中止された「表現の不自由展・その後」の再開を求める街頭演説 2019年9月

  「表現の不自由展・その後」再開行動街宣  2019.9.

 

 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」中止事件 

 

     企画展と表現の自由

 81日から始まった「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」は、日本の公立美術館で展示を拒否されたり、一度は展示されたものの撤去されたりした作品を、その経緯とともに展示するものであり、公的空間における表現の自由についての重要な問題提起でした。それに対して、テロ予告や脅迫を含むメール・ファックス・電話が殺到し、安全が保証できないということで、トリエンナーレ実行委員会会長の大村愛知県知事と津田大介芸術監督が83日に中止を決定しました。

 しかし本来ならば、妨害行為を取り締まり、職員の増強や警察などによる警備の強化によって混乱を防止する方策をとるのが先決であり、脅迫などに屈して中止するのは表現の自由という憲法上の重要な権利を侵害する誤りです。「脅せば止める」という実例を作り、ますます脅迫が広がる恐れがあります。過去の裁判での判例でも、反対派による実力妨害の「おそれ」を理由として、公の施設の利用を拒むことは厳しく制限されています。そういう意味で、大村会長と津田監督の責任は免れません。両者には、すぐに適切な体制をとって「表現の不自由展・その後」を再開することを求めたいと思います。

 それにしても河村名古屋市長が、いわゆる従軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」などの展示中止を求めたのはあまりに不見識であり、大村知事が「憲法21条が禁じる検閲に当たる」と反論したのはまったく当然でした。河村市長は、少女像について「日本人の心を踏みにじるもの」などと言っていますが、これは俗に慰安婦と言われる戦時性奴隷制度を反省せず、被害者の心を踏みにじるものであり、即刻謝罪すべきです。このような不見識な市長をいただいていることは名古屋の恥です。また菅官房長官が補助金の不交付をちらつかせるような発言をしたことも、表現の自由に対するまったく不当な干渉です。松井大阪市長も「デマの象徴の慰安婦像」などという暴言を吐いています。これらの右翼的政治家は、表現の自由に対する妨害を非難するのでなく、逆に妨害者を激励するような発言で事態を煽ったのですから、その責任は重大です。彼らは1993年の河野談話が、いわゆる慰安婦制度の被害者女性に対してお詫びと反省を表明しており、これは今も政府の公式見解であることを知らないはずがありません。人権や民主主義よりも自分の右翼的心情を優先し、同調者を煽る政治権力者を許してはなりません。

 今回の事件については、税金を投入する公の企画としてはふさわしくない、という声もあります。しかし行政が展覧会の内容に口を出し、意に沿わない表現を排除すれば事実上の検閲になります。いま行政がやるべきことは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことです。多様な表現を保障し、豊かな文化を育てていくことは行政の使命です。よく公正さが大切だとも言われますが、それは多様性の中でしか実現されません。むしろ行政などの意に沿う内容だけであれば偏ってしまいます。ところが名古屋市は再開を邪魔するだけでなく、今後の企画に対して事実上の検閲を導入しようとしています。言語道断です。

 そもそも私たちの社会で公正さは保たれているでしょうか。たとえば10月から消費税率が上げられようとしていますが、政府はもちろんのこと、マスコミも税率アップが当然であり、反対するのは無責任なポピュリズムだと斬り捨てています。消費税の代わりの財源をきちんと示している議論もあるのに、マスコミはそういうものをまともに取り上げることはありません。このようにマスコミが権力側に立って世論誘導している中では公正さと言っても、多くの人々が知らず知らずのうちに、権力寄り・右寄りの意見を公正だと思い込まされていることに十分注意する必要があります。

 

     安倍政権と韓国バッシング――ファッショ化と戦争への道

 何事にも内容と形式があります。あらかじめ適切な正しい形式を整えておくことで、仮に悪い内容がむくむくと興ってきても押さえ込むことができる……それが人類の知恵であり、政治や法の世界では、「法の支配」とか「立憲主義」という仕組みがあります。「表現の不自由展・その後」中止事件に当てはめれば、正しい形式の最大のものは、「表現の自由」を規定した日本国憲法です。それを打ち破ろうとしている悪い内容は、歪んだナショナリズムというべきものであり、それは政権中枢や多くの政治家、そしてそれにそそのかされた一般の人々が担い手となって大いに膨らんでいます。

 ここからはその悪い内容についてお話します。今、テレビを始めマスコミは韓国バッシング一色に染まっています。これは危険ではないですか。明治維新以降、日本はアジアへの侵略を繰り返し、それを国際社会から批判されると国際連盟を脱退し、やがて対米戦争に突き進んで1945年の敗戦までに内外の多くの尊い人命を奪い、国家を崩壊させました。アジアへの侵略を国際社会から批判されたとき、国内では自国の正当性を国民全体に信じ込ませ、他国が悪いのだからと世界戦争に突入して破綻したのです。今もまた、本当のところは後から説明しますが、安倍政権は韓国に対してケンカを売り、マスコミを総動員して、あたかも自国が正しいかのように世論を欺き、韓国バッシング一色にして、悪政から目をそらして排外主義的に政権支持を煽っています。安倍政権はおそらく、いかようにでも世論を操って戦争の準備ができる、という自信を深めているのではないでしょうか。

 もちろん韓国と戦争することはあり得ません。しかし日本は周辺に、北朝鮮・中国・ロシアという事実上の仮想敵国を作っているし、それよりもっと現実的に危険なのは、世界中に展開する米軍に対して自衛隊が支援できる体制を戦争法の強行によって可能にしたことです。昨今ではトランプのイラン叩きに絡んでホルムズ海峡への派兵が取りざたされる事態です。また戦争法では、いわゆる「存立危機事態」なるものを宣言すれば、集団的自衛権を発動して、米軍などとともに海外での武力行使ができます。平和憲法があるにもかかわらず、もっぱら日米軍事同盟による軍事的抑止力に頼った安全保障政策しか持っていない安倍政権は、こうして戦争に備える体制の整備には熱心ですが、自主的外交によって東北アジアに平和を構築する発想がありません。そんな安倍政権が韓国バッシングによる世論操作に味をしめるということは大変に危険だと言わざるを得ません。「日本が正しい」といかようにでも信じ込ませることができるならば、どこが相手であれ、戦争へと世論を煽ることができる――もしそんなふうに政権が考えるとしたら、それは最も危険な状態です。

 

     日韓関係の真実――フェイク情報を超えて

 そこで日韓関係の真実は何かという問題です。今は日本の輸出規制で日韓経済戦争の状態になっています。そもそものきっかけは安倍首相が言うように、昨年秋に韓国の最高裁である大法院が元徴用工の訴えを認めて、日本企業に賠償を命じたことです。日本政府とマスコミはこれに対して、1965年の日韓請求権協定で解決済みであることに反する国際法違反だ、韓国は約束を守らない国だと非難しています。しかし日本政府は条約では個人の請求権は消滅しないと言ってきました。昨年の国会でも河野外相はそう答弁しています。そもそも他国の司法判断を非難するというのは内政干渉であり、三権分立・司法の独立に対する逸脱でもあります。だから日本政府とマスコミの主張はまったく誤っています。にもかかわらず、人々には真実をまったく知らせず欺いて韓国バッシングを続けているという異常事態です。まさにフェイク情報による世論操作で排外主義を煽っているのです。

 さらに日本政府の問題としては、仮に政治問題・人権問題で他国と意見が違うとしても、それはそれとして話し合いで解決すべきことであり、輸出規制などという事実上の経済制裁に持ち込んで争いを拡大し経済に混乱をもたらすのは愚の骨頂です。

 ここには重大な二つの問題があります。一つには、日本政府に、植民地支配に基づく人権侵害に対して償おうという姿勢がまったくなく、国家間の協定で解決済みとかたくなに主張していることです。今日では国際法の領域でも、個人の尊厳がますます重視されるようになっています。植民地支配への断罪も過去にさかのぼって適用される方向です。そうした国際潮流に反して、被害者への人道的配慮を欠いた安倍政権の姿勢は日本の恥というべきです。もう一つの問題は、結局こうした姿勢の背景には、過去の侵略と植民地支配への無反省があるということです。これらは単に過去の外国人の問題ではなく、現代に生きる日本人の人権状況にも影を落としていることは後から述べます。

 

     歪んだナショナリズム――アジア蔑視と対米従属

 先に、歪んだナショナリズムが問題だと言いました。1868年の明治維新以降、1945年の敗戦に至るまで、日本はアジアへの侵略を繰り返し、朝鮮と台湾を植民地支配しました。その過程で教育などを通じて、アジア蔑視のイデオロギーを人々に深く浸透させました。敗戦の際にも、単にアメリカに負けたという意識で、中国を始めとするアジア諸国にも負けたという意識がなく、加害責任の問題が長らく語られてきませんでした。したがって、戦後になってもアジア蔑視の意識は人々の中にずっと沈潜して今日にまで至っています。

戦後は米軍に占領され、サンフランシスコ片面講和で独立後も米軍基地がおかれ、日本は対米従属国となっています。沖縄に限らず米軍基地があるところ、米兵による殺人を始めとした基地被害は絶えないのですが、日本政府はそれを是正する姿勢を持っていません。そうした中で世論も対米従属意識が当たり前になっています。201712月沖縄県宜野湾市の保育園に米軍ヘリから部品が落下しました。この事件ではこともあろうに被害者である保育園に対して「自作自演」というバッシングが行われました。日頃、愛国者を気取って「反日」という非難を人に浴びせている連中の仕業です。彼らは日本人被害者より米軍を信じる恥ずべき日本人であり、本当の愛国心には無縁です。このように、一方で傲慢にアジアを蔑視し、他方で卑屈に対米従属する歪んだナショナリズム。私たち日本人は東アジアに自主独立の平和を求めて、それを克服しなければ幸せになりません。

戦争は人間を変えてしまうとよく言います。家庭では良き夫・父親である一人の男が戦場では残忍な人殺しを平気でしてしまう。しかし戦争以前に差別と偏見もまた人間らしい心を奪ってしまいます。ある人が少年時代、旧樺太で見た朝鮮人徴用工の思い出を次のように語っています。「その人たちは病気になって休むと、ただでさえ少ない食事を半分に減らされていた。ある時、病気の朝鮮人が寮の賄い所から下水に流れた、黒ずんでぶよぶよしたうどんの切れ端をすくって食べていた。それを見ていた僕たち学童は、あろうことか、あざ笑ったのである。」この人はそれを思い出して「詫びる言葉がない。ただ、心の中で手を合わせるばかりである」と語っています(内海愛子「被害者と向き合う時 対話を求めて、『世界』201910月号所収、198ページ)。今は当時のことを後悔して反省しているわけですが、差別と偏見が空気のようにあった時代には、子どもとはいえ人間の心を失い、まさに人でなしになっていたのです。ヘイトスピーチが行なわれ、韓国バッシングが横行する今日の日本社会はそこに近づいているのではないでしょうか。

 

     排外主義から人権尊重へ――憲法の実現

傲慢なアジア蔑視に関連しては、外国人技能実習生の問題があります。昨年の国会審議の中で、実習生は恋愛も妊娠も禁止され、妊娠が分かった時点で中絶か帰国を迫られるという事例など、外国人技能実習生の多くの悲惨な実態が暴露されました。現代の日本でこんなひどいことがまかり通っていることが広く社会に衝撃を与えました。それはかつての性奴隷制や戦時徴用工の問題が反省されずに捨て置かれ、日本社会自身の中でも日本人・外国人を問わず様々な人権侵害が続いてきたことの一つの結果です。外国人技能実習制度の本質的姿勢は人間を単に労働力と見て、生活者と見ていないことです。だから人権侵害が起こるのですが、それは日本社会に広くある、教育や出産、子育てをコストとして見る発想と同じです。つまり外国人実習生への人権侵害は、人が生まれ育つことを大事にしないこの国と社会の姿勢が極端に現れたものであり、日本人の人権がすでに侵害され、パワハラ・セクハラ・マタハラなどが横行していることの延長線上にあるのです。それへの私たちの回答は、日本人・外国人を問わない普遍的人権の確立です。

「平和の少女像」は反日の作品ではありません。人権の象徴なのです。作者のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻は、被害女性たちを差別と偏見で迎えた韓国社会への批判も込めています。夫妻は「不自由展」の再開を求める日本の市民に接し、被害者の人権を無視する安倍政権とは違うと感じています。つまり問題は「日本VS韓国」あるいは「日本人VS韓国人」ではないのです。人権・民主主義を守り発展させる人々とそれを破壊する人々との対決なんです。それは国を問わずどこにでもあるし、国際的にもあります。様々な問題を何でも国家間の問題に解消して、歪んだナショナリズムを煽る風潮に対して、私たちは明確な判断基準を持っています。日本国憲法です。何か問題が起こったら、憲法に照らしてどうなのか、と聞いてみることです。「反日」などと人を非難する言葉の正体は何でしょうか。それはお上のやることにたてつくな、「空気」を読め、乱すな、と言っているだけのことで、愛国心でも何でもありません。私たちは、平和・人権・民主主義の憲法の原理に照らして、自分たちの社会や国を良くし、愛するに値するものに変えることを目指しているのです。

 ところで今年はILO(国際労働機関)創設100周年に当たります。第一次世界大戦後のことです。創設の背景としては、第一に、悲惨な労働条件がもたらす社会不安と平和の危機があり、第二に、労働条件の改善は一国のみでなく国際的に行なう必要がありました。

具体的に言うと、第一に、第一次大戦では、民衆はナショナリストとなって戦争を強烈に支持しました。劣悪な労働条件で窮乏した人々が、不満のはけ口を政府の失政よりも外敵に向け、勇んで戦場に向かっていったのです。第二に、労働条件の悪い国が強い経済競争力を持つ、という問題があり、労働条件の改善は、多数国間で国際的な基準を作る努力をし、各国がそれを守ることで国際的に実現していくことが必要なのです。

 100年前にILOが創設された事情は、今日でも驚くほどそのまま当てはまります。新自由主義グローバリゼーションで、格差と貧困が世界中に広まっています。本来その責任は、莫大な利益を得ながら、巧妙に税金を逃れている多国籍企業や、それを助けて社会保障を削ってきた各国政府にあります。ところが世界中で不満のはけ口が、見当違いな方向に向けられています。移民・外国人・人種の違い、あるいは障害者、生活困窮者、特定の職業などに対して、いわれない差別と偏見が渦巻き、あろうことか選挙でそういう憎悪を煽って当選する政治家がたくさん登場しています。それでは問題は解決するどころか、本当の原因が隠され、人々の人権が侵害され、ますますひどい社会になってしまいます。トランプ大統領が登場し、分裂の危機を深めるアメリカ社会の荒廃ぶりがそれを示しています。安倍政権とメディアが韓国バッシングを煽っている日本の状況も同じです。

 日本国憲法には25条の生存権を始めとする社会権が規定され、人々が安心して暮らし仕事ができる権利を保障しています。外国や弱者を叩くのではなく、憲法の内容を実現する政治に変えていくことが必要です。そのような安定した社会でこそ、人々の心も安定し、「表現の自由」などの自由権が十分に実現できます。「あいちトリエンナーレ2019」のテーマは、なさけと書いて「情の時代」です。今、世界中を覆い、人々を分断させているのは、憎悪に満ちた「荒ぶる感情」です。「表現の不自由展・その後」を中止に追い込んだのもそれです。その感情が攻撃している人権や民主主義を守り発展させて、連帯を求める「なさけ・思いやり」という感情が勝るような社会をつくっていきましょう。

 

       「表現の不自由展・その後」再開を求めて

 この中止事件に関連した「正しい形式」は「表現の自由」であり、「悪い内容」は「歪んだナショナリズム」です。「正しい形式」を断固として守り、「悪い内容」を柔らかく変えていくことで「表現の不自由展・その後」を再開することができます。日本社会が憎悪感情に流されてファッショ化していくのか、思いやりの連帯を築いていくのか。その分岐に立って、「表現の不自由展・その後」の再開を実現することは、私たちの社会の明るい未来を開く闘いなのです。

「表現の不自由展・その後」実行委員会は、トリエンナーレ実行委員会に対して、展示再開を求めて名古屋地裁に仮処分を申し立てました。弁護団長によればよい感触があるようですが、いっそうの世論の後押しが必要です。どうか皆さん、愛知芸術文化センター前、地下鉄栄4番出口で、月曜日など休館日を除く毎日、「表現の不自由展・その後」再開を求めるスタンデンィグを実施しています。ぜひ参加してください。

 

(参考)

○中止への諸団体の抗議文

申惠丰(シン・ヘボン)「職場の差別禁止に向けた法整備を ILO創設一〇〇年、日本の課題(『世界』20199月号所収)




 追加 2019年10月6日のスピーチ  (スピーチ後文章化) 

          「どっちもどっち論」の欺瞞 

 今日は「どっちもどっち論」について話します。何かいさかいがあると必ず、どっちもどっちだ、という議論が出てきます。いかにも公正を装っていますが、だいたい悪い方を隠すことが多いと言えます。「表現の不自由展・その後」中止事件についても企画展を支持する方も反対する方もどっちもどっちだ、という見方があります。しかし企画展に反対して抗議する方は9割がた匿名であり、責任ある意見表明ではありません。しかも自分の意見表明というよりも、企画展を中止しろという攻撃に主眼があります。これは自己の言論の自由の行使ではなく、他人の表現の自由への妨害です。抗議のやり方としても、脅迫だったり、電話での異常な時間の引き伸ばしだったりで、明らかに意見表明というより妨害になっています。だから企画展への支持と反対との行動は、どっちもどっちの意見表明や行動ではありません。支持する側は言論・表現の自由を行使していますが、反対する側の大半は支持する側の言論・表現の自由に対する妨害行動をしており、全然同列には扱えません。反対勢力の妨害行動は権利行使として尊重されるべきではなく、取締りの対象に過ぎません。

 表現の自由については、専門家から今回の事件には直接には該当しない、という指摘があります。確かに、今回権力がやったことは、公の空間から特定の表現を排除したのであり、社会一般での自由を直接弾圧したわけではありません。再開を求める私たちの抗議行動に対して、反対勢力の人が「表現の自由はけっこうだ。だだし税金を使ってやる公の行事でやることではない」と主張してきたこともありました。

 そこで問題を実質的に考えてみることが必要です。今回のような公の大きな企画から特定の表現を排除することは、社会全体に大きな影響を与えます。今後、私(わたくし)的空間で自由な表現を追求しようとしても、そこにも不当な攻撃が加えられることが多くなるでしょう。何しろ彼らはお上のお墨付きをもらったと勢いづいています。妨害すれば止めるだろう、と。自然と、そういう攻撃を誘発する企画は止めようか、ということになります。そうなれば忖度や自粛がはびこって社会全体が逼塞してしまいます。

 ここで公の責任とは何かが問われます。もともと芸術表現の発表にはお金がかかります。それを援助して多様な表現を提供するのが公の使命ではないでしょうか。その際に「金は出すが口は出さない」が原則です。そうして表現の自由を実質的に豊かに保障することで、知る権利をも保障し、社会全体を自由に発展させることができます。お上にとって都合のいい企画しか許可しないという姿勢では、息苦しい社会をつくるばかりで、公の使命を果たせません。

 「表現の不自由展・その後」に抗議してくる者のほとんどは、展示を見もしないで、歴史の勉強もせず感情の赴くままに、政治家などに煽られて攻撃しています。問題は煽っている側です。煽られた多数者の裏に、煽っている少数者がいます。

 たとえば工藤美代子・加藤康男夫妻は関東大震災で「朝鮮人虐殺はなかった」とする本を出版し、これがもとになって虐殺否定論が社会的に流布しました。小池都知事が朝鮮人犠牲者追悼式典へ追悼文を送ることを止めたりしています。あの石原慎太郎知事でさえ送っていたものを止めたのです。この深刻な影響に対して、加藤直樹というライターがこの本の史料について一つひとつ原典に当たり、その引用の仕方がインチキであることを暴露しました(『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち)。工藤夫妻は間違ったのではなく意図的トリックで虐殺否定論をでっち上げたのです。こんな本でも出れば、虐殺はあったかなかったか、どっちもどっちだ、ということになってしまいます。どっちもどっち論は本当に危険なのです。排外主義・右派世論を煽る側の実態はこんなものです。

 工藤美代子氏は以前にテレビに出て、太平洋戦争でも東京のアメリカ大使館が無事に残っていたことを評して、アメリカは当時からピンポイント爆撃をやっていたのか、などという感想を述べています。当時の米軍の空襲は非戦闘員に対する無差別爆撃でした。国際法違反で糾弾されるべきものです。東京大空襲の被害者で今もその記憶を伝え続けている、海老名香代子さんや早乙女勝元さんたちの前で、ピンポイント爆撃だったなどと言ってみろ、と強い怒りがわいてきました。

 工藤氏に典型的なように、アジア蔑視と対米従属の歪んだナショナリズムに染まった者は、真実を偽ることに良心の呵責を感じないのでしょう。自由・人権・民主主義を守り発展させようとする責任ある言説と、歪んだナショナリズムによるフェイク言動とを同列に置いて、「どっちもどっち」と言ってはならないのです。

 「表現の不自由展・その後」の再開を勝ち取ることは、正義と悪との闘いに一つの決着をつけることです。そこで勝利するなら重要な一歩ですが、まだまだ初歩的な一歩に過ぎません。なぜなら悪が政権を握り、世論を操っていますから。厳しい闘いはまだまだ続きます。


(参考)

関原正裕書評・加藤直樹『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

   ……「しんぶん赤旗」2019929日付 


 追加 2019年10月13日のスピーチ  (スピーチ後文章化) 

          「表現の自由」をめぐる問題点

 

 文科省は7800万円の補助金交付を撤回しました。始めから不交付ではなく、一度決定した交付を撤回したのです。まったく前例のない措置であり、それを合理化できるのでしょうか。

萩生田文科相はこう説明します(萩生田氏は加計学園問題でも関係ないとしらを切り続けてきた人ですから信用ならないのですが)。――企画展の内容ではなく申請書の不備という形式的理由である。――その中には、補助金の申請に当たって、激しい抗議を受ける可能性がある、と書いてなかったのが問題だということが挙げられています。しかしそんなことを申告させるべきではありません。抗議が予想され、何か不都合がありそうなら不交付だ、というのはまさに歴史修正主義者・歪んだナショナリストたちのテロ・脅迫を認め励ますようなものであり、表現の自由よりもそれを妨害する行動を保障することになります。

再開決定後のタイミングで交付撤回が発表されたのも大問題であり、この撤回決定に至る議事録もありません。こんな状況だから、補助金採択の審査委員に何の相談もなく決定したと抗議して、野田邦弘鳥取大学特命教授が委員を辞任しました。外部の専門家による審査委員会の存在意義を否定する暴挙が行なわれたのです。

だから交付撤回の形式的理由は成り立ちません。本当の理由はほかにあるのでしょう。そこで82日の菅官房長官の発言が思い出されます。「審査時点で具体的内容について書いてなかったので、事実関係を確認する」とまさに内容に踏み込んでいます。河村市長の場合には、タテマエさえなく、内容によって制限するのを当然視しています。……税金を使う公の企画だから俺が気に入らなきゃ排除する。よそでやるのは構わないから表現の自由の侵害ではない。……確かに憲法学者など専門家から、この事件について「表現の自由」が直接的には該当しないという指摘はあります。そこで、芸術や文化への公的支援の根拠として直接該当するのは世界人権宣言27条の文化的権利です。……

 「すべて人は、自由に社会の文化的生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を有する」

 それを実現するには、行政が内容を選別するのではなく、多様なものを認める必要があります。行政と距離を置いた専門家による第三者機関が審査して助成先を決めるという仕組みが重要です。ところが先ほど言ったように、文化庁の審査委員会があるのに無視されたのが今日の日本の現状です。名古屋市に至っては、河村市長の感情的判断で金を出さないのが実態であり本当に恥ずかしい限りです。

 今回の事件に関してもっと内容に踏み込んで行けば、結局、政府や自治体首長が歴史修正主義・歪んだナショナリズムの立場から選別したということです。それは公だけでなく、私的空間にも影響を与えます。「お上のお墨付きを得た」として、脅迫・妨害活動が私的空間でもエスカレートして、ヤバイ企画は自粛しようという雰囲気になり、社会全体で「表現の自由」が委縮していきます。したがって、仮に今回の事件が直接的に「表現の自由」を侵さないとしても、実質的に犯してしまいます。そうならないために行政は様々な立場の表現の自由を支援し「金は出すが口は出さない」に徹する必要があります。

 最後に二つのことを言います。一つは、表現の自由の核心は権力を批判する自由を守ることにある、ということです。権力批判が自由にできて始めて表現の自由は実現されているのです。二つ目は、「表現の不自由展・その後」を支持する側は「表現の自由」や「言論の自由」という人権を行使していますが、反対する側は自分の意見を表明するというよりも、企画展を中止させることに主眼があり、やり方も暴力的だ、ということです。これは相手の表現の自由を奪うことであり、人権として保護される行為ではなく取締りの対象でしかない、ということを厳しく指摘して発言を終わります。

 

(参考)

「憲法を考える 視点・論点・注目点  表現の自由 侵害の線引きは」

   ……「朝日」2019924日付

伊藤裕夫「文化的権利を保障する公的支援」……「しんぶん赤旗」同年911日付

同「あいちトリエンナーレ補助金不交付問題」……同前1013日付

市川正人「文化庁のトリエンナーレ補助金撤回」……同前104日付




 追加 2019年10月14日の原稿  (スピーチせず) 


          この事件の政治的・歴史的性格

 

 中央線千種駅からここまで歩いて30回通いました。決して暇ではないのに、ずいぶん時間を使ってしまいました。それでもなぜ通ったのか。それは、1020年後に、ああ、あの事件がターニングポイントだったね、あれをきっかけに日本社会は再び戦争とファシズムに向かったよね、あのときおまえは寝てたのか……そんな糾弾される言葉を聞かなくても済むように今闘わねばと思ったからです。

 アメリカの経済学者、ポール・スウィージーは『歴史としての現在』という本の序文にこう書きました。――現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。――

 別に偉い学者でなくても、普通の人々が現在を歴史の流れの中において捉えることが大切だと思います。「表現の不自由展・その後」の中止事件とともに私たちが直面していたのは、安倍政権が仕掛けた韓国バッシングでした。この中止事件はその上に、排外主義と天皇崇拝に訴えて憎しみの感情を煽る者たちの格好の餌食になりました。眼前に見えたのは、作品を見もしないで、匿名で脅迫と妨害を繰り広げる不心得者たちの姿でした。しかしそのバックにあったのは、右派政治家たち、そして何より政権そのものの、「決して権力批判を許さない」という確固たる決意でした。この政権は、歪んだナショナリズムに犯された歴史修正主義者たちから成っています。過去の侵略戦争や植民地支配を美化し、未来に向かっては、人々の心にすきあらば、戦争とファシズムの方向へと、憲法改悪を狙っています。今まさにその一環として標的にされたのが「表現の自由」です。一方で、膨れ上がる歴史修正主義が、平和・人権・民主主義の憲法という日本社会の外皮を食い破って自由に暴走しようとしており、他方で、99%の普通の人々が、憲法の原理をしっかり堅持して、正しい歴史認識を持てるようにする意識的な努力が、多くの先進的な人々によって払われています。この過去と未来を見据えた、進歩と反動の対決点こそ、今日本社会にある「歴史としての現在」なのだと思います。

 補助金の不交付など問題はあれども、「表現の不自由展・その後」の再開を勝ち取ったことは貴重な勝利でした。ただし反動的な政権はまだ続いており、メディアを通じたその影響力は絶大です。残念ながらこの事件で戦争とファシズムに向かって数歩進んだことは確かです。しかし私たちの闘いでそれを少しは押しとどめることができました。メディアが韓国バッシングを煽り続け、政権が「表現の自由」への介入を仕掛けても、世論が支持一色に染まったわけではありません。批判的世論はそれなりにまだ健在です。したがって、この闘いで、政権や1%の支配者たちのどす黒い決意がはっきりするとともに、それ以上に平和・人権・民主主義を守り発展させようとする普通の人々の良識もまた負けてはいないことが見えてきました。私たちはそこに依拠して、「表現の自由」を公に認めさせる闘いを突破口に、この国とアジア・世界の未来を切り開きましょう。

 スガシカオの作詞でSMAPの代表曲である「夜空ノムコウ」は、愛する二人の歩む人生の過去・現在・未来を歌っています。「あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…」という歌詞に始まり、途中、「あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…」という印象的な一節があります。「現在」は「過去」から見たら「未来」です。過去に描いた未来を、この現在がはたして実現しているのか。いつもそのように今の生き方を反省しながら信じる道を進んでいきたい。それは諸個人の生き方であるとともに、私たちがつくる社会の歩みでもあるはずです。そうして「夜空のむこうには もう明日(あす)が待っている」と歌うことができるのです。以上で私の訴えを終わります。



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