これは「『経済』2017年10月号の感想」からの抜粋です


          朝ドラ「ひよっこ」メモ

 

○最高傑作ドラマのメッセージ

 NHK連続テレビ小説をたくさん見たわけではないが、私が見たうちでは20174月から9月まで放送された「ひよっこ」は朝ドラの最高傑作だと思う(以下敬称略)。戦争の記憶がまだ残る高度成長期の茨城と東京を舞台に、集団就職の名もない農家出身の労働者をヒロインとしたこのドラマは、たとえば「一人一人の登場人物が、それぞれに輝いていく筋立てが見事」(放送作家・石井彰、「しんぶん赤旗」731日付)とか「名作と言える一本となった」、「憲法と歩むヒロイン」(碓井広義上智大学教授、同94日付)と称えられる。そういう中でも私としては次のコラムに最大の共感を捧げたい。

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(TVがぶり寄り)「ひよっこ」にハマる

 「おとうさん、『ひよっこ』面白いですよね。おとうさんは毎日見ていますか?」と主人公・谷田部みね子(有村架純)のナレーションを真似(まね)てみる、朝ドラにハマる私です。

 みね子の独白ナレーションは「北の国から」の純や蛍のそれにも通じる、人には告げないけど大切な心の声。増田明美による物語進行の語りも楽しいが、みね子の声は、このドラマが人の気持ちを大切にし、丁寧に描いていることの象徴だと思う。「みんな、それぞれに色んな気持ちを持って生きてんだなと思いました」と19日放送の回でみね子が独白したように「ひよっこ」は、色んな気持ちをすくい上げてくれる。

 例えば、みね子たちが働いた工場が閉鎖される日、同僚の豊子(藤野涼子)が「やだ!」と言って工場の鍵をかけて籠城する。そこで、主任の松下(奥田洋平)は機材搬出の人たちを止め、豊子が現実を受け入れるまで待ってあげる。働く人の気持ちが大切にされる素晴らしいエピソードで、朝から大泣きした。

 最近のNHK朝ドラは何かになりたいと夢に向かう姿を描くことが多かった。でも、みね子は日々を働き、人と出会い、戦争の傷痕や様々な事情に感じて考え生きていく。それがどんなに意味のある、素晴らしい人生か! 忘れられないドラマになりそうだ。ライター・和田靜香)          「朝日」624日付

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岡田惠和の脚本はきわめて饒舌であり、心の中にあることや普通なら行間に任せることもあえて台詞やナレーションに書き込み、おせっかいに説明する。「みなまで言うな」というヤジが飛んできそうだがあえて気にするふうもなさそうだ。そうまでして「人の気持ちを大切にし、丁寧に描いている」。我々の現実生活では飲み込んでしまう言葉がとても多いのだけれども、そこにあるだろう潜在的会話を顕在化している。それはともに率直に語り合えることの大切さをメッセージしている。岡田脚本は日常生活とそこでの会話に対する鋭い洞察の上に成立している。

 みね子と同じアパートに住む、謎めいた美人の早苗は、普段から歯に衣着せぬ物言いで人に接する怖い女だ。ある日みんなで集まって話しているとき、互いに気を使って避けている話題について、彼女は「あることをみんなが気にしていても触れないようにしている」雰囲気が嫌だと言って、あえて話題にする。早苗の強烈なキャラクターは、率直なコミュニケーションを求める姿勢だったのだ、とこのとき思った。ドラマの進行につれて、会話劇での彼女は、錯綜しがちな話題の核心を取り出しまとめる役割を果たすようになる。

 

○個人の尊厳

「ひよっこ」には悪い人が一人も出てこない。話を転がすための単なる手段となる人も一人もいない。一人ひとりがそれぞれの人生の経験を背負い、それぞれの道を切り開いていく主体として描かれている。先に「一人一人の登場人物が、それぞれに輝いていく筋立てが見事」(石井彰)とか「憲法と歩むヒロイン」(碓井広義)という言葉を引いたように、ドラマは個人の尊重と幸福追求権を規定した憲法13条を体現している。

その点で最も鮮やかなのがみね子の母・美代子の闘いだろう。夫の実が音信不通になり、美代子は東京へ探しに行く。出稼ぎ労働者の「蒸発」はいくらでもあり、警察には軽くあしらわれるばかり。美代子は抗議する。――いばらです。いばらではありません。出稼ぎ労働者を一人探してくれと言っているのではありません。ちゃんと名前があります。谷田部実です。茨城県奥茨城村で生まれ育った谷田部実です。――

諸個人は法的には平等でも、経済力を始めとして様々な格差の中に生きている。社会の現状では弱い立場の個人はそのハンデを乗り越えるため闘わざるを得ない。個人の尊厳をかけて、「田舎者」である美代子は渾身の力を込めて、「都会の権力」の冷たさに抗っているのだ。

失踪していた実が見つかったときにも、美代子は果敢に闘う。頭を打って記憶喪失になった実は「雨男さん」(雨の日に出会ったから)と呼ばれて大女優の川本世津子と秘かに暮らしていた。夫を取り戻すべく、美代子はみね子とともに世津子の自宅に向かう。世津子はもはや観念していて丁寧な物腰で美代子に接し実を返そうとする。美代子はそれでも怒りが収まらない。なぜ負傷した実を見つけたときにすぐに身許を確かめて返そうとしなかったか、おそらくいるであろう家族がどんな思いをしているか分からなかったのかと詰問する。大女優と百姓女である。美代子はコンプレックスを抱かざるを得ない。しかしどんなに差があろうとも、彼女は幸福を追求する必死の闘いを貫徹する。

 個人の尊厳の点では、岡田惠和は現代の若者にメッセージを送ってもいる。父が行方不明になり、みね子は家計を助けるため東京への就職を決意する。しかしもう就活時期は終わり、まともな就職先が残っているとも思えない。みね子は高校の担任の田神先生に「何でもいいから、どんな仕事でもするから」と頼み込む。先生は怒る。――何でもいいから、なんて言うな。自分の大事な生徒にいいかげんな就職先を世話するわけにはいかない、と――。自分を大切にしろ、自尊心を持て、という自己肯定感を促すメッセージ。ドラマはそれをむしろ今の若者たちに向かって発している。

 奇跡的に欠員ができて無事に就職先は決まる。いてもたってもいられなくなって、その晩のうちに先生はみね子の家に自転車で駆け込んで知らせる。電話の無い不便さを補って余りある熱い情熱に、日本社会の青春時代を感じさせる。

 

○地方と東京

 ドラマのテーマの一つは「地方と東京」。地方人のコンプレックスと東京人の上から目線を捉えつつも、両方を温かく包み込む。みね子は、東京は怖いところだと想像する。おじの宗男は東京に行ったことがないけど、こう諭す。「人が暮らしてるところはいいところだ」。

 実は出稼ぎ先の東京で洋食屋「すずふり亭」に立ち寄る。主人の鈴子に対して、実は五輪スタジアムなどをつくったことを遠慮がちに話す。地方出身者が東京の街をつくっていることを念頭に、鈴子は「誇ってもらっていいんですよ」と励ます。そして「東京を嫌いにならないでくださいね」とつけ加える。彼女は東京を愛し、地方の人々の心も知っているのだ。

 地方と東京には格差があり、人々の意識も違う。しかし人間としては平等であり理解し合えるということが根底にはある。高度経済成長を支えた名もない人々と彼らが織りなす日本社会、地方と東京の光と影がさりげない会話の中に描かれている。

 

○職場を描く

赤坂の洋食屋「すずふり亭」のシェフ・牧野省吾の話が泣かせる(616日放送)。

 みね子は「すずふり亭」のホールの仕事に取り組み、慣れない中でも皿を割っていないことだけは秘かに自負していた。ところが省吾から料理を早く持っていくようせかされたときに、初めて割ってしまいすっかり落ち込む。それを見た省吾は自分の言葉を怖がってみね子が落ち込んでいると勘違いして、それを謝って店づくりへの思いを語ろうとする。みね子が落ち込んだ本当の原因はすぐわかったので話を止めようとするが、鈴子(省吾の母)に促されて、収めかけた言葉を継いでいく。

 省吾の父は全然怒らない人だった。自分もそういう店にしたいと思っている。省吾はかつて大きなレストランで修業していた。そこは調理場とホールが離れており、調理場の様子は客には見えないし聞こえない。調理場では上下関係に基づき、ひどい言葉や暴力が蔓延していた。ホールの人に対してもすごかった。こんな雰囲気でつくった料理なんかうまいものか、と思っていた。

 軍隊時代には物事がうまくできなくていつも殴られているやつを見るのがつらかった。かばえば俺が殴られる。一番悲しかったのは、殴られていたやつが下の者を殴るようになったことだ。嫌なものを見た、見たくないと思った。でも人間はやられっぱなしじゃ生きていられない。無理もないところがある。戦争が終わって、もうそういうのを見なくていい。それがうれしかった。気づかないうちにみね子を怖がらせていたらいやだな。

 みね子は、「そんなことを考えさせてしまってすみません」と謝る。

 ホールスタッフの高子は調理場から早く持っていくように言われることには腹を立てている。冷めないうちに持って行けと言うのはもっともなことだが、こちらにもやることはたくさんあるのですぐにできない場合もある。そういうときはほんの少し復讐する、という。調理場に向かって「○○まだですかあ」といかにも待ち遠しそうな表情をつくって言う。「あ、その顔あるある」とにくたらしそうに、調理人の元治は同様の表情で対抗する。二人の応酬が続く。鈴子は「いいねいいねこういうの」と率直に話し合える職場を喜ぶ。

 みね子のナレーション。「私は恵まれています。素敵な職場です。ありがたいです。お父さん働いていますか。そこには笑顔がありますか」。

 この職場シーンでは、まず省吾が語る軍隊とレストランの体験について考えたい。そこでは弱いものがより弱いものを叩く連鎖の悪循環が描かれている。それは人間の醜さだが、それを直視しその原因を考え、それを許さない社会のあり方を考えなければならない。できない者がいじめられる光景は、その中にいると、できない者に原因があるように見える。しかし本質的にはそのような場の社会的あり方に根本原因がある。

 省吾の視点は現場に埋没していない。埋没していれば不条理に不感症で当たり前となる。その批判的視点を支えるのは根本的には人間的センスであり、補うのは憲法・人権・民主主義を体得することであろう。

 

○労働観と資本主義観

 みね子のナレーションにあるように、「すずふり亭」は理想の職場として描かれている。みね子がその前に働いていた向島電機でも仲間とともに楽しく働いている。「ひよっこ」には疎外された労働の現場は出てこない。それはあくまで本源的労働を描いている。鈴子や省吾が従業員とともにつくり上げた「すずふり亭」の職場シーンは、疎外されない労働のあり方、それを保障する社会のあり方を考えさせるエピソードとなっている。

『資本論』は資本主義的労働を「労働過程と価値増殖過程」という二面性において捉える。資本主義的労働は価値増殖過程であることによって、労働者に対する資本の搾取を成立させ、それは必然的に疎外された労働となるが、その基礎には、どのような特定の社会的形態にもかかわりない本源的な労働過程がある。「ひよっこ」に疎外された労働が登場しないのは、ある意味一面的であり現実美化であるかもしれないが、そこには現実批判の基準がある、と考えればよいだろう。軍隊やレストラン職場での経験に対する省吾の批判的視点を先に紹介した。どこでも現実に対するそのようなまっとうな人間的センス・人権感覚とそれに基づく社会観が必要だが、その不可欠の要素として、価値増殖過程としての資本主義的労働を批判する基準としての本源的労働過程の視点が忘れられてはならないと思う。

 貧しい農家出身のみね子は貧乏を正面から捉えそれを憎んでいるが、負けないように明るくふるまっている。父親がいなくなって集団就職で東京にやってきて家に仕送りをしていることも自分の生き方として納得し充実した生活を送っている。だから可哀想などと思われたくない、と初めての恋人である学生の島谷に語っている。それは彼を感動させる。島谷は佐賀県出身で社長の息子だ。父親の会社が経営不振に陥り、その打開のために政略結婚の話が持ち上がる。彼はみね子のために親と縁を切ってでもその話を断ろうとする。みね子はその気持ちは嬉しいけれども、島谷の話を聞いて結局別れを告げる。

 島谷は「お金がなくても自分らしく生きればいい」と紋切り型の台詞を言う。それに対してみね子は「島谷さんはまだ子どもなんですね」とたしなめ、貧乏はどんなに惨めなことかを切々と訴える。――貧乏にいいことはない。それでも明るくしているのは、そうしないと生きられないから。貧乏がいいと思っている人はいない。そして「親不幸な人は嫌いです」と――。

 浮ついたドラマではなくて、生活と労働を見据えていることを印象付けるシーンだ。しかし貧乏を描いても資本主義批判があるわけではない。みね子は真面目に働けば報われると信じている。おそらく資本主義への批判意識はないだろう。それは生活が向上していく高度経済成長時代の一般的な意識だろう(もっとも、当時は社会主義の権威が高く、今と比べれば資本主義批判は強かっただろう。現代日本で資本主義批判の意識が非常に低いことは特別に問題にすべき課題ではある)。向島電機が不況で工場を閉め、みね子たちが解雇される場面は、資本主義社会の現実を反映しているが、労働内容や労働条件が批判的に描かれているわけではない。当時の集団就職の実態については「しんぶん赤旗」日曜版の716日付に体験談と研究者の解説があり、地方と東京圏との格差や沖縄差別などが指摘されている。

 ドラマは貧困を捉えているけれども、その社会的原因として資本主義批判を展開するわけではない。しかし労働過程について述べたのと同じように、人間・労働・社会の本源的あり方を描くことで、現実批判の基準を与えているとは言える。私は労働価値論の視点とはそういうものだと思っている。

 ドラマでは向島電機でのトランジスタラジオ組み立て作業が描かれる。みね子の暮らす「乙女寮」での同僚との交流は物語上とても大切なテーマだ。冒頭に引用した和田靜香のコラムに登場する工場閉鎖時における「豊子の反乱」では、主任・松下の労働者らしい思いやりが感動を呼んだが、それだけでなく、工場に籠城した豊子の演説が素晴らしい。

豊子は心ならずも中卒で地方から東京へ働きに出てきた。勉強はできるのになぜ自分が、という思いがある。故郷では「自分はまわりとは違う」と思い、不本意で孤高な日々を送る。東京に来てもそれは続く。同僚の時子からそれを見透かされ、ここで生まれ変わるように諭され、豊子は心を開いていく。ここまではドラマを見ていた人は知っていることで、工場閉鎖のときに豊子がそれをしゃべったわけではない。その日、豊子は「やだ!」と言って工場の鍵をかけて籠城する。そして自分が工場での労働と仲間との交流の中でかけがえない居場所を見つけ、自己変革したことを語る(確かそのようなことを語ったように思うが、私の記憶はいささかあいまいではある)。その大切な工場がなくなるのは耐えられないのだ。一人の少女が労働者としての自立と自己実現を語ったのだ(と思う)。ドラマは労働者一人ひとりの階級的自立と連帯を描くところまで迫っていたようだ。

 みね子と島谷の住むアパートの大屋である立花富はもとは芸者で多くの男女の行く末を見てきた。島谷がみね子との結婚を考えていることを聞いたとき、身分差のあるむずかしさを指摘する。島谷が「今どき身分はない」というのに対して、富は「身分は百年たってもなくならない」と反論する。ずいぶん無粋ではあるけど、これを経済学と史的唯物論の観点からどう考えるか。

端的に言えば、法的平等が実現し、前近代の身分はなくなっても、近代以降も経済格差はある。近代資本主義社会は、商品経済が支配的になって、人格的独立と自由・平等を実現し前近代社会の身分を廃止する。しかし奴隷制・封建制のような前近代の共同体社会も近代の資本主義市場経済も搾取経済という点では同じである。ただし前者では搾取は明白であるのに対して、市場のベールに覆われた後者では搾取が見えない。搾取は見えないけれど、経済格差は見える。したがって、「今どき身分はない」というのは間違いないが、「身分は百年たってもなくならない」というのも必ずしも間違いとは言えない。「身分」という不正確な表現ではあるが、あからさまな経済格差の底に、隠された搾取の存在を何となく感じ取っていることを、それは表わしているのだから。

 しかし商品経済における人格的独立と自由・平等はその発生に伴う歴史的制約を超えて普遍的意義を持つ。それは搾取を伴うから欺瞞ではあるけれども、搾取階級が搾取を隠さざるを得ない点に被搾取階級の闘いの橋頭保を見つけることができる。被搾取階級は搾取のない人格的独立と自由・平等を求めて闘うことができる。その闘いを法解釈という次元で敢行する視点に関して、長谷川正安氏は「ブルジョア法の形式的・外見的超階級性を手がかりにして、労働者的価値体系にたつ解釈者が、資本家的価値体系の所産である実定法を解釈することの可能性」を指摘し、そこから「労働者階級の価値体系にもとづき、ブルジョア法の超階級性を利用した法の解釈こそ、真の多数者の法解釈として真理性をもちうる」と主張している(『憲法解釈の研究』、勁草書房、197420ページ)。法解釈のみならず、立法をめぐる政治闘争の本質もまさにここにあると言えよう。

 資本主義経済を商品=貨幣関係の次元で見たときと資本=賃労働関係の次元で見たときとの矛盾は先の「身分」論争にもあるように、資本主義社会に生きる諸個人の日常意識に現れる。そこに搾取階級の欺瞞と被搾取階級の闘争の可能性との両者を見ることが必要だろう。

何だかまた暴走してしまった。安倍を笑えない。あいまいな記憶をもとにまとまりもなくあれこれ書いてしまったのだが、とにかく朝ドラ「ひよっこ」は傑作であり、感動しながらいろいろなことを考えさせてくれる、というのが結論。
                                 2017年9月30日


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