月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2013年1月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2013年1月号

          グローバル資本主義との闘い

 朝日吉太郎・岩橋昭廣・増田正人氏による座談会「グローバル経済と労働・金融危機」では、グローバリゼーションを「特に、資本・賃労働の力関係の変化から捉えることが決定的に重要である」(16ページ)と指摘されています。情報通信技術や経済の金融化といった華々しい変化の底にあってそれらを規定するものが労資関係です。日本はもちろんのこと、比較的労組の強い福祉国家と見られるドイツでも労働組合運動の力量が低下しており、労働市場への規制力が弱まっています。これは世界的傾向であり、先進資本主義諸国の内需を停滞させ、多国籍企業の新興国への展開もあいまって産業の空洞化・雇用の縮小が続き、人々の生活苦を拡大しています。さらに世界金融危機が財政危機に連動し、緊縮政策による不況の悪循環が止まりません。失業・低賃金・労働条件の悪化・福祉削減などによる増大するばかりの生活苦を解決するには、金融を含めグローバル資本主義へ民主的規制を強め、労資関係を改善することが必要です。この闘いで社会科学の役割が不可欠です。

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 世界中で怒りの活性化がありますが、怒りの炎はまだ小さく、か弱い。これを大切に育てる必要があります。自発的な市民運動と労働運動と科学との統一戦線の構築が必要です。

 重要なのは、現在の貧困の大本となっている独占資本主義の法則との闘争です。そのためにも、社会科学的展望をつかむ格闘が必要です。この道は平坦ではありませんが、現実が求めている道であり、現実が求める限りにおいて、展望が切り開かれる必然性を内包していると思います。            31ページ

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 今、日本での怒りはどうなっており、運動と社会科学は「展望が切り開かれる必然性」に迫れたのか。その到達点を示すひとつが2012年末総選挙の結果です。

 

 

          2012年総選挙結果を受けて

 政策の位置づけを中心に 

                

1> 総選挙の結果を見る

 20121216日投票の衆議院総選挙で、与党民主党は歴史的大敗を喫し、自民党と公明党とで議席の2/3超を獲得して圧勝し政権交代が実現することになりました。日本共産党は1議席減です。全体として非常に悪い結果になりました。

共産党は、行き詰った政治を変革する責任から、650万票・議席倍増によって政界に衝撃をあたえることを目指しましたが、1議席減となりました。党支持層が民主党に流れたという2009年選挙と比べても、比例区で494万票から369万票へ125万票(25%)も減らしています。同党が出発点と位置づけた2010年参院選比例区(356万票)よりわずかに増えていますが、深刻な敗北と受け止めるべきでしょう。

 有権者全体との関係では、共産党は依然としておおむね選択対象外扱いされており、選挙運動が全体としては「ヌカに釘」的状況にあることを直視すべきです。もちろんこれは政策や選挙運動方針が間違っているということではありません。政策は正しく、運動が届いた範囲では確かな手ごたえがあります。しかし客観的にはその範囲は社会全体の中では極めて限られています。今回の選挙は近年の選挙と比べて、相当な活動量があったように思われますが、それでも敗れた、ときちんと受け止めることがまず必要です。

 もちろん清算主義に陥らないことが大切であり、JA・医師会等保守系団体、反原発等運動団体との(要求に基づく)連携の成果は注目すべきです。

 マスコミの影響が大きく、選挙が政策で闘われない状況などが共産党にとっては厚い壁になっています。そのような状況を冷静に見極め、それを打ち破る建設的な総括と前進の具体的手だてを探求しなければなりません。リアリズムにのっとった斬新な想像力と創造力が発揮されるときです。この状況でなお「それなりにやってわずかに前進した」とか「厳しい状況を何とか持ちこたえる組織力を持っている」というのは間違いではないにしても、党の置かれた状況を社会全体の中で位置づけることができずに、志なく停滞に甘んじる惰性的姿勢を表明するものに他なりません。

選挙の全体像を見ると、一言で言って有権者は喜んでいません。2009年の総選挙はいわば「一歩前進」であり、歓呼の声に迎えられ一応進歩的な政権交代を実現しました。しかし今回の総選挙は「二歩後退」であり、民主党に対する怒りと落胆の中で反動的政権交代に帰結しました。依然として有権者の模索は続いており、歴史は平たんには進まない、ということです。

 自民党勝利の要因はまず何よりも小選挙区制効果であり、大敗した前回より得票減にもかかわらず圧勝しています。各党の実力を示す比例区では、219万票減で、わずか2議席増の57議席です。これに対して小選挙区では、166万票減にもかかわらず、得票率43%で議席占有率79%=237議席となり、まったくもって実際の支持以上の大幅なプレミアム議席を獲得しています。

 今回の総選挙を何よりも特徴づけるのは、民主党政権失敗への失望であり、自民党の地滑り的勝利はその裏返しにすぎません。民主党から離れた2000万票のうち半分は棄権に回り、他は「維新」や「みんな」などに流れました。したがって投票率は戦後最低の59%であり、この圧倒的低調さの中で望まれてもいない自公政権が誕生しました。

 2009年の「政権交代」選挙で鳴り物入りで打ち出されたマニフェストが、その後の三年間で見るも無残に打ち捨てられた原因は、民主党が「二つの異常」(対米従属・財界中心)から抜けられなかったからです。このマニフェストの内容そのものは、小泉構造改革による格差と貧困の蔓延をいくらかでも是正しようという方向が含まれており、一定の積極的意義を持つものでした。ところが民主党政権の公約破りに対して、支配層はマスコミを通じて、反構造改革の性格を持つ人民の要求実現の政策そのものが間違いであり、もともと実現不可能だった、と宣伝しました。要求の正当性を否定し、要求実現を人々に諦めさせようとしたのです。民主党政権はこれに唯々諾々と従いました。こうした中でどうせだめなら「景気対策」の自民党か、という気分も一部に生まれたでしょう(野放図な金融緩和と公共事業推進というアベノミクスが景気対策にならないのは言うまでもないが)。人々の失望・諦めの強さは「未来の党」の失敗にも見て取れます。「未来」は2009年の民主党勝利の夢よもう一度、というべき政策を並べましたが、したがって一定の積極的内容も含まれているとはいえ、実現の裏付けのない政策に支持は集まりませんでした。有権者は学習し、失望したのです。それは「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」という体のものであり、政策の裏付けのなさを見抜いて拒否するだけでなく、自分たちの要求そのものの正当性(ないしは実現可能性)を見失ってしまったのです。これは、反原発運動などが選挙の得票にまで結びつかなかった原因の一つでしょう。もちろんそれは諸運動が無駄だった、ということではありません。選挙戦の中で、原発容認とか消費税増税とかが声高に語られることがなく事実上隠蔽され、したがって選挙結果にもかかわらず、反原発や消費増税反対の民意を無視することはできない、という形では効力を発揮しています。しかし「それらの民意を掲げる政党を勝利させて要求を実現していこう」という真に積極的な投票行動を導くところまでは達しなかったという点では、民主党政権失敗が人々に与えた「要求実現できず」のトラウマが大きな影を落としているといえましょう。要求実現の道筋が有権者にはつかめないことが、反原発運動などの高揚が選挙結果にまでは結びつかない状況の背景にあります。運動の先進部分では「二つの異常」を克服することの重要性が理解されてきていますが、全社会的にはまだまだでしょうし、トラウマで懐疑深くなった人は「いい話」は受け付けないかもしれません。粘り強く要求そのものの正当性と実現可能性とを語り、人々のトラウマを払拭することが重要です。

 ところで選挙結果における本質と現象についてよく考えることが必要です。自民党の圧勝は見かけだけであり、実際の支持は少ないという本質を指摘することは大切で、その事実を広く周知することは極めて重要です。しかし多大な議席占有率という事実が今後の国会内の状況を規定するということのみならず、自民党圧勝という印象が人々の意識を規定して次の現実を作ることを忘れてはなりません。選挙後の世論調査では自民党の支持率が上昇しています。選挙結果は何と言っても議席状況によって代表されるのであり、有権者にとって今後の選挙の出発点として意識されるのは、今回の得票状況ではなく議席状況なのです。政党の実力を示す指標はいくつもありますが、人々にとっての中心的判断基準は議席数の大小であり、要求実現力への評価もそれに準じます。もちろん実際の要求実現力は、政策能力やそもそも階級的基盤からして当該要求を実現する気があるか、というようなことまでも関係するので簡単な問題ではないと考えられます。しかしやはり主に議席数の大小によって判断され、小さな党は要求実現の頼りにならないから投票しない、ということになります。これは相当に深刻に考える必要があります。

 

2> 選挙と政策について

今回の総選挙の最大の本質的問題点は民意・政策と政党の獲得議席とが全く乖離していることです。民意は「消費増税反対」「脱原発」ですが、多数議席を得た自・公・民・維新などは「消費増税」「原発継続」です。このねじれの原因の一部はもちろん選挙制度にありますが、むしろ多くは「政策なき選挙戦」にあると私は見ています。選挙期間中のマスコミ報道は、各党の政策の検討よりも「政権交代」「政権の枠組」に集中し、競馬予想ばりに各党の議席獲得予想を展開しました。政策よりも「どこが議席をたくさん取りそうか」というわけで、「勝ち馬に乗る」心理を増幅させました。有権者の関心を選挙の本質とずらしたのです。もともと消費増税等、支配層の政策を支持しているマスコミにしてみれば、選挙戦で政策と民意をマッチさせることは避けることで、民意に反する政策を掲げた大政党たちを側面支援したともいえます。あるいは有権者の中には、政策を検討し、支持する政策と政党はあっても実現可能性がわからずに棄権したり、死票を避けて他党へ投票する場合もあったでしょう。そういう意味では、民意を反映しない小選挙区制と、マスコミ主導の「政策なき選挙戦」とは相互作用して選挙を形骸化させていると言えます。

 そうしてみると「政治改革」のとき(1994年、小選挙区制導入法成立)、御用政治学者たちが「民意の反映」よりも「政権選択」と主張していたことの意味がこの選挙で明白になりました。民意に基づく政策とは全く関係ないところで「政権の枠組」が作られ「政権選択」が行なわれ「政権交代」しました。小政党の政策こそが民意を反映しているのですが、小選挙区制においてはそれは初めから投票対象から外され、民意を無視した政策を掲げる大政党の中だけで政策とはあまりかかわりなく投票され、その枠内で政権選択が行なわれます。こうなってくると<選挙制度で重要なのは「民意の反映」よりも「政権選択」>というなまやさしい比較論ではなく、<「民意の反映」は無視して「政権選択」ができる>という民主主義が空洞化したシステムが形成されたと言わねばなりません。2009年の総選挙では、格差と貧困の拡大への批判という民意が一定反映されましたが、今回の総選挙では民意を無視したところで政権選択ができる実績をつくったわけです。ルソーは「人民は選挙の時だけ主権者でありその他は奴隷となる」という意味のことを言ったそうですが、今回はさらに進んで選挙そのものが人民の首を絞め、要求実現を阻み苦しみを高めるよう作用する結果を招きかねないものです。民主政治において「人民の首を絞める」政策を選挙結果で正当化できるのは支配層にとって理想的です。新自由主義グローバリゼーションの時代には「飴なしのムチ」政策が一般化しますが、それに適合的な空洞化された民主主義(内容的には民意無視が正当化される形式的民主主義)が形成されつつあるということです。

 橋下徹氏は、「小選挙区で死票が出るのは当たり前」「民意の反映だけでは物事は決まらないんです」と主張し、多様な民意を切り捨てて「決定できる」システムが重要だとしています(「しんぶん赤旗」1224日付)。つまり小選挙区制の狙いが支配層の独裁にあることをあけすけに語っているのです。「政治改革」当時の御用学者たちの狙いがどこまでであったかはわかりませんが、「民意を無視した政権選択」が実現した今、「支配層の独裁」に接近した「民主主義の空洞化」が「改革」の帰結なのは明らかでしょう。御用学者と橋下氏は「上品か下品か」「回りくどいか率直か」くらいの違いはあっても、支配層の意を体して民主主義を劣化させている点では同罪です。

 しかしどのように独裁に近い体制を整えようとも、人民の要求をおしとどめることはできません。反原発や消費増税反対など多くの諸運動は高まりこそすれ静まる気配はありません。議会の構成が民意と離れれば、それが政治的矛盾を激化させます。おそらくこれから自公政権と民主党・維新の会などの間での政局的動きが、政治の表層を占めることになるでしょうが、あくまで政治の本質は支配層と民意との矛盾であり、人々は閉塞感の中で模索を続けざるを得ません。そこに的確な政策を打ち出し、いかに民意の結集を図っていくかが問われます。

 日本共産党は人民の利益に沿い民意を代表する政策体系を持つ唯一の政党です。これまで培ってきた様々な諸運動との連携をいっそう強化し、より広範な人々と結びついていくことが大切です。しかし残念なことに同党はいわば「自慢の技術を持っているけど販売力がない町工場」的存在にとどまっています。磨き上げた政策を「知る人ぞ知る」ではなく、誰もが知っているようにしなければなりません。どうしたら全社会的にそれが実現できるか、が知恵の絞りどころです。機械制大工業、そしてICTの時代にマニュファクチャーが挑むような感がありますが、スローライフの時代でもありますから、「懐かしい未来」の創造を目指して飛躍が求められます。科学的社会主義は生産力の最先端の成果に立って社会変革を進める立場ですが、それは同時に人々のささやかな生活の視点から行なわれるものです。急速に進んで行く社会全体の漠然とした手触りを、身近な手作りの確実な手ごたえの側にいかに回収していけるか、が問われます。選挙戦で接する熱い反応と社会全体の冷たさとのギャップとを埋める具体的手だてを想像し創造しなければならないのです。

 たとえ話で抽象的なことを言っても役に立たないので、最後に一つの具体的提案を紹介します。政策の訴えでは、要求実現の展望を大きく掲げることが重要です。醍醐聰東大名誉教授(会計学)は、参議院選挙において「消費税増税の反対を掲げる中小の政党が、選挙のときに、消費税増税を廃案にする法案を共同提出する公約を取り交わすべきだと考えます。そうすることによって、国民に希望を与える勢力として力を出せると思うのです。この点を政党や政治家は真剣に考えてほしいし、これを押し上げていく国民的な運動も必要だと思います」と話しています(「全国商工新聞」201317日付)。もちろんこの中心を担えるのは「一点共闘」の方針を確立している共産党でしょう。

 以上、2012年の総選挙という大きなテーマに対して、わずかな問題にしか触れられませんでした。危険な右派政権の誕生と国会議席全体の右傾化で憲法も危うい状況ですが、3.13以後、政府や国会の外ではデモのある社会が出現しました。マスコミが第三極などを囃し立てているうちに、そうした表層の動きとは別に、深部に二つの流れの対決が定着しました。そこで究極的には暮らし働く人々のリアリズムが歴史を前進させるものと思います。

 

 

          代議制民主主義と直接制

 小熊英二氏は(残念ながら読んでいないけれども)『<民主>と<愛国>』などの力作を著している気鋭の社会思想家として知られます。しかし「脱原発デモに参加する社会学者」として登場した「朝日」1222日付のインタビュー「それでも社会が変わる」の論旨は共感できる部分もあるものの、基本的姿勢において私には異論があります。

 問題の第一は、民主主義における選挙の位置づけ、代議制民主主義のあり方をどう考えるか、であり、第二は、そもそも今日の政治の行き詰まりの根本原因は代議制民主主義にあるのか、ということです。

 まず第一の問題を考えます。小熊氏は「お任せ民主主義」を批判し、様々な政治への直接参加の道としての「直接制の要素を制度的に組み込む」ことを主張し、日本における社会運動の整然とした発展を称賛しています。そこに異存はありません。問題の発端は、反原発運動などの高まりに反して、原発容認の自民党が総選挙で圧勝したことにあります。「この落差は何なのか」。デモで社会は変えられなかったのか、という問いに対して氏は、社会は変わっているけれどそれが選挙に反映されなかった、として「代議制の正統性が一層低下したのが今回の最大の結果です」(「正統性」は「正当性」のことか?両方でもありうる)と答えています。これも正確な現実認識だと思います。しかしその対策として直接制の導入はいいとしても、その他に代議制の正当性の回復も必要であり、それが看過されています。小熊氏は「形だけ選挙」という言葉を使っており、代議制民主主義に対するニヒリズムがあるように感じられます。社会の変化が選挙に反映されないからといって、選挙そのものを軽視してはなりません。この選挙の問題点には、選挙制度やマスコミのあり方など様々な原因があり、それを分析し変えることが必要なのです。

 一方で橋下徹氏は事実上「選挙絶対主義」の立場で「白紙委任論」を唱えています。他方で小熊氏は選挙の役割について通常よりも懐疑的です。これらは両極の誤りです。町内会・PTA・労組など職場や地域におけるいろいろな政治参加、署名・デモ・集会などの意思表示・直接行動等々、多様な参加形態の上に、地方自治体と国政の選挙があり、さらに行政と司法を含めて、それらの総体としてこの国の民主主義が形成されています。橋下氏はそれを事実上、民主制度の頂点に見える選挙だけに解消しており、民主主義観としてはあまりに貧困であり論外です。小熊氏は民主制度のすそ野を広く見渡している点で優れていますが、選挙・代議制民主主義の意義を過小評価しています。しかし何よりもそれは憲法上の制度として確立しており、政治権力の源泉となります。合法性の下に多くの制度を規定し人々の生活に大きな影響を与えます。これは(少なくとも現憲法を前提にする以上)直接制によって代替することはできません。言うまでもなく議会や首長を握ることは政治のあり方を規定する決定的要素です。もちろん従来そういった点だけが一面的に重視され、選挙による「お任せ民主主義」に陥っていたことは反省すべきですが、だからといって選挙・代議制民主主義を軽視することは正当化できません。また各種の直接行動などを選挙と対立させたり、疎遠なものと捉えることがあるとしたらそれも誤りです。いろいろな要求実現運動が担う草の根民主主義は地方・国政の各種選挙に結びついている場合が多く、それに対応する政党もあります。むしろ真に民主的な政党ならば、そうした運動組織との連携を不可欠としており、そこでは選挙は民意の実現と直結しています(運動と政党との自立的連携は「お任せ民主主義」の克服の一つのあり方である点に注意。企業や労組がその構成員の思想・信条を無視して行ってきた従来型の政党支援とは違う)。そういう意味では民意と選挙結果との乖離は起こりようがないはずですが、それが実際には起こっているということは、多くの政党において、また毎回の選挙において、それぞれのあり方が歪んでいるということです。私たちの課題はこの歪みを正すことであり、選挙・代議制民主主義を軽視したり、ましてや見放したりすることではありません。それを喜ぶのはこの歪みで得をしている現体制勢力に他なりません。

 次いで第二の問題、そもそも今日の政治の行き詰まりの根本原因は代議制民主主義にあるのか、について考えます。この社会を覆う閉塞感は、何よりも長期不況・格差と貧困の拡大の中で、民意に背いて、人々の生活と労働を破壊する政治が続いていることから発生しています。巷間言われる「決められない政治」がその原因だというのはためにする議論で、消費増税のような、民意に背く「決められる政治」を正当化することがその狙いです。こうした閉塞感をもたらし、民意無視の「決められる政治」を断行しようとしている主体は、「二つの異常」(対米従属・財界中心)にとらわれた諸政党とそれが構成する政府です。さらに根源を探れば、多国籍企業が支配するグローバル資本主義に行きつきます。リストラ・賃金抑制・福祉削減・庶民増税(=法人減税)等々は多国籍企業が各国政府に競争させ、実行させてきました。これを打開するには、各種の直接行動を含めて国際世論を盛り上げることで、グローバル資本主義を民主的に規制することが必要です。各国政府にもグローバル資本主義に追従するばかりでなく、自国の国民経済に責任を持った対応を迫ることが必要です。その際に直接制による政治参加も含めて、やはり決定的なのは選挙による真の意味の政権交代ないしは、民意を代表する政党の得票・議席の増加で政府の政策転換を迫ることでしょう。

 このように政治の行き詰まりの根本原因は、グローバル資本主義へ追随する政府による民意無視の政策断行にあります。代議制民主主義そのものが行き詰まっているのではありません。もちろんその劣化は重要な問題であり、直接制の導入も必要ですが、それはあくまで代議制民主主義の正当性回復の努力と合わせて行わねばなりません。民意に沿う政策を掲げる度合いに応じて、各党の議席占有率が決まるように、選挙制度と(政策論争を中心とする)選挙戦のあり方とを見直していくことが必要です。このような努力の必要性を看過して直接制の導入だけを強調するのは適切ではありません。そういう意味では、小熊氏の代議制民主主義批判のやり方は問題の本質を見失わせ、解決方法についてもミスリードするものだと言えます。

 ところで「朝日」は「二つの異常」の現体制を擁護する社論を明確にしており、今日の日本の政治経済の行き詰まりとそれによる人々の閉塞感を作り出した支配層のイデオロギー装置となっています。今回の総選挙においても、民意を意識した政策論争による選挙戦に資するのではなく、それとは乖離したところで人々に「政権の枠組」に目を向けさせる役割を果たし、結果的に自民党圧勝の流れに貢献しました。このように代議制民主主義を劣化させる方向に加担しておきながら、あたかも他人事のようにその劣化を問題視し、直接制に食指を伸ばした記事を提供しています。以前からいろいろな識者を登場させて直接制に触れていましたが、まったく無責任というほかありません。本質的には、ジャーナリズムとしての批判的機能を喪失した体制擁護派でありながら、気分においては「反体制」を演出する、という欺瞞に陥っています。これは普段は体制擁護の論陣を張る一方で、たまには体制に反発する民意も「不偏不党」的に紹介した、というほどにも評価できません。あくまで体制擁護の立場から不満へのガス抜きを狙い、また体制批判が、代議制民主主義による本当の意味での政権交代に向かわないように、ゲリラ的抵抗で終わるように仕向けています。少なくとも客観的にはそのような効果をもたらす報道姿勢だと言わざるを得ません。

 

 

          自分の社会的位置づけ

 今日の社会進歩の障害となっている重要な問題として、自己責任論とそれに基づく各種バッシングがあると思います。中国文学者・興膳宏氏の「杜甫生誕1300年 理想持ち続けた希有の詩人」(「しんぶん赤旗」20121211日付)はそれについて考える一つの参考になります。

 興膳氏によれば「詩聖」杜甫は「過去の詩の集大成者であると同時に、未来を切り開く先駆的な役割も果たしてい」ます。彼は中国詩の伝統である社会批判の「精神を最も生き生きと体現し」ていますが、それは「自分の社会的位置づけ」を客観的に捉えることができたためです。杜甫は士族身分の特権として租税や兵役を免れていましたが、出世せず、貧乏でした。したがって辛い経験ばかりだけれども「まして一般の民衆は不安だらけに違いないと述べてい」ます。つまり彼は「自分の不幸を決して自分だけの問題とせず、わが経験を通して常に社会的な弱者を思いやる目を失わなかった」のです。社会批判が謙虚な自己認識と温かい他者認識とに裏付けられており、まさに客観性とヒューマニズムが統一されています。若いころ、文庫本で宮本百合子『播州平野』を読み、うろ覚えですが、その解説に確かこんなことが書いてありました。時代の先覚者として宮本顕治・百合子夫妻は治安維持法による特別の迫害を受けましたが、百合子はむしろ自身の苦難を日本中の普通の女たちの苦難の中に位置づけた、と。事実として当時の日本社会において民衆から隔絶して進歩的であり、逆にそのために排斥された人が、決しておごらず「自分の社会的位置づけ」を民衆の中に置くことはなかなかできることではありません。杜甫の自覚的立場をさらに進めたものでしょう。

 今日の競争社会では、諸個人が相互に対等平等な関係を健全に形成することが困難です。相互無理解をはさんで、自己責任論的正義感から「自分はきちんとやっているのに、××は既得権益にアグラをかいている。△△はやるべきことができない」といった妬みや歪んだ優越感などにとらわれ、週刊誌ネタ的人間観に陥ることが多くなりがちです。自分の困難を客観的に見られず、社会の中に位置づけられず、見渡せる範囲の人間関係を歪んで見てしまえば、バッシングの快感に身をゆだねることになります。自分の置かれた状況を社会の中に客観的に位置づけられるなら、他人に対しても同様に見ることができ共感が働き、同じ人間として見ることができます。それは杜甫や百合子のような立派な人にしかできないことではなくて、なかなか難しいけれども本来は誰にでもできることでしょう。様々な問題を抱えているとはいえ、この民主主義社会においてそれは普遍的に可能なはずであり、その大切さを自覚した人は押し付けがましくなく謙虚に実践すべきでしょう。声高なバッシングの隣にあっても微笑の余裕をもって。

 

 

          自立と分断 自立と連帯

商品経済において自立と分断は表裏のものです。特に搾取社会である資本主義社会において、個人から見れば自立であるものが搾取者=支配層から見れば分断となります。対して自立と連帯の結合もありえます。これは本格的には社会主義・共産主義社会において実現するものですが、資本主義社会においても資本と市場とに対する一定の民主的規制の下に部分的に実現可能です。

今日、新自由主義的立場から個人の自立・地方の自立ということが喧伝されていますが、これは政府の公共的役割の抑制と分断支配の強化を意味します。自立という本来積極的な意味を持った言葉が表看板として使われる裏で、実際には分断の意味に転用されていると見るべきでしょう。

分断とセットの自立は資本主義的自立であり、競争と搾取を強化する自立であり、それは孤立に近いもので、「諸個人の自由な不幸が全体の自由な不幸の条件となる競争社会」をもたらします。連帯とセットの自立は社会主義的自立であり、共同に自覚的に参加する自立であり、孤立ではなく、「諸個人の自由な発展が全体の自由な発展の条件となる協同社会」をもたらします。資本主義社会の枠内でも、それを理念的に意識することは様々な改良の闘いに資することになります。

<「自立と分断」から「自立と連帯」への転換>は、上記の<バッシング的人間・社会観から「自分の社会的位置づけ」の自覚への転換>と並んで、啓蒙だけでない運動と制度改革による克服を要します。運動への参加の経験やよりディーセントな(格差と貧困を抑えるような)社会制度への改良がそうした転換の有効性を実感させ加速させるでしょう。

以上、多分に観念的図式の域を出ませんが、東日本大震災の支援活動の中には「自立した連帯」の実例があるように思います。復興のため支援団体を立ち上げた佐藤柊平・木村彩香・細田侑という三人の199192年生まれの若者座談会「『自分たちが生きる地域』のために」(『世界』1月号所収)には自然体で頼もしい実践者たちの姿があります。最初は地元の人々から警戒されていても、やがて喜んでもらえる関係を築いていく中で「第三者だからできるというか、そこにずっといないなりのやり方もあると思う」(214ページ)ようになります。被災者から感謝されても「長期的には、何も生み出していないというか。これから、やれることはいっぱいあると思う」(215ページ)と、おごらずしかも前向きに自覚し、震災発生からの時間の経過を見つめながら「落ち着いてきたからこそ、声をかけてくれる人、いるよね」(同前)と支援の輪を広げる方向にも思い至ります。現地の実情に即し、自分たちの活動を客観視する目も育て、学びもある……被災者との触れ合いの中でそうなってくる模様が次のように生き生きと語られています。

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佐藤 コミュニケーションを深めて、知り合いが増えていくと、「支援に行く」というより、「会いに行く」という感じになりませんか。その地域に興味を持ったり、地元の人とお茶を飲んだり。

細田 何か、いっぱいもらうよね。物だけじゃなくて。

木村 わたしも、何か心に浮かんでくる人がいるから、「また会いたいな、手伝いに行かなきゃ」、という感じです。「被災地支援」という意識はあまりなくて、義務感とも違う……何なんでしょうね。それから、細田君が言ったみたいに、自分が暮らす仙台や、実家の福島でも将来的に考えていかなければいけない課題が、被災したところに現れていて、自分にとっての気付きがあるから、行かずにはいられないというか。

            214ページ

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 「義務感とも違う……何なんでしょうね」。ここに実践者が切り開いてきた「自立した連帯」を支える情熱と気質というか人間像がにじみ出ているように思います。

 

 

          自立した連帯をつくる 教育の視点から

 『経済』1月号所収の牧柾名・山科三郎・世取山洋介氏による鼎談「教育の問題をどう考えるか いじめの問題から子どもの権利条約へ」は新自由主義の競争教育などを論じる中で、自立した連帯にも触れています。

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 パリ・コミューンというのは、1871318日から72日間つづいた、プロレタリアートの権力の樹立をめざす世界史上最初のこころみで、自立した個人が集まって、共有するものをつくりだし、その人々による自律した共同体をつくろうとした社会でした。教育に関していえば、支配階級による教育の独占をはじめて打ちこわしたもので、学校の民主化にたいする、また世俗的で、無償の、義務制の、全面的な教育に対する、労働者階級の努力をも実現しようとするものでした。パリ・コミューンは、プロレタリアートの精神の解放と独立をみずからのもうひとつの課題とし、新しい生活を打ちたてることができる人間の形成がコミューンにとっての緊急事であり、そのことを実行するために、コミューン議会に教育委員会が設置され、この委員会は「無償、義務、完全な世俗教育の布告を準備すること」を任務としていました。パリ・コミューンは72日間という短期間で潰されてしまいましたけど、自立した人たちが自律した共同体を創ろうとしたことなど、私たちが追求したい事柄、教訓を多く含んでいると思います。       149ページ

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 パリ・コミューンが求めたものは、無償教育のような具体的施策においても、自立した諸個人がつくる自律した共同体という理念においても、今日に至るも依然として新鮮であるように思われますが、これに対して、現代日本の現実はどうなっているでしょうか。

「新自由主義が徹底していけば相手を利用する人間になっていきます」(152ページ)。国連子どもの権利委員会から日本の競争教育は警告を受けるような状態ですから「日本人は、相手の立場から自己の営みの意味を捉え直すという思考力が弱いのではないか」(同前)と思わざるを得なくなっています。たとえば過激な新自由主義者・橋下徹氏は教育を「競争と強制」と捉えており、競争社会に生きる多くの親たちに受け入れられているようです。しかしこのような社会状況と教育観・教育施策こそが「子どもが人格形成の危機にある理由」(147ページ)です。「競争と強制」によってではなく、「『受容的・応答的な人間関係』のうえに学力が形成されるわけで」(同前)すから、「子どもが自由に欲求を表現して、大人がきちんと対応するという人間関係を再構築することが一番重要だと考えます」(同前)。

そのためには「公教育の中にまで入ってきている競争主義をどう排除していくか」(148ページ)が問題となり、鼎談においては「社会のあらゆる場面で新しい動きをしている層との連携」(同前)や「地方での教育実践の事例」「親子のさまざまなとりくみ」(153ページ)などに打開の方途が探られつつ、最後には社会変革に言及されます。ここで教育と経済との関係が問題となります。「教育学では教育は経済からは独立しているべきと主張されてきたのですが」(147148ページ)、これは教育行政といった政治次元において妥当する原則です。たとえば財界の意向に教育が従属することはいけない、というようなことです。しかし社会全体を見る一般論として言えば、経済のあり方が教育を規定するということは事実としてあります。ならば一般的には課題は「どのようにして経済からの要求を抑え、経済からの独立を図るか」(148ページ)ではなく、経済そのものを新自由主義からルールある経済社会に変えることです。それは「知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力でもって、人間的な労働生活を送り、未来社会の建設に参加していくことができるという未来社会像」であり、そこでの教育には「連帯型、協同型社会を担える共感力や表現力、道徳性をいかに育てるかという課題意識」(佐貫浩「今日における教師の専門性のあり方を考える」『前衛』20125月号所収197ページ)が求められます。今日、現にある新自由主義経済による教育支配の政治を排除するとともに、経済のあり方そのものを変革しそこにふさわしい教育のあり方を考えることが教育のオルタナティヴの追求につながります。もちろんそうした未来社会においては教育の自由が尊重され、教育への不当な政治支配が排除されるべきことは当然です。

ところで鼎談は新自由主義教育を軸に議論されており、それに合わせて軍国主義・天皇制・戦争責任・教育の軍隊化などといった保守反動の問題も提起されているのですが、現時点における両者の関係は必ずしも明確にされていないように思います。これに関して保守反動の論客がなかなか本質的な指摘をしています。

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「グローバリズムや小泉構造改革の影響で、安定した仕事につけず人間関係でも孤立した人々が激増した。そんな人々の一部が『誰からも必要とされない無価値な自分』に履かせるゲタとして愛国心を使い、他人をたたいて憂さを晴らしている。『国を愛し、行動する自分は、そうでない人々より価値がある』というわけだ」

小林よしのり「朝日」1227日付

「共同体を失って砂粒のようにばらばらにされ、他人に認められたい願望がまったく満たされない。そんなネット右翼のような人間たちの個をどう安定させるか。それを政治家がやらなければならない」      同前

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 どうやらネット右翼と「内ゲバ」状態らしい小林氏が、彼らの本質を洞察しつつ、保守反動の立場から新自由主義の克服を図っているように見えます。しかし大勢としては逆に橋下徹氏などのように新自由主義の立場から保守反動を支配層に都合よく利用しようとしているのではないでしょうか。彼の「君が代」強制や思想調査など一見保守反動の施策に見えるものも、反動的ロマン主義のなせる業というより、企業における資本の専制支配の貫徹を自治体内に模したものでしょう。それらはウエットというよりきわめてドライな印象を受けます。義理・人情ではなくカネ・儲けです。

それはともかく小林氏の述懐からわかるのは、ネット右翼の人々は新自由主義の支配層的にはもちろん、保守反動的にも救われないということです。客観的には彼らは左翼のすぐ隣にいます。新自由主義支配層の保守反動利用は安倍政権で活発化するでしょうが、少なくとも客観的には何ら問題を解決する展望はありません。そこで新自由主義と保守反動のイデオロギーが排外主義も利用してどこまでそれを糊塗するか、ということになり、それだけに暴発的な危険性に要注意です。鼎談で世取山氏はこう発言しています。

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 新自由主義は個々人を競争させてバラバラにさせます。国民の間に生じた分断を繋ごうとしてもなかなか繋がらない。「心のノート」もその難問への挑戦であったし、最後は超然たる世界の話、人間の力を超える「畏敬の念」の話を投入してなんとか成り立たせようとしましたが、とてもそんなことでは分断された人びとは繋がらないわけです。新自由主義の先をいっているアメリカをみると、大リーグとか娯楽を通じての国民統合しかありえないように思えます。享楽的に一体感を醸成する以外に新自由主義の側の手もないのではないでしょうか。新自由主義政策では「国民統合」を図ることは不可能だと私は見ています。

         145146ページ

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 基本的には同感ですが、不可能を可能にしようとする特殊日本的無理に警戒し(先の小林氏の記事の隣で斎藤環氏が「反知性主義」で「空疎で前向きな感性」のヤンキー層を日本的保守政治構造に位置づけている。眉唾かもしれないけれども面白い)、何よりも草の根民主主義の共同を作り上げていかなければなりません。 
                                 2012年12月30日




2013年2月号

         2%物価上昇目標の愚

 昨年末総選挙の結果成立した安倍政権は新自由主義的かつ保守反動的です。その危険な政策は始まっていますが、夏の参議院選挙までは「安全運転」の思惑もあり、憲法改悪などはあまり表に出さずに、もっぱらアベノミクスを喧伝しています。その「三本の矢」(財政・金融・成長政策)のうちでも注目されているのが、無制限の金融緩和によるインフレ・ターゲット政策で、消費者物価上昇率・2%目標を日銀に強要しています。結論的にはおそらくこれは実現不可能であり、また仮に実現すれば有害であり、いずれにせよ人民にとっては有害無益な経済政策です。

 簡単な話です。人民にとっては賃金や所得が上昇することが重要であり、それを基準に見ればいいのです。今までもそうだったのですが、今後も日銀が供給する際限ないマネーの多くは決して実体経済の拡大には回らず、銀行に滞留したり企業の内部留保に必要以上に死蔵されるか投機資金となって資本主義経済の寄生性・腐朽性を増すばかりでしょう。仮に消費者物価が2%上昇しても、賃金や所得が上昇することはなく、人民は踏んだり蹴ったりでしょう。今日の不況対策において、賃金や所得の上昇という肝心要を欠いた経済政策は無意味であり、したがって財界・大企業奉仕の保守政治に一切の政策的期待は無用です。ただ人民の運動の圧力で消費増税を断念させるなど、悪政を若干でも押しとどめる努力をするほかありません。

 物価2%上昇目標のバカバカしさについてもう少し考えてみます。まず御用学者などよりも庶民の常識のほうがいかに健全かを見ます。日銀が1月23日発表した「2%の物価上昇目標に関する付属資料」は「物価下落の原因として企業が賃金を引き下げたことを挙げました」(「しんぶん赤旗」125日付)。また日銀の「生活意識に関するアンケート調査」(201212月調査)では物価上昇について「どちらかと言えば困ったこと」が85%と圧倒的で、「どちらかと言えば好ましいこと」はわずか2.1%です。物価下落については「どちらかと言えば好ましいこと」が34.5%で、「どちらかと言えば困ったこと」は24.7%です(同前記事)。マスコミが常に「デフレ」は困ったことだ、物価を上げる必要があると喧伝しているにもかかわらずこの結果です。生活者は賃金と所得の下落に直面しており、その上での物価上昇を嫌うのは当然です。人々は「雇用の増加と賃金の上昇、企業収益の増加などを伴いながら経済がバランスよく持続的に改善」(同前)することを望んでいる、と日銀は見ています。このような人民の状況と願いを把握しているならば、日銀は政府と御用学者に追随して「2%物価上昇目標」を決定するような愚策を断固拒否して、物価下落を伴う長期不況に対する政府と大企業の責任を反問すべきであり、物価安定と投機規制という本来の役割に徹すべきです。そこまで要求するのは実際には無理としても、独占資本主義体制内での「独立性」さえかなぐり捨てようとしている日銀に対しては、常に人民の生活と国民経済のあり方の観点から、物申し圧力をかけていく必要があります。

 物価変動の主な要因は(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給です。不換通貨が減価すれば商品価格が上がり、生産性が上昇すれば価格は下がり、商品への超過需要があれば価格が上がり、超過供給(需要不足)があれば価格は下がる、という具合です。本来の定義ではインフレとデフレは「(1)通貨価値」にかかわる物価変動です。確かに高度経済成長期の物価上昇では不換通貨の供給が重要な原因でしたので、それをインフレと呼ぶのは妥当です。しかし今日の物価下落において通貨が不足しているわけではなく、日銀は一貫してじゃぶじゃぶの通貨を供給してきました。物価下落の主な原因は商品に対する需要不足ないしはその供給過剰にあり、これをデフレと呼ぶのは不当です。にもかかわらずデフレと呼ぶことによって、あたかも今以上に無制限な金融緩和によって物価を上昇させることが必要かのような錯覚を起こさせています。

 物価変動は現象的にはすべて商品に対する需給変動を通して現れますが、本質的にはその原因を分析して対策を打つ必要があります。バブル崩壊後の日本経済の「失われた20年」と言われる長期停滞は確かに異常ですが、その原因は主に実体経済にあることを認識しつつ、そこでの金融の状況をつかんでいくべきでしょう。もし通貨価値が安定し、商品需給が均衡したもとで、この時期の緩やかな物価下落が実現したのならば、それは生産性の上昇を反映したものであり、問題のない健全な経済発展を表現していることになります。しかしもちろん現実はそうなっていません。不換通貨は過剰供給され、したがってむしろ潜在的には物価上昇圧力があってもよさそうな中で、有効需要不足=過剰生産の要因が圧倒することによって物価が下落してきたのです。つまり様々な原因によって現出する物価変動の量的結果だけを見て、経済の健全性を判断することは無意味であり、その原因を把握し対策を練ることが大切なのです。したがって「2%物価上昇目標」なる経済政策は無意味なのです。いや、無意味というより、この政策の狙いは、物価下落の真因である商品への需要不足という要因を相殺して、不換通貨の過剰供給によって物価上昇を実現することなのだから、実体経済の病理を金融政策の病理で隠蔽することに他なりません。物価の下落要因と上昇要因との相殺で若干の上昇を実現する、というのがこのインフレ・ターゲットの狙いであり、それは現象的・量的には「適切な」物価上昇幅の実現に見えますが、質的には経済の破壊の上塗りにすぎません。実体経済に対しては需要不足を解消し、金融に関しては異常な金融緩和を是正するという、両面からの質的に正しい政策の結果として、物価の安定という適正な量的結果が導かれねばならないのです。

 日本経済の長期停滞の根本には実体経済における深刻な需給ギャップがあります。工藤昌宏氏によれば、GDPギャップが1998年度にマイナスに転じた後、2007年度にいったんプラスを示したものの2008年のリーマンショックを機に再び大幅なマイナスに転じ今日に至っています(「日本経済の回顧と展望 2012-2013年」37ページ)。友寄英隆氏GDP統計を基にした「需給ギャップ」の推計の問題点を注意喚起しつつ(氏に問い合わせたところによれば理論上の問題の他に現実を過小評価している点もある)も、欧米をも含めて大幅な需要不足を示し、その原因として新自由主義型の資本蓄積によって「格差と貧困の増大が構造化している」ことを指摘しています(08/09年恐慌から4年 世界資本主義の現局面をどうみるか」83ページ)。

 需給ギャップ(需要不足)の中身を見ましょう。総務省の「家計調査報告」と「消費者物価指数」から作成した資料によれば、勤労者世帯の可処分所得、家計消費支出と消費者物価指数とはおおむね連動して下がっています(「しんぶん赤旗」17日・17日付)。所得減少に伴う消費支出削減による需要不足が物価下落を招いていることが明らかです。「朝日」のコラム「経済気象台」といえば、いつも資本家と御用学者が匿名で傍若無人な本音を発し、反人民的な企業行動と経済政策を主張しているという体のモノですが、珍しく比較的まともな発言に接しました(署名「千」)。

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 グローバル化のなかで企業が競争力を確保するために人件費を圧縮し、これが消費など個人需要の大きな減退をもたらしたと考えられる。

 その一方で企業は輸出の拡大、利益増を果たしたが、それを設備投資の拡大に十分まわさなかったので、国内民需が減少した。

 つまり、金融緩和が不十分で流動性が足りず、円高でデフレになったのではない。グローバル化に対処するために大幅な賃金カットを進めたところにデフレの正体がある。

 そこへ日銀がマネーを追加し、円安に誘導しても、グローバル化の中でこのアンバランスが改善しない限り、デフレは解消しない。それどころか、マネーを大量供給して円の価値を下げ、インフレで金利が上昇すれば、国債を保有する金融機関が危機に陥り、国民はコスト高で困窮するだけだ。          20121219日付

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 通俗的に「デフレ」と呼ばれている、物価下落を伴う長期不況の何が問題かと言えば、物価が下がっていること自体ではなく、人々の生活と国民経済が縮小再生産に陥っていることであり、その象徴・現象形態として物価下落はあります。この物価下落は主に生産性上昇を表現する正常なそれではなく、「労働力の価値以下の賃金」と「価値以下の市場価格」が常態化し、生活と営業が再生産不可能となる異常な水準の物価下落であることに問題があるのです。上記のようにこの異常な不均衡の中心は賃金・所得の減少にあるのだから、その改善をテコにして生活と営業の再生産可能なまともな国民経済を取り戻すことが必要です。

 労働総研の「2013年春闘提言」によれば、働くルールの確立(サービス残業の根絶・有給休暇の完全取得・週休2日制の完全実施など)や1997年水準までの賃金回復、非正規雇用の正社員化によってGDP30.4兆円拡大し(経済成長率を6.47ポイント押し上げる)、736.6万人の雇用創出につながります。必要な原資は56兆円で、全企業が抱える内部留保460兆円の12.2%の活用で可能です(「しんぶん赤旗」20121230日付)。

 問題はこのような明確なオルタナティヴがあるにもかかわらず、マスコミで喧伝され、人々に意識されるのがアベノミクスのような偏頗で奇妙な政策ばかりだということです。それに反対するにしても議論の基準がそこにあって、本質的でない議論がアレコレされるばかりで、根本的な正論が独立して問題とされることがありません。これでは人々が実感にふさわしい政策的展望を持つことができません。総選挙後の世論調査では自民党の支持が高くなっていますが、その背景にこうしたことがあるでしょう。前出の日銀「生活意識に関するアンケート調査」を見ても、物価問題での人々の実感は支配層の意向とは明らかに外れたところにあります。ここに展望あるオルタナティヴを持って的確にアプローチすることが可能であり、「外さず当てる」政策宣伝の手だてをとるべき急所がまさにあるのだと思います。

 私は以前より、今日の物価下落をデフレと表現するのは誤っていると強調してきました。デフレは「継続的な物価下落」と定義されています。この用語法の問題点は、第一に、これでは物価下落の原因を分析的に明らかにすることができず、物価下落そのものがいいか悪いかという無概念的な議論を誘発することです。第二に、しばしば本来の意味としての「不換通貨にかかわる物価下落」という意味とのダブルミーニングで使用され、需要不足などの他の原因による物価下落についても不換通貨の増発という対策があり得るかのような錯覚を起こさせることも問題です。「継続的な物価下落」は混とんとした現象としてあくまでそのまま呼べばいいのであり、「デフレ」などという用語(しかも誤用の)を当てることで何か解明した気になるのは百害あって一利なしです。「継続的な物価下落」は、それに接する者による科学的分析が待たれている現象であるという自覚が必要です。

 インフレ・ターゲットへの批判でも以上のように、「継続的な物価下落」の原因を分析的に明らかにすることで正しい政策も対置されるのであり、そこにはデフレという用語は必要ありません。むしろデフレ用語の誤用をカギに政策の誤りに切り込むことで、実体経済と金融の双方をいっそう破壊するインフレ・ターゲットの深刻な理論的意味を明らかにできます。

 以上を前提にしつつ、それでもなおデフレの本来の科学的定義に反して、「継続的な物価下落」という通俗的定義がなぜ採用されているのか、ということは一つの問題ではあります。それをわかりやすく説明するには、インフレと好況による物価上昇との区別という問題に迂回することが適当でしょう。インフレは不換通貨の減価による物価上昇であり、価格の価値への一致の運動です。通貨が減価した場合、価格がそのままでは商品の価値以下の価格になってしまいます。そこで通貨の減価によって価値以下の価格とされた商品は価格を上げることで元通りの価値を回復します。したがってこの価格上昇運動は不可逆的です。それに対して好況期における物価上昇は、超過需要による価格の価値からの上方乖離であり、やがて超過需要の解消によって上方乖離も解消され価格は価値水準まで下落します。つまり好況期における価格上昇は可逆的です。以上のように、インフレによる価格上昇は価値・価格一致の運動であり、不可逆的・恒常的であるのに対して、好況による価格上昇は価値と価格の乖離の運動であり、可逆的・一時的だと言えます。もちろん現実の価格上昇過程はいずれも商品への需給を通して行なわれるため現象的には区別がつきにくいものであり、両者が何らかの割合で混在していることもあるでしょう。しかし本質的には以上のように区別しうるものです。

 ひるがえって以上と「対称」的に今日の物価下落を見てみます。ずぶずぶの金融緩和が続いていますから、決して不換通貨の量が不足して「増価」し、それに合わせる(価値・価格一致)ために商品価格が下がっている、というような事態ではありません。明らかに不況下における需要不足による、価格の価値からの下方乖離が起こっています。通常ならば景気循環の進行により、需要不足は解消し、この下方乖離も解消するはずです。不況による価格下落は価値と価格の乖離の運動であり、可逆的・一時的だと言いたいのです。ところが実際には不可逆的・恒常的な物価下落が起こっています。この現象面だけに着目すれば今日の「継続的な物価下落」をデフレと呼ぶことも可能と思えます(ここにデフレの通俗的定義の一つの通用根拠がある)。ただしそれは、不換通貨価値の変動に伴って価値・価格一致を導く物価変動というインフレ・デフレの本質的規定からは外れます(もちろんこの本質規定は、インフレやデフレの実際の跛行的波及過程を捨象した次元でのものであり、現実そのものを均衡的に美化するものではない)。この現象と本質のずれを演出しているのが、先に工藤氏と友寄氏とが指摘した政府統計のGDPギャップ、つまり需要不足の恒常的存在でしょう。

 デフレと不況による物価下落の本来の定義によるなら、前者は不換通貨価値の変動を動因とした・商品価値=価格の一致がもたらす不可逆的・恒常的運動であり、後者は景気循環を動因とする需給変動による商品価値=価格の乖離がもたらす可逆的・一時的運動です。しかし今日の物価下落はある意味両者の性格が混在しており、長期不況による需要不足の恒常化によって商品価格の価値からの下方乖離が常態化し、物価下落が不可逆的・恒常的に生じている、とまとめることができます。もちろんここでは、不換通貨が不足して「増価」しているわけではないので、本質的にはデフレは起こっていないのですが、にもかかわらず、継続的な物価下落が生じることで「デフレ的現象」が起こっているといえます。需要不足の恒常化という本来起こりえないことが起こっている点がこの矛盾・ねじれの根拠です。

 そして需要不足の恒常化の原因は「増大する失業、低賃金の非正規雇用の拡大など、これまで十数年にわたる『新自由主義』型の資本蓄積による格差と貧困の増大が構造化している」(友寄氏前掲論文84ページ)ことにあります。このような日本資本主義は、「労働力の価値以下の賃金」と「価値以下の市場価格」が常態化し、生活と営業が再生産不可能となる異常な水準の物価下落にあえいでおり、これは資本主義の危機の一つの特殊なあり方を示していますが、以下ではこれもまた資本主義の基本矛盾の現れとして捉えてみたいと思います。

 友寄論文では、今日の世界経済危機をかつての大恐慌に比べて過小評価する見解に対して「なりふりかまわぬ財政、金融の異常な膨張によって、かろうじて大恐慌≠まぬかれているのが、この4年間の実体経済のすがたである」(79ページ)と批判されます。資本主義経済は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係がそびえ立っています。換言すれば無政府的生産を土台とした搾取経済が資本主義経済の特殊性であり、これを基礎として他の経済的社会構成体ではありえない経済恐慌が起こります。19世紀イギリスを中心として世界資本主義が確立すると全般的周期的過剰生産恐慌が襲うようになります。以後、資本主義の歴史はその体制存続をかけた恐慌対策の歴史ともいえるわけで、その体制的本質を残したまま、生産の無政府性ないしは搾取経済に対して部分的な修正や規制を加えることで、激烈な恐慌を緩めたりコントロールしたり、あるいは矛盾を何かに転嫁したりしてきました。上記の友寄氏の指摘もこうした「体制マネジメント」の一形態でしょう。

 しかしこれらはモグラたたきにすぎず、こちらの矛盾を手当てすればあちらの矛盾が噴出します。新自由主義的資本蓄積の場合は、むしろ開き直って諸矛盾の手当てを放棄しているため、資本主義は過剰生産恐慌の究極の根拠である「生産と消費の矛盾」ならびに生産の無政府性を克服することはできない、ということをさらけ出しています。強搾取による格差と貧困の拡大、それが生み出す過剰貨幣資本による金融投機の激化などにそれは見られます。安倍政権の経済政策は福祉削減、大企業減税=庶民増税、金融緩和による投機資金の供給であるので、資本主義の根本矛盾を規制するどころか激化させる方向を向いており、日本経済の長期停滞を克服することができないばかりでなく、混迷を深化させることは間違いありません。週刊誌に踊る「安倍バブルで一儲け」という類の扇動は資本主義の本質を表現したあだ花です。生活保護バッシングを推進力にした福祉削減と無制限の金融緩和によるバブル演出こそまさにアベノミクスの本領の二様の象徴であり、その意味するところは資本主義の根本矛盾の深化とバブル的弥縫策の無展望です。

 本来ならば、恐慌を軸にして物価変動と通貨、そして経済政策を考えるなら、金本位制から管理通貨制度への移行、そこでの中央銀行の役割、IMF固定レート制の生成と崩壊、基軸通貨ドル体制の変遷、ケインズ政策と新自由主義政策、等々についてきちんと考えるべきです。ただここでは、経済的社会構成体の一つとしての資本主義経済の特殊性というきわめて基礎的な視点からだけでも言いうる点を述べてみました。すると今華々しく言及されているアベノミクスがそうした素朴な視点から見て裸の王様にすぎないことがわかります。世上、「デフレ」と言われる「物価下落を伴う長期不況」はまさに資本主義の基本矛盾の現れであり、それを放置するどころか激化させながら、的外れの弥縫策を施すことがいかに無力かつ危険か、これを人々の共通認識にしなければなりません。体制認識の違いが土台にあるとはいえ、(一部には懐疑もあろうけれども)支配層とマスコミのあまりに軽薄なアベノミクス観が人心を覆うことがないようにすることは、間もなく牙をむくであろう自民=維新等の改憲タカ派路線との闘いにも決して劣ることのない重要な課題です。

 以上、アベノミクスのインフレ・ターゲット「2%物価上昇目標」設定そのものが誤りであることを述べました。しかしこの目標の実現が可能か、あるいはハイパー・インフレへの転化はありえるか、という問題自体は残っています。バブル崩壊後、日銀はゼロ金利や量的緩和など「異常」を自認する金融政策によってじゃぶじゃぶの資金供給を追求してきましたが、物価は上昇していません。これは実体経済が停滞する中で資金需要がなく、通貨が蓄蔵貨幣化しているためです。それ自体異常な状況ですが、かといってインフレ高進という逆の異常に陥る可能性がないかというとそうでもありません。もし何らかの原因で「供給がボトルネックになっている状態で、通貨要因からの名目的な超過需要が発生するとき、インフレーションが顕在化すると言え」ます。したがって「供給のボトルネックを発生させるような外生的ショックが発生する場合、例えば、石油ショックのような国際的な商品の供給における激変や国際通貨国アメリカの国際収支節度欠如によるドル暴落の危機、あるいはまた我が国の国際競争力低下による対外不均衡(赤字)発生の脅威などの事態が起こったとき、『ジャブジャブなマネー』がインフレマネーへと転化する可能性があ」ります(松本朗「超金融緩和政策と『デフレ』が共存する条件―インフレ発生の可能性をめぐる一試論」、武蔵大学『吉田暁先生退職記念論文集』原稿より)。松本氏は「国内的要因による過剰資金のインフレ転化の可能性も考えなくてはなるまい」と注記しています。いずれにせよ、賃金の上昇を基軸にした内需拡大による国民経済の堅実な発展という王道を追求することが必要です。「生産と消費の矛盾」を拡大しながらインフレマネーの供給で経済成長を追求するという危険な道には、不発か暴走かという不毛の可能性しかありません。
                                 2013年1月31日



2013年3月号

          理念と社会変革

 品川正治氏はずいぶん変わった財界人だと思っていたのですが、それどころではなく大変な人物だということがわかりました。『世界』に連載されている自伝「戦後歴程」(3月号で第8回)によれば、科学的社会主義を深く学び、労働運動に邁進し、損保会社の経営者に転じた後も、当時の高度経済成長に浮かれるのでなく業界の使命を自覚した経営姿勢に徹したことが書かれています。所詮は自慢話だという懐疑的な見方も可能かもしれないけれども、私としては率直に受け止め、その高潔な人格と清廉な生き方に深い感銘を受けています。

 品川氏は「人間の救済をめざしたマルクスの論理、言説を口にしている限り、人間の道を守り通すことはできるだろう。しかし人間のための世界を実現する道は『政治』を通じてしかない。もう一つの日本を実現する道は『政治』しかない」(『世界』3月号、89ページ)と考え、イデオロギーと政治との距離、そしてあるべき政治のあり方を突き詰めていきます。氏の学びは、現実の変革を志すこのような問題意識の的確さ・切実さを土台としつつ、やり方も徹底しています。たとえば「マルクス・エンゲルス全集は、デスクから手の届くところに積み上げていた。『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』について原著に倍するノートを作った」(89-90ページ)という具合です(もちろん勉強の対象はマルクスに限らず、ウェーバー、ハイデッガー、アレント等々と様々)。独習のみならず、1970年代には、小森良夫・萩原延寿・川本和孝といった友人たちと、社会主義の理念・政治について定期的に論争し学び合うこともしていました(90ページ)。

 この品川氏にして、説くことに全力を傾けながらも、ままならぬ政治の現実を前にして、「自省の叫びをあげざるを得ない」(92ページ)とし、2012年末の総選挙・都知事選挙の結果に深く傷ついたことを告白するに至ります(同前)。社会変革を目指す人々にとって、この選挙結果を含む政治情勢の右傾化・反動化をどう深く解明するかは最重要課題であり、社会科学にとっては存在意義が問われる問題であろうと思います。

 国会議席の大半を保守反動と新自由主義勢力が占めるという現象の深部には、対米従属と大企業本位の「二つの異常」という支配体制の行き詰まりが本質としてある、という指摘はその通りです。しかし本質の解明にとどまるのではなく、それではなぜこの本質からそれを覆い隠すねじれた現象が生じるのか、それはどう克服すべきか、という問題意識(ないしは解決すべき課題)が提起されねばなりません。さもなくば、現実の中で見たいものだけを取り出し、見たくないものは見ないふりをすることになります。それは真に情勢負けを克服することにはつながらず、自己欺瞞につながり、変革の立場ではなく願望の立場に陥ることになります。

 各分野の社会科学はその総力を持って、変革を阻むものを暴き出し、その克服の方途を探らねばなりません。もちろんそれは現実の運動・実践とともに歩むものであり、「わかってからやる」わけではありません。しかしながらあえて社会科学の独自の課題は強調したいのです。88歳、病身の品川氏は政治状況にも傷つけられながらも、今なお青年のように探究を続けておられるように見えます。理念を深く学び掲げ説いて、現実の政治運動にもコミットしてきた大先輩の志を受け継いでいくような創造的な学びと運動が求められます。

 変革を阻むものとその克服の方途との解明という大きな課題の中で、若者をどう捉えるかということは比較的重要な位置を占めるのではないでしょうか。植上一希氏の「3.11後の若者の変化と主体形成のとらえ方 大学生・大学教育を事例として」は主に大学生を対象にして、批判的主体形成を阻む要素と、逆にそれにつながる要素とを分析し、支援の方向を考察しています。最も重要なのは、現在の大学生は新自由主義が浸透した社会の中で成長してきたことです。したがって一方では「新自由主義化によってもたらされる社会の諸矛盾を彼らは様々な形で経験している」(90ページ)わけですが、だからといって必ずしもそうした社会に批判的になるわけではありません。むしろ逆に他方では「彼らにとって、新自由主義によってもたらされる社会的閉塞感・無力感や自己責任イデオロギー・個体還元主義能力観は、非常になじみ深いものになってい」ます(同前)。植上氏は、前者から生まれる日常的批判感覚を知の枠組みや行動へと結びつけるよう支援することで、後者の負のイデオロギーや感覚を克服することを提起し、自らの教育実践の中から紹介しています。そのような支援の課題として、現実とそこで生きることとから乖離した知のあり方を反省し「現実社会に対して主体的にかかわっていく知の形成」(94ページ)が求められます。そのためには、主体である大学生の現実そのものを把握することの大切さが力説されます。また大学における体制的現実主義に対抗する「批判的で政策的な知」を作っていくことが必要です。最後に「学生が声を出す環境を、そしてそうした声の交流をもとに学び合う環境を作り出すという課題」(96ページ)が提起されています。

 長らく大学でも職場でも、青年・学生の場は、社会全体と同様に、というかむしろより強く新自由主義の浸食による個別化と分断によって、批判的主体形成が大幅に後退してきたと思われます。3.11後の社会的連帯を見直す機運の高まりが若者をどう変えていくか。それを見据えた支援がきわめて重要です。また植上論文では、新自由主義そのものが、一方で自己を支えるイデオロギーや感覚を生み出すとともに、他方では諸矛盾の展開によって自己を否定する批判意識=主体を形成するという両面から考察されています。この方法的枠組みは、変革を阻むものとその克服の解明という課題の中心に位置するものと思われます。

 植上氏は上記のように新自由主義のもたらすものとして個体還元主義能力観を挙げています。これは直接的には学生より労働者にとって深刻な問題です。もっとも、それが学生時代から植えつけられ従順な労働者を生んでいくという関係でしょうけれども…。労働に関することは、個人的に見える問題でも多くの場合、社会的に(労資関係的に)考えることが必要です。たとえば山垣真浩氏は労災補償について「労働者の過失・油断が原因の事故まで、なぜ使用者が責任をとらねばならないのか」(「新古典派雇用理論の問題点と労働者保護制度の意義 雇用関係を指揮命令関係とみる視点から」135ページ)という疑問に回答を与えています。これについては労働法学の通説では、労災は企業の営利活動に伴う現象だから、と考えられています。それに加えて山垣氏は使用者権限の一種である技術選択権を考慮します。労災の起き易い機械と起きにくい機械とがあり、使用者に労災補償に対する無過失責任原則を課せば、より安全な機械を選ぶインセンティヴを与えることになる、というわけです(135-136ページ)。これは資本主義社会の中で自己責任論を考える際の重要なヒントになります。

また労働者の「生産性」「仕事能力」は労働者の技能水準(人的資本)だけで決まるように見えますが、山垣氏はそうではないとしています。使用者の指揮命令権を考えれば、労働者の意に沿わない命令内容にもどれだけ我慢して労働を発揮するか、という事情が入ってきます。つまり労働者の「生産性」「仕事能力」には、技能水準だけでなく服従性という要素もあるということです(137ページ)。これは学生に浸透している上記の個体還元主義能力観への一つの反証です。

新自由主義の基礎である新古典派理論では契約自由の原則が尊重され、労働法の規制緩和が主張されます。労働市場における企業間競争を通して、労働条件の悪い企業は淘汰されるので労働法はさほど重要ではないというわけです。しかし「企業は労働市場だけでなく、商品・サービス市場においても競争してい」ます(139ページ)。後者の競争は労働条件引き下げ圧力をもたらしますから、労働市場だけを見た議論は間違いであり、労働者保護法制は資本主義社会では必要不可欠なのです。

新自由主義のもたらす自己責任論や個体還元主義能力観などは、各種バッシングのもとともなり、人々を分断し変革の連帯を阻害する重要なイデオロギーですが、それは新古典派理論からきています。新古典派理論は雇用関係をまったく見誤っています。それが想定する労働時間決定モデルの特徴は「使用者が全然登場」せず、「労働時間の決定主体はもっぱら労働者で」す(125ページ)。それは「労働供給の自己選択モデル」であり、「雇用労働者というより自営業者のモデル」です(同前)。一言でいえば荒唐無稽な雇用把握です。雇用関係とは資本=賃労働関係であり、搾取関係です。それを自由な市場関係に解消する新古典派は資本主義の本質がまったく分かっていないか、それを隠蔽しているのです。労働法制への規制緩和攻撃は、搾取強化という狙いを秘めながら、市場関係からすればまったく問題ないという弁護論を立てており、そこにこそ新自由主義=新古典派の最大の存在理由があるというべきでしょう。そうした主張は単なるイデオロギー的独断だと受け流される傾向があるでしょうが、山垣論文は新古典派理論に内在しながら「雇用関係を指揮命令関係とみる視点」を打ち出すことで、様々な立場の人々に対しても説得的にその限界を指摘して本質的批判を果たしたのだと思います。

2008年のリーマン・ショックを契機にして発生した世界恐慌に際して、「新自由主義は死んだ」という議論がありましたが、私は同調しませんでした。今、新自由主義的資本蓄積が行き詰まっており、日本における政治経済の混迷もそこからきていますが、支配層はケインズ主義も保守反動勢力も利用しながら、新自由主義政策の貫徹を策し危機打開を狙っています。利潤追求にとって搾取と投機の強化は不可欠であり、グローバル資本主義と新自由主義は一体不離の関係なのです。

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多国籍企業も金融産業も現在の状況を彼らにとって出口のない隘路とは考えていない。これらの企業の経営者にとっては、投資機会の減少、利潤率の低下、競争の激化、失業増と労働者の強まる反抗、企業に社会的責任を求める世論の高まり、資源の枯渇や自然環境の悪化、長期化する不況、金融・財政危機とバブル崩壊その他さまざまな形態で表れる資本蓄積の制約は、いずれも甘んじて受け入れるべき限界ではなく、あらゆる可能な方策を動員して克服すべき障害に過ぎない。

現状では、多国籍企業を始めとする大手企業や金融産業の経営者が、これらの障害を克服する方途として、新自由主義的な政策を放棄する兆しは見られない。むしろ、従来は資本蓄積に直接取り込まれていなかった公共財産(commons)を民営化し、飲用水や森林などを商品化し、エネルギーや農産物を投機市場に取り込み、さらに、CO2排出権を金融商品化するなど、あらゆる方策を通じて資本蓄積の余地を拡大しようとしている。その意味で、今回の金融・財政危機によって、新自由主義は決して崩壊していないし、それが引き起こした甚大な惨禍にもかかわらず、新自由主義が自然死することはないのである。

高田太久吉「経済危機下の欧州社会モデルと新自由主義」

『前衛』3月号所収、194ページ)

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その腐敗と本質的な意味での無展望・危機にもかかわらず、生き残りにかける支配層の反動的気概と狡知は上記のように実にしぶとく「偉大」であり、寸分の軽視も許されません。今後とも新自由主義支配下で政策論争やイデオロギー闘争が続きます。その中でも、山垣論文に見られるように資本主義の本質論でのイデオロギー闘争が重要な位置を占めます。それは新自由主義というものが「むき出しの資本主義」あるいは「資本原理主義」(上記の高田論文183ページでは、市場原理主義という言い方について、より正確には「企業」原理主義と呼ぶべきであろう、と書かれていますが、私は資本原理主義と呼びます)であるからです。また植上論文が指摘する(新自由主義が必然的に生み出す)日常的批判感覚をいかに有効な知の枠組みを通じて変革主体形成につなげていくかが問われています。その前に立ちはだかる新自由主義に影響された様々な意識とていねいに付き合い、生活・労働・諸運動の中で克服していくことが求められます。もちろん新自由主義だけが闘争の対象ではありませんが、それが中心であることは確かです。

いずれにせよ、社会変革を阻むものとその克服の方途との解明は、社会科学諸分野が総がかりで取り組むべき課題であり、今回の拙文はそのほんの一部に触れたにすぎません。正しいことは必ず実現するはずだという信念は必要ですが、現実はまったくそうなっていない以上、その原因とメカニズムを探求することは不可欠です。意気阻喪にも精神主義的頑張りにも陥らないために、熱い実践とともに冷静・清冽な指針がますます重要になっています。

 

          インフレ・ターゲットに成功はない

インフレ・ターゲットに成功の可能性はありません。三つのケースが考えられます。第一に、笛吹けど踊らずで、従来と同様にいくら日銀が金融緩和に取り組んでも、実体経済に資金需要がなく不況を克服できないケースです。賃金や所得を上昇させる政策がないので、依然としてこの可能性は高いでしょう。これが政策的失敗なのは言うまでもありません。第二に、何らかのきっかけでハイパーインフレを起こす場合で、これは最悪の失敗となります。第三に、首尾よく2%物価上昇目標を達成した場合ですが、賃金や所得が上がる保証はないので、人々の生活は悪化し不況も克服できないでしょう。これも経済政策としては失敗というほかありません。不況が続いて物価が上がるのではまさにスタグフレーションに陥ることになります。つまりインフレ・ターゲットとは、スタグフレーションを目標にするというバカバカしい経済政策だと言わねばなりません(スタグフレーションの可能性については「全国商工新聞」211日付で友寄英隆氏が指摘しています。)。

 ハイパーインフレの可能性についていくつかの見解を見てみましょう。大槻久志氏は、日本国債に国際的なアタックがかかった(財政状況からいって放っておけばそれは時間の問題だと氏は見ている)場合、日銀が無制限に買い支える必要があり、「そうなれば市中銀行に資金(準備)を供給するのと違って、政府に無制限に購買力を与えることにな」ります(「安倍政権の経済政策を検証する 破滅に向かって突進するのか」17ページ)。そこでただちにインフレになるわけではなく「需要が増えても国内生産力が対応して供給が増えれば、輸入原材料価格が上昇しない限り価格は上が」りません(同前)。逆に言えばその点が崩れればインフレが爆発するわけで、防止するためには「外貨準備、貿易収支、産業の国際競争力、産業構造といった経済の基礎体力」(同前)を維持・発展させる必要があります。

 上記の友寄氏の記事では、金融緩和によって「通貨・金融市場の資金過剰が際限なく続いていくと、いつか実体経済の場面でもインフレ期待が発生し、信用貨幣としての日銀券への信頼が揺らぎ(信用貨幣でありながら政府紙幣のような性格を持つようになって)、物価の名目的な上昇が起こる可能性があります」と指摘されています。これは必ずしもハイパーインフレについて述べたわけではなく、不況の継続と合わせてスタグフレーションの発生を警告したものですが、インフレ・ターゲット政策による暴走の可能性の指摘となっています。

 井村喜代子氏『日本経済―混とんのただ中で』(勁草書房、2005年)の第2部第2章第6節への補足で「デフレ」論と「インフレ・ターゲット」論を批判しています。インフレ・ターゲット批判に対して、岩田規久男氏は以下のように指摘します。……一方で日銀の貨幣供給量増大によってインフレ・ターゲットまでインフレを起こすことはできないと言いながら、他方では日銀の貨幣供給量増大の行き過ぎがハイパーインフレを惹起する危険性があると言うのは矛盾している……。これに対して井村氏は「矛盾していない」として、まずインフレ目標通りのインフレを起こすことができないことについては、インフレ・ターゲット論における貨幣数量説の誤りや実体経済の無視を指摘しつつ説明し、ハイパーインフレの可能性について次のように展開します。

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 超低金利が持続するもとで、日銀が実体経済の資金借入れ需要・銀行貸付けの必要をはるかに超えて国債買切り、当座預金の積増しによって膨大なマネタリーベースの拡大を続け、しかも日銀が「インフレへの期待感」を喚起するならば、そこでは価格上昇を見込んだ土地の投機的買付けが始まり、銀行がこれらに貸出しを増加していけば、価格上昇と銀行借入れにもとづいた投機的買付けとが相互に促進しあう事態が生じる危険がある。そこでは日銀の資金供給増大は銀行の土地担保融資を膨張させる基礎となるのである。あるいは国際的に投機活動が拡がっているもとでこのような豊富な貨幣供給が続いているならば、かつての原油価格の暴騰のように、なんらかの契機で一般商品の価格高騰に投機が入り込み、物価の急上昇の生じる可能性もある。    317-318ページ

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 新自由主義的資本蓄積=強搾取と金融投機化の下では、内需縮小による実体経済の停滞とそれに伴う過剰貨幣資本の流動化が生じています。そこで一方ではそうした実体経済の状況から、国民経済の再生産を阻害するような物価下落を克服して物価を適切な水準に持っていくことが困難であり、他方では資産価格の高騰を演出する投機資金が、資源・食料等をとっかかりに一般商品に流れ込み物価の急騰を招く可能性があります。つまり問題は実体経済と金融双方の病理にこそあります。それを放置してインフレ政策によって不況打開・景気回復を図ろうとするところに無理があり、停滞の継続かさもなくば無謀な破滅を招く可能性があります。賃金・所得の回復による内需循環型経済への転換による堅実な地方経済・国民経済の構築が求められているのであり、手っ取り早い金融的解決策はありません。大槻氏の議論を想起すれば、そこに適切な国際経済関係の維持・発展も加える必要があります。

 今日何よりも重要なのは、賃上げを中心にして人々の所得を増やすことで内需不足を克服し、異常な縮小再生産から安定的な拡大再生産へと国民経済を転換することです。そうした実体経済の課題を前にして、金融に必要なことは金融緩和の量的拡大ではなく、金融政策の質的な転換です(上記、友寄氏の記事)。それは「大企業中心の過剰な資金提供という資金の流れから、中小企業・地域産業を振興し、日本産業の再生を支える資金供給の流れへと、根本的にかえることです」。産業空洞化を克服するために「地域内再投資力」を高めていく金融のあり方をめざす必要があります(同前)。

 こうした方向のオルタナティヴはすでに提起され懸命に宣伝もされています。ただしその際に「賃上げでデフレ打開」というスローガンが散見されるのですが、これはあまり正確な表現ではありません。まず大前提として、先月にも書いたのですが、今日の物価下落はデフレではないのでこの表現は不適切です。百歩譲って仮に継続的な物価下落をデフレと表現するとしても、このスローガンは「物価下落自体が悪いものであり打開しなければならない」という認識の表明になります。しかし悪いのは生活を脅かす不況であって、物価下落そのものではありません。マスコミなどでは石油価格の高騰もデフレ脱却の一要素としています。これは生活と営業への影響、つまり国民経済の再生産にいかなる意味を持つのかという肝心要を抜きにして、ただ物価が上がりさえすればいい、という無概念的な荒唐無稽な経済観を露呈したものです。「賃上げでデフレ打開」というスローガンは物価上昇を目的化するという点では、こうした支配層の議論の土俵に乗ってしまっています。正しくは「賃上げで不況打開」というべきです。このような誤りが出てくるのは、「継続的な物価下落」という無概念的なデフレ定義を採用することで、物価現象を分析的に見るという立場が徹底されないからです。原因を問わずに物価下落そのものがいいか悪いかという議論は無意味です。「賃上げで不況打開」などを中心とした正確な経済政策が今後とも誤りに陥らずに貫徹されるためには、デフレ定義の是正が必要だと思います。

 一般論としては良い物価下落もありえます。通貨価値が安定し、需給のバランスがとれた状態で緩やかに下落するのなら、それは生産性の上昇の反映であり健全な姿です。もちろん今日の物価下落は決してそのようなものではありません。不況による需要不足が原因であり、悪い物価下落として克服すべき対象です。しかしその際も、物価動向はあくまで様々な要因が複合的に作用した結果であり、そのような漠然としたものに目標設定しても経済危機の打開には役立ちません。政策をどこに絞るかが大切なのです。政策的対象の中心は実体経済の改善、中でも賃金や所得の増大をいかに実現していくかにあります。その結果として景気が回復し物価が安定するというのが順序です。だから「必要なのは物価上昇目標ではなく賃上げ目標」というスローガンは正確で本質的だと言えます。

 なお井村喜代子氏は前掲書の第2部第2章第6節への補足でインフレ・ターゲット批判に合わせてデフレ用語を様々に検討しその概念的混乱を批判しています。井村氏の以下の提案に私は賛同します。

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 筆者は、明確な経済学的概念とはいえないデフレという用語に翻弄されることに終止符を打つために、デフレという用語を使わないで、株価、地価・住宅地価の下落、消費者物価の下落と呼んでそれぞれの分析をすることを提案したい。      311ページ

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 ただしこれは今日の現状分析を念頭に置いた提言だと思われます。歴史的には貨幣現象としてのデフレが存在していますので。

 文中では触れませんでしたが、河村健吾氏の「金融緩和の狙いを解く なぜ景気も雇用も回復しないか」(『前衛』3月号所収)は、金融諸制度を基本的に説明しつつ、マルクス経済学の基礎理論から金融緩和と経済停滞との関係を解明し、日米欧の金融政策と中央銀行の行動を具体的に追っています。たいへん勉強になりました。必ずしも易しいとは言えないけれども、この問題に興味を持っている多くの人々に勧めたい論稿です。
                                 2013年2月26日



2013年4月号

          安倍・自民党人気に注目!

 昨年の総選挙については、有権者が民主党の裏切りに怒ったのであり、そして自民党へ必ずしも回帰したわけではなく、その大勝は小選挙区制マジックによるものだ、と捉えられました。私も同様に考えていましたが、3カ月程度が経過した現在、漫然と同様の認識を延長していては、世論の動向を見誤ります。

 「朝日」の世論調査(3月19日付掲載)によれば、安倍内閣支持は65%、自民党支持は44%であり、いずれも2月調査よりも増え、革新勢力にとっては容易でない状況です。もちろんこれは政策に対する固い支持だとは言えないでしょうが、いまや選挙もたぶんにムード的に投票する傾向があることを考慮すれば、重大な現象として受け止めるべきでしょう。実際にも、来る参議院選・比例区の投票先として自民党が47%になっており、このまま推移すれば参議院選でも与党が大勝し、改憲などの危険な動きが加速しかねません。  

なぜこんなことになっているのか。「安倍首相の経済政策に期待できる」が63%、「期待できない」が21%であることからすれば、マスコミが持ち上げるアベノミクスへの幻想が大きく影響しているようです。総選挙後、円安と株高が進んだことから、あたかもアベノミクスが的確な経済政策であるかのように思われているのでしょう。世論調査ではいつも景気対策が政治への要望のトップに来ますから、長い不況と閉塞状況の中で待ちに待った景気回復への期待という大衆心理にマッチしたと言えましょう。「さんざん期待を裏切られてきた。今度ばかりはちょっと良さそうかな。なんとかしてくれ、頼むよ」といったノリか…。

 以下では、重要な政治決戦である参議院選挙をひかえて、安倍自民党人気に関連して、アベノミクスを考え、世論調査の問題点も含めて、人々の意識状況についても考えてみたいと思います。ただし十分にテーマに集中しうるほど考えがまとまっていないので、あちこち道草しながら散漫な内容になりそうですが、とりあえずテーマだけは途中で忘れないように初めに掲げました。

 

          アベノミクスの検討

 アベノミクス批判はもちろんいくらでも見かけるのですが、その幻惑作用について述べたものはあまり知りません。そうした中で、友寄英隆氏は「『安倍政権の経済政策』について考えるには、経済政策としての『アベノミクス』の本質と、最近の円安のもとでの株価上昇などの『景気浮揚感』の実体、この二つを区別しながら、その関連をつかむことが必要です」(「しんぶん赤旗」322日付)としています。円安については、もともと日本の貿易赤字定着、欧米経済の持ち直し傾向などによって、「為替相場のトレンド(傾向)そのものがそろそろ円安に向かう転機にきていた」(同前)のであり、取り立ててアベノミクスの効果というほどのことではありません。株価上昇の方は、確かにアベノミクスが無期限の金融緩和を喧伝したことで投機資金が流入してきたり、円安による輸出企業の回復期待があるせいで起こっています。だから実体経済が全体として上向くという健全な原因によるものではありません。公共投資の効果も合わせて「短期的には『アベノミクス』のもとで『ミニ・バブル』的な景気浮揚感が現れることは、ある程度予想されたことです」(同前)。

 この景気浮揚感が今の安倍・自民党人気を支えており、そうした経済と政治の表層的現象がいつまで続くかは簡単には言えません。したがって今できるのはアベノミクスの本質をわかりやすく伝え、簡潔な対案を提起していくことでしょう。すでに円安による輸入品価格上昇による負担増があり、マスコミが喧伝するわりに全体的には賃金は上がっておらず、庶民にとっては大企業等の儲けとは対照的な事態が進んでいます。こうした「景気回復の二極化」(同前)はそれ自体問題であるだけでなく、消費と設備投資の回復を伴わないので、不況を本格的に克服することができません。そこに投機資金の流入によるインフレが発生すればスタグフレーションに突入することになります。「労働者・国民の暮らしからいえば、不況による失業の増大や賃金の切り下げに加えて物価が急騰するという最悪の状態です」(「しんぶん赤旗」323日付、前記事の続編)。さらには財政・金融の「パニック的な激動」に対する「ショック・ドクトリン」の可能性、世界的には異常な金融緩和の競い合いの中で新たな世界的金融危機を準備する危険性が指摘され、アベノミクスがそれらの引き金を引くことに警戒せねばなりません(同前)。

 建部正義氏は内生的貨幣供給論の立場から外生的貨幣供給論(貨幣数量説)を批判し、2%物価上昇目標が達成困難であるとし、さらに「悪性インフレが生じかねないとの警告を発する向きもあるが、事実に照らすかぎり、当面のところ、その危険性はさほど大きくはないと判断することが許されそうである」(「『アベノミクス』と日銀の独立性」31ページ)としています。一方で財政との関係でアベノミクスの副作用を警戒しています。

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 「アベノミクス」が、公共事業その他にともなう多額の国債発行をつうじて財政規律を失うことになり、日銀の金融政策が禁断の財政ファイナンスの分野にまで踏み込むにいたったと市場が判断するようになれば、政府の財政健全化にたいする信認が失われ、国債が売り浴せられることから、国債価格が下落し、長期金利が上昇することになるであろう。もとより、日銀の「最後の貸し手機能」は、金融機関を救済するものであって、政府を救済するものではない。そうなれば、一方で、大量の国債を抱える金融機関に多額の損失が発生して、金融危機が再発することになりかねないばかりか、他方で、企業の資金調達コストが上昇して、景気回復の芽が摘まれることにもなりかねない。くわえて、長期金利の上昇は、利払い負担の増大をつうじて財政バランスに悪影響を及ぼすことになる。

             34ページ

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 アベノミクスのような危険な政策が出てくる背景には、日本や先進資本主義諸国の危機的状況とそれに対する新自由主義による強圧的な対応があります。したがって日本と世界の資本主義を見据えたオルタナティヴを考えていくことが、アベノミクスに対する当面の批判においても適切な土台となります。高田太久吉、友寄英隆、萩原伸次郎の三氏による座談会「世界資本主義の危機と新自由主義」がその課題に迫っていますが、行論上やや迂遠となりますのでとりあえず課題の重要性を指摘して、ここでは措きます。

 『世界』4月号の特集「アベノミクスと日本経済」は、赤木昭夫、山家悠紀夫、金子勝、荻原博子、服部茂幸、向山英彦の六氏による論稿を掲載し、それぞれにテーマを絞って全体としてわかりやすい効果的な内容になっています。特に山家氏と荻原氏の論稿は非常に平易に問題の基本が誰にでもわかるよう書かれています。『経済』誌も特に参議院選挙を意識してより充実したわかりやすい特集を組む必要があります。

山家論文の結論はずばり「まずは『企業の利益を増やす』ことではなく、まずは『雇用と賃金を拡大させる』ことこそが、日本経済『再生』のために必要な政策なのである。/人々は、安倍内閣の実施し始めた政策に空しい期待を抱くのではなく、正しい政策を実施させるべく強く働きかけるべきだと思うのだが、どうであろうか」(「『アベノミクス』では暮らしはよくならない」250ページ)となっています。ここに問題の焦点と回答があります。他の多くの論者も共通して、賃上げ・雇用の重視・新たな産業構造への転換などを主張し、旧態依然とし転倒したアベノミクスを厳しく批判しています。

 バブル崩壊後、グローバル化などを背景に企業が一貫して賃金を抑制し、それによって国民経済的には内需不振に陥り、売り上げ低迷で価格抑制し、さらにコストダウンに賃金抑制を加速するという悪循環が続いています。個別企業にその打開を求めるのは難しい中で、政府の役割が重要になっています。その際に、最低賃金や非正規雇用の規制といった全体的問題もありますが、業種や公共部門に目を向けた打開策も必要となります。

 日本共産党の大門実紀史議員327日の参院財政金融委員会で、「パート労働者の賃金は一般労働者の賃金に比べてサービス物価に連動していることを指摘。また、サービス分野のなかで正規もパートも賃金が下落したのは医療・福祉分野だけであることを政府資料で示し、その原因は政府が診療、介護報酬を引き下げたからだとして、『パート賃金に影響する最低賃金を引き上げること、医療、介護労働者の賃金引き上げに本腰を入れてとりくむべきだ』と求めました」(「しんぶん赤旗」328日付)。一般に商品価格の低迷が賃金に悪影響を与えている中で、政府が率先して診療・介護報酬を引き上げて医療・福祉分野の賃金を上げる環境を作ることは景気回復に向けて象徴的意義があります。

 

          道草。価値論の問題

 ところで賃上げによって商品価格の低迷を是正し不況を打開する、という言い方は、『世界』に登場する諸論者の近代経済学の立場からは、政策選択の問題(企業重視か生活重視か、利潤が初めか賃金が初めか)であって、価格論的には問題ないでしょうが、マルクス経済学においては価値論上の問題点が生じます。

 価値論上では、商品価値は投下労働量によって決まり、賃金は労働力の価値によって決まり、両者は独立しています。賃金を上げれば剰余価値が削られるだけで、商品の価値は変わりません。しかし「賃上げによって商品価格の低迷を是正し不況を打開する」という方針は労働者の生活を向上させ、企業や自営業者の営業を守る上で正しい政策だと思われます。するとマルクス経済学の価値論は誤っているのでしょうか。

 マルクス経済学(の一部)においては資本主義を長期平均において捉える「資本一般」と短期的変動において捉える「競争」という論理次元が区別されます。前者においては(商品の)価値、労働力の価値、剰余価値といった用語が使われます(価値ターム)。後者においては市場価格、賃金、利潤といった用語が使われます(市場価格ターム)。細かい理論次元を問わず、このような二大区分をするなら、生産価格は価値タームに属します。資本主義経済は不断の価格変動(市場メカニズム)によって体制的存続を保障する均衡を達成しているわけではありません。資本主義経済は恐慌を含む産業循環の全過程を通してそれを達成しているのです。市場メカニズムによる不断の短期的均衡の追求は、長期的視点からは不均衡を蓄積し、恐慌によって暴力的に調整され均衡化されます。市場崇拝はこの点を見誤っており、市場での静かな均衡化を絶対視することで、実際には暴力的均衡化=恐慌を含む資本主義経済を美化しています。支配層の観点からすればこの恐慌への対策が体制的課題であり、一方で弥縫策を講じながら、他方で市場の素晴らしさを喧伝しています。

 恐慌=産業循環の1周期(10年程度)を平均したところに資本主義の「理想的平均」としての「資本一般」の世界が成立します。価値や剰余価値などはそうした長期平均の本質的概念です。「資本一般」の次元では需給変動・景気変動を捨象した需給均衡の状態を前提とするのに対して、「競争」次元では需給変動・景気変動そのものが考察対象となります。したがって経済政策が問題とする景気対策はマルクス経済学的には短期的概念である市場価格タームで議論されます。すると短期的変動においては、賃金の動向と商品価格の動向とが連動する局面はありえます。これが長期平均においては、一方で労働力の価値によって賃金が規定され、他方で需給変動による市場価格の変動を平均化した水準において商品の価値が決まることになります。ただし今日の日本資本主義の問題は、そうした資本主義経済の平均化機構としての恐慌=産業循環が長期停滞型に変調しており、賃金が労働力の価値から一方的に下方乖離し、市場価格も商品価値から一方的に下方乖離し、それが継続していることにあると思われます。

 バブル崩壊後の長期不況下では、需要不足という需給不均衡が一般的となり、商品の市場価格は下落します。そこでコスト削減ということで諸経費とともに賃金も下げます。通常は景気回復で好況となり、前とは逆に超過需要が生じて市場価格は高騰し賃金も一定上昇し、長期的に平均すれば商品価値と賃金(労働力の価値)が一定の水準に落ち着きます。この中で労資の階級闘争によって賃金(労働力の価値)と剰余価値との分配が決まり、商品価値とは独立に賃金が決まります。ところが通常の意味での好況がやってこないで、市場価格低迷の中で資本側はもっぱら賃金等のコスト削減で利潤を確保しているのが、この長期不況下の実態です。

 恐慌を含めて不況と好況を繰り返す産業循環が機能することで、「資本一般」の価値=剰余価値の世界が成立し、賃金と利潤の対抗関係のそれなりにまともな舞台が整うのですが、長期不況と慢性的需要不足で市場価格と賃金の両者がずっと低迷しています(利潤の高低を基準とした産業循環は一応あるけれども、その期間を通じて賃金は下がりっぱなし)。これは商品の価値と労働力の価値との双方が再生産可能な水準から落ち込んでしまっていることを意味し、それは実際には中小企業の営業不振と労働者の生活困難・大量の自殺・少子化となって表れています。しかもグローバリゼーション下、労資関係において、圧倒的に多国籍独占資本優位の下でこうした不正常な再生産体制が固定しています。だから賃金を上げて、それなりに商品の市場価格も確保することは「資本一般」の世界への復帰の条件なのですが、新自由主義的グローバリゼーションはそれさえも許さない強奪の資本主義です。前出の高田・友寄・萩原氏の座談会は新自由主義批判の中で世界の資本主義そのものの限界にも言及していますが、それを価値論的には上記のように捉えようと思います。新自由主義によって荒廃させられた資本主義の克服はもはや正常な「資本一般」の再現ではなく、資本への民主的規制を通じて何らかの社会主義的方向に求められることになりましょう。

 とはいえ当面のアベノミクスとの闘いでは、賃金の上昇による国民経済の再建を掲げることになりますが、その際、市場価格の一定の上昇(物価上昇)の意味を間違えないことが必要です。賃金上昇はまともな生活を取り戻し、それが同時に内需拡大につながります。それに伴う一定の物価上昇は特に中小企業や自営業者にとって、商品価格を適正に実現して経営を維持することになります。これまでの低い市場価格と賃金によって実現してこなかった商品価値と労働力の価値を実現し、これを国民経済的規模で遂行できるなら、GDPの減少として現れていた縮小再生産をまともな拡大再生産に切り替えていくことができます。このような基準で見れば、たとえば円安による石油価格の上昇という再生産の障害をも物価上昇目標達成の一要素とするような政策姿勢の誤りは明白です。無制限な金融緩和によるインフレ目標というのは再生産のかく乱であり有害無益です。物価変動の要因を分析的に見ないやみくもな目標追求を絶対にやめさせる必要があります。価値論は市場価格変動の中に一定の基準を見るものであり、生活と営業・国民経済の再生産を維持する水準とそこからの乖離を見据えます。逆に市場価格の伸縮による需給調整を過大視するならば、例えば生活できない水準の賃金も当然視し、ワーキングプアの増大を許すような政策が当たり前になります。そういったものを破棄して、政策の中に人間を取り戻さねばなりません。

 ところで商品価格や賃金といった市場価格指標は個別経済主体の活動の基準になるので重要ですが、それだけでなく次に、<市場価格×数量>を見て経済全体の動きを知る必要があります。インフレターゲット論議でもっぱら市場価格指標に目を奪われがちになりますが、雇用量とか賃金総額など経済総量を見ることが景気回復論議には重要です。

 上のように価値論についてあれこれ書いて、マルクス『賃金、価格、利潤』(横山正彦訳、国民文庫)を読み直しました。賃金の上昇が商品価格の上昇ではなく利潤率の低下に帰結する、という命題を確認するためです。その命題を私のように位置づけ解釈するのが適当かどうかは難しいところですが、この本の終わりの方で、産業循環と賃上げ闘争との関連について説明する際に、商品価値と労働力の価値とが、たえまない需給変動による市場価格変動の相殺の結果として成立することが強調されていました。不況局面での賃金下落を取り戻すため、好況局面では賃上げを勝ち取らねば、平均賃金つまり労働力の価値を実現できない、という文脈の中です。ならば今日の日本経済のように万年不況下で労働力の価値以下の賃金が常態化している状況の打開に賃上げを実施し、その際に一定の市場価格の上昇を伴い、好況局面を実現する、というのはマルクスの理論と矛盾しないように思います。つまり上記の命題は一定期間の需給変動の相殺の結果として成立するものであり、不況期・好況期という短期的局面については賃金の上昇(下落)が商品価格の上昇(下落)と両立することもあるということです。

 なお置塩信雄氏は、マルクスの命題は金本位制を前提としており、今日では適用できないとして、「名目と実質」を考慮しながら賃金・価格・利潤の関係を詳細に検討しています。結論的に強調されているのは、資本家の生産決定を聖域とする限り労働者には搾取率の上昇か失業かというジレンマがあり、逆に言えば生産決定を彼らから奪うことが必要だということです(『現代資本主義分析の課題』岩波書店、1980年、119ページ)。政策的に言えば大企業への民主的規制の問題であり、今日的には、莫大な内部留保を国民経済へ還元させる課題などでしょう。それにしても置塩氏のような明晰な分析にほんの若干でも触れると、曖昧模糊とした拙文に赤面することになりますが…。

 

          アベノミクスをどう批判するか

 閑話休題。多くの人々が幻想にとらわれている中で、わかりやすいアベノミクス批判はどうすればいいかが問題で、名案があるわけではありません。今の景気浮揚感はバブルであり、本当の意味での景気回復ではないこと、庶民生活にとっては、円安によるエネルギー・食料品の価格上昇など、害があること、あたりから始めましょうか。景気回復には賃上げが最大の課題であること、消費税の増税はやめさせなければ景気が失速すること、社会保障の改悪が待っていることも忘れてはなりません(「しんぶん赤旗」328日付が大きく取り上げています)。

 アベノミクスの3本目の矢・成長戦略にあるTPP参加について、前記「朝日」の世論調査(319日付)から。参加に賛成が53%、反対が23%。TPPへの賛否は別にして、安倍首相の交渉参加表明には、評価するが71%、評価しないが18%です。確か前日の新聞一面見出しには、7割が評価、というのが踊っていたように思いますが、質問方法も含めて、まさに世論誘導です。しかし具体的な中身では微妙になります。日本経済への影響では、とてもよい影響が7%、ややよい影響が58%、やや悪い影響が20%、とても悪い影響が7%で、これも「朝日」の思惑通りですが、日本の農業にとっては、よい面が24%、悪い面が56%と逆転します。外国産の安い農産物がたくさん入ってくることは、よいが36%、よくないが48%です。さらに食品の安全基準が下がる不安は、感じるが71%、感じないが22%と、圧倒的に否定的評価です。

 この世論調査を見ると、調査主体の意図がはっきりしており、不断からの報道姿勢が結果にもある程度反映しています。しかし具体的な中身で自分自身の生活や社会全体への影響を考えながら回答する部分では政府の政策への反対が多くなっています。

 ここからは以下のことが言えそうです。体制派マスコミによって政府の新自由主義的政策へのムード的支持は広がっているけれども、それは深いものではなく、しっかりと考えていけば反対の意見が多くなるようです。ここに働きかけていくことが重要です。

 教育についての世論調査(「朝日」321日付、詳報は28日付)によれば、教育格差を6割が容認しており、9割の人が「安定した仕事を得ることが難しくなる」と答えており、子どもの将来についても「そこそこで十分」という回答が目立ったということです。新自由主義政策下での厳しい現実の認識と諦め(受容)があり、そのイデオロギーも容認していることがわかります。希望と理想をどう取り戻していくか、現状を直視しつつ考えていかねばなりません。

 

          社会変革とイデオロギーの諸相

 ある集会で講師が、これまで憲法改悪を阻止してきたものが何かを語っていました。それらが今危なくなっているということです。まずは制度的要因で、憲法96条の2/3条項です。護憲派は何とか国会で1/3以上を確保してきました。次いで人々の経験です。その一つ目は戦争体験であり、この人々はもはや相当に高齢化しています。二つ目は「みんなが幸せになる社会」を目指す運動の経験です。これは1975年がピークであり、国労の「スト権スト」の敗北後、後退し続け、個別競争の時代に入っていった、ということです。

 これは実感します。上記の世論調査結果にも反映していますが、1970年代後半あたりから、共同的運動の後退と新自由主義イデオロギーの浸透が深く進行してきたように思います。その今日の頂点をなすのがハシズムの跳梁ではないでしょうか。佐貫浩氏の「安倍内閣の危険な教育改革の意図と手法 『地域主権』下の自治体教育改革との関連を踏まえて」(『前衛』4月号所収)は橋下徹氏らに代表される自治体教育改革のイデオロギーを「民意負託を口実とする独裁型公共性」と名付け、感動的なまでに鮮やかにその論理を解明しています。

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 教育の自由を担う主体が実質的には教師と学校だけに縮小されているために、「権力」と「学校・教師の自由」が対抗する構図が生まれており、親・住民の教育意思がこの対抗にどう関わるかの仕組みが欠落している。そのため、学校への不満や不信、不安が政治選挙において争点となった時、その結果選ばれた首長や議会の教育改革は、むしろ住民意思によって付託された判断として「学校・教師の自由」を制限することへの同意を併せ持つものとして働く性質をもつことになる。そこに出現しているのが「民意負託を口実とする独裁型公共性」とでも呼ぶことができる公共性である。   120ページ

  …中略…

 一向に事態が改善しない学校教育の実態が宣伝され、その学校のあり方に親や住民がもの申す回路が閉ざされていることへの怒りすら覚えるなかで、しびれを切らした親・住民が、首長主導の上からの権力的な教育改革―しかも「学力向上」という親にとっては最も単純明快かつ切実な関心事の改革―を推進することへの期待すら生まれてしまう。そのなかでは、教育内容に政治が関与することが問題だとする教師の側の主張が、むしろ学校の教育内容や授業に関する親・住民への閉塞性、密室性を防衛しようとする抵抗勢力≠フ論理とさえとらえられてしまう。こういう公共性の構造を介して、大阪橋下市長の「独裁」は、民意を強力に実現してくれる強権政治としての期待を集めているように思われる。

     120-121ページ

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 この「独裁的公共性」を克服するには「親・住民が参加して、学校のあり方を一緒に共同して考える教育の公共性の仕組み―住民自治と学校づくり自治の統治された教育の公共性―の回路を実現することが不可欠である」(121ページ)とされます。つまり公共性についての二つの道があるのです。親・住民たちの個別の意思を強権的政治家にお任せするのか、親・住民と学校・教師との共同において自分たちで作っていくのか。もちろん後者の方が難しいのですが、前者が選ばれるのはただそれだけが理由ではありません。

 ばらばらな諸個人から出発して社会を見る、という新古典派経済理論(商品経済社会に適合的なイデオロギー)と同様な見方で、多くの人々が教育を捉えている、という事情もあるでしょう。上記の世論調査における教育格差容認という結果もそこに根があります。佐貫氏は怒りを込めて力説します。「非情な自己責任社会は、子どもの学力が劣っているから出現したのでは決してない。人を非常にも切り捨てる社会の出現が、学力の差を理由に人を差別し、絶望に追い込んでいるのである。問題は学力ではなく、社会のあり方そのものである。この自明の事柄を教育改革の土台に据えなければならない」(121-122ページ)。「すべての者の生存権保障と職業参加の保障、それを支える教育や自立支援、それらの仕組みによって人は誰でも社会の支え、人間の連帯の力で、生存権を保障され生きていくことができるという社会を作り出すこと、その課題に向けて社会が全力でたたかっているという状況を日本社会に作り出すこと、それこそが、日本社会に希望を作り出す」(121ページ)。諸個人の自立から出発するのは当然としても、分断されるのではなく、共同した諸個人として社会を創造していく。それには商品経済社会のイデオロギーを克服しうる運動の体験が重要ではないかと思います。様々な世論調査などに現れる新自由主義イデオロギーの影響は、上から作り出されたという側面を持ちつつも、経済的土台からも生じており、その克服には自覚的な学習も必要でしょう。それは眼前の社会のあり方を相対化して、まともな社会のあり方とは何かという問題意識を持つことに始まり、社会において協力は絶対的だけれども競争は相対的なものだという認識がまずあるべきでしょう。資本主義市場経済に基づく社会を社会一般の中に位置づけ、その特殊性と普遍性を分析的に見る点に科学的経済学と労働価値論の意義があろうかと思います。

 社会科学や思想の任務という点では、浅田彰氏の以下の言葉も参考になります。

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 とくに1972年の連合赤軍事件の後、日本ではマルクス主義思想が急速に退潮します。代わって、「どうせ資本主義しかない」というシニシズムのもと、問題が生じたらそのつどパッチを当てるという「部分的社会工学」が支配的になる。それを補完するのが、ソ連流のドグマティックなマルクス主義を批判し、日本の大衆社会に立脚しようとする吉本隆明流の思想でした。マルクス主義が退潮してしまえば、それは大衆の自足と自閉を肯定するだけになってしまいます。

   …中略…

 現在、「難解」な理論や思想はもはや求められていないように見える。しかし、本当にそうか。グローバル資本主義が成立した結果、反資本主義の運動も世界中で激化している。もはや部分的社会工学ではカバーできない矛盾が噴出しているわけです。日本でも東日本大震災を契機に反原発運動が広がっている。そこで大江健三郎さんや柄谷行人さんが語る原理的な言葉が多くの人々をとらえているのは、注目すべきことです。利口ぶったプラグマティストは「あんなナイーブなことを言って」とシニカルに構えるけれど、それは間違っている。原点に返って現実を批判し、別の現実を構想することが求められているのです。

   「朝日」夕刊、328日付

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 これもまた1970年代から今日までの社会科学と思想の状況とそこでの課題を的確にとらえているように思います。このようなラディカルな資本主義認識は前出の高田・友寄・萩原氏の座談会と通底するものを感じます。新自由主義へのオルタナティヴとして社会民主主義を挙げる支配的言説には、「どうせ資本主義しかない」というシニシズムによる「部分的社会工学」の発想が見えます。もちろん現実の変革過程では単なるラディカリズムだけではだめで、地味で具体的な「実務」が欠かせないと思いますが、それもまたラディカルな志抜きには貫徹しないでしょう。

寺島実郎氏は「利口ぶったプラグマティスト」というより、キマジメな体制内批判的資本主義エリートの視点から、脱原発を心情の問題にして、「日本の反原発運動の弱さは、文化人が旗を振る市民運動の性格が強く、国際政治や産業の置かれた現実を直視した政策科学の議論になっていない」(「脳力のレッスン・特別篇 リベラルの再生はなるか―真の変革への道筋」、『世界』4月号所収39ページ)と批判しています。寺島氏は普通の対米従属派に比べれば良心的とはいえ、その「国際政治や産業の置かれた現実を直視した政策科学」とは日米軍事同盟を前提にしたものです。そうした限界のため、結局、原発を温存するという究極の非現実主義に陥っています。「リベラル」の「真の変革」とはそんなものなのだろうか。

 ラディカリズムと現実主義との止揚は実践的に生み出されてくるでしょう。「運動が生み出す知恵ある言葉」に耳を傾けたいと思います。首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフさんはこう語ります(「しんぶん赤旗」328日付)。

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 官邸前の行動では、若い人からお年寄りまで、思い思いのプラカードを持ち寄ったり、自らが表現したいやり方で、抗議の意思を表してきました。歩くのが大変な年配の方には、座っても意思が表せると喜んでもらうこともありました。いままで日本になかった形態だと思います。毎週やっていくなかで、必要なことに対応してきたら、こうした形になってきました。

  …中略…

 官邸前だけでなく、全国各地で多様な運動がおき、心情的なつながりは広がっています。抗議の目的は原発を止めるということ。住民意思を行動に移して可視化し、政府に圧力をかけて、維持・推進の原発政策を転換させるという状況をつくりたい。

  …中略…

 運動の内部からみたものと、もっと幅広い地点からみた印象というのは違うと思うのです。そこににぶくならないようにしていかないといけない。自分たちは、客観的に世間から見たらどういう存在なのか、そこに着目しつつ、状況を分析していかないと、先鋭化してしまう。今後もこの視点を大事にしていきたいと思います。

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 この賢明な姿勢に敬意を表します。ラディカルな目的は堅持しつつ、柔軟で多様な活動形態を作り出し、しかも客観的な目を持って反省している。「正しいことをしている人たち」はなかなかそうならないものです。今最も若く元気な運動の成熟ぶりに学んでいくことが大切です。

京滋(京都・滋賀)キリスト者平和の会代表、世光教会牧師の榎本栄次氏からも「運動が生み出す知恵ある言葉」を聞くことができます(「しんぶん赤旗」327日付)。恵庭事件裁判の野崎兄弟は自衛隊の演習の爆音による乳牛の被害に抗議して刑事罰に問われました。彼らは「私たちの平和運動は良い牛をつくることです」と話し、それに感動した榎本氏はこう語っています。

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 生活の中で、私たち自身の生き方に憲法を刻み、平和をつくり出す努力を重ねてこそだと思うのです。安倍さん(首相)や橋下さん(大阪市長)の過激な発言の対岸に憲法があるのではなく、命と生活の延長線上に憲法があるのだと思います。

 そうであれば、憲法擁護の運動に取り組む人がそこにいることで明るくなる、ほっとする、そういわれる存在になっていくことが大切です。憲法を守る運動が血の通う、息吹にあふれたものになっていくでしょう。

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 地に足の着いた運動は浮ついたり孤立することはありません。「命と生活の延長線上に憲法がある」ということは、逆に崇高な目的が生活の中に降りてきている状態だとも言えます。

 

          断想メモ

 以上のように、今回も「朝日」には大分世話になったのですが、我慢ならない記事ははるかに多いのです。36日付ではベネズエラのチャベス大統領の死を喜んで報道し、中南米の民主的変革が止まることを期待しているようです。まったくアメリカ帝国主義の機関紙という他ありません。

 326日付、大野博人論説主幹の「座標軸・一票が暴いた危機」にも驚きあきれます。選挙区の定数不均衡で投票価値が不平等になっている問題で、憲法違反の司法判断があいついで、ついに選挙無効判決まででました。それは当然のことです。ところがふるっているのは大野氏が投票価値の平等を求める根拠です。グローバル化の中で人々は痛みを伴う政策を受け入れることを求められ、その際に負担をどうやって分配するかが問題となり、「であればなおさら、一人一人が政治的に平等に扱われているという実感が不可欠だ」から、というのです。やっぱり「朝日」はグローバル企業のために人々を洗脳することに体制エリートとしての使命感を持っているのですね。支配層の政策を唯々諾々と受け入れる人民がいて、自分で自分の首を絞める投票を繰り返すという、形骸化した民主主義、つまり資本家階級の権力のイチジクの葉にすぎない民主主義を清く正しく作り上げることに大野論説主幹は正義感を持って臨んでいるようです。

そもそも小選挙区制を残したままでは投票価値の平等を実現することは非常に困難でしょう。「0増5減」の区割り改定案でも格差が1.998倍もあるというのだからまったく問題外です。仮に1倍に近づけたとしても、そもそも半分以上が死票になるような選挙制度のどこに正当性があるのだろうか。ハシズムの登場などに見るように新自由主義は民主主義とは相いれなくなっています。そういえば「朝日」はハシズムをまともに批判することはない。問題の中心である小選挙区制を批判せず、グローバル資本主義に無批判に、ひたすら人々に対して負担の公正な分配を求めるために選挙制度のあり方を考えるということは、新自由主義の機関紙として民主主義の葬送行進曲を奏でる姿勢だと言わねばなりません。

「朝日」土曜日の付録、be on Saturday の1面と2面に連載されていたsongうたの旅人」330日付で終了しました。最終回は今や卒業式ソングのナンバーワンともいわれる「旅立ちの日に」。自分でも音楽について下手な随筆を書いたことがある身としては、この連載を続けた記者たちのまさにプロの筆力に圧倒されていました。残念。

 

ドラマ「最高の離婚」をめぐる随想

 新聞の番組欄を見ていたら、坂元裕二脚本のドラマ「最高の離婚」の名言集がネット上で盛り上がっている、という記事を目にしました。早速アクセスしてみると、確かにあるわあるわ……。特に女が男を非難する言葉の鋭いこと。

「わかってた、わかってたよ。あぁ、この人はひとりが好きなんだ。自分の自由を邪魔されたくないんだ。あ、そう。だったら、いつだろう。いつになったらこの人、家族作る気になるんだろう。いつになったらこの人、家族思いやれるひとになるんだろうって」

 これが突き刺さる男はたくさんいるに違いない。

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 「悲しいとかじゃないの、苦しいとかじゃないの。だって、負けてるんだもん。『浮気はやめて』とか、『嘘はやめて』とか、負けてる方は正しいことばっかり言って責めちゃうんだよ。正しいことしか言えなくなるんだよ。正しいことしか言えなくなると、自分がバカみたいに思えるんだよ」

 これとはまったく関係ないことだけれども、いつも正論を掲げて選挙で負けている政党のことを言っているのか、と思える。負けたら「自分がバカみたいに思える」ほどの気持ちになって、深いところから反省することが必要かもしれない。正しいことと勝つこととはどうやって結びつけることができるのか。ドラマ中には「真面目だからうまくいかないんだよ。上手くいってる人っていうのはね、だいたい不真面目」という名言もありましたが…。「正論のつまらなさは、正論でなぜ人が動かないかを理解しない無知と傲慢さにある。対抗文化や反体制運動の退潮は、正論にしがみついているうちに、正論が通らない世の中のしくみをつかむことを、すっかり怠ってきた怠慢にある」という上野千鶴子氏の言葉をどう受け止めるか。

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 「外で食べたら、レジでお金払うでしょ!?家で食べたら、『おいしかった』って言うのがお金なの!言わなかったら食い逃げなの!あたしは家政婦じゃないんだから!仕事じゃないんだから!旦那さんが喜ぶと思うから、やるんだから!やってたんだから!」

 まったくおっしゃる通りですが、ここには商品経済における疎外・転倒があることに注意すべきです。お金を介さない労働が人間社会にとっては本源的労働であり、生産手段の私的所有という形で社会的分業が担われるようになって商品経済が成立することで初めて、お金を介した労働が発生しました。今日では資本主義経済の下で商品経済が普遍化しているので、お金を介した労働があたかも標準であるかのように意識されます。そして経済とはお金のことだという観念が一般化しています。しかし経済社会を支えているのは労働であり、お金は手段でしかありません。助け合って感謝の言葉をかけあう労働のあり方こそが社会の基本であり、商品経済という仕組みにおいては、本来の社会の基本がお金を払うという形になって表れているのです。社会の共同性が直接的にではなく、お金を介して実現しているのです。だから「おいしかった」と言うのがもともとのあり方で、お金を払うのは派生形態なのです。にもかかわらず「お金を払う」ことを基本的行為と意識する現代人は、商品経済に疎外され、協同労働によって成り立っている社会の本来のあり方を忘れているのです。商品経済においてはあたかもお金が土台となって社会を組織しているように見えるのですが、実際にはあくまで労働が土台となって社会を形成しており、お金はそれを媒介しているのです。

ただしもっといろいろと考えようとするとまず、労働については、家事労働と社会的労働との区別と関連という問題があり、お金については、それが資本となった場合の性質を別途考えなくてはなりませんが。

せっかくのドラマに対して無粋な言葉をぶつけました。妄言多罪。
                                 2013年3月31日



2013年5月号

          新自由主義的資本蓄積と経済政策

 今宮謙二氏の「『アベノミクス』のねらいは何か 財界と架空資本家の利益実現」はわずか4ページの論文ながら、アベノミクス、特に大幅な量的金融緩和の本質を的確に衝いています。また、マルクス経済学者を含めて、デフレという用語が圧倒的に誤用されている中で、正確な用語を貫いている点で希有な論考だと言えます。

 アベノミクスによる株高が注目の的ですが、それは株だけが急上昇するという「政府によって誘導された人為的な株高」となっており、80年代バブルにあった<株価上昇と設備投資拡大の循環構造>のようなものさえありません(工藤昌弘氏の解説による。「しんぶん赤旗」日曜版428日付)。こうした異常な政策が強行される背景として、今宮氏は「巨額化した世界の金融資産=架空資本蓄積(10年末で約210兆ドル)をもとに成立した投機資本主義体制を維持するために、不況克服にあまり役立たない大幅金融緩和政策が行なわれているのである」(135ページ)と指摘しています。日銀の異常に巨額な国債購入による通貨供給について、財政規律の観点からよく問題にされますが、それだけでなく新自由主義的資本蓄積の不可欠の特質としての投機化=資本主義の寄生性・腐朽性の深まりにも注目すべきでしょう。

 今宮氏は安倍首相のブレーンである浜田宏一氏の所説を紹介しています。浜田氏がデフレを貨幣的な問題と定義しているのは正しいのですが、現在の不況をそのデフレと見る点で誤っています。ならば大方のマルクス経済学者も同調しているように、デフレの定義を変えて持続的物価下落とするならば今日の状況を正確に把握したことになるでしょうか。それも本質を外しています。

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 現在の長期不況の性格は、政府のいう持続的物価下落としての「デフレ不況」や、浜田氏のいう貨幣現象としてのデフレでもない。それは大量生産・消費・廃棄社会にあらわされる過剰生産と架空資本過剰蓄積体制(金融不安定・財政危機構造)がもたらしたものである。このもとで国民生活低下、高失業、貧富の格差拡大などが生じ不況が長期化しているのである。        134ページ

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 デフレを持続的物価下落というように緩く定義すると、本来の貨幣現象としてのデフレとの関係が錯綜します。まず本来のデフレを表現する言葉がなくなります。ここでは本来のデフレは緩いデフレの一部に過ぎなくなって、しかも自分だけを表現したはずのデフレという名前を緩いデフレに奪われるのです。ところが本来のデフレは明確な定義を持っていただけに、逆に軟弱な定義の緩いデフレを圧倒してしまいます。物価下落が続くと緩い定義に従ってデフレと言われますが、そこに本来のデフレが出しゃばってきて「デフレという以上は貨幣的現象だろう」と強引に言い張ります。無理が通れば道理が引っ込む。実体経済の不況という実情を無視して通貨政策の問題にすり替えられてしまいます。要するに、持続的物価下落一般をデフレと定義するような浅くて弱い転用的用語法では、本来のデフレの処遇が不明になるだけでなく、新たな緩い定義そのものもアイデンティティが不明になるのです。だからデフレの定義を俗流に変更することは良くありません。

まあしかし、現在の不況を貨幣的現象ではないと正確に捉えた上で、持続的物価下落という定義に従って、今日の不況を「デフレ不況」と捉えたとしましょう。ところがここにも問題があります。この名前では物価下落を中心に不況を捉えることになり、今宮氏のいう上記の本質を捉えそこないます。物価下落はあくまで新自由主義的資本蓄積がもたらす様々な現象の一つです。漠然とその上げ下げを論じるのでなく、生活と営業の視点から具体的に分析的に考えねばなりません。ところが「デフレ不況」という物価中心主義の視点が極端に走ると、物価下落を不況の原因と誤認し、もっぱらそれを解決する=物価を上昇させることを政策目標とするようなとんでもない誤りに陥ります。もっとも、主観的には不況の現状に対する理論的政策的錯誤であっても、客観的には架空資本蓄積に貢献しているわけですから、さしあたっては支配層に有益な経済理論です。あからさまに株価上昇による自己利益を主張しなくても、社会全体に役立つ「不況対策」のあくまで結果としてそれを実現しているのですから。

こうした立場は論外としても、「デフレ不況」という表現は今日の不況を正確に捉えることを邪魔します。たとえば輸入品を含む消費財価格が上がっていることは「デフレ」の「解決」につながるわけですが、人々の生活への打撃になります。問題は人々の生活と営業がいかにうまく再生産されるかであり、物価の一般的な騰落を中心に考えてはいけないのです。

 マスコミなどでは、不況対策としての異常な金融緩和の手法としての有効性があれこれ議論され、また日銀の国債購入が財政ファイナンスと捉えられないように、消費税増税や福祉切り捨てなどによる財政再建が重要だという言説がかまびすしい状況です。国内だけでなく「国際的権威」からも。たとえばOECD2013年対日経済審査報告書では、アベノミクスの「3本の矢」を完全実施し2%物価上昇目標の早期実現を求めており、さらに消費税率10%への引き上げ、軽減税率の否定なども求めています(「朝日」夕刊423日付。まさに余計なお世話。そういえばクルーグマンやスティグリッツもアベノミクス支持だとか。リベラルとやらもあてにはならない。貨幣数量説とかブルジョア経済学の迷妄の克服が重要)。これらは問題設定そのものの誤りの上での逆立ちした議論であり、人民の立場からひっくり返していかねばなりません。そのためには日本経済の惨状をもたらした新自由主義的資本蓄積を捉えることから出発すべきでしょう。

 新自由主義的資本蓄積は、実体経済における強搾取と金融化・投機化とを特徴とします。<搾取強化・賃金抑制→内需縮小→不況・売上不振→商品価格下落→利潤確保のため搾取強化→…>という悪循環において労働者の貧困化は進み、資本の内部留保は蓄積されます。生産的投資に回されない内部留保は過剰貨幣資本であり投機化します。つまり搾取強化を原因として実体経済の不況、金融の投機化が進みます。物価下落はその一つの結果としての現象であり、それが原因で不況になっているのではありません。そこを見誤って不況の解決のために無制限の金融緩和というインフレ政策をとるのは間違いです。仮に物価上昇目標を達成したとしてもそれは何の問題の解決にもなっていません。上記のようなもともとの実体経済と金融の病理はそのままです。「デフレ不況」という偏った見方による「物価下落さえ解決されればOK」という錯覚に陥っていなければ、失業・貧困・労働強化と投機化という悲惨な現実の変わらないことが見えるはずです。真の解決には強搾取を改め、生産と消費の矛盾を緩和して、上記の悪循環を断ち切ることが必要です。賃上げ・不安定雇用の克服・内部留保の活用・社会保障の充実という政策は、まさにこの新自由主義的資本蓄積がもたらした実体経済と金融双方の病理を克服する道なのです。意識的にせよ無意識的にせよ、強搾取と投機化を前提にすれば、上記の格差・貧困を含む悪循環から抜け出せません。マスコミ等の論調はそうした枠組みの中において、「デフレ不況」の解決策として無制限の金融緩和とともに、その副作用の「対策」として消費税増税・福祉切り捨てなどによる「財政再建」を提起し、「成長戦略」として、労働規制緩和などのさらなる搾取強化を含む構造改革が不可欠だというご託宣を忘れません。これが整合的な政策セットだというわけですが、「生産と消費の矛盾」を激化させて、長期不況と投機化という実体経済と金融との病弊を温存し助長するものです。ここには国民経済の健全な発展という観点がなく、個別資本としての多国籍企業の利潤追求だけが表明されています。にもかかわらずそうした政策が国民経済にとって必要であるかのようにいわれ、それを「理解しない」人々の生活・労働・営業を守る要求を敵視し見下して、福祉に頼らない自助努力や増税の必要性を「理解する」「賢い」「自立した」人間となるべきことを説教しています。

 アベノミクスなどの支配層の政策は、新自由主義的資本蓄積を前提にし、したがってその病理に触れることなく人民に害悪を転嫁する中での弥縫策という性格を持ちます。確かに「財政再建」「金融の活性化」「経済成長」は必要ですが、それはもはや新自由主義的資本蓄積とは両立しなくなっています。トリクルダウン理論の破綻が明確な今、賃上げや新エネルギーによる地域経済の活性化など、下からのオルタナティヴによってそうした課題を達成すべきです。

 以上、非常に雑駁な議論になってしまいましたが、言いたいことは以下です。無制限の金融緩和などを含むアベノミクスについて、その手法的検討の前に、日本経済の問題点がどこにあり、どこを解決すべきかという課題設定を明確にすることが重要です(デフレ用語の問題点もそれに関連しています)。

 そうすると新しい課題が前後に出てきます。まず前方には、新自由主義的資本蓄積の出発点にある強搾取を規定する新自由主義グローバリゼーションの把握です。通俗的にはこれを根拠に、強搾取に始まるあらゆる無理難題が正当化されるのですが(したがってここではその言葉はきわめてイデオロギッシュである)、それをまず客観的に捉え次いで変革の展望を示すことが求められます。後方には、新自由主義的資本蓄積から脱する経済政策の提起と具体化が必要となります。しかしここでは指摘だけにとどめます。

 物価下落は新自由主義的資本蓄積の一つの結果としての現象に過ぎないことを先述しました。それは「デフレ不況」的把握における物価の過大視を批判したのですが、それのみならず物価概念の扱いの反省も必要です。まず物価は諸商品の価格変動を平均したものなので、現状分析と政策の具体化に際しては、それぞれの商品の価格変動を捉える必要があります。また物価と賃金との関係も考慮しなければなりません。

 人々の生活と営業にとって諸商品の価格変動がどう影響するのか、これが物価に対する確かな視点です。一方で、生活視点からすれば、消費者物価指数ははたしてどれほど生活実態に即しているのか、が問題とされ、実感と指数とのずれがしばしば指摘されます(物価指数ほど下がった実感がしない)。一部のIT機器などの価格低下(しかも機能の上昇を価格低下とみなすという算定方法もあって)に引きずられて物価指数が下がり、水道光熱費・社会保障関係などの値上がりが相殺され反映されていません。すると少なくとも高齢者や貧困層にとって「公式の物価状況」は明らかに生活実感からかけ離れています。ましてや「国策としての円安」の影響で輸入品価格が上昇し、食料品など生活必需品も値上がりしているとき、これを無視して一般的に物価上昇を追求するのは明らかに誤った政策です。

 他方、自営業者や中小企業などの営業の視点からすれば、原料・エネルギーなどのコスト増の場合にも(対消費者あるいは対取引先において)商品価格に転嫁できない、という状況は深刻な問題です。これは需要不足の下で価格競争が激化していたり、親企業の買いたたきによるものであり、物価下落の負の側面がここに集中的に現れています。賃上げによる消費購買力の強化と系列関係における大企業の横暴の規制が問題となります。この解決策が金融緩和によるインフレ政策でないことは明らかです。通貨価値の下落を目指すような不健全な政策に頼るべきではないしその必要もありません。つまり消費財価格については、上記の生活擁護の観点と、ここでの持続可能な営業の観点とのバランスをとった政策を追求すべきです。一般的な物価上昇を目標とする政策ではなく、やはり最賃引き上げや社会保障充実などの政策的イニシアティヴによって、賃金や所得の増大を図ることが、生産者と生活者双方の観点から求められています。そうすることによって、生産者から見た売上も、生活者から見た生活費も、<単価×数量>であるので、適切な価格で十分な生産・販売(購買・消費)量を確保することが可能になります。物価偏重の眼鏡をはずしてみれば、数量の重要性に気づき、<単価×数量>を支える購買力としての賃金・所得の水準と総額にも目が向きます。

 物価と賃金の動向は連動するものではないので、仮にインフレ政策で物価が上がったとしても賃金が自動的に上がらないことは明白です。今日の労資関係において一方的に資本が優位に立っている現状に照らせば、最賃制や公務員賃金、公共事業での公契約条例などにおいて、政府・地方自治体が積極的に賃上げを主導することが必要です。積み上がる企業の内部留保を国民経済に活用することは、個別資本の観点からは難しいだけに、経済政策の意義が決定的です。労働運動の再生も強く求められます。

 

          貧困・格差・分断

 関野秀明氏はいつも直面する経済問題を理論的に解きほぐし、しかも『資本論』に立ち返って解説することで、現状分析と経済理論とを相互循環的に前進させています(少なくとも普通の読者にとってはそう思われるだろう)。「現代日本の貧困・格差問題と『資本論』 『資本論』に描かれた生活保護バッシング」では、貧困・格差の拡大が、「下に向けての生活保護バッシング」(67ページ)と「上に向けての公務員バッシング」(74ページ)を生み出すことを的確に指摘し、そういった分断を克服する方向を示しています。

 生活保護基準の削減は賃金の引き下げに直結します。それは最賃制という法的問題を捨象しても経済的に以下のようになります。生活保護額を下回る賃金では働くインセンティヴが機能しないので募集しても労働者が来ません(実際には生活保護を受けるのには様々な障害があり、低賃金を嫌ってすぐに生活保護を受け(られ)るわけではなく、ここには過度な単純化がありますが、原理的にはそういうことです)。逆に言えば生活保護基準を切り下げれば、企業は低賃金でも雇用が可能になるということです。生活保護などの社会保障の水準が高いほど、低賃金労働を避けることが可能になるのだから、「今働けない人の」社会保障給付・生活保護の水準が「今働いている人の」賃金・待遇を守っているのです(67-68ページの要旨から)。つまり貧困でも働いている人は、生活保護バッシングに走るのでなく、逆にその充実を主張すべきなのです。ここでは労働者階級に属する人々が様々なその時々の条件の違いによって分断されることによる重大な結末と、そうした条件の違いにもかかわらず連帯・団結することの大切さとが対照的に理解されます。

 関野氏は有期労働契約についてわかりやすく説明しています。一見、有期労働契約を長くする方が労働者に有利のように思われますが、実際には逆です。たとえば有期労働契約が1年までであれば、習熟に3年かかる仕事については無期契約の正規労働者を雇用する必要があります。ところが有期労働契約が5年まで延長されれば、その仕事を担う労働者を有期契約の非正規労働市場から雇用できます。つまり「『有期労働契約の期間規制5年への延長』は労働者にとって経験と熟練が賃金に反映されないばかりか、非正規市場で格安で買い叩かれるということです」(69ページ)。

 関野氏は続いて正規労働者の大リストラに触れた後で、失業者・非正規労働者・正規労働者における「負の連鎖」を指摘しています(71ページ)。その対極にあるのが、株主配当や内部留保などに現れた巨大な資本蓄積です。

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 売上は伸びないのに賃金コストを下げて経常利益を生みだし株主配当と剰余金に分配しているのです。現代日本の「格差」を理解するには、「貧困の連鎖で繋がれた労働者・国民」と「その貧困を利用して膨大な利潤を蓄積している大企業」との「資本主義的格差」を捉える必要があります。          72ページ

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 貧困・格差と言えばその原因としてまず身近に思い浮かぶのは、各人の能力や努力の違いです。あたかもその延長線上に社会的な貧困・格差の巨大な構造があるかのように思われがちです。こうした自己責任論的思い込みは市場経済や企業労働における日常的経験に支えられ、競争主義的教育によって強化されています。そうした環境下で、社会についてもっとも卑近な表層にとらわれて起こるのが各種バッシングです。

それでは様々な表面的現象を超えて上記のように資本主義的格差といった本質を理解できるのはなぜでしょうか。もちろん社会を科学的に見る目があれば、それは可能ですが、より容易にしているのは人類の積み上げてきた英知であり、その中でもマルクスの『資本論』が決定版です。関野氏は上記の結論に続いていわば種明かしとして、『資本論』の相対的過剰人口論に立ち返っています。最後にそこから「貧困の連鎖を解決するヒントとして『長時間過密労働への規制による新規雇用の創出』を挙げて」(74ページ)マルクスのいわばワークシェアリング論を引用しています。

私を含め読者は関野氏のリードで現代日本における貧困・格差の表層から資本主義的格差の本質に迫れました。わかってみれば、「ああそうか」となるのですが、しかし現実に舞い戻れば有象無象のあれやらこれやらにたちまち囲まれ、そこでもっともらしい説明たちが飛び交う中で慎重に考えていかねばなりません。経済というのは特にそういうものです。現実に学ぶということとそこでの学問の意義について改めて考えてみることも大切です。

 

          原発問題の核心としての利権

 2011311日の福島第一原発の事故以来、原発をめぐる厳しい対立が続いています。人々の多くは原発に反対する意向を示していますが、「政・官・財・学・メディア」の原発利益共同体は必死の巻き返しに出ており予断を許しません。原発の安全性と経済性とについて激しい理論闘争が続いており、それ自身極めて重要な内容なのですが、しかしそれは問題の全体像の中ではいわばタテマエであり、ホンネの部分は原発利権にあります。それを冷厳に剔抉するのが経済学の使命であり、鈴木健氏の「原発利益共同体と巨大企業」はその課題を果たしています。

 鈴木氏によれば「東電が救済されたのは、つまるところ、政官財中枢が原発戦略を放棄しないという意思決定をしたからであ」り、「原発利益共同体の『利権』の網は、東京電力の事故程度では微動だにしないほど広く厚く張り巡らされていて、この『利権』ネットワークに抗って原発戦略を転換することはできない関係が生まれているので」す(144ページ)。「東京電力の事故程度では微動だにしない」という表現には抵抗を感じる向きがあるかもしれませんし、被災者には到底受け入れられない言葉ですが、これは資本の魂の表出が論文上にあるということです。鈴木論文はその利権追求の無慈悲さを確かな証拠に基づいて容赦なく暴露するものであろうと思います。冷徹によってこそ、“cool head but warm heart”が果たされる場合があります(but に留意を)。

 日本の家電メーカーの苦境が伝えられるのを尻目に、東芝・三菱・日立の重電メーカーは原発輸出を目指すことも含めて、欧米原発企業とのグローバル再編を主導しています。「巨大化した日本の原発メーカー3社は、もはや原発製造から撤退する選択肢は持ちえないので」す(148ページ)。問題は経済だけでなく政治も絡んできます。「日本の原子炉プラントメーカー3社の能力の蓄積にしても、アメリカの核戦略の枠内にとどまる限りで許容されているに過ぎない」(149ページ)のです。

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 日本の政官財中枢の側からすれば、原子炉製造能力において、世界の原子炉メーカーの再編を主導する能力を確立し、現に主導する地位を確立することによってのみ、その能力を根拠としてアメリカの核軍事戦略の枠組みの中に留まれるということになる。日本の政官財中枢は、原発戦略を維持し、原子炉製造の能力を高め続ける以外の選択肢を持たないがゆえに、原発戦略を維持し続けているのである。   149-150ページ

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 TPP交渉参加表明に際して、一方的にアメリカに譲歩する中で交渉参加のメリットを問われた安倍首相は結局、日米軍事同盟の強化に資するということくらいしか挙げられませんでした。原発問題もまた政治的に対米従属問題を抱えているのですが、原発利益共同体にとっては経済上に確固たる原発利権があり、この点ではTPPよりもさらに強固です。反原発運動は原発推進勢力との(安全性・経済性に関する)理論闘争という表舞台の裏に厄介な政治と経済の問題を抱えているという点を直視し、より分かりやすく提示していくことが大切です。

 

          現実と学問

 関野秀明氏の論稿に触れた上記の「貧困・格差・分断」の最後に、「現実と学問」について言及しました。そこで思い出しました。「朝日」夕刊418日付に、東京造形大学学長・諏訪敦彦氏の入学式における式辞(201344日)が紹介されており、同大ホームページで全文を読んだことを。

 深い感銘を受けました。重要なテーマたちが濃密に組み込まれており、とても要約することは不可能で、その中から任意のテーマについて述べるしかありません。

 諏訪氏は高校時代に映画に興味を持って東京造形大学に入学したのですが、大学に通うよりも無名の作家たちの映画作りを手伝うようになり、半ばプロとしての満足感を得て、もはや大学に学ぶことはないように感じていました。

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彼らは、大学という場所を飛び出し、誰にも守られることなく、路上で、自分たちの映画を真剣に追求していました。私はその熱気にすっかり巻き込まれ、彼らとともに映画づくりに携わることに大きな充実感と刺激を感じました。それは大学では得られない体験で、私は次第に大学に対する期待を失っていきました。大学の授業で制作される映画は、大学という小さな世界の中の出来事でしかなく、厳しい現実社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思えたのです。

…中略…

私は大学の外、現実の社会の中で学ぶことを選ぼうとしていました。

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これだけに終わって大学を捨てる体験談はよくあるように思います。しかし諏訪氏は大学に戻って自信を持って映画を作ったのですが、惨憺たる出来でした。逆に同級生の作品は技術や経験がなくて破れ目だらけでも自由な発想に溢れていました。

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授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。

 私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。

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 さらに諏訪氏は経験を超える創造・探究を支えるのが大学の「知」であり「自由」であることを指摘し、大学の使命を確言します。

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「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由であり、大学においてこの自由が探究されていることによって、社会は大学を必要としているといえるのではないでしょうか。

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ここでは教養主義と経験主義とが止揚されています。「死んだ学問ではいけない。現実に学べ」ということはよく言われるしまさにその通りです。しかしそこでは学問そのものの積極的意義が明らかではありません。その学問が教養主義にとどまっているからでしょう。一定の経験を経てきた人が学問に再び触れたとき、そこに自由な創造性を発見できた―そこに諏訪氏の教訓があるように思います。古今東西、人類が積み上げてきて、今また不断に創出されている学問という巨大なものに謙虚に向き合いさえすれば、そこに無限の可能性を見いだせるというのは考えてみれば当たり前のことです。

 世に成功者の傲慢な自慢話はあふれています(それがずいぶん社会に害悪を与えているが…)。この式辞が深く胸を打つのは切実な失敗談があるからなどではありません。自分の経験・成功・自信を絶対視することなく反省する人間としての大きさ=謙虚さを持ちえた人への敬意が湧いてくるからだと思います。諏訪氏が大学に戻って映画を作ったとき、失敗作と自認し、同級生の作品を評価し、大学での学問の意義を発見したわけですが、なぜそれができたかを語ってはいません。さもそれが当然かのように…。しかし傲慢な成功者たちのみならず普通の人でも、むしろ自分の経験の方を絶対視し、他人を認めず自分の経験を超えるものに気づかない、それが通例ではないでしょうか。そこに陥らなかったのは、学問が本来持っている、自由・寛容・創造性・謙虚さ、そういった大きなものが諏訪氏を導いたからだ―とりあえずわからないままにそんなふうに言ってみたくなります。

 この式辞は、社会・個人・学問・大学の関係についても大事なことを語っています。

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 東京造形大学は建学の精神を「社会をつくり出す創造的な造形活動の探究と実践」という言葉で表現しています。みなさんには「社会をつくり出す」という言葉がどのように響くでしょうか? 何か大げさな、リアリティのない言葉に思えるでしょうか? 

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 実に若者たちの心に寄り添ったていねいな語りかけです。次いで同大学の創立者・桑澤洋子氏が「デザインや美術の今日的な意味」について「それは単なる自己表現というより、社会に責任を取る表現であり、デザイナー美術家は、現代の社会や産業が孕む矛盾を解明する文明的な使命を持たなくてはならない」と発言したことを紹介しています。芸術と言えば純粋に個人的な創造行為であることを強調する見解が多い中で、その社会的使命に言及するのは異例とも思えます。そう主張する以上は、個人と社会との関係についての反省があるわけで、諏訪氏は小さな個人と広大な社会との関係づけのむずかしさを認めつつ「社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません」と断言してこう語ります。

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 私たちはみなこの地上で、限られた関係の中で生きており、全てを見渡すことなどできないところで生きています。私たちの小さな関係が編み目のように広がって、関係しあいながら世界が作られている。デザインやアートはその具体的な関係の中に、運動を作り出し、働きかけてゆく人間の行為です。私たちは、経験することのできないその広大な世界に思いを巡らし、想像することしかできませんが、その想像力こそが世界なのではないでしょうか。

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 見事な解明です。個人と社会とを(想像をともなった)実践的変革によって結合していく立場に通じるものがあります。さらには資本主義社会の現実に目を向け、社会変革が訴えられ、大学の使命も強調されます。そこでどのような変革が念頭にあるのかはわかりませんが、科学的社会主義の立場にある者にとっても心に刻むべき言葉でしょう。

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 一昨年に起きた東日本大震災と原発事故によって、あるいはそれ以前から、私たちの社会のこれまでのシステムや作法がもはや機能しないことが露呈しました。私たちはこれまでの社会において当然とされてきた作法を根本から見直さなくてはならない時を迎えていると言えます。現実社会は、短期的な成果を上げることに追いかけられ、激しく変化する経済活動の嵐の中で、目の前のことしか見えません。これまでの経験が通用しなくなっている今こそ、大学における自由な探究が重要な意味を持っている時はないと思います。

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 この式辞がネット上で大きな感動を広げているということに、日本社会における本当の「知」への敬意、あるいはもっと言えるなら、理性の奥深さを感じます。逆の現象ばかりが目につきますが、あらためて、偉そうに嘆いてばかりいてはいけないと自戒します。社会進歩の大道は決して閉じられてはいない。

 

          言葉と芸術

 言葉はコミュニケーションの手段であるだけでなく、思考を組み立てるにも不可欠なものです。しかしそれがどれほどまで対象を表現できるかをめぐってはせめぎ合いがあります。言葉について最近の新聞紙上で見た言葉を紹介します。辞書作りを題材にした映画に主演した松田龍平氏はこう語っています。

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 世の中には何万語、何十万語という言葉があふれていますけど、それは人が人に対して諦めていない想いの塊だとすると、人間には希望があるなと。「なんとなく」のような日本人ならではの言葉も、相手に微妙な感情を知って欲しいという気持ちの表れだと思うんです。「ヤバイ」のように今の時代を生きている言葉も、昔からあるキレイな言葉もいいと感じる瞬間がある。言葉は生き物で、人間そのものなんじゃないかと思いました。

 「舟を編む」(原作・三浦しをん、脚本・渡辺謙作、監督・石井裕也)についての広告

   (「朝日」夕刊412日付)より

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 言葉は「人が人に対して諦めていない想いの塊だ」という、何とも素敵な捉え方にまさに希望を感じます。そこには言葉を伝える意思があるわけです。そこで「微妙な感情」の伝わり方として、そのあいまいさをそのままに受け取ればよい場合がありますが、一歩踏み込んで考えてみるとよい場合もあります。

 デビュー作「泥の河」を撮る際に、小栗康平監督は師の浦山桐郎監督から「哀切であることは誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだよ」という言葉を送られました。小栗氏はそれをこう解釈しています(「朝日」be on Saturday 413日付、「NIPPON映画の旅人」、文・中島哲郎)。

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 あるポジションが自分にあって、そこから見て可哀想だというのが哀切だが、痛切は、自分が相手に置き換えられ、そっちでもあり得た、と思う場所から生まれてくる感情

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 言葉を使った分析の鋭さに圧倒される思いです。「泥の河」に登場する少年たちの二つの家族は貧しい点では共通だけれども、人間の尊厳の面では「天国と地獄ほどに違う日々を生き」ています(一人の少年の母は、船頭であった夫の遭難死後、廓舟で体を売っていた)。「だが、『なぜそんな差が』と考えても必然性はない。『どっちもどっち、互いに替わりうる』(小栗さん)存在だった」。1956年の大阪を舞台にして1980年に作られた「泥の河」に哀切を超えた痛切を見るとき、今の私たちもまた感じるところがあるはずです。

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 川に浮かぶ廓舟は、原作の宮本輝さんによるフィクションの産物だ。だが、その舟を、偶然の重なりや運の悪さで社会からこぼれ落ち、「わが家」には暮らせなくなった家族、あるいは家族のかけら、と考えてみれば、2013年の社会でも、それは身近な現実になる。

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 この「朝日」記者の名文には言葉の理性を教えられるわけですが、ぎりぎりまで言葉で感覚を捉えようとする作家の営みにも目を向けてみましょう(「しんぶん」赤旗、422日付、「月曜インタビュー」、文・平川由美)。「言葉で奏でる音楽のような、言葉で描く絵画のような、不思議な作品」「abさんご」で芥川賞を受賞した黒田夏子氏は「対象や心情を凝視して、選び抜いた言葉を緻密に添わせていく過程を、自ら職人仕事と呼びます」。黒田氏は普通名詞で言い切ることを避ける姿勢についてこう説明しています。

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 普通に流通している言葉でくくってしまうと、消えいりそうなもの、微妙なものがこぼれ落ちてしまう。とりとめのないものをそのまま閉じ込めるために、言葉を幾つも寄せ集めるということになります。

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 さらに自分の原点について「幼児期に抱え込んだ感覚を言葉で生け捕っておきたいというのが、一番もとのところにあります」と語っています。私のような無粋な人間にはこうした機微はわかりにくいところがありますが、平川記者の最後の言葉には感じ入りました。

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 選ばなかった道も、経験しなかったことも、かなわなかった夢も、すべてが今この瞬間を祝福している―。読後、そんな充足に包まれたのは、作者の明るさの照り映えなのでしょう。

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 考えるだけでは、なかなかこういう達観にはいたらないように思います。読者の感覚の鋭さや柔らかな感受性を引き出す作家の力量のおかげでしょうか。

 作家はあくまで言葉の枠内で表現を追求し、そのいわば不自由さの中でのせめぎ合いが言葉の可能性を伸ばしていきます。様々な芸術分野にはそれぞれの表現方法があり、それに従った対象把握があり、言葉へのスタンスも様々でしょう。言葉に体の動きが加わるとどうなるでしょうか。能楽師・九世観世銕之丞氏は「声を発して言葉としてイメージを正確に伝えるより、言い尽くせなかった思いを込めて展開していくのが能でしょう。そうしたことで、観客は入りづらいけど、入ると快感になり面白くなります」(「しんぶん赤旗」416日付)と語っています。言葉プラスアルファの立場とでも言えましょうか。

 言葉という問題意識からすれば挑発的なのが「音楽を文学と同じように捉えようとするから退屈で分かりにくい。言葉と同じようなものを求めてもだめなんです」という作曲家の池辺晋一郎氏です(「しんぶん赤旗」日曜版、421日付、聞き手・那須絹江)。

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 音楽は、直接的に心に働きかけてきます。間に何も介在させません。頭で解釈する前に心が感動してしまうのです。

 音はもともと自然界にあります。風が吹けば音が鳴るし、葉っぱがそよいでも音が鳴る。こうした自然の音のたたずまいに、いちばん近いのがモーツァルトです。音符をたどっていくと、究極は自然の音になっていく。それと逆に、自然の前に人間が立ちはだかって、もっとも人間の意思をはっきり示しているのがベートーベンです。音符から、その作曲家の考えが見えてくるんです。

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 言葉というテーマからははずれてしまうけれども、実に興味深い発言です。モーツァルトとベートーベンは常に対比されますが、自然と人間という観点は新鮮で納得してしまいます。

 結論もなく、テーマからはずれついでに池辺氏の政治観を紹介します。「作曲家なのになぜ政治的発言をするのか」という質問をときどき受けることに逆に疑問を呈してこう返しています。

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 政治とは毎日の生き方ですよ。それを仕事にしているのが政治家ですが、政治はあらゆる人がかかわります。

 ぼくは音楽を仕事にしている。そして毎日を生きている。だから音楽で自分の考えを表現する。音楽というのは、たちどころに支援の力になったり、「テロ反対」といったらすぐテロがなくなるわけではありません。けれど、じわじわと浸透する力があるんです。

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 お任せ民主主義への警鐘です。心に思い浮かぶよしなしごとの拙文を終わります。
                                 2013年4月30日




2013年6月号

          資本の論理と暮らし・生業の論理

 今月は時間がないので、説明を省いて、思いつきの要点を書くことになりそうです。

 米田貢・岡田知弘・増田正人・鳥畑与一・藤田実氏による座談会「『アベノミクス』批判 日本経済の再生を論ずる」は多岐にわたる論点について総合的にアベノミクスを検討していますが、私が最も注目したのは以下の点です。官・民および内・外のファンドによる投資効率第一の行動が、生業を重要な要素とする地域経済のあり方と矛盾するという問題点について、鳥畑与一氏が繰り返し指摘しています。中小企業再生ファンドは選別・淘汰の流れの中で一部優良企業のみに投資していますが、「投資の価値があるか否かで企業を選別することは、『暮らしと生業』というコミュニティを基礎とした地域経済の活性化と敵対する側面があることを注視する必要があります」(15ページ)。「暮らしと生業というときに、小規模企業では黒字・赤字は関係ないと思います。会社としては赤字かもしれないし、債務超過かもしれないけれど、それで生活をし、家族を養い、従業員を雇い、地域社会を支え、事業自体もそれはそれで生業として続く世界があるわけです」(27ページ)。

 政府主導のファンドでさえ、このように地域経済と生業を軽視している状況下で、「世界で一番企業が活動しやすい国」というスローガンで内外の民間ファンドを応援する政策は何をもたらすか。

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 日本のファンド規制は欧米に比べても弱く、野放し状態ですし、日本の地域社会や公共性とはまったく違う論理で利益追求が行われている。そういう圧力のもとで日本企業が短期的な金儲けのために労働市場の自由化や、使い捨て労働の拡大、地域経済の切り捨てをやっていき、ファンドは富をどんどん集中して海外にもっていく。これは日本経済の歪みをもっと広げるものにしかなりません。       25ページ

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以上のように地域経済および暮らしと生業の実情を直視しつつ、それと新自由主義グローバリゼーションとの矛盾が指摘されます。その上で、グローバル化に対応する地域経済のあり方が提起されます。

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 グローバル経済化の成功は、ローカル経済を守り発展させる仕組みなくしてはありえないと思います。投資家からみて儲かるかどうかではなく、地域経済の構成員が共に繁栄できるかどうかを基準とした枠組みが必要であり、経済的弱者の淘汰を前提にした経済的効率性優先の考えから、中小企業政策や中小企業金融政策を解き放つ必要を痛感しています。その意味で、地域循環型社会の構築に地域の非営利の協同組合金融機関が中心になるような地域振興条例づくりも必要ですし、100%保証の信用保証制度への復活や制度融資の一層の充実など中小零細企業の実情に合った支援策が必要です。また、短期的な儲かる企業への再生可能性を基準にした債権買取り機関の運営も是正されるべきです。

 同時にこういう日本独自の中小企業支援策が、TPPで完全否定される危険性も憂慮しています。               32ページ

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 経済というものを考えるのに、多国籍企業による「上から目線」で抽象的に実情を見過ごすのではなく、地域経済・生業・暮らしという地べたから具体的に出発するという姿勢が大切だということでしょう。それだけでなく、ここには資本主義市場経済における資本の論理と生業・暮らしの論理との対立が見て取れます。それは流通範式としては<G―W―G´>と<W―G―W>との対立として表せます。資本主義市場経済においては前者主導の下に両者が共存していますが、今日的には前者が後者を押しつぶす形で国民経済そのもののバランスが破壊されている点に危機的状況があります。『共産党宣言』にもその無慈悲な文明化作用が活写されているように、資本主義の生成期から前者の優位とダイナミズムは一貫していますが、当時と違って今日的には、人間の発達やまともな社会のあり方という観点からすれば、資本の論理の性格の主要部分は人類史的には反動的位置に転化しているというべきでしょう。したがって当面する課題としての資本への規制、特に新自由主義グローバリゼーションへの規制こそが理論的・政策的に最重要です。上記の鳥畑氏の発言にも見るように、わが国において民主勢力から国民経済的政策は打ち出されており、世界経済に目を向けても、様々な政策と運動があります。世界経済を見ると、上村雄彦氏によれば金融取引税は「夢物語」ではなく、すでにEU内の11カ国がその導入を認めています。参加国以外の金融機関も参加国の金融商品を取引すれば課税される、というその仕組みからすれば、参加しなければ一方的に取られるばかりとなり、参加国が世界的に広がる可能性も大いにあります。EUの動きに大きく影響したのは、ロビンフッド・タックス・キャンペーンという市民運動であり、日本においてもそうした運動が求められます(「金融取引税の可能性 地球規模課題の解決の切り札として」、『世界』6月号所収)。

 かつて内橋克人氏はこう述べていました。

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この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間」を見ず、時流に便乗し世の中を見下して。「市場が淘汰(とうた)する」なんて、どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に比べ、なんと軽薄な。

  なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。

                        「朝日」夕刊1999年5月21

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 これは資本の論理と暮らし・生業の論理との対立にかかわっていますが、その他に経済学の抽象のあり方についての問題提起でもあります。科学に抽象は必要であり、経済学も例外ではありませんが、そこではどのような抽象度にあっても「切実な思いで生きてきた人々」の表象が忘れられてはなりません。

 経済学では往々にして自然現象のごとくに「労働力の流動化」と言いますが、そこでは以下のことは念頭にないでしょう。

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 「労働力」は生身の労働者と切り離すことはできない。その「流動化」とは、企業が求めるままに、労働者を勤務先や勤務場所を変更させ、職種を変えさせることを意味する。しかし、労働者をいつでもどこへでも企業の意のままに動かせるわけがない。

 労働者は解雇されれば、いや応なく明日の生活のために仕事を探さなければならない。幸い就職先が得られても、通勤圏内でなければ、単身赴任か、家族ごとの転居を強いられる。単身赴任は家族との別居、二重生活という負担が伴うし、家族ごと転居を考えても妻の失業、子達の転校、さらには本人および家族はそれぞれ移転先で新しく人間関係を築き上げてゆかねばならない等々の問題がある。

    …中略…

 解雇の金銭的解決制度や「労働力の流動化」を口にする人達は、解雇された労働者一人ひとりが遭遇するそのような問題は視野に入れないし、労働者の人間としての尊厳を価値として認めようとしない。

  萬井隆令「解雇規制の緩和と金銭的解決制度」(『前衛』6月号所収)123ページ

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 萬井氏は労働法学者であろうけれども、経済学においても、労働者の生活をその身になって考えるという姿勢は必要不可欠でしょう。経世済民の学としての経済学は、一人ひとりの暮らしと「大所高所」とを統一する視点が必要です。主流派経済学は人間生活の表象を忘れた抽象のあり方に基づいて、個人を犠牲にしてもっぱら「大所高所」の整合性を追求しますが、実はその「大所高所」は多国籍企業の私益を公益に見せる隠れ蓑にすぎません。こうした事情を考慮するなら、憲法13条にある、個人の尊重と幸福追求権は、自己責任論として解釈するのでなく、グローバル資本主義と個人との対抗関係における運動の旗印として高く掲げるべきでしょう。

 

          社会変革と人々の意識

 人々はなぜ選挙に際して、自分で自分の首を絞めるような投票をしてしまうのか。そこには資本主義市場経済そのものが人々の意識を体制擁護に仕向ける客観的構造があり、支配層が教育とマスコミを支配しているということなどもあります。とにかく社会変革を目指す者は「人々に真実を見えなくしているものは何か」という問題意識を常に保持し、それを探ることが不可欠であり、「正しいことを真面目にしている者の自己満足」を克服すべく考え努力せねばなりません。

たとえば政権党が選挙に負けたとき、「有権者は悪政の本質を見抜いた」がごとき評価がしばしば見受けられますが、これは景気づけや気休め以上の意味はありません。ここには「人民は自分と同じ意見だ」という「左翼イデオロギー的偏向」があるばかりで、人々の社会意識をありのままに深く捉えるリアリズムがなく、その結果、それを真剣に捉える努力を怠り、革新勢力は選挙で負け続けることになります。

今、橋下徹氏は暴言により自らの政治的危機を招いていますが、もし彼がこのまま没落したとしても、依然として「橋下問題」は残ります。あのような不見識な人物が跋扈できる日本社会の根本的反省が必要です。反省の主体は日本社会であり、「無知な民衆」ではありません。それは「わかっている者」が「無知な民衆」を啓蒙して反省させる、という問題ではないということです。すべての人々が自分たちの社会の病理構造を把握し、それを克服する闘いに参加せねばなりません。資本主義市場経済の孤立化作用の中で草の根民主主義をつくる闘いです。

橋下氏は保守反動勢力と同様の反人権・反民主主義の故に内外の大方の勢力から批判を受け支配層からも見放されつつあります。しかしそれは彼のイデオロギーの一面であり、過激な新自由主義という主要な側面が批判されたわけではありません。自己責任論とバッシングの寵児として支配層の期待を担った彼の役割は依然として残っています。それを担うのが彼のままか彼以外になるのかということはあるにしても、私たちの社会が大きな病根を放置し拡大しており、そこに被支配層の従順化と分断支配という支配層の戦略展開の余地が広がっていることを直視すべきです。ハシズムとともにこれを葬ることを私たちの課題とすべきでしょう。

 

          平和のロマンとリアリズム

 ある米国人留学生(「YOSHI基金」で来日した男子高校生)が名古屋市の愛知県立旭丘高校での交流会で次のように語りました。

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 日本人には銃で身を守ろうという考えはない。彼らは家や普段の暮らしで銃を持っていないから。お互いへの信頼が彼らの身を守っている。

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 この言葉は、服部政一・美恵子夫妻1992年に息子・剛丈/よしひろ/が留学先のルイジアナ州で射殺された。その後、銃のない日本社会に米国人留学生を迎える「YOSHI基金」を設立した)が20132月にオバマ大統領あてに銃規制を訴える手紙を送った、という「朝日」記事(58日付)で紹介されていました。これはまさに日本国憲法の前文と9条の精神そのままです。もちろん近隣社会の問題と国際社会の問題とを単純に同一視するわけにはいきませんが、日本人の日常意識が憲法の精神によく適合し、それを支えているという関係があることは確かでしょう。

 この米国人留学生は、「日本の常識=米国の非常識」を的確に把握したのであり、意外とそれを日米両国人はそれぞれにわかっていないのです。「押し付け憲法だ。9条を変えろ」というのが日本人の常識にそぐわず、逆に米国の押し付け改憲そのものだということがよくわかります。

 人権や民主主義は特殊西欧的概念だという言い方もよくされますが、少なくともその主要部分が今日では世界的に普遍性があると認められていることも確かです。どこで生まれようといいものはいいのであり、どこでも通用します。現憲法の下で、戦後日本が育んできた平和主義もまた普遍性を主張してもよいと私は思います。

 私は外国人から日本や日本人をほめられるとうれしくてしょうがない、という我ながら単純な愛国主義者だなと思っています。しかし普遍性を尊重する気持ちも非常に強いのです。日本国憲法の平和主義はまさに両者の交点にあります。世界中の人々はまず互いの違いを認め合うことが大切です。しかし自国の長所が真に世界的に普遍的なものであるならば、それをおせっかいにも世界中に広めることはおおいにすべきであり、それは愛国心であり人類愛でもあるでしょう。アメリカはその点で正反対の勘違いをやり続けてきたのであり、日本への「押し付け改憲」もその一環なのです。

 以上はいわば平和の理念の問題です。しかし残念ながら世界が軍事によって動かされる部分が少なくないという現実があります。これを遺憾に思う者にとっては、軍事力による「恐怖の均衡」から外交・対話による「真の安心・平和」への転換が目標であり、根本的差異を超えるべくこの転換過程をどう設計し運動し実現するかが現実的課題です。ここでは理想主義と現実主義との統一が図られねばなりません。平和についての価値判断と現状認識とを区別しつつ統一するということです。残念ながら一部には「区別」の代わりに「混同」があり、「統一」の代わりに「分裂」があるのではないか、と憂慮しています。

 たとえば『前衛』5月号に、末浪靖司「アメリカが求める九条改憲の深層 米公文書館からの報告」小林俊哉「第二期オバマ政権の『アジア回帰』戦略と日米中関係」の二論文があります。それぞれの主題についての優れた論稿であることは前提にしつつ、上記の問題意識から言及します。

 末浪論文の最後には「アメリカが求める九条改憲の深層と、それを阻み続けた国民の攻防の歴史を大局的に見るなら、先駆的な日本国憲法とこれを擁護する日本国民こそが、時代の流れを代表していることは明らかである」(68ページ)とあります。もちろんこれは間違いではありませんが、多くの人々が9条擁護とともに、日米軍事同盟と自衛隊を支持しているという現実を見るなら、こうした言明は一面的だとも言えます。進歩勢力の中で他によく見る傾向として、平和は外交・対話によって守られるべきだという価値判断から一足飛びに現実もそうなっていると思い、軍事力の現実的役割を軽視することがあります。もちろん現実には軍事や外交など様々な要素が絡み合って平和をめぐる情勢は動いているのですが、価値判断を現実に押し付けることで現状分析が歪むことがありえます。

小林論文は、日本の支配層が想定するのとは異なって、アメリカは軍事力一辺倒ではなく複雑な外交戦略を描いていることを忠実に紹介しています。それだけに軍事均衡論などのアメリカの体制的原理への原則的批判は「禁欲」しているかのごとくです。したがってこの論文は資料的価値としては重要だけれども、体制側の論理による現実解釈の無批判的紹介になっている憾みがあります。

 両論文は例として挙げたのであり、言いたいことは以下のごとくです。価値判断を現状認識に押し付けることで、現状分析が歪む論稿がしばしばあり、逆に価値判断を排して体制側の戦略をそのまま紹介する論稿も見られます。結果として、前者の現状分析での無力さを後者で補うという関係がみられます。するとそこでは価値判断は生きてきません。共通の原理によって統一されていない論稿どうしの機械的接合による補完関係がここにはあります。価値判断と現状認識との混同を排し、(体制側の原理への批判を含む)冷静な現状分析を実現して、政策において価値判断が生きる、といった方向を確立することが必要です。
                                 2013年5月31日


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