これは基礎経済科学研究所2000年春季研究交流会「経済学と市民社会」分科会の 報告レジュメと報告原稿です |
基礎経済科学研究所 2000年春季研究交流会
「経済学と市民社会」分科会 報告レジュメ 2000年3月19日
グローバリゼーション下の市民社会
<1> 今なぜ市民社会か
グローバリゼーション下のイデオロギー状況
新自由主義経済へのオルターナティヴを求める動きは、明示的には、オルターナ ティヴ貿易運動、労働者協同組合運動をはじめ、環境運動、人権運動、女性運動な どにもあり、また非明示的ですが、切り落としにあう農業、中小企業の運動や非( 被?−刑部)差別少数者の運動などにもあります。 問題は、マスコミ主導の世論が、ビッグバン、規制廃止、大競争を抗しがたい時 の流れだとしてこれらの運動の出端を挫き、その連携を妨害していることです。そ れに官僚統制の悪弊に懲りて、どんな規制や公共投資もすべて悪いとされているた めに、市民の意志に基づく政府の規制と公共投資を支持する動き、坂本義和さんの いう「市民国家(シヴィック・ステイト)」型のオルターナティヴを起こす動きが起こりにく い。また、アジア諸国民との協力によって、投機のグローバル化に共同で対応して ゆく可能性についても、政府の米国追従策を当然と思っている人たちが多いために ほとんど議論にのぼりません。 武者小路公秀(4) |
+←ソ連型社会主義の崩壊
+←西欧型福祉国家の行き詰まり
+←新自由主義の跋扈による生活破壊
+−−−−−→国家主導型でも市場放任型でもない社会のあり方への要求
「ポスト福祉国家状況を受けて、市民社会を国家と市場の相対化の根拠 にしようとする主張」
(大沢真理による的確な要約、「朝日」夕刊 1999.5.31
「現在いささか喧(かまびす)しく問題とされる『市民的公共性』の問題」
(鷲田清一、「朝日」夕刊 1999.4.27)
現代日本 対米従属の国家独占資本主義を本質とし、
政官財癒着構造、企業社会をその重要な特質とする。
そこをグローバル化の波が襲う中で現れるイデオロギー諸潮流。
(1) ブルジョア教条主義…新自由主義、市場万能論、資本至上主義、今日の主流派 、 グローバル化礼賛
(2) ブルジョア現実主義…ケインズ右派等、旧主流派、グローバル化への懐疑
(3) 真正保守主義…………伝統的権威主義、グローバル化への反動
(4) 市民主義………………ケインズ左派、マル経の一部等、市民社会を根城にグローバル化とその反動に対抗
綱領的文書:坂本義和(2)
(5)科学的社会主義………経済民主主義、大企業への民主的規制
<2> 市民社会の定義
定義は避けて通れないが、やりだすとそれだけで終わってしまう。さらりと流す。
この場合の<市民社会>というのは、価値的な意味を含みません。ここでいう< 市民社会>というのは、また、社会の経済的構造という意味でもありません。経済 的構造を土台とした上部構造の一部であり、かつそのうちで国家装置以外の諸領域 を、ここでは<市民社会>と呼んでおきます。そこでは、当該社会に固有の階級的 支配=従属の独特の編成があり、それが、国家装置の特殊な形態を規定しているよ うに思われます。ですから、ここでいう<市民社会>というなかには、具体的には、 企業とか労働組合とか、マスメディアとかの諸装置が含まれています。現代日本社 会の「保守化」を成立させているのは、こうした<市民社会>内部において、階級 的な矛盾を吸収し歪曲し、それを逆に現存支配への支持に切り替えるメカニズムが 成立しているからだと思われます。 渡辺治『現代日本の支配構造分析』(1988) P355 |
(1) 資本主義社会
(2) 産業革命以前の新興市民階級の支配する社会
(3) 資本主義社会の基底にある商品生産関係
(4) 国家に対置された「欲望の体系」 国家によって止揚されるべき分裂態
(5) 上とは逆に国家を市民社会の疎外態と捉える
(6) 経済的土台
古賀英三郎「市民社会」(大月経済学辞典)、社会科学総合辞典(新日本出版社)
渡辺の定義は、「現代日本の支配構造分析」のために編み出されたもの。価値的意味・
経済的土台を含まず、階級を含む点に注意。
市民主義的文脈では、自由・平等という価値的意味を含み、経済的土台も含み、階級を
排除していると思われる。
他に、市民社会論の学史的検討から。 新村聡(1)
<3> グローバリゼーションと国家
非現実的な楽観論
国家の能力の衰退については、一概にいえることではなく、複眼的な視点が必要 です。少なくとも、日本の一部に見られる非現実的な楽観論については批判が必要 です。その楽観論とは、グローバリゼーションによって、国家の力が衰退し、従来 の役割を果たせなくなりつつある一方で、市民社会の力は充実し国境を超えた連携 を作ることが容易になってきた。そして、市民社会の組織は国家に対して民衆の要 求にもっと応えよと要求できる力を備えるに至った。その意味でグローバリゼーシ ョンは市民社会の時代の到来を示しているのだというような議論です。 武者小路公秀(4) | |
国家との関係における資本の二面性
(1)商品流通に乗っている以上、国境を突破して増殖する衝動を持つ。
(2)搾取的な階級関係である以上、被抑圧階級の抵抗を押さえ付ける国家権力を不可
欠とする。
この原理はグローバル化にも貫徹するどころか、拡大強化さえされる。 (2)の側面が忘れ
られてはならない。
グローバリゼーションは、一面において、世界の結合を強めていますが、他方で、 極めて不均等で、階層的で格差を拡大する過程でもあります。このような過程の中 で、地球規模での不平等と社会的な分極化が驚くほど進んだのです。 スティーヴン・ギル(4) 政府のとる政策の優先順位の決め方を、このように「社会の必要」に応じるもの から「金融の必要」に応じるものへと移行させようとするならば、社会秩序を確実 に維持するために、非常に強力な国家が必要になるわけです。 同上 |
国際的なソーシャル・ダンピング競争=福祉切り捨て、環境破壊
→ILOなど国際機関やNPOを通じたグローバルな市民的規制の必要性
国際的な階級抑圧システム(必然的に米国中心となる)への要求と、各国政府間の矛盾
<4> 規制緩和
規制緩和とは何か。平たく言えば、グローバル・キャピタリズムの市場原理に経 済のルールを適応させることである。マジック・ワードとしての「グローバル・ス タンダード」がそれを意味している。このスタンダードが実質的には「アメリカン ・スタンダード」と等しいことは知っての通りだ。そうしたスタンダードにふさわ しい経済システムの再構築、これが「改革」の核心なのである。 姜尚中,吉見俊哉(11) |
(1)教育
学区自由化による混乱−{山下あゆみ(7)}
学校は「選択の自由」の対象としての商品か?
消費社会状況の悪循環
長時間過酷労働 → (労働者として)過剰サービス提供
↓ ↓支持 依存↑
(消費者として)ゆとりのない受動的生活、生活の希薄化
(テマヒマかけずに金かける)
官治主義への反発あるいは行政依存への反省
→受動的消費者に「選択の自由」が歓迎される
生活の希薄化・受動化・市場化・孤立化→「私民」化:新古典派モデルに適合的
学校は、本来、行政から押しつけられものではなく、市場から買うものでもない
出来合いのものを与えられるのではなく、自治的に創造していく場
→cf e.g.学童保育:父母の自主運営
官治主義からの脱却方向
<過酷労働−受動的生活−消費社会(選択の「自由」)>セットではなく
<人間的労働−能動的生活−行政責任と市民自治との結合による個人生活と地域の創造>セット
消費社会、競争の教育→苦役としての学習、競争のための学習意欲
学びからの逃走、教育崩壊
企業社会を支える国民意識 日常生活・人格・価値意識に浸透した競争の論理
グローバリゼーション下、地域に生きるリアリズムに立った教養と能力の育成
→格差化のない個性の実現
考えてみれば、世界中ですべての地域で競争力が高まるということはありえない。 したがって私たちが二一世紀にもとめる豊かさは、他者から収奪して利益を集積す ることによる豊かさ、抜きんでた競争力を持つことによって達成される豊かさでは なく、地域が人間らしい生き方を循環させることで獲得される豊かさでなければな らない。そういう豊かさを日本の地域のなかにつくっていくことと結びついてこそ、 競争を緩和していくシステムが現実化されるのではないか。学力競争を抜本的に緩 和していくことと、子どもの学習意欲を本格的に回復させる学びを実現する課題と、 地域が人間らしい豊かさをささえていく場になることとが、三位一体になって推進 されることで、二一世紀にめざすべき私たちの学校教育のあり方がうかび上がって くるのではないか。 佐貫浩(8) |
(2)タクシー:市民社会的課題(市民的公共性)と労働運動{菊池和彦(10)}
タクシーの需給調整規制の緩和
消費者利益(価格低下、サービス向上)ではなく
交通事故の増加とタクシー労働者の長時間労働、所得の低下をもたらし
良心的事業者の淘汰と悪質事業者の拡大をもたらした
{同様のことは不況下における規制緩和一般についていえる 金子勝(6)}
福祉タクシー、介護ドライバー、乗合タクシー
労働組合として市民的公共性の実現に取り組む 規制撤廃攻撃へのオルタナティヴ
経営者も規制撤廃には反対しているが、撤廃の先を見越してリストラ「合理化」攻撃
→市民社会的課題と階級性の問題
市民主義的見地からは市民社会的課題を担う主体があいまい
(3)独占資本と規制緩和,市民的規制
独占資本主義段階では、規制緩和=競争強化では必ずしもない。逆もある。
規制緩和万能論と競争至上主義とは本当は同じではない。 cf 持株会社の解禁
市場と資本
市場万能論者とは実は(独占)資本至上主義者
グローバリゼーション、規制緩和の主体は資本であって(過程の機動力は資本蓄積)
市場はその舞台である
規制の主体と対象
「官」と「民」という誤った二分法 「民」には独占資本から労働者まで含む
市民主義的観点からの「真の規制緩和」 政府規制から市民的規制へ
恐ろしいのは規制緩和という言葉が、ものごとの決定を市場に一任してしまうこ とと同義に使われていることだ。そうではないだろう。たとえば大型店規制に関す る議論の場合、大店法を廃止して商店街の運命を市場の采配にゆだねてしまうのは 危ういので、霞が関よりは現場の事情に明るく、直接影響を受ける地域社会に商業 調整の権限を委譲しようという思想こそが、本来の規制緩和である。 矢作弘『都市はよみがえるか 地域商業とまちづくり』 (「全国商工新聞」98年4月20日付より孫引) |
<5> 市民自治的福祉国家
福祉国家をめぐる議論の錯綜の指摘とその整理の視点 横山寿一(2)による秀逸な分析
グローバリゼーション・規制緩和に関する議論と共通する論理構造
現状規定:官治主義的福祉国家
↓
新自由主義による官治主義批判と福祉国家そのものの否定
↓
オルタナティヴ:市民自治的福祉国家
<6> 自由・平等・自己実現の社会像と市民社会
「惚れて通えば千里も一里」という諺(ことわざ)がある。 それくらい時間を超越し、自分の好きなものに打ちこめるようになったら、こんな 楽しい人生はないんじゃないかな。 …… 得手にはまれば、その人は、うんと気持ちがよくて、どんなに苦労してもいとわん のだな。勇んで向上心がでてくる。…… みんな伸びる性質はなにかもっているものなんだよ。 人間はみんな平等だと思うんだ。 …… だから従業員みんなにいいたいのは、俺はこれが特長だと自分から名のりでろとい うことなんだよ。「能ある鷹は爪を隠す」ということは大きらいなんだ。 本田宗一郎(片山修編『本田宗一郎からの手紙』) * * * * * * * * * 人はみな何らかの天分を持って生まれてくる、という表現は正しいとしても、たい ていの人はそれを開花させる機会に恵まれないまま平凡な人生を送る。世界中をそう いう人が占めている。そういう人がみな幸せだと思える世の中でなければならない。 入江健二(ロスアンゼルス在住の開業医)『リトル東京で、ゆっくり診療十七年』 * * * * * * * * * なお、能力の個人差の問題についていいますと、マルクスは、能力の差そのものを 否定しようとする運動を、粗野な共産主義とよんで否定しています。…各人の持つ、 あらゆる伏在的な能力が、自由に展開される場を求めるのがマルクスの見解でありま す。 内田義彦『資本論の世界』 |
本田と内田との類似が面白い。本田のブルジョア的ロマンティシズムは資本主義社会の
中に、自由・平等・自己実現の市民社会を見ている。内田はマルクスの共産主義像の中に
市民社会を見ている。
入江のリアリズムは資本主義社会での自己実現の不可能を見、彼のヒューマニズムは万
人の幸せを期待する。しかしこれが誤ってそのまま延長されると「あきらめの体制化=自
己不実現の社会」としての「粗野な共産主義」(世間一般で理解されている共産主義=ソ
連型社会)になる。
市民社会の弁証法は、本田的社会→入江的社会→内田的社会 となるのだろうか?
参考文献 (1)新村聡「戦後日本の社会科学と市民社会論」
『経済科学通信』1996.2 No.80
(2)横山寿一「福祉国家の再建−企業中心社会を超えて」
『経済科学通信』1998.11 No.88
(3)坂本義和「世界市場化への対抗構想」 『世界』1998.9
(4)遠藤誠治,スティーヴン・ギル,武者小路公秀「グローバリセーシ
ョンと民主主義の危機」 『世界』1998.11
(5)デビッド・C・コーテン「グローバル資本主義が人類を貧困化させる」
『世界』1998.8
(6)内橋克人,金子勝「『経済戦略会議』徹底批判」 『世界』1999.5
(7)山下あゆみ「『学区自由化』の先行的導入が招いた混乱」
『前衛』1998.12
(8)佐貫浩「『競争の教育』をどう変えるか」 『前衛』1999.5
(9)大川伸一「『労働市場ビッグバン』論者が描く労働者像」
『前衛』1997.7
(10)菊池和彦「『安心・安全』を破壊するタクシー規制緩和」
『前衛』2000.3
(11)姜尚中,吉見俊哉「混成化社会への挑戦 グローバル化のなかの公
共的空間を求めて」 『世界』1999.6,8,10,12, 2000.2
基礎経済科学研究所 2000年春季研究交流会
「経済学と市民社会」分科会 報告原稿(未完)
2000年3月19日
グローバリゼーション下の市民社会
ご紹介いただきました名古屋の文化書房の刑部です。何分にも私は一介の古本屋であり
まして、人前で学術的な話をするなどは初めてですので、まともにいくかどうか心配して
おります。よろしくお願いします。
この研究交流集会の事前のご案内では、私の話のタイトルは「『新世紀市民社会論』の
批判的検討(仮)」となっておりました。『新世紀市民社会論』は増田さんがお送り下さ
り、興味深く読ませていただきましたが、残念ながら、これに対する批評を分科会で報告
するほどには、私の中で関心が熟したとはいえません。それぞれに重要なテーマについて
の分析があると思いますが、私の問題意識がそこまで追いついていないようです。
そこで、ご案内とは違う内容になってしまいますが、分科会テーマの「経済学と市民社
会論」にはある程度そった話にしますのでご容赦願いたいと思います。
「市民社会論」というと、私などは内田義彦とか平田清明とかを思い浮かべますが、『
新世紀市民社会論』では必ずしもそういう議論にはなっておらず、現代資本主義をそれぞ
れの市民社会的アプローチで問題にしているようです。私としては「グローバリゼーショ
ン下の市民社会」というテーマで、ややイデオロギッシュな話をしようかと思います。
その際に、内田・平田のようなマル経出自の市民社会論とは完全には重ならないが、類
似の問題意識をもっていると思われる「市民主義」とでもいえる潮流の人々の最近の仕事
の検討をしたいと思います。前者の市民社会論についての知識を私が持ち合わせていない
のはもちろんですし、後者の市民主義についても同様なのですが、現在の情勢とのからみ
からは、それなりに興味深い問題ではないかと思っています。
<1> 今なぜ市民社会か
初めに今なぜ市民社会を問題にするかということをお話します。朝日新聞のミレニアム
企画でこの千年の最も偉大な指導者は誰かというアンケートがありました。1位は坂本龍
馬、2位は徳川家康でした。ここには一方では改革を求め、他方では安定を求める国民の
意識が反映されていると思います。私なりに翻訳すれば、政官財癒着に代表される旧体質
的閉塞状況を改革し、それとともに福祉を守るなど、生活の安定を図ることを同時追求す
べしという要求だと思います。その道を進む際に「市民社会」がクローズアップされると
いうのがこれからの話の中身です。ところがマスコミなどは、生活を押し潰すような「改
革」こそが避けられない流れだと一方的に説教しています。今日のイデオロギー状況につ
いて、武者小路公秀さんはおそらく苦々しい思いをこめて次のように語っています。
新自由主義経済へのオルターナティヴを求める動きは、明示的には、オルターナ ティヴ貿易運動、労働者協同組合運動をはじめ、環境運動、人権運動、女性運動な どにもあり、また非明示的ですが、切り落としにあう農業、中小企業の運動や非( 被?−刑部)差別少数者の運動などにもあります。 問題は、マスコミ主導の世論が、ビッグバン、規制廃止、大競争を抗しがたい時 の流れだとしてこれらの運動の出端を挫き、その連携を妨害していることです。そ れに官僚統制の悪弊に懲りて、どんな規制や公共投資もすべて悪いとされているた めに、市民の意志に基づく政府の規制と公共投資を支持する動き、坂本義和さんの いう「市民国家(シヴィック・ステイト)」型のオルターナティヴを起こす動きが起こりにく い。また、アジア諸国民との協力によって、投機のグローバル化に共同で対応して ゆく可能性についても、政府の米国追従策を当然と思っている人たちが多いために ほとんど議論にのぼりません。 武者小路公秀(4) |
社会を民主的に変革しようとするものにとって、今日のグローバリゼーション下にはこ
うした閉塞的状況があるということです。
1970年代以降に行き詰まった西欧型福祉国家、やはりその頃から停滞が顕著になり、19
89年を画期に崩壊していったソ連型社会主義、両者に代わって興隆してきて猛威を奮い、
グローバリゼーションを推進し今や人々の生活を破壊しつつある新自由主義。どれもろく
なものではないわけですが、こうした中で生活を守り、社会の崩壊を防ぎ、新たな社会発
展を目指す方向として、国家主導型でも市場放任型でもない社会のあり方が考えられるよ
うになりました。国家と市場の中間にある市民社会を中心的担い手とする社会像がそれで
す。大沢真理さんによる的確な要約によれば、「ポスト福祉国家状況を受けて、市民社会
を国家と市場の相対化の根拠にしようとする主張」ということになります。
またグローバリゼーション・市場化による公共性の破壊への反動として登場してきた、
例えば小林よしのりなどによる、国家を公としてそれへの従属を説く議論に対して、地域
社会や学校などの中に等身大の公を市民の力で作り上げよう、という「市民的公共性」の
議論も同様の文脈(国家と市場の相対化)にあるといえます。
現代日本は、対米従属の国家独占資本主義を本質として、政官財癒着構造、企業社会を
その重要な特質とする社会ですが、こういう特殊なプリズムをグローバリゼーションの光
が通ると以下のようなイデオロギーの万華鏡が現れます。本来的には基本は三者鼎立とい
えます。つまりグローバリゼーションの推進派、反動派、両面批判の民主派という構図で
す。さらに従来からの諸理論を考慮してもう少し細かく、5潮流ということになります。
なんといっても第一に上げるべきは、新自由主義ですが、自由競争崇拝・市場崇拝とい
う意味でブルジョア教条主義と特徴づけられます。左翼の教条主義は中身のない大言壮語
か、暴力的妄動に終わる、つまり現実的な力がないのですが、ブルジョア教条主義は強力
に自己貫徹する現実性を持ちます。例えば世界市場を自由に移動する資本の力によって、
ソーシャルダンピング競争が起こり、福祉国家が破壊されるという具合です。人々が市場
の暴力に反撃するとき、初めてその空想性が暴露されます。このブルジョア教条主義が今
日の主流派であり、グローバリゼーションを礼賛しています。日本においては政官財癒着
構造の批判者として、マスコミでは「改革派」といわれています。
マスコミではグローバリゼーションの影響として政官財癒着の解体ということばかりが
言われますが、福祉国家も解体されることはあたかもやむを得ないことかのように申し訳
程度に触れられるだけか、ひどい場合は奨励さえされます。我々の立場から言えば良いも
のも悪いものもいっしょくたに攻撃されています。そして注意すべきはグローバリゼーシ
ョンは対米従属の国家独占資本主義という日本社会の本質的特徴を強化するということで
す。こういう重大な全体が政官財癒着の解体という薔薇色の一点だけで描き出されている
ことを忘れてはなりません。
次にケインズ右派などのブルジョア現実主義があります。これは人間の生存権を無視し
たブルジョア教条主義の非現実的な行き過ぎを批判し対米従属一辺倒も批判します。従っ
てグローバリゼーションには一定の懐疑的立場をとりますが、対米従属の国家独占資本主
義の枠内にはあります。主流派からは「守旧派」として攻撃されます。
三番目はグローバリゼーションへの反動派としての真正保守主義とでもいうべきもので
す。世界的にはイスラム原理主義などがありますが、日本でも教科書攻撃や国家・国旗問
題などで活発な動きを見せています。保守回帰、伝統的権威主義によって社会の安定を取
り戻そうとしています。規制緩和反対などで新自由主義とは対立していますが、新自由主
義も権威主義的国家を必要とする側面を持っていますから、協調する部分もあります。新
保守主義と旧保守主義との使い分けが体制派のやり方です。
四番目は市民主義です。これはケインズ左派やマルクス経済学の旧構造改革派などを含
みます。グローバリゼーションとその反動への両面批判派として「市民社会を国家と市場
の相対化の根拠にしよう」としています。やや大げさですが綱領的文書として坂本義和さ
んの「世界市場化への対抗構想」が上げられます。レジュメで(2)とあるのは(3)の
間違いです。
最後が科学的社会主義の立場です。当面、資本主義の枠内で大企業への民主的規制によ
る国民経済のバランスある発展によって国民生活の擁護を目指します。
ここで対立軸の中心にあるのは新自由主義と市民主義です。特に市民主義はグローバリ
ゼーション下のイデオロギー状況に最も自覚的であると思います。この点で科学的社会主
義の立場には若干の不明確さがあるようです。ただし市民主義は階級的観点について、消
極的ないし否定的であるために、その市民社会の内容はあいまいだといえます。また国家
というものを忌避する傾向が強いため、国家そのものの民主的変革という視点が弱いと思
います。坂本さんの論文は包括的で、非常に積極的内容を含むと思いますが、グローバリ
ゼーションが国家の後退を招くという観点が強いのが弱点だと思います。この点では、同
様の立場でありながら、遠藤誠治,ステーヴン・ギル,武者小路公秀3氏の「グローバリ
ゼーションと民主主義の危機」という座談会はグローバリゼーションが国家の強化をもた
らすという点を解明しており、市民主義の弱点を克服する方向を指し示しています。
このように市民主義が自覚的に切り開いてきた、理論的焦点の構図を継承し、その弱点
をマルクス経済学の理論で補強するというのが、科学的社会主義の立場の取るべき方向性
だと思います。そういう問題意識からするとたいへん秀逸な論考として、『経済科学通信
』掲載の横山寿一さんの「福祉国家の再建−企業中心社会を超えて」を上げることができ
ます。
<2> 市民社会の定義
市民社会を問題にする以上、その定義が避けて通れないわけですが、それ事態が難問で
すので簡単に触れるに留めます。『経済科学通信』では新村聡さんが市民社会論の学史的
検討の中でその定義にも言及され、非常に参考になるものですが、ここではパスします。
最近たまたま目にした渡辺治さんの次のような定義は比較的私の問題意識に合うもので
した。
この場合の<市民社会>というのは、価値的な意味を含みません。ここでいう< 市民社会>というのは、また、社会の経済的構造という意味でもありません。経済 的構造を土台とした上部構造の一部であり、かつそのうちで国家装置以外の諸領域 を、ここでは<市民社会>と呼んでおきます。そこでは、当該社会に固有の階級的 支配=従属の独特の編成があり、それが、国家装置の特殊な形態を規定しているよ うに思われます。ですから、ここでいう<市民社会>というなかには、具体的には、 企業とか労働組合とか、マスメディアとかの諸装置が含まれています。現代日本社 会の「保守化」を成立させているのは、こうした<市民社会>内部において、階級 的な矛盾を吸収し歪曲し、それを逆に現存支配への支持に切り替えるメカニズムが 成立しているからだと思われます。 渡辺治『現代日本の支配構造分析』(1988) P355 |
辞典の定義では−− (1)資本主義社会 (2)産業革命以前の新興市民階級の支配する社会
(3)資本主義社会の基底にある商品生産社会 (4)国家に対置された「欲望の体系」 これは
ヘーゲルによるもので、国家によって止揚されるべき分裂態、として捉えられます (5)マ
ルクスは逆に国家を市民社会の疎外態と捉えます (6)『ドイツ・イデオロギー』などでは
経済的土台の意味で使われています−−以上のように規定されています。
渡辺さんはもちろんこうした諸定義を意識しつつ、「現代日本の支配構造分析」という
政治学的課題を果たすために独自に編み出されたのだと思います。価値的意味と経済的土
台を含まず、階級を含む点に注意する必要があります。これは良くいえば、対象を機械的
にはっきりさせることで、概念としては操作しやすく、政治学的あるいは広く社会科学的
に分析用具としての有用性を高めた定義だといえます。ただし悪くいえば経済学的概念と
しての根本的問題を回避した定義だともいえます。
そもそも市民社会とはその実在性が問題とされています。マルクス資本蓄積論の領有法
則の転回の論理によれば、自己労働に基づく所有と等価交換による、商品=貨幣関係は、
その法則を侵害しないままに、資本と労働との不等価交換による他人労働の搾取としての
資本=賃労働関係に転回します。流通過程における資本と賃労働との等価交換の仮象は搾
取という内容を神秘化する形式となります。ここから一方では、商品=貨幣関係の視角か
らする自由・平等な市民社会というものは実在せず、存在するのは資本主義社会だけであ
るという議論があります。他方では、それは粗雑な階級一元論であって、階級関係のみな
らず市民社会的関係をも実在すると捉える必要があるという立場もあります。
渡辺さんの定義では、自由・平等というような価値的意味と経済的土台は抜けています
から、その実在性が問われるような意味での根本的な市民社会とは別に、上部構造の一部
としての市民社会があっさり設定されています。ここには議論のすれ違いがありますが、
一種の市民社会実在論ではあるでしょう。「国家と市場を相対化する市民社会」という問
題意識からすれば、「国家と市場の中間にある市民社会」という意味で渡辺説を採用し、
市民主義との議論の噛み合わせということから、価値的意味と経済的土台も一定含めて補
強していくのがよいのではないかと思います。階級関係を含むという渡辺説の長所も生か
されます。
<3> グローバリゼーションと国家
二宮厚美さんの指摘によれば、新保守主義は「自由な経済と強い国家」を目指します。
新自由主義は前段の「自由な経済」に係わるものであり、それは「強い国家」をともなっ
ています。この点はしばしば見落とされます。武者小路さんはそれを「非現実的な楽観論
」として批判しています。
国家の能力の衰退については、一概にいえることではなく、複眼的な視点が必要 です。少なくとも、日本の一部に見られる非現実的な楽観論については批判が必要 です。その楽観論とは、グローバリゼーションによって、国家の力が衰退し、従来 の役割を果たせなくなりつつある一方で、市民社会の力は充実し国境を超えた連携 を作ることが容易になってきた。そして、市民社会の組織は国家に対して民衆の要 求にもっと応えよと要求できる力を備えるに至った。その意味でグローバリゼーシ ョンは市民社会の時代の到来を示しているのだというような議論です。 武者小路公秀(4) | |
武者小路さんの「複眼的な視点」は経済学の原理から基礎づけることができます。そも
そも資本は国家との関係においては二面性を持ちます。一方では、商品流通に乗っている
以上、国境を突破して増殖する衝動を持っています。他方では、資本=賃労働関係が搾取
的階級関係である以上、被抑圧階級の抵抗を押さえ付ける国家権力を不可欠とします。グ
ローバリゼーション下では、世界市場を自由に移動する資本に対して国家が無力であるこ
とは、例えばアジア通貨危機で劇的に明らかにされました(ただし国家といっても、アメ
リカとタイでは随分違うことに注意する必要がありますが)。しかし決して国家が一路衰
退とはなりません。逆に福祉切り捨てや公共性の破壊にともなう社会秩序維持のためには
より強力な国家が必要とされます。ステーヴン・ギルさんは次のように述べています。
グローバリゼーションは、一面において、世界の結合を強めていますが、他方で、 極めて不均等で、階層的で格差を拡大する過程でもあります。このような過程の中 で、地球規模での不平等と社会的な分極化が驚くほど進んだのです。 スティーヴン・ギル(4) 政府のとる政策の優先順位の決め方を、このように「社会の必要」に応じるもの から「金融の必要」に応じるものへと移行させようとするならば、社会秩序を確実 に維持するために、非常に強力な国家が必要になるわけです。 同上 |
投資減税、労働条件の悪化、福祉切り捨て、環境基準の引き下げなど国際的なソーシャ
ル・ダンピング競争に対して、ILOなど国際機関やNPOを通じたグローバルな市民的
規制をかけていくことが必要です。グローバリゼーション下では階級抑圧装置としての国
家もまた世界的な連携をとろうとしますが、各国政府間の矛盾があるので簡単には行きま
せん。MAI(多数国間投資協定)というのが多国籍企業の利益を目指して締結されよう
としましたが、フランスなどの反対で今のところ実現していません。
<4> <5> <6> 未完
<最後に>
厳しい不況下で古本屋の経営も危機に陥っています。廃業も出始めています。そうした
中で私は多くの同業者や知人に助けられてなんとか仕事をやっております。苦悩と感謝の
日々です。本日のような一見観念的な話も、そうした状況が生み出すやむにやまれぬ自己
表現であり、グローバリゼーション時代と、没落しつつある、プロレタリア以下層的零細
自営業者の階級意識の表明といえましょう。
私が「市民社会」的問題に関心をもった直接のきっかけは3年くらい前から『世界』を
読み始めたことでしょう。規制緩和問題への関心から内橋克人さんの連載対談を読み大い
に理論的刺激を受けました。内橋さんの経済を見る姿勢にも立場を越えて大いに共感しま
した。その他の多くの方からも学んで、引き続き自営業者の立場から経済を見る目を養っ
ていきたいと思います。またリアリズムとヒューマニズムの統一、テクニカルなものとイ
デオロギッシュなものの統一としての社会科学を追求していきたいと思います。
平野喜一郎先生と増田和夫さんからは日頃よりたいへんお世話になっていますが、今回
はこのような拙い話をする機会を許していただいたことに感謝します。基礎研の皆さん、
本分科会参加者の皆さんもありがとうございました。
メモ
この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間 どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に 比べ、なんと軽薄な。 なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。 内橋克人 「朝日」夕刊99年5月21日 * * * * * * * * * いったい中堅・中小・零細企業の経営者と従業員を真に支えるものは何だろうか。 時代とたたかい、自身の手で事業という作品をつくりあげていくプライド。なにが あってもそれが好きでたまらず、体がつづくかぎり働きたいという仕事欲。個性的で 独立独歩の気質。とうぜんのこととして祖父母、父母から引き継ぎ子へと伝えるそれ ら技能と精神への意志。“バイタル・マジョリティ(活力ある多数派)”としての日 本の中小企業を支えるものは、人の身の丈に相応し、人間にあわせてモノと組織と事 業をつくりあげようとする気風と精神をおいてほかにない。その培地が枯れようとし ているのだ。 内橋克人『共生の大地』P31 * * * * * * * * * ただ残念なことに、現在の規制緩和一辺倒論は、なまじ経済学の装いをもち、ある いは経済学者が主導しているがゆえに、一見、理路整然としている。そのために、当 事者はどう反論してよいか分からず、面とむかって声を上げるのも難しい、という状 況にあり、現場の人びとは、既得権にしがみつく守旧派扱いされても反論できなくて、 本当に悔しい思いをしているわけですね。 内橋克人『世界』97年8月号 * * * * * * * * * 人権というのは、条文や条件ではなくて、人間の生きる喜びまで到達したときに、 はじめて確立するのだろうと思うんです。 …… 異質なものがあっていいのだということ、そこに人権を考える基本がある。異質の ものが虐げられているならば、それを感じる心、それと一緒に生きていく気持ち、そ の人が浮かびあがることは、自分にとってもとても楽なことなんだという考え方。そ ういうものが一人一人にあって人間ですよ。 小山内美江子,黒沢惟昭「金八先生と語る人権教育」(『世界』99年11月号)P58 * * * * * * * * * 本気 本気ですれば/大抵のことができる/本気ですれば/何でもおもしろい/ 本気でしていると/誰かが助けてくれる 安楽寺住職の書<高木仁三郎『市民科学者として生きる』(岩波新書'99)> より P221 * * * * * * * * * 現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重 要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動か しうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることであ る、と私は信ずる。 ポール・スウィージー『歴史としての現在』 * * * * * * * * * 現実にはならなかったいくつかの可能性とは、ほとんどが民衆レベルの問題です。 そうした可能性の問題を無視して、現実化した歴史の流れだけを追うと、どうしても 権力者の歴史の追随になってしまう。……中略……可能性のままで終ってしまった無 数の人生がある、それにも目を配って、現実となったものを相対化してみせること、 それこそが歴史小説家の役目なのではないか。 佐高信,色川大吉「司馬遼太郎批判 歴史のうねりを描くとは」(『世界』98 年1月号)P209,210 色川の発言 * * * * * * * * * 水俣病を高度経済成長の犠牲というが、むしろ水俣病を許すような社会であったか らこそ高度成長が可能になったのではないか。 色川大吉の発言 朝日新聞(日付不詳)からあいまいな記憶で書き記す。 コメント:高度成長とは決して唯一の必然ではなかった。 高度成長←高搾取率,高蓄積率 =低賃金,様々な生活の貧困,人間の生活が利潤追 求の犠牲にされる社会 |