これは西中島学童クラブ(学童保育所)父母会で配布した読書案内です。
      2000年11月24日執筆

読書ガイド

  『学童保育』編集委員会(代表・村山士郎)編

      『シリーズ学童保育4[父母会]ひとりぼっちの子育てよ、さようなら』

                              (大月書店  1999年刊  税抜定価1500円)  を読む

 

            ***前口上***

 

  毎日のお仕事、お疲れ様です。心軽やかに日々を送られていますか。生活の大変さにめ

げていませんか。

      生活を重荷に感じて、それを憎むなら話はわかりますが、生活をけいべつするだな

    んて、もってのほかのことですよ。

                            (チェーホフ『六号室』より)

  厳しい時代を迎えて、特に「学童」の父母たちの多くは憎らしいほどの生活の重荷をか

かえていることでしょう。その上さらに「学童」の活動に何故とりくむのでしょうか?

  それは何より父母が働き続けるためには、学童保育の充実が必要だからです。しかしそ

れだけでなくこの活動を通して私たちの生活を見直していけるからでもあると思います。

「生活をけいべつする」ようなニヒルさに陥らずに、憎んでもなお愛さずにはいられない

という思いで生活と向き合いたいものです。そのために、さらりと「ひとりぼっちの子育

てよ、さようなら」といってみましょう。

  この本は父母一人ひとりに呼びかけます。

      父母会のなかには自分と同じ思いをもっている人がかならずいます。父母たちのい

    ろいろな思いを形にする、形にできる父母会、一人でできないこと、一人では体験す

    ることができないことをやってのける集まり、これが学童保育の父母会です。

                                                            (114ページ)

 

            ***本書の全体的紹介***

 

  この本にはまず、父母と指導員の生の声が出てきます。日々の悪戦苦闘の姿とそこでの

思いがつづられています。読者は必ず深く共感するでしょう。

  次いで父母会活動とはそもそもなんであるかということ、そしてそのやり方が具体的に

述べられます。だれにでもすぐに役立ちます。

  最後に学者の論文があります。今日の父母と子どもたちのおかれた状況が歴史的・社会

的に明らかにされ、その中での学童保育の社会的意義が深く解明されています。

  私たちは何よりも、各個人の状況から、生活の現実と実感から出発しなければなりませ

ん。「人は深く感じないことはよく考えもしない」(島田豊『学問とはなにか』)のです

から。

  その個人の現実と実感は多くの場合一人だけのものではなく、みんなのものであり、社

会的な根を持っています。従ってその状況の改善のためには個人や家族だけの努力では限

界があり、社会的な解決が必要です。それを明らかにするのは社会科学(経済学・政治学

・法学・社会学など)の理論です。

【駄目押し】

  この本は、だれでも楽しく共感を持って読め、すぐに役立ち、理論も深いのです。

     

        使用上の注意                                                   

          *全部読むのがもっとも望ましい。                             

           *ただし好きなところだけ読んでも十分な効能がある。           

          *買って読むのが望ましい(近所の本屋にはないだろうから、希望者

                  があれば刑部が買ってきます)。                       

          *ただし「学童」から借りて読んでもよい。                     

      

 

            ***ピックアップ的紹介***

 

  最初の文章、土佐いく子さんの「どっこい子どもは生きてるで−教師の目からみた学童

っ子」は絶対お勧めです。

      奇心で行動を起こし、熱中し、「ああおもしろかった」と満足できる生活と、そ

    の生きいきした生活が豊かに表現できることが、今、どれほど子どもたちに大切なこ

    とか。………中略………「周囲に働きかけながら、自分をつくっていく´能動性`」

    と、「豊かな自己表現力を培っていく」ことの重要性をますます強く思うこのごろで

    す。

                                                  (18ページ)

  これは立派な結論なのですが、頭の中だけでひねり出した言葉ではありません。筆者に

これを言わせたのは、彼女が接する子どもたちのユーモラスな明るさ、お母さんたちのけ

なげなたくましさです。そのおもしろさをぜひ本文で味わってみてください。

 

  野口節子さんの「父母会に支えられた私の子育て」では、1年生のときにはなかなか学

童に行けなかった子が3年生では立派なリーダーになっていったこと、そして母親自身が

指導員・父母の集団に助けられて成長していった様子が描かれています。

      子どもたちのことを心の底から「ステキだなぁ、子どもっていいなぁ」と思うこと

    のできる自分自身を信じたいということです。自分の弱さを自分自身のなかで消して

    しまいたいような気持ちがある反面、そんな弱いところもまた自分の一部分として受

    け入れようと思えるようになってきました。弱点の多い自分をさらけ出せるようにな

    ったのも、はちのこ学級の父母会があったからです。

      私は父母会を通して、子どもを丸ごととらえて、その子を信じる視点を学びました。

    父母会のなかで自分自身も育つことができたと思っています。

                                                  (82ページ)

 

  「学童保育の父母会の役割」「父母会運営と活動の基本ノウハウ」「父母会活動Q&A

」といった文章では、父母会とは、というそもそも論から運営の具体的方法までしっかり

分かるように書かれています。

  ここでは特に父母同士のコミュニケーションの大切さが強調されています。わが学童ク

ラブでは定例会での議論の時間の不足など、この点の弱さを感じます。それを補う工夫が

求められているようです。

  指導員の全国的な平均勤続年数が3年ということも明らかにされており、驚きます。私

たちは20年勤続のベテラン指導員に恵まれ、本当にいつも大船に乗ったつもりですが、

そこに安住するのでなく、合同雇用などで保育と労働の条件を改善していかねばなりませ

ん。

 

  川口和子さんの「働くお母さんと家族」は、戦後の女性労働の変化を跡づけ、今日の政

府と財界の労働戦略を明らかにしています。今働くことの厳しさは不況だけによるもので

はなくこうした政策にも原因があります。労働と生活のあり方を見つめ、それを変えてい

く方向の理解のため読んで欲しい論文です。

 

  二宮厚美さんは最先端の理論を担う気鋭の経済学者で、本書最後の「学童保育を通じた

子育てと親の発達」も実に冴えた論文です。「学童保育に子どもを通わせながら子どもを

育てること、これは親からみればいったいどういう意味をもっているのか」について五つ

の意味を解き明かし、親自身もまた発達していく、と主張しています。学童保育の存在意

義を改めて確認し、学童っ子の親としての誇りを持たせてくれるでしょう。

 

        ここまではできればみなさん読んでください。

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        以下は興味のある方に読んでいただけると幸いです。

 

                  消費社会と市民的公共性

                                学童保育をめぐる「歴史における現代」

 

  本書の最後から二つ目の論文、新妻二男さんの「地域の現状と学童保育の要求」の中で

は、父母の生活危機とゆとりのなさから生活の中身が薄くなっていることと、その子ども

への影響が指摘されています。

      大人になって思い起こし、他者に伝えたいと思う子ども時代の生活であるためには、

    少なくとも「宛行扶持(あてがいぶち)」の生活ではなく、子どもたち自身が企み、またそれ

    をやりとげるということ(とくに遊びにおいて)が、生活のなかに根づいていなけれ

    ばむずかしいのではないかと思います。

                                        (137ページ)

      具体的には、親子の対話が、親から子への一方的な指示・命令(寝ろ、勉強しろの

    類い)になったり、たんなる単語のぶっつけ合いになってしまうなど、感情の交流や

    相互承認を可能とするような懇(ねんご)ろなやりとりが、成立しにくくなっているとい

    うことです。そのため、子どもの側からみれば、親から発せられる言葉や態度が、あ

    るがままの自分を受け入れてくれているという確信や、「自分も捨てたものではない

    な」という自己肯定感を獲得させるのではなく、逆に不安感や自己否定感だけを増幅

    させてしまう場合もあります。

                                        (149ページ)

  よく「ものは豊かになったが心は貧しくなった」といわれます。このごろは不況などで

物質的にも貧しくなっていると思うのですが、確かに昔と比べればきらびやかな消費生活

があることは確かです。しかしこれは、外国でも通じる言葉「カロ−シ」に象徴される働

き過ぎ社会の砂上の楼閣です。日本では消費社会と過労社会が表裏一体です。

 

過労社会=消費社会の悪循環

         長時間過密労働→(労働者として)過剰サービス提供                   

                                             ↓支持    ↑依存               

        長時間過密労働→  (消費者として)ゆとりのない受動的生活、生活の希薄化

                                           (テマヒマかけずにカネかける) 

 

 

  人々は働き手としては長時間労働で、生活にテマヒマをかける余裕がありません。それ

を手っ取り早く解決するために、カネで物とサービスを買います。つまり消費者としては

生活の中身が乏しくなったぶんだけ市場に依存しています。24時間営業のコンビニなどが

その生活を支えます。そこで働く人も長時間労働で……と、悪循環になります。

  このような社会では市場経済の規模は大きくなりますが、生活の中身は小さくなります。

その上、福祉政策が貧弱なこともあいまって、「過労社会=消費社会」は「経済大国=生

活小国」を生み出します。

  ゆとりがなく、もっぱら市場に依存した生活は地域での連帯を失います。独立した対等

平等な近代的人間像を「市民」とよびますが、孤立した私生活中心主義の現代人は「私民

」とでもよべそうです。

  労働時間を短縮してゆとりを取り戻し生活の中身を自分自身で作り上げていくことが私

たちには求められています。その際に孤立した「私民」ではなく、連帯した市民として地

域を作り上げていくことも必要です。そこでは行政の責任も問題となります。

 

  まとめれば、<過酷労働−受動的生活−消費社会>  から

              <人間的労働−能動的生活−行政責任と市民自治との結合による個人生活

                                      と地域の創造>

                                              への転換が求められています。

 

  学童保育の運動は、労働時間の短縮の課題には直接はかかわらないわけですが(それを

主に担うのは労働組合です)、生活の中身を充実させ、地域での連帯を作り出す課題には

正面から取り組んでいます(テマヒマかけるバザーや行事はその典型でしょう)。私たち

の生活と活動のしんどさは、すべての前提である人間的労働が実現せずにゆとりがない中

で、生活と地域の問題に取り組まざるをえないことからきているのです。しかしそうした

中でも、父母・指導員・子どもたちの共同で活動の楽しさを作り上げていくことは可能で

す。その体験から私たちは人間的労働に基づいた社会を作り上げる可能性と必要性を感じ

ることになります。

  以上のように、学童保育のような自主的な市民運動は、自分たち自身で生活と地域を作

り上げていきます。それは、市場で買う、あるいは行政から与えられる「あてがいぶちの

生活」を変革し、主体的な生活がまずあって、市場や行政をそのために活用するという立

場です。市場にひたり切るのでなく、行政に頼り切るのでもなく、市民がみんなで自主的

に作り上げていく生活領域のあり様を「市民的公共性」とよびます。

  公共性というと、お上が作って庶民はそれを守るものというイメージが従来はありまし

た。最近でも「個より公が大切だ。国家のために戦争にいけ」といわんばかりの議論があ

ります。しかし、公=国家とは限らず、諸個人が納得して作り上げていく身近な公共性も

あり、その具体的体験の積み重ねこそが民主主義社会を本当に中身のあるものにしていく

のです。

  今日、市民的公共性という言葉は脚光を浴びています。それには歴史的・社会的根拠が

あります。

 

  「市民的公共性」登場の文脈

    1.ソ連型社会主義の崩壊

    2.西欧型福祉国家の行き詰まり       

    3.新自由主義政策による生活破壊            

  1.2.3→ 国家主導型でも市場放任型でもない社会の
あり方への要求  市民的福祉国家

                     


 

  20世紀の前半、社会主義国が誕生し、それに対応して西欧などの先進資本主義国は福祉

国家となりました。ところが今世紀末には社会主義国は崩壊し、福祉国家も停滞してきま

した。つまり国家主導の経済運営や国家が全面的に請け負う福祉が限界を見せたのです。

  これに替わって登場したのが、規制緩和で市場にすべてをまかせればうまくいくという

新自由主義です。要するに弱肉強食政策・福祉切り捨て政策です。確かにこれで一部の勝

ち組は潤って経済が活性化したかのようにも見えたのですが、深刻な貧富の差の拡大と社

会不安の広がり、その他にも重大な問題点が露呈して、いまやその失敗は明らかです。

  このように国家と市場、双方の失敗に照らして、市民的公共性の観点から国家と市場と

をコントロールしていこうという考え方が市民運動などから生まれてきました。

  ただしこれを実現していくためには、私の考えでは、市民運動だけでは不可能で、労働

組合や革新政党などの階級的運動も重要であり(労働の人間的あり方こそが問題の中心で

す)、国家のあり方を民主的に変えていくことも必要です。

  資本主義社会の表面を捉えて一般社会をながめれば、自由・平等な人間像としての「市

民」が見えます。ところが資本主義社会の内実を捉えようと、いったん企業の中に目を転

じれば不自由・不平等な階級としての「労働者」が見えてきます(憲法は企業の門前で立

ち止まる)。市民としての自由さを本当に実現するためには、労働者としての不自由さを

少しでもなくすようにしなければなりません。リストラを止めさせ、労働時間を短縮する

というのは、今日の厳しい政治経済情勢のもとでは非常に難しい課題です。しかし市民的

公共性をかかげる市民運動の観点からは、以上のようにそれが本当に大切だと感じられる

のです。企業に埋没して地域に根のない労働者は公共性を担う市民ではないのです。それ

では民主主義社会は空洞化してしまいます。

                        拙文の内容はあくまで刑部の個人的見解です。

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