これは1996年11月6日執筆です。

 洋書、和本、その他

 以下は本の分類に関する一考察である。本来もっと簡潔に書けるの

に、くどい説明になったのは、頭の中で考えた順序そのままに書いた

からである。読者には迷惑だが、辛抱強く読んでもらえれば、若干の

頭の体操くらいにはなるかと思う。ただしこれで書物への造詣が深く

なるということは決してない。

 私のような凡才の古本屋が扱わないものに洋書と和本がある。私は

「その他の普通の本」を扱っている。ところで何故、和「本」と洋

「書」なのか。考えると夜も眠れなくなる……イヤ店番してるうちに

答えを出そう。

「書」のほうが「本」より高級感がある。ならば洋書と和本という言

葉は西洋崇拝の名残か?まさかそんな単純な話じゃなかろう。

 そういえば某大学図書館に「和書係」というのがあった。わが店の

洋書でも和本でもない「その他の普通の本」を送った先が「和書係

」。つまり和本と和書とは違うのだ。和本とは和綴じの本のことだろ

う。対して和書とは日本で作られた本のこと。だから和本と普通の本

とを含む。となれば、洋書のほかに洋本もあるはずだ。洋書とは西洋

などで作られた本で、洋本とは洋綴じの本のことだろう。だから洋本

には和本以外の日本の本も含まれる。

 これで各言葉の意味の整理がついたから、今度はそれぞれの関係を

探っていこう。

 その前に問題が一つ。「和漢洋」と言うではないか。「漢」はどう

する。漢は和の内とする。実際には逆で、和が漢の内なのだが、(近

世以前の日本は圧倒的に中国文化の影響下にあったのだからそう言わ

ねばならない)我が国の本のことを考えるのだからそうする。これで

和と洋の二つだけに単純化できる。

「書」のほう−洋書・和書とは作られた場所(国)による分類で、

「本」のほう−洋本・和本とは製本による分類だった。ここで和・

洋・書・本の四字から四語が形成されることを図示する。(図1)

                   図1

          洋       和

ア 洋書

イ 和書

エ 洋本

ウ 和本

 

             

                 

 問題はアとウの洋書と和本であったが、和・洋という地域区分の違

いだけでなく、書・本という分類観点でも食い違っていて、関係が複

雑になっている。図1ではそれが、両者のねじれた位置関係として示

されている。そんなことをいっても一体それが何の意味なんだ、とい

うことになるだろうから、まず洋書と和本だけを取り出してみてか

ら、後でまた残りの洋本と和書をも含めた関係を見たい。

           図2

 

A

 

洋書

B

 

その他の普通の本

C

 

和本

 

 図2で、Bの「その他の普通の本」とは結局、洋綴じで日本製の本

のことだから、「洋本の和書」である。ならばA+Bは洋本のことで

あり、Cの和本の反対物である(図1のウとエの関係)。B+Cは和

書で、Aの洋書の反対物である(図1のアとイの関係)。

 最初に問題にした、洋書・和本・その他の普通の本の関係は、図2

で一応整理できた。ここでさらに洋書・和書・洋本・和本の四語を組

み合わせて、書物という1つの集合を4つに分割すると、より本質的

にそれらの関係を表現できる。(図3)

                   図3

        洋書     和書

 

洋本

 

 

A 
洋本の 洋書

 

   B 
  洋本の

    和書

 

和本


 

   D 
  和本の
   洋書

 

    C 
  和本の

    和書

    

 図3のABCは図2のABCに相当する。普通、単に洋書と言って

いるのは、詳しく言うと洋本の洋書で、和本と言っているのは和本の

和書である。しかしそんな面倒なことは言わなくても「洋書」と「和

本」で完璧に正解なのだ。以下、その理由を説明する。

 図3でDの和本の洋書とあるが、普通それは実在しない。莫大な貿

易黒字を誇るわが祖国も、こと文化の基礎的部分に関しては完全に西

洋に対して輸入超過なのだ。洋綴じの日本の書物つまり洋本の和書は

たくさんある(どころか、我々の周囲の本はほとんどそれだ)が、和

綴じの西洋の本つまり和本の洋書などまずない。

 和本の洋書がないおかげで、洋書と言えば洋本の洋書に決まってい

るし、和本と言えば和本の和書に決まっているのだ。ところが洋本の

和書はいくらでもあるから、洋本というだけでは、洋書とも和書とも

分からないし、和書というだけでは、洋本とも和本とも分からない。

 これでもう洋「書」と和「本」の謎は完全に解けた。なにげなく使

っている言葉がこんなにも厳密な論理の上に成り立っていたとは! 

ひょっとしてこれは大発見か? イヤつまらん常識のような気もす

る。常識でもいいではないか。常識の根拠を問うて自分の頭で考える

のは、立派な批判的学問の精神ではないか。(大げさな…)

 しかし店番の暇にまかせて、一銭の徳にもならんことに頭を使って

いるのは、少なくとも商売の精神にはかなわない。

(「名古屋古書月報 」)

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