これは和田豊著『価値の理論』の感想です。 |
労働価値論の新展開
和田豊『価値の理論』(桜井書店)を推奨する
本書『価値の理論』は大変に野心的な労作だと思います。はしがきの冒頭に「本書は、マルクス派経済学の根幹をなす労働価値論にかんして、私が正しいと考える理論の在り方を学界に問うために著された」と高らかに宣言され、一貫した方法に基づいて広範な諸問題が検討されます。そしてたとえば第7章「転形問題論争の系譜と展望」の結論部分では、近年における同論争の停滞と混迷を辛辣に批判しつつ、本書の方法によってそれにピリオドが打たれることへの期待が表明されます。こういうとあたかも唯我独尊の書のように誤解されるかもしれませんが、どのテーマをとっても伝統的な議論から最新の論争までを踏まえ、それらが単に時系列的に並べられるのではなくテーマの構造に即した形で手際良く整理された上で著者の独自の結論が自信をもって提出されているように思います。そして何より本書は、今日のマルクス経済学にはびこる「労働価値論はずし」に根本的な反省を迫り、しかもそうした風潮への無力な教条主義的抵抗ではなく、独自の支配労働価値論の立場からマルクス理論の大胆な再構築を図ろうとするものです。なお支配労働価値論といってもそこから連想されがちな神秘主義とは無縁です。
本書は価値論研究者の必読書であるばかりではなく、およそマルクス経済学について自分自信の頭で考え抜いてみたいと思っている多くの人々に対して開かれた理論書であるとも言えます。本書をちょっと覗いて印象的なのは、人によっては若干なじみの薄い記号と式による数学的表現が多いこととマルクスの理論が最初から容赦なく批判されていることです。これは私なども含めて教科書的理解に親しんできた者にとっては反発的アレルギーを起こさせるに十分なものがあるでしょう。しかしそれを乗り越えて読んでみる価値もまた十分あるのです。
数学についていえば「労働価値論の展開においては、質的側面(諸概念の展開)と量的側面(諸決定式の構築)の間を往復して一体的把握に努めることが欠かせない。そうすることによって、一面のみに偏った分析では容易に認識されない問題の存在が明らかになり、その解決が可能となるであろう」(はしがき)と著者は方法論的にいって自覚的に使用しています。従って私のように数学に手も足もでない者には本書の本当の理解は無理ということになります。しかしそれでも「質的側面」については分かる部分もあるでしょうし、それはそれで重要ではないかと思います。またマルクス批判については、論争史を踏まえて何をもって継承すべきマルクスの本質的部分とするかが大切であり、墨守か棄教かという硬直した対応には発展性がないというべきでしょう。著者の価値論の「質的側面」がマルクス経済学の価値論の発展の中でどのように位置付けられるかについては後で私見を述べたいと思います。
本書に限らず、線形代数的表現などを用いた経済学に共通することかもしれませんが、近代経済学に学んでマルクス経済学の方法の「民主化」が行われているように思います。一言で言えば「天才的直観から全面的考察へ」あるいは「ピックアップからベタへ」となりますか……。方法論の知識が乏しいのではなはだ大ざっぱなたとえ話で申し訳ないのですが、マルクスと近代経済学者たちとを、天才釣師と地引網漁師集団に見立てます。天才釣師は大海に向かって釣糸を垂れ高級魚を次々と釣り上げます。周りにはそれを料理するだけで満足している人達がたくさんいます。たまには自分もまねして釣糸を垂れてみる人もいます。なかなかうまくは釣れませんが。地引網漁師集団は大海を全部自分のものとするような勢いでたくさんの魚を取ってきます。しかし雑魚も高級魚も見分けがつかないのであちこちに玉石混交の料理ができます。今ここに天才釣師の見習いをしていた若者がいて、地引網漁師集団に混じって魚を取ってきて、あらかじめ習得した眼力で雑魚と高級魚を仕分けしてそれぞれの味を活かした見事な料理を作り上げます。
マルクスは初めから本質狙い。しかし凡人はとにかくまずは対象を全部受け止めるしかない(たとえば線形代数的表現では対象を個別の集合としてその全体像において表現することができます)。その上でマルクスに学んだ目で本質を探し出す。そうすると名人上手が意外に掬い落としていたものまでも拾う場合もあります。
全面的考察という「民主的」方法の例はたとえば本書第1章「マルクス派経済学の価格理論」の中での商品形態の必然性の分析に見られるように思います。マルクスによる「社会的分業と私的所有の矛盾」という見解は商品形態の本質の鋭い洞察ですが、それがなお不十分な部分を含むことは、たとえば社会主義経済における商品経済の存在根拠をめぐる論争などで現われていました。本書では歴史的・全社会的に実に周到なしらみつぶし的考察を加えることでいっそう包括的な理解に達しています(詳細は本文参照)。
本書の労働価値論は、「労働過程論の視角」で価値実体を論証し、諸商品の個別的な投下労働を起点として、各種の不等労働量交換が重層的に加わった価格理論として構築されています。ここで注意すべきは、体系の起点たる投下労働とは、たとえば不熟練労働なども含めた現実的・具体的な労働であり、労働価値は(一般に考えられているような)投下労働ではなく、市場経済一般のレベルで発生する不等労働量交換を体現した支配労働の一種だということです。こうすることでこの体系は価値実体についての確固たる実在的根拠を得るとともに商品経済や資本制経済に対する理論次元を踏まえた分析力を発揮できるのです。
マルクスの労働価値論は、まず「蒸留法」で価値実体を論証し、等労働量交換の方法によって投下労働価値論を上向的に展開するものでした。
これに対してその後の論争においては、まず「蒸留法」による価値実体の論証への批判がされ、転形問題などでは線形代数などを用いた検討によって、等労働量交換の方法が維持し難いことが明らかにされてきました。ここでは価値論の展開過程の全体が労働価値論の論証過程とされており、従って逆にそこに矛盾が露呈している以上、労働価値論自体が破綻していると見なされる傾向がありました。
本書の方法は、まず「労働過程論の視角」によって価値実体を論証し、不等労働量交換の方法によって支配労働価値論を上向的に展開するものです。ここでは不等労働量交換の方法によって各種の批判をクリアし、価値実体の論証は「労働過程論の視角」で完結し、後は論証ではなく適用・展開となります。
<マルクス→論争→本書>という歩みにおいて、マルクスと本書とは一見まったく違う体系のようですが、「論証→展開」というシンプルな全体構造が復活保存されていることが注目されます。しかも「蒸留法」に代えて「労働過程論の視角」を価値論体系の起点に置くことはかえってマルクス本来の社会・歴史観にふさわしいともいえます。
残念ながら私の能力では各論点についての検討は行えず、その諸結論への判断は留保せざるを得ません。木を見ずに森を見ようとするような大ざっぱな全体的印象を述べるに終わりましたが、それでも私にしてみればマルクス経済学と労働価値論の理解にとって重要な前進があったと感じます。著者は何よりも学界に挑戦しているわけですが、広範な人々にも読んでもらいたいと思います。
2003年12月19日
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以下は『価値の理論』についての研究会に参加しての感想です。
昨日の研究会はお疲れさまでした。
冒頭から厳しい議論の応酬となり、固唾をのんで聞き入っていました。
私が一番印象に残ったのは、「物理的時間だけが交換価値の実体を計るものであって、それは勝手に伸縮させることはできない」ということです。現実の具体的な投下労働から出発することであらゆる神秘主義を追放し労働価値論の実在的基盤を明確化した点に、和田価値論の重要な理論的貢献があると思いますが、そのためには物理的時間を不動の基準とすべきことがわかりました。
現実の具体的な投下労働から出発する以上、一物一価の市場で成立する労働価値は投下労働ではなく支配労働の一種とされますが、このことは通常見過ごされている市場経済の本質を明らかにします。議論の中で強調されたように「労働の結果がすべてで、過程での努力は評価されない、というのは、市場経済だからそうなのであって、それは歴史貫通的なものではない」ということを示すのが労働価値論であり、労働価値を投下労働=出発点とする通説では逆に市場経済のあり方が歴史貫通的なものとして錯覚されがちになります。以前にも申し上げたかもしれませんが、これは意外と現実的な問題です。市場の効率化原理からすれば「24時間闘える」男だけが生き残ることになりますが、社会保障制度を維持する観点からはこれは不都合です。障害者とか育児・介護を抱えて部分的にしか働けない人なども含めて、働く意欲のある人々すべての労働を結集して、その所得から税や保険料を負担することで社会保障制度をみんなで維持していく必要があります。資本主義は全面的な市場経済であるというのはあくまで理論上の想定であって、現実的な経済政策の次元では市場ならざる部分を扱う場合があります。マルクス経済学の一部にある生産力主義では市場の効率化原理が不用意に一般化されます。労働価値=投下労働(社会的平均労働)とすることで現実の様々な投下労働が見えず、その効率的市場像で市場ならざる部分をも裁断してしまうことにその根源があるのかもしれません。それではいかにも不都合だと思う人は「労働価値論によるマルクス経済学」とは別にたとえば「福祉の経済学」を構想したりするかもしれません。しかし和田価値論によればそういう二本建ては不要となるはずです。
大島雄一『価格と資本の理論』では、資本主義と社会主義の共存という世界において経済学の出発点は商品ではなく生産一般である、とされました。その際に、商品以上に下向すると生産関係の歴史的性格を見逃すという通念は次のように批判されています。
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ブルジョア経済学が生産関係の歴史的性格を看過するのは、労働・財貨にまで下向しそこから出発するからではなく、たとえば財貨と商品を、労働生産物とその商品形態を区別しないことから結果するのである。もともと下向とは、混沌たる表象から諸範疇を分離・識別し、それらの存立の社会的条件を確定することに他ならない。だから、ブルジョア経済学の弁護論的性格は、財貨にまで下向せずに商品から出発すること、つまり財貨と商品をその差別と同一の諸側面において規定しえないことから発するのである。(29ページ)
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これに学んで言えば、現実の投下労働まで下向せず、市場経済における支配労働である社会的平均労働を投下労働として出発すれば、生産一般を解明できず、従ってそれとの対比において市場経済を認識することができず、逆に混沌たる表象としての市場経済像をもって生産一般をも理解してしまうことになります。こうして通説は市場経済に対する弁護論的性格を持ち、生産一般の観点から市場経済を批判することが難しくなります。
大島理論に対する和田理論による継承発展の一性格がここにあるように思います。
2004.12.23