月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2004年)

                                                                                                                                                                                   
2004年1月号

 鶴見俊輔氏と上田耕一郎氏の大型対談はまさに談論風発、生き生きした語りに魅了されました。論点はいくらでもあるのですが個人と組織というテーマは特に大切だと思います。体制内にあっても個人として立派な生き方をした吉田満やマクナマラなどの例が話されていました。確か作家の稲沢潤子氏が「立場の正しさに寄りかかった生き方はしたくない」という意味の発言をされていたように思うのですが、どのような正しい思想信条を持ち、どうような民主的な組織の中にあっても、責任ある個人としての充実した生き方を追及しなければそれらは形骸化し反対物に転化してしまうでしょう。マルクスにはない観点として「すべての権力は腐敗する」という「アクトンの原則」を鶴見氏は強調されています。私はそれは理論原則としては成り立たないと思うのですが、経験則として傾向的に貫いてきたことは認めざるをえません。社会主義権力の変質ということには確かに様々な原因があるのでしょうが、そこに生き革命を推進しようとした諸個人のレベルには、社会全体の掲げる既成の正しさへの寄りかかりのようなものがあったような気がします。

 鶴見氏がマルクスの偉大さとして、抽象の裏には必ず捨象があることを意識して、捨象して落としたものが何かを忘れない、という点を上げておられるのが大変印象的でした。上の話につなげれば、生き生きした個人は死んだ抽象はしない、ということでしょう。

 ところで「個人と組織」に関連した「個別性と公共性」の統一の問題、死んだ抽象に陥らないようにすることについて、運動による実践的解決の方向を語って説得力があるのが二宮厚美氏と横山寿一氏の対談「日本の社会保障の再構築をどう構想するか」です。お二人とも新自由主義への鋭い批判で知られるのみならず、社会保障の運動への実践的かかわりを持った研究者としても共通しており、討論のかみ合い振りもなかなかのものです。

 両者は今日の社会保障構造改革を、まず日本資本主義の資本蓄積構造の多国籍企業型への変化の観点から捉えます。それが福祉国家の解体・福祉の市場化を要求し、個人主義的な制度利用の広がりとともにイデオロギー的にも社会保障のもつ共同性の意識の希薄化・平等への攻撃が蔓延します。市場化の進展・生活困難の悪化は福祉ニーズを増大させるのですが、それが社会保障の要求に高まらないのは人々の権利意識が低いからであり、それを高めるのは運動と組織です。そして公共性・共同性・能力観といった人間観・社会観をめぐる高度な討論が展開されます。その中で「個別性か共同性か」といった機械的問題把握ではなく「自らの生活を自己決定できる個別性を、きちんと社会保障の共同性の原理のなかで生かせる制度設計を展望」(68ページ)するような個別性と共同性の高い次元での統一が語られます。喧伝されている「選択の自由」とは実際には事業者を選ぶ自由でしかありません。共同性のなかで個別性を実現していくこうした社会保障運動の展望のベースにあるのは結局「多国籍企業型の資本蓄積方式で日本経済は再建できるのか、この対決点を突きつけて福祉型経済を構想して」(55ページ)いくことです。

 見られるように討論は資本蓄積構造から社会観・人間観にまで及ぶまさに全面的なものであり、そこに死んだ抽象はなく、運動の中での社会変革と自己実現の観点が貫かれています。新古典派の社会観・人間観は死んだ抽象の最たるものだと思うのですが、グローバル化・「市場拡大の時代」・「構造改革」の中ではそこに一定のリアリティがあり、また不断のイデオロギー操作を通じてそれは増幅されます。ここを突破していく運動と研究の機関誌としての『経済』の意義はますます高まっていくでしょう。

 ところで対談において語られるべくして語られなかった問題があります。それは多国籍企業型の資本蓄積への転換を問題の根底におきながら、対抗構想において問題の国際的側面が抜けていることです。「世界革命」という短絡したことは言いませんが、グローバル化において「一国福祉型経済」は困難であり、世界の人々の運動との連帯にも目が向けられねばなりません。

 以上、二つの対談の感想を書きたいと思い、それぞれ再読しました。それは実に甲斐のあることでした。

 

 小西一雄氏の金融論を中心とした現状分析には常々敬意を払って拝読してきましたが、今号の「マルクス信用論のひとつの読み方」では従来の信用創造論を否定するというきわめて重要な問題提起が行われています。「今日でも、銀行は再生産過程から引き上げられた資金や遊休資金を借入れてそれを貸出す機関にほかならず、いいかえれば、再生産過程のなかから生み出されるさまざまな預金の源泉から預金が形成され、これを基礎としてはじめて銀行は将来の価値の先取りとしての貸出(預金設定)を行うことができるのである。…中略…いわゆる信用創造論は、こうした預金の源泉を、したがって本質的連関を見過ごす危険性をもっている」(150ページ)。

 これに対して山口義行氏の『金融ビッグバンの幻想と現実』(時事通信社、1997)では、「銀行は預金という形でお金を集めて企業などに貸す」という常識は誤りであり、銀行は自分で預金を作り出すのであって、こうして銀行員の指先が作り出したお金が日本銀行券などよりもずっと多い、と説明されます。大槻久志氏の『「金融恐慌」とビッグバン』(大月書店、1998)には「だが近代的銀行では違う。創造して貸したのである。この世に存在していなかった預金を創造した。そしてその預金は貨幣として働く。近代的銀行の大きな機能は貨幣の供給である」(98ページ)とあります。

 山口氏と大槻氏は啓蒙の目的で、素人の常識を正して、銀行業務の意味を明らかにする記述をされているのだと思いますが、小西氏の説明からは、結局、回り回って素人の常識のほうが(銀行業務は理解できなくても)再生産過程の本質には迫っていた、ということになりそうです。カジノ資本主義の横行、バブルとその崩壊、不良債権問題の深刻化という今日の事態では実体経済と金融との関係がいつも焦点となっています。信用創造論はその解明のひとつのカギとなっているように思いますので今後とも活発な議論を期待します。                                2003年12月19日




2004年2月号

 自民党政府の大資本本位の経済政策が一貫して続くなか、一方では国民の生活と営業は厳しさを増すばかりですが、他方では昨今のように経済成長率がプラスになり、株価が上昇するという事態を見るとき、これをどう統一的に捉えるかが問題となります。「構造改革」の芽が出てきたという小泉流の評価は論外ですが、経済指標の改善に目をふさぐのも正しくありません。「二○○四年の日本経済をどうみるか」の「第2部『景気持ち直し』の実態をどうみるか」では、バブル崩壊後も3回の小さい景気循環があり、今回の「現象は、長期不況のなかでも繰り返されてきた、短期的な弱々しい『上昇』局面の新たな現われ」(38頁)として適切に処理されています。「持ち直し」の要因としては、リストラ、輸出による増益であって、雇用と個人消費の強化による内需型の景気回復には逆行することも指摘されています。そしてこれが企業の設備投資の動向に影響していることも分析されています。つまり設備投資を規定するのはキャッシュフローではなく期待利潤率であり、そうであればリストラ型増益では企業も設備投資に踏み切れないことが指摘されているのです。このことから、伊東光晴氏がヒックスのIS-LM分析を批判して投資は利子率よりも利潤率に影響されるという主張をしていたことを思い出すのですが、ここには、近年の野放図な金融緩和が景気回復に役立たず、個人消費を中心とする実体経済への梃入れが期待されることへの証拠という意味合いもあります。そして結論として、問題とすべきは景気回復の程度のような「量」ではなく、大資本の立場か国民の立場かという景気回復の「質」であることがずばりと指摘されており、核心をつく議論だと思います。

 大槻久志氏の「歴史的転換点に立つ金融」については本筋からははずれるかもしれませんが、他の論文との関係で二点に注目します。一つは、従来の信用創造論を批判した前号の小西一雄氏の「マルクス信用論のひとつの読み方」との関連です。大槻氏は高度成長期とその後とにおける資金に対する受給関係の逆転を中心に議論を展開します。その際、高度成長期には産業資本は恒常的に資金不足なので信用創造によって長期資金を供給するほかなかった、というわけです。現在は逆にそれは低調になっています。小西氏は理論問題として信用創造論を批判的に検討していますが、そうした問題意識にはこうした現実の変化が影響しているのではないか、と私は想像します。

 もう一つは本号の北村洋基氏の「構造的過剰論の検討と『過剰』解消への道」との関連で、資本過剰の捉え方の違いです。「一九八○年代までに完成し、さらに膨張した日本資本主義経済は、もはや資本の再生産運動自体に内在する需要である個人最終消費と民間企業設備投資によって維持されるにはほど遠いものになり、輸出と政府支出に過度に依存したものになったということであり、それほどまでに資本の過剰が甚しいものになったと言うことである」(61頁)。こうした日本資本主義の現段階への総括的認識がまず表明されます。その上に、産業資本における余裕資金が再生産外に金融資産として集積されることを指摘しつつ、英米資本主義の史的分析から、製造業の空洞化、経済のサービス化、IT化、金融投機化という流れが日本経済にも当てはまると見ています。これらは資本の寄生性ということも含めて、資本過剰についての比較的オーソドックスな理解だと思います。これを念頭に後に北村氏の捉え方も見てみます。

 北村氏の上記論文は本号最高の力作であり、様々な問題点が分析的によく整理されて提起されています。私としてはその中で気がついた若干の点について述べます。

 国際的競争にさらされている産業・業種とそうでない内需型産業・業種とを区別して検討する必要性を北村氏は述べています(83頁)。「構造改革」の立場からは後者の「高コスト構造」が問題視され、前者に合わせた国民経済の「構造改革」が必要とされます。しかし国民の生活と営業を守るためには逆に後者の立場を踏まえて前者に必要な規制を加えねばなりません。多国籍企業の効率性と発展途上国の無権利・低賃金労働とが結合した世界市場の基準からすれば、内需型産業は軒並み過剰資本と評価されるでしょうが、それが国民経済の再生産に組み込まれている以上は、擁護すべきです。資本の内在的法則としては資本過剰は廃棄されるべきですが、資本に対する民主的規制という政策的次元においては必ずしもそうはなりません。

 そもそも資本過剰とは何でしょうか。歴史貫通的な社会的再生産の観点からは結合可能な生産手段と労働力が、資本主義的限界の中では過剰資本と過剰労働として分離併存するという事態を批判的に指摘したのが資本過剰の概念でした。従って必ずしも過剰資本はすべて廃棄すべしということにはならないのです。もちろん現実の過剰資本には社会的再生産の観点からも廃棄すべきものもあるのですが。

 以上は内需型産業についてはやみくもに過剰資本として廃棄すべきではなく、国民経済の再生産構造の中での調整が必要だということです。逆に多国籍企業を先頭とする大資本製造業については個別に効率的資本であっても国民経済を構造的に歪める側面がある点に注意すべきです。

 北村氏は70年代日本資本主義が全般的過剰生産恐慌に陥ってもそれを克服してきたことから、「構造的過剰論」を否定します。しかしそれは産業循環の次元ではいえることかもしれませんが、減量経営型の恐慌克服過程のあり方が逆に構造的歪みを形成してきたことが忘れられてはなりません。個別資本の生き残り努力が全体としては「生産と消費の矛盾」を激化させ、上記の大槻氏の認識のように日本資本主義は構造的過剰体質に陥ったということができます。これに対して、グローバル化の時代には、商品輸出・資本輸出は資本過剰の現われではなく、グローバル資本の展開であるとするのは、国民経済の立場から多国籍企業の立場への解釈の変更であり、矛盾の先送りでしょう。確かに世界的に市場拡大と人民抑圧体制の強化(労働に対する資本の立場の強化、福祉切り捨て等)が続く限り、矛盾は緩和されるかもしれませんが、根本的に解消されるわけではなく、潜在的に蓄積していくでしょう。

 このように見てくると、構造的過剰の定義を見直す必要があります。北村氏は構造的過剰を産業循環を越えて恒常的に存在する資本過剰と捉えています。これは問題点を明確にした定義だと思いますが、それだけでなく再生産構造の歪みから生じる資本過剰という側面を加えるべきでしょう。その理論的意義は、需給ギャップの発生と解消という競争=産業循環レベルの分析だけでなく、需給ギャップを捨象した資本一般=理想的・平均的・長期的に捉えれられた資本の分析のレベルからも構造的過剰を析出する必要があるということです。「生産と消費の矛盾」を激化させるような資本蓄積のあり方とそれに拍車をかける「構造改革」では、弱々しい景気回復しか期待できないし、国民生活の悪化も防げないということは、日本資本主義の再生産構造のあり方が産業循環のあり方を規定しているということであり、この全体を構造的過剰とよぶことは適切だと思います。

 北村氏は、厳しい競争を戦い抜く個別資本、中でも現代資本主義の先端的生産力を担う多国籍企業が資本主義発展を切り開いていくことに焦点を合わせて「構造的過剰」を分析します。もちろん今日の「過剰」解消への政策的提言は、国民各階層の実情に即したものになっていますが、「構造的過剰論」否定の視点は上記にあると言っていいでしょう。対して私の感想は、過剰資本でさえもありえない(利潤範疇の不成立はもちろんV部分も成立し難い)零細自営業者の立場からの「生活と営業を何とかしてくれ」というつぶやきです。せっかくの現状分析の成果に対して空言を弄したようで、本号、唐鎌直義氏の書評にある、日本の社会科学分野での観念的傾向への批判が耳に痛いところです。妄言多罪。


                        2004年1月16日



2004年3月号

 工藤恒夫氏の「資本主義と年金制度」では社会保障制度の原理・原則とそれからはずれた日本の異常さが明らかにされていました。河村健吉氏の「年金改革をどうみるか」では政府の「改革」案が具体的に検討されています。まさにそれを受けるような形で、2月18日の国会での党首討論では、日本共産党の志位和夫委員長が年金改悪法案を批判していました。その中では、国会審議を経ることなく自動的に保険料を引き上げ給付額を減らす「マクロ経済スライド」が憲法25条の生存権を侵害することについて、国民年金の給付実態を踏まえて具体的に指摘されています。憲法に立ち返って論議することはいやしくも国会の場では当然なのですが、それが単なる紙切れのごとくに扱われている昨今では逆に新鮮でした。「憲法には国民の権利ばかりが多くて義務が少ない」という類の、中学校の社会科水準未満の議論が横行する「憲法調査会」を抱えた国会の現状では、こういう正論は非現実的と無視されるかもしれません。しかしここには国民生活の現実があり、憲法はそれに寄り添うものなのです。経済や財政の在り方をその視点から変革する政治と経済学のまともな現実主義が求められています。

 リストラ効果で大企業は大儲けし、218日の朝日新聞夕刊1面には「実質GDP年率7%増」の大見だしが躍っていました。どこの国の話だ、というのが実感ですが、「日本の『低コスト構造』を推し進めると『悪魔のサイクル』になる構造がビルトインされ」(「連続シンポジウム」第5回 172ページ)た国際競争力の在り方を逆転しないとこういうことがいつまでも続きそうです。生存権を脅かされた多くの国民を尻目に独占資本は肥え太り、経済成長率だけは伸びていくという……。このシンポジウムで牧野富夫氏、小越洋之助氏、金澤誠一氏がこもごも語っているように、人件費の切り下げを許していくと技術開発など本来の競争力強化が遅れるし、技術開発に必要な労働力の質も確保できなくなります。リストラによる目先の競争力に目を奪われている内に産業基盤が危うくなり、内需も細ります。これを正すには資本への民主的規制を実施する必要がありますが、年金財源の問題とも絡めて、その点で参考になるのがフランス労働総同盟の提案です。「これまで事業主側の年金拠出対象として、勤労者の直接賃金だけに対応した拠出に限られていたが、これを企業(勤労者)が達成した生産性向上などによる付加価値の全体に拡大し、付加価値の賃金への還元率に応じて事業主の拠出率を調整する」(福間憲三「フランス 2003年金改革法めぐる対決」72ページ)。カトリーヌ・ミルズ氏は次のように述べています。「企業の財源を金融・株式市場に大きく投入する事業主に対しては社会負担を大きく増やし、逆に、雇用総出、生産的投資、賃金、職業訓練などを優先する企業に対しては社会負担を軽くしたり、金利負担を軽くする金融政策などで総賃金上昇を図ることだ。これは、従来の自由主義的な”社会負担軽減ドグマ”とは異質のものである」(同72ページ)。新自由主義に対決し、国民生活向上を折り込み、釣合のとれた産業構造を実現する経済発展の構図を、このようにインセンティブの在り方を含めて提起していくことが大切です。                  
                       2004年2月20日




2004年4月号

 連続シンポジウム「日本の勤労者 その労働と生活」が完結し、賃金・雇用・労働条件・生活・社会保障などでの厳しい実態が浮き彫りにされました。問題は人民側からの反撃をどう組織していくか、ということになります。その際に、統計資料などを駆使して勤労者全体の実態を明らかにするというマクロ的・客観的方法を前提しつつも、職場社会における人情の機微とでもいうべきミクロ的・主観的状況を把握することが不可欠と思われます。きわめて俗な言い方をすれば、ヒット商品のように人々の心をつかむ方針がなければ今日の苦境を脱することはできないのではないでしょうか。

 そんな安易な言い方をすると叱られるのかもしれませんが、そう言いたくもなるのは、労働運動などをめぐる従来の紋切り型の議論に不信を抱いているからです。客観的状況は厳しい、資本主義の矛盾は深まっている、人民は立ち上がって変革の秋(とき)は来る、と言い続けても、実際には人民はただそれぞれ個人的に我慢して時をやり過ごしてきたというのが偽らざる事実です。個々の先進例はあっても決して大勢にはなっていません。

 状況の厳しさが人民の立ち上がりどころか、その分断による後退を招くという今日的メカニズムについては、浜岡政好氏の「生活不安・社会不安をどう克服していくか」に言及されています。それによれば、新自由主義イデオロギーの支配と階層格差の拡大・固定化の下で、税金によるセーフティネットの整備よりも個人による生活の自己防衛へと人々の意識が向かっています。こうした社会的連帯意識の低下の下で下層の人々をセーフティネットから外して治安問題の対象とする、という危険な意識状況も出現しています。浜岡氏のまとめは的確です。

   ----------------------------------------------------------------------

 地獄から抜け出る「蜘蛛の糸」のような生活不安からの「自己防衛」型の脱出戦略が決してかなえられない幻想であること、勤労者の生活困難は個人の問題ではなく、社会の問題であり、生活不安や社会不安は社会的に、共同的に公共的にしか解決できないことを、リアリティをもった形で示す必要がある。     66ページ

   ----------------------------------------------------------------------

 浜岡氏は地域的実践の積み上げの中にこの連帯の思想の実現を見ようとしていますが、実はそれはまずは労働組合の中でこそ普遍的意識となっていなければならないはずです。しかし日本では「高度成長従属型労働運動」であって社会保障を充実させることになりませんでした(猿田正機氏 48ページ)。猿田氏の問題意識は日本の左翼が福祉国家や社会民主主義を批判したのがいけない、という政治的・体制的観点からのものですが、私はむしろ職場社会と労働組合という熊沢誠氏の問題提起をより根源的と考えます。

 1995年に熊沢誠氏の『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫1993)を読んで深い感銘を受けました。同様にグローバリゼーションによる厳しい条件下にあるとはいえ、今なお重要な影響力を持ち続けている西欧の労組と、見る影もない日本の労組との違いを規定する根本は、労組が職場社会をつかんでいるか否かという点ではないか。熊沢氏の議論からはそのように言えるのではないか、と私は思います。

 資本主義社会における「国民の常識」は、個人主義に基づく自由競争の志向ですが、組織労働者の規範は、仲間どうしの能力主義的競争の制限と働き方に関する集団的な自治、ということになります。組織労働者の独自性は、自分たちの職場にこうした規範による「労働社会」をつくることから生じます。ところが現代日本の職場には「労働社会」はなく、あるのは「企業社会」です。労組はもっぱら賃上げのための機関となり、働きぶりの点検を起点に職場でのまた社会的な(労働者らしい)連帯の思想を育むものとはなりませんでした。それは左派右派を問わずそうであり、「高度成長従属型労働運動」となりました。従って熊沢氏によれば、労働組合運動の指導路線の意義は比較的小さいのであり、国民経済や体制の在り方に影響を及ぼす労働組合運動の性格についていえば、むしろ普通の労働者の在り方・考え方こそが重要です。ここにはナショナルセンターなどの政治路線の能動性を軽視した現場主義的偏向があるようにも思うのですが、しかし私たちが陥りやすい政治主義的偏向を正し、労働現場の足元を注視することの意義が明らかにされており説得力があります。

 もとよりシンポジウムでもいわれているように、『新編 日本の労働者像』刊行後の90年代後半以降に労働と生活の状況は急速に悪化し、社会保障への攻撃もますます厳しくなっています。そこで小越洋之助氏らが強調する、全国一律最低賃金制の実現など緊急の政治的課題が山積しています。職場と労働者意識の変革という長期的課題をいうのは悠長に聞こえるかもしれませんが、そこに内在することなくして何もかも一歩も進まないのが現実でしょう。私としては具体的なことをいうことができないのが残念ですが、『経済』には引き続いて職場の意識状況に迫る企画を期待します。

 こういう大ざっぱな放言ができるのも労働経済学や労働運動の知識がないせいかもしれません。妄言多罪。

 ところでシンポジウムでよく取り上げられた論点に、福祉国家・社会民主主義に対する評価があります。唐鎌直義氏の言われるように、高度成長期には社会主義という別の選択肢があったので福祉国家・社民批判が左翼の常識でした。つまり経済体制としてはソ連型中央集権的社会主義を(批判しながらも事実上は)オルタナティヴとして想定していました。そのため福祉国家を単に改良主義として切り捨て、そこでの達成を具体的に見ることを怠りました。これは従来の科学的社会主義の立場の誤りだったといえます。逆に今日ではソ連崩壊による自信喪失からなし崩し的社民化が進んでいるようです。

 グローバル化の中でもアメリカ型とは違った西欧福祉国家が持ちこたえていることは評価に値します。しかしそれはことの一面であって、新自由主義の横行は、ソ連・東欧社会主義体制の崩壊だけではなく、福祉国家の危機をも原因としていることが忘れられてはなりません。福祉国家の財政危機、経済活力の低下を理由とする社会保障切り下げの攻撃が常に行われ、労組を初めとした人民の必死の抵抗が続いています。社会民主主義が資本主義経済を前提とする以上、それは避けられません。このせめぎあいを止揚するには生産手段の社会化によって、働く人々が主人公となる社会を実現するほかありません。遺憾ながら「生産手段の社会化」像自体はクリアではないし、今日的なグローバリゼーションの在り方に対抗するグローバルな移行過程の展望が描けるわけでもありません。それは眼前の泥沼のような階級闘争を通じてしか見えてこないのでしょうが……。福祉国家の現実から学ぶこととそれを超える遠望を目指すことを統一してこそ今日の科学的社会主義と言えるのでしょう。

 ついでに言えば、先に取り上げた、熊沢誠『新編 日本の労働者像』とか、内橋克人『共生の大地』などは、現実に切り込み、その中に展望を見い出そうとした名著だと思います。著者らは社会民主主義なり市民主義なりの立場にあるのでしょうが、その鋭い問題提起は科学的社会主義の理論的枠組みに包摂すべきだし、それは可能だろうし、そうすることで理論の変質ではなく、変革の理論として強化されるのではないでしょうか。
                       2004年3月17日



2004年5月号

 いまや「自己責任」は万能語だ。老後は年金に頼ってはいけない。イラクで拉致されるのも政府の退避勧告を無視したためである。

 膨大な年金積立金の運用の失敗やムダ使 いで何兆円も喪失しているのだから、当然、国家責任や個々の政治家・官僚の責任があるはずだが、そんなことは知ったことか。もう年金はあてにするな。人民は国家に頼らず自己責任でやれ。…ということらしい。

 高遠菜穂子さんはずっと前からイラクで活動していて、後から自衛隊がやってきてそのために拉致されたのだ。手前勝手なのは高遠さんではなく小泉政府ではないか。国家責任を自己責任にすり替えるな。…といいたい。

 グローバリゼーションだから国家は影が薄くなって国家責任もなくなるのだろうか。確かに福祉は削られる一方で自己責任ばかりが強調される。しかし他方では海外派兵が強行され、有事法制の整備は進み、個人情報の国家管理は強化され、学校では国旗・国家が強制されている。国家は強大化している。つまり人民の運動によって勝ち取られてきた国家的制度は削られ、階級支配の強力装置としての国家は強化されている。新自由主義のことを市場原理主義ではなく資本原理主義(小松善雄「現代資本主義にとって国家の役割はどうなったか」29ページ)と捉えれば、それはすっきり理解される。多国籍企業の活動を援助するためには福祉を削って国際的なソーシャルダンピング競争を勝ち抜くだけでなく、そこから必然的に生じる被支配者階級の反抗を防止し打ち砕く強力な国家が必要となる。市場原理主義とは自由競争信仰というブルジョア教条主義を表面的になぞったものだが、実際には自由競争は利潤追及の手段であって目的ではなく、アメリカでもクローニー・キャピタリズムが横行していることは、小松氏の指摘どおりだ。新自由主義的グローバリズムの自由とは多国籍独占資本の自由であって人民の自由ではない。だからブッシュが自由の名の下にイラク人民などの生命を奪い、アメリカ人民の自由を侵害しているのは何の不思議もない。新自由主義は人民の自由と権利を侵害する軍国主義と親和的でさえある。

 ところでイラク占領の情況をベトナム化と呼ぶことが多いが、確かにアメリカにとっての泥沼化という意味では正しいが、ベトナム人民に対してははなはだ失礼だと思う。ベトナムはテロとは無縁であった。アメリカでベトナム反戦映画「ハーツ・アンド・マインズ」が製作されたとき、スタッフはベトナム人たちとがっちり握手していた。ベトナム人民は世界中の理性に訴えアメリカ帝国主義を包囲していったのだ。確かにソ連・中国の支援があったとはいえ、中ソ対立と中ソ各々の対米接近という逆流もあった。そのなかでも正確な方向を見失わず戦争に勝利できたのはベトナム労働党の指導性が決定的だったといえよう。残念ながら現在の中東ではアメリカ帝国主義に対決しうる統一的な理性的勢力は形成されていない。いかなる名分があろうとも私はテロには反対する。それは限りなくアメリカ帝国主義を利している。すべてをスターリニズムの名の下に否定する向きもあるが、ベトナムからの教訓は科学的社会主義の指導性だと思う。

 誤解のないようにいえば、今日の平和運動・反グローバリズム運動などにおいてアメリカ帝国主義反対のスローガンを掲げなければいけない、とか、運動体において科学的社会主義のヘゲモニーが確立していないと前進しない、などとセクト的な主張をするつもりはない。広範な人々を結集することこそが運動の最大の力である。ただその際にも社会科学上の正確な認識は独自に追及することが必要である。

 

 4月19日朝のテレビで、イラクから帰国した高遠菜穂子・郡山総一郎・今井紀明の三人の痛々しくも怯えた姿を初めて見た。胸がつぶれた。このときほど日本人として恥ずかしい思いをしたことはない。彼等は人質の身から解放されてなお帰国後に日本で叩かれるのだ。なぜ被害者と家族が謝らねばならないのだ。悪いのは拉致した犯人であり、ブッシュであり小泉ではないのか。有為の若者たちは幸いにしてイラクの犯罪者に殺されることはなかった。しかしこのままではその尊い志は日本の反動的政府と世間という名の前近代的社会によって殺されてしまう。ルモンド紙はもとより、パウエル国務長官でさえ彼等を称えているのに日本社会の様は何だ。日本人は世界の笑いものになるだろう。

 イラクの現状の責任はあげて侵略戦争をしたアメリカ政府にある。そこで日本人がテロの標的にされる原因をつくったのは自衛隊の派兵である。いつのまにかこの原点が忘れられ既成事実が追認されている。それが被害者バッシングの裏にある。原点を踏まえれば海外派兵こそが拉致の原因であるという国家責任が認識され、自衛隊撤退の圧倒的世論が巻き起こり、「自己責任」なるごまかしは通用しなかっただろう。避難勧告を出さねばならない情勢をつくったのは日米政府である。まるでどこからか降ってきた災難から日本人を守るために政府が避難勧告を出したかのごときいいぐさを許してはならない。犯人の自衛隊撤退要求が出た時点で日本政府がやるべきことは、事件とはかかわりなくもともと派兵が間違いであったという声明を発して撤兵することであった。それをしないで「撤兵しないで人質を救出するという難しい課題に直面した」と深刻ぶって手柄話にするのも許してはならない。政府や御用評論家などは人質救出のためいかに苦労し多大の出費があったかを言い募っているが、誤った国策の犠牲者を救うのはあたりまえではないか。やってはならない海外派兵に四百億円も使っておいて、本当の国際貢献をした若者たちの救助に使った数億円を云々するのも許してはならない。犯人からの脅迫があったとき日本政府がまずしたことは自衛隊撤退の拒否であった。つまり日本政府は自国民の命よりも、無謀なアメリカの政策への追随が大切だという断固たる決意を表明したのだ。今回の事件で「安全のためにはお上に頼ろう、タテツイてはイケナイ」という風潮が一気に広まったが、そもそもお上の意向とはこんなものなのだ。

 この人質問題は一部の先進的な人達の問題ではなく国政の焦点になってきた。これを奇貨として小泉首相は有事法制の一層の整備を主張している。馬鹿なように見えて階級的使命はしっかり自覚しているのだ。支配層は今回の「成功」に有事体制の先例として多くの教訓を得た。彼等の支配するマスコミを使い、日本社会の後進性に依拠して、実質的な言論統制と大衆的イデオロギー統合が容易であることに味をしめたであろう。

 日本政府がアメリカ帝国主義に追従する限り、今日ではどこにあっても日本人民への脅威はなくならない。遭難に際して個人は国家に頼らざるをえない。その国家の働きを当然のことと考えるか、お恵みと考えるかの違いは決定的ではあるが、頼らざるをえない事実には変わりがない。ここに「お上」意識発生の客観的根拠がある。国家が自らの政策によって人民を脅威にさらしておいて、いざとなったら「守ってやる」ので普段からおとなしくせよ、というのが「有事における国民保護」の思想である。いわば日本政府による「有事のマッチポンプ」である。それを許さないためには何といっても、自衛隊の海外派兵に代表される危険な政策そのものを否定することである。ここを正さない限り最初のボタンのかけ違えで、あとは間違い一直線である。

 それだけに、イラク問題の原点を握って離さず、高遠さんたちとその家族の自由を回復する闘いの意義は普遍的である。ここで踏ん張ることが軍国主義化の防波堤となるし、彼等のなしたことは多くの日本人民の共感を得る可能性があるのだから闘いの成算はあるといえよう。

 日本中の若者たちよ、怒れ!リストラは野放しで、若者に職を与えず、ましてやキャリアなど積ませず、あげくの果てに立派な国際貢献をした有為の若者たちを叩く。このような国を愛させるために学校では、君が代・日の丸を強制する。高遠さんたちはイラクでの人質から解放されるやいなや、日本社会という監獄に放り込まれた。普通の若者にとっても日本社会は監獄になりかけているのではないか。若者たちが自由に活躍できるまともな日本社会をつくることが、高遠さんたちを救うことではないか。

 

 仕事の合間にぽつりぽつりと書いているので、何日もかかってしまう。その間に情勢は進展しいろいろなことも言われる。4月19日の「朝日」夕刊で、高橋源一郎「<人生相談>どこかの国の人質問題」を読み、抱腹絶倒、感謝感激、断固支持で大いに溜飲を下げたが、こんな名文があるなら自分で駄文を書くのも空しいからもうやめようか、というところを思い直してここまで書いた。高橋氏のように「こんな恩知らずの国のことなんかもう放っておきなさい」というわけにもいかないから…。

 

 大事なことを書き忘れていましたので追加します。

 

 人質問題・自衛隊派兵問題では日本政府の誤りを糾弾するだけではなく、NGOによる積極的な非軍事国際貢献の思想と実績に学び、世界平和の創造という立場を対置していくことが重要だろう。1月29日、衆院イラク特別委員会での熊岡路矢・日本国際ボランティアセンター(JVC)代表理事の陳述は素晴しい(「赤旗」4月11日付より)。それは、武装した自己完結型組織・自衛隊でなければ、現在のイラクにおいて復興援助はできない、という政府の言い分を完全に粉砕している。NGOの活動実績の紹介だけでも十分に説得力はあるのだが、熊岡氏は軍と距離をとることで安全を確保するということを具体的に展開している。つまり地域社会、地域の人々に溶け込むことで、安全情報も受け、また、まさに物理的・精神的なものを含めて実態的に守ってもらうわけだ。そのような組織であってこそ実情にあった援助が展開でき、逆に自衛隊のような自己完結型武装組織ではそれはできない。自衛隊派兵の目的が人道援助であるということの欺瞞性は対米従属という性格からいっても明らかなのだが、こうして現地での活動実態の面からもはっきりした。熊岡氏は最後に日本の平和主義によって日本のNGOは守られてきたことを強調している。

 北朝鮮問題などでも顕著なのだがとにかく安全保障は力だという考えが最近の日本では蔓延している。そうではなく理想的な平和主義をかかげ、しかもそれを空言とするのでなく具体的に実践してきたNGOの立場こそが、武力信仰にたいする有力なオルタナティヴであろう。

                       2004年4月20日




2004年6月号

 錯綜して冗長になりましたのは、不勉強と不熟慮は当然としても、貧乏暇なしで文章を整理する余裕のないためでもあり、ご寛恕願います。

 先月の続きで、今月はいささか原理的な点について述べます。イラクにおける日本人人質事件について多くのことがいわれましたが、私が一番興味深く読んだのは斎藤貴男氏の論説でした(「赤旗」4月29日付)。斎藤氏は一方では「国家には国民を保護する義務があるなどという言説は、どこまでも幻想でしかない」としつつ、他方では「国民の保護など幻想で結構と主張したいのではない」ともしています。これは国家の性格についての本音と建て前をにらんだ言葉だといえます。また政府に従順でない態度を批判するのに、「非国民」ではなく「自己責任」という言葉が使われたということに、グローバル企業の論理=新自由主義イデオロギーの支配を見ているのは卓見です。それとの係わりでいえば、斎藤氏が政府批判派への同志的苦言の中で言及したパウエル米国務長官の発言というのは、私見では、日米の新自由主義の違いを現わしたものだと思います。

 人質への非難と擁護との応酬は実質的には国家の性格の本音と建て前との対決といえます。反政府的・反日的分子を助けるのに税金を使いたくない、という自民党議員の発言こそ政府の本音を語ったものであり、「自己責任論」バッシングはそのカムフラージュに過ぎません。

 普段は国家を批判しながらいざとなったら国家に頼るのは「日本的」甘えであり、自己責任で処理せよ、というのはまったく転倒した議論です。国民が近代国家に安全を要求するのは共同体的に抱え込まれているからではなく、そういう社会契約を結んでいるからです。ここで国民からの救助要請を批判するのに自己責任を持ち出すのは、救助すべき国民を思想信条によって選別したい(もちろん今の力関係では実際にはできないことだが)という、小泉政府のような日本国家の前近代的無責任志向を覆い隠し正当化する詭弁です。近代国家の責任を自覚せず、国民を救助するのは恩恵だとでもいうような前近代的感覚の勢力が、政府批判派に対して「日本的甘えはいかん」と説教するとは悪い冗談です。

 だから結局、議論を裸にすれば、政府批判派が国家の責任をきちんと果たせという建て前論をいっているのに対して、政府派はいやだと本音で応じているわけです。議論の正当性としては建て前を押し通すしかないわけですし、それが国民の共感を得れば政府の本音を抑え込むことができます(理論は大衆をつかむや力となる。また権利は不断の力関係の強化によってしか守れない)。国家による国民保護は幻想か、という斎藤氏の問題示唆からは、このように自己責任論争の実体をあぶり出すことができます。

 このような形で議論が整理できるのは、国家権力そのものを忌避するという立場ではなく、国家の民主的変革、つまり人民の人民による人民のための国家権力の行使を目指す立場だからこそです(もちろんそういう美名の下に人民が抑圧されてきた例は事欠かないので、名目でなく実態をきちんと見ることが必要ですが)。政府批判派とはいっても、国家権力を忌避する立場では、今回の人質事件のようなものには無力であるし、自己責任論を打ち破れず、理論的には同調する結果になると思います。「国家と市民の区別」という立場にとどまることなく国家そのものの民主的変革を掲げる必要があります。

 政府批判派に対して「非国民」ではなく、「自己責任」の欠如という非難があびせられたことに、古い国家主義ではなく新自由主義の支配を見た斎藤氏の洞察は確かに見事なのですが、どうもそのようなすっきりした支配的イデオロギーの交代があるのではなく、日本的な歪み・癒着があるようにも思えます。以上に見たように、自己責任といういかにも新自由主義的用語を使いながら、むしろそれは前近代的国家観を隠蔽する役割を果たしています。

 新自由主義は多国籍独占資本の利潤極大化を目的に、政府規制の排除、労働運動の弱体化、小経営の淘汰の促進などを手段として、市場原理主義という現象形態で展開されています。その攻撃の標的は、人民の運動の成果としての福祉などだけでなく、政官財癒着による既得権益、地域などの古い社会関係にも向けられます。従って世界的には民主的批判派の他に、グローバリズムへの保守反動としてのイスラム原理主義などを呼び起こしています。日本においても新自由主義を批判する保守反動イデオローグが一定の影響力を持っていますし、それよりは中庸ないわゆる抵抗勢力も根強くあります。もちろん彼等は支配勢力の中では傍流ですが、ある程度それに引きづられる(あるいはそれを利用する)形で主流派の新自由主義そのものが特殊日本的歪みを持っているように思います。多国籍独占資本の利潤極大化という目的のためになるなら、例えば「お上」意識のような前近代的なものも利用して、海外派兵のじゃまになるNPOやジャーナリストを叩こう、ただしその際に露骨な「非国民」よばわりではなく、「市民社会」的な「自己責任」論でごまかそう、というのが新自由主義的装いではあります。

 もとよりアメリカでも、9・11以後では軍国主義的風潮の下、市民的自由の制限が増大していますから、純粋な新自由主義というわけでもないでしょう。もっとも、新自由主義下では「負け組」(それが人民の多数派である)の反抗を抑え込むことが不可欠ですから何らかの形で国家強権を発動する傾向は免れませんが…。しかしそういう中でも侵略戦争の責任者たるパウエル国務長官がイラクでの反政府的な日本人人質を擁護する発言をしている、ということに対しては、官邸主導で人質バッシングを組織し、それが大きな社会的影響力を持った日本との質的差を感じざるを得ません。

 再び議論が錯綜してしまうのですが、そういう日本的古さというものも単純ではないといえます。異質な人を排除して従順を押し付け「個」が「国」と一体化する風潮は古い共同体の延長線上にあるのではなく、逆に「日本では個と国家の間に、本来あるべき人の横のつながり、『連帯』が希薄だからではないか。……そうして孤立した人々は、国家という『大いなるもの』に身を寄せていく。全体主義は連帯なき個の孤立と結びついている」(酒井隆史氏「朝日」4月29日)。日本は集団主義、西欧は個人主義という常識に対して、熊沢誠氏はかつて次のように指摘しました。職場社会においては逆であり、西欧では労働者集団の団結によって働き方に規制が加えられているが、日本ではばらばらな個人間競争によって無制限な労働強化が実現されており、その中で無力な個人は企業に依存するようになる(今となっては企業に依存するのは思いもよらないか?)。まさに熊沢氏が企業の中に指摘したことを酒井氏は日本社会のレベルで指摘しているといえます。

 この古いものと新しいものとの錯綜した関係をどう整理して理解するか、私の手に余るところですが、現実的な統合の原理としては、貪欲な日本の多国籍独占資本があらゆる関係を利用して資本の法則の過剰貫徹による利潤極大化を計っていることだけは確かです。対抗して我々は下からの連帯を組織していかねばなりません。

 図式的にいえば、国家の性格の建て前と本音は資本主義国家の市民国家性と階級国家性から来ており、市民国家性は商品=貨幣関係を、階級国家性は資本=賃労働関係を反映しているといえます。領有法則の転回によれば、商品=貨幣関係の自由・平等・独立の法則は何ら侵されることなく、その反対物たる資本=賃労働関係の搾取・支配従属の法則に転化します。それになぞらえれば、市民的自由・平等・独立からなる市民国家はそのままで人民に対する資本の階級支配国家となります。たとえば自由競争段階の資本主義の典型、19世紀イギリスおいては、「取引の自由」という市民法原理の適用によって労働者の団結は禁止されました。団結権が承認されるのは1871年の労働組合法以降のことです。労働基本権などの社会権は本来は市民法とは相容れない原理として労働者の階級闘争を背景として20世紀に妥協的に資本主義社会に定着することになりました。それだけに今日の労働と福祉をめぐる階級闘争は、人民にとっては市民国家の自由・平等という建て前の虚構性への挑戦という意義を持ます。またそれは支配者階級にとっては次のような意義を持つでしょう。人間の自由を市場の自由に、市場の自由を資本の自由に換骨奪胎することで、企業の効率至上主義を人間の自由実現の一環であるかのように描き、それへの規制を取り払う「自由」な市民国家への純化(内実としては階級国家の強化)。

 ところで人質問題はこの国家の性格においてはどういう位置付けを与えられるのでしょうか。問題は結局は、政府に従順でない者を国家は助ける義務を負うかということです。もちろん公式には小泉内閣といえどもそれを否定はできませんが、本音としては否定したいことは人質バッシング騒動から見て取れます。これは市民国家性そのものの否定です。カネに色は付いていないのだから、思想信条の如何にかかわらず誰も無差別に商品流通には参加できますし、それが市場の効率にも合致します。そうして形成される市場の秩序を追認し擁護するのが市民国家の役割であり、政治的自由・平等を当り前の空気とします。それを前提として、市場の外にある工場の内部では労働力商品の自由な消費=搾取が実現し、それを根源として階級闘争が起こります。こうして市民国家は労働力商品の自由な売買を擁護することで搾取の自由を実現し、現実には労働者階級の反抗を未然にか事後に防止する様々な行動を通じて階級国家として立ち現われてきます。これが資本主義経済の「正常な」搾取を媒介する資本主義国家=市民国家=階級国家ですが、そこでは自由・平等の理念に立つ市民国家が土台として存在します。しかし人質問題では平等の原則に反して、政府批判派に対して差別的バッシングが行われたのです(官邸主導で)。人質問題でのパウエル発言と小泉発言の違いを経済にたとえれば、市場での公正取引を通じて搾取を実現するという本来の資本主義の立場に立つのか、市場での差別・選別をも容認してなんでもありの搾取を強行するノンルール資本主義の立場に立つのか、という対照になります。法・政治的には市民国家を前提した階級国家か、市民国家から逸脱した階級国家か、ということです。日本では後者的要素を含んだ土壌の上に新自由主義が独自に展開しているといえます。

 もっとも、パウエル発言だけでなく、アメリカの現状全体を見て、それが「正常な」資本主義国家かというととんでもないという他ありません。そもそも世界市場のあるべき秩序を反映していると考えられる国際法を無視して侵略をほしいままにしているのですから、市民法も何もあったものではないノンルールの階級国家としての帝国主義国家といえます。しかし国内的には市民国家であるのも事実です。それやこれやを本来の資本主義の理念型からの逸脱と観念的に捉えるのでなく、世界的な資本主義発展における一つの必然として歴史具体的に捉えるのがアメリカ帝国主義論であり、ようやく6月号のテーマにたどり着きましたが、残念ながら今回はこの辺りで終わります。

                        2004年5月17日



追伸

 イラクでの日本人人質問題について国家の性格という視点から先日述べました。その際に市民主義批判の意識から逆に国家主義的偏向に陥った点がありますので訂正します。

 「国家権力を忌避する立場では、今回の人質事件のようなものには無力である」としたのは言い過ぎでした。事実としても、人質が解放されたのは、何よりも彼等自身の立場と活動が犯人たちに評価されたためであり、次いで様々なNGOや市民運動家たちからの働きかけや日本での自衛隊撤兵の運動が犯人たちに通じたためであると考えられます。具体的な交渉の中で日本政府の役割がどうであったかはよく分かりませんが、頭から撤兵拒否など逆行的姿勢があったことだけははっきりしています。

 従って国家の民主的変革を重視することは間違っていないのですが、国家でも企業でもない「市民的公共性」を担う人々と組織の力と役割を十分に認識することも大切だと思います。

                        2004年5月22日




2004年7月号
     

 「貧すれば鈍する」というせいかどうか、毎月書いているこの感想文の質が落ちてきたようで、書きづらくなってきました。多少なりともオリジナリティのあるものをと思っていますが、思いつきに陰りが見えるようで…。まあしかしせいぜい書きます。

 「読者の声」欄の「筆者からのひと言」コーナーにおいて、連続シンポジウム「日本の勤労者-その労働と生活」第1回(2003年10月号)への私の感想に小越洋之助氏が言及して下さったことに感謝します。

 特集「日本経済の『景気回復』をどうみるか」は時宜にかなった企画でした。『経済』の分析の真骨頂は例えば次の二点に示されていると思います。いずれも景気分析における政治経済学の意義を踏まえたものです。第一に「GDPなどのマクロ経済指標には表われてこない、日本独占資本の資本蓄積活動の実態分析が必要です」(16ページ)として、国民生活や日本資本主義の再生産構造のあり方にとっての今回の「景気回復」の質的意味を問うている点です。第二に「これからの経済情勢の分析は、たんに景気の動向、雇用や家計の状態を分析するだけではなく、財界の動向、とりわけその政治的な役割にまで視野を広げて、日本資本主義の全体的な研究の一環として位置づけていくことが求められるでしょう」(56ぺーじ)という観点から「今回の『回復』局面で留意すべきことは、財界・大企業の支配層は、経済的には長期不況からようやく脱しつつあるとみて、多国籍企業支配の社会体制を長期安定させるために、日米軍事同盟の強化、憲法改悪、消費税の増税など、懸案の政治課題の実現にむけて、支配層の力を集中しはじめてきていることです」(48ぺーじ)とずばり指摘している点です。

 資本主義的民主国家において支配の安定とは支配層が被支配層から一定の支持を得ることです。経済の分野でいえば国民経済の課題を支配層なりのやり方で解決することで国家の公共性を示し、被支配層からのオルタナティヴを見えなくしたり、それを公共性を破壊するものとして描き出すことです。今日の日本資本主義の課題は当面する景気回復であり長期不況からの脱却です。確かにこのところの経済指標の改善はその課題の一定の解決に向かうかのようでもあり、自民党政府の政策や独占資本の資本蓄積活動に公共性が認められるように見えます。そこでこそ「多国籍企業支配の社会体制を長期安定させる」諸課題の強行突破が問題となりえます。激化する人々の生活苦と社会不安はその苛烈さにおいて、このグローバル体制確立への原始的蓄積下のできごとかとさえ思えるのですが、もちろんそのような歴史的必然でも明るい未来の序曲でもないでしょう。痛みに耐えても生活の展望は開けません。

 そもそも国民経済的課題の解決という公共性のあり方そのものにおいて「二つの道」の対決があります。政府やブルジョアマスコミはまずは経済指標を量的に見るだけであり、その内実を問いません。問う場合にはいかに効率化が達成されたか、そのような社会的経済的環境整備がされたか、という資本の生産力の観点が優先されます。そして独占資本・多国籍企業が国民経済の再生産を組織している経済体制にあってはそれこそが人々の多くには公共性と意識されます。ここが重要な点です。そこに規制を加えようなどという別の公共性の主張に対しては、秩序の破壊者かせいぜい経済発展を遅らせる者という烙印が押されます。しかし生活者にとって前者の道に未来がないことは長期不況と「構造改革」の経験から体には染みている実感でしょう。そうであっても独占資本本位の公共性しか知らされていない多くの人々はやり場のない怒りのはけ口をあちこちに求めつつ、個人的生活努力を重ね、社会に対しては全体としては諦めているように見えます。

 家計の貯蓄率が減少し、資金循環として家計部門が赤字、企業部門が黒字になるという日本経済では前代未聞の事態になってきました。消費が上向きとはいっても貯金を取り崩して生活している異常事態です。日本人の貯蓄率の高さはかつては非経済的に国民性などと説明されることもあったのですが、そのように固定的に想定されていたことさえ流動化しています。これだけひどいことになっても、独占資本本位の公共性ではひたすら諸矛盾を経済成長で買い取るという道を進むことでしょう。当面それが成功するかどうかは予断をもって言うことはできないのですが、もう一つの公共性の道がせめて少なからぬ人々の正面に現われてくるかどうかにもかかっています。

 せっかくの具体的分析に対して独り言的つぶやきに終わって申し訳ないことです。

---------------------------------------------------------------------

 

 映画ファンというわけでもない私は、是枝裕和監督の名を、カンヌ映画祭で男優賞を受けた柳楽優弥少年の名とともに初めて知りました。そして6月15日付「朝日」夕刊でその秀逸で豊穰な評論に打たれました。肝心の映画を見もしないでその評論について云々するのは邪道ではありますが、そこではドキュメンタリーとは何かということを軸に、芸術と政治との関係、あるいはもっといえば社会変革を目指す者の社会認識と実践のあり方にまで及ぶ考察があるように思います。残念ながら私の浅学非才ではそこから十分なものを引き出して表現することができないのですが、心ある人々が是非それを読んで大いに論じ私に色々と教示してほしいと願います。

 是枝氏はマイケル・ムーア監督の「華氏911」と自作「誰も知らない」を比較しつつ行きつ戻りつ論を展開します。自作については…

映画は人を裁くためにあるのではないし、監督は神でも裁判官でもない。悪者を用意することで物語(世界)はわかりやすくなるかもしれないが、そうしないことで逆に見た人たちにこの映画を自分の問題として日常にまでひきずって帰ってもらえるのではないかと考えている。

すると当然ムーア監督に対しては…

実は「華氏911」は僕にとってドキュメンタリーではない。それがどんなに崇高な志に支えられていようと、撮る前から結論が先に存在するものはドキュメンタリーとは呼ぶまい。撮ること自体が発見である。プロパガンダと訣別した取材者のそんな態度こそが、ドキュメンタリーという方法とジャンルの豊かさを生む源泉だからである。

これだけだと是枝氏は非政治的な姿勢を採っているように見えます。しかし彼は「華氏911」の怒りの切実さとそれが人々の心を揺さぶったことを認め、「それで十分ではないか?」とも自問し、これまでのドキュメンタリーが世界と向き合うことを止めてジャンルに自閉することで権力にとって都合がいい結果になっていたのではないか、とも再考しています。

 この揺り戻し的再考を含む全体の中に豊かな可能性があるのではないでしょうか。勧善懲悪の物語には結論が先に存在し、またそれはしばしば社会の問題を自分とは別の他所の悪として捉えさせます。是枝氏のいうドキュメンタリーの方法では、制作過程の中に発見があり、そのテーマが見る人自身の問題として提起されます。ここには社会認識における傲慢さ・謙虚さと主体性の問題の深い考察があるように思えます。これまで歴史的な社会変革の運動・事業においては、豊穰な現実を十分に認識しえず型にはめたり、それが一人ひとりの社会参加による社会の質的変革の問題としてよりは、どこかの悪をやっつけてもらうこととして捉えられる傾向がなかったでしょうか。反動勢力との厳しい対峙の渦中にある「ベネズエラ革命」では、ほとんどのマスコミだけでなく有力な労働組合も反革命の立場にある厳しい情勢にあっても、革命を支持して積極果敢に活動する多くの人民がいます。これを支えているのは様々な草の根での生活・労働の変革の体験です。ましてや発達した資本主義国においては人々の生活・労働のひだにまで寄り添った社会認識と文化的変革の課題が重大だといえます。

 とはいえそのような芸術活動にも通じる謙虚で繊細な社会認識とそれが人々と社会を徐々に変えていくことだけでは山は動かない。「華氏911」の怒りの切実さに直面して、是枝氏はなりふり構わずもう一歩踏み出す何かの必要性を感じたのかもしれません。求められるのは、蛮勇を推進力として併せ持つ繊細さなのでしょうか。

                  2004年6月18日




2004年8月号

 先の参議院選挙では、小泉自公政権への批判ははっきり示されましたが、それが民主党への投票として現われ、日本共産党は議席上は惨敗し、二大政党制への流れが加速しました。直接的には、民意を歪める選挙制度や二大政党の枠内にとどまるマスコミの報道姿勢などが、こうした結果の重大な要因といえます。ただ大きくいえば、対米従属・独占資本本位の体制下でグローバル化にともなう困難さを人民各層に押し付けるという枠組みの中でしか思考できない状況に多くの有権者が抑え込まれているのだと思います。生活実感からは視野がそこまでしか届かない。棄権者が多く、批判的投票者も諦め的・消去法的に民主党へ、という状況でしょうか。日本資本主義の危機状況のなかに閉塞してしまった人々によって二大政党制は支えられていると言えましょう。

 選挙では大きな争点にはなりませんでしたが、北朝鮮の拉致問題をめぐる意識状況を考えると、時代閉塞の打開の参考になるかもしれません。北朝鮮問題は本来は国交正常化を中心とする様々な問題のはずなのですが、「国民意識」的にはもっぱら拉致問題と思われてきました。その中で拉致被害者の家族会と拉致議連の非現実的な報復主義的タカ派路線が跋扈しタブーのように扱われてきました。しかし小泉政府の現実主義的政策が一定の成果を生むことで、彼等への批判も噴出しました。もちろんこれはイラクでの人質へのバッシングと同様に「御上にたてつくものは許さない」という遅れた意識が引金になったという意味ではたいへん残念なのですが、間違った路線が見放されつつあるという側面も見逃せません。

 小泉政府は日朝国交正常化への努力という大道に立ちながらも、対米従属を金科玉条とするため、あいかわらず北朝鮮の脅威を煽って日米軍事同盟の強化と日本の軍国主義化を推進しています。北朝鮮脅威論は依然として世論の隠れた主役であるといっていいでしょう。日本国憲法の培ってきた平和意識とこれとが綱引きを演じています。この中で日朝国交正常化のもつ巨大な意義=東アジアにおける平和・繁栄の創造を人民の前に明るい展望として差し示すことが何より重要です。すでに東南アジアではASEANによって平和・繁栄の大道が開かれつつあります。日朝国交正常化を通じて、「ならず者」国家・北朝鮮が開かれた国になることと、異常な対米従属国家・日本が多少なりとも自立していくことで東北アジアでも平和・繁栄の大道が開かれ、東アジア全体の発展が見込まれます。軍事的・経済的に異常なアメリカのプレゼンスを改め、日本と東アジア諸国が対等平等な対米関係を築くことは、米軍のいない真の平和の実現だけでなく、グローバル化の下で諸国人民の生活の安定のためにも不可欠なのです。

 このように北朝鮮問題においては、当初の異常な報復主義的雰囲気から事態の一定の進展を受けてやや沈静化しました。しかし依然として北朝鮮脅威論は大きく、東アジア的規模での展望を憲法の平和主義の精神とともに世論の本流に押し上げていくことでそれを克服していくべき段階に到達したといえるでしょう。日朝間で戦争によらない問題解決を進む限り、不満はあっても対米従属の道しか知らないし、他は実感できないという多くの人々にも、東アジアの新鮮な展望が受け止められる可能性は開けていくでしょう。

 再び参議院選挙の話に戻ります。日本共産党は年金問題などでも説得力ある代案を提出しましたが、そういったものが大きく支持されるためには、対米従属・独占資本本位の現体制に代わる人民本位の国民経済の枠組みの全体像が明るく受け入れられる必要があるでしょう。次のようなことは年金だけでなくあらゆる経済問題に共通することです。「企業に負担を求めて大丈夫なのか」という疑問に、「ヨーロッパでは負担している」というだけでなく、例えば、人民生活支援の政治によって再生産構造が転換し、個人消費が主導する安定成長が実現する、というような話も重要です。ここでも新鮮な展望の実感が問題なのです。しかしあまりにもひどい現実の中にいる生活リアリストたちは「うまい話」など信じないし、実際にも簡単に「うまい話」があるわけでもありません。たとえば、環境・福祉を重視した内需循環型経済とか東アジア共同市場というようなものは現行のグローバリゼーションへのオルタナティヴとしては有効な展望ですが、具体化は容易ではありません。

 吉田三千雄氏の「『産業の空洞化』と中小・零細企業の発展方向」は金属・機械部門という窓口から中小・零細企業の深刻な現状と打開の方向を考察しています。そこで重要なのは、政府・独占資本の政策批判だけでなく、グローバル化へのオルタナティヴとして出されている諸議論についても批判的検討を加えていることです。その際に金属・機械部門という再生産構造の中で非常に重要な位置を占め、しかも輸出産業である部門を考察対象にしたことで、観念的な希望的観測ではなく現実に即した内容になっています。

 東アジア共同市場については、東アジア諸国政府が多国籍企業の社会的規制をできるかどうかという問題点を提起しています。これは今日のこの地域での発展が主にアメリカ主導のグローバリゼーションに乗る形で進行してきた以上、当然の懸念といえます。また国内での地域産業の内発的発展を重視する見解については、金属・機械部門のような輸出産業をどう位置付けていくかという問題を提起しています。いずれについても、また中小・零細企業の現状打開についても論文の中で決定打が打ち出されているとはいえないように思うのですが、オルタナティヴ構築に向けて是非とも踏まえるべき重要な論考です。

 

---------------------------------------------------------------------

 先日、島崎藤村の『夜明け前』を読みました。幕末維新という歴史の移行期、激動の時代に翻弄される人々の生き様に寄り添う作家の目は温かく、世に出ないまでも誠実にその時代を支えた草叢(くさむら)の無数の人々によって歴史は動いたことが生き生きと描かれていました。ただ意地悪い読み方をすれば、主人公、青山半蔵のような善良なインテリがそうした時代に対して無力に破滅していく様が書かれていると言えなくもない。彼は真面目に勉強し、時代の動きへの大志を抱きつつも、与えられた職務を懸命にこなす日々に追われていました。そして人々のために奔走しながらも家人からは自家を省みないと非難され、自己の経営の才のなさを嘆きながらやがて狂気に至りますが、その身の哀れさに自己を重ねて見る現代人も多かろうと思います。

 半蔵の信奉する平田派国学は王政復古の波に乗って隆盛を極めますが、欧化主義の風潮に飲み込まれて数年であっという間に凋落してしまいます。ひるがえって私たちの科学的社会主義が現代資本主義社会の本質と動向を的確に把握しえているのかということは決して自明ではなく、現実との不断の真剣勝負如何にかかっています。私たちは過去の歴史上の人物の行動を社会進歩の視点からあれこれ評価することは可能ですが、渦中にある現在の自分の行動を誤りなく定めることは簡単ではありません。たとえばグローバリゼーションとそこから派生する大競争・規制緩和・産業空洞化などの趨勢の中のどの部分に歴史の必然を見、逆流を見て、自己の身を処するのかということに日々直面しているともいえます。スウィージーの次の金言は自覚的に生きたいと願うすべての人々にとっての課題でもあります。「現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがまだその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる」(『歴史としての現代』序文)。


                  2004年7月17日




2004年9月号

 朝日新聞の経済記事はおおむね新自由主義の立場で書かれています。なかでも夕刊コラム「経済気象台」は社外の学者・経済人などの執筆で匿名・短文のせいか本音が端的に表れていて噴飯ものが多い。8月10日付けでは景気回復の実感がわかない理由の核心として次のようにいっています。かつては企業も労働者も従来と同じことをしていても利益や給与が増えたが、現在はつねに新しいことをして走り続けなければそれらは増えず、従って景気回復の実感が得られず厳しく感じる、しかしそれが現在の景気回復の実相であり実感はなくとも景気は確実に回復している。

 厳しいのは当たり前でむしろそれは進歩なのだから不満を持つのは誤りで、新しい現実をありのままに受け入れよというわけです。人々は様々に改革を言う、しかし肝心なのは解釈することである(悲惨な現実をすばらしい現実と思い直してそこに自己を適用させよ)というのか…。いろいろ言うまい。しかし一言。この筆者には、自殺者が増加し出生率が低下する、つまり人間の生とその正常な再生産さえもが不可能となったこの国の経済の非人間的な現実が全く見えていないらしい。

 勝ち犬の得意げな説教は前近代的な精神主義のスポーツに似ている。無理なトレーニングにも体を壊さずたまたま生き残った選手が指導者となり、弟子達にも無理を強要し、また生き残りが指導者となり…。「無理が通って道理が引っ込む」再生産システムにおいては、システム自体の不合理は不問とされます。多くの人々が自己実現可能なシステムを目指すのではなく、初めからごく一部の人間が生き残ればいいというシステムをよしとすることが間違っているのです。

 しかしこういう繰り言はしょせんは負け犬の遠吠え。資本主義社会の周縁にいる零細自営業者がその中心に向かってぼやけた外在的批判を投げかけても、無意味ではないにしてもあまり説得力はないでしょう。これに対して、経営学というのはまさに資本主義の現場・核心を分析する学問であり、批判的経営学ともなればそこで喧嘩を売っている、というのが人聞き悪ければ、資本を内在的に分析して正面から対峙している学問といえましょう。もっとも社会主義への体制的移行が当面の課題ではない現代においては、資本主義的企業管理を前提にして民主的規制を考えることになり、「階級」よりも「市民」が全面に出るのだなあ、というのが、特集「現代資本主義と批判経営学」を読んだ大ざっぱな感想です。

 「政府の失敗」と「市場の失敗」を踏まえ、グローバリゼーション下において、市民社会(市民的公共性)によって国家と市場を相対化する、というのが現代の市民主義の基本戦略であろうと思います。科学的社会主義の立場からもそれについては基本的に同意できると思いますが、その実効性については階級的観点からの評価が必要です。なによりも多国籍独占資本の圧倒的な組織力による市場支配・政治支配に対して、労働運動・市民運動などの劣位は明白であり、人民の圧倒的な支持と強固な社会組織力の発揮が求められます。しかし特に労働運動の凋落という現状に規定され、特集の諸論文でも、資本への内部からの規制への言及が少なく、もっぱら外部からの規制に期待せざるをえない点に弱々しさを感じます。いっこうに減ることのない企業の不祥事からは、市民的良識を嘲笑する資本家の姿が見えるようです。批判的経営学の立場からは、たとえそのような現状であっても、その現場で組織性・効率性などを実践的に学んだ変革主体が形成される、ということでしょう。私としては、資本主義社会の中心におけるそうした着実な前進を望むのですが、今のところ聞こえてくるのは周縁からの野次ばかりです。

 「経営学のすすめ」で一番感心したのは木元進一郎氏の「批判的経営学への途」です。そこでは人間にとって働くことと企業経営は切実な意義をもっていること、だからこそ人間らしく働ける企業経営への民主的変革を追及する批判的経営学が大切であることが語られています。その際に、企業経営にかかわっても人間労働力の支出=労働こそが基本的な生産力であることが強調されているのも重要です。さらに、もともと近代経済学の均衡理論に心酔していた木元氏が、戦争は経済にとって予件であるという近代経済学の考え方に幻滅して、戦争は経済そのものであると思って『資本論』に進んだというエピソードは実に興味深い。それは近代経済学とはまったく違ったマルクス経済学の社会科学性の真髄を喝破したものです。
                  2004年8月13日



2004年10月号

 座談会「現代日本とイデオロギー」での重要な論点の一つは新自由主義と新国家主義との対立・調和・相互補完という矛盾的関係の解明です。イスラム原理主義なども含めてグローバリゼーションへの反動が世界中にあり、日本の保守反動思想の活性化もその一環といえます。それはそのままでは保守派最右翼の異端派にとどまりますが、グローバリゼーションと適当に折り合いをつけることで新国家主義として主流派となり、新自由主義に対して独自の補完的役割を担います。桂敬一氏によれば、先進資本主義国では国内外ともに、勝ち組連合づくりと弱者切り捨ての動きを促し、これが新国家主義と新自由主義の調和点の内実です。アメリカの指揮下にある勝ち組多国籍連合内の他国は、盟主の押し付けに矛盾を感じつつもその枠を崩せない以上、その中で国益優先の政策に国民を統合していきます。イスラム原理主義などと異なって、先進資本主義国では新自由主義と適合的な主流派イデオロギーとしての新国家主義が成立しうる根拠がここにあるのでしょう。

 グローバリゼーション・新自由主義は通俗的には国家を超えるとか国家の役割の縮小という受け止め方をされますが、縮小されるのは福祉など人民の闘いの成果として国家に押し付けてきた部分であって、階級抑圧機能は逆に強化されます。資本主義的搾取の守護神としての資本主義国家は時代と国に応じて様々な役割を果たします。新自由主義的段階においては、むき出しの能力主義競争のもたらす「社会全体の暴力関係化」(二宮厚美氏)という社会統合の困難を前に、新国家主義が家族や共同体を持ち出してきます。新自由主義と新国家主義の矛盾的な相互補完関係がここにあります。

 日本の場合はグローバリゼーションに適合的な新国家主義を形成するにしても、その素になっている国家主義の特別の反動性と侵略戦争という前科が問題になり、支配層内での矛盾の種となります。その点で、東アジアに進出している企業にとっては日本の軍事大国化は必ずしもプラスにはならない、という五十嵐仁氏の指摘は急所を付いたものです。これに対して二宮氏の答えもよくかみ合っています。「日本の国民から見れば、日本の軍事的プレゼンスに対する東アジア諸国の反発と手をたずさえて、平和的な東アジアコミュニティ形成構想に生かすことが大切になるのだと思います」(30ページ)。二宮氏によれば多国籍企業の進出は市場拡大の側面と支配・搾取の側面があります。東アジアの支配層も発展途上国として帝国主義的秩序からの自立を求める側面と、グローバリゼーションに乗って経済発展を実現しようとする側面があります。新自由主義と新国家主義に反対する日本人民としては、東アジア諸国政府の動向を注視するとともに諸国人民の置かれた状況を理解しその運動に連帯していくことが求められるでしょう。

 グローバリゼーションと「構造改革」の下、自殺年間三万人、出生率低下に歯止め無し、という状況で、働く人々の生活困難は増大するばかりです。ここにこそ大不況の本質があり、日本資本主義は再生産の危機に臨んでいます。ここに及んでも支配層の危機感は競争力の低下、「高コスト」構造をいかに人民の犠牲で乗り切るか、ということにしかありません。しかし日本経済の再生は人々の生活の再生による内需型経済の建設によるべきであり、労働力の価値の確保の視点こそが経済分析の礎石とならねばなりません。三好正巳氏の「社会問題としての賃金 現代賃金論の構想」は労働力の価値の確保=生計費原則の立場から、原理的な価値=剰余価値論により成果主義賃金など独占資本の賃金政策を批判的に分析しています。本稿は共同研究の到達点の発表ということですので、さらなる具体的な賃金研究の成果が期待されます。
                 2004年9月18日




2004年11月号

 以前に「朝日」夕刊コラム「経済気象台」の悪口を書いたのですが、中には比較的妥当なものもあります。10月13日の「中国の現実的な政策運営」では、中国の役人や研究者たちからの聞き取りの印象が書かれています。彼等は経済成長には自信を持つとともに、様々な構造問題があることも痛感し、それらの総合的な解決のために慎重な政策運営を行っており、筆者は「中国は日本で見るより至極堅実だった」と結論を述べています。日本では中国に対するタカ派的な感情論も依然として強いのですが、経済関係の急速な深まりとともに保守的論調の中にも冷静な見方が強まってくる可能性があります。中国経済という古くて新しく巨大で複雑で多くの理論問題を提出してくる対象を見るに際して、立場は様々でも真面目な諸研究に広く目を向けていくことが大切でしょう。

 白鳥正明氏は「中国のエネルギー事情と国際協力」の中で専門外の論文執筆要請に応じた理由として、「『経済』誌に中国経済の論文が少ないという批判の投書もあ」ることをあげています。また特集の主論文「中国経済の発展と現段階をどうみるか」の筆者・大木一訓氏も労働経済論の研究者で、専門外です。大木氏は「中国問題の専門研究者もふくめ、おしなべて中国経済=資本主義論であるのには、考えさせられる」(53ページ)と述べながら自身は中国経済=社会主義論を展開しています。これらから推測されるのは『経済』誌では中国経済=資本主義論が排除されているので中国経済の論文が少ないのではないか、ということです。もしそうであれば再考を要します。

 誤解のないように言えば、大木論文そのものは力作であり優れた問題提起となっています。特に今日の中国経済=社会主義論をこのようにまとめて展開した論文は寡聞にして今まで知りませんでした。中国における資本=賃労働関係の怒涛のような発展を見ると、社会主義市場経済といっても単なるスローガンに過ぎないのではないか、もし現在そうでないとしても、この趨勢からすればやがては国民経済全体が資本主義的に純化され国家権力も資本家階級が掌握するのではないか、という危惧を私は持っていました。大木論文では、人民政府が管制高地を握って国民経済のマクロコントロールを確保し、人民生活の向上を目的とした経済運営を行っている点に社会主義的性格を見ており、将来的にはわれわれの想像を超えた「社会主義」を展望して、既成概念による安易な裁断を戒めています。なかなか説得力があるようにも思うのですが、中国経済の現状への評価には様々な立場があるでしょうし、現状そのものが複雑で流動的ですので、異なった見解も読んでみたいと思います。

 そうした中国経済体制の評価の問題以前に、今日までの経済発展の性格をどう捉え、日本経済との関係がどうなっており、いかなる日中・アジアの経済関係を展望できるか、ということが重要な問題としてあります。大木論文では、中国人民と政府が諸困難を前に粘り強く大胆に創造的な前進を続けてきたことが概観されており、改めて信頼できる隣人との共存共栄を追及することの大切さが痛感されます。しかし中国経済の影響としての日本経済の空洞化などの切実な問題については「疑問はむしろ深まるばかりである」(51ページ)とされ、解明は先送りされています。(問題点は示唆されてはいますが…)。『経済』では今後この課題への取組が期待されます。

 

 鈴木篤氏による二木立著『医療改革と病院』への書評は興味深く読みました。書評だけ読んでアレコレ言うのはどうかとは思いますが、最後の段落の言葉に引き込まれました。「著者の現状分析と将来予測は、私だけではなく、医師会・学会から官僚までも、常に注目する位置にある」(143ページ)。立場の如何を問わず全方位から注目されるこの研究者像は書評の冒頭に描かれています。「著者は、日本の医療・介護制度の動向に対し、『リアリズムとヒューマニズムの複眼的視点』で、事実認識・『客観的』将来予測・価値判断を示してきた医療経済学者である」(142ページ)。鈴木氏によれば、こうした方法に立つ二木氏は新著において新自由主義的医療改革の挫折を断定している(体制側は「抜本改革」ではなく「公私二階建て化シナリオ」を選択した)ということです。

 思うに、二木氏は左翼の教条主義と(新自由主義という名の)ブルジョア教条主義との両面批判をしているのではないでしょうか。「医療改革」におけるブルジョア教条主義の挫折の内容は鈴木氏による要約に譲ります。医療・社会保障などに限らず、革新的運動においては「あるべき論」が強調されます。現状を打破する運動ではそれは当然なのですが、そこに現状の直視と現実的見通しが伴わないと、「変革」は「願望」に留まり、動かぬ現実の前に、本音と建て前の分離が生じ、スローガンが空洞化・教条化します。おそらく二木氏はスローガン的タブーにとらわれずに、広範な現状を汲み尽くして現実的動向を探りだし、万人に利用可能な分析を提供しているのでしょう。そこから学んで変革の芽を育てていくことが大切です。

 中国問題の冒頭で、「朝日」夕刊コラム「経済気象台」に注目したのは、そこに紹介されている、経済学者・樊綱(ファンガン)氏の次の言葉のためでした。「外国人は『中国は問題を抱えている』と言えば済むが、中国の研究者や政策立案者は問題解決のための処方箋を提案・実行しなければならないのである」。中国経済であろうと日本の医療・社会保障であろうと何であれそこで現実に格闘して生まれる理論と実践は肚がすわっている。中国経済の前進や二木氏の分析成果からは既成の姿勢にとらわれない精神が感じられます。
                 2004年10月19日




2004年12月号

 大槻久志氏の「日本経済の現状をいかに把握するか」は、読者に対して研究者としての説明責任を果たそうとする筆者の気迫に満ちた論稿です。そこでは、今日の日本経済が十数年にわたる長期不況から脱し、構造変化を伴いつつ景気回復を果たしたこと、日本資本主義史上空前の金融恐慌も最終段階に入ったこと、構造変化といっても不可避なものと政策的に変えうるものとがあり、製造業の空洞化は避けなければならないこと、そのためには対米従属から脱することが必要であり、アジア共同市場を作るべきであること、などが主張されます。それらの多くの部分には共感できるのですが、以下ではいくつかの疑問点について述べます。

 論文は全体としては、対米従属からの脱出とアジア共同市場の結成へと収束していく展開となっており、それ自身はもちろん賛成なのですが、労働と生活の改善、個人消費を中心とした経済のあり方への転換というもう一面の改革方向が強調されていないように思います。日本経済が長期不況から脱出したという主張については、景気回復をどう定義するかという問題と、企業利潤の回復をもってその定義とするにしても今日の状況がそれにふさわしい状態なのかどうかという問題があります。後者については私は判断できませんので、前者についていえば、景気回復という言葉は通常は生活改善の期待を伴って使われるという点は軽視できないと思います。世論調査で政治への期待として景気対策が第一に上げられることが多い、ということはそういうニュアンスでこそ理解されます。純粋に言葉の定義の問題だけでなく、個人消費が弱い中では以前のような本格的な景気回復には至らないということも重大です。利潤の回復がコスト削減を中心に実現するということは本当の意味での経済活動の活発さにつながっていない、といわねばなりません。資本の本性という次元で景気回復を考えれば利潤の回復という定義になりますが、資本への規制を含む経済政策の次元では人々の所得の回復を視野に入れた定義が必要ではないかと思います。

 構造変化については、情報化・ハイテク化・製造業の空洞化などが上げられていますが、雇用・労働条件の悪化、つまり資本=賃労働関係の圧倒的な資本優位へのシフトも構造変化の問題として取り上げるべきだと思います。世間では情報化・ハイテク化・空洞化は不可避な構造変化だとしているが、空洞化はそうではない、対米従属から脱しアジア共同市場の形成で阻止すべきだ、とするならば、資本=賃労働関係の悪化も世間の考えるように不可避ではなく逆転すべき課題だ、ということになります。

 貿易構造は産業構造を反映し、産業構造は蓄積構造を反映します。反作用もあるとはいえ、基本線はそういうことでしょう。従って蓄積の源泉たる搾取のあり方から出発して貿易にまで至るのが正しい理論展開の方法でしょう。大槻氏は各種の国内需要を検討して、たとえば個人消費の抑制は当然の事実とするなどして、それらには日本経済の構造を大きく動かす力は乏しいので、対外関係・貿易構造に問題の鍵を見い出し、アジア共同市場へと論を進めます。それは今日の階級闘争の到達点からすればより現実的な判断なのかもしれませんが、改革の展望を考えるに際しては、国内経済のあり方が先にあるべきだと思います。その点をパスしたアジア共同市場は人々の生活を改善するか、疑問とされねばなりません。東アジア諸国の経済発展は一方では、かつての対米従属の反共軍事独裁から平和・民主主義・自立の方向に進みつつあるという意味では画期的な社会進歩なのですが、他方ではグローバリゼーションに乗る形で過酷な低賃金労働などソーシャルダンピングを武器に行われたという点も忘れてはなりません。それは発展途上国がグローバリゼーションの中で生き残るための止むを得ないやり方であったともいえるのですが、やはり人民の生活を犠牲にした日本経済と結合されるときのあり方が危惧されます。アジア全体での生活と労働の底上げという方向性がなければ悲惨な未来が待っています(日本の財界は、ヨーロッパと比べて税と社会保障に対する企業負担が少ないという批判に対して、アジアとの競争を理由に開き直っていることを想起すべきです)。誤解のないようにいえば、各国の経済を民主化した後で初めて共同市場に進もうというのではなく、共同市場の形成にあたっては各国政府ならびに資本の動きだけでなく、各国人民の生活と諸運動の中にも発展方向を探る視点が欠かせないと思うのです。

 論文では農業と土地所有の問題は割愛されています。そこでアジア共同市場において各国が何を生産し何を生産しないかという協議の中身が気になるところです。大槻氏が資本の蓄積運動と国民経済との矛盾を指摘しているのはきわめて重要です。世界企業にとっては海外子会社を含めた連結決算で最大利潤を得ればよいのであって空洞化は問題ではありません。しかし空洞化で貿易赤字が累積しては国民経済はもちません。アメリカと違って基軸通貨特権を持たない日本が国内製造業を堅持すべきことはまったく大槻氏の繰り返し力説する通りです。それでは農業はどうなるか。食糧自給は一国の存立にとって根本的な問題であり自然環境の維持も重要です。日本農業を「高コスト構造」の最大要因として切り捨てることは大変危険です。

 いささか脱線するのですが、一般論としていえば、新鋭産業が在来産業を凌駕してリーディング産業となる形で構造変化は繰り返されてきました。最先端のリーディング産業の発展こそが経済繁栄のバロメーターとされます。しかし在来産業の多くは依然として生活と国民経済の維持にとって必要なものとしてあります。情報通信や金融の先端部分は世界的規模で剰余価値を取得し、そのメッカであるアメリカが世界資本主義=グローバリズムの中心にあります。製造業も世界展開をしているとはいえ、業種による違いも様々ですが、情報通信や金融の先端部分と比べれば、より各国民経済に腰を据えた活動をせざるを得ません。自然と人々の生活により密着した農業は本来さらにグローバリズムには遠い位置にあります(多国籍アグリビジネスの世界展開が様々な病理を生み各国農業を歪めていることはそれを反証している)。こうして見ると自然・人間・地域からの自由度の増大に応じて資本の本性の全面的展開が進み、次々と先端産業を生み出していくようですが、それは同時に腐朽化の可能性を広げるものともいえます(もちろんそれは民主的グローバル化の可能性をも広げますが潜在的なものに留まっています)。資本主義の歴史的発展によるそうした産業展開が今日の重層的産業構造に結実しており、それは同時に不等労働量交換の重層的体系を形成しています。

 置塩信雄氏の『マルクス経済学』第2章「価値の測定」では、通産省編『日本経済の産業連関分析』を用いて1951年における産業諸部門間の不等労働量交換を析出しています。それによれば「農民約4人が働いて得た生産物と化学工業での1人の生産物とが交換され」(90ページ)ていました。最近の先端産業と農業などによる同様の分析は残念ながら知りませんが、もっと差が大きくなっていることが予想されます。同一労働時間が生み出す価値は同一であるという観点に立てば、置塩氏がいうように農業と化学工業との間には著しい不等価交換が成立しています。ところが官庁統計の作成意図ならびに世間の常識ではこれは労働生産性の差とされます。それに対する同ページでの置塩氏の反論はここでは措きますが、労働価値論的にも両者の差を労働の複雑度の差による価値形成力の差と解釈することも可能かもしれません。しかしともかく現実の投下労働量の次元では不等労働量交換が成立していることは確かです。つまり先端産業の繁栄は自部門内での搾取のみならず他部門との不等労働量交換によっても支えられています。現実の生産過程から出発するならそのように見るべきです。逆に市場経済を等価交換の体系として絶対視すると農業などは非効率産業とされそこでの投下労働の多くが無駄とみなされます。自然・生活・地域との密着度に応じて投下労働量も変わってくるのであり、それらの労働の総体が国民経済ひいては世界経済を形成している現実に照らせば、グローバリズム=「構造改革」のように先端産業の視覚に一面化して産業効率・労働生産性を語るのは誤りです。所得の再配分によって不等労働量交換の結果を緩和し自然・生活・地域のバランスある発展を図るのが本来の経済政策の目的でしょう。「構造改革」の経済政策は逆に不等労働量交換を加速して社会不安を助長しているのです。確かに産業諸部門間の不等労働量交換は産業構造「高度化」のインセンティヴとなりますが、それが創造的破壊ならぬ生活破壊を招く場合もありえます。問題は産業構造「高度化」は自己目的化されてはならず、人間生活にとっての意義を見極めて選択的に行われねばならないということです。その際に理論的には、産業諸部門間の労働生産性の格差、効率・非効率という観点から出発するのでなく、現実の投下労働の同等性と市場での不等労働量交換という観点から捉えることで、在来産業の切り捨てという結論が前提されるのを防ぎ、生活擁護の余地を残すことが大切です。

 産業構造の問題を通して人々の生活・労働などを考えていくと、経済と経済学は何のためにあるのか、というところに行きます。「シンポジウム・社会福祉の役割と社会連帯」の中で唐鎌直義氏が、イラク戦争の死者よりも多い日本の自殺者数を指して「武器の見えない戦場」と喝破し、ワークシェアリングによる諸問題の解決を妨げる低福祉政策のメカニズムを解明し、逆転の構図を対置していますが、経済学の面目ここにあり、と感じました。このように人間らしい経済のあり方の追及は、一方ではマルクス主義者の一部や新自由主義者が持つ生産力主義への批判を必要とします。他方では経済学的ロマン主義に陥らないために、巨大企業の達成した生産力を批判的に継承する視点が必要になります。大西勝明氏の「電子機会工業の現況」と井上秀次郎氏の「情報化と企業経営」では、ともに厳しい競争によって発展していく先端産業の実態の具体的分析とそこでの矛盾、社会変革の客観的条件と主体的条件の展開が論じられています。しかしやむをえないことではありますが、現状分析のヴィヴィッドさに比して変革の可能性への言及は抽象的・萌芽的にならざるを得ません。先端産業とは逆に沖縄経済の「後進性」を評して来間泰男氏はこう述べます。「人間味がある、やさしいなどと評される気質は、同時にルーズさであり、がんばりがきかない気質のことなのである。すぐ仲良くなるという人間関係は貴いが、決して経済活動での共同を生み出す力になっていかない。人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない。したがって、この課題は沖縄の課題であるとともに、日本の課題であり、人類の課題であると考えている」(「米軍基地と沖縄経済」『経済』1996年1月号所収、116ページ)。この難問を意識しないところには経済学は存在しない、と私は考えます。

 グローバリゼーション=「構造改革」が貫徹され新自由主義が跋扈する中で、人間的経済は空想なのか、そのグローバルな現実的基盤はないのか、と問うとき、「もうひとつの世界は可能だ」を掲げる世界社会フォーラムのような運動がまず思い浮かびますが、制度的・機構的足掛りとしては国連のような国際的諸組織があり、中でもILOが重要です。グローバリゼーションは土台から上部構造・イデオロギーに至る社会全体の世界的「構造改革」として貫徹される現実主義であり、それへの部分的挑戦(一部の分野とか一部の地域での)を非現実主義として葬りさる全体的体系です。その現実主義を支えるのは資本の強固な組織力に基づく社会への支配力です。しかしそれは資本の本性としての労働者の生存権の否認と自由競争崇拝というブルジョア教条主義の現実への押し付けであり、人民の労働と生活を破壊するという点に究極の非現実主義を抱えています。したがって資本に合わせた労働の破壊ではなく、労働に合わせた資本の規制がグローバリゼーションへの根本的オルタナティヴの出発点です。そういう意味で、本号、「世界と日本」の宮前忠夫氏の「ILOの研究調査結果」とやはり宮前氏の『前衛』11月号「本格化する『公正なグローバル化』への世界的挑戦 ILO世界委員会報告の特徴」において見られるILOの掲げる「ディーセント・ワークのグローバル化」は問題の核心をついています。経済効率の指標に支配されるグローバリゼーション的世界像に対して、労働者の雇用・所得・職場の安全などを含むILOの「経済的安全保障指数」は「もうひとつの世界」を生み出すべき基準を指し示したものとして世界の人々の目を開かせるものです。「研究調査」では日本のカローシやトヨタ・システムが厳しく批判されています。本誌、黒田兼一氏の連載「ミシガン便り」でトヨタ・システムがアメリカをも(つまり世界を)席巻したことを知りましたが、それだけにILOのこの指摘はきわめて重要です。もちろんILOは労働者階級の組織ではなく、政府と資本の代表も含まれておりそれだけに限界もあり、日本の財界の代表がまったく逆行するような発言をして得々としているようなこともあります。しかし政労使三者でグローバル化の社会的側面、公正なグローバル化に合意し世界に問題提起したことの意義・権威は非常に大きなものがあります。EUがILOに歩調を合わせていることはILOの提起の現実性を増大させています。ただし依然として厳しい現実もあります。やはり宮前氏によると思われる本号のコラム「暗黒の木曜日」では、ドイツの自動車産業における人員削減が取り上げられ、「大企業の横暴とシェア拡大競争を放置したままでは、『欧州社会的モデル』の維持・発展が困難になっている危機的な現状」(131ページ)が報告されています。労働者による厳しい階級闘争があって初めて公正な議論が支えられるということでしょうか。
                 2004年11月22日


                                月刊『経済』の感想・目次に戻る

MENUに戻る