月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2010年)。 |
2010年10月号
新自由主義イデオロギーの強固さと対抗言説
7月の参議院選挙における日本共産党の敗北に関して、市田忠義書記局長が説得力ある解明を行なっています(8月10日の全国機関紙部長会議への報告、「しんぶん赤旗」8月11日付)。それによれば、今日の閉塞状況を打開するには、安保条約・大企業支配を克服するしかないことが客観的にははっきりしているけれども、支配層によるイデオロギー攻撃によって、思想状況としては、この支配に反対することは「いわば特殊な、偏った、異常な考え方として異端視されるようになっているという状況もあります」。従来の議論では客観的状況を政治変革と直結するような、短絡的錯覚が多かったのですが、市田氏は客観的状況と思想状況とを分析的に見ています。もちろん客観的状況こそが土台であり、より重要なのですが、それが主体的変革に至るには様々な阻害要因があり、従来はそれを直視して現実的に分析することが弱かったのです。だから「なぜ正しいことを言っても支持されないんだ」という「気分」から前進できずにいたと言えます。この「気分」という現象をまず認めてその本質を探らねばなりません。
全労連副議長・JMIU中央執行委員長の生熊実氏は以下のように述べています。
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「民主党政権には失望」「自民党政権には戻りたくない」という世論の流れは決定的である。しかしながら、マスコミの誘導があったとはいえ、かつての小泉構造改革=新自由主義、規制緩和、「小さな政府」への幻想は、まだまだ根深いものがあるのではないだろうか。あまりにひどい現実を突きつけられたとき、それにはノーだという意思を示したことは明らかだが、その現実をひき起こす根源に大企業本位の政治があり、アメリカ優先の政治があるという認識まで、労働者・国民の多くはたどり着いていない。
世論の潮目は変わったとよく言われる。・表面の流れの変化は確かにあるが、底流まで変わりきっていない・と見るべきではないか。
「労働者派遣法の抜本的改正 次期国会で早期実現を」 79ページ
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「あまりにひどい現実」があると、とにかく何でもいいからそれを変えてくれるような強力なものが現われないか、という願望が充満します。そこで「改革」なるものを騙って実際には「よりいっそうひどい現実」に導く山師が登場します。大昔ならヒトラーでしょうが、そんな大物ではなくても、近年の石原慎太郎、小泉純一郎などに続いて、もっと小物たちが活躍する今日この頃です。二宮厚美氏はこう指摘します。
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大都市部の大阪、名古屋では新自由主義的分権化に歯止めがかかっていない。この現象は、参院選でみんなの党が伸びたことと根っこは共通だと思います。河村、橋下、竹原の三首長は、イギリスでいうステイトマン(政治家)としては二流・三流以下の俗物にすぎない。にもかかわらず、一時の人気を集める。この正体をどう明らかにしていくか、今問われているのだと思います。
二宮厚美、岡田知弘対談「財界・民主党政権の戦略と対決構図 『新成長戦略』、『地域主権』改革は何を狙うか」 31-32ページ
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市田・生熊・二宮、三氏の以上の言を合わせれば、対米従属と独占資本支配という日本社会の本質ならびに新自由主義的支配という基本的現実が理解されないままに、閉塞状況打開への人々の手探りが続いており、そこには社会進歩の方向だけでなく、危険な逸脱に向かう可能性も存在しています。
ところで「対米従属と独占資本支配」と「新自由主義」とは理論次元も歴史も違います。前者は戦後日本社会の一貫した特質ですが、後者は前者を前提ニしつつ、高度経済成長の破綻後に支配的になった傾向です。しかし今日では新自由主義が支配層の主流となることで両者は一体化しています。「対米従属と独占資本支配」という日本社会の本質は「新自由主義」の理念と政策によって貫徹されています。高度成長期の指導原理であったケインズ主義が労働者階級への資本側の一定の譲歩を含むものであったのに対して、新自由主義はそれを否定していっそう資本の本質に即しており、いわば資本主義的支配体制としては本流といえます。今次世界恐慌によって新自由主義は破綻したという見方も一時広まりましたが、ウォール街の復活や菅政権の動向を見ても依然として新自由主義の覇権は健在だと見るべきでしょう。
確かにアメリカを初めとする発達した資本主義諸国の停滞とBRICsなど新興諸国の前進を見ると、世界は根本的に変わりつつあるという見方も有力です。しかし新興諸国は新自由主義的グローバリゼーションにそれぞれの仕方で対応して成功してきたのであり、その興隆自身が自動的に新たな世界の指導原理の形成を意味するものではありません。旧来の帝国主義的秩序に代わる新たな秩序を形成しうるかどうかは、予断を許しません。それどころか最近の尖閣諸島問題を見ても中国の覇権主義はあまりに露骨であり、これでは米国一極支配の終わりは民主的な国際秩序の形成ではなく単に覇権国家の交代に終わる可能性が大です。新自由主義的グローバリゼーション下で一党独裁体制を維持しつつ資本主義化を進める中国共産党の堕落はこれまでの想像以上に深いといわねばなりません。もちろんこのことは日米軍事同盟強化などの帝国主義的対抗を合理化するものではなく、国際法と道理に基づく新たな秩序の追求をいっそう要請するものですが。
対米従属と独占資本支配を今日的に支える新自由主義の覇権は、単に支配層の政策と「啓蒙」によって維持されているだけではなく、商品経済を生きる人々の日常的イデオロギーをその究極的根拠としているからこそ強固なのです。世論は構造改革と福祉国家との間を揺れ動いています。これは結論を先取りして言えば、資本主義経済の土台である商品=貨幣関係とその司令塔である搾取=資本蓄積機構との関係によって規定されています。商品経済は自己責任の世界であり、それ自身は個人の自立がなかった前近代社会に対する進歩を意味します。しかしそれが資本主義的生産関係に包摂されたときには、そこではすでに神話と化した自己責任原理を幻想的に支える役割を果たします。資本主義的搾取と資本蓄積過程は貧困を必然化するものであり、諸個人の自己責任的努力の集積によって貧困を社会的に克服することは不可能です。しかし商品経済に生きる人々は実際に自己責任において生活しており、しかも自己労働に基づく所有の結果としてそれぞれの所得を捉えています。したがって本質的には搾取と資本蓄積が貧困の原因であるにもかかわらず、貧困が自己責任の問題として捉えれられてしまいます。これが人々の「理論的確信」です。しかし現実を見渡せばあまりの貧困の多さにこの「理論的確信」は揺らぎます(「怠け者でもないのになぜ貧乏なのか?」)。そこで「理論は現実には合わない」とは思うものの、日常生活を支えている自己責任原理そのものを捨てるわけにはいきません。ここに二面性が生じます。自己責任論を貫徹すれば新自由主義的構造改革支持となり、この理論に合わない現実を打開しようとすれば福祉国家志向となります。もちろんこの理論そのものが間違っているのであり、それは剰余価値論や領有法則転回論・資本蓄積論で克服すべき対象なのですが、実際にそんなことを大衆的に行なうことは不可能でしょう。現実にはもっと具体的問題の次元で自己責任論の誤りを様々に衝いていくことになります。ただしそこでは商品経済を生きる人々の日常的イデオロギーとしての自己責任論は依然として残ることになります。だから手を変え品を変え自己責任論とそれを基礎にした新自由主義は展開しうるのです。自己責任を取れない者とそれを支えざるを得ない政策的対応とを叩く××バッシングがスケープゴートをあれこれ変えては現われて拍手喝采を受けます。その都度私たちはモグラたたきを続けざるを得ません。
以上、新自由主義への支持の底堅さを理論的抽象的に考えてみました。資本主義的市場経済を前提にする限り、新自由主義との闘いが続きます。新自由主義的構造改革への批判を背景に実現した民主党への政権交代も、菅政権によってはや新自由主義路線に逆戻りしています。前述の二宮・岡田対談ではそれへの批判とオルタナティヴが語られています。そこでは事業仕分けなどに見られる「官から民へ」路線や地域主権戦略に対抗して、人々の生活の視点に立った国民経済論と地域経済論が展開されます。
参議院選挙の結果として消費税増税に当面待ったがかかった下で、新経済成長戦略としては「緊縮財政路線とグローバルな事業展開を背景にして、不足する内需の穴埋めとしての社会サービスの市場化路線に拍車がかかる可能性がある」(22ページ)という二宮氏の指摘を受けて岡田氏はこう答えています。
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そこからはマクロな意味での日本全体の経済発展の機会はつくり出されていきません。要するに、公的資金は全体として増税も含めて増えていくが、公務員の数を減らして、市場として民間企業に回していくなら、むしろ公的資金が特定の民間企業に流用されているだけのことです。 23ページ
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さらに岡田氏は国民経済と地域経済の見方を明快に語っています。構造改革以後の日本経済は成長しておらず、国民所得のうちVを削ってMを増やしただけです。国民所得の全体を見るだけでは階級や地域の格差がわかりません。民主党の「六次産業化促進法」案については、大手アグリビジネスの国規模の視点であって、農山村の住民の生活向上を見据えた地域経済的視点が欠落しているとされます。「したがって新成長戦略では、その産業活動を誰が担い、誰のための支援であるかを明確にしない限り、あるべき経済の発展像を描けないと思います」(26ページ)。
地域主権戦略については「社会保障などのナショナルミニマムの基準を解体しながら、都道府県の条例に任せていくことが提案されて」おり「予算を削った下で、地域間競争を煽っていく仕組みになってい」(28ページ)ることが指摘されています。国庫補助・負担金の一括交付金化というのは、いかにも地方の裁量を拡大して良さそうだけれども、狙いはそこにあります。また地域主権論は古典的市民自治論者の西尾勝氏が先導しています。これに対して「市民自治的な分権化論は、全国的規模での福祉国家の機能を弱体化していく役割に向かう」(33-34ページ)と二宮氏は指摘しています。一括交付金化を神野直彦氏が推進していることと合わせると、市民主義的潮流が新自由主義に絡めとられて、反動的な構造改革に進歩的ベールをかぶせる結果になっていることに注意すべきでしょう。古典的市民自治を克服して、「憲法が定めた国の責任」(33ページ)としてのナショナルミニマムを自治体も堅持する「現代的地方自治」(同前)を確立することが求められています。
岡田氏は以上をこう総括しています。
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いま必要なことは、この憲法の観点から、国民の生存権を保障する雇用、社会保障政策を確立し、構造改革が生み出した悲惨な経済的理由での自殺やワーキングプア問題を解決する経済社会政策を早急に確立することです。そのためには、企業、国民がつくり出した経済的富を、国内や地域に再投資する仕組みをつくる。国と地方自治が、その機能をフルに活用することではないでしょうか。 34ページ
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グローバルな競争力をひたすら重視する新自由主義的生産力主義では、国民経済と地域経済の疲弊を救うことはできません。今次世界恐慌に際して立場を超えて喧伝された(しかし喉元過ぎれば忘れられようともしているが)「外需依存から内需主導へ」というスローガンを真に実現するには、上記のように「産業活動を誰が担い、誰のための支援であるかを明確に」することが大切です。「官から民へ」による大企業型ではなく、地域の農林水産業や中小企業などが主体となるように国と自治体が援助し、地域経済での再投資循環を形成していく方向が追求されねばなりません。新自由主義のイデオロギーと政策とによって貫徹されている「対米従属と独占資本支配」を克服していく一つの重要な道としては、このような地域経済の実践がぽつりぽつりと現われ始めたことを「国民的経験」として広めていくことが考えられます。
断想メモ
『世界』10月号の討論「国家と規制―何が問われているか」、三浦まり「『底辺への競争』言説の検討」、瀧川裕英「グローバル・ガバナンスとしての規制国家」においては、「底辺への競争」は起きていない、という実証研究が支配的であることが紹介されています。意外な指摘です。少なくとも「底辺への競争」を許さない政治的意思の有効性を裏付けるものではあります。実感とのずれなどについても三浦氏らは考察しており優れた論稿です。
これら諸論稿では国家が階級的に捉えられていないし、規制の核心が資本への規制である点も看過されていますが、様々な問題が多面的に考察されており参考になります。
2010年11月号
貧困と新自由主義
今次世界恐慌で新自由主義の覇権は崩れたという見方も有力であり、様々な変化のきざしも見られるとはいえ、依然としてその覇権は強力です。日本の私たちにとっては、それは何より、「国民生活第一」のスローガンによる2009年の政権交代後に、はや数ヵ月で新自由主義構造改革路線に立ち返った民主党政権の変遷によく見て取れます。新自由主義は市場原理主義として現象するけれども、その本質はむしろ資本原理主義とでも呼ぶべきであり、むき出しの搾取を貫徹し、かつそれを正当化するイデオロギー(それは資本主義市場経済から必然的に生じる)を強力に流布することで、資本蓄積の危機を正面突破しようとするものである以上、資本主義に最も適合的な体制原理であるといえます。
しかしそのことは、今日における資本主義の反動性を新自由主義が直接に表現することにもつながっています。新自由主義の反社会性を最もあからさまに表現したのが、無制限な金融自由化によるカジノ資本主義化であり、その劇的な破綻としての今次世界恐慌です。金融関係の巨大資本は、投機に対する政府の規制を排除して勝手放題にふるまった末に、失敗したら公的資金の注入で立ち直り、何の反省もしていません。
実体経済においても同様です。製造業大企業を初めとして主要大企業は大量解雇を平気で行ない、雇用労働者の非正規化を強力に推進し「労働力の価値以下の賃金」を一般化してしまいました。失業者が増えれば失業手当や生活保護費などが増えるし、非正規労働者の増大は企業の社会保障関係負担逃れの増大でもあります。つまり資本は国家に寄生しているのです。ついでにいえば、「労働力の価値以下の賃金」しか得られない若年労働者は親に寄生するしかなく(それができない場合ホームレス化もありうる)、パラサイト・シングルとして話題になりましたが、これは結局、ある社会学者が喝破したように、資本が若者の親たちにパラサイトしているのにほかなりません。
これらのことは、新自由主義の主張する「小さな政府」とか「市場主義」なるものがブルジョア教条主義の虚偽意識(イデオロギー)に過ぎず、その実態は、金融でも実体経済でも「国家に寄生する資本」という状態にすぎないことを物語っています。ここには現代資本主義の寄生性・腐朽性したがって反動性(つまり「早く歴史の舞台から降りろ」ということ)が如実に現われています。なかでもそもそも人間の生存権を否定する「労働力の価値以下の賃金の一般化」からは、新自由主義段階の資本主義が経済的社会構成体として人類史の一時代を形成することはもはや許されない、という結論以外は出てこないと思われます。
したがってこう思います。貧困を考える際には、通常、『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論に展開される相対的過剰人口論が基軸となります。そこでは資本の有機的構成の高度化による労働力需要の減少が重要な動因となるのですが、新自由主義の体制的腐敗と反動性を考慮すると、蓄積論以前の搾取論や価値論をも含めて考えるべきではないか、と。マルクスは資本蓄積論で資本主義体制の止揚を語っています。「労働力の価値以下の賃金」も資本蓄積による相対的過剰人口の形成から説明しうるでしょうが、今日におけるその広がり(国家の政策的推進を受けての)からは、それが相対的剰余価値生産の異常な一形態として定着しているようにも思われ、その意味を考えることも必要ではないでしょうか。それは同時に流通過程における等価交換の毀損を意味します。マルクスによる搾取の解明とは、流通過程における等価交換を前提にして資本はいかに剰余価値を獲得することができるのか、という難問への回答でした。商品の価格であれ、労働力の価格であれ、価値以下の価格というのは再生産を不可能にするものです。その意味では価値論とは再生産論でもあります。したがって等価交換の前提の下で、資本主義経済の再生産と剰余価値の搾取との両立を解明することが必要だと言うこともできます。ところがこの搾取論・価値論の前提を破ったところに新自由主義的搾取・蓄積体制が存在することにその体制的異常があります。それは無限の強搾取の追求という資本の本性の解放であるので現代資本主義の体制原理となっているのですが、同時にそれは歴史的存続不可能性を持った致命的原理でもあります。働く人々がその理論と運動を通じて、自らの生存と発展のために、資本主義イデオロギーと忍耐とから解放されるときこの存続不可能性は現実化します。もちろん現実的には、小選挙区制や二大政党制などの歪曲された「民主主義」とか、ケインズ主義政策の部分的活用などの懐柔策等々、さまざまな要因により、「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」のは必死に阻止されるでしょうが、今日のような新自由主義の暴走の帰結はそれ以外にはありません。どんなに遅くなろうとも。現代を資本主義から社会主義への移行の時代と捉えるなら、世界史上の旧体制としての資本主義は長く生き残りすぎ、腐臭を放つドラキュラと化している、と言わねばなりません。
改良と革命
唐鎌直義氏は世情に流されない貧困研究者の気骨を語っています。「資本主義における自由競争原理の是認と『自立・自助』原則という壮大なフィクションの存在」の上で、貧困を「個人を通してしか見」ない「貧困の不可知論」(「なぜ資本主義は貧困を広げるのか」31ページ)を告発しています。唐鎌氏はそれと対照させて、マルクスの資本蓄積論による失業=貧困論と、それを継承して日本の高度経済成長期にも揺るがなかった江口英一氏の貧困観を紹介しています。
マルクスにとって貧困の解決は革命=資本主義の廃絶であったわけですが、イギリスの資本家、チャールズ・ブース(1840-1914)は社会調査に基づいて、資本主義の修正によって貧困問題を解決しようとしました(34ページ)。唐鎌氏がブースを評価するのは、彼が貧困の個人的原因論ではなく社会的原因論に立ち、問題の核心を不安定雇用と正しく捉えたためでしょう。ブースは社会保障制度を創設して「産業予備軍の死重」(マルクス)を取り除こうとし、不安定雇用をなくす常用雇用化を提唱しました(35ページ)。今日の新自由主義構造改革とは真逆のことを目指したわけです。「彼の研究は資本主義が続く限り、その暴走を防ぎ、何とかそれと折り合いをつけながら今を生きる労働者階級にとって、普遍的な価値を有するものといえよう」(36ページ)。
かつてマルクス主義者は改良の意義を一応否定はしなかったけれども、改良主義が革命を妨害することを警戒し、福祉国家というものも基本的に認めてきませんでした。今日、上述のように客観的には資本主義廃絶の必要性は切迫しているけれども、逆に、ソ連・東欧社会主義体制の崩壊後は、主観的にはむしろ資本主義は永遠であるかのように捉える向きが増しています。そうした中でたとえばブースの改良のようなものについて、それが変革主体形成にどのように作用するのか等々、その意義と限度をよく考えてみることが必要となるでしょう。新自由主義構造改革との闘いという文脈だけでなく、資本主義を廃絶する革命への道という文脈をも見渡すべきです。
マルクス主義者は、かつて改良とか社会民主主義とかについてどちらかといえば一面的に否定的であったために、現実の変革過程への対応に具体性を欠いた憾みがあります。今日では逆に自己と改良主義との境に無自覚ではないか、という危惧があります。たとえば、EUの道は日本から見れば先を行くものだけれども、あくまで新自由主義構造改革との妥協的共存の枠内にあるといえましょう。単に資本主義の枠内だというにとどまらず。これに対して中南米の左派政権は、濃淡はいろいろあり、マルクス主義出自でもないけれども、大勢としては新自由主義グローバリゼーションそのものを批判する方向性をもち、その先進部分においては西欧社会民主主義を超える社会主義志向をもつともいえます。このような世界の諸勢力をにらみながら、日本の野蛮な新自由主義構造改革と闘って新しい福祉国家を目指しつつ、新自由主義と資本主義との不可分性を忘れることなく、将来の社会主義的変革を見据えた現状分析が必要です。
虚偽意識としての資本主義イデオロギーの克服
関野秀明氏の「非正規労働は「自己責任」なのか 『資本論』の産業予備軍論に立ち返り考える」は問題意識が良く論建てが明瞭な好論文だと思います。
初めに論文全体の趣旨には影響ないのですが、やや気になったところを片付けておきます。関野氏は、厚生労働省『労働経済白書2007年版』によって、1980年代から今日までの労働生産性の増大とその成果の分配との関係を見ています。労働者にとって分配が不利になってきており、特に「二○○○年代は労働生産性が一・七%上昇したのに対し、賃金上昇はマイナス○・一%、労働時間削減には○・一%の分配にとどまってい」ます(42ページ)。労働生産性の上昇分に関しても、労資間の分配が一方的に資本側に有利になっている、というここでの論旨は明快であり、それを指摘するための統計資料の使い方としても問題はありません。
ただし気をつけるべきことが一点あります。労働生産性の定義です。この白書の184ページによれば、ここでの「労働生産性」(単位時間当たりの労働生産性)とは、実質GDPを就業者総実労働時間により除したもの(関野論文の51ページ)とされています。これは正しくは労働生産性ではなく、付加価値生産性です。労働生産性とは、単位労働時間当たりに生産される使用価値量です。したがってそれは使用価値が異なれば集計が不可能であり、国民経済的な時系列比較はできません。便宜的には、各使用価値ごとに生産性上昇を指数化して加重平均することも考えられますが、通常はこの白書のように付加価値生産性をもって労働生産性の替わりとします。
GDPとして集計される付加価値は実現された価値です。したがって本来の労働生産性と付加価値生産性とでは、前者が直接的生産過程の指標であるのに対して、後者は流通過程をも含んだ指標である、という重要な違いがあります。使用価値がいかに効率的に生産されるか、ということと、流通過程でそれがいかに実現されるか、ということとは一連の過程の中にあって、しかも区別されるべき問題だとも言えます。「一連」の立場から見れば、確かに資本主義的意味では付加価値生産性の方が労働生産性として把握されるというのも根拠はあります(資本の魂は剰余価値の実現である)。しかしより本源的に考察するならば、付加価値生産性とは区別された労働生産性を認識することが必要です。
近年、この「労働生産性」(実は付加価値生産性)の国際比較を使って、日本の劣位を労働者の責任にする資本家の攻撃があります。しかし生産過程の問題はともかくとしても、価値実現については資本家の経営責任と国民経済の状況(内需不足など)とによるものであり、筋違いな労働者攻撃だといわざるを得ません。さらにいえば、日本の付加価値生産性が低いというのは、せっかく生産された価値が国内で十分に実現されることなく、それがために外需向けダンピングに国内生産の全体が組織化されているためではないか(国際競争対応の悪魔のサイクル)、という疑念を起こさせます。発達した資本主義諸国の中でも例外的に成長が止まった国としての日本の国民経済は「タダ働き・価値流出型縮小再生産」に陥っているのではないでしょうか(拙文「『経済』2010年2月号感想/日本の労働生産性は低いか」参照)。
関野論文が問題にしたのは、労働生産性上昇の成果の分配なので、付加価値生産性で分析するのは適合的です。気をつけるべき点は、ここで言う「労働生産性」は必ずしも生産過程における労働者の努力・効率だけを表すものではない、ということです。すでに述べたように、特に今日的には、GDPの低迷を原因として日本の「労働生産性」が国際比較で低落している責任を労働者に負わせる議論があるので、適切に反撃する必要があると思います。
閑話休題。関野論文は、マルクス資本蓄積論の「産業予備軍論(相対的過剰人口論)」に直接依拠して、反貧困運動の高まりに対する構造改革派の反論である「正規労働者責任論」と「非正規労働者自己責任論」とをあわせて徹底的に批判しています。
今日の統計資料の検討から関野氏は「『構造改革』下の貧困における、注目すべき本質的事実は、『正規と非正規は対立させられながら共に資本に支配され貧しい』ということである」(43ページ)と結論づけています。この現代日本資本主義の現象はマルクスの資本蓄積論によりぴたりと説明されます。その内容は省略して結論を述べれば以下のようになります。
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マルクスは産業現役軍の過労と産業予備軍の増大とが互いを圧迫し共に資本への従属を深めるという、この労働者階層間対立の本質を明確に指摘しているのである。
45ページ
マルクス『資本論』の「産業予備軍」論に見るように、正規労働者と非正規労働者を対立させながら、全体として労働者階級の貧困と資本家階級の富・資本を同時に蓄積することが資本主義の法則である。 同前
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これに対して大竹文雄氏や八代尚宏氏など構造改革派の経済学者は正規労働者の「特権」や非正規労働者の「低生産性」などに格差・貧困の原因を見ます。関野氏は上記のマルクスの見地から今日のデータを読み解いて説得力ある反批判を展開しています。ここまではよく見られる筋ですが、この論文のハイライトは以下の問題設定にあります。
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これまでに明らかにしてきたように、現代日本の非正規労働者が直面する貧困は、「正規労働者責任」や「非正規労働者自己責任」というような労働者の責任によるものではなかった。この客観的事実は何よりも重要であるわけだが、同時に同じくらい重要なのは「なぜこのような誤った見解が多くの人々に影響を及ぼしているのか」という問題である。この虚偽意識を生みだす資本蓄積機構の特徴まで解明してこそ、私たちははじめてこの虚偽意識から自由になれるのではないだろうか。 47ページ
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この問題設定に対する詳細な検討はここでも省いて結論だけ紹介すると、以下のようになります。
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資本蓄積は常に生産性増大を追求しつつ、まず正規=現役軍労働者の過度労働により予備軍労働者の排除を進める。さらに予備軍労働者の徴用、現役労働者との置き換えによって、より安価な労働を実現する。この両面の作用を統一した運動こそ資本蓄積であり、前者からは現役軍当事者の抱く虚偽意識として「非正規労働者自己責任論」が、後者からは予備軍当事者の抱く虚偽意識として「正規労働者責任論」が意識されるメカニズムを明らかにした。 51ページ
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見られるように、資本蓄積が生み出す虚偽意識のままに労働者階層間対立が続くならば、資本蓄積の一方で労働者全体の貧困は拡大していきます。したがって貧困をなくすためにはまず労働者階層間対立を克服することが必要です。団結です。この文脈が浮かび上がってくると、構造改革派経済学者の存在意義も明瞭になります。資本蓄積下の労働者の虚偽意識を、「正規労働者責任論」や「非正規労働者自己責任論」という形に、無批判に「理論化」し定着させることで、貧困に対する「資本責任」を免罪することです。もちろん彼らイデオローグは資本主義市場経済に対する無批判性をアイデンティティとして自認していますから、資本蓄積下の労働者の虚偽意識にも無条件に寄り添ってこのようにスマートな形を与えてくれるのです。
関野氏が引用したマルクスの以下の言葉(『資本論』新日本新書版4、1100ページ)はまさに現代の御用学者たちを直撃します。ブルジョア教条主義は資本主義とともに「永遠」なのです。
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彼らが労働組合≠ネどによって就業者と失業者とのあいだの計画的協力を組織しようとつとめるやいなや、資本とそのへつらい者である経済学者は、「永遠の」、いわば「聖なる」需要供給法則の侵害についてがなりたてる。というのは、就業者と失業者とのあいだでのどんな結合も、あの法則の「純粋な」作用を撹乱するからである。 50ページ
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貧困の問題に限らず、資本主義市場経済においては、中でも新自由主義においては、分断の言説が支配的です。市場競争の中で生きている諸個人にとって、それは適合的なイデオロギーであり、マスコミを通して不断に流布されています。この状況に対して、そのイデオロギーが自らの首を絞めていること、団結が必要なことを、生活実感の次元で広げていくような理論と運動が求められています。
デフレは起きていない
『世界』11月号、大瀧雅之氏の「デフレは起きていない 現代日本の作られた悪夢」は簡潔明快な論文です。
論文によれば、消費者物価の総合指数は、総務省統計局ホームページから以下のようになります。
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2005年を100とすると、06年100.3、07年100.3、08年101.7、09年100.3、10年99.5
(10年は6月までの単純平均) 39ページ
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したがって「デフレ・不況論」という「『俗説』の主張とは全く異なり、消費者物価水準はきわめて安定しており、到底デフレーションが起きているとはいえ」ません(39ページ。生産者物価水準もそう大きく変わらない/44ページ)。にもかかわらずデフレが喧伝される一つの根拠は、GDPデフレータの顕著な低下にあります(たとえば2000年を100として、08年は87.9。44ページ)。しかしこれはGDPデフレータにふくまれる輸入物価デフレータの影響であることに留意しなければなりません(同前)。
さらに大瀧氏は消費者物価水準の動きを細かく見ています。
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消費者物価水準の中の約八パーセントを占める耐久消費財のみが著しく下落している。これとは対照的に、一割強のウエイトをもつ半耐久消費財はほぼ横ばいであり、五割強以上を占める非耐久消費財の価格は逆に毎年一パーセントほど上昇している。 40ページ
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これに公共料金を加え加重平均したのが総合指数となります。もし財の諸価格が均一・一様に変化しているなら、今日の物価水準の動向は貨幣的現象とも言えますが、そうなってはいません。「つまり現在の消費者物価水準の安定は、マネタリー(貨幣的)ではなくリアル(実物的)であると考えるのが妥当なので」す(41ページ)。貨幣数量説に基づく「デフレ・不況論」という「俗説」の誤りは明白です。
もっと決定的なのは、企業所得の増大と対照的な名目賃金の低下です。つまりデフレは起きていなくて、名目賃金のみが低下しているのです(同前)。生活水準が低下したという実感は当然のことなのです。
次いで大瀧氏は「俗説」のよこしまな狙いを暴き、厳しい批判を加えます。異常な金融緩和によりインフレを起こし、庶民の預貯金や実質賃金を犠牲にして、高所得者や法人企業の投機の失敗を清算しよう、というのがその狙いだというのです。すでに労働者は、企業救済のために名目賃金の低下という犠牲を払っていることも指摘されています(43ページ)。
そこで大瀧氏が特に問題とするのが銀行のビジネスモデルです。もともと日本の大銀行は貸出に際しての審査能力が高かったわけではなく、バブル崩壊後は大量の不良債権を生み出すに至りました(38ページ)。金融の本道を踏み外してきたこれら銀行が、今後は個人顧客相手に投機の清算に失敗する可能性は高いと見ています。「現在の日本経済において議論されるべきは、マクロ経済政策のあり方よりも、まずもって、徹底した産業調整政策である」(37ページ)と考える大瀧氏は、このような大手銀行の徹底したリストラクチャリングを求め、それが論文の結論となっています。
以上のように、貨幣数量説に基づく「デフレ・不況論」という「俗説」とその帰結としてのインフレ政策が徹底的に批判されているのは実に痛快です。特に物価変動を貨幣的と実物的との両面から捉える立場から、今日の状況をデフレではないと断定している点が重要です。マルクス経済学者の多くが、そのような分析的視点を欠いて無概念的に今日の日本経済をデフレと規定している恥ずべき現状を思えば、良心的な近代経済学者の言説から学ぶことの意義はきわめて大きいものがあります。
しかし大瀧氏は産湯とともに赤子も流してしまったきらいもあります。「デフレ・不況論」批判は良いのですが、消費不況も否定してしまったのは問題です。「デフレスパイラル論」の虚偽を指摘する中で、「名目賃金が切り下がれば経済全体の購買力が低下するために、いっそう物が売れなくなる」(41ページ)という正しい部分まで否定してしまっています。賃金の下落にもかかわらず「標準的市民が高い物を我慢して買うことによって、景気が下支えされてきたのである」(42ページ)という氏の認識は正しいでしょうか。この認識の根拠は、物価水準において「五割強以上を占める非耐久消費財の価格は逆に毎年一パーセントほど上昇している」という事実でしょう。しかしここでは、景気を下支えする「経済全体の購買力」は、物価水準だけでなく、購買(したがって販売)量にも現われることが忘れられています。高い物を買うといっても少ししか買わなければ景気は良くなりません。価格のフレクシビリティを過度に重視する(新古典派理論によって基礎づけられた)近代経済学が看過しがちな点ではないでしょうか。商品の価格の主な水準は、生産過程での投下労働量による価値によって規定されているのであり、需給関係により市場価格は変動するけれども、生産のバロメーターとしての市場が調整しているのは価格よりもむしろ生産量です(金子貞吉「市場問題から資本主義をとらえる」『経済』11月号所収、17-18ページ)。
価格と量の積としての販売高の変化を見てみましょう。日本百貨店協会が10月18日発表した9月の全国百貨店売上高(既存店ベース・前年同月比)は31ヵ月連続のマイナスとなりました。帝国データバンクによる主要百貨店の経営実態調査では、82.6%の百貨店が2008年度に比べて09年度の売上高を落としていました(「しんぶん赤旗」10月19日付)。日本チェーンストア協会が10月22日発表した9月の全国スーパー売上高(既存店ベース・前年同月比)も22ヵ月連続マイナスとなりました。博報堂買物研究所の「『不況下の買物意識』レポート」でも47.6%が「不景気で買物する回数や金額が減った」と回答しています(同前10月23日付)。このような現象の積み重ねとして十数年にもわたるGDPの停滞があるのでしょう。デフレではなく賃金が下がることが深刻な消費不況を招いており、それに対してまったく逆行する経済政策が続いてきて、民主党・菅政権もそれを継承しています。人々の生活を応援し内需拡大の中で地域経済を立ち上げることを起点に国民経済の拡大をはかる道を描くためにも、デフレならぬ消費不況の認識が必要とされます。
断想メモ
渡辺憲正氏の論稿「『フォイエルバッハ論』の翻訳に携わって エンゲルス「哲学の集結」考」はわずか4ページでありながら、これだけで『経済』11月号の代金はペイできたと思えるものです。最後の「現実変革と個人の自己関係」と題された部分を引用します。
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マルクス、エンゲルスは、理論と運動との根拠と現実性を、何か超越的な哲学的原理や道徳的理念ではなく、現実的諸個人の生活(と協同の経験)という現場に求めた。ここに哲学や道徳だけでは成就できない現実変革の推進力がある。
これを現実的な力にするには、無限の重層性をもつ世界を現実的に把握し、多様な歴史的運動をつなぐ作業が必要である。この作業を、マルクスらの理論を手引きとしながら、現在の世界において果たすことが要請される。それは、つねに各個人の自己関係次元に還流して行かなければ、現実的な力に転化しない。
このことをいかに実現するか。試されているのはマルクス、エンゲルスではなく、現に生きているわれわれである。 107ページ
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これは、「正しいことを言ってもなぜ支持されないのか」という悩みを持つ「現実の運動」に示唆するところが大きいのではないでしょうか。理論は「つねに各個人の自己関係次元に還流して行かなければ、現実的な力に転化しない」のです。諸個人の生活的諸苦悩が、自己責任論やスケープゴート叩きなどの新自由主義的言説に回収されてしまうことで、彼らが支配層に籠絡されている現状があります。これを突破する理論と運動を創造していかねばなりません。
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『前衛』11月号、垣内亮氏の「財政危機の現状と打開の展望」は従来の論稿に比べてきわめて意識的にわかりやすく財政問題を解明しており、特筆に値します。
やはり同号所収、久冨善之氏の「教師の『苦難』から『希望』へ―教育を支える『共同関係』・再考」は秀逸な論稿です。今日の学校教育の抱える深刻な問題について、教師の仕事の性格のそもそもから始まって、国家の「改革」、新自由主義的学校観、「世論」などを縦横に語ることで説得力ある解明が行なわれています。
2010年10月29日
2010年12月号
<1>TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をめぐって
(1)TPPについて「経済とは何か」から考える
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理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる ルソー
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現代は情報化の時代であると言われる。情報化の時代は短絡の時代である。だが、 短絡は科学の敵であり、ファシズムの友である。
高島善哉『時代に挑む社会科学』まえがき
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ルソーの箴言の「偏見」は「無思慮」や「短慮」に代えることもできるでしょう。理性や教養を欠く中での情報の氾濫は短絡を招きます。今、時代閉塞の状況下で、名古屋市や大阪府などで起こっている異常な首長人気はまさに集団的な無思慮や短絡であり、危険な様相を呈しています。おちついてゆっくり考えることが必要です。現在マスコミを支配している「TPPに乗り遅れるな」という言説も同様ではないでしょうか。
菅首相自からが「国を開く」などと情緒的に煽っています。「鎖国か開国か」と問われれば誰しも「開国」と答えるでしょう。しかしそもそも現在の日本経済の状況を見れば、農業にしても低関税で貿易自由化が進んでおり、すでに十分に「開国」しています。それを隠し、さらにこれ以上の「開国」でどうなるかを示さず、農業を構造改革で強くするなどというまったく無責任な主張がまかり通っています。こういうのをおためごかしと言うのです。多国籍企業のために国内農業を切り捨てるのが本音のくせに、「農業のため」とか「日本経済のため」にあえて言いにくいことを言っているというポーズです。内心では「特定集団のエゴを許さず国の発展のために」などという「気高い使命感」に燃えているかもしれないが…。いや、実際にも前原外相などは公言しています。「日本のGDPにおける第一次産業の割合は1.5%だ。1.5%を守るために98.5%のかなりの部分が犠牲になっている」と。ここには農民の生存権とわが国の食料事情に対する真剣な検討などどこにもありません。「人間は深く感じないことはよく考えもしない」(島田豊)のです。利潤追求と「天下国家のこと」に夢中で、人間が生活する感覚を失っている人々がこの国の中心にいます。そういう政・官・財・マスコミの傲岸不遜で歪んだエリート意識が全開となって、人々を見下して「鎖国か開国か」と詰問しているのです。
そもそも「鎖国か開国か」という問題設定がおかしいのです。上記のようにこの次元で争うことも必要ですが、もっと本質的な問題を提起したい。資本主義経済においては、資本対労働が中心問題であり、農業や自営業者なども考えれば、資本対人間と言い換えることもできます。TPP問題も例外ではありません。
資本は最大限利潤を求めて国境をまたいで「最適」生産を組織します。その際に大競争に勝ち抜くために、人々の生活のあり方や労働条件には配慮しません。これに対して人間は国や地域に根を張って生きているのであり、簡単に移動できません。というようなネガティヴな表現よりも、むしろそうした人間のあり方こそが様々な文化や伝統をはぐくんできたのであり、資本の暴走はそれを破壊しています。もちろん関税などの国境措置はやみくもに強化すればいいということではありません。国際的な経済交流があり、それが文化や生活の破壊ではなくその適切な交流を支えるような形であればいいのです。要はこの資本対人間の関係において、本来主人公たる人間の安定と発展にとってどうするのが一番良いか、そのための資本規制のあり方を検討する、というのが問題の本質です。TPPはそれに照らしてどうなのか、と問うべきであり、「鎖国か開国か」などというのは問題の矮小化と歪曲以外の何者でもありません。少なくとも農業については、食料主権が原則であり、さらには地産地消を推進して地域経済・文化を振興することが、内需中心の国民経済の発展という今日最重要な課題に資するだけでなく、環境にも好影響を与えます(農産物の自由貿易の推進はフードマイレージを高めCO2を増やす)。人間の立場から資本の暴走を防ぐためにTPPに反対するのは当然です。TPP推進論とは資本の魂の論述であり、経済とは何かを知らない議論です。
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忙しがって、競い合って、慌ただしく過ごされて、わけもわからずに死んで終わる一生、そのような一生を「よい」人生と思うことができるのなら、そのような人生にとっての「便利さ」とは、したがってそれ自体が目的である。便利であることそれ自体がよいこと、求められるべき価値なのである。しかし、本来、便利さとは、それによって節約された時間や手間を、よりよい目的のために使うことができるからこそ、価値であったはずである。よりよい目的とは何か。決まっている。よい人生を生きることである。人生の意味と無意味を自ら納得して生きる人生のことである。
……
必要でもないのに出現したものを、人は「便利」と思うわけだが、その便利さが生活と生存に必要不可欠と思うに到る顛倒がなぜ起こるかというと、答えは至極単純である。なんのために生きているのかを、考えずに生きているからである。
池田晶子『魂を考える』
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本来、経済発展とは何でしょうか。良い環境の下で人間らしく働き暮らせるようになることです。この目的にかなう限りで効率とか国際競争力とかの追求は許されます。しかし資本主義においては、効率や競争力が自己目的化され、人間は手段化・従属化され、犠牲にされます。この倒錯は、池田氏が言うように、「便利さ」の自己目的化として生活の現場からも発生します。これは資本の論理が生活にも浸透しているということです。だから毎日の喧騒から一歩退いて、「ゆっくり歩いてくる」理性・判断力を回復することが必要となります。その近道として経済学を知ることがあります。「鎖国か開国か」などという問題設定そのものの誤りをひっくり返すことが肝要です。
そもそもリーマン・ショック後の、立場を超えた内需重視の大合唱はどこへ行ったのでしょうか。輸出増による景気回復を掲げる米国オバマ政権の尻馬に乗って、自由貿易一辺倒を掲げるまったく節操のない日本と世界の議論は転落への道という他ありません。これは逆らえない流れだ、などと言っているのではなく、間違っているものは間違っている、王様は裸だ、という良識の声を大にしなければなりません。各国が人々の生活と労働を第一に内需を充実させていくのが本筋であり、手っ取り早く輸出ドライブで景気回復を図ろう(そのためには異常な金融緩和と通貨戦争も辞さない)というのは各国経済も世界経済も歪めるものです。経済とは何かを知らない、底の浅い議論で右往左往するのはもうやめにすべきです。
(2)TPPと農業・食料問題
以上は抽象的だけれども大切だと思ったので初めに書きました。もちろんもっと大切なのはTPP問題に具体的に迫ることです。まずは最大の焦点の農業・食料問題です。これについてはもはや言い尽くされた感もありますが、基本点だけでも押さえておきましょう。まず「農業鎖国」という誤解がありますが、実際には日本の農産物の平均関税率は11.7%で、世界で最も開かれた国であり、世界一の農産物輸入国です。ちなみにEU20%、アルゼンチン33%、ブラジル35%です。日本が高関税で守っているのは米など農産物の1割に過ぎません。ここからさらにTPPによって例外なしに関税が撤廃されるなら、その影響は10月27日発表の農水省試算によれば、<農業生産4.1兆円減、食料自給率40%から14%へ低下、農業の多面的機能3.7兆円喪失、国内総生産7.9兆円減、雇用340万人減>となります。2008年の世界的な食料危機の経験を考慮するならば、もはや食料は自由に輸入できるとは限りません。アメリカやオーストラリアなどとの耕地面積の圧倒的な差等々を考えれば、農業の構造改革で競争力をつけるという議論の無責任さも明白です。さらに産業連関を通じてGDPや雇用にも多大な打撃が生じます。これに対して、経済産業省の試算ではTPPに参加しない場合の雇用減は81万人です。参加の場合の農水省試算の4分の1というだけではありません。そもそも輸出大企業はこれまでもリストラと不安定雇用を推進してきたのであり、この上口実を作ってさらに雇用破壊を進めるのか、という問題です。企業の社会的責任として雇用問題を捉えない資本の姿勢こそが根本的障害であって、あれこれの条件を云々する資格はないでしょう。
以上はいずれも「しんぶん赤旗」の記事によっています(「鈴木宣弘東大教授インタビュー」11月5日付、「そこが知りたい特集、急浮上 TPPって何だ」11月4日付、志位和夫委員長談話「TPPにかかわる『基本方針』の閣議決定について」11月10日付、「11月19日参議院予算委員会での市田忠義書記局長の質問」11月21日付、等。11月24日付検証記事は特にていねいな解説になっている)。新聞・テレビ等ブルジョアマスコミはTPP推進翼賛体制となっています。しかしそういう姿勢の報道の中でも真実がもれてしまう箇所はあります。たとえば11月10日付「朝日」の「開国韓国 改革と苦闘」という記事では、「競争力をつけて生き残れるのはせいぜい全体の1〜2割。残りの農家はいなくてもいいというなら、韓国農業や地域は崩壊してしまう」(韓国中央大学の尹錫元教授)という指摘を紹介しています。ところが次いで日本農家の厳しい現状を紹介しつつも結局は、一部の高級品の輸出で活路を、という例の話で締めています。まったく日本農業全体に責任を持たない姿勢です。また「製造業の輸出拡大でしか食べていく道がない」という韓国政府幹部の割り切りを紹介し、実際にも「輸出の伸びが韓国経済を支えている構図は鮮明だ」としていますが、そもそもそういう経済構造と政策そのものが間違いだというのが、とりわけ日本にとっては今次世界恐慌の教訓ではないのだろうか。まったく自分たちの利潤だけを求めて国民経済を食い物にしている資本の魂の受け売りをやっているのがブルジョアマスコミの姿です。
(3)TPPの狙い 多国籍企業の自由経済圏構築へ
確かに近ごろ急浮上してきたTPPは、オバマ政権のアジア狙いの輸出重視戦略とも絡んで、難行する対米・対豪のFTA・EPAに代わるものという性格を実質的には持っています。しかし日本独占資本にとってTPPは単に当面の方策というよりは、FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)というより大きな構想へ道筋をつけるものです。FTAAPは2006年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議でブッシュ大統領(当時)が提案し、今年のAPEC首脳会議でも議論されました。日本経団連の政策提言は2020年を目標にFTAAPを実現するように求め、政府の「新経済戦略」にもそのとおりに盛り込まれました(「しんぶん赤旗」11月14日付)。そこでTPP急浮上の背景にあって、日本独占資本の遠大な構想と意図が反映された「新成長戦略」を検討することで、農業に限らず国民経済全体への深刻な影響を見定めることが必要となります。坂本雅子氏の力作「『新成長戦略』は日本をどこに導くか アジア戦略、『インフラ・ビジネス』を検証する」に学ぶところ大です。
坂本氏は「新成長戦略」(とその具体化としての経済産業省「産業構造ビジョン2010」)の中でも、アジア戦略と「インフラ関連/システム輸出」を詳細に検討して、その実態と本質を明らかにしています。主にアジアに向けて拡大しようとしている日本のインフラ・ビジネスとして原発・水道・宇宙産業・産業基盤整備=開発などがあります。いずれも軍事利用や事故等のリスク、あるいは水などはそもそも民間の儲けの対象にすべきかといった点も含めて、あまりに根本的な疑問が多いものばかりです。さらにはこれらは莫大な資金を要するものですが(だからこそ独占資本が飛びついてきます)、その負担や失敗のリスクは最終的には日本の税金で負うことになることも明らかにされています。
「新成長戦略」は決して民主党政権になってにわかに出てきたものではなく、財界の年来の主張の集大成です。上記のような問題点にもかかわらず推進しようというのは、もちろんそのような資本の衝動が働いているわけです。つまり「当面は『インフラ関連/システム輸出』を儲けの柱に据えようという意図があるが、それにとどまらずアジア進出を加速させている日本企業にとってこれらの地域での産業基盤整備が不可欠だからである」(110ページ)ということです。こうしたインフラ整備に支えられて、TPPが目指すFTAAPのような地域経済統合(自由経済圏)が進められます。
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多国籍企業にとって、なぜ自由経済圏の構築が必要か、少々補足しておこう。それはより賃金の安い国や、より技術的水準の進んだ拠点国、より治安の良い国、より輸出地域に近い国などを、多国籍企業が自由に選び、製造工程間の分業体制を国境を越えて築くためである。 114ページ
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これを推進するのに政府としては「国民的利益」のベールをかぶせる必要があります。グローバル化をやめるのではジリ貧だ、成長する「アジアの内需を日本の内需に」と発想を転換しよう、というわけです。ところが周知のように、多国籍企業の利益と国民経済のそれとはずれています。アジアのインフラ整備が進み、ますます日本企業が進出することで、そこに日本製の部品輸出が増えたりとか、当地の中間層の増大で内需が拡大して日本からの完成品輸出が増えるという展開にはなりません。「今でさえ輸出は海外への販売全体のわずか三分の一を占めるに過ぎず、三分の二が現地生産、または別の国に進出した日本企業からの輸入であ」るのだから、構想された「『アジア自由経済圏』の生産ネットワーク=工程間分業に、もはや日本は入らない」(115ページ)のです。「つまり『アジア内需を日本の内需に』つなげていく道は、閉ざされて」おり、「『新成長戦略』は日本の産業空洞化を止めるどころか、産業空洞化を、ますます促進する日本の多国籍企業のための政策なの」です(同前)。
坂本氏は最後に資金問題に言及しています。「インフラ輸出は、単なる大企業の海外展開戦略にとどまらず、日本国内のインフラ民営化とセットで推進されることが予想される。インフラ受注を支えるインフラ・ファンドは、おそらくは日本国内のインフラ事業にも投資できるファンドとして組成されるだろう」。そうすれば「先進国・日本への投資と組み合わせた方が機関投資家も安心でき、年金基金・郵貯資金投入に対する国民の不安や反対も緩和され、あわせて日本国内のインフラ整備に要する税金投入も軽減できるから」です(122ページ)。まさに一石二鳥です。しかし老朽化の進む国内「インフラの整備・補修が民間資金の利用や民間運営に委ねられれば、国民の安全性や公益性よりも企業の収益性が重視されることにな」ります(123ページ)。結論は以下のとおりです。
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国民にとっての「新成長戦略」とは、国内の「製造業」の空洞化を極限にまで押し進め、「介護」や「観光」、「食」等にしか働き場のない社会をもたらす戦略でもあるだけでなく、国民の生活基盤を整備・維持するという国家の基本的役割さえ縮小させていく戦略なのである。
国家財政や国内の金融資産を巨大多国籍企業の海外展開のために利用する成長戦略ではなく、国民生活と国民経済を守り成長させる成長戦略が、今、切実に求められている。
123ページ
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(4)TPP的方向の克服に向けて
以上のように、目前のTPPに対する批判は、その先のFTAAPならびにそれと不可分の「新成長戦略」まで見据えてやる必要があります。私たちの立場としては、農民の生存権とか食料自給あるいは労働・生活・環境といった下からの視点から出発すべきであり、坂本氏の結論もそうなっています。ただし一方的な主張ではなく、日本と世界の独占資本の戦略(それは今日の生産力発展のあり方を反映している)を理解し、それとかみ合わせていくことが必要です。今日では日米欧の発達した資本主義経済が停滞する一方で、アジアなどの新興国の成長が目覚ましくなっています。前者は後者を利用して利益を確保しようとしています。ただし前者とはいっても、日米欧の国民経済ではなく、そこの多国籍独占資本が主体であり、自国と世界の人々の貧困・格差を前提にした搾取・資本蓄積で経済成長を実現しようとしています。いずれにせよアジアなどの新興国の成長という生産力発展のあり方は現実としてあるのだから、それに対して多国籍独占資本とは違った対応によって、世界と自国の経済発展を図って行くという課題が、民衆的にはあるのです。坂本論文はそれを考える重要な素材を提供しています。
その課題は世界的には、労働・金融・財政などにおける資本への規制、つまりILOの提唱するディーセントワークの実現、投機の規制、各国の異常な金融緩和政策の是正、金融取引税の導入、法人税等の引き下げ競争の規制、累進課税の強化などが考えられます。ところが現状では逆に、米国を先頭とする異常な金融緩和政策による通貨安競争で輸出主導によって景気回復を図るという安易な方向が採られています。これでは投機の拡大と、賃下げ・社会保障切り下げ等のソーシャルダンピング競争に向かってしまいます。これは日本が陥った悪魔のサイクル(賃下げ→国際競争力強化→貿易黒字→円高→国際競争力低下→賃下げ→国際競争力強化……。平行系列として、賃下げ→内需縮小→輸出・外需依存→賃下げ圧力強化→賃下げ……、もある)に近づく道であり、世界経済に不況圧力がかかります。各国がそろって貿易黒字になることはありえないのですが、外需依存型景気回復策に各国が足並みをそろえるなら、全体傾向としては不況圧力となります。保護貿易による世界経済の縮小ということがいつも過度に警戒されるのですが、むしろ内需を犠牲にした過度な外需依存競争による各国民経済の疲弊のグローバル化を心配すべきではないのだろうか。もっとも疲弊のグローバル化は主に先進国に起こるのであり、新興国がなおその枠外にあるとするならば、いっそう先進国の外需(新興国)依存が深まることになります。いずれにせよこのような世界経済の構造を前にして、多国籍独占資本は、世界金融市場では投機を強化し、産業資本としては「世界最適配置」による搾取・資本蓄積の強化を図ります。人間がその犠牲にならないためには、初めに述べたような資本への規制政策によって、生活と労働重視の内需主導型国民経済を堅実に作り上げていくことが必要です。以上は一般論にとどまりますが、アメリカと多国籍企業主導の新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティヴの実例として、かつてアメリカの裏庭といわれた中南米の動向を上げることができます。
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中南米全域を対象に米国が推進した米州自由貿易圏(FTAA)構想は、米国の政治的・経済的覇権を強めるものとして反発が大きく、立ち消えになっています。
対照的に、中南米では自主的な政権による、各国の主権を尊重した多面的な協力が広がっています。TPP参加を不可避とする見方は異常です。
「しんぶん赤旗」11月6日
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日本ではどうするのか。食料と資源・エネルギーなどを輸入に依存する日本経済は一定の輸出を確保する必要はあります。もちろんそれはこれまでと違った内需主導型の国民経済への転換とあわせて車の両輪として実現する必要があります。
内需主導型国民経済への方向性を説得的に明らかにしたのが、木地孝之氏の「デフレ経済からの脱却へ 『産業構造ビジョン2010』批判」です。橋本内閣や小泉内閣などの新自由主義構造改革によって「一九九九年度から二○○九年度までの一○年間に、従業員給与額は十二・八%も減少し、企業の内部留保が、二四五・二兆円から四四一・○兆円へ、実に、一九五・八兆円も増加しました」(59ページ)。同時期に実質賃金が下がるほどに名目賃金が大幅に下がり、各個人の生活困難をきたしました。ミクロ的にはそうであり、マクロ的には、賃金支払総額の減少が国民経済全体の内需不足に至り、縮小再生産に帰結しました。物価下落はその一現象形態であり、より重要なのはマクロ的な需給ギャップです。賃金を削って増大した内部留保は設備投資には回らず、金融部門や海外投資に逃避することで内需不足を促進しました。木地氏は近年における内部留保の異常な上昇を明らかにしています。
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企業の売上高を基準に内部留保の大きさを計測してみると、一九七五〜一九八四年度は一○%未満であり、以後、上昇しましたが、一九八四〜一九九八年度一四年間で四・四ポイント上昇したに過ぎなかったものが、一九九九年から二○○九年の一○年間に、一七・七二%から三二・二四%へ、一四・五ポイントも上昇しています。この水準は異常であり、経営上必要な水準とは、到底考えられません。 60ページ
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異常に積み立てられた内部留保は、最低賃金の引き上げ・サービス残業の根絶等々に有効に使うべきです。「一九九八〜二○○八年度の間に増加した内部留保額二一八・七兆円をすべて労動者と社会に還元するなら、GDPが二三一・三兆円拡大し、税収も四一・一兆円増え」(61ページ)景気も財政も改善されます。そのほんの一部として、最低賃金を時給1000円に引き上げるだけでも、GDPが7.3兆円拡大し、税収増が1.3兆円となります。
他にも木地氏は具体的な諸政策を提起して、「政府と企業の役割を明確にし、企業は社会的責任もきちんと果たす。立法府は企業の収益拡大が労働者・国民の生活向上に繋がるように法体系を整備する、行政の無駄を省くだけでなく、政治家を含めて責任を明確にする、などを行えば、日本の経済の展望は開かれると思います」(67ページ)とまとめています。
内需主導型経済への転換については以上の方向ですが、輸出など対外関係も重要です。「大幅な黒字は必要ない」けれども「資源が乏しい日本は、原燃料の輸入に必要な外貨を稼ぐ必要があります」(65ページ)から「製造業の海外移転による産業空洞化は、放置しておけない重要な問題です」(54ページ)。ただし労働者・下請け企業の犠牲で強い競争力を持つトヨタなど一部の企業によって事実上為替レートが決められ(円高)、
「他の多くの産業・製品は、輸出が出来なくなった」(55ページ)という問題があります。また円高では輸入差益も出ているので、経済全体としては損失はある程度相殺されるはずです。国際競争力指数を見ると、プラスなのは先進国ではドイツと日本だけです。以上から木地氏は日本の国際競争力が弱いという主張を退けているので、輸出や産業空洞化の問題はそれ以上には言及されていません。
マクロ的にはそういうことかもしれませんが、中小企業の現場などでは深刻な問題になっているようです。急成長で技術力も大きく向上したタイを舞台にしたNHK特集「灼熱アジア」第1回を見て、植田浩史慶応義塾大学教授はこう述べています。
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確かに、日本のものづくり企業は、国内市場の低迷、海外との競争激化、国内生産縮小の影響を強く受け、国内の仕事、下請けの仕事が減っている。だからといって、多くの中小企業にとってアジアへの進出、アジアでのビジネスは容易ではない。
それでは、どうすればいいのか。難問である。まずは番組で示されたような変化とその影響を前提に考えていくこと、そして従来の延長線上ではない新しい市場の発見・創造が必要であろう。難しいが、避けられない課題である。 「全国商工新聞」9月13日付
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先の坂本雅子氏の論稿で、「アジア自由経済圏」の生産ネットワーク=工程間分業に、もはや日本は入らない(115ページ)とされているのも、アジア諸国の企業に太刀打ちできなくなると予想されるからでしょう。確かに経済政策が転換されて内需拡大して国内生産が回復するならば国際競争にもプラスに働くでしょうが、賃金の格差などはすぐに解決できることではありません。それどころか現状では、日本や各国の政策が近いうちに民主的に転換されるということを当てにするわけにはいかないので、「難問」に沈み込まざるを得ません。
しかし困難の中でいろいろな動きもあります。今各地の自治体では住宅リフォーム助成制度によって中小企業・業者が活性化し、その誘発効果から新たな地域経済の循環ができている所があります。これは民商などの運動によって克ち取ってきた成果です。さらには今年閣議決定された中小企業憲章を実際に生かしていくために、具体的な要望作りに向けた実態調査の取組も始まっています(井内尚樹氏「愛知商工新聞」11月15日付)。金融円滑化法では、融資なども、銀行の立場でなく業者の立場で考える、断わるためでなく貸すために調査する、という方向が出てきました。今、アジアとの競争について答えがあるわけではないのですが、まずは足元の地域経済を復活させるところから始めるということでしょうか。
坂本論文では、インフラ輸出などのアジア戦略に対して根本的な批判がされましたが、その中で政府・財界(多国籍独占資本が主体)が新興国市場を相手にいわば国家独占資本主義のグローバル展開を図っていることがわかりました。その大規模さは新たな生産力展開を思わせるものです。私たちはあくまで生活と労働の視点から地域経済と国民経済を捉えていきます。その際にこの新たなグローバル展開を視野に入れておくことが必要です。「新成長戦略」の被害を防ぐために闘う、ということだけでなく、資本主義はここまで来た、という確認のためにもです。今私たちがこの生産力をつかむことはできませんが、生活と労働の視点に立つもう一つのグローバリゼーションという高み(たとえばディーセントワークの上にうちたてられた経済世界)を想像してみるのが、現在への批判になるかもしれません。
(補遺1)米価の捉え方
TPPと食料自給率引き上げとが両立可能であるかのような無責任な発言を、菅首相や仙谷官房長官などが行なっています。幻想をふりまいて世論をミスリードし、TPP加入への追風にしようというハラです。しかし農水省の試算によると、関税を撤廃すれば日本の米の生産量823万トンの2分の1に相当するアメリカ産米が輸入され、米の自給率は100%から67%に急落します。国内産との価格差のために米に限らず重要品目の輸入は急増するのだから、食料自給率の下落を防ぐには輸入を防ぐしかありません。したがってTPPと食料自給率引き上げとは両立不可能であることを、共産党の紙智子議員が参議院農林水産委員会で力説しました。本来ならばこの両立不可能をはっきりと認めるべき鹿野農水相は言い逃れに終始しました(「しんぶん赤旗」11月27日付)。
小野善康氏はかねてより、国民経済的には失業は最大の非効率だとして、安易なリストラを戒める立場を表明しています。また「そもそも国が競うべき経済力とは国民の生活水準であり、各企業の競争力は手段に過ぎない」(「朝日」11月24日付)と述べ、新自由主義者のような倒錯した経済観を批判しているという意味ではまともな経済学者だといえます。ただし小野氏は今や菅政権のブレーンであり、TPPと農業の両立を追求する立場です。さすがに氏は農業を効率化して国際競争力をつけよう、という議論には同調しないし、国土や環境保全機能にも目配りしようとしています。
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ではどうすべきか。現状の高関税での米価維持では、国際価格との差額分はコメを買う際の物品税と同じである。これを一般の税に置き換え、徐々に生産補助金に移行することも考えられよう。その際、補助の上限生産量を過去の実績などに応じて決める。これなら国際価格の下で自立を目指し生産を増やす生産者には、定額の所得補償と同じになる。高齢者も稲作を続けられる。産業の自立と、環境保全や高齢者支援が両立する。米価下落で需要増も期待できる。 同前
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しかしこれでは上記のようなアメリカ産米などの輸入は防げないでしょう。国際価格まで米価を下げて、生産者には税を財源とする補助金を支給するというのも問題です。増税に対する不満が農業対策に向けられる(「しんぶん赤旗」11月11日付)という人民内部の対立を煽る結果ともなります。米価下落で需要増も期待できる、といっても、そもそも現状でもペットボトルの水より安い米価こそが問題ではなかろうか。確かに国際価格を考えれば、現状では消費者が高い米価を負担していることになりますが、その下でも農民の労賃はまともに出ないのです。今後の世界の長期的食料需給状況やそれにともなう投機リスクの回避を考慮すれば、食料主権を実現できる農産物価格水準が必要です。そのために労働者の賃金や人々の所得を上げて再生産可能な価格で買えるようにするのが本筋ではないでしょうか。「しんぶん赤旗」11月16日付は、食健連・農民連の集会(11月14日)での内橋克人氏の講演を以下のように紹介しています。
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TPPはアメリカの戦略にそって関税自主権を放棄するものであり、内外価格差が4倍もある日本のコメは壊滅的になるなど「開国でなく壊滅に導くものだ」と指摘しました。主食のトウモロコシの自由化で打撃をうけた後に価格が暴騰しデモが起きたメキシコの例も示し、「自覚的な消費者になってほしい。安い理由には何があるか考えてほしい」と呼びかけました。
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何でも安ければいいという風潮があり、それは所得減による生活の厳しさを反映しているのですが、もちろんそうした生活苦の打開策は、いっそうの低価格の追求ではなく、生活と営業の再生産可能な価格体系の実現です。そのために必要なのは、独占資本の強搾取への規制と再分配によって人々の所得を増やし内需を充実させることです。「デフレ」に対抗するインフレ政策によって物価を上げることではありません。
さらにいえば内橋氏は経済社会観の反省を提起していると考えられます。どのような社会であれ、人々が様々な労働をすることで支えられています。市場経済の場合は市場に媒介されることでそれが実現しています。そこでは市場が主導的に労働のあり方を規定していくので、あたかも市場が主体であり労働の総体は従属物であるかのように見られます。しかしそこでも、人々の生活とそれが形成する社会とを実際に支え形成しているのは労働の総体です。端的にいえば、市場経済においては労働が内容であり、市場は形態なのです。この形態が主導しているからこそ市場経済と呼ばれるわけですが、内容を損なってしまえば、内容と形態の統一物は瓦解します。したがって市場メカニズムは重要ではあるけれども、究極的に尊重されるべきものは労働のあり方なのです。国際価格の圧力によって、国民経済の中で農業労働が他産業に対して大変に低い水準の不等労働量交換を余儀なくされている、ということは市場的には合理的でも、社会の土台をなす労働の体系からすれば非合理で持続不可能なのです。「自覚的な消費者」とは、そうした社会形成のあり方を無意識的にも感じ取って、あるいはどのような労働も等しく尊重されるべき、という倫理感からでも良いのですが、「何でも安価であればいい」とは思わない人々であるといえます。低価格にして、税を財源とする生産補助金による所得再分配を行なう、というやり方は、農民と他の人々との間に歪んだ優劣意識を醸成する可能性があります。それよりも再生産可能な価格、つまり労働への適正な評価を前提にして、社会の成員全体で農業を含めた社会的再生産を支える、というあり方が健全な国民経済の姿だと思われます。
(補遺2)デフレ規定の誤り
相変わらず日本経済の現状を誤ってデフレと規定する論稿が圧倒的に多いようです。現状がデフレならばインフレ政策が有効ということになります。実際には日銀が異常な金融緩和政策を行なってきても、いっこうに物価は上昇しません。金融ではなく実体経済に問題があるのだから当然のことです。政策の誤りは理論の誤りからも来ていることを思えば現状をデフレということは直ちにやめるべきでしょう。今宮謙二氏はこう言っています。
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現在日本で物価が下落しているのは、不況が深刻化しているためで、決してデフレではありません。経済学的にデフレとはインフレと同じく貨幣的現象を指します。つまり経済動向に対応して十分に日銀が資金を供給しないために物価が下落するのをデフレというのです。しかし、いま日銀は豊富に資金を供給し、大銀行、大企業の手元には資金があり余っています。 「全国商工新聞」11月15日付
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<2>北欧社会民主主義を見る目
小池直人氏の北欧社会論が非常に興味深い(「しんぶん赤旗」11月16日付)。
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たとえばデンマークの「柔軟保障」(フレキシキュリティ)といわれる制度では、「福祉は人を怠け者にし、経済を停滞させる」という俗論とは正反対に、福祉が充実しているからこそ社会が活気づき、経済も好調になるという哲学があります。このことは幸福度、経済成長、失業率の低下、「国際競争力」の向上などで統計的に証明されており、その先進性が「ミラクル」と呼ばれて、EUの労働市場政策の模範になり、全世界に知れ渡りつつあります。そうした制度研究と思想の摘出、論理の解明は経済開発一本やりで行き詰まっている国々の将来社会の構想に限りないヒントを与えてくれると思えるのです。
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まさに閉塞状況に陥った日本社会に示唆するところが大きい指摘です。しかもこれは従来の大国志向とは違った、小国の思想として、既存の「先進国」とは別の先進社会づくりの方向としても提起されています。小池氏によればこの小国の思想は、「民主主義と平和、福祉を理念とする日本国憲法にも刻まれ」ています。確かに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」(憲法前文)「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(第9条)ことによって、軍事大国の道を放棄した憲法は小国の思想に立つものかもしれません。実際にはこれを守らず、(「諸国民の公正と信義に信頼し」ない)対米従属下で経済(軍事も)大国として「成功」し、今では行き詰まった日本は、憲法の原点に立ち返ることが必要でしょう。新自由主義グローバリゼーションへの対応(適応ではない)の基準もそこにあります。そう考えれば、日米両経済大国が貧困=格差大国でもあるという意味では世界の反面教師である、という深い反省が生まれるはずです。「経済開発一本やり」の大国の闇は深いのです。
もう一つ興味深い点は、20世紀の世界大戦で中立政策をとった北欧社会(民主)主義と、戦争に荷担した「社会民主主義」とはぜひとも区別しなければならない、という主張です。この区別に続いて小池氏は、北欧福祉国家の「諸領域に刻まれた社会的ヒューマニズム」を抽出しようとしています。さらに土着思想との関連にも目を配り、この社会主義を思想的に解明しようとしています。科学的社会主義の立場からすれば、社会民主主義の光と影をどう捉えるかは、自からの理念的政策的展望を創造する上で重要な課題であろうと思います。その際に、社会民主主義を分析的に捉えることと、その中の最良の部分の達成を見極めようとする小池氏の問題提起には注目すべきです。
<3>断想メモ
「市場経済においては労働が内容であり市場は形態だ」と先に書きましたが、これは 「労働は深部であり市場は表層である」と言い換えることもできます。政治というか政治意識においても深部と表層はあるでしょう。選挙や世論調査の結果は表層であり、労働や生活の困難に直接規定される政治不信と変革願望が深部であるといえましょう。多くの場合この深部と表層とはねじれています。政治経済の客観的構造から生じる深部の力に確信を持つことは当然としても、表層はそれとはずれねじれていることも直視することが必要です。たとえば現在、菅内閣への支持率が急落しています。ここに究極的には深部の力が作用していますが、それだけでなく尖閣諸島問題などに対するタカ派的観点からの不満も大いに含まれています。支持率の数字はこうしたもののない混ぜの結果です。深部の力が直接表現されたかのようなナイーヴな解釈に対しては、これまでも私は違和感を抱き続けてきました。おそらくそういう人は他にもいるでしょう。社会変革の運動において、意識的にか無意識的にかこの違和感を押し殺して結局世論への対応を誤る場合(人々)が多いかもしれない。
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伊藤圭一氏(全労連調査局長)の「なくそうワーキングプア! 急がれる最低賃金の改善」(『前衛』12月号所収)は、相場感覚よりも「生計費の感覚を、賃金闘争の基本に据えることが重要だ」(76ページ)という正当な観点に立って、緻密に最低賃金を論じています。「時給一○○○円で、年一八○○時間働くと一八○万円」(同前)ですが、往々にして、時給1000円は高くて年収180万円は安い、という感覚のずれがあります。この原因は「時給一○○○円が高いという感覚は、地域の賃金相場、市場価格の目線。年収一八○万円が安いというのは、労働者の生計費感覚の目線」(同前)だからです。このように賃金要求の感覚のずれを非常にわかりやすく指摘した上で、生計費原則の重要性を押し出したのは鮮やかです。私は経済における再生産の重要性を再三強調してきました。そのキーポイントは労働力の価値の実現だと思いますので、この主張にはたいへんに共感します。
論文のハイライトは生活保護基準と最低賃金との比較論でしょうか。厚生労働省の発表によって、ほとんどの地域で両者の乖離はないと信じられていますが、「実は四七都道府県の最賃すべてが生活保護基準未満です」(70ページ)。「最賃は大きく、生活保護は小さく」(69ページ)見せるゴマカシによって乖離がないことにされているというのです。ゴマカシの手口の詳細な暴露は論文に譲るとして、調査マンの緻密さが現われていて痛快です。
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河添誠氏(首都圏青年ユニオン書記長)の「ブラック企業のひろがりとたたかう若者たち」(『前衛』12月号所収)は秀逸な論稿です。河添氏は、正規・非正規を問わず、若者たちの労働現場のひどい実態を活写しつつ、首都圏青年ユニオンの団体交渉や裁判闘争の経験を紹介しています。そうして青年労働者の中における労働組合の役割や意義を具体的かつ教訓的に解明しています。
青年労働者にとって「無力感に覆われている状況そのものを変えていくことが必要」であり「自分たちで変えられるのだという感覚を、いろいろな場面で取り戻すことが必要です。そのためには勝つ経験…をみんなで共有」(134ページ)することが大切です。パワハラなどにあい、自己責任論に深く傷ついた若者たちにとっては、首都圏青年ユニオンは「自己責任のイデオロギーからブロックされた部分社会」(同前)として機能し、そうして守り励ました上で「たたかう元気がある人を組織化し、そのたたかっている姿を、まだすぐには声を出せない人たちが見えるようにしていく関係性をつくっていく」(135ページ)役割をもはたしています。これが「社会を変えていく回路の見えるトレーニング」(同前)となっているわけです。こうした闘いと組織形成の中で、「市民社会」のイデオロギー(自己責任論もそこに含まれるだろう)とは分立した労働組合のイデオロギーが確立し、それが逆に「市民社会」を変えていく力になることが期待されます。
河添氏は、こうした具体的な闘いの実感と組み合わせた労働法や社会科学の学習を重視しています。また非正規労働者の安定的な組織化には、失業している間のサポートなどすべての局面の要求を掲げることが必要であり、そのことは労働運動が反貧困や社会保障の運動などと結んでいくことにつながります。つまり個別の要求から出発して「安定した雇用と隙間のない社会保障」を実現する「新しい福祉国家」という大きな構想の政治課題に向かっていくことになります(138ページ)。
青年労働者のあり方に深く内在して労働組合運動の最前線に立つ首都圏青年ユニオンの闘いから、私たちは社会変革の原点と新たな地平とを学ぶことができます。
いつもながらというか、いつにもまして冗長になってしまいました。妄言多罪。
2010年11月30日
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