これは2001年5月15日に『経済科学通信』編集部宛に送った感想文です。 |
『経済科学通信』95号(2001年4月)の感想を電子郵便で送ります。
文中、敬称略です(掲載論文のトーンとの協調のためで他意はありません)。
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私は駄文をいくつか書いてきたが、今回ほど気分的なものは書いたことがない。それだけに本音も理論水準の低さも暴露されてしまっている。研究者は根拠の定まったことしか書けないだろうが、素人にそれを要求されると一行も進まなくなる。『通信』は研究者だけでなく一般国民にも開かれているのだから、その気分を受け止めるのも編集者の使命と思っておつきあい願えるとありがたい。
本号を通読するのは苦痛だった。それはまず自分の無知無能を今さらながらに改めて思い知らされることであった。諸論文がなかなか理解できない。
次いで自分がこれまでマルクス主義と信じていたものが実はスターリン主義だと知らされ、さらにはマルクスの論理そのものがマッチポンプ的な壮大な虚構の体系であることを知らされることになる。
しかし30年近くに渡ってマルクス主義者と思い込んできた頑迷な素人は、こういうのはアカデミズムの詐術ではなかろうかと疑うことになる。自らの教科書的知識の貧弱さを棚に上げても、そう思って生きてきたという事実の重さにしがみつくことになる。
マルクスそのものを否定する論者は別としても、通説の凡庸さと誤り、そして自らの解釈の独創性と正しさを強調する(「自分だけが真のマルクスを見い出した」)ことは、マルクスを飯の種にする研究者の常套手段である。
どうもこういうひねくれた先入観があるので、ただでさえ読解能力が低いのに、論文に内在しようという意欲がいま一つになる(「またか。狼少年にはもう付き合えない」と)。
しかしそういいながらも何とか読むには読んだ。実は、たまたま富永健一『現代の社会科学者』(講談社学術文庫)を七割方読んでいたところに『通信』95号が届いたのだった。富永の推奨する実証主義は如何にも底の浅い議論だと思うが(要するに「ヘーゲルなんて訳のわからないことをいっている」という話)、かといってその単純明快さを批判する術も自分にはなかった。それだけ実証主義にとらわれているということなのだろう。
富永を中断して『通信』にかかった。実証主義批判を期待しつつ。確かに個々には鋭い指摘がある。たとえば「ここでは理論はあくまでも主観的仮説的であって、対象はあくまでも直接的事実的である。直接的事実の直接的採用(決断)によって仮説的理論は暫時的な正当性を獲得する。……」(有井論文20ページ)など。だが、これは私の読解力の貧困のせいか、まとまった形で批判が与えられているようには見えない。角田論文ではこの点については焦点が定まっていないようだし、有井論文はもっと包括的に解明しているのかもしれないが、私の知りたいことに対しては迂遠に思える。
ところが実証主義批判どころか実証主義の立場からのマルクスのラディカルな否定が揚武雄「マルクス解読」である。マルクスを読んでいれば、この論理の全体を虚構として否定する立場もありうるだろう、と予感はしていた。勉強不足でそのような議論に実際に出会うことはなかったのだが、思いがけず『通信』がその場を与えてくれた。
気分としてはラディカルに帰り討ちにしたいのである。もちろんそれができないのが素人教条主義者の悲しさである。見田シューレの俊英たちや有井行夫などにそれはお願いするとして、私としてはいくつかの気がついた点を述べるとしよう。
冒頭の「マルクスは問題提起の達人であり゛謎解き″の名人である。問題提起の鋭さに加えて解決の鮮やかな手並が示されるとき、現状に批判的・否定的心情を持つ人々は彼の変革の情熱の虜になり、彼の批判的精神の信奉者になる。保守主義に批判的な潮流の基底に各様に解釈されたマルクス主義が顔をのぞかせるゆえんである」という言葉は、もちろん「マルクス信仰」への揶揄である。「問題提起の達人」かつ「゛謎解き″の名人」とはマッチポンプということに他ならない。
しかし、はしなくもここには理論に対するイデオロギーの優位が語られている。アカデミズムの論理からすればそれは唾棄すべきことであろう(実利によって「真理」をゆがめること)。しかし唯物論的存在論の見地からはそれこそが野太い事実ではなかろうか。マルクスが何度となく死亡宣告をされても蘇るというのは、我々は理論が正しいからだと思っているのだが、それ以前にマルクスを必要とする人々がいるということでもある。これはあえていえば仮にマルクスが間違っていようが、それに代位する理論は必ず現われるということである。理論が間違っているから「現状に批判的・否定的心情」にはそもそも根拠がない(「何を理屈にもあわない甘い泣き言を並べているのだ」)、というのは観念論である。「現状に批判的・否定的心情」とは恣意的感情ではなく、現実の矛盾の表現である。それは理論に先行する。そこに思い至らず理論の空中戦が地上を裁断できると思うのは書生論である。マルクスの誤りに「気付いて」すぐさまブルジョア理論を採用できたり、反動的立場に移行できるのは、生活にも現実にも根付いていない書生だからである(もちろんこれは一般論をいっているのであって、筆者の立場に予断を持って臨んでいるのではない)。
実際の理論史としては「現状に批判的・否定的心情」に応えるのにリリーフ登板とはならず、マルクスの見直しによる復活的続投が繰り返されてきた、ということだろう。理論の当否は別としてもマルクスの大きさがそうさせる。
ところで生活の要請・階級的立場というものを何か学問の外のもの、それを不純にするものと考えてはならない。学問もまた人間的実践の一部である以上、それは学問の存在根拠そのものであるとさえいいうる。もちろんこのことは「学問がイデオロギーによって歪められ」てもよいというのではない。一見、「立場」に沿うような「理論」を安易に並べても現実を把握できなければ、結果としては生活の要請には応えられないのである。安易な道はなく、現実に密着する地道な努力が必要である。それを指して俗には「脱イデオロギー」というが、そのような研究態度は理論に対するイデオロギーの究極的優位ということと矛盾しない。
揚論文の一つの眼目は「上向法」を非科学的・非実証的方法として否定することであろう。私は寡聞にして、上向法が実証無用の自己完結的な万能の方法だとは知らなかったので、この肝心な論点については沈黙するほかない。私が気になるのは、そこで科学の実証的方法の観点から、マルクスの「事物の゛内的連関″の暴露」が否定されていることである。しかし「実証」と「事物の゛内的連関″の暴露」とは機械的に対置すべきものではなく、次元の違うものではないか。実証とは理論と現象とを突き合わせることだが、理論はその上さらに「事物の゛内的連関″の暴露」=本質の解明を目指すものではないか。それを形而上学として拒否するのが実証「主義」であろう。
今日の長期不況において物価の下落が問題とされている。ここにたとえば、一年ないし数ヵ月前より「この現状と政策の下では、物価下落が続く」という理論があったとすれば、今日それは実証されたといえる。で、今の状況をデフレと規定するかどうかは物価下落の本質の解明の問題である。実証主義の近代経済学ではデフレかどうかは単に物価の量的問題であり、今日の事態はデフレと規定される。マルクス経済学では通貨の問題と実体経済の問題とが区別され、今回の物価下落の原因はデフレではなく、不況による需給ギャップであるとされる(と私は思う)。こういう議論は近代経済学からは形而上学と見られようが、資本主義経済をその重層的構造において捉えるという科学的見方の不可欠の一部分である。
この理論の問題は政策とつながる。デフレならインフレで相殺しようということで、日銀はインフレ政策に踏み込んでいる。実際には実体経済の不況の表現である物価下落に対するのに、通貨の操作で物価を維持しようと臨めば、実体としての再生産の萎縮はそのままに名目価格が復帰するだけである。この間違った政策ではなく、デフレ規定を排して実体経済、特に個人消費への梃入れこそが必要である。このように経済の本質の解明は決して形而上学ではないのである。
揚論文の文脈とはあるいは関係ない議論となってしまったかもしれない。しかしそこではマルクスの方法が如何に通常の科学の方法とはずれており、しかもそれが不毛であるかが説かれているので、反証例を出してみたのである。
揚武雄はマルクス価値論・貨幣論の意義を否定するのに貨幣名目説・法定説を持ち出している。なるほどそんなに簡単に貨幣論が済ませられるのなら、あの難解なマルクスの議論など無意味であり、逆にわざわざそんな議論をするのはよこしまな片寄った意図が隠されているに違いない、マルクスはマッチポンプだったのか、ということにもなろう。これは教科書丸暗記型のマルクス主義者、そういう手合いをへこませるには十分である。かくゆう私もそういう手合いの一人だが、ない知恵をしぼってみたい。
国家が貨幣を創出することはできない。国家は市場経済の現状を追認してそれを法定するだけである。ソ連崩壊で国民経済も崩壊したロシアではルーブルが流通せず、ドルが流通したり物々交換が出現した時期があるのはその証左であろう。貨幣が自然発生するのに何でもよいということにはならない。ポルポト政権崩壊後の市場経済の復活に際しては米(価値を持った商品)が一般的等価物の役割を果たしたのである。取引関係者の知恵によって貨幣が生み出せるというのは、無政府的な商品経済を共同体的関係と錯誤しているのである。不換銀行券の流通という現象にとらわれて貨幣の本質と発生を見失っているのである。それは商品の価値性格から導出するのが正しい。
このように見れば、マルクスの価値論・貨幣論の意義を俗論で否定するのが誤りであることがわかり、むしろマルクス=マッチポンプ説の方が怪しくなる。
取引関係者の知恵から貨幣を導出してくるような議論にも見られるように、揚論文で特徴的なのは個別経済主体の意識から出発して社会が形成されるかのような議論である。逆にその意識ではすぐには捉え難い法則は神秘的なものとして否定される。しかし物象が主体となり、人間が従属しているというのは神秘的な作り話であろうか。むしろそれなくしては資本主義社会の現象は説明できない。たとえばカローシ、生命保険自殺という社会現象は個人の意識から説明することはできない。確かに誰も自らの意志に基づいて動いているのだから、個人の意識から説明するのは俗耳に入りやすいが、それは科学ではない。予想も望みもしないことを経済法則によって強制される。それを解明するのが科学である。揚武雄の視点は、自分の才覚を恃みに市場に投企する資本家のそれであろう。これは科学から日常生活の宗教への後退である。
揚武雄は『通信』にこの力作を載せるに当たって相当の覚悟を持って学問的良心を掛けているに違いない。それにふさわしい検討が行われることを期待する。特に数理経済学者がどう考えているのかが興味深い。
松尾匡「数理マルクス経済学の到達点と課題」について一点だけ触れたい。有名なクーゲルマン宛の手紙に従って労働価値説を「総労働の配分として、経済システム全体をとらえること」とまず押さえることには共感する。しかし「個々の商品のどこかに凝固した『労働』なるものがその価格を規制するというようなドグマ話とは無縁である」という主張には同調できない。ならば総労働の配分はどうやって行われるのであろうか。確かに個別商品への投下労働が直接にその市場価格を規制する訳ではないだろうが、まったく無関係であったら再生産は不可能であろう。現実の個別具体的な投下労働から出発して、資本主義経済の重層的な構造に基づく様々な偏倚を経て市場価格に到達する価値論の体系が構想されるべきではなかろうか。
大西広「20世紀のマルクス経済学と新世紀の課題」は衒学趣味のない率直な文体で端的に問題を提起する。そして今どきの知的ファッションとは無縁な生産力第一主義、技術決定論、階級社会論を奉じている。これが真のマルクス主義でしかも正しいのなら誠に単純明快で慶賀すべきことである。しかし私は階級社会論には賛成だが、生産力第一主義、技術決定論には反対する。私にとっては理論以前の問題がある。私はプロレタリア以下的半失業的自営業者であり、今日では新自由主義が代表する生産力第一主義によって存在自体を否定されようとしている立場にある。従って大西いうところの左翼の弱者救済主義に賛成する。
これはレーニンの否定した経済学的ロマン主義のように見える。つまり没落していく階級が発展しつつある資本主義に浴びせる後ろ向きの(従って反動的な)批判ということである。しかしもはや現代の資本主義は人類が生産力発展を託せる進歩的な歴史段階にはない。それが押し進める今日のグローバリゼーションは共産党宣言のいう封建制を打ちこわして進む文明化作用と同一視するわけにはいかない。グローバリゼーションが歴史の必然としての世界の一体化の側面を持つことは確かだが、それは半面にすぎない。グローバリゼーションが実はアメリカナイゼーションだという点は措くとしても、それは人間の生存権の否認と経済のカジノ化をもたらし、今日の資本主義の反歴史的性格をあらわにしている。人間を最大のコスト要因=経済の妨害物とみなすリストラ的資本蓄積様式こそが今日の資本主義の生産力の性格を雄弁に物語っている。
もはや自由競争による生産力発展を人類の主要な課題とするのは時代錯誤である。むしろそれを適切に管理する生産関係をつくりだすことが重要である。「経済のための生活」から「生活のための経済」へ。もちろん今日では革命によって一夜にして実現できることではない。逆にグローバリゼーション吹き荒れるなかでも、人間を主人公にした経済に向かう世界中の人々の地道な努力は続けられている。そこでは小経営も積極的位置を与えられている。内橋克人『共生の大地』などでそれらは紹介されている。
マルクスは啓蒙思想家やヘーゲルから、働く人々の労働と生活がより自由により豊かになるということを人間の歴史の核心として批判的に継承したのではないか。生産力発展をその起動力として指摘したことがマルクス独自の貢献であることはいうまでもないが、そのことは生産力フェティシズムを正当化することにはならない。資本主義は後にも先にも経済活動と生産力発展を自己目的化した、従ってそういう人間像を自然とするイデオロギーを創出した唯一の時代であろう。だからこそ生産力の重要性が発見されたのだろうが、それだけでなく、生産力が人間発達の手段として意識的に管理される社会像への模索もまた始まったのであり、人間の自由の拡大という歴史観がその前提にあるのだろう。
最後に
提起しないことには答えようもない、ということからいって研究者は初めの問題意識のあり方を大切にしてほしい。「人は深く感じないことはよく考えもしない」(島田豊)のだから、具体的に働く人々のそばにいてほしい(基礎研の人々に釈迦に説法か)。マルクス主義者ならどのような立場の人にも負けないデモクラットであってほしい。そして今を変える意志を持ち続けてほしい。そういうことを私の拙い言葉でなく他の人々の素晴しい言葉で伝えたい。
ただ残念なことに、現在の規制緩和一辺倒論は、なまじ経済学の装いをもち、あるいは経済学者が主導しているがゆえに、一見、理路整然としている。そのために、当事者はどう反論してよいか分からず、面とむかって声を上げるのも難しい、という状況にあり、現場の人びとは、既得権にしがみつく守旧派扱いされても反論できなくて、本当に悔しい思いをしているわけですね。
内橋克人 『世界』1997年8月号 P132
この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間」を見ず、時流に便乗し世の中を見下して。「市場が淘汰する」なんて、どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に比べ、なんと軽薄な。
なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。
内橋克人 「朝日」夕刊1999年5月21日
「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。
堀田力「憲法違反な人」 「朝日」夕刊2001年5月1日
(関連的なコメント)「個の自立」ということを「市場に投企する強い個人」という意味でなく、「市民的連帯に支えられて自己の意志を貫ける個人(弱い人かもしれない)」という意味と考えたい。
現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。
スウィージー『歴史としての現在』