これは名古屋古書組合「古書月報」2011年5月31日付に掲載したものです |
東日本大震災をめぐって
初めに、この度の大震災の犠牲者に哀悼の意を表するとともに、被災された方々の生活が一日も早く回復されることを願っています。
我々は多少なりとも学問の本を扱ったり、日々の景気に一喜一憂したりもしている。拙文では、一古本屋として大震災に関連して学問とか経済・社会のことなんかに触れてみたい。
原発震災の衝撃
今回の震災が未曾有であるのは、地震・津波だけでなく、原発事故が加わったからであることは言うまでもない。震災に対する救援と復興が何よりも優先されるべきではあるが、だからといって「糾弾よりも救援を」という言い方で、政府や電力会社などの責任をあいまいにするようなことは許されない。いまだ東京電力と政府は福島第一原発の事故が人災であることを明確に認めることなく、東電にいたっては損害補償に対する免責の可能性さえ追求している。
安全神話が崩壊した原発については、もはや(ドイツのように)期限を決めて廃止する方針をだすべきだろう。低コストという宣伝もデマであった。今回のような重大事故の補償だけでなく、そもそも「核のゴミ」の処理のめどもたたず、環境への影響が懸念され、費用も莫大である。すでに老朽化した日本の多くの原発はこれから一気に減っていくほかなく、いつまでも電力の三割が原発依存だということは続かない。そして様々な自然エネルギーが有力な選択肢としてある。これまで原発につぎ込んできた膨大な資金を自然エネルギーの開発と普及に回すべきである。ここには新たな産業発展の可能性がある。その上で、コンビニの営業時間などに代表される異常な24時間社会を見直し、自動販売機を規制する、電力使用の4分の3を占める産業用について、ピーク時の調整をするなど、社会全体での省エネに努めるべきだろう。原発がなければ生活できないかのような脅迫はいい加減にやめて、原発終息への現実的道筋を示すのが政治の使命であろう(これらについてはたとえば、飯田哲也・鎌仲ひとみ「自然エネルギーの社会へ再起しよう」/『世界』5月号所収/参照)。
東電や政府だけでなく御用学者・御用科学の責任も重大だ。彼らはネットワークを組み、原発反対の論調をくまなく探して、ささいな間違いでも見つけるなら抗議を集中する。物理学者の池内了氏が教育テレビの番組「禁断の科学」に出演していたとき、そのテキストに見つけた小さな間違いをたてにNHKに番組中止の圧力をかけた(本人への直接の抗議はなかった)。あらゆるメディアに対して同様の圧力をかけている。学術をよそおっているが、メディアのスポンサーとしての電力会社がバックにあるのだ(『世界』5月号、56ページ等)。実に陰険な連中である。1997年から「原発震災」を警告してきた地震学者の石橋克彦氏に対して、「原子力学者」たちは安全神話の立場から、事実上「素人は黙っていろ」と言わんばかりに応じている(同前、128-129ページ)。
自立した学者である石橋氏は「逆向きの発想」を提起している(「朝日」四月二八日付)。それは「社会の現状を与えられた条件として研究するのではなく、地震研究者だからこそ気づく危険性を示して社会の変革を提言するという発想」である。政治経済機能が集中した過密な大都市で地震が起こったら大変だからどうなるか研究する、というだけでなく、こんなに大変なことになるから大都市の過密さを変えなければならない、と発想し提言するわけだ。これに対して、御用学者たちは社会の現状は与えられたままに、その政府や企業が推進する(たとえば原発のような)危険なことを正当化する道具として科学を使ってきた。すべてを理解しているわけではない科学が提出した一定の結論(たとえば「被害想定」)が、あたかも確立した根拠として扱われてしまう(そして後の祭として、「想定外」だったという弁解)。このように御用学者たちにおいては、社会の現状に対して無批判であることと、自己の自然科学を過信することとが固く結合している。だから批判的な人々の健全な常識にも「素人は黙っていろ」と言わんばかりに応じる。自然科学が批判的な社会科学と結合することによって、こうした御用科学的悪用を防ぎ、逆に間違った社会を変える役割を果たすべきだろう。
石橋氏のこの姿勢は一貫している。阪神大震災から一年を経た一九九六年一月一八日の論稿「自然と調和、分散型国土で」(「朝日」夕刊)の的確さは見事なものだ。「直撃する大地震の破壊力はすさまじく、社会・国土・都市の現状では、神戸・阪神間の被害に匹敵するかそれを上回る震災を何度か被って、全世界にも深刻な影響を与えかねない」。十五年前のこの予言は的中した。
そして「このような厳しい状況を認識すれば、都市という器の在り方を不問にして中身だけを技術的にいじる震災後の多くの防災都市論議がいかにも空疎に響く」と断言し、以下に展開される提言は今もなお傾聴に値する。
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地震に強い都市づくりとは、結局、都市と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくることに帰着する。それは、自然の摂理に調和した国土づくりということであり、災害に強いばかりではない。地球の環境と自然、自然の一部としての人間の身体と精神を守ることによって、より高度な文明の実現につながる。
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続いて東京一極集中や弱肉強食の規制緩和万能論が批判され、地方の一次産業・地場産業の振興、都市では小規模店などによるコミュニティの重視などが主張される。ところが今、「復旧ではなく復興」というかけ声とともに、「上から目線」で大型開発が企まれている。阪神大震災のとき、被災者の惨状を尻目に神戸空港を造ったような愚を繰り返してはならない。
原発から自然エネルギーへの転換は、大規模一極集中型から小規模分散型への転換であり、これは大規模事故によるダメージを防ぐことになる。それだけでなく、こうしたエネルギーの「地産地消」は上記の「都市と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会」を支えるものとなる。実はこれは二○○八年のリーマン・ショック以来の長期不況を克服していく道にもつながっている。
この金融恐慌に発した大不況について、当初日本では影響は少ないと思われていた。実際、日本の銀行は欧米に比べればダメージが少なかった。しかし実体経済への影響はきわめて大きかった。輸出主導の景気回復という体質に陥っていた日本経済にとって、米国経済の落ち込みは大きく響いたのだ。主要国と比べても日本の輸出依存度は決して高い方ではないのだが、GDPは大きく下がってしまった。これは米国市場への依存が大きい(アジア向けも大きいが、アジアの生産もまた米国向けである)ことと、産業構造が自動車一極集中で、輸出大企業を頂点にした産業連関の広がりが大きくて、国内向け産業も大きく影響されたためだ(トヨタがこけたら皆こけた)。それで立場を超えて「輸出依存から内需主導」への大合唱が起こった。
問題はどのような内需主導にするかだ。先進国でも例外的に賃金が落ち込んでいる日本ではこれを反転させるのが第一、次いで一次産業を初めとした地方経済の地域内循環を再構築すること。地方で作った自然エネルギーを大都市に売って地域の中で金を回す構造を形成することも、そうした地域内循環型経済につながっていく。
ただしこの展望に立ちはだかるものがある。新自由主義グローバリゼーションの現実だ。次にそれを見たい。
一方で絶望と沈黙、他方で喧騒やカラ元気、と様々な感情が渦巻く被災状況の中でも、批判的ヒューマニズムを土台にした冷静なリアリズムが必要とされる。「震災後には『がんばれニッポン』という言葉が躍った。だが震災が浮き彫りにしたのは、『ニッポン』の一語で形容するにはあまりに分断されている、近代日本の姿である」と喝破した小熊英二氏の鋭い議論に耳を傾けたい(「朝日」四月二八日付「東北と東京の分断くっきり」)。
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復興に水をさしたくはないが、懸念されるのはいっそうの過疎化だ。グローバル資本とグローバルシティにとって、食料と労働力の供給地は東北である必要はない。20世紀の国内分業で位置を定められてきた東北は、21世紀の国際分業競争の渦中で打撃をうけた。地震と電力供給のリスクがある東北から工場を海外へ移す動向も予想されている。町をまるごと失い、放射能におびえ、仕事と安全の未来もみえない状態が続けば、若者から先に東北を離れてゆく。この現実を直視し、日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有せずには、防災都市やエコタウンの構想も新築の過疎地と財政赤字を残すだけに終わりかねず、原発に頼らない地域社会も作れない。
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「このようなグローバリゼーションの現実を受け入れよ」という議論は必ず出てくる。もちろん小熊氏はそれに対抗する意図で、事前にあえて怜悧に現実を提起したのだろう。グローバル企業の勝手気ままを許していては、内需循環型の地域経済・国民経済への転換の実現は困難だ。昨今、地方自治体が多額の補助金を与えて大企業を誘致する例が多いが、都合が悪くなればさっさと撤退する企業があとをたたない。「日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有」するという小熊氏の提起は、政府・財界に対しても地域経済と国民経済を守る経済政策と企業行動を要請するものであろう。ただしそれとはまた別に一次産業・地場産業などを独自に立ち上げていく課題はあり、自然エネルギーもまたその一つの柱となりうるものだ。もちろん被災地においてはそれ以前に、地元の意思を尊重した政府のイニシアティヴによる救援・復興が不可欠なのは言うまでもない。
日本人への信頼
蛇足ながら、被災者たちの理性的な助け合いの姿勢に関連して思うところを一つ。被災地に暴動はなく、人々は秩序正しくがまん強く、便乗値上げもほとんどない。日本社会では、こうした非常時に私利私欲をむさぼったり、力ずくでことを運ぶのは恥ずかしいとされているためだろう。もちろんこれは素晴しいことであり、新しい経済社会の萌芽がそこにあるとさえ言える。
しかし裏返して言えば、これは平時における「搾取と悪政に耐える柔軟性」という性格にも通じる。抑圧されても自助と共助によって日々の困難を何とかやり過ごし、社会の変革というような「大それたこと」を求めないというセンスにつながる。伝統的に培われてきたこういう姿勢は、おそらく理論というより感性の深みにあり、それだけに強固だろう。演歌的世界とでも言うべきか…(確か古賀政男は「演歌が好きなうちは日本人は幸せになれない」と言っていた。偉大な作曲家は自己の仕事に深く複雑な思いを抱いていたのだろうか)。私は日本人のこの感性も愛するけれども、やはり耐えるべきときは耐えるにしても、立ち上がるべきときには立ち上がらなければならないと思う。そのあかつきには西欧の個人主義に立脚したものとは違ったタイプの民主主義社会ができるかもしれない…(そういう可能性について示唆的なのが、加藤周一「近代日本の文明史的位置」、講談社学術文庫『日本人とは何か』所収、初出は『中央公論』一九五七年三月号)。
そんな夢想はやめろという声が聞こえる前に、もうちょっとは現実的な話をしたい。世界から賞賛される被災者たちの姿は、憲法九条とともに日本の信用を大いに高めている(原発震災は逆に日本の信用を落としているけれども)。これこそまさにわが国に最大の安全保障を提供するものだろう。かつて日本全体がいわば狂気の中で、侵略戦争に突入して行った歴史がある。今もなおそれを反省しない政治家たちが妄言を発することによって、世界でとりわけアジアにおいて日本国家と日本人は信用をなくし警戒されている。しかし今回の災害では、日本人は平和な助け合いの精神に貫かれていることがはっきりと示された。津波の中で中国人研修生を助けて自らは犠牲になった日本人の行為が中国で大きな感動を呼んだ。
世界から同情され尊敬される今こそ、憲法の精神に立って、武力によらない真の平和を東北アジアに構築していくイニシアティヴを日本政府がとるべきだろう。それは期待できないかもしれないけれども、かすかに思い出されるのは鳩山元首相の姿だ。首相就任直後の国連安保理での演説の中に立派な一節がある。「近隣諸国で核兵器開発が問題になるとき、世界では日本の核武装が懸念されるけれども、それは核兵器廃絶への日本人の決意を知らないものだ」というような内容を喝破したのだ。あの頼りなかった首相のわずかな実績の一つだろう。これは多くの日本人の素直な気持ちと一致しており、憲法の理念にも沿う。今、米軍の災害救助活動を奇貨として、沖縄への基地押し付けなど、軍事同盟の強化を図る動きもあるが、逆に六ヵ国協議の再開など、平和外交に舵を切るべきだ。憲法と日本人の世界的信用こそが平和を築く宝である。
失われた多くの人命と被災者の厳しい現状を思えば、ずいぶんとりとめもないのんきな話になったかもしれません。妄言多罪。