティヴが探究され具体的な提言や実践もありますが、支配層がそれを採用することはありえません。したがって支配層の課題は「飴なしの鞭」「欲しがりません、勝つまでは」を人々に受容させることです。それには、一見支配層への挑戦に見えるような姿勢で閉塞感をガス抜きし、分断と俗論で「飴なしの鞭」の「必然性」を納得させるような人気者を必要としています。橋下氏はまさに支配層のトリックスターなのです。Tricksterは神話や民話での道化・いたずら者を意味しますが、ここではあえてトリック=策略・ごまかしというニュアンスもこめたいと思います。橋下氏のスローガン「決定できる民主主義」「決められる政治」が悪政推進に利用されており、マスコミ上に見ない日はありません。たとえば若宮啓文「朝日」主筆は、消費税増税のため民主・自民両党首の談合による「決められる政治」を勧め、その促進材料として橋下・維新の会の国政進出がもたらす脅威を利用しています(「朝日」6月10日付)。ちなみにこの「朝日」主筆の論説はどこをとっても簡単に反論できるような代物で、その不見識ぶりはもはや痛々しい感じさえします。支配層の道具と化したマスコミの病状は回復不能なのでしょうか。こころあるジャーナリストに一抹の希望を託したいところですが…。

 ここで以上をまとめると、ハシズム興隆のミクロ的主観的要因として橋下流の巧みな「言葉の支配」「感情統治」をあげることができ、そのマクロ的客観的要因として支配層の課題とそれに奉仕するマスコミの存在をあげることができるでしょう。

ハシズムを支配層の課題との関連において捉えることは、ポピュリズムについて考える過程でその必要性が強く感じられました。橋下氏をポピュリスト扱いすることに何か違和感があったのがその端緒です。どうしてかと考えると、本来のポピュリストは人々に無責任に飴を与える公約をするものだけれども、橋下氏はまったく逆で人々に「覚悟と努力」を迫っているからです。これは痛みに耐えることを訴えた小泉純一郎元首相と同じです。従来の「甘い飴」配り人気取りポピュリズム・ポピュリストと違って、両者は「苦い薬」を飲ませても人気のある新ポピュリズムを演じる新ポピュリストとでも名付けることができます。これはまさに新自由主義的資本蓄積の矛盾を打開する課題…人々に「飴なしの鞭」を受容させること…を担う「理論」・パフォーマンスであり、人材であるわけです。だから新ポピュリズムについて考えるには、その手法をあれこれ論じる前に、支配層の課題との関係を明確に位置付けることによってその本質をつかむことが不可欠なのです。

 次いで新ポピュリズムの手法を考えることになります。それは支配層の課題と人々の気分との交点をどう捉えるかです。支配層と人々との利害は客観的には対立するので、支配層の課題と人々の気分とは相容れず反発しかありえないはずですが、主観的要素をはめ込めば融和する可能性があります。支配層の課題に沿う形で、人々の気分を歪めて再編成するのです。人々の間に対立を煽り、分断とバッシングによるうっぷん晴らしを誘うという周知の手法は、こうした支配層の課題に適合するという点に最大の意義があります。

 新自由主義的資本蓄積がもたらした格差と貧困の閉塞感の中で、多くの人々は「自分はこんなに苦労しているのに報われない、なのにアイツは…」という気分を抱いています。問題はこのアイツというxに何を代入するかです。1%の支配層を入れないように(99%の内部で)身近な公務員等を入れるよう仕向けるトリックが熱望されるのです。閉塞感をもたらしている支配構造の本質を隠し、99%内部での相互対立の方に目を向ける手法としてのバッシングがそれです。一方では公務員バッシングのように「身分保障」され相対的に恵まれていると見なされている階層を攻撃し、他方では生活保護バッシングに代表される弱者バッシングで「ばらまきの受益者」階層を攻撃します。これは上方に対するねたみと下方に対する歪んだ優越感との双方を刺激するものであり、「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「既得権益」攻撃として、うっぷん晴らしのみならず「正義感的爽快感」を人々の中の多数派階層に与えることができます。新ポピュリストの人気の源泉を手法上からはこのように見ることができます。

なお公務員バッシングだけでなく弱者バッシングにも注目することが必要です。若者や経済的弱者に橋下支持が多いとは必ずしも言えず、むしろ安定的な社会層に支持が多いという有権者意識調査があります(松谷満「誰が橋下を支持しているのか」『世界』7月号所収。ただし有効回収数は772で、サンプル数は少ない)。弱者の不満が橋下氏を押し上げているというよりも、ミドルクラスの<公務員不信・リーダーシップ待望・競争主義・成長志向>の方が重要ではないか、と松谷氏は考えます。あるいはこの調査からは、有権者の多数がナショナリズム(愛国心教育支持等)や新自由主義(格差や競争に肯定的な傾向等)を支持しており、それは橋下氏の主張と一致しているから、橋下人気が高いのは当たり前だ、ということが結論されます。これは上記の私の主張<「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「既得権益」攻撃が多数派階層から支持される>と適合的です。もっとも、生活保護者などを別として、多くの「弱者」が自己をバッシングの対象だとはまだ意識していないでしょうから、かつて橋下府知事の政策で解雇された府の元非正規職員が橋下氏を支持するような現象は多く見られることと思いますが…。

こうして人民の中に分断を持ち込み、連帯を忘れさせることは、支配の本質に批判が及ぶ危険性をなくすことで、支配層に多大の利益を与えますが、バッシングのご利益はそれだけではありません。支配の邪魔になるものを排除し、人々が自分で自分の首を絞める「自動支配機構」としてのイデオロギー装置を強化することにつながります。それは一方では首長・行政の権力を拡大し、他方では福祉を削減し財政負担を軽減することで支配の自動安定装置として機能します。橋下氏の公務員バッシングでは、首長の方だけ向いて、住民の奉仕者ではなく住民に命令する公務員像が追求されています(「思想信条の自由」より「上司の命令に従え」)。公務員本来の立場から自由・自主的に住民本位に思考するのでは首長の独裁の妨げになるからです。また公務員給与の減額は民間給与の減額に連動していくでしょう。そこから来る内需の不振は自営業者などを直撃します。人々が公務員バッシングに加担すればするほど自らの所得を掘り崩すことになります。生活保護バッシングにより保護基準を下げれば、就学援助や最低賃金などに連動し、貧困がさらに蔓延します。こうして人々の生活悪化を伴い閉塞感を充満させながら、政府・自治体の財政が「改善」され、権力強化される政策が、他ならぬ「民意」によって実現するのです。

生活保護バッシングでは、これから保護をますます受けにくくさせ、捕捉率を下げることが人民の分断を強化します。すでに2007年のデータでも捕捉率はわずか15%です(「しんぶん赤旗」6月22日付)。保護世帯の周りに、保護を受けていない貧困世帯が圧倒的に多くあれば、生活保護はまるで不当な受益であるかのような感覚が生まれ、バッシングの対象となります。イギリスでは4世帯に1世帯、人口の19%が公的扶助を受け、捕捉率は87%にのぼります。フランスでは世帯の13.8%、人口の9.8%、捕捉率は9割です。日本では今年3月に受給者が210万人を超え「過去最多」と騒がれましたが、人口の1.65%です。唐鎌直義氏によれば「イギリスでは公的扶助が国民のものになっている。多くの人が、なくては困ると思っているので、日本のようなバッシングはありえません」。イギリスでは日本とは逆に保護の適用漏れが問題にされ、政府は捕捉率をほぼ毎年、公表しています。「数字を引き上げることで行政の仕事ぶりをアピールしている。政府が国民からチェックされているんです」(唐鎌氏)(以上、同前記事)。

つまりイギリスではバッシングがなく、逆に国民が政府を反貧困の観点でチェックして捕捉率の向上(=貧困防止)を実現しているの対して、日本ではバッシングを軸として支配層にとっての「貧困福祉の好循環」が実現しています。

 

低捕捉率→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚

→生活保護バッシング→<@保護基準切り下げ+A捕捉率低下>

   <@+A>→財政負担軽減              

A捕捉率低下→「生活保護=一部の不当な受益」という感覚         

                 →生活保護バッシング→<@+A>……以下繰返し

 

しかもここにさらに、福祉事務所や(医療保護にかかわる)医療機関などに対する首長など(保守反動政治家)の監視権限の強化が加わり、人民にとっての経済的政治的悪循環が完成します。橋下氏の政策に典型的なように「財政負担軽減」分はグローバル資本向けの産業基盤整備に回されるのだから、実際には「財界負担軽減」と言うべきところです。もちろんこの「負担軽減」は、福祉削減などによる人民の負担増・貧困化と表裏一体です。

「貧困化・閉塞感充満・福祉削減・財界負担軽減・権力強化」は悪い政治経済のワンセットであり、本来このままでは人民の利益と真っ向から対立しますが、これを支配層にとっての好循環として「民意」によって回す基軸がバッシングです。

 

 貧困化→閉塞感充満→各種バッシング→<福祉削減+財界負担軽減+支配権力強化>

→貧困化→…(以下繰返し)

 

前述のように、各種バッシングは閉塞感へのガス抜きであるのみならず、支配層の政治支配力強化と経済負担軽減とを実現する「支配の自動安定装置」です。逆にいえばバッシングの正体さえ明らかにすれば、悪魔のサイクル(=支配層にとっての好循環・自動安定装置)の全体像が誰の目にもはっきりします。そうして民意をバッシングから切り離せば悪魔のサイクルは破綻します。各種バッシングは自己責任論的公正・公平感による「既得権益攻撃」ですから、憲法25条「生存権」や13条「幸福追求権」などの観点から自己責任論を批判することが悪魔のサイクル離脱の中心になります。

この憲法論を補強するものとして、経済の理論と政策があげられます。経済理論としては次のように考えられます。商品経済論から自己責任論発生の根拠と普遍性を導出し、剰余価値論・資本蓄積論(貧困化論)により、自己責任維持の不可能性を論定することで、資本主義経済における自己責任論の強固さと矛盾を捉え、自己責任論という「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含」(『資本論』第2版へのあと書き)ませることができます。経済政策としては、自己責任論を土台とする新自由主義グローバリゼーションの政策体系へのオルタナティヴを提出することが必要です。たとえば喫緊の課題としては、消費税増税への批判的対案として税制・社会保障制度・国民経済のあり方の変革を具体的に提起していくことです。

このような総合的な批判・提案によって、自己責任論に基づくバッシング的社会像(新自由主義構造改革的社会像)を克服していくことが可能となります。この克服過程の中心を担うのは様々な要求実現運動による民主主義的経験の実質化だと思いますが、マスコミ・ネット等を通じてのイデオロギー闘争にも独自の意義があります。バッシング的社会像は生活と思想が合い携えて進む一つのあり方であり、それなりに深い実感に支えられています。したがって、それ以上に生活と思想がともに前進し、経験と実感に支えられることで、形骸化を克服し実質化された民主的連帯的社会像を創造(想像)していくことが求められます。 
                                 2012年6月26日



2012年8月号

社会科学の課題 ハシズム批判とも関連して

 高田太久吉氏の「欧州統合と多国籍企業のグローバル化戦略 金融財政危機から政治危機へ」は「金融・財政危機の根源にある問題は、単に市場統合が政治統合を置き去りにして進められてきたという統合の手法に関わる問題ではない。真の問題は、欧州統合を推進する政治プロセス自体が、グローバル化のもとでEUレベルでの競争政策を求める欧州多国籍企業の要求によって次第に支配されるようになったことである」として、「市場統合と政治統合を二元的に見て、それらの在り得べき調和を想定する形式的な議論」(90ページ)を批判しています。一般論としても、階級的な見方などを含めて問題の実質的な捉え方として心すべき指摘ではないかと思います。

 小沢隆一氏の「国と地方の民主主義の危機と対抗軸」はハシズム等に見られる民主主義の危機に関連して、国政と地方政治を主に制度的に検討しており、大いに参考になります。ただし「決められない政治」「国政の閉塞」の原因を制度的に様々に指摘しているけれども、「民意と真逆の政策を実行しようとしているが故に世論の反発にあってなかなか決定しにくい」ということを中心にして展開されていないことが残念です。人々に「飴なしの鞭」を振るわざるを得ない新自由主義的資本蓄積の根本矛盾が政治的には「決められない政治」「国政の閉塞」として表現されている、と私は考えているからです。

 城塚健之氏の「橋下・維新の会の特徴と民主主義 大阪市における職員・労働組合攻撃を考える」はまさに闘いの最前線における迫真の論稿です。教えられることは多いのですが、最後の論点としてあげられた「橋下支持者とどう向き合うか」については若干の疑問があります。確かに橋下支持を批判して「橋下の手法が民主主義を滅ぼしかねないものであることを有権者に自覚させる取り組みが必要で」(60ページ)すが、上から目線ではそれは成功しません。人々がどのような状況に置かれ、どのような実感をもっているかを捉えずに、民主主義を教え込もうとしてもうまくいかないでしょう。残念ながら人々の状況や実感についてのデータを持っているわけではないので、ここでは橋下氏らの攻撃の性格とそれが人々に与える影響を考え、そこから私たちから人々に響く言葉をどう届けるかを考えてみたいと思います。

 支配層の根本矛盾が、人々に「飴なしの鞭」を振るわざるを得ないことであるなら、彼らの課題は、人々に「飴なしの鞭」を受容させることです。サディストとなった支配層がマゾヒストとなるべき被支配人民層を必要としているのです。人々に向かって「覚悟と努力」を説き、国政に対しては「決定できる政治」を要求する橋下氏は、この課題に答えて、矛盾を強行突破しうる人材として期待されています。橋下氏はこれまでの言動で、一見支配層への挑戦者に見えるような姿勢で人気を博し閉塞感をガス抜きし、分断と俗論で「飴なしの鞭」の「必然性」を人々に納得させようとしてきました。さしずめ橋下氏はサド資本主義における支配層の使命を担うトリックスターとでも言えましょうか。

 もちろん人々の客観的利害に反する以上、支配層の課題の実現は困難です。そこでこの課題に沿う形で、人々の気分を歪めて再編成します。人々の間に対立を煽り、分断とバッシングによるうっぷん晴らしを誘うという周知の手法は、こうした支配層の課題に適合するという点に最大の意義があります。このうっぷん晴らしは、単に閉塞感が世間的に非常に強いから広く受容されているだけではありません。たとえば「安定した公務員」とか「生活保護受給者」などの「既得権益」への攻撃には、「自己責任論的公正・公平」感情を基準にした「正義感的爽快感」が伴ってもいるからでしょう。ならば他者へのバッシングは自分への自己責任追求になり、支配層の要求する「覚悟と努力」の受容となります。公務員でも生活保護受給者でもない人々は多数派であり、その中の多くは自己責任論を論理的・倫理的に内面化させています。したがって自己責任論を克服することが、バッシングと分断攻撃をなくす要となります。その他に、この「自己責任論・バッシング」系列が「支配の受容」へのからめ手の手法とすれば、正攻法としては「大所高所論・経済整合性論」があります。この克服にはやはり正攻法での政策論議となります。

 「飴なしの鞭」を人々に受容させることを新自由主義的統合と言うならば、それは自己責任論と大所高所論による意思統一・組織化であり、それは同時に、相互理解と自己犠牲的忍耐の組織化(分断と貧困の固定化)となります。対抗する民主的統合は、労働・生活の尊厳と共同性による意思統一・組織化であり、それは同時に相互理解と諸個人の発達との組織化(連帯・団結・豊かさの追求)です。

 自己責任論については唐鎌直義氏が以下のように指摘しています。

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 自助なんてできるのは一握りの資産家だけです。労働者は、2000万円貯金があったとしても、失業や病気で働けなくなったら4人家族で何年持つか。自助なんてできるはずがありません。だから、歴史的にたたかいとってきたのが、国の責任による社会保障制度です。社会保障制度は、労働者がつくり出した富を取り戻すための仕組みです。「自己責任」論というのは、社会保障を後退させて、自分たちの負担を軽くしようとする資本家のイデオロギーです。   「しんぶん赤旗」6月26日付

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 自殺というきわめて個人的な問題が実は社会構造的問題でもあり、行政による系統的な対策が必要であり有効でもあることを清水康之氏が明らかにしています(「誰も置き去りにしない社会へ 自殺対策大綱・改定への緊急提言」、『世界』8月号所収)。これは自己責任論に対する社会科学の姿勢が広く深く問われていることを示しています。

教育学者の中嶋哲彦氏は、「生徒をたくさん集めた高校を勝者と見なす」というばかばかしく単純なルールを紹介して、新自由主義改革の空虚さを本質的に指摘しています。

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新自由主義改革は、社会制度それぞれに固有な原理やそれらに内在する複雑な事情に精通していない政治家や一部の官僚が、現場で働く人々を単純かつ単一の論理で一元的に制御するシステムを構築しようとする試みを内包している。専門家やその意見を退ける一方、「数値」(数値目標、数値による評価)が重用されるのはこのためであろう。もちろん、その過程で尊重すべき原理や配慮すべき事情とともに、最も大切にされるべき価値=人間が脱落してしまう。

 「収奪と排除の教育改革 大阪府における私立高校無償化の本質」(『世界』5月号)

96ページ

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 要するに新自由主義は現実を無視した理論であり、私はブルジョア教条主義と呼んでいます。その意味では城塚健之氏の先の論文が橋下氏を毛沢東やポルポトにたとえている(55ページ)のもうなずけます。単に恐怖政治という側面だけでなく、その単純な理論を教条的に実行すれば社会を破壊する結果になる、という意味でも共通します。したがって新自由主義の批判は現場を見ることから始めるのが有力です。たとえば稲葉剛氏の「生活保護バッシングは何を見失っているか」(『世界』8月号所収)と同氏「貧困支援の現場から生活保護を考える」(『前衛』8月号所収)は貧困の実相から出発して、生活保護バッシングの不当性などを説得的に明らかにしています。他に特に注目したいのは、JAL不当解雇撤回裁判原告団客乗原告団の内田妙子・斉藤良子・山田純江の三氏による客室乗務員座談会「いっしょに働き、『安全なフライト』のJALに ―仕事への誇り、解雇の不当さを知らせて」(『前衛』8月号所収)です。この座談会からは感動的な闘いを具体的に知ることができ、多くのことを学べるのですが、ここではいくつかに絞って紹介します。三氏は仕事の難しさ、経験の大切さ、そして誇りを語り、それに対して賃金や労働条件がいかに見合わないものとなっているかを具体的に明らかにしています。さらには会社から組合差別を伴う厳しい攻撃が加えられ、地裁では一方的に会社側に立った不当判決が下されるという逆境にめげず、支援を訴えて各地を回っています。そうした中で「いや、あなたたちは違う世界の人たちだと思っていた」「なんだあ、同じじゃないか」(206ページ)と理解が広がっています。公務員バッシングが労働者・人民の中にいわば「相互理解の組織化」を実行して分断支配を強化しているのに対して、日航労働者の不当解雇撤回闘争は「相互理解の組織化」により、労働の社会的共同性への理解に基づく連帯を生み出しています。またこの一つの具体的闘争が「解雇自由の社会に道を開くこと」(207ページ)を阻止する普遍的目的を持ち、その意味で労働者の連帯した闘争となっていることも重要です。

 以上のように現場に具体的に内在することが新自由主義改革の空虚さと分断性を克服し、社会の普遍的共同性を回復していく一歩となります。

 「飴なしの鞭」という支配層の都合を人民に受容させる論理は、社会的には経済整合性論(大所高所論)であり、個人的には自己責任論です。経済整合性論に対しては、それが支配体制の不変を前提にした弁護論であり、大資本の既得権益保護論であることを明らかにしつつ、批判的対案を具体的に提出することで克服すべきです。これは最近では日本共産党の経済提言に結実しています。経済整合性論を克服することによって、私たちは「ごく普通の国民の労働・生活がどうなっているのかを明らかにすることが経済学の最終課題である」(塚本隆敏著『中国の労働問題』への井手啓二氏の書評104ページ)と断言できます。個人の幸福追求が目的であり、経済はその手段であることが経済学の前提でなければなりません。

 自己責任論の克服は諸個人の内面に切り込む切実さをもって多くの人々を変革していく課題であり、普遍的な論理を構築することを前提に、具体的状況に応じて人々の感情に届く的確さと平易さが必要となります。

 憲法論としては、13条(個人の尊重、幸福追求権・公共の福祉)と25条(生存権)が中心的に検討されるべきでしょう。13条は解釈しだいでは自己責任論そのものになってしまい、おそらくブルジョア革命期に登場した文脈においては、そのとおりだったと思われます。しかし25条と並存する今日では正反対に捉えるべきでしょう。強い人・弱い人・その他さまざまな個性を持った人々がそれぞれに自分らしく生きられる権利とされるべきでしょう。今日、個人の尊重や幸福追求を阻害するものとして大資本の横暴が重要な原因である以上、それを「公共の福祉」の観点から規制することが妥当であり、それを13条の立場と考えることができます。25条については、それを軽視・形骸化し、はては否定する策動を許さずに実質化していくことが必要です。

 自己責任論の克服には経済理論の役割が非常に重要です。以前にも書きましたが、商品経済論から自己責任論発生の必然性を、剰余価値論(搾取論)・資本蓄積論から自己責任を果たすことの不可能性を論定することができます。つまり自己責任論の普遍性・現実性と矛盾とを両面的に捉えることで、それを理解したうえで批判することができます。上記の唐鎌直義氏の議論は搾取論の観点からわかりやすく批判したものです。自己責任論に対しては憲法25条を対置して批判することが多いのですが、以上のように経済理論と憲法論の検討を踏まえてより説得力を持って多様に展開すべきでしょう。自己責任論が「バッシング=分断」ならびに「支配政策の受容」の要にある以上、大衆的にそれを克服することは喫緊の課題です。

 人民の分断と連帯については、その最深の根拠は商品経済にあるでしょう。商品経済は生産手段の私有と社会的分業からなり、そこでは私的労働と社会的労働との一致はあらかじめ保証されていません。商品生産者はそれぞれ独立しており、自己の判断で経済活動を行ない、その結果に責任を負います。市場で商品が売れれば、彼の私的労働は社会的労働として認められたわけですが、売れなければ認められなかったことになります。商品経済社会に生きる人々はまずは分断されており、商品交換(市場)を通じた後に、社会的共同性を確認することになるのです。商品経済を土台とする資本主義経済の支配層は、この分断を固定化し、社会的共同性を見えなくし、支配の変革を目指す人々は初めから社会的共同性を意識化します。商品経済社会においてはあたかも市場(流通過程)が主人公であるように見えますが、市場は「生産手段の私有と社会的分業」という社会的な生産のあり方の反映に過ぎません。本質的には市場は表層であり、深部の力は生産過程にあります。経済学はまず生産の社会的共同性という歴史貫通的な本源的性質を前面に出し、その上で商品経済や資本主義経済の特殊性を明らかにすべきです。ブルジョア・マスコミは市場至上主義と資本利潤不可侵という疎外された立場で経済を論じており、私たちは社会的共同性の見地から現代資本主義を規制し変革する人間的な経済の可能性を追求しています。「人民の分断と連帯」は商品経済の本質から出発して、資本主義社会においては階級闘争の三形態(経済・政治・イデオロギー)を貫いて意識化・先鋭化されます。特に新自由主義的資本蓄積の矛盾による「飴なしの鞭」=サディズム資本主義は人民の分断を必要不可欠としており、ハシズムはそこに咲いた徒花です。こうしてみると日航労働者が解雇撤回闘争で広範な労働者との連帯を生み出していることの意義はたいへん大きいのです。

 『世界』とかましてや『前衛』などに篭城していてもハシズムには勝てません。そこで武器弾薬をよく吟味して、最低最悪の『週刊新潮』的荒野に打って出る必要があります(橋下氏と『新潮』『文春』はケンカしているけれども近親憎悪の内ゲバに過ぎない)。ハシズムの言葉が一般世間を席巻しているのですから。と言ってももちろん週刊誌に記事を載せるということではなくて、反共・反人権・反民主主義の「わかりやすい」俗論に対抗しうる言葉を提供して新たな人民的常識を作り出さねばならないということです。残念ながら私にその言葉たちの名案があるわけではありません(いつも生硬な用語を裸で並べているような状態ですから当然ですが)。実はそれは当面する課題であるとともに、近代日本の社会科学にとっての課題であり続けているものです。社会科学は輸入学問として人々の生活実感とは反してきました。学校での社会科教育も暗記科目扱いで、子どもたち(したがって長じた大人)の血肉とはなっていません。各種選挙の投票率が低いのはある意味社会科教育の敗北を表現しています。人類がどれくらい苦難の後に普通選挙権を獲得したのかを理解させていない社会科教育とはいったい何でしょうか。「社会科学が日本語を手中に収めないかぎり社会科学は成立してこないし、日本語が社会科学の言葉を含みえないかぎり、日本語は言葉として一人前にならない」(内田義彦『作品としての社会科学』岩波書店、1981年、35ページ)。そして「社会科学でも思想としての滲透力、心のうち深く入ってそこから働きかける力を一般の人に対してももっていなければならない」(同前、33ページ)。今私たちは、粗雑で危険な言葉がなぜ人々に入っていっているのかを懸命に考え、社会科学の言葉が自然な日本語として溶け込むことを意識的な課題とすべきです。それは生活と労働の現場に草の根民主主義を育てていく課題と一体のものであり、そこから地に足の着いた言葉が生み出されてきます。ハシズムやその亜流を根絶する土台がここにあります。

 ハシズムへの対処の話から始まったのに、どうも経済の一般的な話題に偏り、急を要する人権や民主主義への言及が少なくなってしまいました。「人々に響く言葉をどう届けるか」と問題提起しながら、問題提起の再確認に終わり、解決策には近づけませんでした。今のところこんな到達点ですが、さらに具体的に考え続けることで前進したいものです。

 

 高橋秀直著『「資本論」研究 労働価値論・貧困の蓄積論・経済学批判』に対する頭川博氏の書評102-103ページ)を興味深く読みました。肝心の著書は読んでいないので、以下では高橋説を紹介しつつ展開される頭川氏の議論について述べます。貧困とは「その社会的な性格からして、生産力が可能にする物質的条件と労働者が享受する生活状態とのあいだの乖離を意味する」。そして「搾取こそ、豊富に生産される物質的富の享受から労働者を遠ざける元凶をなす」。こうして貧困概念を確定した上で貧困と貧困の蓄積とを峻別し「資本蓄積が貧困の蓄積をもたらすとすれば、貧困は剰余価値生産によって形成されることになる。つまり、貧困とその蓄積との区別は、剰余価値論で貧困の概念が規定され、それを論理的前提に、蓄積論で貧困の蓄積がとかれるという研究の順序をしめす」とされます。また「生産力の発展によって商品価値が低廉化するため、実質賃金はあがり、貧困の蓄積と労働者の生活改善とは両立する」と指摘されます。以上の議論は支持します。ただし「必要労働・剰余労働」概念を歴史貫通的だとする考え方を頭川氏が批判しているのはどうでしょうか。私は経済学は歴史貫通的なものと特殊歴史的なものとをともに明示する体系をもつことが有効だと考えています。「必要労働・剰余労働」概念は歴史貫通的に理解すべきであり、上記の貧困概念とも整合的に捉えられるのではないでしょうか。

 以上は理論的にしっかり考えたわけでもなく立場を表明しただけのことですが、以下の議論は重要です。貧困とその蓄積の概念は上記の通りですが、今日の日本資本主義の現実を見れば、名目賃金の急激な下落で実質賃金さえも下落し労働者の生活は悪化しています。絶対的貧困化が進んでいるのです。労働力の価値以下の賃金が一般化している現実をどう捉えるかが、価値論と剰余価値論(搾取論)の新たな課題としてあります。新自由主義的資本蓄積はこの低賃金の故に内需不振を必然とし、商品実現の危機による利潤の減少をさらなる搾取強化で乗り切ろうとする悪循環に陥っています。これが「飴なしの鞭」「欲しがりません、勝つまでは」的な経済政策(それは前触れとしての「決定できる民主主義」から政治反動・独裁につながる)の根拠となっています。つまり新自由主義的資本蓄積の土台は、生存権を侵害する「労働力の価値以下の賃金」です。当然ながら労働力の再生産は支障をきたし、少子化と年間三万人自殺が現出しています。価値論と剰余価値論の新たな課題と言ったけれども、おそらく従前の理論のままで考えて、もはや日本資本主義は持続不可能となったと宣言することで十分なのかな、とさえ思います。

 しかし主流派経済学はこの異常な低賃金を前提にして理論と政策を組み立てています。彼らの現実主義とか経済整合性とかは「無理が通れば道理が引っ込む」の「理論」化なのです。およそ人々が生活できないことの異常さを経済の根本問題として見られない理論に経済学を名乗る資格はないでしょう。高橋氏と頭川氏は、絶対的貧困化と区別して貧困概念を正しく確立したと思いますが、そうした冷静な目で見れば現状の異常さはさらに際立つはずです。「正常な搾取」を超過し、価値法則と剰余価値法則を侵害して暴走する資本主義をどう規定するのか。こういう問題は存在しないでしょうか。
                                 2012年7月30日



2012年9月号

          憲法13条と25条 市場経済と資本主義経済

 二宮厚美著『新自由主義からの脱出 グローバル化のなかの新自由主義VS.新福祉国家』への書評において、唐鎌直義氏は、「幸福追求権」を起点とする議論は「新自由主義が支配的風潮になった時代の市場原理のイデオロギー的反映にすぎない」とする二宮氏の見解に強く共感しています(92ページ)。確かに幸福追求権そのものは「自由権を核にした個人の自律・自己決定」(同前)として登場し、今日的には新自由主義=自己責任論と親和的に解釈しうるものです。しかし日本国憲法第13条(個人の尊重、幸福追求権・公共の福祉)は同25条(生存権)と一体に捉えるならば、支配層のイデオロギーから逆に人民の戦いの武器に転化しえます。自由権と社会権は次元を異にし、それが同一平面にあることは日本国憲法に資本主義の矛盾が反映していることの現れです。この矛盾を反動的に押しつぶすのではなく、前向きに止揚するのが私たちの立場であるはずです。民意を全く無視して、消費税を増税し、福祉を切り捨てる…等々、支配層の政策は、「飴なしの鞭」であり、軍国主義時代のスローガン「欲しがりません、勝つまでは」を彷彿とさせます(当時は戦争に、今は国際競争に「勝つまでは」だが…)。これはまさに人々の幸福追求権を真っ向から否定し、諸個人の尊厳を押しつぶすものです。今こそ憲法13条を高々と掲げるべきです。

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  このところ、学校ですっかり定着してしまったいじめは、個人の尊厳の否定である。個性を否定し、目立つ者がいるとみんなのレベルに引きずり落とそうとする。弱いとみると、つけ込む。「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。

                        堀田力「憲法違反な人」  「朝日」夕刊  200152日付 

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 今日の支配層の政策は人々に対する全般的社会的いじめであり、公務員や生活保護受給者等に対するバッシングはそれを補強する分断支配に役立てるための部分的社会的いじめと言えます。それに対して弱肉強食を否定して「どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている」という13条把握こそ憲法を前進的に活用する姿勢です。そのような社会をつくるためには生存権の保障が前提となります。25条と一体的に捉えられた13条が重要なのです(訓覇法子「スウェーデンにみる障害者の『自立』―誰もが働き、民主主義を担えること」/『世界』9月号所収/はこの点で参考になりますが、さらに進んで「自立とは何か、働くとは何か、そして民主主義とは何か。その基本価値を根源的に問いなおす」/291ページ/ことを提起した論考として熟読・検討し議論するに値するものです)。 

 支配層は「自由権を核にした個人の自律・自己決定」を自己責任論的文脈の中で強調していますが、そこから出てくるはずの個人の尊厳と幸福追求権は彼らの政策によって少なくとも結果的には否定されています。自らがタテマエとして大いに擁護している自由権を支配層は実質的に否定しているということに注目すべきです。だから事実上彼らと一緒になって自由権や幸福追求権を否定した後で、(社会権の中心にある)生存権を対置してそこで初めて新自由主義=自己責任論に反対するというのは正しくありません。異次元にある自由権と社会権をともに擁護すべきです。問題はどこにあるか。新自由主義(というか本質的には資本主義そのものだが新自由主義において典型的にみられるという意味で新自由主義という)下では自由権が社会権を破壊し(注)、そのことがひるがえって自由権をも破壊しており、その際に自己責任論が弁護論として活用されるという構造です。私たちは社会権の充実によって自由権を実現する構造を対置すべきです。資本主義下においては自由権と社会権との間に適当に折り合いをつけるという妥協的あり方しかありませんが、その際に日本国憲法の「公共の福祉」という概念をうまく活用することが必要です(それは大資本の民主的規制の法的根拠とできます)。新自由主義においては社会権の大幅な犠牲において自由権が存在することが問題ですが、だからと言って「自由権を核にした個人の自律・自己決定」やそこから出てくる個人の尊厳や幸福追求権そのものを否定するのでなく、逆にそれを(社会権の保障と合わせ)尊重して、生き生きした主体性が躍動する社会を提示することを私たちの訴えの基本とすべきでしょう。また自由権は本来個人の権利として登場したものでありながら(だからこそ最大限尊重すべきだが)、今日における経済的自由の主体の中心が大資本になっている点に注意すべきです。

 ここで資本主義経済とは何かに立ち返ります。それは商品経済(市場)を土台とした資本・賃労働関係(搾取関係)を本質とします。前近代的共同体を崩しながら商品経済が発展してくることは、経済的・政治的に独立・自由・平等したがって自己責任と民主主義の基盤が形成されることを意味します。この商品経済の論理次元においては自己責任と民主主義は同値であるとさえ言え、法的には「自由権を核にした個人の自律・自己決定」やそこから出てくる個人の尊厳や幸福追求権の世界が展開されます。しかし資本主義経済は単なる市場経済ではなく、資本・賃労働関係(搾取関係)を本質とします。直接的生産過程においては、独立・自由・平等に代わって支配・従属関係が成立します。ただし資本主義的搾取関係は前近代の搾取関係とは違ってそのまま現象することはありません。資本と賃労働とはあくまで独立・自由・平等な経済関係の外観を呈し、科学的経済学を学ばねば搾取を把握することはできません。したがって今日の支配的イデオロギーは資本主義経済を単純商品生産表象で捉えており、それを自由権の確立した楽園、自己責任と民主主義の世界として描きます。しかし憲法に生存権・労働権などの社会権があるということは、格差・貧困の存在や雇用関係の特別な意義などを認めることであり、それはまた搾取関係としての資本・賃労働関係を事実上認めることにつながります。しかしその関係は決して明示されることはないので、多くの人々は一般的には格差・貧困等の諸問題を階級的に捉えるのでなく、あたかも諸個人間の競争、そこでの能力や努力の差などに解消してしまいます。

 商品=貨幣関係の次元と資本=賃労働関係の次元では、自己責任の意味転換が起こっています。前者では独立・自由・平等および民主主義とセットになったものですが、後者では、自己責任を担うのは搾取・失業によって不可能となっており、それをあたかも可能であるかのように言うのは搾取・失業を隠蔽するものです。新自由主義=自己責任論イデオロギーにおいては搾取経済の本質が商品経済の現象に解消され、社会権の現実が「自由権の楽園」にすり替えられています。自由権と社会権の歴史的・論理的関係は、自由権が先行し社会権が後から出てきたものであり、自由権を土台として社会権はその上にいわば接木された(矛盾に満ちた)構造でしょう。しかし大資本が圧倒的な力を持って諸個人を搾取・収奪している現代の資本主義経済においては、諸個人の自由権の確立は生存権などの社会権の充足を前提とするのではないでしょうか。ならば今日においては自由権と社会権の構造はその歴史的経過とは逆転しています。自由権を声高に喧伝して社会権を破壊する新自由主義=自己責任論に対抗して、(自由権重視を非難するのでなく)社会権を充実することで自由権追求の現実的基盤を築くという議論を組み立てることが必要です。とはいえ単に搾取を弱めて諸個人の自己責任や幸福追求を可能にするだけでとどまるわけにはいきません。それを超える社会的共同を追求することが本当に自己責任論を克服することにつながります。近年言われる新しい福祉国家の展望はそうした方向性に沿うものでしょう。労働運動や諸要求実現の運動を強化して、階級的にあるいは地域社会において様々な共同の形を草の根からつくりあげていくことが求められています。

自己責任論とその美化について、多くの人々が生活と労働の体験からその虚偽性に気づきつつあっても、なかなか一挙に克服することが難しいのは、それが上記のような現実的基盤を持っているからでしょう。自己責任論に代わって搾取論を人々の常識にすることが必要です。もっと言えば、資本主義経済を市場経済に解消する俗論に代わって、それが市場経済と搾取経済との統一であり、両者の中でも本質が後者にあるという理解を広めることが重要です。前出の唐鎌直義氏の書評において「新自由主義の国民一般への浸透をどう考えたらよいか」あるいは「『なんとなく新自由主義』の庶民を、どう説得していくべきか」(93ページ)という疑問が提起されています。以上はその回答に向けての試論です。

 先にちょっと触れた問題を再考します。経済的自由の主体はもともとは諸個人であったけれども、今日ではそれは主に個別諸資本としての大企業になっています。したがって経済的には自由権の主体の中心は自然人から法人に移ったといえます。市場競争の主体を諸個人だと思えば、各々の能力・努力などが思い浮かびますが、市場競争の主体は個別諸資本であり、その動機は剰余価値追求です。資本間競争では、労働者への搾取強化によって競争に勝つことが基本となり、労働者の幸福追求権は犠牲とされます。私はかねてより、経済的自由において、人間の自由・市場の自由・資本の自由の三つを区別すべきであり、それらは相互に一致する場合も対立する場合もあることに注意すべきだと主張してきました。自由・競争・格差・貧困などを考えるときに、これらを混同し、資本の自由の伸長を持って人間の自由の伸長と錯覚することが多くあります。これが新自由主義イデオロギーの覇権が成立する一つの要因となっている点に注意すべきでしょう。

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(注)自由権が社会権を破壊する典型は、社会権概念成立以前の19世紀イギリスに見られます。いわゆる「労働の自由」=雇用契約の自由は、解雇の自由を含み、その内実は「資本の自由」です。「労働の自由」が貫徹された当時のイギリスでは労働者の団結や争議は「取引制限の法理」に基づいて刑事犯罪とされました(大島雄一「経済学と国家論」/同『現代資本主義の構造分析』大月書店、1991年、所収/190191209ページ)。「働き方の自由選択」を喧伝して導入された・現代日本における労働規制緩和もまた「労働の自由」=「資本の自由」の拡大によって労働者の生存権を初めとする社会権に打撃を与えている点において共通します。なお自由権と社会権あるいは商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との関係などについて考えるため、大島論文を読み直してみて、あらためて拙文の稚拙さと薄さに赤面する結果となりました。この論文は当該テーマを経済理論から根源的に捉えるに際して必読だと言えます。

 市場経済と資本主義経済(商品=貨幣関係と資本=賃労働関係)との関係を捉えるにはまず搾取(剰余価値生産)を捉えることが前提ですが、さらに恐慌論の視角から経済の動態と体制原理を考えることが有効です。資本主義経済の平均化機構は、価格メカニズム(市場メカニズム)ではなく、恐慌=産業循環であることを高須賀義博氏は明確にしています(『マルクス経済学研究』/新評論、1979/等)。資本主義経済が不断に生起する様々な不均衡を最終的に調整して体制として存続しうるのは価格メカニズムのおかげではなく、恐慌=産業循環によるものだというのです。資本主義経済は価格メカニズムによって不断に調整されているというのが通念であり、そこからは資本主義経済を単なる市場経済に解消してしまいがちになります。しかし累積する諸矛盾を恐慌=産業循環によって暴力的に調整することが資本主義経体制済存続には不可欠であれば、市場経済だけに解消しえない搾取と資本蓄積の分析に目が向きます。松岡寛爾氏の「静かな均衡化と暴力的均衡化―競争論における試論―」(『景気変動と資本主義』大月書店/1993年/所収)は市場経済の静かな均衡化と資本主義経済の暴力的均衡化との立体的関係を解明して、恐慌=産業循環の全過程を描いたものです。価格メカニズム=静かな均衡化によって市場経済の不均衡が解決されるというのは、本来は単純商品生産という基盤が前提となって可能なのであり、資本主義経済においては恐慌=暴力的均衡化が不可欠となります。

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 原発再稼働反対の運動では「いのちか経済か」というスローガンが掲げられているように思います。その趣旨は分かりますが、言葉としては不適切でしょう。ここでいう経済とは経済一般ではなく、利潤追求を目的とし、そのためにはいのちさえも犠牲にしうる経済、つまり資本主義経済を指すはずです。にもかかわらず漠然と経済という言葉を対置することで、あたかも経済そのものがいのちに敵対するかのような錯覚を起こさせます。こういう「経済=悪」論では、経済の中身を問題にして、いのちを支える経済へ変革するという本来の課題が見えなくなります。

 橋下大阪市長はすでに大飯原発再稼働容認を明言していますが、それに先立つ426日に、再稼働を認めない場合に「節電に取り組む企業などへの奨励金の財源として関西の住民に新たな税を課すことを提案しました」(「しんぶん赤旗」428日付)。今から見れば、要は再稼働容認に向けた脅しにすぎませんが、それはここでは措きます。翌日、「産業を守るために個人や家庭に負担を求めるのか」という質問に対して橋下氏は「個人も産業のおかげでお給料をもらっている」と答えています(同前)。ここではまず資本主義企業の問題が産業一般にごまかされています。次いで「個人も産業のおかげでお給料をもらっている」というのは俗論の極みです。労働者は新たな価値を生産してその一部を賃金として受け取り、他の部分は搾取されて企業の利潤となります。それが全体の関係であり、その賃金部分だけを取り出して、しかも逆立ちして描いたのが「個人も産業のおかげでお給料をもらっている」という言説です。働く人々が経済社会の全体を支えているというのが、どのような経済のあり方であれ歴史貫通的な事実であり、それが資本主義経済においてはどのような形をとって表れているのか、と問うのがきちんと足で立った経済の捉え方です。橋下氏の場合はその政策的立場上の偏見から出発して、資本主義企業の観点から経済を見ることで一貫しています。企業が主体なのだから賃金も「企業のおかげ」であり、企業の活動が経済一般と同値であり、働く人々がつくる経済社会の観点から企業に規制を加えるというようなことは論外となるのでしょう。「何の負担もなく要望が通るなんて、そんな都合のいい世の中なんてない」(同前)という橋下氏の言いぐさは、一般論としては間違っていないけれども、ここでは「住民には我慢と増税、企業には奨励金」(同前)という偏った議論を隠すための方便なのです。橋下氏の俗論は素朴な一般論の形をとってわかりやすいように見えながら、その実きわめて階級的な結論に導くようにできています。経済について考えるとき、経済一般と資本主義経済とを区別し、ある経済事象の中に経済一般がどのように貫かれているか、およびその資本主義的あり方を捉えるという二段構えが必要です。そして資本主義経済とは資本主義企業が労働者を搾取して成り立っているということを忘れてはなりません。個人の実感から出発することは大切だけれども、そこだけにとどまるのではなく、経済社会全体からその実感はどう位置づけられるのかを問わねばなりません。

 以上、冗長に語ってきましたが、あらためて「経済についての人民的常識」をまとめてみます。一つは、経済を歴史貫通的側面と特殊資本主義的側面との統一として捉えることです。もう一つは、「市場経済を土台にした資本=賃労働関係」として資本主義経済を捉えることです。これは資本主義を搾取経済の一つとして捉えることと、資本主義を単なる市場経済に解消しないこととを意味します。

 情勢の進展に応じて経済の人民的常識には様々な内容が加わります。今日的には、多くの人々が「内部留保」を捉えることでその是正・活用を実現することが喫緊の課題です。その問題を提起したのが大木一訓氏の「『内部留保』の膨張と21世紀日本資本主義」です。その豊富な内容はここでは措きますが、上記の経済の人民的常識との関連では以下が注目されます。

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 (前略)以上からこう言えるであろう。膨張する「内部留保」は、大企業が情け容赦ない形で労働者階級を搾取(他人の労働の成果をタダ取りすること)し、中小企業を収奪(他人の財産をタダ取りすること)し、年金生活者をふくむ国民各層を欺瞞的に収奪して得た余剰資金であって、ほんらい勤労者をはじめとする国民に帰属すべき資金である、と。

  …中略…

 内部留保社会的還元の要求は、こうした搾取・収奪論の立場からのものであって、「そんなに儲かっているなら少々分けてもらいたい」という分け前論の立場からのものではない。

             17ページ

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たとえば資本主義経済を単なる市場経済に解消しないというのはマルクス経済学にとっては当たり前のことですが、それは「市民的常識」ではありません。資本主義を搾取経済として教えることは、高等学校までの公教育では行なわれていません。ごくごく一部の大学で教えられるだけです。もちろん「市民社会」においてもその場はなく、例外的に労働学校(それは「市民社会」にありながらも「市民的常識」を超える階級教育を行なう)などで教えられるだけです。したがって私たちが様々な問題について世論に訴える際の基準は「市民的常識」であり、それと同一平面にある日本国憲法です。現実的にはそれが当然ですが、諸要求の発生根拠が資本主義経済にある以上、本質的には「市民的常識」を超える現実把握が求められます。経済についての人民的常識を広めるということが課題として挙げられます。それは難しいし性急に行なえることでもありませんが、人々の現実的苦難やそこに生じる意識から出発すれば決して無理とは言えないと思います。少なくとも変革的世論形成にとっての「市民的常識」の意義と限度を意識し、階級意識の未形成の問題点も意識しうるということが、私たちには必要ではないでしょうか。しかしそのような課題意識を持つにしても、それに挑むためには、拙文のような言葉を選ばぬ書き殴りでダメなのは当然だし、多くの人々に届く言葉をどう実現していくかは難問です。それは先月も書いたように、内田義彦氏によれば、わが国において国語と社会科学を成立させる課題につながるものです。私たちが両者をきちんと持てないならば不幸になります。

 

          中南米変革をどう捉えるか

 今日、新自由主義グローバリゼーションにまとまって対抗している地域は中南米であり、世界中の変革勢力の期待が集まっています。その先頭を走るのは、チャベス大統領率いるベネズエラです。そこでは社会政策による貧困削減は顕著な成果を上げていますが、生産の低下が重大問題となっています。「しんぶん赤旗」85日から11日までの連載「大統領選 ベネズエラはいま」は、政府の官僚主義、国営企業の非効率経営、反対派の妨害、価格統制の弊害、生産意欲の低下、などを率直に指摘しています。チャベスは社会主義を実践していると言い、彼を党首とする統一社会主義者党はこうした困難に対して、主にイデオロギー教育など精神主義的方向を打ち出しているようです。こうした状況は、ソ連・東欧などの20世紀社会主義体制を彷彿とさせます。新自由主義へのオルタナティヴとしての経済制度が自然に機能する段階に至っておらず、石油収入依存によって問題を先送りしている状況でしょう。価格統制などによる経済の機能不全は市場経済をうまく利用できていないことを示しており、発達した資本主義諸国が資本と市場の暴走によって混乱と停滞を招いているのと対極的な誤りに陥っているようです。革命後のロシアでレーニンは「ボルシェヴィキは商売を学習しなければならない」という意味のことを述べたそうですが、今日のベネズエラにおいても精神主義よりも(社会主義イデオロギーも大切だと思うけれども)市場を機能させて生産を回復し自然な発展軌道に乗せることが喫緊の課題に違いありません。チャベス政権与党のベネズエラ共産党も価格統制などの経済政策には反対しています。それでも与党に残っている理由は、政権が石油収入を貧困層に配分していることと、反帝国主義と地域統合を推進していることです。確かにそれらは新自由主義へのオルタナティヴ政権として必要な大義であり、現在の経済状況がよくないからと言って、新自由主義に逆戻りするとか、やはり資本主義路線しかないという短絡は誤りです。貧困層を底上げし、(「先進諸国」のような多分に形式化された民主主義とは違った)参加型民主主義を追求しているその方向に見合う経済民主主義(おそらくそれは社会主義と呼んでもいいものだろうが)があるはずです。そういう意味ではベネズエラは引き続いて21世紀の先進的実験の最前線に立っており、「短い20世紀」の社会主義体制と、20世紀末から今日までの新自由主義体制という両極の反面教師をにらみながら独自に進む道を模索していくべきであろうと考えられます。ただし貧困問題を見ても、ジニ係数による所得格差の比較では、中南米で最良のベネズエラでも、米国とユーロ圏で最悪のポルトガルより悪いということですから(「しんぶん赤旗」824日付)、貧困対策の到達点の「絶対値」では中南米の水準は極めて低いものです。しかし左派政権への交代以降には各国それぞれ積極的な貧困対策を実施しています(中南米の貧困人口/1990年:41%→2010年:26%、同前記事より)から、おそらく変化の方向としてはすぐれているのではないかと思われます。ここでも志と現実とのギャップがかなり大きいのがベネズエラを初めとする中南米の実態でしょう。それは当面する問題の大きさ・深刻さとともに解決するエネルギーの大きさを表しており、熟慮と試行錯誤とにより正確な方向性を探り出すなら、世界に与える影響も大きいと思われます。それに対してわが国の現状は、新自由主義の反動化(野田=橋下現象)(注)というきわめて後進国的状況にありますが、反面、支配体制の行きづまりおよびデモの日常化・復権という変革のベクトルが顕在化している状況でもあります。問題はベクトルの方向です。確実な進歩の方向へ行けるか、それとも反動的暴走へと捻じ曲げられるか。ここにきて中国・韓国等との領土問題(とその扇動的利用)も絡んで息詰まる日々が続いています。

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 (注)ここにきて橋下徹氏は「決められる政治」の観点から野田首相を称賛しています。民意を無視してひたすら財界と米国の意向に沿う政治を強行している民主党野田政権の姿勢は新自由主義の反動化と呼ぶべきものです。それは搾取経済としての資本主義の本質が裸で露呈した結果であり、民主主義の危機を伴っています。マスコミを共犯者としてこの過程を推進した立役者が橋下氏であり、表面的対決にもかかわらず、大枠としては支配層の利益を死守した「野田=橋下」現象の意義に大いに注目すべきです。

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                                 2012年8月31日




2012年10月号

      グローバリゼーションの本質把握と経済政策転換の視点

 

 実施させない闘いがこれから重要ではありますが、「社会保障と税の一体改革」のかけ声のもと、消費税増税法が成立しました。その他にも、原発再稼働・TPP加入・オスプレイ配備等々、まったく人々の利益に反する政策実施が続々と狙われています。一連の政策が実施されるなら、私たちの生活と労働はますます困難になります。支配層のこのような強硬姿勢は単に保守政治家が劣化したとか、大企業が特別に強欲になったということだけが原因ではありません。労働者・人民の所得が減少する一方、大企業が莫大な内部留保を確保している、ということは日本資本主義における生産関係の異常さを表していますが、それを支える生産力や世界経済のあり方が根底にあります。労働条件改善や社会保障充実の要求などに対してそれを拒否する究極の根拠として、グローバル化による競争激化で企業を支援しなければならないから我慢しろ、と言われます。私たちの要求実現の確かな道を指し示すためにはその前提として、現代の生産力のあり方、国内経済と国際経済の関係、実体経済と金融との関係などを一貫した理論で解明し、統一的な変革の経済政策を打ち立てねばなりません。もちろんそれ自身は専門家の仕事ですが、私たち一人ひとりも、自らの生きている日本と世界の経済の本質的理解を通じて、要求実現・政治変革の大道を把握し、支配的な俗論の誤りを指摘できるようになることが大切です。

 それに最適の必読論文が増田正人氏の「グローバル経済の現状をどう考えるのか」です。「本論文の課題は、グローバル化した世界経済の現状の基本的な構図を示すこと」です(65ページ)。増田氏は世界の実質経済成長率を先進国と発展途上国とで分析し、前者の停滞と後者の優位、および両者の動きの連動化などを指摘して、「グローバルな世界経済が一つの再生産の単位となり、各国の国民経済はその世界経済の中の占める位置によって規定されるようになっている」(67ページ)と結論づけています。その原因は、先進国から発展途上国への多国籍企業のグローバル展開、ならびにそれを支えるWTOIMFなどの国際経済秩序に求められます。

 以下では若干の気づいた点だけ触れます。先進国と発展途上国との関係について、前者の成熟による停滞と後者の発展余地の存在、という一般的な発展段階論にとどまることなく、多国籍企業のグローバル展開の中での相互規定性という視点から一貫して解明されていることが重要です。多国籍企業が進める国際的下請け生産の拡大が、発展途上国の経済成長の一方で、先進国への逆輸入、産業空洞化による内需縮小、財政赤字等の悪循環をもたらしています。

WTO体制の誕生には特別の意義があり、自由貿易と諸制度の共通化を通じて単一のグローバル市場を形成し、多国籍企業の進出・撤退のリスクを劇的に軽減することでそのグローバル展開を拡大しています。また知的所有権保護強化によって多国籍企業中心の国際分業体制を支えています。多国籍企業は、生産に必要な情報・技術を握り、特許権に結びつく研究開発部門やブランド戦略などの販売部門を支配・独占することで、直接的生産過程からの価値収奪体制を築いています。これは早くから産業空洞化が進んだアメリカが自国に有利なグローバル・スタンダードを押し付けたものです。

その他、ドル国際通貨体制下での投機経済化や、金融危機と救済策の繰り返しが批判的に解明されています。以上は論文のごく一部の紹介ですが最後に結論を引用します。

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今の私たちに必要なことは、国内経済と国際経済のあり方を統一的にとらえた上で、WTO体制を見直し、国際経済政策と国内経済政策を統合した政策を一刻も早く実施していくことである。グローバル経済では、個別的な生き残り政策を追求しても、それは一時的な効果を生むだけであり、結局、対抗的な動きを誘発することで世界全体の水準を引き下げ、ますます状況を悪化させるにすぎない。グローバル経済の構造を不問にして、生き残り政策を追求しても生き残れない経済になっているのであり、そのあり方を抜本的に改めることこそが求められているのである。           79ページ

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 人々の不幸の源をしっかり見つめ、こうした根本的な変革の視点から、さらに具体的な諸分野の経済政策を固め、諸運動を励ましていくことが大切です。

 

 

          人々の意識とポピュリズムをどう捉えるか

 

◎ポピュリズム観の反省と整理

 杉田敦氏の「『決められない政治』とポピュリズム」(『世界』10月号所収)は体制派的なポピュリズム批判の一つの類型を提出しています。通常のマスコミ論調は、「決められない政治」の原因を政治家の不作為と見て非難を集中しています。杉田氏はそれとは一線を画して、民主政治において多数派が嫌がる決定をすることの困難性にその根本原因を求めています。その点では正確ですが、多数派が嫌がる決定は本来しなければならないとする立場はマスコミ論調と同じであり、誤りです。多くの場合、それは支配層が人々に無理強いする政策であり、決定されるのではなく撤回されるべきものです。喧伝されている「決められる政治」なるスローガンの階級的偏向を暴露することがまずは大切です。

 杉田氏はグローバル化の下では人々に(利益配分ならぬ)負担配分せざるを得ないと言い、消費税増税についても支持しています。多少の留保や批判は述べつつも結論的にはそう主張しており、「朝日」等の体制派マスコミと同じ立場を表明しています。そうした問題は、まず経済面から階級的視点を含めて検討すべきであるにもかかわらず、それを抜かして現状の中での政治的利害調整の問題にすり替えています。このすり替えられた「課題」を回避する政治姿勢を念頭に「ポピュリズムとは、有権者の多数派の支持を得るために、多数派に負担が生じる政策はすべて回避し、多数派の『外部』への攻撃に専念するようなやり方である」(186ページ)と定義しています。

 結論的に言えば、この定義は体制内リベラル派の無力と誤りを露呈しているものです。一面的な官僚批判や公務員バッシング・教員への締め付け・伝統文化の軽視など、橋下徹氏を念頭に置いたと思われるポピュリズム的な議論に対して、確かに杉田氏は正当に批判しています。しかし消費税増税支持に見られるように、人々の暮らしと営業に対する切実な視線はありません。アレコレ述べながらも結局は新自由主義的な現体制を維持する経済整合性論に立ち、人々の暮らしに無頓着であり国民経済の堅実な発展の視点がありません。そこから出てくる一面的な財政再建観からは、消費税増税による厳しい不況圧力からの経済混乱と税収への打撃が正当に考慮されません。それは支配層の立場であり、杉田氏と橋下氏に共通します。両者の違いは人々の人気に現れるでしょう。杉田氏の議論は経済と政治の両面において「上から目線」なので支持は集まりません。橋下氏は両面で支配層の立場(しかも極端に過激なそれ)ですが、タレントとしての人気やバッシング手法などによって政治的人気を博しています。その上で、人々に「もはや果実はやれない。覚悟と努力が必要だ」と彼が説いている点に注意すべきです。多数派に負担を求めているのです。この点で杉田氏と橋下氏は共通の立場です。したがって杉田氏のポピュリズムの定義は少なくとも橋下氏には当てはまりません。橋下ポピュリズムの特徴は、政治ポピュリズムを巧みに利用した個人人気に乗じて、民主主義を破壊し、過激な新自由主義政策の貫徹に人々を動員することです。新自由主義の初の本格的実験が、1973年、チリの人民連合政権をクーデターで打倒して成立した軍事独裁政権によって行なわれたことを想起すべきです。新自由主義は惨事便乗型資本主義とも言われます。バブル崩壊後の失われた20年と東日本大震災という惨事などがもたらした深刻な閉塞状況に便乗して、橋下氏は新自由主義の独裁的ヴァージョン・アップを担おうとしているのです。

 私たちのポピュリズム批判においては「上から目線」の克服が重要な課題となります。今日のマスコミなどにおいては、ポピュリズムという言葉は「無責任な人気取り」といったネガティヴな意味でもっぱら使われます。先の杉田氏の定義もその一種です。そうしたポピュリズム批判では、「操作されやすい無思慮な」民衆像が前提されており、人々の暮らし・労働・営業などに内在する観点が乏しく、したがってそこから出てくる意識をきちんと捉える前に、一方的に説教することになります。当然そのような説教は聞き入れられることはないので、人々と批判者とはますます意識が乖離します(それはまだいいほうかもしれない。説教すらあきらめてままならぬ現実をなげくのみか、最悪の場合は傲慢にも人々を蔑視することになる。果てはニヒリズムやシニシズムで「大人」を気取るか)。しかし元来ポピュリズムはロシアのナロードニキやアメリカの人民主義運動、アルゼンチンのペロンなど多様に広範な政治運動を指し、必ずしもネガティヴにのみ語られるわけではありません。その共通の特徴についてはたとえば「美徳や政治的正当性は『人民』の中に存在するとし、支配的エリートを堕落と考え、政治目標は現存する政治的制度によって媒介されるよりも、むしろ政府と人民との間の直接的関係によってもっとうまく達成されるとする」といった政治的意味づけがなされています(「ポピュリズム/人民主義」 N.アバークロンビー、S.ヒル、B.S.ターナー編 丸山哲央監訳・編『新版 新しい世紀の社会学中辞典』ミネルヴァ書房、2005年 より)。これはある意味ではアメリカのティーパーティーとオキュパイ運動という左右両翼の人民運動それぞれに当てはまります。日本でも、橋下ポピュリズムにある程度当てはまりますし、様々な社会進歩の運動にもそれなりに当てはまります。ハシズムとの闘いは、ある意味でこうした民衆的状況の中での「実感争奪戦」なのだから、「上から目線」型ポピュリズム批判を克服して、人々の生活と意識に内在する姿勢が大切です。そこが戦場です。「独裁に転化しかねない民主主義の危険性」を安易に語ることは、そこを回避する姿勢であり、民衆的多数派の獲得をあきらめる方向になりかねず、ハシズムだけでなく、これからも出てくるであろうその亜流との闘いでもよくありません。草の根からの民主主義のヴァージョン・アップ(お任せ民主主義から草の根民主主義へ、さらにその充実へ)が、独裁防止の最も本質的な基盤であり、そのためにはポピュリズム観の反省が必要です。

 先に「『経済』20126月号への感想」(529日)の中の「ポピュリズムについて」においてポピュリズム批判の二類型という見方を提起しました。一つは経済論であり、いわば右からのポピュリズム批判(体制派的批判)です。それは新自由主義グローバリゼーションを前提とする「経済整合性論」の立場から、「混乱を招く無責任な経済政策」を批判します。たとえば消費税増税批判への反批判がその代表です。もう一つは政治論であり、左からのポピュリズム批判(人権派的批判)です。これはたとえば橋下徹氏の「君が代」強制や労組・公務員バッシングあるいは思想調査などへの批判です。

 ポピュリズムに傾く人々の意識とそれへの批判という現象を図式化すると以下のようになります。

1図)

ポピュリズム批判→人々の意識・ポピュリズム

 

 次いでポピュリズム批判の二類型という観点から、この現象を分析すると次のような構図になります。

(2図)

経済面   体制からの経済ポピュリズム批判 → 人々の経済要求

政治面  人権派からの政治ポピュリズム批判 → 反人権・反民主主義ポピュリズム

 

ここで注意すべきなのは、人々の経済要求の中には、公共事業ばらまきに見られるような経済ポピュリズムというにふさわしいものもありますが、消費税増税反対のような正当な要求もあり(その分岐をどう考えるかは措く)、体制的批判は後者に対してこそ狙いがあるということです。新自由主義構造改革は従来型の土建国家批判とないまぜに社会保障削減を目指す「小さな政府」をスローガンとしたことを想起すべきでしょう。

 通常、ポピュリズムとその批判は1図のような漠然としたイメージで捉えられています。上記の杉田論文もそうした構図の中でのポピュリズム批判として見られますが、2図のように分析してみると、それが経済と政治両面でのポピュリズム批判であることがわかります。このように全面的ポピュリズム批判が典型的な形でしょうが、2図からは、他の形の存在も示唆されます。そこで2図の四つの要素とその組み合わせを表に整理しました。

 

        政治         経 済                 

X政治ポピュリズム

(反人権・反民主主義)

Y人権派からの政治ポピュリズム批判

A人々の経済要求(場合によっては経済ポピュリズム)

A+X人々の意識の現状

A+Y人々の意識の変革方向

B支配層からの経済ポピュリズム批判

B+X支配層による新自由主義的独裁

B+Y体制内リベラリズム

 

 2図のように批判の方向は、<B)→(A>、<Y)→(X> となります。批判される側である人々の意識状況A+Xを見ると、一方では切実な経済要求があり、他方では公務員バッシング・生活保護バッシング等に流されて反人権・反民主主義に対する警戒感の弱いポピュリズム的状況があります。

これに対して支配層の最も先鋭的反応はハシズムに代表されますB+X。「リンゴは与えられない」と言って経済要求そのものを拒否します。政治的にはバッシングを強化することで(1)分断支配を強化し、(2)人権と民主主義を破壊し、(3)「民意」そのものによる福祉切り捨て・賃下げ・労働強化等を実現します(注)。これは支配層による新自由主義的独裁と呼ぶことができます。ただし民意を無視した消費税増税の断行を支配層がこぞって支持したのとは違って、反人権・反民主主義の政治ポピュリズムへの支持には濃淡があります。一応これまで民主主義を担ってきたと自認している支配層内部で、ハシズム支持の温度差が出てくるのは当然ですが、にもかかわらずハシズム容認が優勢なのは、新自由主義的資本蓄積の危機が深まり、乗り切りに独裁への傾斜が強まっているということです。

上記の杉田論文などの立場は、いわば体制内リベラリズムB+Yとも呼ぶべきでしょう。反人権・反民主主義の政治ポピュリズムを批判しつつ、人々の経済要求もポピュリズムとして批判しています。ポピュリズム批判としては一貫しているように見えながらも、支配層と被支配層との間でねじれています。しかし現行のグローバリゼーションとそこでの新自由主義的経済整合性を前提にして、消費税増税等の政策を支持していることからすれば、根本的立場は支配層と同じです。とはいえ反人権・反民主主義に与することはできない。結論的には、支配層の経済政策を人々が支持するように、民主的に粘り強く説得し微調整を重ねてしていくしかない、ということになります。ここには、被支配層の立場から階級的な経済政策で問題を単純明快に解決するようなことはありえないのだから、現状を前提に政治的な妥協・複雑な利害調整にゆだねるほかない、それが現実を見つめた「大人」の立場であり、政治とはそういうものだ、という考え方が横たわっているように見えます。しかしこれは人々の生活と労働の「弾力性」に頼り、そこを抑圧しながら体制的問題をやり過ごして行こう、という支配層の立場と同じです。これでは支配層の独裁への傾斜を批判するにもいかにも弱々しく矛盾に満ちています。「失われた20年」を経て人々の状況はかなり厳しくなっています。経済の失敗を尻目に政治的に我慢を強いることは困難です。新自由主義的経済整合性論の誤りそのものに切り込み、経済と政治双方での民主的発展を追求する方向を向かない限り、この立場の人々の「人権と民主主義を守る」という初志を貫徹することは不可能でしょう。政治学にど素人の立場であえて言えば、リベラリストや市民主義者の政治観は、新古典派理論のアトミックな経済(市場)像に似ており、搾取・支配・従属といった階級関係を捨象した次元で、政治を水平的な利害関係一般でまず捉えているのではなかろうか。もちろんそうした問題が存在すること自体は当然だけれども、現代資本主義の政治を捉えるのにまずは階級関係から出発しなければリアルではない、と私は考えます。以上のように体制内リベラル派の限界を批判しましたが、これはあくまで私たちにとっての理論的必要性によるものです。彼らが反人権・反民主主義ポピュリズムを批判していることはもちろん重要であり、その点で共同していくことは当然です。

 そこでハシズムとの「生活実感争奪戦」において、人々の意識の変革方向A+Yをどう捉えるかが問題です。まずは人々の経済要求Aの正当性を共通の確信にすることです。ここでは民主党政権の「社会保障と税の一体改革」への対案として提出された日本共産党の経済提言(20122月)が非常に重要です。この内容を普及すること。そして日本経済がここまで悪くなった理由をはっきりさせることが必要です。人々の経済要求が実現され過ぎた、とか経済ポピュリズムによるばらまきのせいだ、というような俗論を克服しなければなりません。逆に自己責任論と経済整合性論などによって、人々の経済要求が切り縮められ、不安定雇用が政策的に拡大され、利潤追求第一主義・国際競争力至上主義があいまって、格差と貧困が急拡大し、内需縮小と大企業の内部留保滞留による経済停滞が慢性化したことが根本問題です。つまり支配層の批判する経済ポピュリズムが悪いのではなく、逆に人々の経済要求を抑圧し、大資本へ無規制なままに利潤追求第一主義を放任してきたことが問題なのです。

 次いで反人権・反民主主義の政治ポピュリズムを批判し克服することY。ここでは理論的には自己責任論とバッシングのからくりを明らかにすることが必要です。実践的には様々な要求実現運動の経験が最も確実なワクチンとなります。それは、人権と民主主義が私たちにとって生きていくうえで必要不可欠な大切なものであることを、学校で習ったタテマエとしてだけでなく、生活と労働の中に見出していくことです。日本社会で長年進んできた民主主義の形骸化の帰結としてハシズムのあだ花が咲いたわけですから、その克服には草の根からの粘り強い取り組みが必要です。もちろんその形骸化は一方的に進んできたわけではなく、実質化との対抗の中にあります。しかし支配層の反動化は新自由主義的資本蓄積の行き詰まりとともに加速しています。民主主義の形骸化を独裁化に向かわせる衝動が強く働いています。そうした中で人々の生活実感を民主主義の実質化の中でどう捉えるか。なんだか具体策や即効策がすぐに浮かばず、課題の提出だけに終わりそうですが、この後で道草的にでもアレコレ考えてみたいと思います。

 政治ポピュリズムの武器はバッシングによる分断であり、ハシズムのような地方自治ポピュリズムでは、生活保護バッシングなどによる住民同士の分断、公務員バッシングによる住民と自治体職員との分断などがあります。分断には連帯で対抗することになります。連帯には相互理解が前提とされます。トンデモ首長の自治破壊の下で、住民同士、住民と自治体職員、そこでの相互理解と連帯を追求している人々(社会保障推進協議会・生活と健康を守る会・学童保育連絡協議会・府職員労組・自治体問題研究所)寺内順子・大口耕吉郎・大井唯男・小松康則・木村雅英各氏による誌上討論「大阪の公務現場から 住民要求、市民運動と自治体」は実践と理論の両面で必読です。

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 (注)『経済』20127月号と8月号への感想にも書きましたが、公務員や生活保護受給者へのバッシングは、前者の労働条件悪化・職場の自由喪失、両者の所得低下などによって、当事者の自由権・社会権および民主主義の侵害になります。それのみならず制度的・社会的にそれらは大方の人々の労働・生活条件にリンクしているので、それらの低下にもつながります。つまりバッシングは分断支配に役立つのみならず、支配層としては福祉切り捨てなどによる支配コストの削減と批判の自由の抑制による支配の安定に寄与します。またバッシングの快感は、自己責任論的基準による「公正・公平」感覚から湧き上がってくる正義感的爽快感からもたらされます。したがって他者へのバッシングは自分自身に対する自己責任追求となり、支配層の要求する「覚悟と努力」(それは諸個人の自己実現・発達につながるものというよりは、あくまで資本間競争に奉仕するものが求められる)の受容に帰結します。こうして自己責任論とバッシングは、経済的にも政治的にも、支配層にとっては支配の自動安定装置として、人民にとっては自縄自縛機構として機能します。

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(付論1)文楽をめぐって

 412日付(何故か大阪版は14日付)「朝日」の「声」欄に赤川次郎氏が投書して橋下徹氏を批判したのが話題になりました。その投書の中で、府知事時代の橋下氏が文楽を初めて見て、こんなもの二度と見ないと言い放ち、補助金を削ったことが批判されていました。理解不足を棚に上げて自分の価値観を押し付ける橋下氏の姿勢が厳しく批判されていました。これを読んで拍手喝采した人は多いと思いますが、ひょっとすると橋下氏支持のほうが多いのではないか、という気もします。「文楽のようにわけのわからないものに補助金をやるのはおかしいと思うけど、立派な古典芸能ということになっているらしいから批判するのはやめておこうか」と思っていた人が、橋下氏の所業を見て「やっぱり自分は間違っていなかった。無駄遣いはだめだ。橋下さんは俺たちの気持ちをよくわかってくれている」などと感心したかもしれません。

橋下氏の強みはおそらく大阪の庶民感情を把握していることではないか、と思います。そしてこれは大阪に限らないことですが、知的なものや文化的なものの多くは権威主義的雰囲気をまとっており、そのために多くの人々は無関心ないしは「敬して遠ざける」という姿勢を取っています。何かの拍子にそれらの価値を貶めるような出来事があると「敬する」必要がなくなって爽快に感じるということはありうるでしょう。大阪は率直な土地柄だから、今回の文楽事件において橋下側で爽快感、という人が多いかもしれないと思ってしまいます。そうでなければいいですが。学問・文化に触れることが少ないとすればとても残念なことだけれども(という私も文楽を見たことはないし、全般的に文化的貧困状態に陥っていますが)、人々の責任だけでなく、それらの権威主義的雰囲気にも問題があるかもしれません。

「朝日」夕刊に連載されている「三谷幸喜のありふれた生活」に断続的に文楽の話が出てきました。三谷氏が新作文楽「其礼成心中」(それなりしんじゅう、目指すは爆笑文楽とか)を提供し、文楽にかかわる人々と率直な交流をもったことが実に楽しく書かれていました。劇作家とはいえ文楽には「部外者&素人」(96日付)である三谷氏の文楽への深い敬意や驚き・感心がしんしんと伝わってきました。とはいえ「敬して遠ざける」などという姿勢とは正反対で、人形遣いさんから「大夫さんにダメ出ししている演出家を初めて見た」と言われたり(同前)、前代未聞、文楽の水中シーンを実現したりとか(913日付)、けっこうやりたいことをやっています。相手方も面白がって柔軟に応えてくれています。伝統芸能とか古典を理解するとはこういうことか、と思いました。権威主義を勝手に感じるのでなく率直にぶつかっていくこと。もちろんいくら「部外者&素人」とはいえ一流の芸術家にして初めてなしえた他流試合の成功だったでしょう。でもずぶの素人だって脱・権威主義で芸術に接し、行政の文化支援の意義を本当の意味で理解することが大切であろうし、それが橋下ポピュリズムの野蛮さへの真の回答になるでしょう。学問・文化分野で活躍する人々にぜひこの連載を読んでもらって、各分野における裾野の拡大のフランクな戦略を練ってほしいと思います。三谷氏は自身の新作文楽の成功の原因を「文楽という伝統文化がそもそも持っている力」や「文楽の持っている本来の魅力」に求めています(それが単なる謙遜や社交辞令でないことは連載を読めばわかる)。続いて「僕は毎日舞台袖から、沸き上がる客席をそっと観ながら、そこに文楽の明るい未来を感じることが出来たのだ」(913日付)と書いた三谷氏はきっと赤川次郎氏の投書を念頭に置きながら、橋下氏の施策への実践的反論を突きつけたのだろう、と私は勝手に思いました。

 

(付論2)草の根民主主義の勇気

 「しんぶん赤旗」730日付に以下の投書が載りました。

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     レジ女性から感謝をされた

       和歌山・橋本市 泉敏孝(74歳)

 地元の準大手のスーパーで、レジを担当する34人の女性パートの顔写真が貼り出され、接客態度に好感を持てる人に投票してくださいと書いてありました。それを見て、不快感を抱きました。

 これは人権じゅうりんではないかとの思いが込みあげ、店長に面会を求め、その意図をただしましたが、納得のいく回答はえられませんでした。

 レジを任せられた女性パートは、低賃金のもとで必死に働いている労働者です。接客に得手、不得手の人もいるでしょう。しかし、そんなことは購買者の私たちには何の障害もありません。

 もしこの投票で一票も入らなかった人にどう対処するのかと私が詰め寄ると、あいまいな回答しか返ってきません。私はただちにやめなさいと強く求めました。

 それから10分後に、店長は撤去しました。これを知ったレジの女性たちから、喜びと感謝の声が寄せられました。大阪の橋下市長の人権じゅうりんが問題になっているときだけに、機会を逃さず対処することの大切さを実感しています。

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 同紙824日付と919日付に共感の投書が載っています。私はこの投稿者・泉氏の感覚・理論・実践力に舌を巻きました。接客態度への人気投票というのはいかにも橋下式のマネジメントであり、一般的にもビジネス手法として認められるというのが「市民社会」の感覚かもしれません。しかしそれを見るなり「不快感を抱き」「人権じゅうりん」だと思う人間的感覚がまずは大切です。確かに接客態度が良いに越したことはありません。それだけを見ると人気投票も結構となりかねません。しかし接客の不得手を理由に労働者に対する不利益な取り扱いを合理化することは許されないし、客にとってもいいことはありません。ささいなことでパワハラや締め付け(ましてや解雇)が横行する店舗の雰囲気は悪いに決まっています。そうなることを冷静に見極めることが必要です。そして何より働く人々の立場と気持ちに寄り添うことが重要です。824日付の投書では「すべてが勝ち負けという競争原理で管理される社会に、労働者としての誇りを守らせた泉さんの姿に、勇気をもらいました」という深い共感が表明されています。

 しかし感覚と理論が優れていても、なかなか実践が伴わないのが実情です。おかしいと思ったら間髪を入れず抗議しやめさせたのは本当に勇気のあることです。抗議に応える良識がまだ生きているのがわかったことも貴重な経験です。橋下亜流の跋扈するハシズム的職場が横行しないようにするには、労働者の闘いとともに消費者や住民との連帯が大切になるのでしょう。このように草の根からの人権擁護と民主主義を一つひとつ作りあげていくことが国全体の独裁防止につながっていくでしょう。

 

 (付論3)人々の願う社会像

 公務員バッシングや生活保護バッシングなどが横行する日本社会の状況を見ると、自己責任論・競争至上主義・弱肉強食的社会観などが行き渡っているように思えます。松谷満氏も独自の有権者意識調査結果から、有権者の多数がナショナリズム(愛国心教育支持等)とともに新自由主義(格差や競争に肯定的な傾向等)を支持していることを指摘し、それを橋下人気の根拠としています(「誰が橋下を支持しているのか」『世界』7月号所収)。ただしこの調査はサンプル数が772しかありません。厚労省が三菱総合研究所に委託して本年の228日から31日まで実施した「国民意識調査」(回答数 3,144件)には別様の状況が報告されています。

 生活困窮の原因としては、<「その人が不運だったから」12.0、「その人たちがなまけ者で意志が弱いから」15.2、「社会が不公平だから」40.6、「社会が進歩していく過程では、そうした人が出るのは避けられない」32.3 という結果になっています。意外に自己責任論が少なく、社会的不公平に原因を求める人が4割になっています。ただし弱肉強食的観点も3割以上になっており、これは社会的原因論でありながらも自己責任論の影響が感じられる回答です(この微妙さを一つの矛盾の現れとして捉えることが必要です)。

 「弱者保護と自由競争」の項目ではアの考え方:弱い立場の人々を保護することが、もっと必要だと思う」イの考え方:自由に競争できる社会にすることが、もっと必要だと思う」を示して聞いています。<「アに近い」7.0%、「どちらかといえば、アに近い」37.6、「わからない」31.5、「どちらかといえば、イに近い」19.6、「イに近い」4.3 となっています。明らかに自由競争よりも弱者保護を優先する人の割合が多くなっています。

 この調査結果から次のことが言えます。多くの人々は「貧困や格差の原因が自己責任ではなく社会にあるという意識を持って」おり「弱者保護がもっと必要という多数の声にこたえるには、社会保障に関して国の責任がいっそう重要になっていることを示しています」(「しんぶん赤旗」9月18日付、19日付)。

 支配層やハシズムと民主勢力との「生活実感争奪戦」という観点からすれば、この結果は民主勢力の勝利となっているはずです。しかしそれにしては生活保護バッシングの影響力が大きいことなどを考えると、実際には調査結果よりも自己責任論の呪縛は非常に強く感じられて、腑に落ちないところがあります。そうすると上記の松谷氏の調査と主張も捨て難いものがあり、矛盾しています。どう考えるか。

 社会を実際に動かす意識については、「質×量」あるいは「強度×存在量」でその効力を測ると仮定してみましょう。国民意識調査はおそらく秘密が守られ正直に回答できるものでしょう。したがってその結果は生活実感をそれなりに正確に反映し、本音が表現されていると考えられます。対照的に、企業やマスコミなどでは日常不断に自己責任論が宣伝・教育されますし、元来それは商品生産経済に適合的なイデオロギーであって、人々はそれにしたがって行動しているわけだから、情理ともにそれが深く内面化されています。その上さらに、社会生活において自己責任論を批判したり、弱者保護を主張したりすることは「甘い。泣き言を言うな。覚悟と努力だ」と指弾されかねません。橋下氏を初め支配層が教育への競争の導入を強行に主張しているのは、企業やマスコミだけでなく、教育をも自己責任論などのブルジョア・イデオロギーを注入する場へと完全に変質させ、資本主義的「活性化」をいっそう図り、さらには分断支配などを強化する狙いもあるのでしょう。

 人々は社会生活・経済活動において自己責任論と競争意識などのブルジョア・イデオロギーに基づいて競争戦に巻き込まれざるを得ず、結果として多大の困難を抱えることになります。教育・注入された自己責任論や競争意識が理論的には正しいと思いつつ、実際の生活と労働においては、それではやりきれない現実に直面します。ここに自己責任論への批判や弱者保護の必要性という感情が本音として生じます。国民意識調査には、この自信なき願望がサイレント・マジョリティとして反映されているのではないでしょうか。しかし実際に社会の表面で理屈として通用しているのは自己責任論であり、競争至上主義です。これらはいわばノイジー・マイノリティですが、人々への現実的支配力を持っています。

 <社会意識の効力=強度×存在量>という仮説的公式に当てはめて考えると、自己責任論批判=社会的責任論や弱者保護論は多くの人々に本音として共有されており、存在量自体は多いのですが、確信になっておらず強度が弱く、隠れているため組織化されていないことも強度を落としており、社会意識としての効力が十分には発揮されていません。自己責任論・競争至上主義は本音の次元での存在量は少ないのですが、上記のような理由で強度は強く、企業やマスコミを通じた組織力によっても補強されおり、その社会意識としての効力は強大です。

 だとするならば生活意識の正直な部分ではすでに私たちは多数派なのです。にもかかわらずまだその進歩的な社会意識は多くの場合、個々の感情の次元にとどまっており、理論的確信となり組織化されていません。生活と労働が困難になっている現場は、人々に対して、自己責任論や競争至上主義の誤りを不断に教えており、意識の変革を促しています。しかしそれは多くの場合、いまだ感情の次元にとどまっており、これまた不断に注入されるブルジョア・イデオロギーを理論的に克服するには至りません。資本と政府の行動と政策がもたらす厳しい現実を具体的に訴えて、多くの人々の実感をさらに呼び起こし獲得するとともに、憲法の幸福追求権や生存権、もっと進んでは剰余価値論(搾取論)を普及することで、社会変革に向けての理論的確信を強めることが必要です。こうして社会進歩の意識の効力<=強度×存在量>を高めるべきでしょう。

 マスコミで「熟議の民主主義」が喧伝されるのは、ポピュリズム批判の文脈においてでしょう。一般論としてはそれは大切なことです。しかしマスコミを従える支配層の主な狙いは熟議によって「経済ポピュリズム」を駆逐することでしょう。……国民意識調査に現れた自己責任論批判や弱者保護論といったムード的意識を熟議によって批判し、逆に自己責任論や競争至上主義・経済整合性論のような「責任ある」理論を徹底すること。バッシングのような感情動員による政治ポピュリズムもできれば避けたい。熟議によって「理性的に」支配層の政策を「理解」してもらえるのならば穏当だ…… こういうムシのいいことを支配層の主流派は熟議に対して望んでいそうです。橋下徹氏らはそういうまだるっこしいことより独裁的方向を示していますが。いずれにせよ私たちの構えは、「熟議によって返り討ち」でなければなりません(原発維持策を熟議によって実現しようとした支配層に対して、まさに熟議の積み重ねによってノーを突きつけた世論の勝利を見よ)。ただし残念なことに、私たちはマスコミなどでは熟議の土俵に招待されていないので、自前の土俵を設定しなければならない、というのが最大の問題ではありますが。

 熟議は基本的に公開制でしょうが、選挙は秘密投票です。だから理論的に自信がなくても感情的に納得しているから、という投票行動も可能です。これは一方では、感情動員に巧みなポピュリズムの跳梁を許し、ファシズムの危険性をはらんでいます。しかし逆の可能性もあります。理論的にはブルジョア・イデオロギーの影響下にありながらも、日々の現実的体験から支配層の政策に反発している人が多くいるでしょう。彼らは企業の上司やマスコミの記者から詰問される心配なく思いのままに革新政党に投票することが可能です。国民意識調査に現れた「自信なきサイレント・マジョリティ」の意識がそのまま投票行動に直結するなら政治革新に結びつきます。

 2009年の政権交代劇はもちろん政治革新とは言えないけれども、小泉構造改革に傷ついたサイレント・マジョリティが決起した大転換でした。その前触れとして「年越し派遣村」などに代表される反貧困運動がありました。これは隠されていた貧困問題を顕在化させるのみならず、初めて政治のメインステージに押し上げ、理論化と組織化でも前進させました。<社会意識の効力=強度×存在量>における強度・存在量をともに飛躍的に高めて社会変革の意識を高揚させたのです。

その後の民主党政権の構造改革への先祖返りによる裏切りは周知のとおりですが、社会意識の高揚による政権交代の経験そのものは貴重です。現実政治の裏切り的反動化は社会意識にも一方では不確信やあきらめといった負の影響を与えていますが、他方では原発再稼働反対運動に見られるような新たな挑戦を誘発しています。こうした錯綜と新たな可能性の中で改めて考えたいのは、私たちが「自信なきサイレント・マジョリティ」をきちんと把握して、ともに確信をもって進んで行けるようにすることです。小泉・橋下といった人たちに人気があるのは、いろいろな要素があるでしょうが、根底の部分では、自己責任論・競争至上主義などの新自由主義構造改革型イデオロギーが社会の多数派に理論的に深く浸透しているからです。ここに一時的進歩に対する反動的揺り戻しの基盤があります。しかしそれに大きく重なった多数派の部分が、困難な現実に際してそのイデオロギーに嫌悪感を抱いているのも事実です。この矛盾を私たちの方向で克服すること、そのための理論と運動を推進することが重要な課題です。一般論として言えば、公開の熟議や諸運動の様相(表)と秘密投票である選挙の結果(裏)との間にはズレが生ずる可能性はあります。それを意識した「戦術」もありかもしれませんが、表裏一体で勝ち抜く構えがないと「裏」だけ勝つことは難しいでしょう。

 

おわりに

 ポピュリズム観の反省から初めてアレコレ考えてみました。激発するナショナリズムの問題は捨象しています。それだけでなく足りないことはいくらでもあるでしょうが、最も重要なことは、人々のくらし・仕事や諸運動などから学ぶことはたいへん弱く、依然として啓蒙主義の枠内にとどまっているのではないか、という点です。理論的基礎が薄弱なことによる論理の単純さ・粗雑さも免れないところです。「啓蒙」などと偉そうなことも言えません。ただ思いつきを公表したく、ひょっとすると何かの役に立つかもしれない、と淡い期待を抱いてはいますが…。

 厚労省委託の「国民意識調査」は興味深いもので、よく読んで、日本社会や人々の意識のあり方をさらに考えてみたいと思わせます。「日本社会のあり方」と「ルールなき資本主義」とは相互規定の関係にあります(普通には、後者が土台で規定力がより強いと考えられるかもしれませんが、そう簡単にはいかないかもしれない)。自己責任論や経済整合性論などのイデオロギーも(当然逆のイデオロギーも)その規定関係に影響があるでしょうし、日本人の忍耐力も重要な要因でしょう。その忍耐力がどう形成されてきたのかも問題です。本質論は別としてもその表現形式として、「人民の悪政弾力性」というのはどうか、と思います。近代経済学の概念に弾力性があります。たとえば需要の価格弾力性というのは、価格が1%変化したときに、需要が何%変化するかを表します。商品によって、それへの需要が価格の変化に敏感に反応するものとそうでないものとがあるので、それぞれの度合いを測るわけです。「人民の悪政弾力性」は政治が悪くなったのに対して、人々の反対行動がどれほど活発になったか、という度合いを表します。「日本人の悪政弾力性」は概して低かったと思われますが、最近のデモ・集会を見るとそれが高くなっているようです。そうすると逆に「悪政の人民弾力性」もあるでしょう。人民の反対行動の活発化に対して悪政がどれほどへこむかという度合いです。原発再稼働やオスプレイ配備などに見るように、日本政府における「悪政の人民弾力性」は極めて低い。このように「悪政の人民弾力性」が低い状態を昨今では「決定できる民主主義」とか「決められる政治」などと美称していますが、これがゼロになることを私たちは正しく独裁と呼びます。
                                 2012年9月27日



2012年11月号

          生活保護バッシングと幸福追求権

 唐鎌直義氏の論稿にはいつも義憤が感じられます。それは人々の生存権を踏みにじる悪政に向けられているのはもちろんのこと、それにきちんと対峙しえない研究者の姿勢にも向けられているように思います。研究者の多くは学問的良心に基づき公正さに配慮しているでしょうが、研究対象(この場合、「労働」とか「貧困」のあり方)にしっかりと内在しえないとき、表面的な公正さの確保の陰に隠れて、対象の実像を捉えきれず、結果として悪政(悪政と思っていない研究者とか、「イデオロギー的偏向」を嫌う研究者もいるだろうけれども)への批判が緩むことがありえます。唐鎌氏が「貧困問題にとって喫緊の課題は『貧困のかたち』などではなく、被保護世帯の背後に隠されている『貧困の大量性』」なのである」(「日本の貧困と生活保護バッシング」34ページ)と喝破されるとき、そのような含意を感じ取れます。実質的生活保護基準以下の所得で生活している貧困層をこの論文で見ると、世帯貧困率は25.1%で、貧困世帯数は12049300世帯となります(2009年)。生活保護受給世帯の比率は3.01%、世帯数は1486341世帯です(20107月)。捕捉率はわずか10.56%(2009年)です(同前34ページ)。

江口英一・川上昌子氏は住民租税台帳(東京都A区、1972年)の所得データ(個票)をもとに世帯ごとに生活保護基準を当てはめ、それ以下の世帯の出現率を算出して26.2%という結果を得ています(同前)。2009年の厚労省による、OECDの「相対的貧困基準」に基づく貧困率測定では15.7%です(同前)。他の多くの研究者によればいずれももっと相当に低い貧困率となっています(41ページ)。江口・川上の測定は特定地域のものですが、方法としては最高の精度であり、『国民生活基礎調査』を用いた今回の唐鎌氏の全国的な結果とも符合しています。厚労省も『国民生活基礎調査』を用いていますが、他の研究はすべて『全国消費実態調査』のデータによります(同前)。後者の調査は家計簿の記帳が義務付けられる関係上、どうしても低所得層の状況が反映されにくいと言われます。こうした点などに、貧困の実相を追求する姿勢が実質的に(おそらく無意識的に)後退していくことが看取されます。

また日本の生活保護法の「手厚さ」を高く評価する研究者に対して、「生活保護制度の外側に位置すべき各種社会保障制度がどれも『ナショナルミニマム』機能を持たないから、相対的に『手厚く』見えるに過ぎない」(40ページ)と唐鎌氏は批判します。これも研究の表面的部分的公正さが問題の全体像の中ではかえって本質的偏向に陥ることを衝いています。広大で複雑な現実の中で何が見えてくるかは問題意識に規定されます。この点で貧困の研究においては(他の分野もおそらく同様でしょうが)生の現実に触れることの意義が大きいでしょう。統計を駆使した現状分析の公正さと鋭さがそこで研かれるように思われます。唐鎌氏が「補論」を執筆している・都留民子氏編『「大量失業社会」の労働と家族生活 筑豊・大牟田150人のオーラル・ヒストリー』は「今日の貧困の社会的性格を明らかにするために、旧産炭地域の住民、150人のオーラルヒストリーを分析したユニークな労作で」す(戸木田嘉久氏による書評126ページ)。同書では150人を8類型に区分し、その「労働」と「生活」のアイデンティティを分析し、その分析ツールとして、法的・社会的に保護された正規安定雇用、安定した自営業=「社会化」と、非正規・不安的雇用、零細自営業=「個人化」の二概念が重視されます。8類型150人の「社会化」と「個人化」をめぐる複雑な流動形態を追究し、そこから類型ごとの「労働」と「家族」のアイデンティティが定式化されています(127ページ)。今日、人々は生活と労働の苦境を「個人化」(自助・私的な相互依存)でやり過ごそうとしてかなわず、「社会化」(集団的抵抗と制度的な生活保障)の方向に向かわざるを得ない客観的状況に置かれています。これに対してバッシングなど様々な手練手管で押し戻そうとする支配層と、それを克服して進もうとする人民の運動とが鋭く対決しています。「自己責任論」を中心とする「悪政への忍耐」という目に見えぬ壁がどのような状況下で築かれ、またそれがどのように突破されようとしているのか。現代日本におけるこの壁はかつてのベルリンの壁のように撤去されるのか、いまだ万里の長城として立ちはだかるのか。戸木田氏が注目する本書の分析手法はこの最前線の有様を精確に読み解くのに資すると思われます。「今日の貧困の社会的性格をリアルに反映」(127ページ)した本書の成果は、150人の現実に内在するオーラルヒストリーというヴィヴィッドな手法で得られたものでしょう。それが特殊な事情ではなく日本社会全体に妥当することを論じたのが、厚労省『国民生活基礎調査』を分析した唐鎌氏の補論「日本における稼働世帯の貧困と社会保障」だということです(同前)。本書には個別的現実への具体的内在による問題意識の練磨・分析手法の創造と、統計分析を駆使したその普遍性の確認という複眼的成果があります。書評だけから勝手に読み込んでおりますが、バッシングを軸に展開する「支配層にとっての好循環」を切り崩す上で、人々の状況と意識とを理解することが重要であり、本書をそうした問題意識の中で捉えてみました。

 唐鎌氏の「日本の貧困と生活保護バッシング」に戻ります。論文のテーマは「なぜ日本では生活保護受給者が攻撃されるのか、その客観的な根拠を解明」(33ページ)することです。結論として次の二つの根拠が示されます。(1)要保護層である貧困層のごく一部しか現実に生活保護を受給していないので、それがある種の特権(橋下徹氏などの攻撃してやまない「既得権益」)と見られること、(2)社会保障制度全体が不備で、最低生活保障機能が生活保護制度に集中しているため、生活保護受給者の生活水準が周囲の非受給者貧困層のそれを上回るという「逆転現象」が容易に発生すること。さらには「稼働世帯の貧困の放置が、生活保護受給者に対する強いバッシングをもたらす原因と考えられる」(39ページ)ということも指摘されます。これらは西欧福祉国家とは違った日本の特殊性です。したがって解決の処方箋は以下のように示されます。

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 日本の社会保障制度もイギリスのように、生活保護制度の外側に幅広く低所得世帯援助制度を設け、被保護者以外の要保護者の生活を支える仕組みを作ることが喫緊の課題である。その上に生活保護の捕捉率を高めていくならば、被保護者バッシングは起こりにくくなるであろう。                   41ページ

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 このように生活保護(に限らず)バッシング(というイデオロギー)の客観的根拠を明確化して、制度改革によって基盤ごとバッシングを克服しようというのは、啓蒙主義によらないまさに唯物論的姿勢だと思います。

 バッシングを駆使して支配を維持しようとしている側の政策は、賃金抑制・雇用の不安定化・社会保障切捨て・庶民増税などであり、まさに人民の生活と労働を圧殺するものです。眼前のこの現実から出発しなければなりません。対して日本国憲法第13はどう言っているか。

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 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

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 現実とこの理念・法との対立は、<「個人とその自由・幸福追求権との尊重」は、社会の秩序形成や発展と両立・調和するのか>という問題を提起しています。前近代の支配的思想や近代以降でもいろいろな全体主義の思想はそれを否定します。「飴なしのムチ」政策に帰結した今日の新自由主義はまさにそこに合流したと言うべきであり、ハシズムの一見した右翼的異常性はむしろ新自由主義の本質の肥大した顕在化でありその「正統」に属するものです。こうした中で、「個人とその自由・幸福追求権との尊重」をブルジョア的自己責任論の文脈に追いやって批判するのでなく、生存権の保障とともに人民の側に獲得して新自由主義批判の武器とすべきでしょう。

もっとも偉大な経済学者であるアダム・スミスとカール・マルクスは、個人と社会との調和を肯定しています。スミスは個人の利己心の追求が「神の見えざる手」の働きで社会全体の発展につながると考えました。重商主義国家が自由な市場に介入することを批判したのです。スミスの没後、全般的過剰生産恐慌が周期的に資本主義経済を襲い、その調和的思想は敗れました。しかし資本主義の搾取制度としての本質(それが恐慌の根拠なのだが)を認めないブルジョア経済学は、「神の見えざる手」としての市場メカニズムの解明の精緻さを競うばかりであり、その新古典派理論のエレガントな体系は今日の新自由主義の基礎となっています。自由と幸福の主体はもはや個人ではなく、搾取者としての資本となっており、「神の見えざる手」の働きで「個人とその自由・幸福追求権」はかえって抑圧されています。スミスを自由放任の旗手として新自由主義の元祖のように称える向きがありますが、むしろ彼の本意からすれば、個人の幸福追求を抑圧する新自由主義国家こそが批判されるべきではないかと思います。

スミスの調和観を掬(救)い出して引き継いだのはマルクスだと私は思います。共産主義の本質を「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」(マルクス、エンゲルス『共産党宣言 共産主義の原理』国民文庫、56ページ)と規定したことにそれは現れています。共産主義や計画経済の通俗的イメージがきわめて全体主義的であること(そう思われるには相応の理由があるとはいえ正しくない)、そして上記のように新自由主義の本質は個人を抑圧する経済であることを考え合わせると、共産主義と新自由主義の真の姿はきわめて逆説的に映るでしょう。しかしそれは決して偶然ではなく、社会発展の大道に沿って個人と社会の調和を図る方向性を持っているか、逆に搾取経済の本質を肥大化させて人間を抑圧する方向性を強めるか、という必然的対立が現れているのであり、またそれを逆に描こうとする支配的イデオロギーがあるということです。「個人の幸福追求と社会全体の発展との調和を信じ、それを出発点に、それを可能にする社会のあり方を問う」という姿勢に立てるかどうかが問題です。もちろん共産主義はいまだ実現されていません。しかし資本主義経済への民主的規制の段階から、また小さな改良の問題から、この理念を念頭に置いて進むことは大切だと思われます。それは、「人間とは社会とは社会進歩とは何か」という根源的発想において、搾取階級へのオルタナティヴを提供し続けるからです。

社会進歩の大道に立って人々の苦難を取り除こうとする、そのような自然な解決を阻止しようとするところに、現代資本主義としての新自由主義の反動化があり、過酷な社会の中で諸個人の不幸が推進されているのです。たとえば労働の規制緩和で、労働者にとっての「自由な働き方」が喧伝されましたが、実際のところ実現したのは資本の側にとっての「自由な働かせ方」でした。いわゆる「労働の自由」=雇用契約の自由は、解雇の自由を含み、その内実は「資本の自由」に他なりません。人間の自由が資本の自由に転変しているところでは、各人と万人にとっては「自由な不幸」が生じます。資本主義を純化した新自由主義は「各人の自由な不幸が万人の自由な不幸の条件となるような一つの競争社会」とでもいうべきものです。

そのような新自由主義社会において「飴なしのムチ」という幸福追求権否定の政策がとられるのは、各国支配層の特別の悪意によるわけではなく、新自由主義グローバリゼーションが原因となっています。国民経済や国家の側から見上げれば、グローバリゼーション下ではそのような政策が不可避だということになっており、それによる生き残り競争に懸ける(賭ける)ほかないわけです。もちろん人民の側から見ればそのようなグローバリゼーションのあり方そのものを変えるべきですが、国民経済を運営する国家は多国籍企業の利害を背負っているので、そのような発想にはならず、対外的にはソーシャルダンピング競争を推進し、それは同時に対内的には圧政を強化することになります。これに対しては先月に続き再度、増田正人氏の「グローバル経済の現状をどう考えるのか」(『経済』10月号所収)から引用し参照したいと思います。

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今の私たちに必要なことは、国内経済と国際経済のあり方を統一的にとらえた上で、WTO体制を見直し、国際経済政策と国内経済政策を統合した政策を一刻も早く実施していくことである。グローバル経済では、個別的な生き残り政策を追求しても、それは一時的な効果を生むだけであり、結局、対抗的な動きを誘発することで世界全体の水準を引き下げ、ますます状況を悪化させるにすぎない。グローバル経済の構造を不問にして、生き残り政策を追求しても生き残れない経済になっているのであり、そのあり方を抜本的に改めることこそが求められているのである。           79ページ

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 この生き残り政策によって、「各人の自由な不幸が万人の自由な不幸の条件となるような一つの競争社会」が現出している上で、多国籍企業が利潤を増強しています。このように下位を競争させて上位が利益を得るという階層構造が、グローバル経済から国民経済まで貫徹しています。そのような階層構造で展開される新自由主義的資本蓄積下で、もはや人民に希望を語ることができなくなった支配層は、その競争を正当化し幸福追求権を否定するイデオロギーとして経済整合性論(大所高所論)と自己責任論を推奨しています。賃上げや社会保障の要求を抑え、庶民増税を合理化し、国際競争力強化への努力を促し(そこには労働条件の抑制を含む)、貧困・生活苦を各人のせいにし、社会に頼らないように、というメッセージがマスコミには満ち満ちています。

 その最先端にあるのが生活保護バッシングです。以前より説明していますが、バッシングは自己責任論的「公正・公平」観を前提にしています。公務員とか生活保護受給者とかが「不当な既得権益」を得ているとして叩くことが、そうした観点・基準に照らして正義感を満たし、爽快感をもたらします。それは同時に自分に対して自己責任をいっそう追求することになり、客観的には支配層の要請する「覚悟・努力・忍耐」を受容することになります。もちろん周知のように、公務員賃金や生活保護基準などは人々の様々な生活条件の基準にリンクしており、それらを下げることは世の中全体の生活条件を下げることにつながり、支配層のコスト削減とともに内需不振による国民経済の縮小にも関係しています。

 バッシングはこのように、分断支配だけでなく、様々な意味で支配の自動安定装置(人民自身が支配を受容し支配力強化に貢献し、支配のコストも下げる)ともなっており、同時に国民経済の矛盾を拡大しています。これを突破するには、まず生存権に裏打ちされた幸福追求権を正面から掲げ、人々と要求運動を励ますべきです。次いでその正当性を明らかにするため、自己責任論とバッシングの誤りを衝き、支配層の経済整合性論(大所高所論)に対して人民的な経済整合性論(大所高所論)を対置することが必要です(日本共産党の「経済提言」などがそれに当たります)。上記のように、生活保護バッシングに対しては、唐鎌氏が制度改革を含めた克服方向を打ち出しています。さらに自己責任論やバッシングを根底から批判するには、搾取論を普及することができないか、と思います。啓蒙主義的発想かもしれませんが、「市民的常識」の枠内では政治的民主主義には十分に対応できても、経済問題では限界があると感じるからです。支配層の経済整合性論(大所高所論)は幸福追求権を否定する「啓蒙」内容を持って人々に苦々しく押し付けられるのに対して、幸福追求権に立脚した人民的な経済整合性論(大所高所論)は、ひとたび人々によってつかまえられるなら、自発的に保持され運動の中で発展させられるでしょう。この対立は諸個人の幸福だけでなく、国民経済の立て直しにおいても明白です。人民的道によってこそ、諸個人の幸福追求が内需拡大を通じて社会全体の発展につながります。スミスやマルクスなどを引き継ぎ、社会進歩の大道に立って考え進むことが大切だと思います。

村山士郎氏は「いじめ現象は他者攻撃の一形態」(「いじめに潜む病理 人間力回復の社会改革を」44ページ)と言っています。これは「子ども論的視点から」「いじめ現象だけでなく、子どもたちに表れている他者攻撃や自己攻撃の現象とを一元的に捉える視点が求められている」(同前)という観点によるものですが、あえて社会一般に広げれば、バッシングもまた「充満する攻撃性」(同前)の一形態と言えます。村山氏もいじめの背景に「市場原理主義による競争システム」や「終わりなき競争の中で、子どもたちの受けるストレス」さらには「リストラや労働条件の悪化などにより困難を抱えた家庭」の増加(45ページ)を指摘しています。競争至上主義そして長期不況による経済状況の悪化と閉塞感の充満などが他者攻撃の諸形態としてのバッシングといじめを生んでいる、少なくともそれらを増長していると言って間違いないでしょう。

『前衛』11月号の特集「いじめ事件にどう向き合うのか」には、藤森毅「子どもの命を守れる学校と社会を いじめ問題の深刻化と私たちの課題」、福井雅英「教師がいじめに向き合うために求められていること」、中西新太郎「いま子どもの世界に何がおこっているのか いじめ事件の『土壌』について考える」といういずれも重要な三つの論文が掲載されています。バッシングといじめを単純に同一視するわけにはいきませんが、このような労作から色々なことを学ぶことも大切です。ここでは福井論文の引用から一点だけ考えてみたいと思います。

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 学校の基本的な価値観、哲学とは、一人ひとりの子どもを大事にして、どんな困難を抱えていても、その子の育ちを支えるというものです。それが今の社会全体に支配的な哲学・風潮と相容れず、鋭い対決点になっているのではないかと思います。「弱いやつは叩いてあたりまえ」みたいな風潮が支配的になっているなかで、どんなに勉強ができなくても、どんなに意思表示が弱くても、一人ひとりの子どもはかけがえのない命を生きているという立場で子どもに心を寄せるという感覚を、社会全部のものにしていくために、学校の側から、教育の側から発信することをもっと強めなくてはなりません。  128ページ

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 橋下・維新の会を先頭に支配層がやっていることはまさにこれと正反対に、学校の中に新自由主義の競争至上主義を押し付けようとするものです。熊沢誠氏は、社会全体とは相対的に独立した組織労働者の競争抑制的な価値観を社会に向かって広げていくことを主張しています。同様に、どんな子どもも大事にする学校の価値観を新自由主義から守るのみならず、逆にどのような個人も尊重される価値観を社会全体に及ぼしていくことが必要なのではないでしょうか。政治が教育を支配しようとしていますが、むしろ政治は教育から学ぶべきなのです。 

 

    (付)研究姿勢について

 104日、会計検査院が「消費税の簡易課税制度について」に関する報告書を国会と内閣に提出しました。簡易課税制度では、計5種の事業ごとに概算的に定められた「みなし仕入率」を使って納税額を計算します。ここでみなし仕入率が実際の課税仕入率を上回って乖離している場合は益税が発生しうることになります。会計検査院はこの乖離の状況を調査し、財務省に、簡易課税制度のあり方について不断の検討を行なうように求めました。これを受けてマスコミは「8割の事業者に『益税』」と報道し、自営業者バッシングの姿勢です。醍醐聡氏はこうした報道を以下のように批判しています(「全国商工新聞」1029日付)。

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 確かに全体の平均では、みなし仕入率が課税仕入率を上回っているのは8割ですが、事業区分ごとにそれを見る必要があります。<第1種(69.0%)、第2種(60.3%)、第3種(62.8%)、第4種(62.1%)、第5種(88.3%)> となっており、第5種を除く4種では、3割から4割近くの事業者において、逆に課税仕入率がみなし仕入率を上回っています。

 ここで給与所得控除を見ると、大半の納税者にとって勤務に要する経費を相当程度超えているとみなされています。この意味は次のように考えられます。「大半の納税者において控除し切れない経費が生じることがないようにという納税者保護の配慮を優先して、高めの控除率ないしは控除額を設定していることは否めません」。

 「これとの対比でいうと、全体で8割近い事業者の課税仕入率がみなし仕入率を超えていることよりも、現在のみなし仕入率では、第5種以外の事業区分では、3割以上の個人事業者が仕入に係る消費税を控除し切れない『損税』の状態にあることこそ強調されるべきです」。

 さらには、消費税がなかなか転嫁できない状況下で、「中小零細事業者の事務負担を軽減するために採用された画一的な仕入率から不可避的に生じる実仕入率との乖離を『益税』と声高に問題視するのは事の由来、軽重をわきまえない議論です」。

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 簡易課税制度を利用する事業者の8割で、みなし仕入率が実際の課税仕入率を上回って「益税」の可能性があるという調査結果そのものは事実です。これを自営業者バッシングに結びつけることを批判した醍醐氏の議論に学ぶことが大切だと思います。一つは調査内容を詳しく分析して事実を多角的に見られるようにすることです。もう一つは働く人々の立場に立って実情をよく見て、諸制度の意味合いを十分に引き出し、人々の利益に資する議論を展開する姿勢です。バッシングはだいたい単純化と短絡で人々をひっかけるのですが、反論する側も逆の単純化や短絡に陥らないように気をつけ、諸現象を広く深く捉えねばなりません。また表面的な公正さにとらわれると現状追認的になる場合が多いことにも注意すべきです。人々の生活と労働のあり方、そして諸制度の内容(それは多くの場合、階級闘争の均衡点を体現している)をよく捉える中から、客観性や公正さと人々の利益擁護との統一を実現していくことが変革的な社会科学の方向性だと思います。

 

 

          地域ブランドの「付加価値」の実体

 除本理史氏は原発事故被害の補償について様々な場で見解を公表し、この喫緊の課題についての第一人者の観もありますが、『経済』ではその経済理論的基礎に論及しています(「原発事故被害の政治経済学 『ふるさと喪失』の補償・回復にむけて」)。遺憾ながらその大切な被害補償の問題についてはここでは措いて、価値論に関して若干考えてみたいと思います。

 除本論文では、ラスキンや池上惇氏の「固有価値」概念が紹介されています。残念ながらそれらを読んだことはないので、当論文の説明の範囲内で理解するとして、それを「従来の経済学」(107ページ)の立場から検討します。論文では、地域にストックされた「生産と生活のノウハウ」が「固有価値」とよばれ、これが「地域ブランド」戦略が追求する付加価値の実体であろう、とされます(106ページ)。「固有価値」のストック自体は市場で売買できないので貨幣的評価になじみませんが、財・サービスに「体化」されて市場で売買されれば貨幣的価値としても現象します(107ページ)。その際に、「固有価値」のストックそのものは知的資産であるので、何度利用しても劣化・目減りしません。つまりフローに「価値移転」されても「固有価値」のストック自体は消耗しないとされます(109ページ)。ここで「価値移転」と鉤カッコつきで言われるのは、それが本来の価値移転とは違うことを意味しているのでしょう。価値移転とは生産手段の価値が生産過程の中で、具体的有用労働の働きによって生産物に移転することを指し、その際に生産手段の価値そのものは消失(労働対象・流動資本)ないし消耗・減価(労働手段・固定資本)します。移転元が減価せず、移転先へ何度でも価値移転するという打ち出の小づちのような関係はありえません。「地域ブランド」の「付加価値」はこのようにあいまいな「価値移転」によってではなく、市場のあり方によって説明すべきだと私は考えます。

 商品の市場価格は価値の現象形態であり、価値の実体は投下労働です。通説的にはこの投下労働は社会的平均労働とされますが、市場のあり方を考えるならば、個別具体的なものにまでさかのぼって投下労働を規定する必要があります。通説的な社会的平均労働は、「ある効用を充足するのに最低の機能をそなえた財をもっとも安価に供給する、といった単一の目的に適合する消費者と供給者が生きのこる世界」(107ページ)としての「生存競争」型の市場を前提とします。この市場では「漆塗りの器もプラスチックの器も同じであり、価格はひとつに収斂する傾向をもつ。漆塗りの器を生産する職人の手仕事は、市場においては複雑労働ではなくむしろ生産性の低い労働として評価され、競争力をもたない」(108ページ)ことになります。市場は一物一価原理の世界であり、「生存競争」型の市場では「漆塗りの器もプラスチックの器も」一物とされ一価に収斂します。これに対して「地域固有の資源をもとに、多様なものが供給、購入され、それらが共存しつつ、たがいに補足しあう」(107ページ)ような「共存的競争」型の市場では、漆塗りの器とプラスチックの器とは別物であり、一価に収斂しません。ここでは漆塗りの「付加価値」が実現します。両市場の違いは使用価値の区別のあり方です。

 歴史貫通的な経済発展観をそのまま適用した牧歌的な資本主義発展観によれば、資本主義経済の発展は一定の豊かな生活を生み出し、その購買力に対応するような成熟した市場が成立するはずです。除本氏の表現では「生存競争」型市場から「共存的競争」型市場への発展です。確かに資本主義の生産力発展はそうした可能性を提供しますが、生産関係の視点からすればその可能性が現実性に転化するか否かは搾取のあり方によります。理論的説明は措くとして、ともかく眼前にあるのは強搾取下における絶対的貧困化の進行であり、育ってくるはずの「共存的競争」型市場はまだ小さくなっており、「生存競争」型市場が跋扈しています。恐竜時代に夜行性の哺乳類がこそこそと生きていたのが想起されます。恐竜としてのグローバル資本主義=「生存競争」型市場の滅亡は簡単には望めないので、未来の主役たる哺乳類としてのルールある経済社会=「共存的競争」型市場はゲリラ的に生き残っていくしかない状況でしょうか。その打開には政治変革がカギですが、「固有価値」を生かすような地域経済の実践の積み重ねが政治変革を促すという関係もまたあるように思います。

 閑話休題。地域ブランドの「付加価値」の実体は、ストックとしての「固有価値」がフローとしての生産物に「価値移転」されたものではなく、その生産物の投下労働です。もともとあった投下労働が「生存競争」型市場では減価されたのに対して、「共存的競争」型市場では減価されないのです。ここで「固有価値」はすぐれた使用価値を生み出すノウハウとして機能しており、それ自身が価値物ではありません。「固有価値」が何度利用されても目減りせずに、その生産物に「付加価値」がつくというのは、ストックからフローに「価値移転」するからではなく、「固有価値」を利用して生産されたすぐれた使用価値が他の凡庸な使用価値と区別される市場環境の下で、それに投下された労働がもれなく評価されるからです。繰り返せば、ここでいう投下労働は社会的平均労働ではなく、個別具体的な労働です。それが価値としてどのように実現するかは市場のあり方によります。

 あえて以上のように言うのは、価値論の整合性を追求しているだけではありません。「生存競争」型市場とそこに成立する社会的平均労働とを相対化し、それらが市場と投下労働の唯一の基準ではなく、様々な市場と投下労働がありうることを示したいからです。除本氏が例示している職人的労働の価値実現だけでなく、障害者など社会的排除に直面した人々の労働の価値実現を考える理論的基盤を提供したいのです。新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴとして、内需循環型地域経済とともに協同組合などの社会的共同の可能性を問う価値論が必要です(協同組合の具体的展開については『世界』11月号の特集「協同が社会を変える」参照。特に田中夏子「社会的排除と闘う協同 イタリアの社会的協同組合の取り組みを題材に」など)。これまで減価されてきた投下労働(たとえば職人的労働)の価値を回復するとともに、価値実現が不可能と考えられてきたがゆえに投下されなかった潜在的労働(たとえば障害者の労働)を現実に投下しうるようにする、そのような市場を作り上げていくことで全社会的な労働参加の拡大を促していくことができます。失業の恐怖などをインセンティヴとして効率的な労働を引き出す少数精鋭主義の新自由主義的経済社会観よりも、誰もが落ちこぼれることなく参加しうる経済社会観のほうが真の意味で国民経済的な効率を実現しうると考えます。

 なお原発事故被害の補償に関する除本氏の提案は110ページの表「固有価値の補償、原状回復措置」にまとめられています。その表における「固有価値のフロー」の項目は必ずしも上記の「固有価値」論に基づかなくてもよいものです。「固有価値」そのものが価値を持たなくても、その利用を媒介として価値(いわゆる「付加価値」を含む)が生み出される以上、その喪失に対して補償を要求することは可能だと思われます。それに対して「固有価値のストック」の項目にある「金銭的補償:固有価値の原状回復が不完全な場合の慰謝料」においては「固有価値」の持つ価値を想定する必要があるかもしれません。しかしそれは本来無価値の土地や擬制資本が価格を持つことに準じて考えるべきではないでしょうか。除本氏は「一定額の補償を避難者に『手切れ金』のように渡し、補償をうちきる動き」(110ページ)に危機感を抱き、「フローとストックを区別する視点からは、フローに関する金銭的補償で被害を『清算』することはできない」(同前)と批判されています。これは人間として誠に正当な観点であるし、政策的にも実現されるべき立場だと思います。しかしその根拠とされる価値論は上記のような矛盾を含んでおり、別の説明の仕方があると考えます。

 このように一見奇異な拙論を「従来の経済学」の立場と称するのは、「価値と使用価値との峻別」、「価値実体としての投下労働」という原理を守っているという意味です。ここをあいまいにすれば出所不明の価値が現れ、たとえば国民経済の再生産を正確に描くことができなくなります。

 

 

          断想メモ

 小松浩氏の「多数意見が届かない同質的二大政党制」「『政治の闘技的な特質』を」「しんぶん赤旗」1023日付)が実に簡潔に今の政治の問題点と打開方向を示しています。この短い論説を骨として、肉づけていけば、マスコミ論調ともかみ合った議論を組み立てることができ、浮ついた議論をばっさり斬って政治の本質論に導くことができるでしょう。
                                 2012年10月30日





2012年12月号

          日本電機産業の衰退とリストラ

 山藤次郎氏の「電気・電子産業の構造変化と東アジア」は、日本メーカーの衰退と深刻な現状を描き出しています。その原因は世界の需要構造の変化と生産技術のデジタル化とに対応してこられなかったことにあるとされます。「製造装置と部品さえ買ってくれば、誰でも製品を作ることができるようになってきたため、誰のために何を作るかが重要になってきたので」す(145ページ)。「製品の品質で差別化できなくなった今、…中略…人々が気づいていない潜在的なニーズを掘り起こして新商品に結実させていく、人々のライフスタイルをデザインするような本当の創造性が求められて」(146ページ)おり、新しい戦略とそれを担う人材と組織が必要となりますが、逆に日本電機メーカーはリストラによる短期的利益の確保に狂奔している状況です。

 藤田実氏の「電機産業の経営責任とリストラ 電機産業のリストラといかにたたかうか」(『前衛』12月号所収)は株主本位のリストラを糾弾しつつ、設備投資が短期的な企業収益状況に左右されるようになり、長期的視点で経営を行なわなくなったことが、電機産業凋落の根本原因だとしています(127ページ)。また安易な海外展開やリストラが技術流出を招き、競争力を失わせていったことも指摘しています(128ページ)。山藤論文では、デジタル化によって電機産業で「研究・開発」と「製造工程」の分離が可能となり、アメリカなどの「ファブレス企業」と東アジアの「EMS」との各専業メーカーから厳しい両面戦争を挑まれた日本企業が瀬戸際に追い込まれている、とされます(146ページ)。これについて藤田氏は「製造部門を維持するのは重要な意味を持つ」(132ページ)と主張しています。イノベーションは技術者のみが生み出すのではなく、製造部門との連携が必要だからです。新製品の開発には製造過程での微妙な調整が欠かせず、「開発・試作の段階から、製造部門と密接に連携してはじめて、最大の機能を発揮できるような製品を完成させることができる」(同前)というのです。

一方で知的所有権の独占を基礎にしたアメリカ企業が、他方では劣悪な労働条件に依拠した中国などの東アジア企業がそれぞれ強搾取を誇っているのは、新自由主義グローバリゼーション下の異常な分業体制というべきでしょう。これを生産技術のデジタル化による宿命と捉えて、リストラ強化によってそれに追随している日本企業の経営姿勢は疑問です。本来なら、設備投資や労働力育成などにおける長期的視点での経営姿勢によって、研究・開発と製造工程との健全な連携を実現していくモデルを堅持し発展させていくべきではなかったでしょうか。雇用や地域経済への責任を考え合わせれば、そのことはいっそう重要です。ここには生産と消費の矛盾を激化させる新自由主義的資本蓄積と内需循環型の再生産構造との対決の起点となる直接的生産過程のあり方(およびその反映としての経営方針)の違いがそれぞれに示されています。

 リストラを主な手段として、株主本位の短期的利益追求を目的とすることによって、製品開発や設備投資に支障をきたし、需要構造の変化や景気変動に対応できず、企業収益の柱を確立できずに縮小均均衡に陥った日本電機メーカーは急激に衰退しつつあります。発想を逆転して、上記のような健全なモデルを再構築することと画期的な新商品の開発による収益向上との相乗効果を実現する方向にかじを切ることが求められます。それは今日の(株主資本主義によって展開されている)グローバル競争をそのまま放置していては困難に見えます。確かに日本企業の国際競争力は国民経済にとって重要な問題ですが、そこだけに視野を絞ると日本電機産業の危機を前向きに打開していくことができません。巨大な多国籍企業の動向は個別資本の問題を超えて、各国の国民経済と世界経済を揺り動かす問題であり、雇用や地域経済のあり方に直結しています。企業の社会的責任という問題だけではなく、多国籍企業とグローバル資本主義への民主的規制によって資本蓄積のあり方を健全な方向に誘導していくことが必要となっています。今日のリーディング産業たる電機産業における急激な栄枯盛衰は新自由主義的資本蓄積一般の行く末を指し示しているようです。世界の電機産業・企業の勝者と敗者とはともに不健全な構造のうちに共存しており、人民的視点から言えば問題の中心はそこでの勝敗ではなく、世界経済と国民経済に新たな再生産構造を切り開くことではないかと思われます。そのようなことを言っても目前の企業や地域経済の存続には役立たないと思われるかもしれませんが、この問題意識を抜きに日々の競争だけに目を奪われていると、ただ経済と社会の荒廃が進むばかりではないでしょうか。個別のみならず全体を、短期のみならず長期を見据える目で現状を点検することが必要です。

 各国政府が新自由主義政策をとってグローバル競争の手先となっているとき、大資本の現場で下からの民主的規制を担うのは労働者の闘いです。日本共産党神奈川県委員会職場支部対策部事務局長・宗形泰夫氏の「神奈川県における電機大リストラとのたたかい」(『前衛』12月号所収)は表題について具体的に詳論していますが、特に「リストラ反対のたたかいの大義と展望を国民に示していく」(143ページ)イデオロギー闘争への取り組みが注目されます。まずは労働者の具体的な声を聞き取ることが重要です。するとリストラや海外移転など企業の勝手な行動を肯定する意見が多くみられます。「ここには、財界・大企業、メディアが流すイデオロギーの労働者への反映がありますが、ここから出発しなければなりません。実際に労働者がリストラに応じざるを得ない思想的な背景にもなっていると思います」(144ページ)。こうした状況下で一方的に共産党の主張や大企業批判をしても理解されないので「労働者の不安や懸念とかみ合って、なるほどそうかと思ってもらう訴えをする必要があります。これは言葉でいうほど簡単ではなく、最も知恵のいる仕事でまさに試行錯誤の最中です」(同前)。一人ひとりの労働者の心を変えるというのは困難で小さな行為ですが、深く確実なものであり、それがさざ波のように広がっていくとき、社会全体が表面的でない本当の変革にいざなわれます。これは見えにくいけれども、資本への民主的規制の深い形態だと思います。ここにマルクスの周知の言葉を掲げます。

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 理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えるように(ad hominem)論証をおこなうときであり、理論が人に訴えるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。ところで、人間にとっての根本は、人間そのものである。

  「ヘーゲル法哲学批判」 422ページ

(大月書店『マルクス・エンゲルス全集』第1巻所収、花田圭介訳)

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 「労働者の不安や懸念」をつかむには、状況に通じるとともに人間に対する把握力が求められます。情理兼ね備えた訴えがそこに生まれるでしょう。

 

          タックスヘイブンの本質を解明する意義

 合田寛氏の「タックスヘイブン グローバル資本主義の聖域」は、タックスヘイブンが単なる一部企業や資産家の税逃れの手段という特殊な存在ではなく、量的にも質的にもグローバル資本主義の屋台骨を形成する本質的な存在であることを明らかにしています。その際に「狭義のタックスヘイブンを含むより広い概念で」「税のみならず金融規制を含め規制が全般的に緩く、金融機関やその顧客の秘密が固く保持される国・地域(法域)」(150ページ)としてのオフショア金融センターという概念を使うことが有効です。

 「世界の対外直接投資の3分の1がオフショアに投資されている」とか「国際貿易取引の半分以上が少なくとも帳簿上はタックスヘイブンを経由している」(152ページ)とも言われます。2008年の世界金融危機はタックスヘイブンを拠点にした証券化ビジネスを抜きには考えられず、タックスヘイブンがカジノ資本主義の重要な舞台であることは明らかです。またタックスヘイブンを利用する移転価格等の手段を用いた課税回避により、「アメリカ大企業の60%以上が無申告」(155ページ)という深刻な事態ともなっています。

 そしてタックスヘイブンを実質的に統括しているのは米英のオフショア金融センターであり、さらにその上にはオンショア金融センターがあり、米英両政府の責任は大きいと言わざるを得ません。「グローバル資本主義の中枢部に巣食う病巣であり、金融危機、財政危機、国際的犯罪などあらゆる混乱の原因を作り出している」(160ページ)タックスヘイブンの民主的規制は喫緊の国際的課題です。 

このタックスヘイブンを抱えたグローバル資本主義こそが、世界中の人々の生活と労働を犠牲にする各国政府の政策の源泉であり、それを根本的に変革することが必要です。グローバル資本主義があらがえない歴史の必然だと錯覚している人々に対して、タックスヘイブンの本質を暴露することは、あきらめを打ち破り社会進歩を促す重要な課題です。増田正人氏の「グローバル経済の現状をどう考えるのか」(『経済』10月号所収)と合わせて合田論文の内容を広めることは、体制側の「経済整合性論」「大所高所論」を克服して、要求運動の正当性を深く解明し前進させるものだと思います。

 

          2012年末総選挙を迎えて

 以下の言葉は、これまで何度も引用していますが、まさに今にぴったりです。

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 現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。

          スウィージー『歴史としての現在』序文 

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 「社会科学者」は普通の人に置き換えてもいいと思います。後世の歴史家は2012年の総選挙を振り返ってこう解釈するかもしれません。<反原発など変革的な民衆の運動が未曾有の規模で高まったにもかかわらず、それを効果的に政治結集できず、対極に現れた新自由主義過激派と保守反動派を含む反動的逆流に議席の多くを握られる結果となり、生活・労働破壊が強行され、民主主義破壊が危険水域に達するような以後の政治が始まる分水嶺となった。そもそもそれを許した原因は云々…。ああすればよかった、こうすればよかった…>。現状では近年まれに見る愚劣な選挙戦が展開されており、このような最悪の結果になる可能性が高くなっています。しかし幸いにして、現在はまだ現在であり、政治変革を願う人々はその形と結果とを動かしうる力をもっており、「歴史としての現在」を的確に捉えるなら、後の祭りの解釈ではなく変革を実現する可能性を持っています。

 新自由主義的資本蓄積は行き詰まっており、支配層は人々に何の展望も示すことができません。その政策は「飴なしのムチ」であり、とうてい人々の支持は期待できません。したがって支配層の選挙対策は争点そらしによって政策を隠すか、「飴なしのムチ」を「苦い良薬」だと偽って受容させるか、ということになります。「第三極」の離合集散がさも一大事かのようなマスコミ報道は前者の一例であり、後者の例としては、<消費税増税は必要であり、それに反対するのは無責任である>とか<オスプレイの危険性を云々するより「抑止力」維持にその配備が必要という大局を踏まえよ>とかうんざりするほど多くの説教があげられます。「耳触りのいい公約」にだまされることなく「責任ある公約」を掲げた党を支持しようというわけです。民主党が2009年総選挙のマニフェストをほとんど反古にしたことから、この言い方はなかなか説得力を持っています。

 まず争点そらし・政策隠しの問題を考えます。これへの対策は政策本位の選挙を実現することにつきます。閉塞感の蔓延が言われて久しいのですが、その原因として、まずは長期不況と格差・貧困の拡大があげられ、次いで民意を無視し、人々の利益に反する政治が続いていることがあげられます。消費税増税・原発再稼働・オスプレイ配備に対しては世論調査で過半数の反対が見られ、TPP協議への参加にも少なからぬ反対が見られます。しかし国会の議席にはこうした民意は全く反映されておらず、日本共産党などの微々たる議席がかろうじて人々の声を代表しているという状況です。政策的民意と議席との恐ろしいまでのギャップを背景に、民意無視の政治が「粛々と」行なわれてきました。

 このギャップの原因は何か。一つは選挙制度です。しかし現在進行形の選挙に関しては是非もない問題です。劣悪な選挙制度を前提にしていかに闘うかという戦術的問題はありますがここでは措きます。二つ目には日本共産党などに対する偏見や無理解が大きいということです。これも重大な問題ですがやはり措きます。三つ目には人々の投票のあり方として、支持する政策と投票する政党とが別になるという問題です。たとえば消費税増税反対の人が、民・自・公3党あるいは維新の会に投票するというようなことです。これは一つ目・二つ目の問題から来る部分もありますが、選挙における争点そらし・政策隠しが大きな原因です。第三極の離合集散やそれと民主・自民など保守政党内部での議席の消長が選挙の最大の問題であるかのようなマスコミ報道を打ち破らねばなりません。ここには本質的な政策争点などなく、民意無視の枠内での大同小異の政策論争がわずかにあるだけです。少なくとも、消費税・原発・オスプレイ・TPPで民意を基軸にした本当の政策論争を展開しなければ、「民意を問う」という総選挙の意味はありません。政策そのものを前面に出すことで、保守政党の枠を超え、共産党を含む全政党と政策との対応関係を人々の前に明らかにすることが必要です。それが選挙戦の最低限の成立条件でしょう。マスコミがそれを放棄しているなら、政治革新を願う人々が語っていくしかありません。もちろんその際に反動的逆流と共産党との対決が選挙戦の太い流れであることを鮮明にするような政策語りが大切です。

 次に「飴なしのムチ」政策の受容の問題を考えます。ここで考えるべきは政策・公約とポピュリズムとの関係です。民主党のマニフェスト破りを機械的に反省すると、人々の要求を反映した政策それ自身がポピュリズムかのように見えます。しかし問題は人々の要求を反映した政策そのものではなく、その裏付けがなかったことです。裏付けが取れない政策はポピュリズムとよばれても仕方ないものであり、そうならざるを得ない原因は対米従属・大企業本位という二つの異常を抜けられないことです。そこから抜けない限り、政策実現の財源を確保できず、米国の横暴を跳ね返せません。

体制派マスコミは、民主党の政権交代・政策運用のこのような失敗に乗じて、ますます人々の要求を実現する政策そのものをポピュリズムとして排撃しています。「耳触りのいい政策」に注意しろと言い、「苦い良薬」と称して、支配層の「飴なしのムチ」政策を擁護しています。しかし新自由主義グローバリゼーションを不動の前提として、「政策の幅は狭い」という教条に従う姿勢そのものがまず間違っています。またそこでの経済整合性論(大所高所論)は大企業体制を維持する「責任」は問題にしても、すでに相当に破壊されている人々の生活には無責任です。経済とは本来人々の暮らしから出発しなければならないのに、企業利潤を第一に見ている。このような本末転倒した「経済」政策を金科玉条として何の疑問も感じないセンスから人々の経済要求を切り捨てて天下国家を論じ、保守政党の枠内に世論を閉じ込めようという体制エリート・マスコミ人に対しては、個人の幸福追求権を突きつける必要があります。

 「飴なしのムチ」政策を人々に受容させる先頭に立っているのが橋下徹氏です。福祉削減・自己責任・国際競争力強化のための覚悟と努力等々、大企業本位の政策に合わせて人々に忍耐を強要しています。この点ではまさに体制側からの「ポピュリズム」(上述のように、人々の経済要求を掲げること自体は決してポピュリズムではないので鈎カッコをつけます)批判の先兵となっています。タレントとして、あるいは巧みな弁舌によって、まさにポピュリストとしての人気をもっている橋下氏は、支配層の要求に応えて、体制側からの「ポピュリズム」批判に邁進しているのです。したがって橋下氏は反「ポピュリズム」的ポピュリストと規定できます。

 「朝日」1123日付は、維新の会が石原慎太郎一派と合流して、脱原発や企業献金禁止を取り下げたことを持って「変質する維新」などと述べていますが、まさに嗤うべき記事です。橋下氏にとって反原発とか企業献金禁止とかはもともと本気ではないポピュリズム公約にすぎず、維新の会は変質したのではなく、化けの皮がはがれて本質が露呈しただけのことです。「朝日」はポピュリズム公約を真に受けていたのか、それともその振りをしていたのか、いずれにせよ読者をミスリードしたことだけは確かです。橋下氏はこうして一つ二つとポピュリズム公約を捨て始めながら、反「ポピュリズム」の姿勢を鮮明にしつつあります。いよいよ政権が近づいているとでも思っているのか、財界向けの顔が露骨になってきました。年金支給年齢の先延ばしを主張し、高齢者雇用対策と称して解雇規制の緩和を主張するという珍論を持ち出しています(「しんぶん赤旗1125日付」)。競争至上主義の立場から、一方では農業の市場化・大企業の参入・農協敵視を展開し(同前)、他方では街頭演説の聴衆に向かって「切磋琢磨」を要求しています(同1126日付)。内容的にはまさに福祉切り捨て・大企業中心主義による反「ポピュリズム」ですが、スタイルとしては高齢者・農協等の「既得権益」批判や競争・努力の推奨といういかにも俗耳に入りやすいポピュリスト型を貫いているのがいかにも橋下流ではあります。なおここでは、自己責任論や各種バッシングが広く浸透し、(新自由主義体制による)経済整合性論・大所高所論が一定の影響力を持ち、おまかせ民主主義がまだ克服されていないという状況があり、その土壌の上に橋下氏が反「ポピュリズム」的ポピュリストとして大いに策動できるということに留意することが重要です。

 こうした中で、自民党型政治のあまりにひどい現実と変革的な諸運動の広がりを背景にして、消費税・原発問題等々での広範な有権者の意識の変化も顕著であり、政策をきちんと語っていけば、反動的逆流に対抗する真の変革勢力の躍進も可能な情勢です。たとえば首都圏反原発連合のポスターでは各党の原発政策が明確化されており、日本共産党の優位性ははっきりしています。このような無党派の諸運動の成果を本当の政治変革に結びつけるためにも、この総選挙における「政策語り」が決定的に重要になっています。「しんぶん赤旗」の「潮流」1127日付には対話の模様が書かれています。「消費税が上がったら店を閉めるよ」という商店主に「消費税に頼らない別の道」の話をしても簡単には納得せず、他党のビラも置いてあります。「国民のくらしをかえりみない政治への批判やいらだちは強い。直面する現実が厳しい人ほど、そう簡単に『わかった』とはなりません。生活や関心に応じて話していくしかありません。相手の話を『聞く力』と自らの対話力が試されます」。それ行けドンドンという空語とは違うこのリアルさの中に、地に足の着いた前進の芽があるように思います。

そうこう書いているうちに情勢はめまぐるしく、滋賀県の嘉田知事が脱原発を基軸に諸党派の結集を図ろうとしています。「国民の生活が第一」が早速合流しました(というか、実際には小沢氏が嘉田氏をかついで実権を握ったということ。さすがに「小沢の立ち回り」は見事であり、情勢や民意のツボを押さえる力はさすがと言うほかない)。確かにこれは反動的逆流とは違った動きであり、その意味では一定の積極的意義は持ちますが、にわか作りの政治勢力にどれほどの実行力があるのか大いに疑問です。卒原発とか消費税増税凍結とかの政策そのものはまあまあですが、その裏付けがないという点では2009年総選挙時の民主党マニフェストと同じくポピュリズム公約と言わねばなりません。

と、あれこれ言っていてもとにかく時間がない。駄文を書いていないで、やるべきことをやれ、と叱られそうです。それではまた。

 

 

         断想メモ

 特集「どうする日本の社会保障」の「障害者福祉」における峰島厚氏の「『骨格提言』実現への新段階」は理論と運動論の両面にわたる興味深い論稿です。読みが足らないのでうまくまとめられませんが、措置制度の功罪などに見られる・福祉の商品化と生存権保障との対立(もっと一般化すれば市場と公共性との対立)という理論的問題が、障害者運動内に浸透して、運動の方向性決定が一筋縄では行かないという困難な中でも、運動の幅広い統一性を堅持して、一定の積極性を持つ「総合福祉法の骨格提言」が結実しました。体制側もタテマエとしては否定できない到達点に立って、より厳しくなるであろう社会保障攻撃の中で、「よりましな改善」と「根本的な改革」(77ページ)とを複眼的ににらみながら、確実な歩みを進めていくことは、他の課題・運動体においても共通するでしょうから、障害者運動に学ぶ点は多かろうと思われます。
                                 2012年11月30日

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