月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2013年11月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2013年11月号

          「上から視角」VS「下から視角」

 資本と賃労働との対抗関係は、資本主義経済の構造と動態を規定する重要な基本的要因です。今日の新自由主義グローバリゼーションにおいて、それは、巨大多国籍企業=グローバル資本を中心とする少数の支配層と労働者階級を中心とする圧倒的多数の人民諸階層との対抗関係として展開しています。そうした本質としての階級関係は、経済の諸階層(所得階層ではない)における政策や闘争としていっそう具体的に現れ、イデオロギーや理論に反映します。そうした経済の諸階層の総体としての重層性を概観するものとして、先月は以下のように、生活の視点から規定関係を図式化した<図式1>と、資本の視点からの<図式2>を提示しました。ただしここでの経済の階層性とは、たとえば<価値→生産価格→市場価格>といった理論の抽象度の階層性ではなく、個人から世界経済にまで至る経済範囲の違いによる具体的な階層性です。それは諸政策・諸闘争の現象を検討する場となります。

 

<図式1

諸個人の生活と労働→諸個別企業(中小企業が中心)→地域経済

→国民経済→世界経済(巨大多国籍企業が支配的)

 

<図式2

諸個人の生活と労働←諸個別企業(中小企業が中心)←地域経済

←国民経済←世界経済(巨大多国籍企業が支配的)

 

 両図式は規定方向を示す矢印が逆になっているだけで、わざわざ二様の図式にしたのはどうかとも思われます。そこで経済における上下の重層的関係とそこにおける双方向の規定性とを一つの図で表現したのが下の<図1>です。これによって「経済の重層性における諸個人とグローバリゼーション」が概観できます。

<図1>で矢印の元にある階層は規定する側であり、矢印の先にある階層は規定される側です。左側の矢印群(↑)は「下から(上へ形成する)視角」(諸個人の生活と労働から出発して経済の重層性を見る人民の変革的立場)に、右側の矢印群(↓)は「上から(下へ支配する)視角」(グローバル資本から出発して経済の重層性を見る支配層の搾取者の立場)に反映されます。

 

  <図1

 

 

 

 

<図1>は、上下にある五つの階層がそれぞれ他の四つの階層と相互に規定しあう関係となりうることを網羅的に表しましたが、最下層の「諸個人」と最上層の「世界経済」との関係に焦点を合わせるために、中間三層からの規定性をいくつか省略して表現すると<図2>になります。

ここでは「上から視角」(↓)と「下から視角」(↑)との対抗がよりはっきり見えます。<図1>にある矢印が示す規定性は客観的にはすべて存在しますが、その強さは様々であり、そのうちどれを主要に取り扱うかは政策・闘争・理論をめぐって意識的に区別されます。こうした取り扱いの意識性を大きく二つにまとめれば「上から視角」と「下から視角」とが浮かび上がってきます。

 人々を苦しめる庶民増税=大企業減税、福祉切り捨て等々の政策は、直接的には国民経済に責任を負うべき政府の悪政によるものです。これに対する政府や財界の弁明は「グローバル競争に勝たねばならないから」というものです。こうして諸個人の要求を圧殺する悪政の根源をたどればいずれも新自由主義グローバリゼーションに行きつきます。世界資本主義を支配する巨大多国籍企業=グローバル資本が最大限利潤を追求するために、国民経済から地域経済、職場・企業、諸個人の生活と労働にまで強い影響を及ぼしていることが諸悪の根源であることが分かります。ここでの理論・政策・行政・闘争は「上から視角」(=搾取者の立場)に貫かれており、結局グローバル資本の利潤追求が諸個人の生活と労働を圧迫することになります。逆に諸個人の生活と労働の立場から、職場・企業、地域経済、国民経済、世界経済のあり方を規定し変えていく「下から視角」による理論・政策・行政・闘争が求められます。

 

  <図2

 

 

 

 

 「視角」の問題を別にすれば、このような経済の重層性の図式化は当たり前のことを表わしただけです。それでもあえて意義を見出すなら、目前の政策や闘争を常に全体構造の中に置いて捉え、そうした構図において自分たちの理論と支配層の理論とを対比する上で、この一覧的視覚化が若干の役に立つのではないでしょうか。ただし視角の設定と図式化は豊饒な現実を観念的に裁断する危険性と常に隣りあわせではありますが……。

 

 

          社会保障をめぐる対抗

 社会保障分野では、「上から視角」と「下から視角」との対立が明確であり、財政制度等審議会(財政審)にしばられた社会保障制度改革国民会議(国民会議)は「給付抑制・負担増」路線を露骨に打ち出しています。これは主に国政の問題であり、経済階層としては国民経済や国家財政が主戦場ですが、こうした政策の背景には新自由主義グローバリゼーションがあり、またそれは地方自治の変質、地域経済の荒廃を通して、人々の生活と労働に耐えがたい打撃を与えようとしています。そういう意味では、政治経済の重層性を舞台として強搾取と悪政が展開し、それへの人民的反撃が闘われています。岡崎祐司・日野秀逸・三成一郎座談会「社会保障を壊すアベノミクス 消費税増税に根拠なし」(以下<社保座談会>)と横山壽一・寺尾正之・相野谷安孝座談会「安倍『医療改革』との対決 国民皆保険を守る」(以下<医療座談会>)で縦横に語られている内容からは、そうしたことも読み取れます。

 国民会議の報告(86日)は社会保障について生存権保障のない「自助・共助」論に立ち、社会保険についても「自助の共同化」として、「社会」を抜いた保険主義化を図っています。社会保障に個人番号制を導入して、給付と負担の実績を個人勘定で管理する、というように、経団連の狙いは社会保障全体の個人会計制です。それを端的に表現すると次のようになります。まず皆保険としての社会保険の実質的解体として「ともかく保険料を払え、かつ払われた保険料の範囲内で給付をする、そして権利とは保険料を払った見返りなのだ」(<医療座談会>120ページ)というご託宣が下ります(それ「権利」か!?)。そして社会保障全体についても、「財界の頭には社会保障という考え方がそもそもないのです。「共助」「公助」などというものもない。あるのは社会保障の負担と給付の損得勘定だけです」(<社保座談会>21ページ)ということになります(ただし財界の意向がどこまで国民会議の報告に貫徹されているかはよく見るべき問題ではあります)。

 これに対して、生存権保障の上に立った生活像として「生活できる賃金を得て、税金も社会保険料も払い、医療保険や児童手当などの社会保障給付や、住宅補助も受けながら生活する、つまり労働賃金プラス社会保障給付による安定した生活様式を当たりまえにすることが重要です」(<社保座談会>32ページ)。このように諸個人の生活と労働の視点から出発して社会保障を捉えていきます。

 その際に、現状では社会保障の中心にある社会保険とはそもそも何か、を確認することが必要です。

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 第二次大戦後の社会保険は、@それが社会保障制度の中に組み込まれる、A対象が労働者階級から全国民、自営業者や農民層などに拡大する、B労働者・国民、資本・使用者と対象者を拡大したために明確な国家負担の責任がでてくる、などの特徴をもつようになっています。保険原理を社会的責任で修正し普遍性をもたせる制度なのです。あえていえば「自助の共同化」を公助で包み込んだ制度なのです。

                  <社保座談会> 22ページ

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 さらに以下に紹介する皆保険制度の三つの構成要素も重要です(<医療座談会>119ページより)。                                               

1.すべての国民が加入対象

2.全国一律の療養給付、全国一本の診療報酬制度

      普遍的で公平、平等な医療給付を受ける権利の保障

     3.「必要充足型」の給付保障

 以上は、いわば守るべき社会保障の原像の一部です。これを含む(非常に不十分とはいえ曲がりなりにもつくられてきた)生存権に基づく社会保障を原則的により一層発展させようというのが人民的立場です。逆にそれを「自助・共助」論による「給付抑制・負担増」で破壊するのが支配層の路線であり、この対立を単純化して言えば、財政を中心に展開する経済的価値の分配・再分配闘争です。それは新自由主義グローバリゼーション下において行なわれますが、分配のみならず生産(雇用を含む)のあり方をも含めた経済像の対立として捉えるべきでしょう。

 社会保障破壊の理論と政策が出てくるのは、「グローバリズムのために国内の労働者も、地域も、社会保障も大企業の国際競争力強化に同意し協力せよ、労働や生活の犠牲があってもかまわないという発想」(<社保座談会>34ページ)からであり、タックスヘイブンを利用するなどして「実は国家に税金を納める意思がない人たちが、さらに法人税を減税しろと主張し、海外に逃げるわけにはいかない国民には大企業が国際競争力に打ち勝つための改革に協力し、社会保障削減には我慢して堪えなさいといっている」(同前33ページ)わけです。まさに新自由主義グローバリゼーションの「上から視角」そのものです。

 このように、支配層の社会保障破壊は、新自由主義グローバリゼーション・構造改革による雇用の劣化そして格差と貧困にまみれた不安定な経済社会を不動の前提にしています。そこでは内需不足による経済停滞が税収と社会保険料収入の減退を招き、支配層は社会保障の「持続可能性」を確保すると称して、庶民増税と社会保障の「給付抑制・負担増」を強行しています。それによるさらなる生活の悪化は人々のやる気をそぎ、内需不足を促進し経済の停滞に帰結するに違いありません。こうした悪循環は人民の犠牲においてしか「持続可能」ではありません。ならば対抗構想は、まともな雇用と安定した生活を前提にした内需循環型の地域経済と国民経済によって支えられる社会保障の構図でなければなりません。まともな雇用が生活の安定のみならず税収と社会保険料収入の安定を実現し、それによる真に持続可能な社会保障がさらなる生活の安定と充実を実現し経済の活性化と内需の拡大に結びつく、そういった好循環を誰にもわかりやすく提示することが切実に求められています。

バブル崩壊後の失われた20年による深い閉塞感と諦めを打開する道を人々は求めています。そこに付け込んでアベノミクスは一定の人気獲得に成功しましたが、それが無理筋・悪循環であることは早晩明らかになります。そこで経済・財政と社会保障の「真の一体改革」による好循環が可能であることが理解されるなら、世論が一変する可能性があります。「欲しがりません、勝つまでは」(かつては戦争に、今はグローバル競争に「勝つ」)という、マスコミによる大合唱に影響されて、犠牲を覚悟しつつも割り切れない思いでいる人々に対して、個人の生活と労働の発展が経済全体の発展につながる道があることを示すことが、世論転換のカギであると思います。

 

     (付1)反撃の拠点としての地域

社会保障をめぐる対抗において、地域経済・地域政策は重要な焦点となっています。新自由主義構造改革は「地方分権」「地域の自立」を喧伝しますが、もちろんこれは憲法理念による地方自治の促進ではなく、国が社会保障への責任を減らして地方自治体に押し付け、しかも自治体が「自主的」に社会保障抑制を担うような仕組みをつくろうとするものです。その先兵として「国保の都道府県単位化」いわゆる「地域保険化」を進めていく方向が出されています(<医療座談会>124ページ)。合わせて都道府県単位の地域医療計画も立てさせるということで、費用の観点から地域医療の給付水準を抑え込もう、つまり「保険者機能を通じた受益と負担の牽制を働かせる」(同前125ページ)という狙いです。

それに合わせて軽度者を介護保険から外すという方向が出ており、実質的に準備できていない「地域包括ケア」に担わせようとしています。このように公的責任を外して地域に医療・介護を丸投げするような「自治主義」「地域主義」を批判することが必要です。しかし地域包括ケア自体の整備は必要です。医療・介護・福祉・すまいを一体化して高いレベルで保障していくことが人権保障としての地域包括ケアであることを明確にすることが重要であり、地域を主戦場にした対決が不可避となります(同前131ページ)。

 まさに、経済の重層性の中層にある地域経済、それに政治的に対応する地方自治体、そして地域社会という次元で「上から視角」と「下から視角」とが激突しています。新自由主義グローバリゼーションによる利潤追求・市場化への反撃(社会的規制)の拠点として「顔が見える地域」が注目されます。地域住民と医療者とが相互理解を深め、日常生活の圏内で充実した医療を受けられるように求める運動を起こして、地域を土台に政権の「医療改革」に対抗する可能性が出てきています(同前133ページ)。これは医療のみならず社会保障全体にもいえることです。

 

     (付2)生存権の主張をめぐって

 ここで論点としては初めに戻って、支配層の「自助」「共助」路線による社会保障の実質的否定に対して、生存権保障の立場からどのように批判していくかについて考えます。自民党の改憲案でさえ、現行憲法の25条の文言はほとんどそのまま残していますから、支配層も少なくともタテマエ上は生存権を正面から否定するわけではありません(そこまで露骨な攻撃はできない、という力関係ではあるということ)。しかし福祉切り捨て路線が一貫して続いていることからして、ホンネは「社会保障の負担と給付の損得勘定だけ」であり「権利とは保険料を払った見返りなのだ」というまったく経済主義的な歪んだ観点であり、その前提に生存権などの基本的人権を守るという法的立場が実質的にないのは間違いありません。

 これに対して生存権を保障せよと迫るのは当然であり、ホンネはともかくタテマエを守らせることが必要です。しかしそこで問題の本質を「経済VS権利」という対立図式に求めることがあるとすれば、それは誤りです。経済状況はどうあってもともかく権利を充足するのは当然だろう、と主張したり、たとえば幾何学の公理のようなものとして権利を捉えて、それを尊重する必要性は誰にとっても明白であって、その理由を説明する必要はない、という考え方は疑問とされねばなりません。これはいわば、「生存権=水戸黄門の印籠」説ですが、印籠を示されても支配層がホンネとしては拝跪しないだけでなく、多くの人々もまた心から納得しているわけではありません。

<医療座談会>でも社会保障擁護において「世論との関係で大きいのは財源問題です」(134ページ)と言われています。生存権を確保しうる経済的根拠が説明されなければ、多くの人々は納得しないのです。学校の社会科で憲法を習っても、権利が実社会で機能していない現実に直面し、権利をタテマエや空論としか感じていない多くの生活者たちにとっては、支配層の経済主義に基づく福祉切り捨ての方がリアリティをもって受けとめられます(それが良いか悪いかの価値判断はともかくとして、現実はそんなものだという事実認識があり、ひいては現状追認の諦めとなっていく)。また権利というのは金の支払いの見返りなのだ、という方が日々市場経済に生きている生活実感に即しています。ここでは「権利がある」という教条に留まっているわけにはいかず、それを実現する経済のあり方に踏み込む必要があります。

そう言うと、「経済・財政に合わせた生存権解釈(たとえば、それは国家の具体的な責務か、単なるプログラム規定か、といった議論)でなく、生存権実現を前提にした経済・財政運営がされるべきだ」という反論があると思われます。しかしそういう主張が成立しうるのは、それを可能とするオルタナティヴな経済・財政像を持っているからであり、先天的に経済に対して権利が優先されるべきだからではありません。現実にはそうしたオルタナティヴが知られていないか隠されたところで、「経済状況からして権利を十分に実現することはできない」(そういう言い方はしないけれども、「福祉バラマキはダメだ」とか「富の分配ではなく痛みの分配こそが課題だ」という類の言いぐさがそれにあたる)ということが喧伝されています。それに対して、機械的に反発して「経済よりも権利が優先されるべきだ」と批判することは理想論としては正しい(本来、経済は人間社会の有意義なポリシーによって導かれるべきであり、権利はその最重要なものであるから)し、その正しさによって一定の共感を得て、経済主義の暴走を防ぐ効果もあります。あるいはその理想論の刺激によって、眼前にあるものとは別の経済財政のあり方を探すべきではないか、と思わせる効果があるかもしれません。しかしいずれにせよ、権利を実現する経済的土台を合わせて主張して初めて、権利実現の主張は十全なリアリティをもってよりいっそう人々に受容され得るのです。そうした理解からすれば、「経済」と「権利」とを同一平面で抽象的に対立させる発想を克服する必要があります。

それでは、「経済VS権利」という図式が誤りだとするならば、何が正しいのか。「権利破壊VS権利擁護・充実」という対立の土台に「権利を破壊する経済VS権利を擁護し充実させる経済」という対立がある。実はこの二層の対立図式があり、それを「経済VS権利」という単層の対立図式に写してしまったところに誤りがあります。それはヒューマンな意図においては評価すべきです。しかし資本主義経済を経済一般と混同することで、利潤追求第一主義への批判を経済活動一般への批判と取り違えて、経済に対する権利の優位を主張することで人間的社会を擁護できるという錯覚に陥ったものだと思われます。しかし、経済の土台を忘れた権利主張はリアリティを欠き、多くの生活者にとっては説得力が小さくなります。支配層による生存権破壊は、権利に対して経済を優先した結果ではなく、権利を破壊するような経済を推進した結果なのです。それに対抗するには、権利を擁護発展させるような経済を対置することが、権利主張の土台に必要だと思います。

公理としての権利の抽象的主張ではなく経済との関係を考慮することが必要だ、という拙論は、社会変革の理論の不十分さを補い、運動の効果的発展に資する議論だと考えた結果です。それは単なる私の勉強不足による勘違いから来る僭越さかもしれませんが、ついでながらそうした発想の元となったものとして、東日本大震災と福島原発事故後によりいっそう語られるようになった「生命か経済か」という対立図式についても言及します。その意図は理解できますが、理論的には正確でないと思います。そこにある真の対立図式は「生命破壊VS生命擁護・充実」であり、その土台に「生命を破壊する経済VS生命を擁護し充実させる経済」という対立図式があるのです。ここにも「生命」と「経済」を同一平面で抽象的に対立させる誤りと「経済一般」と「資本主義経済」との混同があります。

 さらには、そもそも生存権という考え方が出てきた根拠を考える必要があります。それは搾取制度としての資本主義経済が労働者の生存の自由を侵害しているからであり、その「運命」に抗う労働者階級の闘争を反映して生存権が誕生したのです。生存権は被搾取者の階級闘争に対する搾取者の譲歩の結果であり、本質的に資本主義経済とは矛盾するものであり、不断の闘争によってしか存在しえない不安定なものです。その安定化は資本主義そのものの止揚によってしかありえません。

 このように資本主義経済と生存権との関係を考えることを軸に、経済と権利とを抽象的に対立させることを脱して、上記のように両者の立体的関係を捉えることができます。さらにそうした構造把握の前提として、権利の発生根拠を経済と関係づけることも必要です。こうして浮かび上がってくるのは、新たな「権利」像です。権利は何か先天的で固定的な「正解」とか、問題解決にとって説明不要なそれ自身自足的な「印籠」と捉えられるべきではなく、経済などとの関係の中に置かれ、しかも歴史的闘争の渦中にある動的存在としても捉えられるべきでしょう。

日本国憲法は基本的人権について以下のように述べています。

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11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

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 ここでは基本的人権の普遍性と不可侵性が過去・現在・未来に渡って格調高く宣言されています。それは「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって」(過去→現在)、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければなら」ず(現在→未来)、そうすることで初めて「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」ことになります。基本的人権は条文化によって確定し固定された静的なものとしてのみ捉えられてはならず(確かに不安定であれば権威や実効性が損なわれるので、確固性は必要だが)、それはあくまで一面であって、人類の闘争の中に置いて、それ自身の発展および社会全体の発展との関係において動的なものとして捉えられるべきでしょう。上記の拙論は主に生存権を経済のあり方との関係において捉えようとしました。そうすることで基本的人権の存在理由を強化することになり、人々の一層の受容に資し、それを「保持する不断の努力」の一端となれるならば幸いです。

 ところで先に、権利がなかなかリアリティをもって受容されない状況を問題にしました。それは権利が侵害されている現実を眼前にして、学校で習った権利概念を偽善的で空虚なものと思ってしまい、現状追認の諦めに陥りがちになるということでした。しかしそれだけを言えば一面的のそしりを免れません。現実に生活し労働している人々が困難から逃避するだけでなく、それを何とか克服したいと思うのも当然です。その際に権利は守るべきものないしは目指すべき理想として機能する可能性があります。そのような良き価値を持ち、自分だけでなく多くの人々に共通する規範性をも持ちうる点に権利の希望があります。人々にとって、「権利がある」ということを出発点に、個人の状況や社会のあり方を変革する行動に進むことは大いにありうることです。したがって、先に、「権利がある」という教条に留まっているわけにはいかず、と主張しましたが、それはあくまで運動論を社会科学的に考えるという目的に即した言い方であって、現実に様々な諸個人が運動に参加していく場合に「権利がある」という命題から入っていくことは大切です。このあたりになると、権利・基本的人権の本質は何かが問題となり、素人考えでぐるぐる回っている限界があらわになりますので打ち止めとします。

 

     (付3)研究者・専門家の姿勢

 <医療座談会>では、国民会議が1950年の社会保障制度審議会の勧告(「50年勧告」)を引用して社会保障の保険主義化を正当化していることに厳しい怒りが向けられています。「50年勧告」は確かに「社会保障の中心は社会保険制度」といっていますが、その意味は国民会議の立場とは正反対です。まず生存権が確認され、生活保障の責任は国家にあると宣言しています。つまり国家責任としての社会保険であり、当時の状況から社会保障整備に税金だけでは無理なので、拠出の方法として社会保険を採用したのです(118-119ページ)。「50年勧告」に基づいて61年から国民皆保険が始まり、「現物給付」が採用され、前述のような三つの構成要素(すべての国民が加入対象、全国一律の療養給付、「必要充足型」の給付保障)によって、すべての人々が普遍的で公平・平等な医療給付を必要性の充足まで受ける権利が保障されました(119-120ページ)。ところが国民会議は「ともかく保険料を払え、かつ払われた保険料の範囲内で給付をする、そして権利とは保険料を払った見返りなのだ」(120ページ)という「社会」抜きの保険主義化を図っています。

 研究者・専門家の姿勢としても、「50年勧告」は「専門家としてしっかり議論をしたが、なお十分ではないので、国民の声を聞いた上で前進につなげたい」(123ページ)という謙虚な姿勢ですが、国民会議の今回の報告は、福沢諭吉の言葉を引いて「学者は国の奴雁なり(奴雁=群れの中、不意の難に備え番をする1羽)」と豪語し、いわば「我々はよく考えたのだから、この中身を甘受せよ」と人々に押し付けています(同前)。これは、時代が違うとはいえ、大内兵衛会長と清家篤会長との学者としてのあまりの格の違いを感じさせるものですが、それのみならず社会保障と経済に対する見方としての「下から視角」と「上から視角」がそのまま人民と学問への姿勢としての謙虚さと傲岸不遜さに反映しているように見えます(もっとも、かといって立場の良し悪しがいつも研究姿勢の良し悪しに直結するとは限らないのですが)。

 それにしても国民会議には必ずしも新自由主義構造改革支持でない研究者が多く入っているはずですが、結論的には酷いものが出てくるのはどうしてでしょうか。財政審から強力なプレッシャーを受けていた(121ページ)とか、結局は政権の意を受けた官僚のお膳立てに乗っていた、というふうに見るのが普通でしょう。

最近の報道によれば、社会保障審議会医療部会に厚労省は入院ベッド削減を狙った病床再編案を示し、来年の通常国会に医療法改正案を提出する予定です(「しんぶん赤旗」1012日付)。委員から「行政が勝手に(病床機能・数を)決めるのはおかしい」「経済中心、効率的になるという幻想を抱いているからこういう発想になる。人間を扱うという視点が抜け落ちている」と怒りの声が相次ぎました(同前)というまったく当然の批判があるのですが、おそらく「既定の路線」が粛々と実行されていくでしょう。そうすると審議会は単なるガス抜きの機関か、ということになり、委員の良心は行きどころがなくなります。

それでは政府系の審議会などがまったく無意味かというと、先月紹介したように、諸富徹氏が「日本で最も成功した公共政策の一つと評価し」た「再生可能エネルギー固定価格買取制度」(「再生可能エネルギーで地域を再生する」、『世界』10月号所収)の買取価格を適切に設定する上で、植田和弘氏などの研究者が重要な役割を果たしたであろうことが推測されます。ところが植田氏が現在所属する総合エネルギー調査会の基本政策分科会の委員構成は、民主党政権時とはがらりと変わり原発推進派が圧倒的になっています(「朝日」1018日付)。こうなると審議の行く末は推して知るべし。

 結局、政府の姿勢という大枠を審議会などが超えることは極めて困難だということですが、世論の動向などもにらんで研究者・専門家が良心を発揮していく余地はあろうかと思われ、そこに参加した以上、責任は常に問われます。このあたり素人にわかることは非常に少ないのですが、社会運動家の湯浅誠氏が一時政府に入り官僚たちと付き合った経験から、こちら側とあちら側という断絶した視点ではなく、ともに新たな政策と行政を作りあげていく可能性に言及していることがよく検討されるべきでしょう。

 以上、『経済』11月号の二つの座談会の内容を前提に、感想などを述べてきました。残念ながら国民会議報告そのものを読んでいるわけではないので、実際のところ、その内容が支配層の動向(新自由主義構造改革の貫徹)にどこまで沿っているのか、官僚機構の持つ相対的独自性はどうなっているのか、人民の利益をいくばくかでも反映しているのか、といったような問題は検討外になっています。本当に現状分析・政策検討をするなら統計や政策テクストを読み込まねばなりません。残念ながら今のところ、そこまでいっていないという限界を自覚しつつ、あれこれ問題意識を発していくことくらいが拙文のあり方かと思います。

 

 

          世論とマスコミの虚実

 安倍首相が101日に来年4月からの消費税率8%への引き上げ実施を発表したことで、参議院選挙後もなお反対が多かった税率引き上げに対する世論が一挙に逆転しました。現状追認という世論調査の一貫した傾向がここでも見られます。それのみならず政権支持率も今だ5割を超えるという近年では異例の状態が続いています。アベノミクスの「成功」、衆参両院選挙の連続的圧勝と政権基盤の安定、野党の不振、オリンピック招致成功などで、首相はオールマイティ(万能)感にあふれています(「しんぶん赤旗」1012日付)。

 ところが政策の内実をみる世論には、安倍・自民党政治礼賛とは程遠い冷静なものがあります。安倍内閣の下で景気回復を実感していない人が圧倒的であり、増税に対して消費を減らそうと思う人も過半数です。安倍首相の経済政策で景気回復が期待できない人も半数近く、できる人より多数です。復興法人税の前倒し廃止に対しては各種調査で軒並み反対が圧倒しています。法人減税が賃上げ・雇用拡大の好循環につながると見ない人も6割以上です(「しんぶん赤旗」1010日付による各紙世論調査の紹介から)。要するに安倍政権の経済政策は漠然と問われれば支持されているように見えるけれども、分析的に見ればその実効性はまったく評価されていないのが実相です。アベノミクス人気で高い内閣支持率というのは砂上の楼閣だと言えます。その他、原発事故の汚染水問題での首相のはったりはまったく信用されていないし、政権の原発再稼働・輸出の姿勢に対して、世論はむしろ脱原発に向いています。TPPの公約違反も鋭く問われることになるでしょう。こうして見ると、安倍政権は政策的に支持されていません。衆参のねじれは解消されましたが、世論とのねじれはますますひどくなっています(ただし中国・北朝鮮脅威論の扇動によって世論が右傾化していくか、という問題がまた別にありますが)。

 自民党の歴史的退潮も明白です。1958年総選挙では有権者比で見た絶対得票率が44.17%もありましたが、2012年の総選挙では15.99%しかありません。ところが議席は1958年の287議席に対して、2012年は294議席もあります。明らかに小選挙区制バブルです。「政治改革」の名で小選挙区制を仕掛けた21世紀臨調(新しい日本をつくる国民会議)の中心メンバーの一人は、小選挙区制に疑問を呈しつつこう語っています。「自民党は安倍人気で調子良く見えるが、時代との適合性を失って政権を失った本質が変わっているわけではなく、自民党政権が今後永続することはない」(「しんぶん赤旗」1017日付)。

 そうすると「なぜ安倍人気か」が改めて問題となります。興味深いのが「『安倍さん』という気分 言葉よりイメージ 消去される記憶 諦めが政権支える」という見出しによる石田英敬東大教授(記号学・メディア論)へのインタビューです(「朝日」1018日付)。

 石田氏はまず「アベノミクス」という仕掛けに注目します。この政策を始めてしまったら失敗させるわけにはいかないので、経済アクターたちは成功に向けてひたすらアベノミクス効果を称賛し景気回復期待を煽るほかなく、そうして株価上昇を作り出しさらなる期待を醸成します。この「期待の螺旋」が安倍政権の「人気の資本」というわけです。その裏側に、これに水をかけるような批判は許さないという「沈黙の螺旋」ができ、その両面に支えられて政権が安定する、という見立てです。

 次いでイメージの政治です。言葉で理性に訴えるのでなく、感性に働きかけ良いイメージを持ってもらいます。しぐさや表情、レトリックという政治の技術が意識的に磨かれ、たとえば五輪招致演説の成功が政治ショーのパフォーマンスによるものとされます。

 インターネット、SNSの時代には「政治家も選挙民もマスコミも情報の洪水の中で注意力が分散し、長い射程をもった政治的判断力を培うことも、大きな文脈に位置づけて物事を考えることもできなくなっている。いい悪いではなく、情報社会の端的な結果です」というわけで、民主党政権の失敗もよく考えられることもなく、政治は変わらないという諦めだけが残り、現実追随に流れます。「安倍政権はその諦念をうまく原資にして政治を動かしている。ほかに選択肢はありませんよ―。安倍政権が発しているメッセージはこれに尽きます。大型公共事業が復活し、原発は推進され、沖縄の空をオスプレイが飛ぶ。政権交代も311もまるでなかったかのようです」。

 なかなかうがった見方です。しかしいずれにせよこのような安倍政権の強みはやはり虚飾に満ちたものです。イメージや言葉の巧みさで対抗することも必要ではありますが、やはり基本は政策批判と対案の提起によって、砂上の楼閣の土台にある砂を掘り返してしまうことです。愚直な訴えが入っていく状況はあります。人々の生活と労働の実態は安倍自民党政権の施策によってますます厳しさを増していきます。石田氏は「イメージの政治に巻き込まれずに批判の足場を持てるのは、観客ではいられない人、例えば福島の漁民のように現場とつながっている当事者か、外から日本を見ている人です」と言っていますが、知識人的傍観者性が感じられます。今日の状況では「観客」は減っていき「当事者」が増えていきます。と言うか、もともとすべての「観客」も客観的には同時に「当事者」なのです。福島の漁民のような人たちだけではなく、もっと普通の多くの人々が当事者性を自覚し、その中の少なくない人々が運動に立ち上がっています。空前の生活保護費切り下げに抗して、1万件以上もの審査請求(行政不服申し立て)が行なわれたのがその象徴です。支配層からの攻撃のみならず、人民内部の矛盾を扇動されたバッシングの嵐の中でも、やむにやまれぬ当事者の声が響き始めています。確かにこうした運動に参加する人々は依然として全体の中では少数かもしれませんが、反原発運動などに見られるように、それが決して異様なものとは見られなくなっています。したがって政治意識を考える場合に、マスコミやネットなどを通じたイメージ的なものばかりに着目するのでなく、リアルな運動の視点からも見ていくことが必要になっています。それを抜きに政治を語るリアリティはなくなりつつあるというか、そのような状況を現出させるべく奮闘したいという気がします。

 語り口については、石田氏の記事の下に劇作家の平田オリザ氏へのインタビューがあり、鳩山由紀夫首相の演説原稿を書いた時の基準を明かしています。まずターゲットを絞る。そして「クリーニング屋のおじさんがアイロンをかけながらラジオで聴いていてもわかる」という基準を設けたそうです。

 今月亡くなった天野祐吉氏は「朝日」に連載した「CM天気図」の原稿は「専門家でない人が読んで、どう感じるかが大事」と考えてまず妻に読んでもらいました(「朝日」1023日付)。「こぶしを振り上げたような表現は届かない。面白いこと言ってるな、と振り返らせないと」と語り、やさしい表現と話しかけるようなリズムで、音や声が聞こえてくるような文章を心がけた、とも(同前)。

 他でもそうでしょうが、たとえば105日に放送されたBS朝日「激論!クロスファイア」の内容が「しんぶん赤旗」6日付に載っており、難しい言葉は使わず率直な語り口に徹しています。出演者は志位和夫(共産党委員長)、田原総一朗(ジャーナリスト)、星浩(朝日新聞特別編集員)の各氏と村上祐子アナウンサーで、当然それぞれ難しく複雑に詳細に何でも語れる人たちばかりでしょうが、あえてそうはせず、視聴者の立場でわかりやすく語っています。私が若いころなら、なぜこんな簡単な話しかしないのか、とじれったくなったに違いありませんが(実際には簡単どころか深くきわどいこともあるでしょうが)、もちろんこれが達人の技と言うべきところです。学問研究はとにかく微に入り細に入り理を尽くすことが必要条件となりますが、それを丸出しにしては一般の人々には通じません。いくら深めたとしてもその意味では空しい、という気もします。しかしその成果を持って、枝葉を削ぎ落としたエッセンスを余裕で語れるような境地を目指すのが変革の学問の目標でしょう。

最後に。先の石田氏のインタビューでは聞き手(高橋純子記者)の前振りにマスコミの問題性が露呈しています。

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 安倍政権が発足して10か月。いま日本社会は刹那的な多幸感に包まれ、時代の大きな転機にあることを見過ごしてしまいそうだ。なぜこのような時代の気分が醸成され、そして日本という国がどこに向かおうとしているのか。政治が凪いで見える今こそ考えたい。

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 いかにも大所高所から時代の気分を見下ろしているかのような口ぶりですが、何も分かっていないのではないでしょうか。庶民の生活実感は抜け落ち、政治の対決点も見えないことにされています。世の表層化を批判しているようでいて、実のところ自分自身が本質まで下りずに表層だけしか見ていない感じです。いったん本質を深めた上で表層のあり方を捉えるという順序を踏まないと、「空中戦」ならぬ「表層戦」に終わります。こういう感覚で報道されれば、読者にはただ閉塞感が募るばかりになります。確かに安倍政権の高支持率に疑問を呈してその根拠を探るのは大事です。しかしそれは人々の生活と労働のリアルな実態から出発して、政策的対決点をしっかり整理したうえで行なわれるべきであり、もっぱら政治手法・イメージ戦略・情報化などといった要素を並べて、一見しっくりくる解釈を探る、という手法には限界があります。

 

 

          断想メモ

 1025日、政府は「秘密保護法案」を閣議決定し、国会に提出しました。日本の民主主義と平和を破壊する暴挙に断固反対します。これには日弁連・日本ペンクラブなど広範な団体が抗議しています。

 それとは別の話ですが、ペンクラブの浅田次郎会長山崎豊子氏を追悼しています(「朝日」101日付、構成・中村真理子)。

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 山崎さんの作品は、文壇や作家仲間、小説読みではなく、社会に、世の中に向いていた。自分自身、山崎さんの小説を文学作品としてより、一般教養として読んできた。それは本来の小説のあり方だと思う。

 読者に、そして社会に向き合うということを、山崎さんはやり遂げた。小説は社会にとってどういうものであるか、山崎さんの数々の作品の姿勢が教えてくれる。不世出の作家だと思う。

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 見事な批評です。ペンクラブ会長の姿勢は信頼できます。

 

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連続テレビ小説「あまちゃん」が終わって喪失感に襲われる「あまロス症候群」が群生しているとか。社会現象ともなった「あまちゃん」について、放送評論家の松尾羊一氏はその本質を「都市と地方を分断する二重構造下の日本の裸像を風刺したドラマ」と捉え、「日本の近代を支えた女性を賛美する朝の連続テレビ小説に対する異議申し立てのドラマだったのです」とも規定しています(「しんぶん赤旗」107日付)。

 岩手県三陸海岸の「あまちゃん」に対して大河ドラマ「八重の桜」は福島県会津。両方とも東北弁全開で「八重の桜」の方は、他に薩長を初め全国の方言が誇り高く語られます。中央集権化が完成して後、共通語(標準語ではなくあくまで共通語だと思う)の覇権が成立し、関西を除いて他の地方出身者は方言を使うことを恥ずかしがるようになりました。その格差構造の象徴が福島原発事故であり、眼前に展開している事実上の棄民政策です。方言は中央集権的近代化へのアンチテーゼとして(エネルギーの地産地消を土台とする)「懐かしい未来」を切り開く象徴として語られているようにも思えます。

 

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 式年遷宮伊勢神宮が注目されています。そこで世上流布しているところの「社殿の形が古代のまま受け継がれしかもそれが日本固有のものだ」という神話に対して、建築史家の井上章一氏がクギを刺しています(「朝日」105日付)。伊勢神宮の真相を探ると、江戸時代にはずいぶんみすぼらしかったらしいし、戦国時代の遷宮の断絶期の前後ではかなり形が変わったのだそうです。高床構造は東アジア全体に広がったものであり、高欄や社殿の配置は中国の影響を受けていて、南方の原始家屋と中華建築が混ざり合っています。

 井上氏はそのように通念を是正するだけではありません。高床建築はその後中華文明に駆逐され、日本でもほとんどなくなり伊勢神宮にその形を伝えるのみです。「継承のあり方は日本独特のもので、何らかの意図が働いたのでしょう」。この意味深長な言葉の他に「東アジアを顧みず」とか「一国主義史観」という批判的言及も合わせて、日本の歴史と文化を見るのに示唆するところの多い記事でした。

 保守反動派が日本固有の伝統と主張するものの多くが、中国・東アジアを初めとする世界の影響を受けたものであったり、近代以降のものであったりします。日本の近代化はアジアへの侵略と一体であり、アジア蔑視のイデオロギーをともないました。だから「日本固有の伝統」はそれに適合的なものに改変されたのではないでしょうか。

戦後民主主義は戦前の帝国主義・軍国主義を克服したはずですが、対米従属の卑屈さの裏返しとしてアジア蔑視イデオロギーは残りました。私たちが普通に思っている「日本固有の伝統」が実は戦前・戦後の歪みを受けた文化の見方によるものかもしれない、という健全な懐疑を持ち続けることが必要であり、真の愛国心はそこから出発するほかありません。

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 今回はいつにもまして冗長となりました。妄言多罪。
 
                                 2013年10月28日



2013年12月号

          賃金について

 風邪で月半ばより体調不良のため、今回はメモ書き程度です。

 西村直樹氏の「『解雇自由化』に抗して賃上げを展望する」では成果主義賃金制度が「解雇自由化」につながることが指摘されています。ブルームバーグ通信や日本IBMで行なわれたPIP(業務改善プログラム)解雇では、企業が労働者に無理なPIPを押し付けた上で、未達成だとして解雇しています。つまり成果主義賃金制度は「解雇自由化」への大きな道筋だったのです(44ページ)。こうしたアメリカ流の搾取方式がはびこるなら、もともと劣悪な日本の労使関係はいっそう悪化するでしょう。

 黒田兼一氏の「人事労務管理のフレキシブル化と成果主義賃金」では、新自由主義グローバリゼーションで市場原理主義が猛威を振るい、企業にとってはフレクシブルな経営体質で競争に生き残ることが求められ、人事労務管理のフレクシビリティはその不可欠な要素となることが主張されています。フレクシブルな人事労務管理の核心は人事考課査定であるから、労働組合運動の側からは、そこへの規制と介入が必要となります。「人事査定のルールを労使で作る必要がある。目指すべき方向は、人事査定問題を『経営権』事項だとされている現状を打破して、労使交渉の重要項目に位置づけ直すことである」(57ページ)とされます。

 これは重要な指摘ですが、その前提として「そもそも労働法や労働組合運動は、労働条件に市場原理が貫徹することを防止し、また打ち返すための運動であったはずである」とか「個別化された処遇システムを集団的に規制する道、市場原理の貫徹を労働組合という集団で規制することこそが求められているのである」(同前)という認識は正しいでしょうか。確かに個別資本は競争による不利益を労働者に転嫁し、競争に打ち勝つために労働者支配を強化しています。しかし企業は市場原理対応としてそれを必要としていますが、それができるかどうかは労使間の力関係によります。日本ではあまりに労働者側が脆弱なため、経営者側の市場原理対応がやすやすと実現してきたので、あたかも新自由主義グローバリゼーションの市場原理主義が直接ひどい労使関係をつくってきたという錯覚が生じています。

 そもそも新自由主義の核心は、法外な搾取強化とカジノ化であり、市場原理主義はその現象面です。労働問題における主敵は、市場原理ではなく、企業内での資本の専制支配強化でしょう。人事査定への規制という課題はそういう性格のものだと考えます。

 なおここで、新自由主義的政府が労働法制を改悪して(もちろん立法機関である国会が議決しているのだが実質的には政府による改悪である)雇用・労働条件を悪化させています。これをどう見るか。それが市場原理主義的対応の一環であることは当然ですが、生産点へ国家権力が「労働に不利に資本に有利な介入」を行なったことがより重要です。国家権力が市場原理といういわば市民社会の領域を超えて、個別諸企業の内部に資本の専制支配の強化の援助という形で介入したのです。本来ならば、社会権・労働権の確立した憲法政治下では「資本に不利に労働に有利な介入」が政府には期待されるのですが、真逆の対応が行なわれていることにその階級的性格が露呈されています。市場原理よりも資本の専制支配の問題だと考える理由がここにもあります。

 金子ハルオ氏の「入門講座・マルクス経済学の賃金論」はマルクス経済学の価値論と賃金論の基本を正確に押さえ、現代の様々な賃金制度についてもそこから説明しています。改めて基礎から学ぶことの重要性が感じられます。

 

          立憲主義をめぐって

 秘密保護法案が衆院を通過し、きびしい局面に入っています。世論の反対に包囲され、強行採決で突破しようという安倍政権の狙いは明白です。立憲主義に立たない権力の危険性を稀代の悪法策動に見ることができます。近代憲法の原理を否定した自民党改憲案の問題と合わせて、立憲主義を強調していくことがますます重要になっています。

 それは前提にして、社会変革を目指す立場から見た立憲主義の取り扱いの若干の問題点について考えてみます。社会変革において国家権力を獲得することは決定的に重要です。それは端的に言えば人民本位の良い権力を目指すことですが、立憲主義からすれば、あらゆる権力は憲法によって規制されます。それは当然ですが、変革を目指すならば、権力は規制されるものだ、ということにとどまらずに、権力を真に人民の手に握るために何をどうするかが問われます。

 権力は規制されると言うだけならお任せ民主主義にとどまります。行政権の優位の下にある現実の民主政治は、選挙だけでは空洞化しており、行政の決定過程に人々が参加していく仕組みが必要です。一部の先進的な地方自治体では実現しています(たとえば「長野 田中・木曽町政 16年の足跡」上下 「しんぶん赤旗」1112日付)。

 実は20世紀の革命においては、ブルジョア民主主義の克服が提起されたのですが、その結果の最大のものが、人民抑圧のソ連権力であったということが世界中の人々の失望を招きました。しかし提起された問題そのものは依然として残っています。

                                 2013年11月30日

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