これは1999年の作で、雑然とした内容ですが、川上則道氏の『「資本論」で読み解く現代
経済のテーマ』(新日本出版社 2004年刊)の43ページに言及されていますので、そのま
ま公開します。
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同文をPDFファイルで公表します。
zeroseichounokokuminshotokuron_0009_merged.pdf へのリンク
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l
ゼロ成長の国民所得論
−国民所得と労働価値論−
初めに
価値と使用価値との区別は経済学のイロハですが、従来マルクス経済学による現状分析
では国民所得を扱うに際して、多くの場合その点は明示的ではなかったように思います。
もちろんそこには政府統計の性格上の制約があり、現状分析の課題に応えるのに通常は価
値論まで下向する必要がないという事情もあったでしょう。しかし今日では国民所得につ
いての価値論的反省が求められているのではないでしょうか。高度経済成長が終わり、資
本主義の矛盾が深まり、私達の生活の豊かさとは何であろうかという問いが切実になって
います。そこでは国民所得を中心とした豊かさの指標の重層的体系が求められています。
価値と使用価値との区別はその体系を作る際に最も基礎をなすものであり、そこからは現
代資本主義の歴史的性格を考える手がかりも得られます。以下では、今日の日本と世界の
資本主義の歴史的現実が呼び起こす、国民所得論への問題意識を先行させつつ、その基礎
的解明の試論を提示したいと思います。そこでのカギは次の初歩的命題です。<生産力一
定のもとでは価値量と使用価値量とは比例し、あたかも物量の増大それ自身が価値量の増
大のように思われるが、労働生産性が上昇する場合には価値量と使用価値量とは逆方向に
運動するのであり、ここでは価値と使用価値との区別の必要性が容易に理解される>
不況の克服と国民所得・経済成長
バブル崩壊後の長期不況の克服をめぐっては、短期的視点と長期的視点とから様々な論
争があります。今どうやって景気を立ち上げるかという短期的視点の最大の焦点は消費税
率の引き下げです。その景気拡大効果はもはやだれも否定できず、反対論者は将来に渡っ
て高い消費税率を確保する必要から現在の引き下げを拒否しています。この高い消費税率
の実際の狙いは大衆課税と大資本減税という階級的収奪政策ですが、究極の口実として自
民党政府などが持ち出してくるのが高齢化社会危機論です。この議論の労働力人口論での
トリックは国会などでも論破済みですが、もう一つ経済成長論からの批判もあります。
このような社会的労働時間の減少にもかかわらず、社会を支えることができるわけは労働
生産力が増大するからである。労働生産力が増大し、単位労働時間当たりますます多くの
富がつくりだされるならば、より少ない労働人口によってより多くの扶養人口を支えるこ
とも可能となるわけである。
ところで年々新たにつくりだされる富は、国民所得という形で測られる。経済年齢人口
が減少してもそれを埋め合わす労働生産力の増大、「一人当たり国民所得」の増大が続け
ば、国民所得総額(実質)はプラスの成長をとげる。高齢人口の膨張による社会保障負担
の増大が、この国民所得総額の成長の範囲内であれば「高齢化危機」は生じないわけである。
林直道「高齢化社会論の基本問題」(『経済』98年9月号、P79)
政府は生産年齢人口の減少を騒ぎ立てているわけですが、林氏は生産力増大による経済
成長で克服できるとしています。ここで注意すべきは、政府は投下労働時間を問題にし、
林氏は富の増大で応えていることです。つまり政府は国民所得を価値量(その実体は投下
労働量)次元で、林氏はそれを使用価値量次元で捉えています。
高度成長期には日本資本主義はいわば外延的発展を示し、農村経済を全面的に資本主義
に取り込み、労働力人口・一人当り労働時間も増大し、年間国民総投下労働時間は増大し
ました。その上、生産力も非常に発展しました。こうして日本の国民所得は価値的にも使
用価値的にも著しく増大しました。しかし現在は労働力人口は伸びず、労働時間の短縮が
課題となっています。おそらく年間国民総投下労働時間は増大しなくなるでしょう。なら
ば国民所得は今後傾向的に価値的にはゼロ(orマイナス)成長になっていくでしょう。し
かしこれは何も悲しむべきことではありません。前記林論文では総労働時間の減少を社会
進歩として捉えています。生産力が発展すれば使用価値的には経済成長が実現され、私達
の生活を支えていくことは可能です。このような段階の歴史的意義についてはまた後で述
べたいと思います。
国民所得・経済成長と生活の豊かさ
長期不況の克服論に戻りますが、「消費飽和論」というのがあります。消費不況だから
消費を喚起せよというが、もう国民の消費財は足りていて、これ以上の消費は望めない、
というわけです。現実には食費の節約までが行われており、この議論が当っているとは思
えません。しかしこの議論にはバブル期の奢侈的消費やさらには大量生産=大量消費型社
会そのものへの反省が込められています。その限りでは傾聴に値します。すると長期不況
の克服をめぐる長期的視点に話が移ります。消費税率を引き下げたり、社会保障の改悪を
止めるなどして、当面の景気を回復させるだけでなく、その先の展望が必要です。
ケインジアンの吉川洋氏は、長期不況の原因は金融ではなく実体経済にあり、問題の出
発点は70年代初めの高度成長の終焉にある、としています。その時点で住宅、都市インフ
ラ、学校、病院などへの潜在的な需要を顕在化させる政策が取られず先送りされ、輸出と
バブルで時を過ごし、今日の破綻を迎えました。「経済成長の目的はわたしたちの生活を変
えることである。したがって長期的な成長の牽引車はわたしたちがどのような生活を望ん
でいるかというビジョンにほかならない」(「朝日」夕刊、98年10月20日)。
立場・観点は対蹠的ながら、マルクス経済学から金融を分析した砂原一雄氏(小西一雄
氏と思われるが)も、今日の危機の出発点を70年代初めとし、マネーゲームを規制して、
金融機関の社会的責任を果たさせ、実体経済へ資金を供給するように求めています(「『
カジノ経済』は資本主義をどこへ導くか」『前衛』98年9月号)。
高度経済成長が終わった時点で宿題を果たさず、外需依存やバブルなど、生活小国型の
歪んだ資本蓄積構造を続けてきたのが破綻したわけですから、実体経済と国民生活に視点
をおいた改革が求められます。その際、巨大プロジェクト型公共投資依存や大量生産=大
量消費型経済も反省せねばなりません。資源・エネルギー・環境問題を考えると、国民経
済の価値的成長のみならず使用価値的成長にも制約が必要です。その点では極めてラディ
カルな主張があります。
資本と人口のゼロ成長状態は、人間的進歩のゼロ成長を意味するものではないことは、言
をまたない。そこには従来と同様、あらゆる種類の知的文化と、道徳的ならびに社会進歩
の可能性がひらけていよう。また人々の心が、ともかく先へすすむことばかりにとらわれ
ることがないようになれば、生活の内実を豊かにする余地もあり、それがさらに改良され
る見込みはいっそう強まるだろう。
J.S.ミルのこの言葉を肯定的に引いた後、都留重人氏は続けます。
生活の質、生活の内容を、GNPの成長で測るのではなくて、もっと内実的なもので測る。
そしてそれこそ、新しい文明を創造することになるのですが、市場の采配を規範的に考え
る自由放任主義の経済制度のままでそれが可能であるかどうか、私たちは真剣に討議する
必要があると思います。
「環境・公害問題にどう取り組むか」(『経済』98年1月号、P67)
先ほど私は今後傾向的に価値的にはゼロ成長ではないか、と書きましたが、都留氏は使
用価値的にもゼロ成長を想定し、その中での生活の内実の豊かさを主張しています。その
ゼロ成長が好ましいか否か、あるいは可能か否かは別として、ここでいわれる生活の豊か
さを示すGNP以外の指標は必要でしょう(従来その試みが十分に成功していないとはい
え)。それは国民所得の価値的・使用価値的表現と重ね合わせて、国民生活の豊かさを示
す重層的な指標体系を形成するでしょう。
自己増殖する資本の論理に対して、暉峻淑子氏は生活の論理を対置しています。
人間の生活にとって金やモノは、本来、生活に必要なだけあればよい。人生にとってカネ
は目的ではなく手段です。
「まともなルールが必要な日本の社会」(『前衛』97年11月号、P69)
あるいは、フランスの左翼政権の誕生に対して、ニューヨーク・タイムズが「世界的な自
由市場の流れに逆らうドン・キホーテ」と決めつけたのに対して、ルモンドが反論します。
問われている命題は面白い。市場か、それとも人生かである。フランス人が追い求めるの
は市場ではなく人生である。市場もそれはわかっている。
「朝日」天声人語 97年6月23日
図解すればこうなります。
![]() |
生活の論理を左に、それを表現する諸指標の重層的体系を右に図解しました。
本来、大目的は生活であり、その大手段として市場があります。市場では小目的として
モノがあり、小手段としてカネがあります。生活の論理としてはそうなりますが、現実の
資本主義経済では、この目的と手段は逆転し、生活は市場によって規定され、モノはカネ
によって規定されます。価値増殖を発展の推進力とする資本主義経済では、本来、小手段
に過ぎないカネが大目的となります。
価値・使用価値視点から見た資本主義の現段階
ところで70年代初めにおける高度成長の破綻、過剰資本の構造化に端を発し、今日の
20世紀末大不況に至った現段階を、この価値・使用価値の視点から見るとどうなるでしょ
うか。大競争時代における規制緩和・金融ビッグバン・大企業合併は、過剰資本の整理を
伴うリストラ的資本蓄積様式といえましょう。旧「社会主義」体制の崩壊、アジアなどの
新興地域の登場は「市場拡大の時代」をもたらし、世界資本主義の矛盾を緩和する役割を
果たしていましたが、グローバリゼーションとカジノ化の急速な進行はそれを乗り越えて
今日の危機を招きました。過剰資本の構造化に対応して、リストラ的資本蓄積による価値
破壊も景気循環の一局面に留まらず構造化しました(例えばそれは先進諸国における高失
業率の定着に表現されています)。こうして資本は、人類史に対する資本主義段階存在の弁
明理由<価値増殖の追求による富の増大と生産力発展>に背く動きをしています。確かに
利潤・効率追求によって結果的に生産力発展は実現されていくでしょう。しかしそれは価
値増殖の行き詰まり、価値破壊の進行、物量の増大の停滞、そして何より生活・環境破壊
を伴っており、その反歴史的性格はおおいようがありません。こうして見るとリストラと
カジノ化の進行は資本の自由な政策選択の結果ではなく、それなりの歴史的必然と言えま
す。価値増殖の停滞下でなお利潤としての価値を追求しようとするとそうならざるをえま
せん。リストラは労働から資本への価値収奪であり、カジノ化はゼロサムゲーム下での価
値争奪戦に他ならないからです。
先に都留重人氏は「市場の采配を規範的に考える自由放任の経済制度のまま」では「新
しい文明を創造すること」ができないことを示唆されていました。これは価値の追求によ
る資本主義の限界を指摘したものともいえます。これに対して「新しい文明創造」の芽を
「非営利・共同」に求めることができましょう。「これは、利潤追求の結果として使用価
値を実現するという市場のやり方とはちがい、使用価値そのものを目的にして実現すると
ころに特徴があると考えます」(<座談会>「非営利・共同」の探求、『経済』99年1月
号、P116)。もちろんこれはあくまで芽であって、国民経済や世界経済のレベルで私たち
は資本主義市場へのオルタナティヴを持っているわけではありません。しかし価値次元で
ゼロ成長という歴史段階的特徴の上に、リストラ的資本蓄積の嵐、カジノ化、情報=金融
帝国主義による諸国民経済・実体経済の収奪という寄生性・腐朽性を伴った資本主義は、
客観的には歴史からの退場を迫られているのです。無規制な価値追求による生産力至上主
義的にではなく、使用価値の適切な分配(そこでは価値を規制的に利用する必要があると
はいえ)により、生活の豊かさを目指せる歴史段階にあるのです。人類の経験と英知が必
ずやそれを切り開いていくでしょうし、今日の私達の苦しい歩みもその一部であるに違い
ありません。
国民所得・経済成長における価値量と物量
以上では長々と国民所得論における価値・使用価値視点の意義を述べてきましたが、観
念的な大風呂敷を広げ過ぎたという気もします。以下では国民所得を価値的・使用価値的
にどう理解するのかという問題そのものを(極めて単純な発想ではありますが)多少なり
とも理論的に追求したいと思います。インフレと生産力発展を考慮に入れて、政府統計の
国民所得概念の労働価値論的解釈を目指します。
(注)デフレ・スパイラルが喧伝されるご時勢にインフレを中心に置いた分析とは現実
離れしていると思われるかもしれません。しかし資本主義経済の基底である商品=
貨幣関係における人為的通貨管理こそが国家独占資本主義の本質であり、インフレ
的蓄積・インフレ政策はそこにビルトインされています。インフレは時々の物価上昇
とい
す。ちなみ
要するに不景気
10日)。
るのですが。
通俗的には、物価上昇とインフレとは同一視されますが、まずインフレを通貨の減価と
押さえます。すると物価上昇率はインフレ率に比例し労働生産性上昇率に反比例します。
物価問題では、生産力発展で商品価値が下がっているにもかかわらず物価が上昇する(つ
まり独占価格をとりあえず措くとすればそれだけインフレが大きい)ことがしばしば見逃
されます。インフレを物価上昇と同一視すれば、生産力発展の問題が見えません。
また名目国民所得をGNPデフレータで除して実質国民所得を算出しますが(実際の統
計上では、各種物価指数によって各種名目値をデフレートして合計し、実質国民所得を算
出した結果としてGNPデフレータが算出されるようです。従ってGNPデフレータは各
種物価指数の合成値ということになりますが、理論的関係としては前記の如く)、このデ
フレータ(物価指数)によるデフレーション(インフレ値の是正による実質化)は、価値
論的には不十分です。
ここで
物価指数=1+物価上昇率
インフレ指数=1+インフレ率
物的労働生産性指数=1+物的労働生産性上昇率 とします。
(以下では生産性指数と略す)
*
インフレ率と物的労働生産性上昇率は実際には測定困難(あるいは不可能か)ですが理
論的には措定できます。普通、労働生産性指数としては付加価値生産性が採用されます
が、労働価値論からは物的労働生産性でなければなりません。
異なった諸使用価値を生み出す具体的有用諸労働の物的生産性上昇率を国民経済的に一
つの指数にすることは原理的に不可能です。
そこで各具体的有用労働ごとの物的生産性上昇率を出し(それは時間当り各生産物量の
重平均することにより、近似的に求めることになると思われます。
すると
物価指数=インフレ指数/生産性指数−−−−−−−−−−−−−−−−−−(1)
政府統計の実質国民所得=名目国民所得/物価指数
=名目国民所得/(インフレ指数/生産性指数)
=名目国民所得×(生産性指数/インフレ指数)
=(名目国民所得/インフレ指数)×生産性指数−−(2)
=価値表示の実質国民所得×生産性指数−−−−−−(3)
=年間国民総投下労働量×生産性指数−−−−−−−(4)
*この単純な式の難点は、インフレを扱っているにもかかわらず価値形態論・貨幣論の観
点が抜けていることです。とりあえずは数値をすべて投下労働量次元に抽象還元して形
態論を回避し、実体論として扱えないかと思って作った式ですが。
真のデフレーションは、名目国民所得をインフレ指数で除して価値表示の実質国民所得
(以下では「国民所得価値」とする)を算出することです。(3) より、政府統計の実質国
民所得(以下では単に「実質国民所得」とする)は国民所得価値に生産性指数を乗じたも
のであり、いわば「偏倚した価値」としての性格を持ちます。ここで実質国民所得は価値
とも使用価値ともいえない両義的概念です。偏倚した「価値」とはいっても、生産性の上
昇に応じて増大するという意味では使用価値的です。では使用価値なのかといえば、そも
そも異なった諸使用価値量を集計することは不可能であり、価値量に還元するしかありま
せん。その点では価値的です。
実質国民所得のこの両義性は以下のように解釈できます。…まず価値概念によって諸使
用価値を一つの集計量(国民所得価値)にします。次いでこの国民的諸使用価値の総品目
セットをあたかも一つの使用価値に擬制します。この一つの使用価値と見做された国民総
生産物量(中間生産物は除く)が生産性の上昇に応じて増大します。…実質国民所得はこ
のように迂回した形で国民所得と経済成長を(価値的にではなく)物量的に表現するもの
です。ところで国民所得価値の実体は年間国民総投下労働量ですから、(3)から(4)が導か
れます。(4) からは、投下労働量の増加による価値的成長によっても実質国民所得が増大
することが分かりますが、今日ではこの部分はゼロ成長的であると思われるので、やはり
(物量的)経済成長にとっては生産性の上昇が決定的であることが分かります。
以上の議論では複雑労働の単純労働への還元とか、生産的労働の範囲をどう考えるか、
という問題は捨象されています。特に「公共投資中心から福祉の充実へ」が課題となって
いる現在、サービス労働を生産的労働と見做すか否かは重要な問題です。しかしこれらは
私の能力に余る課題ですのでここでは見送ります。次にこれまでの行論を根本的に否定す
る見解を検討したいと思います。
例えばある生産物について、過去に10時間かかって生産されたが、現在では5時間で生
産されるとします。もしこの過去の生産物が現在取引されるとすると、10時間分ではなく
5時間分の価値しか評価されません。この場合、過去の1労働時間は現在の半分の価値し
か生産しない、逆に言えば、現在の1労働時間は過去の倍の価値を生産することになりま
す。つまり現在が過去を減価する。一般的にいえば、労働生産性が上昇すれば1労働時間
当りに生産される価値量はその上昇に応じて増加するのではないか。−もしこれが正しけ
れば、「同一労働量は同一価値量を生み出す」ことを大前提にしたこれまでの議論は根底か
ら否定されます。
この問題を考えるには、労働価値論における価値実体論の構造を明らかにする必要があ
ります。そこでは同一労働量は同一価値量を作り出すという基本的命題(論理 A)に、一
物一価という補助的命題(論理 B)が組み合わされています。社会的平均労働や特別剰余
価値の説明では論理 が必要になります。過去の生産物が現在実現されるという、上記の
場合も同様です。ところで一物一価ということは、投下労働量のいかんにかかわらず一つ
の使用価値は一つの価値を持つということですから、論理Aと論理Bとは矛盾します。労
働生産性の格差ないしは発展がなく、ある使用価値への投下労働量がどれでも一定の場合
は両論理は矛盾しませんが、その格差ないしは発展がある場合は矛盾します。両論理はど
のように棲み分けて全体として整合性のある価値実体論を形成しているのでしょうか。
労働価値論のアイデンティティは論理Aにあります。投下労働量にかかわりなく価値が
決まるのであれば労働価値論とはいえません。論理 Bが必要になるのは生産性の格差のあ
る生産物が同時点で競争関係にある場合です。この時には同一使用価値は生産条件のいか
んにかかわらず同様に扱うしかありません。一物一価が適用されます。しかし違う時間の
中にあり、競争関係にない生産物どうしに一物一価は適用されません。最初の例でいえば
現在まで残ってしまった過去の生産物には一物一価が適用されて減価しますが、そうでな
い過去の生産物一般が減価することはありません。現在が過去を減価するというのは不当
な一般化です。
まとめれば、共時的(クロスセクション、横断的)分析において、競争関係にある諸生
産物には論理 Bが適用されます。この場合、生産性格差にかかわらず適用され、格差をめ
ぐる競争が生産力発展を促すことが解明されます。通時的(タイムシリーズ、時系列的)
分析においては、時間が異なり競争関係にない諸生産物に論理 Bは適用されません。ここ
では競争の結果としての生産力発展により、生産物1単位当りの投下労働量が減り、従っ
て価値量が減少することが時系列的に確認されます(論理 A)。このように労働価値論に
おいては相矛盾する2つの論理が巧みに組み合わされて、労働生産性をめぐる<格差→競
争→発展>の構造が解明されています。そこを踏み外して論理 を不当に一般化すると、
労働価値論の自己否定になります。
最後に付論として、簡単な数字例でこれまでの議論の内容を分かりやすく示したいと思
います。
価値的にゼロ成長、毎年のインフレ率5%、生産性上昇率2%とすると、各種国民所得
値及び各指数値は次のようになります。
年 |
基準年 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
A名目国民所得 |
100 |
105 |
110 |
116 |
122 |
128 |
B実質国民所得 |
100 |
102 |
104 |
106 |
108 |
110 |
C国民所得価値 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
100 |
pインフレ指数 |
1 |
1.05 |
1.10 |
1.16 |
1.22 |
1.28 |
q生産性指数 |
1 |
1.02 |
1.04 |
1.06 |
1.08 |
1.10 |
r物価指数 |
1 |
1.03 |
1.06 |
1.09 |
1.12 |
1.16 |
各数値の関係式
A=pC=rB
B=qC r=p/q
国民所得価値は年間国民総投下労働量であり、実質国民所得値と名目国民所得値はその
偏倚した価値量ということになります。現実には偏倚した価値量としての名目国民所得を
表現した通貨量が水脹れ的に拡大しながら流通しています。実物的には(名目値よりは控
え目ながら)偏倚した価値量としての実質国民所得を価格表示した物量的成長をしていま
す。しかしその価値実体としての投下労働量はここでは一定不変です。カジノ資本主義が
破綻しつつある今、このようにして、現象的に軽やかで華やかな(従ってはかない)金融
の下にある実体経済(実物・使用価値)の底堅さに目を向け、さらにはそのまた実体とし
ての(従って経済の本質ともいえる)投下労働の不変性に着目することには大いに意義が
あります。
ところでこの例では国民所得価値は100で一定であり、価値的には単純再生産というこ
とになり、生産内容の物量的変化を反映しえません。こうなると価値論とか価値表示の再
生産表式は生産力発展による経済成長の解明に無力ではないかという議論が起こります。
しかし使用価値量そのものは一般的には集計不可能であり、ここでの実質国民所得による
物量的発展の表現は、先に見たように価値概念を利用して迂回的・近似的にのみ可能だっ
たのですから、価値論の意義はあります。また価値とはそもそも国民経済全体の労働配分
の商品経済的表現であり、生産関係の表現であることを考えれば、価値量全体が不変でも
その内容を分析するために必要です。むしろ価値量の増大に目を奪われているときよりも
価値論の本質に迫った考察の必要性が容易に理解されます。
価値表示の再生産表式については、集計された価値を生産物単位価値とその数量との積
に分解して表示することで物量的変化を表現できます。上の例では国民所得価値100でし
たが、計算の都合上、1000にして簡単な表式を以下に作ってみます(生産性指数は上と同
じで、基準年から第2年度まで。生産物単位価値:基準年10)。
単純再生産表式
上の表式の物量分析表式
基準年
1. (10×120)C+(10×30)V+(10×30)M=(10×180)Pm
2. (10× 60)C+(10×20)V+(10×20)M=(10×100)Km
*
ここで例えば(10×20)Vとは
単位価値10の生産物が20数量あって、200Vを形成していること。
第1年
1.{(10/1.02)×(120×1.02)}C+{(10/1.02)×(30×1.02)}V+{(10/1.02)×(30×1.02)}
={(10/1.02)×(180×1.02)}Pm
2.{(10/1.02)×( 60×1.02)}C+{(10/1.02)×(20×1.02)}V+{(10/1.02)×(20×1.02)}M
={(10/1.02)×(100×1.02)}Km
上式の( )内を計算すると
1. (9.8×122.4)C+(9.8×30.6)V+(9.8×30.6)M=(9.8×183.6)Pm
2. (9.8× 61.2)C+(9.8×20.4)V+(9.8×20.4)M=(9.8×102.0)Km
第2年
1. (9.6×124.8)C+(9.6×31.2)V+(9.6×31.2)M=(9.6×187.2)Pm
2. (9.6× 62.4)C+(9.6×20.8)V+(9.6×20.8)M=(9.6×104.0)Km
ここで第2年の国民所得価値は、単純再生産の前提から当然、
1. {(9.6×31.2)V+(9.6×31.2)M}+ 2.{(9.6×20.8)V+(9.6×20.8)M}≒1000
となります(端数処理がなければ正確に=となる)。
ところが実質国民所得は、
1.{(10×31.2)V+(10×31.2)M}+ 2.{(10×20.8)V+(10×20.8)M}=1040
となります。
要するにこれは生産性上昇にもかかわらず単位価値が下がらない(実際の価格は逆にイ
ンフレで上がっており、それを物価指数で除して単位価値を上げないように一定に処理し
ているわけだが)とした場合の偏倚した価値です。つまり一物一価原理の時系列的適用の
故に生産力発展を分析しえない物価指数の目で見ると、国民所得価値は過大に表現されま
す。しかしそれは実質国民所得を国民所得価値と錯覚している場合です。物価指数の性格
に正しく着目していれば、実質国民所得は生産力発展を物量的増大として表現する、いわ
ば近似的に使用価値次元の国民所得概念だということが分かります。
(注)もっとも拙文でいう使用価値次元とは、価値量とは区別される物量として捉えられ
た使用価値(使用価値の量的側面)を主に指しています。なかでも諸使用価値の集約
という無理をしていますので、いわば価値側に偏倚した使用価値です。本来の質的側
面、その多様性・差異において捉えられた使用価値が、国民経済や世界経済の編成に
とって重要な意義を持つことはいうまでもありません。
もとより価値と使用価値との区別を認めない現象論的立場からは、単に価格を加工して
物量的表現において国民所得を分析すれば十分であり、実質国民所得が物量的表現である
ことは分かり切ったことです(それを価値量というかどうかはどうでもいい)。しかしそ
もそも価格とは価値形態ですから、本来、価値論を欠いて価格は扱えないはずです。価値
実体に関しても次のことが言えます。人間の主体的労働を介して、つまり労働生産力を介
して、価値量と使用価値量との動きを複眼的に見ることは重要です。労働生産性の上昇は
直接的生産者にとって、一方では労働時間の短縮を、他方では物量の増大による生活の向
上をもたらす可能性を作り出します。しかし資本主義的生産関係下ではそれは剰余価値の
増大に置き換えられ、直接的生産者たる労働者にはむしろ犠牲が押しつけられます。価値
と使用価値との区別を初めとした価値論があってこそ、このように労働主体・生産力・生
産関係を一元的に扱えます。単なる物量体系では諸式の寄せ木造りに終始するでしょう。
終わりに
国民所得が価値的にはゼロ成長になっていくのではないか、という疑問はずっと以前か
らもやもやと抱いていました。高齢化社会危機論での論戦に触発されて経済成長とは何か
を考えているうちに、国民所得とその成長とを価値と使用価値とに区別して分析する必要
があると思い至りました。デフレータとしての物価指数の性格(一物一価原理を時系列的
に適用しているため生産力発展=生産物減価を分析しえない)に気付いたとき、政府統計
の実質国民所得の意味を解明した、私なりの関係式ができました。実はここで川上則道先
生に手紙で問い合わせ、再三にわたり丁寧なご回答をいただきました。問題意識について
は過分のご評価をいただきましたが、結論的には私の国民所得価値論は否定されました。
それでやはり間違いだったかと思っていたのですが、その後考え直して今回の拙文に至り
ました。最近山田喜志夫氏の『現代インフレーション論』と『再生産と国民所得の理論』
を読み、経済成長を価値的・実物的に分けて考察している研究を知りました。両著作は労
働価値論に立った厳密な労作で、価値形態論・貨幣論がきちんと押さえられています。と
ても私の能力で十分に吸収できる対象ではありませんが、励みにはなりました。また再生
産表式において、集計された価値量を、数量と価値とに分ける、ということは高須賀義博
氏の『再生産表式分析』(P146)によりました。この著作はとても私の手に負える代物では
ないので、当該部分だけを参考にしました。故人もおられますが、三先生には特に感謝し
ています。
ご覧のように拙文は、理論的には粗い展開で、実際の統計数値に基づいたものでもあり
ません(生産的労働の範囲の取り方次第で国民所得の価値的成長率は変化しますから、現
実の成長率を確定するのはなかなか困難です。拙文の「ゼロ成長」とは象徴的意味合いで
使われており、一つのモデルとして扱われています)。私には近代経済学の知識が足りま
せんから政府統計の批判的・効果的利用という実践的要請に資するものでもありません。
ただ現実経済を見る発想のレベルでは少しは見るべきものがあるのではないかと思い、ま
とめてみました。
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同文をPDFファイルで公表します。
zeroseichounokokuminshotokuron_0009_merged.pdf へのリンク