これは「『経済』2014年6月号の感想」の一部です |
平和について考えてみる …革新リアリズムを探って
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(要旨)
集団的自衛権容認など、安倍政権の暴走を阻止するため、保守良識派をも含めた広範な共闘が進んでいます。ただしその中でも革新派は独自に理論追求し、真の平和を目指すために人々に説得力ある議論を提供する必要があります。多くの人々が平和への脅威を感じているとき、正確な現状認識と政策提起を可能にするには、平和の状態について段階的に区別し、現状認識と価値判断とを区別しなければなりません。それに照らして、例えば軍事同盟・軍事的抑止力などへの見方が整理できます。そうすることで空想的理想主義というような批判を克服し、人々の支持を得る可能性を高められるでしょう。
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素人論議ながら、平和についてあれこれ考えてみましたので、以下に私論(試論)を提起します。
共闘と独自性の両面追求
安倍政権の数ある暴走の内、集団的自衛権容認などの「戦争のできる国づくり」に対しては、保守良識派なども含めた広範な「一点共闘」が反対の声を強めており、世論の多数派も警戒しています(ただし集団的自衛権の「限定的容認」を選択肢の「中庸」に配した作為的方法の世論調査では「容認」が多数派となっており、確固たる反対になってはいないことがうかがえる)。安倍首相を始めとする保守反動派を孤立させ、その野望を挫折させるため、この共闘は必要不可欠ですが、それと同時に革新派は理論政策の正確化を独自に追求していくことも必要です。ところがそこに政治的共闘に引きずられた理論上の保守ボケがあるのではないでしょうか。たとえば「個別的自衛権であっても、武力でこれを行使することは憲法上認められていないことが前提ではなかったのかと思いますが、こうした原点が『お留守』になってはいけません」(松井芳郎「戦争違法化の世界の流れに逆行する安倍内閣の集団的自衛権行使容認(下)」、『前衛』6月号所収、51ページ)という警告があります。集団的自衛権の容認を許さないために、個別的自衛権に関する意見の相違を棚上げして共闘することは絶対に必要です。しかしそもそも革新派は何を目指しているのか、それに照らして当面の一点共闘はどういう意味を持っているのか、という自覚がなければなりません。そういう見通しを持つことで初めて、複雑な情勢の中で様々な不安が持ち込まれる世論を進歩的な方向に変え、真の平和、さらには積極的平和を実現する道筋が描けるのです。この不安の克服は将来の発展方向の観点から行なわれますが、当面の闘いにも資するものです。これは決して保守良識派にはなしえない課題であり、革新派の理論的政策的彫琢が求められるところです。誤解がないように言えば、それは保守良識派の人々の危機感・誠意・熱意を軽視することではなく、その実践的知見に学びつつ敬意を払って共闘を進めることは当然です。
「平和への脅威」を捉える
多くの人々は、安倍政権の暴走に違和感を持ちつつも、日本の安全保障に不安を抱いて迷っているのではないでしょうか。それを的確に表明した朝日新聞「声」欄への投書(5月12日付)を紹介します。
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「戦う」という若者に届く言葉は
幼稚園経営 須田勝代(群馬県 51)
憲法記念日の特集を読んだ。根強い反対にもかかわらず、政権は解釈変更で集団的自衛権行使を認め、改憲で戦争をできるようにしようとしている。ただ、それがいけないという説得力ある言葉が今あるだろうか。紛争は世界中にあり、武力介入が求められることも多い。若者が「生き残りに必要な軍事力を持てないのは理不尽」と思うのも不思議ではない。
韓国船の沈没事故で救助された船長が非難を浴びた。しかし、非常時への心構えがなければ自分だけ助かろうとするのも無理はない。乗客乗員の命を守るためには十二分な計画と準備が必要だったのだ。この危機管理の無さは具体策無しに戦争に反対するリベラル層に重なる。
私は日本が平和憲法を捨て、軍事力のある列強国に変わることには反対だ。だが、生き残るために戦うという若者に暴力にかわる方法をうまく説明できない。
漫画「進撃の巨人」が人気だ。人間と巨人の戦いを描く作品は、受け入れがたい暴力場面もあるが、思春期の一途な正義感をしびれさせるのは理解できる。少年兵アルミンは言う。「何も捨てることができない人には何も変えることはできないだろう」と。3日の意見広告「未来への責任、9条実現」がきれいごとに見えるのは、刻々と変わる国際情勢の中、平和のために何を選び、どう対応するかが見えづらいからではないか。
政権の流れに反対する政治家や、すべての大人たちよ。未来への責任を唱えるのなら、命が危険にさらされる前に真剣に考え、具体的でわかりやすい提案を若者に示し、行動しよう。でなければ若者は沈む危険を感じる船を捨て、「変える」人について行ってしまうだろう。
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投稿者は、心情的には「改憲で戦争をできるように」することには反対だけれども、「紛争は世界中にあり、武力介入が求められることも多い」情勢においては、それに理論的に反論できないとしています。さらに「具体策無しに戦争に反対するリベラル層」の「危機管理の無さ」を難じ、「意見広告『未来への責任、9条実現』がきれいごとに見える」と批判しています。しかし最後には、政権の流れに反対する提案と行動を促すことに一縷の望みを託しています。
私は平和を考える出発点は、戦争の悲惨さに思いを致し、戦争に反対する心情であり、いかなる意味でも、それを無責任とかきれいごとと非難することはできないと思います。それ以外から出発する議論は例外なく間違いです。ただしそこだけに留まるわけにはいきません。平和構築の理論を説得力を持って提出する必要があります。その際に、戦争の現場の事実、それに発する感情、そうしたものが平和理論にとっての原点であるとともに、行論の中で常に思い浮かべるべき表象です。平和を求めることを感情論として切り捨てることなく、かといってそこだけにとどまることなく平和を理論化し、情理兼ね備えた言葉を提起することが必要です。
短い投書文に対してはないものねだりだとは思いますが、ここには安全保障への不安が分析することなく漠然と語られており、それが集団的自衛権容認にまで結びつきかねない危険性が現れています。そうした一定の世論状況を作り出し、そこに便乗して、安保法制懇報告書が5月15日発表され、安倍首相が記者会見を行ないました。その検討がここでの課題ではないので、おおざっぱなことだけを言います。
この報告書と記者会見は平和について徹底的に軍事的抑止力の立場に立っており、外交努力をまったく軽視しています。その上で「日本近海で紛争が発生し、邦人を救助・輸送する米艦を防護しなくてもよいのか」といったかなり非現実的な危機の想定を具体的に述べることで不安を煽っています。安倍政権のこうした手法は麻生副総理のいうようにこっそりナチスをまねしたのではないかとさえ思えます。ナチスの高官ゲーリングはこう語っています。
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もちろん、普通の人々は戦争を望まない……しかし、政策を決定するのは最終的にはその国の指導者であるのだから、民主政治であろうが、ファシスト独裁であろうが、議会制であろうが、共産主義独裁であろうが、国民を戦争に引きずり込むのは常にきわめて単純だ……そして簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国家を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国家についても等しく有効だ。
「国家秘密警察ゲシュタポを創設し、経済計画四カ年計画の全権として軍備拡張を強行したナチスの軍人ヘルマン・ゲーリングに対して、独房でインタビューを行ったアメリカ人のグスタフ・ギルバートの記録である『ニュルンベルク日記』の中の言葉」
山室信一「『崩憲』への危うい道 軽々な言動によって骨抜きにされる日本国憲法」
(『世界』2013年10月号所収) 51ページ
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安全保障は英語では security で、これは「安心」というニュアンスが強く、主観的なものです。安易かつ野放図に安心を求めると「より強力な武器を持たないと不安」ということになります。そうではなく「平和とは、努力してつくる、実現するものです。戦争にならないよう話し合い、交渉して問題を解決することが大切です。武器は平和を乱すものであり、それで平和をつくることなどできません」(杉浦起明・日本ホーリネス教団川越高階キリスト教会牧師、「しんぶん赤旗」5月19日付)という宗教者の真摯な言葉に耳を傾ける必要があります。もっともこれに対しては「武器による平和もある」として、納得しない向きもあるでしょう。それについては後述します。
安保法制懇の報告と首相会見に対してどんぴしゃりの反証を挙げたのが、アフガニスタンで約30年にもわたって農水路建設などの支援をしている「ペシャワール会」の中村哲現地代表です。米国は対テロ戦争でアフガニスタンを攻撃し、NATO諸国も集団的自衛権を発動して軍事行動に加わりました。したがって現地住民が欧米人に向ける目は厳しく、兵士が地元住民に襲われる事件が頻出しています(「朝日」5月17日付)。
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一方で、現地の人たちは、日本が平和憲法を持ち、現地での戦闘に直接かかわってこなかったことを理解しているという。
ただでさえ、危機管理には細心の注意を払う。宿舎から作業場への移動ルートは常に変える。移動の時間帯も変える。現地の人とは政治的な会話を避ける。地元の習慣にそぐわない行動は慎む。中村さんはそんなルールを自ら課しながら危険を回避してきた。
しかし、仮に日本がNATO諸国のように集団的自衛権の行使で米軍と軍事行動をともにすれば「注意すれば大丈夫、というレベルではない。ここでの活動はもう無理だ」と言う。
同前
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首相会見では、海外で活動する日本の団体が武装集団に襲われたときに、現状の憲法解釈では自衛隊が救えない、と訴えました。これについて中村氏は「私たちに何かあれば、主権国家として現地の政府や警察が動いてくれる。武力でトラブルを起こすようなまねはしないでほしい。政府の方針は、会の活動を脅かすものにしか思えない」(同前)と斬り捨てています。中村氏はまさに危険な場所で努力して平和をつくり実現しようとしている、最も誇るべき日本人であり、その腹の座り方は、「無責任に反戦を叫ぶだけの進歩的知識人」とか「危機管理の無さ」という類の揶揄をまったく寄せつけないものです。日本国憲法の偉大さとそれに沿って平和を実現する努力のあり方を鮮やかに見せつけ、逆にもっぱら軍事力による平和を掲げた集団的自衛権の危険さを具体的に告発しています。
「安倍政権やその支持者たちがどれほど危険なゲームをしているのか、日本がほんとうに破局の縁に立っているという事実が知られていない」(「しんぶん赤旗」5月17日付)と警鐘を鳴らす内田樹氏は問題の本質を鋭く指摘します。氏によれば、集団的自衛権の行使は米国の軍事行動に従属的に帯同することであり、米国の敵対勢力から日本は「敵国」と認知され、国内外でのテロのリスクが高まります。
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そういう既成事実を積み重ねて、「非常時」という口実の下に、立憲政治・民主制を空洞化するのが安倍政権のねらいだと思います。
それによって国家独裁的な資本主義(国家資本主義)へとシステムを改造することを安倍政権はめざしているように見えます。 同前
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内田氏は集団的自衛権の行使容認にかける安倍政権のマッチポンプ的策略を見事に衝いています(マッチポンプとはいっても、自分で火をつけて後から消してやる、というよりも、火に油を注いでそれを「解決」と称するという体のモノだが)。集団的自衛権は軍事的抑止力の強化によって安心を増すどころか、周辺国の警戒と軍拡を呼び、さらに新たな敵を作り出し、脅威を増します。それがまた強権国家への変貌を正当化するという悪循環(支配層にすれば好循環)に陥ります。実はこうしたマッチポンプ的性格は好戦勢力に共通するものであり、後述するように、戦後日本のサンフランシスコ体制は全面講和でなく片面講話を選ぶことによって、中立ではなく仮想敵を作り出し、それによって再軍備への道を自ら作り出したのです。それは米帝国主義が冷戦体制における対米従属を日本に押しつけたものですが、日本の支配層は自ら従属の道を選択したのです。
先の「朝日」投書が訴える安全保障への不安が漠然としている、と言ったのですが、関連して、世論の雰囲気と安全保障の客観的状況についてそれなりにまとめたものを見てみましょう。
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いまの世論を考えると、北朝鮮による拉致問題と、中国との尖閣諸島の領有権問題が大きく影響している。これは、そもそも集団的自衛権の問題と関係ありませんが、心理的には結びついている。日本が「なめられている」からそういう問題が起きるので、集団的自衛権などでこわもてになれば、近隣諸国もおとなしくなるのではないかという素朴な感覚が底流にある。外務省や政権がそこにつけ込んでいます。
抑止力を持つべきだとの考え方を全否定はできませんが、「安全保障のジレンマ」と言われるように、強硬策がかえって緊張を高め、偶発的な危機につながりかねないことは歴史が証明しています。
長谷部恭男・杉田敦対談「集団的自衛権 そんなに急いでどこへ行く」(「朝日」5月25日付)での杉田発言
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抑止力について全否定はできない、という問題についてはまた後で考えます。杉田発言は世論が抱える気分については、かなり言い当てているように思いますが、以下では平和への脅威について客観的に捉えてみたいと思います。
世間では、ネットや俗悪週刊誌など一部のメディア・書籍などに中国と韓国への憎悪を煽るものが満ち満ちています。これが安倍政権に象徴される右傾化の底流をなしていることは明らかです。しかし韓国が日本への軍事的脅威であるわけはないので、問題は中国と北朝鮮ということになります。
日中関係においては、領土・資源・歴史の各問題が横たわっています。このうち歴史問題は日本側が悪いので、その点をはっきりさせて、道理の次元において対等の交渉ができる条件を整えなければなりません。「安倍的状況」のままでは日本は戦後世界の民主化の水準に達していない問題外国家として世界中から(「経済大国」の手前、表立っては言わない国からもホンネでは)侮蔑される恐れがあります。日本の支配層は自発的に歴史問題の解決をやり切れないので、人民の声と運動によって圧力をかけるほかありません。
領土問題や資源問題では中国の覇権主義が目立っており、それは対日のみならず対アジアその他でも明確です。しかしそれを日本にとっての軍事的脅威と喧伝するのはためにする議論でしょう。国境周辺での衝突は別として、中国軍が日本の国土に本格的に侵略してくるとか、ミサイルを撃ち込むというような、市民生活が危機に陥るような事態は考えられません。領土・資源問題はあくまで理性的話し合いで解決すべきです。中国の軍事的挑発に近い行為も散見しますが、偶発的衝突を防ぐような両国の連絡調整機構を整備して日常的接触を絶やさないことが今重要です。歴史問題などでいがみ合っているような不毛な状態を一日も早く解決することです。日中の経済的つながりなどを見れば、戦争など論外であることは明白であり、不戦を不動の前提として政策展開する以外の姿勢はありえません。
これに対して、北朝鮮のミサイル・核は日本にとって軍事的脅威です。国交がなく、経済その他の交流もわずかな状況下では、武力行使の可能性がないとは言えません。とは言え、これまで北朝鮮のミサイルが日本に打ち込まれることはありませんでした。戦争していないのだから当然ですが、今後ともそういうことがないとすれば、そこでより重要な歯止めとして働くのは日本の平和憲法と日米軍事同盟のうちどちらでしょうか(もちろんほかの要素もいろいろありますが、ここではこの二つを比べています)。これはもちろん後者でしょう。北朝鮮の異様な政権が平和憲法を尊重するとは考えられず、米軍の報復攻撃によって国家を滅亡させられることへの恐怖がミサイル発射を踏みとどまらせる最終的な歯止めであることは容易に想像しえます。
ならば日本の平和にとって憲法は役に立たず、日米軍事同盟の方が大切なのでしょうか。それは違います。北朝鮮のミサイルの矛先が向いているのは、韓国・日本・米国だけです。中国・ロシア・モンゴルはもちろん、世界のどのほかの国にも向けられていません。それは前3か国が北朝鮮の敵対国であり、その他の国は友好国か少なくとも敵対国ではないからです。ミサイルの迎撃態勢を整える(それは技術的に困難の上に不確実だが)とか、集団的自衛権容認など軍事同盟を強化するとかの不毛かつ危険な努力ではなく、日朝国交を正常化し、経済援助を先駆けに経済的つながりを深め、人的文化的交流も活発にして敵対状態をなくせば、ミサイルの脅威は確実になくなります。さらには6か国協議を再開し、発展させて、東北アジアにおいてもASEANのような平和の地域共同体を作り、ゆくゆくは日米軍事同盟を解消することがより確実な安全保障となります。今や可能性は少ないけれど、米国が北朝鮮を侵略することになれば日本が巻き込まれてミサイルを撃ち込まれることはありえます。どんな強大な軍事力も確実な安全保障ではなく危険と隣り合わせなのです。現状においては日米軍事同盟が北朝鮮のミサイルに対する抑止力となっているのですが、それはきわめて不安定な状況です。日本の本当の平和のためには、その現状を転換して、軍事的抑止力信仰に基づく軍事同盟の道ではなく、憲法の導く理性的話し合い・外交の道が選ばれるべきだと言えます。
二様の区別 <「平和」と平和、現状認識と価値判断>
世論を悪い方向に持っていく原因となる、安全保障上の不安の根について、具体的に考えてみると以上の結論に達しました。そこから得られる理論的含意として、平和について考える際の留意点を以下のように考えます。
二つの区別を提唱します。一つは平和の状態に関する段階的区別です。二つ目は平和についての現状認識と価値判断とを区別することです。
平和とはまず戦争をしていないことです。最も理想的には、貧困や差別など戦争の原因となるものを克服した結果として、戦争のない状態であり、これを積極的平和と呼び、最も恒久性が高い(最上級)ものです。積極的平和を目指す努力は原因療法にたとえられるでしょう。それに対してそうした状態には至らない段階で、外交・話し合いによって戦争を避けることができている状態を消極的平和と呼び、より恒久性が高い(比較級)ものです。消極的平和を導き出す努力は対症療法にたとえられます。この二つに対して、そうした努力もありながらも、軍事的抑止力を含めた諸要因によって戦争がない状態を「平和」(カッコつきの平和)と呼びます。これは恒久性が低く戦争と隣接状態です。「平和」においては、原因療法・対症療法と軍事力とのバランス具合により、戦争回避の恒久性と戦争可能性とが微妙に変化します。以下の行論では、積極的平和と消極的平和とを合わせて真の平和、あるいは単に平和と呼び、「平和」と対比します。現存するのは多くは「平和」であり、目指すのは平和です。「平和」と平和とを区別することが、現状の理解と運動の方向確立に必要だと考えます。とはいえ「平和」と平和は戦争がない状態という意味では共通であり、当然のことながら戦争とは決定的に区別されます。戦争状態から「平和」まで押し戻すことがきわめて重要なのは言うまでもありません。
平和についての現状認識と価値判断を区別することは平和運動を進める主体にとって不可欠だと思います。運動主体はしばしば価値判断に引きずられて現状認識が不正確になり、人々に対して説得力を欠くことがあるからです。先に「武器は平和を乱すものであり、それで平和をつくることなどできません」という宗教者の発言を紹介しました。私はこれは正しいと思いますが、「武器による平和もある」として、納得しない向きもあるでしょう。上記の区別によれば、武器で平和をつくることはできませんが、「平和」をつくる場合はあります。北朝鮮のミサイルの脅威をさしあたって抑えている主な要因は、日米軍事同盟の軍事的抑止力です。それは不安定な「平和」であって、目指すべき平和ではありませんが、ともかくも戦争状態ではありません。先の宗教者の言葉が正しいにもかかわらず、説得力が低いとするならば、現状認識と価値判断とが区別されていないためです。軍事的抑止力による「平和」がいいか悪いかということと、それが現状としてあるのかないのかということとは別問題です。平和に対して良心的な人々はしばしば「悪いものはあってはならないから無いはずだ」という錯覚(客観的には論理のすり替え)に陥ります。「平和は軍事力によっては守られないはずだから、平和はもっぱら外交・話し合いによって守られている」というのも願望であって現状認識としては間違っています。そう主張する人は、現状の「平和」と目指すべき平和とを区別していないのだから、私の用語法で言えば、この発言は「平和は軍事力によっては守られないはずだから、『平和』はもっぱら外交・話し合いによって守られている」と言っていることになります。北朝鮮のミサイルの例から明らかなように、ここにおける前段の価値判断は正しくても、後段の現状認識は誤りです。誤った現状認識は説得力を持たず、そのため「平和は軍事力によっては守られない」という価値判断そのものも誤っているかのような逆の錯覚(客観的には論理のすり替え)が起こります。私が現状認識と価値判断の区別を言う目的は、価値判断の正当性を擁護することです。「現状認識が甘く間違っているから、その理想と政策も空想的だろう」という批判に応えるには、現状認識をリアルに説得力を持たせるほかありません。平和の認識と実践は<「平和」状態と戦争可能性について現状認識を確定する→それに対して平和を目指す価値判断から評価する→平和に接近しうる政策をつくり実践する>という形で展開することになります。
私たちは現状認識の段階では「専門家」の研究成果や意見を参考にします。豊饒な現実を捉えるためには仲間内だけの知見で済ますことはできないからです。「専門家」の多くは保守的立場で軍事的抑止力を当たり前の前提とし、それを変えることを想定していません。したがってその研究成果や意見を参考にする際に、そうした限界を踏まえることがないと、いつの間にか自分たちの価値判断と政策をなし崩しに変質させる可能性があります。現状認識と価値判断の区別はそうした意味でも必要だと考えます。
以上のように、「平和」と平和を区別すること、現状認識と価値判断を区別すること、この二様の区別によって、現実を見つめるリアリズムと理想への変革を促すロマンティシズムとを両立させることが可能になります。それを認識論的には変革的リアリズム、政治的には革新リアリズムと呼びたいと思います。
戦後日本の戦争と平和を規定する二大要因を<(1)日米軍事同盟・自衛隊、(2)日本国憲法(と平和世論←民主勢力の努力)>とまとめることができます。(1)が目指すものは「平和」ないし戦争であり、(2)が目指すものは平和です。両者はまったく相対立するものでありながら、共存してきました。その合成力によって生まれたのが現代日本の「平和」であり、まさにそれは矛盾そのものなのです。この現実の矛盾は社会意識に反映します。世論調査ではだいたい安保条約と自衛隊への支持も、憲法9条への支持も多数派となり「両立」しています。これは理論的政策的には矛盾なのですが、それは人々の勉強が足らないというよりは、現実の矛盾をストレートに反映した結果と見るべきでしょう。
戦後日本は事実上米軍の占領化に置かれ、1946年に日本国憲法公布、47年に同試行、(49年に中華人民共和国成立、50年に朝鮮戦争勃発)、50年に警察予備隊創設、レッドパージ、51年にサンフランシスコ講和会議で日米安保条約調印、52年に保安隊発足、54年に自衛隊発足、といった経過をたどり、ここにその後を規定する日本の「平和」の枠組みが形成されます。特に日本の敗戦処理を行なう講和会議で安保条約が結ばれ、米国の冷戦体制に従属国として組み込まれるサンフランシスコ体制が発足したことが法的政治的に決定的でしょう。このとき世論は全面講和が片面講話かで二分され激論が繰り広げられました。軍事同盟の道を取らずに全面講和によって中立政策を実施するなら日本国憲法の想定する平和を実現する努力が開始されたでしょう。歴史にイフは禁物であり、それが首尾よく成功を収めえたか否かは大問題ですが、少なくとも政策的矛盾がない一本道を探求することにはなったでしょう。しかし実際には上記のように、一方では片面講話で冷戦下の対米従属国として軍事同盟のくびきにしばられながら、他方には侵略戦争の反省の産物であり平和を志向する日本国憲法がある、というきわめて複雑な矛盾した状況が出現したのです。
片面講話で冷戦体制下に組み込まれたということは、仮想敵国を持つことであり、自ら戦争の火種をつくることです。その状況で戦争を回避しようとすれば軍事同盟を中心とする軍事的抑止力に頼ることになります。対米従属下での再軍備が必然となります。ここには初めから真の平和政策はなく「平和」への弥縫策があるだけです。自ら戦争の火種を作っておきながら、それを消す努力として軍事同盟や再軍備を見せるというのは、まさにマッチポンプ的であり、サンフランシスコ体制とはそういうものなのです。私たちが今銘記しなければならないのは、戦後の出発点において最初のボタンを掛け違え、それに合わせて順次ボタンをつけていったのが保守政権の「平和」政策であり、その整合性なるものは根本的間違いの枠内での取り繕いに過ぎないということです。そうしてつくられたのが現状の「平和」であり、革新派は現状認識においてはありのままを直視すべきですが、それを唯一可能な現実であったと錯覚しないで、正しい最初のボタン掛けとしての全面講和=中立というもう一つの道、別の可能性を思い浮かべることによる現状への批判意識を絶やしてはなりません。
もちろん保守政権による「平和」の現実は軍事同盟路線によってだけではなく、その対極にある憲法や民主的諸運動との対抗・妥協の中で形成されました。自衛隊が「普通の軍隊」にはなりきれず、海外で殺し殺されることがない、という状況はまさにこの対抗勢力のおかげです。ベトナム戦争に自衛隊が参戦することはなく、イラク戦争でも現地には行ったが戦闘に参加することはなかったということは重要です。しかしベトナム戦争とイラク戦争において日本は米帝国主義の侵略戦争に加担したことは事実です。かつての十五年戦争における侵略責任だけでなく、戦後の侵略責任も日本人民は抱えていることを忘れてはなりません。この「平和」の現実を直視し真の平和実現を探求しなければなりません。革新勢力の中にも戦後日本を「平和国家」と呼び、そこにおける「平和主義」を云々する向きがありますが私には違和感があります。確かに対抗勢力の運動が一見そう呼びうる現状をつくりだしたことを称えるのは構いませんが、日本の「平和」はまだ平和ではないことを忘れるならノーテンキのそしりを免れません。
平和をめぐる諸潮流
以下では、平和をめぐる様々な潮流を概観します。保守派を二つに分け、集団的自衛権を容認するのを「保守反動派」、それに反対するのを「保守良識派」とします。革新派も二つに分け、上記の二つの区別<「平和」と平和の区別、現状認識と価値判断の区別>に立つのを「革新リアリズム」、そうでないのを「ロマン的理想主義」とします。もちろんこれは、実際には多種多様に入り組んで存在する諸立場を、私の観点で現時点における平和運動に資するように類型化したものです。そうした方法が認識論的・運動論的に適切かどうかは問題かもしれませんが、とりあえず試論として提起します。
なお集団的自衛権の行使は元来、軍事同盟の盟主国である米国から従属国日本への長年の「要請」であり、多国籍企業化した日本財界も望んでおり、新自由主義グローバリゼーションに適合的です。したがってそれだけをもって「反動」とは言い難いものです。しかし現状況下においては、米国の懐疑的視線を受けながらも、安倍首相を中心とするまぎれもない保守反動派がそれを担っています。ここには保守反動派と新自由主義派という本来相矛盾する両派が野合し相互補完関係において支配政策を担うという構図(これはそれなりの説明を要するがここでは省略する)の中で、集団的自衛権容認が「反動」の指標になるという状況が生まれているのです。旧主流派であり、この問題では革新派から保守良識派と呼ばれる人々は、反動的新自由主義派というヌエ的新主流派から見れば「集団的自衛権問題での『改革』を阻む守旧派」ということになります。それは一見すると錯綜した関係です。しかし「抵抗勢力」を蹴散らして進む新自由主義「改革」の一環としての集団的自衛権容認策動を反動派が担うことで、戦前回帰の色が付き反民主主義的性格が鮮明になります。他国と違って、憲法の下で集団的自衛権行使を否定してきた日本の従来状況の進歩性とも相まって、私たちはその容認策動を「反動」と断定できます。
四つの立場を単純化して表示すると以下のようになります。
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日米軍事同盟 ・自衛隊 |
憲法 |
平和の現状認識と志向 |
保守反動派 |
○ |
× |
「平和」の現状否定 |
保守良識派 |
○ |
△ |
「平和」の現状容認 |
ロマン的理想主義 |
× |
○ |
「平和」と平和を混同 |
革新リアリズム |
× |
○ |
「平和」を平和に変える |
日米軍事同盟・自衛隊と憲法との矛盾的合作である戦後の「平和」は、保守反動派にとっては我慢ならないものであり、改憲によって日米軍事同盟・国防軍による「平和」への一元化を図る「改革」の断行を目指しています。それが困難な現状では、解釈改憲によって突破しようとしています。「平和」はもともと戦争可能性をそれなりに含むものではありますが、保守反動派の「平和」は「戦争できる国づくり」であり、戦争可能性が飛躍的に上昇します。
保守良識派は支配層の立場から戦後の「平和」を形成し維持してきた勢力であり、それを肯定しています。言葉の真の意味での保守勢力です。改憲が党是の自民党内にあってもそれなりに憲法を尊重し、日米軍事同盟・自衛隊との共存を図ってきました。支配層の中では、主流から傍流に転落していますが、この共存を支える法解釈の積み重ねなど、既成勢力としての実績が、反動派の暴走への抵抗拠点として生きています。ただし対米従属のサンフランシスコ体制を支持し、軍事的抑止力を肯定する姿勢は、平和への脅威を根本的に解決する道を閉ざしています。
ロマン的理想主義は日米軍事同盟と自衛隊をなくし憲法による平和の道を主張してきました。平和は軍事力ではなく外交・話し合いによって守られるという見地から、戦後日本の平和はもっぱら憲法によって守られてきた、と考えています。しかしこれは価値判断を現状認識に押しつけた誤りです。もし憲法によって守られた平和ならば、米国のベトナム侵略に加担することはありえません。戦後日本の平和は実際には、日米軍事同盟・自衛隊と憲法との対抗下に生じた「平和」に過ぎず、「平和は外交・話し合いによって守られる」という価値観は十分に現実化されてはいないことがここでは看過されています。
もともと戦後日本の平和をめぐっては、日米軍事同盟・自衛隊と憲法との前者優位での二元的共存体制を維持する保守に、前者を否定して後者への一元化を主張する革新が挑戦するという対決構図がありました。曲がりなりにも戦争がない状態が保たれる中で、そこにおいて積み重ねられた既成事実の容認が世論の大勢になるに及んで、革新派の主張は支持を失いました。日米軍事同盟と自衛隊をなくすという前方の攻めのラインからは退却して、両者の暴走を憲法によって抑制するという後方の防衛ラインを死守することになったのです。そういう後退した平和状況において、新たに保守反動派が政権につき、矛盾した二元的共存体制を改憲(実質的には平和憲法の破棄)によって、革新派とは逆の方向に一元化して矛盾を解消しようとしています。
したがって一点共闘によって保守良識派をも結集し、反動派を孤立させて、せめて二元的共存体制を死守するのが喫緊の課題であり、それは世論状況からすれば大いに展望があります。
その上で、「平和」と平和を混同し、価値判断を現状認識に押し付けることによって、日本の平和をめぐる状況を十分に説明できず、人々から「甘い現状認識によって空想的な理想と政策を提起している」と見なされ、結果的に日米軍事同盟と自衛隊をなくす課題を見失わせている状況を克服することが必要です。日米軍事同盟・自衛隊と憲法との矛盾的共存体制による「平和」は不安定であり、これからも時々の情勢に応じて喧伝される「脅威」によって世論が撹乱され戦争可能性が高まる事態が考えられます。人々の意識に安定した平和の種をまくことは恒常的な課題だと思います。
安倍政権の暴走を阻止し、当面の「平和」を維持しつつ、真の平和を目指すのが私たちの二重の課題です。そこで「ロマン的理想主義」的な弱点を克服し、革新リアリズムの観点が重要になると考えます。
弁解的あとがき
以上の拙論は、平和についての解釈や考え方を述べたものです。具体的な現状分析には乏しく、事実素材が少ないままに理屈をひねくり回して図式化してしまったのは力不足の結果です。平和を推進するための何らかの実際的方策を含んでもいません。しかし平和への誤った理解を整理・淘汰することを通じて、その考え方の正しい筋道をつけ、平和にまつわる諸問題の性格をそれぞれに位置づける見通しができるならば、平和を推進する様々な諸方策を生み出す場を整序することにつながり、それらの新鮮な展開を後押しすることに資するかもしれません。
拙論のもう一つの欠陥は、階級論・帝国主義論などの経済的土台の考察がないので、経済次元における戦争原因論を欠いており、平和についてのいわば内容抜きの形式論にとどまっていることです。これはもう他日を期するとしか言いようがありません。
集団的自衛権の問題を始め、政権の暴走下、風雲急を告げるときに、基礎的な理屈の話をしているのは悠長かもしれません。しかし情勢を動かすのは究極的には世論の動向であり、人それぞれの持つ当該問題への基本的な見方がそれに影響を与えます。当面する問題の具体的な知見を普及することは大切ですが、そのベースにある平和への不安と希望について、避けずに考えてみることもそれに劣らず必要だと思い、私見をまとめてみました。