月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2003年)。 |
2003年1月号
相手にするのもばかばかしい議論が現実を動かすことがときにある。リクルート疑獄をきっかけにした「政治改革」という名の小選挙区制導入騒動が典型だ。小選挙区制にすれば政党本位で金がかからず政権交代が可能になる、と唱える「改革」派が反対者を守旧派よばわりして大方の政党とマスコミ・御用学者を総動員して熱病的キャンペーンを張った。これがとんでもない愚論であったことは、今では一部の頑迷な連中を除けば認められているだろうが、そんなことは小選挙区制を実施するまでもないどころか、議論を始める前から分かっていることだった(ここではその根拠は省略する)。小選挙区制法案が参議院でいったん否決されたときのマスコミの巻き返し策動はまさに民主主義を圧殺した暴挙であったが一向に反省の色はなく、その後も相変わらず「構造改革」など様々な問題で大政翼賛的報道を続けている。
そして今焦点の愚論がアメリカの先制攻撃論である。ブッシュ政権はとても正気とは思えない。国際法・国連憲章を踏みにじって無法時代へ逆流させようというのだ。「いいかげんにしろ」と一喝して終わりにしたいのだがそうもいかない。
憤懣遣る方ない気分にはまり込むと態度が傲岸不遜になったりしてろくなことはない。小選挙区制の話にしてもそうなのだが、問題は議論のばかばかしさではなく、それを生み出す現実そのものにあるのだから、そこのところを冷静に見る必要がある。神がかりのようなもっとばかばかしい議論をも相手にして戸坂潤は名著『日本イデオロギー論』をものしたではないか。
新原昭治氏の「ブッシュ・ドクトリン 暴走する一国覇権主義」によれば、先制攻撃戦略というのは単にイラクのような「ならず者国家」対策ではなく、そもそもアメリカへのライバルの出現そのものを許さないような軍事独占体制構築の一環である。そしてハイテク兵器による先制攻撃によって低コストで米軍が勝利できるなら、「戦争は最後の手段であるよりは、外交の優先手段となるかもしれない」(19頁)とペンタゴン関係の研究機関の所長が述べているという。戦争は政治の延長ではなく、政治が戦争の延長になるのか?事実、今からイラクの戦後処理についてかまびすしいではないか。クラウゼヴィッツもぶっ飛ぶおぞましい世界だ。
冷静に現実を見るはずが、かえって感情的になりそうだ。しかしいうまでもなく軍事力だけによって世界が制圧できるわけではない。平和を願う世界の人々の声がライスやウォルフォウィッツのようなタカ派エリートの浅はかさを明らかにするときがくるだろうし、そのために日本人も行動しなければならない。
小選挙区制の話に戻る。石川真澄氏はブルジョア・マスコミの内部にあっても、「政治改革」騒動に対して正気でありえた希有なジャーナリストである。今は癌と戦いながら『世界』などで健筆を奮っておられる。当時、石川氏は守旧派とののしられながらも敢然として小選挙区制批判を続けた。後にそのことを振り返って、もちろんその立場は正しかったが、「政治改革」騒動の一端を担うことで、バブル崩壊後の経済問題といった本来焦点にあるべき問題から人々の目をそらす役割を果たしてしまったのではないか、という反省を表明されていた。不肖私などは自分が正しいと思ったらそれしかないのである。しかし真理というのは一定の状況下では絶対であるが、より大きな状況下ではその意義は相対化されうるのである。本来我々の認識は無限に深化して行くのであるが、視野の狭さは常にそれを妨げる恐れがある。それを突破して行くような訓練された精神の働きを理性と呼ぶのだろうか。
2002年12月16日
2003年2月号
1、2月号に連載された川上則道氏の「サービス生産をどう理解するか」(上・下)は労働者教育の成果を生かした力作です。論争史の紹介に多くを費やすアカデミック・スタイルの論文とは違って、専門家以外の読者にも語りかけるような形になっています。これは、学会誌ではなく一般ジャーナリズムに属する『経済』誌が今後強めていくべき方向性に沿うものだと思います。内容的にも、細かな諸論点への苦心の論建ても含めて包括的に展開されています。私はサービス生産について勉強してきたわけではないので確たることはいえないのですが、この論文の「サービス労働は価値を生まない」という主張は説得力があるように思います(以下ではサービスは対人サービスの意味で用い、運輸・商業・金融などは除きます。対人サービスが問題の中心だからです)。
サービスが価値を生むかどうかという問題は、一見スコラ的ですが、「現実的には再生産論(国民経済論)において重要な問題になり」(下、164頁)、その意義がはっきりします。論文はその点を鋭く指摘します。サービスが価値を生むという通常の意識は、社会的分業という現実的根拠を持ち、それにしたがって作成される国民経済統計にも一定の有効性があります。「とは言え、内的関連としては、物質的生産に従属している(=支えられている)サービス生産が、形式的には相対的に独立して発展し得るということは、そこには現実的な矛盾が孕まれるということです。この点の分析は今日の経済構造を把握するうえで極めて重要だと考えられますが、サービス部門と物質的生産部門とを同列視する立場からではこの分析は不可能になります」(下、166頁)。
こうした論述からは、一方では、本質と現象との関係についての正確な理解の大切さを読み取ることができ、他方では、サービス問題の一番の中心が経済における物質的生産部門の基底的位置(物質的生産部門とサービス部門とは、土台と上部構造との関係にたとえることができるだろう)への認識如何にあることが分かります。
科学は現象批判ですが、現象批判とは現象を否定することではなく、現象の奥底にある本質をつかみ出し、本質がいかに現象を生み出し、現象がいかに本質を隠すか、の全体像を描き出すことです。天空にある火星の軌道は行きつ戻りつのまさに惑う星として観察されます。そこで天動説では惑星の軌道は複雑に描かれます。もちろん実際には、太陽の周りを内側に地球、外側に火星が簡明な楕円軌道をとって公転しています。我々がこの本質(地動説)を知っていても火星が夜空を惑う現実はまったく変わりません。しかしその観察の事実をまったく表面的に理解して天動説になってしまっては誤りです。
論文では、サービスも価値を生むように見える現象を批判して、まず「サービス部門を価値が再分配される部門として捉えた単純再生産表式」を提示することで社会的再生産の本質を捉えます。次いで「サービス部門が生産部門としての形態をとった場合の単純再生産表式」を提示することで、その本質がいかに現象するか、現行の国民経済諸統計がいかに本質を覆い隠すか、また逆にその統計をいかに批判的に加工すれば本質に到達できるかの基本を与えています。このように同じ一つの社会的再生産構造を基に本質と現象を表わす二様の再生産表式を作成することで、論文はサービス現象を批判しきっています。現象そのものは変わりようがなく、その忠実な観察が出発点となるのですが、地球は動かないという先入観を正すことで観察結果を正確に解釈して、惑う星が実は単純な軌道を描くという真実を見極めたように、サービスが価値を生むという見かけを正すことが社会的再生産の矛盾的構造を説き明かす基礎を与えるでしょう。サービスが価値を生むような現象に表面的に追随するのはいわば天動説であり、国民経済の健全な発展を見誤らせます。農業・製造業の空洞化を放置して「付加価値の高い」産業構造へ移行すればよいといっても付加価値はどこから来るのでしょうか。
このように論文ではサービス現象の全体像を批判的に解明していますが、本質をつかみ出してくる過程についてもう少し考えてみたいと思います。それは物質的生産部門とサービス部門との関係、つまり後者の消費過程としての性格を確認することで前者の基底的位置を明確にすることです。
「サービス生産」という言葉自身が社会的な意味での見なし生産を表現しており、擬制的概念です。それをいったん受け入れればサービス部門を物的生産部門とのアナロジーで考えることができ理論的操作性が向上します。しかしここでは社会的に成立する擬制をまず批判的に認識して、本来自然との関係ではサービスが消費過程であることにこだわって概念を組み立ててみたいと思います。
生産的消費の反対概念は普通、個人的消費とされますが、ここでは仮にそれを非生産的消費と呼び、この非生産的消費の中に個人的消費と社会的消費があるとします。社会的消費というと例えば道路とか公共施設などの共同消費を意味するのが普通かもしれませんが、ここでは主にサービスを念頭に置いています。サービス過程は、サービス提供者とサービス享受者とから形成される社会的過程であり、生産物を消費します。資本主義経済においてはそれが市場関係に置かれます。商品の使用価値そのものが経済学の対象ではないのと同様に、個人的消費過程そのものも経済学の対象ではありません。しかし社会的消費過程としてのサービスは経済学の対象となります。つまり本来価値を消費する非生産的消費過程であっても、サービスのようにそれが社会的に行われる(特に市場を経由して行われる)場合は経済学の対象となるのです。逆に言えば所得を生んで経済学の対象となるような現象であっても、必ずしもそれが生産過程であり価値を生む過程だとは言えないということです。
もし生産的消費の反対概念を普通に個人的消費とすると、サービス提供者の側から見るとサービスは個人的消費ではないので生産である(サービス過程で消費される生産物は生産的に消費される)ことになります。そうなるのを避けて、サービス過程の全体が自然と人間との物質代謝においては生産ではなく消費過程であることをはっきりさせるために、個人的消費ではない非生産的消費としての社会的消費という概念を仮設してみました。
ではなぜ非生産的消費過程であるサービスが所得を産むのかといえば、社会的分業の一環として有用性を持つからです。それなしでは社会が成立しない以上、物質的生産による本源的所得から再分配される必要があります。サービス部門の再生産のためには物質的生産部門と同様の所得が必要であり、サービス価格もまたC+V+Pとして形成されます。ここにサービス生産という擬制が成立します。
ところでサービスの価格はC+V+Pであり、サービスを規定する価値はC+Vである、という論文の主張は後半の部分が曖昧さを持つと思います。サービス生産は本質的には非生産的消費過程である、という立場を徹底させれば、サービスは価値を持たないと言い切るべきではないでしょうか。生産物を非生産的に消費すれば価値は消滅するのであって、そこでは価値は生産も移転もされません。サービスの価格は物質的生産部門で生産された価値が再分配されることで実現されるのですから、もともと価値実体を考慮する必要がありません。その再分配の基準=サービス価格の基準は物質的生産部門に準ずるほかありません。つまりサービス生産の「生産手段」(に見えるもの)の価値Cの移転部分と労働力の価値Vに平均利潤Pを加えたものです。実際には価値は移転も生産もされていないので、このC+V+Pは擬制的なものです。しかもこのC、V、Pは同レベルで擬制的であり、Pに対してC+Vの方がいくらか実体があるというわけでもありませんから、「サービスを規定する価値はC+Vであり、それにPが加わってサービス価格C+V+Pが形成される」とことさらにいわないで、「サービスは価値を持たない」と一刀両断すればよいと思います。
もっとも、社会的分業の一環という点では同じならばなぜ物質的生産部門が価値生産的でサービス部門が不生産的なのか、という問題が蒸し返されるかもしれません。これについては論文の立場と同様に、人間生活に対する自然の本源性、自然と人間との関係が人間と人間との関係を規定する(資本主義的生産力段階においてはこの本源的関係が逆転するのですが、しかしその逆転を通じても究極的には本源的関係が貫徹されざるをえないことは、環境問題・食糧問題・産業構造の不均衡などに明らかです。再逆転なくしてこれらの解決はできません)からであると答えます。「物質的生産とその労働は人類・人間にとって本質的なものであり、これが経済活動の基盤であり、価値概念もこの中に位置づいています」(上、166頁)。
社会的再生産を実物的観点から見れば、物質的生産部門、サービス部門その他多くの部門があり、また各々細分化され複雑に絡み合って一つのアンサンブルを形成しています。それは国民経済の産業構造であり地域連関であって極めて立体的なものです。資本主義的市場経済は剰余価値追及に衝き動かされる個別資本の競争を通じてこの社会的再生産を事後的に実現します。市場と資本は表面的な平等主義者であり、剰余価値追及の前には使用価値を問わず、ましてやそれが自然と人間との関係、人間と人間との関係においていかなる位置にあるかには無関心です。問題は価値増殖だけであり、事前的には社会的再生産の立体的構造は見えてきません(その極端な例がバブルの形成であり、カジノ資本主義ですが、現代資本主義はそれを本質的属性としています)。当然のことながら資本の運動はこの構造を突破し、それは恐慌という形で強制的に回復される部分もあれば構造的歪みを残す部分もあります。こうした資本蓄積の動態に対する社会的評価基準は実物的観点を含む社会的再生産の立体的構造の把握にあります(その最も抽象的なものが2部門3価値構成の再生産表式ですが)。その中には本源的所得と派生的所得との絡み合いも含むのであり、サービス労働価値生産説のように同一平面の所得と見るのは適当でありません。この立体的構造には地域連関も含まれます。例えば農産物市場においては、もともとあった地産地消構造が資本主義的発展の中で産地間競争を通して東京一極集中構造に変わり、そこでの勝者は結局、後には中国野菜にとって代わられる、という悲劇が起っています。登り切ったところで梯子をはずされたわけですが、価値追及だけに血道を上げていると再生産構造が歪みます。今日では新たな地産地消の立て直しが課題となっています。
サービス部門の問題は人類の本史の展望とも関係します。サービス労働価値生産説の根拠はサービスも所得を産む事実ですが、サービス部門の巨大化も傍証となっています。論文ではサービス部門の労働者が労働者全体の過半数を占める場合の再生産表式を作成して、物質的生産部門の大幅な生産性向上によって社会的再生産が支えられることを表わしています。マルクスは生産性の向上が自由時間の拡大の客観的条件を与えることを重視し、人類の本史においては人間が自由時間を大いに享受すると考えています。ひるがえって現代資本主義の現状を見ると生産性は大いに向上したにもかかわらず自由時間はいっこうに増えず、厳しい労働に耐える毎日となっています。もちろんこれは人類の前史での実態ではあります。しかし自由時間を拡大するような本史を実現できるのだろうか、という不安があります(もっともどのみち、自分自身は前史で終わる身なのだが)。
つまり物質的生産部門の生産性向上の成果が自由時間の拡大ではなく、サービス部門の巨大化にばかり流れているのではないか、という懸念です。人類の前史たる現代においては、本来諸個人の自由になる時間がサービス労働に奪われ剰余価値追及の舞台に留められているのかもしれません(これとは関係ない話なのだがサービス残業というのもある)。いまだ生き残り腐り果てた前史があるべき本史を食いつぶしているかのようです。自然との物質代謝のレベルでは十分に自由時間が産み出されているはずですが、人間同士のレベルでそれがつぶされているようです。もちろん福祉・教育・医療といったサービスは有用であり、物的生産性の向上の成果としてこうした部門が充実するのは人間生活の向上に資するものです。しかし逆に人間生活をスポイルする傾向もあります。必ずしもサービス業に限ったことではないのですが、諸個人の24時間のうち資本の下に管理される部分が増大し、自由時間が失われています。1980年代頃からコンビニ生活が一般化し、ピザの宅配なども出てきました。確かに24時間商店が開いているとか、自宅に何でも届けてくれるというのは便利といえば便利なのですがどこかおかしい。こういった過剰サービスを支えるために労働時間は増大し自由時間は失われます。生活が便利になったというが、自分で何かする時間がないので買って済ましているのです。「手間ひまかけずに金かける」が今日の生活スタイルであり、市場分野が拡大し、生活分野が縮小し、過剰労働と生活の希薄化の悪魔のサイクルが支配しています。手作りというかつてはあたりまえのことが今日では特別の贅沢とされます。主体的に活用する自由時間がないことは生活を受動的にし、地域での諸活動はもちろん、選挙にさえもいかないのが普通になっています。こうして考えてみると、問題はサービス業の巨大化というよりも、資本による生活支配にありそうですが、生活のあり方から出発して必要な産業構造はどうあるべきかが考えられねばなりません。それは、サービス労働価値不生産説による、自然対人間の関係と人間対人間の関係との次元の違いを重視する立場からすれば、これまで人類が自然に対して勝ち取ってきた自由時間拡大の客観的条件を、人間同士の関係においていかに生かしていくか、という課題となります。資本はサービス労働価値生産説に立っており(だからといってサービス労働価値生産説論者がみな資本の立場だというつもりはないが)、剰余価値追及の前にはこの次元の違いは問題ではなく、すべては平面的に利潤を生むかどうかで並べられ、人間生活と産業構造は資本蓄積の従属変数とされます。
物質的生産部門の基底性ということはもちろんモノを作りさえすればよい、ということではありません。無駄な公共事業と貧困な福祉が最大の問題となっている昨今です。物的生産一般とサービス一般を比較してどうこう言っても仕方ないのであって、その組み合わせが今日の国民生活における必要性から体系的に導き出されるはずです。ただその際にも福祉サービスを実施するには施設や機器などが必要となる、という意味では物質的生産部門の基底性は貫かれるのですが。
2003年1月16日
2003年3月号
2002年7月号に続いて郵政民営化を論じた山下唯志氏の「小泉『構造改革』と郵政公社の発足(上)」は前回同様、鮮やかな分析力で読ませる論稿であり、(下)が待たれます。およそ政府系の審議会やその報告書なるものは「悪政のいちじくの葉」ぐらいにしか思っていなかったのですが、論文ではなんと小泉首相の私的懇談会「郵政三事業の在り方について考える懇談会」の最終報告書そのものに郵政民営化路線の破綻を語らせています。それは議事録をも含めて丹念に読み込むことで可能になったのでしょう。その読み込みの努力を支えたのは、実質的にどのような階級支配の内実があろうとも民主主義のもとでは政府には国民への説明責任があるという確信でしょう。樋口恵子委員などの奮闘もあって、最終報告では民営化の必要性を明示しえず、田中直毅座長などの民営化論は実質的に否定され、大銀行支援というその真の狙いが露呈されました。マスコミでは相も変わらず「改革」派VS抵抗勢力の図式で、懇談会が民営化の道筋を描けなかったのは族議員のせいであり首相の指導力が求められる、という論調ですが、山下氏は虚心坦懐に報告全文を読むことで上記の結論を得ています。マスコミの図式に我々の図式を対置するという以前に複雑な現実そのものに分け入って答えをつかみ出してくる地道な分析の努力に敬意を表します。
様々な統計資料を駆使して、90年代の国民的資金循環を明らかにしつつ、郵貯・簡保「肥大化」論の虚妄を衝いた分析も非常に興味深いものです。「日本では政府主導の資源再配分構造になっており、民間主導の効率的配分からは程遠い一種の金融社会主義によってクラウンディングアウト的現象が発生している」という興銀調査部のレポートの(世に流布しているのと同様な)認識が現実を読み違えた軽薄な揶揄に過ぎないことが論証されています。実際には民間金融機関自身が民間貸出ではなく国債などの購入を選択していたのです。リスクマネーについての「アメリカを見習え」論に対しても日米両国の個人金融資産構造の違いの原因とその意味から説き明かして論破しています。このように「タネ明かし」されてみるとマスコミ的な「通常の」認識の正体がわかります。つまり、産業空洞化の下で基軸通貨の特権を利用しながら金融的術策で世界経済を搾取しているアメリカ独占資本のカジノ資本主義的感覚で日本の国民経済の在り方を見下している、ということでしょう。同じ統計数値を扱うにしても、そういう上から(+よそから)の軽薄な見方ではなく、国民生活の現実に根差した下からの堅実な見方でこそ国民経済の真の姿を逆立ちさせずに正しく解明できることを山下論文は示しています。
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2月号についての前回の感想において、生産的消費の反対概念として非生産的消費という用語を提唱しましたがこれはあまり適切でない表現であり、本来的消費という言葉に代えます。こちらの方は杉原四郎氏の『経済原論1』(同文館・マルクス経済学全書1、1973)の9頁にあり、的確な表現の用語だと思いました。勉強不足を反省しつつ訂正します。
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いわゆる「デフレ」をともなった泥沼の長期不況に際して、正しい価値論を持たず働くものの立場に立たない経済学の混迷は深まるばかりです。その感を深くしたのは『世界』2002年5月号の伊東光晴、河合正弘「対談 デフレに有効な政策はありうるか 橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか』を読む」を読んだときでした。マルクス経済学をもよく知るケインジアンの伊東氏は、今日の「構造改革」派と「インフレ・ターゲット」派の対立について、利潤確保のために貨幣賃金を下げるか実質賃金を下げるかの違いだ、と身も蓋もなくその本質を暴露し理論経済学者の面目躍如たるものがあります。しかし伊東氏は、現在は輸入品価格の低下などのため、物価を上げインフレを起すことは難しいので、貨幣賃金を下げるしかない、今後さらに賃金は下がり、失業も増えるだろう、と言ってのけています。
ここには物価の騰落についての実質的変動と形式的変動とを区別しえず、今日の物価下落をデフレと規定する誤りがまずあります。低価値の輸入品の価格をインフレで上げるなどというのは全く不況対策ではないのだから、その可能性を問題にすること自身が無意味です。次いで利潤と賃金の対抗関係の視点から賃金の切り下げにこだわるため、商品価値の実現の視点から家計を温めて需要を喚起するという不況対策が目に入らず、反労働者的立場に立っています。
2月4日、「朝日」夕刊の岩井克人「デフレはなぜ悪いのか 経済的正義と長期的発展を損なう」というインフレ・ターゲット推進論もひどいものです。「構造改革」批判はまあいいとしても、「デフレとは、経済全体の需要が冷え込んで供給を下回ってしまうことによって引き起こされる現象です」という全く間違った規定をしています。現在の不況の認識としてはこれでいいのであり、その対策としては家計を温めるなどの実体経済支援が出てくるはずですが、これをデフレと呼んでしまうばかりにインフレ・ターゲットという全く的外れな対策になります。
2月2日、「しんぶん赤旗」の「この不景気の中 無理やり物価上昇 世界に例ないインフレターゲット」はさすがに正しい価値論で物価下落を解明しデフレという言葉を使用せず、従ってインフレ・ターゲットには反対しています。記事中、竹中平蔵金融・経済財政担当大臣がインフレ・ターゲットを主張していることが紹介されています。伊東光晴氏は「構造改革」をいい、岩井克人氏はインフレ・ターゲットをいい、両者は対立しているのですが、今、「構造改革」論の竹中大臣はインフレ・ターゲットをも主張しています。毒を食らわば皿まで。国民から収奪することは何でもありか。
重ねて言いますが、正しい価値論と働くものの立場に立つことが不況脱出への道です。
2003年2月14日
2003年4月号
市町村合併問題は主に政治の問題、あるいは財政の問題として捉えられがちなのですが、中西啓之氏の「市町村合併問題と新しい地方自治の胎動」によれば、何よりも地域住民の生活の問題です。「過去2回の大合併は、上からの効率化、上からの国づくりを推し進め、それが日本の資本主義化、高度成長、経済大国化の土台につながった」(131頁)のですが、今回も発想としては同じです。どんなに交通・情報手段が発達しても「人間が歩いて生活する範囲のコミュニティの存在がいぜんとして重要であることには変わりません」(127頁)。ですから自治体規模が大きくなることの住民生活への影響の在り方が最優先に考えられねばなりません。にもかかわらず住民の暮らしよりも行政効率を重視する政府の逆立ちした発想の根拠は「人口の少ない山間地でも、小さな島でも、人間が生活している限り、必要な公共サービスが必要であることを忘れ、生きている人間を抽象的な数値としてしか見ていない考え方です」(129頁)。そのため、現にある人的資源・ 技術・資産の蓄積を活用して地域経済を再生し、人々の生活が質的に充実した社会を目指す、という道が閉ざされてしまいます。
この発想は市町村合併問題に限らず、新自由主義の「構造改革」「規制緩和」に通低しているものです。さらにいえばイラク戦争を企図するホワイトハウスのエリートやそれを支持する内外の「現実主義」的知識人もその発想を共有しており、当然のことながら彼等は北朝鮮の人民に対しても同じまなざしを向けているに違いありません。
2003年3月16日
2003年5月号
アメリカがイラクを侵略した3月20日の朝、早速二本の電話が入って「石油を買え」「金を買え」と言う。「戦争で金儲けはしない」と言下に拒否したのだが、「本当にその理由で断わったのか」と自問する声が聞こえたような…。「投機のリスクがなくて確実に儲かるならやっていたんじゃないか。苦しい生活のなか、子どもたちに少しでもいい思いをさせてやりたいだろう」と(もっとも投資する金など、はなからないのだが)。長期不況のなか、こういう心の闇が蔓延しているのではないだろうか。こんなとき人は民主主義に基づく理想や正義を持たないと、金と暴力信仰の「現実主義」へ止めどもなく堕落していくか、ファシズムを正義と錯覚する。好戦的で人権軽視の石原慎太郎が三百万票で都知事に再選された。他にも現在国民的人気のある政治家はタカ派ばかり。
日本人やアメリカ人は、イラクや北朝鮮国民のことを独裁者に洗脳されていると見下しているが、はたして民主国家の国民たちはそれにふさわしい政治的判断力を持っているのだろうか。アメリカについていえば、力強い反戦世論もあるものの、大勢としては軍国主義モードに染まっている。日本はイラク反戦は大勢であるものの、北朝鮮をめぐっては異常な報復主義と恐怖感が支配的で問題の理性的解決を妨げている。長期不況の憤懣が一方では誤った指導力を求め、他方ではスケープゴートを求め、弱いものがより弱いものを叩くという風潮がある。体制(大勢)順応とセンセーショナリズムに堕落したマスコミがそれらを先導している。
ではお先真っ暗なのかというと決してそうではない。平和・人権・民主主義・日本国憲法の理想を今こそ掲げるべきだと思う。こんなことをいうと、したり顔の「現実主義者」たちから感情論などと嘲笑されるのだが、それは彼等の倫理的退廃・知的怠慢・没構想力を表現しているにすぎない。政治家といえばブッシュ・小泉・石原のような「先進国」のまがいものしか思い浮かばない視野の狭さをまず正したい。保守政治家といっても日本のように対米従属から一歩も抜け出せず、国民に対する責任感の欠如したものばかりではない。日本は何よりアジアの一員でなければならないのだから、アジアに目を向けるべきだろう。
日本国民はアジアにおける自立的な平和努力を知らねばならない。ベトナム戦争後、東南アジアから米軍基地が撤去され、ASEAN諸国は紛争の平和的解決に一貫して努めてきた。もちろん対テロ戦争を口実にフィリピンに米軍が駐留したりとか、逆流はある。しかし本当の独立と平和を求める確固とした諸国の方針はアジアの未来を切り開くものである。未来永劫にわたって「米軍に従属した安全保障」という戦争と隣り合せのまがいものの「平和」しか描けない日本の保守層とは根本的に違う。理想を持たないものは現実を打開する構想力を持たないのだ。
東北アジアに目を向けよう。韓国の金大中前大統領が確固たる政治哲学に基づいて「太陽政策」を打ち出し北朝鮮との関係を改善した。韓国は「戦争は起こさせない」という断固たる決意のもと、他のどの関係諸国にもまして北朝鮮をまともな国にするための現実的努力を重ねてきた。日韓関係を見ても明らかなように経済交流・人的交流・文化交流の拡大こそが両国関係を底辺から確実に改善していくのだ。北朝鮮のかたくなさを和らげていくには、日本を初めとする周辺諸国が政治的イニシアティヴとともにそうした交流を地道に重ねていくことが必要だ。韓国民は盧武鉉新大統領を選ぶことで「太陽政策」を継承発展させる決意を内外に示した。私は韓国民のこうした民主的成熟に対して大いに敬意を表したいと思う。大統領選挙の最終盤のハプニング・接戦に際して、革新政党の支持者の一定の部分も次善の策として盧武鉉に投票したことを考え合わせると、変革のベクトルは現実の票数よりももっと急なのかもしれない。だから盧大統領がイラク戦争に際して心ならずもアメリカを支持したのは残念だが、国民は決して後戻りは許さないだろう。
『経済』5月号に鄭文吉「韓国のマルクス・エンゲルス研究」があるが、それはまさに厳しい条件の中で政治変革の闘いと結んで進行した諸研究の紹介であり、感動的な記録といえよう。その達成はまだ不十分なものという著者の謙虚な姿勢を見るとき、民主化と引き続く新たな段階での闘いの中で科学的社会主義の研究がいよいよ全面開花してゆく期待を抱かせるものがある。
話を戻す。日本国民は「現実主義」という名のシニシズムに流れるのでなく、理想を掲げて着実に現実を変革してきたアジアの流れにこそ合流すべきだろう。そこで日本国憲法は生きているのだ。
ところでイラク戦争に関連して福田和也は保守反動層の本音をあけすけに語り、その立場から諸論を的確に整理しているので参考になる(「朝日」夕刊4月15日)。要するに怪物たるアメリカの前には道義だの国際法だのは無力・無意味であり、力こそが秩序の源泉であって、反米・反戦の論理は感傷的自己満足にすぎない、という。福田は自らの立場を、不義を承知で実利を求めるシニシズム(彼自身はその現実性にも懐疑的である、と「冷静な頭の良さ」を誇示してはいるが)に近いと率直に表明しているが、まさに倫理的退廃・知的怠慢・没構想力の見本である。
福田は経済・政治・文化その他人間の活動はすべからく軍事力によって支えられていると思っているのだろうか。福田の攻撃する啓蒙的近代は決して空想的理想の産物ではなく、商品経済の発展がもたらした人間の自立・自由・平等を反映する市民法の世界である。国家権力は、この自律的に形成された社会の上に立って秩序の調整を図っているのであって、国家権力が秩序を形成しているのではない。確かに市民法の社会は階級対立の社会を生み出し、国家権力は被支配階級の抑圧の役割を果たすが、それとて通常はむき出しの暴力によるのではなく、市民法的秩序の枠内で行われる。
国際社会には国内社会の国家権力に相当するものはない。しかし20世紀の国際社会は民族自決権を承認し諸民族の自由・平等による国際秩序を形成してきた。そして戦争は原則として禁止された。これは確かに意識的に政治的に作り出されたのだが、それを支えるのは経済の世界的広がりと人々の自由な交流である。国内社会であろうと国際社会であろうと民衆の意思と活動が社会を形成しているのだから、そこには誰もが普遍的に認めるルールが必要である。日常とはそのようにして作られ流れていく。軍事的無法は決してまともな日常を作り出せない。アメリカの軍事力は一時的に勝利しても新しい国際秩序を築くことは決してできないだろう。
福田の目は戦時につり上がった「唯軍事史観」とでもいうべきものだろう。その視野の中には人間も社会もその全体像としては捉えられない。世界民衆の空前の反戦運動の意義も分からない。確かにイラク戦争は止められなかったけれども、ここにこそ世界の未来がある。
ところで新保守主義のケーガンに倣って福田はホッブズの「リヴァイアサン」を反動的に利用しているが、水田洋など社会思想史の研究者はどう考えるのか、聞きたいものだ。
福田の評論の前日(「朝日」夕刊4月14日)、加藤典洋は「そもそも武力によって違う国がある国の体制を『民主化』することは、不可能である」という正当な観点に立ちつつも問題のあることを書いている。戦後日本の民主化の困難性、今日の人々の政治不信、近隣諸国との信義関係および国際社会における独自の立場の欠如、といった諸問題の原因を加藤はアメリカの対日占領に起因する精神的外傷に求めている。ここには半世紀以上にも渡って憲法を無視して対米従属を続けた日本独占資本とその政府の役割がすっぽり抜けている。社会科学抜きの情念論は誤ったナショナリズムに向かいかねない。国内での階級対立の問題をきちんと捉えた上で我々は自国政府とアメリカに対してどう向き合うかを考える必要がある。
以上、敬称略。
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5月号を読んで感じたことを率直に述べれば、これは読者を「自己満足的な左翼教養主義」に誤導するおそれなしとしない、ということです。私は『経済』誌の編集方針の見直しを要望したいと思います。すでに1998年3月13日付けの編集部宛の手紙で述べていることと基本的に同じですので、もしまだそれが残っておれば、詳しくはそちらを参照していただけると幸いです。
まず古典の文献学への偏重を改めることが必要と思います。もちろんそれが学術的価値の高い研究であることはいうまでもありません。しかしそのことと『経済』が限られた頁数の中でどう取り上げるかは別問題です。また『資本論』について経済学に限らず哲学など幅広い分野を解明した著作ということがしばしば強調されますが、それは事実としても『経済』としては逆に『資本論』が経済学の本であるという当り前のことを強調して欲しいと思います。古典を読むことは『経済』の読者ほどの人にとってはきわめて重要ですが、古典の細部に渡る研究は多くの人にとっては必要ありません。
以上のようなことをいうと非学問的と思われるのかもしれませんが、『経済』の戦略的課題は、読者の古典についての教養を高めたり、細かな研究課題を深める能力を高めたりすることよりも、経済民主主義の素人エコノミストを多く養成することではないか、と私は考えているのです。『経済』には現状分析の論文が多く掲載され、それが何よりも重要であり魅力でもあると思いますが、読みこなすのはなかなか大変です。読者にはその論文を読む力をつけることはもとより、それだけでなく、普段から新聞・雑誌の経済記事に親しみ、見聞きする経済現象について分析し、人に語る能力をつけてもらうのが大切です(私にもそんな能力はないが)。一言でいえば「経済が分かる」喜びを読者に提供することです。こういう課題に照らして見ると、科学的社会主義の古典には広く深く親しんでいるが、近代経済学などの立場の違うものにはあまり近寄らず、経済現象そのものは敬遠しがちだというような状態があるとすれば、経済学を学ぶ観点からは「自己満足的な左翼教養主義」といういささか過激なレッテルばりもあながち的外れとはいえなくなります。
98年の手紙でも申し上げたことですが、理論・歴史・現状分析・政策に渡ってバランス良い構成を実現するとともに、マルクス経済学を教科書的に学んできた人の現状分析力を高める工夫を重視して欲しいと思います。金融・財政・国際経済・国民経済計算の統計・戦後経済史などを分かりやすく説明する連続講座があるとよいのですが。いわば科学的民主的立場からの現実経済読解力養成講座です。多くの読者がそのような知的生産手段を得れば、知的拡大生産も活発になって世間話の水準もずいぶん上がるのではないでしょうか。
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蛇足ながら最近、名古屋古書組合の機関紙の求めに応じて書いた文章を追加します。今年、店を閉じて名古屋古書組合の職員になった先輩同業者を紹介したものですが、経済情勢に触れた部分もあります。名前はイニシャルにしました。ご笑覧下されば幸いです。
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この時代を生きる Kさんと私たち
アメリカがイラクを侵略した翌日、前日からのまるで米軍広報のようなNHK報道にいい加減へきえきさせられていた私はFM放送のビートルズ特集を聞いていた。ビートルズ世代というのは今や五十代くらいだろう。私は一九五八年生まれの四五才だからそれには属さない。ビートルズが解散した一九七○年、中学に上がって洋楽のポップスを聞き始めたころ、ジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」がヒットしていた。初め私は彼がビートルズのメンバーだったとは知らなかったのだ。六○年代末、ベトナム反戦・学園紛争を背にロックがひとつの頂点を迎えた時代、クリーム、ジミー・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリンがいた時代を私などは経験していない。しかしポスト・ビートルズのニュー・ロック世代は、それらを知っておくべき前史と心得てときどき聞いていたと思う。
そんな話をKさんとしたわけではないが、だいたい同世代なので似たような感覚ではないかと思っている。基本的には洋楽志向のKさんからは、このあたりのことは前提にして今日までの様々なポップスの話が聞ける。ただしお互い歳をとったので今ではポップスよりも古典的な癒し系に流れる傾向もある。以前にKさんが貸してくれたCDはグレゴリオ聖歌と中国の二胡だったりした。私なんかそれを通り越して、「人生、結局演歌か」という感じにさえなってしまったが…。
Kさんは基本的には現代的教養の人なのだろう。時事的話題から趣味的話題までそのソフィスティケートされた語り口は若者にも通用するのではないかと思える。もっとも、お前にそんなことが判断できるのかといわれると、答えに窮するのだが。しかしITとかメカのことはかなりご存じのようだから組合の仕事には生かせる、それだけは言えると思うし是非とも活躍して欲しいものだ。
開業準備期から文化書房はKさんにお世話になりっぱなしであるが、ここでは最近数年のことに限って話したい。今ではインターネット販売がわが店をぎりぎりのところで支えている。それへの参入に当たっては多くのご同業にお世話になったのだが、Kさんには手取り足取り教えていただいた。電話で聞きまくったのみならず、弊店においで願ってパソコンに向かった実地指導も一度ならずあった。聞けば他のご同業にも熱心に指導されていたようである。何事につけても気配り細かく親切なのがKさんの身上であろう。
ところが今どきはそれが損な役回りになることもある。Kさんは昨年ご自身の店を閉じられた。不況のなか、私も含めて明日はわが身と警戒されているご同業も多かろうと思う。珍しいことではないのだ。しかし無念であったろうと思う。神経質なほどに真面目なKさんは組合などのなかであれこれの役目を引き受けて苦労しておられた。何事も要領良く適当に(ある意味いい加減に)こなせる人だと、それもどうということはないのだろうが…。この厳しい時代にはそれぞれの店の運営にしても、図太いくらいのたくましさが求められると人はいうだろう。それは確かにそうだ。しかしこの社会の在り方とそれを主導する思想は間違っているのではないか、その点にも目を向けてみたいのだ。
今、リストラ(という名の首切り)は当然のことのようにいわれる。それが正義かのように、あるいはそうまでいわずとも不可避なこととされる。人は価値を生み出す主体ではなく、最大のコスト要因として扱われている(こういう人間軽視の思想の延長線上には戦争をするやつ・支持するやつが現われる)。すべての商品は安いのがあたりまえで、賃金も下げられる。福祉も切り捨てられている。こうして食費も切り詰めるような生活のなかで、古本への出費は初めから削られている。自営業者の倒産・廃業が続く。バブル崩壊後の世紀をまたいだ大消費不況は「人間不在不況」というべきではないか。仕事のやりがいを奪われ、生活不安におびえる人々の無念さが怨念の如く世に満ちている。「プロジェクトX」のエンディングテーマ「ヘッドライト、テールライト」が流れるなか、感涙にむせぶ中高年の姿はその象徴であろう。
市場経済は自己責任だからすべては自業自得だ、競争の結果に文句をいうな、というのが政府と御用学者の本音だろう。しかし資本主義経済は単なる市場経済ではなく、人間を食いつぶすシステムを内蔵した市場経済である。一方では確かに自営業者は市場における競争主体であるから日々自助努力を重ねており、市場の審判を受け入れている。しかし他方では自営業者は資本主義経済のなかでは弱い主体なので協同組合を組織して共存共栄を図っている。ある集団のなかでナンバーワンは一人だけで、あとはその他大勢ないしは負け組みである。しかしその集団の全員がそれぞれにオンリーワンであることは可能だ。古本屋は元来個性の強いものであり、それぞれに「世界に一つだけの花」(笑っちゃいけない)であり、組合は全体のアンサンブルを作り上げている(といいのだが)。組合の思想は、竹中平蔵のナンバーワン・システムではなく、SMAPのオンリーワン・システムのなかにある。
そのような組合のなかでKさんには古書会館の管理人として持ち味を生かして欲しいし、組合員や理事の方々にはこの得難い人材をうまく活用して欲しいと願っている。
余計な話ばかりになってKさんには申し訳ないことをしました。妄言多罪。
2003年4月16日
2003年6月号
実をいえば「現代資本主義と『デフレーション』」の特集が変更になって残念だったのですが、情勢からすればイラク戦争の緊急特集に変わったのは当然だと思います。イラク戦争については初めは石油目当てという見方が多かったのですが、ネオコンの存在がクローズアップされるにつれて、政治・軍事面での「アメリカ帝国」という側面が重視されるようになりました。そのこと自身は誤りではないと思いますが、やはり経済面からの分析も欠かせません。
井村喜代子氏が研究者によるイラク戦争反対の「意見広告」の活動を報告されており、その反響の大きさに私も感心し、改めて研究者の良心に信頼を寄せることになりました。井村氏の「イラク戦争が問いかけるもの」も短文ながら情理を尽くしたものでした。
藤岡惇氏は今日のグローバリゼーションを考える際にアメリカの軍事力、特に宇宙軍拡を重視されていましたが、本号の「ブッシュの『新帝国主義』戦略とその矛盾」でも独自の政治経済学的分析が展開されています。「宇宙-情報帝国」というアメリカの規定が新鮮でしたが、石油資源に対するアメリカの覇権の意味も解明されており、漠然と石油目当ての戦争と考えるよりもずいぶん深めることができました。
アメリカ帝国主義のネオコン主導路線の今後の帰趨にとってやはり経済の在り方が決定的でしょう。再生産構造や基軸通貨特権を中心とした世界的金融搾取の展開などアメリカ資本主義の動態をより詳細に追及する論稿を今後とも掲載されることを希望します。
『前衛』6月号で栗田禎子氏は、テロリストが増えても最大の軍事力を持つアメリカは別段困ることはなく、かえって戦争の口実ができて助かる、本当に困るのは、民主化革命をめざす、国民の支持を得た、地に足のついた政治運動が生まれてくることだ、と指摘されています。必要なのは百人のビンラディンではなく、数人のナセルというわけです(栗田「イラク占領は中東に何をもたらすのか」)。錯綜した現実を捉えるに際してやはり原則的見地に立ち返ることが大切だと納得した次第です。
山下唯志氏の「小泉『構造改革』と郵政公社の発足」が本号で完結しました。改革派VS抵抗勢力という「偽りの対立」が新旧二つの利権争いに過ぎないことが、様々な公式文書・統計などを駆使した両面批判で明らかにされました。この構図は郵政に限らず、「構造改革」をめぐる諸問題に共通するものであるだけに、真の改革をめざす勢力にとって山下論文の構想力と分析力は重要な手本となるものでしょう。
2003年5月20日
2003年7月号
忘れないうちに書いておくと、5月号の予告欄にあった、友寄英隆氏の「現代日本の『賃金と物価』をめぐる諸問題」が未掲載なのが残念です。今後の掲載を期待します。
デフレについては初めに用語の問題に触れる必要があります。デフレは通貨価値の切り上げに伴う物価の下落、つまり名目的な物価下落であり、今日の日本経済のように実体経済の縮小を原因とする実質的な物価下落はデフレではありません。継続的な物価下落をもってデフレと定義する通俗的用法は、物価下落に現われた様々な要因を分析的に明らかにすることの妨げになります。通俗的用法に妥協することで用語の世間的流通性は向上するかもしれませんが、そしてそのこと自身は大切ですが、分析力が落ちるのでは本末転倒です。カギ括弧もつけないで日本経済の現状をデフレと表記することが立場の如何を問わず一般化していますが、少なくとも科学的=批判的社会認識を目標とする人は止めるべきことです。
この用語法による典型的誤りは、現状を実体経済における需要不足と正確に認識しながら、それをデフレと名付けることで対策としてインフレ・ターゲットを推奨する、という議論に現われています(例えば岩井克人「デフレはなぜ悪いのか」/「朝日」夕刊2003年2月4日付)。つまり現状認識としては通俗的デフレから入って途中で(意識的にか無意識的にか)本来の通貨的定義に変換することで、実体経済の問題を金融問題にすり替え、インフレ・ターゲットを正当化しています。ここでは通俗的デフレ定義の両義性を媒介として正しい入力から誤った出力が導き出されています。通俗的デフレ語法はこのように誤変換のブラックボックスとなっています。
これとは別に竹中大臣などのように、物価下落イコール通貨現象としてのデフレという見方もあります。おそらくは、物価下落は個々の商品の相対価値の変化ではなく全体的な下落なのだから通貨価値の上昇の結果だという見方でしょう。第一にはこれは原因と結果を取り違えています。第二には、価値論における相対的なものと絶対的なものという問題があります。相対的価値しか認めない立場からは、商品相互の相対的価値が捨象される次元では商品と通貨との相対的価値が問題となり、商品の価値が下がっていることは通貨の価値が上がっていることとしか捉えられません。しかしより深い次元として労働価値を設定すれば、商品と通貨に対しては労働価値が絶対的価値として現われます。そしておそらく現状についていえば、通貨の労働価値は上がってはいないが、商品の労働価値(厳密には商品の市場価格を労働価値で評価したもの)は下がっているということでしょう。商品と通貨の相対的価値の観点から現状をデフレと規定して、通貨価値の減価を目論んでインフレ政策に走れば対外通貨価値の問題などが出てきますが、それも絶対的価値の観点から捉え直してみることの必要性を示唆しています。
物価変動の要因としては、まず通貨側による名目的変動と商品側による実質的変動とを区別する必要があります。次いで後者について、商品価値そのものの変動と商品価値からの価格の乖離による変動とを区別する必要があります。インフレ・デフレは本来は名目的変動ですが、これを継続的な物価変動一般、と通俗的に定義してしまい、それを現状認識に適用すると現状認識があいまいになり、対策も的外れになります。物価下落を伴った長期的消費不況という日本経済の現状からは当然、家計を中心とした実体経済へのテコ入れが対策として期待されるのですが、これをデフレ不況と規定する政府はその対策を外して、一方では「構造改革」で実体経済への逆噴射を行い、他方で「インフレ・ターゲット」で物価を上げることが不況対策であるという、無意味かつ不可能な経済政策に陥っています。
このような金融面と実体経済面との取り違えは、物価についての通貨側と商品側との取り違えに対応するものですが、実体経済そのものの分析では商品価値と価格との区別が必要となります。我々が直接目にする価格は市場価格であり、それは日常的な需給変動を反映して短期的な均衡価格として実現しています。通俗的にはこの市場価格こそが実在であって、その奥に本質としての価値を認めることは形而上学として否定されるか、少なくとも現実の分析に役立たないとみなされます。しかしこの区別がないために商品価格低下の内実が無概念的に把握されています。
市場経済一般では価格メカニズムが平均化機構として作用し、その重心に成立する価値は社会的再生産を支える長期平均的価格水準を表現しています。資本主義的市場経済では価格メカニズムは短期的需給均衡を実現していくものであり、それは長期的視点からはむしろ社会的再生産の不均衡を助長し、恐慌による調節を招きます。つまり静かな均衡化がやがて暴力的均衡化を生み出すという産業循環のメカニズムの全体が資本主義経済の平均化機構であり、資本主義下での社会的再生産はそのように実現されます。この長期平均的価格水準に対応するのが生産価格です。従って市場経済での価値と価格にあたるのは、資本主義的市場経済では生産価格と市場価格といえます。そして図式的にいえば、生産価格は経済の構造に、市場価格は循環的変動に対応します。
眼前の市場価格を絶対化する立場は、資本主義的市場経済の特質を看過して市場経済一般に解消する立場でもありますから、価格メカニズムによって社会的再生産の安定的発展が保障されると考えて、商品価格の変動、特に賃金低下に対して無批判です。このような価格の野放図なフレクシビリティへの批判として価値論には意義があります。確かに価値(生産価格)は時々の実在の価格ではありませんが、実在する市場価格の長期平均として貫くものであり再生産を保障する目安の意味があります。これを一つの指標として、我々は、労働者・国民の生活擁護を第一とする立場から、産業循環についても野放しではなく必要な調整を重視し、リストラを規制し、誰もが安心して生活し仕事ができること、つまり労働力と営業の安定的再生産を追及します。
通貨価値が一定の場合、商品価格(市場価格)の低下は、商品価値(生産価格)そのものの低下あるいは価値以下への価格の低下によって起こります。価値低下は生産性の上昇によって起こりますが、安価な輸入品への代替も同様の効果をもたらします。価格の価値以下への低下は需要不足による生産過剰によって起こります。今日の日本の「デフレ」はこれらによって十分に説明されます。これらのうち、価値そのものの低下は再生産の困難をもたらしません。生産性の上昇の場合はいうまでもありませんが、輸入品代替の場合もそれを消費する者、生産的に消費する者に生活と営業の困難になるどころかコスト減になります。ただし輸入品代替では、代替される側の国内生産者に再生産の困難をもたらしますし、輸入品の増大に平行して進む資本輸出の増大=産業空洞化は国内再生産全体を縮小させる要因になります。これに対して価値以下への価格の低下はそれ自身が再生産の困難(利潤の削減、ひどい場合はコスト割れ)をもたらします。
商品の中でも労働力商品の価値=賃金の低下は最重要問題です。賃金の低下も労働力の価値自体の低下と労働力の価値以下への低下とがあり、現局面は両方が起こっています。消費財の生産性の上昇もさることながら、安価な輸入品の増加によって労働者の生活を支える消費財の価格は下がっています。しかし実質賃金の低下とは、買える消費財の使用価値量そのものが減少していることであり、これは確かに賃金が従来の労働力の価値以下に下がっているということです。この購買力の低下が有効需要不足となって、商品価格の価値以下への低下を促進し、再生産の困難をもたらしています。今日の不況の最大の問題がここにあります。物価下落という市場の問題点は、失業と賃金下落をもたらす資本の強蓄積(リストラと資本輸出=国内産業の空洞化による大企業業績のV字型回復!)という生産過程の問題の反映であり、今日の国家独占資本主義の資本蓄積様式は、冷戦期の軍需インフレ蓄積になぞらえれば、リストラ「デフレ」蓄積とでもいえましょうか。
現象論的価格論による通俗的「デフレ」論では物価が下がるのがいいとか悪いとかいわれるだけで、生活や再生産の困難の観点から物価下落の内容を分析的に見直すことがないので、インフレ政策で一気に解決できるかの如き妄論が徘徊し、実体経済のどこを改善すべきかということにならないのです。
実体経済の不況が金融の危機をもたらしているのですが、政府やマスコミがもっぱら議論しているのは、(「構造改革」の一貫としての)銀行の不良債権処理やインフレ・ターゲットであり、あたかも不良債権や(金融政策の問題としての)物価下落が不況の原因かのような逆立ちが横行しています。そこで『経済』誌などでも、まず金融問題で貨幣数量説に立った謬論などを批判することで、現状認識を誤らせている霧を振り払ってようやく実体経済を見なければいけない、という地点に到達することになります。これはいわば下向の道であって、ここから逆に、実体経済そのものの問題点を解明して金融危機の解明に至るという上向の道が始まります。
その起点にふさわしいのが、本号、小松善雄氏の「『長期停滞』、『デフレ』と経済政策論争(上)」です。もちろんこれまでも多くの論文において実体経済の不況の解明は様々に行われてきました。しかし日本の産業循環の具体的分析に基づいて、90年代以降を「長期停滞」と認定し、その原因として、生産能力・稼働率の統計から「慢性的過剰生産」を析出し、物価下落・不良債権の生成の必然性を解明した本論文は、これまでになく明快で説得力に富むものです。バブル崩壊以後の景気変動の実感と消費不況の実感にもフィットしています。この慢性的過剰生産を認識の出発点にすえることで、「減量経営」「集中豪雨的輸出」「バブル発生の最深の基礎」「産業空洞化」などが体系的に理解できます。逆にそうした認識に立たない政府やエコノミストたちが政策ミスによって「新自由主義不況」を引き起こすことも理解できます。
小松氏は論文(上)の最後に、絶対的貧困化とそれに伴う消費支出の減退という「構造問題」の発生を指摘し、慢性的過剰生産の根拠としています。先に私は、資本主義的市場経済においては図式的にいえば、生産価格が経済構造に、市場価格が循環的変動に対応するとしました。また今日の賃金破壊では労働力の価値の低下と労働力の価値以下への賃金の低下がそろって進行しているとしました。ここで労働力の価値は経済構造に、賃金は循環的変動に対応しているといえます。しかし90年代以後の賃金破壊はそれまでにない慢性的過剰生産の上で起こっているだけに循環的変動を超えた構造問題となっています。労働力の価値以下に低下した賃金に対応する萎縮した消費生活が固定されると、それが新たな労働力の価値の根拠となってしまいます。それは需要の減退を通じて諸商品価格の下落圧力となります。いわば価値法則のシフトダウンが起こります。次に始まる産業循環はこの低位から出発せざるをえなくなります。このように産業循環の性格は経済構造に影響を与えますが、バブル崩壊後の長期停滞は深刻な負の影響を与えています。新自由主義とは逆の構造改革で日本経済のスパイラルダウンを逆転して好循環を造っていかねばなりません。
勉強不足のせいでそう思うのかもしれませんが、今田真人氏の「日本の産業空洞化と為替調整-『人民元・円問題』を中心に」は教えられることが多く、この問題の見方の逆立ちを正されるようで、目の覚める論文です。先に私は市場価格の絶対視を批判しましたが、国際比較では商品価格の次元で留まりがちで、その裏にある生産の内実を問うところまでいっていなかったようです。中国からの輸入野菜が安いのは主に賃金格差によることは分かっていましたが、広い中国では農業経営も大規模で日本より生産性が高く、それも原因だろうと漠然と思い込んでいました。実際には生産性の差はないことを初めて知りました。
工業製品についても、日本企業の製品が中国では競争力がなく逆輸入で国内生産者を圧倒して利益をあげている、しかもそれは日本の労働者をリストラして海外進出してのことであり、まさにぼろもうけである、ということも少し考えれば当然なのですが、気が付いていませんでした。これでは生産性向上によって利潤を追及する産業資本の行動原理ではなく、地域差を利用して寄生的利潤を追及する前期的資本の行動原理といわねばなりません。「『共存共栄』を日本の多国籍企業が考えるなら、中国に進出したら、中国人の生活向上に役立つ中国向けの製品を開発し、その本来の生産性を高め、中国でこそ、質のよい商品を低価格で売ることを追及すべきである。同時に、日本の多国籍企業の利益追及だけではなく、中国労働者の賃金の引き上げや、中国現地での企業への技術移転など、中国社会へ貢献することを、当然、考えていかなければならない」(52頁)。寡聞にしてこういう正論を聞いたことがない。それは資本にはできないことなのかもしれないけれども、少なくとも我々国民はこうした見方ができないといけません。中国製品の安さが生活に助かるとか逆に仕事を奪われて大変だとか、ということは確かに切実な問題なのですが、その先の展望として、中国人の賃金も上がって、日中それぞれの市場が共存共栄できるような未来を考え方の軸として持たないと、いつまでも格差を利用した寄生的利潤の獲得を前提とした枠組みの中で考え争うことになります。
様々な資料を駆使した購買力平価と市場レートの比較分析も非常に興味深く、特に世界各国通貨のドルとの比較で、ほとんどの国が市場レートの方が購買力平価よりも安くなっており、日本のように市場レートの方が高い国は例外だ、というのは意外でした。これも一つの根拠にして述べられる、「中国の人民元が『本来の水準』から離れて市場レートでは低くなっているのではなく、日本の円や米国のドルが、生産性の高い日米の輸出用工業製品の購買力平価に引きずられ、『本来の水準』から離れて市場レートでは高くなっている」(47頁)という仮説は説得力があるように思えます。国際価値論には全く不案内なので何とも言えないのですが、労働価値の国際的交換という次元で考察するとよりはっきりするのではないでしょうか。
為替制度について、中国が適度な管理を実施しているのに対して、日本の野放しぶりが批判され、購買力平価を基準にした、市場レートの適切な管理が提起されています。各国経済の健全な発展と共存共栄を目指した提案だと思うのですが、マスコミなどでは通常はこういう声は一切聞かれない、という点に深刻な問題があるといえます。新外為法のような「自由化」の方向は全く不可逆的と捉えられる現実があるということでしょう。これに限らず今田氏の正論は残念ながらグローバリゼーション万能の下では実現できないものです。しかし普通の人々が、価格メカニズムやグローバリゼーションが万能でそれに合わせて生活と営業を組み立てるしかない、という逆立ちした意識にとらわれている内には変革は実現しないのであり、国民生活・営業を発展させるためには、どのような再生産の在り方と為替調整が適当かというヴィジョンを持つことが必要なのです。本論文はその変革像形成への重要な一歩だと思います。
松本朗氏の「インフレ、デフレの非対称性と資産デフレ」も貨幣数量説批判から実体経済分析の課題提起へ、という流れで、特にバブル崩壊が縮小再生産を導くメカニズムを解明した点など非常に興味深いのですが、ここでは「インフレ、デフレの非対称性」について述べます。この問題は常々気になっていたのですが、本論文で解明されたように思います。そこでは、インフレ、デフレの貨幣論上の対称的定義は可能だが、近代的信用制度の下では現実的にはデフレは起こらない、というのが結論でしょう。インフレや不換銀行券に関する論争については知らないので、理論的に詳しい評価はよく分かりません。しかし目の前に展開する「デフレ」が本来のデフレではないという現実を見るにつけ、また事実上のインフレ政策によっても物価が浮上しないのは内生的貨幣供給説の正しさを示していることを考えると、松本氏の結論の通りであろうと思われます。
いつものごとく不勉強、未整理、冗長の作文となり失礼しました。妄言多罪。
2003年6月17日
2003年8月号
私の知っている町工場では、従業員の休日にも、赤ちゃんをおぶった若い母親も含めて経営者家族は総出で仕事をしています。単価の切り下げでいくら仕事をしても収益は上がりません。中国などとの競争で悲鳴をあげています。おそらくこれは全国共通の実情であり、中国脅威論などが出てくるのもよく分かります。
座談会「FTA(自由貿易協定)とアジア経済・日本」では、まずFTAの締結の際に問題となる農産物貿易について、貿易をしないということではなく、多国籍アグリビジネスの支配を避けながら各国の農民的経営を発展させる立場から議論していくことが提起されています。中川信義氏が農民経営の再生産の条件として強調される「費用価格」原理がその際の理論的基準として重要でしょう。また増田正人氏はFTAと「構造改革」との関連について、農産物輸入による貿易黒字対策というよりも、労働者の生計費削減が狙いではないか、としています。なるほどと思いました。
人間らしい生活のためには、農産物の他にも自営業者の諸商品の費用価格が保障され、また発展途上国の諸商品が買い叩かれることなくフェアトレードされ、その上で労働者の賃金が適正に保障されねばなりません。しかし現実には日本を初め世界的に「デフレ・スパイラル」状態です。私流にいえば価値法則のシフトダウンとなっています。その原因は、多国籍企業による、経済格差を利用した世界的規模でのコスト削減活動=リストラ的資本蓄積行動でしょう。確かにアジア工業化に典型的に見られるように資本輸出が世界経済の発展に大きな役割を果たしましたが、資本主義的経済発展は野放しでは人間を押しつぶす、というその誕生以来の鉄則が今まさにグローバルに貫徹しているのです。
山本博史氏によれば、外資による輸出志向型の工業化を進めたアジア諸国は内需不振で過剰投資が問題となっています。中川氏が中国での議論を紹介しているように、多国籍企業による外からの開発・成長論に対して内発的発展論の方向を強めていくことが、こうした矛盾の解決になっていきます。人間生活を犠牲にした多国籍企業型の発展ではなく、生活・労働・営業を保障した内発的発展を基本原理として、東アジア規模での再生産体系を造っていくこと、ここに真の対決点があるということでしょう。従って日本国民としては確かに中国やアジア諸国が経済的脅威になっている側面はあるのですが、諸国民同士で敵視しあうということではなく、互いの生活を尊重しあえるような新しい再生産体系をともに目指すことが大切です。
とはいえ現実にアジアでの国際的生産を取り仕切っているのは多国籍企業であり、FTAの交渉とか経済政策の主体は(多国籍企業体制に乗った)各国政府ですから、民衆的な新しい東アジアをどう形成していくのかは難しい課題です。世界を揺り動かしている反グローバリズムの運動に連帯していくことから始めるのでしょうか。あるいは海外進出している中小企業のネットワークのようなものから変化の芽があるのでしょうか。
渋谷正氏の長編「初期マルクスの経済学研究と1844-47年の手帳」が漸く完結しました。初めて『ドイツ・イデオロギー』のフォイエルバッハの章を読んだとき、「哲学の本」という意識からするとずいぶん経済史の記述が多い、という印象をもったものです。渋谷氏の労作によれば、おそらく経済史についてのギューリヒの5巻に渡る浩瀚な著作などをマルクスが利用したであろう、ということが分かります。ここでは、『経済学・哲学手稿』以降のマルクスが労働者の困難な状態に対するヒューマンな関心から出発して、労働や貨幣について「疎外」概念を中心とする捉え方から、膨大な経済学研究を経て具体的な分析に進んでいく様が活写されています。こうして初期マルクスにおいても史的唯物論形成と経済学研究とが車の両輪のように進んだのであり、従来の一面的に哲学的な初期マルクス像を書き替えるべきことを渋谷氏は強調しています。このことは現代に科学的社会主義を学ぶ私たちにも、それぞれの思想形成における経済学の勉強の大切さを示唆しているようです。特にグローバル化=「構造改革」下での生活・労働・営業破壊への人間的怒りを経済学的基礎づけによってオルタナティヴな思想に確立していくことが求められています。
7月5日付の「赤旗」は第一生命経済研究所の門倉貴史氏のリポート「不況下で増加するサービス残業」を紹介しています。それによると、サービス残業をなくして新規雇用に振り替えれば、160万人の常用雇用が生み出され、完全失業率を2.4ポイント低下させ、実質個人消費が5.1ポイント上昇するとしています。同時にサービス残業削減による雇用拡大は企業収益を圧迫するため、実質設備投資を2.3パーセント押し下げるとしています。そこで個人消費の増大と設備投資の減少を合わせると、実質GDPを2.5パーセント押し上げる効果が期待できると結論しています。
これまでワークシェアリングの経済活性化効果がよくいわれてきたのですが、その際に企業収益減少によるマイナス効果への言及がないのが不満でした。このリポートでは両者を相殺してもなおプラスになると結論しており、きわめて重要な論考だと思います。ただ大切な論点であるだけに、さらに実証研究を重ねていくことが求められます。
恐慌論の観点からすると、ここには商品過剰と資本過剰との立体的把握の問題が提起されているように思います。生産過程における搾取率をめぐる闘いが、一方では利潤の増減を通じて資本蓄積の大きさを左右し、他方では賃金の増減を通じて流通過程における商品の実現に影響します(資本家消費も考慮する必要はあるが、資本家よりも労働者の方が消費性向が高いので賃金の高さの方が実現問題では重要)。資本主義経済のダイナミズムは投資が司るという観点からは、賃金を下げてでも利潤を確保することが至上命令となります(「構造改革」による貨幣賃金の切り下げか、インフレによる実質賃金の切り下げかの手法の違いはあれ)。これは資本過剰(重視)論ですが、商品過剰(重視)論からは商品の実現ができないことが利潤を圧迫しているのだから総体としての賃金はむしろ上げるべきだとなります。個人消費がGDPの六、七割を占め、各企業のリストラが国民経済的には不況運動になっている「合成の誤謬」の現実からは後者の観点が正しいように思えます。また第一生命経済研究所のリポートの結論(雇用拡大による消費プラス効果と投資マイナス効果を相殺すると成長率プラス効果になる)もそれを支持しているようです。
当面の政策論としてはそういう現象的認識でも間に合いますが、現代資本主義の中長期的見通しを立てようとすれば、その構造と動態について理論的に深めることが必要です。資本主義経済の階層的構造認識(たとえば商品=貨幣関係と資本=賃労働関係、資本一般と競争=産業循環、など)に立つ科学的経済学の観点を前提に、現代資本主義の構造的特質の変化(たとえば大衆消費主導傾向の増大か?)を解明することを通じて、今日の資本蓄積運動における投資・雇用・消費などの内的関連の特徴を導出することが求められています。そこから商品過剰と資本過剰との今日的関連も本質的に分かるでしょう。
2003年7月14日
2003年9月号
津田渉氏の「株価反騰の後は」では、最近の株高を「株価底打ちの強烈なシグナル」と見ています。そして「経済の実態を反映しない投機の波に過ぎず、長続きしない」という多数意見に対しては「大底からの経験則」によって反論し、合わせて、株価上昇そのものが景気を刺激することも指摘しています。もとより私などにどちらの見解が正しいかを判断する能力はありませんが、注意したいのは次の点です---私たち批判派は経済数値を悪いほうに解釈=予測するバイアスがあるのではないか---。統計数値が改善するにせよしないにせよ、客観的に見ていくしかないわけで、問題はその数値を全体状況の中でどのように位置付けていくか、ではないかと思います。一般的にいって資本主義経済では景気が改善するのは労働者・国民大衆の生活にとっても有利ですが、様々な矛盾は決して解決されませんから、株価や経済成長率がどれだけになったという量も大切ですが、それを分析的に見て、人々の生活にとってどうなのかという質を問う必要があります。経済数値の改善を認めることは、反国民的政府の経済政策や日本資本主義の現状を容認することではない、ということです。津田氏も「株価回復の裏に失業と生活不安が積み上がっていることを直視」する必要を訴えています。
内閣府が8月12日発表した国民所得統計速報によると、4〜6月期のGDPは実質で前期比で0.6%増(年率換算2.3%増)となりました。予想外の高い数値に、竹中経済財政担当相を初めとする政府は「構造改革路線」での経済運営に自信をもったようですが、まったくあきれた話です。確かに「株価だけでなく、実体経済も回復基調にあることを示した」(「朝日」8月12日夕刊)のでしょうが、「構造改革路線」だから、ではなくて、「構造改革路線」にもかかわらず、というべきでしょう。資本主義経済は産業循環をもっているのだから、いつかは景気回復するのは当り前です。経済無策ならばまだましで、逆噴射の「構造改革路線」によっていかに滅茶苦茶にされてきたか。
国民の実感としてはバブル崩壊後はずっと不況です。確かに統計上は好況の時期もありますが、生活と労働は何ら改善されていません。7、8月号の小松善雄氏の論文にあるように90年代以降、慢性的過剰生産が続いており、その枠内での若干の好況があったということでしょう。ここにメスをいれない限り本格的な経済成長も国民生活の改善も見込めないのは当然です。12日のGDP統計発表を受けて、竹中大臣は「企業収益や株価を総合的に勘案すると、今までと違う次元に動きつつある」といったそうですが、本当の「今までと違う次元」とは内需・個人消費が主導する景気回復=慢性的過剰生産の克服であって、「構造改革路線」による弱者切り捨ての縮小均衡(そこから「違う次元」の発展が始まるといいたいのだろうが、破壊の後にはあって当り前のわずかな回復がめぐってきただけだ)ではありません。
景気回復の中味について、「朝日」8月13日付から。「今後も内需主導の景気回復が続く可能性は小さい。プラス成長が持続するかどうかは、すべて米国経済の動向次第だ」「回復力は強いとは言えない。過剰設備を抱えたままの企業は依然多く、本格的な設備投資につながりそうにない」「企業部門中心の回復にとどまっており、消費主導の本格的な回復はいまだ見通せない。今回の速報でも主要な需要項目は名目ではマイナスのままだ」。このように私たちの見方を裏づける論評が見られますが、こういう現状認識を前にしても、やはり「朝日」の問題意識は私たちとではなく、政府・独占資本と同じところにあります。12日付夕刊では「これが『失われた10年』から脱却する本物の変化につながるのか、まだ見極めはつかない」と問題提起し、それを受けていわれるのは「デフレが解消されない限り、景気の上昇力は弱い」とか「日本経済の構造的弱さが克服されたわけではない」ということです。ここで「デフレ」をどう捉えているかは必ずしもはっきりとはしないのですが、どうも実体経済の外側にある前提(つまり金融の問題)として考えているようで、そうすると結局「インフレ・ターゲット」と「構造改革」が「本物の変化につながる」ものとして捉えられているのかと思います。
これに対して「赤旗」8月13日付では、一見伸びているように見える個人消費の内実を問い、収入減、社会保障改悪の中で低迷が続いており、「構造改革」と景気とは両立しない、という主張を押し出しているのはうなずけます。しかし名目値と実質値の違いにこだわり、主にそれを根拠に経済成長や個人消費の低迷を強調しているのはどうかという気がします。確かに国民の実感に近いのは名目値であり、それだけに名目値のほうが経済主体の志向性をよりよく表現し、経済の今後を考える際の参考になることは事実でしょう。しかし経済数値の客観性・比較可能性を保障するのは実質値であり、これまでの実績の評価は実質値でするのが当然です。無理に名目値を強調するのは、成長率の高さを認めまいとするバイアスが働いているためではないでしょうか。しかし問題は景気回復の数値よりもその中味・あり方ではないでしょうか。実際にこれが景気回復につながっていくかどうかは断定できませんが、回復したところで問題はその先にいくらでもあるのだから、その際に「回復していない」といつまでも言い張っていても仕方ないのです。「実感なき景気回復」という言葉がいわれて久しいわけですが、またそれがめぐってきそうな中で、「実感ある景気回復」のあり方が対置されるときではないでしょうか。
2003年8月16日
2003年10月号
深刻な長期不況を前にして、インフレ・ターゲットとか政府紙幣発行とかの議論が出てくる中で、これらは金融政策なのか財政政策なのかが判然としないと思っていました。建部正義氏の「デフレ対策と金融政策の課題」では金融政策の内容を「流動性の供給」とし、財政政策の内容を「所得の移転」「資源配分」「需要の創造」としています。そして現状では、不況の克服という点で、金融政策に多くを期待することはできない、としています。従って金融政策としてのインフレ・ターゲットは無力だし、スティグリッツの政府紙幣発行論にいたっては、金融政策と財政政策の内容と担い手を区別し、金融政策の第一の目的を物価の安定に置いてきた「歴史全体の知恵」を無視するものとして批判されます。
実体経済の収縮が今日の物価下落の原因であって、金融政策に期待できないならば財政政策ということになります。もっともその前に、財政出動は景気に無力で赤字を作っただけだから、民間活力=供給力を強める「構造改革」が必要だという議論があり、小泉=竹中「改革」が行われてきたわけです。しかしその惨憺たる結果を前に竹中氏もインフレ・ターゲットに乗ったのですから、これでは議論が振出の金融政策に戻るだけです。「構造改革」とは逆方向の、家計を温め中小企業・業者・地域経済の復興という実体経済対策と関連を持った財政政策が求められます。
二宮厚美氏の講演記録「小泉構造改革のなかの日本の政治と経済」(全国商工団体連合会2003年8月発行)では財政構造、国民経済の構造の切り替えの観点から、政府紙幣発行論を意識しつつ、「禁じ手」「机上の理論」とことわりながら、極端な不況克服策を提示しています。国内の需給ギャップにあたる40兆円を政府が日銀から借り、教育・福祉・環境・地域経済振興などにばらまいて景気が上昇してきたら借金をチャラにするというのです。こうすれば景気はよくなり、財政赤字も増えず、日銀も紙幣を印刷しただけだから損するわけではなく、万事OKというわけです。
ヘリコプター・マネー論のような思考実験であり、講演を面白くするため(?)とはいえ、財政規律の問題を無視している議論は建部氏のスティグリッツ批判がそのまま当たるように思うのですが、付随して重要な論点があります。過剰能力と失業があるときにはカネをばらまいてもインフレにはならず景気が向上する、従って上の処方箋は有効であり、ここがいちばん重要な点だと二宮氏は主張します。すでに日銀はベースマネーを過剰供給していますが、財政資金の散布がその中でどのような影響を与えるか、端的にいってインフレにはならないかという問題があります。民主的改革の路線を考える上で基本的な問題点ではないでしょうか。
ところで建部論文では、インフレとデフレの非対称性について触れられています。インフレは貨幣的現象だが、今日の日本の物価下落は実物的要因によるものだから、デフレを安易に貨幣的現象と呼ぶべきではない、ということです。しかしこれはデフレの定義の間違いによるものであり、今日の日本の物価下落はデフレと呼ぶべきでなく、そうした用語の誤りが理論・政策の誤りの一要因となっていることは繰り返し主張してきたところです。7月号の松本朗氏の「インフレ、デフレの非対称性と資産デフレ」では、インフレとデフレをともに貨幣的に定義した場合に、近代的信用制度の下では通常の状態ではインフレは起こりうるが、デフレは想定できない事態だとしています。インフレとデフレの非対称性とはそういう意味であろうかと思います。
「努力しても報われない社会」(小越洋之助氏)の実態を明らかにし、打開の方向を探り出す上で、連続シンポジウム「日本の勤労者-その労働と生活」には大いに期待しております。「相手側の攻撃は誠に巧妙で、社会問題になっていることを私的な問題や個人の自立の議論にすりかえるのです。そこのところを、どう社会的に変えていくかということが必要な気がします」(小越氏)というわけで、私たちが普段様々に感じていることからまず出発して、それを人権・連帯・社会改革といった意識的方向に日常生活の中でつなげていくことが大切です。暉峻淑子氏の「『豊かさの条件』からみた日本社会」は実にわかりやすくそれを説いています。資本が目的で人間は手段であるという資本主義社会の仕組を反映しているのが主流派の社会科学者の頭の中であり、マスコミの言説であろうかと思います。人類史の発展から見たら逆立ちしたこの観点を再度逆転して、人間の物語を紡ぎ出していく社会科学の語り部が求められています。
2003年9月14日
2003年11月号
聴濤弘氏の「新ロシア紀行」が完結しました。この連載は新生ロシアの現状を具体的かつリアルにそして愛情深く描き出して興味深いもので、難しい論文が中心の『経済』の中では異彩をはなつ魅力的企画でした。今後も様々な現実へのヴィヴィッドな接近を工夫した企画を期待します。
聴濤氏は最後に、市場経済の功罪・効率性・生産手段の所有などについて考察しています。こうした理論問題についていえば、1989年の東欧諸国のドミノ的変革とその後のソ連崩壊という激変を受けて、社会主義経済論ないしは社会主義社会論も重大な岐路(というか危機)を迎えました。今日ではこれら移行経済諸国の実証研究を行っている人々からは、従来の理論は現実を知らない議論として一蹴されているようです。また『前衛』10月号の不破哲三氏の論文では、「ゴータ綱領批判」による共産主義社会の段階規定が否定されています。つまり従来の理論は実証研究と理論自体の両面から否定されているように見えます。これに対して従来の理論がなお正当であるという立場があるのならその意見を聞きたいものですし、やはり間違いだというのなら長年に渡るその誤りの根源的反省が求められます。それは何も社会主義経済(社会)論の専門家の問題だけではなく、通説として受容してきたマルクス主義者全体の問題だと思うのです。
聴濤氏が述べている、ソ連(東欧も?)は社会主義ではなかった(そして何であったかはおそらく判断保留)という認識は、「ソ連は社会主義ではなかった。私たちは社会主義者である。だから日本ではあのような社会は決して作らない」という「決意表明」であって、社会科学的認識としては熟していないように思います。しかもこの認識は「決意」の実践にとって有効かといえば逆のように思います。むしろソ連・東欧諸国の旧体制を社会主義の失敗例として反面教師として学んでこそ、日本の民主的な社会主義建設に役立つのではないでしょうか。あれは自分たち社会主義者とは関係ないことだという姿勢では必要な教訓も得られないでしょう。これは上記の理論問題とも共通することですが、マルクス主義や科学的社会主義の名で考えられ行われてきた従来のことどもについて必要な反省を加えることは後ろ向きの姿勢ではなく、未来を切り開いていくべき現在の私たちの姿勢を正すことにつながります。
東欧諸国では社会主義の理念を目指す試みもあったのであり、結局挫折に終わったけれども、そこで提起された問題意識を検討するのは私たちの前進に資することです。いささか長い引用になりますが、1988年に書かれた次の言葉はきわめて重いと思います。
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われわれは二人ともかつてはそれぞれのやり方で、過剰資本、過剰労働力、それに充足されない欲求の共存という、マクロ的規模での資本主義の非合理性を克服する能力があるかに見える社会主義経済に魅せられたのであった。当初、この能力をミクロ経済的効率と結びつける可能性は、たんに時間の問題であるかのように思われたし、計画技法の完成と、新しい社会主義的人間の協力的行動の全面的な発展がそれを可能にすると思われたのである。われわれの母国、ポーランドおよびソ連ブロック全体における指令システムの惨めな経験からして、われわれが一九五○年代半ば以降に改革の展望を求めるようになったときも、われわれは依然として、マクロ経済的中央計画化と市場で規制される国有企業の自律性とのブレンドという、妥協的解決に努めていたのである。その後、過去十年間の中国を含めて、曲折に満ちた改革過程を継続的かつ仔細に観察した結果、われわれは、そのような妥協は概念的にも成育可能でないし、また、もし市場化が正しい変化の方向であるとすれば、それは首尾一貫して追及されなければならないという--今日では格別独創的でもない--結論に達したのである。
W.ブルス/K.ラスキ 佐藤経明、西村可明訳『マルクスから市場へ』(岩波書店1995)序文
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ここにはマルクス主義者の初心と挫折が語られています。今日私たちは、社会主義の本質は分配関係その他ではなく生産手段の社会的所有にあるということを再確認しているわけですが、しかしそのことは原点に戻ったということであって、それ自体は正当であっても、明るい未来が約束されたわけではありません。ブルスとラスキの述懐はそのようなナイーヴな思いを現実に引き戻してくれます。彼等は結局、市場と計画との結合を断念した市場化に進むしかない、としています。
もちろん私たちはこの経験的結論から社会主義の不可能性を導く必要はないでしょう。日本などの発達した資本主義国では、旧東欧諸国とは生産力段階が違いますし、過度に中央集権的な計画経済を市場化するのと、資本主義的市場経済に社会主義的計画経済を導入していくのとでは、ベクトルが逆向きでもあります。また旧東欧では生産手段の社会化といっても形式的なものに留まり、労働者が主人公ではなかった、という問題もあります。こうした違いからいっても発達した資本主義国の社会主義化が独自の歩みであることは当然です。しかしそこでも市場と計画の結合の困難さは依然として残るに違いありません。
今日では市場の普遍性ということは、それを永遠に認めるかどうかは別にしても、少なくとも近未来までは当然であるというのが共通認識でしょう。市場経済と資本主義経済は同値ではないにしても、市場に最も親和的なのが資本主義であることは疑いありません。市場を土台とする経済の上部は不断に資本主義化する傾向を持つので、それを社会主義的に維持することは不断の困難を抱えることでしょう。聴濤氏が検討している効率性の問題にそれははっきり現われます。確かに効率性は単に経済性だけではなく、労働条件や環境・福祉等を加味したものであるべきです。しかし市場で競争する以上、基準は経済性であって、悪貨が良貨を駆逐する、社会主義は資本主義に負けてしまう、ということになりかねません。社会主義が勝利するためには、解放された労働主体の効率性が強搾取の効率性を上回るか、それが無理なら「悪貨」に対する何らかの社会的規制を実施する必要があります。市場の普遍性を前提にしなかったマルクスは社会主義の未来に楽天的でありえたのですが、人類が現実にその本史に進もうとすれば、市場と計画の結合をめぐる苦闘は避けられないでしょう。
もちろん私たちは資本主義の枠内での民主化を当面する課題としているので、社会主義化の青写真を描く必要はありません。その意味では生産手段の社会化という基本さえ押さえておけばよいのかもしれません。しかし人々はその基本だけで納得するほどナイーヴではありません。今日のように新自由主義が暴走できるのには様々な根拠があります。その中の一つとして次のことが指摘できます。「社会主義不可能論」が人々の常識となっていることが、究極のオルタナティヴの不在として映り、資本への民主的規制という当面する課題にも影を落としている、ということです。確かに体制としての社会主義は当面の課題ではないし、資本への規制もそれ自身は社会主義的性格とはいえないのですが、社会主義的未来への展望があってこそ、資本への規制も確固たる支持を得ることができます。その意味では、私たちが20世紀社会主義の経験から教訓を引き出して未来への備えとできるかどうかにも社会主義者としての説得力が試されているといえます。
2003年10月18日
2003年12月号
今月号は会計問題の特集で、例えば原価主義から時価主義への移行が現代資本主義のカジノ化の反映であることなど、興味深い論点が展開されており、読者の現状分析力を高める好企画だと思います。しかしなにせ11月9日の総選挙の結果で頭が飛んでおり、誌面とは関係ないのですが、それについて書きます。
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マスコミの無定見は今に始まった話ではないが、「神の国」森首相の時までは無党派を天まで持ち上げていたのに、小泉フィーバーですっかり忘れたらしく、その熱も冷めたら「二大政党」の大合唱を始めた。彼等の認識では、政党というのは腐敗堕落して民意を見失い国民から見放されたのではなかったか?それとも自民党と民主党だけは立派に立ち直ったのだろうか。そうだな、両党はマニフェストの審査で財界からお墨付をもらったものな。
11月12日付「朝日」によれば、総選挙直後の緊急全国世論調査で、民主党の躍進で二大政党色が強まったことについて7割が歓迎しているという。選挙前からの二大政党翼賛報道と偏向した質問項目による世論調査で、11月9日の総選挙を自ら争点隠しの「二大政党」選挙にしておいて、選挙後にはそれを追認する世論調査をやって悦に入っている。財界が企画した「二大政党」選挙を演出して大々的に世論誘導したマスコミは民主主義破壊の大罪を犯した自覚がなく、自己満足に陥っている。まあ見当違いの自己満足は立場の如何にかかわらずあることなので他山の石としたい。
私が「朝日」を読むのは、加藤周一氏などの理性的知識人がよく登場するからなのだが、逆に御用学者や保守(あるいは反動)的知識人の意見も幸か不幸か十分に読むことができるからでもある。11月12日付「朝日」(名古屋本社)の朝刊と夕刊ではともに小選挙区制御用学者の佐々木毅氏と後房雄氏の高説を承ることができる。
小選挙区制は大量の死票を生み大政党に不当に有利に作用し民意を歪める。それだけでこの制度が民主的議会制度にふさわしくないことは明らかであり、小選挙区制の母国イギリスでも批判が高まり、同国のEU議会選挙では比例代表制になっている。ヨーロッパの大勢は比例代表制である。ところが御用学者の頭は逆立ちしているから、死票を生み出す非民主的制度ではなく、その制度の下で死票を生み出す有権者と政党の行動を非難する。「この制度にふさわしいように立候補し投票せよ。小政党は無駄にたくさん立候補するな。有権者も当選しそうもないやつに投票するな」というわけである。「政権を誰がつくるかが肝心で、多数派になる可能性のある党に投票しない限り、自分の票は生きないというように有権者の考え方が変わってきている。……中略……小選挙区比例代表並立制には政権選択の意味が込められていることは当初からわかっていたが、96年の導入以来3度目の今度の選挙で、ようやく有権者の意識が制度に追いついてきたと言えなくもない」(佐々木毅氏)。馬鹿な国民もやっと分かってくれた、というわけだ。「政権交代」崇拝の後房雄氏に至っては露骨に、共産党や社民党が立候補するのは与党への利敵行為になっていると非難している。御用学者というのは、自分が本当に投票したい政党・候補者に投票するという、民主主義の原則・有権者の当然の願いを踏みにじるのを何とも思わないらしい。佐々木氏の言葉などは、国民をあきらめさせ、飼い馴らしつつあることへの財界の満足感を代弁しているとも言えよう。
ここには、小選挙区制が民意を歪めるということのもう一つの意味がはっきり現われている。「もう一つの」というのは、投票された意思の多くが死票となることで議席に反映しない、という周知の歪みの他にもう一つあるということである。つまり投票に表明された意思の切り捨て以前に、投票内容自体が歪むということである。小選挙区制では、本当に入れたい票ではなく、当選可能性を考慮してやむなく入れる票がふえる。このように民意を二重に歪めた選挙とその結果としての議席配分はすでに全く不当なものである。その上に成立する政権は国民との関係ではかなりの程度虚構の政権と言わねばならない。
以上は制度的検討であり、政治内容から見れば形式の問題である。民主主義の制度的形式を破壊して追及される政治内容もまた当然のことながらひどいものである。御用学者の熱望する、政権交代のある二大政党制なるものは要するに、財界支配・アメリカ追随を前提にして「国民を殴る党が駄目なら国民を蹴る党に代えてやる。国民を救う党には初めから出番はない」というものである。このように内容・形式とも破壊された「民主」政治を前に絶望して棄権が増えるのも当然である。低投票率を前に「有権者の意識」に向かって説教するより、小選挙区制・二大政党制そのものを反省すべきだ。菅民主党代表はアメリカ型の二大政党制を推奨しているが、それは貧困層、マイノリティを初めから排除した「民主主義」であって、お祭り騒ぎの大統領選挙でさえ投票率は五割程度である。対内的には政治への絶望と社会的退廃、対外的には帝国主義政策を何よりの特徴とするアメリカ政治の轍は絶対踏んではならない。
以上のように、小選挙区制・二大政党制に基づく「政権選択」とは民意切り捨てによる現体制擁護の永久運動の別名にすぎない。議院内閣制は多様な民意を鏡のように映した議会を基礎に政府が構成されるべきなのである。それによってこそ国民の政治参加と政府の安定が真に保障されるのである。偽りの議会多数派によっては権威ある政府は実現されず常に民意との乖離を糊塗することに意を注がねばならない。それがパフォーマンスによるごまかしから強権発動に移行することを私は懸念する。小泉政権においても、北朝鮮脅威論の扇動を背景に、自衛隊のイラク派兵をきっかけとして軍国主義化への動きが急となる可能性について警戒しなければならない。
もちろん支配者階級はやみくもに小政党と一部有権者を敵視して民主主義を破壊しようというのではない。そこには重要な「大義」がある。小選挙区制・二大政党制は新自由主義政策と不可分の関係がある。彼等は今日のグローバリゼーションの中では強力に「構造改革」など新自由主義政策を押し進める必要があると考えている。その問題自体についてはここでは措くが、「構造改革」が必然的に生み出す痛みによって国民が政治的に急進化することは未然に防がねばならない。「諦めが肝心」なのだ。小選挙区制・二大政党制こそそれに適合的な「民主的」議会制度であり、「構造改革」の痛みに反発する有権者が選挙の投票を棄権するか、共産党などに投票するのを断念して他党に投票するような「良好な」政治行動を習慣化させるだろう。こうして何ら国民の支持を得ていない諸立法が議会で推進される「民主的・合法的」な「議会独裁」が成立することになる。
憲法改悪阻止、消費税率の引き上げ反対などの重要課題とならんで、二大政党制の幻想を国民的に打ち破り小選挙区制を廃止することは民主主義のインフラ整備として不可欠である。
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蛇足ながら総選挙前に「朝日」(名古屋本社)「声」欄に採用された二つの投書の原文(紙上では修正されている)を送ります。ご笑覧くだされば幸いです。
こういう「偏った」投書も(多少表現をマイルドに直してですが)まだ採用されますから、マスコミ、世論への働きかけは無駄ではありません。
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10月3日付
自民と民主に違いはあるか
嘘をついて参戦したとして英国労働党のブレア首相は窮地に陥っている。しかし交代勢力はやはり戦争賛成の保守党しかない。これではブッシュのプードルがチワワになるくらいのことだ。マニフェストを掲げて政権選択を争う二大政党制の実態とはこんなものである。ある政権が失敗すれば大差ない基本政策の他党に交代することで、国民の不満をガス抜きして、国政の根本的転換を阻止するのが政権選択論なるものの狙いであろう。
日本でも自民党と民主党の基本政策は五十歩百歩だ。両党は「構造改革」の本家争いをしているが、「構造改革」こそ長期不況と社会的荒廃の元凶である。それは、国際競争に打ち勝つ効率的経済のため不可欠だとされるが、国民生活を破壊して何のための経済か。世界の心ある人々はグローバル化の現状に反対して、生活のための経済への転換を目指して立ち上がっているというのに。両党の政策的共通性は偶然ではない。両党は企業献金と政党助成金に大きく依存している。企業と国家に寄生した政党の政策が国民本位でないのは当然であろう。こうした中で選挙ともなれば毎回、マスコミが的外れの対立軸や政権選択を掲げて有権者の判断力を削いでいる。これでは政治はよくならないだろう。
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11月4日付
弱者いじめの消費税が争点
昨今は消費税を上げないと福祉の財源がないかのようなムードである。自民党も民主党も将来は税率を上げる方向であり、マスコミもそれが責任ある態度かのように言う。こうして「わがままな」国民をあきらめさせるつもりらしい。しかしこれまで消費税は福祉に使われず、逆に福祉への国民負担は増えて給付は減るばかり。一方、これまでの消費税収の総額一三六兆円に対して法人三税の減収は一三一兆円だ。なんのことはない、消費者から企業に所得を移したようなものである。さらに経団連は法人減税と消費増税の主張に賛成する党に献金するという。露骨な政治買収だが自民・民主両党はこれが欲しくてたまらない。まさに財界の手のひらで踊る二大政党だ。
たとえ福祉目的としても弱者いじめの消費税で福祉を賄おうという発想がそもそも誤りだ。この徴税哲学がある限り当面はどう言い逃れようと将来は必ず税率を上げるだろう。しかし無駄な公共事業や軍事費を削るなど福祉の財源は色々ある。総選挙で政権選択ムードの中にいる人に言いたい。弱肉強食の構造改革の速度を競うなどは大ボケであり、消費税こそが真の争点だ。二大政党はどっちも財界ヒモつきの消費税増税党ですよ。
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2003年11月15日
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