骨子と要旨は2015年3月3日作成、本文は3月1日の「『経済』2015年3月号感想」より

 

          自己責任論と生存権 その前段的考察・試論

 

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               <骨子>

 

分断支配・バッシングの背景  自己責任論の支配、生存権の未確立

 

それを考える際の二つの前提

 (1)個人と社会との関係についての社会科学的見方

    個人的に見えるものの中に社会的規定性を見抜く

2)「資本主義とは何か」の解明

   <資本主義=市場経済>という見方の克服

   搾取経済としての資本主義経済を歴史的・構造的に把握する

    その見方によって

・自己責任論の成立根拠を示し、その克服を提示する

・生存権を確立する

 

社会保障要求の根拠

資本主義的競争の捉え方

 

 

             <要旨>

 

 分断支配を利するバッシングが発生する原因として、自己責任論の影響と生存権の未確立がある。ここでは自己責任論と生存権について考える前提として「個人と社会との関係についての社会科学的見方」と「資本主義とは何か」という問題を採り上げたい。

 

 あらゆる社会現象は諸個人の行動を通じて現れてくるので、社会問題の多くが個人の問題に解消されがちになる。そこから自己責任論が生まれる。しかしそもそも個人のあり方もその多くの部分が社会的なものに規定されており、個人的な問題に見えるものの中に社会的なものを看取することが必要である。個人の問題を正しく捉えるためには、孤立した個人の考察から出発するのでなく、社会の全体構造の中に個人を位置づけることから出発すべきである。

 

 <資本主義経済=市場経済>という通念は誤っている。資本主義経済は市場経済を土台としてその上に資本=賃労働関係という搾取経済が展開する構造から成る。歴史的に市場経済の形成に伴って自立した人格が生まれ、自己責任論はそれを反映したものであり、一般的に受容される。しかし市場経済の全面化によって労働力も商品化し、そこに成立する搾取は労働者の生存権を否認するものであり、諸個人が自己責任を果たすことは困難になる。それは同時に社会保障制度の必要性を説明する。

 

資本主義経済は搾取(他人労働を不払いで取得すること)制度であるにもかかわらず、自己労働に基づく所有が成立しているかのような外観を取り、搾取の存在は気づかれず、自由・平等な市場経済とのみ見られる。一方でそれゆえ成立する<資本主義経済=市場経済>という誤った通念の下で、自己責任論は強固に存在し続ける。他方で搾取による生活困難を一つの重要な要因として、その解決を目指して生存権を初めとする社会権の存在が認識される。したがって自己責任論の誤りと生存権(社会権)の必要性との認識にとって、資本主義経済の本質を搾取制度と捉えることはきわめて重要である。

 

 最後に付論として、「社会保障要求の根拠」と「競争と格差との関係」に触れる。

社会保障制度は本来、資本と国家の全額負担で運営されるべきである。なぜならもともと一国の経済的価値は働く人々の労働が生み出したものであり、それを搾取・収税によって取り上げた資本と国家が働く人々に還元するのは当然だからである。

 

資本主義経済における競争の主体は生身の人間ではなく資本(自己増殖する価値)である。したがって際限がなく、最悪の場合、過労死を生じさせる。競争の成果は資本主義企業(資本)に帰属する。この競争による格差は何よりも労働する側と資本の側との間に生じる。この資本主義的競争を、諸個人が主体となって能力や努力などをかけてする競争と混同してはならない。したがって資本主義的競争による格差を、諸個人間の能力と努力などの差を原因とする正当なものだと考えてはならない

 

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                本文

 

1)個人と社会との関係 社会科学的見方

 生活保護バッシングに代表される、人民同士のたたき合いが社会進歩の重大な障害となっています。支配層にとっては下々の者が勝手に足を引っ張り合って、支配の根幹に気付かず支配層を批判しないことが幸いとなっています。各種のバッシングを支える重要な柱の一つが自己責任論です。バッシングの多くは「自己責任を果たさない悪人」に向けられ、そうすることで逆に自分は「自己責任を果たす善人」として苦境にあっても自助努力にこれ努めるという形で自分の首を絞めることになります。こういう状況では生存権は主張されず、その具体化はされないどころか、逆にバッシングの対象となります。

そこで社会進歩にとって、自己責任論を批判し生存権論を確立することは喫緊の課題となっています。その課題の全体に取り組むことはとても無理ですので、以下ではそのための考察の前提として二つのことを挙げたいと思います。一つは「個人と社会との関係についての社会科学的見方」であり、二つ目は「資本主義とは何か」ということです。

 どのような社会現象も諸個人の行動を通じて現れてきますから、現象的にはそれらすべてを個人的問題に解消しえます。そうした見方の問題点を典型的に示しているのが、一時期喧伝された「パラサイト・シングル批判」です。若者たちがだらしなくなって、まともな仕事に就けず、親と同居して寄生している、というのです。確かに個々のケースを見ると、当該若者の性格的欠陥が目についたりなどして、「納得」しそうになるのですが、これが一人二人の話ではなく社会現象として存在していることを想起すれば、そういう安易な「分かりやすい」結論にはなりません。

そうした若者たちの多くは派遣などの非正規労働者だったり、様々な形態のワーキングプアであったりします。彼らは生活できる賃金を得ていません。つまり企業は「労働力の価値」に見合った賃金を払っていないのです。これは資本主義の「正常な搾取」を超えた異常な超過搾取を行なっているということです。賃金が生活を支えるのに不足する部分は親に頼ることになります。要するに現象的には若者が親に寄生しているようだけれども、本質的には企業が若者の親に寄生しているのです。企業が若者だけでなくその親をも搾取していると言っていいでしょう。

 個別の事象に内在することは大切ですが、「パラサイト・シングル批判」のように社会全体の構造を看過すると、社会の問題を個人の問題に解消してしまいます。実際には個人のできることには限界があり、社会的に規定される部分が大きいのですが、「自由で独立した個人」を絶対化すると、本来何でもできるはずなのにできないのは個人の能力や努力に欠けるところがあるのだから個人の責任だということになります(特に資本主義社会における「雇用」という制度の社会的規定性は決定的です。それは自由な個人が自発的に選び取ったもののように見えながら、客観的には労働者が資本の支配下に置かれるということに他なりません)。これが自己責任論の始まりです。だから個人的問題に見えるものの中に社会的なものを看取する姿勢が必要となります。

 ブルジョア的社会観では、孤立した諸個人の集合として社会が捉えられます。特に新古典派理論では、まずこの孤立した個人をあれこれ分析するなり想定するなりして、その原子論的運動の総体として市場経済が捉えられ、それがすなわち資本主義経済だとされます。

しかし孤立した個人がまずあるという想定自体が間違っています。「人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物でもない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」六)。これを理解しないで人間を見ると「彼の分析する抽象的個人が或る特定の社会形態に属することを見ない」(同前・七)という陥穽にはまります。主観的には純粋に抽象的な個人を分析したつもりで、利己的な人間像をこしらえたりしますが、それはすでに商品経済的な関係に規定づけられた人間像に過ぎません。いかなる個人を見るときにもそれがどんな社会関係を反映しているかという観点を抜きに済ますことはできません。

 日本国憲法第13「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」を新自由主義的・自己責任論的に解釈するならば、利己的なホモ・エコノミクスが原子論的経済活動の中での競争によって自由に幸福を追求する、という人間像・社会像が浮かんできます。そこでは孤立した人間の能力が個人のために発揮されるというように見なされます。強い個人が典型として思い浮かべられ、競争での敗北は弱者の自己責任とされ、大量の不幸が生まれ正当化されます。これは<個人→社会>アプローチの帰結です。

逆に社会連帯的解釈もあり得ます。社会の土台に生存権の尊重があり、そうした安心の上に社会的助け合いの中で諸個人の能力が形成され発揮されるという自覚を前提に、強いとか弱いとかその他さまざまな性格の諸個人がそのままで個人として尊重され発達でき、したがってそれぞれに幸福が追求できる、という人間像・社会像です。

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このところ、学校ですっかり定着してしまったいじめは、個人の尊厳の否定である。個性を否定し、目立つ者がいるとみんなのレベルに引きずり落とそうとする。弱いとみると、つけ込む。「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。

                     堀田力「憲法違反な人」  「朝日」夕刊  200152日付

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 「『強くなければ生きていけない』ような、非文化的な社会」を「非文化的」と意識できないのが商品経済に規定されたホモ・エコノミクスであり、この社会の大多数です。そのような現状を自覚し、個人のあり方の中に社会のあり方が反映されていることを見抜き、人間らしい社会の中でこそ人間らしい人間が存在できる、あるいは人間らしくない社会を変える努力の中から人間らしい人間が生まれてくる、と考えることが「個人の尊重」と「幸福追求権」を真に実現する道であろうと思います。これが<社会→個人>アプローチです。

 したがって再度確認すれば、自己責任論を克服する最低限の前提は、個人と社会との関係を正しく捉えることです。それは、孤立した個人から出発するのでなく、社会のあり方を見抜いてその中に個人を位置づけることです。そうして個人的問題に見えるものの中に社会的なものを看取する姿勢が必要となります。

 

2)資本主義とは何か 「領有法則の転回」を基軸に捉える

 自己責任論は資本主義社会における支配的イデオロギーであり、生存権は資本主義に対する規制的イデオロギーであると言えます。したがって資本主義社会の土台にある資本主義経済とは何かを正しく規定することが問題理解の出発点になります。

 <資本主義経済=市場経済>というのが通念であり、それが誤っているが故に、自己責任論と生存権が正しく捉えられません。市場経済とは商品=貨幣関係であり、資本主義経済の土台をなしています。その上に資本=賃労働関係という搾取関係が屹立しこれこそが資本主義のアイデンティティと言えます。商品=貨幣関係の土台上に資本=賃労働関係が展開するその総体が資本主義経済です。もっとも、比喩的には、土台とその上部との総体という静的像よりも、大海上(市場経済)を大小の船(搾取経済の単位としての企業)が行き交うという動的像の方が資本主義経済のイメージとしてはふさわしいかもしれません。

 資本主義経済の特徴を理解するには、人類史の中にそれを置いてみるのが効果的です。どのような社会であれ、人々がそれぞれ労働しその成果を持ち寄って分かち合い生活していくという本源的な共同性を持つという意味では同じです。弱肉強食の非情な競争社会でさえもそれが存続できているならば、それもまた人類社会の持つ普遍的な本源的共同性の一つの特殊な存在形態であると言えます。そうした歴史貫通的な本源的共同性を共通に持ちながらも、歴史上のそれぞれの社会は独自のあり方を示しています。それを表す生産関係の人類史的変遷を二方向から捉えてみます。

まず社会的広がりにおける人間同士の横のつながり方から見ます。要するに共同体か市場か、ということです。

 前近代の共同体<原始共同体→奴隷制→封建制>→商品生産(市場経済)・市民社会

→本史としての共同体(共産主義社会)

 ここでは、社会の本源的共同性が直接的に表れて人格的依存関係を示す前近代の共同体から、それが分解し、そのような直接性が失われて人格的自立とその裏にある物象的依存関係によって事後的・間接的に社会の本源的共同性が実現される市場経済への移行がまず表現されます。さらには市場経済によって実現された人格的自立性を保持しつつ、社会の本源的共同性を直接的に実現するような将来の共産主義社会が人類史的には展望されます。

 次いで、直接的生産過程における人間同士の縦のつながり方から見ます。要するに搾取か非搾取かということです。

 原始共同体(非搾取社会)→搾取社会<奴隷制→封建制→資本制>

→本史としての共同体(共産主義社会・非搾取社会)

このような生産関係についての二条の歴史の見方を合わせて、歴史の諸段階にある社会の特徴を表現すると下図のようになります。

 

非搾取社会

搾取社会

非搾取社会

原始共同体

奴隷制社会

封建制社会

資本主義社会

共産主義社会

前近代の共同体

市場(市民社会)

未来の共同体

 

 「市民社会」という言葉は実に多義的であり、様々な意味で用いられますが、図中のそれは「独立した自由・平等な人々によって構成される社会」というほどの意味です。先に資本主義経済の構造を見て、それを商品=貨幣関係の土台上に資本=賃労働関係が展開するもの、つまり市場経済上に展開された搾取関係として規定しました。上の人類史的図式の太字部分に表されているように、生産関係によるこの二層的規定に基づいて、資本主義社会は市場経済を基礎とする市民社会の土台上に展開する搾取社会だと言えます。

一方で共同体から市場への移行という側面では、近代資本主義社会は、人格的独立性を実現し自由・平等を少なくともタテマエとする段階に達したという意味において、前近代社会に対する明確な進歩性を有します。しかし他方で搾取社会という意味においては、前近代の搾取社会と共通する性格を持つことが忘れられてはなりません。したがって一方で、人間社会から生まれながらそれを支配するに至ったという意味では疎外体である市場を、人間社会の制御下に置き、他方で搾取を廃絶して諸個人を解放する、という二層の意義を担うのが資本主義から共産主義への移行であり、人類がその前史を止揚して本史に進むということの中身です。

 なおここで注意すべきは、同じ搾取社会といっても奴隷制や封建制などの前近代のそれと、近代の資本主義のそれとでは大きな違いがあるということです。前近代の搾取はあからさまであるのに対して、近代の搾取は隠蔽され、搾取される側がそれを自覚できません。

全面的な商品経済である資本主義では、労働力も商品化されます。流通部面を見れば資本家と労働者は労働力を等価交換します。しかし生産過程においては、労働者は自己の労働力の価値(それが賃金に相当する)を超える価値を生産し、その超過部分が資本にとっての剰余価値となります(その現象形態が利潤)。こうして資本は労働力の等価交換の条件下で剰余価値を得ることができ、いわば不払い労働の取得を実現します。こうして搾取が成立します。

商品流通のもともとのイメージは、おのおの自立した生産主体が生産した商品を交換し合うということであり、そこでの等価交換では自己労働に基づく所有が実現しています。それを経済的土台として、各人が独立した自由・平等で公正な市民社会が成立していると考えられます。商品経済が全面化し労働力が商品化しても、賃金の支払いという労働力商品の購買行為自体は自由平等な商品流通の一部である以上、そこに支配従属関係はありません。等価交換が成立しそこには「自己労働に基づく所有」が実現しているように見えます。しかし生産過程において上記のように資本は不払い労働を取得します。したがって労働者は自己労働の一部を搾取されます。生産過程における搾取を媒介することで、自己労働に基づく所有を実現するはずの流通過程の等価交換は何ら侵されることなく、不払い労働の搾取が実現されます。逆に言えば、実際に起こっている「不払い労働の搾取」が「自己労働に基づく所有」という仮象によって覆い隠されてしまいます。こうして資本主義経済はあたかも搾取のない自由・平等な社会の基盤であるかのように誤認されます。このように、労働力の商品化によって、「流通過程の等価交換が何ら侵されることなく、生産過程の不払い労働の搾取が実現される」こと、つまり「商品生産の領有法則(自己労働に基づく所有)が資本主義的領有法則(他人労働の搾取)に変転しているにもかかわらず、後者が前者であるがごとくに現象する」ことを「領有法則の転回」と呼びます。

 領有法則の転回という客観的基盤があることで、もともと資本主義的搾取は見えにくいのみならず、その反対物である自己労働に基づく所有が支配しているかのように見えます。これが<資本主義経済=市場経済>という見方が成立する根拠であり、ブルジョア的社会観の基本です。それによれば資本主義は基本的には、搾取社会ではなく、自由・平等で公正な社会としてイメージされます。したがってそこでは、格差や貧困など様々な諸問題を認識しても、それを体制的矛盾と見ることは避けられ、せいぜい対症療法的な修正・改良を施すことに終始します。

新自由主義の立場では、逆に開き直って市場への規制を敵視し、市場競争の自由を絶対視し、商品生産の領有法則(自己労働に基づく所有)を貫徹する(規制緩和=構造改革の推進)ということで、実質的には資本主義的領有法則(他人労働の搾取)の専一的支配を実現しようとします。社会保障分野など従来、市場の枠外とされてきたセクターを市場化しようとする動きの意味はそういうことです。そこでは市場経済的な競争の自由・公正を表看板として掲げて(それを主張する当人らも正義だと信じ込んでいるのだろうが)大資本の支配の強化が目指されます。

もともと新自由主義の基礎にある新古典派理論では、過剰生産というものはあったとしてもあくまで部分的・一時的であり、原理的には市場経済には存在しないと考えられます。市場経済に何かの不都合な現象があるとするならば、政府とか労働組合とかが、「神聖な市場」に不当に介入することが原因であるとみなされます。労働者が生活と労働を守るために団結することを市場への侵害と考えるような立場では、その生存権は基本的に否認されており、格差・貧困を始めとする資本主義の諸矛盾は原理からはずれたものであり、本来ないものだと思われているのでしょう。搾取概念の否認を徹底すればここまでたどり着きます。あからさまにそこまで言わないにしても、格差・貧困の指摘に対してあれこれの抵抗を試みる向きのホンネはこんなものでしょう。そうした逆流には搾取概念を徹底的に対置すべきであり、それを人民的常識に高めることも必要です。

 

3)人間的自由の展開と自己責任論・生存権

人間の自由の観点から(人類史における)資本主義を捉えると以下のようになります。一方では、市場経済の展開によって、前近代的共同体の人格的依存関係から解放され、人格的には独立・自由・平等が実現し、社会的つながりは物象的依存関係へ移行します。ここでは人間社会の本源的共同性が直接的には喪失し、その共同性は結果的にしか実現されません。各人の私的労働が社会的労働であるかどうかは、彼が生産した商品が売れるかどうかによって決まります。市場経済は社会の本源的共同性の喪失のリスクを伴いつつ人間の自由を解放するのです。

この「売れるかどうか」は自己責任において対処されます。共同体に埋没した人間と違って、市場経済によって自立した人間は自己責任を問われるのです。自己責任論が成立する基盤がここにあり、それは進歩的意義を持っていると言えます。資本主義は市場の全面化の上に成立している以上、そこに生きる人々は自己責任論を当然のイデオロギーとして所持することになります。したがって<資本主義経済=市場経済>という通念の下では、自己責任論を克服することは難しくなります。

他方では、資本主義経済は単なる市場経済ではなく、搾取経済でもあり、労働者の資本への従属を本質的特徴とします。前述のように「領有法則の転回」を通じてそれは隠蔽されていますが…。その隠蔽下で労働者が自己責任論にとらわれていようとも、不払い労働の搾取は容赦なく彼を襲います。

彼は品行方正にして刻苦勉励し、およそ二千万円もの貯蓄を実現したとしましょう。しかし病気とか解雇とかで彼が失業を余儀なくされたならば、彼の家族は何年持ちこたえることができるでしょうか。搾取され日々何とか生活できる程度の賃金では、資本主義社会に生きるリスクに備えることはできません。ここには現代社会における社会保障制度の必然性が明確になっています。資本主義的搾取の下では自己責任論は成立しえないのです。

つまり資本主義経済が市場経済であるがゆえに自己責任論は普遍的イデオロギーとして成立しますが、それが同時に搾取経済であるがゆえに労働者が自己責任を果たすことは基本的に不可能なのです。にもかかわらず彼が自己責任論にとらわれ続けるならば、生活苦を克服することは困難です。事実、いくら絶対得票率が低く不公正な選挙制度に救われているとはいえ、一貫して保守政党が選挙戦における相対多数を維持し政権を担い続けて、社会保障の削減など、労働者に敵対的な政策を続けていける原因の一つは、自己責任論が受容され変革が諦められている現状にあります。こうして自己責任論は一方では広く受容され、他方では生活苦の根源ともなるのです。

以上にもまして素人論議で恐縮ですが、図式的に単純化すれば<市場経済、商品=貨幣関係、自由権・市民法の世界>ならびに<搾取経済、資本=賃労働関係、社会権・社会法の世界>という二層の関係概念が成立するように思います。しかしここで注意すべきは、自由権は市場経済の反映ですが、社会権は搾取関係の規制を意味することです。したがって資本主義経済(市場経済+搾取経済)と自由権は正の相関関係、社会権は負の相関関係にあります。資本主義社会における自由権と社会権の矛盾の原因は第一にその論理次元のずれにあり、第二に逆の相関関係にあると言えます。

先に見たように、自己責任論は市場経済に生まれ、(労働者の立場からは適用されるべきでない)搾取経済にも適用されることで労働者の(社会権の一部である)生存権を否認することになりました。ここに上の図式を合わせれば、自己責任論は自由権に親和的であり、社会権に敵対的です。

もちろんだからと言って、自己責任論とともに自由権を抑制するのではなく、人間的自由の実現の見地からは自由権と社会権の両方を実現することが必要です。社会進歩の勢力からすれば、ソ連・東欧など20世紀社会主義の崩壊を受けて、市場経済をどう扱うかは未解決の分野であり、少なくとも近未来におけるその廃絶は問題外です。搾取経済に対する規制を強化しつつ、市場経済の制御に努める、というのが今日的には人類の本史に向かう慎重な道であろうかと思います。それは市場経済とともに生まれてきた自由権を尊重し、搾取経済の克服過程で社会権を伸長させる道でもあります。

独立・自由・平等・公正が自己責任一般と共存することは当然ですが、その論理は生存権を原則的に否認する搾取経済に適用されるべきではありません。それは搾取されるものがそのままの状態の責任を引き受けさせられることであり、搾取する側を免罪し理不尽です。資本主義社会において人はだれでも自由に生きていると感じており、それは一面の真理です。しかし経済的に抑圧されリスクを背負わされ、そういう意味では不自由の中に生きているというもう一面の真理を直視することが必要です。そうすることで社会的責任を自己責任にすりかえて負わされることを防がねばなりません。

 以上の考察で、市場経済と搾取経済とを機械的に分離しており、搾取経済の抑圧性については強調していますが、市場経済そのもののリスクなどについては捨象しています。このあたりについては今後の課題とします。

 

4)社会保障要求の根拠、資本主義的競争の捉え方

 自己責任論と生存権についての前段的考察はそろそろ終わります。最後に労働価値論・搾取論の観点からの二つの論点に触れます。一つは自己責任論を克服して社会保障を充実させる議論の展開であり、もう一つは貧困・格差の原因となる競争の捉え方です。

労働価値論の観点からは、資本と労働という生産要素がそれぞれ生産したからそれに応じて分配されるのではなく、労働が全価値をつくり出した後、分配されます。資本主義経済においては、全価値の一部は資本主義企業によって搾取されます。

今日、労働者を始めとする日本人民は社会保険料を支払い、その上に医療・介護等を利用する際に一部負担金を払っています。これに対してあるべき社会保障像として、全日本民医連の旧綱領は「国家と資本家の全額負担による社会保障制度の確立」を要求して「われわれは国と資本家の全額負担による総合的な社会保障制度の確立と医療制度の民主化のためにたたかう」(19611029日、全日本民主医療機関連合会)と宣言しています。

この要求の根拠はおそらく上記の労働価値論と搾取論であろうと思います。もともと国民所得の価値は労働者が作り出したものであり、搾取し収税した資本家と国家が全額負担して社会保障制度を確立するのは当然である、と。「階級的な闘う」というより「労資協調的な」性格を持つであろうヨーロッパの労働組合でも、経済的価値をつくり出しているのは労働者だというのが常識だと考えているそうですから、「会社が賃金をくれる」というところから出発しがちな日本人の多くの発想を転換することが重要です。

もう一つ、資本主義社会における競争の意味です。格差・貧困の原因として競争が挙げられますが、往々にして、その帰結としての社会的状況はよくないにしても、競争が貧困・格差を生むのは能力や努力の差として理由のあることであって、当然ないしやむをえないのであり、その結果を手当てするしかない(はなはだしくは「放置しても構わない」)というように考えられてはいないでしょうか。それは正しいでしょうか。これは競争と貧困・格差との関係についての自己責任論的理解であり誤っていると考えます。

競争の典型として思い浮かべられるものとしてスポーツ選手の競争が挙げられます。彼らは個人的主体として才能・能力・意欲・努力をかけて競争します。資本主義以前の単純商品生産の場合にはこれがある程度当てはまります。そこでの小生産者による生産の性格は生業であり、彼の生活を賄うための価値の取得を目的とし、市場で売れる商品の生産に努めます。そこにはおのずと身の丈に合う生産活動があります。スポーツ選手の場合と同様な個人的主体による競争があります。

しかし資本主義的市場経済においてはその生産の目的は剰余価値の獲得です。そこに際限はありません。大企業を中心に中小企業を含めて、競争に負けて市場からの退出を宣言されないように、激しい資本間競争が展開されます。そのために企業内では搾取が強化されます。企業にとっては、望むと望まざるとにかかわらず「生産のための生産、蓄積のための蓄積」が状況によって強制されます。それを仕掛けているのは自分自身でありながら、同時に外的に強制される状況に追い込まれるのです。

つまり資本主義的競争の主体は資本(自己増殖する価値)であり、通常考えられているようにそれは生身の人間主体による競争ではありません。搾取に基づく資本主義的競争の本質・典型を示すのものとして、労働時間の延長・労働強化・労賃の低下などが挙げられます。ここに際限がなくなれば、究極的には過労死に至ります。企業内においてすべての諸個人の才能・能力・意欲・努力はこの基本線に収斂されます。確かに現象的にはすべての競争は諸個人の主体性をかけて行なわれますが、このように本質的にはそれは本当の主体たる資本に操られています。誰も過労死など望みませんし、生活の向上を望んでいますが、場合によっては過労死が起こったり、生活がなかなか向上しないのは競争の主体が諸個人ではなく資本だからです。競争に打って出る生産の目的が特定の使用価値の獲得ではなく、無限の剰余価値の獲得だからです。個人主体の生活目的を超えたところにそれはあるからです。

もちろん資本主義的競争といえども、使用価値の向上なども目指して行なわれますからすべてが否定的な結果になるわけではありませんが、残念ながら日本資本主義の最前線では過酷な実態があまりに多いことは周知のとおりです。

しかもこうした資本間競争の成果は資本主義企業のものとなり、労働者にはわずかなおこぼれしか分配されません(まったくないことも珍しくない)。たとえば発明の成果の帰属は労働者個人にはなく、企業のものとなります。したがって人々の間の経済的格差の最大の原因は、競争戦における諸個人の才能・能力・意欲・努力の差にあるのではなく、その収入がもっぱら労賃によるのか、資本の利潤の分け前にあずかることができるのかによります。後者に属するのは、巨額報酬を得る著名経営者とか、株を始めとする有価証券などの資産を持っている大資産家などです。

以上のように、資本主義社会における競争による格差を直接的に諸個人の才能・能力・意欲・努力の差から説明してはなりません。それは資本主義経済を単純商品生産段階の市場経済と混同するものです。資本主義的競争における格差では、搾取する側とされる側との分岐に決定的な原因があると考えるべきでしょう。

かつて米国で「ウォール街を占拠せよ」と始まった運動は99%の人々を代表するとしていました。目前に見やすい格差の間で普通の人々同士がいがみ合うのではなく、そばには見えないけれども、社会全体を俯瞰すれば見えてくる1%の支配層に向って99%が団結することを説いたのです。ここで私が主張した「競争と格差」理解はそうした団結に資するものだと思います。

 

5)終わりに

 自己責任論と生存権についての前段的考察はこれくらいにしておきます。自己責任論と生存権について、考えるべきことはたくさんあるでしょうが、思いつくまま課題を挙げると以下のようになります。

○個人と全体との関係についての意識

日本では戦争受忍論(それは他国ではまったく考えにくいらしい)に代表されるように、全体のために個人が我慢するという意識が非常に強いです。それは一面では共同体的意識ですが、他面では「自分のことは自分でしろ」という市場経済的な自己責任論に通じます。いずれにせよ支配層にとっては好都合で、人民に犠牲が強いられています。

またここでは全体とは何かが問題とされねばなりません。「自分の目先の都合だけでなく社会全体の長期的利益を考えよ」という大所高所論が説教する全体とは何なのかが問われるべきです。

○生存権を実現する経済政策

 権利意識とその実現展望を具体化する政策論とは相互促進の関係にあります。この相乗作用が重要です。

○日本における人権の空洞化 その状況と原因

 とはいえ日本においては人権が空洞化する状況が広範に存在しており、それを抉り取って認識し、その原因を明らかにし対処法を探ることが必要です。その中で特に生存権をめぐる客観的状況は厳しいものがあり、そうなるにあたっての意識状況を直視することが不可欠です。

○バッシングについて

その受容される社会構造・意識構造と分断支配への利用のあり方を分析し対処法を確立することが求められます。

 

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