月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2002年)。 |
2002年1月号
不破哲三氏の「レーニンと『資本論』」の連載の中で、私が最も興味深かったのはレーニンの市場理論の解明でした。あくまで私の知る限りでの話ですが、レーニンが「生産と消費との矛盾」をどう捉えたかを素直に先入観なく読んで、その意義と問題点を正しく指摘したのは不破氏が初めてだったのではないでしょうか。それによればレーニンには「生産と消費との矛盾」を恐慌理論と結びつける問題意識がありませんでした。『資本論』においても未解決の課題として残されているこの「再生産論と恐慌論のかかわり」を明らかにするのが新連載の主題であり、大いに期待されます。
もちろんわが国のマルクス経済学においてはこの主題についての研究業績は多くあり、諸論者がそれぞれの問題意識やマルクス・『資本論』解釈に基づいて独自の理論を様々に展開しています。新連載では新たな発展的見解を直接に提示するというのではなく、あくまでマルクスの理論形成の道筋をたどる作業を通じて、この問題に新たな光をあてるということでしょう。アカデミズムの陥りがちな瑣末主義とは対照的な骨太の明快な解釈が提示され、「レーニンと『資本論』」以上の成果があげられるものと思っています。
『資本論』において再生産論と恐慌論のかかわりがミッシング・リンクとして残されている、という課題設定そのものが実は二つの意味で著者の方法を示していると思います。
ひとつには、レーニンの場合と同じく、マルクスをマルクス自身の歴史の中で読むという姿勢です。つまり『資本論』をも完成品としてではなく発展途上のものとして読む。この点では、碩学・久留間鮫造氏のミス(だと私は思うが)が思い起こされます。久留間氏は『資本論』第2部第3篇において「生産と消費との矛盾」と恐慌との関連が積極的に展開されていないのを見て、第2部第2篇の「覚書」(「生産と消費との矛盾」と恐慌との関連が「次の篇」で論じられるとした)にいう「次の篇」とは第2部第3篇ではなく第3部のことではないか、という無理な解釈をしていました。『資本論』を完成品として見ればそのようにも考えたくなるのでしょう。しかし「覚書」を素直に読んで、第2部第3篇が未完成であり、「覚書」の内容は今後展開される予定だった、としたほうが自然でしょう。
もう一つは経済理論における再生産論の意義を積極的に捉えるということです。立場は違うがそれぞれに重大な影響力を持った二人の経済学者がこれに否定的な見解を表明しています。宇野弘蔵氏は恐慌論から再生産論を追放しました。見田石介氏は、再生産表式は資本主義経済における流通の均衡という一側面を表現するに過ぎないのであり、そこに「生産と消費との矛盾」を見るのは誤りとしました。これらの見解はそれぞれの図式を優先させることでせっかくの分析用具を貧しくしてしまっていると思います。再生産論は狭くは再生産表式論と同一視されますが、広くは資本蓄積を扱った理論体系の全体を指します。もっといえば、資本主義的生産様式の再生産という観点から現実経済を分析する科学的経済学の理論体系の全体が再生産論ともいえると思います。それは恐慌論にも一国資本主義や世界資本主義の現状分析にも適用できる発展的な理論として一層の展開が期待されます。
ところで私自身は『資本論』は基本的には資本一般の方法的限定の下にあり、恐慌の必然性の基礎的論定はできるが、産業循環の具体的解明はそれを超える競争論の次元に属すると考えてきました。資本主義経済の本質的解明としてまず需給一致を前提した長期平均的構造の分析が必要であり、これはまた労働価値論の論証装置でもある、として「資本一般」という方法の必要性を考えてきました。つまり「資本一般」と「競争」以降という二元的理論構成でこれが大まかにいって本質と現象の解明の方法というわけです。しかしいささか機械的な感じもあり、現状分析との生き生きしたつながりという点でもどうかな、という気もします。
不破氏は、「資本一般」というカテゴリーはやがて乗り越えられることになります(p167)と書いていますから、連載の先行きでこれがどう扱われるかに注目しています(資本主義分析における本質と現象という問題意識をもって)。
2001年12月9日
2002年2月号
松本朗氏の『円高・円安とバブル経済の研究』への米田貢氏の書評で紹介されている「マルクス経済学のインフレーション論を基礎にした事実上の為替平価」説は興味深いものです。
萩原伸次郎氏の「ニューエコノミーとは何であったか」からは、まず90年代以降、外国為替相場決定要因が国際間の民間資本取引の動向に決定的に左右されるようになったこと、その原因が国際市場における自由な資本移動が可能になったためであること、それは断続的に通貨危機を引き起こし、世界経済の発展にとってマイナスであることがわかりました。次いで90年代における邦銀の凋落と米銀の復権をわけるものが非金利型収入であることがわかりました。いずれにせよ世界資本主義のカジノ化が進んでおり、不況とも相まって危機は深く、またそれへの国家独占資本主義的対策もなりふり構わないということでしょう。
シンポジウムでは、友寄英隆氏による新自由主義の理論的解明の問題提起が非常に深いものでした。変革主体形成の問題を視野に入れながら、新自由主義の経済的土台からの解明は是非とも具体化されねばなりません。
グローバル化の下での産業空洞化の問題については、シンポジウムおよび中川信義氏・村田武氏の対談で触れられています。ここでも友寄氏の「貿易黒字が減少していること自体が問題なのではなく、内需型の再生産構造への転換がすすまないまま、ずるずると縮小再生産軌道に陥りつつあることが非常に危険なのです」という発言が問題の核心をついていると思います。中川氏と村田氏が国民経済の再生産を強調し、近代経済学における再生産論の欠如を述べておられるのも方向性を同じくする発言と思われます。ただしそうした基本的視点はよいのですが、具体的対策となると今後の検討をさらに深めることが必要と思います。たとえば徳重昌志氏が円相場を購買力平価の水準まで下げるという提起をされていますし、国民経済を守るためには一定の輸入制限も必要になりますが、こうしたことがどうすれば可能なのかというのは難問であろうと思います。
「市場原理主義者の御都合主義」の意味するもの
***「市場対政府」問題の理論的位置付け***
シンポジウムでの討論にもあるように、市場原理主義者の御都合主義というのはよく指摘されますが、私は逆に市場原理主義者は首尾一貫していると思っています。ただし市場原理主義者というよりも資本至上主義者といったほうが正確でしょう。銀行への公的資金の投入は市場原理には反しますが、独占資本の利益には貢献します。
今日、独占資本は、従来の公的分野や中小資本の領域にも進出したり、労働のフレクシビリティを増進するなどのために規制緩和を推進し、市場原理=競争を大いに奨揚しています。また不況下で物価が下落しているということからは、厳しい競争の現実があると思われます。市場原理主義という言葉は確かにそうした実態を捉えています。しかし独占資本は市場原理そのものを目的としているわけではありません。国内外の市場を見ても大競争の一方で大合併が進んでいるように、あくまで利潤追及のために市場を支配するのが目的であり、市場原理はその手段として有効な限りで推奨されているのです。
教科書的にいえば、資本主義経済の基本的対抗関係=矛盾は資本・賃労働関係(搾取関係)であり、これを今日の政策的表現に移せば、「国民本位か大企業本位か」という対抗関係になります。市場原理主義という表現が想定している対抗関係は、「市場対政府」であり、あくまでこれは基本的対抗関係に規定される副次的対抗関係です。マスコミ的にはこれが基本的関係とされ、「改革派対抵抗勢力」として毎日喧伝されていますが。
市場対政府という場合に、市場が善で政府が悪である、とうのはもちろん誤りですが、その逆が正しいというわけでもありません。かといって市場と政府のベストミックスということが問題の本質でもありません。もちろん時々の経済状況に応じた両者の適切な割合は必要なのですが、それ以前に市場なり政府なりがそれぞれどれほど国民本位であるのかこそが大切なのです。日本においては、市場はルールなき資本主義の舞台であり、政府はいうまでもなく反国民的です。民主的政府が存在しない段階で、国民自身の運動で少しでも市場と政府に対して民主的規制をかけて、搾取に対抗できるか、ということこそが問題の中心といえましょう。昨今ではその端緒的成果としてサービス残業の規制などの問題をあげることができます。
その点では、「市民社会による市場と国家の相対化」という市民主義派の基本戦略は理解できます。また西欧社民政府による労働・福祉政策も資本の搾取に一定の歯止めをかけたルールある資本主義として評価できます。ただし市民主義者は政党や国家自体を忌避する傾向があり、「市民社会」の階級的あいまいさもあって、資本のもつ強力な統合力に対抗していけるのか、という問題点があります。革新的政党との連携で地方分権の推進のみならず国家そのものの民主的変革を目指すことが重要でしょう。西欧では、オランダ・モデル、スウェーデン・モデルなどが注目されますが、これらが政策を通じた(従って国家権力を発動した)分配関係の調整にとどまらず、生産関係そのものの何らかの変革に結びつくものかどうかを見極めることが必要です。ワークシェアリング、男女平等社会、教育立国といった方向は人々の生活と労働の深みにまでとどく改革として注目されますが、グローバリゼーションの圧力の下で、労使協調主義でどこまで貫徹できるか予断を許さないところです。
話がわき道にそれました。今日、内外経済についてマスコミなどで様々に言われることに対して、私たちの判断の最も原理的な基準は、資本主義経済とは資本・賃労働関係という搾取関係を基軸にしており、市場と政府の関係はそこから規定されるということです。「民間でできることは民間に任せる」というスローガンは直接的には市場と政府の関係の問題ですが、その底にあるのは、公的分野を縮小して(従って国民の私的負担を増やして)資本に利潤追及の場を与えるということです。官に対して民というと、普通の人々などを思い浮かべていかにも民主的に見えますが、たいがいこの「民」は大資本を指しています。
新古典派理論の内部には階級はなく、市場は自由競争を通じてパレート最適を実現することになっていますから、現実の経済問題は、政府とか労働組合とかの市場外のものからいかに市場の自由を守るかということに収斂されます。何があっても、「改革派対抵抗勢力」図式を中心において考えるマスコミなどの議論の理論的基盤はここにあるのでしょう。しかしこれは資本主義の何たるかを知らない理論です。
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伝統的な理論のえがいた社会は、ロビンソン夫人がいうように、ちょうど夕日が沈もうとするのを見ながら、もう一時間働こうか、それとも家に帰ろうかと考える農夫のようなものである。土地も鋤もかれのものであり、かれは自分の畠を自分で耕し、今日何時間働くかを自分できめている独立小商品生産者である。このような場合にのみ、伝統的な理論のように、労働のために生じた背中の痛みをさすりながら(負効用)、収穫物を売った時の貨幣額の効用と、この苦痛とを計算し、もっと働いた方が得かどうかを考えることができるのである。
だが人に雇われて働いている労働者は何時間働くかを自分できめることはできない。雇われた人は、きまった労働時間を働き、他のものは背中の痛みはないから働きますといっても、工場には入れてくれないのである。このように伝統的な理論は、資本家も労働者もいない社会を前提した理論であった。資本主義以前を前提する理論でありながら資本主義特有の失業という現象を分析しようとしたところに、伝統的理論の無理があったのである。
伊東光晴『ケインズ』(岩波新書 1962年)P100、101
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まとめていえば、領有法則の転回に惑わされて、資本主義経済を市場経済としてしか捉えられない目で見れば、搾取の問題(それは今日的具体的問題として捉えれば、直接的生産過程での搾取だけでなく、流通過程や国家機構などを通じた階級的収奪をも含めた広い意味での搾取の問題であろう)は市場対政府の問題の後景に退き、あるいは前者は後者に解消される、ということです。逆にいえば、市場原理主義という言葉とか「改革派対抵抗勢力」図式でかたずけられている諸問題を搾取の観点から捉え直していくことが必要だと思われます。
2002年1月13日
2002年3月号
増田正人氏の「グローバリゼーション下のアジア経済」によれば、アジア諸国の「雁行型」経済発展では、先発国から順に低労賃を武器に経済成長を実現していきましたが、やがてそれぞれ後発国との競争に直面して「持続的な工業成長を実現するためには、国内市場の拡大・深化が必要であり、単なる低賃金構造への依存では不十分」という課題を背負うことになります。
これは途上国型から先進国型への転換ということですが、実は日本資本主義は西欧諸国と比べるとまだこの転換ができていないのではないかと思います。確かに技術立国として世界をリードした側面はありますが、低賃金・低福祉の生活小国としてソーシャルダンピングで世界市場に殴り込んで資本の過剰蓄積の矛盾を外的に処理してきたというべきでしょう。今にして思えば、80年代のジャパン・アズ・ナンバー1とは1周遅れのランナーが先頭を走っているという錯覚だったといえます。この輸出競争力に基づく為替レートの「高み」から見ると今日の日本は高賃金・高コスト構造であり、国内産業の多くは非効率で淘汰の対象としか映らず、「構造改革」が必要だ、となります。しかしこれは1周遅れのランナーの視点であって、相変わらず途上国とソーシャルダンピングを競って世界市場での大競争を勝ち抜こうという強搾取=過剰蓄積型資本の戦略に他なりません。かつては商品輸出一辺倒であり、今は空洞化も辞さずに資本輸出に乗り出すというのは、形こそ違え、資本が地域経済・国民経済とのつながりをもたずに世界市場ばかりを見ているという点では共通した途上国型です。今こそ福祉・環境を重視した生活大国として内需型の再生産構造への転換が求められています。その視点からは、中小企業や地場産業などは、不良債権とか非効率経営としてではなく、生活を個性的に豊かにしていく上で不可欠の存在として見直されるはずです。
普段、ラジオは聞いていますが、テレビを見る余裕はありません。それで年末の紅白歌合戦でまとめてその年登場した歌手たちの姿を初めて見たりします。昨年の紅白ではゴスペラーズが圧巻でした。最近、そのメンバーによる朱玉の言葉に接して感動を新たにしました。
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僕らがやっているようなことは、これまでにいろんな環境や条件でできなかった人がたくさんいると思う。たまたま運のいい時代に僕らが思春期を迎えて、「これだ!」ってノリで始めて、ここまで来れた。でも、もっともっと実力や音楽に対する愛情があったのにできなかった人がいるかもしれない。だから、そういう人のためにも僕らは歌うんだ、という気持ちが以前からすごく強いんです。
村上てつや(ゴスペラーズ) 「朝日」夕刊 2002年2月8日
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「僕らがやっているようなこと」とはアカペラ・コーラスを世にブレークさせたということでしょうか。彼等は自分たちの音楽を深く愛しているからこそ、それが先輩たちによっても愛されていたことを理解できるのでしょう。そこには自分たちの音楽の普遍性への確信があり、合わせて時代の流れを見る眼があります。幸いにして自分たちが両者の交点に立ちえたことへの感謝と、そこからはずれざるをえなかった先人たちへの思いやりもあります。ここからは、対象に主体的に深くかかわることができてこそ、その対象と自らの姿とを客観的に位置付けることも可能になる、ということがわかるように思えます。
謙虚と卑屈、矜持と傲慢、それぞれを分かつのは、控えめな態度というようなものである前に、自分と環境とのかかわりの正確な理解にあるといえます。卑屈とか傲慢には自分しかない、というか、回りを正しく見られないことからくる自己卑下や自己過信があります。回りの中での自己を客観的に位置付けられる場合は矜持をもって謙虚でありうるのでしょう。不景気の中で一人悶々とする古本屋は傲慢な卑屈に陥ってしまうのを自戒したいと思います。
自発的な集団の営みの中から矜持ある謙虚さをもった若者が育ってくるというのは私たちの社会の希望です。「構造改革」へのオルタナティヴとしての社会像をセンス良く表明しているのは神野直彦氏だと思います。神野氏のいう「競争社会から協力社会へ」の転換を担うのは、競争で失われた古い共同体的「控えめさ」に郷愁を感じてしまう我々ではなく、競争の中でも自己と社会性とを失わず自発的な共同を築きあげていける新しい人たちなのかな、と思ったりします。ささいなことから誇大妄想に浸っているという気がしないでもありませんが、小泉首相がメールマガジンで、若者に期待する、と言っているおり、負けてはおれないではありませんか。
2002年2月16日
2002年4月号
小西一雄氏の論稿にはいつも注目しています。「いま日本の経済と金融をどうみるか」は春闘学習会の講演記録ということもあって、大変わかりやすく、特にマスコミで流布されている俗論への批判は痛快です。
この論文からは不況打開の二つの道の対決が見えるように思います。一方は新産業としてのITがリードする成長構造を確立する道です。これは経済成長によって資本主義の矛盾を買い取る、という高度成長以来の生産力主義的方法であり、独占資本の利益になるのみならず、資本主義経済にとっては内在的な道といえます。高度成長期には財政支出を中心とするケインズ主義によって推進されましたが、今日では、過剰資本の価値廃棄を国家的に強行するという新自由主義によって推進されています。やり方は対照的ですが、ともに国家権力を動員した経済成長第一主義(ならびに国民生活は後回しのトリクルダウン理論)という点では共通しています。
他方には家計がリードする内需循環型の成長路線があります。ここではITも国民生活に役立つ形で活用されます。ただし小西氏によれば、これは資本主義の内在的メカニズムには反するので政治の力で実現する必要があります。生産力主義の国家介入では資本の利潤の増進とか資本の自由の拡大が目的ですが、我々の道では資本に民主的規制を加えて家計を援助するための国家介入となります。
前者の道は今のところ頓挫していますが、復活する可能性はありますし、俗論としてはもっぱらそれが期待されるところです。しかしすでに余りに国民生活は荒れ果てていて、資本の本性に内在的な生産力主義を繰り返す(小泉流の「痛み」を強いる)のは犯罪的だといえましょう。これに対抗して国民生活を主人公とした経済社会を目指す運動は客観的には、「人類史のなかに、生産力の飛躍的な発展の一時代を生み出した資本主義的生産様式の歴史的使命と、労働者階級、人民大衆の犠牲によってしかこの使命をはたせないこの生産様式の限界性とのあいだの歴史的な矛盾」を打破して、「資本主義的生産様式が、生産の絶対的形態ではありえず、人類をより高度な生産様式にみちびく過渡的な形態でしかないこと」(不破哲三「再生産と恐慌」第4回、P177)を実証することになるでしょう。
現在、私が最も興味をもっているのは「デフレ」論であり、本号の松本朗論文、米田康彦論文は大変参考になりましたが、次号に予定されている友寄英隆論文とも合わせて考えて見たいと思います。
2002年3月18日
2002年5月号
毎号の積み重ねの上に今月号あたりでは、「面白さばくはつ」という感じで、理論的構想(妄想?)力が刺激されます。時間が許せばいくらでも感想を深めていきたいのですが、そうもいかないので荒削りな思いつきを多少述べていきます。
初めに先月の宿題から。期待していた友寄英隆氏の論文が今月号に載らなかったのが残念ですが、「デフレ」問題について今思っていることを概略述べておきます。
今日の物価下落の主な原因は、生産性の上昇・輸入品の低価格・消費需要の低迷でしょう。ここで重要なのはこれらはみな商品側の要因であり、通貨側の要因ではないということです。つまり今日の物価下落はデフレではありません。
実体経済の冷え込みのなかで通貨側は「日銀が大量に供給した資金が市中に回らず、金融機関に滞留し、余剰資金は国債などの資産に回り、企業への貸し出しや株式などリスクの高い投資には回っていない」(「朝日」2002年3月23日「量的緩和高まる限界論」)という状態になっています。「量的緩和」のこの1年あまりで日銀によるマネタリーベースは30%近く増えているのに、マネーサプライは3.7%増に留まっています(「赤旗」2002年3月23日)。 「金融緩和下での物価下落」の底にあるこの現象については松本朗氏が本誌4月号や昨年9月号で「貨幣流通の法則の貫徹、マネーサプライの受動性」などとして理論的に解明しています。さらにはこれから先の問題として、「何らかの契機でインフレに火がついて燃え上がる」(昨年参院予算委で速水日銀総裁、「赤旗」同記事より)メカニズムを解明して、政府と日銀のインフレ政策に歯止めをかけねばなりません。
以上では、物価下落についての商品側と通貨側の要因を見てきましたが、次に商品の価値と価格の関係を見ます。ここで「価値」とは正確には生産価格ないしは独占価格ということになるのかもしれませんが、要するに日常的な需給変動を捨象した平均的・構造的な価格を指すことにします。「価格」とは需給変動を反映した市場価格とします。先に物価下落の原因として指摘した、「生産性の上昇・輸入品の低価格・消費需要の低迷」の内、前二者は一応価値そのものの低下であり、後者は価格の価値以下への低下です。従って再生産の困難という観点からいえば、とりあえずは前者はそれにかかわらないといえます。後者はかかわるということになり、個人消費の喚起によって需給のバランスを取り戻し、落ち込んだ価格を価値通りの水準まで引き上げることで再生産を確保せねばなりません。この意味では物価下落が悪として対策が叫ばれることは正当です。
問題は一応価値そのものの低下の反映とされる「生産性の上昇・輸入品の低価格」による物価下落は「正しい物価下落」といえるのか、ということです。生産性の上昇といっても今日ではその一定の部分がリストラ圧力・サービス残業などによる労賃低下と労働強化によっています。つまり労働力の価値以下への労賃の低下(労働力の再生産の困難)が一つの要因となって商品価格の低下が起こっているのではないでしょうか。労賃低下が利潤の増大ではなく商品価格の低下に帰結するのは需要の低迷によるものでしょう。とすると、生産性の上昇といっても労働コストのカットに起因する部分がもたらすのは、価値の低下ではなく、価値以下への価格の低下ということになります。
輸入品の低価格については、当事者には再生産の困難はもたらしませんが、競合する国内生産者の淘汰を通して国民経済の再生産にとって諸問題が発生します。
このように見てくると今日の物価下落は、まずは「デフレ」論がいうような通貨問題ではなく、従ってインフレ政策はまったく見当違いの処方箋でしかありません。ついで実体経済に即して見ると、ひとことで物価下落といっても、その中には、価値と価格の関係(再生産の確保の問題)からは様々な状況があり、分析的に見る必要があります。私たちは労働者・中小企業・自営業者など働く国民の労働と生活の観点から、個人消費の喚起、リストラ規制・サービス残業根絶などの労働者支援、福祉・環境を重視した内需循環型の国民経済の確立を基礎とした、適正な対外経済関係の確立、といった経済政策によって、物価下落を伴った長期不況を打開していくことを求めていくことが必要でしょう。はなはだ抽象的ですがとりあえずそのようにまとめておきます。
以上では若干しか触れられなかったのですが、物価下落に関連して、輸入品や産業空洞化といったグローバル化の下での国民経済の在り方が問題とされます。中国などの発展途上国の低労賃は、一方では輸入品の低価格を通して日本の労働力の価値を低下させ、他方では国際競争の圧力によって労働条件の悪化と労賃の労働力の価値以下への低下を引き起こしています。消費需要の低迷による商品価格の低下は本来は、需要の回復によって価値通りの価格への復帰で解決されるべきですが、グローバル化によるこのような労賃低下がコスト要因からも需要サイドからも作用してこの復帰を許しません。これが構造化すれば、ある時点での価値以下の価格が次の時点では、再生産を保障する価値通りの価格として通用してしまう、という転変が起こります。これはつまり再生産の内容自身の低下であり、労働者の生活内容の悪化=労働力の再生産費の低下(物量的にも)を起点とする国民経済の縮小再生産です(世上いわれる「デフレ・スパイラル」)。
このように、需要不足による「低価格」が、再生産構造に固定してそれを劣化させ「低価値」に転変する、と私は認識しました。米田康彦氏の「日本経済と『デフレ・スパイラル』」(本誌4月号)ではこれが理論的に展開されているように思います。米田氏によれば「価値規定が有効性をもつのは、一つの再生産構造の内部であり、もう少し具体的に言えば一国資本主義の内部が想定されてい」ます(43頁)。そして今日の物価下落の主要な原因は需要不足ではなく、グローバル化が鍵であり、問題を独占価格レベルに限定するのでなく「より深部の問題、つまり価値論レベルにまで掘り下げて考える必要があ」ります(48頁)。その意味するところは「一国的なレベルでの日本資本主義という再生産構造が崩れ、東南アジアおよび中国沿岸部と一体化した、地域的再生産構造が形成されつつある」「形成過程にあるこうした地域的な再生産構造のなかで、新しい価値水準が形成されつつある」(同)ということです。こうして「価格」の「価値」への転変という私の稚拙な予感は米田氏の壮大な価値論につながるかに見えます。
問題がグローバルならば解決方向もグローバルでなければならず、米田氏は「困難であろうともアジアレベルでの連帯と共通ルールを作り上げていくという道」(49頁)を提唱されています。ところが現実には中国のエコノミストなどは、日本が「構造改革」を進めて、高い労働コストの削減のため安い中国製品の輸入を促進する、などといった立場から日中経済の相互補完性を主張したりしています(たとえば余永定「日中経済協力のあるべき姿とは」『世界』4月号)。こういう中国の「国益」に基づく主張は日本の大資本にとってはともかく、民衆にとってはよいとはいえません。東アジアでの経済統合はどうすればよいのでしょうか。
経済統合を考える上ではやはりEUが参考になります。5月号、森本治氏の「ユーロ通貨の流通開始とEU経済」は、ヨーロッパの通貨統合をアメリカと独仏の金融資本・独占資本の対決と見て批判的に検討した明快な論文です。森本氏は通貨統合そのものに対しては「国破れて資本あり」とか福祉切り下げのための「だまし討ち」に利用した、というきわめて否定的な評価をしています。しかしその一方で日米のバブル型経済成長よりはヨーロッパの通貨統合のほうがまだましである、とも評価しています。ここにはEU経済の二面性が捉えられていると思います。一方にはアメリカ帝国主義のドル体制への抵抗、カジノ資本主義と一線を画し実体経済の発展を重視した姿勢があり、他方には独占資本の競争力のため福祉切り下げなど労働者・国民への抑圧の姿勢があります。これはつまり独仏などのEU独占資本のアメリカ対抗上の性格ですから、アメリカ中心のグローバル化を推進する新自由主義政策を検討することで、よりよく理解できます。
新自由主義政策は大まかにいって二つの帰結をもたらします。一つは実体経済における大競争を通じた果てしない効率追及=労働強化・生活破壊です。生存権の否認という資本主義の基本性格が露骨に現われてきます。もう一つは金融面における経済のカジノ化、寄生化です。資本主義生産の目的は剰余価値の追及であり、使用価値はその素材としてのみ意味を持ちますから、個別資本にとっては、使用価値は有害であってもあるいはそもそも存在しなくても価値増殖さえすればよいのです。軍需生産や金融的術策がそれを可能にします。カジノ化はこのように抽象的には資本の本性から説明できますが、現代資本主義においてはそれは、アメリカの国民通貨であり、不換通貨であるドルの世界市場支配によって現実の舞台を与えられます。アメリカ資本主義は今日では、国内製造業の衰退による貿易赤字を放置して、本来ならば最大の不良債権であるドルをtoo big to fail の故にG7に支えさせ、自らは金融=情報帝国主義として世界経済を支配し寄生性を強めています。
このグローバル化=新自由主義路線の二つの性格に全面的に対決しているのが、世界民衆の反グローバリズム運動です(それは反動派から極左派まであるゆる勢力に分かれていますが)。逆に諸手を上げて賛成し国民を顧みず無謀な万歳突撃を敢行しているのが日本独占資本の主流です。これに対してEU独占資本の姿勢は「中道」といえましょう。つまり実体経済面ではアメリカに対抗するため労働者を犠牲にして競争力強化を図るが、その搾取の果実をカジノ資本主義にさらわれないために、国際金融面ではドル支配に対抗するというものです。
東(南)アジアの経済統合はEUよりはるかに難しいでしょうから、日本国民の当面の課題は無謀なグローバル化にブレーキをかけて国民経済の崩壊や融解を防ぐということにならざるをえないでしょう。その上であえて理想をいえば、カジノ資本主義からアジア地域経済を守るのみならず、働く人々の生存権をも尊重した民衆型の経済統合を目指すべきでしょう。アメリカを頂点にした垂直型のグローバル化ではなく、民衆的交流による水平型グローバル化ということです。5月号シンポジウム「グローバリゼーションと現代資本主義」の中で藤岡惇氏が述べているように、中国とのセーフガードの問題でも日中双方の農民や自治体どうしでの話し合いといったチャンネルも必要です(53頁)。
歴史を作るのは究極的には民衆なのですが、直接的な主体はその時々の支配者階級であらざるをえません。当該テーマについていえば地域経済統合の主体は資本や国家ということになります。EUに比べてのアジアの難しさというのは単に各国の経済状況の違いが大きすぎるという一般的事情だけではありません。経済統合の意義のひとつはEUの例でも明らかなようにドル支配=カジノ資本主義から相対的に独立することです。1997年の通貨危機を経験したアジア諸国はそれを痛感していると思いますが、アジア通貨基金(AMF)構想はアメリカの反対で日本が腰くだけになって挫折しました。アメリカへの従属以外の構想を描けない日本の資本と政府はせめてEU並の統合を目指す気概もないわけです。ましてや民衆的統合などは夢のまた夢ですが。
他の事情もあります。アジア工業化は外資に依存しつつアメリカ市場を目当てにする(つまりグローバリゼーションの乗る)ことで成功しました。そこでは先の中国のエコノミストの主張にもあるように、自国の厳しい低賃金労働・競争・効率化を前提しつつ先進国の「構造改革」による市場開放を求めます。これらからは、グローバリゼーションから相対的に自立したアジア独自の経済圏を作ることの難しさと、各国民衆の利害調節の難しさが予想されます。
もっとも、5月号、角田収氏の「中国の台頭と通貨危機後の東アジア」によれば、従来のアメリカ市場一辺倒から、広大な潜在力のある中国市場が加わることなどを含めて東アジアでの地域内経済循環が強まりつつあります。中国についても単に脅威として見るのではなく、その市場の成熟がアジア経済の将来にとってプラスになる点を押さえることが必要です。しかし現時点では、その懐の深さから枯れることなく安価で優秀な労働力をどんどん輩出してくるので、中国は脅威と映ってしまうのですが…。
このように現実には困難ばかりが目立ち、前向きの可能性は若干ですが、理念的にEUを超えるアジアの民衆型地域経済統合というのは羅針盤としての意味はあると思います。そこでの「新しい価値水準」(米田康彦氏)は日本国民の生活の縮小再生産を前提にするようなものでなく、アジア諸国民の生活の向上を実現するものであることが必要です。
もう少しましなものが書けるつもりでしたがだいぶ不細工になり失礼しました。
他の論文も興味深く拝見しもっといろいろ考えてみたいのですが、まあこの辺にしておきます。シンポジウムでの生産力主義批判は痛快でした。
2002年4月11日
2002年6月号
友寄英隆氏の「現在の『不況下の物価下落』現象をどうみるか」は、俗論・妄論が百鬼夜行する「デフレ」論の闇に科学的経済学の光を当てた力作であり、このテーマに関する理論・現状分析・政策において正確な礎石を置いた、と私は思います。ブルジョア・マスコミは無視するでしょうが、民主的陣営に属する人々などと狭い野暮なことは言わずに、この不況に苦しんでいる心ある人々に広く普及したい論文です。
この論文は初めに、「日本の最近の現象を『デフレ』と規定することは不正確であり、間違っている」と断じており、これがその全体の正しさを保障しています。物価下落=デフレ(従って今の日本はデフレに陥っている)という無概念的規定は理論的に粗雑な故に無謀な経済政策を招きます。真剣に不況の打開を願う人々は何よりも正しい経済理論から出発しなければならず、この論文はそのことを示しています。以上、全体としてはそれだけ申し上げて、以下では部分的に気がついた点に触れます。
「生産と消費の矛盾」について、論文ではそれが官庁経済学などの「需給ギャップ」とは概念的に異なっており、需要低迷の実態は政府の家計調査報告でつかむことができる、という有益な指摘がされています。ただし市場の価格調整機構と「生産と消費の矛盾」との関係についての叙述には一読して違和感が残り、何だろうかと考えてみました。一つには「生産と消費の矛盾」は一面では消費を顧みずに生産が拡大できる、という資本主義のダイナミズムをも現わしているのであり、それを単に長期不況の原因として見るのは過少消費説的一面性があるのではないか、という懸念です。さりとて長期不況の最大の原因が需要低迷にあること自体は事実なので誤りとは言えないか、と思い直してみたりします。そこでもう一つ思うのは循環論と構造論との関連です。価格メカニズムによる日常的な「静かな均衡化」が長期的視点からはかえって不均衡を拡大し、恐慌による「暴力的均衡化」を必然とし、この恐慌・産業循環過程の全体によって価値法則が貫徹されます。「生産と消費の矛盾」はこの恐慌・産業循環の根拠です。この循環論からは「需要低迷・供給過剰」が日常的な市場価格変動によっては調整されない、ということは出てきますが、恐慌を経てもなおそれが調整されない、ということにはなりません。その調整不能を認めれば、資本主義は価値法則を貫徹させる内在的メカニズムを持たないことになります。しかし現実の日本経済は「生産と消費の矛盾」による「需要低迷・供給過剰」に陥っているように見えます。そうなると「生産と消費の矛盾」を循環論の枠から構造論に拡大して考える必要があるようです。
そこではグローバル化による労賃低下が一つの重要な鍵だと思われます。労賃の労働力の価値以下への低下が構造的圧力によって固定化し、その低い労賃を新たな労働力の価値とするような萎縮した再生産構造が形成されていきます。労働と生活を犠牲にして価値法則の内容を劣化させながらリストラ的資本蓄積が進みます。ここには産業循環のような反転のメカニズムがなく、このような「生産と消費の矛盾」による「需要低迷・供給過剰」を解決するのは経済政策の転換しかないように見えます。労働者・国民の側から見ればそうなのですが、資本サイドからはもちろん可能性としては新製品の開発、新産業の展開といった従来型の資本蓄積軌道の再開ということもありえます。しかしこの不況は、その道をとるのではなく人間的な経済を作り出す転機としなければなりません。これは論文では、日本経済の「成長パターン」の転換の課題、として触れられている点に係ります。
消費者物価指数が通貨価値を現わしている、という主張に対して論文では、価値形態論の観点から反論していますが、価値実体論からも反論できると思います。物価指数は一物一価原理を時系列分析に適用したものであり、その基準は価値ではなく一定の使用価値であり、従って物価指数の逆数は通貨価値の変動を表現しません。
10年前に価値100の商品Aの価格が100であり、現在、生産性が倍加して価値が50になり、インフレで価格が150になったとします。これが全商品の平均値であるとすると、物価は50%上昇しており、俗論では通貨価値の変動は、物価指数150/100=3/2の逆数の2/3になり、33%の減価となります。しかし実際には10年前には100の価値を100の価格として表現していた通貨が現在では50の価値を150の価格として表現しているのであり、通貨価値は1/3になっており、67%の減価です。
物価指数は同じ使用価値が各時点でそれぞれいかなる価格として表現されるかを比較したものです。これに対して通貨価値の時系列比較は、同じ価値が各時点でそれぞれいかなる価格として表現されるかということです。当面の消費生活の観点からは、一定の使用価値を得るのにどれだけの通貨が要るかが問題であり、その意味では通貨価値の変動を物価指数の逆数として認識するのは根拠があります。しかし社会的再生産の観点からは社会的総労働をいかに配分するかが問題であり、その意味では商品への投下労働を表現する一定の価値を得るのにどれだけの通貨が要るかが問題となります。経済学では後者の観点で通貨価値を規定すべきだと思いますが、何らかの形で前者の観点も包含する必要はあるかもしれません。いずれにせよ物価指数は、商品価値・通貨価値・需給変動による価格の価値からの乖離といった多くのものを反映しますから、それを単に通貨価値の表現として、物価を通貨政策の問題に単純化するのは誤りです。
上の商品Aの現在の価格が150ではなく50になり、それが全商品の平均値であるとすると、物価は50%の下落ですが、通貨価値は変わらず、デフレではありません。上の例よりも生産性の上昇が緩やかで現在の価値が80であればデフレとなり通貨価値は60%の増価となります。しかしその際に通貨価値は変わらずに需要低迷の影響により価格が30下がって結果として50になるという場合もありえます。極端なことをいえば、生産性が急上昇して価値が40になったがインフレで価格は50になるということもありえます。これらはすべて物価が50%下落するという現象は同じなのですが、その原因は様々です(生産性の上昇、デフレ、需要の低迷)。原因が違えば対応も違うのであり、物価下落即デフレで、対策はインフレ政策というのは誤りです。
「資本主義のもとでの商品価格は、ただ下落すればするほどよいというものではない」(215頁)として、米作の採算割れの問題などを例に再生産の観点が強調されているのも重要です。あれこれ並べて恣意的に「良いデフレ」「悪いデフレ」というのは論者の無定見を現わしているだけだと思いますが、このあたりでも再生産の観点が基準となるべきだと思います。それは価値論の次元でいえば、商品価値が実現されているのか、価値以下の価格しか実現されていないのか、ということになります。価値の水準に大きく影響するのは生産性であり、価値と価格の乖離の幅は需給バランスによります。現実の価格を評価する場合に少なくともこの両者は考慮せねばなりません。一定の生産力水準と生活水準の下ではそれに対応した商品価値と労働力の価値の体系が決まってくるのであり、今日横行している議論の多くはこの価値体系を無視して、いかようにでも生活水準を落とし、その前提としても結果としても商品価格を落とすことを推進しています。それが供給力を強めると言いたいらしいが、縮小再生産の進行でしかありません(いわゆる「デフレ・スパイラル」)。
産業の空洞化が長期的視点からいえば供給力を落として物価高騰の原因となる、という指摘は忘れていた点であり、目先の輸入増加による価格破壊だけにとらわれるのでなく、将来展望を考えることの重要性を教えられました。
「世界市場を舞台にした価値法則の問題を考えるさいにも、独占資本の最近の価格戦略の展開を分析することが必要である」(218頁)という指摘も重要で、資本主義を単なる市場経済として見るのではなく、搾取による資本蓄積の展開という主体そのものの分析が主語に据えられねばなりません。ただし論文の分析によっても、今日の段階では独占資本が世界市場を存分に支配しているということではなく、大競争によって価格戦略の見直しを強制されているようです。
せっかく様々な経済統計を駆使した具体的な分析と包括的な理論的提起とを前にして、抽象的で断片的な感想しか出なくて申し訳ありません。
2002年7月号
小泉「郵政改革」批判の二論文(山下唯志「郵政民営化戦略と民間参入問題」、井上照幸「郵政市場開放とユニバーサルサービス」)は、「郵政改革」に関連して郵便事業の問題を根本的に解明しており必読です。まず井上論文で、ユニバーサルサービスの理念・歴史・現状(国際比較を含む)・展望、ならびに「郵便と宅配便の集配システムの比較」を頭に入れます。次に山下論文の詳細な分析を読めば、現状でもメール便の「いいとこどり」的参入などによって郵便事業経営が悪化しており、「小泉改革」の方向では結局ユニバーサルサービスが崩れて国民に被害が及ぶことがわかります。
両論文の核心にある市場競争とユニバーサルサービスとの対抗の問題は、「市場と規制」問題一般にも参考になります。「いいとこどり」を行動原理とする前者と逆にそれを否定する後者とは、資本主義国民経済の中では政策的に適当な棲み分けが必要となります。この点では、関根千佳氏の「ユニバーサル・デザインからみた日本」も興味深い話です。そこでは、法的規制を梃子にして市場における企業行動を誘導して、モノづくりにおけるユニバーサル・デザインを実現しているアメリカの例が紹介されています。このように「市場と規制」の様々な在り方をより原理的・包括的に考えていくことが必要です。
それにしても現状では、「自由競争こそが普遍的原理であり、『不純な』規制も例外的には認めてやってもいい」というのが「世間の常識」となっています。だから参入の自由は善であり、厳しすぎる規制で郵便事業への民間参入を阻害しているのはけしからん、という議論が俗耳に入ります。しかし井上論文が明らかにしているように、ユニバーサルサービスというのは市場原理とは独立した普遍的原理であり、資本主義国民経済の下でも政府規制によって立派に機能し公共の福祉に貢献してきました。ローランド・ヒルによるユニバーサルサービスの提起と実現の話は感動的です。彼は理想主義と合理的な現実主義とを統一して、当時の庶民にとって利用し難い郵便へのアクセスを抜本的に改善して今日の郵便システムを確立し、「国民の道徳的向上や知的進歩」を促進しました。郵便制度のグローバル・スタンダードとしての国営独占・全国均一料金の意義を「世間の常識」にせねばなりません。
通信のユニバーサルサービスに関連して思うのは、教育・福祉など、国民の生存と発達の土台にかかわる分野では競争原理を抑制して、あまねくすべての個人の生存と発達を保障することで、市場競争に立ち向かえる最低限の前提となる基盤を築くことが必要ではないか、ということです。効率を推進する市場の活力は企業や個人の「差」(その代表が特別剰余価値)をめぐる競争にあり、その意味では市場は差別主義の場ですが、格差構造が固定するならば多くの敗者は「市場の活力」から疎外されます。諸個人にとって「差」の克服への挑戦が可能であるための必要条件として、生存と発達の基盤が平等に整備されていなければなりません。
最初から弱肉強食を当然視するのでなく、まずはみんなでよくなろう、という思想が求められます。たとえば作曲家の服部克久氏は『世界』1997年10月号の座談会「再販制度は文化の問題」でこう言っています。
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たとえば過疎地とか遠方の地方の流通のお金のかかっている分を都市の読者が負担するのはいかがなものかと言うけれども、そんなことは当り前じゃないですか。そういうものを維持するために負担できる人がちゃんと負担していかないと、社会とか人間の関係というのはなくなります。こんな考えは論外だと思います。
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「構造改革」というのはこの「論外」を体系立てて追及するものであり、小泉「郵政改革」も建て前としてはユニバーサルサービスの維持ですが、井上論文と山下論文が明らかにしているように実際には大資本の利益のためにそれを崩壊させようとしています。
それにしても「郵政改革」などの「構造改革」にそれなりの支持が集まるのは、マスコミ論調の影響はもちろんありますが、長期不況と社会保障改悪で可処分所得が減り続けていることが原因となって「商品価格を下げ、消費者利益を確保するために『構造改革』による競争促進が必要だ」というイデオロギーが深く浸透しているためだと思います。日本と世界の経済はグローバル化の中でまさに「安物買いの銭失い」に陥っています。
私の古本屋でもインターネットによる通信販売を行っており、書籍を郵送しています。先日あるお客さん(経済学研究者)に7kg弱の小包を送って送料として1000円を請求しました(小包料金は1010円)ところ、「高い」という苦情が来ました。大規模な店ではたとえば300円にしているところもある、とか、買上高が高い場合はサービスしてくれるところもある、あるいは小さい店でも通常の宅配便料金よりも相当安く届けてくれるところもあり、特別の契約をしているのではないか、といったご指摘でした。
初めに、指摘の最後にある、低料金での宅配便業者との契約の件ですが、これは確かにあります。ただし安くなるのは(それぞれの個別の契約内容にもよりますが)だいたい1kg以上の場合に限られます。私の知り合いの名古屋の同業者の場合、運送会社との契約で、毎月30から50個程度利用するなら、みかん箱程度までの荷物は本州・四国は400円均一、九州・北海道は500円均一となっています(最初は首都圏・関西圏は350円という契約でしたが、運転手の賃金を保障し難いのでやめになりました)。通常は1冊送るだけですから、郵便局の冊子小包なら310円とか340円くらいで送れます。1kg以上の荷物だけで30個以上も利用する大きな店なら、それは宅配便、軽い荷物は冊子小包という利用方法もありますが、普通の店ではそれは無理ですので、全部を、宅配便にするか小包・冊子小包にするかを決めねばなりません。私は、軽い荷物(それがほとんどです)を安く送ることを重視して郵便局を利用しています。重い荷物のお客さんにはそれ相応の負担をお願いしています。知り合いの同業者の場合は---重い荷物が安く送れる、毎日集荷に来てくれる、冊子小包には事故の場合の補償がない(これについていえば当店では14年間利用して1件の事故もありません)---という理由から、運送会社を利用しています。離島などに送る場合は郵便局を利用するそうです。市場に生きる零細業者としては「いいとこどり」を実践せざるをえないわけですが、市場原理によるユニバーサルサービスへの蚕食の具体例がここにあります。
話の筋が少しずれました。先のお客さんからの苦情の他の内容にもどります。確かに個別商店の立場としては販売促進の工夫の一つとして送料を安くするということもあっていいわけですが、社会経済的観点からすると、安いのが当り前というのは考えものです。消費者の多くは広い意味での生産者でもあります。再生産を保障できないような価格の商品を買って消費者利益を得ても、生産者としてそのような価格を余儀なくされれば、所得の減少や労働強化・ただ働きに見舞われます。またアマゾンのような大きなところが送料なしにするのは、体力にまかせてダンピングで小さいものを淘汰しようとしているように思われます。このような弱肉強食戦略は一見消費者利益になるようでも結果としては市場の多様性を損ない、消費者に不利になると思います。
所得の低下が低価格志向を生みますが、それは商品に投下された労働を正しく尊重しないことであり、それはまたその労働を投下する労働者の生活を尊重しないことにつながります。この人間労働蔑視の状況下では「構造改革」「リストラ・労働強化」「低価格志向」は三位一体です。山下論文では労働問題の視点からも郵政民営化戦略が批判され、それは労働者の権利・労働条件の悪化のみならず、リストラ・労働強化がもたらすサービス低下の問題にも説き及んでいます。やみくもな低価格志向を克服しなければ、私たちは消費者の立場からも生産者の立場からも結局不利益を被ることになります。これがグローバリゼーション下の「構造改革」における「安物買いの銭失い」です。
しかし消費者たちは、所得の減少などを中心とした所与の状況下で目先の合理性に基づく判断・行動を余儀なくされているわけで、精神主義的説教でそれを克服することはできません。所与の状況そのものを変えることが必要なのです。そのために「構造改革」へのオルタナティヴの提起、人間の生活と労働を尊重した経済社会実現への政策的イニシアが求められます。
なお付け加えれば、山下論文では郵政民営化路線だけでなく従来型の官僚的運営への批判も展開されており、マスコミによって世間に流布された「改革派VS抵抗勢力」という俗論対決への両面批判にもなっている点が重要です。
90頁に「利潤圧縮」というコラムがあります。そこでは「不況の原因を労働分配率の上昇とし、従って不況対策として賃下げを求める」という議論を問題にしているのですが、それはこのような短文で揶揄して済ませるべきものではなく、本格的に検討すべき課題です。少なくとも私が指摘したいのは次の点です。労働分配率の上昇というが、それは賃上げの下で起こっているのではなく、少なくとも可処分所得の減少とともに起こっている、ということ。この矛盾はおそらく実現問題の視点から説明すべきであろうこと。これは恐慌論でいえば資本過剰論と商品過剰論との対立と関連していること。
2002年6月18日
2002年8月号
座談会「政治とジャーナリズム」で、塚本三夫氏は、世論調査において憲法改正是認が過半数を超えたことに関して、マスメディアの責任を指摘しています。巻頭随想では長谷川正安氏が現在の国民一般に憲法の重要性への確信がないのを嘆いて、その責任の一端は憲法研究者にあるかもしれないが、何より日本の歴代政府に問題がある、としています。日本国憲法とは矛盾する日米安保条約の存続、後者に追随し前者を軽視した保守政権の継続、そして商業マスコミでは確信的で強大な改憲派と曖昧で脆弱な護憲派という劣悪な構図。現実的にはそれらが今日のような憲法意識をもたらしたのであり、私たちが闘っていくべき対象がそこにあるのも確かです。
憲法の理念と現実とのあまりの乖離から、国民の中には、憲法は無力なタテマエにすぎない、というニヒリズムが広がっているのではないでしょうか。この乖離をもたらしたのは何よりも上述のような戦後日本の政治状況ですが、経済理論の観点からより抽象的次元から考えてみることも必要かと思います。そのキーワードは「職場には憲法が適用されない」ということです。労働の場や生活の現実から憲法を実感することがないという問題です。
日本国憲法の中心原理は市民革命以来の近代市民法ですが、それは商品交換における商品所有者相互の意志関係を抽象した基礎範疇からなります。商品の消費は市民法外的な関係となります。ところで資本主義的生産関係においては労働者は自己の労働力を資本家に販売し、労働力商品の消費は資本家の手にゆだねられます。こうして市民法においては資本=賃労働関係は自由な人格の平等な契約関係として把握され、生産過程(労働力商品の消費過程)における実質的な従属と不平等は隠蔽されます。市民法と資本主義的現実には本来的矛盾があります。
もちろん日本国憲法は労働基本権などの社会権を含んでいます。しかしこれは市民法とは異質な原理が妥協的に組み込まれているのであり、その現実的適用は法理によるというより階級闘争の如何によるといわねばなりません。その結果が必ずしも芳ばしくない場合が多いのは周知のとおりです。
欧米における市民革命期には資本関係はまだ未成熟であり、市民法が想定するような独立した自由平等な商品生産者の関係に近似する実態があり、人々は市民法を我がものとして感じ、法の尊重によって自身を守る、という観念が発達したのではないでしょうか。ここから、個人生活擁護の観点により資本の法則の過剰貫徹を規制する、という形でその後の資本主義的発展との一定の折り合いがつけられてきたように思います。これに対して日本に近代市民法をもたらした日本国憲法の成立時には厳しいものがありました。一方ではすでに資本主義的生産関係の発達があり、他方には前近代的生産関係に照応した遅れた生活=意識形態がありました。これは、近代市民法を実感的に享受するには歴史的にはある意味では遅すぎ、別の意味では早すぎるという状況です。
焼け跡に武装解除された当時の日本人にとっては、憲法9条はきわめて現実的であり、近代市民法の原理も、上述のように二重の意味で非現実的であったにもかかわらず、戦後復興の理想図として人々に受け入れられました。その後の資本主義的発展が、一方で前近代的意識形態を徐々に克服してきたことは、市民法としての憲法の定着を促進しました。しかし他方でその資本主義的発展が生存権・社会権を尊重しないことは、労働者・国民生活にとっての憲法の無力感を生みました。その上、再軍備はあからさまな憲法への凌辱であり、様々な国民的抵抗を生み出しましたが、経済成長優先主義の中で、結果的には日米安保体制の枠内での現状追認・傍観が大勢となりました。
憲法の重要性への国民的不確信という由々しき事態の直接的原因は憲法敵視の政治とそれを助長したマスコミ論調にあるのですが、以上のようにその他にも深い要因があります。経済原理からは、市民法と資本主義経済の現実との矛盾があり、日本国憲法と国民が直面した日本資本主義の歴史的特質も問題でした。護憲論を空虚な理想論とする雰囲気の裏には「法というものの考え方」への無理解があるのですが、その無理解は歴史的・経済社会的根拠を持った実感に基づくのですから、現実を変えることを通じて克服せねばなりません。
誤解のないようにいえば、私は憲法と市民法の偽善や無力を主張しているのではありません。市民法は、資本主義経済から資本=賃労働関係を捨象した商品=貨幣関係の次元に成立しますが、その抽象性の故に自由・平等な社会形成の原理をある程度普遍的に表現しているともいえます。それを搾取のいちじくの葉とするのでなく、逆に搾取を克服していく社会の原理として再生させていくのが私たちの課題です。もし市場社会主義というものが可能であるならば、そこにこそ市民法は新天地を見い出すでしょう。
法学・政治学はほとんど学んだことがないので、拙文が誤り・的外れに満ちているか、あるいはあたりまえの話だけに終わっているのではないか、と恐れます。
2002年7月18日
2002年9月号
不破哲三氏の「再生産論と恐慌」第9回には、過少消費説批判の要点がまとめられています。「生産と消費との矛盾」を恐慌の根拠とする立場からは過少消費説は批判できないように見えます。しかし「生産と消費との矛盾」とは消費のせまさを乗り越えて生産が無制限的な拡大への衝動をもつことをいうのであり、それを恐慌の根拠とする立場からは当然のことながら、消費のせまさだけを問題にする過少消費説は批判の対象となります。
この見地から今日の長期不況の原因と対策を捉えるとどうなるでしょうか。
まず原因について。小西一雄氏の「いま日本の経済と金融をどうするか」(本誌4月号)では、「不効率な産業が足を引っぱっているので不況から脱出できない」という議論を批判して、「不況は最も効率的なリーディング産業でこそ起こるのであって、不効率な産業が起こすものではありません」、あるいは「中心的な産業における設備投資が原動力になって、景気は拡大し、ある段階を超えると過剰生産になって不況をまねく」と指摘されています。IT不況というのはまさに消費を顧みない生産の無制限的拡大の結果といえます。
次いで対策について。民主勢力のいう「家計を温める」政策は過少消費説に立っているように見えます。しかしこれは小西論文からも分かるように、新商品・新技術・新市場をあてにした従来型の「生産のための生産」路線に対置された、内需循環型路線であって、生産の無制限的拡大へのチェックをも含むものでしょう。この意味では「家計を温める」政策は循環論の観点からだけでなく、構造論の観点から評価し補強していくことが求められます。
ところで不況を見るに際して、商品の過剰生産よりも企業利潤の減退をもっぱら重視する立場からは、「生産と消費との矛盾」を恐慌の根拠とする理論は過少消費説の一種に過ぎないとみなされ、「家計を温める」政策は退けられます。そして利潤を増強するあれこれの政策が追及されますが、行き着くところは賃金切り下げです。リストラ・賃下げは横行し、人事院も初めて賃下げ勧告を出し、年金の切り下げも検討されています。経済危機を彼等なりに打開するのに資本と国家は国民大衆になりふり構わぬ攻撃を加えているのですが、それを「理論化」した経済学に対決する、科学的で階級的な経済学を発展させねばなりません。
2002年8月16日
2002年10月号
私が学生だった1970年代後半にはまだマルクス主義はそれなりの影響力を持っていたように思います。しかし今日では現役の大学院生の中村一成氏によれば「マルクス主義の影響力の凋落は歴史学の領域でも著しくすす」(72頁)んでいるようです(経済学はいうまでもないだろう)。思えば、戦前に『日本資本主義発達史講座』を出版し、戦後も良心的な学術書出版を続けている岩波書店の関係だけを見ても、1983年から85年にかけて出された『山田盛太郎著作集』の売り上げは惨憺たるものだったと聞きますし、87年から89年に出た『新岩波講座哲学』では旧講座とは違って唯物論は排除されていました。そして私が決定的だと感じたのは88年から90年にかけて近代経済学による『日本経済史』全8巻が刊行されたことです。岩波がこれを出したことは講座派理論の凋落を象徴するように思えたものです。もちろん左翼系出版社からのマルクス主義著作物の刊行は少なくはないのでしょうが、主流をはずれた感は否めないし、アカデミズム内での凋落は上述のとおりです。
こうした現象の背景については永原慶二氏が「『日本資本主義発達史講座』と今日的課題」において様々に論じる中で、「社会史」などを念頭に置きながら、70年代の反生産力主義的な反資本主義の傾向に触れているのが注目されます。私の問題意識からすれば、こうした傾向への機械的反発として、マルクス経済学や史的唯物論の名のもとに極端な経済主義・生産力主義・資本主義賛美による新自由主義との一体化の潮流があることも問題だと思います。永原氏が指摘するように、戦前日本資本主義に対して講座派は上部構造をも含めたトータルな認識を示しました。それが忘れられたところに単純な経済主義が登場したのでしょう。
ところでこのインタビューの中に、ハーバート・ノーマンが「カナダで自死」(49頁)とありますが、彼は駐エジプト大使時代にカイロで自殺しています。赤狩りによる執拗な追及に悩まされる中で彼はたまたま日本映画「修善寺物語」を見る機会を得ます。懐かしい日本の風景に見入るうちにいつしか彼は将軍頼家の暗殺に自分の運命を重ねてしまい、「映画から何かメッセージをもらったような気がする」と妻に語っています。翌朝、彼はカイロのビル上から身を投げました(NHK教育テレビ1999年8月10日放映の「ハーバート・ノーマン」より)。
閑話休題。マスコミやアカデミズムの科学的社会主義に対する評価は一面的であり、実際には地道な実績の積み重ねがあるのではないかと思いますが、特に1989年以降は世間的にはもうなきものの如くに扱われているのも事実です。しかし今日の世界と日本の資本主義の危機とブルジョア経済学の混迷を見ると、科学的社会主義・マルクス経済学の出番だと思います。戦後日本史上では例外的な長期不況が物価下落をともなって今なお続いています。資本の利潤第一主義という共通の基盤の上で、ブルジョア経済学は「構造改革」派とインフレ政策派とが争いつつまた補完的関係にもあります。民主派は「家計を温める」政策を掲げ、資本への民主的規制を含めた内需循環型の国民経済の再建を目指しています。
ここで特にいわゆる「デフレ」論を一つの軸にして見れば、現状分析・経済政策を深めるためには価値論の次元から解明していくことが必要です。『経済』誌ではそれが系統的に追及されてきました(注)。続いて、経済史という迂回的ではあるが経験的事実の重みで問題解明に役立つアプローチで同じ問題意識に挑戦したのが、10月号、今田真人氏の「日本資本主義発達史と3回の『デフレ』現象」です。
(注)主な論文は以下の如く
*2001年8月号 建部正義「デフレ問題と日銀の量的緩和政策」
*2001年9月号 松本朗「日銀の量的緩和政策とインフレーション」
*2001年10月号 前畑雪彦「現代貨幣論 貨幣数量説・金廃貨論批判とインフレーション」
*2002年4月号 松本朗「デフレ問題をどう理解したらよいか」
*2002年4月号 米田康彦「日本経済と『デフレ・スパイラル』」
*2002年6月号 友寄英隆「現在の『不況下の物価下落』現象をどうみるか」
経済史はもちろん、貨幣論・金融論のこれまでの膨大な研究蓄積にも接していない私ですのでかなりおぼつかない感想になりますが、この論文の重要性に押されていくつかの点を述べたいと思います。
この論文は『日本銀行百年史』などを読み解いた労作ですが、むしろそのレーゾンデートルは明快な理論的提起にあると思います。はじめに物価下落現象を通貨側の要因による名目的物価下落と商品側の要因による実質的物価下落に分け、さらに後者を商品価値の低下によるものと商品価格の価値以下への低下によるものとに分けています。このうちデフレとは名目的物価下落を指します。継続的な物価下落現象をすべてデフレとする通俗的な無概念的議論とは決別して科学的なデフレ概念を確立したことで、今田論文は経済史上の「デフレ」のみならず今日の「デフレ」をも読み解く鍵を提供しえた、と私は評価しています。
論文ではまず「デフレ」政策の階級的本質を押さえた上で従来不十分であった貨幣論的解明に進みます。その際にインフレ論にヒントをえた試論的枠組みとして財政デフレと信用デフレを設定し、「流通必要金量」を下回るような「流通紙幣量」の過度な縮小が発生しているかどうかという点にデフレの基準を見ます。
その観点から日本資本主義史上の三大「デフレ」が検討され、「松方デフレ」は典型的なデフレ、「ドッジデフレ」は不徹底なデフレ、「井上デフレ」はデフレにはあらず、と判定されます。論文の中心は「井上デフレ」の分析にあり、それは今日の「デフレ」分析にも示唆することが多いと考えられます。
井上は「不況・恐慌による実体経済面での物価下落と、紙幣価値増加による貨幣的物価下落とを、区別できなかった」(91頁)ので「景気悪化や消費需要抑制による物価下落が日銀券の価値を増価させるという誤った理論」(90頁)に基づいて旧平価での金解禁を断行し大規模な金流出を引き起こしてしまいました。ところで「需要不足による物価下落→通貨価値上昇」という井上命題の対偶命題は「通貨価値下落→需要増加による物価上昇」ではないでしょうか。逆は必ずしも真ならず、ですが対偶は必ず真です。井上命題が偽であれば対偶命題も偽となります。この対偶命題は今日の調整インフレ論に他なりません。
インフレ政策が原理的には実体経済の直接的な改善にはならないことについては、以前に説明したことがありますので、ここでは「要は物価の騰落が問題であって、原因が商品側であろうと通貨側であろうとどうでもよい」(井上と調整インフレ論者の議論の前提的認識は結局そういうことになる)という価値論なしの価格論を検討したいと思います。
第一にいえるのは、対外経済関係においてはそれは通用しない、ということです。「井上デフレ」による金解禁の経験からもいえるように為替はあくまで通貨の問題です。
第二にいえるのは、通貨価値の増減による物価の騰落は構造的・不可逆的傾向を持つが、商品需給変動による物価の騰落は循環的・可逆的傾向を持つ、という重要な違いがある、ということです。なぜなら、前者では、通貨価値の増減により、従来の価格のままでは価値から乖離することになりそれを埋めるために価格が騰落するので、新しい価格は価値に一致して安定的となる、それに対して後者では、需給変動による価格の騰落は価値から乖離して不安定なので元の価格に復帰する傾向があるからです(山田喜志夫『現代インフレーション論』180〜183頁参照)。
以上のように私なりの理解も含めた今田論文の理論的・経済史的成果から今日の物価下落をともなう長期不況はどのように捉えられるでしょうか。「井上デフレ」についての次の評価が参考になるように思われます。
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いずれにしても、一九二○年代には、「インフレ」要因がいくつも重なり、紙幣減価は大幅に進行していた。そうであるのに、なぜ、当時の物価は、下落基調だったのか。それは、この紙幣減価による物価上昇要因を、当時の実体経済側の恐慌・不況による物価下落が上回り、表面的・現象的には物価下落基調が続いたからであろう。別の言い方をすれば、紙幣減価の速度よりも、実体経済での供給過剰・需要不足による物価下落の速度の方が速かったのである。 (90頁)
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日銀による「潤沢な資金供給」にもかかわらず、物価下落が続く今日の状況に重なる部分があるように思います。ただし今日では需要不足要因に劣らず、商品価値そのものの低下が重要な要因です。それは生産性の上昇と安価な輸入品の登場によってもたらされます。先に、商品需給変動による物価の騰落は循環的・可逆的傾向を持ち、通貨価値の増減による物価の騰落は構造的・不可逆的傾向を持つ、と書きましたが、商品価値そのものの低下による物価下落も構造的・不可逆的傾向を持ちます。本来、需要不足による物価下落は循環的・可逆的なはずですが、不況の強さによって反転の機会が見い出されていません。こうして価値低下要因も需要不足要因も構造的・不可逆的な物価下落を生み出すため、これは無概念的価格論の立場からは通貨価値の増価による物価下落と見なされ、インフレ政策を誘発します。このように政策の誤りは理論の誤りから来るのですが、理論の誤りはそれを誘発する現実の構造にも原因の一つがあることに注目すべきです。
この商品価値低下と需要不足の固定化を規定しているのはグローバル化です。ここでの鍵は、商品輸入と資本輸出とがあいまって、労働力の価値そのものの低下(生活費の低下)と労働力の価値以下への賃金の低下(生活水準そのものの低下)とが渾然一体となって進行していることです。つまり安価な輸入品は一方では生活費を低下させ、他方では国内競合産業の倒産・リストラ・労働強化による賃金破壊が進んでいます。資本の海外移転による地域経済の崩壊もまた失業・賃金破壊を生み出しています。景気循環による賃金低下ならばやがて反転しますが、グローバル化の下での資本の戦略に基づく構造的変動では
不可逆的となります。そして生活水準の低下が固定化されれば、従来の労働力の価値以下に低下した賃金が新たな労働力の価値として固定されます。この低い購買力が国民経済を規定し縮小再生産を招きます。商品価格の価値以下への低下が循環的にではなく構造的に起こります。これはいわば価値法則のシフトダウンともいうべきもので、これまで国民経済の中で一応完結していた価値法則が破れてグローバル化というかアジア化しつつある姿ともいえます。それは現象的には物価下落ですが内実は労働者の生活水準の低下と企業の再生産の困難です。
つまり労働力の価値通りの賃金とか価値通りの商品価格とかいうのは伊達ではなく、再生産可能な価格水準を表わしているのです。昨今のブルジョア経済学は資本の利潤確保を第一義とした価値論のない経済学といえます。賃金は資本蓄積の従属変数であって、いかようにでもフレクシブルに扱われます。「構造改革」派は容赦なく貨幣賃金切り下げと弱小資本の整理を主張し、インフレ政策派は調整インフレで実質賃金を切り下げることによる利潤確保を策しています。ここにはまともな生活に支えられた国民経済の再生産という思想がありません。これに対して今日の危機的な長期不況において、人々にとっては価値論はナショナルミニマムの経済理論といえます。グローバル化の中でそれをいかに実現していくかは難しい課題ですが。
話が飛躍しましたが今田論文の続編としての現状分析論が多いに期待されます。
都留重人氏の「資本制社会の変革をめざして」は広く深い内容と重要な問題提起を含んでおり、教えられる点が多いのですが、ここではあえて疑問点を述べます。
「技術の変化を『労働生産性』という見地で考えるのは、労働が明らかに主な生産要素であった時代からの一種の遺物である」(25頁)という言葉などに表わされているのは、労働と生産手段がそれぞれに価値を生むという近代経済学の考え方です。いうまでもなくマルクス経済学においては、生産手段は具体的有用労働の働きによって価値を移転させるだけであり、価値を生むのは抽象的人間労働だけだと捉えられます。都留氏は近代経済学の考え方をとるということでしょうが、所得分配の問題にも言及されていることから類推すると、労働が価値を生むということと、それを資本が取得するという次元の違うこととが、所得分配という局面にごっちゃに投影されて、さらにそこからさかのぼってあたかも生産過程において労働と生産手段(資本)がそれぞれ価値を生むという虚像が形成されているように思います(注)。
(注)交換価値の実体を労働に求める根拠については、何かと批判の多い「蒸留法」ではなく、労働過程に着目した以下の見解を参照してください。
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筆者が「労働過程論の視角」とよぶのは『資本論』第1巻第3編第5章第1節「労働過程」において端的に述べられているような生産の歴史貫通的構造認識をもたらす分析視角のことであって、それによればあらゆる生産要素の中で労働が人間の立場からみて唯一の根源的・主体的要素と位置づけられ、生産は人間が労働手段を用いて労働対象に働きかけ意図した使用価値を獲得する過程として捉えられる。このような労働過程論の視角から史的唯物論の枠組みを具体化すれば、物質的生産諸力は生産された使用価値と生産のために投入された労働の関係として捉えられ、生産諸関係は生産過程における諸労働の編成を起点として分配・消費過程における諸労働への支配関係にまで拡張されてゆく。
和田豊「労働価値概念の仮想性と現実性」54〜55頁
(『岡山大学経済学会雑誌 第33巻第1号 2001年6月』所収)
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このように労働だけが根源的・主体的生産要素であり、生産力は労働の生産性として捉えられます。従って、生産手段の発達によって少ない投下労働量で多くの使用価値を生産できる、ということは労働生産性の向上として捉えられます。これが本質的関係です。しかし疎外された労働(労働が生産手段に従属している状態)の下ではそれは労働の意義の減少と感じられます。逆に人間的労働(生産手段に対して労働が主体的な状態)の下では労働の意義の増大と捉えられます。卑近なたとえでいえば、コンピュータを使いこなしている人は自分の労働能力の拡張を感じますが、コンピュータに使われている人は自分の労働の無力感にとらわれます。
生産における労働の根源性を認めることで、生産力発展を人間の必要労働時間の短縮と自由時間の拡大に還元する見地が成立します。これは人類の前史と本史を考える点で重要です。人類の前史の最終点に位置する資本主義時代は生産力の猛烈な発展を自身の歴史的存在根拠としています。その課題を果たして人類に十分な自由時間を保障できるようになったらさっさと歴史の舞台から退場すべきですが、今だにいすわって、本来自由時間を享受しているべき人間たちをあくせく働かせています。都留氏が好んで引用するシュンペーターの言葉(18頁)の通り、「静止的な資本主義」はありえないので休むことは許されず無駄なものを作るために無駄に働かねばなりません。疲れ果てた人々にとって本来必要なのは「静止的な社会主義」なのです。グローバル化の時代に癒しを求めるというのは、資本主義から社会主義への移行の時代を表現しているはずなのですが…。そして「静止的な社会主義」が停滞を意味するものでないことは、J・S・ミルのゼロ成長状態の勧めの言葉から学ぶことができます。「そこには、従来と同様、あらゆる種類の知的文化と道徳的ならびに社会的進歩の可能性が開けている。また、人びとの心が、ともかく先へ進むことばかりに捕らわれることがないようになれば、生活の内実を豊かにする余地も十分にあり、それが更に改良される見込みは、いっそう強まるだろう」(18頁)。私たちが毎日聞かされる新自由主義の効率第一主義の言葉とは対極にあります。
都留氏の「『労働の人間化』に力点をおいた経済発展を目標とする政治哲学の立場」(34頁)を私は支持しますし、紹介されたヴェブレン、ラスキン、シューマッハーの労働観にも共感します。「ストックではなくフローの社会化方式」(35頁)も当面する改革の課題として現実的なものです。私はそれらを労働価値論によって基礎づけたいと考えているのです。
2002年9月13日
2002年11月号
「近代経済学は高度経済成長が終わったときに破綻したが、それ以前にマルクス経済学は高度成長が始まったときに破綻していた」とか「資本主義が危機でもないときに『危機』と騒ぎ立てて、それが実際に危機に陥ったときには無力さを露呈した」などというマルク経済学への批判があります。現実的には当たっている部分もあると思うのですが、本質論をいえば、こうした批判には経済分析の課題に対する無理解があることを指摘できます。
好況期には商品価値の実現は容易であり、需給一致による拡大均衡が実現されます。ここに「ニューエコノミー論」などのあだ花が生じます。しかしそこには循環的にも構造的にも潜在的矛盾が累積し遅かれ早かれ顕在化します。マルクス経済学は、特にその恐慌論の体系を見ると分かるのですが、資本主義経済をまずその理想的平均状態において捉え、そこに資本の本質的矛盾を見た後に、現実的競争の次元において不均衡の発現を分析します。また商品=貨幣関係と資本=賃労働関係、あるいは実体経済と金融という立体的構造を労働価値の生産と分配という一貫した論理構造の中に捉えます。したがってそれは本来は万年危機(恐慌)論ではなく、資本主義世界経済と各国民経済の循環と構造を時間的にも空間的にもそれぞれの状況に応じて分析する基準を与えるものです。
今日、泥沼の長期不況に対して「不良債権処理」を中心とした「構造改革」とインフレ政策とのあれこれのミックスをめぐって議論されています。さすがに公共事業の増額を正面から主張する向きはない(しかし実態として確保しようという動きは強い)のですが、そうなると実体経済に対しては「不良債権処理」など不況促進策しかなく、「デフレ」対策としては金融政策=インフレ政策しかなくなっています。国民の立場からすれば実体経済への不況対策として家計を温める様々な政策があるはずなのですが、それが顧みられることはありません。中小企業つぶしと大銀行救済の「不良債権処理」が景気回復の前提だというのですが理論的にも現実にもすでに破綻しています。これらはまさに露骨に階級的な政策だと思うのですが、政府や御用学者それに商業マスコミはイデオロギーにとらわれない科学的な政策だと思っているらしい。
本田浩邦氏の「アメリカ経済の不安定性と金融政策」を読むとこういう牢固とした信念の理論的根拠を知ることができます。要するにマネタリストの「見解が支配的になるにつれ、基礎的な不均衡に関心を示さない金融政策観ができあがり、経済システムに浸透していった」(45頁)ということです。バブル的拡大均衡に浮かれて金融政策の万能を謳歌し実体経済の矛盾を軽視した目からは、危機打開に際しても実体経済へのまともな配慮はないのでしょう(これはもちろんアメリカの話なのだが追随する日本にもある程度あてはまる)。「経済に蔓延する深刻な不均衡の実態を理解すれば、人々はそれを生み出している企業のビヘイヴィアに対する規制という根本治療に向かって多様なアイデアを出すことができる。逆に、その実態を認めなければ、有効需要を外的に創出するか、物価を人為的に戻すといったいくつかの対症療法の選択肢をめぐって争うより他はない」(49頁)。このように本田氏は当面する不況対策論議の混迷の先に大企業の民主的規制までをも見通しており、科学的経済学の面目躍如たるものがあります。
2002年10月20日
2002年12月号
生産力が発展すれば労働時間が短くなり生活も豊かになるのが本来あたりまえなのですが、昨今では生活は貧しくなり、サービス残業も含めて労働時間は長く過労死する人もある一方で、失業でホームレスになったり自殺する人もあります。十年以上もそれが続くと逆にそのほうがあたりまえに感じられたりします。構造的失業は日本に限らず欧米などでも定着しており、資本主義経済の行き詰まりは明白なのですが、様々な原因からそこには目が向かなくなっています。とりあえず資本主義を前提するにしても、その矛盾への対応の仕方は国により実に様々です。日本以外のやり方もあります。本号を読んで、無知な国民は自分たちで自分たちの首を絞めているのだ、と他ならぬ私自身もその無知さ加減を共有する日本国民の一人として痛感しました。
牧野富夫、都留民子、大須眞治「鼎談 高失業時代 日本の課題」での都留氏のフランス報告には唖然としました。失業対策、社会福祉のなんと手厚いことか。翻って日本のそれの何とひどく、労働者状態が異常に悲惨であるにもかかわらず、そのことに無感覚であるのか。政府・支配者層がそうなのはいうまでもありません。それだけでなく国民一人ひとりも毎日の生活に追われるばかりで失業を社会的問題としてとらえることがきわめて弱くなっています。マスコミには何事につけても「自己責任」の声高な主張ばかりが目立ちます。日本社会は集団主義で競争がなくていけない、と思われているけれども、熊沢誠氏が指摘するように、職場の状況についていえば逆であって、日本は個人間競争が激しく労働者集団としての抵抗力がないのに対して、欧米では労働者集団の力で競争を抑制して資本への抵抗力を維持しています。新聞の投書欄を見ると、労働者・自営業者・農民・公務員など国民諸階層がそれぞれ足を引っぱりあうような声がよく載っており、支配者層の高笑いが聞こえてきそうです。
「失業者の、長期の、相対的に恵まれた保障は、失業保険の拠出を行っている現役労働者、そして失業補償組織の運営者である労働組合も認めています。なぜならば、失業者がどんな賃金でも働くようになれば、自分たちの賃金・労働条件が引き下げられるからです」(53頁)。「大学を出た人が、スーパーでレジ打ちをするなんて、ヨーロッパではありえません。職能の下の仕事を、上のものが奪うことですから」(54頁)。「残業については、失業者に与えるべき仕事を奪うことですから、罪だという社会的意識があります」(54頁)。
確か2000年の総選挙の際だと思うのですが、各党党首のそろった討論会が開かれました。そこで長年日本に在住しているドイツ人ジャーナリストのゲプハルト・ヒールシャー氏が質問していました。その中に忘れられない言葉があります。「不破さん以外の党首は失業について触れていないが、これでは失業者への連体感がない」というような意味の発言でした。「失業者への連体感」という日本語は確かにありうるし賛成だけれども聞いたことはないので違和感をもって記憶しているのです。しかしそれはヨーロッパ人にとってはまったく自然な言葉だということが、上記の都留氏の発言から納得できるのです。
社会保障というのは単に生活防衛のためだけにあるのではなく、個々人が権力から自立し抵抗できる土台としてもある、という指摘にも目を開かれました。逆に言えばそれだからこそ、日本の支配層は福祉の貧困と不安定雇用・失業の脅威を武器にして、「余計なこと」は考えさせずに苦役を強要できるのでしょう。社会保障を守り発展させる運動の重要性を再認識しました。
社会保障の充実というのは結局、資本・国家負担の増大ということになりますが、そこで決まって出てくるのが国際競争力の問題です。日本の支配層も口を開けば競争力といい、マスコミで流布されるので多くの国民も競争信仰に染まっていますが、これだけひどい働かせ方と貧困な福祉でもまだ競争力向上を言わねばならない、というのはどういうことなのだろうか。確かに中国の低賃金労働との競争が困難なのはわかりますが、西欧福祉国家との競争でもいっそうの福祉削減というのは納得できません。かつては先進国病などといって馬鹿にしていたのです。別に日本が福祉先進国になったわけでもないのに今では競争が大変だと言っています。為替・金融その他様々な問題が絡んできて苦境にあるということでしょうが、競争力の低下などという雑駮な把握でなくその辺りを分析的に明らかにすべきだと感じます。
私自身、プロレタリア以下的零細自営業者であり、友人にも失業者や不安定雇用労働者がいます。それぞれが個人的に様々な困難、問題点をかかえており、不幸のあり方は実に個別的なのですが、「せめて仕事さえあれば」というような今日的状況にはまっている点ではまさに国民的事情と共通しています。各人が自己の状況を直視して個別具体的に打開していくことが必要なのですが、その際にも社会科学の目を持って常に自己を社会の中に位置付けていくことが忘れられてはなりません。
田中菊次氏の「マルクスの『資本論』仕上げ作業」の中で、「取得法則の転回」は本来は『資本論』のように資本蓄積論のついでにではなく、資本の本質的分析の一課題として解明されるべきものだ、とされているのには共感します。新古典派などの資本主義経済への平板な把握とは違って、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係とからなる立体的把握の要となるのが「取得法則の転回」ですから、相応の体系的位置付けが必要だと思います。日本国憲法と現実との矛盾というようなきわめて政治的な問題の根っこにも市民法の社会像と資本主義的現実との矛盾があり、それは「取得法則の転回」にかかわる問題です。自己労働に基づく自由な所有者としての諸個人によって社会が形成されているという錯覚(搾取と階級の没却)が、一般的に資本主義社会のタテマエと現実との矛盾を象徴しています。厳しい高失業時代にあっても「自己責任」や「個人の自立」などという言葉をいとも簡単にはけるのも、そうした無概念的観念、それを集大成したブルジョア社会科学のなせる業でしょう。
2002年11月17日