月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2014年1月号〜6月号)。 |
2014年1月号
「異次元の金融緩和」の捉え方
4月4日決定された日銀の「異次元の金融緩和」は驚きをもって迎えられ、「バズーカ砲」と自賛されました。直後の円安と株高が相まって、一般的には「アベノミクスの恩恵」なる言葉が舞い、この政策が好景気をもたらしたかのような印象をまき散らしています。真相はどうなのか。現代資本主義あるいは日本資本主義のあり方・そこでの経済政策のあり方を考えるうえで、「異次元の金融緩和」をどう捉えるかは極めて重要な問題です。
これについて、ブルジョア論壇の状況の一端を「朝日」12月17日付に見ることができます。そこでは一方にリフレ派の論客として、飯田泰之氏が登場し「異次元の金融緩和」を擁護し、他方では反リフレ派の野口悠紀雄氏がそれを厳しく批判しています。
飯田氏は「消費者の購買意欲や企業の投資意欲が根絶やしになったわけではありません。眠っているだけです」と捉え、インフレ期待(予想)が起これば、値上がりの前に消費し投資しようというプラスの連鎖を生む、と主張しています。しかし賃金の切り下げが続き、それによる内需不足で国内投資が減っているのが客観的状況であり、ここを変えないで事態を打開することはできません。値上がりするだろうと思っても、金がないのにどうして今急いで買うことができるだろうか。飯田氏の議論は新自由主義構造改革で傷ついた日本経済の現実を糊塗して問題の本質を隠すものです。これが若手論客としてもてはやさているのですからあきれます。
野口氏は「デフレ脱却のカギを握るのは、物価ではなく、賃金が上がるかどうかです。…中略…そもそも、物価上昇を目標にするという前提が間違っているのです。価格が高くなれば、実質消費は落ち込みます」とまったく正しく指摘し、「インフレ期待」論について「旧日本軍の精神主義と似通ったものを感じます」と喝破しています。しかし解決策としては、新自由主義グローバリゼーションを前提にした規制緩和・産業の新陳代謝といった「痛みをともなう困難な道」を提唱しており、大企業の内部留保を活用し、人々の懐を温めることから出発するような経済政策とは隔絶しています。
リフレ派は論外としても、反リフレ派とは言っても、その多くは新自由主義構造改革の枠内での生産力主義を奉じており、人々の生活と労働から出発する観点ではない、という点ではリフレ派と同様です。ただこのように見てくると、考察の順序は参考になります。まずは「異次元の金融緩和」政策そのものを検討し、次いで実体経済の問題に関連付けることが必要でしょう。以下では次の諸論稿を参考にします。
今宮謙二・萩原伸次郎・増田正人座談会「恐慌から5年の世界経済」(以下「座談会」)
建部正義「日・米の金融緩和政策の比較検討」(以下「建部論文」)
鳥畑与一「アベノミクス『異次元の金融緩和』の検証」(12月号所収、以下「鳥畑論文」)
鳥畑与一「―検証―異次元の金融緩和」(「しんぶん赤旗」12月3・4日付、以下「鳥畑記事」)
高田太久吉「現段階のアベノミクス」(「しんぶん赤旗」12月5・6日付、以下「高田記事」)
まず「異次元の金融緩和」と言われる日銀の今回の「量的・質的金融緩和」の内容は以下の通りです(「建部論文」96・97ページより、若干省略して紹介)。
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(1)
強く、明確なコミットメント
○2%の物価安定目標を、2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に実現する。
(2)量・質ともに次元の違う金融緩和
○マネタリーベースの年間約60〜70兆円のペースの増加(2年間で2倍)。
○長期国債保有残高の年間約50兆円のペースでの増加(2年間で2倍以上)。
○長期国債買入れの平均残存期間を従来の3年以下から7年程度へ延長
(2年間で2倍以上)。
○EFTおよびJ-REITの保有残高の増加。
(3)わかりやすい金融政策
○政策指標を金利から貨幣量へ転換。量的緩和指標としてマネタリーベースを選択。
(4)金融緩和の継続期間
○2%の物価安定目標を安定的に持続するために必要な時点まで。
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以上の内容の波及経路は次のように考えられています(「鳥畑論文」124ページ)。
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@ゼロ金利状態の短期金利だけではなく長期金利の低下を実現することで資産価格上昇や投資資金の調達コストの低下が進む、A金融機関保有の国債を買取ることで、株式や外債等のリスク資産への資金運用や貸出しが増えていく「ポートフォリオ・リバランス効果」が期待される、B経済主体の「予想インフレ率」を引き上げることで予想実質金利(=名目金利−予想インフレ率)が低下することで投資増大や消費増が期待できる
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この政策決定から8ヶ月がたちましたが、その効果について、鳥畑与一氏は「バズーカ砲」は「空砲」で、アベノミクスのごまかしと国民経済破壊の本質が明らかになった、としています。以下「鳥畑記事」より概要。
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(1)マネタリーベースは190兆円(13年10月末)でGDP比40%に迫ります。目標(2014年末までに270兆円)実現後にはGDP比56%にもなります。しかしマネーストックは増えておらず、銀行貸出額は増えていません。
(2)長期金利や銀行貸出金利(長期プライム)の低下を狙いましたが、逆に微増の横ばい状態です。
(3)消費者物価指数はコア指数で前年同月比0.7%増ですが、これは円安の影響でありエネルギーを除くと0%です。2%の物価上昇目標は達成不可能でしょう。
(4)円安と株高も停滞しています。円安でも輸出減と賃金低下が進んでいます。
(5)<予想インフレ率上昇>→<実質金利(=名目金利−予想インフレ率)低下>という線を狙いましたが予想インフレ率の指標(BEI)は逆に低下しています(もっとも、BEIについては、当初、リフレ派がBEIの急速な上昇をもって、この線が実現したと主張していたのに対して、鳥畑氏はBEIを予想インフレ率の指標としては不適切だと主張していました。/「鳥畑論文」128〜130ページ/。それはともかく、「インフレ期待」が高まっているとはとても言えない状況ではあるでしょう)。
(6)経済成長が鈍化し、GDPを見ると、第3四半期の名目成長率は0.4%に急減(前期は1.1%)しています。経済成長をかろうじて支えているものは、消費税率引き上げ前の駆け込み住宅投資や公共投資であり、設備投資や輸出は急減しています。上記@ABの「波及経路」なるものはまったく機能していません。不安定雇用が増大する下で、企業収益の回復と対照的に雇用者報酬は減り続けています。アベノミクス、「異次元の金融緩和」に効果はなく、国民経済を破壊するものです。
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その他に上記の諸論考から以下のことが分かります。
(1)ポートフォリオ・リバランス効果は不発。
(2)マネタリーベースを増やしてもマネーストックは増えず、貨幣乗数は崩壊しており、リフレ派の依存する貨幣数量説の誤りが明確になった。
(3)これまでも実質金利は低水準であったにもかかわらず投資が増えないのは、投資による収益水準がきわめて低いため。問題は金融より実体経済にある。
(4)リフレ派は貨幣乗数の崩壊を受けて、「インフレ期待」論に乗り換えたが空虚な「おまじない」「精神主義」に過ぎない(これについては「鳥畑論文」「建部論文」参照。特に「鳥畑論文」は徹底的に批判している)。日銀の「異次元の金融緩和」は「インフレ期待」を煽るために断固たる決意を示したものだが、効果は出ていない。インフレ予想による実質金利低下効果については上記(3)の批判が当たる。
(5)アベノミクス後の物価上昇は、期待した政策効果ではなく、円安から来る輸入物価の上昇・コスト押上げである。賃金が上がらず、企業の設備投資が増えない状況でコストプッシュの物価上昇は最悪である(「高田記事」)。
それではもしインフレ目標が達成されたらどうなるでしょうか。「異次元の金融緩和」が「異次元のリスク」となって襲うことを「鳥畑記事」は次のように描きます(概要)。
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インフレになれば、注ぎ込まれた通貨が消費と投資に向かい、貨幣乗数が復活し、巨大なマネーストックが形成され、資産バブルにむかって暴走し始めます。名目金利は急上昇し、国債等債券価格が暴落し、日銀・銀行に巨額の損失をもたらします。金融緩和政策・ゼロ金利政策によって抑制されていた国債利回りが急騰し、GDP比200%の国債を抱える財政を破綻に追い込みます。
リフレ派は金融引き締めでインフレ抑制は容易、と言いますが、「異次元のリスク」を抑え込むのは容易ではありません。「異次元の金融緩和」で支えられてきた国債などの金融資産価格は、金融緩和の縮小だけでも大きく暴落します。これについては、FRBが量的緩和縮小の「出口戦略」に苦労していることからも分かります。
国債の7割を日銀が購入することで国債市場は支えられています。日銀の撤退は困難を極めます。金融引き締めに転換すれば、日銀が保有する国債を民間銀行に売却して資金回収することになりますが、それは国債市場の崩壊に帰結します。民間銀行が暴落必至の国債の買取りに応じるのは困難です(逆に言えば今日、日銀の国債買いオペに銀行が応じているのは、国債保有のリスクを日銀に転嫁しているか、事実上の「補助金」を受け取っているからです。これについては「建部論文」103ページ参照)。
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結局、鳥畑氏は「膨張したマネタリーベースを適正な水準にまで縮小するのは不可能です」と断じ、「異次元の金融緩和」の結果は「異次元のリスク」の膨張のみと結論づけます。
以上から「異次元の金融緩和」が「異次元のリスク」を膨張させることは理解できますが、上記のいわば「破局のシナリオ」が現実化するかどうかは別に検討を要します。またその可能性が高いとするならば、それを防ぐ政策転換はありえないのか、それは民主的政権への交代を必要とするのか、保守政権内での一定の転換では無理なのか、アベノミクスですでに手遅れ状態になっているのか、というようなことも疑問として思い浮かびます。
インフレに突入すると「破局のシナリオ」の可能性がありますが、その前提としての物価上昇そのものがありうるのか、という問題があります。2001年以来、日銀は史上例のない規模で通貨を増発してきてなお物価下落という状況ですから「いまさら異次元の金融緩和を行っても物価を上げることはできません。できるとすれば、これまでにない大胆な政策という掛け声で、金融界に期待を持たせて株や国債を買わせ、証券価格を上げることです。これはインフレではなくバブルです」(「高田記事」)という見方があります。
「建部論文」でも物価上昇による名目金利上昇という根本的なディレンマに触れていますが、その際でも「量的・質的金融緩和」が物価上昇を引き起こすことについて「筆者は、その可能性は低いと考えている」(102ページ)とあらかじめ断っています。
逆に「座談会」では、黒田日銀総裁の政策の問題点として、数々のルール破りを指摘し、事実上「日銀による国債の直接引き受け」と変わらない事態になっていることを憂慮して、今宮謙二氏がハイパーインフレの可能性に言及し、増田正人氏が同調しています。
他の問題点として、金利上昇による国債市場の崩壊から財政破綻へ、という経路を断つには、国債を金融市場から遮断して、財政が投機資本主義に振り回されるのを防ぐ方策が必要となるように思います。もっとも、それをしようとすると国債価格の暴落を招くかもしれませんが、とにかく財政が投機市場の食い物にされる状況は何らかの方法で正さないといけません。
以上のように、誤った政策によって、インフレと財政破綻の潜在的可能性が高まっていることは確かですが、その現実化については判断が難しいところです。その点は留保して、とりあえずはその可能性を低めるために(それが現実化するかどうかにかかわらず、そこに体現された日本資本主義や政策の歪みを正すことは必要だから)実体経済の問題を含めて考えてみたいと思います。
日本経済は、バブル崩壊後、「失われた20年」あるいは30年にも足を突っ込もうとしています。この長期停滞・閉塞感の下で、小泉「改革」などの新自由主義構造改悪が「決定打」として喧伝され実施されました。しかし人々の生活と労働は疲弊をますます深め、国民経済の荒廃は進み、それは物価下落に象徴され、発達した資本主義諸国の中で唯一経済成長の止まった国となり、産業空洞化・貿易赤字の恒常化に悩む国に転落しました。
人々が藁にもすがる思いでいるとき、登場してきたのがアベノミクスであり、その先行政策が「異次元の金融緩和」であり、長年反主流とされてきたリフレ派が満を持して政権に取り入り、「理論と実践の統一」に挑みました。もちろんこれはとんだ勘違いの危険な暴走実験に日本人民を巻き込むものであり、すでに8ヶ月の経験はその破綻を示しつつありますが、本当のリスクがどうなるかはまだ不明です。福島第一原発の事故は、今や放射能被害の人体実験を続け、取り返しのつかないダメージを与えた地域社会の復興の実験ともなっている、という意味で本来不要の実験を人々に強いているわけです。同様にアベノミクスの「異次元の金融緩和」もまた大きなリスクを伴う社会実験を、本来不要なのに支配層の勘違いで人々に強いているのです。
支配層にとっては新自由主義グローバリゼーションという不動の前提があり、人々の生活と労働は、資本がそれに適応するための手段に過ぎません(「下から視角」を押しつぶす「上から視角」)。そうした視野狭窄の中で、支配層は失われた20年を打開する方策としてアベノミクス・「異次元の金融緩和」に飛びつき、被支配層たる人々にもマスコミで大宣伝して2012年総選挙と13年参院選挙を制し、この社会実験を強行する法的政治的根拠を獲得しました。実体経済から根本的に変革しない限り日本資本主義の停滞は打開できないのですが、そこを無視・回避し、「異次元の金融緩和」をカンフル剤として、財政を補助に、構造改革による「成長戦略」を強化すれば富国(強兵)が実現するという「算段」です。この社会を構成する人々を豊かにしないで、多国籍企業の繁栄だけで国民経済が豊かになることはありえませんが、特に先兵たる「異次元の金融緩和」は致命的勘違いだと言えます。
リフレ派の誤りと実体経済の問題は次のように端的に指摘されます。
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リフレ派が言うようにデフレが貨幣的現象であり、貨幣価値の変動による物価変動であるならば、それ自体はデノミ(通貨単位の変更)と変わりがなく、実体経済に中立的のはずである。 …中略…
要は、物価下落以上に賃金が低下した結果、家計の購買力が低下することで不況が深刻化しているのである。 「鳥畑論文」、131ページ
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さらに新自由主義構造改革との関連で総括的に言及されます。
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「異次元の金融緩和」は、期待による株価の上昇を推進するための短期的利益最優先の経営戦略や市場の期待に沿う徹底した自由化による労働者や農業犠牲の成長戦略そして市場の信認を維持するための財政再建実行への圧力を高めるものとなっており、デフレを生み出してきた真の原因である構造改革を促す役割を果たしている。
「鳥畑論文」、135ページ
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新自由主義構造改革をやめない限り日本経済の停滞は続くということです。財政について言えば、消費税増税は、金融緩和と放漫財政による財政への信認低下を防ぐために行なわれることの確認が重要です。「現代金融資本の主要収益源である国債ビジネスを支えるために、その担保力強化として消費税が導入されるなど、租税制度が国民福祉等のための財源から金融機関・投資家のための補足物に変質している」という山田博文氏の見解が紹介されています(鳥畑論文、122ページ)。まさに新自由主義の核心の一つたる投機資本主義によって財政が変質させられているのであり、社会保障攻撃(歳出削減による財政への信認強化)はその一端なのです。生活保護バッシングなどの尻馬に乗ることは、単に支配層の分断策に乗せられるだけでなく、現代資本主義の寄生性と腐朽性を代表する投機資本主義の罠にはまることなのです。
「アベノミクスの金融政策は、国際的な投機資本に餌をまいているようなものです」(「座談会」、29ページ)とあるように、アベノミクスの成果として喧伝される円安・株高もその「効果」であって、実体経済の改善につながらず、「日本で長期間続けてきた量的緩和政策は、投資を増やし、消費を増やし、需要を増やすことにはならなかった」(同前)のです。
新自由主義グローバリゼーションと構造改革に対抗することが、アベノミクスなどによらずに、日本経済を救う道であり、まずその不可欠の要素が上記の投機資本主義の規制です。金融取引税などその具体策についてはここでは措きます。
次いで日本経済そのものの落ち込みの重要な原因を考えます。「多国籍企業の戦略の変更、つまり輸出から海外生産への切り替えが、2011年から2年連続の貿易赤字の拡大になったり、製造業就業者の減少になったりしているわけです」(「座談会」、22ページ)というのが概観された核心部分です。その前提としてこれまで「一部の輸出企業大手の競争力を強化することで、国内のすそ野の広い産業分野を衰退させてきた結果」(同前)があり、さらにリーマン・ショック後に「日本企業はいま、高付加価値品を国内でつくる戦略が失敗だったということで、高付加価値品も海外でつくる戦略に切り替えはじめて」(「座談会」、21ページ)おり、しかもその際の認識・方針としては「どこで生産調整をするかというと、一番フレキシブルな生産体制を構築している日本国内でやるのが一番よいということ」で「派遣切りなどで一気に調整をした」(同前)というのです。「フレキシブルな生産体制」というのは労働者にとって厳しい体制ですが、国内ではそれを確立していたがためにリストラがしやすかった(海外よりも国内で実行した)というのですから、踏んだり蹴ったりです。
以上から、多国籍企業は労働者のみならず国民経済とも利益相反だということであり、その規制なくして日本経済の復活はありえません。その他に「農林水産業などの衰退、国民生活の犠牲、労働や環境の破壊、格差の拡大など、歪みの構造」も内需不振を招き「日本経済低迷の原因であり、結果だと」(「座談会」、22ページ)いう指摘もあります。これらの問題にはTPP交渉に代表される「対米従属の歪み」(同前)も密接に関係しています。
新自由主義グローバリゼーションへの対抗は「それぞれが生き残り競争をしていたら生き残れない世界にいる」(「座談会」、36ページ)という認識の下に「新自由主義をグローバルに規制する、グローバルな連帯が必要」となります。「その中心は、企業の社会的責任を追及できる法制度の構築」であり、「投機の規制、金融規制の強化」「新自由主義的な税・財政政策の転換」などで「適切なルールある市場に変えていくことが大事」です(同前)。
また「WTO体制の転換」で「知的所有権の独占」による「経済搾取をなくし、生産=労働に正当な対価を支払う国際経済秩序が欠かせない課題です」(同前)。総括的視点はこうなります。
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人類全体の視野で、どのような経済諸制度が望ましいかと考えるべきで、個別利益の追求では対処できない、グローバル経済になっていることの自覚が必要です。グローバルなガバナンスを実現すべく、連帯の行動をつくっていくことが、我々にも、世界にも求められていると思います。 同前
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あるいは次の提言も重要です。多国籍企業による(現在支配的な)「上から視角」による経済秩序でなく、諸個人から出発して、地域経済→国民経済→世界経済へと至る「下から視角」の経済秩序を提起しています。
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国民主権を尊重した地域経済・国民経済重視の国際経済秩序、新たな国際経済秩序をつくっていくべきでしょう。今日の国際経済秩序は、多国籍企業がいかにビジネスをやりやすくするかという観点でつくられています。多国籍企業は、資本規模あるいは富の蓄積からみると巨大ですが、彼らが果たす雇用効果や納税実態を見ると、お粗末なものです。そんな怪物に乗っ取られた国際経済秩序を、国民的視点から取り戻す努力が必要でしょう。
「座談会」、36・37ページ
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いずれも気宇壮大な構想ですが、単なる空想ではありません。現代はそういう歴史段階にあるという自覚抜きに新自由主義グローバリゼーションへの対抗はできないということです。巨大多国籍企業が形成してきた新自由主義グローバリゼーションがその形態ではもはや維持できなくなってきて(カジノ化、強搾取、格差と貧困、環境問題等々)、人民・地域経済・国民経済の視点からのいわば民主的グローバリゼーションにとって代わらねばならない歴史段階にあるということでしょう。究極的には世界中の一人ひとりの人々がつくっているのがグローバル経済の実体であり、そのガバナンスを資本という形態が担っているのを人間たち自身の手に取り戻す「世界革命」が闘われねばなりません。資本の論理を超えた人民と社会の論理が世界経済を主導する時代を切り開くのが「歴史としての現代」に生きる私たちの任務ではないでしょうか。実際には、金融取引税への参加国を増やすとか、個々の多国籍企業に勝手な海外移転を許さないとか、地道な具体的課題を一つひとつ実現していくような民主的規制の積み重ねが現実の過程でしょうが、その歴史的意義と展望を握って離さないことも大切なのです。
「座談会」にそそのかされて、大風呂敷を広げすぎましたが、あらためて振り返ると「異次元の金融緩和」なるものの筋違いぶりと卑小さに、現代に生きる日本人として恥ずかしさが湧いてきます。
再三再四、デフレという言葉について
今日、立場の如何を問わず、これまでの日本経済の現状についてデフレと規定する論稿が大勢となっています。私はこれは間違っていると考えますが、そうした論稿を引用する場合に、デフレという言葉が出てくるたびに私見を注記していたらきりがないので、そのままにしています。実に不本意です。
リフレ派のようにデフレを貨幣的現象と見ようと(これは定義的には正しいが日本経済への診断としては誤り)、その他大勢のように、政府統計に準拠して(原因を問わずに)デフレを継続的な物価下落と見ようと(これは日本経済の一現象を見るという意味では正しいがデフレの定義としては誤り)、物価変動をもっぱら量的に捉えて、その原因を分析的に見ない傾向につながります。たとえばアベノミクスによる円高の影響で物価が上がったということを2%の物価上昇目標への接近と捉えるような見方は、長期停滞から日本経済を脱出させるという観点から見れば無意味です。そもそも2%の物価上昇目標を設定するということ自体が(リフレ派の「インフレ期待」頼みという精神主義の産物だという根本的問題を別としても)、物価上昇の原因を問わないという点で無意味なのです。
物価変動の主な要因は<1.生産性の変動 2.商品への需給変動 3.通貨価値の変動
(注)同提言では、2030年前後に基礎的財政収支の黒字化を目指しています。その試算の前提条件は以下のごとく(2040年度まで平均で)。
名目成長率:2.4%程度*
消費者物価上昇率:1.2%程度
一人当たり名目賃金上昇率:1.6%程度
名目長期金利:2.8%程度
*女性や高齢者の労働参加率が上昇することを想定し、全要素生産性(TFP)成長率を1.1〜1.5%程度と推定した結果。
各予測数字の具体的妥当性の判断は難しいところですが、生活と労働に配慮し国民経済と財政の健全な再建を目指すためには、その経済像を具体化したこのような試算が欠かせないでしょう。たとえばそれは実質賃金が上昇する(消費者物価上昇率<名目賃金上昇率)モデルでなければなりません。
不換制下では通貨価値の下落によるインフレ圧力が通常の状態なので、生産性の上昇が商品価格の下落としては現象しにくくなります。にもかかわらずこれまでの日本経済で商品価格は下落していますので、その主な原因は商品への需要不足と考えられます。商品への需要不足の主な原因は実質賃金の低下にあります。したがって物価下落の問題は主要には賃金下落の問題となります。
デフレという言葉が世間で広く使われるのは(論壇もアカデミズムも同様だと思うが)、実は単なる物価下落を意味しているのではなく、日本経済の長期停滞を象徴するマイナスイメージ語という役割を一手に引き受けているからでしょう。物価下落は長期停滞の象徴であって両者を結んでいるのは、需要不足と賃金下落です。デフレ脱出が喧伝されるのは、デフレがマイナスイメージ語であるからですが、それをリフレ派は貨幣量の問題に捻じ曲げてしまいます。その他大勢も原因不明のデフレ定義を採用することで、物価変動量に目を奪われてその原因としての長期停滞の本質に迫ることがあいまいになります。原因は問わずにとにかく物価下落の状況をデフレと定義するというのは、本来貨幣論的定義であったデフレという言葉を転用することによって、元の意味を引きずり、リフレ派につけこまれたり、物価下落の原因究明が二の次にされる傾向を生むのです。両者の誤ったデフレ用語使用を克服し、とにかく物価を上げればいいという空虚な議論を排して、物価変動の要因をきちんと分析的に見て、物価下落に象徴される長期停滞の原因を確定することで、人々の生活本位に国民経済のあり方を変えていく方向性を示すべきでしょう。
本来貨幣論的定義(純粋型)であったデフレという言葉に不況とか長期停滞というニュアンスを盛り込んでいる(複合型)のはリフレ派もその他大勢も共通しています。リフレ派は政策論議になれば再び貨幣論に還元してインフレ政策で一発逆転ができる(不況・長期停滞が解決できる)という夢想を振りまいています(デフレのニュアンスにおける純粋型と複合型とをご都合主義的に使い分ける)。その他大勢は複合型ニュアンスでデフレという言葉を使用することで、物価下落と不況・長期停滞の問題とが不分明になります(その他大勢におけるデフレは長期的物価下落そのものを意味するから、必ずしも貨幣的現象とは限らないので不況・長期停滞とより一体化している。にもかかわらずデフレという表現を使えば物価動向に関心が集中する)。問題の核心は不況・長期停滞を克服する政策を提起することであり、物価動向はその結果としてついてくるものです。デフレという言葉に引きずられて、物価動向を中心に考えることは政策の本質からはずれます。デフレという言葉の抱えた複合型ニュアンスを分解して純化することが理論上も政策上も必要です。
結論的には、デフレの貨幣論的定義を確認し、これまでの日本経済がデフレではないことをはっきりさせ、長期停滞を克服するため、需要不足と賃金下落への対策をしっかり行なうことが肝要です。こうすることが、俗語と学術用語の双方で誤って使用されている「デフレ」語を洗浄して用語法を正常化し、同時に経済政策を立て直す道です。言葉の意味は変わるからそれに従うしかない、という意見もあるでしょうが、混乱したデフレ用語法が一般の人々をけむに巻き、本質を見えないようにし、研究者も誤らせている現状では、私は妥協するつもりはありません。
なおマルクス経済学においては、賃金の変動が商品価値の変動の原因とはならないとされますので、この問題について一言します。今私たちの眼前で問題となっているのは、商品価値ではなく商品の市場価格です。労働力の価値以下の賃金による商品への需要不足が商品価値以下の市場価格しか実現できない事態を招いています。
そして労働力の価値以下の賃金と商品価値以下の市場価格とが相互に低位安定均衡するのではなく、賃金の一層の下落を起動力としてスパイラル的に下落する動的過程を形成しています。ここを克服しない限り俗に「デフレ」と称される物価下落は持続します。
物価下落と長期停滞について、新自由主義グローバリゼーション=構造改革への根底的批判なしに貨幣問題だとする見解の誤りは以上のように明白であり、問題は実体経済にあります。価値論的検討からすれば、労働力の価値に見合う賃金は労働力の正常な再生産の必要条件であり、商品価値に見合う市場価格は営業の再生産の必要条件です。賃金下落を起動力とする物価下落はそうした関係を破壊し、労働力と商品の再生産の危機、したがって国民経済の縮小再生産という異常事態を招いています。問題はそうした深みから捉えられねばなりません。
日本資本主義の本性・暴走的試論(妄想的私論)
日本経済を「ルールなき資本主義」と呼ぶようになって久しいのですが、上記の観点からすると少なくともその一面は、「価値法則・剰余価値法則さえ破壊しつつある資本主義」と規定できるように思います。今日では非正規雇用が一般化し、正規雇用においても不払い労働が横行したり、ブラック企業のように、本来元気で将来あるはずの若年労働力そのものをつぶす資本が増大しています。これらはとりあえず、労働力の価値以下の賃金の通常化ならびに過酷な労働条件による労働力保全の危機と表現できます。
そもそも剰余価値法則は労働力の価値に基づく賃金を前提にしていますし、個々の労働力が毀損されることはあっても、社会的には補充されると想定されているでしょう。誤解のないように言えば、労働力の価値通りの賃金と言っても、自動的に成立しているというわけではなく、労働者階級の闘いを前提にし、かつ産業循環を平均すれば成立するということで、「好況時には大いに賃上げを克ち取る」ということも含めて言えることです。恐慌=産業循環という資本の生存運動の諸局面を平均したところに成立するのが「資本一般」であり、枝葉の諸変動を捨象して資本主義の本質を解明するのに不可欠の概念です。「資本一般」の想定する上記の剰余価値法則が私たちの眼前でずいぶんと壊れかけています。
今日の日本資本主義ではすでに恒常的に労働力の価値以下の賃金しか支払われない部面が相当程度存在し、当然のことながらこの部面では産業循環を平均しても賃金は労働力の価値以下にしかなりません。その上、ブラック企業などによる労働力つぶしで現役労働力から排除される労働者も増えています。残った労働者の過重労働によって価値が生産されています。こうした通常の剰余価値法則を超える強搾取によって資本は内部留保を蓄積し、その反面に過小所得による内需不振を国民経済にもたらします。
このような低賃金や失業増による過小需要によって商品価値が部分的にしか実現せず、価値以下の価格が一般化します。これも不況の時だけでなく産業循環を平均してもそうなります。こうして商品の価値通りの実現という価値法則が壊れて、体力のない中小零細自営業者・中小企業は経営の危機に陥ります。このことは、財界主流の多国籍企業が国内生産から撤退し海外移転に軸足を移していることと合わせて、わが国の国民経済の再生産の危機をもたらしています。
かつて1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「日本経済上出来論」とか称揚されたころ、批判側からは(大企業体制の他国との比較での好調さと庶民生活の厳しさとを指して)「『資本論』の法則の過剰貫徹」と言われましたが、今では過剰貫徹を通り越して価値法則・剰余価値法則の破壊に至ろうとしているのではないでしょうか。
このように剰余価値法則の破壊に始まって価値法則の破壊に至る構造は、強搾取が直接生産者の生活を圧迫するのみならず、商品生産・流通の秩序を破壊する、つまり強搾取による市場経済の破壊を現わしていると言えます。資本主義経済の構造に即して表現すれば、資本主義経済の私的領域である直接的生産過程において行なわれる強搾取が、その社会的領域である市場流通を縮小・破壊する構造になっているということです。
これを単純商品生産との関係で反省してみます。市場経済の論理と倫理は私的利益の追求が結果的に社会全体の利益になるということであり、利己心の肯定です。しかしここでの経済主体像は諸個人であり、経済における私的領域は諸個人の活動です。しかし資本主義経済において私的領域を担うのは資本主義企業であり、そこでは資本=賃労働関係による搾取が行なわれ、それが企業の経済活動のインセンティヴとなっています。(注)
(注)市場経済に対して弱肉強食としばしば批判されますが、そこで表象されているのは多くの場合、諸個人の能力や努力の差に基づく勝利と淘汰というイメージでしょう。しかし資本主義市場経済における資本間競争は、各企業内での搾取を基礎に果てしない剰余価値追求によって行われるものであり、諸個人の才覚のようなものに限界づけられものではなく、その厳しさと無制限ぶりは次元が違うというべきでしょう。諸個人と競争を結びつける際にはプラスイメージがあり得、それだけに競争批判そのものがためらわれる場合がありますが、資本間競争は諸個人の能力や努力を飲み込んだところで、資本が主体となって争われることに注意する必要があります。
この搾取のあり方が問題であり、今日の日本資本主義では通常の搾取ではなく、上記のように、労働力の価値以下の賃金が通常化し(あるいは労働力の価値そのものがスパイラル的に下落し)、労働力の保全が困難な部面が増えています。異常な強搾取は需要不足を通じて国民経済の縮小再生産に帰結します。縮小するのは「経済成長率」だけでなく、もっと本質的に人間生活そのものが切り縮められ発達機会を奪われます。当然、生産など経済活動にも悪影響が及び、これが社会のベースとなって閉塞感が充満し、経済活動と社会意識・個人生活の悪循環が形成されます。
もっとも、いくら「日本資本主義は本来再生産不可能になっている」と叫んでも実際にはそれは何とか持続しているではないか、という疑問が生じます。しかしその際に「持続」の内容が問題となります。価値法則・剰余価値法則は資本主義市場経済存続の体制原理であり、再生産の基準です。それが損なわれつつありながらも体制が存続するとするならば、どこかに無理が集中することになります。それは要するに人々が生活(あるいは人生・生命)と営業を削って耐えているということであり、再生産の不可能性がここで「解消」され、無理やり再生産を担っているということです。さながらスポ根・精神主義の世界とでも言いましょうか…。しかし生活水準を下げ、長時間労働で人間的発達の機会を損なわれる人々によって形成される経済社会は持続させる価値はなく、人々の立ち上がりによって打倒し変革されるべきものです。
とはいえそうした主体的条件の問題以前に、この無理によっては解消できない客観的現実が生命・生活の危機となって現れています。たとえば毎年3万人クラスの自殺者、出生率の低下、中小自営業の継続的減少などであり、これらによって地方から地域経済の縮小が起こり、都市部にも押し寄せつつあり、国民経済的問題ともなっていくでしょう。
これまで価値法則・剰余価値法則の破壊に触れてきました。それはつまるところ低賃金・労働条件悪化が原因ですが、単に労働運動が弱いとか、資本=賃労働関係の劣悪さだけによるのではないと思われます。いわば日本資本主義において人民が浮かばれない重石があって、その重石の全体像はどうなっているのか、を問う必要があります。
まず非正規労働の増加が平均賃金を下げていることは周知のとおりです。それが重石となって正規労働者の賃金と労働条件も切り下げられているのです。電機情報通信産業の大企業などできわめて乱暴なリストラが横行しているのも、単に多国籍企業の海外移転戦略への切り替えだけでなく、そうした労働条件の全般的悪化の中で強行しやすくなっているためでもあるでしょう。
若年労働者において「派遣切り」などに続いて脚光を浴びているのが「ブラック企業」問題です。非正規労働の蔓延の中で何とか正規雇用にたどりついたら「若者を正社員として採用しながら、次々に過重労働で使い潰し、鬱病・過労自殺・過労死に追い込むような企業」(今野晴貴氏、「朝日」12月24日付)だというのです。当初、ブラック企業は「若者の甘え」などと言われていましたが(まずこのような反応が起こるところに、日本社会における人間軽視・生活切り下げの重石がある)、関係者の努力で深刻な実態が知られるにつれて社会問題として認知されました。今野氏は「ブラック企業は医療費や社会保障費を増やし、若者の将来を奪って少子化の原因になる。コストを社会に転嫁しているんです」(「朝日」12月21日付)と語り、これが単に若者の問題ではなく、社会全体の問題であり、資本主義企業が社会を支配している本質に触れることを明らかにしています。かつて若者の親への寄生が問題になり、「パラサイト・シングル」などと言われたとき、問題の本質は、生活できる賃金を払わない企業が青年労働者の親に寄生しているのだ、と喝破されたことが思い出されます。いずれも「弱さ・甘え」「だらしない個人」という見方がいかに社会問題を看過させ、自己責任論の闇の中へ真の問題点が隠蔽され免責されるかを示しています。ここには私たちが重石を取り除いていくためのヒントがあり、社会科学の任務があります。米本昌平氏は「このような人事システムが増長したのは、一方で、経済変動による就職状況の悪化があるが、他方で、弱い人間への攻撃に歯止めがなくなった点で、家庭内暴力やストーカー問題の現状とどこか呼応している」として「日本社会の深部で進行する、基本的な価値観の崩壊」を見ています(同前)。「弱い人間への攻撃」という「価値観の崩壊」は精神論として独立させるのではなく、現代資本主義社会のあり方とそれに応じた支配層の策略との関係で捉えるべきでしょう。
賃金の低水準にはまず生活保護制度のあり方など社会保障制度の貧困が関係しています。たとえば最低賃金は生活保護基準に連動していますし、失業給付制度がヨーロッパなどと比較して貧弱なため、低賃金・劣悪な労働条件でも労働力を売り急がなければなりません。この解決は人々の連帯の力によって政治・経済を動かし、賃金・労働条件と社会保障制度をともに改善する他ありません。しかし競争と自己責任論にとらわれた(それは市場経済には適合的なイデオロギーではあるのだが)人々の中では、身近な人間同士の違いにばかり目が行き、生活保護バッシングや公務員バッシングなど「弱い人間への攻撃」や「妬みに基づく攻撃」が生じ、分断支配に乗せられ、体制の安定装置になっています。これも人民自身がまんまと抱えさせられた重石です。
支配層は社会保障水準の切り下げを図り、それをもって「持続可能な」社会保障と称し、財政的にそれを受容する他ないと人々に説教しています。これは本来再生産不可能な日本資本主義をかろうじて「持続」させうるような人々の忍耐(生活の切り詰めと過重労働の受忍)に見合った水準の社会保障ということです。これを受容する限り人々は永遠に浮かび上がれません。
経済・政治・社会・イデオロギーの全域にわたり、政治では立法・行政・司法という三権の全域にわたってこの重石は置かれています。生活保護はこの重石の中で最底辺にあって最重要なものですが、それを受忍せず取り除き、人間の生活を取り戻そうとする人々がいます。長年、行政が無法な「水際作戦」などを展開し、生活保護基準の切り下げを断行し、立法府はそれらを追認する生活保護法の改悪を先の臨時国会で行なう、という向かい風の状況があります。しかし北九州市の生活保護利用者33人は老齢加算の廃止は憲法違反だと訴えており、一審は原告敗訴、二審は逆転勝訴で最高裁が高裁に差し戻し、12月16日、福岡高裁は原告敗訴の判決を出しました(原告は上訴の方針、「しんぶん赤旗」12月17日付)。
判決は「老齢加算のない生活扶助によって最低限度の生活を維持していることがうかがわれる」と述べていますが、弁護団事務局長の縄田浩孝弁護士は「加算を廃止され、食事や人付き合い、入浴というささやかな要求すら押し殺して生きている高齢者の生活実態をみていない」と批判しています。生存権裁判は、ナショナルミニマムが「餓死さえしなければいい」という水準のものでよいかを問うているのですが(同前)、この判決は、司法もまた日本資本主義の重石を深く埋める役割を果たしていることを示しました。しかし安倍政権の強行した生活保護基準切り下げに対して、全国で1万人を超す人々が不服として審査請求しています。また全国8ヶ所で生存権裁判は続きます(同前)。
介護保険の要支援1・2の人の「訪問介護」「通所介護」を給付の対象から外し市町村の事業に移行するなどの改悪も狙われていますが、まったく利用者・現場・自治体の状況を省みず、ただ歳出抑制の観点しかありません。
後期高齢者医療の保険料を抑制するため全国の都道府県が「財政安定化基金」を活用しようとしていることに対して、厚労省が圧力をかけています(「しんぶん赤旗」12月19日付)。同省高齢者医療課長は「これからは高齢者にどんどん負担を求める時代だ。先の短い高齢者に基金を取り崩して保険料を下げるような優遇はすべきではない」「保険料を下げるようなら国の拠出金は引き下げる」などと圧力を加えました(同前)。先述の福岡高裁判決の文言とも合わせて実に冷酷な姿勢に血も凍るようです。しかしこれが支配層の「常識」であり、この精神で立法されそれに基づいて行政が「粛々と」進められています。またこうした「常識」に呼応した強固な日本イデオロギーとして「仕方ない」が民衆の中に根を張っています。苦しい毎日を何とか耐えてやり過ごし、「余計なこと」をやって苦しみを増すことがないようにという戒めでしょう。しかしこのままでは重石の重みは増すばかりです。
生存権裁判や生活保護基準への審査請求に立ち上がった人々のことは述べました。当然、労働組合や様々な市民団体にも頑張ってもらわねばなりません。そうした既成の運動の他に反原発などの新たな運動の動向が注目されます。
首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフ氏は自らの運動を客観視できる賢い人だと思います。12月22日に行なわれた「再稼働反対☆国会大包囲」について、これまでの経験から、参加者の負担を考えて効果的な行動になるように、思い切ってデモを省く予定を語っています(しんぶん「赤旗」12月21日付)。スローガンについても「再稼働をさせないことで稼働ゼロの状態をたもつこと、『再稼働反対』は多くの人の共感を得られる重要な焦点だと考えて、行動名の頭に『再稼働反対』をつけました。もちろん、目的はさらにその先、政策転換させて、原発をなくすことです」(同前)と説明しています。自分たちの運動の目標と今人々の共感を得て運動を広げることとが統一的に考えられています。状況を冷静に見ています。
秘密保護法が強行成立させられた12月6日深夜、国会前で1万人近い人たちに「こんなことで負けやしない」と訴えた「怒りのドラムデモ」の井手実氏の話は実に感動的です(「しんぶん赤旗」12月22日付)。まずはその言葉が出てきた状況です。参加者の深い確信が伝わってきます。
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あのアナウンスはとっさの思いでした。安倍自民党がここで民主主義は終わりだ≠ニでも宣言するようなことをやったけれど、自主的に集まった多くの人たちが「そうじゃない。自民党の終わりが始まるんだ」と奮起していました。みんなの怒りに背中を押されて出た言葉です。
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次いで様々な運動を振り返って。
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国会周辺にあれほどの人が駆けつけたのは、福島第一原発事故以降全国で巻き起こったデモ、各地の電力会社前や首相官邸前、関西電力大飯原発(福井県)ゲート前抗議をはじめ、ヘイトスピーチ(民族差別をあおる憎悪表現)に反対する抗議などの取り組みが結実したんだと思います。行動に参加するハードルが下がり、「ここで声をあげてもいいんだ」という認識が広がりました。
政府が再稼働できた原発が大飯原発だけなのは、紛れもなく全国の運動の力です。今はすべての原発が止まっています。また、2013年2月に新大久保から始まったヘイトスピーチに反対する大規模な抗議が、ニュースや院内集会をへて世論を揺さぶりました。抗議を続けてきた多くの人たちの知恵や行動が結集し、今につながっているんです。
社会と政治を揺さぶることを僕たちはやってきた。その実感が高まってきた時期に、ファシズムを感じさせる安倍政権ができて、秘密保護法案が出てきた。「こっちも本気でいこう。培った力を全力で使おう」という思いでした。 (下線は刑部)。
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内装の仕事をしている34歳の青年は運動の中で見事に鍛えられ、民衆が社会と歴史をつくっていくという不動の確信を得たように見えます。情勢を冷静に判断し、的確な運動を組織し、その実績を総括して次につなげようとしています。様々な運動の一つの結節点として秘密保護法反対の国会行動が位置づけられており、一点共闘がつながって面に広がることを予感させます。井手氏は消費税・TPP・沖縄辺野古といった諸問題にも言及しています。拙文のテーマに即して言うと、日本資本主義に置かれた様々な重石を取り除こうという人々があちこちに現われ、底堅い変革のうねりが姿を見せる時代に突入したか…彼の話からはそんな思いが喚起されます。それでもそこらじゅうにへばりついていて自分の心中にもある「仕方ない」を超えることができるでしょうか。
こうして書いてきて、拙文では、苦しんだり闘ったりする人々は書いてあるけれども、それが食ったり笑ったりする人間としては感じられないというか(もちろんテーマからして、それは直接書くようなものではないけれども、自ずとそうした人間の全体像まで浮かんでくるようでありたい)、日常生活と社会的政治的なものとのつながりが不分明であり、観念的のそしりを免れないという気はします。ただそれは一朝一夕には直りません。また理論的にも、いろいろな論文を読みながらも、自分で議論を組み立てるとこういう単純素朴なものしか出てこないのは恥ずかしい限りですが、低い到達点に甘んじない自覚だけは持ちたいと思います。
社会科学と社会運動
12月6日、秘密保護法が参院で強行採決され成立しました。稀代の悪法に世論は沸騰し、反対運動の盛り上がりはその廃止を目指して進もうとしています。ただし世論調査では、法の内容と強行採決への批判は強くても、廃止よりも修正などが多くなっています。どうしても世論は現実追認にある程度傾くし、「極端な」(ラディカルな・根本的な)意見よりも微温的な意見に同調的になります。廃止の世論をどう作っていくかは重要な課題です。
社会科学は現実を抽象し理論化するので、理論の様々な抽象度による重層的構造を持っています。あるいは様々な分析視角によってそれぞれ独自のやり方で現実に切り込みます。
この両者の関係はよく整理できませんが、ともかくこうした多くの理論的成果や分析方法があるのだから、社会運動はそれらを効果的に活用して人民に対する説得力を高め、運動への支持を大きく広げることが重要です。情勢の進展に応じて、いろいろな立場の人々の中で生まれる様々な興味関心に応じて、社会科学の理論を適切に組み合わせていくことが意識的に追求されねばなりません。
という言い方はずいぶん大げさですが、秘密保護法の闘いでどう世論を獲得するかについて考えてみたいのです。反対世論の画期的な盛り上がりは、原発問題に続くものであり、というか、むしろそれよりも急速で大きなものであり、60年安保闘争以来という印象を持った向きさえありました(そのあたりを運動の発展の中で当事者として実感し把握し意義づけたのが前記の「怒りのドラムデモ」の井手実氏による述懐)。これは戦後、日本国憲法の下で形成されてきた日本人民の民主主義意識が健在であり、十分なエネルギーを持っていることを実証しました。そこには一方で、平和擁護の観点から、「戦争のできる国づくり」に邁進する安倍自民党政権に対する深い危機感があります。他方では、基本的人権の観点から、知る権利が侵され、「何が秘密かも秘密」状態でうかつに物も言えない暗黒時代の到来に対する危惧もあります。これらは極めて具体的な情勢論が世論を大きく動かしたということであり、今後ともそうした訴えをさらに強くきめ細かく続けていくことが必要です。
この情勢論は十分に根拠があるものですが、世論の中には、必ずしもそのような危機感を共有せず(たとえば「左翼のためにする批判」だとか、そこまで言わなくても「悪く考え過ぎだ」という気分など)、今回の秘密保護法は内容も決め方もまずかったが、「安全保障環境の悪化からして」何らかの秘密保護法制は必要ではないのか、という意見もかなりあるのではないでしょうか。ここには安倍政権が最大限利用している中国・北朝鮮脅威論の影響があり、それ自身大きな問題なのですが、ここでは措きます。その脅威論は別としても一般論として秘密保護法制は必要ではないかという「冷静な」意見の人もいるかもしれません。反対運動の中では、対案は不要であり、あくまで制定反対、強行採決後は廃止という意見が主流のようであり、私もそれが正しいと思いますが、廃止の世論を本当に多数派にするためには、中間的な議論にも付き合っていくことが必要です。つまり具体的な情勢論の他に秘密保護法制についての一般論・原則論をきちんと打ち出していくことが不可欠です。
たとえば国家を論じる場合に、階級支配の機関と捉えて、その具体的な現れを告発するスタイルがあり得ますが、その他に憲法の原則を基準にして理念的なあるべき論(とそこからの現実評価)を展開することも可能です。ここにはある意味で理論次元の違いがあり、それぞれに議論を発展させ、両者あいまって現実把握に貢献しうるものだと思います。秘密保護法についても具体的な情勢論・日本政府の歴史的「実績」からの厳しい批判とともに、秘密保護法制のそもそも論からのアプローチも必要です。ただ情勢抜きの一般論は悪用される可能性があるので注意しつつですが。
『世界』1月号の特集「情報は誰のものか 秘密と監視の国家はいらない」は力作揃いで極めて充実した内容となっています。その中で上記の問題意識から、山田健太氏の「政府の情報隠蔽構造と市民との乖離」と海渡雄一氏の「ツワネ原則は何を要請しているか 照射される秘密保護法の致命的欠陥」の二論文に学んでみたいと思います。
山田氏は現実と一般論との関係を鋭く衝いています。
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とりわけ今回の問題を考える前提には、後に改めて触れる通り、「現実」として官僚の秘密の私物化が横行し、政府による丸ごと情報秘匿が問題となっている多くの具体的事実がある。あるいは報道の「現場」の実態として、すでに現行法においてすら記者に対して公務員法の情報漏洩のそそのかしに該当するとして脅迫を受けてきた具体的事例が報告されている。確かに、一般論として安全保障の必要性や秘密保全のための制度の有用性を語ることはできるだろう。
しかし、現在の日本におけるこうした現実や現場を踏まえない、机上の空論は全く意味を持たない。とりわけこの種の治安立法においては、現行法制における運用実態をもとにして、最悪の運用を想定するのが立法の基本であらねばなるまい。その点で、運用実態を知っていて知らないふりをする官僚とともに、実務を切り離した法解釈による研究者の組み合わせは危険極まりない。 山田論文 88ページ 下線は刑部
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山田氏の言う「机上の空論」とは現実抜きに秘密保護法の一般論としての必要性や有用性を語ることですが、もっと危険な「机上の空論」もありそうです。
たとえばこんなことです。現状追随と机上の空論とは正反対のように見えますが、共犯関係となりえます。秘密保護法制についての世界基準の議論を知らずに、日本の現実に浸っている者は、日本政府の劣悪な「秘密管理」状況を当たり前だと思い、その現実を追認し法制化しようとします。他方で近年の「我が国をめぐる安全保障環境の悪化」に思いを致すなら何があるかわからない(というか安倍政権的には「戦争ができる」ことを目指す)から、民主主義も基本的人権も何のその、秘密でがちがちに固める必要があるという「机上の空論」を確信することになります。
現実と一般論とが危険な関係に陥る例として、山田氏が官僚と御用学者との相互補完・共犯関係を指摘しているのは痛快です。しかし私たちが実際そのような状況になることはありえないにしても、現実と一般論とを切り離して後、無理にくっつけるような認識の危うさの問題としては自戒すべきものです。
これまでの政府の現実・歴史と基本的人権・主権の原理とを踏まえるならば、秘密保護法は以下のように否定されねばなりません。
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内部告発が公的目的であっても、厳罰を科し、ジャーナリストの報道も公益目的であっても起訴されるような制度設計の法制度のもとでは、「報道の自由、知る権利に配慮する」という文言で、表現の自由が保障されたとは言えないことは明らかである。政府はすでに、「知る権利が国民の安全に優先するというのは誤り」とまで言明しているのである。政府が国家安全保障に関する情報を独占することによって誤った政策決定をしてきた歴史があるのであって、むしろ「問題あり」との指摘によって国民がその是非を判断することこそが重要である。
公的情報である政府文書を私物化し、しかも公開することなく、さらには恣意的に闇に葬ってきた政府の体質を改めさせるばかりか、追認するような法制度は、将来に取り返しのつかない禍根を残すことになる。 同前 95ページ
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山田氏は現実を強調するだけではなく、基本的人権や情報・秘密の管理などの原則的問題も提起して上記の結論に至ったのですが、海渡氏はツワネ原則を取り上げることで一般論の問題により詳細に取り組んでいます。先に現状追随の問題点に触れましたが、眼前の現実を理解するためには、少なくとも他の現実も知り、それだけでなくその現実にまつわる理念なりあるべき姿なりについても知っていなければなりません。眼前の現状を細かく知っていることは必要なことですが、それだけでは、現状におぼれているだけで理解したことにはなりません。ツワネ原則を知ることによって、日本人は初めて安倍自民党の秘密保護法の本質を理解できるのです。ツワネ原則とは何か。
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ツワネ原則の正式名称は、「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」である。この原則は自由権規約一九条、ヨーロッパ人権条約一〇条をふまえて、国家安全保障分野において立法を行い、制度を構築する際に国家安全保障への脅威から人々を保護するための合理的な措置を危険にさらすことなく、政府の情報への公的アクセスをどう保障するかという問題について、関連法令の起草に関わる人々への指針を提供するために作成された。
海渡論文 96ページ 下線は刑部
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その内容は次のように紹介されています。
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(1)
秘密指定の立証責任は国にある
(2)
何を秘密としてはならないかを明確にしなければならない
(3)
公衆に対する監視システムと監視のための手続を秘密にしてはならない
(4)
秘密指定は無期限であってはならない
(5)
秘密解除を請求するための手続が明確に定められるべきである
(6)
公開の裁判手続において、秘密の内容を議論できるよう保障しなければならない
(7)
安全保障部門にはすべての情報にアクセスできる監視機関が設置されるべきである
(8)
バランスのとれた内部告発者の告発は法的に保護され、報復されてはならない
(9)
情報漏えい者に対する訴追は、情報を明らかにしたことの公益と比べ、重大な損害を引きおこす場合に限って許される
(10)
ジャーナリストと市民活動家を処罰してはならず、情報源の開示を求めてはならない
海渡論文より見出しを抜粋 97〜101ページ
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これが世界標準なのです。詳しい説明は省きますが、これを見ただけでも、我が秘密保護法がいかに異常な代物であるかが分かります。(1)から(10)までとまったく逆の内容になっています。
また上記(2)のように、ツワネ原則は何を秘密としてはならないかを詳細に示しています。その項目は同時に、内部告発によって免責される開示情報のリストでもあります。
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(a)刑事犯罪、(b)人権侵害、(c)国際人道法違反、(d)汚職、(e)公衆衛生と公共の安全に対する危険、(f)環境に対する危険、(g)職権濫用、(h)誤審、(i)資源の不適切な管理又は浪費、(j)この分類のいずれかに該当する不正行為の開示に対する報復措置、(k)この分類のいずれかに該当する事項の意図的な隠蔽
海渡論文 98ページ
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さすがに軍事・外交という項目はありませんが、それも上記(1)から(10)までの縛りを受けるわけですから、今回の秘密保護法とはまったく違います。それにしても、これはまさに国家権力が隠したい(そしておそらく実際にも隠しているだろう)項目のオンパレードです。「一般論として安全保障の必要性や秘密保全のための制度の有用性を語ることはできるだろう」という先の山田氏の問いかけは、日本政府の劣悪な歴史的実績ならびに「戦争のできる国つくり」というよこしまな狙いの上にではなく、ここまで権力に縛りをかけるような民主主義制度の原則の中で初めて語りうるのです。
12月26日、安倍首相は靖国神社参拝を強行しました。無思慮の極みですが、右翼勢力に持ち上げられた彼の暴走はとどまるところを知りません。この得意の絶頂の裏で内閣支持率は下がり続けており、その反人民的な諸政策はますます正体を知られることになるでしょう。そこで私たちはどうやって多数派をつくっていくのか。情勢の進展と人々の関心の動向を的確に捉え、それに呼応した理論と政策を自在に展開し語っていくことが必要となります。この運動は社会科学の多彩な理論的引き出しから多くのものを活用できるはずです。
断想メモ
引用ばかりの冗長な文章はもう閉じるつもりだったのですが、また紹介したい文章が出てきました。先に、生存権裁判における福岡高裁判決や後期高齢者医療に対する厚労省課長の酷薄な言葉を紹介しました。何につけても現場の厳しさを知ることは本当に大切で、そこに触れずに上から目線の表面的な(そして意識的か無意識的かは別として、結局は支配層の利益に奉仕する)理屈の整合性を追求するところにこういう言葉は出てきます(私にとってもこれは「他山の石」です)。
福島第一原発の収束作業に従事して、膀胱・胃・大腸にガンを発症し労災申請した男性作業員(55歳)は現場の模様をこう語っています。
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それで作業終わって免震棟に帰ってくるんですが、サーベイ(汚染の測定)を待っている間に倒れている人を何度も見ました。タイベックを脱いで下着が汗でべちゃべちゃになっているところに、クーラーがガンガンかかっているから、急に体が冷えて倒れちゃうんです。俺も倒れそうになったことがありました。
こんな過酷な環境で仕事しているのに、元請の責任者は俺たちにこう言いました。
「ここで熱中症になって一人でも倒れたら、全員帰ってもらうからな」
そんな馬鹿なって思いましたよ。みんな嫌々来たところに、あの猛暑の中で全面マスクつけて作業するのに、こんなこと言ったんですから。
実際に倒れた作業員を、東電社員が取り囲んで始末書を書かせているのを見ました。「倒れたらこうなるんだぞ。気をつけろよ」っていう見せしめかと思いました。でも、気をつけろと言ったって気をつけようがないんですから。
布施祐仁「『使い捨てでは誇り持てない』 元イチエフ作業員、多重ガンで労災申請」
(『世界』1月号所収) 195・196ページ
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元請責任者や東電社員の言動は人間のものとは思えないのですが、彼らは「規則」に従っているだけなのでしょう。これは人間の言動でありながらその実、原発利益共同体の言動なのでしょう。なおこの作業員の労災申請は「100ミリシーベルトの壁」(それ以下の被曝では受け付けない)などのため認定されるのは困難だと筆者はみています。ここにも現場を見ない国家権力の理屈があります
2013年12月28日
2014年2月号
日本資本主義の転機をどう捉えるか
工藤昌宏氏の「日本経済の実態と展望 停滞構造とアベノミクスの歪み」は日本経済の停滞的現状を詳細に分析し、それに対するアベノミクスの的外れぶりとそうなる原因を明らかにしており、現状認識と経済政策のあり方について必読の労作でしょう。工藤氏の認識の中心には、長期にわたる分配構造の歪みが、内需を停滞させ、生産・投資・雇用・消費の好循環構造を壊し、さらにそれらの連鎖的縮小を引き起こしている、という見方があると思われます。すると、かつてあった生産・投資・雇用・消費の好循環構造とはどういうもので、それが破断した現状の意味をどう捉えるか、という次の問題が発生します。今日の日本経済の長期停滞が提起する歴史的意味を問うことです。
友寄英隆氏の「日本資本主義の現段階をどうみるか」がそのテーマに切り込んでいると思いますが、その前に日本経済に限らず、金融化に焦点を当てて現代資本主義の長期停滞の意味を考察した高田太久吉氏の「現代資本主義と『経済の金融化』 信用制度の役割と金融恐慌をめぐって」を見てみます。高田氏は資本の過剰生産についてこう述べています。
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これを、1970年代の具体的状況に即して言えば、自動車産業や家電を中心とする耐久消費財の大量生産と大量消費、これらを支える鉄鋼、機械産業関連部門での積極的な資本蓄積、雇用増加と賃金水準の上昇、住宅や耐久消費財の需要を押し上げる中間層の形成、さらには、景気後退期に企業投資を促進し、需要の減退を下支えする景気拡大的な金融・財政政策、ブレトンウッズ体制のもとでの世界貿易の拡大など、「黄金の時代」の高度成長を支えてきた歴史的諸要因が、新興国を含めた世界的な生産能力の余剰、工業国における耐久消費財の普及、国際競争の激化によって、利潤率が低下し、全体としてさらなる高度成長を継続することができなくなった状態を意味している。 149ページ
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さらに高田氏によれば、1980年代以降、新自由主義のタテマエとは裏腹の景気拡大的な金融・財政政策の活発化にもかかわらず、主要産業の設備投資や雇用増加につながらず、加速するインフレ、財政危機、国際収支の悪化を招き、これ以降、資本主義の趨勢としては、経済成長の低下、失業の増加、企業利潤の低迷、国際競争の激化、国際不均衡の拡大に陥りました。「これら一連の現象は、1950〜60年代にマクロ経済の好循環と成長に貢献した要因が、ほかならぬその成功の結果、世界的な資本の過剰蓄積という形で『資本の失敗』を招来したことを表わしてい」ます(同前)。
この一連の叙述は、工藤氏の言う、日本経済にかつて存在しながら、現在は破断している「生産・投資・雇用・消費の好循環構造」の歴史的展開過程を解明するのに、現代資本主義一般の次元からのヒントを与えていないでしょうか(不勉強で知らないのですが、これはレギュラシオン理論がフォーディズム概念によって説明しているものに相当するテーマでしょうか)。その結果逢着した長期停滞を前に資本はどのように対処するのかについて高田論文では次のように言われます。
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資本主義の歴史、とりわけ恐慌の歴史が証明しているように、一つの時代の資本主義がその成長をささえてきた蓄積様式とともに限界に逢着すると、企業間の競争が激化しあらゆる企業の経営者は、生き残りをかけてコスト削減のための新技術の導入や新投資、雇用と人件費の削減、労働強化、新しい市場の開拓、新製品の開発、効果的な宣伝やマーケティング手法の導入、産業や企業の再編その他、考え得るあらゆる方策を試みる。資本蓄積の障害を突破するための企業経営者(=資本)の集団的模索と「集団的知恵」は、企業間の淘汰と整理、陳腐化した設備や滞貨の廃棄という形で過剰資本を解決するだけではなく、従来の蓄積様式の限界を突破し、より大規模な生産と投資の再現、言い換えれば新しい循環の開始を可能にする資本蓄積の諸条件を作り出す。
151ページ →<補注1>
新しい資本蓄積様式の生成につねに大きく関わってきたのは、企業や家計の信用アヴェイラビリティ(利用可能性)を拡張する、新しい信用制度である。
152ページ
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こうした原理的指摘に続いて、リーマンショックをきっかけとした21世紀初頭の世界金融恐慌を念頭に「歴史の経験に照らせば、これほど甚大な経済危機が、資本主義の蓄積様式と信用制度に歴史的な構造変化を引き起こすことなく克服されることは考えにくいことである」(158ページ)とされます。
友寄英隆氏の「日本資本主義の現段階をどうみるか」は、2010年代からの日本資本主義を「資本主義発達史のなかでも一区切りを画する新しい段階、歴史的な転換期」(93ページ)と捉えています。その経済的根底にあるのは、「対米従属・輸出主導型の資本蓄積・拡大再生産の方式の行き詰まりであ」りそれは「支配体制にとっての深刻な危機を意味して」おり「国民的な変革の立場からいえば」「日本を新たに再生させるチャンスが生まれてい」ます(同前)。しかしそのことは単純に楽観できるものではなく、「変革の時代」とは進歩と反動との激突の時代として捉えねばならない、とされます。
そこに登場した安倍政権について単なる政治反動と捉えるのではなく、上記の高田氏の指摘にあるように、その基盤には経済危機に際して従来の資本蓄積様式の限界を突破しようとする資本主義支配層の必死の策動があることを見るべきでしょう。決して侮れません。従来型の資本蓄積様式が行き詰まったからといって、グローバル資本への民主的規制による内需循環型経済に自動的に移行できるわけではなく(人民的にはその道しかないのだが)、新自由主義グローバリゼーション型の構造改革路線による反動的活路が実現する可能性をも冷静に捉えねばなりません。しかしその路線を強行しようとする策動は必然的に人民の不利益をもたらし、そこに起こる反発が様々な一点共闘を生み出します。それを面的共同に統一していくには、憲法・人権・民主主義擁護の政治的旗印とともに、生活・労働擁護の経済像を分かりやすく示した経済的旗印が必要となります。「変革の時代」を進歩の方向で勝ち抜くため、いかに人民を結集し得るかが問われます。縁の下では、経済学の現状分析力と政策力そして理論的構想力が切実に求められています。
そこで本来ならば友寄氏の詳細な日本資本主義分析を全体的に学んでいくべきところですが、ここでは若干の問題提起にとどめます。対米従属・輸出主導型の資本蓄積・拡大再生産の方式の行き詰まりは、何よりも「失われた20年」などと呼ばれる(かつての高度経済成長と対蹠的であり、かつ先進資本主義諸国でも例外的な)長期停滞に現れています。その中でも劇的なのは、かつて世界中から非難された膨大な貿易黒字が消失・逆転し、2011年から3年連続で貿易赤字に転落し、額も増大し続けていることです。2013年は円安にもかかわらず輸出が伸び悩み(69兆7877億円、円安で価格は若干伸びても数量は減っている)輸入の伸びが止まらず(81兆2622億円)、貿易収支は11兆4745億円の赤字で、初めて10兆円を突破しました(財務省、貿易統計速報/通関ベース、1月27日発表)。東日本大震災・福島第一原発事故の2011年から赤字転落であり、火力発電用の液化天然ガスを初めとするエネルギー輸入の増大を重要な要因とする見方がありますが、これだけの円安にもかかわらず輸出が一向に伸びないのは生産の海外移転が進んだためでしょう。日本の大企業の多国籍企業化が相当に進み、それが国民経済との矛盾を拡大しているということです。 →<補注2>
友寄氏は次のように指摘しています。
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多国籍企業は、「最適地生産・最適地調達・最適地販売」の戦略から、世界市場で独自の資本循環・再生産軌道を形成している。多国籍企業は、「生産・調達・販売」のいずれの段階でも、国民経済の「再生産の条件・法則」には制約されずに、グローバルに配置した生産拠点を前提に、最大利潤を求めて身勝手なリストラや資本撤退を行い、獲得した利潤の蓄積もタックスヘイブンを含めグローバルに分散・集中するなど、母国と進出国の両方の再生産活動を撹乱する要因になっている。 105ページ
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対米従属・輸出主導型の資本蓄積・拡大再生産の方式の行き詰まりを打開して「内需主導型資本蓄積方式と再生産構造への転換をめざす」(106ページ)ためには、したがって多国籍企業にも国民経済の再建に応分の役割を担ってもらう必要があります(同前)。放置して企業の社会的責任の遂行だけに期待することはとてもできないので、大資本への規制と誘導を担う国家の経済政策の役割は決定的です。またこれは一国だけでできるものではないので、国際的な協調も必要となります。各国政治権力の民主的転換が求められますが、それ以前にも日本と世界中の人々が生活と労働を守る運動の力を結集して、経済政策転換の圧倒的な世論をつくっていくことが重要です。
資本蓄積方式と再生産構造の転換には「新たな拡大再生産軌道を形成するための『旋回基軸』を明確にすること」(同前)も必要です。友寄氏は、それは中小企業と農業であるとして、自然エネルギーへの転換や「異次元の中小企業政策」「異次元の農業政策」を求めています。そうした生活重視の内需型産業の振興により、グローバリゼーションに振り回されない地域経済の再構築と自立が喫緊の課題であり、それが新たな構成主体となって国民経済を再生させていくでしょう。そのような国民経済にふさわしい政策主体としての政府であるならば、世界に向かっても新自由主義グローバリゼーションの生活と労働への破壊的作用と投機を規制し、多国籍企業の税逃れを許さず、応分の負担を求めて税収を適切に確保するための国際協調をリードするはずです。もっとも、それは現行とは正反対の政府ということになりますが、流布している新自由主義構造改革の常識とは正反対の上記のような展望をどこまで広く人民的常識にできるか、がそこに接近するカギとなります。
友寄氏が最後に指摘しているのは対米従属からの脱却です。ここには原発問題のネックがあるし、アジアでの共存共栄を築くには、歴史問題の正しい解決とともに米国からの自立も必要です。
貿易赤字への転落とその激増と並んで、対米従属・輸出主導型の資本蓄積・拡大再生産の方式の行き詰まりを象徴するもう一つの要因は、「失われた20年」における急激な格差と貧困の進行でしょう。これが内需の縮小を通じて長期停滞の主要な原因となってきたことは疑いありません。そこで資本の過剰蓄積をどう捉えるか、が問題となります。さらに言えば、成熟化と貧困化というある意味対極的なものが、それぞれに内需縮小を通して資本過剰に作用しているのではないか、両者の関係をどう捉えるか、ということを考える必要があります。
友寄氏は「資本蓄積の歴史的条件」の変化について、「資本蓄積の国際的環境、資源・エネルギー・食料などの再生産の基盤的条件、労働力人口などの生産活動の条件などの、いわば資本蓄積の基礎的条件の変化とともに、『資本』それ自体の発展段階の変化(たとえば『多国籍企業化』)という内的要因をも含んでいる」(94ページ)と指摘しています。
「資本蓄積の基礎的条件」をいわば外的与件として、しかも「資本」という生産関係視点は抜きに、与件への対応として「経済成長」をいかに実現するか、というのがブルジョア理論とその経済政策の生産力主義的発想ではないでしょうか。そこには資本蓄積様式の変化という見方はなく、歴史貫通的観点から生産力発展に向けて、(社会科学的概念の欠如した即物的なものとしての)「労働力と資本」をいかに動員するかという政策が問題とされます。そうした観点からは、たとえば非正規雇用の拡大というようなものも、生産力発展に必要な「中立的」政策であり、それを「非難」するような意見は「イデオロギー偏向」に基づく生産力破壊ないし社会進歩の妨害と映るのではないでしょうか。そのような映り方そのものが、特殊歴史的なものを歴史貫通的なものに解消するブルジョア・イデオロギーそのものですが…。もっとも、雇用問題は鋭い階級闘争の課題として労資双方に意識されていると見るのが普通でしょうが、資本の側の意識の根底には上記のような正義観があるように思います。
逆にマルクス経済学においては、生産力発展にともなう社会的変化(必ずしも資本蓄積様式あるいは経済体制の違いによって強く規定されない一般的変化)について、生産関係視点を含む資本主義分析の中にどう位置付けていくか、ということが十分に明確化されていないという気がします。たとえば高田氏が資本主義の長期停滞の要因の一つとして挙げた「耐久消費財の普及」は主に生産力発展にともなう社会的変化に属するものだと思います。それを含めて成熟化というものを貧困化と関連付けて考えてみるのが、資本の過剰蓄積・資本主義経済の長期停滞を把握するうえで意味があるのではないかと思います。稚拙な問題意識であり、中身もない状態ですが、あれこれと述べてみます。
成熟化は必要な物やサービスが満たされ、生活の質に関心が移っていく状態だと思われます。それは資本主義的生産力がもたらした大量生産・大量消費・大量廃棄によって達成されかつその反省の段階を表現するものでしょう。貧困化はその同じ資本主義経済における生産関係によって、必要な物やサービスが満たされない状態に置かれたものです。両者は現代の資本主義社会において共存し、従来の大量生産・大量消費・大量廃棄型経済(以下、従来型経済)の克服を課題とする(成熟化)あるいはそれから疎外された(貧困化)という意味でともに従来型経済とは異質の状態であり、その限りでは共通して有効需要の縮小要因であり、現代資本主義の長期停滞に「貢献」しています。成熟化は従来型経済の「成果」で、貧困化はその「失敗」であるという正反対の位置にありながら同時代に共存しており、しかも富裕層と貧困層という対立概念とは違って、同時代人の多くの部分が各個人の中に両者を共有しています(共有割合は各人で相当に違うとはいえ)。
従来型経済が疑問とされ、物量の追求から生活の質に関心が移っていく時代は、丁寧な仕事で多品種少量生産の中小企業の出番だとよく言われます。ここには生産力のあり方の転換方向が示されており、内需循環型経済に向けて長期停滞を克服していく重要な一要素があります。しかしそこでは成熟した生活者が予定されており、当然ながら貧困化の克服が前提となっています。従来型経済は輸出主導型経済とワンセットであり、長時間労働と画一的消費を余儀なくされ、真の意味で国内の人々の生活の充実にはつながっておらず、しかもその破綻の過程で深刻な貧困化を生み出しました。新自由主義グローバリゼーションによる国民経済・地域経済・個人生活への破壊作用を放置したままでは貧困化を克服することは不可能ですから、新自由主義構造改革とは真逆の政策的対応としての所得の再分配と雇用の改善が求められます。これが第一歩です。
まずそこから踏み出し、従来型経済の克服の過程において貧困化をなくして、成熟化をよりスマートに推進することで、内需のスパイラル的縮小を逆転し、生活の質の充実をともなう有効需要を推進力とする資本蓄積のあり方を展望することができるでしょう。
これに対して新自由主義的資本蓄積においては、長期停滞・不況下でも利潤を確保するために、リストラと労働の柔軟性の名による際限ない搾取強化を図り、その結果激化する「生産と消費の矛盾」を「回避」するため、商業資本と信用制度を利用して仮想需要を喚起し再生産の柔軟性を発揮させ、かなり無理筋の再生産拡大を図ります。そして実際のところ小さな政府のタテマエにもかかわらず財政出動を仰がざるを得ず、その上で赤字財政を社会保障支出のせいにして、大衆課税と社会保障切捨てを強行することになります。そこで最大の頼みとするのは搾取強化と悪政による収奪とに対する人民の柔軟性です。もちろん国際競争に勝利することや「社会保障の持続可能性を保つ」など、人々にとっての(実はグローバル資本にとっての)重要事を積極的に「理解」するか、最低限諦めて受容するようにマスコミを動員して洗脳にこれ努めています。人は生きるためにしばしば柔軟性が必要ですが、時には剛直性が必要な場合もあります。
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<補注1> 構造と循環―恐慌を軸に
高田氏は「恐慌の歴史」を教訓に、従来の資本蓄積様式の限界とそれを克服する新たな循環を可能にする蓄積様式への構造変化を語っています。ここには資本主義分析において、恐慌を軸とすることで、構造視点と循環視点との接点を見ることができるように思います。
資本主義の平均化機構(体制維持原理)は市場(価格)メカニズムではなく恐慌=産業循環である、とするのが新古典派経済学に対する正統派マルクス経済学の特質(「市場メカニズムによる静かな均衡化」を「恐慌=産業循環による暴力的均衡化」の中に包摂して捉える立場)であると私は捉えています。しかしその場合、恐慌をただ単に産業循環の一局面としてのみ、つまり資本主義の均衡化作用の一局面としてのみ理解してはならず、恐慌と構造変動との関係を問う視点が必要です。もちろん毎回の恐慌が必ず構造変動をもたらすわけではありませんが、恐慌が資本主義経済の全機構的震撼である以上、その可能性はあります。何回かの恐慌=産業循環を経過する中で、一定期間を支配した資本蓄積様式が限界を露呈し、特に大恐慌あるいは長期的不況への対策を契機として構造変動に至る、という経過になるのではないでしょうか。その際に上記のように資本が死活的奮闘によってそのイニシアティヴの下に構造変動をやり遂げるのか、労働者階級を中心とする人民的道による違った形でそれをなすのかが歴史的意義を左右します。
そのように考えてくると、恐慌と革命とは一定の関係を持ちうると言えます。恐慌革命論を単なる理論的誤りとのみ見る見解は、恐慌を単なる産業循環の一過程として見る見地につながっています。恐慌によって暴力的に不均衡を調整した資本主義経済は新たな産業循環を開始して回復してくるのだから革命は成功しない、と。確かに恐慌と革命を単純に直結するのは間違いであり、革命の主体形成や政治制度など多様な問題を考慮せねばなりませんが、だからといって資本主義経済の全機構的震撼・体制的危機につながりうる恐慌の意義を看過すべきではありません。激烈な恐慌を防ぐべく国家介入によって支えられた現代資本主義においてもなお世界恐慌と深刻な長期不況は回避しえません。それが持つ構造変動作用を的確かつ詳細に捉えることは、循環視点と構造視点とを統一的に理解したうえで、社会変革=現代の革命の経済的基礎を考えることにつながります。
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<補注2> 貿易収支に見る数量と価格(使用価値視点と価値視点)
貿易赤字の増大について、原発停止による燃料費の増加が主な原因とする見方があります。しかしニッセイ基礎研究所のレポートでは「鉱物性燃料の輸入数量の伸びは11〜13年の平均で2.2%(輸入数量全体は1.8%)、これによる貿易収支の悪化はマイナス1.5兆円で、全体(マイナス18.1兆円)の1割にも満たない」と指摘し、13年の鉱物性燃料の輸入数量は前年比ほぼ横ばいで、貿易収支にはほとんど影響がなかったと結論づけています(「しんぶん赤旗」1月29日付)。
山家悠紀夫氏は「これまで日本では円安になれば外貨建ての値段を下げて輸出量を増やし、経済を活性化させる力が働きました。しかし今はその力が弱まっているのではないかと思います。大企業が、円安で円の受領額が増え、収益が増えればそれでよしとしているのではないでしょうか。生産数量が増えて雇用が増え、日本経済がよくなることはあまり起きていません」と指摘しています(同前)。
さらに「円安で輸入品の値段が上がると競争力が落ち、国内生産が増えて輸入数量が減るはずです。しかし、そうなっていません。輸入はほとんど全品目で減っていません。/日本のいろいろな商品が輸入に頼る構造になっているからです。海外の日本企業から逆輸入する場合は円安になっても国内生産に置き換える必要はないわけです。国内産業が円安で力を取り戻すことになっていません」と続けた後、「日本経済がこうした構造になった主因は日本で物が売れないことです」と診断しています(同前)。なお2013年の輸出の数量は前年比1.5%減で3年連続の減少、輸入は同0.4%増で4年連続の増加です(財務省、貿易統計/速報)。
日本における物づくりの劣化・競争力の低下という供給側の要因も重要だと思います(本誌でも坂本雅子氏など諸論者が憂えている)が、それはマスコミ等では本誌とは違って、もっぱら新自由主義グローバリゼーション対応の構造改革の観点で強調されており、山家氏のような需要側へ着目して統一的に貿易収支とそれを生み出す経済構造とを捉える観点は重要です。両観点はたとえば賃金を上げるか下げるかでも正反対になります。
ところでニッセイ基礎研究所レポートと山家氏の見解において重要なのは、数量の視点です。前者では「原発停止による燃料費の増加」を見る目的に合わせて、円安の影響を除くため燃料の輸入数量の変化を見ています。価格変動だけを見ていては問題を見誤ります。
山家氏の場合、円安に際して輸出入における外貨建て・円建てそれぞれの価格動向をにらみながら数量の変化を見ています。生産・雇用の動向、産業連関、再生産構造を根底的に規定するのは実物的数量とその関連だからです。為替レートの変動によって通常予想されるはずの「商品価格の変動」と「輸出入数量の変動」(円安→外貨建て輸出価格↓→輸出数量↑→生産数量・雇用量↑ および 円安→輸入価格↑→輸入数量↓→国内生産数量↑)に変調が生じているのを捉えることから、日本経済の問題点を抉り出しています。輸出については、外貨建て輸出価格を下げず、輸出数量が増えていないこと、輸入については、輸入価格の上昇にもかかわらず、輸入品に頼る構造になっているために輸入数量が減らないことが問題です。本来、円安で生産と雇用が増えるはずなのにそうなっていないのは、長年に渡る内需の減退によって国内生産を控えるようになり、それを前提に国内外向けの価格と生産量を決定するようになった資本の行動様式があるのです。
山家氏はこのように為替レートと貿易収支の変動の裏にある経済の実体(実態)を的確に捉えていますが、とにかく目前の利潤が増えればいいという表層的経済観では、主に価格(個別および総量)に注意が集中しがちで数量が軽視されます。その極北に投機に無批判な経済観があります。両者(価格と数量)の関係を捉えて初めて、中長期・安定の視点から健全な国民経済のあり方が理解でき、グローバリゼーションへの対処を考える基礎が築けます。
商品とその集積である資本主義経済は使用価値と価値との二要因から成ります。経済分析において、使用価値視点と価値視点の両面から迫り、変幻極まりない経済現象の底にある経済の実体を捉えることが必要です。その際に、生産力発展を含む本質的・長期的分析では「使用価値視点と価値視点」(実体と形態)そのものでよいのですが、為替変動や商品への需給変動を含み逆に生産力発展は捨象される短期的分析では、「数量視点と価格視点」(実体と形態)という形をとるでしょう。ここでは価値は不変であり、むしろ実体の側にあるというねじれが生じます。
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消費税の本質とあり方を探る
全商連(民商の全国組織)発行の「全国商工新聞」編集部あてに1月19日に以下の感想を送りました(対象は1月20日付ですが週刊紙なので日付は先取りされています)。
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2014年1月20日付の「視点」、岡澤利昭氏の「消費税『適正化』の狙い」は政府と財務省が目論む消費税改悪の方向とその問題点を簡潔に指摘しています。
ところでこれは私の憶測ですが、イデオロギー的には以下のように思います。今日の支配層は、客観的には、巨大多国籍企業が主導する新自由主義グローバリゼーションにおいて自らの階級的利益を拡大することに存在をかけています。主観的には新自由主義グローバリゼーションの進行を必然と見て、それに抵抗する人民の「自己本位」の姿勢を「正し」、「無理解を啓蒙」し「全体の利益や公共性」を自覚させるべく、エリート主義的「使命感」を持って、なんとしても「大所高所に立った正義」を実現しなければならない、と彼らは考えているのではないでしょうか。税制については、所得税の累進性を緩和し、法人税率を下げ、消費税率を上げるのが新自由主義グローバリゼーションに適合的であり、彼らにとっての「正義」でしょう。そこでの消費税の「理想」は、完全転嫁を前提に、免税点がなく、簡易課税のような「おかしな代物」もない「理路整然とした純粋な」制度だと思われます。「益税」の出るような不公正で不純な現行消費税制度は是非とも「改革」しなければならない、と「真摯に」考えているかもしれません。
岡澤氏によれば、会計検査院の報告書(平成23・24年の二つ)は、簡易課税制度と免税点制度とを「益税」の温床と見て、その引き下げを示唆しています。簡易課税制度に関しては、納税者は本則課税と簡易課税とを比較検討して選ぶのだから「益税」が多くのなることは当然予想されます。これに対して、免税点について言えば、免税事業者の多くに「益税」が出ることは考えにくいはずです。消費税率5%の場合、免税事業者が消費者から5%の消費税を取れば確かに「益税」は生じます。しかしもし消費税を取らなければ、仕入・経費にかかった消費税を負担することになり、損税が生じます。消費税を取った場合でも5%分がまるまる「益税」になるわけではなく、仕入・経費にかかった消費税分は差し引かれます。
消費税の転嫁は何ら保障されているわけではなく、実際には消費者や取引先との経済的力関係によって決まります。インボイスを導入しても、本体価格の切り下げという操作によって、形式的には転嫁しても、事実上消費税を負担するという事態がありえますので、完全転嫁は極めて困難です。消費税は消費者が負担し、事業者は負担しないというのがタテマエですが、実際には消費税負担を忌避する消費者の行動によって事業者が負担することも見受けられます。ここには消費者と事業者とを対立させる消費税の構造があることに注意すべきです。
そうした対立の芽をベースにおいて、「益税を生む」免税点や簡易課税のように、消費税の「理念・正義」にもとる「理屈の通らない不純な」制度を廃止しよう、という中小業者バッシングが展開されないとも限りません。今後、軽減税率の適用が検討される場合には、納税処理の適正化のために免税点や簡易課税を廃止しようという議論が大きくなる可能性もあります(大声で「廃止」と言えば、少なくとも引き下げくらいは実現する、という駆け引きがされるかもしれない)。
ここには完全転嫁に近づけるという非現実的想定を基にした「純粋で理想的な」消費税を目指すという支配層のイデオロギーによる、事業者の「益税」への攻撃があります。マスコミによってこの「正義の理屈」が喧伝されれば、多くの人々に影響を与えるでしょう。以上から、(1)消費税は消費者と事業者との対立を扇動する構造を持ち、ならびに(2)支配層と事業者との対立(「『純粋な』消費税を導入したい」VS「消費税導入そのものを阻止したい」)の妥協の産物として免税点と簡易課税という「不純な」制度を含むが故に支配層に中小業者攻撃の足場を与えている、ということが言えます。この二つの事情を、中小業者の運動体は十分に意識することが必要ではないでしょうか。
もちろん岡澤氏の主張している通り「そもそも消費税制には、転嫁できない問題や記帳実務の負担増などの悪影響が内在する。簡易課税制度と免税点制度は、こうした悪影響に配慮し、中小企業の経営対策として創設されたものであり、極めて重要な役割を担っている」のであり、現行制度においては不可欠です。支配層が勝手に目指す「純粋で理想的な」消費税制度への「改革」の観点から生業を邪魔されるいわれはありません。ただしそこで支配層の宣伝(「益税」をなくすという、一見理屈の通ったような主張)がもたらす、消費者・労働者への影響を客観的に認識しておくことは必要ではないでしょうか。
一番の原点は、消費税とは最悪の大衆課税であり、消費者と中小業者を犠牲にして大企業を利するものであり、その存在を前提にしてあれこれの矛盾をつつくのはまったく二義的な意味しかない、ということです。消費税は税制の民主的原則に反するものであり、その廃止こそがあらゆる矛盾を解決する最上の策である、ということがまず強調されねばなりません。ここには消費者・労働者と中小業者との根本的な利益の共通性があります。
その上で岡澤氏の主張しているように、現行制度においては簡易課税制度と免税点制度は必要不可欠であることを説明する必要があります。さらにそれらが益税や損税をもたらすという制度的矛盾を持つとしても、そうなる原因は、最悪の大衆課税を押し付けた代償措置としてやむを得ずそれらが存在している、という事情にこそあることを力説すべきでしょう。
「『益税』はなくすべきだ」というワンフレーズによる中小業者バッシングによる分断支配と制度改悪を許してはなりません。そのためには、そういった主張が支配層のイデオロギーであり、悪事暴露的な公正さの装いの裏に、大衆課税と大資本減税という彼らの利益を担った消費税を「純化して正しく大きく」育てようという思惑が貫徹していることを誰にもわかりやすく示す必要があります。
「公正さ」とか「公共性」は立場によって正反対に見える場合があります。グローバル資本(巨大多国籍企業)による生産力発展と「文明化作用」こそが社会進歩だとするならば、それにそった先進資本主義諸国政府の新自由主義構造改革の諸政策に公共性は存在します(「上から視角」)。逆に諸個人の生活と労働・営業の発展にこそ社会進歩の内実があると考えるなら、その諸政策に対抗して、大資本を民主的に規制し、人々の懐を温めることから出発する内需循環型経済を目指すような諸政策に公共性があります(「下から視角」)。消費税の「公正さ」は二つの「公共性」、両視角の激突する焦点であり、支配層による分断を許さず、本来「下から視角」に結集し得る99%の人々を味方にできるかが問われます。マスコミにはグローバル資本が説教する理屈が満ち満ちていますが、生活と労働・営業の内実にしっかりと立脚するなら、その偽善を打ち破り別の道を求める方向に行くはずであり、しかも幸いにも日本国憲法はその道の味方であり、しっかり学び生かすことができるなら私たちに展望が切り開かれることでしょう。
「中小業者バッシング」を心配するのは先回りの取り越し苦労かもしれませんが、公務員バッシングや生活保護バッシングのすさまじい威力を目にして心を痛めていたので、あえて提起してみました。経済や制度の客観的構造の一部から発生する矛盾を一面的に強調することが、全体構造の根本的矛盾に対する様々な目くらまし的作用を生み、それを巧みに利用することで各種バッシングが発生します。それを解きほぐすには客観的構造までさかのぼって冷静に見ることが必要となります。99%の人々の内部で不毛な口論がなくなることを願っています。冗長となり失礼いたしました。
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消費税の転嫁とそれに伴う益税・損税が上記では中心問題となっています。これを書いた後で、湖東京至氏の「消費税の何が問題なのか 不公平性を払拭できない欠陥税制」(『世界』2月号)を読みましたら、当該問題についていわばコペルニクス的転回ともいえる内容でした。消費税の転嫁の困難性が議論されますが、それは消費税が間接税だというタテマエにとらわれているからで、本質的にはそれは直接税としての付加価値税であり、そもそも転嫁は存在しない、と考えると正反対から納得できるように思えます。
たとえば「東京地裁平成2年3月26日判決」(確定判決)の内容を湖東氏は「消費者が税金だと思って負担している消費税分は、じつは税金ではなく、物価の一部であって、事業者は消費者から税金を預かったこともなければ、消費者が事業者に預けたこともない」と解説しています(190ページ)。
これをより経済学的に説明するとこうなります。「付加価値税は消費者に転嫁されると思われているがそれは誤りである。仮に本体価格と税額が別記されていたとしても転嫁はされていない。製品価格は需要と供給の関係で決まるものであり、競争原理が働くから付加価値税を含む原価が引き下げられてしまい、結局、付加価値税は価格の一部に吸収されてしまう」(「1969年12月1日付米国税制改革小委員会議事録」より、同前)。さすがに連邦としては付加価値税を持たず、日本の消費税に対して輸出補助金だと批判している米国は付加価値税の本質を見抜いています。
湖東氏によれば、日本の消費税やヨーロッパの付加価値税が間接税とされるのは、1954年に導入されたフランスの付加価値税に起源があります。フランス政府は、ガット協定により禁止されていた輸出補助金を間接税の還付金として正当化したのです(191ページ)。輸出還付金制度は仕入税額控除方式の実質的悪用(輸出大企業は下請け企業などをたたいて実質的には仕入・費用にかかる消費税を負担していないのに「還付」される)という意味で消費税制度の弊害として人民の側から批判されます。しかし支配層の立場から、またその起源からすれば、それは制度の抱える弊害というよりは、むしろ導入目的でさえあったのです。フランスで付加価値税が直接税(=仕入税額控除はありえない)でなく間接税として仕立て上げられた経過はそれを示しています。したがって湖東氏は「本来、付加価値という外形標準に課税する直接税=付加価値税を間接税に仕立てたところに、消費税・付加価値税の不透明性、諸矛盾が派生しているのである」(同前)と結論づけています。「転嫁・益税・損税」という煩瑣な現象の本質はここにあったのです。
ならば逆に消費税などを実態に即して直接税として捉え直し、制度的にもそのように組み変えることが適当です。湖東氏は消費税を直接税としての新しい付加価値税である事業税に組み変え、大衆課税から大企業課税に変更する具体策を提案しています(193・194ページ)。傾聴に値する提起だと思います。
蛇足ながら最後に問題になるのは、このような消費税本質論を採用するなら、「全国商工新聞」宛の拙文での煩雑な議論にどこまで生き残る内容があるのか、ということです。
社会を変える人々
かねてより日本航空労働者の解雇撤回闘争に注目しています。関連記事について「しんぶん赤旗」編集局宛に以下の感想を送りました。
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「しんぶん赤旗」1月8日付に、日本航空の解雇撤回裁判の記事がありました。そこにパイロット原告団で闘っている斎藤晃氏の東京高裁での意見陳述が載っており、感動した私は、翌日のある地域労連の旗開きで是非紹介しようかと思ったのですが、時間の関係で発言はなくなりました(というか、皆さんの具体的な活動報告を聞いて、あまり抽象的な話をしてもどうかな、という気分もありましたが)。以下は幻の発言原稿です。まあ「発言原稿」とは言っても後から思い直して書いていますから、書き物になっていますが…。ご笑覧くだされば幸いです。
2014年1月10日
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日本社会で一番強固な思想は何かと考えてみると、学校で習ったどんな美しい進歩的な思想よりあるいはどんな反動的な思想よりも、「仕方がない」と言って何もしないで耐え忍ぶ思想がそれではないかと思います。「余計なこと」をして苦しみを増さないようにという思考パターンです。私はこれを「仕方ない主義」「シカタナイズム」あるいは「しょうがないシンドローム」と呼んでいます(この思想はビョーキでもあります)。しかし実際問題自分も日常的にはこれに首までつかっているという気がします。そうでも思わないとやってられないという人がきっと多いのではないかと…。とはいえ頭だけはそこから出して空を見て「それではいかん」と思ってはいるわけです。
「しょうがないシンドローム」の特効薬の一つが「しんぶん赤旗」です。昨日の「赤旗」に日本航空の解雇撤回裁判の記事が載っていました。元自衛官の斎藤晃原告の意見陳述によれば、この裁判の原告に24人の自衛隊出身者がいるというから驚きです。自衛隊は人件費対策で年長のパイロットを民間に移し、航空会社も教育費の節約にその政策を利用したのです。あげくのはてに解雇です。斎藤さんは自身の厳しい家族状況を語り、会社と国の仕打ちを告発し、裁判での会社側の主張と地裁判決を厳しく批判し、さらには労働組合についてこう述べています。
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私たち自衛隊出身者の多くの者は、組合員ではありましたが、労働組合活動などは無縁の世界と思っておりました。解雇されて初めて労働組合の「存在と役割」を真剣に考えることになりました。多くの労働組合や市民団体の支援を受け、全国をまわって訴えてきました。国鉄民営化で解雇された方たちはわが身のことのように支援してくださっています。
私たちが、日本全国で、目の当たりにしたのは、人を物のように扱っている日本社会の実態です。私たちが命がけで守ってきた日本という国がこういう社会であったのかと思うと忸怩(じくじ)たる思いです。
私は日本の社会を支えている労働者が尊重される社会でなければならないと思っています。そして、裁判所に対しては、憲法を掲げて私たちを守る防波堤であってほしいと思っています。
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自衛隊では厳しい反共教育が行なわれ、労働運動を敵視することを叩き込んでいるに違いありません。しかし斎藤さんは不合理・非情な社会と人間的な労働組合運動との双方の実体験によって進歩的な社会観に達しています。まさに運動は人の思想を変え、それまで見えなかったものをはっきりと見せるものだということが分かります(見える範囲は問題意識によって大きく異なるのです)。
この社会には「自己責任論」とか「生活保護バッシング」とか誤った思想が満ち満ちており、社会進歩の障害となっています。それらを克服するには一人ひとりの勉強が必要となります。そして何より有効なのが要求実現と社会変革の運動への参加です。働き生きるためにいや応もなく参加せざるを得ない運動もあれば、何らかの思いに基づき主体的に参加することを選び取る運動もあるでしょうが、いずれにせよ運動は様々な形で学びを要求します。労働組合や市民団体に多くの人々を迎え入れることには、その意味でも絶大な意義があるのです。
「私たちが命がけで守ってきた日本という国がこういう社会であったのか」という斎藤さんの言葉には、自衛隊出身者としての誇りと裏切られた思いの双方がうかがえます。誰もが自分の仕事に対してそれぞれの思いを持ち、この社会を支え合って生きています。真面目に懸命に生きていると思います。その労働を尊重する思いは、すべての人々を尊重する立場に直結するはずです。一人ひとりは様々な立場や考え方があり、その多くは必ずしも進歩的な思想ではないかもしれません。しかしそれは大きく変わるかもしれないし、たとえ変わらなくてもその人自身を尊重し信頼する気持ちをなくすべきではありません。
誰一人として、一人だけで生きていくことはできず、この社会の支え合いの中で生きています。それがすべての人々に共通する客観的状況です。そこが分かってさえいれば、立場や考え方が違うと言って性急に判断することなく、きっといつかいっしょにやっていける、という大きな気持ちを抱くことができるでしょう。
「戦後第二の反動攻勢期」とも言われた1970年代後半、私が学生時代に聞いた講演で哲学者の島田豊氏はこう言いました。「『島田は甘い』とどんなに批判されようとも、毎年末に第九を聞き、寅さんの映画を見る日本国民を私は信じる」。
そうはいっても実際には私たちの思いが人々に通じることは容易でないかもしれない(思えば、ずうっとそういう「時代」が続いてきた)けれど、狭く捉えずに、根底的には誰をも信頼することが大切でしょう。表面的にはオール保守的状況でも、深部では、人々の利益と願いに背く暴走政権の下で「激突の時代」を迎えようとしている今、人々の思いも大きく動くに違いありません。反原発や秘密保護法反対の運動が盛り上がっているのを見ていると「仕方ない主義」はだんだんと克服されつつあり、下手をすると自分がそこに取り残されてしまうかもしれないとも感じます。人々への大きな意味での信頼を失わないようにして、それぞれの運動と組織を発展させるべく奮闘したいと思います。
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上記「赤旗」記事から補足すると、年齢基準(副操縦士48歳以上、機長55歳以上)によって解雇されています(それが通ること自体、問題でしょうが…)。自衛隊出身者の解雇が多いのは、30代後半に民間に来たため機長昇格年齢が高くなったためです。また勤続年数が少なく退職金が少なくなっています。まさに国策と民間企業、双方の犠牲となったのです。
「赤旗」1月24日付には、客室乗務員原告の林對さんの東京高裁での意見陳述が載っています。そこでは会社と第二組合とが一体になった人権蹂躙の「客室乗務員監視ファイル」事件を初めとして、日本航空の異常な分裂的労務政策が生々しく告発されています。
「赤旗」日曜版1月12日付では真ん中の2面の見開きでこの闘争が特集されており、そこで国際的支援に言及され、次の三つの労組が紹介されています。
◎IFALPA(国際定期航空操縦士協会連合会) 世界100カ国、約10万人のパイロットが加盟
◎OCCC(JALが加盟するワンワールドグループのパイロット組合) ◎ECA(欧州の組合)
ILO(国際労働機関)は2012年6月、「解雇は労働組合員に対する差別でILO条約違反」と日本政府へ勧告しました(同前記事)。日航労働者の闘争は、労働条件と空の安全を守る大義を掲げ、世界の労働者と連帯しILOを動かすに至り、まさに労働分野で新自由主義グローバリゼーションへの対抗の最前線に立っています。
上記の感想文では、人々への見方として、立場の違いに関わらず客観的には社会的に支え合って生きていることから来る相互尊重の念と連帯の可能性を強調しました。これは社会的分業と労働による経済社会の形成という歴史貫通的事実の不動の重さに立脚する議論です。しかし現象的には、商品生産社会や搾取経済体制としての資本主義社会では、社会が労働の結合によってできていると見えないで、お金による結合に見えたり、分断された競争こそが普遍的であると意識されたり、企業内の支配従属関係が宿命的に捉えられたりします。こうした物象化と疎外の克服は理論と運動双方の課題です。
日本政治を見つめる姿勢
『世界』2月号所収の政治関係の以下の諸論文に目を通してみました。
○間宮陽介「国家自由主義への道」
○楠下左京「安倍流官邸主導にくすぶる火種と『平成デモクラシー』の行方 試行錯誤が続く多数決型政党政治」
○中北浩爾「『決められすぎる政治』から『合意できる政治』へ 行き詰まる『二大政党制』の次なる段階を展望する」
○片山善博の「日本を診る」連載52特別篇 民主主義の空洞化―国会を他山の石とし地方自治を診る
○谷口真由美「『善良な市民』の三無運動 『興味がない』『関係ない』『わからない』をどう超えるか」
○中野晃一「小選挙区制―『選挙独裁制』が破壊する民主主義 少数派を多数派に変換するマジック装置」
○ジェリー・ストーカー「反政治とは何か―無力と幻滅を超えて」
○山口二郎「政治学は政治を守れるか?―期待と幻滅のバランスをどう取るか」
○杉田敦「周辺化・脱領域化される政治―政治学の何が問題か」
ざっと見た印象くらいしか言えないのですが、玉石混交であり、私としては、政治における形式と内容あるいは一般性と特殊性、抽象と具体といったものに注目しました。
谷口真由美氏は「民からの愛国心(下から目線の愛国心)」(112ページ)の立場から「為政者からの愛国心(上から目線の愛国心)」(113ページ)を批判しています。ところで谷口氏自身は秘密保護法への怒りがストレスになってぎっくり腰に苦しむほどの「愛国者」なのですが、周りの人々は秘密保護法を知らないか関心がないような状況であり、憲法論議する人々もほとんど憲法を読んでいない、等々の無関心ないし無知状態、あるいは庶民が上から目線や勝者の立場に立った気になっているようなとんだ勘違いをしていることなどをこれでもかとあげつらい嘆いています。確かに私たちは政治問題そのものをあれこれ議論したり、どうあるべきかを語ったりするのですが、足元の世論のこういう実態を直視していないところがあります。
そういえば小田嶋隆氏は安倍首相の靖国参拝を批判しながらも「多くの人はおそらく、首相の靖国参拝自体、何それ、という感じかもしれません。それより、中国や韓国にいろいろ言われるのは不愉快だという気分の方が大きい」(「朝日」2013年12月29日付)と書いています。どうしても運動をしているとこういうリアリズムが欠如するという偏向が生じやすくなります。これを読んだとき、ああ確かにそういう空気なんだろうな、と思い、その中で運動をつくっていかなければならない、と状況をつかみ直しました。谷口氏と小田嶋氏の指摘にただ納得しているだけではもちろんダメでその先を行かなければならないのですが、残念ながらそれ以前の気付きをこういう議論からやっと得るという段階ではあります。
間宮陽介氏は秘密保護法を念頭に「法律の運用が政治家個人の善意に依拠するとすれば、それはもはや法ではない。重要なのは法律のもつ外形や形式であって、悪意の政治家が現れたとしても、法律がその悪意に耐えられるかどうかということである」(82ページ)と指摘しています。もっともですが、これはいわば最後方防衛線であって、もっと前線で防衛し、できれば攻め込んでいくためには、法的形式から政治的内容に踏み込んでいくことが必要です。ところが政治論の次元においても形式論にとどまって内実に切り込めない議論を多く見受けます。
1994年、細川「非自民党」連立政権において、小選挙区制導入にすり替えられた「政治改革」が実現しました。民意を歪曲する選挙制度によって、以後の政治の劣化は目を覆うばかりとなりました。中北浩爾氏と中野晃一氏は小選挙区制批判を展開しています。中北氏の場合は選挙制度を主に形式的に検討しています(その次元での批判も重要です)が、中野氏は選挙制度の形式的検討からさらに政治内容にまで踏み込んで、小選挙区制導入と新自由主義構造改革との不可分の関係を明らかにしています。小選挙区制は少数派による「選挙独裁制」を可能にし、民意無視・人民圧迫の新自由主義構造改革を推進するものです。
ジェリー・ストーカー氏は反政治と政治的幻滅の要因を網羅しており、「無力と幻滅を超え」るための材料を提供しています。これを受けて山口二郎氏と杉田敦氏が政治学の社会的責任を果たすべく論陣を張っていますが、成功しているかは疑問です。
杉田氏によれば、権力とか主権という概念は元々一般に信じられているほど確たるものではなかったのだが、グローバリゼーションによる主権国家の相対化によってますます不確定になり、経済の領域の拡大に伴って政治そのものが周辺化・脱領域化されています。杉田氏の政治学の展望は以下のようです。
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政治の周辺化・脱領域化という現実を受け入れた上で、それをふまえて新たな学問的展開を模索する以外にはないであろう。しかも、政治学にはそれを試行するに足る資源はなお残されているというのが筆者の評価である。
それは、多様なものの間の対立・抗争を扱い、本来であれば決着しないものを何とか決着させることについて、政治学は考え続けてきたからである。政治を狭くとらえるのでなく、たとえば、政治と経済との対立関係といったものをメタ・ポリティクスとして定義し直し、それについて議論を展開していくべきである。その際に、一つの鍵となるのが権力観である。主権的な権力観やその派生物である自由主義的な権力観を相対化し、強制/自由といった二元論的な理解を離れて、人間行動の多様性を反映するものとしての権力観を確立できるかどうかが鍵となる。 168ページ
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まことに学問的な結論のように見えますが、これが社会的責任に応えた政治学の展望だとは思えません。杉田氏は新自由主義グローバリゼーションをあたかも自然現象のように捉えて、人民のこうむる災難を宿命のように当然視し、そこでの主権国家の無力を描いています(154ページ)。そこには世界規模に搾取を強化し主権国家を利用するグローバル資本とそれに抗う人民の姿がありません。そのような世界の政治と経済の最も重要な現実を捨象した次元で、「人間行動の多様性を反映するものとしての権力観」を鍵にした政治学にどのような意義があるのでしょうか。内容の欠如した抽象的形式論ではないでしょうか。
山口二郎氏は、安倍政権の暴走に対して「政治学がアカデミズムの殻に閉じこもっていては、それこそ社会的存在意義が疑われる」(150ページ)と訴える行動する政治学者であり、2009年の民主党への政権交代でも積極的役割を果たしました。それだけに政権交代の失敗について反省し批判を甘受していますが、問題は反省の内容です。
「民主党政権自身についても振り返ってみれば、この政権の失敗は政治の複雑性からの復讐の結果ということもできる」(155ページ)と総括しています。そしていわば政治技術的な問題点をあれこれ弁明しています。これはまったく無内容ではないか。民主党政権の瓦解の象徴は、当時の鳩山首相が「沖縄の米軍普天間基地は国外か最低でも県外に移転させ、辺野古への移転は認めない」という選挙公約を破ったことにあります。以後、民主党政権は消費税増税・TPP参加表明など自民・公明両党と組んで有権者への裏切りを続け見放されました。大企業・財界と米国に抗してでも選挙公約と人々の利益とを守るという確固とした姿勢がなかった点にこの政権の最大の問題点があります。民主党は元々、支配層の一員でありながらも政権奪取のためにそこからいくらかはみ出した選挙公約を掲げ勝利したけれども、結局支配層の圧力に屈して支持してくれた人々の期待を裏切ったのです。なお政治技術の問題は政治変革の具体的過程においては問題となりますが、民主党政権の瓦解はそれ以前の問題であり(この政権はそもそも変革の構想も意志も持たなかった、あるいは初めはわずかにあったかもしれないが脆弱なそれは一押しですぐ崩れた)、ここで持ち出すのは筋違いです。
これは物事を難しく考えずに普通に考えれば分かりそうなものだけれども、政治学者はそうではないらしい。おそらく支配層と被支配層などという単純化は誤っており、政治はもっと複雑だ、と考えているのでしょう。この「複雑」が重要なようです。
山口氏が肯定的に引いているバーナード・クリックの政治の定義は「暴力や強制よりも調停を、共同の生存利益に最適な妥協水準を多様な諸利益に発見させるのに有効な方法として選ぶ秩序問題の解決方法」あるいは「不当な暴力を用いずに、分化した社会を支配する方法」です。また彼の政治概念の要点として「人間の多様性と自由を前提とする限り、政治による支配には複雑さが付きまとう。単純な権力追求や利益追求には還元できないのが政治だという点」を挙げています(153ページ)。
これは真っ白なカンバスに「よく考えた」規範を描いて見せたものであり、そこには経済的土台に規定された現実政治の姿はなく、町内会でも世界政治でも適用可能であり、したがってそのままではどこに適用しても無内容で無力にならざるを得ない抽象物ではないでしょうか。
確かに理論とは抽象であり、それ故普遍性があり、様々な抽象度の理論の重層的体系としてグランドセオリーはあると思います。クリックの定義もその意味では政治の本質をある抽象度において反映したものであり、それが対象とする問題はおそらく存在するのでしょう。しかし山口氏の不毛さはこの抽象的な複雑好みをそのまま民主党政権の失敗に当てはめることで、より重要で基本的な事実から目をそらしたことでしょう。
多くの政治学者は<左右の「ポピュリスト」とその影響下にある民衆とは違って、政治の「複雑さ」を「自覚」し、それ故多くの学問的悩みを抱えている>と自己陶酔することで、かえって政治の太い幹を見逃しているのではないでしょうか。学問を研究すればするほど観念に自閉して些末主義に陥り、より重要な事実が見えなくなる―そうなってはいないでしょうか。
できれば、以上が知識のない素人の単なる蛮勇発言ではなく、一言でもいいから当たっていることを願いますが…。妄言多罪。
断想メモ
東日本大震災の被災地に残り、再生に向けて生きている人の言葉を紹介します。
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相談者、依頼者の抱く怒り、憎しみ、悔しさを知力で護り、時に知力を持って攻撃するのが弁護士の役割である。相談者の理屈では説明できない気持ちを感じ、すくい取る。そのための感性を磨いてほしい。
「名古屋第一法律事務所ニュース」2014.1 の巻頭言より
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これは弁護士に向けられた言葉ではあるけれども、感性と知性を懸命に発揮して、人間と社会の真実に迫り変えようとしている人々すべてに贈られていると受け止めたく思います。
また私の知る尊敬すべき運動家は違った角度から感性と知恵を語っています。
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絵画サークルや平和美術展、合唱団など文化活動にも熱心です。「壁にぶつかったときに必要なのは想像力。いろんな分野に手を広げることで心に『ひだ』ができ、展望が見えてきます」
「先人たちが築いた運動の知恵と力を結集すれば、かなりのことが解決できるはず」
名古屋市北区の「くらし支える相談センター」所長 松岡洋文さん(76)
「しんぶん赤旗」2013年8月28日付
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2月8日からの舞台「国民の映画」(作・演出=三谷幸喜)は、「ナチスの高官たちとドイツ映画人たちとの間で繰り広げられる一夜の物語」です。ゲーリングを演じる渡辺徹氏の話が実に深いので紹介します(「しんぶん赤旗」1月27日付)。
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「今回のように、テーマが大きくなればなるほど、こうあるべきだ≠ニいう思いを役者が背負って演じてしまいがちになる。でも、そうではなく、人間の生きた感情、一つひとつの営みをつむぐように演じられたら、この作品の社会的な意味が出せるかなという気がしています」
ユダヤ人大虐殺などのナチスの狂気を背景に、人間の滑稽さ、弱さ、欲などをあぶりだし、一人ひとりの生き方、芸術のあり方をも問いかける内容です。
「日本の起こした戦争も含め、当時の多くの人は間違いだとは思わず突き進んで悲劇になってしまった。大きな流れに流されるのでなく、立ち止まって考えたり、疑問を持つことが大事。そのヒントを演劇は与える力を持っていると思うんです。今回、そんな舞台になればいいなと」
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生硬な理論で直に社会を捉えようとするとうまくいきません。浮いた解釈のようになってしまいます。地に足つけて「人間の生きた感情、一つひとつの営みをつむぐように」社会を捉えることが大切です。谷口真由美氏や小田嶋隆氏が上記のように伝えてくれた人々の政治意識を「感情」や「営み」の次元から捉え返すことが必要なのでしょう。重い責任感の中にも、余裕を持った脱力感があって日常生活で自然に人と接することができる。そのような交流が拡大することによって、危険な自民党反動政権の下で「多くの人々」が「間違いだとは思わず突き進んで悲劇になってしまった」という事態を防ぐことができます。
内田義彦氏は「人間の全体把握において文学のみの養いうる想像力」(『作品としての社会科学』岩波書店、1981年、150ページ)を指摘し、「科学的研究方法による正確さが、文学的に確かな手ごたえを導きの糸にし、より的確な把握に向って動員されねばならぬ」(同前、183ページ)と主張しています。感性と知性、「人間の全体把握」を経過した社会認識と変革的実践への道は遠大だけれども、少なくとも外すことなく見据えられるようにしたいものです。
2014年1月31日
2014年3月号
新自由主義的資本蓄積に迫る企業分析
藤田宏氏の「日本企業の株主構成の変化と財界の蓄積戦略の新段階」は、企業の株主構成と収益構造を分析することを通して、新自由主義的資本蓄積(搾取強化とカジノ化)の根源に迫る力作です。
論文はまず2000年代における日本経団連の会長・副会長企業の株主構成の顕著な変化を指摘しています。一つは外資の進出であり、もう一つは2000年に設立された、日本マスタートラスト信託銀行(三菱UFJフィナンシャル・グループ系)と日本トラスティ・サービス信託銀行(三井住友ホールディングス、りそな銀行)という2大信託銀行(資産管理特化型信託銀行)が大株主になっていることです。これについて藤田氏は「日本の大銀行が2大信託銀行を設立し、財テク重視の戦略をとるようになり、財テクによって高収益を得ようとする外国資本とともに、2大信託銀行を媒介として、企業経営を株主重視で高配当を保障するように影響力を行使する体制がつくられてきたことを指摘し」ています(154ページ)。
この裏には日本の大企業の経営戦略の変遷があります。まずバブル崩壊後の「新型経営戦略」では、売り上げが伸びなくても利益が上がる効率経営=i149ページ)のため、総額人件費を削減して国際競争力を高め販路拡張を狙ってきました。「国内需要が低迷しても、海外で売り上げを伸ばすことで、高収益を確保したので」す(150ページ)。
ところがリーマンショック後に転機が訪れ、国内からの輸出よりも、海外に生産拠点を設けて低コストで製品を世界的に販売するという「海外生産拠点からの国際展開戦略」を取るに至りました。では国内での収益はどうするか、というと本業重視から投機的財テク重視の経営へ変わります。2000年代の大企業経営では、営業利益の低迷にもかかわらず、経常利益は増加しており、これは営業外収益が増えたためです。営業外収益の主な源泉は、海外現地法人からの配当金などの収入と財務活動による収益です。営業外費用の削減も重要です。低金利の長期化によって利払いコストが減り、膨大な内部留保のおかげで投資資金を自力で調達できます。さらに余った内部留保は有価証券などに運用されます。人件費削減や設備投資の低迷とは裏腹に「内部留保のほとんどが株式や公社債、その他の有価証券などに回された」(155ページ)のです。
このように本業を軽視して投機的財テク重視の経営に変質すると、投機資金としての内部留保の積み増しは至上命題になります。そのための人件費抑制=搾取強化が図られ、政府もまたますます狂暴になる労働規制緩和で後押しします。それのみならず年金資金を投機市場へ投入して、年金資産をリスクにさらしてまで大企業の財テクを助けようとしています。
ここにきて2大信託銀行の役割の重要さが際立ちます。それは、大企業が運用する資産を管理し、財務活動のアウトソーシングを請け負って営業外費用の削減に貢献します。またそれは「株主利益の最大化を目指す」経営を行なうように影響力を発揮しようとする政府の指示に沿って年金資産の運用にかかわります(159ページ)。「2大信託銀行は『株主利益の最大化を目指す』外国資本と日本の財界・大企業、そして政府の三位一体の要をなす地位を占めるようになってい」ます(同前)。
このように人件費削減=搾取強化と投機化とは表裏一体となって進みます。これについて私は以下の2条の系列から成る新自由主義的資本蓄積として図式化してきました。
(1)搾取強化→内需縮小→売上・利潤減少→搾取強化
(2)搾取強化→内需減少→投資抑制→貨幣資本過剰→投機資金化
ここで(1)はサイクルをなしており、(2)はいわばその回転からの跳ね出しとして投機化に至る様子を表現しています。藤田論文では、財テク重視に陥った企業経営においては、投機資金を捻出するために内部留保の積み増しが必要であり、そのためにますます搾取強化される、と因果関係が説明されます。そうすると(2)の最後の「投機資金化」に続けて、「→内部留保積み増しの必要性→搾取強化」がつながり、(2)も円環を閉じることになります。私としては、内部留保の増大は、生産資本との関係で資本の過剰蓄積の結果としての死蔵と捉える傾向が強かったのですが、むしろ投機資金の源泉を確保するために増やすべき目標として「積極的に」捉えると、現代資本主義の寄生性・腐朽性がよりはっきりします。
藤田氏は以下のように日本経済の「二つの悪魔のサイクル」を提示しています(161ページ)。
(1)海外への生産拠点の移転→リストラ→低賃金・雇用の悪化→内需の縮小
→国内生産の減少→海外への生産拠点の移転
(2)内部留保の活用による営業外収益への依存拡大→本業軽視・営業利益の減少
→営業利益確保のための人件費削減→非正規労働者の増大・低賃金・雇用悪化
→国内需要の縮小→内部留保の活用による営業外収益への依存拡大
これはより詳しく新自由主義的資本蓄積を図式化したものだと言えます。(1)は国際経済の視点を入れて、搾取と内需の関連を展開しています。(2)を見ると、「内部留保の活用による営業外収益への依存拡大」は投機化を示していますから、これは搾取強化と内需と投機化との関連を企業経営の視点を交えて展開していると言えます。私は新自由主義の本質を「実体経済における搾取強化と金融における投機化」と捉えています。新自由主義的資本蓄積は両者が一体となって展開する悪魔のサイクルです。藤田論文は企業経営の分析という深みから、新自由主義的資本蓄積が必然となる今日の資本の衝動性を明らかにしています。新自由主義論の質的充実に資するところ大です。
道草<賃金概念の危機> 以上は私の勝手な感想ですが、藤田氏は労働総研事務局次長であり、論文の目的は、主要大企業の株主構成の「変化が労働者にとってどのような意味を持つものなのかを明らかにする」(139ページ)ことであり、「解雇自由、長時間労働の強要、残業代ゼロ、派遣労働拡大など、安倍内閣が進める『異次元』の『雇用改革』の根底に財界の新たな蓄積戦略があることを浮き彫りにする」(同前)ことでした。今や春闘たけなわであり、ベースアップを焦点とした賃上げ闘争が取り組まれています。この階級闘争において賃金の本質を理解することの大切さが忘れられてはいないか。経済理論に関心ある者にとっては気がかりです。牧野富夫氏が賃金概念の危機≠指摘しつつ指南していることに共感しましたので紹介します(「『概念操作』による新手の雇用破壊 雇用・労働時間・賃金のゆくえ」、『前衛』3月号所収)。
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ここでいう「賃金概念」の破壊攻撃とは、賃金を生活から切り離して考えるように仕向けるイデオロギー攻撃にほかならない。賃金という客観的な事物の本質は「労働力の価値」つまり「労働力の再生産費」=「社会的・平均的に必要な生活費」である。日常の言葉でいえば、賃金の本質とは生活費≠ネのだ。にもかかわらず、賃金を生活と結びつけて考える「考え方」が、あの手この手で片隅に追いやられている。
67ページ
「トリクルダウン」論の真っ先に批判されるべき点は、賃金を「分け前」(分配)とみなす、その「考え方」である。 同前
大企業の内部留保を賃上げにまわせという要求の根拠は、決して大企業が儲かっているからよこせではなく、これまでずっと労働力の価値以下の賃金しか払わず積み上げてきた超過搾取分を、それをつくった労働者に返せ、借金を返せ、ということだ。
このように賃金を考える筋≠ェ、言い換えれば原理・原則論が、労働者のあいだですらあまり聞かれなくなった状況を、小論は賃金概念の危機≠ニ表現している。賃金闘争に入る前の「頭のたたかい」=イデオロギー闘争で負ければ、その段階で「勝負あり」だろう。労働力の価値分だけでなく、剰余価値(利潤)をつくったのも労働者である。いっさいの価値・富の生産者は労働者である、ということの確認から賃金闘争は始まる。
68ページ
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日本経済転換に関する若干の論点
村上研一氏の「外需依存的成長の限界と転換の課題」は戦後日本資本主義の構造変動を踏まえてその現状と性格を考察し、人々の生活を重視した経済への転換の条件を明らかにした力作です。ただここではそうした大きな主題からは外れることになりますが、生産的労働論や部門構成に関連した問題を考えてみたいと思います。
論文の表1「産業構造と部門構成の動向(1955〜2005年)」では部門間比率と投資財比率が掲載されています(102-103ページ)。
部門間比率(T部門/U部門)=(R+F)/(A+ZR+ZF+SR+SF)
投資材比率(消費手段に対する生産手段と不生産的部門用資本財の比率)
=(R+F+ZR+ZF+SR+SF)/A
記号 生産手段生産部門(T部門) 消費手段生産部門(U部門)
原材料(R) 労働手段(F)…これらはT部門生産物に相当する
消費手段(A)…U部門生産物に相当する
流通部門によって購入される流通部門用資材(ZR) 同設備(ZF)
サービス部門によって購入されるサービス部門用資材(SR) 同設備(SF)
流通部門とサービス部門は不生産的部門と見なされる(生産的労働については諸説ありますがここでは村上氏に従います)ので、不生産的部門用資本財(ZR+ZF+SR+SF)はU部門に属し、上記のような部門間比率の定義になります。これに対してともかく資本財は総合計して消費財との比率を見るのが投資財比率だと思われます。
なお村上氏と同様にサービス労働は価値を生産しないとする川上則道氏はサービス部門を含む再生産表式を作成しています(「サービス生産をどう理解するか(下)」、『経済』2003年2月号所収)。その際に「サービス部門を価値が再分配されるとして捉えた単純再生産表式」の他に「サービス部門が生産部門としての形態をとった場合の単純再生産表式の変形」も作成しています。村上論文での部門間比率は前者に対応し、投資財比率は後者に対応するものだと思われます。
ところで、U部門で生産された消費手段の内、相当の部分がサービス部門を支える(=サービス部門に分配される)ので、U部門への需要をサービス部門が拡大し、U部門の発展を促し、T部門の優先的発展の法則とは反対に作用することを川上氏は指摘しています(169ページ)。村上論文の「表1」でも、高度成長期の1965年から70年を除き、部門間比率は明確に低下傾向にあり、資本財比率も全体として緩やかに低下傾向を示しています。
このことは「人々の生活の真の豊かさにつながる経済への転換の条件」(村上論文、100ページ)を考える際の一つの要素ではないでしょうか。もちろん論文の結論にあるように「再三先送りされてきた輸出依存・外需依存的な成長のあり方からの転換」(119ページ)を果たし、人々の生活と労働そして地域経済を破壊し内需を縮小してきた新自由主義構造改革を克服し「労働条件の改善や社会福祉の充実、再生可能エネルギーの普及など、人々の生活を改善していく」(同前)ことが必要です。いわばそうした階級的見方や当面する経済政策の方向は前提しつつ、「人々の生活の安寧を実現する本来の経済活動のあり方を模索する」(同前)には、T部門の優先的発展という段階を超えた成熟社会を考えることも必要であろうと思います。むしろ雇用を保障し、環境を保全するという今日の課題を踏まえるなら「労働力をたくさん使い、資源を大切にする社会へ向かう必要があるでしょう」(田中洋子氏と広井良典氏の対談「拡大成長の呪縛をどう断ち切るか」、80ページ、『世界』3月号所収)し、「こうした分野こそ生産的ととらえ直すことが必要でしょう」(同前、81ページ)。
一方に効率一辺倒の見方が経済社会において支配的であり、当然のことながらそれは他方に反感を生み、機械的反発としての反進歩的見解ないし気分が発生します。ここでは経済学を学ぶ者にとって、生産力主義と経済学的ロマン主義との両面的克服という課題が生じます。こうした状況は、社会を支配するグローバル資本による利潤追求と生産力発展が人々の生活向上と矛盾している現局面から生じていますから、歴史貫通的視点から経済を考えることが一つの基準となります。
本来、生産力発展は労働時間を短縮し、自由時間を拡大し、個々人の人間的発達を促し、それによって社会全体の発展をもたらすものであり、資本主義はその潜在的可能性を高めます。しかしそれが現実化するためにはすべての直接的生産者が短時間労働で十分に生活できなければなりません。それを阻害しているのが、資本間競争に基づく搾取強化が生む格差と貧困であり、(貧困な所得に比べてという相対的意味ではなく)絶対的意味での使用価値量の過剰にもかまわず利潤を追求し(環境を破壊し)、そのために労働時間を延長し、限りなく労働を強化する姿勢です。これを根本的に解決するには資本主義を止揚するしかないのですが、残念ながら人類は資本主義に代わって安定的な社会発展をもたらす社会主義経済体制を見出すには至っていません。当面は資本の破壊的作用を民主的に規制する方策を試行錯誤しつつ、来るべき社会主義を展望する位置にあるでしょう。
今日の資本主義の枠内では、生産力発展による自由時間の拡大を直接要求するような段階ではありませんが、生存のために質の高い雇用を要求することは当然です。その際に「雇用の確保には、国際競争に耐えうる産業の創出が必要」などという従来型の言説(それを全面的に否定はしないが)に乗せて新自由主義構造改革(搾取強化、ならびに生存権を無視した産業のスクラップ&ビルド)を引っ張るのはもう許さず、医療や福祉とか小規模な地場産業あるいは農林漁業など労働集約的産業分野で十分に生活できる条件を作り出す経済(産業)政策が必要です。これは「生産力発展・労働・自由」の本来像からは遠いのですが、その高みをつかむことによって、眼前の新自由主義的グローバリゼーションの世界が唯一の必然だという錯覚から逃れて、人間的要求に基づく経済社会を目指すことができます。少なくとも当面は、ディーセントな労働に基づく雇用とそれを可能にする産業政策を追求すべきでしょう。
経済成長の鈍化と巨大企業による内部留保の死蔵という停滞現象は、「生産力発展にともなう資本の有機的構成の高度化とそれによるT部門の優先的等発展」という段階を超え、「再労働集約化による成熟社会への移行」を象徴していると言ったら暴論でしょうか。生産力発展が生産手段の個別価値を低下させ、その低下を相殺するほどに生産量が増えないならば、T部門の投下労働量が減り、そうなるとその労働の一部をU部門や不生産的部門に回すことが可能になります(この場合、有機的構成が高度化せず、T部門の優先的発展もないだろう)。そこで不生産的部門用の資材・設備の生産が増えるならば村上氏の「投資材比率」は上がりますが、部門間比率は下がります。「大量生産・大量消費・大量廃棄」(それは経済成長と企業の活発な投資を象徴し、今日の停滞と対照的)が批判される今日の段階は、そうした状況に至ろうとしているように思えます。
耐久消費財の普及などに現われた社会の成熟化は(格差と貧困を考慮するならそれを安易には言いにくく、いまだ潜在的可能性にとどまっている部分が多いけれども、ともかく)、これまでの生産力発展の成果であるとともに、それを否定するものでもあります。「大量生産・大量消費・大量廃棄」型の生産力像の行き詰まりは、さしあたっては経済の長期停滞と搾取強化を招いていますが、その解決には再労働集約化による成熟社会への移行が少なくとも一つの要素として必要なように思われます。その象徴が原発から自然エネルギーへ=エネルギーの巨大設備・地域独占集中型から小規模設備・地産地消型へ、というエネルギー政策の転換です。生活意識としても、安価で機械的・画一的な大量生産品を使い捨てるような消費スタイルよりも、適正価格で文化的伝統的香りのある多品種少量生産品を大事に使う姿勢の方が尊重されるという傾向も出てきています。それを可能にするのは一方では人々の所得の増大であり、他方では地場産業の中小企業を中心とする地域経済の再生です。これからの豊かな生活を支える産業の中心は手工業的であったり対人サービスであったりします。労働集約的から資本集約的への移行が社会発展である、という通念は逆転されるべきでしょう。その移行がもたらした社会発展の現状は、その延長ではなく、むしろ人間生活の観点からは逆転を求められていると思えます。生産力発展の果実としての労働時間短縮は確かに大きくは自由時間の増大に最大の意義があります。しかしそれだけでなく、当面の課題としては、従来ともすれば非効率・非生産的と見られていた小経営の労働や対人サービス労働を生活の質を高める「成熟労働」として捉えて拡大する余地を与える、という意義も見出せます。ただし資本の利潤追求のままに任せていては、そうした労働の社会的配分の変更は不可能であり、民主的経済政策による規制と誘導が必要です。
生産力主義と経済学的ロマン主義との両面的克服とは、生産力発展が人々の生活と労働を犠牲にして行なわれている現状を変えて、生産力発展を生かしつつ生活と労働の充実を図ることであり、今後の課題は成熟社会における成熟生活と成熟労働を創出していくことであろうかと思います。そのためにはグローバル資本による「上から視角」ではなく、諸個人による「下から視角」によって地域経済と国民経済を組み立てていくことが必要です。様々な部分的観点を尊重しつつも、諸産業の連関、大企業と中小企業の関係、資本と労働の関係、政府の役割といった総体を見渡せなくてはなりません。循環的・構造的変動を捉える目も必要です。
どうもあまりに漠然としたことを書くのは、何も書かないのと大差ないという気がしてきました。以上では、生産力発展による本来的社会像といった抽象的観点の部分が多くなりましたが、もちろん日本経済の現状を見る基本的視点は、支配層の進める新自由主義構造改革に対して、人々の生活と労働を擁護発展させる立場を対置する階級的視点でなければなりません。その上で、歴史貫通的視点によって経済社会像の変化を捉えていくことも交えることが有効かと思います。そういったことなどを支えるマルクス経済学の基本的理論について、経済社会の動向を見極めつつ検討を加えながら、現状分析との関連を考え続けていきたいと思います。
安倍政権のマッチポンプ
昨年末に秘密保護法を強行採決し、靖国神社に参拝した安倍政権の暴走が今年も止まりません。消費税、TPP、原発、NHK、沖縄米軍基地、集団的自衛権、教育、等々どれをとっても反人民的政策のオンパレードで反動性も極まっています。だから本来ならば政権基盤も見かけによらず脆弱であり、何かのきっかけで崩壊してもおかしくはない状況です。しかし「見かけ」上は、近年の政権では例外的に、1年以上経過しても50%前後の高支持率を維持し、首相もこの際何でも思い通りにやってやろうという姿勢です。必ずしも個々の政策が支持されているわけでもないのに、たとえば漠然と経済政策への支持を尋ねると支持率が高く、内閣支持率も高くなっています。マスコミを支配してイメージアップに成功しているということは大きいでしょうが、それ以外にもいろいろな問題があります。
安倍首相の愛する「美しい日本」を破壊するのに近年最も貢献しているのは、歴代自民党政権が追求してきた新自由主義構造改革です。それは絆という言葉に象徴される共同体的関係をことごとく破壊し、弱肉強食の競争という現象の下に本質的にはあらゆる搾取強化によって、格差と貧困の谷間に人々を容赦なく突き落としてきました。だからたとえば亀井静香氏のような首尾一貫した保守反動派は新自由主義を毛嫌いしています。ところがグローバル資本が支配する日本財界の主流は新自由主義派であり、保守反動派がそのまま政権を担うことは不可能です。おそらく安倍首相のイデオロギー的出自や心性は保守反動派でしょうが、権力者としては新自由主義に乗ることで地位を維持し、その枠内で矛盾を調整しながら保守反動路線を合わせて追求しているのだと思われます。安倍政権はイデオロギー的には新自由主義と保守反動の野合政権であり、TPOに応じてそれぞれの特徴が見え隠れします。
新自由主義はもっぱら市場での自由競争崇拝として語られますが、生産過程における資本の専制支配の貫徹による搾取強化という側面が忘れられてはなりません。その自由の本質は資本の自由でありそれは労働者への専制支配です。この側面が直接的に政治に延長された独裁志向が橋下徹氏のハシズムであり、それは新自由主義的独裁と称することができ、そこに保守反動との一定の親近性が生まれ、両者の相互利用の可能性が生じます。
新自由主義は自己責任論やバッシングによって自己を正当化し人々を動員し、政策を貫徹することができますが、その帰結としての格差と貧困・社会的荒廃を解決する術を持ちません。そこで社会統合の手段として出来合いの保守反動イデオロギーに頼ることになります。新自由主義は自らが破壊してきた「美しい日本」の幻影を呼び戻して現実を糊塗し支配を維持しようとします。支配層にとって、安倍晋三という政治家は保守反動に固執しすぎるリスクはあるけれども、人気を維持している限りは利用し甲斐があり、安倍氏の側でも新自由主義の経済政策で財界に奉仕している限りは保守反動路線を追求できます。
新自由主義による社会破壊と保守反動イデオロギーによるその「救出」(実際には単なる糊塗)といういわばマッチポンプを演じることで、イデオロギー的野合の安倍政権は「支配の好循環」を享受しています。それを背後から支えているのが、嫌中憎韓というイデオロギーというか気分です。ここには日本人の歴史への無反省があります。もちろん日本の人々の多くは平和志向であり侵略戦争への反省もありますが、支配層はそうではありません。保守政治家の多くの失言というよりもホンネの吐露が繰り返される中で、特に安倍政権になってからはそうした妄言が日常茶飯的状況になり、いつの間にか人々に少なからぬ影響を与えているように見えます。
いわゆる歴史問題というのは対外関係の問題ではなく、何よりも日本人自身が過去を真剣に反省し、平和と民主主義を将来に渡って守り、創り上げていく課題です(「守り創り上げていく」というのは、戦後民主主義の積極面の継承とともに、対米従属により被害を受けつつ米国の侵略に加担したという歪められた側面を直すことも見据えて言っています)。一方でそうしたことは不動の前提ではありますが、他方で現在の問題として、中国の大国主義・覇権主義が増大している状況があり、ここに人々の中でのナショナリズムや排外主義の台頭あるいは右傾化の現実的根拠がある点も見逃せません。紛争の軍事的解決はあり得ないのだから、日本の軍拡や憲法改悪・解釈改憲などを批判して外交・話し合いの積極的推進を言うのは当然ですが、中国などの問題点を的確に批判していくことも合わせて行なっていかなければ、世論の理解は得られないでしょう。
マッチポンプ的「支配の好循環」を打破して、新自由主義と保守反動の野合の矛盾を露呈させるためには、人々の中で、何よりも生活の苦しさ・生きづらさの根源を見つめる取り組みを強めて、要求運動をより活発化させ、分断や排外主義ではなく社会的連帯に解決の方向があり、政策的展望もあることを粘り強く浸透させていくべきでしょう。
(補論1)アベノミクスを支持する様々な立場
第一の矢「異次元の金融緩和」を中心とするアベノミクスの支持者には様々な立場があります。以前に見た、アベノミクス支持のいわゆるリフレ派の飯田泰之氏と反リフレ派の野口悠紀雄氏との対比記事(「朝日」2013年12月17日)では、野口氏のリフレ派批判は正当だと思えるのですが、氏の対案的結論は「痛みを伴う困難な道」、要するに新自由主義構造改革の推進でした。その意味ではリフレ派の方が、そういう庶民いじめでない道を探ろうという政治感覚を持っているということは言えるのかもしれません。米国のクルーグマンやスティグリッツのようなニューケインジアン、いわゆるリベラル派がアベノミクス支持を打ち出したのは、日本のリベラル派やマルクス派にとって意外だったようですが、同調する「リフレ派マルクス経済学者」もあるようです(言ってることは飯田氏と似たようなものだが)。
米紙ウォールストリート・ジャーナル電子版の2月19日付によれば、アベノミクスのブレーンである本田悦朗内閣官房参与が、安倍首相の靖国参拝を支持し、神風特攻隊の「自己犠牲」について語りながら涙ぐみました。同紙は「本田氏はアベノミクスの背後にナショナリスト的な目標があることを隠そうとしない。日本が力強い経済を必要としているのは、賃金上昇と生活向上のほかに、より強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだと語った」とも伝えました(「朝日」2月20日付)。本田氏の経済理論については知らないので、あるいは新自由主義構造改革派かもしれませんが、少なくとも政治的には保守反動的心性を持っていることだけは確かなようです。
米有力シンクタンク、ピーターソン国際経済研究所のアダム・ポーゼン所長は、アベノミクスについて「安全保障面で日本が米国との同盟関係を強化し、中国の影響力を緩和するというのが真の動機であり、これは成長する経済があって初めて可能になると主張しました」(「しんぶん赤旗」2月26日付)。これは安倍首相の靖国参拝をめぐる米国政府の批判にもかかわらず、軍事同盟による帝国主義的な日本支配とそれをテコにしたアジアでの覇権主義の追求こそが米国政府の政策ならびに両国関係の核心であり、日本における「画期的な」「独自の」経済政策でさえ、それに従属していることを示しています。もちろん米国政府の安倍批判は第二次大戦後の民主的な世界秩序への反動的な挑戦を許さないとする正当な反応であることは確かですが、それだけでなく従属国の離反を許さないという帝国主義的動機もあることを忘れてはなりません。それは沖縄の辺野古基地新設を断固として譲らない姿勢からも明らかです。この点で米国の進歩的知識人たちが普天間基地の即時閉鎖と辺野古への移転反対を求めていることは国際関係を考えるうえで重要な問題を提起しています。つまり国と国との関係は、支配層を代表する政府同士の関係として主に考えられていますが、実は支配層とは異なる人民同士の関係を軸にした国際関係もあるということです。日本と中国・韓国・北朝鮮など近隣諸国との関係も、歴史に無反省な日本の支配層とその政府(タテマエ的には反省を示しつつも従来ホンネが常に露呈しており、安倍政権に至ってはタテマエさえも振り払おうという勢いになっている)によるのでない、歴史を直視した人民的関係によってこそ打開が可能となります。
閑話休題。このように様々な立場のアベノミクス支持者があり、支配層の期待から、部分的には庶民の期待(の代弁?)をも含めて支持が寄せられています。で、当然のことながらそれらはアベノミクスが正論であり成功もしていると見ており、その成功によってグローバル資本が大儲けをしたり、庶民の生活が向上したり、米国の対日支配とアジア支配の強化に貢献したりと、それぞれの論者の勝手ばらばらな期待が表明されています。しかし実際にはアベノミクスは誤った理論であり成功もしていないので、立場はどうあれ同床異夢ながら等しく討死なのです。アベノミクスが成功していないことを、成長率の鈍化を初めとして総合的かつ平明に山家悠紀夫氏が説明しています(「何のための『負担増』か? アベノミクスの一年とこれから」、『世界』3月号所収)。もちろん初めからわが『経済』誌を初めとする革新陣営は総じて批判的であり、その破綻を理論と現状分析において指摘してきております。毎月の拙文でもそれらを跡付けてきました。またそれと立場は違えども、政治的にはいわば日本のリベラル派に属すると思われ、経済理論・現状分析・政策に渡るケインジアンの碩学である伊東光晴氏がアベノミクスを一蹴している(「人口減少下の経済 安倍首相の現状認識は誤っている」、『世界』3月号所収)ことは、勘違いリベラル派・マルクス派に痛撃を与えるものでしょう。
<蛇足的言及> ところで伊東氏は電化製品が普及し尽くし、新規需要でなく取り替え需要が主になると、価格低下にも所得増にも反応しない、として、こうした中での人口減は確実に市場を縮小させ、こうした環境下での電化製品の会社間の激しい競争が各企業の体力を弱化させた、と主張しています(105ページ)。これは拙文で先に述べた経済社会の成熟化の問題の一端を具体的に解明したものだと言えます。ただし確かに成熟化が市場の縮小に作用しているのですが、今日のそれは貧困化も重要な一因となっていることを忘れてはなりません。また伊東氏は人口減をあたかも自然的与件のように扱っていますが、それは基礎的には資本蓄積に影響され、より具体的次元では政策によって影響されます(日本の無策と対照的に西欧での政策的努力による一定の効果を見よ)。市場の縮小に帰結している様々な要因を分析して、少なくとも貧困化を克服する方策を通じて新たな「良い成熟化像」を描くことが今日の理論的政策的課題だと言えます。
(補論2)資本主義社会に生きる人間の捉え方と自己責任論
安倍政権も推進しようとしている新自由主義構造改革のイデオロギー的基盤の一つが自己責任論です。以下にその受容の理論的背景と克服の方向性を考えます。
資本主義経済は大まかに言って、歴史貫通的・本源的、商品生産的、資本主義生産的という三層の次元の重なりから成り、それぞれに対応する人間像が成立します。
歴史貫通的・本源的次元においては社会的分業において協働する人間像が成立します。商品生産的次元においては独立・自由・平等の人間像が成立し、自己責任論が随伴します。資本主義生産的次元においては労働者など直接的生産者が搾取されそれに対抗する人間像が成立します。
どのように無慈悲な弱肉強食の市場競争経済であっても、社会的分業において協働する人間によって形成されているという事実は不動のものであり、あらゆる経済社会の基底に歴史貫通的・本源的次元は存在します。ところが現象的には、資本主義経済はもっぱら市場経済として商品生産的次元においてのみ捉えられています。
そこで一方では、歴史貫通的な使用価値の生産・分配・消費が市場経済の観点のみから捉えられ(それが社会的分業・社会全体での共同労働の一形態であるという内実が看過され、弱肉強食の競争という形態が唯一、あるいはそうではなくても他よりも良い形態であると錯覚され)、他方では資本主義的搾取が看過され、市場経済における自由な労働の仮象が成立しています。
したがって一方では、社会的協働としての労働の本源的意義は看過され、他方では、搾取された労働の厳しい現実はその原因を捉えられず、「自由な市場経済における自立した自由な労働」の幻想において自己責任論は受容されることになります。そうすると、一方では、どのような労働も社会的協働の一環としてしか存在し得ず、本来孤立した責任の負い方はふさわしくないことが、他方では、実際には搾取された労働者は決して自己責任を負うことはできないことが看過されます。
前近代社会に対して、独立・自由・平等な市場経済において自己責任を負えるはずの人間の登場は社会進歩でしたが、近代社会はパラダイスではなく、人間の孤立化と競争、被搾取は新たな苦しみを生みました。搾取を克服した連帯によって独立・自由・平等を実質化することで真に自己責任を負うことが協働の中で可能になります。今日では格差・貧困・孤立的競争の中で負えもしない自己責任を資本から諸個人がばらばらに分断的に強制されているのです。
2014年2月28日
2014年4月号
新自由主義批判の一視点
瀬戸岡紘氏の「アメリカ社会の悪夢 貧困層増大・格差拡大と建国の理念」は新自由主義批判を展開しています。その際に批判の基準としてアメリカ建国の理念を掲げ、それを「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるような自立した諸個人が緩やかに結合するような社会を建設すること」(123ページ)と表現しています。これを見て『資本論』第一部の最終第25章「近代的植民理論」を思い起こしました。当時マルクスは同章の冒頭の注で「ここで扱うのは、本当の植民地、すなわち自由人の移住者によって開拓される処女地である。合衆国は、経済的な意味ではいまなおヨーロッパの植民地である」(『資本論』新日本新書版第4分冊、1308ページ)としています。そこでは本源的蓄積過程はまだ完了しておらず、「自分自身の労働条件の所有者として、自分の労働により、資本家をではなく、自分自身を富ませている生産者」(同前、1309ページ)が資本主義的支配体制確立の妨害者となっています。おそらく「アメリカ建国の理念」とは資本主義体制の確立以前にあったこのような商品生産の生成期における自立した諸個人の成立を反映しているのではないでしょうか(アメリカ経済史の知識がないので憶測にすぎませんが)。もちろんこの章の主要なテーマは経済史ではなく、資本主義とは、資本蓄積とは、私的所有とは何かということを、資本主義経済の具体的な反対例を示すことで対照的に明らかにすることにあります。本文冒頭はこう言います。
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経済学は、原則上、非常に異なった二種類の私的所有―一方は生産者の自己労働にもとづくもの、他方は他人の労働の搾取にもとづくもの―を混同する。経済学は、〔右のうちの〕後者が単に前者の正反対をなすだけでなく、前者の墳墓の上でのみ成長することを忘れている。 同前、1308ページ
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もし上記の憶測が当たっているならば、アメリカ建国の理念を扱うに際しては、二種類の私的所有に関する経済学の混同を排することがまず銘記されねばなりません。とするならば今日の時点で進歩的立場からアメリカ建国の理念を基準とした新自由主義批判とは、実は資本主義的搾取そのものへの批判が前提されていることになります。しかしそうなると、そうした批判は資本の本源的蓄積以前のイデオロギーによる後ろ向きの批判に過ぎないという懸念が生じますが、以下の指摘を参考にすると、逆にむしろ未来的意義を持つのではないかと思えます。
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近代市民法原理は、発生的には、商品所有者の意志関係の法的抽象として成立するが、その抽象性のゆえに、自立的な諸個人による自由・平等な社会形成の原理的基準の重要な側面を表現しえている〔=ブルジョア民主主義〕。ルソーの『社会契約』説が人民主権論の古典として評価されるのも、この点にかかわるといえる。資本主義の世界的危機の今日の局面=社会主義への移行の局面では、人類的遺産としての近代市民法原理のこの積極的側面の展開は、労働基本権・生存権〔=人間的労働と人間的生存の権利〕の確立とともに、もっとも重要な政治的課題を構成するといえる。それは、市民法的諸関係さえもちえない後進社会主義とは段階的に区別された、現代社会主義の規定的な政治的側面といえよう。
大島雄一「経済学と国家論―その方法論的基準―」204・205ページ
(『現代資本主義の構造分析』大月書店/1991/所収、初出:青木書店『現代と思想』第38号、1979年12月)
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資本主義経済を、その土台となる商品=貨幣関係とその上に展開する資本=賃労働関係との重層的構造において把握するマルクス経済学の観点からすれば、誰もが学校で習う、啓蒙思想とブルジョア民主主義の今日的意義を「自立的な諸個人による自由・平等な社会形成の原理的基準の重要な側面」として把握できます。大切なのは、それが搾取関係の捨象という「その抽象性のゆえに」成立するものだという観点が明確になっていることです。
搾取と資本蓄積の進展によって格差と貧困が拡大します。新自由主義は現代のグローバリゼーション下においてそれを究極まで推進するものです。それは商品=貨幣関係の土台上に展開する以上、「自立した諸個人」の仮象をそのままに、自立の現実的基盤を破壊します。こうして「自立した諸個人」は空洞化します。実際には負えるはずのない「自己責任」が仮象上で追求されます。「自立した諸個人が緩やかに結合するような社会」は商品経済の生成期にはあるいはありえたかもしれませんが、資本主義経済下においては原理的に不可能です。資本主義的搾取と「自立した諸個人」とは本来的には両立できません。いわゆる福祉国家などは、資本に一定の規制をかけることで格差と貧困の進行をそれなりに抑制して「自立した諸個人」の空洞化に一定の歯止めをかけ、「自立した諸個人が緩やかに結合するような社会」へ接近しようとする意義を持つでしょう。しかし新自由主義グローバリゼーションの荒涼たる進行はそうした努力の成果を破壊しようとしています。したがってグローバル資本への民主的規制の具体的積み重ねの先に、資本主義経済そのものの止揚が課題とされねばなりません。「自立した諸個人が緩やかに結合するような社会」は社会主義経済において実現しうるものでしょう。
古き良き時代のアメリカ建国の理念はその抽象性においては依然として有効です。ただし資本主義経済の重層性から生じる仮象(それは「自立した諸個人」や「自己責任」の空洞化から目をそらし、あたかも資本主義下でそれらが実質を持って存在するかのように見せる)からそれを解放し、搾取克服の方向で掲げられるときにこそ進歩的意義を持ちます。
以上の私見は、新自由主義批判というよりも資本主義一般の批判になっています。以下では瀬戸岡氏の新自由主義批判に耳を傾けましょう。新自由主義の覇権が確立するについて主に二つの理由が挙げられています。
一つは1960年代にアメリカ資本主義が循環的不況ではなく不況の時代に突入したことです。<アメリカ資本主義拡大の終焉・生産と消費の飽和状態→不況の時代の到来→国内の限界の打破=海外直接投資・多国籍企業の展開→日欧も同様→競争激化→米企業の成長頭打ちに→その中で利潤追求のためには何をしてもいいという思想=新自由主義へ>という流れです(123・124ページ)。新自由主義は、不採算部門切り捨て・リストラ・社会的に問題な事業への進出・金融化等々として展開します(124ページ)。
もう一つの理由は、大恐慌から第二次世界大戦への教訓から、国家権力依存の不況対策はしない、規制緩和と自由化を極限まで追求する、つまり国家の代わりに市場に全面的に依拠するという政策判断です。
これらの理由について「さしあたり生活に行きづまった人たちも、それによって経済が活性化し、もって自分たちの雇用や生活に活路が見いだせるのなら、それに期待するしかない、と感じるようになったのである」(124ページ)とか「新自由主義は、資本主義経済のなかで真面目に生きているごく普通の市民をふくめて、だれもがかなり自然にいだきうる考え方を集大成したものという側面をもっていたのだった」(125ページ)という受け止め方が推測されています。さらに進んで「ごく普通の市民が、ごく普通に新自由主義に傾斜している」(同前)根拠として、出口の見えない不況によって人々がミクロ指向に陥っていることが指摘されます(125・126ページ)。社会全体のことが見えずに、自分や自分の財産・会社のことばかりに目が行くということです。こうしてアメリカ資本主義の発展過程の中では、建国の理念としての「個人の自立」と「個々人の自由な結合」のうち、前者が優位になり、自己責任論が幅を利かすようになります。
アメリカ資本主義における異常な格差の拡大によって、民衆の意識の統合が困難になり、 国家分裂の危機が論じられ、中間層の崩壊は国の崩壊になるという危機感が語られます。人々が教会に行かない、上層が寄付をしない、ボランティア活動が停滞する、スポーツクラブ・趣味の会・友愛組合・エスニシティの集会・奉仕団体に集らない、といった現象が顕著で、社会的信頼が薄れ公共心が欠如し、環境問題への関心はますます小さくなってきました(127・128ページ)。こうして「市場原理は、人間が本来もっている共同性や社会性に亀裂のメスを刺し込む。モノとカネに心を奪われる人が出現し、やがてすべてカネのために行動する人さえ現れ、社会はその方向にエスカレートしていく」という「新自由主義の悪魔性」(128ページ)が強調されます。
以上の批判は病理的な諸現象と人々による新自由主義受容の姿勢が具体的に論じられ、なかなか説得力があります。ただし一部に疑問があります。その一つは、国家権力依存の不況対策への反省から市場に全面的に依拠するしかない、とする政策判断です。実際にはリーマンショック等、度重なる金融危機と慢性的不況に際して国家権力に依存して巨大金融機関(のみならずGMのような製造業大企業まで)を救済してきたのが新自由主義の覇権が確立した時代の実態です。広く流布されている<市場VS国家>図式に依拠して考えると、新自由主義の本質を市場原理主義と捉えることになりますが、そうすると新自由主義政策を採用している国家がこのような行動をとることが理解できません。新自由主義の本質はいわば資本原理主義ともいうべき利潤追求第一主義であり、実体経済における際限ない搾取強化と金融におけるカジノ化の追求です。そこで目的のためには手段を選ばずで、市場原理主義はその手段として有効な場合(おおむね平時)には最大限活用し、そうでない危機時などには簡単に破棄されるし、安定的な独占体制が成立するようなら無視されるでしょう。
普通の人々が新自由主義を受容する原因について瀬戸岡氏が挙げている具体的な諸点は理解できます。しかしそうなるベースには、そもそも資本主義経済というものが、自らを「自立した諸個人が交流する市場経済」と思わせるという仮象を生み出していることが銘記されるべきでしょう。資本主義経済を単なる市場経済と見ることは、一方では、あらゆる社会に共通する本源的協働(共同)性を、他方では資本主義的搾取関係を看過することになります。そして「領有法則の転回」が作用する下ではそれが「普通の見方」なのです(<市場VS国家>図式はこの平面的市場観にとらわれて、市場をその一部として含む立体的経済観が欠如した結果であろう)。したがって資本主義経済下における労働者諸個人は本質的には社会的協働(共同)性の一端を担いつつ搾取されているのですが、それは見えず、もっぱら市場で自立し競争する経済人として現象します。瀬戸岡氏が「モノとカネに心を奪われる人」に典型例を見出した「新自由主義の悪魔性」は資本主義の本質がもたらすその現象作用に基礎があります。
アベノミクスとオルタナティヴ
新聞の経済記事からアベノミクス下での経済指標をあれこれ拾っていると、なかなか錯綜した状態であり、どのようにまとめて捉えるかが難しくなっています。景気回復を喧伝する政府・マスコミなどと庶民の生活実感に乖離があり、経済政策が大企業本位であり、人々の生活と労働を害するものであることは明確なのですが、それでもそれなりに経済が拡大しているのかどうか、という点を捉えることは必要です。GDPの成長率が鈍化してきていることが一つの総括的意味を持っており、4月からの消費税増税による経済減速と合わせてアベノミクスの黄昏を語りうる状況になるかもしれません。できるならば自分自身で錯綜する経済指標を一つひとつていねいに読み解いて、現状と先行きについての像を描けるとよいのですが、とうてい無理なので、いくつかの論稿に頼ることになります。
藤田実氏によれば、大胆な金融緩和で株価が上昇し円安になり、輸出企業を中心に景況感は大企業・中小企業とも大きく改善しています。しかし設備投資と個人消費は低迷しており、円安にもかかわらず輸出が大幅に増大するわけでもありません(円建ての売り上げは上昇するが)。アベノミクス第二の矢の公共事業は建設関連産業の受注拡大で景気拡大に貢献しているけれども設備投資への波及効果はありません。株高は高所得層による高額商品の消費増を刺激しそれが一般消費者にも影響していますが一時的なものにとどまりそうです。結局、産業空洞化と低賃金を是正しないアベノミクスによっては設備投資・個人消費・輸出が本格的に拡大しておらず、持続的な景気回復は見込めません。庶民は景気回復を実感しておらず、今後の見通しも懐疑的です(「日本の進路を誤らせる財界流の安倍『成長戦略』」/『前衛』4月号所収/70〜72ページ)。
ところで異次元の金融緩和が株高と円安をもたらしたというのは一般的な見方ですが、伊東光晴氏は否定しています(「安倍・黒田氏は何もしていない―第一の矢を折る―」『世界』2013年8月号所収、「人口減少下の経済―安倍首相の現状認識は誤っている」同2014年3月号所収)。ここで詳細には触れませんが傾聴に値する指摘だと思います。松本朗氏も「政策が打たれる前に円安への転換が進ん」でおり、それは貿易赤字の持続など国際収支の状況という実体経済の基本によるものであり、「アベノミクスが採用されようがされまいが早晩円高が解消に向かうことは目に見えていた」(「経団連『経営労働政策委員会報告』の欺瞞性―矛盾とご都合主義の報告―」『月刊全労連』2014年4月号 No.206 所収、14・15ページ)と指摘しています。
アベノミクスの政策波及効果についての見方は色々でも、政府・財界・マスコミに同調してそれに踊るような立場でなければ、対決・対案・共同の舞台に乗ることが可能でしょう。前掲藤田論文では「国民生活重視の成長戦略への転換」(78ページ)を掲げて、教育、医療・介護・福祉、観光などの新規成長産業への投資こそ必要とし、その際の投資の重点は労働条件改善に置かれるべきことを主張しています。「新規成長産業は、国民生活に密着した分野でもあり、そこで働く労働者の労働条件の改善は、国民全体に豊かさを実感させ、安定的な内需基盤を作り出すであろう」(79ページ)という指摘は重要です。
飯盛信男氏の「長期不況下の中央集中とサービス産業」(本誌4月号所収)の以下の叙述は藤田氏の主張を補強するものです。
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第三次産業のなかでも医療福祉・教育等の公共サービスは生活と社会の質の向上を担う最も重要な部門であり、社会進歩の指標とみなすべきものである。わが国の特徴はこの公共サービスのウェイトが先進諸国のなかでは例外的にたちおくれていることにある。これは社会保障の前提をなす所得再分配の弱さの結果である。公共サービスの拡充によって雇用安定化と内需拡大すなわち安定成長が可能となることは、これまでの私の著作で強調してきたことである。本稿ではさらに、それが中央集権の是正にも貢献することを説いた。
158ページ
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新自由主義グローバリゼーションに従属した構造改革へのオルタナティヴは内需循環型の地域経済・国民経済ということになり、それは全体的にバランスの取れた産業構造を前提とします。飯盛氏が上記のように説くところは、そのなかで公共サービスの意義と位置づけを明確にするものです。さらに飯盛氏がわが国のサービス産業について「質の向上・高度化によってではなく、コスト削減によって競争力維持を図ってきたということ」(161ページ)を批判しているのは適切ですが、サービス産業の低生産性の克服に関して述べている部分にはやや問題を感じます。低生産性を脱却した米国のサービス産業についてこう述べられます。
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米国での専門的サービスの急成長は多国籍企業のグローバル展開に伴うソフトウェア、特許、技術使用、コンサルティング、法務、会計、設計などへの需要の急増によるものである。製造機能を途上国へ移転させ「知識集積体」となった多国籍企業はこれら専門的サービスによって支えられている。そして専門的サービスの担い手として大手企業のウェイトが高まり高賃金雇用が増加した。 160ページ
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これは増田正人氏がかねてより問題視しているWTO体制における知的所有権独占による搾取構造そのものであり、このような「高生産性」を目指すことは誤りです。もちろん知的所有権そのものは必要なものでしょうし、グローバリゼーションに対応し得る生産力をそなえた国民経済のあり方も重要です。しかしそれらが現実的な投下労働に対するグローバルな超過搾取体制に組み込まれていることは問題です。藤田氏の言うように、まずはサービス産業の低賃金・低労働条件を改善することが必要です。そうするとさしあたりはさらに「低生産性」ということになるでしょうが、労働意欲の向上と内需拡大効果を通したサービス産業の発展の中から長い目で見て生産性の向上となるのではないでしょうか。もちろんグローバルな業務への取り組みを通じた高生産性の実現を新自由主義的搾取強化とは違った形で実現することも課題としてあります。
日本資本主義とグローバリゼーション
松本朗氏の前掲論文は経団連『報告』が称揚するアベノミクスによる「景気回復」の真相を明らかにしています。次いで財界が賃上げについて、経営者の裁量による以外にはその理論的根拠をかたっぱしから否定していることを概観し、そこでの矛盾とご都合主義を厳しく指摘しています。それだけでなく、そうした思考と企業行動こそが「失われた20年」をもたらし、将来展望をもなくしていることを論証し、賃上げによる内需中心の経済発展の必要性が力説されており、多くの労働者読者にとっても明快な内容になっていると思います。
興味深かったのは、日本企業がアジアに国内同様の労働条件切り下げを持ち込んだために、現地で労使紛争が増えているという指摘です。普通は、途上国製品の安さとか低賃金が国内経済に影響を与える(地場産業への圧迫、賃金・労働条件の切り下げ、法人税率切り下げなどのソーシャルダンピング競争、等々)という形で問題にされます。つまり日本はあくまでグローバリゼーションで受け身であり、国民経済に様々な影響があり、その中で人々が被害を受ける、ということですが(それは庶民の視点で対外関係を見ているからそう思えるのでしょうが)、ここでは逆に途上国に対して、日本企業が国内での労働条件の「実績」を「輸出」することで加害者として登場しています。
この論文を読んでいたので、トヨタのインド子会社における労働争議についての対照的な新聞記事が目につきました(「朝日」3月18日付と「しんぶん赤旗」3月19・30・31日付)。「朝日」は「労働問題のリスク」という観点から、トヨタ側の言い分を一方的に載せ、「一部の従業員が生産ラインを止めたり、会社側を脅迫したりして生産の妨害を始めた」と報道しています。「赤旗」は会社側の説明の後に、妨害や脅迫などは事実ではないとする労組側の反論を掲載し、「トヨタがロックアウト」という見出しを掲げています。
日本の労働者や労組が企業主義にとらわれていたら、海外進出先の「労働問題のリスク」で企業に不都合があれば自分たちにも悪影響があると考え、現地労働運動への圧迫に「理解」を示すことになります(「朝日」の視点)。しかし外国の労働者の労働条件の悪化は自分たちにも悪影響があると考えるならば、両者の連帯を志向するでしょう(「赤旗」の視点)。実際にトヨタのフィリピンの子会社の労働問題に取り組んでいる日本のグループがあります。「今年の春闘は、海外での労働運動と今後どのように連帯していくかを考える大きなきっかけを与えることになろう」(18ページ)という論文の指摘を初め読んだときには正直やや唐突な印象があったのですが、こうした具体的問題にぶつかると迫真性を感じます。新自由主義グローバリゼーションには人民的グローバリゼーションで対抗する必要があります。
賃上げや社会保障切捨て反対といった人々の要求を拒む最大の根拠として、グローバリゼーション下での大競争に勝つために、企業のコストダウン、政府のスリム化が挙げられます。さもなくば産業の空洞化は進み、雇用は縮小するというわけです。この脅しでは、日本はグローバリゼーションの受け身の被害者として描かれますが、それは人民サイドから見た一面であって、日本の多国籍企業は上述のように労働条件悪化の「牽引者」であることの他にも、グローバリゼーションをリードしており、これは日本がグローバリゼーションの推進主体であるという他面を思い起こさせます。
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労賃コストを中心とするコストダウン・国際競争力強化を通じた日本の輸出依存・外需依存的「経済大国」化は、貿易摩擦を通じて欧米企業に打撃を与え、それへの対抗として欧米における反労働者的な政策である新自由主義が展開する一因となった。また、経済成長を遂げようとしていたアジア諸国の成長モデルとして採用され、「世界の工場」アジアに過剰生産力が形成され、今日の世界的過剰生産に伴う世界不況・経済停滞の要因になったと捉えられる。すなわち、輸出依存・外需依存的「経済大国」日本の成功は、世界経済に過剰生産の伝播とその処理をめぐる大競争としてのグローバリゼーション、さらには資本の競争力向上を至上命題とする新自由主義を招来する重要な契機となったものと考えられる。
村上研一「外需依存的成長の限界と転換の課題」(本誌3月号所収)123ページ
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労働者にとって過酷なトヨタ生産方式はやがてグローバルスタンダードになっていきますが、その過程では日本企業の脅威に対抗してアメリカのMITなどがそれを研究して「リーン生産方式」と称して普遍化するようなことがありました。これは国と国との技術研究や経営方式上の対抗として捉えられがちですが、それ以上に世界の多国籍企業が激烈な資本間競争を通じつつも世界の労働者階級を抑え込んできた過程としてこそ捉えるべきなのでしょう。日本の企業と経済政策はその中でアメリカに準じて「主犯」的位置を占めます。「日本」企業を応援する、とはオリンピックとはわけが違う側面があることを村上氏の指摘は教えてくれます。
これまで世界の人民と労働運動は主にグローバリゼーションの受け身の被害者だったわけですが、「対決・対案・共同」を持って、積極的な反撃者として立ち現れることが求められます。新自由主義グローバリゼーションが搾取強化・過剰生産・金融カジノ化によって世界経済の混乱と停滞を招いているときに、多国籍企業への民主的規制を通じて、人々の生活と労働を支える世界経済に転換していく道を追求することが必要です。
現実を見る目
経済の現状分析において、様々な経済指標を統計によって把握することになりますが、その際に平均値の錯覚ともいうべき問題があります。たとえば瀬戸岡氏の前掲論文で、全体として経済成長が10%成長だとすれば、自分も10%成長すると期待しがちになりますが、実際には一部の者が数十%成長し圧倒的多数はごくわずかしか成長しないかマイナス成長になる、と指摘されます(128ページ)。他にも、森岡孝二氏の『過労死は何を告発しているか 現代日本の企業と労働』への川人博氏の書評は、労働時間の二極分化について「たとえば、年間2400時間の男性正社員と年間1200時間の女性パートタイム労働者の平均をとって1800時間が平均労働時間だと算出しても、実際には1800時間の平均的労働者は存在しない」(90ページ)と解説しています。両例とも、言われれば当たり前のことですが、錯覚しやすい点を衝いています。対象を全体的に捉えるために平均値は必要なのですが、それがごつごつした現実をフラットに均す作用があることを忘れて、部分の認識に適用すると現実認識を誤ることになります。すでにレーニンが『ロシアにおける資本主義の発展』の中で、平均値の誤用が農民層分解の実態を塗りつぶしてしまうことを繰り返し指摘していました(国民文庫第一分冊、74・75、110・111、114〜118ページなど)。
余談ですが、「しんぶん赤旗」3月27日付「データは語る」は、財務省「法人企業統計」と総務省「労働力調査」とで雇用者増減傾向が食い違っている(2011年4〜6月期を境に前者では減少傾向に転ずるが、後者では増加傾向が続く)原因を解明しています。それは労働力調査の雇用者数と法人企業統計の従業員数の「数え方」の違いにあります。労働力調査は実数なのに対して、法人企業統計ではたとえば4時間労働者は0.5人とみなします。したがって正規雇用労働者から短時間労働の非正規労働者への置き換えが進んで、全体の実数は増加している場合、労働力調査では雇用者数が増加しますが、法人企業統計では従業員数が減少し得るのです。両統計の集計方法の違いから生じる統計結果の食い違いは、不安定雇用の拡大を反映しています。
以上は統計による現実認識の難しさと面白さを例示しました。これはある意味で主に技術的問題です。瀬戸岡氏はより本質的な問題を提起しています。「アメリカの貧困層増大と格差拡大については、全体的外観を表現している数字を追うことよりも、個々別々の事例を現場に入りこんで丹念に追跡していくほうが、はるかに深い理解にたどりつけると思われる」(119ページ)。これは当該問題に限らず、社会認識一般についてもあてはまります。たとえば佐藤千登勢氏の「米国における移民労働者と低賃金労働」は、農業・食肉加工業・縫製業における移民労働者の低賃金・重労働・労働災害などの生々しい実態を報告しています。「さまざまな形でアメリカ経済を底辺から支えている」「移民の労働力」(116ページ)を理解するには統計数字だけでなくこうした状況を知ることが不可欠でしょう。
今日、社会科学の力が試されている焦点として、福島の原発被災地の復興が挙げられます。そこでは全体像を数値で上から総合的に捉えることはもちろん必要ですが、家族生活や地域のあり方を下から捉えることを抜きに全状況の理解はあり得ません。飯館村は30年に及ぶ独自の地域づくりで注目されており、「住民・職員の参加・協働、地区・集落を基盤とする自主・自立の地域づくりは、『までいライフの村』として花咲かせようとしていました」(70ページ、「までい」とは「手間ひまを惜しまず、丁寧に」「心を込めて」といった意味の方言)が原発事故で中断を余儀なくされました。村の協力者(と思われる)の松野光伸福島大学名誉教授が従前からの取り組みと震災後の復興について報告しています(「『村民一人ひとりの復興』への模索と課題―全村避難・飯舘村の取り組みが問いかけること」『前衛』3月号所収)。
たとえば被災者の状況の厳しさについて「家族一緒の食事がしたい」という言葉の意味するところが次のように説明されています。
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避難前は、米や野菜は、自分の田畑で作ったものか、親戚・近所からもらったものを食べるのが常でした。生まれて初めて買って食べる米や野菜は、おいしくないだけでなく、内部被曝を気にして、子どもや孫と高齢者とは違う食材を使う場合も少なくない。高齢者の生き甲斐づくりのためにということで仮設住宅の近くに畑を確保しても、そこで野菜作りをする高齢者は意外に少ないと聞きます。自分の家の畑でないから耕す気になれない、ということだけでなく、つくっても子どもや孫に食べさせることができないなら、ということも大きいのではないでしょうか。
友だちと笑いあえたとしても、土いじりができたとしても、それだけでは生きがいにはつながらず、結果として関連死や認知症の増加となっているのではないでしょうか。
77ページ
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一つひとつの要求の裏にある様々な状況や思いを知ることなしには、被災状況の理解とそれに基づく復興政策を進めていくことはできません。しかし現実にはそうしたものは切り捨てて「復興」が実施されているのでしょうが…。
国の政策との絡みで人々の間に分裂が生じることもあります。「『帰還困難』『居住制限』『避難指示解除準備』という区域再編のもとで、賠償問題ともかかわって世代間、地域間の分裂・分断が強まってきていますし、避難先住民との軋轢も深まっています」(78ページ)。こうした人々の間での問題だけでなく、村と村民との関係も難しいものを抱えています。「飯館村周辺にまとまって非難することが、圧倒的多数の村民にとっては、生業の確保、コミュニティの維持という点で必要、という政策判断」(73ページ)をした村に対して、早く遠く安全なところに避難すべきだという村民も多く、対立点になっています。様々な意見に接した職員たちは村民の気持ちがばらばらになる危機感を持って話し合い、「めざすべきは『村の復興』ではなく、村に帰れない村民も含めた『村民一人ひとりの復興』ではないか、との確認がなされ」て「復興計画」の目標とされ、「戻れる人」「戻りたくても戻れない人」「戻らない人」それぞれの状況に応じた多様な支援をすることが重視されています(76ページ)。
除染が当面する最大の緊急問題であり、「短期間に広い範囲の除染をおこなうには、多数の作業員を確保する必要があるし、大型機器を使ってやらなければ短期間にできない」という「表向きの理由」でゼネコンが担っています(81ページ)。これなどは一見妥当なようですが、現場を知らない生産力主義の上から視角による誤りです。実際には「無駄な公共事業」と批判されるようなおざなりなよそ者仕事になっています。モチベーションからも実地の状況に即した除染方法という点でも、地元住民が主体的に取り組む方が効果的でしょう(80ページ)。
以上、紹介したのはほんの一部ですが、これだけでも「現場に入りこんで丹念に追跡して」その実情に即した理解と対策がいかに重要かが分かります。そうした現場に即した努力にもとづく個別の認識を積み上げた上で、全体状況について松野氏は広く「国民的な理解と支持」を訴えるべく問題提起しています。
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原発は国によって農山村に押しつけられたのであり、ある意味で今回の事故は、国としては「想定内」のものなのです。実際、今回の原発事故への対応には、被害を人口が少ないところでの部分的なものとして封じ込めたい、という国の考えが強く見て取れます。
そして、今回の事故はもう済んだことにし、住民の被曝放射線量制限値を規制していた「立地審査基準」を削除してまでも原発の再稼働を進めようとする動きには目をつぶり、「福島は原発被害地域として甘え過ぎている」「福島にお金をつぎ込むのは財政的にどうか」ということが言われる―そんなことでいいのでしょうか。
85ページ
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この渾身の訴えの基にあるのは、村民の本当の望みです。ふるさとに戻り、以前のような「当たり前の暮らし」を送りたいということ、それだけでなく、頓挫させられた「までいライフ」の村づくりにもう一度取り組みたい、ということです(同前)。
社会科学は人々の生活事情とそこにある思いを具体的につかみよく理解することから始めねばなりません。理論的抽象はそのあとで始まります。私などはいつも理論の現実へのあてはめと解釈に終わっていますが(と反省しても脱却するのは難しいが)…。マルクスの以下の有名な言葉は、学問的認識方法における様々な事柄を含んでおり、何も「まず現実に通じよ」という単純なことを言っているわけではありませんが、それでもまずはそういう意味において味わってみたいものです。
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もちろん、叙述の仕方は、形式としては、研究の仕方と区別されなければならない。研究は、素材を詳細にわがものとし、素材のさまざまな発展諸形態を分析し、それらの発展諸形態の内的紐帯をさぐり出さなければならない。この仕事を仕上げてのちに、はじめて、現実の運動をそれにふさわしく叙述することができる。これが成功して、素材の生命が観念的に反映されれば、まるである先験的な″\成とかかわりあっているかのように、思われるかもしれない。
『資本論』あと書き〔第二版への〕(新日本新書版第1分冊、27ページ)
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現実を見ることは、現実を正確に詳細に見ることと本質や大事なものを剔抉する洞察力との二つから成るように思います。後者は事実認識だけでなく価値判断をも含んでいます。事実認識と価値判断は区別しつつ切り離さず、という取り扱いが必要でしょう。
以前から何度も引用してきましたが、内田義彦氏は「人間の全体把握において文学のみの養いうる想像力」(『作品としての社会科学』岩波書店、1981年、150ページ)を指摘し、「科学的研究方法による正確さが、文学的に確かな手ごたえを導きの糸にし、より的確な把握に向って動員されねばならぬ」(同前、183ページ)と主張しています。さらに言えば、感性と知性を動員して「人間の全体把握」をなし、それを導きの糸として社会認識を深め、変革的実践を支えるという経路を社会科学は通らねばなりません。科学的研究方法を導くのは、事実認識と価値判断とを含んだ、本質や大事なものを剔抉する洞察力です。内田氏の言う「文学」は「芸術」に置き換えることも可能ではないでしょうか。社会科学研究は芸術家の洞察力に学ぶこともあるのでは、と思います。
「わからない≠ゥら考える」という見出しを掲げた柄本明氏の話は興味深い社会観と人間観を提供しています(「しんぶん赤旗」3月24日付、月曜インタビュー)。
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わかりやすさというのは一面では大事なことではあるけれども、どんどん拡大していくと、みんないっしょじゃなくちゃいけない≠ンたいな、経済優先社会に行き着いてしまう気もするわけです。わからないことによって考える行為が生まれるわけだけど、いまの社会、そのことが置き去りにされていることが多いんじゃないでしょうか。
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これは新自由主義などの生産力主義への的確な批判になっています。先述のように、原発被災地の現実は教えます。「除染は大規模で力のあるゼネコンに任す」というのはわかりやすいけれども、決して正しくはなくて、地元住民の小さな力を集めたほうがうまくいくという、一見わからないことをよく考えてみる方に真実が隠されています。
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以前はこうやらなくちゃだめだ≠ンたいな言い方もしていた気がするんです。でも、いまはなくなってきた。その人がその人であればいい。あなたがいまそこに立って、あなたがそこで感じることが、あなたの演劇だってことを言いますかね。
……
個性がある≠ニいう言い方はおかしい。たとえば、人前で何かを発揮できる人もいれば、できない人もいる。できない人がよくないかというと、そんなことはない。人間は人それぞれですから。個性があるのは当たり前です。
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人間を型にはめずにありのままに見ることでみんないっしょじゃない≠アとが見えてきて、しかもそれぞれのそのままの姿が肯定されます。これは「障害のある人も、ない人も、同じように社会に受け入れられるという障害者権利条約の神髄」(新井たかね・井上吉郎対談「国連障害者権利条約批准の意義と権利実現への課題」『前衛』4月号所収、159ページ)に通じる見方です。現実には生産力主義の経済社会のあり方に合わせるのが、人のあり方として暗黙の前提になっています。そうではない人間とそうではない社会がありうるということが今後の社会認識の「導きの糸」となるべきでしょう。
「二分法の世界観」を問題視して「人間の複雑さこそ思考を成熟させ社会を変えられる」「祭りを楽しめぬ人想像してこそ権力持つ資格ある」という見出しを掲げたインタビュー「今こそ政治を話そう」(「朝日」2月15日付)に登場した是枝裕和氏(映画監督・テレビディレクター)の話はあまりに深く豊かです。氏は「僕が映画を撮ったりテレビに関わったりしているのは、多様な価値観を持った人たちが互いを尊重し合いながら共生していける、豊かで成熟した社会をつくりたいからです」とまず自らの社会観と職業観を披露しています。
告発型のドキュメンタリーについてその存在意義は否定しないけれども、それはドキュメンタリーの本質からは外れたプロパガンダだと断じた前後にこう語ります。
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あるイベントで詩人の谷川俊太郎さんとご一緒したのですが、「詩は自己表現ではない」と明確におっしゃっていました。詩とは、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだと。ああ、映像も一緒だなと。撮ること自体が発見であり、出会いです。詩やメッセージというものがもしあるのだとしたら、それは作り手の内部にではなく世界の側にある。それと出会う手段がドキュメンタリーです。ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべきで、どんなに崇高な志に支えられていたとしても、撮る前から結論が存在するものはドキュメンタリーではありません。
…(それはプロパガンダだとした後で)…
プロパガンダからはみ出した部分こそがドキュメンタリーの神髄です。人間の豊かさや複雑さに届いている表現だからこそ、人の思考を深め、結果的に社会を変えられるのだと思います。
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「詩や映像は自己表現ではない」という意表を衝く逆説をこうも説得力を持って語られるのには驚きます。ひょっとするとこれは芸術と社会科学の接点に触れるものではないかという予感がありながらもそれが何かはよくは分かりませんが…。
確かに研究する前に結論が存在するのは科学ではなく、「世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚き」を記述するのが科学であるということは言いうるかもしれません。そのような社会科学は「多様な価値観を持った人たちが互いを尊重し合いながら共生していける、豊かで成熟した社会」を目指す社会観と親和的です。残念ながら大したことは言えないけれども、柄本氏や是枝氏からは、柔軟で豊かな人間観・社会観をもつことが社会科学研究の導きの糸となることを教えられたように思います。
予定ではさらに「現実を見る」課題の中で、バス運転手と歯科技工士の労働実態に触れ、それが提起する問題を労働価値論の観点から考え、良い社会のあり方や「成熟と停滞」の問題などに迫ろうと思っていたのですが、断念して今後の課題とします。資料として予定していたのは以下の通りです。
バス運転手関係 「しんぶん赤旗」2014年2月12日付 3月4・5・16日付
菊池和彦(自交総連書記次長)「高速ツァーバス事故後の対策で運転者の激務は
改善されたか」(『前衛』2014年4月号所収)
「歯科技工士がいなくなる」上中下 (「しんぶん赤旗」2014年2月12・13・15日付)
石川剛(歯科技工士)「歯科をブラック業界にするな」(同2月22日付「読者の広場」)
おはようニュース問答「このままじゃ歯科技工士がいなくなるかも」(同3月4日付)
雨松真希人(全商連全青協議長、歯科技工士)随想「『三方良し』の精神で」
(「全国商工新聞」2月24日付)
同・随想「震災後に変化した価値観」(「全国商工新聞」3月24日付)
新井たかね・井上吉郎対談「国連障害者権利条約批准の意義と権利実現への課題」
(『前衛』4月号所収)
近代日本の戦争責任と欧米帝国主義の責任
3月14日、日本共産党の志位和夫委員長は「歴史の偽造は許されない―『河野談話』と日本軍『慰安婦』問題の真実」という見解を発表しました(全文は「しんぶん赤旗」3月15日付)。各界から称賛の声が上がっている通りに、それは当該問題の膨大さに対して、「河野談話」攻撃への反論という限定された角度からではありますが、全体構造を手際よく整理し、本質を剔抉して、論点と考え方を明快に提示しています。
志位委員長の一問一答(「しんぶん赤旗」3月17日付5面)もまた本見解の理解に不可欠ですが、私はその裏の6面にある、カリブ共同体・共同市場(カリコム)が欧州諸国に奴隷制賠償請求をしたという記事に注目しました。カリコムが「欧州諸国がアフリカ人の奴隷化と奴隷貿易、先住民虐殺に責任があるだけでなく、解放された奴隷にも100年余にわたり人種差別と迫害を続けたと指摘」し、欧州諸国に対して「完全で正式な謝罪」「国際法に基づく賠償制度の確立」という観点から様々な諸要求を提起しているのはまったくもっともなことです(同記事参照)。その他に、米帝国主義について言えば、第二次大戦以後に限っても、ベトナムやイラクへの侵略を初めとして世界中への侵略と(クーデター関与など不法な)内政干渉を繰り返しており、それに全く無反省だという点で突出しています。日本の被害に関したことでは、原爆投下や都市への無差別爆撃は無法であり、米国から何の謝罪もありません。
こうした欧米の汚点を背景として、日本の反動派は都合の悪いことがあると「悪いのは日本だけでない、だから自分だけ謝る必要はない」(=「欧米が謝っていないのだから日本も謝る必要はない」で、結局どさくさに紛れて「日本は悪くない」。さらに厚かましくも「日本は欧米からアジアを解放した」という結論に!?)という常套句を発しています。これに対して民主派は日本の誤りを明確にすることで対していますが、それだけでなく欧米の誤りもその後に追求すればいいと思います。「悪いのは日本だけでない、だからこそ率先して自分が謝って他国にも謝らせる」という姿勢が正しいのです。世界最先端の憲法を持つという意味では「平和民主国家」である日本が世界に先駆けて反省し、欧米諸国にも反省を促すべきでしょう。欧米諸国が民主主義の先進国だからと言って、日本がその点で遅れている点が多々あるからと言って何ら遠慮する必要はありません。要は、この問題に関して、いいものはいい、悪いものは悪い、ただそれだけです。
確かに第二次大戦における日独伊ファッショ枢軸を打倒した連合国(=United Nations=国際連合)による民主体制が戦後の国際秩序であり、それに後ろ向きに挑戦しようとする日本の反動勢力を排除することが喫緊の課題ではあります。まずそれを片づけなければなりません。それは今日の日本人民自身の特別に重要な課題です。しかしその先にはかつてのすべての帝国主義諸国の罪状を反省するという課題が残っています。それを言わないと反動勢力に同調する日本人が増えます。それはまた「連合国の民主主義」を前向きに超えるような新たな「国連の民主主義」に道を開くものだと言えます。
安倍首相がまったく正反対の意味で使う「積極的平和主義」ではなく、戦争の根源を断つために貧困を削減することなど、経済・政治・文化に渡る平和創造の努力を意味する真の積極的平和主義に付け加えて、帝国主義的誤りを総ざらい的に反省する世界的努力の先頭に立つというのもその中身となりうるのではないでしょうか。それは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(日本国憲法前文)という「国際公約」にふさわしい姿勢であり、日本人の誇りを真に発揮する行ないであり、自虐史観などという揶揄を決して許さないものだと思います。
日本軍「慰安婦」の問題に限らず、帝国主義的誤りの問題の性格は相対的ではなく、絶対的であろうと思います。日本と他国ならびに時代間の比較の問題ではなく、いつどこであろうと悪いものは悪いという原則で平和と人権の発展に資するように問題対処することが必要です。歴史性についていえばまずは今日の到達点から出発することです。あえて言えば、今日の観点から過去を断罪することが必要ではないでしょうか。「その時代にはその時代の法規範や倫理観があった」という類の一見もっともらしい言説はどういう役割を果たしているでしょうか。そこには、当該時代を内在的・客観的に認識しようとするかのように見せかけつつ、実際のところ、ホンネとしては過去を美化・正当化し、あわよくば平和や人権における今日の到達点を自分たちの意識水準まで後退させることで、反動勢力やグローバル資本の利益に貢献しようというよこしまな意図が透けて見えます。もちろん、日本軍「慰安婦」の問題では、今日の反動派が当時としては当たり前であったと主張することの多くが当時としても違法で非人道的と認識されていた事柄なのですが…。ここでの私見はフライング気味かもしれませんが、要は平和や人権をめぐる社会進歩を推進する流れの中で考え実践すべきであり、歴史認識における学問的客観性というそれ自身重要なものについてもそれをどう位置付けるかは、そうした姿勢とのかかわりで考えていくべき今後の課題かと思います。
2014年3月31日
2014年5月号
資本主義を捉える
(1)資本主義を二面から見る 歴史貫通的と特殊歴史的
鶴田満彦氏の「日本経済分析と『資本論』」では次のように言われます。
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労働の二重性とは、直接には、商品生産関係における労働が、一面では歴史貫通的な使用価値形成労働であり、他面では、特殊歴史的な価値形成労働でもあることを示すものであるが、より広く敷衍すれば、あらゆる経済現象をつねに歴史貫通的な実体的側面と特殊歴史的な形態的側面から考察する視点を示しているように思われる。いわば、生産力視点と生産関係視点との複眼的方法の提示である。 23ページ
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価値実体である抽象的人間労働が特殊歴史的なものか歴史貫通的なものかについては論争がありますので、「労働の二重性」を上記のように評価するのが適当か否かは難しいところです。しかし「より広く敷衍」した後の部分にある「視点」と「方法」についてはまったくそのとおりであり、「あらゆる経済事象を生産力的実体と生産関係的形態の2側面から複眼的・分析的に考察する史的唯物論的方法」(同前)というふうに換言された言葉とともに銘記すべきです。俗流的立場では、多くの場合、特殊歴史的な形態的側面と生産関係視点が欠落し、資本主義的形態・生産関係が所与の前提とされ、あたかもそれ以外にはありえない「自然」であるかのように観念され、経済が支配層の所有物のように見なされた上で、歴史貫通的な実体的側面と生産力視点だけから経済現象が捉えられます。逆に批判的立場においては、特殊歴史的な形態的側面と生産関係視点が偏重されて、歴史貫通的な実体的側面と生産力視点が軽視され、被支配層がどのように経済実体をつかんでいくか、という視点が弱くなる場合があります。
資本主義における主要な経済主体である企業について、鶴田氏は以下のように述べます。
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『資本論』には、企業についてのまとまった記述はないが、第1部第5章第1節「労働過程」や同部第12章「分業とマニュファクチュア」などを見ると、企業とは本来、生産を行うための歴史貫通的協働組織であるように思われる。資本主義は、企業を利潤獲得のための組織にするが、それは、協働組織としての本性を根底から変えるものではない。従って、従業員協働体的一面を備えていた日本型企業が労働意欲を増進させ、とくに電機・電子・自動車などの技能集約的生産部面においては労働生産性をいちじるしく上昇させたのは、当然である。その結果、この日本型資本主義は、1980年代、米国から「日本レヴィジオニズム」(日本異質論)として激しい批判と攻撃にさらされた。 28・29ページ
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たとえば日本企業の労働における「強制された自発性」が問題とされる状況を考えると、そこには歴史貫通的要素と特殊資本主義的要素とがない交ぜになっている、と言うべきであり、企業を「生産を行うための歴史貫通的協働組織である」と断言できるか否かは難しいところがあります。しかしながら、一方で、大企業の利潤追求第一主義を批判して、その実力と影響力にふさわしい社会的役割を果たさせること、他方で、中小企業が雇用や地域経済発展などに積極的役割が果たせるようにすることを考える上で、このような視点は示唆的だと言えます。
新自由主義グローバリゼーションに乗って、大企業は搾取強化により内部留保を死蔵し(あるいは投機に走り)今や国民経済発展の桎梏になっています。それを批判するのは、生産関係的形態の側面からであり、生産力的実体の側面からは、大企業が国民経済の中心にあってその生産力にふさわしい社会的役割を果たすことを求めることになります。中小企業や地域経済を研究する関満博氏は「企業家精神を身につけた技術者」とか「技術のわかる中小企業経営者」(『新「モノづくり」企業が日本を変える』講談社、1999年、97・98ページ)を提起しています。また「日本の社会の仕組みが、そして職場の仕組みが効率性のみを追求し、高齢者、弱者を寄せつけないものであった」(同前30ページ)ことを批判し「健康な高齢者、経験豊かな高齢者が増加していくことを積極的に受け止め、彼らが身につけた経験を次の世代に継承していくことに喜びを感じられる状況を作り上げること」(32ページ)を提唱しています。これは生産関係的形態の側面から現状を批判し、生産力的実体の側面から社会的改善の方向を提起していると言えます。
「過剰生産」という言葉はよく使われますが、これは批判的視点からは、資本主義的生産関係のもたらす「生産と消費の矛盾」に基づく相対的過剰生産の意味であり、恐慌や深刻な不況に対して投げかけられます。しかしそれだけでなく、社会や産業の成熟にともなって絶対的な過剰生産に陥る部面もありうるわけで、生産力的実体の側面からは産業構造の転換が求められます。もちろんここには微妙な問題があり、支配層はそれを口実にして不必要ないし過剰なスクラップ&ビルド政策を強行してきたという経過がありますので慎重な姿勢が必要です。しかし要はここでも批判勢力側が生産関係的形態の側面だけでなく、生産力的実体の側面も考慮したオルタナティヴの政策を具体的に提起できるかが問われているのです。
(2)資本主義を二層で見る 商品生産関係と搾取関係
資本主義を歴史貫通的な実体的側面と特殊歴史的な形態的側面とから見てきましたが、後者はさらに商品=貨幣関係と資本=賃労働関係とに分けられます。すると資本主義経済は歴史貫通的土台の上に特殊資本主義的な構造があり、後者の内部はまた商品生産的土台の上に資本主義的搾取関係が展開するという仕組みになっています。
商品生産自体は様々な前近代的社会構成体の時代にも部分的には存在していましたが、それが社会的に全面化するのは資本主義時代だけです。封建制から資本主義への移行期において、小商品生産の独自の一時代を設定し得るかどうかは経済史上の論争点です。しかしいずれにせよこの移行期において初めて商品生産の全面化に向かう運動があったことは事実であり、それまでの時代にはありえなかった事態として、前近代的共同体からの全面的解放が進みました。ここに前近代的社会構成体の時代にはなかった諸個人の自立と自由・平等な関係が展開します。続く資本主義的搾取の全面的展開によって自立した自由・平等な諸関係は経済的内実としては空洞化しますが、法的形式においては定着します(あるいは生産過程における従属的関係が流通過程における自立した自由・平等な関係に覆い隠される←資本=賃労働関係の搾取が商品=貨幣関係の等価交換の中に解消される)。
ここで応用問題として考えたいのが、日本国憲法第13条(個人の尊重、幸福追求権)をどう見るかということです。それは見方によっては、新自由主義的な自己責任論の文脈に回収されるので、社会保障の充実などを求める変革的運動にはそぐわず、それはあくまで第25条に根拠を置くべきだという意見があり得ます。個人の幸福追求と生存権・社会権とはどのような関係にあるのかが問われます。
憲法の人権構造は自由権と社会権とから成ります。これは資本主義社会という土壌の上に自由権という幹に社会権が接木されている状態です。資本主義の自由競争段階の最盛期にあたる19世紀イギリスでは、経済的自由の侵害として、労働者の団結が禁止されました。それを打破し合法化させたのは労働者の階級闘争です。このようにもともと自由権は搾取の自由を含み、社会権とは矛盾します。矛盾する両者が何らかの折り合いをつけて接合しているのが今日の憲法における人権構造です。日本国憲法における「公共の福祉」というキーワードはこの折り合いの一つのあり方だと考えれば、資本への規制という前進的方向に解釈することが可能です。
自由権の確立においては、封建制から資本制への移行期における商品経済の生成が重要な基盤となったと思われます。その際、おそらく自己労働に基づく私的所有を基盤とする諸個人の自立と自由・平等が表象されているでしょう。しかし資本主義的生産関係である資本=賃労働関係の確立により、自己労働に基づく私的所有の多くは他人労働の搾取に基づく私的所有に転変します。この歴史的転化は今日の資本主義経済の構造となっており、搾取と従属関係という内実は等価交換と自立・自由・平等という形式的ベールとして現象します。つまり「自己労働に基づく所有=経済的に自立した個人」は、資本主義社会ではフィクションですが、それに基づいて自由権は成立しています。内実としては搾取・従属的関係の下にあって自立できない諸個人が法的形式上は自己責任を追及されるのが資本主義社会です。こうした形式的関係を前提に、自立した諸個人が競争によって幸福を追求しあって、人生を切り開いていく、というのが憲法13条の新自由主義的・自己責任論的解釈であり人間像でしょう。商品=貨幣関係の日常において2種類の私的所有を区別しえない下で、これは常識的イデオロギーとして定着します。それを揺るがすのは、格差と貧困の現実が自身に迫ったときか、それを直視せざるを得なくなったときです。新自由主義的資本蓄積の惨状という社会的実質が形式的社会観を打ち破る基盤を提供します。それを逃さずつかむところに社会変革の運動の存在意義があります。
肝心なのは、自由権の虚偽性の認識よりも、資本主義社会におけるその虚偽性にもかかわらず、その抽象性の故に近代以降の社会に普遍的にそれが適用可能であるという点の把握です。自由権誕生の基礎にあった自己労働に基づく所有が今日廃れているのならば、当面する課題としては、たとえば小経営の発展のために政策的援助をしたり、大資本の横暴を規制したり、ということでそれを実質化・再建することです。もちろんもっと先の課題ではありますが、生産手段の社会的所有に基づく協働を基礎として自立した諸個人を実現することが自由権を真に実質化する道です。
生存権などの社会権は自由権の後に成立しましたが、それは資本主義的搾取の現実に対応した権利であり、その実現は人々の自立を促すことで、自由権の実質化に資することになります。個人の尊重と幸福の追求は決して経済競争での勝利を前提するものではなく、社会的共同において生存権を保障されることから出発します。特に貧困と格差を広げる新自由主義的グローバリゼーション下で資本による諸個人の生存権の否認から出発するという現実があるだけに、そのような個人尊重と幸福追求の理解は不可欠です。
社会保障充実を始めとした諸個人の要求実現を阻むものは、新自由主義グローバリゼーション下でグローバル資本の競争勝利を最優先する政治のあり方です。つまり諸個人を最底辺に順次その上に、企業・職場社会、地域経済、国民経済が重なっていき、頂点にはグローバル資本を中心とする世界資本主義が君臨する構造の中で、諸個人の立場から世界を変革的に捉えるのか(下から視角)、グローバル企業の立場から国民経済以下諸個人まで世界を支配=従属的に捉えるのか(上から視角)が問われます。ここでは個人の尊重と幸福の追求が新自由主義的競争を勝ち抜くことでないことは明らかです。個人の自由と資本の自由とが真っ向から対立する中(「下から視角」VS「上から視角」)では、弱肉強食の競争での勝利は個人の生き方として何ら普遍性を持ちえません。憲法13条と25条とでは、その起源は13条の方が先でしょうが、今日の経済構造においてはむしろ25条の方が規定的です。自由権と社会権の織り成す人権構造の主柱を、生存権の保障(25条)に基礎づけられた個人の尊重と幸福追求(13条)とするならば、日本国憲法は新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴの旗印としてさらなる先進性を発揮するでしょう。
(3)生産力をどう捉えるか
上記のように鶴田満彦氏は、歴史貫通的なものと特殊歴史的なものという二面的見方において様々な視点を配していましたが、その中に生産力視点と生産関係視点という対がありました。このうち生産力が主導的役割を果たし、それは端的には単位時間当たりの生産量として表現される、というのが素朴な理解ですが、丸山惠也氏はそれを真っ向から否定します(「原発問題と経営学 電力独占とエネルギー転換」)。
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資本主義経済の「炉」ともいうべきエネルギーが原子力によって賄われていることの問題を、生産力という基本的概念の検討から始める。生産力を一般的に「物質的財貨を生産する力」と理解し、これを歴史貫通的なもので、社会発展の原動力と捉えるのは間違いである。生産力をいかに効率的に高め、経済的につくりだしていくかということが社会を発展させ、人々を幸せにするものではないことを、原発事故が明らかにした。重要なことは生産力の「量的拡大」ではなく、「社会的質」を問うことにある。
88ページ
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見られるように、東日本大震災での原発事故の衝撃がこうした反省を生み出しています。ここでは丸山氏の見解を追う前に、やはり阪神大震災の一年後の時点で、今日にも通じるような真摯な反省と見事な洞察を示された石橋克彦氏(建設省建築研究所室長:当時)の見解に触れます(「朝日」夕刊1996年1月18日付)。
「自然と調和、分散型国土で」「都市が弱い原因は『過密』」「技術超えた防災論が必要」というこの記事の見出しにもわかるように、自然科学者(地震学)である石橋氏がその知見を踏まえつつも(いちいち引用しませんが、その的確さは東日本大震災後の今日にも通用する)、むしろ社会科学の視点で震災を論じています。石橋氏は「都市という器の在り方を不問に付して中身だけを技術的にいじる震災後の多くの防災都市論議が、いかにも空疎に響く」と喝破して、都市の過密と田舎の過疎がそれぞれに災害を増幅することを具体的に指摘しつつ以下のように述べられます。
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地震に強い都市づくりとは、結局、都市と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくることに帰着する。それは、自然の摂理に調和した国土づくりということであり、災害に強いばかりではない。地球の環境と自然、自然の一部としての人間の身体と精神を守ることによって、より高度な文明の実現につながる。
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この観点から、東京一極集中・市場原理至上の規制緩和万能論が批判され、第一次産業の回復・地場産業の振興が推奨され「内外の先進的な市民の間では、倫理観を基準とした公正貿易や、食とエネルギーと水の自給自足圏の形成などの、共生の経済思想が急速に台頭しつつある」と希望が語られます。
当時これを読んで感激した私は、「都市と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくること」を中心とする石橋氏の構想を「阪神大震災の重い教訓から得た生産力像」と評しました(『経済』1996年4月号「読者の声」欄)。この投書に付した拙文では以下のように生産力を説明していました。
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生産力は狭い意味では、直接的生産過程において単位労働時間当りに生産される使用価値量を表すものでしょう。私はそれに加えて、国民経済において農工バランスを含む産業構造のあり方も生産力と捉えています。これは原理的には、再生産表式において生産力発展が部門構成比に反映されることを思い出してもらえばよいと思います。生産力を、自然に対する人間の支配力と捉えるならば、産業構造はある社会全体の生産力の表現と言えるのではないでしょうか。また生産力をこのように広く捉えてこそ、「ある階級が生産力を支配する」ことの中身も、あるいは「新たな生産力のあり方」も国民経済的な広がりを持って考えられます。社会発展の究極の根拠としての「生産力と生産関係の矛盾」も広く捉えられるように思います。
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このような生産力概念が適当かどうかは検討を要するかもしれませんが、まだそれでもこれは控えめであり、石橋氏の提起の含意を生かす方向ではあっても、そこに追いつくものとはなっていません。それに対して丸山惠也氏の前記論稿は「重要なことは生産力の『量的拡大』ではなく、『社会的質』を問うことにある」という姿勢を打ち出して、だいぶラディカルです。氏が提起した「生産力の社会的質」(88ページ)という観点からは「生産力は社会において現実に機能しているという側面からみれば、それぞれの歴史的な生産関係によって特徴づけられる存在なのである」(89ページ)と主張されます。通念としての生産力優位を生産関係優位に逆転しています。実はこのことは通念としての生産力発展が逆転させられることに対応していると思われます。
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原子力エネルギーは、生産力として次の特徴を有する。
@自然を破壊し、人類を死滅の危機に追いやり、労働者の被曝労働によってしか支えられない「使えない生産力」である、A資本利潤をめざす経済成長のための大量生産・販売・消費・廃棄の生産力である、B資源・エネルギーの使い捨て社会の生産力である、C原発に象徴される規模の経済を求める資本集約型生産設備を要する生産力である、D経済的動機が技術の制約条件になる生産力である。
これに対して自然エネルギーは次の特徴を有する。
@持続社会をめざす環境保全、人間生活の質向上に貢献する生産力である、A生産物の使用価値を重視し、必要なものを必要な量だけ作る多品種少量の生産力である、B自然一体化、人命尊重、省資源を基礎とし、地域分散・適正規模の労働集約型生産設備の生産力である、C自然が技術の制約条件となる生産力である。
91ページ
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このように原子力エネルギーと自然エネルギーとの生産力としての特徴が対比され、もちろん丸山氏はその比較姿勢から明らかなように前者から後者への移行を推奨しています。その移行の根拠は生産力の特徴からだけでなく、以下のように社会変革のあり方からも説明されます。
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自然エネルギー事業は、もともと小規模・地域分散・自然資源依存の特質をもち、地域住民、地方自治体などが事業主体となるのにふさわしいシステムなのである。しかも、この取り組みは自然エネルギーの創出にとどまらず、地域社会の活性化、地場産業の活性化と新しい農村工場の設立、地域雇用の創造などを通じて地域循環型社会、そして持続可能社会の構築を目指す運動と繋げることに大きな意味がある。
96ページ
これまで電力会社に独占されてきた電力エネルギーという生産力を、地域住民が自分たちの手に取り戻し、それを自ら管理するということは、今日の日本社会を変えるという課題に結びつく重要な意味を持つ取り組みである。これは、これまでの住民と社会との係わりを根底から問い直すことでもある。
エネルギーについての住民参加、住民事業、住民管理の根底をなすコミュニティ・パワーは、原発に象徴される巨大な電力会社の電力エネルギー独占支配を崩し、日本社会を原子力エネルギーから自然エネルギーへと転換させ、安全で、豊かな社会を構築するための原動力である。 97ページ
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つまり原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換は、地域循環型社会などの新たな社会のあり方への転換を意味し、電力エネルギーという生産力を独占資本から地域住民に取り戻すことをも意味するのだから、あきらかにそれは社会進歩であり、それを生産力発展と呼ぶべきだという含意があるように思われます。
ところで原子力エネルギーと自然エネルギーとの生産力の特徴の対比を見ると、前者が資本集約型で後者が労働集約型であることに象徴されるように(他の特徴を見ても)、生産力の「量的拡大」においては前者が優位です。もちろんこれからの人間社会にとっての有用性という点では後者が優位であり、これをもって丸山氏は生産力の「社会的質」における優位性と見ていることは明らかです。通念からすれば「量的拡大」が生産力発展の指標ですが、指標を「社会的質」に置き換えるならば生産力発展の意味が変わります。したがって原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換を、生産力の退行ではなく発展として捉えるためには、その指標を「量的拡大」から「社会的質」のあり方に変換する必要があります。このような変換にとっては生産力の独歩性を排して生産関係の規定性に従属させる必要があります。「生産力は社会において現実に機能しているという側面からみれば、それぞれの歴史的な生産関係によって特徴づけられる存在なのである」(89ページ)という概念規定はそうした意義を有するものと思われます。
原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換は喫緊の課題であり、圧倒的な世論の下で「原子力村」ペンタゴンの妨害を打ち破って進まねばなりません。この転換は丸山氏のみならず多くの論者が言うように経済社会の根本的転換を伴います。同時にその過程が、発達した資本主義諸国の成熟化ないし停滞という局面で行なわれることからすれば、資本主義と生産力発展との関係が新たに問い直されている、と考えるべきでしょう。自然エネルギーを基盤とする経済社会のあり方は、生産力の「量的拡大」を中心とするものとは異なります。そこで経済学と史的唯物論の基礎概念である生産力をどう捉え返すか、という問題について、丸山氏の答えは重要な検討材料を提供していると思います。これに対抗する生産力主義者(新自由主義やブルジョア経済学諸派はもちろん、技術決定論的史的唯物論の立場も含めて)の論理を内在的に検討してなおいっそう反省的に強化することができればいいという気もします。
商品流通の意味
関野秀明氏は、これまで貧困・格差問題などの現状分析において、意識的にマルクス経済学の基礎理論の意義に光を当てることで注目されてきたと思われます。今回の「マルクス経済学の基礎と貧困・自己責任論」も力作です。ただあえて注文すれば、マルクスの言葉の要約という形でなく、もっと分かりやすい今日的言葉で理論と現状分析の統一が図られるならよりいっそう広い読者を獲得できると思われます。マルクスの言葉の要約ならば手堅い説明になり、漏れや誤りも少なくなるでしょう。しかし自分たちの言葉で正確に平易に表現することを追求しないと、理論が人々をつかんで現実的力に転化するという状況を実現できません。学術用語では正確に理解していたつもりでも、現実に臨んでは俗流的理解に飲み込まれていた、ということにならないためにも、そうした努力は重要です。
と言いながら、従来型の用語・概念の問題に目が行ってしまい、恐縮ですが、疑問点を一つ提起します。
38ページの最後に「直接的商品交換W1―W2の矛盾、困難は、商品流通W1―G―W2として貨幣に媒介され、矛盾が解決されます」に続いて「商品所持者は、ひとまず自分の商品を使用価値として実現させることによって貨幣に転化し、次に、この貨幣を価値として実現させるわけです」とあるのは「商品所持者は、ひとまず自分の商品を価値として実現させることによって貨幣に転化し、次に、この貨幣で他人の商品を購入することによって、使用価値として実現させるわけです」とすべきではないでしょうか。
同ページの図1「交換過程の矛盾と貨幣による解決」においても、W1―G―W2の前半、W1―Gについて「W1の欲しい人に売り(使用価値実現)」と説明し、後半のG―W2について「W2を買う(価値実現)」とされているように、使用価値実現→価値実現という順序で捉えられています。しかしW1―G―W2において、W1の所持者Aは、自分にとっての非使用価値であるW1を手放して、W2という使用価値を入手することを目的とします。そのための手段としてW1を貨幣に転化(価値実現)します。つまり前半は価値実現であり、後半が使用価値実現です。確かに前半でW1は使用価値を実現しますが、それはAにとっての使用価値実現ではなく、他の商品所持者Bにとっての使用価値実現です。W1―G―W2という商品流通図式はAの所持するものが、W1→G→W2と順次変わっていくことを示しており、それは商品所持者Aの立場で描かれています。この図式は3人の商品所持者を前提します。
B W0―G―W1
A W1―G―W2
C W2―G―W3
W1―Gの過程において、Aは使用価値を実現していません。この過程で、AはW1の価値を実現して貨幣に転化します(このW1―Gの過程はBにとってはG―W1として現れ、そこでBは使用価値を実現し、商品流通の目的を達成します)。次いで、G―W2の過程でAはCからW2という使用価値を獲得し、全体的結果としてW1という自分にとっての非使用価値を、W2という自分にとっての使用価値に転化することに成功するので、ここで使用価値の実現を言うことができます。Aは商品流通の目的を達成するのです(このG―W2の過程はCにとってはW2―Gとして現れ、そこでCは価値を実現し、商品流通における目的達成のための手段を得ます)。
このようなことは必ずしもスコラ的な議論ではなく、現代資本主義の認識にとっていささかの意味があると思っています。商品流通W―G―Wと資本流通G―W―Gを比べると、前者は目的が使用価値実現であり手段が価値実現です。後者では逆になります。資本流通をG―W―G´とするならば、その目的は単なる価値ではなく剰余価値であることが明示されます。今日では新自由主義が解放する利潤追求第一主義の弊害があらわになり、小経営やそれが主役となる内需循環的な地域経済の重要性が注目されています。経済の本源的あり方とは社会的協働によって生産された諸使用価値を適切に分配して社会的再生産を維持していくことです。商品経済や資本主義経済という形態は、そこに価値生産を目的とする迂回路を設けることで生産力の圧倒的な発展をもたらし、結果として豊富な使用価値の享受を実現しました。しかし今日では、使用価値を手段とし価値を目的とする転倒は、自然と人間そしてその社会を破壊するに至り、あらためて経済社会の本源的あり方を見直すことが求められています。
商品生産においては、私的労働によって生産された商品が売れることによってはじめて、それが社会的労働であることが認められます。したがって商品の価値実現が死活的意味を持ちます。これはW―G―Wにおける前半過程W―Gの意味です。しかしそれはあくまで使用価値実現(G―W)の手段であり、自己目的化はされません。たとえば商品経済においても、職人気質というのは、価値の実現可能性もさることながら、むしろ使用価値そのものの追求に重きを置く生産姿勢だと言えます。これに対してG―W―G´においては、剰余価値追求が自己目的化されます。もっとも、実際の資本主義社会においてはG―W―G´の運動が人々の考え方にも影響を及ぼし、資本の運動とは区別される部面を含めて社会全体に、利潤追求のイデオロギーは深く浸透していますが…。一方でそうした世間の風潮が大勢でありながら、他方でそれに流されない職人気質の貴重さが称揚されるのは、特殊歴史的資本主義形態の奥底に歴史貫通的生産実体が生き続けていることの反映だと言えます。
W―G―Wは労働者の所得流通と小経営の生業を現していると考えられます。ここで資本主義的商品の価値構成C+V+Mに準じて、Wを量的に表現するならば、労働者の場合はV、小経営の場合はC+Vということになります。労働者は労働力という商品を売って賃金を得て消費手段を購入します。小経営者は自己の生産物を売ることで、消費手段と次期の生産手段を購入します。もっともこれはあくまで量的表現であり、資本(自己増殖する価値)を動かす主体ではない労働者と小経営者にとって、V(可変資本)とかC+V(不変資本+可変資本)とかの本来的意味はなく、あくまで準拠的表現と言うべきでしょう。また今日の多くの小経営者の苦境を考えると、C+Vの内、C部分が過小になり生業の継続が困難になり、 V部分が過小になり生活困難が生じていると言えます。
人類が商品生産を止揚することは少なくとも近未来においては不可能である以上、G―W―G´の暴走をW―G―Wの観点から規制することが重要です。それが独占資本や新自由主義グローバリゼーションへの民主的規制、あるいは次の段階である市場社会主義の歴史的意味です。経済実体として、その基底にあるべきものは、本来生産の目的は使用価値であり価値は手段であるという事実ではないでしょうか。
というようなことを日常語で表現できたら、と思うのですが、難しいので自分では追求せず、専門家に期待しているわけです。
労働実態の苦境と労働価値論
ワーキングプア、ブラック企業等々労働をめぐる深刻な問題は枚挙にいとまがない昨今ですが、労働問題が原因で当該産業の存立に脅威をもたらすような事態も起こっています。今年の2月くらいから目についた新聞記事等は以下のようです。
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<路線バス・高速バス運転手>
「しんぶん赤旗」2014年2月12日付 3月4・5・16日付、4月3・6日付
「同日曜版」4月13日付
菊池和彦(自交総連書記次長)「高速ツァーバス事故後の対策で運転者の激務は改善されたか」(『前衛』4月号所収)
<タクシー業界>
「しんぶん赤旗」3月19日付
<歯科技工士>
「歯科技工士がいなくなる」上中下 (「しんぶん赤旗」2014年2月12・13・15日付)
石川剛(歯科技工士)「歯科をブラック業界にするな」(同2月22日付「読者の広場」)
おはようニュース問答「このままじゃ歯科技工士がいなくなるかも」(同3月4日付)
雨松真希人(全商連全青協議長、歯科技工士)随想「『三方良し』の精神で」
(「全国商工新聞」2月24日付)
<建設業>
影山政行「暮らしの焦点・建設業の人手不足の解決は緊急の課題 低賃金、労働条件の改善こそ」(『前衛』5月号所収)
<外国人労働者受け入れ問題>
「低賃金と人手不足の悪循環」(「しんぶん赤旗」4月9日付)
<介護>
「日本介護福祉士会要望書」、「全労連アンケート」(「しんぶん赤旗」4月24日付)
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ほんの一部だけ紹介します。まずバス運転手について。「路線バスの年間労働時間は2544時間、全産業と比べ約400時間長い。それに対して、年収は446万円と全産業男子の平均530万円を大きく下回っています」(「しんぶん赤旗」2月12日付)。それでピーク時(1975年)から2万人減少して、2010年現在、8万人で人手不足が深刻です(同前)。
3月3日に北陸自動車道で死亡事故を起こした高速夜行バスの運転手は、路線バスと高速バスの掛け持ちで、連続11日勤務でした。労使協定では最長13日連続勤務が可能でした。厚労省の自動車運転者の労働時間等の改善基準(改善基準告示)では「休息時間は1日8時間以上」とされていますが、通勤、食事、入浴時間を含めれば、睡眠時間はわずかで疲労回復ははかれません。以下の労働現場の実態からすればさらに深刻です。「例えば、出発前に20分点検がある。タイヤをたたき、ベルトの緩みや灯火設備の点検。毛布を用意しカーテンを締め、ヘッドホンやパンフレットを配る。これは20分では終わらない。結局、休息時間を削って、早出して間に合わせている」(同3月16日付)。
日本歯科技工士会の調査(2009年)では、20代の歯科技工士の約8割が技工士として就業していません。10年勤続の末にやめた32歳の技工士の技工所の状況は、週休1日、帰宅は早くて終電、週に2日は泊まり。残業代はなく、月給15万円でした。技工は完全な手作業で、一人ひとりの口の中に合わせたオーダーメードの仕事で、時間がかかり、技術も必要であるにもかかわらず、専門の教育を受け、国家資格を得ても、いまだに診療報酬上、歯科技工物の製作技術料が正当に評価されていません。歯科の診療報酬が低い上に技工料金が市場価格で決まるという矛盾があります(同2月12・13・15日付)。
タクシー、建設業、介護などもそれぞれ低賃金・厳しい労働条件と人手不足の悪循環に陥り産業として非常に困難な状況です。こうした産業に共通するのは、安全や健康という人々の生活の基盤を担う重要性があるにもかかわらず、収益性が低く、市場に任せるだけでは成立しないので、安全基準などの社会的規制のみならず、料金設定や参入条件などに関する経済的規制が不可欠であり、場合によっては公費の投入も必要だということです。にもかかわらず政府の対応の中心は、外国人労働者の安易な導入など、規制緩和を反省せず、劣悪な労働条件の改善という根本問題を解決するどころか、より悪化させる方向を向いています。
具体的な解決方法はそれぞれの産業の実情に即した政策的対応が必要です。しかし唐突に抽象的な議論になって恐縮ですが、劣悪な労働条件と人手不足の悪循環は労働の社会的配分に関する市場の失敗であり、利潤追求第一主義に基づく資本主義市場原理の機能不全を現しています。歴史貫通的に言っても労働の適正な社会的配分による再生産の持続こそがあらゆる社会の基盤であり、それができない経済社会のあり方は変革されねばなりません。なんらかの社会的理念に基づいて労働と市場のあり方に規制を加えることが必要です。そういった問題を考える経済理論の基礎について若干考えてみたいと思います。
マルクス経済学を含めて主要な経済学は資本主義経済について、弱肉強食の競争が展開される市場の全面的支配を前提にしています。それは資本主義経済の本質を捉えるうえで必要な抽象であり、現実認識のための理論的基準としての意義があることは確かです。しかしそれは、抽象的理論から上向して、実際の個々具体的な資本主義経済を捉える際に、非市場的な部門の存在を考慮に入れることや、政策的介入の余地を否定するものではありません。ましてや完全競争市場を理想として、原則として規制を敵視するような価値観を前提することとは違います。「よい社会」を作る上で現実に資本主義市場経済をどう変革していくかを考えるならば、基礎理論の次元から応用性を確保するために、市場の捉え方を多様化する必要があります。社会的平均労働を投下労働の唯一の形態と考え、それを実体とする価値から出発しなければならない、ということを外して考えてみるのです。現実の投下労働は様々であり、障害者の労働などを含めて、各種の非効率的な労働もあります。それらも含めた労働の総体から成る経済社会を構想できないか、と考え、それを取り込んだフレクシブルな理論を構築できないか、と思うのです。
通説的には投下労働は社会的平均労働を前提とします。これは商品経済における市場競争下では一物一価原理によって商品価値がその水準に収斂するからですが、「よい社会」を考えるに際してはそのような商品経済の全面的支配を金科玉条にする必要はありません。市場のあり方を含めて検討し改善する対象とすべきでしょう。その際に労働価値論の出発点となるのは現実の具体的な一つひとつの投下労働です。そのような投下労働がどのような価値価格として実現されるかは、社会と市場のあり方によって左右されます。そこには様々な労働を包含しうる「よい社会」に接近するための経済政策の余地があります。市場競争によって排除されるタイプの投下労働を生かす道を発想するために、理論の出発点を見直してみたいのです。
社会的平均労働とは市場競争による平均作用の結果であり、そのような抽象概念の成立以前には現実の様々な個別具体的な投下労働があります。両者はともに投下労働であり、前者ではなく後者から出発する理論があってもよいと思います。そうすることで効率化を目指す市場競争が完全に支配するのとは違ったタイプの市場を労働価値論のヴァリエーションとして包摂できるのではないでしょうか。剰余価値追求をインセンティヴとし、ひたすらに効率を求める資本間競争とそれを推進する経済政策の結果が、劣悪な労働条件と人手不足の悪循環による再生産の危機をもたらしました。これこそが持続可能な経済社会という意味での最大の非効率であり、目先の非効率にとらわれず、すべての人々が参加しうるディーセントな協働をどう作っていくかを課題とする市場のあり方に向け、具体的な諸施策とともにそれを支える基礎理論を構想していきたいものです。
あいまいな話になってしまったので、過去の実例を挙げます。高度経済成長期には公害問題が深刻になり、大気汚染の原因としての自動車の排気ガス規制が重要な課題でした。公害のない「よい社会」の実現の一助としてそれに取り組むために、厳しい排気ガス基準が実施されました。自動車メーカーに公害対策コストを強い、利潤追求の阻害要因となったわけですが、その規制枠内で各メーカーは技術革新を進め基準をクリアしていきました。規制は公害対策のより高いステージでの資本間競争を作り出し、世界的に見ても自動車産業を発展させたのです。社会理念がまず確定され、それの要請する規制に従って資本と市場が新たな競争のあり方を作り出し、産業を発展させる、という形は、資本主義という特殊歴史的形態が歴史貫通的な経済発展という実体に貢献する結果をこの場合はもたらしました。古くは19世紀イギリスで10時間労働制という当時としては労働時間短縮になる資本規制が実現したとき、この利潤追求の危機に際して資本は技術発展による生産性上昇で対処し、産業資本主義の黄金期を現出しました。問題は今日の新自由主義グローバリゼーションの資本主義がそのような状況を再現しうるか、という点にはきわめて否定的にならざるを得ないということです。そもそもあらゆる規制を敵視し、人々の生活と労働の犠牲の上に利潤を積み上げようというタイプの資本と市場には引導を渡すしかありません。
一方でそのように劣悪な支配体制があり、他方ではたとえば障害者も分け隔てなく生きられる社会、というようなよりハイグレードな社会像(当事者からは、そんな当たり前のことを大げさに言う感覚が問題だ、と叱られるかもしれませんが)が求められる課題を背負っています。このあまりの落差に慄然とするばかりではありますが、直視し挑戦すべき対象です。社会変革を考えるに際しては、典型的には先端技術産業を中心に、その他も含めて生産過程における変革主体の陶冶という視点から新たな社会のあり方を考えるのが本筋でしょう。ただ残念ながら私は寡聞にして今その筋の材料を持ち合わせていません。そこでからめ手になりますが、むしろ資本主義経済の辺境と言える地域や弱者の立場から社会のあり方を考えることもひとつの方法かと思います。
原発事故で中断を余儀なくされたとはいえ、30年に及ぶ独自の「住民・職員の参加・協働、地区・集落を基盤とする自主・自立の地域づくり」を続けてきた福島県飯館村の「までいライフ」の理念は次のようなものです(松野光伸「『村民一人ひとりの復興』への模索と課題―全村避難・飯舘村の取り組みが問いかけること」『前衛』3月号所収)。
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私たちはこれまで、大量生産、大量消費で豊かな経済社会をつくってきたが、これからもそうした生活スタイルでいいのだろうか。豊かさや快適さ、便利さだけを追い続けるのではなく、もう少しスピードを緩め、「手間ひまを惜しまず」「時間をかけて」「つつましく」暮らすことも大事ではないか。また現代の日本では、効率一辺倒、お金がすべて、自分さえよければ、という価値観に流され、人と人との関係が希薄になってしまったのではないか。家族や地域の人と、「お互い様」の気持ちで「こころを込めて」付きあっていこうではないか。こういった「までいライフ」の理念は、飯館村が丁寧にこつこつと取り組んできた、自立の地域づくりの集大成とも言えるものでした。
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手間ひまを惜しまず時間をかけることは非効率であり、そうした商品は大量生産・大量消費型の市場では淘汰されその投下労働は価値実現されません。しかし大量生産型の安価な商品との使用価値の違いを認められるならば、投下労働に見合った価値が実現されます。その条件は、一方では違いを認める(総じて社会の成熟の一環としてある)生活の成熟であり、他方では有効需要を形成しうる所得水準の確保です。価値観の変化と経済政策の変革による「よい社会」への接近が、市場を変えることにつながります。「手間ひまを惜しまず」「時間をかけて」「つつましく」暮らすような消費生活のあり方は、それに対応したディーセントな生産と労働のあり方と相互規定的であり、大量生産・大量消費による余裕のない生活と労働もまた相互規定的です。生活と労働の再生産構造のあり方における後者から前者への移行を支えるのが価値観と経済政策の変化です。資本主義経済が使用価値指向から価値指向への変革(その究極が投機的利潤追求)を完成させたのに対して、資本への民主的規制は価値指向から使用価値指向への逆転を意味し、生活と労働において量的なもの中心から質的なもの重視へという人類史的動向につながるものです。
「よい社会」を考えるにあたって、新井たかね・井上吉郎対談「国連障害者権利条約批准の意義と権利実現への課題」(『前衛』4月号所収)からは、あふれるような珠玉の言葉を与えられます。昨年末、国会で批准された「障害者の差別撤廃と社会参加を目的とする人権条約」(障害者の権利条約)の「神髄」は「障害のある人も、障害のない人も、同じように社会に受け入れられる」(159ページ)ということです。そのような社会像の前提には、障害観の転換があります。障害の「医学モデル」から「社会モデル」への発展です。「障害を治療と訓練で克服しよう」という考え方から「障害は、機能障害と社会的障壁によって生まれる、社会参加への制限にほかならない」「不利益の是正責任は社会の側にこそある」という考え方に転換したのです(163ページ)。
ここからは「合理的配慮の無視や不足が、ときとして差別になるという、新しい差別観」(162・163ページ)が生じます。井上氏はある美術館に段差があって入れないので、地方議員を通じて交渉し、すぐにスロープをつけてもらいました。わずかな投資です。「スロープがなかった間は、車椅子障害者は一人で美術館に入れなかった。権利条約がいっている文化に親しむ権利を障壁が奪っている。/権利条約の批准で、日本中でそういうことをなくす取り組みを政府や公共機関がいっせいにやれば、変わります。同じような状態を社会につくろうということを権利条約が呼びかけているのです」(163ページ)。
物理的アクセスの問題に限らず、障害者権利条約の精神はいかに社会を変えていくかについて対談は語ります。脳性マヒの娘を持った新井氏の障害者運動への取り組み姿勢からは社会的価値観への示唆が得られます。
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私たちのたたかいの根底に仲間を大事にするということがあります。しかもそれは差別をされなかったり、差別をしない仲間なのです。たとえば障害のうんと重い人がある部屋に来ると、いままで集まって話していた人たちにとっては、話がこのままできなくなってしまうのですから、その人を出してしまうことで上手く収まります。しかし、その人をどうするのかを、中の人たちが考えて、その人も一緒にいよう、少し声が聴きづらかったら声をすこし大きく出そうと議論する。そういうことを繰り返しやってきているのです。一人を守っていくときの仲間にはどういう価値があるのか、うんと困難な人がいると、集団はその困難な人を抱えて、一緒にやっていこうという方向性をもってこそ集団は成長するし発達する。困難な障害をもっている人たちのことを宝物だと、みんなを成長させてくれる宝なのだということが、一貫してあるのだと思います。
174ページ
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あまりに立派な話を聞くと、自分には関係ないことだと引いてしまう人が多いかもしれませんが、実は誰にでも関係あることなのです。
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井上 新井さんの娘さんと同じ年齢の人が、そんなに生き生きとした生活をしているかというと、全然そうではない。いまの日本の状況は、障害のある人たちの抱えている貧困や困難と、同年齢の人が抱えている困難とはたいして変わらないのかもしれません。
新井 娘が養護学校に行っていたときに、養護学校の教育の内容は本当にすばらしいと思いました。全面発達をとらえていましたが、となりの小学校の子どもたちはそういう視点で教育を受けているのだろうか。さらにいまは先生方の状況や教育環境がひどいことになっていますので、一般の子どもたちもつらい状況があります。大人も同じですね。
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特殊の中に普遍を見抜く(射抜く)というか…。―障害者が抱える困難さは決して障害者だけのものではない。社会全体が抱える困難さをおそらく障害者は増幅して受けているのだろう。その克服の努力は並々ならぬものであるだけに、一般の人々にも多くの示唆を与えるに違いない―そう思ってみると、先の集団の成長の論理は社会一般にも通用すると分かります。「よい社会」について次のように結論づけることができます。「貧困な社会とはどんどんと人を切り捨てていく社会です。最重度・最困難な人をインクルード(包摂)する社会が豊かな社会です」(165ページ)。先に非効率な労働を含めた経済社会の構想とその理論的基礎について漠然としたことを書きましたが、この対談からはきちんとクリアな社会像を形成するよう叱咤激励されているようにも感じます(勝手な思い込みですが)。なお私はこの対談を「よい社会」を考えるという特定の視角から取り上げました。しかしそれは読む人それぞれの問題意識に応じて豊かな思想をもたらすものであり、多くの人々に推奨します。
「よい社会」を考える際に、社会の成熟化を考慮に入れねばなりません。ところがそれは資本主義の過剰生産による長期の社会的停滞とないまぜになって進行しています。それは偶然ではなく、資本主義経済の達成した高い生産力と一定の消費生活水準がある種の飽和点を迎えた結果であり、そこには歴史貫通的には絶対的過剰生産の要素があります。しかしもちろんこの停滞は激しい格差と貧困をともなっており、特殊資本主義的な相対的過剰生産がそこにあることも確かです。
後者を克服することで停滞を振り払い、万人が十分な所得をもって真の意味での社会の成熟化を享受することが求められます。先回りして言うと、そこに目標を置くならば、ロシア革命以来、「資本主義へ追いつき追い越せ」の途上国型社会主義から引きずっている生産力主義を止揚した成熟社会主義像を構想しなければなりません。それはともかく日本資本主義の厳しい現実の中でも、成熟社会を見据えた若者の意識変化があることに注目すべきでしょう。歯科技工士の雨松真希人氏(全商連全青協議長)は先述のような厳しい労働条件の中でも次のような希望を語ります。
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「失われた20年」ともいわれる不況しか知らない私たちの世代は、就職や起業などにおいても非常に厳しい状況にあります。就労環境においても非正規雇用の増加など、低所得化や将来の不安からも閉塞感が漂っているように感じます。
しかし同時に、周りには既に多くの物がそろっており、例えば薄型テレビを買うことで特に大きな喜びや達成感を得るわけではありません。このような中で、働く意義や新たな価値の創造という観点から将来の労働者でもあり消費者でもある若者の価値観の変化には、非常に興味深いものがあります。
…中略…
東日本大震災後に特に感じる変化は「人に役立つ仕事がしたい」「仕事を通じて地域に貢献したい」という思いを今まで以上に強く持つ若者が明らかに広がっているということです。
随想「震災後に変化した価値観」(「全国商工新聞」3月24日付)
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日本経済の長期停滞を突き破って、資本主義経済の底に埋もれている歴史貫通的経済社会のエートスが浮上しているかのようです。弱肉強食の新自由主義政策ではなく、「価値・剰余価値追求から使用価値追求へ」「量から質へ」の転換を担う若者たちの登場を後押しする政策が必要です。
成熟社会は老人社会でもあります。精神科医の岩田俊氏は「退職後、充実した生活を送るためには、…中略… 現役で働いている最中に、成功、達成感だけではない働き方や価値観を持った自分を実現できるか。これが鍵です」と説いています(「くらし彩々・老後を楽しむ自分に」、「しんぶん赤旗」日曜版、4月6日付)。仮に成功しなくても、みんなと一緒に努力した経過を楽しめることが大切だというのです。
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年寄りになるということは、人間だけができる難しい行為なのです。
次の世代に活躍の場を譲り、ほどほどに感謝され、時に「古い」「いらない」と言われることにも耐えながら、成熟した人間らしさを出す力が求められます。50代後半〜70代半ばまでは高齢期準備期。「年寄りになる」という成長を獲得しなければなりません。「残りの人生」ではないのです。 同前
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以上のことはもちろん一人の人間のあり方を言っているわけですが、まるで戦後日本資本主義の歩みを語っているようにも思えます。にもかかわらず新自由主義に染まった支配層は、成功・達成感だけを追い求め、ギラギラした肉欲を丸出しに、謙虚さや「成熟した人間らしさ」とは程遠く国内の人々を苦しめ、近隣諸国はじめ諸外国からの顰蹙も買っています。この壮大な勘違いを多くの日本人の生活実感に根差した成熟力で克服していくことが必要です。そこには、自然・伝統文化・地域社会に依拠して現代資本主義の病弊を直そうとする「までいライフ」のような「懐かしい未来」など、多様な知恵が発見されることでしょう。
深刻な労働状況に始まって、「よい社会」や「成熟化」などを見てきました。散漫な考察で、情緒的段階にとどまっておりますので、今後より明確化できるようにしたいと思います。
断想メモ
先日、名古屋北法律事務所・ホウネットの「くらし支える相談センター」に、白井康彦氏(中日新聞生活部編集委員)を迎えて「生活扶助相当消費者物価指数(生活扶助相当CPI)」のからくりを解明した話を聞きました。2008年から2011年にかけて4.78%もそれが下落したということを根拠に生活保護費の大幅削減が強行されました。ところが白井氏の解明によれば、この「厚労省独自」の生活扶助相当CPIがまったくでたらめであり、生活保護費削減が無根拠であることは明らかです。幾重にもわたる恣意的な設定で算出された生活扶助相当CPIは、生活保護世帯の支出実態とはかけ離れた「物価指数」となっています。その手口の詳細は、白井氏の「生活保護費を大幅削減する『手品』」(『週刊金曜日』2014年2月7日号所収、4月17日臨時増刊号にも再録)と「デタラメな生活扶助相当CPI」(『季刊公的扶助研究』第232号所収)をぜひ読んでください。
生活保護への攻撃は社会保障全体や人々の生活全般への攻撃の基礎となっています。これを許して99%人民の内部で足の引っ張り合いをしていては自分で自分の首を絞めることになります。卑劣な攻撃が統計の歪曲に基づくということは本来もっと世論の憤激を呼んでしかるべきものです。生活扶助相当CPIの欺瞞を大きく広げなければなりません。白井氏はこの指数の出し方も懇切丁寧に説明してくれました。関係者への精力的な取材に基づいてこの歪曲の周辺の問題点を明らかにし、また正義感と使命感を持って多くの人々に働きかけています。心あるすべての人々の協力を呼びかけます。とにかくまず知ってください。
2014年4月29日
2014年6月号
生産力視点と生産関係視点
大槻久志氏の「アベノミクス1年の総点検 『経済大国』からの転落」はいつものように明快です。その明快さは生産力視点を押し出したことにあり、産業構造の問題を起点に安倍政権の経済政策を斬っています。そこで特徴的なのは輸出の強調です。
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すべての産業素材と製品、そして食糧を国内で生産する孤立した国民経済は実際問題として存在しない。外国貿易は絶対に必要である。具体的に言えば一定量の輸入が必要であり、その輸入代金をまかなうだけの輸出は必須である。 19ページ
…中略…
こうして出来上がった戦後日本経済においてGDPに対する輸出の比率、つまり輸出依存度はほぼ12〜13%であり、過大とは言えない。輸出は日本経済にとって絶対の必須条件であり、これを輸出依存として修正すべきであるかの如く論じるのは誤りである。
19・20ページ
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この前段は当たり前のことを述べただけですが、それをわざわざ言うのは、後段にある「日本経済輸出依存論」への批判を強く押し出すためでしょう。おそらく本誌などに登場する諸論考の「誤り」に警鐘を鳴らしつつ、産業政策の重要性が力説されます。
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経済再生のためには新しい産業を育成することが必要である。それも人々の生活の必要に根ざした、そして大きな産業、大製造業でなければならない。それがなければ日本経済にもギリシャやキプロス島と同じ緊縮が課せられるかも知れないのである。
25ページ
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確かにそのような産業は日本経済に必要でしょう。しかしそれは一面の真実であって、新自由主義グローバリゼーションから相対的に自立した内需循環型の地域経済と国民経済を形成することもまた他面の課題としてあります。貧困化と成熟化に直面する日本資本主義にとって、「生活の必要に根ざした」経済をどう創造していくかは、生産力視点と生産関係視点の双方から熟慮することが求められます。
研究特集「アフリカとグローバル経済」では、アフリカについての「昔・貧困、今・経済成長」という生産力主義的な通俗イメージの誤りが正されます。旧宗主国との関わりを捉えることが依然として重要であり、経済援助や多国籍企業の進出による経済成長の中でも人民の厳しい状態を直視すべきことが説かれます。たとえば佐々木優氏の「多国籍企業と農業資源の収奪 ケニアにおける農業投資の実態」は土地収奪をこう告発しています。
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売買予定地は国土の1割にも満たない農耕に適した土地(約560万ha)であり、多国籍企業による土地収奪は肥沃な土地の所有権を自国の農民から他国の資本家に移譲すること、換言すれば植民地支配期への逆行≠ナしかない。そのため、多国籍企業による土地収奪は、多くの農民から土地を使用する権利(食糧を生産する権利)を奪い、ケニアの食糧自給を崩壊させる行為である。大規模な土地収奪が行われているケニア北部は近年大規模な干ばつが発生している地域であり、数百万人が深刻な食糧不足に直面している。だが、多国籍企業による、農業投資=土地収奪≠ヘ、実際に苦しんでいる人々を救済するためではなく、多国籍企業がアフリカの土地を利用して莫大な利益を得るためであり、むしろ土地収奪に直面した多くのケニア人農民に「農地の喪失」、「食糧安全保障の崩壊」、「さらなる貧困」、「都市部におけるスラムの形成と治安悪化」など、様々な悪影響だけをもたらしている。 66・67ページ
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ところで同論文では中国の進出についても批判しています。その工業投資は自国企業のさらなる進出の下地作りであり、生産技術の移転や雇用機会の創出をもたらしているかは疑問とされ(62ページ)、事実、雇用の大部分を中国から移住した労働者で賄っており(68ページ)、農地購入においても自国で消費する穀物等が栽培され、現地の人々が消費する農産物は生産されていません(64・65ページ)。確かに新自由主義グローバリゼーションへの一定の「適応」はいたしかたないのですが、資本主義諸国の多国籍企業と競ってアフリカに進出し現地のためにならない経済行動をとっていることは、自称「社会主義」との整合性を厳しく問われるべき事態です。軍備拡張を背景に、資源確保のために見せている東シナ海・南シナ海での覇権主義的行動の経済的土台がここにあるのか、という懸念を抱かざるを得ません。
中本悟氏は、グローバル都市を現代資本主義の最先端の生産力の担い手として分析しつつ、住民・勤労者の立場から、つまり生産関係の視点から批判しています(「『グローバル都市』の経済構造 ニューヨーク市にみる」)。
論文では、サスキア・サッセンにより、グローバル都市の特徴を以下のようにまとめています(132ページ)。
(1)多国籍企業の本社が持つ意思決定と計画を行なう機能を備える
(2)その機能を支える生産者サービス(金融と他の対事業者向けの専門的サービス)が発展しており、このサービス業自身がグローバルネットワークを持っている
(3)多国籍企業本社と対事業所サービスで働く人々や観光客相手の各種消費者サービスが発展し、さらにその消費者サービスで働く人々向けの消費者サービス業が発展し、その結果、対事業者サービスと消費者サービスが集積する
(4)先端産業のイノベーションが行なわれる知識産業が集中し、それを需要する市場がある
このようなグローバル都市では、多国籍企業本社で働く者と消費者サービス業で働く者との経済格差が広がり、金融・不動産業の発達でバブルの拡大と破綻という脆弱性が深まります(133ページ)。
したがって民間コンサルティング会社が公表する「グローバル都市」ランキングに拝跪して「都市間競争」に乗り遅れるなと焦るのは誤りであり(生産力主義の陥穽)、そこに見る「『都市間競争』とは要するにグローバル企業の競争条件をめぐる競争にほかならない」(129ページ)ことを捉えることが必要です。グローバル都市が多国籍企業にとって好都合でも、そこの住民や働く人々にとっては過密さが様々な負担をもたらしており、上記の問題もあります。「グローバル都市をめぐる『都市間競争』ではなくて、住民と勤労者にとっての快適な生活環境の確保こそが、都市の品格と持続可能性を高める」(129・130ページ)という認識が重要なのです。
ニューヨーク市は「金融独占都市」(133ページ)「知的財産独占都市」(134ページ)「脱工業化・サービス産業化が極度に進んだ都市」(135ページ)として、日本の大都市の追随を許さないグローバル都市であり、それだけに貧困と格差も飛び抜けています。2013年11月の市長選では、格差是正などを唱えた民主党のビル・デブラシオ氏が「70%をこえる高得票率で当選」(136ページ)しました。5月8日発表した市長の予算案によると、ニューヨーク州から3億ドルの援助を受けて就学前教育を4歳児からに拡大し、学童保育の充実や公立学校の施設改善などにも取り組みます。低所得層向け住宅建設では、今後10年間に410億ドルを使って20万戸を建設し、工事に伴って約19万4千人の雇用が生まれるとしています。また労組との合意に基づいて市職員の賃金を今後7年かけて10%引き上げることを明らかにしました(「しんぶん赤旗」5月10日付)。
住民福祉を容赦なく削って、職員の賃金を下げるのみならず、政治的に抑圧することを習い性とする(それで改革者と称して人気を博するという)日本の多くの自治体首長と何と対照的なことか。そのように専制的な自治体運営を信奉し断行する大都市首長は、橋下徹大阪市長に典型的に見られるように、グローバルな都市間競争を喧伝しています。その本質は何かということを中本論文は教えてくれるのです。こうした生産関係視点からの批判に次いで、グローバル都市の生産力像へのオルタナティヴを私たちは追求していかなければなりません。
自然科学(以下では単に「科学」と表記)は常人にとってはよく分からない領域であり、ましてやそれと社会との関係についてはよけいに分かりません。そこで、科学は社会のあり方に先立って存在する純粋なものであり、その発展が技術発展という形を通して、生産力を向上させ、社会に影響を与える、というような漠然とした関係を想像しがちになります。また出来上がった科学自体は価値中立であり、善用も悪用も人間次第というような見方もしがちです。不断に発展途上にある科学には当然のことながら、分かることと分からないこととがあり、(たとえば安全性について)分からない部分の技術的利用の如何については価値判断で補うしかない、というようにも考えられます。こういった見方では、科学・技術の利用のみならず、その形成にも社会のあり方が深くかかわっており、したがって現代においては資本主義的生産関係の規定性が強く働くことが看過されています。つまりそこでは漠然と科学の認識過程のあり方が社会との関係にも延長して捉えられ、科学・技術と人間一般あるいは社会一般が表象されることで、現代資本主義社会における生きた科学・技術像が捉え損なわれています。木本忠昭氏の力作「科学・技術の社会的存在形態と科学者の二重性」は、福島第一原発事故や水俣病公害裁判などを踏まえて、科学的社会主義・史的唯物論の見地から、科学・技術を資本主義形態において捉えることの重要性を専門家以外にも分かりやすく説いています。
本誌5月号所収、丸山尠邇≠フ「原発問題と経営学 電力独占とエネルギー転換」では「生産力の社会的質」(88ページ)という観点が提起され、「生産力は社会において現実に機能しているという側面からみれば、それぞれの歴史的な生産関係によって特徴づけられる存在なのである」(89ページ)と主張されました。その是非は難しいところですが、重要な問題提起です。さらに今号の木本論文からは、「科学・技術が独立変数としてあって、その従属変数として生産力があり、さらにその従属変数として生産関係がある」という単純な関係ではなく、科学・技術そのものが生産関係によって規定される側面があることを気づかされます。
論文では、科学・技術と社会との関わり方について、科学的認識過程あるいは研究過程そして研究組織のあり方という方向から、また技術について「労働のあり方」や「生産に関する決定」との関係という方向、さらには行政への姿勢という方向、科学的知識の所有形態と公開のあり方という方向等、様々なアプローチで解明されています。
まずは科学的認識過程の複雑さが恣意的利用に道を開く可能性を持つことについて、紹介しましょう。科学的知識の偏在と科学者の社会的評価が好ましくない形で結合して、誤った「研究者の権威」が発生し社会的に固定化する場合があります。
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そうした好ましくない結合形態を打破するには、「科学だけでは決められない」と高見の見物姿勢をとるのではなく、科学的手法を貫くこと以外にない。しかも、社会的な側面からすれば、弱者、被害者の立場に立って問題を処理する以外にない。自然に関する研究データは、本来自然の論理を反映すべきで、いかなる社会側の論理も入り込む余地はないものである。しかし、実際は、研究データはいかようにも「作れる」ものでもある。条件を変えたり、条件を無視すれば目的にあうものとなるからである。
自然条件や自然の過程は多様な要素が関係しているので、特定の条件下での問題は様々な形で結果を示すことができる。行政の期待に応じて、その中の一つを科学的結論だと称して提示することなど難しいことではない。これを、さまざまな解があるからといって、「科学に問うことができるが科学では答えられない」と言うのは、行政的論理を正当化するもの以外の何物でもなく、まさに茶番である。 160・161ページ
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自然認識の複雑さから生じうる、このようなデータ処理や研究結果利用における恣意性が問題とされるだけではありません。そもそも「研究対象の選定」から「科学者のコミュニティのあり方」に至るまで研究過程の全体が社会的存在形態を問われています。
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たしかに、自然を解明するために個別物体や現象を研究しているが、何を研究対象に選ぶか、あるいは研究結果をどのように処理するか、論文として公開し他の研究者や一般市民との共有的公共財とするか、私有物として秘匿するか等々は、所属などの社会的関係や位置に強く左右されている。科学者の所属する科学コミュニティは、データを公開し共有物化しようとするが、コミュニティ自身を含めて科学者を社会的関係から完全に自由にさせる力を持っているわけでもない。研究結果としてのデータが私有財産として扱われる社会関係にあっては、結果データのみばかりか科学者の活動まで含めて、期待される公益性に反する場合もありうる。したがって、科学や科学者が社会的にどのような形で存在し、機能しているかは、いわば「社会的存在形態」を見る必要がある。 154ページ
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以上のようにすでに自然認識と研究過程そのものから科学(者)の社会性は問題とされます。さらに技術ともなれば、それが働く「生産過程内では、自然の論理と資本の論理が関わり合っている」(147ページ)ことが決定的です。
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問題は、生産過程内で提起される機械の論理や技術的論理によって、新たな機械の導入や技術的展開が期待されても、機械や技術が資本であることから、実際に新たな機械や技術を導入するかどうかは、資本家、企業家が決定権をもっているということである。生産過程で科学的に要求される新たな機械の導入や技術展開がなされるかどうかは、機械自身、技術自身が決めることではない。ここに、技術的論理と、その技術の支配者、所有者との背理が生まれる。そして、場合によっては、技術的要求の方向性とは離れて、労働者支配のための新たな機械、技術が導入されたりもする。 146ページ
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高度の科学理論に裏打ちされる必要がない「末端の技術」による蒸気発生細管が故障するだけで原子炉は動かなくなるのですが、それが見落とされるという認識の欠陥には労働過程のあり方という土台が存在します。木本氏は「技術の問題は、労働の問題でもあ」り、「技術全体の構造、システムのなかでは労働が分化し、危険な部分での労働や技術現場や日雇い的労働者等に担わせるなどの差別構造をなすことによって、技術現場の実態が管理的上層労働者・技術者に伝わらないという構造を形成しているのではないかと疑われる」(153ページ)と指摘しています。
以上のように、科学・技術の利用のみならずその形成の段階から、それらが資本主義的所有・決定権の影響下に置かれ、さらにその上部構造である行政に規定され、しばしば歪曲さえ起こり得るというのが実態です。福島第一原発事故や水俣病裁判などに典型的な御用学者の存在はそうした社会構造から発しています。それを理解せず、「科学的認識」や「科学と社会との関係」の一般論から「科学はすべての自然を説明できない」とか「科学だけでは決められない」というような漠然とした認識でお茶を濁していると、「現実には、『科学は決められない』状態にはなく、科学者は必ずしも市民の声とは関係なく諸種の審議会に参加あるいは、行政と連携して諸事の決定や遂行に影響力を行使している」(141ページ)ことをお人よしにも看過することになります。「社会的対立の中に『科学的知識』が存在している。こういう状況下で問われるのは、未知のものに対する科学的態度と、未知のものに対する行政措置の区別である」(149ページ)のですが、実際にはしばしば両者を区別せず、「科学的に分からない」ことを特定の行政措置の免罪符に使用しています。福島原発事故における放射線被曝線量の安全性の問題にそれは見られます。
経済・政治・社会を考える際に、科学・技術は所与のものと想定してしまいがちになります。しかし木本論文によれば、科学・技術の資本主義的形態を問うことで、生産力と生産関係、そして上部構造たる政治のあり方をさらに分析しうることが分かります。そして社会認識の基本としての史的唯物論についても理解を深めたくなります。
平和について考えてみる …革新リアリズムを探って
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(要旨)
集団的自衛権容認など、安倍政権の暴走を阻止するため、保守良識派をも含めた広範な共闘が進んでいます。ただしその中でも革新派は独自に理論追求し、真の平和を目指すために人々に説得力ある議論を提供する必要があります。多くの人々が平和への脅威を感じているとき、正確な現状認識と政策提起を可能にするには、平和の状態について段階的に区別し、現状認識と価値判断とを区別しなければなりません。それに照らして、例えば軍事同盟・軍事的抑止力などへの見方が整理できます。そうすることで空想的理想主義というような批判を克服し、人々の支持を得る可能性を高められるでしょう。
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素人論議ながら、平和についてあれこれ考えてみましたので、以下に私論(試論)を提起します。
共闘と独自性の両面追求
安倍政権の数ある暴走の内、集団的自衛権容認などの「戦争のできる国づくり」に対しては、保守良識派なども含めた広範な「一点共闘」が反対の声を強めており、世論の多数派も警戒しています(ただし集団的自衛権の「限定的容認」を選択肢の「中庸」に配した作為的方法の世論調査では「容認」が多数派となっており、確固たる反対になってはいないことがうかがえる)。安倍首相を始めとする保守反動派を孤立させ、その野望を挫折させるため、この共闘は必要不可欠ですが、それと同時に革新派は理論政策の正確化を独自に追求していくことも必要です。ところがそこに政治的共闘に引きずられた理論上の保守ボケがあるのではないでしょうか。たとえば「個別的自衛権であっても、武力でこれを行使することは憲法上認められていないことが前提ではなかったのかと思いますが、こうした原点が『お留守』になってはいけません」(松井芳郎「戦争違法化の世界の流れに逆行する安倍内閣の集団的自衛権行使容認(下)」、『前衛』6月号所収、51ページ)という警告があります。集団的自衛権の容認を許さないために、個別的自衛権に関する意見の相違を棚上げして共闘することは絶対に必要です。しかしそもそも革新派は何を目指しているのか、それに照らして当面の一点共闘はどういう意味を持っているのか、という自覚がなければなりません。そういう見通しを持つことで初めて、複雑な情勢の中で様々な不安が持ち込まれる世論を進歩的な方向に変え、真の平和、さらには積極的平和を実現する道筋が描けるのです。この不安の克服は将来の発展方向の観点から行なわれますが、当面の闘いにも資するものです。これは決して保守良識派にはなしえない課題であり、革新派の理論的政策的彫琢が求められるところです。誤解がないように言えば、それは保守良識派の人々の危機感・誠意・熱意を軽視することではなく、その実践的知見に学びつつ敬意を払って共闘を進めることは当然です。
「平和への脅威」を捉える
多くの人々は、安倍政権の暴走に違和感を持ちつつも、日本の安全保障に不安を抱いて迷っているのではないでしょうか。それを的確に表明した朝日新聞「声」欄への投書(5月12日付)を紹介します。
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「戦う」という若者に届く言葉は
幼稚園経営 須田勝代(群馬県 51)
憲法記念日の特集を読んだ。根強い反対にもかかわらず、政権は解釈変更で集団的自衛権行使を認め、改憲で戦争をできるようにしようとしている。ただ、それがいけないという説得力ある言葉が今あるだろうか。紛争は世界中にあり、武力介入が求められることも多い。若者が「生き残りに必要な軍事力を持てないのは理不尽」と思うのも不思議ではない。
韓国船の沈没事故で救助された船長が非難を浴びた。しかし、非常時への心構えがなければ自分だけ助かろうとするのも無理はない。乗客乗員の命を守るためには十二分な計画と準備が必要だったのだ。この危機管理の無さは具体策無しに戦争に反対するリベラル層に重なる。
私は日本が平和憲法を捨て、軍事力のある列強国に変わることには反対だ。だが、生き残るために戦うという若者に暴力にかわる方法をうまく説明できない。
漫画「進撃の巨人」が人気だ。人間と巨人の戦いを描く作品は、受け入れがたい暴力場面もあるが、思春期の一途な正義感をしびれさせるのは理解できる。少年兵アルミンは言う。「何も捨てることができない人には何も変えることはできないだろう」と。3日の意見広告「未来への責任、9条実現」がきれいごとに見えるのは、刻々と変わる国際情勢の中、平和のために何を選び、どう対応するかが見えづらいからではないか。
政権の流れに反対する政治家や、すべての大人たちよ。未来への責任を唱えるのなら、命が危険にさらされる前に真剣に考え、具体的でわかりやすい提案を若者に示し、行動しよう。でなければ若者は沈む危険を感じる船を捨て、「変える」人について行ってしまうだろう。
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投稿者は、心情的には「改憲で戦争をできるように」することには反対だけれども、「紛争は世界中にあり、武力介入が求められることも多い」情勢においては、それに理論的に反論できないとしています。さらに「具体策無しに戦争に反対するリベラル層」の「危機管理の無さ」を難じ、「意見広告『未来への責任、9条実現』がきれいごとに見える」と批判しています。しかし最後には、政権の流れに反対する提案と行動を促すことに一縷の望みを託しています。
私は平和を考える出発点は、戦争の悲惨さに思いを致し、戦争に反対する心情であり、いかなる意味でも、それを無責任とかきれいごとと非難することはできないと思います。それ以外から出発する議論は例外なく間違いです。ただしそこだけに留まるわけにはいきません。平和構築の理論を説得力を持って提出する必要があります。その際に、戦争の現場の事実、それに発する感情、そうしたものが平和理論にとっての原点であるとともに、行論の中で常に思い浮かべるべき表象です。平和を求めることを感情論として切り捨てることなく、かといってそこだけにとどまることなく平和を理論化し、情理兼ね備えた言葉を提起することが必要です。
短い投書文に対してはないものねだりだとは思いますが、ここには安全保障への不安が分析することなく漠然と語られており、それが集団的自衛権容認にまで結びつきかねない危険性が現れています。そうした一定の世論状況を作り出し、そこに便乗して、安保法制懇報告書が5月15日発表され、安倍首相が記者会見を行ないました。その検討がここでの課題ではないので、おおざっぱなことだけを言います。
この報告書と記者会見は平和について徹底的に軍事的抑止力の立場に立っており、外交努力をまったく軽視しています。その上で「日本近海で紛争が発生し、邦人を救助・輸送する米艦を防護しなくてもよいのか」といったかなり非現実的な危機の想定を具体的に述べることで不安を煽っています。安倍政権のこうした手法は麻生副総理のいうようにこっそりナチスをまねしたのではないかとさえ思えます。ナチスの高官ゲーリングはこう語っています。
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もちろん、普通の人々は戦争を望まない……しかし、政策を決定するのは最終的にはその国の指導者であるのだから、民主政治であろうが、ファシスト独裁であろうが、議会制であろうが、共産主義独裁であろうが、国民を戦争に引きずり込むのは常にきわめて単純だ……そして簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国家を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国家についても等しく有効だ。
「国家秘密警察ゲシュタポを創設し、経済計画四カ年計画の全権として軍備拡張を強行したナチスの軍人ヘルマン・ゲーリングに対して、独房でインタビューを行ったアメリカ人のグスタフ・ギルバートの記録である『ニュルンベルク日記』の中の言葉」
山室信一「『崩憲』への危うい道 軽々な言動によって骨抜きにされる日本国憲法」
(『世界』2013年10月号所収) 51ページ
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安全保障は英語では security で、これは「安心」というニュアンスが強く、主観的なものです。安易かつ野放図に安心を求めると「より強力な武器を持たないと不安」ということになります。そうではなく「平和とは、努力してつくる、実現するものです。戦争にならないよう話し合い、交渉して問題を解決することが大切です。武器は平和を乱すものであり、それで平和をつくることなどできません」(杉浦起明・日本ホーリネス教団川越高階キリスト教会牧師、「しんぶん赤旗」5月19日付)という宗教者の真摯な言葉に耳を傾ける必要があります。もっともこれに対しては「武器による平和もある」として、納得しない向きもあるでしょう。それについては後述します。
安保法制懇の報告と首相会見に対してどんぴしゃりの反証を挙げたのが、アフガニスタンで約30年にもわたって農水路建設などの支援をしている「ペシャワール会」の中村哲現地代表です。米国は対テロ戦争でアフガニスタンを攻撃し、NATO諸国も集団的自衛権を発動して軍事行動に加わりました。したがって現地住民が欧米人に向ける目は厳しく、兵士が地元住民に襲われる事件が頻出しています(「朝日」5月17日付)。
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一方で、現地の人たちは、日本が平和憲法を持ち、現地での戦闘に直接かかわってこなかったことを理解しているという。
ただでさえ、危機管理には細心の注意を払う。宿舎から作業場への移動ルートは常に変える。移動の時間帯も変える。現地の人とは政治的な会話を避ける。地元の習慣にそぐわない行動は慎む。中村さんはそんなルールを自ら課しながら危険を回避してきた。
しかし、仮に日本がNATO諸国のように集団的自衛権の行使で米軍と軍事行動をともにすれば「注意すれば大丈夫、というレベルではない。ここでの活動はもう無理だ」と言う。
同前
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首相会見では、海外で活動する日本の団体が武装集団に襲われたときに、現状の憲法解釈では自衛隊が救えない、と訴えました。これについて中村氏は「私たちに何かあれば、主権国家として現地の政府や警察が動いてくれる。武力でトラブルを起こすようなまねはしないでほしい。政府の方針は、会の活動を脅かすものにしか思えない」(同前)と斬り捨てています。中村氏はまさに危険な場所で努力して平和をつくり実現しようとしている、最も誇るべき日本人であり、その腹の座り方は、「無責任に反戦を叫ぶだけの進歩的知識人」とか「危機管理の無さ」という類の揶揄をまったく寄せつけないものです。日本国憲法の偉大さとそれに沿って平和を実現する努力のあり方を鮮やかに見せつけ、逆にもっぱら軍事力による平和を掲げた集団的自衛権の危険さを具体的に告発しています。
「安倍政権やその支持者たちがどれほど危険なゲームをしているのか、日本がほんとうに破局の縁に立っているという事実が知られていない」(「しんぶん赤旗」5月17日付)と警鐘を鳴らす内田樹氏は問題の本質を鋭く指摘します。氏によれば、集団的自衛権の行使は米国の軍事行動に従属的に帯同することであり、米国の敵対勢力から日本は「敵国」と認知され、国内外でのテロのリスクが高まります。
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そういう既成事実を積み重ねて、「非常時」という口実の下に、立憲政治・民主制を空洞化するのが安倍政権のねらいだと思います。
それによって国家独裁的な資本主義(国家資本主義)へとシステムを改造することを安倍政権はめざしているように見えます。 同前
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内田氏は集団的自衛権の行使容認にかける安倍政権のマッチポンプ的策略を見事に衝いています(マッチポンプとはいっても、自分で火をつけて後から消してやる、というよりも、火に油を注いでそれを「解決」と称するという体のモノだが)。集団的自衛権は軍事的抑止力の強化によって安心を増すどころか、周辺国の警戒と軍拡を呼び、さらに新たな敵を作り出し、脅威を増します。それがまた強権国家への変貌を正当化するという悪循環(支配層にすれば好循環)に陥ります。実はこうしたマッチポンプ的性格は好戦勢力に共通するものであり、後述するように、戦後日本のサンフランシスコ体制は全面講和でなく片面講話を選ぶことによって、中立ではなく仮想敵を作り出し、それによって再軍備への道を自ら作り出したのです。それは米帝国主義が冷戦体制における対米従属を日本に押しつけたものですが、日本の支配層は自ら従属の道を選択したのです。
先の「朝日」投書が訴える安全保障への不安が漠然としている、と言ったのですが、関連して、世論の雰囲気と安全保障の客観的状況についてそれなりにまとめたものを見てみましょう。
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いまの世論を考えると、北朝鮮による拉致問題と、中国との尖閣諸島の領有権問題が大きく影響している。これは、そもそも集団的自衛権の問題と関係ありませんが、心理的には結びついている。日本が「なめられている」からそういう問題が起きるので、集団的自衛権などでこわもてになれば、近隣諸国もおとなしくなるのではないかという素朴な感覚が底流にある。外務省や政権がそこにつけ込んでいます。
抑止力を持つべきだとの考え方を全否定はできませんが、「安全保障のジレンマ」と言われるように、強硬策がかえって緊張を高め、偶発的な危機につながりかねないことは歴史が証明しています。
長谷部恭男・杉田敦対談「集団的自衛権 そんなに急いでどこへ行く」(「朝日」5月25日付)での杉田発言
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抑止力について全否定はできない、という問題についてはまた後で考えます。杉田発言は世論が抱える気分については、かなり言い当てているように思いますが、以下では平和への脅威について客観的に捉えてみたいと思います。
世間では、ネットや俗悪週刊誌など一部のメディア・書籍などに中国と韓国への憎悪を煽るものが満ち満ちています。これが安倍政権に象徴される右傾化の底流をなしていることは明らかです。しかし韓国が日本への軍事的脅威であるわけはないので、問題は中国と北朝鮮ということになります。
日中関係においては、領土・資源・歴史の各問題が横たわっています。このうち歴史問題は日本側が悪いので、その点をはっきりさせて、道理の次元において対等の交渉ができる条件を整えなければなりません。「安倍的状況」のままでは日本は戦後世界の民主化の水準に達していない問題外国家として世界中から(「経済大国」の手前、表立っては言わない国からもホンネでは)侮蔑される恐れがあります。日本の支配層は自発的に歴史問題の解決をやり切れないので、人民の声と運動によって圧力をかけるほかありません。
領土問題や資源問題では中国の覇権主義が目立っており、それは対日のみならず対アジアその他でも明確です。しかしそれを日本にとっての軍事的脅威と喧伝するのはためにする議論でしょう。国境周辺での衝突は別として、中国軍が日本の国土に本格的に侵略してくるとか、ミサイルを撃ち込むというような、市民生活が危機に陥るような事態は考えられません。領土・資源問題はあくまで理性的話し合いで解決すべきです。中国の軍事的挑発に近い行為も散見しますが、偶発的衝突を防ぐような両国の連絡調整機構を整備して日常的接触を絶やさないことが今重要です。歴史問題などでいがみ合っているような不毛な状態を一日も早く解決することです。日中の経済的つながりなどを見れば、戦争など論外であることは明白であり、不戦を不動の前提として政策展開する以外の姿勢はありえません。
これに対して、北朝鮮のミサイル・核は日本にとって軍事的脅威です。国交がなく、経済その他の交流もわずかな状況下では、武力行使の可能性がないとは言えません。とは言え、これまで北朝鮮のミサイルが日本に打ち込まれることはありませんでした。戦争していないのだから当然ですが、今後ともそういうことがないとすれば、そこでより重要な歯止めとして働くのは日本の平和憲法と日米軍事同盟のうちどちらでしょうか(もちろんほかの要素もいろいろありますが、ここではこの二つを比べています)。これはもちろん後者でしょう。北朝鮮の異様な政権が平和憲法を尊重するとは考えられず、米軍の報復攻撃によって国家を滅亡させられることへの恐怖がミサイル発射を踏みとどまらせる最終的な歯止めであることは容易に想像しえます。
ならば日本の平和にとって憲法は役に立たず、日米軍事同盟の方が大切なのでしょうか。それは違います。北朝鮮のミサイルの矛先が向いているのは、韓国・日本・米国だけです。中国・ロシア・モンゴルはもちろん、世界のどのほかの国にも向けられていません。それは前3か国が北朝鮮の敵対国であり、その他の国は友好国か少なくとも敵対国ではないからです。ミサイルの迎撃態勢を整える(それは技術的に困難の上に不確実だが)とか、集団的自衛権容認など軍事同盟を強化するとかの不毛かつ危険な努力ではなく、日朝国交を正常化し、経済援助を先駆けに経済的つながりを深め、人的文化的交流も活発にして敵対状態をなくせば、ミサイルの脅威は確実になくなります。さらには6か国協議を再開し、発展させて、東北アジアにおいてもASEANのような平和の地域共同体を作り、ゆくゆくは日米軍事同盟を解消することがより確実な安全保障となります。今や可能性は少ないけれど、米国が北朝鮮を侵略することになれば日本が巻き込まれてミサイルを撃ち込まれることはありえます。どんな強大な軍事力も確実な安全保障ではなく危険と隣り合わせなのです。現状においては日米軍事同盟が北朝鮮のミサイルに対する抑止力となっているのですが、それはきわめて不安定な状況です。日本の本当の平和のためには、その現状を転換して、軍事的抑止力信仰に基づく軍事同盟の道ではなく、憲法の導く理性的話し合い・外交の道が選ばれるべきだと言えます。
二様の区別 <「平和」と平和、現状認識と価値判断>
世論を悪い方向に持っていく原因となる、安全保障上の不安の根について、具体的に考えてみると以上の結論に達しました。そこから得られる理論的含意として、平和について考える際の留意点を以下のように考えます。
二つの区別を提唱します。一つは平和の状態に関する段階的区別です。二つ目は平和についての現状認識と価値判断とを区別することです。
平和とはまず戦争をしていないことです。最も理想的には、貧困や差別など戦争の原因となるものを克服した結果として、戦争のない状態であり、これを積極的平和と呼び、最も恒久性が高い(最上級)ものです。積極的平和を目指す努力は原因療法にたとえられるでしょう。それに対してそうした状態には至らない段階で、外交・話し合いによって戦争を避けることができている状態を消極的平和と呼び、より恒久性が高い(比較級)ものです。消極的平和を導き出す努力は対症療法にたとえられます。この二つに対して、そうした努力もありながらも、軍事的抑止力を含めた諸要因によって戦争がない状態を「平和」(カッコつきの平和)と呼びます。これは恒久性が低く戦争と隣接状態です。「平和」においては、原因療法・対症療法と軍事力とのバランス具合により、戦争回避の恒久性と戦争可能性とが微妙に変化します。以下の行論では、積極的平和と消極的平和とを合わせて真の平和、あるいは単に平和と呼び、「平和」と対比します。現存するのは多くは「平和」であり、目指すのは平和です。「平和」と平和とを区別することが、現状の理解と運動の方向確立に必要だと考えます。とはいえ「平和」と平和は戦争がない状態という意味では共通であり、当然のことながら戦争とは決定的に区別されます。戦争状態から「平和」まで押し戻すことがきわめて重要なのは言うまでもありません。
平和についての現状認識と価値判断を区別することは平和運動を進める主体にとって不可欠だと思います。運動主体はしばしば価値判断に引きずられて現状認識が不正確になり、人々に対して説得力を欠くことがあるからです。先に「武器は平和を乱すものであり、それで平和をつくることなどできません」という宗教者の発言を紹介しました。私はこれは正しいと思いますが、「武器による平和もある」として、納得しない向きもあるでしょう。上記の区別によれば、武器で平和をつくることはできませんが、「平和」をつくる場合はあります。北朝鮮のミサイルの脅威をさしあたって抑えている主な要因は、日米軍事同盟の軍事的抑止力です。それは不安定な「平和」であって、目指すべき平和ではありませんが、ともかくも戦争状態ではありません。先の宗教者の言葉が正しいにもかかわらず、説得力が低いとするならば、現状認識と価値判断とが区別されていないためです。軍事的抑止力による「平和」がいいか悪いかということと、それが現状としてあるのかないのかということとは別問題です。平和に対して良心的な人々はしばしば「悪いものはあってはならないから無いはずだ」という錯覚(客観的には論理のすり替え)に陥ります。「平和は軍事力によっては守られないはずだから、平和はもっぱら外交・話し合いによって守られている」というのも願望であって現状認識としては間違っています。そう主張する人は、現状の「平和」と目指すべき平和とを区別していないのだから、私の用語法で言えば、この発言は「平和は軍事力によっては守られないはずだから、『平和』はもっぱら外交・話し合いによって守られている」と言っていることになります。北朝鮮のミサイルの例から明らかなように、ここにおける前段の価値判断は正しくても、後段の現状認識は誤りです。誤った現状認識は説得力を持たず、そのため「平和は軍事力によっては守られない」という価値判断そのものも誤っているかのような逆の錯覚(客観的には論理のすり替え)が起こります。私が現状認識と価値判断の区別を言う目的は、価値判断の正当性を擁護することです。「現状認識が甘く間違っているから、その理想と政策も空想的だろう」という批判に応えるには、現状認識をリアルに説得力を持たせるほかありません。平和の認識と実践は<「平和」状態と戦争可能性について現状認識を確定する→それに対して平和を目指す価値判断から評価する→平和に接近しうる政策をつくり実践する>という形で展開することになります。
私たちは現状認識の段階では「専門家」の研究成果や意見を参考にします。豊饒な現実を捉えるためには仲間内だけの知見で済ますことはできないからです。「専門家」の多くは保守的立場で軍事的抑止力を当たり前の前提とし、それを変えることを想定していません。したがってその研究成果や意見を参考にする際に、そうした限界を踏まえることがないと、いつの間にか自分たちの価値判断と政策をなし崩しに変質させる可能性があります。現状認識と価値判断の区別はそうした意味でも必要だと考えます。
以上のように、「平和」と平和を区別すること、現状認識と価値判断を区別すること、この二様の区別によって、現実を見つめるリアリズムと理想への変革を促すロマンティシズムとを両立させることが可能になります。それを認識論的には変革的リアリズム、政治的には革新リアリズムと呼びたいと思います。
戦後日本の戦争と平和を規定する二大要因を<(1)日米軍事同盟・自衛隊、(2)日本国憲法(と平和世論←民主勢力の努力)>とまとめることができます。(1)が目指すものは「平和」ないし戦争であり、(2)が目指すものは平和です。両者はまったく相対立するものでありながら、共存してきました。その合成力によって生まれたのが現代日本の「平和」であり、まさにそれは矛盾そのものなのです。この現実の矛盾は社会意識に反映します。世論調査ではだいたい安保条約と自衛隊への支持も、憲法9条への支持も多数派となり「両立」しています。これは理論的政策的には矛盾なのですが、それは人々の勉強が足らないというよりは、現実の矛盾をストレートに反映した結果と見るべきでしょう。
戦後日本は事実上米軍の占領化に置かれ、1946年に日本国憲法公布、47年に同試行、(49年に中華人民共和国成立、50年に朝鮮戦争勃発)、50年に警察予備隊創設、レッドパージ、51年にサンフランシスコ講和会議で日米安保条約調印、52年に保安隊発足、54年に自衛隊発足、といった経過をたどり、ここにその後を規定する日本の「平和」の枠組みが形成されます。特に日本の敗戦処理を行なう講和会議で安保条約が結ばれ、米国の冷戦体制に従属国として組み込まれるサンフランシスコ体制が発足したことが法的政治的に決定的でしょう。このとき世論は全面講和が片面講話かで二分され激論が繰り広げられました。軍事同盟の道を取らずに全面講和によって中立政策を実施するなら日本国憲法の想定する平和を実現する努力が開始されたでしょう。歴史にイフは禁物であり、それが首尾よく成功を収めえたか否かは大問題ですが、少なくとも政策的矛盾がない一本道を探求することにはなったでしょう。しかし実際には上記のように、一方では片面講話で冷戦下の対米従属国として軍事同盟のくびきにしばられながら、他方には侵略戦争の反省の産物であり平和を志向する日本国憲法がある、というきわめて複雑な矛盾した状況が出現したのです。
片面講話で冷戦体制下に組み込まれたということは、仮想敵国を持つことであり、自ら戦争の火種をつくることです。その状況で戦争を回避しようとすれば軍事同盟を中心とする軍事的抑止力に頼ることになります。対米従属下での再軍備が必然となります。ここには初めから真の平和政策はなく「平和」への弥縫策があるだけです。自ら戦争の火種を作っておきながら、それを消す努力として軍事同盟や再軍備を見せるというのは、まさにマッチポンプ的であり、サンフランシスコ体制とはそういうものなのです。私たちが今銘記しなければならないのは、戦後の出発点において最初のボタンを掛け違え、それに合わせて順次ボタンをつけていったのが保守政権の「平和」政策であり、その整合性なるものは根本的間違いの枠内での取り繕いに過ぎないということです。そうしてつくられたのが現状の「平和」であり、革新派は現状認識においてはありのままを直視すべきですが、それを唯一可能な現実であったと錯覚しないで、正しい最初のボタン掛けとしての全面講和=中立というもう一つの道、別の可能性を思い浮かべることによる現状への批判意識を絶やしてはなりません。
もちろん保守政権による「平和」の現実は軍事同盟路線によってだけではなく、その対極にある憲法や民主的諸運動との対抗・妥協の中で形成されました。自衛隊が「普通の軍隊」にはなりきれず、海外で殺し殺されることがない、という状況はまさにこの対抗勢力のおかげです。ベトナム戦争に自衛隊が参戦することはなく、イラク戦争でも現地には行ったが戦闘に参加することはなかったということは重要です。しかしベトナム戦争とイラク戦争において日本は米帝国主義の侵略戦争に加担したことは事実です。かつての十五年戦争における侵略責任だけでなく、戦後の侵略責任も日本人民は抱えていることを忘れてはなりません。この「平和」の現実を直視し真の平和実現を探求しなければなりません。革新勢力の中にも戦後日本を「平和国家」と呼び、そこにおける「平和主義」を云々する向きがありますが私には違和感があります。確かに対抗勢力の運動が一見そう呼びうる現状をつくりだしたことを称えるのは構いませんが、日本の「平和」はまだ平和ではないことを忘れるならノーテンキのそしりを免れません。
平和をめぐる諸潮流
以下では、平和をめぐる様々な潮流を概観します。保守派を二つに分け、集団的自衛権を容認するのを「保守反動派」、それに反対するのを「保守良識派」とします。革新派も二つに分け、上記の二つの区別<「平和」と平和の区別、現状認識と価値判断の区別>に立つのを「革新リアリズム」、そうでないのを「ロマン的理想主義」とします。もちろんこれは、実際には多種多様に入り組んで存在する諸立場を、私の観点で現時点における平和運動に資するように類型化したものです。そうした方法が認識論的・運動論的に適切かどうかは問題かもしれませんが、とりあえず試論として提起します。
なお集団的自衛権の行使は元来、軍事同盟の盟主国である米国から従属国日本への長年の「要請」であり、多国籍企業化した日本財界も望んでおり、新自由主義グローバリゼーションに適合的です。したがってそれだけをもって「反動」とは言い難いものです。しかし現状況下においては、米国の懐疑的視線を受けながらも、安倍首相を中心とするまぎれもない保守反動派がそれを担っています。ここには保守反動派と新自由主義派という本来相矛盾する両派が野合し相互補完関係において支配政策を担うという構図(これはそれなりの説明を要するがここでは省略する)の中で、集団的自衛権容認が「反動」の指標になるという状況が生まれているのです。旧主流派であり、この問題では革新派から保守良識派と呼ばれる人々は、反動的新自由主義派というヌエ的新主流派から見れば「集団的自衛権問題での『改革』を阻む守旧派」ということになります。それは一見すると錯綜した関係です。しかし「抵抗勢力」を蹴散らして進む新自由主義「改革」の一環としての集団的自衛権容認策動を反動派が担うことで、戦前回帰の色が付き反民主主義的性格が鮮明になります。他国と違って、憲法の下で集団的自衛権行使を否定してきた日本の従来状況の進歩性とも相まって、私たちはその容認策動を「反動」と断定できます。
四つの立場を単純化して表示すると以下のようになります。
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日米軍事同盟 ・自衛隊 |
憲法 |
平和の現状認識と志向 |
保守反動派 |
○ |
× |
「平和」の現状否定 |
保守良識派 |
○ |
△ |
「平和」の現状容認 |
ロマン的理想主義 |
× |
○ |
「平和」と平和を混同 |
革新リアリズム |
× |
○ |
「平和」を平和に変える |
日米軍事同盟・自衛隊と憲法との矛盾的合作である戦後の「平和」は、保守反動派にとっては我慢ならないものであり、改憲によって日米軍事同盟・国防軍による「平和」への一元化を図る「改革」の断行を目指しています。それが困難な現状では、解釈改憲によって突破しようとしています。「平和」はもともと戦争可能性をそれなりに含むものではありますが、保守反動派の「平和」は「戦争できる国づくり」であり、戦争可能性が飛躍的に上昇します。
保守良識派は支配層の立場から戦後の「平和」を形成し維持してきた勢力であり、それを肯定しています。言葉の真の意味での保守勢力です。改憲が党是の自民党内にあってもそれなりに憲法を尊重し、日米軍事同盟・自衛隊との共存を図ってきました。支配層の中では、主流から傍流に転落していますが、この共存を支える法解釈の積み重ねなど、既成勢力としての実績が、反動派の暴走への抵抗拠点として生きています。ただし対米従属のサンフランシスコ体制を支持し、軍事的抑止力を肯定する姿勢は、平和への脅威を根本的に解決する道を閉ざしています。
ロマン的理想主義は日米軍事同盟と自衛隊をなくし憲法による平和の道を主張してきました。平和は軍事力ではなく外交・話し合いによって守られるという見地から、戦後日本の平和はもっぱら憲法によって守られてきた、と考えています。しかしこれは価値判断を現状認識に押しつけた誤りです。もし憲法によって守られた平和ならば、米国のベトナム侵略に加担することはありえません。戦後日本の平和は実際には、日米軍事同盟・自衛隊と憲法との対抗下に生じた「平和」に過ぎず、「平和は外交・話し合いによって守られる」という価値観は十分に現実化されてはいないことがここでは看過されています。
もともと戦後日本の平和をめぐっては、日米軍事同盟・自衛隊と憲法との前者優位での二元的共存体制を維持する保守に、前者を否定して後者への一元化を主張する革新が挑戦するという対決構図がありました。曲がりなりにも戦争がない状態が保たれる中で、そこにおいて積み重ねられた既成事実の容認が世論の大勢になるに及んで、革新派の主張は支持を失いました。日米軍事同盟と自衛隊をなくすという前方の攻めのラインからは退却して、両者の暴走を憲法によって抑制するという後方の防衛ラインを死守することになったのです。そういう後退した平和状況において、新たに保守反動派が政権につき、矛盾した二元的共存体制を改憲(実質的には平和憲法の破棄)によって、革新派とは逆の方向に一元化して矛盾を解消しようとしています。
したがって一点共闘によって保守良識派をも結集し、反動派を孤立させて、せめて二元的共存体制を死守するのが喫緊の課題であり、それは世論状況からすれば大いに展望があります。
その上で、「平和」と平和を混同し、価値判断を現状認識に押し付けることによって、日本の平和をめぐる状況を十分に説明できず、人々から「甘い現状認識によって空想的な理想と政策を提起している」と見なされ、結果的に日米軍事同盟と自衛隊をなくす課題を見失わせている状況を克服することが必要です。日米軍事同盟・自衛隊と憲法との矛盾的共存体制による「平和」は不安定であり、これからも時々の情勢に応じて喧伝される「脅威」によって世論が撹乱され戦争可能性が高まる事態が考えられます。人々の意識に安定した平和の種をまくことは恒常的な課題だと思います。
安倍政権の暴走を阻止し、当面の「平和」を維持しつつ、真の平和を目指すのが私たちの二重の課題です。そこで「ロマン的理想主義」的な弱点を克服し、革新リアリズムの観点が重要になると考えます。
弁解的あとがき
以上の拙論は、平和についての解釈や考え方を述べたものです。具体的な現状分析には乏しく、事実素材が少ないままに理屈をひねくり回して図式化してしまったのは力不足の結果です。平和を推進するための何らかの実際的方策を含んでもいません。しかし平和への誤った理解を整理・淘汰することを通じて、その考え方の正しい筋道をつけ、平和にまつわる諸問題の性格をそれぞれに位置づける見通しができるならば、平和を推進する様々な諸方策を生み出す場を整序することにつながり、それらの新鮮な展開を後押しすることに資するかもしれません。
拙論のもう一つの欠陥は、階級論・帝国主義論などの経済的土台の考察がないので、経済次元における戦争原因論を欠いており、平和についてのいわば内容抜きの形式論にとどまっていることです。これはもう他日を期するとしか言いようがありません。
集団的自衛権の問題を始め、政権の暴走下、風雲急を告げるときに、基礎的な理屈の話をしているのは悠長かもしれません。しかし情勢を動かすのは究極的には世論の動向であり、人それぞれの持つ当該問題への基本的な見方がそれに影響を与えます。当面する問題の具体的な知見を普及することは大切ですが、そのベースにある平和への不安と希望について、避けずに考えてみることもそれに劣らず必要だと思い、私見をまとめてみました。
断想メモ
大飯原発訴訟の福井地裁判決(5月21日)は歴史に残る名判決であり、称賛の嵐が起こっています。今さら私ごときに新たに付け加えられることはないでしょうが、一言述べます。憲法の人格権(13条・25条)を冒頭に置き、国富とは何かを解明した点が特に一致して支持されています。13条(個人の尊重・幸福追求権)と25条(生存権)を人格権と一括し、その至高性を指摘し経済活動などに対する優位性を確言したことは、憲法の存在意義を高めるものです。また25条と合わせて提起することで、13条に対する新自由主義的・自己責任論的解釈を封じていると私は思います。
貿易赤字を国富の流出と捉えるのではなく、豊かな国土とそこでの人々の生活が取り戻せなくなることのほうが国富の喪失であると考えるべきだ、という名言はまさに現代の国富論であり、重商主義を批判して生産資本循環の観点で考えたアダム・スミスを引き継ぐものでしょう。
とにかく憲法と経済をまともにつかむことがいかに威力を発揮するか、逆に現実にはそこがダメになっているがために、この社会がおかしくなっているか、を痛感させられる判決でした。
最後にこの判決が原発を断罪することがいかに勇気のいることで、裁判というものの積極的意義を抜本的に高めたかということを指摘したいと思います。
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公害裁判と原発裁判では一つの違いがある。公害環境問題訴訟、原発訴訟はともに住民側の訴訟相手は基本的には企業であるが、原発の場合は、行政当局の関係度が深い。場合によれば直接当事者にもなりうる。そうした場合、原告被告の科学的主張の争いは裁判官自身ではできず、「科学的審査」を含む行政手続き上の違反があるかどうかの問題に矮小化されることが多い。 …中略… 科学・技術上の争いを直接判断することは放棄され、単に行政手続き、すなわち専門家を含む審議会の審議を経ているかどうかが、原発推進の科学的正当性として「科学者の専門的判断を経ているものとして」裁判所でお墨付きをもらうことになる。
ところが、審議会の構成メンバーは圧倒的に原発推進派で占められていることはいうまでもない。批判派がつけ加えられたとしても味付けに過ぎない。そうした、行政官僚が推進派と一体になって運営する審議会で科学的精神あふれる検討がゼロから行われ、正当な科学論争が展開される事は期待されようがない。
木本忠昭「科学・技術の社会的存在形態と科学者の二重性」 156ページ
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今回、福井地裁は、行政手続きに矮小化することなく、果敢に科学・技術上の争いを判断しています。それが市民的常識にかない、おそらく科学者や法律家からも評価されるものでしょう。名張毒ぶどう酒事件の名古屋高裁の姿勢など見ていると、裁判所への絶望が出てきてしまいますが、ここにはまだ「司法は生きていた」と言えるものがありました。もちろん反原発運動の偉大な成果だという側面も忘れてはなりませんが。
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