月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2010年)

                                                                                                                                                                                   
2010年1月号
 

         ◎民主党政権の性格と今後

 渡辺治氏と品川正治氏の対談「いま、新しい国のかたちを問う」では、8月の総選挙における政権交代で生まれた民主党政権の性格が明らかにされています(なお渡辺氏の論旨は全国商工団体連合会発行「商工新聞」2010年1月11日付にコンパクトにまとめられており非常に参考になります)。

 以下は主に渡辺氏の分析によります。民主党の大勝の要因は何より多くの有権者の構造改革批判の意識ですが、それだけでなく、保守二大政党による安定的な政権交代制を期待する大都市中間層など新自由主義派の期待もあります。つまり全く逆の流れが合流して民主党政権ができたわけです。そこでこの政権は構造改革批判の人民の声とともに日米支配層の圧力も受け、前進・後退の両方の可能性を持っています。

 民主党内には三つの勢力があります。「頭」の部分は鳩山由紀夫・岡田克也といった執行部で構造改革と軍事大国化を推進する勢力です。これに対して「胴体」の部分には小沢一郎氏などによる、構造改革路線に冷淡で、自民党の支持基盤を奪った利益誘導型政治の勢力があります。さらに「手足」の部分には福祉政治型の中堅議員の勢力がありますが、彼らは福祉政治型の構想が明確ではありません。

 連立与党内で人民の要求をある程度反映するのは、民主党の「手足」の部分や社民党・国民新党ですが、日米支配層の意を受けたマスコミはこれをたたいています。

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 マスコミは、社民党や国民新党に対して、少ない数で何を注文つけるんだというふうに攻撃をしていますが、あれは社民党や国民新党を媒介にした国民の声を民主党から切り離そうとしているわけです。社民党バッシング、国民新党バッシングのねらう方向は、今の民主党を成り立たせている国民の力のバランスみたいなものを崩そうとする、世論誘導的な攻撃ではないかと思うのです。

 民主党政権成立以来、マスコミは、意図的に民主党が福祉バラマキをしないか、日米同盟をあいまいにしないか、という点に絞って、厚労大臣や官僚、国民新党や社民党を悪者にして、活劇調で報道しています。こうしたマスコミ報道の下、国民は観客状態にされつつあります。それはまずい。鳩山政権を大きく右に傾けるだけです。観客からもう一回、政治の主人公、アクターにならないといけない。                       32ページ

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 つまり人民の意向がある程度反映した政権交代に対して、対米従属下の新自由主義的構造改革路線からの反撃がマスコミを通じて行なわれています。いわゆる「事業仕分け」も一定の積極的要素を含みつつも、全体としてはこの反撃の一環だといえます。このように民主党政権でも新自由主義体制はなかなか強固なものがあります。リーマン・ショック後の世界恐慌を受けて新自由主義が崩壊したという見方もありましたが、私はそう簡単ではないと見ていました。渡辺氏も新自由主義型資本主義から新しい経済システムが生まれてくるまでには長い過渡期があるとしています(35ページ)。日本と世界でこの転換はどう行われるのか。

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 新自由主義から、品川さんの言葉で言えば人間の顔をした経済システムというものが生まれてくるには、それなりの模索の中で新しい福祉型の対抗モデルとそれを担う新しい運動、組織、連合が形成される必要がある。私は、さまざまな模索はあるが、まだ世界的にもそうした新しいシステムと担い手連合は登場していないと思います。

 日本では、開発型成長体制と国家の下で、経済成長が低いと国民経済が破綻するという脅迫観念で走ってきたけれども、それとはちがう経済のあり方は十分可能だと国民が実感できるような経験がまだないわけです。そういう実験が出てこないと、社会変革は前へ進んで行かないのだろうと思うのです。     36ページ

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 『経済』誌が以前から追求してきた内需循環型の国民経済や自立した地域経済のあり方は「新しいシステムと担い手連合」に通じるものです。政治学者・渡辺氏と財界人・品川氏との対談から提起されたオルタナティヴに明確な形を与えるのは、結局は人民の諸運動と営業変革努力という実践ですが、経済学研究の先導的役割もまたますます重要になっています。対米従属的国家独占資本主義体制をスクラップ・アンド・ビルド的に強化するために常に脅迫的な「改革」を掲げてきた支配層とマスコミの新自由主義信仰に引導をわたして、本当の改革を推進するチャンスをつかめるかもしれません。そのような変革的局面に際して学ぶ意欲を一人でも多くの人々と共有したいものです。

 

         ◎新自由主義批判の諸相

 松原隆一郎氏による「朝日」の「論壇時評」(12月26日)はメリハリが利いていて面白い。沖縄の在日米軍基地問題については、もろに北朝鮮脅威論を根拠とした対米従属の反人民的見解に終始しています。「弾道ミサイルを発射したならば」という議論に入っているのですが、そもそも外交による平和という立場に立たないと、いかに度し難いタカ派の軍事同盟絶対主義に陥るかをはっきり示したものです。今のマスコミの支配的論調の行く先をあからさまにしました。

 他方、経済問題では反新自由主義の立場がはっきりしていて逆の意味で面白い。供給側(大企業)に立った新自由主義の政策を批判して、需要側に立って「国民生活が第一」という民主党の経済政策を支持しつつこう述べます。

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 経済学の通念(新古典派)においては賃金が下がると余暇を放棄してまで働く意味がなくなる。それが不況下で賃金が下がり失業が自動的に減るから労働市場への政策的介入は無用であることの論拠とされている。

 これに対し伊東光晴は、生活に追われている人の場合は賃金率が下がれば所得の減少を補わねばならず、もっと長い時間働こうとするはずだとし、賃金が下がれば下がるほど労働の供給が需要を上回り、失業が増える可能性があることを指摘している。働いているにもかかわらず貧困を抜け出せない「ワーキングプア」が生じる理由についての、巧みな説明である。とすれば、労働組合や民主的政治の介入によってしか雇用悪化は救えないことになる。

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 賃金の本質を、資本=賃労働という従属的関係下における「労働力の価値」としないで、あたかも自由な諸個人が労働市場での需給関係に応じて選択する貨幣量であるとみなすとこういう議論になります。伊東氏の説明が巧みというよりは、新古典派理論が資本主義経済の本質を無視した荒唐無稽な議論に陥っているというべきでしょう(生活できないような賃金状況において余暇を「選択」することなどありえない)。伊東氏の指摘は資本=賃労働関係下にある労働者の実態と実感をなぞったものに過ぎません。主流派経済学ではこれを否定して白を黒と言いくるめる議論が通念となっているのです。それに同調しないまでもその感覚に慣れ親しんでいると、伊東氏の指摘はあたかも逆説的で「巧みな説明」に感じられてしまう、ということでしょう。各大学の経済学部では新古典派の理論体系を教科書にして学生の頭に叩き込んでいます。労働者の常識的な生活実感をつぶして、市場主義的かつ搾取協力的な働き手を製造している、ということです。

 伊東氏はケインジアンの大御所として、新古典派・ケインズ派・マルクス派の全体に通じて理論と現状分析を縦横に語ることのできる数少ない経済学者といえるでしょう。新自由主義的政策への批判においては、その基礎にある新古典派理論の問題点にまでさかのぼって批判しています。近年の日本経済の格差拡大否定論に対しても、統計の見方も含めて学問的に丹念に反論していました。そういう意味では尊敬しているのですが、宇野派に同調して、不況対策として協調的な賃金切り下げを主張したり、年来の付加価値税論者として消費税の増税を主張したりしているのは、本当に困った人だなと感じています。

 

         ◎米軍沖縄基地問題とマスコミ報道

 戦前・戦中のマスコミは人民を戦争に駆り立て、戦後、今日までそれは痛恨の誤りとして反省されてきました。しかし本当の意味で反省したのだろうか、という懐疑も付きまとっています。昨今の沖縄の米軍基地をめぐる報道に接していると、かつての誤りと何も変わっていないという感を深くします。何十年か後になって今の報道を振り返れば、その愚かさは明白になっているでしょう。まったく歴史の検証に耐え得ない姿勢、米国政府の御用機関と化した日本マスコミのていたらくを見るとき、「歴史としての現代」という視点を想起します。「現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがまだその形と結果とを動かしうる力をもっているうちにそれを今日の歴史として把握しようと努める」ことは「社会科学者の最も重要な課題」(スウィージー『歴史としての現代』/岩波書店、1954年/まえがき)であるのみならず、沖縄と本土の人民が等しく共有し、実践の糧とすべき課題ではないでしょうか。13年にわたって辺野古に杭一本打たせてこなかった沖縄の人々の闘いは、まさに「歴史としての現代」を造り出して来たのであり、現時点で鳩山民主党政権の対米追随をぎりぎりのところで阻止しています。今、本土の人々がマスコミの「啓蒙」活動を蹴散らして、沖縄への連帯の声を上げていくことが新基地建設を断念させる力となり、未来に開かれた歴史を創造することになります。

 かつて天皇制絶対主義や軍国主義に大半のジャーナリズムは屈服し、果ては便乗さえしました。今日ではそれはあまりに明白な誤りに見えるけれども、今またそれに代わって日米軍事同盟絶対主義の前にひれ伏し奉仕しているのはどこが違うというのか。岡田外相のごときは、30年50年と耐えられる日米同盟などというたわごとを真面目に唱えています。大方のマスコミも大同小異です。20世紀の遺物である軍事同盟に今なおしがみつき、核兵器廃絶と外交による平和という今世紀の課題を夢想としか思わない「現実主義」者は国防に責任を果たすオトナだとでも自己認識しているのでしょう。この「現実主義」者にとっての世界は米帝国主義の眼鏡を通して見たものでしかないので、冷戦期に最盛を迎えた世界の軍事同盟がその後消滅したり形骸化して、今なお機能しているのがNATOや日米軍事同盟など数える程しかないという「現実」は目に入りません。日米軍事同盟絶対化の視点からは、多様な世界の広がりも歴史の発展も捉えられないのです。

 朝日新聞の社説を初めとする記事は高級マスコミの言説ということになるのでしょうけれども、言ってることは要するに「アメリカが怒ってる、たいへんだ。守ってもらえなくなる。辺野古に基地を作る決意をすぐに伝えて、なだめなければいけない」ということに過ぎません。NHKニュースも同様です。沖縄県民の意思なんかもうアリバイ的に付け足す程度です。ここでは、生活せねばならない切実な「人間の現実」は消し去られ、あるのは低劣で独善的な「軍事の論理」だけです。軍事同盟によらない平和、あるいは日米安保条約は一方的に廃棄可能であること等々、根本的な観点を対置することが必要ですが、当面する課題としては、日米安保体制下においても普天間基地撤去(移転ではなく)は道理があり可能でもある、という議論が急務です。

 そもそも沖縄駐留米軍の海兵隊は日本の平和を守る抑止力ではなく、ベトナムなどへの侵略力であったし、現にイラク・アフガニスタンなどへの侵略力である、というのが撤去を求める基本的理由です。これは最も大切な論点であり、国政の場でも日本共産党が精力的に主張してきて、ここにきて漸くマスコミにも乗るようになりつつあります(たとえば12月27日テレビ朝日系「サンデープロジェクト」の8党党首クラス討論において。「しんぶん赤旗」12月28日付より)。

 その上で、世界を眺めれば米軍基地を撤去させたなどの例はいくらもあり、それで外交関係が険悪化することはない、という実績を知らせることによって、基地撤去論はより説得力を持ちます。マスコミの大勢が日米軍事同盟の現状の呪縛から逃れられないときにも、気骨のジャーナリストたちは批判的論陣を張っています。日本ジャーナリスト会議東海地区連絡協議会が発行する「東海ジャーナリスト」第83号(12月21日付)には、日本平和委員会常任理事・川田忠明氏の「12.8不戦のつどい」での講演「09年の変化をどう読み解くか」が掲載されています。ドイツ・ベルギー・オランダにおける米国の核弾頭撤去の動きを紹介しながら川田氏はこう指摘します。

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 いま日本では普天間基地問題で、日米の信頼関係がいろいろ言われていますが、これらの同盟国をみても、はっきりと物を言うことにより関係が崩れるということはありません。日本が米国の顔色をうかがって国内の政策を決めるから、相手もイライラするわけで、国民の意思を反映して、はっきり物を言うことで、真に対等な信頼関係ができるのではないでしょうか。  …中略…

 日米合意を守らないと、米国との信頼関係が損なわれるなどと、商業マスコミは書きたてていますが、基地を閉鎖して米国と仲が悪くなり、その国民が甚大な影響を受けたなどという話は、聞いたことはありません。

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 次いで、エクアドルの米軍マンタ基地の閉鎖、チェコのミサイル防衛基地建設計画の断念、ドイツでのNATOの基地化をめざす空軍演習場建設計画断念など、世界に広がる外国軍基地撤去の流れを指して、在日米軍基地の縮小・撤去が主張されます。

 さらに「しんぶん赤旗」にはフィリピンの米軍基地撤去闘争の経験が紹介されており、断固たる政治闘争が必要となることがわかります(12月16・21日付)。エクアドルとフィリピンの場合は基地協定の期限切れという条件を生かしたわけなので、この点では日本の基地撤去はより厳しいとは言えます。安保条約第6条には「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」とあることから言えば、あくまで「使用することを許される」であり、日本国が拒否することは十分に可能です。この辺が安保条約下での基地撤去闘争における条約的根拠となるのでしょうか。なおやはり「東海ジャーナリスト」第83号における「憲法9条の視点が欠落 沖縄米軍の普天間基地移設問題報道 『政局』としての論調目立つ」という論稿において、大西五郎氏は上記条文における「極東」の範囲を問題にし、イラクなどに出撃する米軍が条約違反であることを指摘しています。国会答弁における極東の範囲「大体においてフィリピン以北、日本およびその周辺」は長らく問題となりながらも、今日では事実上無視されており、基地問題の緊迫化に際しては改めて追求されるべき問題ではないでしょうか。

 最後に、戦争と平和、基地問題においては事実を知ることが何といっても重要です。新崎盛暉氏の「普天間問題の原点は何か」(「しんぶん赤旗」12月18日付)によれば、普天間基地はもともと1945年3月に沖縄に上陸した米軍が6月に日本本土攻撃のために建設したものです。人々の生活の場をつぶして作ったのだからハーグ陸戦法規に照らしても戦闘が終わったら速やかに返却すべきです。だから今でも返すのが当たり前で代替施設をよこせというのは問題外なのです。

 新崎氏は沖縄差別も告発しています。もともと海兵隊は本土に駐留していたのですが、住民運動の高まりで、1950年代の後半に当時は米国の施政権下にあった沖縄に移りました。「御用学者がよくいう、沖縄の『地政学的位置』という話ではない。米国の軍事的植民地だったという『政治的』な地位なのです」と、新崎氏の言葉は痛烈です。「世界一危険な基地」という普天間の現状も、沖縄返還後の1970年代から軍事機能の強化で基地の敷地全体を目いっぱい使うようになったからであり、もともとは広大な基地が全部使用されていたわけではなく(米連邦航空法で土地利用を禁じている)「クリアゾーン」は基地内に収まっていたというのです。

 知れば知るほど腹がたつ。多くの日本人が「アメリカに守ってもらっているからしかたない」と思っている現状を打破するには、情理を尽くして事実と論理を伝えることです(ただし「侵略力」たる海兵隊の早期撤去は当然の要求としても、「軍事同盟の抑止力」の捉え方については歴史的ならびに現状分析的に色々と考察の余地がある微妙な問題点を含むと私は考えています。「軍事同盟のない平和」を目指すことを当然の前提にした上でなお現実分析における軍事同盟ないし軍事的抑止力の取り扱い方には一考の余地があるように思います)。

 

         ◎帝国主義と民主主義 戦争と平和

 ところで沖縄の辺野古に最新鋭の基地建設を強要している米国の大統領であるオバマノーベル平和賞を受賞しました。受賞演説がひどいものでした。ひたすら戦争の正当化に努め、そのイチジクの葉としてキング牧師やマハトマ・ガンディーを添えるという恥知らずな内容で、米国共和党タカ派の喝采を受けました。私も絶対平和主義者ではないので、一般論としては「正義の戦争」も認めます(かつて日本に侵略された中国や、米国に侵略されたベトナムの抵抗戦争を非難することはできない)。しかし米国の歴史は侵略戦争の歴史であり、それへの反省なくして平和を語ることはできません。オバマはひたすら米国の自己弁護に言葉を尽くしました(ここでは米国建国以来の民主主義の理想が帝国主義の現実と渾然一体となって把握されており、それをどのように分析的に捉え直すかが私たちの思想的課題だと思われます)。彼もまた歴代大統領と同様に米帝国主義の番頭に過ぎないことがはっきりしました。しかし彼は核兵器廃絶を主張したという点では他の番頭とは区別されます。「やってもらおうじゃないか」という世界人民の圧力を集中することが求められます。

 日本への原爆投下を正当化し核兵器に固執することが世論上大勢となっている(最近では核兵器廃棄への支持の高まりを示す世論調査もあるようだが)米国において、あえて核兵器廃絶を提起し、帝国主義の権化のごときブッシュ政権の一国覇権主義から国際協調に変化したオバマの勇気と進歩性はもちろん評価します。しかしそのことと、この演説にも現われている大枠としての米帝国主義の心性との矛盾、ないしは全体としての過渡的性格はどう考えるべきでしょうか。

 演説において、「米国は民主主義国家に対する戦争は一度もしたことがな」い、と述べていることが一つの鍵を握っているように思えます。非民主主義国なら攻撃してもよいのか、と反問したくなります。これはブッシュのイラク侵略戦争を弁護する論理ともなります。いったい今までオバマは何を根拠にイラク戦争に反対してきたのか(成算のない戦争はやめろというだけのことだったのか)。米国の歴代政権はベトナム侵略を一度も謝罪しておらず、オバマもこの点では同様です。金大中大統領(当時)がベトナムを訪問した際に韓国軍のベトナム参戦について謝罪していることに照らし合わせれば、この不作為は問題となります(もっとも、米軍に基地を提供した日本も問題なのだが)。

 欧米帝国主義はこれまで自国内では先進的な民主主義を誇りながら、植民地・従属国に対してはきわめて野蛮な支配を当然視してきました。さすがに20世紀を通じてこのようなことは少なくとも建て前としては通用しなくなりました。しかし人権や民主主義を保持した国が他国に対しても同様にふるまうとは限らないという実績は山ほどあるのです。第二次大戦後に植民地体制が崩壊してきた時期にも、米帝国主義は反共のためならいかなる軍事独裁政権をも支持してきました。したがって日本や欧米諸国が人権や民主主義を振りかざして発展途上国を非難するときには、帝国主義的秩序を守るための方便ではないか、という懐疑を免れないのです。

 もちろん多くの発展途上国において人権や民主主義が未確立であること自身は重大な問題です。これに関して内政不干渉の原則の下に一切を不問に付すことはできません。ただしどこまでを具体的に国際的に問題とするかは難しいところです。言いたいのは、人権や民主主義の問題と国際関係の問題とは一応は次元が違うのであり、非民主主義国相手なら民主主義国が侵略してもよいということは絶対ありえない、ということです。

 人権や民主主義はこれまで主に欧米諸国が先導して確立してきた人類共通の原則だといえます。それはきわめて重要です。ところがこの諸国は同時にまったく暴虐な帝国主義的支配をも行なってきたのであり、そのような対外暴力と両立するドメスティックな「民主主義」とは何かという真剣な反省を欠いています(それはおそらく民主主義の進歩におけるブルジョア的限界でしょう)。この反省が欠けたところでは、今日でも人権や民主主義の美名の下に帝国主義的秩序が正当化されかねません。米帝国主義のこれまでの侵略戦争への反省抜きに、人権や民主主義の名においてこれからあるかもしれない戦争を正当化しようとするオバマ演説は欺瞞的な自己陶酔型の帝国主義的心性を露呈したものです。オバマを逆行させるのでなく、前進させること、つまり人権や民主主義が帝国主義を美化したり糊塗したりする道具ではなく、帝国主義を規制するものとして実質化するかどうかは、米国と世界の人民の運動にかかっています。

 中南米の動きは「帝国主義化した民主主義」を乗り越えて進みつつあります。1990年代末から現在にかけての左派政権の樹立と継続の過程は民主主義的選挙による現在進行形の政治革命です。また貧困の克服や自治体行政・国政への実質的参加の機会を増やすことを通じて新たな主権者像が形成されつつあり、参加型民主主義による自由と平等の着実な社会革命も進行しています。これらは、発達した資本主義国におけるブルジョア民主主義がたぶんに形式的性格を持っていることに対する立派なアンチテーゼとして成立しています(それゆえいくつかの諸国では公然と社会主義が目指されている)。最近、クリントン米国務長官が自由と民主主義の名においてこれら諸国を非難していますが、遅れたものが進んだものを非難しているという笑うべき事態です。マイノリティの政治参加が実質的に排除され、格差=貧困大国である米国の支配層にとっての自由と民主主義とは「資本の自由」を中核とするものであり、これが阻害されて「人間の自由」が確立されてしまうことへの恐怖感がある、というべきなのでしょう。

 このように発展途上国の中にも、民主主義の点において、発達した資本主義諸国を超える動きがあることは、自由と民主主義の名による帝国主義的戦争弁護論を最終的に駆逐する力になります。とはいえ現時点では発展途上諸国の多くでは人権や民主主義が未確立であることも事実です。東北アジアにおいては北朝鮮という軍事独裁国家と中国という非民主主義国家があり、平和の問題を難しくする要因となっています。もちろん対する米帝国主義と、現在その従属国でありかつて植民地帝国であった日本という問題国もありますが…。以上では人権・民主主義と戦争・平和とをめぐる発達した資本主義国と発展途上国との関係を抽象的に述べましたが、東北アジアにおいて具体的に考察しているのが、和田春樹・藤原帰一・姜尚中の三氏による討議「朝鮮植民地支配とは何だったのか 『帝国』日本と現代」(『世界』1月号所収)です。この討議は問題をクリアに提起し、切実な課題に向き合っています。

 蛇足ながら、先進的民主主義国の帝国主義と発展途上国との関係の縮図を抱えているのがパレスチナです。西欧型民主主義国家のイスラエルが発展途上国型の地域であるパレスチナに対していかなる仕打ちを行なっているかを厳しく指摘したのが、サラ・ロイ氏の「ガザが語る『虚構』の和平」(『世界』1月号所収)です。彼女はハーバード大学中東学研究所上級研究員で、両親がともにナチによる強制収容所から生還したユダヤ人でありながら(というか、であるがゆえに)、そのイスラエル批判は峻烈で説得力があります。イスラエルは植民政策でパレスチナの土地を分断し、戦闘でインフラを破壊して、計画的意図的に経済を破壊することで、国際援助によってしか生きられない物乞い状態に蹴落としています。その上で世界から糾弾される無法な占領政策がどのように継続されてきたのか。

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 占領政策は、(イスラエルにとっての「大前提」以外は)長期的な視野に立って考察されたわけではなく、むしろ短期的な決断の連続なのです。長期的な視野に立って決断をするには自らの立ち位置をはっきりさせなくてはいけません。占領や入植地の拡大をやめるという長期的な決断は、議席を多く持つ政党にはできないのです。でも、きっと一○○〜二○○年後に今の状況を振り返ってみたとき、自分たちがどんなに愚かだったのか、気づくと思います。       266ページ

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 彼女はまさにこの地域における「歴史としての現在」を洞察しているからこのように喝破できます。しかし帝国主義的政策がもたらす既得権と民主主義とが結合されたとき、その国に暮らす「先進的市民」たちは目先の利益から愚かな選択を続けることになります。ドメスティックな民主主義と対外的暴虐との見事に醜悪な結合の典型例をここに見ることができます。

 

         ◎必読論文の追加

 先月、「全日本人の必読論文」として『世界』12月号の布施祐人氏のルポルタージュ「もう一つの日米密約 21世紀ニッポンの治外法権を追う(上)」を紹介しましたが、1月号で完結しました。続いて『世界』1月号では、ダニエル・エルズバーグ回顧録「アメリカの凶器・核の時代―その真の歴史を暴く」と鎌田慧・斉藤光政「ルポ・下北核半島」という二つの新連載も始まり、これらも必読です。

 私は高校1年のとき、確か中公新書の『政府対新聞』という本を読み、ペンタゴン・ペーパー事件を知りました。以来、北爆の根拠とされたトンキン湾事件が米軍の謀略だったことを記したこの秘密書類を暴露したエルズバーグ氏は、ベトナム反戦運動の英雄として、深く記憶に残りました。その少年時代のヒロシマ観から始まって、ペンタゴン勤務を経て反戦活動家へという歩みが展開されるであろう連載はきっと私たちにも平和の論理を深く築く手助けとなるに違いありません。第1回「プロローグ ヒロシマの日  六四年間、居眠り運転をしてきたアメリカ」は秀才少年エルズバーグに与えたヒロシマの衝撃から科学者・エリートの責任にまで及び、次号以降への期待が高まります。

 「ルポ・下北核半島」の第1回「米軍基地ミサワ 核密約の最前線」で明らかにされた三沢基地の実態は衝撃的です。ここからアフガニスタンまでF16が一気に駆け抜け夜間の精密爆撃を行なう離れ業=「長距離先制攻撃」という大規模な秘密作戦を敢行しているのです。冷戦時代には核爆撃基地であった三沢は現在でも米空軍屈指の先進基地として厳しい訓練に明け暮れています。在日米軍基地がなぜ存在するのか、それはもちろん日本防衛が目的ではありませんが、その米国軍事戦略にとっての死活的利益を理解することは、沖縄の米軍基地の問題を把握する上でも欠かせません。「日本を守ってくれるアメリカが怒っているからたいへんだ」などという支配層・マスコミのおどし文句を跳ね返して、危険な米軍事戦略から日本が離脱することが世界と日本の平和に必要なのです。このルポの中に、在日米軍基地の役割を明らかにした新原昭治氏の言葉が紹介されています。これによって以上のことが了解されるでしょう。

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 アフガニスタンの秘密作戦で明らかになったのは三沢の、ひいては在日米軍基地の抜きんでた役割です。こういう困難な任務をこなせる貴重な部隊を日本という極めて安全な後方に置いて、実戦さながらの訓練を重ねる。そして、いざ必要なときには躊躇なく前線に投入する。米国の在日米軍基地に対する考え方が、この秘密作戦で明らかにされたといえるでしょう。再編という新しい枠組みの中での、在日米軍基地の新たな位置づけと特殊性を浮き彫りにしたともいえます。三沢の行動範囲がアジア全体に及ぶことを如実に示したのです。       67ページ

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                                   2009年12月29日




2010年2月号

         新自由主義の覇権はどうなるか

 昨年の政権交代により成立した民主党政権が新自由主義的構造改革から脱するのか回帰するのかが問われています。これをめぐっては、米日支配層の意向と人民の要求との間で、政権と民主党内は揺れています。喧伝された「事業仕分け」など見ていると新自由主義への傾きが大きくなってきたようにも思われます。この動向には人民の闘いが大きく影響することはもちろんですが、土台にある経済の動きもよく見る必要があります。

 新自由主義の本質は実体経済面では搾取強化であり、金融面では金融肥大化とカジノ化です。搾取強化は生産と消費の矛盾を激化させることで資本過剰を生み出し、実体経済への投下先を失った貨幣資本は金融市場になだれ込み投機資金となります。基軸通貨特権に支えられる米国資本主義は国際収支の赤字を無視した勝手気ままな経済政策を実施して世界中の過剰貨幣資本を吸い込みました(たとえば相対的高金利によるドル高政策は国際収支の赤字を助長するが米国金融市場へのドル還流を促す)。そしてバブルによる資産効果を金融的術策で増幅し消費需要を「創出」することで生産と消費の矛盾を「克服」し、世界の消費センターとしてグローバル経済を支えてきました。住宅バブル崩壊によるサブプライムローン破綻をきっかけとした今次の世界恐慌で、米国を中心とするこうした世界資本主義の架空の繁栄は(投資銀行モデルとともに)崩壊し、新自由主義は引導を渡された、という見方が有力となりました。

 しかし、too big to fail という理由で、新自由主義の権化であり経済危機の戦犯でもあるはずのウォール街の巨大独占金融機関は公的資金注入や「国有化」など手厚い保護策によって次々に救済され急速に業績を回復して、公的資金の返済を大方済ませているという状況になっています。山脇友宏氏の「21世紀型金融恐慌と米国金融独占体(上)」は、「ウォール街によるワシントン占領」(154ページ)ともいえるこの救済・再編過程が結局、巨大銀行の「バベルの三塔」(146ページ)体制に収斂していく模様を活写しています。なかでもJPモルガン・チェースは、「ウォール街―財務省―IMF複合体」の中枢銀行として21世紀の「金融版のパックス・アメリカーナ」の指揮者となろうとしており(159ページ)、その目指すところは「大恐慌以来の最悪の信用崩壊の原因の一つとなった複雑怪奇な金融取引(CDSをはじめとする金融デリバティブ)と『大きすぎてつぶせない』巨大金融機関の超寡占体制の支配を、世界的に再興」(152ページ)することです。つまり国家の力を動員して再編された金融寡頭制の下で、金融面の新自由主義であるカジノ資本主義を堅持しようとしています。こうして見ると、市場原理主義というニュアンスを含みがちな新自由主義という用語より国家独占資本主義という言い方の方がぴったりきます。と言うかもともと、国家独占資本主義そのものが、その初めの形態であったケインズ主義から、その行き詰まり後に新自由主義の形態に移行したというのが真相です。ただ新自由主義段階では「自由競争」や「小さな政府」が強調されたために、国家独占資本主義という本質が隠れていましたが、今回の体制的危機に際してなりふり構わぬ形でそれが露呈したということでしょう。「国有化」とか財政スペンディングを見て、新自由主義からケインズ主義に移行したと判断するのは早計です(ましてや「社会主義」と騒ぐのは論外)。直接的生産過程と労働法制のあり方などから搾取体制がどうなっているか(資本の専制支配が強化されたか弱体化したか)、および金融化とカジノ化がどうなっているか、を捉えることが必要です。ケインズ主義は多少なりとも労働者階級への譲歩を含み、金融化・カジノ化には批判的だろうからです。1月21日、オバマ大統領は大手金融機関の規模に一定の制限を設けることや、商業銀行のヘッジファンド投資などを禁止する金融規制案を発表しましたが、ウォール街の抵抗が予想され予断は許しません。

 世界恐慌によって、従来隠蔽されていた過剰生産が露呈し、金融上もウォール街モデルが崩壊することで、米国資本主義が世界の「消費センター」であり「金融帝国」であるという世界資本主義の新自由主義的蓄積構造も頓挫したはずですが、眼前のウォール街の復活はどう捉えればよいのでしょうか。確かに長らくウォール街の支配下にある米国政府によって金融独占体が救済されたことはわかりますが、失業率の上昇などに見られる実体経済の停滞は覆い難く、有効な蓄積構造が再構築されたとは言えない状態です。

 山脇氏は「金融化の特性は、投機的、略奪的スタイルの点できわ立ち、金融システム内部で価値をすくい取る手法が発達し、多数の人々を犠牲にして、少数の人々に巨大な富をもたらす市場操作が可能となり、結果としての巨大金融産業組織体の金融支配力(金融権力)と政治権力をも飛躍的に強めた」(141ページ)と述べています。問題は「内部で価値をすくい取る手法が発達し」た金融システムと実体経済との関係です。これが十分に理解できないところでは、実体経済の停滞下におけるウォール街の復活という現実を捉えることが難しくなっています。

 一方では必ずしもケインズ主義に移行したとも言い難く、他方ではきわめて不安定で奇形的に新自由主義権力が再編復活しつつある、という混沌とした暗闘的状況に米国資本主義はあるようです。日本の民主党鳩山政権も新自由主義の復活をめぐる暗闘の中にありますが、ウォール街の復活からは暗い影響があるかもしれません。人民の明るい闘いがますます必要となります。

 ところで「事業仕分け」にも見られるように、新自由主義は、旧来型の不透明な官民癒着・隠蔽構造を打破するために、透明で民主的な手法を使います。確かにこれ自体は肯定的に評価しうるものです。しかしその結果として出てくるものは、弱肉強食型経済であり、大企業優位の固定化、そして格差と貧困の社会です。進歩的な手法が反動的な結果を導くのはなぜか。もっとも、「反動的な結果」といってもそれは人民の立場から言いうることであって、マスコミなどでは今だにこの手法と結果の全体をさして「改革」と称しています。「改革」の結果が日本社会のこの惨状ですから、いい加減この言葉の神通力もすたれてきましたが、いつでも新自由主義を美化するために復活しようとしてくすぶり続けています。

 今、名古屋市では河村市長が新自由主義的構造改革に取り組んでいます。市議会定数を半減するなど、市長の独裁体制を目指して、自己のタレント的人気に乗じてさかんにマスコミに露出し、住民投票をも利用しようとしています。小林武氏は「民主主義」的手法による独裁の危険性に警鐘を鳴らしています(「守ろう くらし・福祉と民主主義 1.13市民集会」/1月13日名古屋市公会堂/にて)。河村「改革」を支えるのは要するに「市民の支持」ということになります。批判派・民主勢力はなかなか厳しい闘いを強いられることになります。

 新自由主義が「民主主義」的手法で通用するというのも、「自己責任」「効率主義」「市場主義」といったイデオロギーが広く支持されているからです。これらは資本主義的市場経済という土台に適合した「自然な意識」であり、人々が毎日の生活をすごす規範であるので(逆らえば不利益が生じる)、新自由主義は強固なイデオロギー的基盤を持っているといえます。ただし資本蓄積の結果としての格差・貧困・恐慌などがこれらへの懐疑をも不断にもたらしており、ここに私たちの闘いの基盤があります。昨今の経済情勢からいえば、民主主義の舞台で勝負できる、つまり人々の共感を得ることは可能だと言えます。

  

 

         日本の労働生産性は低いか

 「しんぶん赤旗」1月4・5日付作曲家の池辺晋一郎さんとピアニストの仲道郁代さんの対談「生誕200年 ショパンは美し」が載っていて、実に楽しく興味深い内容です。ご両人はショパンを多角的に分析していて、たとえば音楽的にはベートーヴェンやシューマンなどとの対比が行なわれているし、社会的にはポーランドへの思いとサロン生活とのジレンマが指摘され、同時代の最先端の様々な芸術家たちとの交流にも言及されています。そこから浮かび上がってくるのは、クラシック音楽を通して見た大陸ヨーロッパの熱い歴史、そして豊饒で成熟した文化の香りです。さらにそれを支える経済社会のあり方に思いを馳せたくなります。

 その前、元日の「赤旗」にはやはりピアニストの小川典子さんと志位和夫日本共産党委員長との「新春連談」があります。志位委員長がピアノについて蘊蓄を傾けているのも楽しいのですが、印象に残ったのは小川さんが語る日本人の働き方の話です。

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 私は職業柄、いろいろな国に行くし、外国に住んだ経験も長いわけですけれど、一番感じるのは日本人ほど一生懸命働く、働こうという気持ちのある人たちは、ほんとうにみたことがないんです。この哲学はまれにみるというか、ほかに例がないといってもいいと思うんです。国民一人ひとりが、机に向かって、あるいは道路や鉄道の整備で働いてこれだけのことをやったということで、この国を動かしているということをもっと自覚した方がいいと思います。外国の人々は日本人ほど勤勉ではないし、不便も多いんです。日本では、すごく欧米志向が強いけれど、いろいろな人が夜遅くまで働いて、日本はここまで立派になったということをいってほしいと思います。

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 日本では確かに「至れり尽せり」の働き方だから、利用者や消費者としたらこんなに便利な社会はないでしょうけれども、働く方は本当に一生懸命で大変です。そうじゃないかと常々思っていたことを実際に世界中を飛び回っている人が言ってくれて、我が意を得たりです。

 これに対して志位氏が、勤勉はいいけど、それをいいことに「働かせ過ぎ」なのは良くない、として自由時間と人間発達の意義を強調しています。

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 私たちは、社会主義・共産主義の社会をめざしていますが、私たちのめざす未来社会の一番大事な点は、労働時間を短くして、すべての人間が全面的に発達することができる自由な時間を豊かにすることだと考えているんです。自由な時間で、すべての人が音楽や美術や文学や科学やスポーツや、それぞれの潜在的能力を全面的に発展できるような社会が理想なんです。

 人間はいろいろな才能をもっています。小川さんは特別に音楽の才能をもっていらっしゃるけれど、そういう人は実はもっとたくさんいるはずでしょう。

 いまとりくんでいる労働時間短縮の運動は、その第一歩としてとても大切です。夕食は家族だんらんでゆっくり食べる。バカンスを何週間という単位でゆっくりとる。そういうなかで、人々がもっている力を、いろいろな形で発揮できるような社会をめざしていきたい。

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 このようにマルクスの未来社会論の助けを借りれば、資本主義社会の中で短く切り縮められた人間観から脱して、本来の人間発達の大きな可能性とその人々が形成する真に豊饒な社会を想像することができます。それはもちろん空想ではなくて、資本主義社会の中で陶冶されその変革に立ち上がっている人間像の中にその萌芽を見ることができます。科学的な未来展望があれば、現状への批判力が強くなります。

 ヨーロッパでは労働運動などの伝統により、相対的には働く者にとって人間的な経済社会となっています。日本社会は、一方に過労死、他方に失業という、労働時間の決定的なアンバランスを抱えていますが、今それを変革する闘いに労働者が立ち上がっています。こうしてルールある経済社会をつくることが目指されています。小川さんは「私たちがもっている勤勉さを保ちながら、それをやったらかなりいい線いくと思いますよ。(笑い)」と言い、志位氏が「いい線いきますよ(笑い)。勤勉さはいいことですから。日本人は勤勉なわけですから、もっと短い労働時間でも、社会の仕組みをかえたら、ずっと豊かな社会になるはずなんですよ」と受けています。

 まったくそのとおりですが、現状は真逆で、勤勉さが逆用され、人間発達どころか、人間の貧困化・切り縮めに帰結しています。国際競争力至上主義で人件費を初めとしたコスト削減が最優先され、したがって内需不足となり、ますます外需に頼って「競争力」「競争力」の連呼…この「悪魔のサイクル」から日本資本主義は抜け出せません。「デフレスパイラル」に陥っているのは日本だけだ、などと言われます。物価が下がり企業収益が悪化し賃金も下がり需要不足でさらに物価が下がり…。しかしこうなっているのは、通貨の問題ではなく実体経済が疲弊し縮小しているのだから「デフレスパイラル」という用語は間違いです。むしろ日本資本主義の国民経済が陥った現状は「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと私は思います。

 小川さんによれば世界一働き者の日本人ですが、統計的には先進諸国の中で最も労働生産性が低いとされます。この大きな逆説の中に日本資本主義の宿痾が表現されているのではないかと今考え初めているところです。この逆説については、拙文「月刊『経済』の感想 2007年7月号」分において問題提起し、同じく「2009年10月号」分で若干の回答らしき試見(私見)を書いておきました(http://www2.odn.ne.jp/~bunka から「店主の雑文」へ)。

 もともとは「労働生産性 日本なぜ低い」という「朝日」記事(2007年5月23日付)を読んだのが発端です。この記事が紹介する社会経済生産性本部「2006年版 労働生産性の国際比較」によれば、2004年において日本はOECD加盟30ヵ国の19位で、主要先進7ヵ国では11年連続で最下位、1時間当たりの生産性も19位です。ショッキングな内容ですが、まず問題は労働生産性の定義です。ここに重要な問題点があります。それは「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出」します。それを購買力平価に換算して比較します。本来の労働生産性は、単位労働時間当たりに生産される使用価値量によって計られます。しかしこれでは、たとえば鉄鋼の生産性の国際比較は可能ですが、異なった使用価値どうしでは比較ができないので、各国の国民経済全体どうしの労働生産性の比較はできません。そこで上記の定義で国際比較をしますが、そうするとこれは労働生産性そのものの比較ではなく、正確には付加価値生産性の比較となります。使用価値量によって計られる労働生産性は、生産過程そのものの効率を表現しますが、就業者一人当りあるいは1時間あたりの付加価値生産性は価値実現を前提するものであり、生産過程のみならず流通過程をも含みます。したがって本来は付加価値生産性であるものを労働生産性と称して、各国国民経済の労働生産性を論じると、価値実現過程の問題を含んだものをも生産過程の問題だけに押し込んでしまうというミスリードが生じます。事実、この国際比較を利用して日本の資本側は労働者の働き方に対して非効率的だという攻撃を加えています。

 問題は生産過程の内部ではなく、価値実現過程にあるのではないか、と私は考えます。このことは、日本資本主義が今次世界恐慌において他国よりも落ち込みがひどく、外需依存から内需主導型への転換が課題とされている事情と大いに関係があります。この課題については『前衛』2010年2月号の座談会「中小企業の発展こそ日本経済再生の力」で縦横に論じられており、全体を熟読したいものですが、さしあたっては参加者の一人、吉田敬一氏の議論を参考に拙文の当面のテーマに言及したいと思います。

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 日本の製造業はあまりにも機械系三業種に特化した構造になっていて、ここが日本の輸出の主力を形成してきました。しかも売り先が主にアメリカだったということは、二重の意味で奇形的でした。だからアメリカという主力マーケットが経済危機に直面して、非常に大きなダメージを受けたのです。      130ページ

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 機械系三業種とは一般機械、輸送機械、電機機械です。吉田氏はこの前に「日本に外国の製造業が入ってこないのは、日本の製造業の競争力が強すぎるからです」(129ページ)と述べています。「競争力が強い」ことと「労働生産性が低い」こととは本来は矛盾するはずですが、これは上記のように言葉の錯覚であって、「競争力が強い」ことと「付加価値生産性が低い」ことが両立しているのです。

 井内尚樹氏は日本とヨーロッパを比較して興味深い指摘をしています。日本ではコストダウンと品質アップを両立させることを追求しますが、ヨーロッパでは労働者の削減につながるコストダウンを避け「品質を向上させれば価格はあがるもの」だと考えている、というのです(「井内直樹の腕まくり指南」第103回、「愛知商工新聞」2009年10月12日付所収)。吉田氏のいう「二重の意味で奇形的な」外需依存構造は広範な産業連関を通して国民経済全体を規定しているわけですが、その競争力を支えるのはコストダウンによる低価格(低付加価値)でしょう。輸出大企業や多国籍企業自身が単位商品の低価格を実現量で取り戻して(それは低価格のもたらす競争力による世界市場支配で可能となる)、付加価値量を確保しても、この低価格を支える国内産業は(狭い国内市場にぶつかって)そうはいかず、日本全体の付加価値生産性は低くなるということではないでしょうか。

 昨今は低価格化ブームとなっていますが、ユニクロの1000円を切ったジーンズと250円弁当とは区別すべきだ、と井内氏は言います。前者は「企業が低価格化戦略を採用し、中国での低賃金を大いに活用したということ」であり、後者は「この戦略に翻弄され、闇雲に追随した企業が『低価格』に向けて消耗戦を繰り返しているのです」(同前第106回、同新聞2010年1月4日付所収)。一応前者は価値通りの価格だけれども、後者は価値を下回る価格で再生産が困難となります。日本資本主義が落ち込んでいる「コスト競争の悪魔のサイクル」はこの両者によって形成されているのであり、この中で一部の前者は拡大できるけれども、消耗戦に落ち込んだ多数の後者は没落していきます。こうして国民経済全体としては低付加価値にあえぎ、社会経済生産性本部がいうところの低労働生産性(実は低付加価値生産性)に帰結することになります。膨大な投下労働の一部は価値実現されずに「サービス残業」状態となります。これはいわばグローバル市場に向けた国民経済全体のダンピングであり、一種の飢餓輸出体制であり、「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと思うのです。すでに対米輸出の黒字累積とドル下落傾向とから日本経済の「タダ働き・価値流出」は広く認識されていますが、この関係にとどまらず、「コスト競争の悪魔のサイクル」体質そのものにそれは潜んでいると考えられます。資本と賃労働との階級対立の中で労働分配率が低い(搾取率が高い)ことが問題ですが、労働分配率の分母である付加価値量そのものが対外流出し国内でもそれに合わせて低いことがもう一つの苦しみの元凶となっているようです。小川典子さんが感心する世界一勤勉な日本人の投下労働はこのように報われないのです。

 それでは日本とヨーロッパとの価値実現力の差はどこにあるのでしょうか。先の『前衛』座談会で吉田氏はこう指摘します。

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 ヨーロッパでは、五○○人、一○○○人という小さな町や村でも、きちんとコミュニティが形成されています。そのカギは「食」と「住」です。これが地産地消で循環していれば、そこそこの雇用と所得は確保できます。  136ページ

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 このように自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済が内需循環型であれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じるのではないでしょうか。

 クラシック音楽は大陸ヨーロッパの文化的成熟を象徴するものだと思いますが、それを生み出した彼の地のこのような経済社会のあり方に学ぶことが大切です。固有の国民文化と地域文化を保存しうる生活基盤は内需循環型の地域経済・国民経済に求められます。伝統が尊重されその上に新たなものが重なっていくあり方です。日本では対米従属下で資本の論理が過剰貫徹し、伝統文化や生活様式の破壊の上に新たなものが作られてきました。

 しかしもともと日本がヨーロッパに劣っているわけではありません。さだまさしさんの名曲「案山子」(かかし)は、都会にひとり出て行った若者を気づかう故郷の家族の気持ちを見事に歌い上げています。この歌は、日本資本主義の原始的蓄積期以来続いてきた農村から都市への労働力流出にまつわる心情・風景を詩情豊かに描いたといえます。それだけでなく、日本資本主義そのものが世界経済の大海に雄飛して米国に次ぐ経済大国になりながら、今や深く傷ついてしまった現状に符合するように私には思えます。手紙も書かず電話もしないでまるで故郷を喪失したように脇目も振らず世界を相手にがんばってきたのに行き詰まってしまった。「案山子」は呼びかけているのではないか。実はこの苦境からの脱出は、故郷を見直し、そこに宝を見い出すことから始まるのだろう、と。つまり農林水産業を復興しそれと連携した商工業を発展させて地域経済を充実させることで、その総体としての国民経済が豊かな可能性を発揮していくのではないか、と。日本には美しい自然と優れた伝統文化・生活様式があり、別にそれを特に世界に誇る必要はないけれども、少なくとも、それを破壊することで人間的生活と独自の国民経済をスポイルしてきたこれまでの道を反省して新たな発展を目指すことは可能でしょう。

 内需主導は今や立場を超えたスローガンとなっています。しかしそれを大資本の剰余価値追求の手段にしてしまうのか、人民の生活と労働を改善し、人間発達を促す方向に向けるのかが問われます。吉田敬一氏はこう指摘します。

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 内需振興に力を入れるのは当然ですが、内需進行のためには地域産業振興と雇用拡大という観点も必要です。そうしないと、結局、多国籍型・逆輸入型の企業が発展するだけです。これでは再び亡国への道です。

 公共事業でも、再生可能エネルギーの活用でも、うまくやればそれぞれの地域の仕事になるけれども、下手をすると大企業だけがもうかるということになります。「外需主導から内需主導へ」という大きな方向は正しいけれど、何を目的にするのかが大事だと思います。

 地域産業が新たに発展することによって地域内の経済循環力(仕事とお金が地域内で循環する仕組み)を高める、その結果として雇用を安定させるという大目標に向かって、内需を拡大していくということが必要です。  前掲座談会 155ページ

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 まさにこの「地域内の経済循環力(仕事とお金が地域内で循環する仕組み)」こそが、投下労働を正しく実現し、タダ働きを防いで、人間発達と国民経済の真の充実を実現するカギなのです。

 以上の議論は感覚的思いつきの域を脱しておらず(それ以前に大きな勘違いかもしれないけれども)、しかも統計的検証が欠けているので、本当はもっと理論的・実証的にしたいのですが、他日を期します(できるか?)。他にもあれこれの問題で思いつきはありますが、勉強量と能力の圧倒的不足を感じ、まとめるには至りません。困ったことですが、これも理論的ハングリー精神と考え、できの悪い試見(私見)であっても適当に表出することで、かっこ悪さをバネに前進しようとするしかないか、と思っております。


                                   2010年1月31日




2010年3月号

         現実認識の深化のために

 残念ながら中西新太郎・高山智樹編『ノンエリート青年の社会空間』は読んでいませんが、ノンエリートという言葉からは、熊沢誠『ノンエリートの自立』を想起していました。とはいえこれも読んではいないので、いささか間抜けた連想に過ぎないか、とも思っていました。ところが乾彰夫氏は前者に対する書評において後者の問題意識を足掛りに論じています。だから私の連想もあながち無意味ではなかったと安堵しました。以前に熊沢氏の『新編・日本の労働者像』はよく読んで深い感銘を受けていたので、乾氏の今回の書評における問題提起には共感できました。

 80年代に熊沢氏が問題としたノンエリートと90年代後半以降の中西氏らのノンエリートとは(労働状況の激変を反映して)、違うものだけれども、同じ言葉を使って問うことには意味があります。つまり乾氏によれば「民衆の多数派のなかに支配的な生活・労働秩序とは異なるオルタナティブな秩序形成を求めようとするとき、どこに焦点をあてるべきか」(97ページ)を考えるならば、80年代には「ノンエリート(中層以下)の正規労働者」が対象となりますが、今日では「現在急速に進む不安定化のもとで周辺化された場に置かれる若者たち」(96ページ)、つまり非正規労働者層が該当します。熊沢氏はその対象とした「標準」領域層に対して「ミドルクラスの能力主義的秩序とは異なる労働と生活の秩序を労働者階級が確保しているヨーロッパ的な社会秩序形成を想定した戦略として」「ノンエリートの労働組合的自立」を提起しました(97ページ)。これに対して中西氏らの著作では、今日の非正規労働者の若者たちの生活と労働に内在してその困難さのみならず、地域内にインフォーマルなネットワークが形成されていることにも注目しています。乾氏はここに、熊沢氏の「標準」に対して、中西氏らの「第二標準」への模索を見ています。

 かつて熊沢氏の『新編・日本の労働者像』を読んだとき、この社会民主主義者が描く労働者像は、遺憾ながらマルクス主義の労働経済学者のそれよりも圧倒的にリアリティがあると感じたものです。熊沢氏はイギリス労働運動の分析を通して、能力主義から分離し個人主義的競争を規制しうる「労働社会」を職場にうちたてることの決定的重要性を明確にしたのみならず、それが資本主義社会の国民的合意としての個人主義的競争とは分立したものであることを指摘しました。この観点から日本の職場=「企業社会」を見れば、そこが「資本主義社会の国民的合意としての個人主義的競争」の場であることが認識され、そのオルタナティヴとして「労働社会」=「能力主義から分離し個人主義的競争を規制しうる」場の確立を提起することができます。日本の労働運動においては左派をも含めて、このような労働社会を形成することができずに、というかそもそもそういう問題意識が希薄であり、職場社会は企業社会として資本の専制が貫徹されるままに放置され、運動そのものは賃上げないしは政治闘争に一面化されてきたように思われます。

 確かに労働者階級は資本家階級に搾取され、それ故に資本主義社会を止揚して社会主義社会を形成する歴史的任務を持っています。労働者階級の本質はそういうものであり客観的にはそういう存在です。しかし資本主義的商品生産社会に生きる彼らの意識は日常的には「資本主義社会の国民的合意としての個人主義的競争」にさらされているのであり、それは現代社会を支配するブルジョアマスコミによって増幅されています。このようなブルジョアイデオロギーからの意識的分離を実感的に支援しうる場としての労働社会の形成は主に組織労働者の任務です。かの「国民的合意」とは異なった場が現実にあることは、労働者の中に階級意識を培う近道となります。

 先に乾氏の言う「民衆の多数派のなかに支配的な生活・労働秩序」とはこの「国民的合意」であり、それを打破することは社会変革にとって重要な要素です。労働者階級は客観的には革新的存在であっても、その中ではこの「国民的合意」が支配的イデオロギーであることをしっかりと認めることから出発しなければなりません。私たちは客観的存在の次元では多数派であっても、主観的意識の次元においてはまったくの少数派です。そんなことは誰にとっても自明であろうけれども、実際の運動においては、見たくない現実からは目がそらされがちになるのではないでしょうか。個々の要求獲得運動の過程などにおいて、あたかもあるべき労働者像が実現しているかのように錯覚していることはないでしょうか。現実には様々な矛盾が労働者をとらえ、そこから資本への反発が起こったとしても、それがすぐに「資本主義社会の国民的合意としての個人主義的競争」などのブルジョアイデオロギーから離脱することに直結するとは限りません。

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 労働運動が目前にある国民意識に無批判なまま、はじめから組織労働者と国民が対立しないことのみを求めるならば、ブルジョア社会公認の哲学の側の不戦勝はあきらかだ。そのとき労働者をふくむすべての勤労者は、資本主義的管理社会のなかでひっきょう自立と自治、抵抗権と決定権の手がかりを失ってゆくのである。 

   『新編・日本の労働者像』(ちくま学芸文庫、1993年)36ページ

 ふつうの労働者たちが、労働そのものにかかわる権力と意味を集団的に追求すること、労働をめぐるなかま同士の関係を競争制御の方向で規制すること、そうすることを通じて生産点にはじまり全社会にひろがっている能力主義の基礎を動揺させること。それらは、組織労働者にとってばかりではなく、ひろく日本の庶民一般にとっていま枢要の思想的な営みに、ひとつの決定的な貢献をなしうるはずである。   同前 128ページ

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 ルールなき資本主義の日本の職場にはもともと労働社会はなく、企業社会があるばかりだったのですが、今はそれさえ崩壊しつつあり、無秩序な搾取の荒野(社会にとってそうあるものが資本にとってはよく耕された沃野なのかもしれないが)が広がろうとしています。ヨーロッパの職場には、個人主義的競争を規制しうる労働社会があり、それが「生産点にはじまり全社会にひろがっている能力主義の基礎を動揺させる」ことを通じて、ルールある資本主義の基礎となっているのではないでしょうか。

 そうであるならば、私たちが目指すルールある経済社会の行く先は社会主義社会までが展望されます(それは本来ヨーロッパの社会民主主義を超えるはずのものだけれども)が、さしあたってのルールある資本主義社会の形成にとっては、労働社会をつくる組織労働者の思想が(「ブルジョア社会公認の哲学」としての「国民的合意」を克服して)社会全体に影響を与える状況が求められます。国民的規模で社会観の反省を促した「派遣村」的状況はそのきっかけとなりうるものです。労働組合の外にあって労働市場からも投げ出された原子的諸個人が組織化を求めざるを得ない状況は、組織労働者・未組織労働者・自営業者等にも資本主義的市場にかけるよりも仲間同士の連帯を培うことの重要さを気づかせつつあります。熊沢氏の「標準」を足掛りにして、今日的状況の中で中西氏らの「第二標準」が形成されていくことは、資本主義社会における個人主義的競争という「国民的合意」に対する「国民的反省」を促すものとなるでしょう。

 熊沢氏が、「国民的合意」と「組織労働者の思想」との対立をあえて指摘したのは、労働者の置かれた状況をリアルに見るのに助けとなりました。日本の労働現場では、労働者意識においてもこの「国民的合意」に蚕食された状況にあるという現実をまずしっかり押さえなければ、正確な現実認識には至りません。社会変革を目指すものはしばしば、対象のあるべき姿と現実の姿とを混同しがちになります。前者に合わせた後者像を描きがちになります。あるいは価値判断と現実そのものの認識とが混同されがちになります。もちろん両者を機械的に分離することはできないし、両者の関係をどう捉えるかは大問題ですが、さしあたってここでは両者の区別の必要性を指摘するにとどめます。

 話題は飛躍しますが、平和とか戦争の抑止力とかをめぐっても、価値判断と現実認識との関係は重要な問題ではないかと思います。端的に言えば、戦後、サンフランシスコ体制下で日本が享受してきた「平和」は主には日米軍事同盟などによる軍事的抑止力によるものではないのか。現実認識としてはそうなるのではないか。全面講和に基づいて日本国憲法の理念を生かした平和(残念ながらそれは実現しなかったが)の観点からすれば、前記の「平和」は本物ではないという価値判断を下すことはできますが、主に軍事的抑止力による「平和」が存在したこと自体は認めるべきではないかと思います。

 アメリカ帝国主義こそは世界の平和への最大の脅威であり、したがって日米軍事同盟がアジアにおける軍事的脅威であることに応じて周辺国の軍備増強も進むという悪循環の中に日本はあり続けました。この悪循環を所与としてしまえば、この環境において「平和」を維持するのは軍事同盟や自衛隊のような軍事的抑止力とならざるを得ません。人々の目にはこの局面が映ります。そしてしかしながらベトナム戦争において「日本軍」が米軍と一緒に侵略し、彼の国の人民と殺しあいをすることがなかったのは、ひとえに憲法9条のおかげです(対米従属で軍備増強を続けた日本国政府の姿勢にもかかわらず!)。

 そうすると、一方で9条を支持し、他方で日米安保条約と自衛隊をも支持するという、きわめて矛盾した世論の大勢の意味がわかります。私たちは、軍事的抑止力によらず友好関係の樹立による「あるべき平和」の観点から、9条とは矛盾する日米安保条約と自衛隊を排斥するわけですが、悪循環の局所としての「現実」を見ると、確かに9条と「日米安保条約と自衛隊」とが相まって「平和」を守っているのです。この意味では世論の矛盾を単に考え足らずと片付けるのではなく、ある「現実の矛盾」の反映として捉えることが必要ではないでしょうか。「朝日」の社説(1月19日付)が「同盟も、9条も」と言うのは、将来にわたって軍事同盟を肯定するという点でまったく情けない姿勢ですが、世論の動向をそれなりに捉えているという意味では注意深く見るべきです。

 普天間基地問題などにもあるように、一方では今ますます日米安保条約そのものを問い直す気運が高まってきています。しかし他方では今だ世論の大勢が「同盟も、9条も」であることをもしっかり見据える必要があります。人民の同意による安保廃棄までは相当な距離がある。説得力を増すにはどうしたらいいか。私たちは「あるべき平和」の立場からの価値判断を堅持しつつ、現実認識を柔軟に深めていくことが必要ではないでしょうか。以上ではまったくの舌足らずでしょうから、できればこの問題については他日を期したいと思います。

         「強い処をより強く」 その帰結と克服の道

 一方で普天間基地などの問題では、日米軍事同盟への帰依がますます強化されている「朝日」ですが、他方では今だに新自由主義信仰もやめられないようです。いくら社外の匿名筆者によるコラムだとはいえ、2月10日付「経済気象台」は今日の「朝日」の到達点を象徴しています。「おやじの収入は減りつつあるのに、あれも欲しいこれも欲しいの大合唱で散財を続けた結果、首が回らなくなった」というのは政権交代後の状況を揶揄しているのでしょう。だから「分配論より国富論」が大切だというわけです。

 この比喩に合わせるならば、このおやじ、外面(そとづら)はいいけれども、とんだDV(家庭内暴力)野郎で、そのため妻子が疲弊しきって家族全体が沈滞しているのです。世間がこの妻子を助けて、おやじにはきちんと反省してもらわねばなりません。ところが匿名氏は、今まで通りDVおやじに好き勝手にやらせろ、と吠えています。

 要するに資本家の十年一日のごとくの主張=「分配論より国富論」つまり<パイの分け方を変えるのではなく、パイを大きくするしかない>という趣旨と見えます。「国家戦略の基本は世界に通用する技術を持つ強力な企業を幾つ持つかに尽きる」のだそうです。そのため政府は大企業の邪魔をするな、それこそが結局は弱者救済の道である、と続きます。題して「強い処をより強く」。ここまでホンネをさらけ出してくれることは滅多にないから、もう拍手するしかない。

 最近「強者を否定する論説がこの国の一部に見られる」ことに危機感をつのらせた匿名氏はついに<時流に抗した正論>に立ち上がったのでしょう。しかし今さら改めて主張するまでもなく、小泉=竹中「改革」以来、このご託宣の通りにやってきて、ものの見事に破綻したのだけれども、また繰り返そうというのだろうか。

 この破綻ぶりを完膚なきまでにまた誰にもわかるように示したのが、志位和夫共産党委員長が2月8日に行なった衆議院予算委員会の質問です。それによれば、今次世界恐慌以前の10年間の日本経済を概観すると、資本と労働との格差および大企業と中小企業との格差が劇的に広がっています。「強い処をより強く」する新自由主義的構造改革の当然の帰結ですが、決定的な問題は、発達した資本主義諸国の中で日本だけが例外的な低成長にあえいでいるということです。1997年から2007年までのGDPの伸び率を見ると、カナダ:73.7%、アメリカ:69.0%、イギリス:68.5%、フランス:49.6%、イタリア:47.3%、ドイツ:26.8% に対して、日本は何と0.4%に過ぎません。「強い処をより強く」すればパイが大きくなるんじゃなかったのか? つまりバブル期をもしのいで大企業が空前の利潤をかせいできたこの時期に起こったことといえば、要するに<パイを大きくしないでパイの分け方を変えた>だけなのです。これは長らく資本家が最も嫌ってきたことではないのか。労働組合が分け前を要求すると、パイが大きくならないからダメと言下に断わってきたのに、昨今の資本家はパイが大きくならなくても労働者から分け前を奪うことだけには熱心なようです。

 それでは「強い処をより強く」する新自由主義的構造改革の大破綻はなぜ起こったのか、またそこからどう脱出すべきでしょうか。

 この時期、統計的には、雇用者報酬の減少と内部留保の増大とが対照的です。雇用の悪化と引き替えに内部留保が急速に蓄積されると、次のような悪循環に陥ります。<雇用↓→賃金↓→内需↓→生産↓→雇用↓>。労働者が貧困化し、利潤が企業内にため込まれることで、国民経済的には需要と供給とがともにスパイラルダウンし、日本資本主義の再生産構造は縮小してしまったのでしょう。志位氏の質問によれば、1月13日付の「フィナンシャル・タイムズ」は、日本経済の基本的構造問題として企業の過剰な内部留保を指摘し、内需主導の成長のために最も重要な要件は企業貯蓄の大規模な削減だとしています。岡目八目か、日本の財界に見えないことがイギリスの財界には見えるようです。そういえばドイツの労働組合も、1990年代の日本経済の失敗は賃金の下落にあり、自分たちは国内需要を支えるために顕著な賃上げを追求するとしています(宮前忠夫「欧州労組の『一○春闘』 積極的要求かかげ、危機打開の先頭に」、『経済』3月号、11ページ)。

 ところでこれは、先月書いた、国際比較における日本の「低労働生産性」問題と関係するところでもありますが、日本経済の例外的な低成長の原因としては、搾取強化による内需縮小の他にも、価値の対外流出もあるのではないでしょうか。グローバル市場での「コスト競争の悪魔のサイクル」にはまり込んだ日本の多国籍企業は賃下げと買いたたきで価格競争力を確保してきました。これは国内的には、内需縮小を招き、さらなる外需依存に陥ることになります。対外的には、労働者や下請企業の生産した価値が部分的にしか実現されないことを意味し、いわばサービス残業の構造化であり、一種の飢餓輸出体制であり、国民経済そのものがダンピングに陥っていることになります。このような国内的・対外的効果から物価の持続的下落をともなう不況が進行していますが、これは「デフレスパイラル」と呼ぶべきではなく、その対外的側面に着目して特徴づければ、むしろ「タダ働き=価値流出型・縮小再生産経済」というのがふさわしいように思われます。

 したがって日本資本主義の異常性は、まず資本・賃労働の階級関係および大企業と中小企業との下請け・系列関係などの階層関係とにありますが、それとともにグローバリゼーション下における国民経済のあり方にもあります。日本の労働者の生み出した価値は資本に厳しく搾取されるのみならず、対外流出もしています。

 そうするとルールある経済社会としての内需主導型経済のために、まず階級・階層関係の点では、(1)雇用・労働条件の正常化(2)下請け関係の正常化、が必要です。過剰に蓄積された内部留保の一部を取り崩して活用すれば、それらを実現することは可能です。そうすれば上記の悪循環を脱して<内需↑→生産↑→雇用↑→賃金↑→内需↑>の好循環に転換していけます。

 さらに対外関係を考慮すると、地域内経済循環力(仕事と金が地域内で循環する仕組み)を形成して、地域で生産した価値を地域内で実現することで価値の対外流出を抑制することを目指すべきでしょう。それは「地産・地商・地消」と言われる道であり、地域に「6次産業」と称される、「農林水産業+製造業+商業・サービス業・金融業」の産業複合体を形成していく努力です。

         中南米変革の実像

 中南米の左派政権は今や世界の革新勢力にとって希望の星となっていますが、そういうときこそ、現時点でのその到達点を冷静に見定めることが大切です。ベネズエラやボリビアと並ぶ急進的左翼政権といえるエクアドルのコレア政権について、ラテンアメリカ情報通信のオスバルド・レオン理事長の評価はきわめて興味深いものです(「しんぶん赤旗」2月13日付)。それによれば、コレア政権は米軍基地を撤去し新自由主義と決別し南米統合でも積極的役割を果たしています。経済運営における国家の役割を取り戻し、社会面での国家の責任を再確認しています。しかしまだ旧来の特権階層の利害と本格的にぶつかるところまではいっておらず、これから農地改革などを進めればクーデターの危険性もあるということです。コレア氏は傑出した政治家であり重要な政治変革をやってきたけれどもそれを支える社会運動や組織のレベルが弱点です。政治は大きく変わったけれども社会の変化は限定的であり、変革の政治に積極的に参加しうる人民の組織化が課題となっています。私は不破哲三氏が「マルクス、エンゲルス 革命論研究」の過渡期論において、変革における政治的な過程と社会的な過程との区別を重視していたのを想起しました。マルクスの社会主義革命論をコレア政権に直接当てはめるわけにはいかないでしょうが、派手な政治変革を支える地道な社会変革がゆっくりと着実に前進してこそ変革が本物となることは確かでしょう。
                                   2010年2月26日



2010年4月号

         社会認識の反省

 先月、内需主導型経済への転換について書きましたが、以前、大槻久志氏が強調していたように、日本の国民経済にとって輸出の重要性は依然として大きいわけで、そのことを看過すると一面的になります。要は単純な二分法ではなく、量的なバランスが問題となります。一般的に経済政策(というよりも政策一般)とはそういうものです。理念から出発して断定するのを急ぐのではなく、現実に内在して微妙な調整を試みることが必要となります。これについて医療経済・政策学を専門とする二木立氏は以下のように言及しています。

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○伊関友伸(城西大学経営学部マネジメント総合学科准教授)「恐らく、社会問題の解決には、白か黒かではなく、その中間を取ることが必要なのだと思います。その中間も灰色ではなく、ゼブラ模様か、マーブルケーキ模様のような込み入った色彩になるのだと思います。そのゼブラ模様を議論するには、事実をきちんと押さえて、できるだけ客観的、論理的に議論をすることが大事と考えております」(2010年1月5日の私信。伊関氏の許可を得て掲載。マーブルケーキは、行政学の「マーブルケーキモデル」から取った言葉)。二木コメント−「中間を取る」という一般的表現にとどめず、「中間も灰色ではなく、ゼブラ模様か、マーブルケーキ模様のような込み入った色彩になる」という微細な表現をされる伊関氏の言語能力の豊かさを感じました。 

  …中略…

○竹中平蔵(慶應義塾大学メディアデザイン研究科教授。小泉内閣で経済財政担当大臣等を歴任)「植物学者が優れた庭師になれる保証はない 日本の経済学者の多くは分を越え、のりを越えて、政府の政策文書もきちんと読まずに、発言をするというようなところがあります。ここで、庭師と植物学者は違うことを思い知るべきです。/庭をつくるためには植物学の知識が必要だけれども、植物学者として優れている人が、優れた庭師になれるという保証は全くありません。ですから、植物学者として、その範囲で発言するというのは、一つの見識だと思うのですが、日本の経済学者の中には、植物学者なのに庭師のような発言をする人がいます。そのために、思想の話しと実際の政策の話は違うにもかかわらず、そこが混在して非常にずさんな政策論議をもたらしています」(『「改革」はどこへ行った?』(東洋経済,2009,91-92頁)。二木コメント−私は、小泉「改革」を擁護したり、「リーダー民主主義は本質的に劇場型にならざるをえない」(210頁)とする(が、「メディアのワイドショー・ポリティクス」は批判する!?)竹中氏の主張には大反対ですが、この批判は的を射ていると思います。しかも、「日本の経済学者」を「日本の医学者」、「思想の話し」を「医学の論理」に置き換えると、この批判は、民主党政権下の医療政策をめぐる議論にもそのまま当てはまると思います。しかし、経済学の論理や医学の論理だけでは、「中間を取ることが必要な」「社会問題の解決」(伊関友伸氏)はできません。

<「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻67号)」/2010.3.1/の中から、「私の好きな名言・警句の紹介」より なおこの「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/ >

**二木氏は、医師としてわが国のリハビリテーション医療を切り開いてきた経験を持ち、医療経済学者に転じて後は実証研究の業績を重ね、今日では現実的かつ批判的な医療政策研究に基づく的確な「将来予測」が立場を超えて注目されています。観念的な議論に陥りがちな私にとっては、この「ニューズレター」に教えられる現実の様々な姿とそれをめぐる分析は重要な反省材料となっています(残念ながら反省の成果はあまり出ていないけれども)。毎号の「ニューズレター」の最後にある「私の好きな名言・警句の紹介」は無類の面白さがあり、研究の発想や方法のエッセンスが伝わるだけでなく、氏の人となりも何となく想像されます。

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 抽象的な理念(ましてやわずかな知識)だけで複雑な現実を割り切ってしまおうとするのは確かに知的怠慢だろうと思います。ただし人民の立場に立つ(それはある種の二分法を前提としますが)ことは必要であり、そこには偏向を生む危険性はあるけれども、そうすることで見えてくる現実もあります。要はていねいな現実認識であり、私としては自身がそうした水準には決して達していないことを自覚しつつ、粗雑な二分法に陥らないように少しでも前進できるように努力するしかないか、と感じております。たとえばこれは先々月に書いていたことですが、わが国民経済を「タダ働き=価値流出型・縮小再生産経済」と規定する思いつきは何ら統計的に実証されているわけではありません。しかしそういう思いつきが出てくるのは現実に根があるわけで、それが正しいか否かを検討すること自身には社会認識の前進にとって意義があるだろうと思います(その検討の見通しは立っていませんが)。

 また先月、労働者の意識について述べたのですが、啓蒙主義的な言い方であったように思います。いろいろと論文などを読んでから現実を判断する場合、「上から目線」に陥ることがあります。ただそれをどう克服するかというのは難しいのですが、啓蒙主義ではダメだというのは教育においては理解されやすいといえます。

 田中孝彦氏は「臨床教育学」の立場から「子ども理解」を進め、逆に子ども目線からおとなの生き方を問い直しています。思春期の子どもの親として自ら悩んだ経験が、田中氏の生活と研究の姿勢を揺るがしました。

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 「そのなかで、私は、本当に子どもを心配しているのか、自分の価値観からはみ出す子どもを認められずに悩んでいるのか、考えざるを得なくなりました。お父さんは私たちを愛しているのか、自分の価値観を愛しているだけではないのかと無言で問われているような気がしました。そうした経験から、異質な他者として子どもを認め、その声を聴き、理解を深めようとすることの大切さを思うようになったわけです。私は、一生懸命考えて選んできた自分の価値観は、子どもに受け継がれていくだろうと考えていた。しかし、そう単純ではなかった。子どもは紆余曲折を経ながら、自分で価値観を形作っていく存在であることを教えられたように思います」   

 月曜インタビュー「子の目線で問うおとなの生き方 子ども研究を軸に教育学を構築」

   「しんぶん赤旗」3月1日付

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 この述懐は直接的に私自身の子ども観を直撃するものでした。次いでその衝撃から一歩引いて、ここでの「子ども」を「人々と現実」に置き換えれば、私たちの社会認識と社会変革実践にそのまま当てはまるようにも思います。

 ただし「子ども」と違って「人々と現実」は、ある意味では「私たち」とは「異質な他者」ではあるけれども、本質的には「私たち」を含むものであるはずです。「私たち」は「人々と現実」の一部であるはずなのに、両者は異質でもある。「私たち」と「人々と現実」との異質性と同質性とのこの矛盾は、認識と実践の問題における核心です。「私たち」は「人々と現実」との異質性を認めた上で、双方が高い次元で同質となるような克服の努力をせねばなりません。社会認識の深化と社会変革の実践とはそういうものでしょう。私たちにとって、上から俯瞰できることは大切ですが、現実における「下からの格闘」抜きに、落下傘式の理念が実現することは難しいと言わねばなりません。人々の中で「正論が通らない」ことを私たちはしばしば嘆きますが、その際に「自分の価値観を愛しているだけではないのか」という反省を忘れずに、現実の中に分け入って行くことが求められます。

 

         ウォール街の復活

 先々月に、新自由主義の復権が成るか否かに関連して、高失業率などに見られる米国の実体経済の低迷をよそになぜウォール街が復活したのか、という疑問を呈しました。これについて山脇友宏氏は以下のように述べています。

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 ゴールドマン・サックスの金融危機からの脱出と急激な増収増益路線は、高いリスクをかけたトレーディングを敢行しハイリターンを得ているからである。危機のなかにあって、政府の緊急政策を活用しつつ、破綻の心配なしに高いリスクを取り、リターンを総取りできる蓄積のシステムをゴールドマン・サックスは「ガバメント・サックス」として築いたのである。 …中略…

 問題は、結果としての強欲報酬よりも、それを生み出す、高いリスクを取ったトレーディングビジネスの拡張、リスクの巨大化と集中、巨大すぎて破綻させられないのみならず、巨大すぎてマネジメントも規制・抑制・調整もできない「ガバメント・サックス」型の金融モンスターへの金融権力の集中である。それは、次なるより大きな金融システム危機のマグマの蓄積であり、その崩壊はより大きな国民的、国家的負担とアメリカの金融ヘゲモニーの機能不全につながる。 

   21世紀型金融恐慌と米国金融独占体(下)」  153ページ

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 さらに二大投資銀行、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは、世界中で、民営化・資本提携・国際合併・国際開発プロジェクトなどの企画立案・金融アドバイザーをつとめています。つまり日欧や新興国などを初めとする世界資本主義において「アメリカの世界金融秩序―アングロ・アメリカ型資本主義の『新帝国』システムの金融ヘゲモニーを拡大、再構築していく役割を担ってい」(156ページ)るのです。

 米国の実体経済の低迷とウォール街の復活との関係について、相沢幸悦氏は、FRBが景気対策として資産の半分以上を住宅ローン担保証券(MSB)購入にあてて住宅価格を支えていることに注目しています。

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 FRBの供給している天文学的資金のほとんどは実体経済には投入されず、金利の低いドルを借りて高金利の金融商品などで運用するドル・キャリートレードとして外国に流れています。新興諸国で株式バブル、資源・農業国で商品バブルをもたらしています。

     「世界経済の深層」(中)「しんぶん赤旗」2月26日付

 ヘッジファンドなどの国際投機資本は、金融機関や富裕層から巨額の資金を集めるとともに、超低金利の欧米からの資金を活用して、膨大な投機利益を懐に入れています。アメリカの投資銀行がいち早く黒字決算に転換したのはそのためです。

      同前(下)同紙2月27日付

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 このように山脇氏と相沢氏によれば、いわば国家的支援の下で、グローバルでハイリスク・ハイリターンな投機活動によってウォール街が復活し、実体経済の低迷の中でも、米国の金融帝国主義的覇権が再構築されようとしています。しかしそれは同時に新興国バブルをもたらしており、放置すればより大きな金融危機につながっていきます。そこでオバマ政権は「ボルカー・ルール」を提出して銀行の投機を規制し実体経済を支える金融への転換を目指していますが、ウォール街の抵抗もあり、先行きについて予断は許しません(今宮謙二「米金融規制改革の実像」「しんぶん赤旗」2月2・3日付、鳥畑与一、同名記事、同紙2月5・6日付)。ただし根本的には投機の規制だけではなく実体経済の健全化が必要です。投機資金となる過剰貨幣資本が生まれるのは、搾取強化によって生産と消費の矛盾が激化することで、実体経済への投資先を失う資本過剰が発生するからです。「投機資本への対応を金融分野のみでなく、資本主義経済のあり方にも広げて検討しなければ金融危機の根本的解決は不可能です」(今宮氏、同前2月3日付)。「世界の労働者・庶民が結束して、地球環境と人間に優しい経済システムに大転換していくしかありません」(相沢氏、同前2月27日付)。

 

         米帝国主義と中南米諸国

 先月、エクアドルのコレア政権の社会変革について言及しましたが、社会進歩は国内の階級関係などだけでなく対外関係によっても影響されます。特に中南米では米国との関係が重要です。オバマ政権はブッシュ前政権の一国覇権主義とは違うし、核兵器廃絶さえ掲げているとはいえ、帝国主義的政策を推進している点では歴代政権と本質的に変わりありません。それは日本では普天間基地問題で明白ですが、進藤通弘氏の「ラテンアメリカでせめぎあう進歩と反動」を読むと、中南米における実に悪辣な諸策動にもあきれるばかりです。米帝国主義の反攻の中で「『気がつけば』ベネズエラは、アルバ、キュラソーからパナマ、コロンビアと米軍基地に包囲されており、これは対ベネズエラ侵攻体制の準備であると、チャベス大統領が警告を発したのも無理からぬことであろう」(98、99ページ)という記述にははっとさせられます。クリントン長官の下の国務省人事は「過去にいかがわしいクーデターや内政干渉の経歴をもつエキスパート達」(107ページ)で固められており、世界の進歩勢力にとってはまったく期待できない陣容となっているようです。

 そうした中でも中南米左派政権はオバマ政権に臆することなく対等に渡り合っています。進藤論文の冒頭に掲げられたボリビア大統領、エボ・モラーレスの言葉は実に印象的です。

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 ラテンアメリカの暴力の最大の責任は、米国の不法な麻薬消費にあるが、もし南米諸国連合(UNASUR)が米国に麻薬の消費を取り締まるために軍隊を派遣しようとするなら、米国は、それを受け入れるだろうか。不可能である。  97ページ

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 米国は帝国主義的野望のために世界中に軍隊を派遣し、場合によっては侵略戦争さえ敢行します。その際にもっともらしい口実をつけるのですが、同じ理由で米国に対して軍隊が派遣されることはありえません。フセイン政権が大量破壊兵器を持っているという口実で、イラク戦争は始められましたが、実際にはそれは見つからず、大義なき戦争として非難されています。しかしそもそも「大量破壊兵器を持っている」というだけで、その国を侵略する理由となるのでしょうか。ならば世界最大の「大量破壊兵器を持っている」米国こそが侵略される必要があります。いや、フセイン政権は独裁政権で、過去にクウェートを侵略しているから、そういう無責任な政府の持つ大量破壊兵器は危険だ、という議論もありましょう。しかしそれなら米国はベトナム・グレナダ・パナマなど侵略の経歴には事欠きません。これほど無実の人々を大量に継続的に殺してきた無責任で犯罪的な国家はありません。だからといって米国が戦争で亡びることがよい、と誰が言えるだろうか。このように、戦争の口実ほど虚しく偽善的なものはないことが分かります。戦争は解決ではなく平和こそが解決なのです。

 実際のところ、米国に他国の軍隊が派遣されるというのはまったくの空想に過ぎません。しかしその空想は、真に対等平等で合理的な国際関係を想定したものであり、その見地に立てば、米国の行なってきたことがいかに暴虐的かつ理不尽であり、そこで言われる様々な口実がいかに無根拠かということが分かります。だからこの思考実験はきわめて有効です。

 対等平等の日米関係―鳩山政権が掲げてはみたけれど事実上投げ捨てているこのスローガン。今さらこの政権にその実行は期待はできないけれども、多くの日本人がその見地に立ってみるなら米帝国主義の実態を理解することができ、普天間基地の無条件撤去を求める世論を沸き起こすことが可能となるでしょう。

 

         日朝関係打開の情理

 近年わが国では、北朝鮮脅威論さえ持ち出せば、対米従属も軍拡も合理化できるようになっています。在日米軍基地の撤去や日米安保条約廃棄の世論を作り出していく上で、日朝関係の正常化は重要な課題となっています。

 安重根といえば、日本では伊藤博文を殺したテロリストくらいにしか認識されていませんが、実は「一九世紀末から二○世紀初めにかけて、日本、中国、韓国に多かった東洋平和主義者の中でも、もっとも傑出した平和思想家で」した。そのことを紹介するのが、金泳鍋氏の「安重根『東洋平和論』の再照明」(『世界』4月号所収)です。実はその訳者が拉致被害者の蓮池薫氏です。日朝関係について反動的な世論が優勢な日本において、リベラルな姿勢を貫いてきた『世界』に蓮池氏が登場したことは重要です。

 拉致問題は北朝鮮の重大な国家権力犯罪であり、被害者救済は人権問題として取り組まれなければなりません。ところが「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(以下、「家族会」)と「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(以下、「救う会」)が狂信的な右寄りの人物に影響されたことで運動はねじ曲がってしまいます。「家族会」「救う会」批判はマスコミでタブー視され、両者は過激な反北朝鮮ムードを煽るばかりで拉致問題の現実的な解決からは遠ざかります(青木理「家族会と救う会の12年」第2回「疑惑と内紛」『世界』2月号所収)

 もちろんそのような運動に対する批判は内部からも起こり、かつては「家族会」の事務局長として過激な主張を発信していた蓮池透氏(薫氏の兄)も今日では事務局長を辞して批判的見解を公にしています。蓮池薫氏は帰国当初より冷静なスタンスを維持していたように思いますが、今、拉致問題が忘れられているという危機感からマスコミに登場して傾聴すべきメッセージを発しています。

 「朝日」3月24日付インタビュー「私が見た朝鮮半島と日本」によれば、蓮池氏は拉致された当時、北の人間から、親類が日本に強制徴用されて、さんざんな目にあったという話を聞かされました。植民地支配のことは知っていたけれど「拉致しておいて何だ」という反発心があって、その話にはひどく感情を刺激されたといいます。蓮池氏は自分のそうした感情を、相手の立場を考える想像力へと普遍化してこう語ります。「『頭ではわかっていても抑えられない相手の感情があることを理解すること。それを刺激しないこと』。日本と朝鮮半島の過去の事実をふまえながら今後の関係を発展させていくヒントは、そこにあるような気がするんです」。

 この記事には、最初に「異なる歴史認識 背景の感情を知り 関係ときほぐしたい」という見出しがあり、「日韓関係がより深まるには」という最後の質問に蓮池氏はこう答えています。

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 やはり歴史の問題が大事です。共同歴史研究はとてもいいと思う。意見が合わなくても、同じ場で話し合ったことを評価したい。焦らなくていい。あとは個々の関係です。民族を超えた人間同士の付き合いが深まれば、ちょっとやそっとの摩擦で、揺らぐことはないと思います

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 戦争に対する本当の抑止力は軍事力ではなく、人々の国際交流に基づく相互理解です。北朝鮮では拉致についての罪悪感がないという状況ですが、北朝鮮の人々への嫌悪感はないか、と問われて蓮池氏は以下のように答えています。

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 拉致したのは一般の人ではなく、指示をした人間たちとその指示を受けた工作員です。北朝鮮で本当に優しくしてくれた人も、印象に残る人もいる。

  …中略…

 今、大学で教えている留学生も、気に入らないことがあると「日本人」はと口にする。民族的な対立にしてしまう。よくないですね。中国にも韓国にも日本にも、いい人も悪い人もいる。「いい人と付き合えばいいじゃないか」とアドバイスします。最終的には個々の付き合いです。将来、東アジアの人たちが仲良くなるためにはこれが何よりも大事だと思います。

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 平和を作り出す交流へのこのような心構えを前提にしつつも、拉致問題の解決に向けては独自の問題があります。北朝鮮たたきの世論に迎合せずにやるべきことを果たす政府の姿勢です。長い引用はいかにも能がないのですが、そのまま伝えたい言葉があります。

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 一番いいたいのは、最終的には政府だけが、北朝鮮を交渉の場に引っ張り出して解決につなげられるということです。真摯に話し合い、きちんとやってほしいということです。拉致問題の解決を、交渉でやるのか、力でやるのかという話がありますが、僕は交渉でやるしかないし、それが早いと思う。 

  …中略…

 北朝鮮に残されている拉致被害者の家族の方々がおっしゃることは、被害者を思いながら、何としてでも帰ってきてほしいという気持ちの噴出です。政治的にバランスをとって、北朝鮮の立場までは考えて話したりする余裕はないし、その必要はない。そこを受け止め、斟酌するのは政府の責任です。家族の意向に基づきながらも、北朝鮮を交渉相手として振り向かせて、拉致問題解決にもっていくようにしなければならない。

 そのためには、何が必要かは政府が一番わかっているはずです。なぜならいままで北と交渉してきて向こうの感触をわかっているはずですから。世論がこうだと言って、こっちによろよろ、あっちによろよろでは、北朝鮮は交渉相手として信じないという一面もある。

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 「家族会」と「救う会」はこの間の世論・政治右傾化の牽引者となってきた感があります。しかし拉致被害者家族のはやる気持ちを本当に受け止められるのは、タカ派の威勢のいい言説ではなく、政府による現実的交渉力です。六者協議再開や日朝国交回復交渉という大きな流れの中で拉致問題解決を進めて行くほかありません。その方向性において世論が変化していく中で、平和を実現する真の力が次第に明らかとなり、軍事的抑止力への信仰が薄れて、日米軍事同盟をゆるがす声が大きくなるでしょう。それを意識的に推進するのが私たちの役割です。

 

         『前衛』4月号の経済三論文

 『前衛』4月号、経済関係の三論文が興味深い内容です。巻頭、寺沢亜志也氏の「日本経済のゆがみをただす道はどこにあるか―雇用、中小企業への大企業の社会的責任を」を読めば、最近の日本共産党の現状分析と経済政策についてまとまった理解を得ることができます。志位和夫委員長の2月8日衆議院予算委員会での質問、ならびに3月11日の経済懇談会への委員長報告「経済危機から国民の暮らしを守るために政治は何をなすべきか―日本共産党の五つの提言」の二つが最近では特に重要な政策表明であると思いますが、両者の間の時期に発表された寺沢論文はそれらの前提となる現状認識などを簡潔にまとめています。 

 2月8日の予算委員会質問では、主要国の中で日本のGDPだけが停滞している実態が提示されたことが特に目を引いたのですが、寺沢論文では「世界でも異常な日本経済―成長が止まった国」という見出しでより強調されています。為替レート換算による国際比較で、1996年には一人当たり名目GDPでG7中、日本がトップなのが2007年には最下位になった(13ページ)ということで、90年代末からの日本経済の低迷ぶりが浮き彫りになっています。こういう状態だからこそ2008年秋以降の世界恐慌の影響を日本は特別強く受けたのです。だから今日の日本経済の立て直しには、2008年以前に戻すという発想ではなく、「失われた20年」全体を問題にし、成長しない経済構造そのものを変える抜本的な対策が必要だという主張(14ページ)には説得力があります。さらに注目すべきは、3月11日の委員長報告では経済成長の問題が財源にも関連づけられていることです。

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 社会保障などの財源を考える際にも、まずは軍事費と大企業・大資産家優遇税制にメスを入れて財源を捻出(ねんしゅつ)する、このことが大切なわけですが、中長期で考えますと「成長の止まった国」のままでは、財源の展望もありません。やはり健全な形での経済成長があってこそ、財源問題の抜本的な解決の方途も見えてくると思います。

   「しんぶん赤旗」3月18日付

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 寺沢論文では民主党政権の経済政策の弱点がずばり捉えられていることが重要です。自民党政治の弱肉強食型の市場主義万能を批判したりして、それなりの現状認識であれこれの政策は掲げるけれどもさっぱり実効性のある方途が出てこない、というのが鳩山内閣の状況です。これは「財界・大企業いいなりの政治を転換する立場がないため」(18ページ)であり、もっと具体的には「『企業の行動を変化させる』という発想そのものがない(17ページ)」からです。大企業タブーの枠内にある限り、いくらよさそうなことを言っても経済政策の本当の変革はできないということです。

 やはり『前衛』4月号、金子豊弘氏の「国際的な金融取引税創設へ強まる動き」は社会変革を目指す者にとって希望を与える論文です。新自由主義的グローバリゼーションへのオルタナティヴにおける重要な道具建てとして、トービン税が注目されてきましたが、実現はなかなか難しいと考えられてきました。1971年金ドル交換停止の翌1972年にジェームズ・トービンが通貨取引税を提唱したのに始まり、その後の様々な新たな提案で国際連帯税とか金融取引税という形で進化して、今日ではその実現可能性も出てきたことが、金子論文ではわかりやすくまとまった形で解説されています。

 当初トービン税は投機の抑制を目的に提唱されましたが、その後、貧困と格差の是正とか環境問題への取組などにも有効と位置付けられた国際連帯税・金融取引税として発展し、ブラジルではすでに実施され、鳩山政権やEUも検討対象にしています。これはグローバル・タックスとしての性格も重要であり「グローバル化で国家による課税権力行使に制約が生まれてきたため、超国家機関が多国間協力による国境を超える課税主権を創設し、世界均一課税を実施する必要性が高まってきた」(126ページ)という指摘には説得力があります。

 もちろん強力な反対勢力もあり、グローバリゼーションによる諸困難もあります。しかし金子氏は「グローバル化の進展は、それを規制する手段をも一方では作り出してきている」(127ページ)という弁証法的観点から積極的な反論や展望を打ち出しています。たとえば通貨取引の捕捉困難性については、グローバル化した金融システムは世界的な金融取引を把握するためのシステムをも生み出していることを紹介しています。「つまり重要なことは、金融取引税を導入するという政治決断があれば、技術的な問題は担当行政官や金融当局の専門家たちの手によって解決は可能だということです」(127ページ)という結論は実に力強く響きます。金融取引税の実現可能性が高まるということは、新自由主義的グローバリゼーションへのオルタナティヴの展望がよりいっそう開けてくることを意味します。

 なお「しんぶん赤旗」3月23日付、金子氏署名の記事では、2月に公表されたIMF報告書が紹介されています。同報告書は、新興国市場に巨額の外国資本が流入することへ警戒感を示し、規制方法を様々挙げる中で資本流入そのものへの規制にも触れています。その際に金融取引税が資本流入を阻止する効果を持つことに言及しています。さらに同記事によれば、3月10日、欧州議会は「金融取引税を機能させる」とする決議を採択しました。「金融市場の安定化のために金融取引税がどのように貢献できるのか、また、有害な取引に的を絞ることによって金融危機を防止することができるのか、評価するよう欧州委員会に求めています」(同記事)。このように金融取引税への注目はますます高まっています。

 『前衛』4月号から最後に、山家悠紀夫氏と大門実紀史氏との対談「日本経済の健全な発展への道 『構造改革』から『ルールある経済社会』への転換」を取り上げます。これはきわめて易しい言葉で日本経済の現状分析と経済政策について余すところなく語り切っているだけでなく、理論的にも広く深く正確であり、経済学教室としても第一級の内容だといえます。

 対談では、物価下落をともなって国民経済がスパイラルダウンしていく日本資本主義の現状が、構造改革によって作り出された強固なものであることが明らかにされています。したがってその流れを変えるためには、目標を定めて一歩一歩ていねいにほぐしていくしかありません。資本主義では一般に、社会の一方における富の蓄積と他方における貧困の蓄積が進行します。その上に新自由主義的構造改革では、弱肉強食の規制緩和による自由競争促進だけでなく、福祉削減と積極的な大企業支援策をも敢行することで、格差と貧困が未曾有の規模に広がりました(つまりここでは新自由主義は単なる市場原理主義ではなく独占資本本位の政策展開でもあることが的確に捉えられています)。対談ではその構造を、実体経済と金融、日本経済とアメリカ経済といった関係性の中に捉えつつ、それを必然的に推進する動力としての株主資本主義の形成にも言及しています。それらの結果としての過剰生産恐慌と金融危機との結合が今日の日本経済の急激な落ち込みを招きました。

 その矛盾の中で政権交代が起こり誕生した民主党政権は「コンクリートから人へ」を掲げて一定の前進面はあるものの、成長戦略などは自民党と変わりません。そこで「民主党の経済路線を一言でいえば、『ゆきすぎない新自由主義』であり、新自由主義そのものから方向転換するものではない」(140ページ)と評価されます。この経済危機からの回復には、外需依存から内需主導へ、労働規制、賃上げ、中小企業支援、社会保障の充実、地方経済の立て直し、アジア諸国との連携などの方向で、要するに構造改革が大規模に壊してきたものをすべからく再構築していく必要があります。それには個別資本の論理では立ち行かないので経済政策的にリードすべきことも強調されています。

 等々、この対談の豊富な内容はとても紹介しきれないので、以下では印象的な点をピックアップします。大門氏はたいへんわかりやすく理論的に競争力を分析しています。財界は常に国際競争力の強化のためのコスト削減を追求し、人件費抑制・税と社会保障の負担軽減ばかりを主張しています。これに対して競争力の中味を分析的に見ることが大切です。競争力はどのようにあるべきで、どのようにあってはならないか。

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 製品の国際競争力を構成するのは、労働コスト、性能、為替レートなどの要素です。うち労働コストは、賃金と生産性で決まります。生産性が高まれば、賃金を抑制しなくとも労働コストは上がりません。また製品の性能を高めることでも競争力は高まります。賃金を切り下げるのではなく、技術革新によって生産性と製品の性能を向上させればいいのです。今回の強い競争力がもたらした過剰生産恐慌から学びとるべきは、もうこれ以上、不安定雇用や賃金切り下げによる競争力の強化はやめるべきだということです。 

        134ページ

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 私としては以下のことを付け加えたいと思います。強い国際競争力と停滞する経済成長との共存という日本資本主義の矛盾を解く一つの鍵は、生産性と競争力との関係を反省してみることです。大門氏のいう生産性は物的労働生産性ですが、資本家的経営の観点からすれば、労働コストに対する生産量の割合が「労働生産性」と捉えられます。したがって「不安定雇用や賃金切り下げ」もその生産性を上げる重要な要素です。さらに大企業は下請企業への買いたたきなども加えて強力にコスト削減することで、商品単価抑制=価格競争力強化を実現します。この競争力で世界市場を制圧すれば、低い単価を販売量で補って余りあります。しかしその裏では労働者と下請企業は低所得にあえぎます。国際競争力のある一握りの大企業が世界市場で高利潤を実現しても、それを産業連関の頂点とする裾野では労働者が低賃金に、中小企業が経営難にあえいで内需が縮小すれば、そういった資本主義国の国民所得は低迷することになります。こうして強力な国際競争力が経済成長を抑制するという逆説が成立するのではないでしょうか。経済成長が抑制されると、就業者一人当りのGDPも低迷し、事実日本のそれは今やG7でも最低となっています。就業者一人当りのGDPは統計的には「労働生産性」と呼ばれ、したがって日本は主要国中、「労働生産性」が最低だと言われています。長年にわたる貿易収支黒字を抱え、世界有数の外貨を蓄積するほどに国際競争力の強い国の労働生産性が最低だという逆説?! 実はここでいう「労働生産性」とは物的労働生産性とは区別されるべき付加価値生産性です。物的労働生産性が高いだけでなく、労働コストも低いとなれば、強力な価格競争力を持ちますが、それは同時に前記のように国民経済的には低所得に帰結するので付加価値生産性も低くなります。それが「低労働生産性」と呼ばれているのです。こうして強い国際競争力が低い「労働生産性」をもたらすことになります。これは悪循環であり、大門氏の言うように「不安定雇用や賃金切り下げによる競争力の強化」ではなく、「技術革新によって(物的労働)生産性と製品の性能を向上させればいいのです」。これが生活向上と経済成長とを両立させる好循環への道です。

 他方、山家氏はケインジアンだと思うのですが、多くのマルクス経済学者よりもむしろわかりやすく核心をついた過剰生産恐慌論を展開しています。「大企業には大量の内部留保があり、蓄積がある。ところが、一方では非常に貧困な人が多数いると。その二つがお互いに関連して存在している」(132ページ)とか「九○年代に顕著になったことは、労働規制の緩和などで、企業が金を労働者にまわさなくてもいい仕組みが持ち込まれた」(143ページ)などと、資本と労働との階級対立に基づく「生産と消費の矛盾」につながる認識を示しつつ以下のように述べられます。

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 もともと資本主義には、過剰生産恐慌はつきもので、周期的に必ず起こります。個々の企業がそれぞれに判断して商品や生産設備をつくるわけですから、売れるとみると生産を増やし、設備を増やします。それが、全体としてみると、どこかの時点で増やしすぎて供給過剰になって、不況、あるいは恐慌になる、そこで生産能力を下げる、スクラップする動きが出る。そういう動きが絶えずあるのですが、一九八○年代くらいから、蓄積されたお金の行き場がなくなって金融に向かったことによって需要が膨らみ、調整が先送りされる。そして、不況が到来したときには増幅されているわけです。生産能力が増えて需要が上まわって過剰になるという従来のサイクルにプラスして、金融面から仮の需要をどんどんつくり出して、不景気の到来を先延ばしにするわけです。購買力が実際はないのに、金を借りられることによってものが売れている。これが行き詰まって限界までくると、生産能力の方にも影響が出てきて、より大きな恐慌になるということがあると思います。      

    136ページ

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 今日の経済学主流派である新古典派理論とは真逆の「資本主義には、過剰生産恐慌はつきもの」という認識がいきなり示され、まさにこれはマルクス恐慌論教室ではないか、とさえ思えました。恐慌は資本主義に固有の現象です。資本主義の歴史的独自性は搾取制度と無政府生産の交点にあることであり(それは商品=貨幣関係を土台とする資本=賃労働関係として成立する)、その交点を舞台とする資本蓄積運動によって恐慌は必然となります。そうしたシンプルな根拠の上に金融の作用が恐慌を増幅し複雑化します。近年では「金融化」の上にそれが展開します。この理論的に重層的な全体像を山家氏は簡明に順を追って説明しているように思います。

 せっかくこの上なくわかりやすい対談をわかりにくく紹介して、何やってんだ、という印象でしょうが、どうかご海容願います。

 

         名目値と実質値

 

 わが国では長期間にわたって物価下落が続き、物価指数が100を割り、たとえば名目GDPが実質GDPを下回る、といった「名実逆転」現象が起こっています。そうした中、しばしば「名目値の方が実感に近い」と言われ、日本経団連も「二○一○年の重要政策課題」において「成長を実感できる名目成長と雇用の拡大を目指した成長戦略の早期実行」を要求しています。名目値と実質値とに関する価値判断も逆転しているのです。物価上昇が当り前で名目GDPが実質GDPを上回っていた時代には、実質値の方が重視されていました。どちらも低い方を重視するという意味では一貫しており、いわば会計の「保守主義の原則」を適用して国民経済のマネジメントを堅実にするかのようにも思えます。しかしこれでは名目値と実質値との扱いに関して、理論的に一貫性はなく、物価上昇期と下落期とでこうした違いがある理由を問うてみたくなります。それは単に主観的な問題ではなく客観的な根拠があるのではないかと思うのです。

 

 資本主義の体制的危機を回避するため、激烈な恐慌を緩和することが重視され、管理通貨制度の基礎として不換通貨が導入されました。これはいわば恐慌をインフレで買い取るわけで、不換通貨は減価し物価は水膨れします。こうした中で、現実値を物価指数で除した商は、経済量としてのある内実を現実値よりも的確に表現しうるとみなされます。この商は実質値と呼ばれ、元の現実値の方は名目値という名称に格下げされます。

 

 ただし物価変動は、(1)不換通貨価値の変化による名目的変動だけが原因ではありません。(2)生産性の変化、および(3)景気動向などによる需給の変化といった実質的変動にもよります。三つの変化は現象的にはどれも需給変動として現れざるを得ませんが、本質的には区別されるべきです。ここで物価指数は名目的変動(1)と実質的変動(2)(3)の両方を反映しています。したがって名目値を物価指数で除して実質値を算出することを普通「デフレート」と呼び、あたかも名目的変動だけを除いたようなニュアンスがありますが、実際には実質的変動をも除くことになります。

 

 インフレ期における物価指数の上昇は、(1)通貨の減価を反映し、(2)生産性上昇による価値下落を反映し、(3)超過需要による「価値以上の価格」への上昇を反映したものです。ただし(1)と(3)は物価指数を上昇させるものですが、逆に(2)は下落させます。インフレ期には(1)と(3)の効果が(2)の効果を上回って物価指数は上昇します。

 

 これに対して物価下落期における物価指数の下落は<(1)通貨の増価を反映し、(2)生産性下落による価値上昇を反映し、(3)超過供給による「価値以下の価格」への下落を反映したものです。ただし(1)と(3)は物価指数を下落させるものですが、逆に(2)は上昇させます。物価下落期には(1)と(3)の効果が(2)の効果を上回って物価指数は下落します>というふうに「対称的に」真逆にはなりません。

 

 物価下落期であろうとも、管理通貨制度の下で不換通貨の供給増は続き(景気対策の金融緩和)、インフレ期ほどの減価はしないにしても増価にはなりません。資本主義経済において生産性の下落は特別な時期以外に通常はありません。超過供給による「価値以下の価格」への下落はあります(ただし松方デフレやドッジ・ラインのように、高度なインフレを収束するために強力なデフレ政策が実施された場合は不換通貨の増価もありえます。しかしずぶずぶの金融緩和が継続されている現在の状況は物価が下がろうともデフレとは言えません)。

 

 したがって物価下落期における物価指数の下落は<(1)通貨の減価を反映し、(2)生産性上昇による価値下落を反映し、(3)超過供給による「価値以下の価格」への下落を反映したものです。ただし(2)と(3)は物価指数を下落させるものですが、逆に(1)は上昇させます。不換通貨の減価の程度は非常に弱いので、物価下落期には(2)と(3)の効果が(1)の効果を上回って物価指数は下落します>。このように物価下落期においては、インフレ期の物価指数の上昇とは、総合的には「非対称的な」要因で物価指数が下落します。

 

 つまりインフレ期と物価下落期とでは、(3)需給関係による価値からの価格の乖離の問題においては、逆方向に対称的に作用しますが、(1)不換通貨と(2)生産性との問題では量的な違いはあっても同じ方向に(したがって非対称的に)作用します。特に(1)不換通貨の問題について言えば、インフレ期には不換通貨の減価が急速に起こりますが、物価下落期にはあまり減価が起こりません(かといって増価が起こるわけではない)。ここに一番重要な非対称性があります。したがってインフレ期に物価指数を上昇させる主な牽引力は(1)不換通貨の減価であり、物価下落期に物価指数を下落させる主な牽引力は(3)超過供給(マイナスの超過需要=需要不足)となります。

 

 そうすると実質値化(名目値を物価指数で除して実質値にすること)の持つ意味が非対称的になります。インフレ期の実質値化は主に(1)不換通貨の減価の影響を除くこと、つまり名目的変動の除外として作用します。これに対して物価下落期の実質値化は主に(3)超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落の影響を除くこと、つまり実質的変動の除外として作用します。

 

 以上から、インフレ期において実質値が重視され、物価下落期において名目値が重視されるという非対称的な取り扱いの意味は次のように考えられます。大ざっぱに言えば、インフレ期における実質値は主に名目的変動を除外して経済の内実をよりよく反映するものだと考えられますが、物価下落期における実質値は主に実質的変動を除外することで、逆に経済の内実を歪めてしまうことになります。

 

 さらに言えばこうなります。インフレ期には不換通貨の減価が顕著であり、超過需要による「価値以上の価格」への上昇は経済の加熱・不安定性を意味するので、両者の影響を除いた実質値には、経済量としての内実の確実さがありました。これに対して物価下落期においては、不換通貨価値はある程度安定しているので、名目値への不安は少なくなります。また超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落は再生産の困難につながります(たとえば労働力の価値以下の賃金では、労働力の再生産ができないし、商品価格が価値以下に下落すれば生産費の回収ができずに生産の継続が難しくなる)。だからそれをそのまま表現することが大切になります。ここで100以下になった物価指数で名目値を除して高い実質値を出しても、それ自身は現実を糊塗するだけで実質的な意味を持ちません。ここでは名目値はまさに元々は現実値であったのだということがよみがえってきます。名目値そのものを上昇させて再生産を回復させることが死活的課題となるのです。その回復すべき水準の一つの指標としてなら実質値には意味があるかもしれませんが、実質値そのものはここでは現実を覆い隠す幻想値として作用すると言うべきでしょう。

 

 ところが実質値化(名目値を物価指数で除して実質値にすること)を「デフレート」と言い慣わしていると、それはあたかも名目的変動のみを除外することであるかのように錯覚します。すると「デフレート」とは、インフレ期には不換通貨の減価を除外し、物価下落期には不換通貨の増価を除外することだ、というように対称的に捉えてしまいます。物価下落期における「デフレート」(マイナスの「デフレート」=「インフレート」)はむしろ主に実質的変動を除外して幻想的な高い値を提示することで、実体経済における超過供給=需要不足による再生産困難という根本問題から通貨供給の問題に目をそらしてしまいます。ならば政府統計を見るとき、単に実感の問題としてではなく、理論的にも経済政策の課題の把握という意味でも、積極的に名目値を重視することが必要であろうかと思います。

 

 で、この先、そもそも実質値とは何か、について、現実値から実質値を生み出す物価指数の性格に照らして考えてみたいのです。実質値の持つ両義性―使用価値量的側面と価値量的側面―を中心にして。しかしこれは今後の課題とします。

 

 

         経済理論における実質賃金率への疑問

 

 以下では実質値の一種である「実質賃金率」について、上記とは別の独自の問題を抱えているのであれこれ考えてみます。というか疑問を述べます。愚問かもしれませんが。

 

 恐慌について、労賃騰貴により利潤が圧縮されて資本の絶対的過剰生産に至る、と説明するのが宇野理論の有名な図式です。このような宇野恐慌論に限らず、好況過程において賃金の上昇による利潤の圧縮を想定するのはマルクス経済学においてはかなり一般的な理解のようにも思われます。しかし実際問題として、戦後日本資本主義の高度成長期から今日に至るまで、賃金が上昇して利潤を食って経済が停滞する、という関係がどれほどあったでしょうか。ヨーロッパがそのような資本蓄積の困難に直面していたであろう1970年代80年代頃、労働運動の脆弱な日本資本主義は、様々な矛盾をかかえ、困難な時期もあったとはいえ相対的には安定しており、「現実主義的」経済学は「日本経済上出来論」を謳歌していました。ところがこの同じ構造がバブル崩壊後の1990年代以降には、内需の強弱の違いとして逆に作用しています。ヨーロッパがそこそこの経済成長を示すのに対して、日本は大企業の巨大な内部留保の蓄積を尻目に、国民経済としては例外的なゼロ成長にあえいでいます(この逆転の原因や意味は考えるべき重要な問題です)。これは日欧の大ざっぱな図式的対比ですが、少なくとも日本においては、「労賃騰貴による利潤圧縮」図式は一貫してあまりあてはまらず、今日ではむしろ素朴な過少消費説の方が有効とさえ思えます。経済状況の先行きを見る場合、理論的立場の如何を問わず、企業利潤よりも個人消費の動向を重視するのが一般的です。たとえ政府・財界の立場でも、企業が儲かっているから好況だとはいうけれども、その先どうなるかについては個人消費の動向にまず目がいきます。

 

 以上は現状分析についての私の視点からの粗雑な概観に過ぎませんが、ここからの問題意識として言いたいのは、少なくとも、好況期について、賃金の上昇で利潤が圧縮される、という関係そのものが理論的・一般的には必ずしも成立するわけではない、ということです。もちろん賃金の上昇が著しければ利潤を食うことはありえます。しかし一般的にはむしろ、好況期には賃金と利潤がともに上昇するのが普通ではないでしょうか。簡単にいえば、パイ全体が大きくなれば、賃金という分け前も利潤という分け前も大きくなる、という当り前のことです。したがって恐慌の原因ときっかけについては、「好況期における労賃騰貴による利潤圧縮」を一般的に前提するのではなく、「生産と消費の矛盾」を基礎にして理論を設計する必要があります。賃金と利潤とがともに上昇する場合にも、生産のための生産、蓄積のための蓄積という資本蓄積過程においては「生産と消費の矛盾」は作用しますし、新自由主義的強搾取構造の下ではなおさら賃金抑制により、この矛盾は強化されます。景気反転となる利潤率の急落のきっかけについてはなお具体的考察が必要ですが、「労賃騰貴による利潤圧縮」図式は採用しえないと考えます。

 

 ところが宇野恐慌論に限らず、好況期には失業率が低下するなどの要因で「労賃騰貴による利潤圧縮」が起こるというのが普通の理解のようです。経済理論的には、実質賃金率が上昇して利潤率が下がると表現されます。これは錯覚ではないかと私は思います。ここには賃金と利潤との対抗関係がまず前提されています。もちろんそれは正しい認識です。しかしだからといって実質賃金率と利潤率とが同一平面上で対抗関係にあるとは必ずしも言えません。

 

 賃金と利潤との対抗関係を直接的にわかりやすく表現するのは労働分配率です。資本分配率という言葉を聞いたことはありませんが、ここで仮に<1-労働分配率>を資本分配率と呼びましょう。すると労働分配率は<V/(VM)>、資本分配率は<1-V/(VM)=M/(VM)>となります。VM は付加価値(価値生産物)です。なおこれらは以下の議論では市場価格タームとします。

 

 好況期には賃金も利潤も増大しますが利潤の増大の方が大きくなり、付加価値全体の増加幅は賃金の増加幅よりも大きくなります。すると賃金は増大しても労働分配率は下がり、資本分配率は上がります。逆に、不況期には賃金も利潤も減少しますが利潤の減少幅の方が大きくなり、付加価値全体の減少幅は賃金の減少幅よりも大きくなります。すると賃金は減少しても労働分配率は上がり、資本分配率は下がります。

 

 つまり賃金と利潤がともに増大(減少)する中でも、両者の対抗関係は貫きます。逆に言えば、両者の対抗関係があるからといって、賃金と利潤とが同じ方向に動く(変化の大きさに違いはあるが)可能性は否定できないと言えます。

 

 それでは実質賃金率と利潤率とは、労働分配率と資本分配率との関係のように、賃金と利潤との原理的対抗関係を表わせるでしょうか。残念ながらそもそも実質賃金率と利潤率とは同一平面上で対抗関係にあるような概念ではないと思います。

 

 利潤率は投下資本に対する利潤の割合を表わす平明な概念だと言えます<P/(CV)、PMの転化形態>。ところが実質賃金率は、たとえば投下資本に対する賃金の割合を表わす、というようなわけではないので、そもそも利潤率と直接かみ合わせることはできません。実質賃金率というのは誠に一筋縄では行かない困った用語だというのが私の実感です。そこで以下では実質賃金率を実質賃金と賃金率とに分けて考えます。

 

 統計上の実質賃金は、貨幣賃金を物価指数で除した商です。ところが統計とは違って、通常、経済理論では貨幣賃金を物価指数ではなく消費財価格で除して実質賃金とします。すると市場価格を市場価格で除しているのでその商は価格ではありえず単なる倍数となります。つまりある貨幣賃金量で買える消費財の単位数を表わすことになります。もちろんそういう概念はあってもいいですが、それを実質賃金という言葉で表現するのは適切ではないでしょう。統計上の実質賃金は貨幣賃金を物価指数で除しているので、依然として価格の一種であり単位は円です。それを考慮するならば、経済理論上の実質賃金のように、それ自身が価格でなく、従って単位が円でないものを賃金と呼ぶことは混乱を招きます。少なくとも統計上の実質賃金と混同するような用語法は改める必要があると思います。

 

 さらにこの理論上の実質賃金は様々な数式で自在に使用されます。そこで素朴な疑問が出てくるのですが、実質生産手段とか実質利潤という言葉は聞きません。CVM のうちVだけを実質値にして他は名目値という数式は果たして整合性があるのか(しかも物価指数でなく消費財価格で除しているのでVだけ価格でなく単位も不揃い)、それは経済学的に意味があるのか、という問題が出てきます。

 

 理論上の実質賃金が、分子に貨幣賃金、分母に消費財価格という形になっていることで、確かに労働市場の動向と生産物市場の動向とを直接的に総合した結果として実質賃金を捉えることができます。おそらくこれが統計上の実質賃金とは違う定義になっている理由なのだと思います。つまり景気動向にともなう需給変動によって貨幣賃金と消費財価格とがそれぞれに変動するのに応じて実質賃金が変動することになります。この分析そのものは重要でしょうが、CVM と並べて数式化されれば、上記の整合性と経済学的意味が問われることになります。あるいは、貨幣賃金を含む数式の全体を消費財価格で除すれば、貨幣賃金の部分が実質賃金になり、数式全体としての整合性は保たれるでしょうが、後述するように、そのようにして貨幣賃金を実質賃金化することの意味が反省される必要はあります。 

 

 次に賃金率です。「率」というのは通常、何らかの割合を表わします。たとえば利潤率は投下資本に対する利潤の割合です。ところが賃金率の「率」は違います。賃金率とは単位労働時間当たりの賃金を表わし、何かに対する割合ではありません。「実質賃金率と利潤率」と並べると、字面からは<**VS**率>となっていかにも同一平面上で対抗しているかのような錯覚が生じますが、「ある単位量」と「ある割合」という次元の違う数量が直接的に対抗関係にあるはずはないでしょう。

 

 しかし実質賃金率と利潤率とは労働と資本の戦略変数であることを考えて、あえて両者の関係を追ってみます。ここでは、賃金が上昇する一方、労働分配率は下がる、という、比較的通常のタイプの好況時について考えてみます。この場合、賃金と利潤はともに上昇しますが、賃金よりも利潤のほうが上昇幅が大きくなります。そうした状況で実質賃金率と利潤率はどう動くでしょうか。

 

 実質賃金率については次のようになるでしょう。貨幣賃金総額がふくらむ一方、投下労働量(雇用量に連動)も増えるので、貨幣賃金率(貨幣賃金/投下労働量)が急増するわけではありませんが、失業率の低下・労働需要の増加により、貨幣賃金率は上昇傾向となります。消費財価格については、需要増があるとはいえ、供給も増加するので価格は安定的だといえます。したがって経済理論上の実質賃金率(貨幣賃金率/消費財価格)は上昇傾向だといえます。

 

 利潤率について。賃金より利潤の増加幅が大きければ、剰余価値率(MV)は上昇します。これは利潤率<P/(CV)>の増加要因となりますが、不変資本の増え方によって利潤率の動向は不確定です(なおここではすべて名目値同士から比率を出しています)。

 

 以上のようにこの好況過程では、実質賃金率は上昇傾向で、利潤率は不確定です。いずれにせよ実質賃金率の上昇が利潤率の下落を招くとは必ずしも言えないので、それを自明の前提とするのは誤りです。

 

 ない頭をしぼってもすっきりとした結論はでませんが、はっきりしていることはあります。実質賃金率が利潤率を直接規定すると考えるのは誤りだということです。

 

 賃金と利潤との対抗関係の視点から、賃金の上昇で利潤が圧縮される、という議論に対して、賃金が上昇しても消費財価格も上昇するかもしれないから、貨幣賃金ではなく実質賃金が上昇するか否かを考慮して利潤の圧縮を判断する必要がある、という反論がありえます。確かに労働者にとっては貨幣賃金だけを見ていてはダメで物価上昇を考慮した実質賃金を見る必要があります。しかしそもそも利潤率<P/(CV)>は、投下資本(不変資本と可変資本)に対する利潤の割合なのだから、生産手段価格と貨幣賃金との合計に対する利潤の割合を算出すればよく、これらはすべて名目値で間に合います。賃金を実質値化する必要はありません。だから貨幣賃金は実質賃金を通して利潤率を規定するのではなく、貨幣賃金が直接的に利潤率を規定するのです。もちろん利潤率の決定式を加工して、実質賃金率(貨幣賃金率/消費財価格)を入れ込むこことは可能です。しかしそこから実質賃金率が利潤率を規定すると解釈するのは恣意的で、経済学的には無意味です。資本家の動機を考えてみればいい。彼にとって投下資本に対してどれだけの利潤を生むかが問題であって、投下資本の算定には実質賃金(率)ではなく貨幣賃金(率)を用います。賃金でどれだけの消費財を得られるかが死活的問題である労働者にとっては実質賃金(率)が戦略変数だとしても、それが資本家にとっても利潤率を規定するような戦略変数だとはいえず、彼にとっては貨幣賃金(率)の方が重要です。特に新自由主義的資本蓄積様式の下では、資本家は「労働者の生活が可能な消費財を購入しうる賃金」という「実質」ある内容を認めていません。それは人件費というコストであり、しかもそのコストは価値を生み出す元手としてではなく、利潤に食い込む控除要素としてしか捉えられません。そこでは貨幣量の大小だけが問題となります。

 

 留意すべきことは、実質賃金(率)の方が貨幣賃金(率)よりも常に優れた経済指標であるという先入観を排して、TPOに応じて使い分ける必要があるということです。そこでもまた実質値とはそもそも何であるかという反省の下に、通時的分析と共時的分析とにおける実質値と名目値(現実値)との使い分け、といった根本問題から発想して考え直してみるべきだ、という気がしますが、これも今後の課題です。

 

 本来は実際に何らかの経済理論に当たって、実質賃金率と利潤率との取扱いがどうなっているかを具体的に検討すべきところですが、取り急ぎ素朴な疑問を並べてみました。恥ずかしながら無知による即断と誤りも多々あろうかと思います。妄言多罪。
                                   2010年3月28日



2010年5月号

         経済学的ロマン主義

 4月5日のNHKテレビ「クローズアップ現代」は急成長するアジア巨大市場への日本企業の出遅れを危機感をもって解説していました。結局、アジアの生産力を取り込むためには、各国とFTAを結び、法人税を下げ、補助金など大企業支援をしろ、という内容になっていました。日本経済が沈没しないためには財界の提言通りにすべきだ、と視聴者に思わせる姿勢で、悪い意味で実にNHKらしい「啓蒙番組」でした。労働者・人民の利益やバランスのとれた国民経済の発展という見地は無視して、ひたすら多国籍独占資本の観点からアジア的規模で最新の生産力発展を追求するのが日本の進むべき道だ、という主張です。ただし中国・ベトナムという「社会主義を目指す国」をも含めて、基本的にアジアでは新自由主義的グローバリゼーションに乗る形で発展してきている、という現実からすれば、この日本資本主義の道はそれなりの必然性を持っています。アジア各国は必ずしも国内経済政策において新自由主義的であるとは限りませんが、低賃金とかそれぞれの条件を生かしてグローバリゼーションに対応する国際競争力を築いています。だからといって日本資本主義がこの状況に対して前記のような独占資本本位の生産力主義的方針で臨めば、格差と貧困の拡大、農林水産業の衰退といった、これまでの国民経済の歪みをさらに増大させます。しかしそうしなければ日本経済は沈没する、とこの番組は脅しているのです。

 資本にとっては進むべき必然のハイウェイが、人民の側からは生活と経済とが矛盾する茨の道となっています。アジアにおける労働条件の引き上げなど、新自由主義的グローバリゼーションへのオルタナティヴを提起して実現し、与件そのものを変え、人々の豊かさが経済発展の条件となるように変革していく必要があります。資本への規制なくしてそれは不可能ですが、日本とアジア経済の深い現状分析を基にして対抗する方針を具体化しなければなりません。

 残念ながらそのようなことをする能力は私にはないので、以下ではこの番組から触発された問題意識についてあれこれ書いてみます。最新の生産力発展の実現力を独占資本が握っている以上、それが反人民的な形になることはある意味で必然です。問題は、そのようにして不断に実現していく生産力発展に対して、労働者なり小経営なりの立場からどう捉えていくかです。

 直接的生産者の強味は現場を把握している、ということです。資本が生産力発展のヘゲモニーを握っているといっても、現場労働の奮闘なくしてそれは実現できません。現場の光と影、一方に創意工夫の昇華があり、他方には悲惨な過酷労働があったりします。これは現在の告発の拠点であり、未来に向かっては直接的生産者が社会を組織していく原点ともなります。ここには空理空論ではなく地に足のついた論理がありえます。ただしそれは何らかの普遍性に通じるものであるとはいえ、直接的には限定された部分であることも事実です。足元にある確実さを踏まえつつ、社会全体、日本と世界の現実を見据える見地は補わねばなりません。今次の世界恐慌は私たちの生活にも厳しい影響を与えており、その把握は社会全体のみならず足元を捉える上でも必要です。工藤晃氏はその分析方法について以下のように発言しています。

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 研究方法という点では、『現代帝国主義研究』の仕事を始めるとき、レーニンの「統計と社会学」から多くのことを学びました。彼は、社会現象の分野では、個々の小さな事実をぬき出して自説を裏付けようとするような方法が広がっているけれど、それは根拠薄弱な方法。個々の事実をぬき取るのではなく、例外なしに、その問題に関係する事実の総体を取り、よりどころになる土台をきずく努力をしなければならない、とのべています。さらに、レーニンの『帝国主義論』を『帝国主義論ノート』とあわせて研究することにより、レーニン自身がどのようにきびしくこの方法を実行したか深く感じました。

 「世界経済危機分析の視角 『資本主義の変容と経済危機』によせて」 113ページ

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 支配層が「大所高所を踏まえた」と称する「上から目線」で人々の生活や労働現場におかまいなく無理難題を押し付けてくるのに対して、下からの現実を対置することがまず必要です。しかしそれだけでなく、私たちも周囲の現実を規定している世界資本主義を理解し、最新の生産力のあり方に通じてもう一つの「大所高所」を提起できなければいけません。その際に「個々の小さな事実をぬき出して自説を裏付けようとするような方法」ではなく、レーニンのように「その問題に関係する事実の総体を取」る姿勢が大切です。

 これは分析方法における部分と全体に関することですが、他にも考えるべき重要な課題はあります。資本主義的生産力発展の進歩性と反動性を労働者ならびに小経営との関連で考えてみることです。労働者との関連はよく見られるのですが、零細自営業者の私としては小経営の位置付けが重要な問題です。もちろん私たちの考察の対象は現代の資本主義ですが、生成期の資本主義との対比も有用ではあります。

 言うまでもなく『帝国主義論』はレーニンの経済学研究の中で最も重要な著作です。これに対して初期の経済学の著作としては『ロシアにおける資本主義の発展』が最重要であり、一国資本主義分析の古典とされます。この時期のレーニンは、ナロードニキと合法マルクス主義者との二正面作戦のイデオロギー闘争を展開していました。ロシアにおける資本主義発展の現実を背景に、それを否定するナロードニキ理論への批判をシスモンディの学説批判という形で深めたのが『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』です。これは『いわゆる市場問題について』などと並んで『ロシアにおける資本主義の発展』に結実していく過程での重要な研究といえます。

 なぜこれを取り上げるかというと、ナロードニキ(とシスモンディ)とレーニンとの当時の対決が、表面的には今日の反独占民主主義と新自由主義との対決に似ているからです。類似的にはナロードニキ=反独占民主主義と、レーニン=新自由主義となります。資本主義発展に批判的な前者グループとそれに肯定的な後者グループという対比です。これに対して、19世紀末から20世紀初めにおけるロシア資本主義の生成期と21世紀初めの今日とでは、まったく段階が違うのでそういう比較は無意味だという割り切りはありえます。かつての発展していく資本主義と、社会主義への体制移行が問題となるような今日の資本主義とでは同一線上で論じられないと…。確かにレーニンが資本主義発展を肯定的に述べているところを新自由主義者の今日の議論と重ね合せるわけにはいきませんが、私たちの資本主義批判のあり方がどうあってはならないか、という点では参考になります。

 簡単にいえばこういうことです。私たちの資本主義批判は何よりも現場から発するものであり、人々の生活と労働の厳しい現実を根底的に変革することを見据えつつ、目前の状況の改善に尽くします。要求の実現です。その際に最新の生産力発展とのかかわりを見落としてはなりません。そうはいっても生産力発展とは何か、ということ自身が今日的には大問題ではありますが…。

 レーニンは後ろ向きの資本主義批判を「ロマン主義」としてその空想性と反動性を痛烈に指摘しています。ナロードニキならびにその理論的先駆者たるシスモンディはいわばプチブルジョア社会主義であり、政治的な意味で反動ではありませんが、理論的には後ろ向きであり反動的ということです。今日、新自由主義者は「改革」を錦の御旗とし、彼らの「改革」への批判者を十把一からげに「守旧派」「抵抗勢力」と罵倒しています。それは不当ですが、私たちが、急落していく目前の状況を元に戻すことのみに汲汲として全体的な経済発展のあり方を見失うなら「ロマン主義」つまり「守旧派」に陥ったことになります。厳しい現実から生じる感傷についても、そのまま主観的に発するのでなく、客観的に検討することをレーニンは要請しています。アダム・スミスの弟子たちを「人間を忘れて抽象に飛び込んだ」と非難するシスモンディの姿勢にも峻烈な言葉があびせられます。

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 ロマン主義者は、現実的過程の研究やその解明にまったく関心をもたない。ロマン主義者が必要とするのは、もっぱらそうした過程に反対する倫理だけである。

 54ページ(『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』/以下では『経済学的ロマン主義』と略す/国民文庫、1974年)  

 

 いったい、諸矛盾の科学的分析は、厳密に客観的な「計算」でありながら、「感情、欲求、および情念」を、しかも「人間」一般―ロマン主義者もナロードニキも、そうした抽象物に特殊小ブルジョア的内容をもりこんでいる―の情念ではなく、特定の諸階級の人間の情念を理解するための、まさに強固な基盤をあたえてはいないだろうか? だが問題は

シスモンディが経済学者たちに理論的に反駁できず、それで感傷的な文句にとどまっていたのだということにある。       同前 114ページ

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 これに続いてレーニンはさらに辛辣なプレハーノフの言葉を紹介していますが、該当する部分を『史的一元論』(岩波文庫 改訳 1963年)から引用します。

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 「君は正しい。いまの社会生活ではことがらは君が描いているとおりにおこなわれている。しかし君は客観的すぎる。問題を人道の見地から見たまえ。そうすればわれわれの社会生活があらたに建てなおされなければならないことを知るだろう」。

 空想的なディレッタンティズムは、ブルジョア的秩序の多少とも学問のあるどの擁護者にたいしても理論的に譲歩せざるをえなかった。空想論者は自分におこってくる無力感をうちけすために、自分の反対論者を客観的だといって非難することによって、自分をなぐさめている。かりに君のほうが私より博学であっても、そのかわりに私のほうが善良だ、と。空想論者はブルジョアジーの博学な擁護者たちを反駁するようなことはせず、彼らの理論に「注釈」と「修正」をくわえるにすぎない。   上巻 64ページ

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 新自由主義批判において、「抽象的だ」という言い方がありますが、これは批判になっていません。あらゆる理論は何らかの意味と程度において抽象的であり、またそうであるからこそ理論としての普遍性を持ちます。問題はその理論的抽象の性格と程度を自覚しているか否かであり、そこに現状分析や経済政策への理論の適用の成否がかかっています。端的に言って新自由主義においては、その基礎である新古典派理論が資本=賃労働関係を捨象した単純商品生産表象で資本主義経済を捉え、したがって搾取も恐慌もない資本主義像を掲げている点に誤りの核心があるように思われます。その資本主義像からいえば、現実に不都合が起こってくるのは、万能の市場原理の作用を邪魔する政府や労働組合などの「人為的」な介入のせいだということになります。かつて竹中平蔵大臣は国会答弁においても「セーの法則」を持ち出していました。理論が抽象的なこと自体が問題なのではなく、抽象のあり方と適用の仕方が間違っているのです。

 新自由主義は人間を忘れている、という批判はそのとおりですが、貧困と格差の現実を怒るだけではいけません。人間の生存権を否認して暴走する資本蓄積のあり方を捉え、さらに問題の核心が資本への規制にあることを示し、資本規制の現実性まで踏み込んで初めて、理論的政策的客観性の域まで達することができ、「無力感」や「感傷的文句」を超えられます。

 新自由主義に対して、あまりに合理的すぎるとか、科学的一辺倒だとか非難して、現実はもっと非合理だ、などという言説も見受けられますが、これは「空想論者」による負け犬の遠吠えの類です。理論から政策の様々な次元で新自由主義の非科学性を批判できなければ、「経済学的ロマン主義」の克服は依然として私たちの課題であると言わねばなりません。

 資本主義的発展をどう捉えるか、資本主義批判はどうあるべきか、については当時のロシアと今日とではだいぶ違いがあるはずですが、参考になる点はあるでしょう。資本主義は、破壊と不安定を通して発展していく矛盾した存在であり、それに対してシスモンディは全否定的な感傷的批判を投げつけ、レーニンはいわば肯定的批判を提起したのでした。

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 矛盾は不可能ということではない。…中略…資本主義的蓄積は、まぎれもない生産のための生産であり、やはり矛盾である。だがそのことは、それが存在し、特定の経済制度の法則であることを妨げるものではない。同様なことは、資本主義のその他すべての矛盾についても言わねばならない。

    『経済学的ロマン主義』 77、78ページ

 共同体があたえてきたのは…中略…他のすべての共同体から分離された一つの個別的共同体のなかだけの生産の組織である。生産の社会的性格が包摂したのは、一つの共同体の成員だけである。ところが、資本主義は、国家全体における生産の社会的性格をつくりだす。「個人主義」は、社会的結びつきの破壊にあるが、それを破壊するのは市場であり、市場はそうした結びつきの代わりに共同体、身分、職業、せまい手工業地域、などのいずれによっても結びつけられていない多数の個人のあいだの結びつきをつくりあげる。資本主義によってつくりだされる結びつきは、矛盾と敵対性のかたちで現われるから、そのゆえに、わがロマン主義者は、この結びつきを見ることを欲しないのだ。

    同前 131、132ページ

 矛盾や不均衡を通じて実現される社会の生産力の発展がもつ巨大な歴史的意義について、シスモンディは、ひとかけらの観念ももちあわせていないのだ!

    同前 154、155ページ

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 資本主義の破壊性と不安定性は人民に苦難をもたらすので、シスモンディやナロードニキはそれを鋭く批判しましたが、それは古い共同体を美化する立場からの後ろ向きの批判であり、資本主義の進歩性を見逃しています。レーニンは資本主義の矛盾に満ちたダイナミズムを見事に捉えています。もちろんレーニンは資本主義をただ美化していたのではなく、批判し闘っていました。古い共同体への復帰に救いを求めるような現実逃避ではなく、資本主義のもたらす厳しい現実を直視しつつ、それがもたらす未来への可能性が、厳しい闘いによる変革によって現実化しうると考えていたのでしょう。現代資本主義は腐朽性を強めているとはいえ、この矛盾的発展の傾向は貫いていると捉えることは必要でしょう。

 それにしても、市場が狭い共同体を破壊して国民経済的な社会的結びつきを新たに作り出すというのは、資本主義生成期の話であり、今日、新自由主義が社会的結びつきを破壊しているのを同列に論じるわけにはいきません。20世紀の資本主義は資本の暴走を制御する仕組を様々に築いてきたのであり、それは古い狭い共同体に戻ることではなく、国民経済的規模で生活と労働を発展させる努力でした。新自由主義はそれを破壊して資本の暴走を再現したという意味でまさに反動的性格を持っています。『経済学的ロマン主義』の訳者、田中雄三氏は、同書の解説で以下のように述べています。

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 この著作が書かれて以後の世界に生じた根本的と言ってよいほどの変化を考慮に入れないで、この著作のなかで強調されている個々の論点を現代の社会に機械的にあてはめるならば、それは大きな誤りをもたらすだけであろう。そのことは、たとえば、小生産の立場から資本主義的大規模生産を批判し、後者の発展を制約することを主張したシスモンディの見解と、独占的大企業にたいする民主的統制を要求し、彼らの専横に抗して中小企業者をふくむ広範な諸階層の利益を擁護しようとする現代の革新勢力の立場とのあいだに、表面上の類似性にもかかわらず、経済構造や階級間の力関係の変化などからくる根本的な意義のちがいがあることを考えてみても明らかである。     同前 212、213ページ

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 したがって「中世的諸規制からの解放」の「歴史的意義」(155ページ)を理解しない「シスモンディの実践的要望の出発点は庇護であり、抑制であり、規制である」(156ページ)というレーニンの非難を今日の民主的規制の要求にそのまま当てはめるわけにはいきません。ただしこの非難を免れるためには、独占資本への民主的規制が国民経済のバランスある発展を実現する必要があります。

 当時のロシアと現代との重要な違いとしては、資本主義国民経済における国家の役割、経済政策の意義が決定的に大きくなっていることがあげられます。レーニンはシスモンディたちが「分配」や「消費」を「生産」から切り離して理解していることを批判し、そもそも原理的に、あるいは社会的総資本の再生産の分析においても、それらは一体のものとして理解されることを主張しています。もちろんこれは経済理論としては正しいのですが、特に国家独占資本主義の段階においては財政の巨大化と所得の再分配が重要な位置を占めるようになり、理論と政策との次元の相違が見逃せなくなりました。生産から相対的に区別された分配のあり方が経済政策的に重要な意義を持つに至ったのです。そうするとシスモンディの当時の理論的無理解は、今日では少なくとも表面的には政策的有意味に転化したともいえます。

 今次世界恐慌が中小企業を苦境に陥れ、特に町工場の危機が際立っています。生産力主義的観点からすれば、恐慌によって淘汰されるにまかせよ、政策的救済は非効率を温存することになり資源配分を歪め経済発展を損なう、という主張になります。しかし困っている人を救え、という「人間」の観点だけでなく、大企業がリードする生産力の基盤は中小企業・町工場が担っている、という現実を認めるなら、大企業と中小企業との公正取引の保障といった資本規制のみならず、固定費補助などの財政的支援をも実施すべきでしょう。関連して、人民の闘いのほんの端緒的成果とはいえ、「鳩山政権は4月16日、機械リース業界に対し、中小企業が求める機械リース代の支払い猶予に応じるよう要請する通達を出しました」(「しんぶん赤旗」4月30日付)。現代資本主義のもたらす過酷な状況およびそれとの闘いは、後ろ向きの規制や支援ではなく、未来につながる規制や支援を生み出しうると評価できるのではないでしょうか。

 ただこのような小さな事例だけでは、冒頭のNHKテレビ「クローズアップ現代」が主張していた、日本経済がアジアの生産力発展を取り込むには多国籍独占資本の要求に従うしかない、という大きな命題への反論とはなりえません。工藤晃氏がレーニンから学んだように「その問題に関係する事実の総体を取」る姿勢が必要です。また私たちの実感からする感傷的反発だけでなく(それ自身は決して否定されるべきものではないが)、生産力発展を捉えうる歴史的見地を忘れないことも重要です。

 レーニンの『経済学的ロマン主義』に関連しては以下のことを付け加えます。ナロードニキやシスモンディについて、私が言及したのはすべてレーニンの目を通してのことであり、もちろん彼らの著作に当たったわけではありません。だから今日的には直接それらを勉強するなら、レーニンの否定的評価とは逆に経済民主主義の参考になることがあるかもしれません。しかし拙文では経済学史の勉強をしているわけではなく、私たちにも有りがちな経済学的ロマン主義の克服という問題提起をしているので、これでかまわないのです。もう一つ。この著作の問題点です。ロマン主義に抗して資本主義発展の意義を強調するという観点とかかわるのでしょうが、恐慌論としては成功していないように思われます。「生産と消費の矛盾」を中心に据えるのでなく、主に生産の無政府性として解釈された「生産の社会的性格と取得の個人的性格とのあいだの矛盾」から説明しています。この観点からは、『資本論』第2部第3篇の再生産論はもっぱら社会的総生産物の実現が可能であるということを主張しているという一面からだけ評価されます(確かにそういう内容ではあるが、恐慌の可能性についても言及されている)。ここでは詳論はしませんが、生産と消費の矛盾を究極の根拠として恐慌論を組み立てる必要があり、ロマン主義者が消費制限を強調するのに機械的に反発して、主に生産の無政府性から恐慌を捉えるのでは形式的理解にとどまるように思われます。

 竜頭蛇尾というか、最新の生産力発展を人民的立場からどう捉えるか、というような初めの問題設定にはほとんど答えられずに終わってしまいました。そういう不首尾にもかかわらず戦線を拡大するのはいかがなものか、とも思いますが、政治的ロマン主義も問題ではないか、と…。今日「9条の会」が広がって護憲運動に大きな役割を果たしています。日本国憲法第9条擁護の一点で右から左まで様々な思想信条の人々を大きく結集したこの運動の意義は絶大です。そうした広がりを大切にしつつも、他方では、日本の安全保障を的確に捉えて安保条約廃棄の世論を多数派にしていくための説得力ある議論を確立することも必要となります。普天間基地問題を見ても、結局は日米軍事同盟の問題を避けては通れません。平和と軍事的抑止力との関係などについて、冷徹な現状認識とそれへの価値判断および変革の提案というものを、多くの人々の「常識」(「アメリカに守ってもらっている」等々)にかみ合う形で提起することが求められます。その際に願望的理想主義では普通の人々に対して説得力を持ちません。そうした政治的ロマン主義(この立場の人々が私たちとともに歩むことは大いに歓迎しますが)を克服して、保守的現実主義を打倒しうる革新的現実主義に進むことが必要です。

 

         日米密約をめぐって

 4月10日、NHK番組「追跡!A to Z」は「密約問題の真相を追う 歴史的判決・沖縄返還 なぜ消えた?極秘文書当事者語る」という内容を放送しました。番組の全体としては、米国と比べて日本では民主主義の不可欠の基礎としての知る権利がないがしろにされている点を衝いた積極的な内容となっていました。ただし論点の整理が不明瞭で、結果的に日本政府の悪政と秘密主義を免罪しかねない恐れもあり注意が必要だと思いました。今回の一連の日米密約について、密約=悪政として一体に捉えて批判して何ら問題ありません。しかしそれに対して、一般的には外交機密は必要だ、という論理で目くらましを図り、密約は必要だったという結論に持ち込もうとする向きもあります。ごまかされないためには論点整理が必要です。

 問題の根本は、1972年の沖縄返還費用を日本側が肩代りしていたという悪政です。しかもそれを隠すために日米政府が密約を交すという悪政の上塗りを行なっていたのです。この二重性をつかむことが重要です。まず悪事があってそれを隠すために密約が必要とされたのです。これを外交機密一般(それは必要な場合もあろう)と混同してはなりません。

 「沖縄返還のさい、本来アメリカ側が負担すべき施設の撤去費用や土地の現状回復のための費用、さらには基地改善費などを、密約にもとづき日本側が負担していた」(「しんぶん赤旗」主張、4月10日付)ことがかつて国会で追及されました。ところがその内容自身については知らぬ存ぜぬで明らかにすることなく、政府側は「外務省機密漏洩事件」を仕立て上げて逆襲してきました。答えるべきことは無視して論点をはぐらかし戦線を移動し「攻撃は最大の防御」というわけです。そこで焦点は「知る権利」をめぐる攻防に移ったのですが、事態はここで暗転します。外務省機密を入手するルートについて、男女の情を通じて行われたとされ、問題は一気に週刊誌ネタのスキャンダルに堕して、沖縄返還のさいの不当財政支出も「知る権利」も吹っ飛んでしまいました。この時点では「世間のあり方」を活用した支配層の狡智の見事な勝利というほかありませんでした。しかし最後には「正義が勝つ」。「事件」から30年以上も経って、西山太吉氏や沢地久枝氏らが起こした裁判で4月9日東京地裁は「沖縄密約」の存在を認定し、外務省と財務省に全文書の開示を命じました。

 沖縄密約をめぐる事件の全体において、結局スキャンダルにすり替えられたのはもちろん論外です。しかしその前に、沖縄返還費用の肩代りという、政府の行なった不当財政支出の問題が解明されないままに、「知る権利」の問題に焦点が移ったのも一種のすり替えです。知る権利そのものは確かに大問題ですが、この文脈においてはそれが政府の悪事をカムフラージュするために利用されたことをはっきりさせる必要があります。知る権利がきちんと保障されることは問題の第一歩に過ぎず、その先に政府の悪事を暴いて再発を防止し政治のあり方を変えていくことが必要となります。

 NHK番組「追跡!A to Z」には元外務官僚の東郷和彦氏が登場し、外交についてはきちんと記録し、それを破棄することがあってはならず、時期が来たら公開するのを原則とすべきだと述べていました。その際に、(1)相手に迷惑がかかることと(2)現在の交渉に影響を与えることとについては、非公開とすべきだとされました。東郷氏が国会で、核密約などについて記録を整理して残し引き継いだが、その後破棄された可能性があることを証言したのは、きわめて重要であり、元外務官僚としての良心も感じられます。しかし前記のような外交機密の保管と公開についての一般論を確認するだけではまったく不十分です。確かにこの一般論は知る権利の回復に役立ちます。しかし問題はその先にさらにあります。核持ち込み・沖縄返還・米兵犯罪等についての一連の密約は決して国益を守るために必要だったのではなく、日米両政府の悪事を隠蔽するために行われたことであり、外交機密取扱いについての一般論の範疇には属しません。知る権利を回復した上でさらに国家犯罪そのものを徹底的に追及する必要があります。一連の密約によって、日本人民は米国の核戦争に巻き込まれる危険性にさらされ続け、沖縄返還費用を不必要に負担し(それは後に在日米軍全体についての「思いやり負担」という公然たる不要負担につながっていきます)、米兵の犯罪に泣き寝入りを余儀なくされるなど、甚大な被害を受け続けたのですが、この状況が変えられていない以上、将来にわたって被害は続くのです。

 外交についてそもそも国益というけれども、それは国民益と国家益とが渾然一体となったものであり不明瞭です。両者は必ずしも一致するとは限りません。国民益は本質的には人民益と言うべきものでしょう。国民は人民と同じ意味で使われる場合もありますが、厳密には日本国籍を有する人を指します。国民に在日外国人を足して支配層に属する人を除いた人を私は人民と呼びます。ところが人民益と言ったのでは「国」が消えてしまって、外交に関する国益を表現するのに適当でないので、人民と同様に使われる国民を当てて国民益と呼びたいと思います。対して国家益は支配層の階級的利益を反映した国益ということになります。一連の密約は、対米従属を本質とする日本の支配層と国家のあり方から必然的に導き出されるものであり、その意味でまさに国家益に沿っており、それを国益と称して開き直って公然化しようというのが、民主党政府と支配層の対応になっています。将来の有事の際に時の政府が核持ち込み容認の決断をすることを暗に期待した岡田外相の発言はそれを象徴しています。こういう国家益に基づく密約は明らかに国民益を損なってきたし、これからも損ない続けます。だから国益に基づく外交機密といっても、それが国民益なのか国家益なのかが問われます。対米従属と一体化して偏向した国家益に関しては、外交機密についての先の一般論は適用すべきではありません。
                                   2010年5月1日



2010年6月号

         平和のために

 大特集「安保五○年と日本経済」は『経済』誌としてはまさにタイムリーな企画です。小泉親司氏の「日米軍事同盟と軍事分担の現段階」は表題の問題点をコンパクトにまとめています。小泉氏は普天間問題を入り口に、オバマ戦略やグアム移転の本質を明らかにし、さらに「経済同盟」として日本人民の税金が米国の軍事費につぎ込まれていることを告発しています。つまりオバマ大統領は核兵器廃絶に言及しながらも、歴代大統領と同様に帝国主義的戦略に固執しており、海兵隊のグアム移転も「沖縄の負担軽減」などではなく、その本質は「アメリカの新たな戦争態勢と軍事基地の再編」にあります。しかも日本人民の税金を使って「アジアに軍事覇権を及ぼす軍事態勢を構築できる」のです(28ページ)。思いやり予算や「グアム協定」のような世界に例のない軍事負担だけでなく、深刻な財政危機を助けるために日本が米国債を買っていることも戦費・国防費の下支えとなっており、米国の軍事覇権にとって不可欠です。これらのことは対米従属の政治が日本人民の生活を脅かす経済問題でもあることを示しています。

 このように小泉論文では軍事の観点から経済問題にも言及されており、大特集の他の論文では日米経済の各論に取り組まれています。もちろん対米従属は経済の側面も重大なのですが、鳩山首相が普天間基地問題の「解決」時期を苦しまぎれに5月末に設定したために、今まさにこの問題が風雲急を告げ、他のすべてを押し退けて日米関係の焦点となっています。「国外、最低でも県外」移転のはずが、結局限りなく自公政権の「対米約束」に近い「辺野古」移転という形で、鳩山民主党政権は決着を図ろうとしています。選挙・住民投票・集会での度重なる沖縄県民の意思表明を無視して、米国の意のままに従おうと言うのです。日米両国とも民意の転換を受けて政権交代したはずですが、民意を踏みにじって事実上、旧政権同士の合意を再確認するのですから、まさに米帝国主義の前に両国の民主主義が跪いたと言うほかありません(もちろん大部分の米国人は在日米軍基地の問題など知らないだろうけれども、それはこの人々がやはり自国の侵略戦争に無自覚だという大問題の一部をなす問題であり、「帝国主義的民主主義」の病弊を表現しています)。

 わが国の巨大マスコミは米日支配層の意向を忠実に代弁しています。そこには体制派エリートの危機感と傲岸不遜な使命感がみなぎっているように思えます。…ここで道を誤ってはならない。民衆の小さな利害と激情のままに国益と平和を損なうな。確かに、毎日騒音と墜落の危険にさいなまれる人々がおり、実際に殺され強姦され傷つけられた人たちがいるのはお気の毒だが、大局を忘れてはいけない。そういうことは、これからも危険多いアジアの中で日本人全体が米軍の庇護の下で生きていける最大多数の幸福とは比べようがないだろう。この幸福を守るために犠牲を分かち合おうとしない沖縄と本土の者どもを啓蒙するのがわが使命だ…。

 たとえば船橋洋一主筆体制の下、「朝日」の劣化は加速しています。社会認識の核心たる批判は消え去り、もはやジャーナリズムの体をなさず日米軍事同盟の機関紙と化しています。「日米同盟はアジアの平和のインフラ」などという倒錯した観念から出発しているのですべてが逆立ちして見えるのです。

 1980年代以降の日本では、十五年戦争が自国の侵略戦争であったという常識が定着してきました。戦後しばらくはもっぱら戦争被害だけが語られました(それ自身は反戦意識として重要でした)が、歳月が経ったのと、アジア諸国からの批判が沸き起こってきたこととが相まって、ようやく日本人が十五年戦争を客観的に見られるようになり、加害責任を認めることができるようになったのでしょう。不十分とはいえ、政府が「反省」の言葉を発するまでになりました。未だ大部分の米国人がベトナム戦争などの侵略責任を自覚せず、政府が一切謝罪していないのと比べれば大きな進歩です。

 しかし戦後責任はどうなのか。普通、戦後責任という言葉は、当時生まれていない世代をも含めた十五年戦争への今日の日本人の責任という意味で使われますが、私がここで言いたいのは別の問題です。平和憲法のおかげで、「日本軍」が海外の戦闘で殺し殺されることは今のところありませんが、在日米軍基地はベトナム・アフガニスタン・イラクなどへの侵略に使用されました。今の日本政府しいては日本人が米国の侵略戦争へ荷担した(している)責任は免れません。十五年戦争を反省するのと同様の姿勢で客観的に戦後責任を捉えることが是非とも必要です。そうすればおのずと今何をしなければならないかが分かります。

 日米軍事同盟こそが平和への世界最大の脅威なのです。もちろん異常な独裁国家である北朝鮮の数々の無謀な振る舞い、事実上一党制である中国の軍拡も脅威です。しかしこれらは少なくとも日米軍事同盟の脅威との悪循環の中で捉えなければ客観的ではありません。民主主義国家・日米あるいは善良な日本人の周辺に邪悪な諸国がある、といような独善的な見解はまったく説得力を持ちません。自分たちが実際やってきたことを自覚せずに他を非難するのではなく、脅威の悪循環そのものを断つ努力が必要なのです。

 私はこれまでの世界で軍事的抑止力の「均衡」が「平和」を守る要素であったことは認めます。しかしそのような「均衡」や「平和」はまったく脆いものです。事実、戦後日本の「平和」は続きましたが世界では多くの戦争がありましたしまだ続いてもいます。「抑止」と「侵略」とは表裏一体だからです。軍事的抑止力によらない外交と友好的交流による持続可能な本物の平和にチェンジする必要があります。

 戦後冷戦構造の中で、日米軍事同盟によって平和憲法が蹂躙されてきたがために、日本は侵略荷担的「平和」の道を進んできました。戦後の出発点において、片面講和と安保条約締結という形で最初のボタンを掛け間違えたために、以後、政策の一貫性や合理性を保って「現実」に対応しようとするならば、一貫して整然と間違えるほかなくなったのです(途中でボタンを掛け直すことは齟齬をきたし「非現実的」であって、最初のボタンから掛け直す主張―安保廃棄論―とのイデオロギー的対決が続きました)。そこでは米ソの「抑止力均衡」の中で日本の国土が戦闘に巻き込まれることは回避され、ベトナム侵略への荷担は(蹂躙されながらも生きながらえた憲法のぎりぎりの「抑止力」のおかげで)後方支援にとどまりました。こうした現実が長く存続することに人々が慣れ、あたかも自然状態かのような感覚が広がりました(平和問題に関する世論調査では、日米軍事同盟により次々と悪化していく現実に対する現状追認傾向が長らく特徴的です)。このようにして日米安保条約と日本国憲法というまったく矛盾する両者によって形成されてきた日本の複雑な「平和」の現実は、人々の中に「憲法も安保も平和に役立っている」という矛盾した意識を創出しました。だから世論調査結果に見られるこの矛盾は決して人々の政治意識の未成熟ではなく、むしろ現実の矛盾の反映として捉えるべきです。要はこの矛盾をどちらの方向に解決するかが問題です。

 平和を守るものは何か、と問われて、安保条約や自衛隊による軍事的抑止力だと答える者に対して、日本国憲法だ、と対置するのは、価値判断や方針・展望としては正しいけれども、現状認識としては正確ではありません。日本の平和が憲法によって守られてきたならば、現状のような侵略荷担的「平和」ではありえないはずです。憲法が蹂躙されてきたからこそこうなっているのです。ただそのような中でも護憲・平和運動が活発であったために歯止めがかかり、自衛隊が海外での戦闘に参加していないことはきわめて重要なことであり、真の平和の方向に進んでいくべき橋頭堡を私たちが持っていることは確信にする必要があります。

 このような現状認識と価値判断とのずれを良き価値判断の方向で解決していく契機として6ヵ国協議を捉えることができます。6ヵ国協議を認めるということは、要するに現実主義的判断ですが、アジアの「軍事的抑止力」たる米軍の存在を認めることであり、現状の「平和」の要素としての軍事的均衡から出発することです。その善悪は別にして現実がそうなっているところから始めるほかないのです。しかしその目指すべき方向は朝鮮半島の非核化であり、紛争・懸案事項の話し合いによる平和的解決です。6ヵ国協議を常設化し参加国の信頼醸成に努めるならば「軍事的抑止力」の出番をなくし、東北アジアから外国軍を撤退させることも可能となります。

 「朝日」の「日米軍事同盟=アジア平和のインフラ」論の倒錯ぶりを非難するのが長くなってしまいました。5月23日付「朝日」は海兵隊=抑止力論をあれこれ説明しようとしていますが、まったく失敗しています。不自然な努力に過ぎないことがありありとしています。海兵隊は侵略力なのだから当然です。こういう船橋主筆体制からはみ出しているのが、「週刊朝日」5月21日付です。見出しはずばり「鳩山首相は勉強し直せ!沖縄・海兵隊に抑止力なし」。「国外・県外」の公約破りの言い訳として首相が「海兵隊=抑止力」論を持ち出してきたのは薮蛇でしょう。これで普天間基地問題の核心が露呈してしまいました。これまでは漠然と抑止力というものがあるようだ、と思われていたのが、具体的に検討したら実際にはどうなっているのか、に焦点が当たってきました。「週刊朝日」の特集でも抑止力論の虚妄ぶりが徹底的に暴露されています。

 「朝日」夕刊5月19日付の「ニッポン人脈記」では、鎖国さなかの1811年に発生した日ロ間の事件を紹介しています。ロシアの軍人たちと日本の商人たちがそれぞれ相手方に捕えられましたが、2年後に捕虜交換の形で解決しました。この解決をもたらしたのは、軍事力によらない言葉による相互理解です。捕まった豪商・高田屋嘉兵衛はロシア軍艦の副艦長であったピョートル・リコルドの家に住まわされました。両者は打ち解け合い、事件をもたらした相互不信の原因を理解しました。嘉兵衛はそのことを書いた文書を松前藩に送り、捕えられた艦長・ワシリー・ゴロブニンの救出を要請し、捕虜交換に至ったのです。緊迫する日ロ問題を解決した一人の商人について「江戸時代を通じて最も偉かった。世界史的に見ても偉い人だ」と司馬遼太郎は評したそうです。嘉兵衛・ゴロブニン・リコルドの子孫は現在も友人同士です。嘉兵衛から七代目の子孫、嘉七氏は「親しくなってお互いを知ればこそ、問題は解決できる。それをご先祖たちが実践してみせたんじゃないか」と言っています。「暴力によって得られたものは、暴力によってのみ維持される」(マハトマ・ガンジー)から、軍事的抑止力による「平和」は脆く、また人々に不幸をもたらします。交流と相互理解だけが本当の永続する平和を作り出すのです。

 作家の高樹のぶ子氏は「アジア10ヵ国を訪ねて、作家や人々と交流し、その国の状況や文学作品を日本のメディアで紹介、自身も触発されたことを小説にして発表するという試み」を実践しています。

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 「この活動を一生懸命やっているのは、平和への願いからなんです。戦争は攻め入る国を見下げた行為でもあります。でも、そこにも人間がいて、暮らしがある。人間の真実を描いた文学がある。つらい、痛い、悲しい、私たちと同じ感情を持つ人々がいると理解できれば、戦争の抑止力になると思うのです」

 アジアの人々が日本の何を素晴しいと思っているかも、見えてきました。

 「ひとつは日本の文化です。文化においては、1000年も昔に女性が恋愛小説を書いて、それが今も読み継がれている。これは彼らにとって驚異的なことなんですね。『源氏物語』は世界の財産になっています」

 そして、歴史ある文化を壊してはならないということが、世界の共通認識になりつつあり、その認識を広めていくのもまた、文化の力だと言います。

 「文化は防衛に直結しているんです。どんな軍備よりも、文化そのものが、ものすごい防衛力になる。だから政府は文化にこそ、重点的に予算を使ってほしいと思いますね」

      「しんぶん赤旗」5月3日付

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 「朝日」夕刊3月30日付コラム「窓」がフィリピンの紛争地で活動する松居友という人を紹介しています。

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  NGO「ミンダナオ子ども図書館」の代表として、紛争で親をなくした孤児や、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出して学校に通わせている。

 村へ入った。警護役の比軍兵士が銃を手にピリピリしている。ところが松居さんは、自分の車の運転席から「ハロー」と村人に手を振りながら、笑顔であいさつしている。村人も松居さんだけに手を振ってこたえる。

 「子供たちへの支援を積み重ねたおかげで、村人が私を信頼してくれている。だから、こわさは感じません。身を守るためにはこれが一番でしょう」

 以前は絵本の編集者だった。10年近く前にたまたま訪れた島で、紛争に打ちひしがれた子供たちの姿を見て、そのまま居ついてしまった。絵本の読み聞かせ活動を続けながら約80人の子供と起居を共にしているという。苦境にある子どもたちに大きな希望を与える仕事だ。

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 戦乱の続くアフガニスタンでは、中村哲医師らが井戸掘りや運河造りなどを行ない、現地の人々から深い信頼を得ていることも周知のとおりです。軍事的抑止力ではなく交流と相互理解・信頼醸成こそが真の平和を作り出すことをただ言うだけなら空想的理想主義に過ぎないかもしれません。しかしこれらの人々はその思想に基づいて確実に平和の種を育てています。これを政治が受け止めるなら実際に世界が大きく動きます。そして私たちのささやかな署名活動などもそうした政治の動きの一部なのです。

 4月30日から5月8日まで日本共産党の志位委員長は訪米して、核兵器廃絶と在日米軍基地撤去の課題で実に的確な努力を重ねました。そしてNPT再検討会議の第一委員会(核軍縮)の報告草案には核兵器廃絶のための国際交渉をスタートさせることが提起されました。まだ草案の段階とはいえ日本の原水爆禁止運動の長年の主張が国際政治を動かしているという感動的な出来事でした。ここでは被爆者たちの活動や日本からの署名の山が国連事務総長を初めとする国際社会のリーダーたちを動かしたことも忘れられません。また在日米軍基地の問題では、志位氏は米国務省相手に普天間基地撤去をどうどうと要求してきました。もちろん相互理解とは程遠いけれども、まったく立場が逆の相手であっても意見交換は可能であることを示したことは重要です。変革の可能性の拡大です。

 5月21日に開かれた「アメリカ訪問報告会」での志位氏の報告(「しんぶん赤旗」5月25日付)は見事な知恵と勇気に満ちており、深い感銘を受けました。全体として一字一句もゆるがせにできない貴重な内容の中から一つだけ引用します。「今の世界で重要なのは、国の大小ではありません。経済力の大小でもありません。ましてや軍事力の大小ではありません。その国がどういう主張をしているかによって値打ちがはかられます。…中略…日本政府には、この新しい世界像がまったく見えていないのではないかと思います」。どれほど優秀であっても支配層の立場に固執したエリートには見えないものがあるのです。今や世界の人々の生活・生きた現実が生み出してきた平和運動の深い底流が的確な理念・政策となって地球を動かしつつあります。

 こうして高い志を持って、卑屈な現状追認主義を克服する諸活動が、徐々に成果を上げられる時代を迎えようとしています。

 

 

 

         分断の現実から相互理解の現実へ

 『世界』5月号の山田洋次・湯浅誠対談「ふつうの人への『共感力』を取り戻すには」は現代哲学対話とでも言うべき内容で、ぜひ多くの人々に読んでほしいものです。

 先に軍事的抑止力ではなく国際社会での相互理解こそが真の平和を作り出すことを言いました。国内あるいは一つの社会の中においても似たようなことがあります。湯浅氏によれば、「野宿の人を『こんなやつらは追い出せ』と言っていちばん排外的になるのは、野宿の人たちが住んでいる公園の周辺の住民で、かつその人たちと話したことがない人たちなんです」(255ページ)。実際に会ってみれば普通の人だと分かります。ところがこうした理解がないと役所が排除するような行政的暴力に訴えることになります。

 もともと市場経済は、相互理解ではなく分断下における競争を原理としており、そこでの共通の基準は(人間の本来持っている多面性は捨象され)効率となります。男は知っている女に対しては一人の丸ごとの人格として接することができます(「できる」のであって「する」とは限らないが)が、よそで見かける知らない女についてはたいがいただ容姿においてしか評価しません。市場とは、そんなふうにある一面では平等・公正だけれども、たいへんに薄っぺらい世界ではないでしょうか。

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 湯浅 ざっくり言って、いま、人間とは「生活する人」ではなく、「経済的に合理的に判断する人」なんだというふうに、定義が変わってしまったような気がするんですね。それができない人間は人間として失格であるみたいな。そういう話がいつの間にか当たり前になってしまって……。よく喫茶店に座って隣のサラリーマンの会話なんか聞いていると、いつも出てくるのは「あいつは使えない」という話です。

 山田 「使えない」「使いものにならない」「役に立たない」。そういう人を含めて社会があるのに、そういうことを考えなくなってしまっている。

     229-230ページ

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 「使えない」人を排除して効率を追及するのが資本と市場の論理であり、「使えない」人を生かすのが反貧困の論理です。今、若者たちの内向き志向が批判され、世界に出て行って日本のために競争する人材を求める声が大きくなっています。確かに世界市場で金を稼いでこないと日本経済が立ち行かなくなるので、それは現実主義的には当面妥当なのでしょう。しかしどうせ外向きというなら、際限もない底辺へ向かっての競争をやめさせて世界中でディーセントワークを確立するような姿勢で出て行ってほしい。しかも国内経済の破綻を放置してというか、むしろそれを前提にして世界市場で稼ごうという根性はいかがなものか。こういう持続不可能な日本と世界の経済をこの際、何とかしよう、というのが今の若者に求められる本当の国際人の志ではなかろうか。

 社会的な相互理解の尊重、あるいは効率主義的な一面的人間観の批判といったものは、資本の論理から見れば、非現実的な経済学的ロマン主義と映るかもしれません。反貧困の活動も内向きに日本経済の足を引っぱるものに見えるでしょう。しかし何が現実的かということを考え直してみる必要があります。新自由主義的グローバリゼーション下、生活し働く人々に限りなく無理難題を押し付けて、資本蓄積が進むような経済の仕組は、確かにそれが実際に存在しているという限りでは「現実的」かもしれませんが、道理が引っ込んで無理が通っている状態に過ぎません。「道理」というのは空想的理想ではなく、当たり前の生活と労働という現実です。それを取り戻す運動はどんなに「現実」離れしているように見えて困難であろうとも現実的なのです。

 前近代の狭い共同体を破壊して市場が発展し、国民経済へ世界経済へと大きなつながりが形成されたことは歴史的進歩でした。しかしそのつながりは分断・競争と表裏一体であり、貧困・格差・世界市場恐慌を生み出してきました。この先の社会進歩はこの大きなつながりを相互理解・生活安定・ディーセントワークと一体のものに変革していくことでしょう。それはとても難しいことですが、様々な芽はあります。たとえばフェアトレードは世界市場に相互理解を持ち込むものでしょう。国際的な金融取引税は、投機抑制と貧困・環境問題などへの取り組みを通じて、世界市場をカジノ化した荒海から共存共栄の豊穰な海へと変えるねらいを持っています。

 山田=湯浅両氏が現代社会に感じる違和感は、基本的には資本主義的市場経済、中でもそれを極端化した新自由主義経済から生じるものでしょう。企業サイドの効率主義からすれば両氏の思想は非現実的で「使えない」ものです。しかし山田氏は映画の中に、湯浅氏は反貧困の仲間の中に独自の世界をすでに形成しているのですから、両者の相容れなさは決して現実と空想的理想との対立ではなく二つの現実の対立です(一般に映画の中の世界はフィクションだが山田映画は大衆の支持という現実を背負っている)。

 話はやや飛びますが、4月21日に栄総行動(第73回)という行事に参加しました。栄総行動は名古屋市中区の労働組合や民主団体が役所や大企業などに要請行動をするもので、毎年2回行われています。私は名古屋中民商の一員として、愛知視覚障害者協議会や金融労連・東海地方協議会の人たちとともに三菱東京UFJ銀行に行きました。そこでは主に視覚障害者の方々の要請が中心に話し合われました。誘導ブロックの設置や窓口での代筆の問題などをめぐって視覚障害者の立場から細かくかつ厳しく追及されました。しかし決して糾弾会のような調子ではなく建設的な相互理解に導く交渉となりました。私はほとんど参加したことはないのですが、これまでの積み重ねにより情理を尽くす雰囲気が形成され具体的な成果も上がっています。銀行という企業にすれば障害者向けに特別の施策を実施することは明らかに非効率であり、利潤の削減につながります。しかし企業の社会的責任なかでも銀行の有する公共性を踏まえれば当然の施策です。これが単に市場の要求に対する反応という形ではなく、ていねいな直接交渉によって、双方の立場への十分な相互理解を深めながら、障害者の利便性を高めその人権を保障する企業行動を実現させてきたことの意義は非常に大きいと思います。

 生産力の発展は本来は社会的余裕をもたらし、労働時間の減少や働けない人々への援助の拡大などの客観的条件を作り出します。しかし資本主義経済においては生産力発展はひたすら剰余価値追及に向けられ、効率基準からはずれるものは切り捨てられます。放置しておけば視覚障害者の銀行利用に対する特別の配慮は実現できません。資本の論理を規制して公共性や人権の論理を優先することは、潜在的な社会発展の可能性を現実化することです。この要請行動を受けた銀行側の担当者たちは、一面では企業に対するクレームを適当に処理してその利潤への浸食を最小限に食い止めるという使命を担わされているでしょう。しかし他面では彼らも労働者として人間的な意義ある労働をしたいという欲求を持っているはずです。直接交渉による相互理解形成の中でその都度、具体的な結果―たとえば重要な支店に音声誘導装置を設置する―を生むということは、銀行労働者の抱えるこの矛盾のその時点での一つの解決形態となっています。資本主義市場経済の中では一般的には実現されない公共性をその外での相互理解で実現することは、このようにして消費者と労働者とのそれぞれの人間的発達を実現することにつながります。

 先に二つの現実の対立と言いましたが、それは必ずしもいつも激烈な闘争となるわけではありません。相互理解を生むような理性的な交渉の中でも資本の論理(特殊歴史的形態性の論理)と公共性の論理(歴史貫通的実体性の論理)とがせめぎあい、その都度の解決形態を残します。新自由主義的現実と山田=湯浅的現実との相容れなさは、まずはっきりと意識される必要がありますが、その対立の展開は様々な形をとるでしょう。

 閑話休題。せっかく豊穰な文化的対談でもあるものをあまりに経済主義的に解釈しすぎました。反省。しかしさらに蛇足ながら最後に政治の話を。政治こそは上述の「対立の展開」がとる「様々な形」の中の最重要なものにほかなりません。

 対談の初めのほうに、山田氏が「湯浅誠さんという人の存在がどれだけ今の日本人に大きな希望を与えたかということ、それは大変なことだと思いますよ」(221ページ)と最大級の賛辞を送り、「だから内閣府に入るということについても、僕は良かったと思っていましたね。そうじゃなきゃいけない。最近辞められたと聞いて、いろいろなことがあったとは想像していますけど、ともあれ行政側に行こうが行くまいが、あなたは決して裏切る人ではない、という思いを抱いたのは僕だけではないと思います」(222ページ)と深い信頼感を表明しています。「行政側に行く」ことの積極的な意義を認めるところに、おそらくシニシズムやニヒリズムを嫌い、真っ当な建設的努力に価値を置く山田氏の思いがうかがえます(もちろん山田監督は単純にナイーヴなわけではなく、庶民のずるさや怠惰などにも目を向け、決して断罪するのでなく丸ごとの全体において捉えているのだから、政治についてもその複雑さを見ているに違いありませんが)。その上で、たとえ行政側に行っても決して変質はしないという信頼を前提に山田氏がかけた言葉に湯浅氏は答えています。「内閣府の方は、喧嘩別れとかではないので、ちゃんと次の課題を政府として主体的に設定してくれればいくらでも手伝います、とは言っているんです」(同前)。

 対話の中のこの一節に込められた思いを私たちはあれこれ想像するわけですが、湯浅氏は『世界』6月号の「社会運動と政権 いま問われているのは誰か」という論文で、誠実かつ繊細に語っています。そこでは「政権交代をもたらした社会運動に要請されている次のステージ」として「社会運動の高度の自律性と政治性が必要とされる」(40ページ)と主張され、社会運動の政党との関係やその大義と現実との妥協のあり方、あるいは政府の「複雑さ、困難さ、厄介さ」(38ページ)といったような問題が様々に展開されます。それらはもちろん湯浅氏のこれまでの社会運動ならびに内閣府参与としての実践経験などに基づいて考察されているに違いありませんが、あえて具体的な事例にはよらず理念的に述べられています。それは現実的配慮の結果と思われ隔靴掻痒の感もありますが、にもかかわらず私たちはこの思慮深い論述から多くのことを汲み取ることができるはずです。

 

 

 

         名目値と実質値(続)

 以下では「『経済』4月号の感想」に続いて「名目値と実質値」について考えます。日本共産党の志位和夫委員長が2月8日の衆議院予算委員会質問で、リーンマン・ショック前の10年間(1997-2007年)において、先進諸国中、日本だけが例外的に経済成長が止まっていることを明らかにしました。10年間でわずか0.4%の成長率という衝撃的な数字だったのですが、これは名目成長率であり、実質では15.5%になります。年間1.5%成長でも10年続けば16.05%になりますから、それ以下であり、これでも相当に低い数字ではあります。しかし名目値と実質値との間にずいぶん差があるのも事実です。

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(注)GDP成長率について。内閣府『国民経済計算年報2009』によれば、名目GDPは1997年度:513兆6129億円、2007年度:515兆8579億円で、実質GDP(2000暦年基準)は1997年度:498兆0876億円、2007年度:575兆3432億円となります。ここから名目成長率0.4%と実質成長率15.5%を算出しました。

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 どちらを採用すべきかについては、前回も書いたように「名実逆転」の物価下落期においては名目値であるべきだと思います。理由を簡単に繰り返せば以下のようになります。インフレ期の実質値化は主に不換通貨の減価の影響を除くこと、つまり名目的変動の除外として作用しますが、物価下落期の実質値化は主に超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落の影響を除くこと、つまり実質的変動の除外として作用します。だから大ざっぱに言えば、インフレ期における実質値は主に名目的変動を除外して経済の内実をよりよく反映しますが、物価下落期における実質値は主に実質的変動を除外することで、逆に経済の内実を歪めてしまうことになります。100以下になった物価指数で名目値を除して高い実質値を出しても、それ自身は現実を糊塗するだけで実質的な意味を持ちません。物価下落期の困難は、賃金が下がって生活費に満たないことであり、商品価格が下がってコスト割れの危険性に襲われることです(少子化と自殺増はこうした再生産の危機の表現です)。ここでは幻想的な高い実質値ではなく、まさに現実値である低い名目値を採用して経済実体を直視することが必要となります。

 では物価下落期における実質値には意味がないかというとそうではありません。先の例についていえば、1997年から2007年までの間に、名目成長率が0.4%しかないのに、実質成長率が15.5%になるということは、市場価格で評価した国内総生産はほとんど伸びていないが、物量的にはそれなりに拡大しているということを表現しています。逆にいえば物量的な成長を市場価格的には過少評価しているということになります。その意味については別に考えるとして、以下ではまず実質値が物量を表現することを確認します。

 物価指数はいかなる性質を持っているでしょうか。基準年において1000円である商品AがX年には1200円に、Y年には800円になったとします。この価格変動が全商品の平均であるならば、X年の物価指数は1.2(実際の統計では100倍して120と表現されるが面倒なので1.2とする)であり、Y年のそれは0.8となります。実質値=名目値/物価指数 であるので、商品AはX年には名目値1200円で実質値1000円であり、Y年には名目値800円で実質値1000円となります。

 物価変動が起こる主な要因は(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給です。不換通貨が減価すれば商品価格が上がり、生産性が上昇すれば価格は下がり、商品への超過需要があれば価格が上がり、超過供給(需要不足)があれば価格は下がる、という具合です。物価指数で名目値を除して実質値化するということは、こうした様々な要因の如何にかかわらず、同じ使用価値量は同じ値に還元するということです。上の例では、基準年において1000円である商品Aは、同じ使用価値量である限り、実際の価格がどう変動しようとも実質値としては同じ1000円だ、という評価です。したがって実質値としての価格は他でもなくそれぞれの使用価値量に対応していることになります。だから実質GDPの変化としての実質成長率は国内総生産の物量的変化を表わしています。

 一般的には実質値のこのような性格は自覚されていません。実質値化(名目値を物価指数で除して実質値を算出すること)はデフレートと称され、あたかももっぱら不換通貨価値の変動を除くことと理解されているようです。確かにそれもありますが、生産性の変動や商品に対する需給関係の影響も合わせて除かれているのです。そこに残るのは物量の変動ということになります。価格変動における商品側と通貨側との関係や、価値量と使用価値量とを分析的に見ようとしない通念にあっては、こうした実質値の本質を見抜くことができません。まず商品を価値と使用価値とに分析し、商品から貨幣への転化を論ずるという周知の科学的経済学の方法的意義がここでは改めて確認されます。

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  **補注**

1>「物価下落期」という用語について。松方デフレやドッジ・ラインのように高度インフレを収束するために厳しい金融・財政の引き締めが実施される場合はデフレ期と呼ぶことができます。しかし現在のようにずぶずぶの金融緩和が続いている場合にはたとえ物価下落が続いていてもデフレ期とはいえないので物価下落期と呼ぶことにします。物価変動については通貨側要因と商品側要因とを区別することが必要であり、本来的にはインフレとデフレは通貨側要因にかかわる用語です。

2>実質値の意味を考えるには物価指数の性質を捉えることが必要となります。それについては不十分な内容ですが、拙稿「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所『政経研究』第86号、2006年5月、所収)参照。

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 そこで物価変動の主な三要因を分析的に捉える観点から、名目値と実質値の意味を浮かび上がらせるために、両者の中間に位置する「真正実質値」と「価値実質値」とを想定してみます。両者は実際に統計的に算出するのは困難ですが、物価変動を分析的に捉える姿をクリアに示すという点で理論的には意味があります。

 まず物価変動のうち、不換通貨価値の変動分だけを調整したものを真正実質値と呼びます。つまり名目的変動<(1)通貨価値>だけを純粋に捨象し、実質的変動<(2)生産性(3)商品需給>の影響は表現できる値です。次いで物価変動のうち、不換通貨価値の変動分と超過需要の作用分を調整したものを価値実質値と呼びます。これは、名目的変動<(1)通貨価値>を捨象しさらに<(3)商品需給>をも捨象することで、<(2)生産性>の影響だけを表現する値です。つまり不換通貨価値の変動と商品需給の変動という流通過程での影響を受ける以前の生産力変動だけを表現する値です。投下労働量の変動を表わすので価値実質値と呼びます。

 上記にならって言えば、実質値は、名目的変動<(1)通貨価値>および実質的変動<(2)生産性(3)商品需給>をもすべて捨象して物量的変動だけを表わす値です。あるいは角度を変えて言えば、流通過程的変動<(1)通貨価値、(3)商品需給>および生産過程的変動の内の<(2)生産性>をもすべて捨象して、(生産過程的変動の内の)物量的変動だけを表わす値です。名目値はすべての変動を捨象せずそれらの影響をすべて市場価格として表わす値です。

 以上の関係を図式化した表は次のようになります。

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不換通貨価値

生産性

商品需給

名目値

反映

反映

反映

真正実質値

捨象

反映

反映

価値実質値

捨象

反映

捨象

実質値

捨象

捨象

捨象

 

 ここで理論的抽象の性格を述べれば、名目値は市場価格次元、価値実質値は価値(投下労働量)次元、実質値は使用価値(物量)次元に相当します。真正実質値は市場価格次元の通貨的ヴァリエーションとでもいいましょうか。兌換通貨体制ならば存在しない値です。

 次に各値を指数を使って表現します。物価変動の主要因<(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給>を指数化し、その総合として物価指数を捉えると以下のようになります。

 不換通貨の減価を表わす指標をインフレ率と名付け、物価上昇率とは区別します。インフレ率は「単位労働量を表示する不換通貨量の増加率」と定義できます。

 生産性は通常用いられる付加価値生産性では意味がなく物的労働生産性でなければなりません。ここで問題となる第一点は生産的労働の範囲であり、たとえばサービス労働が価値を生むか否か、です。とりあえずこれについては保留し「物的労働」にサービスなどもつけ加えるかどうかは措きます。第二点としては、様々な使用価値を生産する諸労働の生産性を一つにまとめて表現することは不可能だという問題があります。そこでそれぞれの労働の生産性上昇率を算出してから、国民経済の中でのそれぞれの割合に応じて加重平均して一つの労働生産性上昇率を便宜的に確定するしかありません。

 超過需要による価値からの価格の乖離率を超過需要率と呼びます。超過供給になる場合には、マイナスの超過需要率として表現されます。

 以上の「インフレ率」「生産性上昇率」「超過需要率」は実際には統計的算出は困難でしょうが、「物価上昇率」を理論的に分析するには必要な概念です。なお指数化にあたって統計では基準年の指数を100としますがここでは1とします。

 

 物価指数=1+物価上昇率

 インフレ指数=1+インフレ率

 生産性指数=1+生産性上昇率

 超過需要指数=1+超過需要率

とすれば

 物価指数=インフレ指数×超過需要指数/生産性指数

 真正実質値=名目値/インフレ指数

 価値実質値=名目値/(インフレ指数×超過需要指数)

 実質値=名目値/物価指数

    =名目値/(インフレ指数×超過需要指数/生産性指数)……(A)

    =(名目値/インフレ指数)×(生産性指数/超過需要指数)

    =真正実質値×(生産性指数/超過需要指数)     ……(B)

    ={名目値/(インフレ指数×超過需要指数)}×生産性指数 ←(A)より

    =価値実質値×生産性指数

 

 指数的に見ると、(1)名目値をインフレ指数で除すると通貨減価による値の上昇を除きます。(2)名目値に生産性指数を乗ずると、生産性上昇による値の低下を除きます。つまり生産性が上がって単位時間あたり生産量が増えれば生産物単価は下がりますが、あたかも単価の下落はなく総生産物の値が増大するかように表現します。物量の増大がそのまま表現されるのです。(3)名目値を超過需要指数で除すると、超過需要による値の上昇を除きます。超過供給に陥っている場合は、超過需要率がマイナスになるので超過需要指数が1よりも小さくなって値が上昇します。下がりすぎた名目値を「正常化」させるということです。つまり超過供給による値の下落を除くことになります。こうして超過需要でも超過供給でもそれらによる値の変動を除きます。

 名目値を物価指数(=インフレ指数×超過需要指数/生産性指数)で除して実質値化するということは、以上の三つの操作を一度にすることになります。こうして現出する実質値の経済像はかなり抽象的であり、使用価値的(実物的)・物量的経済像となります。そこでは(1)不換通貨価値の変動が捨象されるのはいうまでもないですが、他にも一方では(2)生産性上昇による投下労働量の節約(市場経済的には価値の下落として表現されるが)という歴史貫通的要素(生産力の問題)が捨象され、他方では(3)需給変動の影響という市場経済的要素も捨象されます。

 経済といえば市場であり需給関係である、というのが俗な感覚ですが、実質値の経済像は違っており、市場的浮動を取り除いた中長期的な堅実な経済像です。ただし生産力発展による生産物単価の下落を反映しなくて物量的だという一面性もありますが、これもたとえば実際に生活するに際しては必要生活手段を実物的に確保することが大切だという意味では有用な経済指標だといえます。

 ただし現代の資本主義市場経済に生きる人々が「実質値」に期待するのはこれとはずれており、市場での需給関係による変動をも含んだ値です。また生産性上昇による価格低下も反映してほしいし、ただ不換通貨の減価だけは捨象して経済実体を見たい、ということが期待されるでしょう。それに応えるのは、現実統計上は仮想的だけれども、理論的にはありうる上記の「真正実質値」です。実際には人々は現実統計上の実質値を仮想的な真正実質値と錯覚しています。上記B式より

  実質値=真正実質値×(生産性指数/超過需要指数) したがって

  真正実質値=実質値×(超過需要指数/生産性指数)

 このように現実の統計にある実質値に超過需要指数をかけて生産性指数で割ると、期待される「実質値」(真正実質値)が求められますが、超過需要指数も生産性指数も現実統計にはありません。実質値の経済像が物量的であることを自覚して、需給変動と生産力発展の要素を近似的に付加する何らかの工夫が必要となります。

 ところが逆方向からのアプローチ(実質値→真正実質値ではなく、名目値→真正実質値)だとより安易に行けます。物価下落期においては不換通貨の減価が少ないと思われるので、名目値を真正実質値の近似値とみなすことが可能です。つまり

  真正実質値=名目値/インフレ指数 であるので、通貨減価が少なくインフレ指数が1に近づけば、名目値≒真正実質値となります。物価下落期の経済分析では実質値よりも名目値を重視すべきだという主張はこのように説明することもできます。

 以上、現実統計的には実用性の低い議論をしてきましたが、物価変動の要因を分析的に見ることを通して、名目値と実質値の性格を対照的に捉えることができ、それぞれを踏まえて現状分析に生かせればよいと思います。

 

 ここからは初めに保留した問題を考えてみます。1997年から2007年までの間に、名目成長率が0.4%しかないのに、実質成長率が15.5%になり、市場価格で評価した国内総生産はほとんど伸びていないにもかかわらず、物量的にはそれなりに拡大しているようです。逆にいえば物量的な成長を市場価格的には過少評価しているということになります。しかしそれなりに物量的には成長しているからいいというわけではありません。実質成長率も低いだけでなく、分配に片寄りがあり、持続性にも問題があります。人々が実感できて持続性もあるような経済成長への切り替えを図るに際して、この名実ギャップ=物価下落を分析することには意味があります。

 貨幣数量説的には通貨量を増やせばギャップが埋ると考えられます。しかしこの間の経験によれば、日銀が資金をじゃぶじゃぶに供給しても物価は上昇しなかったのであり(通貨量が価格を規定するのではなく、価格が通貨量を規定するという原則が貫徹され、過剰な通貨は実体経済の流通過程から退出して海外投資や資産投機などに向かったといえます)、あくまで実体経済の問題として考える必要があります。

 物価下落傾向は賃金の切り下げが主導しているのではないか、ということが考えられます。政府の認識もそれに近いのではないでしょうか。

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 消費者物価の継続的な下落傾向は、賃金の低下とともに生じており、両者は相互依存的に低下しているようにみえる。現金給与総額は、1995年以降、ほとんど伸びがみられず、次第に低下する傾向もみられるようになった。その間、消費者物価の上昇は小さなものであったため、賃金の低迷が家計に与えた影響は限定的であったともいえるが、その一方で、完全失業率は上昇し、雇用者の中でもパート、派遣、契約社員等正規従業員以外の者が増加した。こうした中で、物価や賃金低下の影響は、勤労者家計のおかれている状況によって異なっていたものと考えられる。

  厚生労働省編『労働経済白書』平成21年版 73ページ

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 厚生労働省大臣官房統計情報部編『第61回労働経済指標』平成二十年によれば、消費者物価指数は1999年:103.0、2008年:101.7(1.3ポイント減)ですから、消費者物価は1.26%減となります。この間の消費者物価の対前年変化率を見ると、6回は0.3から0.9%のマイナスであり、2回はゼロ、残り2回は0.3と1.4%のプラスになっています。物価下落傾向が定着しています。

 次いで同資料で人々の所得と消費の状況を1999年と2008年とで比較します。国民経済的には雇用者報酬が269兆7648億円から265兆4788億円となり、1.6%減です。「全国、勤労者世帯」の実収入は、574,676円から533,302円へ7.2%減です。同じく消費支出は、346,177円から323,914円へ6.4%減です。以上は名目値ですが、実質賃金指数は101.7から97.0と4.7ポイント減であり、実質賃金は4.6%減となります。実質賃金の対前年変化率を見ても99年から08年までの間で1.0%増が2回だけで、あとの8回は0.1から1.9%減となっています。

 

  

 

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   消費者物価と実質賃金

 

消費者物価

 

実質賃金

 

 

指数

対前年変化率(%)

指数

対前年変化率(%)

1999

103.0

-0.3

101.7

-1.1

2000

102.2

-0.7

102.7

1.0

2001

101.5

-0.7

102.1

-0.7

2002

100.6

-0.9

100.2

-1.9

2003

100.3

-0.3

99.7

-0.4

2004

100.3

0.0

99.0

-0.7

2005

100.0

-0.3

100.0

1.0

2006

100.3

0.3

99.9

-0.1

2007

100.3

0.0

98.8

-1.1

2008

101.7

1.4

97.0

-1.8

 

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 インフレ的収奪ということがいわれます。物価上昇に遅れて名目賃金が上げられることで、あらかじめ資本側がインフレ的利潤を獲得できます。これに対して物価下落期には、名目賃金の切り下げを先行させて資本側がまず強搾取を実現し、消費財価格の下落によって労働側はいくぶんか犠牲を低減させるという状況です。いずれもまず資本側が利潤を大きく確保し、遅れて労働側がいくらか賃金を取り戻すという形は共通しています。しかし実質賃金を見ると、インフレ期にはその上昇が抑制されたとはいえ継続的に上がっているのに対して、物価下落期には継続的に下がっています。労働者の生活水準そのものが低下し、絶対的貧困化が進んでいるのです。ここでの物価下落は労働者の痛みをいくらかやわらげるけれども根本的には彼を救いません。賃金下落の結果としての物価下落だからこの悪循環にとどまる限り救われないのです。この背景にあるのは、高度成長期から低成長期への移行で資本=賃労働の階級闘争が厳しさを増していることでしょう。ましてや昨今の世界恐慌時には犠牲の転嫁をめぐる死に物狂いの闘争になっています。先に引用した『労働経済白書』においても、失業をも含めた雇用形態のあり方の違いによって、物価変動の影響が様々な形で現われることが指摘されています。しかしそのような労働者階級内部の違いもさることながら、まずは資本と労働との間の違いが大きく存在しているのです。

 以上のデータによれば、この10年間ほどは物価下落が続き、名目GDPは低迷し、実質GDPは微増にとどまり、名目賃金はもちろんのこと、実質賃金までもが下落しています。つまり市場価格的にはいずれも低迷しており、経済を物量的に見ても国内総生産は微増しているけれども賃金は縮小しています。生活を切り下げても無理して働いて生産を何とか維持しているような具合です。賃金の下落は需要不足を通じて強烈な不況圧力となりますが、対外需要などによってそれを回避して生産を継続しているわけです。こうした悪循環を前提にした不自然な悪あがきではなく、賃金上昇=生活向上による内需拡大を通じた生産の拡大という自然な好循環に転換しなければなりません。

 ここで実質賃金の下落は大きな意味を持ちます。名目値が実質値を下回る(実質値が名目値を上回る)ことは物価下落が根拠であるとして説明できますが、実質値そのものの下落はそれでは説明できません。逆に実質賃金の継続的下落が消費支出減少による需要不足を通して物価下落を先導していると見られます。そして実質賃金の継続的下落とは、物価下落幅を上回るほどの幅で名目賃金の切り下げが継続的に強行されていることにほかなりません。

 名目値と実質値との差をもたらす物価下落一般は、生産性上昇と超過供給(需要不足)によって生じます。生産性上昇はともかく需要不足という原因は問題ではありますが、ともかくも下がった物価水準において物量的には均衡しているならばまだましな状態ではあります。たとえば実質賃金(したがって生活水準)が下げ止まっているという状態です。ところが実際にはあまりに過酷な名目賃金の切り下げによって実質賃金も下がり続け、この均衡さえもが破壊され続けているのです。この基盤の上でかろうじて実質GDPが微増しているということは決して「まだましだ」と評価しうることではなく、無理偏に拳骨(と書いて角界では「兄弟子」と読む)状態の「成果」であって、まったく病的だと言わねばなりません。これを打開する、先の悪循環から好循環に転換する前提は労働者への分配を増やすことであり、改めて「成長と分配」という古くからの問題を考える必要があります。

 「高度成長期に日本の経済を引っ張ったのは、民間設備投資だったが、安定成長期になると個人消費が経済を引っ張るようになった」(寺沢亜志也「日本経済の再生と個人消費回復への道」『前衛』2000年9月号所収、11ページ)という経済分析を経済企画庁が2000年版『日本経済の現況』で行なっています。GDPに占める個人消費の割合が大きくなってきただけでなく、投資と消費との関係が逆転しています。高度成長期には、「投資→GDP」という影響は「消費→GDP」の3倍以上になり、投資が増えれば消費が増えるという「投資→消費」という力は「消費→投資」という力の7倍以上でした。ところが安定成長期になると「投資→GDP」よりも「消費→GDP」の方が大きくなり、「消費→投資」の力が「投資→消費」の2倍以上になりました(寺沢論文、11ページ)。このような変化がなぜ起きたか、またその再生産論的解明は課題として残っています(史的かつ構造論的課題)が、とにかくこの事実を考慮して「成長と分配」の関係を見直すことが必要です。     

 スローガン的にいえば「成長か分配か」から「分配も成長も」となります。もっとも「成長か分配か」といっても実際には「資本に分配して労働の方は抑えよ、さすれば成長する」(資本蓄積=投資優先)という意味です。ここでは「成長」という言葉は資本を代表し、「分配」と言う言葉は労働を代表しているのであって、成長一般と分配一般とが対立しているわけではありません。経済効果において、消費に対する投資の優位という状況では、労働への分配を抑えて資本への分配を優先すれば成長を促進する、という命題です。逆に消費が優位という状況では、資本への分配を抑えて労働への分配を優先すれば成長を促進することになります。今は「労働への分配を増やせ、さすれば消費が拡大して成長する」なのです。

 実質値が名目値を上回る名実逆転現象、つまり物価下落傾向が定着する下で、経済停滞が長期にわたって継続しています。ここでのキーワードは、実質賃金をも下落させるほどの大幅な名目賃金の切り下げです。この悪循環の起点にメスを入れる=賃上げを勝ち取ることで好循環に転換することが最大の課題です。統計を見るときは無残に低下した名目値に注目です。

 先月には工藤晃氏がレーニンから学んだこととして「社会現象の分野では、個々の小さな事実をぬき出して自説を裏付けようとするような方法が広がっているけれど、それは根拠薄弱な方法。個々の事実をぬき取るのではなく、例外なしに、その問題に関係する事実の総体を取り、よりどころになる土台をきずく努力をしなければならない」という言葉を紹介しました。それを想起すると、以上の拙論はまったくの落第となります。ごく一部のデータだけで論じていますし、「賃金下落→物価下落」という因果関係も十分に証明されてはいません。現実の物価指数への対処にしても、GDPデフレータとか消費者物価指数とかあまたあるものを適切に扱うことはできていません。まったく穴だらけでしょうが、もともと自分の手に余るような課題なのだから、こういう低い到達点でも思いつきの経過報告だけでもしようというのが今回の拙文です。妄言多罪
                                   2010年5月29日



2010年7月号

         資本主義経済の停滞

 4月号と6月号の感想で、名目値と実質値についてあれこれ書きました。その際にインフレ期と物価下落期とを対比しましたが、あくまで両者を現象的に前提しただけで、それぞれの・あるいは前者から後者への移行の意味には触れませんでした。また6月号の感想においては、寺沢亜志也氏の「日本経済の再生と個人消費回復への道」(『前衛』2000年9月号所収)が経済企画庁の分析に依拠して高度成長期と安定成長期とを対比していることを紹介しました。経済政策を考えるにはこの対比は重要ですが、ここでもそれぞれの・あるいは前者から後者への移行の意味には触れられていません。物価が上昇し成長率が高い時期と物価が下落し成長率が低い時期とをただ現象的に並べるだけでなく、資本蓄積のあり方・再生産構造・貨幣制度の観点から本質的・史的に分析することが必要であり、それは今次世界恐慌の意義を考える際にも大切な点です。ここでは、大槻久志氏の「『金融危機』を再検討し、経済の『閉塞』を点検する」、工藤昌宏氏の「日本経済の変容と長期停滞 再生の道をさぐる」、それに他誌からですが松本朗氏の「物価変動からみた2008年経済恐慌」(『季刊 経済理論』第47巻第1号/2010.4/桜井書店/所収)を参考に考えてみたいと思います。

 大槻論文の眼目の一つは、金融論の観点から諸家の誤解や勉強不足を正す、という点にありそうですが、素人読者にとっては難しいところです。それはともかく私の理解した範囲でいえば、今次金融危機は従来のそれとは根本的に異なっており、その原因は大銀行の資産と負債の構成が20世紀とはまったく違って、商業銀行の部分が縮小し投資銀行の部分が拡大したことに求められます。この投資銀行の部分が危機に陥ったのです。従来の過剰生産恐慌が金融恐慌に波及するケースでは、産業資本における価値実現の不能が、貸出の焦げ付きとなって金融機関の資産が不良化し……という形で進行します。しかし今日では借方・貸付金、貸方・預金という商業銀行部分は縮小して、「借方『資産の部』の中身は在庫品としての証券化商品、仕入れて組成中の資産担保債権、買い入れた短期証券などであり、貸方『負債の部』はそれをファイナンスするために発行したABCP、ノート、社債、であり、また担保に使ったり売却して換金する目的で借り入れた証券もあり」(154ページ)という投資銀行的バランスシートが優勢です。ここで注意すべきは今次金融危機で資産がすべて不良化したわけではなく主に負債の方に問題があったことです。「全面的な崩壊につながったのは、証券ビジネスをファイナンスした貸方『負債の部』の短期的、市場依存的性格と、そのような性格の負債で数十倍というハイ・レバレッジを構成していたためである」(同前)。

 以上から大槻氏は「これまで観察したところによれば今次恐慌は正に金融独自の、実体経済と遊離した金融恐慌のように見えるかもしれない」(155ページ)と述べながら、すぐにそれを否定しています。アメリカの証券化ビジネスが個人消費を支えることで実体経済と深くかかわっているからです。さらに大槻氏は実体経済と金融との関係の歴史的理解の必要性を力説します。

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 今次危機の中心は金融である。重要なのは、経済の金融化とその破綻を資本主義の歴史的発展の中で位置づけて理解することではないだろうか。

 経済の金融化の中でも大きなものは政府・企業・個人という各経済主体における負債の累積、とりわけ政府と個人におけるそれである。しかしそれは生産の過剰あるいは需要の不足に対処するものとしての、債務を負担させることによる需要の補強である。証券化商品市場の発達は個人に債務を負わせることによって需要項目としての民間住宅建設、自動車及び一般消費財における生産と雇用そして消費を大きく下支えするものであった。そういう意味で金融化、各種ローン残高の累積は、衰退して行く先進国の生産と消費、とりわけ個人の最終消費の補強策、事によると最後の補強策という意義を持つ。

            156ページ

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 大槻氏によれば、このような需要補強としての金融化の必然性は、資本主義実体経済の「慢性的資本過剰、慢性的過剰生産」(同前)に求められます。「それ以後の先進国の資本主義は、生産力の発展と新産業の抬頭・繁栄を伴いながらも他方で、生産手段需要の停滞、人口の増加と生産力の発展の負の側面としての労働力の生産過程からの排除とによる慢性的失業、それにともなう所得の不足が一般的となる。したがって基調としての不況から脱却することが困難になる。言いかえれば脱却するためにはなんらかの不況対策を次々と実施することが必要となってきたと思われる」(同前)。「それ以後」とは再生産構造の構築を終え、生産と消費の体系がひとまずの完成を見るとき以後であり、先発資本主義国では19世紀末、日本は1970年代にあたります(同前)。

 このような認識は高度成長期から1980年代ごろまでなら「悪名高い」万年恐慌論とか資本主義停滞論として切り捨てられていたでしょう。しかし今日では明らかにリアリティがあります。そのように揶揄するものこそが資本主義美化論に陥っていたと言うべきです。さらに私見では、資本主義が再生産構造の構築を終えた時点でもはやその歴史的使命は果たされたのであり、それ以後も本来旧体制でありながら残存した資本主義は人間発達の可能性を(一面では促進したかもしれないけれどもしかし)阻害し歪め続けてきました。世界戦争・核兵器開発・地球環境破壊・カローシ・カジノ化等々は世界史にとって何ら必然ではなく、資本主義体制守旧という無理の産物だと捉えるべきではないでしょうか。現実にあったものを無理と断ずるのは言い過ぎかもしれません。しかし史的唯物論というのは、現実の過程をすべて後づけで「必然」として説明して済ませることではなく、別の可能性との緊張関係の中で考察することを含むはずです。そこで19世紀末大不況・第一次大戦・ロシア革命の時期以降を世界史的には資本主義から社会主義への移行期として捉える視点を復活して、資本主義批判の基礎に据える必要があると思います。蛇足ながら、戦後日本史を考えるにも、サンフランシスコ片面講和による対米従属体制下での高度経済成長を唯一の必然的過程として前提するのでなく、全面講和によって日本国憲法を実現していくバランスある経済成長の道という可能性もありえたという視点を持つことが必要です。それは今直面する課題としての安保条約・在日米軍基地の問題だけでなく、日本経済における今後のオルタナティヴの追求にとっても意味があるでしょう。

 こんなふうに勝手に議論を延長(暴走?)してしまうと大槻氏からは叱られるかもしれません。しかしいずれにせよ、資本主義の発展と停滞の両面を適切に捉える必要があります。従来ややもすれば資本主義のダイナミズムが無批判に前提され、カジノ化さえもが社会発展の一部であるかのように捉えられました。今次世界恐慌によって先進資本主義経済がベースに持っている長期停滞傾向が認識されたことでようやくバランスがとれたと言えます。ただしそのベース上でも生産力発展が継続されてきたことも軽視するわけにはいきませんが。

 ところで大槻氏は今次世界恐慌を何よりも新たな金融恐慌として捉えており、その過剰生産恐慌との関連は間接的なものとされます。従来のように過剰生産恐慌による価値の実現不能が商業銀行の貸付資産不良化を通じて金融恐慌に直結するのではなく、もともとベースにある資本主義経済の過剰蓄積傾向・長期停滞を糊塗するための(ひょっとして最後の)術策としての投資銀行的な金融化が恐慌に直面した、という捉え方のようです。だから分析の焦点は実体経済よりも金融の新たなあり方の方にあります。そうした観点から、過剰生産恐慌との関連を強調する不破哲三氏や工藤晃氏の議論は十分な説得力がないと批判されます。

 大槻氏が資本主義の歴史的考察から先進資本主義経済の慢性的な過剰生産・資本過剰・停滞傾向を指摘し、それを経済分析の基盤に置いて金融化を批判したことは重要だと思います。ただし今次世界恐慌を捉えるにはそこに至る時期の実体経済における過剰生産そのものの分析も必要です。さらに先進資本主義経済の長期停滞という大枠だけでなく、戦後高度経済成長と今日の低成長との関係という段階認識についても国際通貨体制の変遷との関連を含めて見ていくべきです。以下では、前記、工藤昌宏氏の「日本経済の変容と長期停滞 再生の道をさぐる」及び松本朗氏の「物価変動からみた2008年経済恐慌」から学んでいこうと思います。

 工藤論文は、日本資本主義の主に実体経済面について戦後高度経済成長から今日までを総括した力作です。そこでは1990年代以降の日本経済の長期停滞の原因と対策を探るために、戦後経済史の変遷が分析されますが、私の問題関心からすれば、高度経済成長期と今日との再生産構造の違いが対照的に捉えられている点が重要です。

 「高度経済成長は輸出とならんで内需の好循環を成長構造の特徴として」おり「内需に拡大余地があり、外需に決定的に依存する必要がない」ので「内向けの政府の経済政策も効果を発揮しやす」くなっていました(73ページ)。ところが70年代にはいるとニクソンショックや石油ショックなどを契機に成長神話は終焉し1974年に戦後初のマイナス成長に陥ります。しかしこうした外的要因は「停滞を引き起こし、深刻化させた契機であって、停滞の根源的な原因は過当競争に媒介された国内の過剰生産体質にあった」のであり「高度経済成長は、その体内で自らにブレーキをかける要因をすでに醸成していた」(同前)とされます。この70年代の挫折によって「輸出競争力強化のためのリストラを通じて逆に内需を停滞させるという構造へと転換」し、内需不足への対策として「政府の慢性的な財政支出を誘導することになった。こうして輸出拡大と財政支出を二つのエンジンとする経済構造が、七○年代以降の日本の経済構造を特徴付けることにな」ります(75ページ)。

 以後、大幅に端折って今日の再生産構造の変容を見ます。まとめれば「輸出依存経済の限界に加えて、労働市場の変化、地方経済の地盤沈下、さらには産業の空洞化、経済のサービス化に象徴される産業構造の変化」(86ページ)が上げられ、これらによって内需が縮小し、国内向け経済政策が効きにくくなっています。この中で「輸出依存経済の限界」に関して、輸出競争力の低下が重視されています。「輸出競争力の低下は、一方で輸出の鈍化傾向を強めるとともに、他方で輸出競争強化圧力を強める。前者は設備投資の抑制圧力に、後者はコスト削減のためのいっそうのリストラにつなが」り「停滞の悪循環を生み出」します(84ページ)。次いで需要サイドを犠牲にして供給サイドの利益拡大を図った政府の失政が批判されます。ただしここで重要なのは、新自由主義構造改革への批判(それは当然としても)よりも、再生産構造の変化そのものが今日の経済停滞の土台になっているという指摘です。経済政策が効きにくくなっていることと合わせて、この停滞状況の克服が容易ではない、という工藤氏の認識が印象づけられます。

 ここで経済そのものと経済政策との関係に触れます。循環的変動であれ、構造変化であれ、それに対してカウンターアプローチを採るのか、逆に増長的アプローチを採るのかが問われます。累進課税は共時的には所得再分配機能を有しますが、通時的に見ればいわゆるビルト・イン・スタビライザーとして経済循環に対するカウンターアプローチとなっています。消費税の場合は共時的には逆進性が問題となりますが、通時的にはカウンターサイクル機能を持たないことが問題です。経済循環にかかわらず一定の税収が確保できるということで、安定財源が強調されていますが、これは逆に景気調整に役立たないということです。以上は税における構造と循環の問題ですが、構造改革政策全体についていえば、多国籍企業が主体となったグローバリゼーションによる構造変動に対する増長的アプローチになっています。利潤追求のためのリストラを前提にした国際競争が繰り広げられれば、それを抑制するのでなく逆にその「自由な環境整備」に努め、投機が活発になってもやはり抑制するのでなく野放図な金融自由化を押し進めてきました。

 私たちの立場からは、資本の運動が人民に害悪をもたらす場合、それを経済の歪みと捉えてカウンターアプローチを採るのが経済政策です。ところが支配層の立場からは資本の運動のあり方そのものが経済の自然な姿であり、何ら歪みではありません。輸出競争力のためのリストラが人民の生活と労働を破壊し内需を縮小させても、ひたすら競争の自由な展開に拍車をかけるのみならず、大企業への直接支援すらもが経済政策の目標となります。「内需の停滞、新興市場の拡大、競争力の低下といった状況」(77ページ)は彼らに厳しい危機感をもたらしますが、私たちから見た歪みを正す方向ではなく、さらなる利潤追求を目指して生産力主義的な正面突破へと邁進させます。

 工藤氏は日本経済再生に向けて「内需の自立的な拡大好循環の再構築」「野放図な金融投機に対する規制を強化する」「財政健全化」(87-88ページ)を掲げています。しかしこれらの実現がなかなか難しいことは氏の再生産構造分析から推察されます。またこの論文においても輸出競争力の低下が重視されていますが、これについて支配層とはどのように違ったアプローチが可能なのかについてはよく分かりません。先に資本主義の見方として停滞と発展の両側面をどう捉えるかを問題としましたが、ここでは生産力主義と反生産力主義(経済学的ロマン主義)とを両面的に克服することが課題となります。リストラ的競争力の追求は論外ですが、かといって競争から降りるわけにもいきません。投機を規制し、ディーセントワークを前提にして内需の拡大と両立するような競争の枠組みを世界経済に形成することが課題になる、というぐらいのことしかここでは言えませんが。循環と構造に対する適切なカウンターアプローチのあり方を探ることが必要です。

 他に、工藤論文ではなぜか農林水産業について触れられていませんが、地域経済の危機と再生においてはそれがキーとなります。地元農水産物を地域で加工すれば、雇用拡大を含めて大きな経済波及効果があり(藤野保史「中小企業政策の転換へ今こそ幅広い対話と共同を」『前衛』7月号所収、59-60ページ)、内需型国民経済形成の不可欠の一部となります。

 高度成長期と現在との対比について改めてふりかえります。高度成長期には、輸出を先導としながらも内需との好循環を保ち国民経済が拡大しました。その破綻後はリストラによる輸出競争力強化が内需を冷えこませるという形で再生産が破断され国民経済が停滞しています。単純化していえばここに両期の違いの焦点があります。

 次いで今次世界恐慌に至る過剰生産について。2002年から07年までの経済成長を牽引したのは「輸出とそれをテコにした設備投資」であり「内需はすでに停滞状況にあ」り、08年後半から輸出が落ち込むと「サブプライム危機以前に成長率をはるかに超える伸びで積み上げられた設備投資が過剰資本として浮上したの」です(78ページ)。大槻氏が新たな金融恐慌を強調する観点とは必ずしもかみ合わないかもしれませんが、工藤氏の日本経済分析をアメリカのGMの破綻なども合わせて考えると、今次世界恐慌もまた過剰生産恐慌でもあるという点は重要ではないかと思います。

 恐慌の根源は「生産と消費の矛盾」であり、資本主義体制はそれに対応してきました。対応策について、大槻氏は主に金融化を分析し、工藤氏は主に輸出と経済政策を分析しました。金融化は今次金融恐慌で大きな痛手を受け、リストラ頼みの輸出依存は内需の縮小を招き、産業空洞化によって経済政策の効き目が弱くなってきました。さらに通貨制度の分析も重要です。資本主義経済の基底にある商品=貨幣関係を管理することが恐慌対策として不可欠となってきたからです。そこで先進資本主義国における傾向的な経済停滞を国際通貨制度の変遷を踏まえて原理的・現実的に解明したのが、松本朗氏の「物価変動からみた2008年経済恐慌」(『季刊 経済理論』第47巻第1号/2010.4/桜井書店/所収)です。 

 松本氏は今次世界恐慌について、管理通貨制度下でなぜ古典的な様相の経済恐慌が発生したのか、という鋭い問題意識から出発します。金本位制下では、景気過熱による信用の急激な膨張と物価の急速な上昇(価値以上の価格の上昇)に続いて「突然の販売不振と債務不履行の勃発による貨幣恐慌を手始めに、中央銀行からの金の流出と金利の急上昇から、全般的過剰生産恐慌として広がる。そして、物価の急速な下落と価値破壊(恐慌)という形へと帰結」します(26ページ)。「つまり、金本位制下の経済恐慌とは、通貨価値を保持しつつ、資本価値を犠牲にしながら行われる強制的な経済調整であり、同時にこれは、失業者の増大と賃金の下落による所得再配分が行われながら経済調整が進む過程でもあ」ります(同前)。

 しかしこの過程は資本主義体制の危機を呼び起こすものでもあり、金本位制は放棄され管理通貨制度に移行します。「一方で赤字国債を裏付けとする政府の追加的な財政スペンディングと、他方での中央銀行による救済融資とで追加的な資金供給が行われ、価値以上に騰貴した価格が下支えされ、恐慌が緩和されることになる。こうして管理通貨制下の資本主義経済は『黄金の60年代』を通して金本位制のような激烈な物価下落と価値破壊を伴う恐慌を経験しなくな」りました(26-27ページ)。しかしこの資金供給はインフレーションを発生させます。「不換通貨になった管理通貨制における資本主義的経済に必然的な過剰生産の調整は、通貨価値を犠牲にし(インフレーション)、商品価値を守るという形で進んでい」きました(27ページ)。IMF固定相場制下では、為替平価維持義務によって物価上昇がある程度抑制されました。しかし基軸通貨国アメリカの野放図なドル散布によって、1970年代には金ドル交換停止、IMF固定相場制の崩壊=変動相場制への移行となり、「スタグフレーションという通貨価値も資本(商品)価値も犠牲にする経済調整」(28ページ)に突入します。

 ところが1980年代以降は管理通貨制と財政スペンディングが維持されているにもかかわらず物価が安定します。他方、この時期には「資産価格の異常な上昇(バブル)が繰り返され、その破裂とともに経済が縮小するということが繰り返されるようにな」りました(同前)。これらから、管理通貨制度下にもかかわらず、なぜ実体経済と信用の急激な収縮が起こるのか、換言すれば「なぜ、通貨価値が守られる形で資本(商品)価値が犠牲にされる経済調整が進行しているのか」(同前)がまず問題となり、次いで物価安定とバブルとの関係が問題となります。蛇足ながら、雑多な現象群を射抜くようにこのような問題設定ができるところに科学的経済理論の優位性があります。

 松本氏は多くの統計を駆使して、80年代以降の世界の実体経済の停滞を指摘しています。ここから供給に対する需要の減少による物価下落が導かれます。その他に労働分配率の低下を読み取り、ここからも「消費需要の減少と国内経済の狭隘化をもたらし、先進資本主義国における物価低落と経済停滞の一要因となっていると考えられ」ます(31ページ)。また理論的には、バランやスウィージーなどに依拠して独占資本主義のもつ経済停滞傾向を指摘しています(大槻論文に際しても触れたようにこうした資本主義停滞論が復権しているのが興味深い)。

 ところで松本氏は、先進資本主義国における長期的停滞傾向に現われている利潤率の低落と労働分配率の低下に現われている剰余価値率の上昇とを考察しています。ここで資本の有機的構成の高度化を使って説明していますが、重厚長大産業が後退し、IT産業などが台頭してきた20世紀末から今日においては、はたしてこの高度化が実際に進行しているのかが一つの問題となります。また仮に高度化が進んでいるとしても、本来想定されるように、技術革新を背景とした設備投資が進むことで投下資本中の不変資本の割合が増えるという形ではなく、労働力の価値以下の賃金の採用によって可変資本の割合が減る形で実現しているのではないか、と懸念されます(もっともそうすると「資本の技術的構成によって決定され、その変化を反映する限りでの資本の価値構成」という資本の有機的構成の定義とははずれることになりますが、不変資本と可変資本との価値構成の問題ではあります)。ここでの「資本の有機的構成」の高度化は歴史貫通的意味での社会進歩の表現ではなく、資本の野蛮化という反動の表現となり、今日の人民の「資本主義的苦難」を象徴する概念となっています。

 閑話休題。世界経済の長期停滞傾向の解明によって、管理通貨制度下にもかかわらず物価が上昇しないことや不況からの立ち直りの遅れや弱さは説明されますが、実体経済と信用の急激な収縮はまだ説明されません。そこで金融資本の自律化と・ドルを基軸通貨とする国際通貨体制とを考察することで、バブルの発生と破裂(バブル循環)を解明して激烈な恐慌現象が発生する理由を説明することができます。

 独占段階における産業資本の停滞・投資機会の減少により生じた過剰貨幣資本が投機に回るようになります。こうして実体経済と結び付いた金融資本から、一人歩きする投機的な金融資本へと「進化」します。このように現代資本主義において、物価の安定(実体経済の停滞)と資産価格の乱高下は表裏一体です。ここで国際通貨制度における基軸通貨国アメリカとその他の周辺国との違いが重要な意味を持ちます。経常収支黒字国は累積したドル資産を守るためドル暴落を防ぐ必要があり、為替相場の安定に努めねばなりません。それは物価安定にもつながります。ところが基軸通貨特権を持つアメリカはそうした努力から解放され「一方で、財政赤字を通してアメリカが各国の最終消費市場になると同時に、他方で経常収支黒字によってドルを手に入れた周辺国にとっての金融資産の運用先(国債や財務省証券の増加に伴う金融市場の拡大)になっていく。こうして、アメリカで生まれたドルがアメリカ国内にとどまることで、金融資産の膨張、言い替えれば、金融資本の運動の拡大の場を広げる作用をもたらし」ました(33ページ)。このようにアメリカ市場において、周辺国の過剰生産は吸収され、金融資産の運用先も確保されます。アメリカではバブルが発生しそれが実体経済を拡大し需要が喚起されるという「好循環」となりますが、バブルは必ず破裂します。

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 資産市場でのバブル的な価格騰貴とそこから発生する超過需要は、キャピタル・ゲインに基づく実体的な裏付けのない需要であるから、いずれはどこかの誰かが負担することになる。バブルによる過剰な需要もまた、価値以上の価格の騰貴によってもたらされた架空需要であるからそれが表面化すれば強制的に調整される。この調整はまずは金融市場の崩壊と金融危機となって現れ、多数の金融機関の倒産と不良債権を処理するための公的資金の投入、そして実体経済の収縮という形で行われる。現在進んでいるアメリカ発の経済危機の本質はここにあるといえる。     34ページ

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 松本氏は現状分析をきわめて原理的に行なっているので、現代の複雑な経済現象の中に経済法則の貫徹を確認することができます。たとえば上記のように変動相場制になっても周辺国は為替相場の安定化義務からのがれられません。ここからは「法制的な価格標準が失われても、為替相場を維持するという形で、疑似的な(事実上の)為替平価ないしは価格標準を意識せざるを得ないという経済法則が貫徹したのではないかと考えられ」ます(同前)。またバブルの発生と破裂は「価値以上に騰貴させられた価格はいずれかの時点で価値に向かって調整される」(同前)という経済法則を表現しています。このような価値論・貨幣論の基礎上に「生産と消費の矛盾」を展開させる搾取論・蓄積論が据えられることで、古典的恐慌から今次恐慌までを統一的に理解し、体制認識を深め、正確な政策展開の基礎を提供しているといえます。

 松本論文は世界資本主義の分析なので、日本における高度成長期と低成長期との対比が直接解明されているわけではありません。しかし管理通貨制度下に勃発した古典的様相の恐慌を分析するという視角から、実体経済の長期停滞をベースとして、金融資本の自律化・投機化、基軸通貨国アメリカの特別な位置を解明することを通じて、日本資本主義の今日を見る不可欠の前提を提供しています。日本資本主義では物価下落と経済成長の停滞が特に顕著であることは、先進資本主義経済が共通して陥っている長期停滞傾向の上に、対米従属の特別の深さが影響しているでしょう。基軸通貨国のバブル経済に依存するのではなく、すでに貿易などではアジア経済との関係の方が大きくなっている現状に即した経済政策の展開が、内需振興とともに求められます。

 以上、高度成長期=インフレ期と低成長期=物価下落期との意味を考えるということで今回の拙文は出発しましたが、ふらふらと寄り道ばかりで迷子になったような感じもします。三論文を通して、両者は資本主義経済としての発展期と停滞期という意味づけができるようにも思えます(世界資本主義としては、金本位制時代が発展期であり、管理通貨制度下のインフレ期はもはや停滞前期、物価下落期は停滞後期という見方も可能かもしれないけれども)。しかし資本主義経済としての停滞期というのは、私たちの立場からは新たな経済への転換期と考えることも可能です。過剰資本に振り回される経済ではなく人間が主人公になった経済。人々の労働と生活のまともさを基礎にして内需型でアジアとの連携が強く対等な対米関係による国民経済とでもいえるようなものを目指すことが必要です。工藤論文で触れたように、それはなかなか困難な課題でしょうけれども、停滞期を成熟期に読み替えるような再生産構造の編成替えという意味を持ちます。このような日本経済の姿は、資本主義から社会主義への世界史的移行の時代における一つの模索かと思っています。

         断想メモ

  NHKFM土曜午後の「ラジオマンジャック」から。女が「食べない?」と聞くのに対して男が「食べない」と答える。文字にすれば区別のつかない文をイントネーションの違いで演じ分けるショートコント。「食べない?」は形の上では否定形の疑問文だけれども、その実質的意味は婉曲な命令文あるいは勧誘文であり(「食べましょう」)、相手の受諾を期待している。しかし回答としての「食べない」は明確な否定文による拒否。以下、「行かない?」に「行かない」と答えるような同文の応酬が続き、完全なすれちがいに業をにやした女が最後に「もう話さない」と切れると、男は「もう放さない」と答える(そして抱き寄せる?)。追う女に逃げる男、だけど男も女を放したくない。意味が反対の同文を応酬させて最後に洒落で落とすことによって、不即不離のようでいて深くつながれている男女関係を表現している。素人芸的なお子様番組が多い電波の中にあって、エスプリあふれる大人の番組。  …実際のところはコンセプトについての印象ばかり強くて、台詞をきちんと覚えていない。本当に「食べない」とか「行かない」とかだったかは定かではない。
                                   2010年7月2日


2010年8月号           

         恐慌論をめぐって

 今次世界恐慌の性格をどう捉えるかについては、先月も触れましたが、今月号では藤田実氏が以下のように述べており、妥当なまとめ方ではないかと思われます。

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 今回の世界恐慌は、住宅や自動車という物財への需要が、過剰信用を媒介に、過剰消費を形成し、それが過剰生産の基盤となり、過剰生産恐慌として爆発したという性格を有しているのである。同時にアメリカの投資銀行などが世界中の投資家に仕組み証券を販売していったことで、世界全体で過剰信用の連鎖が創り出されていったのである。したがって今回の世界恐慌は、高田太久吉[二○○九年]が主張するような「金融市場と金融産業が暴走」した結果としての「国際金融恐慌」という側面と、経済の金融化によって生み出された過剰信用に媒介されての過剰消費・過剰生産を含む世界恐慌という側面をもつ複合的なものと位置づけるべきではないかと思われる。

   「日本経済の危機と構造的過剰」 16ページ

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 金融恐慌としての新しさや独自性を強調する見解も有力な中で、過剰生産恐慌との複合的性格を主張しています。この認識を前提に日本経済を分析して「現段階の日本経済の危機は構造的過剰による長期的停滞と輸出の急減による過剰生産の顕在化という重層的なものとして把握されるべきである」(22ページ)と結論づけられます。

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 日本経済の深刻な危機は、単に金融恐慌によって「跳ね返り」的にもたらされたものではない。日本経済は、長期にわたり成長性・収益性の危機が続いているが、これは固定資本投資を軸として形成されてきた過剰な生産能力を輸出と公共事業で補完していくという戦後型蓄積軌道(構造的過剰)が限界に突き当たったことを意味している。そしてその構造的過剰が金融恐慌を契機に矛盾を爆発させたのである。その意味では単純な過剰生産恐慌でもないというべきである。成長性・収益性の危機として現れているのは、蓄積構造そのものの危機なのだから、輸出が回復すれば解消するというものでもない。新しい蓄積構造が再構築されない限り、日本経済の危機は長期化する可能性があるだろう。 

   24-25ページ

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 この日本経済の現状認識も妥当と思われます。しかも重要なのは藤田論文では、マルクスの恐慌=産業循環論の原理的規定から出発して、戦後のケインズ政策による変容を理論的に見ながら、今日の日本経済を分析していることです。理論から現状分析への一貫性を重視することは大切な姿勢です。ただし現状分析への理論の適用には慎重に検討すべき点もあります。

 まず藤田氏は好況期には賃金率が上昇して利潤率が低下すると考えています。これは通念でしょうが、そもそも恐慌論としても理論的に正しいか疑問があります(これについては拙文「『経済』2010年4月号の感想」内の「経済理論における実質賃金率への疑問」参照)。仮に理論的に正しいとしても、高度成長期とそれ以降の日本資本主義に適用できるのかはさらに疑問です(労賃騰貴による利潤圧迫が経済停滞を招くような事態がはたしてあったのか。西欧ならいざ知らず)。また高度成長期以来の第1部門の不均等発展を想定して、そこから今日に至る構造的過剰を直接的に説明するのがはたして正しいのか、という問題があります。そういう説明はマルクス経済学の恐慌論の通説に慣れ親しんだものにはいかにも納得がいきますが、事実としてはどうなのでしょうか。

 川上則道氏の『計量分析・現代日本の再生産構造―理論と実証―』(大月書店、1991年)によれば以下のようになります。

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 1960年から85年の25年間をとると物的産業の有機的構成はむしろ低下しているのであるから、有機的構成の高度化を根拠とした第1部門の優先的発展の法則はこの間の日本経済についてはまったくあてはまらないといってよいであろう。前節で述べたように、この間の日本経済は生産手段の生産より消費手段の生産が拡大しているのである。 74ページ

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 それでは有機的構成はなぜ低下したのか。

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 C部分とV部分の価値の変動の仕方によっては技術的構成の高度化は有機的構成の高度化には結びつかない。この間の日本経済のばあいは、第1に、原材料や機械設備などのC部分の価値が生産性の上昇によりいちじるしく低下した(国内で生産される生産手段の63.2%を生産する重化学工業の生産性が大きく上昇したことがそのおもな要因であろう)。また、第2に、労働力の価値Vについては、生産性の上昇により価値の低下もあったが、他方で、生活水準の向上もあったので、それほどの低下をみなかった。主として、この二つの要因のため、技術的構成の高度化にもかかわらず、有機的構成は高度化しなかったのだと考えられる。   73-74ページ

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 したがって川上氏は高度経済成長期には「生産と消費の矛盾」の作用は弱められていたと考えています。つまり高度経済成長とは「重化学工業を中心として、それまでになかった新しい産業が作り出され、拡大し」て「供給と需要を同時に高率で長期に拡大する」(12ページ)ことです。しかしやがてこれは破綻しました。「重化学工業を中心として新しい産業が作り出され拡大する過程が一応の終了をみただけでなく、その重化学工業が肥大化しすぎ、そこに過剰な生産能力が形成され、『生産と消費の矛盾』が発現したから」(14ページ)です。

 7月号の工藤昌宏氏の「日本経済の変容と長期停滞」でも高度経済成長期と現在とでは、内需と外需との関係が、一定の好循環から悪循環へ逆転したことが述べられていました。高度経済成長を美化することは誤りであり、それが過剰生産を形成したことの他にも多くの問題点を含むにとどまらず、そもそも当時としてもオルタナティヴな経済がありえたという見方が必要です。しかしそれにしても、今日の日本経済の惨状を捉えるためには、人民の生活と労働とを安定させ改善するという点での違いを、当時と今日とで対照的に見る視点は有用です。高度経済成長は第1部門の不均等発展により過剰生産に帰結した、という見方よりも、当時としては供給と需要とが長期に高率の同時拡大を果たした(もちろんそれが過剰生産を準備したのではあるが)という側面を正しく捉える見方の方がリアルであり有用でもあろうかと思います。

 今となってはあまりにも圧倒的な構造的過剰が露呈してしまった日本資本主義の現状を見れば、藤田論文の現状認識は非常に説得力を持つし、それを基礎理論の観点から説明しようとする姿勢も正当です。しかし上に見たようにこの理論から現状分析へという上向過程は必ずしも成功してはいない、という気もします。だとするならばその際に理論そのものに問題があるのか、あるいは現状分析への適用の仕方に問題があるのか、ということが問われます。

 多国籍企業段階のグローバルな生産力発展、そしてそれと表裏一体の搾取強化と産業空洞化による有効需要不足、ここに今日的な「生産と消費の矛盾」の激化が見られます。それを隠蔽する財政金融政策・金融化・外需依存がありますが、特に今次世界恐慌ではそれらが機能不全となり「生産と消費の矛盾」が爆発しました。藤田論文も含めて最近の多くの論文がこの模様をそれぞれに分析しています。ただそこで説得力をもたらしているのは、ここでも書いたようなどちらかといえば発想としては過少消費説に近い単純な論理構成ではないか、と思います。

 戦後日本において恐慌理論研究は様々に展開されました。たとえば富塚良三氏の恐慌論はその代表的なものでしょう。富塚氏は再生産表式を分析して均衡蓄積軌道の概念を提唱し、そこからの乖離として第1部門の不均等発展を捉えるということで過剰蓄積論を展開しました。商品過剰論の深化といえます。さらに労賃騰貴による資本の絶対的過剰論をも取り込んだ精緻な理論体系を構築しました。富塚恐慌論をきっかけに多くの論者がそれぞれの理論を競い、これらとは別に宇野恐慌論の系列が独自に発展してきました。そういったものたちを勉強しているわけではない、というただそれだけの理由からかもしれませんが、先述のように私から見れば、今次世界恐慌に臨んでは意匠を凝らした理論たちが役に立つというより、過少消費説的な単純な発想の方が説得力があるように思えます。

 と、思っていたところ、理論そのものの重要性を力説する論稿にたまたま出会いました。きちんと紹介して評するような能力と余裕はないので、大ざっぱな拙い感想だけでも述べてみます。海野八尋氏の「恐慌学説の統合と展開」(政治経済研究所『政経研究』No.94 2010.6 所収)は過少消費説・不比例説・資本過剰説などの従来の代表的恐慌学説を批判し、「産業循環運動を需給関係の動態的展開過程ととらえ需給が投資に規定され、資本の投資行動は予測利潤率に従うという『予測利潤原理』」(18ページ)による諸現象の説明を対置しています。

 海野論文からは、<誤った恐慌学説が政治運動にも影響を与えることで、誤った政策的主張が流布されている>ような状況を正す、という強烈な問題意識が感じられます。そこで「広範な革新的人士に強い影響を与えてきたマルクス主義的恐慌論(資本主義へのイデオロギー的批判)の継承できない部分への批判とその清算も意図して」(同前)いることが宣言されます。現状では「経済理論とは異なる領域のマルクス経済学者、社会活動家、労組活動家、政治家の多くが、半世紀前に隆盛した過少消費説や不比例説、過剰生産説を受容してい」(19ページ)ますが、特に過少消費説は「情緒的な支持」に頼る「完全な謬説」で、そこから出てくる「『賃上げによる景気回復』は理論的にも実際的にも有効な主張にはなり得ない」(21ページ)と断罪されます。

 マルクス経済学において、過少消費説というのは蔑称であって自称する向きはないのですが、適当な言葉が思い浮かばないのでここでは、「生産と消費の矛盾」を中心にすえる恐慌学説を過少消費説と呼ぶことにします。海野氏に限らず、過少消費説への批判の中心は主に二つあるでしょう。一つはそれが投資動向を無視していること、もう一つは、労働者の狭い消費限界は常態なので、それでは恐慌を含む産業循環の動態は説明できない、ということです。

 この批判について考える前に、恐慌論の体系性について述べてみます。恐慌論の体系性は経済学の体系性と一致するものと考えています。商品の分析に始まり「世界市場と恐慌」に終わるマルクスの経済学批判プランの全体像は恐慌論のそれに重なります。この全体の中でも、資本一般論と競争論との論理次元の区別が最も重要ではないか、と思います。需給一致を前提にして資本主義経済をその理想的平均において捉える資本一般論に対して、競争論においては、需給関係の動態的展開過程を捉えることになります。ちょっと考えると資本主義分析には具体的な競争論だけでよいように見えますが、たとえば労働価値論の論証はまずは需給一致を前提した資本一般論で行われねばなりません。恐慌論においては、競争論の次元では具体的な産業循環の局面分析などが行われ、好況が恐慌に逆転する具体的なきっかけも研究されます。その前段の資本一般論次元の恐慌論では、資本主義生産様式において恐慌が起こる必然性が研究されます(厳格な用語法の見地から、「恐慌の必然性」という言葉を忌避するむきもありますが、他の経済的社会構成体では起こりえず、資本主義でだけ起こりえる必然性というような意味であれば難しく考えることもないでしょう)。需給一致を前提にした理想的平均とはいってもそこにすでに「生産と消費の矛盾」などが含まれていることを看過してはなりません。労働者階級の苦難は、恐慌を含む産業循環の動態によって初めて生じるのではなく、搾取と無政府的生産という資本主義体制の歴史的特性によってすでに規定されています(『資本論』第1部の剰余価値論と蓄積論参照)。

 具体的な産業循環の運動によっていわばその長期平均において資本一般の世界は成立しますが、そもそも産業循環の運動が生じるのは資本一般がもっている搾取と無政府生産という特性によります。この相互関係が重要です。資本主義の存続を保証する平均化機構は市場メカニズムではなく、恐慌=産業循環です。この認識の違いが新古典派とマルクス派との別れ目であり、マルクス経済学においては、市場メカニズムは恐慌=産業循環のシステムに包摂されます。静かな均衡化としての市場メカニズムを絶対視するのでなく、暴力的均衡化としての恐慌=産業循環を資本主義経済の本質と見るところに体制への危機認識の基本があります(資本主義の存続は暴力的均衡化と表裏一体である以上、危機と隣り合せです)。

 海野氏は過少消費説批判の余りに資本主義経済における「生産と消費の矛盾」の意義もほとんど否定しています。労働者の狭隘な消費限界の問題が、歴史貫通的な再生産における生産余剰の必要性とか、階級社会一般の搾取関係の問題に解消されています。再生産一般における成長元本の必要性との違いは言うまでもなく、前近代社会の支配者の奢侈的消費目的などとも違って、資本主義では無政府生産に基づく剰余価値追及により、生産拡大と労働者階級の消費制限とへの無限の追求が系統的に続けられます。「産業循環の動態」以前の問題として「生産と消費の矛盾」「労働者の狭隘な消費限界」は考えるべき問題なのです。仮に労働者の狭隘な消費限界に基づく有効需要の不足を投資が補うとしても、そのような均衡によっては少なくとも労働者自身の問題は何ら解決されていない、と言うべきです。ましてや今日の資本主義諸国においては、労働者の狭隘な消費限界を国民経済的に克服できずに実体経済の長期停滞に陥り、過剰貨幣資本がバブル化・カジノ化する金融化が進行し、それが破綻して今次世界恐慌に至りました。不換制下にもかかわらず、日本において物価下落が、世界的にも物価安定が継続していることは需要不足による長期停滞を象徴しています。産業循環の動態を主導する資本の投資活動は利潤率に規定されますが、長期停滞の現状が教えるのは、利潤率そのものが実現条件に規定されているのではないか、ということです。このことは循環運動を規定する構造の優位であり、恐慌論でいえば資本一般論の次元における「生産と消費の矛盾」の重要さではないでしょうか。しかもGDPにおける個人消費の割合は大きく、それなりに安定しているのだから、ここが傷ついたときに適切に手当するのは国民経済の観点からは当然のことです。

 ここで「賃上げによる景気回復」というスローガンについて考えてみます。賃上げが景気回復に結びつくかどうかは確かに一つの問題です。しかし賃上げそのものは労働者の生活状態からいって待ったなしの課題です。だから問題の捉え方は、賃上げで景気回復するかどうか、ではなく、賃上げをいかにして景気回復につなげるか、そのために政策をどうするか、企業行動をどうコントロールできるか、ということでなければなりません。大資本が強蓄積を実現している状況下で、過少消費を軽視して、もっぱら利潤率に目を向けることは悪名高いトリクルダウン理論に道を開くことになるでしょう。

 次に先述の過少消費説批判について考えてみます。この説が、資本蓄積の動向を無視して、労働者の過少消費を恐慌(ないし不況)に直結させている、ということは確かに「情緒的」次元ではあります。しかし再生産表式であろうと国民所得分析であろうと、少なくとも一国資本主義を全体として考察すればそのような短絡はありえません。問題はむしろ資本蓄積が長期停滞状況に入っているので、過少消費による有効需要不足を補えず、そうした実体経済の低落から、過剰貨幣資本が逃避してバブル化・カジノ化していることです。適当な利潤率が期待できる投資環境に向けて実現条件を改善するために労働者・人民の所得を上昇させることが必要です。消費がダメなら投資へ、というように簡単に再生産構造を変えられるものではありませんし、今日ではむしろ国民経済における消費の割合を上げていかに成熟社会をつくっていくかが課題であり、それを阻害する資本の運動を見直していくことが求められています。

 労働者の狭隘な消費限界は資本主義経済の常態であって、それでは恐慌勃発へのきっかけを含む産業循環の動態は解明できない、という批判はそのとおりです。恐慌論を充実していくためには競争論次元での詳細な分析により産業循環の動態を解明することが必要です。それは「生産と消費の矛盾」の具体的展開過程も含むでしょう。ただしそのことは資本一般論次元での剰余価値論・資本蓄積論・再生産論などとそれらで構築された恐慌論の意義を少しも低めるものではありません。資本主義経済はその理想的平均状態においてさえも「生産と消費の矛盾」や貧困化などから逃れられるものではなく、ましてや需給変動を含む具体的動態過程においては労動者・人民の苦闘はよりヴィヴィッドに現われます。ここにはいわば構造と循環との相互規定がありますが、構造認識がいい加減では循環認識もしっかりしません。

 海野氏は不比例説批判として「恐慌の前提に極めて一般的な現象である好況ではなく、特殊、例外的な『均衡蓄積軌道』を置いてはなるまい」(23ページ)と主張しています。富塚良三氏の均衡蓄積軌道は価値次元の再生産表式分析から得られたものですから、資本一般論に属します。だからそれ自身が産業循環の一局面を示すものではなく、いわば構造的均衡の基準を示すものでしょう。海野氏の批判はこの点への無理解を現わしたものであり、その恐慌論が競争論次元に一元化されて、本質論なき現象論に陥っていることを示しているといえます。この姿勢が「生産と消費の矛盾」の軽視につながっているように思えます。資本主義経済の常態である「生産と消費の矛盾」によっては直接的には産業循環の動態は解明されません。しかしそれは資本主義体制における恐慌の必然性の不可欠の要素であり、人民の苦難の恒常的根源でもあります。それを捨てるのではなく、太い柱にして本質から現象に上向する恐慌=産業循環論を構築することが求められます。もちろん「生産と消費の矛盾」を呪文のように唱えていてもダメで、たとえば先の川上則道氏の労作が、高度成長期に第1部門の不均等発展を確認できないと結論づけているように、実証的研究を考慮する必要があります。またこの矛盾に対処する政策的含意としての「賃上げによる景気回復」についても、海野氏のみならず多様な批判があるでしょうから、国際競争や資本の運動のあり方について理論的政策的に解明していくことなども必要でしょう。いずれにせよ理論・現状分析・政策にわたる検討を経て恐慌論を深化させることが求められます。

 資本主義の長期停滞と今次世界恐慌が過少消費説を復権させました。労働者の狭隘な消費限界が恐慌を起こしたり、長期不況を招いているように見えます。もちろんそう単純なものではなく、恐慌論研究の蓄積から学んで、特に産業循環論の具体化から政策的に生かせる部分を探っていくことは必要でしょう。しかしそれは上記のように、過少消費説を否定するのではなくより改善する方向だと思います。このような「謬説」が誤った政策をリードしていると嘆くよりも、「謬説」がいかにも現実にぴったりくるように見えることを反省してみることが理論家のつとめではないか、と思います。

 結局拙文は「情緒的」な過少消費説の枠内のようで、遺憾とするところですが、問題提起だけでもお汲み取りくだされば、と思います。

 

         参議院選挙における日本共産党の敗北

 参議院選挙で日本共産党が敗れ、7月12日には常任幹部会が「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意です」という異例の声明を出すに至りました。直接的には組織活動力の低下や宣伝戦のあり方などが主に問題となるでしょうが、長期的視野で客観的条件についても検討する必要があります。1976年の総選挙で劇的敗北を喫して以降、1979年総選挙での一時的挽回や1990年代後半での一定の盛り上がりを除けば、共産党は一貫して長期停滞傾向にあります。現実政治に果たすその役割は決して小さくないとはいえ、1970年代から見ると今日では革新陣営全体が大きく後退し支配層によって押え込まれています。これが今日の日本人民の苦難を招いている重要な要因であることは間違いありません。

 戦後世界資本主義の高度成長は過剰資本の蓄積にいたり、1971年の金ドル交換停止以後、IMF固定レート制は崩壊し、カジノ資本主義の基礎が形成される一方、多国籍企業化が進みました。このように金融化と多国籍企業化が資本過剰=実体経済としての国民経済の停滞とともに進行しました。グローバリゼーションと金融化は、1989年以降のソ連・東欧社会主義崩壊とも相まって「市場拡大の時代」を出現させ、規制緩和によって資本の自由・市場の自由が増大しました。市場における個々の経済主体の原子的行動が経済を決するという、いわば新古典派的経済像に適合的な現実が拡大しました。新自由主義的構造改革の舞台が整ったといえます。

 新自由主義の時代は構造的資本過剰で低成長であり、そこでの経済活力は搾取強化による強蓄積に求められます。狭いパイの中での争奪戦であり、脆弱な労働側は資本側に圧倒されます。日本ではもともと企業別組合で労働運動は弱かったのですが、高度成長期には分配闘争で一定の成果を上げることはできました。しかし左派も含めて職場における働き方のレベルでの闘争がないことで、過労死に象徴される強搾取を規制することはできませんでした。低成長期にはこの弱点が全開となり、強力な資本側の攻勢に守勢一辺倒になりました。

 共産党が党勢を拡大し選挙で勝利してきたのは、高度成長期であり、その破綻による低成長期への移行後は新自由主義的な資本側の攻勢に対して後退を余儀なくされた、といえます。日本の労働運動の大勢は左右の社会民主主義者の支配下にあり、共産党の影響力は限定的でしたが、こうして大ざっぱに見ると、共産党の盛衰も労働運動のそれとパラレルのようです。高度成長期の分配闘争では一定の成果を得られたけれども、低成長期の資本攻勢の前には対抗できなかった、といえます。

 資本主義は長期停滞過程にあり、今次世界恐慌による危機的状況は依然として克服されたとはいえません。支配層であろうと変革勢力であろうとこの危機からの脱出の道は平坦ではありえません。日本共産党の長期停滞は日本資本主義の長期停滞と重なるのですから、共産党の前進は、ルールある経済社会への変革で日本資本主義の長期停滞を克服する道と重ねることになるでしょう。大企業に社会的責任を果たさせるとともに、農林水産業と中小企業・自営業が中心となって地域経済を活性化していく方向を差し示せるかが重要です。

 以上、あまりに漠然として、役には立たない話かもしれません。しかし共産党の停滞と前進は短期的・直接的には主体的・技術的要因による部分が大きいとはいえ、長期的・間接的には日本と世界の資本主義の歩みに規定されます。低成長期の搾取強化=新自由主義的攻勢(およびそれと不可分のイデオロギー攻勢)に抑え込まれた長い時期は終わらせねばなりません。今次世界恐慌を機に世界資本主義は新自由主義とケインズ主義とのまだら模様の様相を呈し、どちらにも飽き足らない日本と世界の人々の模索が始まっています。新たな経済像を説得力をもって提示できることが前進の土台となるでしょう。

 

         現実を変革する普遍的理念

 在日米軍基地の撤去は、日本人民の民族自決の課題であるとともに、米国の侵略戦争への荷担をやめるという形で他国人民の民族自決を尊重する課題でもあります。日本の戦争責任を問うならば、十五年戦争だけでなく、ベトナム戦争やイラク戦争などにもそれはあります。このような普遍的な理念の観点に立てば、自分たちの利害を守ることが世界の中での共存共栄につながるのです。

 在日米軍兵士による基地周辺住民の多大な被害を防止する上で地位協定の改訂は大切な課題です。これを何としても認めない日本政府の姿勢には、ただ卑屈な対米従属というだけにとどまらない重大な問題点があります。今日では日本がクウェートやジプチと地位協定を結び、当地に駐留する自衛隊の法的地位は在日米軍以上に有利になっています。他国に対する治外法権を行使する手前、自国への治外法権も認めざるを得ない、という形になっているのです。外務省の地位協定室長は「外国軍隊は派遣先・駐留先の国で刑事裁判管轄権から免除されるのが一般的国際慣行」と言っています(吉田敏浩「なぜ米兵犯罪は裁かれないのか―日米地位協定と『密約』の闇」/『前衛』8月号所収/85ページ)。今日のエリート官僚がとんでもない時代錯誤に囚われているのに驚きを禁じ得ません。対米従属下の役人なんだからそれが当たり前なのでしょうが…。ひょっとするといまだこういう帝国主義的センスが「一般的国際慣行」なのだろうか。いずれにせよ、当面は地位協定の改訂、さらには外国軍基地の撤去によって民族自決権を追求することが世界の正義であり日本の正義でもあります。被爆者が米国への報復ではなく、核兵器廃絶を一貫して訴えてきたことの普遍的正義を思い起こすことは無駄ではありません。

 自分がされたくないことは人にはしない。この当たり前のことを忘れるとどうなるか。

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 歴史をひも解くと、日本にとって不平等条約改正は、安政の条約締結後、明治維新以後の国民の悲願でした。ところが一方で、一八七五年の朝鮮に対する武力挑発攻撃であった江華島事件を機に、翌年、日朝修好条規という不平等条約を押し付けた歴史があります。その後の日本の近代史の歩みが、どのようなものだったのかを忘れてはいけないと思うのです。    同前 86ページ

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 朝鮮に対する植民地支配の時代に、彼の地に徴兵制を敷くかどうかで論争がありましたが、あと十年・二十年様子を見てからにすべきだという「反対論」があったそうです。当時の日本人にとって朝鮮は永遠に日本の植民地だったのです。しかし現代の日本人はこれを笑えないでしょう。岡田外相のごときは五十年もつ日米同盟などと言っています。まともな歴史意識と理念をもたないと、対米従属も他国侵略も「現実」として受け入れて恥じない醜い日本人となってしまいます。その対極にあるのが、核兵器廃絶の運動であり、沖縄米軍基地撤去の運動なのです。
                                   2010年7月30日
    


2010年9月号

         資本主義批判の社会科学

社会科学は当該社会の自己認識です。その構成員がみんなで働き助けあって生きている社会のあり方を自分たちで理解することです(無政府的生産・弱肉強食的競争といったものは「みんなで働き助けあう」とは真逆のあり方のように見えますが、それもまた広い意味では社会構成のあり方であり、迂回的な社会的共同の姿です。市場メカニズムの予定調和の神話を持ち出すまでもなく)。それを総体として見れば社会の自己認識と呼べます。人々は働き消費することで、社会に対して何かを与え社会から何かを得て生活しています。これは人々の生存ならびに社会の存続にとって必要不可欠な活動です。それを維持し改善するには社会の自己認識が必要ですが、先の必要不可欠な活動だけで手いっぱいな場合はその余裕はありません。しかし人間の労働と不可分の知的探求は、労働の生産性を上昇させることでその余裕を作り出し、かつまたその知的探求は社会の自己認識そのものを推進します。こうして萌芽的には社会科学はすべての人々の頭脳に発生するといえます。これが社会科学の本源的あり方でしょう。しかし一般の忙しい人々がその担い手となるのは難しく、実際には階級社会において一部の人々が独占する精神労働となります。するとそれは階級支配の技術としての側面を持たざるを得ません。人間を支配する疎外された社会科学となるのです。

 階級社会の最高形態である資本主義社会においては、一方ではこの独占が技術的に高度化され洗練されます。他方ではその大衆化への要求も噴出します。社会を現場で、底辺で支える人々の間に本来的に芽生える社会認識は、疎外された労働の中にあっても、自己実現ならびに社会的連帯としての労働のあり方の追求を含みます。こうして同じ資本主義社会を対象としながらも、対決する二つの社会科学があり、その現実反映の正確さと実践性とを競っています。

 私たちはこの社会の抱える歴史貫通的内容と資本主義的形態との矛盾を捉えることが何よりも大切であり、その出発点は労働の本源的性格とその疎外形態との認識にあるといえましょう。おそらく支配層の社会科学にあっては、社会の歴史貫通的内容は資本主義的形態の下に従属融合させられ(確かにこの従属融合は現実の姿なのですが、それを分析するのが科学の課題です)、ブルジョア的人間像が人間一般として、疎外された労働が労働一般として把握されています。このような単層的・没歴史的認識に対して重層的・歴史的認識を明確に対置した上で、眼前の諸現象への細かい分析を競っていく姿勢が必要です。

(狭義の)経済学は資本主義経済の自己認識です。それは資本主義経済の冷酷な現実の記述から始まります。このリアリズムを経過しないところに経済学はなく、経済への願望しかありません。問題は何のためのリアリズムかです。利潤追求を目的とする場合、その切実さ故に、ある意味できわめて正確で詳細な現実反映となります。しかし特に昨今の新自由主義的立場では、そこに働く人々のあり方は無視され、その上で利潤追求の経済整合性がぎりぎりまで分析され政策提言されます。最近目立つのはアジア経済の追い上げと日本の立ち遅れという視角です。財界の危機感は深く、それを反映したアカデミズムやマスコミはかまびすしく、民主党政権もこの「本流」への忠誠を誓っています。逆にリアリズムの視点を働く人々の現実に据えるならば、資本主義経済の冷酷な現実は日本社会そのものが悲鳴をあげている姿として描き出されます。そこでは人間を生かすためには利潤追求のあり方そのものを見直すことが提起されます。今日において社会の歴史貫通的内容を実現するのに資本主義的形態がふさわしいのかが根本的に問われます。すぐに資本主義の止揚が不可能だとしても、そのような視点をもちつつ日本と世界の経済のあり方を描こうとしなければ、独占資本の危機感と具体的政策提言に飲み込まれてしまいます。

 特集「福祉現場のワーキングプア」においては、無理が通って道理が引っ込んだ結果としての日本社会の深刻な悲鳴が聞こえてきます。それは一言でいえば権利保障労働の危機であり、一方では権利主体としての人民の、他方では福祉労働者の危機です(製造業においても悲鳴はあがっており、『前衛』9月号所収、井内尚樹氏の力作「地域経済の自立を基礎とした中小企業の成長戦略」を後から取り上げたいと思います)。ここには新自由主義的構造改革による急激な労働条件の悪化と貧困化が背景にあるとはいえ、それだけに解消されない問題があります。「高度な専門技術や経験を必要とする職種においても、非正規化が進んでいることが、わが国の特徴」(金澤誠一「低所得層の広がりと福祉労働者」、41ページ)であり、福祉労働者もその犠牲となっています。「福祉労働者が消耗品のように潰れていく」(同前44ページ)ことで「人材が育たないことは、利用者へのサービスの質の低下につなが」(同前45ページ)ります。したがって「ナショナル・ミニマムの課題は、ただ単に最低生活保障だけではなく、人間をコストとして扱わない『人材』の育成であり、人間らしい尊厳を守る福祉の質の保障でもあ」(同前)ります。さらに言えば、福祉労働の場合は、専門労働一般の問題に解消されない問題もあります。その独特の使命感や献身性を見ると次のような指摘も生じます。「福祉の職場は現場の労働者の『善意』に過度に依存していると感じている。その過度の依存が、福祉労働者の著しい低処遇につながっているのではないかと思えて仕方がないのである。それは、行政、事業主、そして国民の『甘え』というほかない」(城塚健之「公務の市場化と官製ワーキングプア」、59ページ)。最後の「国民の『甘え』」というのは、「品質・価格・スピード」への飽くなき要求という、製造業の抱える問題点ともあわせて、過当競争と過重労働の見逃せない原因でもあります。料金さえ払えば労働者の状況に無関心に要求をエスカレートさせる、という消費社会の病理をいかに是正するかという重要な課題がここにはあります。

 福祉労働者の苦境を決定づけているのは福祉の市場化であり、それは措置制度の解体によって推進されています。介護保険制度の導入に際して、一部の市民主義者が措置制度の解体を礼賛していたことを考慮すると、その原理的解明はきわめて重要ですが、それは横山寿一氏の「福祉の『市場化』と福祉労働の変容」に譲ります。福祉労働の問題についていえば、要は、「人件費が事業経費の大部分を占める」「対人サービスを提供する事業」は激しい競争の中では「最悪の状態に備えて人件費を極力少なくする経営手法を取ることになる。具体的には、正規職員を最小限に抑制し、経営状況に応じて調整可能な非正規の職員を中心に稼働させる体制を組んで対応する体制が一般化」(横山論文、54ページ)することになります。

 福祉の市場化は公務の市場化とあいまって進みます。城塚健之氏は、「事業仕分け」人気などに見られる、市場化イデオロギーをめぐる問題状況を鋭く指摘します。「国民の多くはいまだに『官は悪く民は良い』との幻想にとらわれている。その根は相当深く、一朝一夕に克服できるものではない」(城塚論文、62-63ページ)としながら、「民」への幻想を斬ります。「民間に委ねる方が安上がりになるのはなぜか。それは、とりもなおさず、民間企業が低賃金労働者を使用することが当然の前提とされているからにほかならない」(同前56ページ)。また城塚氏はNPOそのものの意義は認めながらも、その体制的利用には警告を発しています。

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 そもそも、このような非営利団体がもてはやされるのは、市場原理が人間社会のあらゆる領域を覆い尽くすことが原理的に不可能なために、営利の対象とできない分野が取り残され、その間隙を「善意」で埋め合わせていくことが求められるからである。政府がNPOを積極的に推奨しているのも、新自由主義が必然的にこうした非営利団体を必要としていることの証左である。

 さらに問題なのは、こうした「善意」の領域においては、労働者としての権利を保障しなくてもいいかのような議論がなされていることである。     60ページ

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 市場と政府とをともに「市民社会」の力で相対化する、というのが市民主義の基本戦略であり、それ自身は優れた発想だといえますが、それは常に、強力な資本と国家との権力を背景にした新自由主義(「小さな政府」「自由な市場」という外観よりも、強力な資本と国家権力こそが新自由主義の本質である)に絡めとられる危険性と紙一重であることも忘れてはなりません。労働者の尊厳という階級的観点がそうした陥穽を避けさせます。

 こうして城塚氏も金澤氏と同様の結論に至ります。

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 まともな福祉を実現するためには、労働者が誇りを持って長く安心して働き続けることのできる賃金労働条件を保障すべきは当然である。この点、ワーキングプアの存在を前提とする市場化はとんでもないと言わざるをえない。       63ページ

 

 こうした考え方は、コスト削減を至上命題ととらえる資本の論理とは矛盾するかもしれない。しかしながら、人件費をコストとしかみない企業は「人材」を保有することはできない。それはその企業の競争力を削ぐことにもなろう。それどころか、労働者が疲弊しきっては国民経済すら維持できなくなる。    63-64ページ

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 議論の射程が国民経済まで伸びたところで、現代資本主義の過酷な現実の描出を、福祉の現場から製造業の現場へ移しましょう。ここでは中小企業もグローバル競争に直面します。井内尚樹氏は東アジア各国の製造業の展開が日本に追いつき追い越しつつある実態を紹介しています(前掲井内論文、62-65ページ)。私たちは日本経済にとって容易ならざる事態に直面しています。これはそもそも日本企業が「品質・価格・スピード」を限りなく追求してきた姿勢が東アジア全体に普及したものであり、今では日本・韓国・台湾・中国などが「首のしめあい」状態に陥っています。井内氏は「国際的な競争から国際的なネットワーク」への転換が必要だとしています(65ページ)。この転換には日本における生産方法などの転換が必要であり、それを目指すために井内氏はトヨタのコスト削減政策と下請中小企業の生産工程の革新とを分析しています。

 トヨタのコスト削減の凄まじさについては、ここでは措きます。それに応える中小企業の側では、外国人研修生利用などの悪名高い人件費削減なども行なっていますが、それだけでなく生産工程の革新も進んでいます。そこでは、工程ごとのスピードを上げるだけでなく、一部の工程飛ばしさえも実現して、生産性の大幅上昇と製品価格の大幅引き下げを品質も上昇させつつ可能にしています。経済学の論文としては、直接的生産過程に踏み込んだこの部分がハイライトともいえ、福祉の現場とは違った製造業の現場の生産性上昇のあり方を捉えています。この中小企業の努力は社会的に意義が高いわけですが(歴史貫通的視点からも高く評価できる)、その成果は大手取引先がコストダウンとして吸い上げるだけで、当該企業への還元が少なく、逆にさらに過酷な要求となって返ってくるのが実態です。そこでさらなるコスト削減のために海外移転せざるをえない企業が出ています。つまり空洞化の問題の中心は法人税率などではないのです。

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 少なくとも、ここでの問題から明確なことは、中小企業が海外移転しないようにするには、トヨタ自動車などが実施している、部品生産中小企業に対する大幅なコストダウンをやめさせることである。

 そして、この間の大幅な原価低減などで生み出した内部留保を、下請部品企業とその従業員、非正規労動者、期間工などの正規雇用化、派遣、非正規、正規従業員を問わず、大幅な賃金アップを実施することが、最重要だということがわかる。  76ページ

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 ところでこのように画期的な生産工程の革新ができるのは、中小企業の中でも数工程を持ち資金力もある一部の中規模企業だけであり、単一の工程しか持たない圧倒的多数の小・零細企業には事実上不可能です。しかし日本の製造業はこうした企業によっても支えられているのであり、切り捨てるわけにはいきません。ネットワーク化の追求とともに、6月18日に閣議決定された「中小企業憲章」の精神にのっとって、政策的援助を強化すべきでしょう。

 蛇足ながらここで中小企業の生産工程革新を価値論的に考えるとこうなります。画期的な生産工程革新による生産性上昇=個別商品価値の低下は歴史貫通的には労働時間の節約=自由時間の増大となります。それは資本主義的形態においてはまずは特別剰余価値の取得として表現されますが、下請会社に発生したそれが親会社によって収奪されます。革新的生産工程が一般化すれば、特別剰余価値は解消しますが、小・零細企業の広範な存在はこの工程の普及を困難にするので、親会社は国内での特別剰余価値の収奪を続けつつ、この工程のグローバル展開を図り、国内の小・零細企業を切り捨てるような見通しではないでしょうか。ここでは労働者と中小資本家が本来享受すべき所得と自由時間の増大は見失われます。

 またこの生産工程革新は、中小企業が一方では事業環境の悪化に強制されつつ、他方ではそれとは相対的に自立した・生産過程そのものに対する不断の工夫と努力によって実現されています。ここには労働の本源性と疎外性とが表裏一体に存在しています。資本主義的には主に強制の側面が重視され、それを促すグローバル競争が賛美されますが、生産過程そのものへの内在がもたらす発展への努力をいかに評価し伸ばしていくか、を私たちは追求せねばなりません。

 井内論文は次いでドイツのフライブルクの地域経済を紹介しています。「環境都市」として知られる同市は、反原発政策を起点に代替エネルギーに力を入れるのみならず、民主的規制を駆使して、住宅・商業・交通などの政策を総合的に展開しています。

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 フライブルクは大型店が進出できないような都市であり、地域商業、建設業、観光業、農林業など、産業的には中小企業型地域経済が構築されている。まさに、まちづくりとものづくりが相互作用し、人間発達させながら、地域経済を総合化しているのを見ることができる。         81ページ

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 日本経済は、投下労働の一部が価値実現されない・一種の飢餓輸出体制としての「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済に陥っており、その解決には国内での価値実現を保障するような「地域内経済循環力」をつけることが必要だ、というのが私の仮説です(拙文「『経済』2010年2月号の感想 日本の労働生産性は低いか」)。フライブルクの地域経済はまさにそうした先進例だと思われます。

 井内氏は、今日喧伝される「アジア経済の追い上げと日本経済の対応の遅れ」という問題に正面から取り組み、アジア経済の現状と日本製造業の最先端の現場に踏み込んだ分析を敢行して、財界本位の政策とは違った方向を追求したことは大いに評価されるべきだと思います。またフライブルクの地域経済の紹介もオルタナティヴの提示としてきわめて重要です。今後の課題としては、(1)人間を食いつぶして進む資本のグローバル競争をいかに規制するのか、(2)生産力の最先端領域としてのグローバル競争を担う分野と、それ以外の人間生活の領域に密着した地域経済的分野とが、国民経済の中でどのようなバランスを取っていくのか、その構築は如何に、ということになります。井内論文に現われた、グローバル製造業の圧倒的な力=厳しい現実と、フライブルク地域経済の先進性という両極が矛盾しつつ、しかしながら適当に折り合いをつけつつ、新たな経済社会を築いていけるのか、が問われます。

 外需依存型経済から内需循環型経済への転換では、多国籍独占資本に対して他の様々な経済主体の活躍の場が相対的に広がります。静岡県定置網漁業協会専務理事の山本浩一氏は漁業のあり方についてマル経的に説明しているので、私にとってはわかりやすくなっています。それによれば、漁業生産は現代の資本にとっては有利な投資先ではなく、大水産会社はもちろん地元漁業資本も撤退しつつあります。「このまま行けば、漁業生産の現場から地元資本が退場し、その後、すべての資本が退却しそうにも思えます。本腰を入れて、地元の協同資本、自営業者、そして労働者階級が漁業生産を支えなければならない時代が来るかもしれません」(「しんぶん赤旗」8月23日付)。

 資本は<C+V+M>を確保しつつ<M>を増大させることが至上命令です。ところが低成長期の新自由主義的資本主義では、<C+V+M>を増大させるよりも、<C+V>を縮小して(コストカット)<M>を増大させる搾取・蓄積様式が主流となっています。いわゆる「官から民へ」が意味するのは、基本的に<M>が成立しない公共の領域に、この新自由主義的蓄積様式を無理やり確立させようとするものです。「官から民へ」の「民」が指すのは民間大資本ですが、そうではなく本来の「民」として、中小資本あるいは農民・都市自営業などの小経営を含めて考えれば、ここでは<M>は大資本に比して非常に少ないか成立しないか、という状況です。しかしこれらが国民経済の中で一定の部分を占めているわけで、本来の「民」の中では必ずしも<M>の追求が主流とは言えません。零細自営業層においてはそもそも<V>が十分に成立しない状況の中で国民経済の重要な一角を担っています。もちろんそれは健全なことでないとはいえ、このように「不効率な」経済セクターをも含めて国民経済が成立しているのが実態です。それを無視して公共の領域にも、「官から民へ」のかけ声とともに民間大資本の新自由主義的蓄積様式を持ち込むのはまったく倒錯しています。現代の資本は上記のように漁業生産のような明らかに社会的に必要な部面からも撤退しているのです。資本の論理を国民経済全体に貫徹するのではなく、逆にまず新自由主義的蓄積様式は排して、さらには<C+V+M>の中の<M>が十分に成立しえないか、まったく成立しえない部面をも含めて国民経済が安定的に発展できる経済政策を実施することが必要です。

 もちろん現代の生産力発展の中枢を担うのは<C+V+M>を十全に実現できる大資本であることは疑えません。歴史貫通的にいえば、<M>部分は生産拡大の元本であり、労働できない人々の生存権の保障とか、社会全体の利益に活用すべき部分です。ところが<M>の資本主義的形態にあってはその増殖が自己目的化され、さらには上記の新自由主義的搾取・蓄積様式においては<C+V>を圧迫してまでその増殖は追求されます。下請単価や賃金の切り下げという形です。今日の大資本の社会的責任というのは、歴史貫通的課題に相当する部分への支出を確保しつつ、<C+V>への圧迫をなくし、<M>増殖を適切にコントロールすることです。

 その際、具体的には内部留保の問題が見逃せません。今日、大資本の抱える過大な内部留保が国民経済停滞の重要な要因となっています。ところが帝国データバンクの企業アンケートによれば、法人実効税率が引き下げられた場合の使い道は以下のようになります(「しんぶん赤旗」8月18日付)。

   内部留保:25.6%  

   借入金の返済:16.8%  

   給与や賞与の増額による社員への還元:15.5%  

   設備投資の増強:12.7%

 結局企業は保身に走り、国民経済に資する姿勢は少なくなっています。このことは資本主義的競争とは何かということを考えさせます。市場一般の競争であろうと資本間競争であろうと、効率を高め生産性を上昇させて社会発展に役立つということが当り前のごとくに言われてきました。競争そのものに批判的な人々の間でもそれを否定することは少ないと思います。ところが今日のような経済停滞の中では、資本間競争が生産を発展させる役割よりもひたすら企業防衛を強化する役割を果たしているのが実態のようです。内部留保を吐き出して国民経済の発展に役立てよ、といくら言っても、首をすくめて出てこない状況がよくわかります。停滞した資本主義経済はもはや内発的に競争によって発展の道を切り開くことは困難であり、企業行動を政策的に規制・誘導し、また内需型経済政策への転換で国内景気を回復させるというお膳立てが必要ではないか、と思われます。

 

 

         個人の尊重 流されない価値観と学問

 8月15日、NHKドラマ「15歳の志願兵」を見ました。1943年7月5日の決起集会で愛知一中の3年生以上の生徒全員が戦争に行くことを決めた事件を軸に「国家の戦争推進政策のもとで、人がどう生きたかという事実、同時にいまどう生きるかという問いかけ」(「しんぶん赤旗」8月15日付)を含んだ作品です。

 海軍甲種飛行予科練習生の募集に冷ややかだった愛知一中生が、時局講演会を受けて全員決起に至る舞台裏や、その後の生徒・家族・教師たちの葛藤が見事に描かれていました。ドラマのテーマはラストシーンに鮮烈に現われています。戦後、主人公の少年は、文学への夢を断ち切って戦争に志願し亡くなった友人の母親から尋ねられます。自分に学問がなかったから息子の気持ちがわからなかったのか、学問がなかったから息子を救えなかったのか、と。主人公は答えます。いいえ違います。学校は僕たちに死ねと教えました。学問がなかったのはこの国です、と。

 このラストに勝るとも劣らぬハイライトシーンがあります。福士誠治演じる配属将校による時局講演会での強烈なアジテーションです。校長による型通りの話には心動かされなかった生徒たちも、将校の熱弁には吸い込まれていきます。彼はまず、自分はこれから何年もいや何ヵ月も生きるつもりはない、と聞くものを圧倒し、次いで生徒たちの本音に切り込んでそのエリート主義を衝きます。知識を鼻にかけて軍事教練などを馬鹿にしている者もいるだろうが、ではこの戦争に勝てる方策があるのか、それに答えられない学問など役にたたない、そして国なくして個人はありえない、国と天皇のために戦えと畳みかけます。生徒たちが誇りとする学問を命とともに捨てる覚悟を迫るのです。次いで平田満演じる教師が、ノモンハンの戦いでソ連軍に物量で圧倒され孤立無縁であった体験を語り、これから戦場に応援に行く者はいないのか、と訴えます。戦場での全滅が「玉砕」として美化され全国民に死ぬ覚悟が強いられていた中では、これら講演はいずれも生徒たちの危機感と使命感を異常に煽り戦場にいざなうものとなったでしょう。

 今から思えば異常としか言いようがない状況ですが、「その危うさは今も脈々とわれわれの社会を覆っているんじゃないか、これはぜひドラマにしてみたいと思」った(「しんぶん赤旗」8月4日付)のが脚本家の大森寿美男氏です。「その時代の空気感、臨場感を強く出したい」。「今からでは信じられないような状況がリアルと感じられるまで描くことが、ドラマを作る価値だろうと思ったんです」(同前)。それは確かに成功しました。現代に通じる点については…… 「僕らも社会の価値観の中でいや応なく生きてるんだけども、それに左右されない自分の価値観をどうやって見つけていくか。私はこう思う、というのを強く言える。自信がないから言えないというのが大半だと思うんですね。みんなと一緒というのは安らぎでもあるし怖さでもある。流されないためには自分で学問をしていくしかないわけです」(同前)。

 今日も北朝鮮脅威論や中国脅威論が煽られ日米軍事同盟の強化が喧伝される中、いつの間にか戦争へと向かう異常を異常と感じられなく危険性はあります。ただそのような問題の前に、経済を見ればすでに異常がまかり通っているのではないでしょうか。ドラマにおける愛知一中の配属将校の主張を私なりに解釈すればこうなります。<絶望的な戦況をしっかり見つめよ。これを打開する甘い見通しはない。そこではもう生半可な学問は役に立たない。もはや前進あるのみ。ならば個を捨て国の大義に殉じるしかない>。要するに万歳突撃を合理化する論理でしょう。現代の資本主義も個人に万歳突撃を強いているのではないか。

 商品経済は個の自立・尊厳を実現し、商品経済から生じた資本主義経済もそれを前提にしています。個の自立・尊厳はブルジョア・イデオロギーの中核であるのみならず、人類が発展的に継承して行くべき原則でもあります。しかし資本主義は搾取制度である以上、そこに生きる個人は形式的・商品経済的には自立していますが、実質的・資本=賃労働関係的には従属しています。さらに今日の新自由主義的グローバリゼーション下では未曾有の搾取強化によって、労働力の価値以下の賃金が広く普及し、労働時間を初めとした労働条件も際限もなく悪化し、個人の自立は事実上広範に喪失しています。まともな人間的感覚からすればこのような異常な社会は変革されねばなりませんが、現代の君主たる資本は決してそれを許しません。個人から見れば劣悪な状況に対して、<それから目をそらさず現実を認め、これは必然的過程なのだから他の道はありえず(泣き言を言って何か代案があるかのようなことも主張されるが、それは甘っちょろい空想に過ぎない)、個を空しくしてグローバル競争の大義に殉じるしかない>と。これが現代の価値観であり、異常を異常として認められないという点では、かつての戦時日本と共通しています。

 軍国主義時代を描いたドラマが現代人の生き方への問いかけにもなっている、という制作意図に刺激されて、私としては以上のように考えてみました。この状況とその価値観に左右されない自分の価値観を確立するために、私たちの学問があり、それはエリート主義的なものではなく、万人に開かれていなければなりません。「学問がなかったのはこの国です」という終戦直後の少年の叫びは、現代の私たちの叫びでもあるはずです。かつて少年たちの心をとらえて、個人の幸福・命そして学問を捨てさせた配属将校のアジテーションは、今は政府・政党・マスコミなどの言説に形を変え、まずは経済において、やがては戦争においてさえも同じことを実現しようとしています。それを許さず巻き返すために私たちはもっと人々の心に届く言葉を琢かねばなりません。

 すでにアメリカでは新自由主義下での格差と貧困の拡大で、多くの若者たちが軍隊にいざなわれています。競争を中心とする人間観はかつては個の自立を確立する役割を果たしましたが、今はこの否定を意味します。競争の主体が人間から資本に転回しているからです。人間が自由に競争しているように見えて、実は資本が主体となって人間を手段として競争しているのです。現代資本主義経済が高唱する競争主義は経済的な人間否定を通じて、より直接的な人間否定である戦争につながっています。貧困が若者の軍隊への入隊を後押しするという<経済→戦争>の構図はいかにもわかりやすいのですが、その根底にはこのような「現代資本主義の精神」そのものがあり、したがってアメリカだけの問題ではなく日本や世界に生きる人々を脅かしていることを見落としてはなりません。

 話は変わりますが、大相撲の野球賭博問題を見ると、価値観と学問(知性)とが車の両輪であることが想起されます。暇があればギャンブルに興じている力士たちに、社会常識や教養を身につけさせようという意見がよく聞かれます。それは間違いではありませんが、私たちの社会はそのような説教をする資格があるのかということを反省しみることも必要ではないか、と思います。かつて大蔵官僚はわが国における最高のエリートでした。しかし大蔵省のスキャンダルにおいては「ノーパンしゃぶしゃぶ」とかが話題になりました。同じころでしょうか、テリー伊藤氏が大蔵官僚の本音を集めた本を出していました。その中で彼らは自分たちの知性と能力がいかに高いかを誇りつつ、週末には京都に行って最高の物を食べて最高の女を抱いてくる、などと言っていました。この品性下劣さは普通に生きている庶民とは比べ物になりません。大蔵官僚のごとき中途半端な連中でなく、世界最高のエリートたちはどうでしょうか。近年、アメリカの金融機関の企業戦士たちがその最高の頭脳により金融工学を駆使してやったことは、世界市場での大博打であり、その結果、世界人民に多大の苦難を押しつけました。野球賭博の力士どころではない最低の野郎たちです。

 まともな生き方と社会のあり方とを追求する価値観がないところでは、教養・知性・学問は腐敗や暴走の僕(しもべ)と成り果てます。大相撲の野球賭博問題についても、自分たちとは関係ない「無教養な相撲馬鹿」の仕業だというような、傲慢で見下した姿勢は誤りであり、私たちの社会を覆う価値観の危うさの一部だと受け止めるべきではないでしょうか。


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