月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2007年)。 |
2007年1月号
経済学の第一の課題は、労働力の再生産を基軸とする社会的再生産のあり方を明らかにすることではないかと思います。資本主義経済においては剰余価値の追及を手段として、社会的再生産という目的が達成されます。このように言うとそれは逆ではないか、と反問されるかもしれません。資本の目的は剰余価値追及であって、社会的再生産は結果として達成されるにすぎない、あえて言えば、資本にとっては社会的再生産もまた剰余価値追及の手段にすぎない、と。しかし歴史貫通的な社会的再生産の観点から言えば、悠久の経済社会の流れの中で資本が主人公であるのは歴史の一時期だけであり、資本は社会的再生産という内容を破壊しない限りで存在できる形態(社会の外皮)にすぎません。自己が活躍する社会(資本主義社会)との関係において、資本が自己を主人公と感じるような自己認識を持つのは根拠のあることです。しかし人類史全体を貫く社会の立場から見れば、資本という存在もまた人類史が展開するのに必要な一時期の社会のあり方にすぎません。つまり資本は資本主義社会において人間と社会を支配する主人公ですが、長い目で見れば歴史のしもべです。しかし新自由主義的グローバリズムという形を取った資本はそのことをわきまえずに、自然・社会・人間(労働力)を破壊しつつあります。日本においては、出生率の劇的低下や自殺人数の高止りという明確な結果を残しています。労働力の再生産を基軸とする社会的再生産のあり方が崩壊しつつあるのです。内容を破壊する形態は廃棄されねばなりません。しかしこの形態に固執する者は資本の自由を喧伝します。資本の自由は人間の自由を抑圧するのですが、両者を混同するのがブッシュの演説と俗流経済学です。資本主義の黎明期にあっては両者は一致し、封建的抑圧と闘っていました。ブルジョア経済学が俗流経済学に転落するのは両者の不一致の後も資本の自由という形態にこだわったときからではないでしょうか。アダム・スミスの時代とは自由競争の意義が逆転してもその内容を看過して自由競争命題だけを金科玉条とする新自由主義を私はブルジョア教条主義と呼んでいます。
屋嘉宗彦氏の「スミスの『資本投下の自然的順序』論と自由貿易論」は、スミスを新古典派したがって新自由主義的グローバリズムの祖とすることを拒絶して、社会的再生産の立場から見た論稿ではないか、と私には感じられます。
スミスは「一国ごとの均衡のとれた健全な産業構造を前提として国際経済の編成を構想しているのであり、その主張の根底には『資本投下の自然的順序』という経済発展の自然法則とでもいうべきものが据えられ、人間の自然的性向が妨げられることなく発動されれば、この法則が実現されるという論理を展開するのである」(160ページ)。「重要なことは、スミスが人間の自然的性向=資本の安全と利潤を追及する利己的行為に経済発展の究極的根拠をもとめるのではなく、『ものごとの順序』という客観的な経済発展の法則を措定し、そこから制度および人間の行為そのものの是非を議論できる視点を保持しているということである」(160-161ページ)。
おそらく近代経済学の視点からすれば、「『ものごとの順序』という客観的な経済発展の法則」などという「形而上学」を排して、諸個人の利己的行為から出発する方法的個人主義に純化するのが「科学」の発展である、ということになるのでしょう。しかしそれはスミスの捉えようとした本質論から俗流経済学の現象論への後退であり、「労働力の再生産を基軸とする社会的再生産のあり方」を放擲した資本の姿の反映と言えましょう。
スミスは重商主義政策による「人為的高利潤に導かれる資本配分の歪み」(158ページ)を批判しています。現代における「人為的高利潤」の最たるものは、エンロンやライブドアによる粉飾会計であり、さらにはそうした虚業の基盤となっている金融肥大化・マネーゲーム・カジノ資本主義が資本配分を歪め社会的再生産を破壊しています。こうした現代資本主義の問題点を第二次大戦後まで遡り、70年代での変質を画期に今日まで大きく総括したのが、井村喜代子氏の「『現代資本主義の変質』とその後の『新局面』」ということになりますが、私の手には余りますので、90年代半ば以降の金融政策と日米関係にしぼってきわめて興味深い分析を行なっている松本朗氏の「日米関係からみた日銀の超金融緩和政策」を取り上げてみたいと思います。
「中央銀行が行う金融政策は、物価の安定を主軸としつつ、雇用と景気の維持を目標とする国内面と、外国為替相場の安定と国際収支の均衡を目指す対外面という二つの側面をもっている」(100ページ)。そこで松本論文は「『対外的な面』からの『量的緩和政策』の評価を試み」「九○年代半ば以降の金融政策と日本経済の対外的側面を対象にしながら叙述を進めてい」ます(101ページ)。しかしそれは対外的側面のみならず、日本国内におけるホリエモン=村上現象のような株主資本主義・投機経済の基盤をも解明することにつながっていきます。外国も含めて例外なく開かれた市場こそが透明で公正で効率的で正しく機能する、という新自由主義の信仰がいかにナイーヴなものかということは、アメリカ帝国主義が支配する現実の世界市場を見れば一目瞭然となります。
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周知のように、九○年代以降アメリカの経常収支の赤字は急速に拡大し、その拡大の持続に大きな懸念が提起されている。こうした経常赤字拡大は、同時に、アメリカの景気をも下支えしている対米資本流入によって、維持されている。…中略…しかし、九○年代以降のアメリカの国際収支の特徴は、経常収支を遥かに超える資本収支の黒字(資本流入)と、その資本収支の黒字に見合う対外投資(資本流出)で説明され、アメリカがグローバル経済において「金融媒介機能」の中軸としての地位を確保したことを想起させた。このグローバルな資金循環のパターンは、「現代の帝国循環」と呼ばれている。 106ページ
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こうした「現代の帝国循環」の中で「日本の超金融緩和政策は、経常収支黒字を遥かに超える規模でアメリカへの資本供給の役割を果たし、円高抑制と米国の景気浮揚に貢献したのである。…中略…超金融緩和政策による過剰な貨幣資本の創造が、金融資本に対するグローバルな投機的金融資産の供給になったと結論することができる」(107ページ)。松本論文によれば、垂れ流された赤字ドルをアメリカへ資本還流させるのを支えていたのは日本政府によるドル買い介入です。この介入の時期にはアメリカによる対日金融資産も増加しています。対米経常収支黒字によって積み上がったドル資産の一部がドル売り円買いによって日本の金融資産に投資されたということです。「累積経常収支黒字とその裏返しとしてのドル資産の累積が日本国内へ流入する投機的な資本の源泉であり、そしてドル相場を維持する介入政策(ドル買円売)が投機的資本の日本流入の基礎条件となっていることが推測できる。国内の資本市場の投機的な価格変動(いわゆるミニバブル現象)の対外的な要因はこのように捉えることができるだろう」(110ページ)。
こうして「現代の帝国循環」に取り込まれることで一方では日本資本主義のカジノ化が進みますが、他方ではドル資産の累積とともに進行する円高ドル安によって、日本の生み出した価値がアメリカに吸い上げられることになります。その額については様々な評価がありますが、たとえば外国為替特別会計では、2005年度末残高で11兆5000億円あまりの累積評価損が計上されています(113ページ)。日本の働く人々がわずかな所得を対価として差し出した莫大な労働の成果は、一方では内外の投機家に、他方ではドル帝国にさらわれてしまうのです。壮大な不等労働量交換。これを可能とする舞台が「透明で公正な開かれた」市場です。
なんだか書いていることがいつもいつもいつも怒りばかり。これも現実の反映ではあろうけれども、きちんとした現状認識ができなくなる恐れあり、と自戒するが…
2006年12月4日の朝日新聞夕刊では年間の論壇が回顧されています。そこでは保守主義・国家の問題と格差・貧困の問題という二大テーマが主に取り上げられています。前者については、「伝統と改革の間で揺れ動いているようにみえる安倍首相」の政権の性格をどう捉えるか、が問題とされています。「伝統と改革」とは正確に言えば、「反動と新自由主義」であり、私としては「グローバリゼーションと愛国心・公共性」という一文で、ナショナリズムと新自由主義との関係として論じました。「朝日」夕刊の論壇回顧では、佐伯啓思氏がネーション(国民の文化的伝統、歴史、精神)とステート(国家)を区別して前者の立場を支持し、安倍政権が小泉政権を継承して後者の立場にあるとして非難していることが紹介されています。次いで樋口陽一氏が佐伯氏とは反対の立場から、ネーションとステートを問題にし、グローバル化の中でステートの本来の重要性を主張していることが紹介されます。しかし同じステートといっても、佐伯氏が非難しているのは新自由主義的国家としてのステートであり、樋口氏が擁護しているのはブルジョア革命の意義を継承した市民国家という意味合いのステートでしょう。だから樋口氏が佐伯氏とは反対のことを主張しているからといって、小泉(安倍)政権の立場に一致しているわけではありません。あえて図式的に言えば、小泉(安倍)、佐伯、樋口はそれぞれ新自由主義、反動、市民主義の立場にあり、樋口氏が一番まともですが、いずれも階級性抜きに国家を論じているのは特に今日でははなはだリアリティを欠くと言わねばなりません。なお前記拙文では階級性と公共性との関係を踏まえて論じています。そこではネーションとステート(新自由主義的国家)の区別は、伝統的共同体的ナショナリズムと競争国家的ナショナリズムとの区別に反映されています。
11月27日付け「朝日」の「小林慶一郎のディベート経済、首相の保守思想と市場主義」では「安倍政権は、憲法や教育の問題では、保守的なスタンスを取ると同時に、経済面では市場主義的な改革を続ける姿勢を示している」と評しています。この記事で展開されている小林氏の新自由主義=ブルジョア教条主義そのものを批判することも興味深いのですが、時間がないのでそれは措きます。ここでは新自由主義の立場からも「伝統的な保守の思想」による補完を歓迎する姿勢がはっきり表明されていることが確認できれば十分です。実はこうした姿勢は一経済学者のものだけでなく、財界も共有しています。日本経団連の「御手洗ビジョン」は憲法改悪や愛国教育なども含み、安倍首相の「美しい国」路線にすりよっています(「朝日」夕刊12月11日)。このもたれあいを安倍首相の側から見てみましょう。信条や経歴からすれば彼は強固な保守反動右翼であり、本来は新自由主義とは相容れませんが、対米従属というおもしを疑いもなく抱え、多国籍企業化した日本財界の後押しを受ける以上、適当なところで新自由主義との折り合いをつけて、支配層の番頭としての「理性」を発揮せねばなりません。人民の生存権の否認という本質の故に、社会統合の原理を欠く新自由主義をナショナリズムで補完するという危険なバランス操作を安倍政権は期待されているということでしょう。
小林氏は「市場自身の発展によって市場の欠点を正していく。それを助けるのが政治の役割だ」などとまったく現実を無視して市場の自己完結性を強弁しています。しかし実際には新自由主義自身はそれが生み出す無数の問題点を解決することが不可能だからこそ、「伝統的な保守の思想」に助けを求めねばならなくなっているのです。佐伯氏は反動側からの新自由主義批判としてネーションとステートを区別していますが、新自由主義者は佐伯氏の愛するネーションをも彼らのステートによる支配構造に組み込み利用しようとしているのです。ここに来て日本の支配層のイデオロギーは<新自由主義+ナショナリズム>であり、私たちは<経済民主主義+政治的自由主義>で対抗することになります。先ごろ残念ながら強行された教育基本法の改定にもこのような二重の対抗図式ははっきりと見て取れるところであり、その延長線上に日本国憲法をめぐる闘争が展開されます。
「朝日」夕刊の論壇回顧のもう一つのテーマは格差・貧困です。ところで「朝日」論壇時評などのブルジョア・ジャーナリズムからは無視されていますが、『経済』2006年4月号の論稿の続編として2007年1月号にも友寄英隆氏の「大企業が『景気回復』を謳歌するもとで、所得格差はいっそう拡大しつつある」が掲載され、格差問題を簡潔に解明しています。「巨大企業役員の報酬と中小企業労働者の賃金の格差は、九○年代末ごろから急速に拡大しつつあったが、二○○四年度から○五年度にかけて、とりわけ拡大している」。「格差拡大の原因は、今期の『景気回復』のもとで、急速に役員報酬が増大しているのにたいして、賃金は逆に低下し続けているからである」(120ページ)という特徴点と結論は格差問題の本質を衝いており、近代経済学者たちのジニ係数を用いた繁雑な論争から見ればコロンブスの卵とでも言えそうです。これは格差というものを市場における諸個人間の問題として捉えるのか、階級間の問題として捉えるのか、という違いから来ます。後者の観点を生かすために法人企業統計という有用な分析用具が見い出されたことが重要なのでしょう。現状分析のためには正しい理論と適切な技法との両者が必要となります。
もちろん私もジニ係数による格差分析そのものを否定はしませんが、その限界については「平成一八年度年次経済財政報告」(経済財政白書)にさえも非常に興味深い指摘があります。この白書は全体としては格差問題についての見苦しい弁解に終始していますが、貧困化の深まりを指摘せざるを得なくなっている部分があります。白書では「全国消費実態調査」を使って単身世帯・二人以上世帯・(前二者を合わせた)総世帯のそれぞれについて細かくジニ係数の動向を見ています。詳細は省きますが、総世帯では1999年から2004年にかけてわずかながらジニ係数が低下しています。単身世帯では特に低下しています。格差縮小!! 政府としてはここまでにしたいところでしょうが、白書は正直にタネ明かしをしています。所得分布を見ると平均値・中央値ともに低くなっており、その山に集中したことで格差が縮小したのです。一部の「勝ち組」以外は「みんなで平等に貧しくなった」というのが真相です。「朝日」夕刊の論壇回顧では「格差より貧困の議論を」という論調が強くなったと指摘していますが、政府の白書からもそれは裏付けられるのです。
以上は、格差・貧困論議における経済理論と統計分析という問題です。実はそのさらに先に貧困の現場に踏み込む、という課題があり、そこからはまさに社会科学の存在価値を問う問題提起が沸き起こってくるのです。『経済』2007年1月号の都留民子氏の「失業者たちは『失業』をどうとらえたか 大牟田市・失業者の面接調査から」は実にざらついた論文で私のようなやわな胃袋では消化しきれません。所得・資産のように統計で客観的に分析できるものではない、失業者の意識やその生活の全体像を何とか捉えて、外からの押し付けや先入観を排して「紋切り型の失業者像や失業対策を修正する」(130ページ)という論文の意図には共感できます。それが焦点を結んでいるのかどうかは私には分かりませんが、「仕事はないが文化に親しむ精神的余裕を失っていない人々」(146ページ)を見る目などに、経済主義を超えたこの先の研究の発展方向があるように思います。
アカデミズムの外にある、貧困と闘う現場から鋭い論稿が登場してきました。2006年において私としては寡聞にしてこれより優れたと思える論文は読んでいません。湯浅誠氏の「『生活困窮フリーター』たちの生活保護」(『世界』2006年12月号)、および同氏の「格差ではなく貧困の議論を」上下(『賃金と社会保障』No.1428-1429 2006年10月下旬号、11月上旬号)です。論壇においても一致して注目されているので私の評価も単なる独断ではなさそうです。貧困概念の拡張、それに対応した「貧困ビジネス」概念の提起、自己責任論の根本的批判など、青年層の貧困と対峙する現場の実践を踏まえて、社会科学全体への問題提起に満ちた論稿です。新自由主義との対決はまずは先端産業や多国籍企業といった社会のトップ領域で展開されているのですが、ビジネスチャンスという名の搾取領域は貧困層相手にも及んでいます。貧困ビジネスには、消費者金融、派遣・請負業、賃貸借外入居契約、保証人ビジネス、フリーター向け飯場、住所不定者向け無料定額宿泊所などがあります。グローバリズムは世界の人民にボトムへの競争を強要し、そうやって生み出された貧困層をめぐっても利潤追及の資本と自立支援のNPOとが対決しています。嗅覚鋭い資本から私たちは学んで克服することが求められています。これではさっぱり紹介にもなっていませんが、社会について考える人、社会変革を目指す人にとって湯浅論文は必読であることを強調して、疲れたのでこれで終わります。
終わると言っておきながら、もう少し。グローバリゼーション下での新自由主義とナショナリズムとの対立的共存という状況を受けて、政治と経済を含めて、<新自由主義+ナショナリズム>VS<経済民主主義+政治的自由主義>というイデオロギー的対抗図式を私は掲げましたが、抽象的に繰り返しているという感を免れません。斎藤純一と坂口正二郎という憲法学者と政治学者による対談「誰にとっての『自由』なのか」(『世界』2007年1月号)は、政治問題を中心として具体的で興味深い議論を展開しており、私としても問題意識の一定の共通性を感じて大いに参考になります。
2007年2月号
1月8日付「しんぶん赤旗」の友寄英隆氏による「経済時評」-「『御手洗ビジョン』の現実認識」では、財界は一種のユーフォリア(陶酔的熱狂)状態に入っている、と指摘されています。一読したところでは、いくらなんでもそこまで酷いかな、と感じたのですが、ひょっとするともっと酷いかもしれないとも思い直しました。かつての経団連は「総資本」の立場から国民的課題もある程度見えていたけれども、現在は多国籍企業化した「勝ち組」資本という特定の利益集団にとって都合のよい現実しか見えない、というのが友寄氏の説明です。「御手洗ビジョン」の言いたい放題ぶりからすればまさにそのとおりです。
私なりに言い直せばこうなります。資本は剰余価値追及・資本蓄積を目的としますが、それを通じて結果的には社会的再生産を担っています。大企業減税・消費税増税・社会保障削減・ホワイトカラーエグゼンプション導入などの財界流の身勝手な要求はひたすら資本の目的には奉仕しますが、労働力の再生産の縮小などを通じて社会的再生産を危うくします。このような資本はもはや国民経済の担い手ではありえなく、本来は現在という歴史の一段階にとどまることは許されません。
「経済学でいうユーフォリアとは、景気循環の繁栄局面の頂点で、資本のもうけが最高水準に達したときに、資本が陥る『夢幻境』の局面をさしています」。ということは、元来ユーフォリアは循環論が対象とする現象だということです。日本経団連はしかし景気後退の局面を迎えても果たして反省するのだろうか。かれらのユーフォリアは新自由主義的グローバリズムに対応した新たな構造的現象ではないでしょうか。それは過信とともに、大競争に備える強迫観念からも由来します。「俺様は手前勝手な要求をして当然な御身分であるのみならず、それをしなければ転落してしまうからこそ要求しているんだ!」
日本資本主義はバブル崩壊後の長期不況を克服してバブル期を上回る高利潤を実現しています。低成長下でのリストラ型の蓄積基盤を形成することに成功したからです。「格差景気」はまさにその必然的現象形態です。2005年の小泉・郵政解散総選挙では、マスコミを取り込み人民を欺いて大勝利しました。支配層内における一部の懸念を振り切って賭けを成功させ、政治的・イデオロギー的に新自由主義の制覇を実現したのです。まさに日本財界は小泉政権によって階級的使命を自覚的に貫徹しました。経済的土台から上部構造・イデオロギーにまで至るこの成功こそがユーフォリアを生んだのではないでしょうか。
しかしこれは「砂上の楼閣」状態と紙一重とも言えます。人民の生存権の否認と社会的再生産の破壊という根源的問題をはらんでいるのですから。それが糊塗されてきたのは分断された人民の幻想と忍耐に負うところが大きいといえます。しかし矛盾のマグマは噴出口を求めてうごめいています。支配・競争から連帯への転換が大爆発を誘発するか、巧みな分断支配の継続を許してしまうのか、が私たちには問われています。
八代尚宏氏と中野麻美氏の「対論・新社会のデザイン 幸せ呼ぶ?労働ビッグバン」(「朝日」2006年12月29日)は、理論的にはまさに資本対労働の対決、あるいは暴走する職場の論理と堅実な生活者の論理とのぶつかりあい、率直な印象からすれば酔漢と賢女との永遠にかみ合わない対話とでも言えましょうか。八代氏といえば、NHKのワーキングプアを扱った番組に登場して、格差は経済成長で解決すると発言したり、以前「朝日」紙上でも過労死を起こすような企業は市場から退場することになる、というようなことも言っていて、驚くほど現実が見えていない人です(現実を無視しているというべきか)。こういうブルジョア教条主義の権化が経済財政諮問会議の民間議員を初めとして政府の御用を果たしてきたことも日本経済の現在の惨状を招いた原因の一つに間違いありません。この「対論」でも市場原理と経済成長そして企業の都合だけをひたすら唱えて働く人々の状況など一顧だにしません。中野氏が「ホワイトカラー・エグゼンプションを導入したら、いま以上に長時間労働と健康破壊が蔓延し、残業代が払われない見えない労働が増えるだけだ」とまったく当然の見解を示したのに対して、八代氏は「そう考えるのは、いまの働き方を前提にしているからだ。長く働くほど残業手当がもらえる仕組みを定額払いに変え、仕事を個人単位にする。子育て中の女性は『子どもが熱を出したので仕事を休み、明日は夫に育児を任せて残業する』といった弾力的な働き方も可能になる」などと応じています。定額払いにしたら仕事が定時に終わるのだろうか。ホワイトカラー・エグゼンプションで自由な働き方が実現し、仕事と生活が調和する、などという酔っ払いの法螺話は誰も信じないからこそ、参議院選挙前にその法案を国会に提出することはさすがの安倍首相も断念せざるをえなかったのです(まだ実現をあきらめてはいないけれども)。しかし現実より市場原理が大事な「知識人」はこれからも妥協を排して「理想」の実現に奮闘するでしょう。性懲りもない様々な法螺話とのつきあいは延々と続く。
八代氏は、要するに成長なければ雇用なしで、成長のためには企業に都合の良いようにすべきだ、という立場です。私たちは、まともな労働と生活が前提にあってそれに調和的な企業活動があるべきで、そこに適正な経済成長のあり方が存在すると考えます。これについては共産党の市田書記局長の国会質問に対する安倍首相の答弁が重要です。「いわゆるワーキングプアといわれる人たちを前提に、コスト、あるいは生産の現状が確立されているのであれば、それは大変な問題であろうと思います」。人間的感覚からは当然の発言ですが、「生産の現状」はまさにこのとおりであり、それを招いた責任は「構造改革」を進めた自民党政治にあり、安倍首相はさらに酷くする政策を推進しているのですから、まったく矛盾した無責任な発言です。しかし国会答弁は重い。言った以上は守ってもらいましょう。この言明は私たちの運動の橋頭堡とすべきものです。
資本主義の本性は「蓄積が独立変数であり賃金は従属変数であり」、まさに新自由主義者の言うとおりですが、それを放任しておいたら労働者の生存権は保障されません。働く人々の適正な生活と労働に対応した国民経済のあり方、資本への民主的規制を含む経済の姿を提起していかねばなりません。田原総一朗氏の言うような「正社員が減って非正社員が増えたから景気がよくなったともいえる」(テレビ朝日「サンデープロジェクト」での発言。「しんぶん赤旗」1月22日付より)という現実を、正社員が増えて個人消費が活発になって景気がよくなった、という現実に転換していく必要があります。どちらのほうが持続可能な経済社会かが問題です。もちろん後者のほうが人間生活にとってまともな社会であることは当然です。それだけでなく社会保障の持続可能性を考えれば、前者のようなやり方では税収も社会保険料収入も支えられないことは明らかです。ひたすら支え手を細らせる一方で負担を増やし給付を削減するのでは展望が見えないのは当然です。支え手を育てる方策が必要です。
新自由主義者は、グローバリゼーション下での大競争に勝ち抜くために犠牲と忍耐が必要であり、それで初めて経済成長があり労働者にもおこぼれが回ってくる、と言います。これに対してゼロ成長でも社会のあり方の組み替えによって人間が尊重される社会は可能だ、という考え方もあるようですが、とりあえずここではそれは措きます。先の「対論」で中野氏は「潜在的可能性や能力が成長の源泉だ。それが発揮できない経済社会は衰退する。10年、20年先が見えないようでは、自分の能力を高めようという気力も起きない。いまは、明日が見える雇用の姿を描く機会にすべきだ」と述べ、新自由主義の「柔軟な雇用」による成長に対するオルタナティヴを提起しています。これを実現していく世界経済のあり方はどのようなものか。
多国籍企業は様々な格差を利用して世界を股にかけた最適生産・最大限利潤を実現しています。その行動様式によって労働条件が切り下げられ、税収も削減され、底辺に向かってのグローバルな競争が行われています。これは確かに自由な競争ですが、決して公正な競争とは言えません。ソーシャルダンピング競争です。持続可能ではありません。多国籍企業への民主的規制によってソーシャルダンピングをやめさせ、再生産可能な労働条件など国家・社会的条件を守ることで、初めて社会発展につながる公正な競争条件が確保されます。そもそも生産力発展の究極の意義とは、生産に要する時間を削減して自由時間を広げて人間の発達可能性を高めることにあります。非人間的な人件費削減によって「労働生産性が上昇した」というのは資本家的には意味があっても、歴史貫通的には後退なのです。労働の買いたたきで生産効率を確保できるところでは、科学技術の向上によって生産効率を上げようというインセンティヴが働きにくくなります。ILOの「ディーセントワークのグローバル化」や世界社会フォーラムの発展などによってグローバリゼーションの組み替えが必要です。
ILOは「ディーセントワークのグローバル化」を言いますが、国民経済の内部でもディーセントワークの普遍化が必要です。現実にはディーセント(まとも、適切)にそろわずに上下に二極分解しています。一方には過労死するほどの過剰労働があり、他方には失業ないしは短時間不安定雇用があります。適切なワークシェアリングでならしていけばいいのですが、資本の活力は格差を温存して競争させることにあるので、社会的規制によらねば適正化はできません。これについては、第一生命経済研究所のかつての研究によると、サービス残業分などに対するワークシェアリングが実現すれば、企業利潤の減少分を勘案しても経済成長にプラスになる、と指摘されました。政府の経済政策の姿勢が問われます。労働時間の二極分解の他にも、そこそこの労働時間であっても賃金が低い、ワーキングプアの問題があります。このような過剰労働、過少労働、差別的低賃金をすべてディーセントワークに回復して初めてまともな競争条件が成立します。人間をおとしめることのない、知恵・工夫・技術などを凝らした発展的な競争が展開可能です。このスタートラインにさえ立てずに、最低限の生活条件を奪ったり、際限ない労働の泥沼にはめ込んだりするような「自由な競争」はまともな競争条件を踏み外しているのです。解雇の自由を主張する八代氏などが「健全な市場社会」を主張するのも悪い冗談という他ありません。
社会保障の持続可能性は社会的再生産の持続可能性を前提し、後者は労働力の再生産を前提します。そうするとすべてを支えるのは、労働力の価値を保障する賃金がきちんと支払われているかどうか、ということになります。ワーキングプアというのはまさにこの点で劇的に社会を破壊している現象です。非正規雇用の差別的低賃金は企業に莫大な利潤を保障しつつそのツケをすべて社会に転嫁しているのです。正規雇用労働者においても成果主義賃金などの名目で労働力の価値以下の賃金が常態化しています。労働力の価値があがなえないならば、従前の生活内容を維持することはできず、子どもをつくるなどはとてもとても…。絶望して自殺する人さえ出てくる。資本と労働の力関係はどうしても労働にとって不利になるので、国家の労働者保護政策が適正に働かなければ労働力の価値を維持することは難しくなります。現状はそれどころか国家は相次ぐ労働の規制緩和によって資本を後押ししています。これらの問題について賃金論からの現代資本主義批判というスタンスで理論展開したのが三好正巳氏の「現代資本主義の賃金 労賃の諸法則と国家の関与」です。一読して理論と現状分析をつなぐ重要な論文だと思いましたが、なかなか消化しきれませんでした。
どうも今月はいつにもまして内実に乏しく表面的な取り繕いに終わったように思います。もう少し出来のいいものを。他日を期したい。
2007年3月号
労働問題をめぐる散策 あちこち寄り道も
政治と経済はもちろん密接な関係にありますが、その負の連鎖に危機感を持つ人は少なくありません。島本慈子氏の「戦争で死ぬ、ということ」が『世界』に連載されていたとき、悲惨な事実の迫力に接し、私は息をのんだものでした。それが岩波新書にまとめられたことで各地から講演依頼が相次いで、島本氏は「戦争をしないという国是を守れるかどうか、まさにいまが正念場」と、あえてきらいな講演に「行けるかぎりは行こう」と決心し多くの若者たちなどに語り続けています。『世界』3月号の「破壊される雇用、根腐れる民主主義 『戦争・災害・住宅』とからみあう労働格差」で島本氏は、こう述べています。
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9.11のあと、にわかに盛りあがってきた「平和主義をあざ笑う」風潮、戦争の現場を見ない現実主義の横行。そしてそういう声高な主張に「流されてしまう」という現在の空気は、少なからず、雇用破壊から生まれている。 63ページ
雇用破壊によって「もの言えぬ社会」がつくられている……中略……「意見を言えば仕事を失う」という構造 同上
労働が壊れるとき、民主主義は根腐れを始める。国民主権が根腐れした社会は大きな声を持つ者に流されていき、流された果てに、必ず弱い者が泣きをみる。 65ページ
新たに生み出されている貧困層にとって、軍隊は魅力的な職場に見えるだろう。雇用破壊の時代は戦争を止める力を失い、やがて戦争状態への依存をはじめる。暴力へとひた走る流れをくいとめることができるかどうか、それは人々がどれだけ「事実を知るか」にかかっている。 同上
いまの私にいえることは、改憲にともなって武器生産が経済の表舞台に踊り出るとき、その影響は職種を問わず、日本の働く人すべてに及ぶだろう、ということだ。また民間の戦争請負会社も必ず生まれ、そのことが社会のメンタリティーを変えていくだろう、ということだ。 同上
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現実の直視が将来に対する想像力を生み、今なすべきことを照らしだします。島本氏の講演を聞いた、ある派遣社員の青年は、自衛隊に部品を供給する工場で働いているため反戦行動などはできないが、そういう自分をどう思うか、と問いました。島本氏は選挙権を熟慮して行使することを勧めました(70ページ。この論文は拙文では枕に使っただけですが、是非とも全文を読むことをお勧めします)。
このように、劣悪な経済が劣悪な政治を生み出すことを阻止するのに、選挙は重要な意義を持ちます。その意味では、劣悪な経済の現実を直視することが大切ですが、そういう気運が最近は高まっているように思えます。従来、政権党が国政選挙で大敗するのは疑獄事件か増税問題くらいで、一過性にとどまることが多かったといえます。しかし来る参議院選挙では格差問題がクローズアップされるかもしれません。ここには2005年の総選挙では小泉マジックにだまされた人民の意識の深化が感じられます。マスコミにおいても格差から貧困へ、そして労働問題へ、と政治経済の核心にせまったテーマ設定が見られるようになりました(それらの原因や本質までは捉えられていないとはいえ、劣悪な現象を取り上げざるをえなくなったことには意義がある)。格差というのはいわば相対的貧困の問題ですが、生活保護やワーキングプアは絶対的貧困の問題であり、その先には雇用破壊・労働破壊があることが意識されるようになりました。これまで生活保護がマスコミで取り上げられる場合、主に不正受給の問題で、まさに分断支配に沿った取り扱いでしたが、最近では逆に貧困を救わない生活保護行政の姿勢が批判されるようになっています。ホワイトカラー・エグゼンプションについても経団連の意向をくじく反対意見が圧倒しています。最低賃金の引き上げは労働運動の重要課題として鋭意取り組まれてきたのですがなかなか「国民的関心事」になることはありませんでした。ところが今ではその国会論戦が熱く報道されるようになりました。それは残念ながら労組の運動の成果というよりもあまりに酷い労働の現実に関心が集まった結果のように思いますが…。それはともかく、疑獄のような派手な問題ではなく、社会的再生産を支える労働のあり方に対して政治的関心が向いてきたというのは、民意の成熟として底深い本質的変化となる可能性を秘めています。
2月15日の参院厚生労働委員会で共産党の小池晃議員は安倍首相に対して、「ホワイトカラー・エグゼンプションを導入すれば労働時間が短縮できるというがなぜか」と質問しています。首相は「導入すれば早く帰ったり、家で仕事をすることも可能になる」と答えていますが、小池議員から次のように返されて窮してしまいました。「相次ぐリストラでノルマは増えている。導入しても仕事量が減るわけではない。成果主義賃金が徹底され、死ぬほど働かざるをえなくなるのが実態だ。賃金と労働時間の関係がなくなればどれだけ働かせても痛みを感じなくなる。労働時間が拡大していかざるをえなくなるではないか」(「しんぶん赤旗」2月16日付)。ホワイトカラー・エグゼンプションの狙いと帰結はこれで言い尽くされており、この後に及んで、それが労働時間短縮とか、ワーク・ライフ・バランス(労働と生活の調和)に資するなどと言う、首相はノーテンキ、財界はしらばっくれているということだろう。
共産党の志位和夫委員長は衆院予算委員会で最低賃金の抜本的引き上げを提起しましたが、首相は中小企業の経営を圧迫するとして拒否しました。これについて「しんぶん赤旗」2月16日付「主張」は次のことを指摘して、中小企業経営との関連でも最低賃金引き上げの要求が正当であることを明らかにしています。<(1)最低賃金の抜本的引き上げを中小企業の経営を応援する政治とあわせて行なうべきである。(2)大企業のほうが中小企業よりも労働者を犠牲にしている(中小企業が労働分配率を上げているの対して大企業は下げている。パートの時給も中小企業のほうが高い)。(3)最低賃金の引き上げは、下請け企業が親会社にまともな単価を要求する根拠になる> さらに同日付の同紙「潮流」ではアメリカの中小企業経営者が労組と一体となって、最低賃金の引き上げを主張していることを紹介しています。<「最低賃金のアップは地域と中小企業を活性化させる」「低賃金の労働者は他地域に行かず、賃金を地元で使うから、地域経済を直接潤す」「賃金アップで社員の定着率がよくなれば、生産性や製品の品質も向上する」「労働者に生活できる賃金を払わなければ、貧困や貧弱な医療から生じる疾病や障害、死亡のコストを社会全体で払わなければならなくなる」> 素晴しい見識です。
こうしてホワイトカラー・エグゼンプションや最低賃金の問題を見てくると、労働と生活を国民経済・地域経済のあり方との関連で考えることの大切さがわかります。大企業の利潤を国民経済的課題の第一とするトリクルダウン理論が破綻していることは、「いざなぎ景気」越えでも一向に暮らしがよくならない現在の「格差景気」の実態が証明しています。真のワーク・ライフ・バランスを第一として人民が豊かになることで、地域経済・国民経済を活性化させることが求められているのです。世界経済もこのような好循環を基礎にした下からのグローバリゼーションへと「正しく転倒」させねばなりません。
上記では、人民の所得の向上がリードして経済成長を実現していくような地域・国民経済のあり方への変革を主張しました。現状は人民を犠牲にして資本蓄積が進む型になっています。そこにおける個人と企業、あるいは労働と資本との関係について、家族システムの観点から本田由紀氏が興味深い指摘をしています(「朝日」2月19日付「時流自論 企業の『家族依存』を正せ」)。若年雇用の問題について、現状認識として「若者の甘え」と見、対策として個人の努力・能力開発にすり替えるのが、政府・財界の基本姿勢でしょうが、そのような一見わかりやすい現象論(皮相な俗論)や精神主義を批判して、本田氏は社会科学的に問題を設定し回答を与えています。
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低収入の若年非正社員が3人に1人に達するほどの規模になっていることについて、そのような事態がなぜ社会全体として成立可能なのかを改めて考える必要がある。若者に対して批判的な論者たちはこの問題を、若者が豊かな親世代に依存しパラサイト(寄生)しているためにあくせく働かないからだ、と説明してきた。しかし現実は、そうした個人単位・家族単位のミクロレベルの説明を超えた規模で進行している。これはすでに、「マクロな社会システム間の関係性」という観点からの把握を要する事態である。
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次いで本田氏は居郷至伸氏の見解を肯定的に紹介して喝破します。「個々の若者が個々の親に依存しているのではなく、経済システムが家族システムの含み資産--親世代の収入、住居など--に依存しているのだ」。さらに敷衍して…
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これほど大量の低賃金労働者が暴動に走りもせず社会内に存在しえているのは、彼らを支える家族という社会領域の存在に企業がよりかかることにより、彼らの生活保障に関する責任を放棄した処遇を与え続けることができているからなのだ。それゆえ親の早世や離別などにより依存できる家族をもたない若者は、現下でも厳しい困窮状態に置かれている。
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経済学的にいえば、資本は若年労働者に対して労働力の価値としての賃金を支払わず、不足分は親世代に負担させている、ということになります。日本資本主義は長期不況の克服過程でリストラ型資本蓄積様式を確立しました。その帰結が「格差景気」であり、日本資本主義は現象的な成功の裏で社会的再生産の困難という本質的矛盾を抱えています。賃金の低下により労働力の再生産が難しくなっており、自営業者も所得減少のため営業の継続が難しくなっているからです。それは高水準の自殺者数、出生率の低下として現われています。生き難い、産み難い社会というのは明らかに失敗した社会ではなかろうか。労働力の価値をきちんと支払うというのは、国民経済を担うべき(社会的総資本の再生産の円滑な進行を保障すべき)資本の最低限の責任ですが、それを放棄したのがリストラ型資本蓄積様式です。若年雇用の分野では親世代に依存することで、それが「安定的に維持」されているのです。まさに矛盾の隠蔽ですが、普通、親たちは先に死ぬのだから、このシステムが持続不可能なことは明らかです。
本田氏は問題を個人の努力にすり替えるのでなく「企業が労働者に対して果たすべき責任を完遂させる強力な枠組みが不可欠である」として、「個々人が苦境に耐えるのではなく協同して怒りの叫びをあげる必要がある」と結んでいます。彼女は現代のコペル君たちに向かって「君たちはどう生きるか」と問うているのではなかろうか。新自由主義の自己責任論から社会科学的認識に基づく資本責任論へのコペルニクス的転回を踏まえて。
問題がさかのぼってしまいますが、それにしても労働破壊や国民経済の転倒はどこから出てくるのでしょうか。多国籍企業が主導する「底辺への競争」としてのグローバリゼーションがそこにあるのは明らかですが、それに対応した経営戦略下での直接的生産過程のあり方に強烈な破壊衝動を看取することができます。『経済』3月号、藤田実氏の「キヤノン 高収益の陰で何が起きているか」はその一端を教えてくれます。
御手洗富士夫経団連会長が会長を勤めるキヤノンは一方では超優良企業として賞賛され、他方では偽装請負の違法企業として指弾されています。両者は別々のことではなく、表裏一体であり、その中核にセル生産方式があります。キヤノンは技術流出につながる海外展開を抑え、2000年前後から国内生産回帰を進めました。その際「国内生産でもコスト的に中国と対抗できる根拠とされたのが、同社が誇るセル生産方式に基づく生産革新である」(41-42ページ)。長大なコンベア方式に比べてセル生産方式は少人数単位なので需給変動への対応が容易であり、デジタル製品には向いています。またセル生産では、数人で生産するため一人一人の生産性が明確になり、目標管理が容易です。作業時間は管理され、目標を達成するとそれは自動的に短縮されます。遅れも許されるとはいえ、達成状況が記録管理されている以上、労働者としては目標達成は至上命題となります。このようにセル生産方式は労働者の競争心を刺激して生産性を向上させることができます。御手洗氏によれば、30人のセルが半年もたつと20人で済むようになります。また非正規労働者も含めて「自主活動」として改善活動に終業後一時間くらい、場合によっては休日まで出勤して取り組まれますが、残業手当は支給されず、キヤノンは無償で生産性向上の成果を得られます。労働者としては雇用を失うよりは無償の「自主活動」のほうがましだ、ということです(43-44ページ)。不安定雇用による労働者に対する恫喝効果が生産性向上へのインセンティヴに組み込まれていることを銘記すべきです。
セル生産方式は需給変動への対応が容易だとしても、それはセル数の増減=労働者の増減で対応するのだから、非正規労働者を多く活用することになります。キヤノンは人件費が節約でき、使用者責任を負わずにすむ請負を導入したのですが、キヤノンの社員が指揮命令しなければセル生産は不可能であり、偽装請負となるのは必至だったといえます。「キヤノンの国内生産回帰というのは、偽装請負に支えられた一面があると言うことができる」(45ページ)。
偽装請負を批判されて御手洗会長は法律のほうを変えろ、と開き直りました。偽装請負の合法化は「労働ビッグバン」に含まれる課題です。労働法制の改悪・規制緩和はずいぶん進んできましたが、さらにもくろまれています。このような労働・雇用破壊、人間破壊を美化するスローガンは働き方の自由・多様性・柔軟性といったものです。言葉のごまかしに対して内橋克人氏の怒りが爆発しています。
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要するに、「働かせる自由」を拡大し、人々の「働く自由」を削ぎ落として、不自由にしていくということです。
多くの国では、雇用責任が発生する正規雇用--社会保障制度、生存権、最低限の生活を営む権利など、きちんと雇用制度の中に組み込んだ正規の雇用--は、働く人々にとっての「権利」だという考え方があります。そして、その権利を前提とした上で、様々な個人の都合、日常的な制約に応じて働き方を選ぶのは、個人の主体的な「選択」である。たとえばフルタイムでなくパートの労働に就くように。むろん労働者の闘いがあって初めて生まれたものですが、競争、グローバライゼーション、世界市場化などといろいろなことが言われる現在でも、多くの国で国民的合意が形成されているものです。
インタビュー 内橋克人氏にきく「大企業が人間破壊を行っている」
(『世界』3月号)52ページ
正規に働く者の権利と保障、雇用する側の責任、とりわけ巨大企業の雇用責任をきちんと果たした上でこそ「働き方の多様性」と言えるのに、そうでない働き方をせざるを得ない状況に人びとを追い込んでおいて、雇用の形態あるいは労働現場の形態が多様化することをもって、「選職の時代」とか「働き方の多様化」というのは許し難いまやかしです。事の本質は「働かせ方の多様化」にすぎない。 同上 53ページ
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考え方の出発点が違うということです。日本では労働法制の改悪・規制緩和は「ルールなき資本主義」が生み出す酷い既成事実の合法化として進行してきたため、「現実に沿った見方」をすると、本来「働かせ方の多様化」にすぎないものが、あたかも自然の成り行きのような「働き方の多様化」に見えてきます。もちろんこれは資本の立場に立った現実追認主義ですが、労働者の闘いによる「もう一つの現実」に内橋氏は目を向けさせているのです。
財界がこのような労働破壊=国民経済破壊を行なうのは、多国籍化した日本の大企業が海外で主な利潤を稼ぎ、個人消費を中心とした国内市場を回復させる必要性が少なくなっているためだ、ということを内橋氏は指摘しています(56-57ページ)。問題はまた国民経済と世界経済のあり方に帰ってきます。
岩佐卓也氏の「格差問題を逆手にとる『労働ビッグバン』推進論 『ジェンダー・フリー』を掲げる八代尚宏氏の主張を読み解く」(『前衛』3月号)はイデオロギー分析として興味深い論稿です。
八代氏は「女性や非正規社員に対する差別を解消するために、規制緩和・新自由主義が必要なのだ、という論理建て」(120ページ)をとります。男性正規労働者の特権を剥がして競争を徹底させればよい、ということです。岩佐氏は次のようにタネをあかします。
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規制緩和・新自由主義の政策を実行することによって実際に恩恵を受けるのは、大企業とごく少数の人々に過ぎません。大多数の人々はいっそうの受難を強いられることになります。ところが現代は、曲がりなりにも民主主義的な政治体制が維持されていますから、そうした「本音」を正面から認めてしまえば、規制緩和・新自由主義を実行に移すことはきわめて困難になります。それゆえに、大企業へと批判の矛先が向かないように、男性正社員の「特権」を敵に仕立て上げ、それを解体すれば女性や非正規社員にとっての展望が開かれるかのような理屈を展開することが、どうしても必要になるのです。 129ページ
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支配層の常套手段としての分断支配の論理です。「八代氏は、男性-女性関係と同様に、正社員-非正規社員の関係を、一方の利益が他方の不利益になるというトレード・オフの対立関係として描き出します」(120ページ)。 こうすれば「労働ビッグバン」のもたらす搾取強化から目をそらすことができます。しかし問題の核心は労働者間の対立ではなく、資本=賃労働関係にあります。
岩佐氏は単に頭の中で理屈をこねて上記のように主張しているわけではありません。労働破壊が滔々と進む新自由主義的現実の中でも、労働者の闘いによる「もう一つの現実」から学んでいるのが重要です。女性差別是正の闘いも請負・派遣労働者の直接雇用を求める闘いでも、現行の男性や正社員の雇用条件を引き下げるのではなく、それと同様の雇用保障を求めてしばしば勝利してきたのです。岩佐氏は最後に、八代氏の主張がもっともらしく聞こえる根拠の一つとして次のことを指摘しています。従来の労働運動において女性や非正規労働者の要求に対してしばしば非協力的であったため、男性正社員が彼らを搾取しているかのような誤解が生じ、労働者内部に対立感情があります。この弱点を克服することなしには規制緩和・新自由主義と対決することはできない、と結ばれています。
アメリカの中小企業家たちが最低賃金の大幅引き上げに賛成していることを先に紹介しましたが、日本の資本家の一部にも見識ある動きがあります。先月紹介したように、八代尚宏氏と中野麻美氏の「対論・新社会のデザイン 幸せ呼ぶ?労働ビッグバン」(「朝日」2006年12月29日)において中野氏が次のように発言しています。「潜在的可能性や能力が成長の源泉だ。それが発揮できない経済社会は衰退する。10年、20年先が見えないようでは、自分の能力を高めようという気力も起きない。いまは、明日が見える雇用の姿を描く機会にすべきだ」。これはまさに国民経済上の政策的課題ですが、個別資本家でも先進的に取り組んでいる例があります。
NHK教育テレビ「ビジネス未来人」2月9日放送分は「会社支える子育て社員」と題して、福井県のソフトウエア開発会社の社長が出演していました。育児のために正社員として働けずに退職したりパートになる女性労働者が日本では多いのですが、この会社では残業や休日出勤はしないという契約を結んで気兼ねなく定時に帰り、仕事を続ける子育て社員が職場の中心となって活躍しています。残業や休日出勤なしというのは本来は誰でもあたりまえですが、日本の労働現場の現実はなかなかそうはなっていないので、この会社の方式はそうした後進的現実を踏まえつつも一歩前進した着実で重要な取り組みだといえます。プログラマーの養成には三年から五年くらいはかかるので、出産退職でそのキャリアを中断してしまうのは、会社としても損失であり、1が0になるよりはたとえ0.7でもよいから残ってほしい、というのが社長の言い分でした。子育て社員が早く帰宅した後で他の社員がカバーすることになりますが、それを容易にするため普段から仕事の共同作業化を進めたことがかえってプラスになったとも言います。「潜在的可能性や能力」を十分に発揮できるように「明日が見える雇用の姿を描」いた地道な取り組みがこのような中小企業にもあるのだから、大企業も政府も多いに学んでほしいところです。
ここで経済学的に注意したいのは、キャリアの継続・蓄積による「潜在的可能性や能力」の発揮というのは、生産力に関する事柄ですが、「明日が見える雇用の姿」は生産関係に属するということです。労働者にとっては後者が保障されて初めて前者が実現し、国民経済としてもそこから成長の果実を得ることができます。生産関係視点のない生産力主義の観点からは、労働者に技術教育や職業訓練を施せば雇用問題も解決して経済成長が実現するかのような幻想が生じます。新自由主義に立つ安倍政権の成長重視戦略とか再チャレンジ政策なるものがそれです。
友寄英隆氏はシカゴ学派のシュルツの「人間資本」理論を批判しています。
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「人間資本」を構成するのは、育児、学校教育、健康管理、職場での経験、とりわけ高度な科学・技術の教育などが含まれます。
シュルツは、「人間資本」への投資が増えれば、労働生産性が高まり、経済が発展し、労働者の所得も上昇すると主張します。
…中略…
マルクスが『資本論』で解明しているように、たしかに労働者の技術教育や、高度な科学的知識の習得は、労働力の価値を高め、労働生産性を上昇させます。しかし、労働者は、どんなに高度な科学・技術教育を受けても、賃金労働者であることをやめることはできません。ですから、「人間資本」の活動(労働)によってつくられる労働生産物は、直接、労働者のものになるということはありません。資本主義のもとでは、「人間資本」の果実は、そのまま労働者に取得されるのではなく、直接的にはすべて資本によって取得されるからです。
ところが「人間資本」理論は、「人間資本」の果実がだれに取得されるか、その肝心な問題は探究しないで、「人間資本」としての労働者の能力の差異がそのまま格差の原因であるかのようにえがきます。そのために、「人間資本」理論は、いつのまにか「格差=活力」論、「格差容認」論に転化していまうのです。
つまり、「人間資本」理論は、労働者を「人間資本」とみなすことによって、逆に、労働者を搾取する「資本」の姿を見えなくし、貧困と格差の真の原因である、資本による搾取強化の現実を隠す経済理論になっています。
「経済時評 『新自由主義』派の『貧困論』」(「しんぶん赤旗」2月6日)
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近代経済学では、「生産力と生産関係」「歴史貫通的なものと特殊資本主義的なもの」「商品=貨幣関係と資本=賃労働関係」といった概念的区別がありません。だから雇用とは何かも知りません。シュルツの「人間資本」は、実際には資本主義的搾取関係の中で働く労働者の能力のあり方から生産関係を捨象したものであり、没歴史的でもあります。その抽象度が自覚されておれば、それなりの意味があるかもしれませんが、そこから直接、労働者の所得や経済成長が説明できると思うのは錯誤です。その課題が要請する理論次元からすれば「人間資本」概念は死んだ抽象です。一般的に言って、何からどのような性質を捨象したかについて自覚的であれば、その捨象は科学的抽象過程の一部といえます。しかし新自由主義者はそもそも資本主義的生産関係とか雇用とかが何かを知らずに、無自覚的に生産力主義的観点に基づいて現実の様々な経済現象から特殊資本主義的部分を捨象するのだから、そこには超歴史的な抽象的概念しか残りません(もっとも逆に、他の社会構成体や歴史貫通的なものについても資本主義のイメージで捉えるという傾向もあるので、問題は複雑ですが)。そのことを知らずにその抽象されたもので直接に資本主義経済の現実を解釈すると不都合が起こります。繰り返せば、安倍政権が大資本の雇用のあり方という生産関係に規制を加えず、労働者への職業訓練などの生産力視点の政策ばかりに力をいれるのは、もちろん財界寄り政権だから資本への規制はできないという現実的な階級的要因によります。しかしそれで雇用や経済成長が何とかなると本気で思っているとしたら、そこには生産関係を顧慮しない生産力主義的な「死んだ抽象」経済学の影響力が大きいともいえます。
どうも労働問題についての諸論稿を散策していくうちに経済理論の意義へと寄り道することになりました(それが経済政策にも関連することに注意しながら)。友寄氏の議論を見ることで、新自由主義の経済観と対比しながら、資本主義経済の概念的把握への我々の道に少し立ち寄ったのですが、以下では同様の主題を消費者金融問題を通して考えてみましょう。松本朗氏の「消費者金融とその高金利をめぐる基礎理論的検討」(『企業環境研究年報』第11号所収、中小企業家同友会全国協議会企業環境研究センター編集兼発行、2006年12月)では、深刻な社会問題となっている消費者金融の高金利がマルクス経済学の信用論の観点から理論的に解明されています。消費者金融業界は金利上限規制の引き下げに反対しており、その理論的根拠は新古典派経済学によります。松本氏は次のように要約しています。
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消費者金融における貸出-借り入れ行動は金利=価格の変動メカニズムによって規定される経済行動であり、完全競争下の均衡点で社会的な需要と供給は一致し、効率的な水準が達成される。しかし、金利上限規制のような価格統制が行われれば、超過需要ないし供給を調整する価格メカニズムが働かないから、厚生損失が発生し、本来の需要者が市場から閉め出される。 46ページ
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閉め出されるのは、資金需要が高いが、より高い金利を求められるリスクの高い経済主体である。つまり金利上限規制によって社会的弱者が不利益を被る、と新古典派理論は主張します。
高金利が多くの人々を苦しめているのが重要な社会問題になっているのに、実に逆説的な結論です。ま、しかしこれは「雇用を増やしたかったら解雇しやすい制度にしろ」とか「マネーゲームは善である。ハゲタカファンド多いに結構」という、素朴感情を逆なでする「経済学的に正しい」議論として新自由主義的「構造改革」世界ではお馴染みの理屈に連なるものでしょう。それらの問題はここでは措くとして、高金利問題では、何でも価格メカニズムによる需給均衡を絶対視して、限りなく希薄なイメージの市場経済としてしか資本主義を捉えられない新古典派理論に対して、マルクス経済学の信用論の観点から資本主義経済を概念的に捉えることが必要でしょう。
消費者金融は掛売信用から派生してきた貨幣貸付(貨幣信用)です。その本質を理解するためにはまず「資本主義的な意味での貨幣信用の本質は、利子生み資本にある」(47ページ)ことを押さえることが必要です。平均利潤率の形成とともに成立する利子生み資本における利子の本質は剰余価値ないし利潤であるので、利子率は利潤率によって制限されます。それは産業資本の運動を前提にし、貸し付けられた貨幣資本は利子をともなって還流します。ところが貨幣信用といっても消費者信用の場合は、貸し出された貨幣は資本としては機能せず、購買手段か支払手段として機能します。ここでは資本循環と違って貸し付けられた貨幣は還流しません。「消費者金融は貸し手側では資本としての貨幣が貸し付けられるにもかかわらず、借り手側ではその返済を保証する貨幣の還流が存在しないと言うことになる。つまり、消費者金融会社が貸し付けた貨幣資本の返済(自らの資本の還流)は、貨幣を借り受けた消費者の所得のみに依存せざるを得ないのである。ここに消費者金融の特徴がある」(47ページ)。消費者金融の存立基盤が、もっぱら購買手段としての貨幣に対する(資本循環の外にある)借り手の需要にあるという点からすれば、それは前近代的な高利資本と同様です。そこで「貸し手側では資本として貸付ながら資本の論理と背理する高金利での貸し付けが行われる」(48ページ)ことになります。
松本氏はさらに消費者金融の高金利の根拠とその条件を、消費者金融のコストと返済を支える条件という二面から考えています(ここでは後者については省略)。消費者金融市場では逼迫した借り手に対して資金供給者が優位であり、「貸し手が金利決定のイニシアチブを持って」おり「消費者金融の高利性は消費者金融のコスト構造がどのようになっているかによって規定され」ます(49ページ)。そのコスト構造においてもっとも注目すべきは貸し倒れリスクのコストです。資本として運用されることのない(消費者金融の)貸付金の返済は顧客の支払い能力だけに依存するのできわめて不確実だからです。それへの対処方法の第一は徹底した回収です。ここに消費者金融会社の反社会的な行為が現われる原因があります。第二は高金利の賦課です。一般に「消費者金融が高利を課すのは消費者という借り手のリスク・プレミアムが高いためである、と説明され」ますが、松本氏はリスク・プレミアムの本質について「貨幣資本家が負うべき準備資本というコストを顧客に転嫁したものという規定を与えることはできないだろうか」(51ページ)と提唱しています。貸し倒れ関連の費用が高金利によって賄われているのです。
金利上限規制の問題に帰ると、それによって消費者金融市場から排除されるハイリスクの人々は、もともと所得獲得の機会を失っているのだから、宇都宮健児弁護士が言うように消費者金融の対象者ではなく「市場金利で金を貸すのではなくセーフティネット、社会保障の面で対応する必要があ」ります(55ページ)。そのような人々を高利資本の餌食にする新古典派理論の罪は重大です。消費者金融が利子生み資本の形態をとりながらも、資本の剰余価値ではなく、労働者などの所得を存立基盤とせざるをえないという矛盾が、その「解決」として強引な回収や高金利という(社会問題となるような)運動形態を生み出します。ここには資本の流通と所得の流通の交錯、信用における商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という重層性が見られます。そのような立体的関係を看過して資金需給の価格メカニズムという市場平面上での均衡分析によって資本主義的信用関係を裁断するところに誤りがあります。
2月16日にNHKFMではNHK交響楽団定期公演として、アシュケナージ指揮のチャイコフスキー交響曲第2番と第5番を放送していました。作曲家・西村朗氏の解説が大変に興味深いものでした。以下はうろ覚えですがその内容を紹介します。
ドイツ・ロマン派の時代に、クラシック黎明期のロシアでは国民楽派の5人組が民族音楽を取り入れた独自の作風で対抗しようとしていました。西村氏は両者の間にチャイコフスキーを置いて、交響曲第2番では民族的要素が色濃いのに対して、5番や6番になると普遍的なものになっていく、と指摘していました。同時期、ドイツではブラームスが交響曲第1番を発表します。西村氏は、自分がもしロシア5人組の周辺にいたなら、その完成度や精神性の高さに「こりゃだめだ、やられた」と思ったに違いない、と言います。もちろん西村氏がロシア5人組を低く見ているとは思いませんが、この日の話では、音楽における精神性とか普遍性といったものに重点が置かれていたようです。そして特にブラームスへの敬意が際立っていました。西村氏はブラームスの交響曲第4番の初稿を見たときの感動を語っています。彫琢されている、と(つまり現行版は、この初稿に対して、考え抜かれ、それしかないだろうと言えるような推敲が施された結果であり、初稿を研究するとそれがわかる、という意味ではないか、と私は思うが違うかもしれない)。修正とか推敲などと言わず、確かに「彫琢」という言葉が使われていました。厳しい美しさが伝わってきます。
西村氏は、作曲家になって良かったのは、かつての偉大な作曲家の偉大さが少しでもわかるようになったことだ、と控えめなことを語っていました。自分が何かに一生懸命取り組めば、その道の本物の偉大さがわかる、と。ここで注意したいのは、西村氏は決してドイツ・ロマン派の模倣をしているわけではなく、日本の現代音楽を代表する作曲家の一人だということです。眼前の課題に取り組むことでかえって古典家の偉大さを理解できる。逆に古典家の偉大さを理解しているからこそ、現代を切り開くことができる。そういうことではないか。残念ながら私は西村氏の作品をきちんと聞いているわけではないので、何も言う資格はないのですが、社会科学の研究になぞらえてそう思ってしまうのです。現状分析と古典研究あるいは理論研究の相互促進的関係ということを、上記の友寄英隆氏や松本朗氏の論稿に感じます。
まったくとりとめない雑文となりました。妄言多罪。
2007年4月号
澤地久枝氏と佐高信氏が「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学 作家と作品」と題した連載対談で五味川純平『戦争と人間』を取り上げています(『世界』4月号)。澤地氏の言葉です。
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五味川さんとよく話しあったのは、では満州事変を起こして満州をとらなかったら日本人は飢えたのか、という点でした。「なぜ日本は飢えるか」。五味川さんは、みすずの『現代史資料』に集められていた左翼的なビラの一枚を見て、「この視点がなかったんだ」と言った。それは、英語を訳したビラなんだけれど、侵略しなくても分配をちゃんとやっていけば、この島国の中で十分食べていける、という視点のものでした。こういう視点がなかった、落ちている、と五味川さんは言っていました。勝てないから戦争をやらないんじゃなくて、勝てても戦争はやっちゃいけないし、食べられないからよその国へ侵略すると考えがちだけれども、侵略していかなくても、富をきちんと分配すれば、十分食べていける。避けようとすれば避けられた戦争だった。しかし、この視点が戦争中もいまもない、と。 125-126ページ
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実はこのビラは、開戦後アメリカで対日宣伝をしていた石垣綾子氏が書いたものだ、というオチがあるのですが、それはともかく、佐高氏が「つまり、戦費に予算を使うから経済が苦しくなるので、苦しいからどこかへ行きましょうという話ではない。そこは、絶対に抑えなければならない点です」(126ページ)と述べているのも重要です。五味川氏が「この視点が戦争中もいまもない」と言うのは侵略戦争の見方に関しての発言でしょう。つまり、食べられないから避けられない戦争だった、といまだに思われているのは誤りだ、という批判でしょう。それも大切な問題ですが、さらに言えば「この視点」は現代経済に適用するという意味で「いま」にも通用するものではないでしょうか。
つまり、侵略戦争と国民経済という視点は、グローバリゼーションと国民経済という視点にも通じるものがあるのではないか。かつて侵略戦争は(一部の人々を除いて)不可避と思われていましたが、現代の私たちは五味川氏とともにそうではないことを知っています。人命を初めとしたすべてのものを破壊する戦争を、避けられないもの、仕方ないもの、それどころか賛美すべきものと思う、というのは人間として何と情けない状態でしょうか。しかしかつてそれが世を覆っていたのです。
今ではグローバリゼーションは不可避のもの、それに勝ち抜くことがすべてを差し置いて優先されています。確かにグローバリゼーション一般は不可避であり、社会進歩の一環ともいえます。しかし今のグローバリゼーションのあり方は、資本蓄積のために人民の生活と労働を犠牲にすることを当然の前提としています。多くの人々はそれにひたすら耐え、指導者といわれる人々はこの状態を賛美し助長することを求めています。私たちは侵略戦争の本質を知っています。同じ理性を働かせて、後の世の人々は私たちのこの時代をどう規定するだろうか、と想像してみましょう。そうすることで「歴史としての現代」(スウィージー)を把握し変革の可能性をつかむことができます。
戦前の日本は他国を支配することで経済的苦境を乗り越えようとしましたが、その苦境は半封建的資本主義体制による狭隘な国内市場などの問題に原因がありました。侵略と軍事経済化で克服できるかに見えても、根本原因が解消されないのだから、果てしない泥沼にはまり破滅を迎えるほかありませんでした。ベトナム戦争時代に、ベトナム問題とは実はアメリカ問題だともいわれました。敵を外に作り出すことで国内問題を塗りつぶしていくことは今の日本でもおなじみのやり方です。今日のグローバリゼーションもまた外圧ですが、それを作り出しているのは米日欧などの多国籍企業です。それは母国も含めて各国の国民経済を破壊しても最大限利潤を追及しています。資本主義経済はすでに人民の生活と労働をまともに保証できる生産力水準に達しているのに、それが実現できていないのは多国籍企業を頂点とする新自由主義的グローバリゼーション秩序のおかげであり、現代版の資本主義的生産関係の陥穽といえます。人民の生活と労働の豊かさの総和としての国民経済の豊かさではなく、人民を貧しくすることで資本が肥え太る形での国民経済の「豊かさ」がここでは共通の形態となっています。こうした格差景気は多国籍企業と国民経済との矛盾にその主要な原因があります。
萩原伸次郎、中本悟、夏目啓二の三氏による座談会「アメリカ版『格差景気』のゆくえ」を読むと「オフショアのサービス輸入」というものが出てきます。「従来行われてきた工場労働ではなくて、知識労働、事務労働で、アメリカの中間層の仕事といわれている仕事を、海外で業務委託して逆輸入する」(148ページ)ところまで行っています。金融アナリストの仕事はインドで、医療事務はフィリピンで、というふうにオフショア先はもはや世界中に及んでいます。「こうしたグローバル企業が発展すると、いったいアメリカ国内に何が残るのか、どの雇用が残るのかという問題が深刻になってきます」(150ページ)。アメリカのホワイトカラーの悲惨な労働状態が注目されるようになりましたが、そこにはこうした背景があるようです(日本でも「人件費の安価な海外企業へのソフト開発発注」が広がり、「受注単価の低価格」傾向が強まり、情報関連サービス業の倒産が増えています。「しんぶん赤旗」3月14日付)。問題はアメリカだけでなくオフショア先にもあり、インドなどは第3次産業が肥大化して製造業などが不十分であり、産業構造が歪んでいます。アメリカ流の株主資本主義は世界中から資本を集める仕組でもあり、アメリカ経済と世界経済のつながり方とも関係しています。
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アメリカの貿易赤字ですが、マクロ的にいえば、アメリカは完全雇用に近い水準で輸出をして、それ以上に輸入をしているところから拡大しているのですから、収支を均衡にもっていくのは無理です。貿易収支を改善させるには、輸入を抑えるしかないのですが、そうすると、日本や中国をはじめ世界経済の景気が悪くなる。それも困るから、アメリカは貿易赤字を出し続けながらも、世界の資本を引きつけてドルを維持するシステムをつくるほかにない。そんな状況がかなり続きそうです。 萩原氏 159ページ
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グローバリゼーションと国民経済という問題において、アメリカの場合は基軸通貨特権という特殊性を抱えており、他国以上に国民経済の歪みが調整されずに拡大し、それが世界中に悪影響を与えています。格差景気の日本は個人消費の低調さをアメリカ向け輸出頼み(あるいはアメリカ向け輸出目当ての中国市場頼み)で糊塗しています。最大のアメリカ経済が世界の模範となって健全化するのではなく、歪んだアメリカ経済に世界経済が合わせて各国の国民経済の歪みと連携して何とか成り立っている状況です。株主資本主義というのは何か立派な仕組かのように言う向きがあります。それに対して長期的視点がない、などという批判だけでなく、世界経済の中でのアメリカ経済の歪みの徒花だ、という指摘が必要でしょう。
アメリカ主導の新自由主義的グローバリゼーションから離脱しない限りは、各国は国民経済の歪み・人民の生活犠牲を免れません。かといって萩原氏の指摘する状況からすぐに脱出できるわけでもありません。確かエマニュエル・トッド氏だったか、イラク戦争批判の文脈の中で「アメリカは世界を必要としているが世界はアメリカを必要としていない」と言っていますが、現実はそこまでは進んでいないように見えます。しかし歪んだ国民経済を世界に押し付けるようなアメリカは本当は世界にとって不要であり、世界の仲間に入りたければ国民経済を健全化して、ワン・オヴ・ゼムの姿勢でやってこい、と言えるような状況を作ろうという動きは芽生えています。日本人にもその遠大な道を歩む展望が必要です。たとえばEUにならって東アジア共同体の構築、国連やILOなどの国際機関を通じた人民の生活と労働のディーセントなグローバル化、新たな平和秩序の追及といった大ざっぱなことしか浮かんできませんが、着実な道であろうと思います。確かにアメリカの政治・経済・軍事力はぬきんでていますが、お膝下の中南米を初め世界的にはその覇権にほころびが出始め、新自由主義に反対する声も大きくなっています。その辺り、マスコミが対米一辺倒の日本では実感しにくいところです。私たちの周りでも世界社会フォーラムのように「もう一つの世界は可能だ」という思想を掲げつつ、家庭や職場・地域から具体的な要求実現の不断の活動を続け、政治変革に各種選挙での前進が求められます。
ところで日本の支配層は一方で侵略戦争を反省せず、他方ではグローバリゼーションに対米従属的に追随しています。前者は靖国問題に見られるようにアメリカとの一定の軋轢を含む姿勢であり、両者は矛盾します。従軍慰安婦問題での安倍首相発言への厳しい批判もアメリカから聞かれます。もちろん対米従属は日本国家の本質なので支配層としては適当なところでの折り合いを常に考えているでしょう。上述の「侵略戦争と国民経済」及び「グローバリゼーションと国民経済」という視角からすれば、支配層が国民経済への無責任な姿勢を取る限り、戦前では侵略戦争に、今日ではグローバリゼーションへの対米従属的追随になります。社会的再生産の視角からは<人民のまともな生活と労働→国民経済の豊かさ→世界経済の発展>となります。しかし「資本蓄積は独立変数であり賃金は従属変数である」という資本の観点の今日的適用からは<新自由主義的グローバリゼーション秩序→国民経済の歪み→生活・労働破壊の上の資本蓄積>と転倒します。「生活の豊かさと労働のまともさに支えられた国民経済」からはずれた病弊がかつては大東亜共栄圏を今日では対米従属的グローバリゼーションを生んでいるともいえます。ここには人々の生活のあり方への無関心だけでなく、個別資本(かつての財閥、今の多国籍企業)の利益に目が眩み総資本の立場にさえ立てない政府と財界の姿があるように思います。今の日本の支配層が侵略戦争無反省かつ対米従属であるのは、復古反動派と新自由主義派との連合のそれぞれの性格が現われたせいでもありますが、より大きくは人民の生活と国民経済への無責任さという基本姿勢の現われではないか、とも思えます。アメリカの支配層は日本の復古反動派を大いに批判しておりそれ自体は大変けっこうです。正しいことは誰が言おうとも正しいという意味において。ただし彼ら自身の侵略戦争への無反省は日本の比ではないほど厚顔無恥であり、自らの国民経済の歪みを世界に押し付けて「解決」しようとする覇権主義を正義と信じているイデオロギーの異常さも「控えめな」日本の比ではありません。このような支配層に対して、日本とアメリカそして世界の人々が自らの生活と労働を守り発展させるために行動することは、個人・国家・世界の利益にかなうことだと言えます。
日本国憲法は世界のブルジョア憲法を引き継いで、個人の尊厳から出発しています。個人の尊厳は元来は封建的抑圧からの解放を意味したのでしょうが、今日では資本の抑圧からの解放と読み替えることも可能です。どんなに「好景気」であっても財界は賃金を抑制しています。個人がまともな生活と労働を求めることが企業を不利にし、日本経済の国際競争力を害する、従って、自己の要求を抑えて「公共」や「国」のために尽くせ、という論理でしょう。グローバリゼーション下の競争国家的愛国心といえます。個人の発達の抑圧の上に立つ世界像です。資本が歴史に現われるときに掲げた個人の尊厳をこうして投げ捨てるとき、私たちが拾い直しましょう。個人の幸福追及権は自由権に属しますが、今日の厳しい経済情勢の下では生存権と不可分といえます。上述の社会的再生産の視角からは諸個人の発達こそが社会全体の発達の基礎となります。こうして新自由主義へのオルタナティヴ「もう一つの世界」像の実践的構築は憲法原理の発展的継承にも導かれるものといえます。
2007年5月号
総特集「世界の多国籍企業」を通読して、細かい分析につきあえるような能力はないので、漠たる印象と問題意識を述べるにとどめます。
産業別の分析としての力作が並んでいますが、全体を総括する論稿がないのが残念なところです。もちろんうかつに観念的な図式で裁断したりするといけませんが、世界資本主義の再生産構造とでもいえるものを捉えることが必要でしょう。産業構造、実体経済と金融との連関、資本=賃労働関係といったものを世界的に見渡したいのです。
大ざっぱにいえば、資本主義経済は、商品=貨幣関係を土台として資本=賃労働関係がそびえたっています。資本=賃労働関係をタテの関係とすれば、商品=貨幣関係はヨコの関係となります。資本主義経済においてはヨコの関係は単純流通にとどまるのでなく、資本間競争へと発展していきます。ここで『資本論』の理論展開を思い出しましょう。剰余価値率の均等を前提にして、利潤率の格差をめぐって資本間競争が展開され平均利潤率が形成されます。資本主義経済において、資本=賃労働関係はより本質的な関係であり、それと比べれば資本間競争は現象的な関係である、という認識がここにはあります。一定の生産力下では、「労働力の価値」としての賃金をめぐる資本家階級と労働者階級との力関係で剰余価値率が決まり、それを前提に個別資本家どうしで剰余価値の分配をめぐって争奪戦が闘われ、長期平均的に見れば平均利潤の形成に至るわけです。もちろん現実は単純ではないにしても、資本主義経済の本質的関係はこのようなものでしょう。
グローバリゼーション下においてはこれが逆転しているのではないか、という気がします。多国籍企業の本格的展開が20世紀社会主義世界体制の崩壊と遭遇することで、世界資本主義は「市場拡大の時代」に突入しました。発展途上国と「移行経済」諸国や「社会主義市場経済」を自認する諸国は世界資本主義に新たな市場と低賃金労働力を供給し続けています。「労働のフレクシビリティ」とは資本=賃労働関係における資本の絶対的優位を象徴する言葉です。今や多国籍企業が世界的に繰り広げる資本間競争が主体であって、資本=賃労働関係は「フレクシブル」に従属しています。ILOの「ディーセント・ワークのグローバル化」はこの主従を逆転させる試みだと思いますが、現実がそうなっていないからこそ目標として掲げられたスローガンです。世界資本主義やそこでの多国籍企業のあり方を全体として見る場合、資本間競争だけでなく、それが資本=賃労働関係とどのように絡み合っているかをまず捉えるべきでしょう。
蛇足ながらこの観点は政治の見方ともつながってきます。我々は、大企業支援の政治を「逆立ち」として糾弾し、人々の暮らしを守るまともな政治に転換するよう主張しています。保守勢力やマスコミの大勢にとってはそういう主張は場違いで問題外と映ります。彼らにしてみればグローバルな資本間競争の厳しい現実がすべてであり、「労働のフレクシビリティ」はその当り前の前提であって、それらを認めないのは非現実的なのです。我々はまともな生活と労働を前提に、資本=賃労働関係を中心とした階級関係から政治を捉える立場から資本間競争を相対化しうる視点を持っています。両者のすれ違いは決定的であり、我々としては彼らの見方を(単なる人でなしの言い種ではなく、それなりに切実に現実を反映していると)「理解」することによって、マスコミなどを通して彼らの影響下にある人々を奪回する説得力を持つことが必要です。
資本間競争を見る際には、様々な逆方向への流れの共存という錯綜した関係を捉えることが大切だと思います。グローバリゼーション下では競争の激化ということが一方的に見られがちですが、他方では寡占化も進行しています。資本の集積と集中という見方は寡占化を捉える方向ですが、かつてはこれが経済の停滞傾向とあわせて言われることが多かったように思います。しかし今日ではそれは停滞傾向だけでなく競争の激化や生産力の飛躍的発展とも共存しており、その基礎に生活と労働の犠牲があります。大西勝明氏の「電子機械」はその辺りの様相を活写しています。
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なにより、日本電子機械工業は成熟化しており、国内での生産の低迷が、多国籍企業間の激しい競争を招き、急激な製品価格下落と海外依存を強めている。二一世紀的厳しさと国際的な広がりを持つ産業再編が展開されている。製品価格の低落は、一方で、一層の設備投資の増大を、他方では、設備投資の手控えを生み、寡占化を進行させ、多国籍企業による排他的市場支配が、談合等競争制限的行為を招いている。そして、多国籍企業のリストラチャリングの加速化、あくなきコストリダクションの追及は、CSR(企業の社会的責任)調達の拡充といった建前を無意味なものとし、品質をないがしろにした欠陥製品を生みだし、労働者に犠牲を転嫁し、劣悪な労働条件の温存に帰結している。 69ページ
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激烈な競争による製品価格の低落は、一方ではコストカットによる労働者への犠牲と欠陥商品の製造に直結し、他方では勝利した有力企業間での価格カルテルなどの超過利潤の追及に帰結します。ここには格差景気の一つの原因があるように思います。また激烈な競争による価格低下は、需要動向に対して(あるいは時には絶対的意味でも)過剰な生産能力の形成によるものだから、それは必ずしもいわゆる消費者利益になるとはいえません。このように今日の激烈な資本間競争は、一方では労働力の再生産の不全と資本の超過利潤、他方では過剰生産を生み出すわけなので、国民経済の正常な再生産への妨げとなります。しかしそのような形での資本蓄積を続けなければ個別資本は没落するし、資本主義国民経済としても立ち止まるわけにはいきません。「上げ潮」路線などと、人々の生活を犠牲にしてまでも経済成長を自己目的的に追及するのはそのためでしょう。資本主義経済の本質としての無政府的生産が、新自由主義的グローバリゼーション段階では歪んだ社会的再生産の強行突破の継続として現われます。このレールを走り続ければ、生活と労働の、従って人間の破滅に至ります(いわゆる「新自由主義の暴走」とはそういう意味でしょう)。脱線転覆しないように別のレールに誘導しなければなりません。しかし暴走する列車にどう対処するか、悩ましいところです。大西氏が「二一世紀に突入しての日本多国籍企業の復活は、国民的な課題でさえある。だが寡占化による市場独占は、技術革新を妨げ、顧客の選択肢を狭くするとの批判を受けている」(78ページ)と述べているのは、現在のレール上で失速しない必要性と別のレールに移る必要性という矛盾する課題を提出したものでしょう。
総特集「世界の多国籍企業」の諸論文からは死に物狂いの資本間競争が見えてきます。新自由主義の過信的かつ傲岸不遜な姿勢、「構造改革」の確固とした苛烈さなどはその反映でしょう。激烈な競争戦にある個別資本の目から国民経済や世界経済を裁断したものが新自由主義の理論ではないでしょうか。しかし「個別諸資本の観点」を総計しても「総資本の観点」にはなりません。そこには合成の誤謬があるというべきです。ましてや財界の主流が、国民経済と一定乖離した多国籍企業であることは、この事情を深刻化させます。労働力の保全やバランスある産業構造といった「総資本の課題」はもはや人民が担わなければなりません。資本主義経済において資本間競争をなくすことは不可能だし不必要ですが、競争の条件を社会が強制し、まともな社会的再生産を確保できるように誘導することは必要です。
以上の議論には大きな限界があり、先の課題があることは明白です。さしあたって思いつくことだけでもあげてみます。一つには、新自由主義的グローバリゼーションという形態をまといながら進行した、情報通信革命など新たな生産力や社会の変化の内実をいかに捉えて批判的に継承発展させていくか、という課題です。二つには、そのような経済の最先端に伍して、生活密着型の小経営がどのように独自の論理をもって存在していけるか、という課題です。三つには、競争と規制とを経済の動態の中で捉えて、自己目的化した成長路線ではなく、生活優先・内需主導のゆるやかな成長路線を創造していく課題です。もちろん私ごときが今さら言うまでもなく、すでに多くの諸研究があるだろう諸課題ではありますが。
2007年6月号
佐貫浩氏の「安倍教育再生会議と私たちの教育改革 公教育の荒廃と教育力剥奪の『改革』を押しとどめる協同を」では、教育再生会議における新自由主義派と国家主義派の「対立」と相互補完関係が指摘されています。両派の「対決」があたかも教育改革をめぐる国民的議論の対立点であるかのごとくに見せながら、安倍首相の新自由主義と国家主義の教育改革のバランス調整を行っているということです。事実としては、この間の新自由主義的社会「改革」によって貧困化が進んだことで、教育面でも学力の低下が起こり、これに対して教育「改革」による管理強化と果てしない多忙化による教師の困難が重なり、教育の悪化が国民的にも実感される事態となりました。
しかし世論としては、教育の悪化に対して、教育再生会議の掲げる管理強化策…ゆとり教育の見直し、教員免許更新制度の導入、いじめる側の生徒の出席停止制度の活用、等…が高い支持を集めています。佐貫氏はこう指摘します。
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それは、この間の社会の大きな変化、不安化、格差化、未来への見通しの剥奪等々に曝されていることへのストレスのはけ口を、懲罰的かつ取り締まり的な政策への支持と繋いでいくような状況の産物ではないか。また教育の「悪化」の不安と怒りを教師に向けるマスコミなどの操作が一定の功を奏している面があるのではないか。それを打ち破るには、事態の本質と解決の道を深く解明することによって、この教育再生会議の論理を丁寧に対象化し、組み変えていくような説得的な議論が求められている。 80ページ
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日本の恥ともいうべき石原慎太郎という人物が都知事選挙で圧勝するという深刻な事態も、このような「状況の産物」かもしれません。抽象的にいえば以下のようになります。階級社会の政治は被支配階級に犠牲を押し付けるので、彼らに様々な苦難が生じます(資本主義社会ではそれは社会問題として認識されます)。民主制においては、そうした事態の本質を被支配階級に知られないようにして、彼らが現状の支配体制を支持するように仕向ける必要があります。そこでは彼らの苦難の原因を隠して代わりにスケープゴートを用意するのが効果的です。スケープゴートを叩くことが問題の解決だと思わせることができるからです。「構造改革」においては、「特権階級」としての公務員とか、「既得権」にあぐらをかく「非効率的な経済主体」などを、「市民」や「消費者」に敵対する「抵抗勢力」として血祭りにあげることができました。それによって新自由主義的「構造改革」の反人民的本質を隠蔽し、多国籍企業のための弱肉強食の「改革」を推進してきました。教育においても、教師をスケープゴートにして、管理と競争の教育があたかも解決策であるかのようにいわれています。佐貫氏のいうように、スケープゴートとされた教師が親・住民とともに教育と学校を良くする方法を明らかにしていく協同を重ねていくことで、「事態の本質と解決の道」が開けてくることでしょう。それは支配層による俗耳に入りやすい懲罰的政策のようにお手軽ではないのですが、確実で不可逆的な道です。
現代日本の支配的イデオロギーは、新自由主義と国家主義との対立的補完関係によって成り立っています。新自由主義的「構造改革」は必然的に、貧困・格差・社会不安をもたらします。そこに批判が向かないように、一方では資本利潤至上主義とその手段としての競争至上主義を聖域として御用学者を先頭にマスコミが死守しています。他方では治安悪化に対する懲罰的取り締まり的政策への短絡的支持が煽られ、社会的ストレスへのはけ口として(北朝鮮や中国などへの)排外主義、それに乗じた国家主義・権威主義的統合が狙われています。本来は新自由主義と国家主義とは、グローバリゼーションの推進とそれへの反動という対立関係にあります。しかし一方では新自由主義の世界制覇の下で国家主義も何らかの形での共存を受け入れざるを得ないし、他方では新自由主義は自己の生み出す社会矛盾を解決する原理をそもそも持たないので、国家主義的社会統合を利用せざるを得ない、ということで醜い相互補完関係が成立します。現在の日本では安倍「靖国派」政権の誕生で、国家主義が全面に出ていますが、新自由主義との共存はもちろん追及されています。それは対米従属政権として当然のことです。私たちとしては、新自由主義と国家主義との対立的補完関係におけるきしみなどをいかに衝いていくかが問題となります。たとえば「従軍慰安婦問題」などに見られる米国支配層と安倍政権との矛盾などです。
作家の雨宮処凛さんはこうしたイデオロギー状況を身をもって生きてきました(「しんぶん赤旗」4月30日、「憲法施行60年 いま言いたい/生きづらさの原因見えて」)。彼女はいじめ、自殺未遂を経験し、右翼団体に所属しましたが、今では「赤旗」紙上で護憲を語るまでになっています。その記事によれば、ここ十年くらい若者の生きづらさにかかわってきて、社会のいびつさに原因があると思いながらもそれが何かわからず、一年前に新自由主義批判の講演を聞いて氷解した、ということです。ここで若者の問題を憲法25条の生存権の観点で考えるようになりました。右翼団体にいたのは、物質主義や拝金主義への反発からでしたが、真の敵がわからず、北朝鮮や中国に向かってガス抜きさせられていただけ、と今では理解しています。右翼団体で憲法を読んだときに前文の平和的生存権に感動してしまったそうです。
実に鮮やかに新自由主義や国家主義からまともな社会認識への転回が語られています。
社会問題の本質としての新自由主義の把握が憲法の意義の認識と結びつくことで、競争第一主義や自己責任論、排外主義などの表面的な社会認識を克服していったことがよくわかります。この典型的な体験を国民的規模で実現するのが今の課題ではないでしょうか。<経済+政治>の並びでいえば、<新自由主義+国家主義>から<経済民主主義+(古典的)自由主義>に向かう変革です。この国民的転回の機軸は戦後民主主義であろう、と考えています。日本国憲法下での戦後民主主義の国民的体験は重要です。理論は人民をつかめば物質的力となる、という言葉がありますが、人権・平和・民主主義というのはかなり人々の生活に浸み込んだ部分があるので深い力になると思います。ひどい社会状況の中で、人間を大切にしたいという思いを経済でも政治でも貫いていくことが幅広い共感の基盤を形成していきます。日本国憲法という成文法はその具体的な形を示した結節点として60年の歴史と共に様々な立場の人々に共有されうるものです。もちろん日本国憲法が想定しているような成熟した「主権者国民」が現実に十分に成立しているわけではありませんが、憲法の還暦は単に馬齢を重ねたとも思えません。「9条の会」の発展に見られるように、今そこに私たちの最大の拠点があります。
座談会「働くルールの確立を EUと日本の現状から」では、各グローバル・ユニオン(国際産業別労組)が調印に力を注いでいる労働協約の新しい方式「国際枠組み協定」(IFA)が紹介されています。『前衛』6月号の筒井晴彦氏の「企業の社会的責任と世界の労働組合」ではより詳しくわかります。IFAは企業の社会的責任を明記した労働協約であり、ILOの中核的労働基準を承認し、取引・下請企業にも適用されます。
多国籍企業間の競争激化により労資関係は悪化し、世界的に生活・労働の底辺への競争が進行しています。このように資本間競争が資本=賃労働関係を規定するのは逆立ちであり、まともな生活と労働を保障する労資関係がまず前提され、企業間競争はそれに従うべきです。さもなくば労働力の正常な再生産は破壊され、製品・サービスの安全性も危うくなり、世界経済の歪みは大きくなるでしょう。ILOの「ディーセントワークのグローバル化」はこの逆立ちを是正する方針であると評価しうるのですが、その実現は「資本の理性」には期待できません。その具体化の一つとしてIFAはきわめて重要な意義をもっています。このようにまともな生活と労働を求める人々の願いと運動は世界を動かしつつあるといえます。日本の逆立ち政治の根源をたどれば、上記の「資本間競争が資本=賃労働関係を規定する」ような逆立ちした世界経済に行き着きます。IFAの締結のような新しい動きを無視して、逆立ち政治を続けることは人民の災難だけでなく、世界的進歩に立ち遅れることになります。大企業奉仕の「構造改革」ではなく、偽装請負を是正した青年労働者の闘いなどにこそ日本の未来があります。しかしその実現のためには、日本の人民の目を広げる必要があります。今まではグローバリゼーションといえば、アメリカの目を通して多国籍企業主導の新自由主義的グローバリゼーションしか見えませんでした。そうではなく大きく世界を見て、ディーセントワークのグローバル化を具体化する動きもあり、そこへの合流が日本経済の人民本位の再建につながる、そのビジョンを指し示すことが大切です。
先ほど少し触れた東京都知事選挙についてはネット上で以下のような見解を見ました。
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○浅野史郎(前宮城県知事。4月の東京都知事選で石原慎太郎知事に挑み、大差で敗れた)「[何が敗因かと尋ねられ]一番は図式の問題。『石原都政、我慢できますか』と訴えたが、考えてみると、これを実感しているのは、教育や福祉の現場などで実害を受けている人たち。数は限られていた。(中略)妻は選挙前から『悲鳴を上げているのはごく一部の人たちでしょ』と言っていた。勝算有りと信じた私や参謀は、反対した妻や娘に負けた」
(「朝日新聞」2007年4月14日夕刊「都知事選で敗れた浅野史郎さん(インタビュー)」。
二木コメント−残念ながら、これが「厳しい現実」と思います。私はこのことに1980年代末に気づき、『90年代の医療』(勁草書房,1990)所収の「医療政策を分析する視点・方法論のパラダイム転換」で、以下のような問題提起をしました。「貧困層と中所得層との医療要求の質が大きく異なってきている」ため、「貧困者医療の切り捨て政策を批判する」だけの「社会保障権的視角のみからの医療政策批判では、貧困層の支持は得られても、今や国民の多数を占める中所得層の支持や共感は得られず、その結果、政府の思惑通りに貧困層と中所得層との分断が促進される」。これを防ぐためには、「生存権・社会保障権的視角に、医療技術・サービスの質を向上させるという視角を加え、[医療政策を]『複眼的』に検討する必要がある」(78-81頁)。
「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻33号)」2007.5.1発行、より
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都知事選挙の結果については「都民は自身にふさわしい知事を選んだ」という投げやりな気分にもなりがちですが、もちろんそれは論外の敗北主義であり、都民のおかれた状況や心情をよりよく理解して対策を考える努力が必要です。石原人気については、先述のように、新自由主義がもたらした荒れ地に生えた国家主義の「美しい」毒キノコを誤って食べた、というような状況だと一応は思っています。より丁寧な解明が是非とも必要でしょうけれども。
毒キノコは都民全体にじわじわと効いてくる、というのが客観的展開でしょうが、浅野氏のいうところが正しいとすれば、少なくともいまのところ主観的には多くの人々は都政に特段の不満はないようです。一部の悲鳴が「教育と福祉の現場」から出ているということは、教育の場合はおそらく「君が代」強制問題も含まれますから、単に経済上の階層区分だけでなく、人権意識での区分も含まれますので、問題は複雑です。それはとりあえず措いて、二木氏は、都知事選挙における少数派と多数派との区分の問題を、医療政策での貧困層と中所得層との区分の問題になぞらえて、社会科学的認識の問題点として、一般化して提起しているように思えます。
テーマは、政策次元における社会科学的認識の実践性(あるいはそういってよければ実用性)ということではないか、と思います。資本主義経済の本質論あるいは人権論の考察においては貧困層をターゲットにした分析が問題の重要な環だということになるでしょう。矛盾の集中点に本質があります。しかし政策実現の視点からいえば、単純に多数派の意識をつかむことが逃せません。そこで医療政策の場合では必ずしも矛盾の集中点ではない中所得層の要求も併せて捉えることが重要となります。ここに政策の「複眼的」検討の意義があるのでしょう。
社会科学研究は本質の洞察に醍醐味があるかもしれませんが、政策実現となれば、その周辺のあまり「面白くない」部分の把握が重要だといえそうです。福祉を切り捨てられて本当に困窮している貧困層や福祉関係者、「君が代」を強制されて苦汁の選択に直面した人々はまさに、政治・経済的に都政の重要な環を生きた人々であり、そこに都政の本質があるのは疑えません。しかし選挙は単純多数という現象を争うものです。とりあえずは政治への特段の不満を抱いていない層にも様々な要求はありますから、それをもつかまなければなりませんし、悪政が住民に及ぼす影響は貧困層だけにとどまるわけはありませんから、それを広い層に明らかにすることが必要です。
もちろん選挙というのはきわめて複合的な政治現象ですから、ここで述べたことはほんの一部分に過ぎません。しかし政策次元における社会科学的認識の実践性が要請する「複眼的」視点は興味深い論点です。それは「本質の洞察」と「現象をつかみ取って変革すること」との結節点といえるのではないでしょうか。
2007年7月号
もともと近代経済学では、市場においては投機は当然の行動と考えられているので、ヘッジファンドなどの活動を活発化させるために規制緩和することは、市場を自由化・透明化し公正にすることだと捉えられます。株主資本主義ということで企業に短期的利益を重視させ、意にそぐわない場合は乗っ取りに出るようなことも、市場主義の立場からは公正な活動とされます。以上のような活動が盛んになるのは、実体経済から遊離した金融経済の肥大化、つまり資本主義の寄生性・腐朽性が背景にあります。しかしそうした社会的・歴史的観点を持たない平板な「純粋市場理論」の立場からは弁護論が聞こえてくるばかりで、人々の生活と労働、国民経済や世界経済のあり方はどうなのかは聞こえてきません。いや逆にそうした活動、「市場の自由」という名での寄生的な剰余価値追及の無規制・放任に適合するように経済のあり方をすべて「改革」せよというご託宣が下されるばかりです。このように「純粋に技術操作的で脱イデオロギー的」に見える理論を現実に適用すると実に露骨に階級的な結果が導かれます。まさに現代資本主義を主導するイデオロギーです。
このような市場の美化という逆立ちした観点ではなく、人々の生活の観点から経済を見るためには、国際金融の基礎的仕組を知ることが不可欠です。松本朗氏による誌上ゼミナール「国際通貨・金融から考える日米関係の異常さ」では、「ドルに依存しつつドルを支える」構造が日本経済を規定し格差社会をもたらしていることが簡潔に説明されています。長期的には多額の為替差損(外国為替特別会計、2005年度末残高で11兆5000億円余りの累積評価損)を被りながらも、ドル暴落を防ぐために保有し続けなければならないという呪縛から日本経済は逃れられません。こうして日本が輸出で稼いだ購買力は国内で活用されることなくアメリカに還流しその経済を支えます。それに合わせて90年代の不況対策の失敗もあり日本の国内市場は狭くなり大企業は海外展開を強め、国内労働者には低賃金を強要し、消費減退・産業空洞化・地域経済の衰退といった悪循環に陥りました。アメリカの国際金融市場には日本や中国などからの還流資金があふれ、これが世界中の金融市場に流れ投機が横行します。このような金融肥大化が社会の一方に一部の富有層を生み出し、他方に先の悪循環経済の中に大量の負け組が生まれ格差社会が形成されます。
ずいぶん乱暴な要約で、通じていない部分もありましょうが、Economicsではなく社会経済学の見方が大切だと思います。労働が生み出す価値がどのように展開して国民経済と世界経済を形成していくか、と見ることで、私たちの生活とグローバルな投機経済の動向も統一的に捉えられます。現在の世界通貨体制においてドルが円などを収奪していることを捉えるなら、アメリカ流のグローバリゼーションを天まで持ち上げている日本の新古典派・新自由主義者の見解はとても受け入れられないと思うのですが。
「朝日」5月23日付の「労働生産性 日本なぜ低い」という記事は見逃せません。社会経済生産性本部の「2006年版労働生産性の国際比較」によれば、2004年において日本はOECD加盟30カ国の19位で、主要先進7カ国では11年連続で最下位。1時間当たりの生産性も19位です。感覚的にはまったく信じられない結果で、考えもまとまりそうもないので、誰かきちんと分析してくれないか、という気持ちで、思いついたことを以下ランダムに並べてみます。
ここでの労働生産性の定義は「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出する」とあります。また購買力平価に換算して比較します。細かいことをいえば、付加価値の総額(V+M)は国民所得であって、GDPではありません。しかしこれはおそらく減価償却費の会計上の扱いの複雑さからくる統計上の困難を避けるために、通常GDPを国民所得の代替的指標として利用しているのでしょうから、仕方ありません。またこの定義でも「1時間当たり」でも日本は19位ということは、日本の労働生産性の国際比較においては、労働者一人当りでも1時間当たりでも近似的に扱うことができるということです。
ところで根本的な問題をいえば、この定義は要するに付加価値生産性です。「これはあくまでも貨幣単位によって示されるので、物的な生産性ではない。単位労働時間当りの所得を示すから、不等価交換の尺度としての意味をもつ。しかし、資本家的な立場からはこれが生産性として理解される」(『大月経済学辞典』、松田和久氏による「労働生産性の測定」から)。価値量と使用価値量を俊別し、本来の労働生産性とは単位労働時間当たりの使用価値の生産量であるとすれば、同じ使用価値については労働生産性の国際比較が可能ですが、様々な使用価値を含む国民経済全体どうしでのその国際比較は不可能だといわねばなりません。
しかしこれは身も蓋もない批判で、せっかくの統計だからそこから読み取れるものがあるかもしれないし、この記事が提起している問題について考えるべき点があるかもしれません。この統計が俄然注目されたのは、日本のホワイトカラーの生産性が低いことを示す根拠としてであり、それをもってホワイトカラー・エグゼンプション(WE)導入の論拠とされたためです。ただこの記事を見る限りでは日本の「労働生産性」(厳密には付加価値生産性であり資本家的観点による労働生産性だが、以下では「労働生産性」と表記する)全体が低いことは分かりますが、ホワイトカラーのそれが国際比較において低いかどうかは分かりません。関連した指標として参照しうるのは、社会経済生産性本部の2004年についての試算です。全産業の平均を100とした場合の日本の産業別「労働生産性」は以下のようになります。
農林水産業 31
製造業 116
電気ガス 355
建設業 69
飲食卸小売業 76
運輸通信 117
不動産金融 428
サービス業 78
国内比較とはいえ、ホワイトカラーの「生産性」は低いどころか圧倒的に高いのです。ブルーカラーの多い製造業が116であるのに、ホワイトカラーばかりの不動産金融は428です。しかしそれを見て思うのは、やはり付加価値生産性をもって労働者の働き方の善し悪しを云々することの荒唐無稽さです。この数字から、たとえば銀行員は農民の13.8倍、工員の3.7倍もよく働くなどと言えますか?いくら何でも同じ日本人どうし、働く人々の間で産業によってそれほどの能力の差があるはずがありません。つまり大変な不等労働量交換があるのですが、その根拠を考えるのは重要な課題です。いずれにせよ「労働生産性」はホワイトカラー・エグゼンプションの導入根拠ではありえないことは明白です。
ここで思いついたのが、では一人当たりGDPの国際比較はどうなっているのか、ということです。上の「労働生産性」にそろえて購買力平価で比較します。「国民経済計算」によると2004年で日本はOECD加盟30カ国中16位です。「労働生産性」をどうこう言う前にすでにこの低位です。どうやら社会経済生産性本部のこの統計は、GDPを人口で割った「一人当たりGDP」に対して、GDPを就業者数で割って「労働生産性」と規定しただけのようです(違っていたらすみません)。一人当たりGDPにおいては、日本は米ドル単位で29567で、イタリア(27312)、ドイツ(28605)、フランス(29554)をわずかに上回っています。ところが「労働生産性」では、日本(59651)は、フランス(74626)、イタリア(73680)、ドイツ(65824)に大きく水をあけられています。おそらく日本は全人口の中での就業者の割合が多いということでしょう。それで一人当たりGDPで16位であるのに対して、「労働生産性」ではさらに19位に落ちています。
為替レートで比較すれば日本の順位は上がるでしょうが、購買力平価の方が、使用価値量を基準とした本来の労働生産性に近いので問題はより深刻だといえます。先に国民経済全体における本来の労働生産性は国際比較不可能だといいましたが、購買力平価を使って修正した付加価値生産性は本来の労働生産性にやや近づいたものだから、本来は不可能な国際比較の代替的指標として使用することがある程度できるのかもしれません。そうするとやはり世界に冠たる「カローシ」大国の「労働生産性」が低いというパラドックスは生き返ってくるのであり、結局初めの疑問はそのままです。このパラドックスが正しいとすれば、日本が世界第二の経済大国たる所以は、第一に労働力人口が多いためであり、第二には、購買力平価に比べて円高の為替レートによってGDPが過大評価されているためだ、ということになります。為替レートが円高なのは、一部の異常な生産性=競争力をもった貿易財が稼ぎ出す貿易黒字が主な原因であり、国民経済全体では生産性はたいしたことない、ということになりそうです。どのような産業や企業にあっても長時間かつ過密な労働をいとわない労働力による高い生産性が経済大国を支えているという「実感」は錯覚なのでしょうか。日本人はみんなで骨折り損のくたびれ儲けをしているのだろうか。こういうばかばかしいことではなく、人間らしく働いて生産性が高いというパラドックスがあるのならそうしたいところです。天皇制には反対でも愛国者の端くれのつもりなので、考えこみます。
「朝日」の当該記事では設備投資とサービス業の問題が指摘されています。まず設備投資については、情報通信技術への投資の伸び率が日本は欧米に比べて低いので「労働生産性」が上がらないのではないか、といいます。設備投資によって本来の労働生産性が上がり生産される使用価値量が増大すれば、使用価値1単位あたりの価値は下がり(使用価値量全体での価値の総量は不変)ますが、価格が不変かそれに見合うほど下がらなければ、特別利潤が生じます。通常、市場競争によってやがては価格が下がり特別利潤は消えますが、何らかの要因でそうならなければ、特別利潤が固定化し付加価値の格差が生じ、「労働生産性」の差として認識されます。貿易財以外では国際競争の影響が及びにくいので、こういうことが起こり、異なった国民経済の間で、設備投資の差による「労働生産性」の差が生じるかもしれません。
サービス業について記事は興味深い指摘を紹介しています。「日本は無料で質の高いサービスが得られるサービス天国。不親切な社会になればサービスにお金を払う人が増え、生産性は上がるかもしれないが、それがいい社会かどうかは別問題。生産性の数字だけを目標に掲げるのではなく、サービスの質の向上と両面で考えるべきだ」(明治大学大学院の近藤隆雄教授)。ここには価値と使用価値との関係があり、市場が使用価値のどの部分までを価値として包含するか、という問題があります。実際には同じ状況にあっても(たとえば同じサービスをしても)国によってその経済的意味が異なってくるということです。この場合、本来の労働生産性は同じでも「労働生産性」つまり付加価値生産性は違ってきます。なお本来はサービス労働などにかかわる生産的労働論の問題がありますが、ここでは措きます。
設備投資の問題でもサービス業の問題でも付加価値生産性の問題点を考慮することが必要です。
以上、統計の読み方はまったく大ざっぱであり、価値論上の勘違いもあるかもしれませんが、取り急ぎ拙速を省みず問題提起として書いてみました。妄言多罪。
6月14日に共産党の呼びかけで開かれた「自衛隊による違憲・違法な国民監視活動についての報告・抗議集会」に民主党の横路孝弘氏がメッセージを寄せています。その中に「個人的なことですが、戦前一九三四年、戦争に反対して治安維持法で逮捕されて三十四歳の若さで獄中で亡くなった伯父がおります」(「しんぶん赤旗」6月15日)とあります。この人は野呂栄太郎ではないでしょうか。野呂の生没年は1900年と1934年です。誕生日前に亡くなっていますから満年齢では33歳没となりますが…。かつて私が三重県津市在住のころ、当時の三重県安芸郡芸農町雲林院(うじい)というところに、野呂の父・市太郎の出身地を訪ね、野呂家の子孫の女性に会うことができました。さすがに私のような物好きは初めてらしく「共産系の人ですか」という調子で驚かれたようです。そのときにむしろそちらのほうが誇らしげに横路孝弘氏が親戚筋にあたる、ということを言われていました。おそらく当時、横道氏が北海道知事だったころではないか、と思います。
横路氏といえば社会党の少壮代議士として、沖縄返還にまつわる日米密約を国会で暴露して一躍名を上げたのが少年時代の私の記憶に残っています。ところがこの問題はまずは「外務省機密漏洩事件」にすり替えられました。日米関係の根幹にかかわる問題から目がそらされ、国家機密と報道の自由の問題にされました。もちろんそれ自身重要な問題ですが、そこからまた週刊誌ネタのスキャンダルに再度すり替えられ、情報をもたらした毎日新聞の西山記者と外務省の蓮見事務官が好奇の目にさらされることで、「世間的には」この重大な問題は終わってしまいました。今また自衛隊内では共産党への「情報漏洩の犯人探し」が必死に行なわれているに違いありません。裏ではそうしながら、表では「情報を集めて何が悪い」と開き直っています。権力側はどのような逆襲を考えているかわかりませんが、どうなろうとも日本の民主主義の成熟度が試されているのであり、すり替え・ごまかしで逃げられないよう、歴史の教訓に学ぶことが大切です。
今回の自衛隊の問題では、民主党も被害者であり、横路氏も毅然たる立派なメッセージを寄せてくれました。以前『世界』に民主党議員数名が安全保障に関する論文を載せていて、東アジア情勢などに対する認識では意外に私たちと共通する点があると思いました。民主党は靖国派から市民派まで抱えた選挙互助会であり、最悪の場合は自民党との大連立さえ不思議ではない党ですが、一部には共産党とも共同が可能な議員もいると思われます。「二大政党」的状況下で民主党全体には何らの期待もできませんが、共産党が躍進する状況では、流動化もありえるかもしれません。
政党論のようなマクロな議論ではなく、個々の政治家はどのようにして自己の立場を支えているのか、というミクロな話に若干興味があります。最近、武村正義氏が「9条の会」で講演したりしているようです。武村氏の経歴はよく知りませんが、学生、役人、政治家のそれぞれの時代を通してかなり紆余曲折があるようです。今思い浮かぶだけでも、「革新知事」から自民党福田派議員、自民離党後大蔵大臣(確か復党はしてなかったですよね)、そして「9条の会」で講演。だいぶ前の話ですが、弊店が参加した古書展示即売会の目録で、ときどき買って下さる新潟県の「特別公務員」の方がおられ、どうもある市のオール与党体制の市長らしいことがわかりました。購入する本は古い左翼系が中心で、こんなに勉強する市長では野党の共産党も大変だな、と思ったものです。有名人でもっと不思議なのは堤清二=辻井喬氏です。財界人としては保守政界にも影響力があったに違いありませんが、文化論などの論文を読めばマルクス主義者のようにも見え、学生時代に戻ったのかとさえ思えます。最近の辻井氏は明らかに護憲民主主義派として保守政権とは対峙しています。
古本屋としては、保守・革新の転変についてそれぞれの人物の教養の質が気になります。もちろん個々の場合についてうかがい知ることなどできませんし、このような問題については、これまで多くの研究があるでしょう。それらについては私は勉強不足で知らないので、無知な人間ほどたくさん「発見」する、という警句にもめげず、貧しい頭で少し考えてみたいと思います。
先日、民商の会員数人で勉強会をして、加藤周一氏の「夕陽妄語・60年前東京の夜」(「朝日」夕刊2005年3月24日付)を読みました。東京大空襲のとき、加藤氏は大学病院の医師として不眠不休で治療に当たりました。すでに反戦論者として普通の国民とは距離感を抱いていた加藤氏もこのときばかりは「東京市民と同じ目的、--何とかして生きのびる目的を共有し、彼らと共に当事者として全力を傾けて行動し」「あれほど強い被害者との連帯感」が生じたのでした。「もしその連帯感がなければ、なぜあれほど悲惨な被害者を生み出した爆撃、爆撃を必然的にした戦争、戦争の人間的・社会的・歴史的意味についての執拗な関心はおこらなかったろう。…中略…しかし戦争についての知識がなければ、反絨毯爆撃・反大量殺人・反戦争は、単なる感情的反発にすぎず、『この誤ちを二度とくり返さない』ための保証にはならぬだろう」。「知の巨人」がまっとうな道を歩み続け、老境にして「9条の会」の先頭に立つに至った原点を見る思いがします。痛切な体験、人々との連帯感、それを評価し導く理知、それらが一体化したところに、自らが生きる今を「歴史としての現代」(スウィージー)として捉え、その結果を動かしうるときに必要な行動をとることができるのです。
加藤周一氏の『日本人とは何か』(講談社学術文庫)は1950年代から60年代ごろの論文を集めたものです。ずいぶん前に読んだので漠然とした記憶しかないのですが、今読んでもまったく古びない透徹した論理に感動することは間違いないでしょう。はたして当時のマルクス主義者に同水準の考察がどれくらいあるでしょうか。「知識人について」(1957年)という論文では、知的な学生が社会人になると知的でなくなるのは何故かと問うて、次のように厳しく論断しています。「その根本的理由は、決して仕事が忙しいとか、附き合いがどうとかいうような外面的なことではなく、若い時代の活動そのものが、つけ焼き刃であり、なま半可であり、何一つ確かなものを捉えていなかったという事実そのものにほかならない」。
今は凋落したとはいえ、かつては知的な若者の間ではマルクス主義は圧倒的な権威をもっていました。しかし社会人となって様々な現実的判断を迫られたとき、それぞれの人はその体験の総体と知識の広さ・深さとのいろいろな組み合わせに応じて、立場を選択し分岐していったことでしょう。しかし今どのような立場であれ、かつての若者=現代の中高年は、情勢の如何によっては原点に立ち返った動きをする可能性はあります。客観的にいって現代日本資本主義の危機は深いのですから。誰がどう発言しても驚くことはない。もちろん危機を逆手にとって何が起きるかもしれないので要警戒ですが。そこにプレカリアート(不安定なプロレタリアート)のマリア=雨宮処凛さんに代表されるような今の若者たちの動きがどう絡んでくるか。
何のまとまりもない文字どおりの雑文になってしまいましたが、この辺でやめます。
2007年8月号
諸般の事情によりなかなか時間がとれなくて十分に考えられません。一読して諸論文の内容が理解でき、それらの提起する問題点を巧みに組立て直して、自分なりの文脈に整理できるような能力があれば良いのですが…。じっくり構えることで能力不足を補いたくてもその余裕はありません。生煮え・未整理のまま多少のことを列記してみます。
誌上研究会「賃金論の現代的展開を考える(上)」には豊富な問題提起が刺激的に並んでいます。最も重要なのは三好正巳氏の冒頭の問題提起だと思われます。
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今日の賃金をとらえる場合、二つの視点が必要だと思います。まず、世界史的な視点から賃金を捉えなければならない。簡単にいえばアメリカの覇権主義の表れであるグローバリゼーションとの関係で賃金を分析するということです。さらに、現代資本主義を資本蓄積の視点から全機構的に把握し、そのなかに賃金を位置づける。端的に言えば、現代資本主義を資本の物神崇拝が高度に発展したものとして、いわゆる株主資本主義として把握し、それとの関連で賃金を分析するということです。 146-147ページ
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ただし私の理解不足のせいかどうか、その後の展開は錯綜していて、必ずしもすっきり整理されてはいないように感じます。たとえば「グローバリゼーションとの関係」といえば、後に162ページで三好氏や戸木田嘉久氏が外国人労働者の問題や多国籍企業のアジアへの進出の問題を賃金の引き下げ要因として指摘しています。これは確か以前に米田康彦氏が価値法則の問題として言及していたことに重なります。つまりグローバリゼーションによって、価値法則の基盤が日本の国民経済からアジア規模に拡大してしまい、賃金の下落が起こっている、という問題です。これは大問題ですが、この誌上研究会(上)ではこれ以上の展開は見られません。むしろ三好氏の冒頭の問題提起では「アメリカの覇権主義の表れであるグローバリゼーション」という言い方で、グローバリゼーションそのものよりも、アメリカの金融肥大化や投機化から株主資本主義へ、という流れで、第1の視点から第2の視点に移ってしまっているようです。
第2の視点にかかわって「搾取を単に直接的生産過程において捉えるにとどまらず、国家や金融資本を含めて搾取形態がどういうことになっているのか」(149ページ)という分析課題が示されています。これは「現代資本主義を資本蓄積の視点から全機構的に把握し、そのなかに賃金を位置づける」という先の問題提起に連なる点です。これについては164・165ページにおいて、三好氏は、政策・政治・制度レベルと産業循環レベルとの区別と連関の観点から、政策・制度の変更による恐慌処理の過程で新しい資本蓄積方式が生まれてくることを指摘しています。この三好氏の理論的まとめに先だって、上瀧真生氏が1995年の日経連の「新時代の『日本的経営』」が現実化したのは1997年以後ではないか、と具体的に指摘しています。上瀧氏と丹下晴喜氏は、金融破綻・消費税率の引き上げ、政府支出の抑制による労働市場の大激変、あるいは不良債権や過剰債務の処理のなかで株式持ち合いが崩れたことなどを指摘して、金融恐慌に遭遇した1997年を資本蓄積方式のドラスティックな変更による日本資本主義の大転換点と規定しています(163ページ)。この新しい蓄積方式は株主資本主義と呼ばれますが、賃労働との関係では三好氏は次のように課題設定します。
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株主資本主義と賃労働の世界の関係という問題は、利子生み資本論の現代的展開、つまり資本の物神化まで上向して現実に対応するような分析が必要だと思います。いわば、トータルなマルクス経済学的分析を行う。すなわち日本資本主義の総括を行うことが必要で、残されている大きな課題だと思います。 165ページ
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しかしむしろ本研究会においては、「資本の物神化まで上向」するような「大きな課題」ではなく、逆に株主資本主義が直接的生産過程に与えるインパクトについて興味深い分析が行なわれています。株主資本主義では、配当を払った残り部分が賃金原資であるという賃金=コスト説のイデオロギーが強力です(147ページ)。資本は賃金原資を圧縮したいので労働者の「働かせ方」を多様化し処遇を階層的に分断します。丹下氏によれば、情報通信革命により、労働の技術的諸編成の変化が生じ、多様化した仕事の各に応じて労働者の多様な階層が形成されます。分断支配による賃金減額を目的とした「仕事の格に基づく賃金配分」は当然、生経費原則と衝突します。ここに賃金の生経費原則を押し出していくことの今日的意義があります。
生経費原則を侵害された労働者はワーキングプアとなりますが、常磐一氏は「現代資本主義は、ワーキングプアを経済成長の条件としている」(151ページ)と指摘しています。新古典派理論はとにかく価格のフレクシビリティで経済均衡が達成されるという発想だから、その均衡価格水準がどういう意味を持っているのかを問わないのでしょう。低賃金でも所得ゼロの失業よりましではないか、ということで「雇用の流動化」を平気で推進し、それで経済成長が達成されるならけっこうと考えるのでしょう。ワーキングプア概念はそういう恥知らずな「理論」を撃破しました。丹下氏は言います。「『ワーキングプア』という規定は、どんなに働いても貧困から抜け出せない、非常に不自由であるという実態を明らかにしたもので、『雇用の流動化』を推し進める規制緩和に対する象徴的批判となったと思います」(160ページ)。
非正規労働者の利用はいつの時代にも見られますが、ワーキングプアに象徴される今日の事態の歴史的な特質はどこにあるのでしょうか。浪江巖氏はそう問題提起して自ら回答しています。第一に、非正規労働者の数が量的に増大している。第二に、非正規労働者それ自身の多様化、資本の側からすれば多様な利用の仕組がでてきた。合わせていえば、「賃金水準が労働力の価値以下に大幅に切り下げられた大量の労働者が存在し、それが恒常的に資本によって利用される構造が定着したかにみえるという現状」(162ページ)規定ができます。
さらに浪江氏が「資本主義の蓄積体制・方式を分析する場合、資本の蓄積運動を直接に媒介する企業の経営活動という次元でもみておく必要がある」(164ページ)として、紹介している芳賀健一氏の見解は確かに興味深い分析となっています。
芳賀氏によれば、失業率の急上昇・非正規雇用の拡大・人件費の圧縮・労働時間の延長といった「雇用システム」の大きな変容は1998年を境に起き、その鍵は「デフレスパイラルのメカニズム」にあります。「デフレスパイラル」のミクロ的基礎として以下のことがあげられます。経営目標が利益率重視に変化し、その手段として圧倒的に「コストダウン」が、その具体的方法としては「人件費の削減」が最も多く採用され、しかもそれが非常に効果的でした。さらにそうなった状況要因として指摘される以下のことは価値論的にも重要です(バブル崩壊後の物価下落をともなった不況をデフレと呼ぶのは間違いだと思いますが、ここではそれは措きます)。
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競争激化へ対応するため価格引下げや納期短縮が採用され、また価格設定の考え方が「人件費・原材料費等のコストをベースに利益を積み上げる方式」から「市場で受け入れられる価格の上限を設定し、そこから人件費・原材料費等のコストを削減する方式」へ転換された…。 164ページ
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ここからは話が脱線します。『政経研究』第88号(2007.05)掲載、原田実氏の「デフレと『経済学』」は新古典派経済学や貨幣数量説を批判し、今日の物価下落の大きな原因として生産性の上昇とアジア諸国の経済成長による供給過剰をあげています。新古典派批判は大切な試みですが、それに対置した原田氏の物価下落原因論の部分は「物価下落は資本主義経済の本来の現象である」と題されており、問題意識そのものとして大変に疑問を感じます。そういう牧歌的な事態だろうか? もちろんきちんと議論するためには理論的かつ統計実証的に分析しなければなりませんが、私としては時間的にも能力的にも不可能なので、とりあえず大ざっぱな議論を提起します。原田論文そのものもさほど細かい議論ではないので、どうかご寛恕願います。
資本主義経済においては、競争によって商品価値が下がるのだから、物価下落は当然の現象であるということを原田氏が強調しているのは、大いに共感できます。しかしこれを今日の物価下落の主要な原因とするのは疑問です。需要が不足してインフレが進行しなくなった原因として、モノ余りをあげているのも疑問です。需要不足はモノ余りによるのでなく、所得の不足による個人消費の不振が原因でしょう。モノが買えなくて困っている貧困層が大量に存在しているのです。アジア諸国の低賃金労働と先進国の技術が結びつくことによる低価格商品の供給過剰を自然現象のように見ていることも問題です。これは何らかの対処が必要な問題ではないでしょうか。
1990年代末の資本蓄積方式の変更において、企業による価格設定の考え方が転換されたことが上記のように芳賀健一氏によって指摘されています。低価格の輸入品が流入し、また需要不足傾向にある市場が前提とされます。そこで「人件費・原材料費等のコストをベースに利益を積み上げる方式」から「市場で受け入れられる価格の上限を設定し、そこから人件費・原材料費等のコストを削減する方式」へ価格設定が転換されたのです。これは賃金でいえば、「生経費原則」から「仕事の格に基づく賃金配分」への転換に相当します。
商品価格設定と賃金原則におけるこのような転換は、社会的再生産の観点からすれば、再生産可能な方式から再生産が困難な方式への変更といえます。そこで何が起こっているのか。商品の質の劣化及び安全性の危機、生産技術継承の困難、労働条件の悪化、生活の貧困化…。今日の物価下落とはこのような社会的な縮小再生産の表現と見るべきではないでしょうか。おそらく生産性の上昇による商品価値低下を超過した価格の下落が起こっているのですから。何よりもまともな人間生活の確保によって、経済を底支えする起動力を生み出し、その有効需要によって、「価値以下の価格」と「労働力の価値以下の賃金」を克服して正常な再生産を実現すべきです。貧困対策とは「かわいそうな人を救ってあげる」ことではなく、新自由主義的グローバリゼーションによって破壊された経済を正常な人間的経済に転換するための端緒的措置なのです。
価値論と貧困論は結び付いています。自営業者のワーキングプアは、発注元からの買いたたきとか、消費者の低所得=購買力不足によって販売商品の価格を維持できないこと、などから起こります。ここでは公正取引の確保や人々の所得の上昇が貧困対策になります。「価値以下の価格」を生業が可能な水準である価値どおりの価格まで上げることです。労働者の場合は、最低賃金の引き上げ、不安定雇用の規制などによって「労働力の価値以下の賃金」を生活できる価値どおりの賃金まで上げることです。これは「異常な強奪的搾取」を「正常な搾取」に戻すに過ぎないのですから、資本主義経済においても当り前の要求です。このように自営業者や労働者など人民の生活維持可能な状態を前提にしてこそ、国民経済の再生産は成り立っているといえます。大量のワーキングプアの存在を前提にした今日の日本資本主義はタコが自分の足を食って生きているのと同じです。人民の生活の劣化を前提にした経済成長とは形容矛盾であり、社会的再生産のスパイラルダウンに他なりません。この状態を俗にはデフレスパイラルと、あたかも通貨の問題のように誤って呼んでいるのです。
同じく『政経研究』第88号所収の八尾信光氏の「アンガス・マディソン統計から見た世界経済発展史」も興味深い論文です。先に文句のほうを言っておきます。結論的には世界経済の展望はバラ色に描かれています。しかしこれは科学技術だけを見ているからそうなるのであって、いつ如何なる時代でもそれが社会経済的に適切に利用されるなら問題ありませんが、実際には搾取・収奪の手段とされてきたわけです。ここには生産関係の視点を欠いた生産力主義があると思われます。先の原田論文にも若干それが感じられます。
八尾論文ではマディソン統計の画期的な意義について縷縷説明されています。私が最も注目したのは購買力平価によって国際比較と長大な歴史比較を統一的に実行していることです。購買力平価は使用価値量の表現に近いのでそうした次元での国際的再生産を捉えることが可能です。その観点から論文では発展途上国の経済力が過小評価されていることが指摘されています。現実の国際経済関係は為替レートによりますので、購買力平価との違いを研究すれば物量次元での収奪関係が検出できるでしょう。ところで『経済』8月号所収、村岡俊三氏の「変動相場制は金を『廃貨』したのか? マルクス経済学と変動相場制」では、マルクスの労働価値論・金貨幣論の立場から「購買力平価」説が批判されています。八尾論文では言及されていませんが、おそらく購買力平価概念を労働価値論の観点から捉え直して活用していく方法を考えることで、マディソン統計の利用など現状分析や経済史研究において本質と現象の両面をきわめていく道が開かれていくような気がします。
村岡論文は是非ともきちんと読むべきものですが、今のところ通読しただけでなかなか理解するところまで行っていません。目についたのは「金の市場価格と為替相場の推移」という付表です。金の平均価格から算定した「事実上の為替平価」と実際の為替レートがある程度一致しています。著者にすれば金「廃貨」論への反証ということでしょう。ところで『政経研究』第88号で小谷崇氏は以下のように問題提起しています。
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『資本論』には「貨幣は金(きん)である」と書かれている。しかし今日の貨幣は金と交換できない不換通貨である。この今日の不換通貨はそれでも金なのか、それとも価値(労働量)を直接に代表するものなのか?
「需要曲線は存在しないのか? 工藤晃『経済学をいかに学ぶか』への書評を兼ねて」
121ページ
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もし労働価値論の立場で金「廃貨」論を取るとすれば、不換通貨は価値(労働)を直接に代表することになるのでしょう。根本的な問題なので村岡氏の見解をきちんと理解することも含めてよく考えないといけませんが、今後の課題です。
先に、今日の物価下落について、社会的な縮小再生産過程を表現している、と主張しましたが、GDPが増大しているという事実とは矛盾します。階級的に見れば、搾取強化によって、一方で生活と労働の縮小=悪化が起こっていても、他方で利潤の増大がありGDP全体としては増加している、ということでしょう。GDP≒国民所得=V+M において、Vの縮小分を超えてMが増加すればGDPは増大します。逆にいえばGDPの増大は拡大再生産を表わしてはいるけれども、場合によっては人民の生活と労働の縮小=悪化を伴います。それは国内市場の狭小化によって国民経済の縮小に向かう危険性をもたらしますが、当面はアメリカ市場や中国市場などへの依存によってそれは回避されています。だからGDPの増加と人民の生活の縮小の共存は経済学的に正確には再生産構造・資本蓄積構造の歪みと呼ぶべきでしょう。しかしあえてそれを「社会的な縮小再生産」ということにも意義があると思います。生活水準・労働条件・医療・福祉・安全性などの指標の悪化はさしあたっては社会(学)的な問題であるということが第一ですが、そのような人民の生活諸条件の悪化は経済の活力を阻害する最も根本的な要因であることを想起すれば、経済上の縮小再生産が顕在化する可能性も大きいことを指摘したいのです。生活悪化の結果としてのいわゆる少子化は、投下労働量の減少という最も根源的な縮小再生産の契機を提供しています。
高度経済成長の末期でしょうか、成長主義への反省もあって、GNPを補完するGNW(国民総福祉)などの指標が盛んに研究された時期もあります。しかし低成長期になってそうした反省が生かされるどころか、逆にコストカット型の後ろ向きの成長主義(GDP↑=V↓+M↑↑)が跋扈することになりました。それへの反発は「本当の豊かさの実感」への希求というような文学的表現には表れても、国民経済的規模で経済学的・社会科学的指標によって表現されてはいないように思います。さらにその前提としては、純経済学的レベルでGDPなど政府統計の諸指標を(価値量と使用価値量との区別と連関を踏まえた)労働価値論の立場から捉え直していくことも必要かと思います。そのごく初歩的な試みは拙文「ゼロ成長の国民所得論」にあります。八尾氏の紹介による、購買力平価を駆使したマディソン統計のような試みも貴重です。
直接関係ないかもしれませんが、労働価値論による大統一理論の形成も必要かと…。新古典派は市場価格という上澄みの世界に住み、新リカード派は平均価格という中間的世界に住むのに対して、投下労働という底辺世界に住むマルクス派は、支配労働概念を持って上方を征服し、諸論理次元を整序した統一理論をうち建てる任務を持っています。眼前の現象は市場価格の世界ですが、その中に諸労働と諸使用価値の連関を探っていくことで、現代資本主義経済の複雑な姿を、誰にも理解可能な人間たちの社会原理に還元し、そこから組み立て直して現代資本主義像を再構成します。それは概念操作ですが、その過程で「もう一つの可能な経済社会」を構想することができるでしょう。そのような理論の歩みは現実の統計分析との絶えざるフィードバック関係に置かれねばなりません。
対象論文をきちんとは読めずに印象批評に終始し、最後には蛇足的空言で閉じてしまったかもしれません。妄言多罪。
追伸。学生時代からの知人である経済史研究者が先日51歳で急逝しました。彼自身無念と思う間も許されなかったようです。社会変革への彼の意志を継ぐこと。とにかくそれが今の私の思いです。
2007年9月号
現代は金余りの時代であり、巨額のマネーが瞬時にして世界中を飛び回り、場合によってはそれが中小国の国民経済をノックアウトしてしまうのさえ可能であることは、1997年のアジア通貨危機で誰の目にも明らかになりました。しかし多くの人々にとって金余りなどという実感はありません。地道な労働はまずは直接的に搾取され、わずかな所得も財政的・金融的ルートを通じて巻上げられ今日の錬金術の元手にされています。労働の報われなさに嫌気がさして「貯蓄から投資へ」などという誘いに乗ると火傷をすることになります。これは単に個人の問題だけではなく、国民経済や世界経済の問題でもあります。今宮謙二氏の「資本蓄積の架空化 現代資本主義の一つの限界」の結論にはこうあります。
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現代の資本主義社会は、最大の消費者である大多数の国民を犠牲としつつ、さらに発展を望むという資本家の幻想と大企業体制の確立によって強化され、巨額に達した資本蓄積が実態として架空化しているという二重の幻想のうえで成り立っている。 175ページ
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不安定化した金融の動きを表面的にながめるのでなく、そうした現象を生み出す実体経済のあり方を投下労働の次元をも含めて考えていくことが必要だと思われます。今宮氏の論稿や大槻久志氏の「日本経済の進むべき道 『改革』=『成長』幻想を排し、製造業と農業を守る」などが参考になります。大槻氏によれば、資本主義経済が恐慌を防ぐためには「生産を伴わない消費の増大を求める」ことになり、それを政府の消費に求めない(小さな政府)ならば経済のサービス化、金融化(あるいは金融投機化)が要請されます(108ページ)。
アメリカ経済は貿易赤字の恒常化に見られるように、過大な消費・サービス化・金融化が極端に進んでいます(「過大な消費」から取り残された膨大な極貧層を伴ってではあるが)。8月半ばから始まった世界的な株価下落の発端は、アメリカでの低所得者向け高金利型(サブプライム)住宅ローン焦げ付き問題です。住宅価格の上昇をあてにした金融とそれによる消費拡大というバブル型景気が限界に達したのです。貿易赤字を垂れ流し、中国や日本などからの資金流入でそれを購うという、ドル特権によって金融的に糊塗されてきたアメリカの実体経済の歪み、それによる国際的な金融不安定構造が今世界経済を襲っています。とりあえずは日米欧の中央銀行による巨額な資金供給で急場をしのぐにしても、金融投機の規制および実体経済の歪みの是正なくしては根本的な解決にはなりません。
ところで「実体経済の歪み」については、問題の角度は違いますが、人民の生活と資本主義という観点から、大槻氏の以下の議論が参考になります。
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本来、一九世紀末から二○世紀初頭にかけての欧米先進国の停滞、一九七○年代以後の日本経済の停滞は、要するに過剰である。それはより少ない労働、短い労働時間で十分な生産物の分配を受けられるようになったということである。リアル・タイムの経済、モノの経済ならそうである。しかし、資本主義は価値の経済であるから、国民は何等かの形で労働力を売り、家計所得を得ないと分配にあずかれない。 109ページ
サービス化の内容について、ここで改めて詳しくのべる必要もないと思われるが、簡単にふれておくとすれば、人々の生活あるいは生存上にどうしても必要とは言えないものに人々の関心をひきつけ、新たな需要を作り出すものであろう。それは一つは、飲食・娯楽・観光など既存の産業に手を加え、拡張するものであり、もう一つはIT化によって新たな産業、新たな需要を作り出すものであろう。
情報・通信技術の発達、ディジタル化は、物的生産過程への応用、行政や企業内部の管理やサービス、病院などの情報化など、社会的に極めて有用な発展に貢献している一方、個人消費を変化させ、拡大させ、国民生活に対して必ずしも有用と思われない影響を大きく及ぼしている。それは主として音響・映像・通信機器の部面で起こっており、テレビとパソコンの同一化、双方向化、ゲーム機の驚くべき普及、そしてそれらすべてをモバイル化する携帯化である。 同上
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ここでは総じてサービス化に対しては否定的ニュアンスが強く、特に個人消費の変化については異論が多くあるかもしれません。しかし資本主義が人民の生活を保障し労働を軽減しうる生産力を達成したにもかかわらず、生活と労働は不安定なまま、新たな利潤獲得の部面として次々に些末な消費需要を創出して生産を拡張している、ということは事実でしょう。資本主義は「生産のための生産、蓄積のための蓄積」を発展の原理とし、同時にそれが恐慌の原因ともなっています。恐慌を防ぐために「生産のための生産、蓄積のための蓄積」に対応する消費を作り出し、それがまた人々の生活意識に定着したような状態を消費主義と呼ぶことができるでしょう。これは今日の資本主義的生産関係に付随したものだから、ワーキングプアの過少消費と相補的に共存しています。それが消費局面だとすれば、生産局面では正規労働者の過労死と非正規労働者の不安定就業が共存しています。ワークシェアリングや所得再分配がまず解決策です。それだけでなく、過労死の根絶・スローライフの推進・環境問題への配慮などといったより人間的な社会を目指すとすれば、一人当りの労働量の削減とそれに対応した消費の削減が必要になるように思います。労働の再配分といった相対的問題だけでなく、労働量そのものの削減という絶対的問題が提起されるべきではないか。「より少なく働き、より少なく消費する」。もちろん物的生産性の上昇によって少ない労働でも消費量を維持・拡大できる可能性もありますが、サービス部門などではそれは難しいので消費のスリム化も視野にいれるべきだと思います。365日24時間サービス社会を見直すという消費主義への社会的反省なくして過労死はなくせない、という気がします。情報通信革命の恩恵を一般の人々が受けられるようにすることは大切ですが、その際も消費主義の抑制と過剰労働を防ぐという視点が不可欠です。
戸木田嘉久氏の「人間らしく働き生きる権利と『ルールなき日本資本主義』論(2)」には戦後労働運動の輝かしい闘争が描かれ、70年代後半以後の停滞局面においても統一労組懇を中心とする運動の深化が多面的に指摘されています。ただし私が不満に思うのは70年代後半以後の停滞局面への暗転の理由がよくわからない、ということです。74・75年の世界同時不況に対して世界的に反動攻勢が強まったことや、日本ではIMF・JCなどの右翼的潮流が春闘の主導権をにぎったことなどが指摘されています。しかしこれでは叙述が全体に政治主義的で社会的要因と労働現場への内在が弱いのではないか、という気がします。日本の職場には企業社会はあっても労働社会がなく、これは労働運動の左右の潮流にかかわらず克服できていません。労働者間競争を抑えて人間的な働き方を守り、資本からの攻勢をはねのけるような組織労働者の論理が職場に確立していないので、抵抗力が著しく弱くなっています。それが今日の厳しい新自由主義時代の中でヨーロッパの労働運動との差として表れているのではないでしょうか。
日本社会の空気となっている消費主義の克服も重要な課題です。今日の日本ではストライキが不可能となっています。人民の要求実現のため闘うことが理解されず、目先の不便さが嫌われるだけです。昨年、フランスの若者たちは労働組合や学生団体の協力を得て大規模な抗議行動に立ち上がり、新雇用制度を撤回させました。当時、フランス在住の池沢夏樹氏は次の場面に遭遇しました。青年たちの実力阻止行動によって発車できなくなった列車の中で乗客たちが討論を繰り広げ、青年たちへの理解が深まっていきました。結局動かない列車を後に、乗客たちはそれぞれに出ていって何の混乱もなかったということです。池沢氏は他のところでフランスには宅配便のような便利なものはない、ということも書いています。それがいいかどうかは別としても、日本社会では、便利なサービスの裏には多くの場合過酷な労働があるということへの想像力がない、といわねばなりません。目先の便利さをいったんがまんして、自分たちの生活と労働を反省してみる、という姿勢が日本社会全体の姿勢とならない限り、新自由主義の暴走を止めることはできないでしょう。
近代市民法を継承しかつ克服していくのは私たちの課題です。本来、20世紀社会主義国家もその課題を担うはずでしたが、実現したのはいずれも近代市民法以前の専制国家でした。そうした問題意識で中国革命を見るとき、そこにあった可能性について冷静に考えていくことは重要です。『世界』8月号、丸川哲史氏の「『改造』と『認罪』、その起源と展開」は極めて秀逸な論稿であり、機会があれば熟読再考してみたいと思います。
2007年10月号
誌上研究会「賃金論の現代的展開を考える(下)」では、「賃金の労働力の価値以下への切り下げ」を論理次元としてどのように捉えるかが議論されています。丹下晴喜氏は明快に問題提起しています(一点を除けば)。
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今問われている問題は、価値法則のレベルの問題なのか、それとも剰余価値、搾取の問題を含む実現の問題なのかということです。今生じている問題を理論的に考える場合、それは市民社会における市民法的なルールすなわち商品交換の法則の問題なのか、それとも資本主義という経済構造の問題なのかを、いったん分析する必要があると思います。
120ページ
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ここで実現問題が出てきており、それはこの後に語られる大競争時代の「資本の実現問題」を念頭に置いていることは理解できますが、次元の異なる問題を紛れ込ませることで問題提起の純度を落としています。端的に言って、この問いへの回答は「資本主義という経済構造の問題」であると思います。議論の中ではそのように受け取れる部分もあるのですが、丹下氏自身は「したがって、過労死・過労自殺とワーキングプア問題は、同じ労働力商品という特殊な商品の交換法則の問題として、いわば市民社会のルールの問題として把握することが必要だと考えています」(121ページ)と答えており、私はそれは誤りだと思います。
この問題を考える前に戸木田嘉久氏が指摘している問題に触れます。産業循環の次元において考えれば、恐慌局面では、賃金の労働力価値以下への急激な低下どころか、失業でまったく実現不可能な場合さえあります。「商品交換の法則が資本運動の結果として恐慌局面では破綻する」(121ページ)のです。資本主義経済の平均化機構は価格メカニズムではなく産業循環です。資本主義経済においては、価格メカニズムによる静かな均衡化は潜在的不均衡を激化させ、それは産業循環による恐慌局面という暴力的均衡化によっていったん終息します。「市場経済」による資源の最適配分なるものは、資本主義経済の現実のダイナミズムを捨象したものです。確かに結果として「最適配分」かもしれませんが、それはよく称賛されるようなきれいな過程ではなく、血と汗と涙の道なのです。で、次の問題は循環論から構造論へ、ということです。幾多の産業循環を貫いて存在してきた資本主義経済、産業循環という平均化機構が生み出した資本主義経済の構造の問題です。「資本主義社会が社会一般として長期的に存続する、すなわち資本と賃労働の階級関係が再生産されるためには、この労働力の価値が保障される必要があるということではないかと思います」(120ページ)。丹下氏のこの言明は問題の核心を衝いています。
議論の中では、「労働力の価値の保障」が商品交換の次元では出てこないことは繰り返し語られています。三好正巳氏は「彼らの市民社会のルールだけでなんとかといっている論理ではもたない。社会がもたないことが問題となります。だから価値法則からするとそれが出てこない。それは階級闘争を入れないと出てこない」(119ページ)。丹下氏自身もこう言っています。「端的にいえば商品交換の法則からは労働日の制限は出てこない、それは力関係によって政治のレベルで労働時間規制として行われると思います」(118ページ)。なのになぜ丹下氏は結論的に「商品の交換法則の問題」にしてしまうのか。それは結局、「資本主義的経済諸関係は、すべて、商品交換の形式を媒介として成立する」(大島雄一「経済学と国家論」『現代資本主義の構造分析』所収、181ページ)ので、結果から見れば労働力の価値の保障も「商品の交換法則の問題として、いわば市民社会のルールの問題」になってしまうのでしょう。
三好氏も「市民社会を前提にした労働法」(118ページ)と発言していますが、これも不正確な表現だと思います。市民法と(労働法を含む)社会法とは本来相容れないものであり、現代資本主義社会において共存しているのは妥協の産物です。
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市民的利害の対立は、相互に立場を交換しうるもの相互の、個人的・流動的・相対的・一時的対立である。これに反し、社会問題に含まれる階級的ないし階層的利害の対立は、たがいに立場を交換しえないもの相互の、集団的・固定的・絶対的・継続的対立である。このようなちがいから、市民的利害の調整を任務とする市民法と、階級的ないし階層的利害の調整を任務とする社会法とでは、法としてのしくみもまた、おのずから異なってくる。 渡辺洋三『法というものの考え方』(岩波新書)121ページ
資本家と労働者との関係の外部から、それぞれの立場をこえたところで、その利益主張を制限するような他律的調整原理を導入してこなければならない。外部からの調整者として国家がたちあらわれる。こうして市民社会は、その自己完結的秩序を維持することができなくなり、国家権力の介入を仰がなければならなくなるのである。
資本家と労働者との関係も、本来市民と市民との関係であった。しかし、それは、市民社会の自律的秩序のわく内では、もはや処理できない関係となった。ここに社会法は、国家権力による市民社会秩序のてこ入れとして登場してくる。全体社会の秩序維持に任ずる国家は、諸階級・諸階層の利害の調整者として、市民社会内部の自律的規範に干渉し、一定の限度で、所有権の自由・契約の自由などの市民法上の原則を制限し、修正する。
同前 125、126ページ
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社会法がまだ成立していない19世紀イギリス社会を見れば、市民法の純粋な作用を理解することができます。
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イギリスでは、一八二四年・一八二五年の「団結法廃止法」によるいわゆる「労働の自由」の確立ののち、労働者の団結や争議は、「取引制限の法理」にもとづいて、「取引の制限」ないし「他人の取引の侵害」の「共謀」として刑事犯罪とされる。…中略…
いわゆる「取引制限の法理」による労働運動の弾圧は、「労働の自由」という市民法の適用によって生存権を否認された労働者の抵抗を、「取引の自由」という市民法原理の適用によって弾圧することを意味している。
大島雄一 同前 209ページ
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結論的にいえば、「市民法は商品交換の法的抽象であり、商品の消費は市民法外的な関係であることに注意されたい。このことは、資本制社会では、社会関係は商品交換においてのみ成立し、生産と消費は私的関係であることに照応している」(大島雄一、同前、208ページ)のです。したがって労働力商品の消費過程であるところの生産過程は市民法外的な関係にあります。
もちろん私は市民法を否定するとか、その進歩的意義を認めないということではありません。日本資本主義社会の現実は、市民的自由の侵害にも満ちており、市民法次元の闘いでまともな市民社会の実現を目指すことは大切です。反貧困闘争においても民法などの市民法の活用が必要な場合もあるかもしれません。そういう意味では一般的には現実の様々な闘いにおいて市民社会のルールを重視するのは当然ですが、経済理論の問題としては、論理次元を分別する必要があります。本来、支配従属関係である資本=賃労働関係を、独立・自由・平等な商品=貨幣関係と混同することは避けねばなりません。賃金は基本的に前者において決まり、その結果が後者において社会的に表現されます。新古典派は搾取概念がなく、雇用とは何か、したがって資本主義とは何かが欠落し、すべてを自由な市場として眼前の経済を理解しようとします。したがって自由な市場でない経済は「あってはならない現実」であり、それは「改革」で抹消せねばなりません。資本=賃労働関係を自由な市場と錯誤する行き先は19世紀イギリス社会に近づくことです。私たちは新古典派とは逆に、市場関係と思われているものの中に搾取関係がないか、を見分けることが必要です。
実はその先にも別の問題がありえます。等価交換とされる商品交換の次元の問題です。今、地方の疲弊、都市と地方の格差が喧伝されています。都市住民と地方住民とは同じ生産過程にあるわけではないので搾取関係にはなく、市場を通じた商品交換関係にあります。農業による所得と都市労働者の所得との格差は市場での「等価交換」を通じて形成されます。これを価値論的に単純労働と複雑労働との関係(長時間の単純労働が短時間の複雑労働と等価交換される関係)として捉えてよいかどうかはここでは措きます。はっきりしているのは、現実の生の投下労働量の次元では明らかに不等労働量交換になっていることです。
先日、「牛に願いを」というテレビドラマを見ました。周囲から尊敬されている酪農家の牧場を視察した農水省の官僚が、「これだけの(立派な)土を作り出すのには頭が下がります」というようなことを言いながら(つまり自分は農業が分かっている人間であることを誇示して、農業労働の成果には敬意を表しつつ)、陰では「アメリカの機械化された近代的な農場と比べてあまりに遅れている、気の毒だが徒労、失敗の人生だった」というような意味のことを述べる場面がありました。市町村合併に絡んでこの地域がトウモロコシ畑にされる計画となり、この酪農家は廃業を決意します(現代の「囲い込み」運動か)。市場は貴重な労働を評価しない。このように指摘したところで、問題の分析が実際に深まるわけではありません。農産物価格や貿易の問題などを具体的に考える必要があります。しかしこの指摘によって社会的総労働と市場という大きな問題枠組みが浮かび上がってきます。確かに、私的労働が社会的労働の実を持っているかどうか(私の働きは社会に役立つのか)は、価値の実現(売れるかどうか)にかかっている、というのが市場の論理です。売れないものを作ったのは、社会的労働と認められない単なる私的労働であり、それは徒労と呼ばれ所得を得られず、社会的総生産物の中から自分にとって必要なものが分配されません。先の酪農家の例では、その廃業によって熟練労働がなくなり、社会的損失が生じます。このように社会的労働として認められるべき労働が市場制度においては認められないことの理論的検討は措くとしても、市場が下した徒労という託宣を撤回させることが、社会的総労働のバランスある構成にとって必要です。こういう抽象的な言い方ではなく、具体的には現代の資本主義経済においては経済政策の問題となるでしょう。農産物価格政策や貿易政策あるいは地方財政の支援策などが検討されるべきです。
まとめます。「領有法則の転回」によって資本主義経済においては搾取関係が市場関係として現象します。新古典派はその現象をそのままなぞり、雇用関係を自由な市場に託すよう政策提言します。私たちはまず現実の「市場経済」の中に隠された搾取関係を摘出し労働者の階級闘争を支援し、国家の経済・労働政策が少しでも労働者階級に有利になるようイデオロギー闘争を強める必要があります。
次に、今日の市場における「等価交換」が現実の生の投下労働における不等労働量交換を含むものであることを認識し、そこに生じる歪みを是正するために何らかの社会的調整を講じる必要があります。
一国資本主義の国民経済を構成する社会的総労働は、まずは私的企業=生産点での搾取過程において個々に存在し、市場での交換過程を通じてその総体を形成します。したがってワーキングプアに代表される今日の労働問題を見る場合、まずは生産過程での搾取のあり方を剔抉し、次いで産業間・地域間での不等労働量交換の実態を把握する必要があります。そのようにすることで、諸個人の生活の再生産(世代の再生産を含む)と社会的再生産とが相互に前提しあう中で、それにふさわしく尊重されるべき労働のあり方が見えてくるのではないでしょうか。
2007年11月号
ある事象の重要なポイントを占める個別具体的なものを総合的に深く分析することで、その事象全体に対する普遍的認識に大きく近づくことができます。新自由主義的な構造改革において建設産業はそうした位置にあると言えましょう。かつて私たちは、国と自治体を含めて、公共投資と社会福祉とへの財政支出がそれぞれ50兆円対20兆円で、まさに逆立ち政治だと批判してきました。新自由主義者も多国籍企業にとって負担の少ない「小さな政府」を目指す見地から、公共投資偏重の土建国家を批判してきました。小泉政権などを経て確かに公共投資は削減され、私たちと新自由主義者との「共通の課題」が「実現」されたかのように見えます。もちろん両者の立場の違いを色々と説明することは可能ですが、構造改革との関係で建設産業を具体的・総合的に分析することこそが最も説得力ある説明を与えます。構造改革政策を財政・金融の両面から捉え、それによる建設産業の激変の本質を的確に剔抉した労作が、今井拓氏の「建設産業の再編とスーパーゼネコン 財務戦略の分析から」です。本論文はまた構造改革下にある建設産業の市場関係を把握し、一方ではその階層構造の底辺にある建設業者・労働者の状態を考察し、他方ではその頂点にあるスーパーゼネコン五社の経営分析から財務戦略を析出しており、そのような総合的分析によって翻って構造改革の本質にも鋭く迫るものとなっています。
構造改革は人々を幸せにすることになっています。一方では、規制緩和によって自由競争が強まり生産性が上昇して経済成長が実現されます。他方、そのためには企業の活力を削がないように税や社会保障負担を軽減した「小さな政府」が必要となります。福祉国家はもちろん、土建国家も見直して公共事業を縮小させねばなりません。建設産業はこの両面の焦点にあります。談合の排除によって競争が激化し、公共事業の見直しで建設投資が縮小しました。
自由競争によって生産力があがって人々の利益になるというのは、一般論としては間違っていないでしょう。しかしその前提は、同じような規模の多数の経済主体による完全競争市場です。私たちの眼前にある資本主義的市場には少数の巨大企業と多数の中小企業が格差状況的に存在しています。さらにはそれぞれの個別経済主体である企業は資本=賃労働関係という搾取関係を含んでおり、労働者の生活はそれに規定されます。労働の提供者としての家計を企業と同等の市場アクターとして扱うような市場像はおよそ資本主義的市場としてのリアリティを欠いています。構造改革はもちろん完全競争市場において行われるものではないし、完全競争市場を目指しているわけでもありません。所与の階層的・格差的経済構造を前提に規制緩和し、競争を強化します。たとえ機会均等による競争であっても結果不平等をもたらしますが、機会不平等による競争が激烈な結果不平等=格差拡大に帰結することは明白です。このように現実の資本主義的生産関係や市場構造を経ることによって、実際の構造改革は格差景気をもたらし、人民の労働と生活の危機を招いており、「自由競争による人々の幸せ」なるものが神話に過ぎないことは、もはや支配的に実感されるようになりました。そのような現代においてもなおアダム・スミス以来の競争イデオロギーをそのまま適用する姿勢は、ブルジョア教条主義と呼ぶほかありません。
しかし財界を初めとする日本独占資本にとっては、構造改革は、長期不況を克服し、新たに強固な資本蓄積基盤を確立した成功物語です。もともとそれが目的であり、人々の幸せはとってつけた話に過ぎないので、そのような実感はさもありなんです。今井論文の分析内容をそのような立場で解釈するなら、構造改革のもたらした未曾有の危機に果敢に挑戦し、構造改革による状況変化を巧みに利用することで勝利したスーパーゼネコンの成功物語として読むことさえ可能です。もちろん私たちとしては、建設産業で起こったことは、究極的状況の中で、構造改革が人民を収奪して独占資本の支配を強化する過程を典型的に表現したものだと考えます。構造改革がいかに格差景気を実現したか、をそこに見ることができます。
上述のように、構造改革に直撃された建設産業では、談合の排除によって競争が激化し、公共事業の見直しで建設投資が縮小しました。それだけでなく構造改革では不良債権処理が喧伝され、銀行信用が急速に縮小し、景気後退、特に建設産業にとっては住宅需要の縮小が痛打となりました(このように今井論文では構造改革が財政と金融の両面から分析されており、これが後のスーパーゼネコンの財務構造の考察に生きてきます)。建設産業の危機に際してさすがのスーパーゼネコンも利潤率の低下に見舞われます。利潤率の低下は利潤量の拡大でカバーする。売上高拡大を目指して低価格受注競争に突入していきます。それを支えたのは「株式市場の活況に支えられた投資有価証券売却益などを投入した長期借入金の返済による財務体質の改善、それらによる営業外損益等の改善で」す(95ページ)。「貯蓄から投資へ」というスローガンで人々をマネーゲームへ誤導するのが構造改革ですが、それは銀行信用の収縮と株式市場の拡大という金融構造の転換を象徴しています。この転換によってスーパーゼネコンの財務体質が強化され厳しい競争に耐えることができました。このような構造改革の金融面に次いで財政面を見ると、公共事業の総額が削減されたとはいえ、都市再開発などの名目で巨大プロジェクトはむしろ強化されたことが重要です。そこはスーパーゼネコンの独壇場と言えます。以上を見ると、スーパーゼネコンは構造改革による市場縮小の危機に見舞われながらも、逆に構造改革による金融・財政の変化を見事につかんで克服しました。しかし政策によって作り出されたその「変化」はいずれも大資本に有利で中小資本に不利なものです。今井氏はこう結論づけています。
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したがって、スーパーゼネコンは、金融資本市場の活性化や都市再開発事業の展開という構造改革政策や都市再生政策の果実を食べて肥え太ってきたと言うべきである。建設産業の疲弊と品質・安全に関わる事件・事故の頻発、その一方でのスーパーゼネコンの資本蓄積は、構造改革政策の本質とその転換が不可避であることを雄弁に物語っている。スーパーゼネコンは構造改革の中にあっても、決して日本政府の財政金融政策に依存する体質を改善しなかった。構造改革政策の転換と建設産業の民主的改革は、国民的課題として我々の前に残されている。 97ページ
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構造改革の作られたイメージからすれば、自由競争の強化で経済成長を実現する、そのため政官財癒着・財政依存・談合体質の建設業界は徹底的に改造して出直す、ということになりそうです。構造改革の天王山とでもいうように。しかし確かに構造改革で建設産業は激変しましたが、談合の排除というプラス面だけでなく、「建設産業の疲弊と品質・安全に関わる事件・事故の頻発」というマイナス面を含んでいます。そしてスーパーゼネコンの「日本政府の財政金融政策に依存する体質」は形を変えて温存されました。これによっても、構造改革の目的は、自由競争で人々を幸せにすることではなく、独占資本の蓄積基盤の強化だということがわかります。
とはいえ構造改革によって競争が激化したことは事実です。バブル崩壊後の長期不況期に強行されたことで、構造改革は再生産過程の縮小均衡の下で新たな資本蓄積基盤を形成しました。停滞あるいは縮小する市場での激烈な競争は、中小資本の淘汰、労働条件の過激な切り下げを加速し、それを通じて独占資本が飛躍的に強化されました。建設産業で起きたことはこの過程を典型的に表現していると言えましょう。
今井氏は、建設投資の急速な縮小の中で起きた建設産業の市場関係の変化を四つにまとめています。
(1)建設産業に対する発注者の優位が顕著に強まった。
(2)元請ゼネコンによる下請専門業者に対する支配と収奪が強められた。
(3)建設業者の再編・淘汰が大きく進むとともに現場労働者の状態悪化が進んだ。
(4)スーパーゼネコン五社は急速に資本を充実した。
ここで(1)においては、マンション建設工事での請負工事価格の変化が説明されています。従来は請負業者の利益も勘案したコスト積み上げ方式だったのが、今日では激しい販売競争下で販売可能な価格を前提にしてディベロッパーの利益を差し引いた一方的な指値発注となっています。価格形成が再生産可能な方式から再生産困難な方式に転換したということです。受注した元請ゼネコンの側は、専門工事業者、労務供給業者、現場労働者に負担を転嫁します。このような市場というよりは支配・従属関係の最底辺に位置する現場労働者の賃金・労働条件は1995年以降悪化を続けており、他産業との格差も拡大しています。対照的にスーパーゼネコン五社の自己資本比率は劇的に改善しています。
このように競争激化の下で、商品価格が再生産可能な水準から再生産困難な水準に低下し(価値以下の価格への低下。それはまた異常なコスト削減による品質と安全性の軽視を招く)、賃金が労働力の価値以下へ低下し(労働者の生活困難、自己および後継者の労働力の再生産の困難)、この負担が階層性の上位から下位へ順に押し付けられる、ということは、構造改革において各産業で普遍的に起こったことだと言えます。大資本優遇税制、労働法制の改悪といった構造改革政策がこの過程を推進してきました。自由競争の推進による人々の利益という古典的には進歩的であったブルジョアイデオロギーが、今日の現実の経済構造の中では、反動的な役割に変質していることを再度強調したいと思います。ただし新自由主義の支配や構造改革の展開には、情報通信革命などの現代資本主義の生産力発展が影響しているでしょうから、上述のような搾取・収奪などの生産関係視点と合わせて考えていくことが課題として残されています。
せっかく現状分析の優れた論文を前にしながら、イデオロギッシュに読むというのは逆行している気もしますが、支配的イデオロギーとしての新自由主義への対抗も必要な課題だということで、ご寛恕願います。毒を食らわば皿まで。以下では、例によってまた図式的になりますが、構造改革を推進する新自由主義と市場競争との関係について考えてみたいと思います。
まず経済的自由を三つに区別します。人間の自由(働く者の自由)、市場の自由(市場競争の自由)、資本の自由(利潤追及の自由)です。三つの自由は一致する場合も対立する場合もあります。企業が自由な市場で大いに売り上げを伸ばして儲け、労働条件も改善される、というような状況では三つの自由はとりあえずは一致しています(厳密にいえば賃金と利潤との原理的な対立関係を指摘する必要がありますが、賃金がそれなりに伸びている状況ではその対立はある程度は潜在化しています)。しかし今日の格差景気においては、労働者の犠牲の上に企業の繁栄があることは明白で、人間の自由と資本の自由は対立しています。この両者の内ではもちろん新自由主義の自由は資本の自由の側にあります。これを人間の自由と錯覚する(させる)ところに構造改革礼賛の一つの根があります。
それでは市場の自由と資本の自由とはどのような関係にあるでしょうか。新自由主義が市場原理主義とも呼ばれ、財界が先頭に立って「官から民へ」の市場の拡大、また弱肉強食の市場競争を推進しているのを見れば、両者はまったく一致しているように見えます。確かに大方一致しているのでしょうが、持株会社の解禁という規制緩和政策の場合はどうでしょうか。戸木田嘉久氏は「大企業の集中・合併、系列・子会社の一元的支配を確立する持株会社の設置を解禁する。つまり、独占の経済的支配を強化する。こっちの方は当然のように黙認するのだが、そこには新自由主義・市場原理主義の主張の矛盾、いい加減さがみられる」(「人間らしく働き生きる権利と『ルールなき日本資本主義』論・4」160ページ)と評価しています。このような新自由主義=市場原理主義のご都合主義批判はよくあるのですが、私はむしろ新自由主義を市場原理主義とは区別することで、そこに首尾一貫した姿勢を見い出します。持株会社の解禁は独占資本を強化することで市場の自由競争を阻害する可能性があります。だからこそ独占禁止政策によって従来は規制されてきました。ここで市場原理主義批判という平面的認識にとどまらず、資本の自由と市場の自由とを区別する重層的観点を導入することが有効です。新自由主義は市場の自由ではなく、資本の自由のイデオロギーであると理解するなら、持株会社の解禁は新自由主義においては何の矛盾もなく推進されるのです。独占資本にとっては多くの場合、市場競争の推進が有利なので市場原理主義とも見える政策を採るのですが、競争は手段であって目的ではないのだから、持株会社の解禁で自からの経済的支配が強化されるなら、競争が制限されて市場原理に支障が出ようとも構わないのです。グローバリゼーション下の激烈な競争においても、他方ではドラスティックな資本の集中が進んでいることを考えるなら、市場における競争の推進そのものがその阻害要因をも伴いうることを忘れてはなりません。その際、資本の目的は経済的支配力の強化であり、その目的に奉仕する限りで市場の自由、競争は手段として利用されます。ただし現在の世界市場においてはおそらく多くの部面において、多国籍企業であってもグローバル競争の支配下にあり、それを手なずけるまでには至っていないのでしょう。しかし国民経済の次元では独占禁止政策の空洞化を行いうるところまできたことは重大です。世界経済においても、アルセロール・ミッタルなどというついこの間まで知らなかった巨大企業が登場して世界の鉄鋼業界を睥睨(へいげい)するまでになりました。激烈な競争と独占的支配の強化というアンビヴァレンスを捉える視点がこれから必要になってくるでしょう。
上の議論の含意を補足的に説明します。市場の自由と資本の自由との関係は、自由競争的市場と寡占的市場とで異なります。自由競争的市場においては、資本への規制緩和は市場競争の促進となります。つまり資本の自由と市場の自由が一致しています。寡占的市場においては独占資本への規制によって市場競争を確保する独占禁止政策が行われてきました。持株会社の解禁のような資本への規制緩和は市場競争を阻害する恐れがあります。つまりここでは資本の自由と市場の自由が対立しています。
寡占的市場においては、独占資本と中小資本とは、一面では弱肉強食の競争により後者が淘汰される関係であり、他面では支配・従属関係を形成しています。独占資本どうしでは一方で厳しい競争があり、他方で何らかの提携による市場支配の可能性もあります。
以上の見方は図式的なものに過ぎませんが、市場原理主義という平面的というよりむしろ単線的な見方よりは多面性があります。市場原理主義とその批判という次元では市場競争の自由に対してどの程度の規制を加えるのか、という綱引き的な量的認識にとどまりがちです。大切なのは、どのような立場からどのような状況の市場のどの局面を捉えるか、という視点です。人間の自由、市場の自由、資本の自由という三つの自由の区別、自由競争的市場と寡占的市場の区別、寡占的市場における独占資本と中小資本の相互関係の各局面の区別が有効であると考えます。おそらく実際には具体的に市場への規制を考える場合には事実上、そのような認識は踏まえられているのでしょうが…。
市場原理主義といってもその含意として、競争至上主義という意味合いと、とにかく市場に任せるという意味合いがあるように思えます。まず後者の「市場に任せる」という場合の市場は実際には寡占的市場であり、独占資本の覇権が多かれ少なかれ存在することが前提になっています。だからこの場合の市場原理主義批判というのは独占資本への批判を事実上含みます。しかし言葉面からしてその点があまり明確ではありません。前者の「競争至上主義」という意味合いについて考えると、中小資本や中小零細業者など市場で淘汰される側にとっては競争至上主義は耐え難いものであり、それへの批判は当然ですが、ややもすると市場そのものへの憎悪になってしまいかねません。しかし少なくとも近未来において市場を廃絶する可能性はありませんから、市場社会主義であろうと、資本主義の枠内での経済民主主義であろうとも市場をどうコントロールしていくか、が課題となります。市場の敵視ではなく共存の視点が必要です。このように二様のニュアンスを勘案してみると、新自由主義に対して市場原理主義批判というスタンスで臨むのは、一方では一定の不明瞭さが残り、他方では無用の過激主義やニヒリズムに陥って建設的批判からはずれる危険性がないとはいえません。
10月24日、ブッシュ大統領はキューバの体制転覆を呼びかけ、その名目として「自由」の拡大を掲げました。テロが起こったり、イスラム原理主義者が跳梁するような事態を前にしてもいつもブッシュは発展途上国の人民などを相手に「自由」を説教します。イラク侵略戦争で多くの人民の生存の自由を奪ったブッシュの「自由」が人間の自由でないことは自明であり、それが新自由主義の自由つまり資本の自由であることもはっきりしています。独占資本の立場からは、独占禁止政策の「規制緩和」によって市場支配力が増大することは「市場の自由」の拡大です(人民にとっては市場の自由の縮小ですが)。彼らは労働者を自由に働かせることを「労働(者)の自由」と称しています。つまり独占資本とその代弁者である現代のブルジョア教条主義者にとっては、人間の自由=市場の自由=資本の自由であり、現代経済の勝ち組の目にこれらの区別は存在しません。だからブッシュは誠心誠意「自由」が大切だと信じて訴え続けているのでしょうが、抑圧される側にとっては三つの自由の区別は必要であり、見えてもきます。
三つの自由の観点からすれば、市場そのものを敵視するのでなく、人間の自由と資本の自由とが、市場の自由をめぐってせめぎあっていると捉えることも可能です。人間の自由の立場から市場の自由を生かす道としては、小経営がそれにふさわしい活躍の場を見い出せるような市場の実現など様々に考えられるでしょう。
とはいえ現実の市場の自由は資本の自由の覇権の下にあり、だから人民の立場からは市場原理主義批判が出てくるのも理由のあることだといえます。今、世界経済をゆるがしているアメリカのサブプライム問題も金融市場をめぐる人間の自由と資本の自由との対決点として捉えられます。アメリカ経済というと新自由主義の権化のように思われがちですが、草の根の経済組織も奮闘しています。低所得者向けに低利で住宅ローンを貸し付ける非営利の地域開発金融機関(CDFI)とか市街地再開発を手がけるコミュニティ銀行があります。あるコミュニティ銀行の頭取はこう語ります。
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「大手銀行やサブプライムと我々では、融資の姿勢が異なる。彼らは資金力に任せて、契約件数を増やす。顧客が借りやすいように最初のうちだけ金利を低くする。我々は、顧客との日々の接触の中で、延滞がないようにアドバイスするし、仮に延滞しそうになると、返済条件の見直しなどにも応じる。なぜなら我々は彼らを支えることが目的だからだ」 藤井良広「サブプライム問題で露呈したグローバル金融の『もう一つの危機』」 『世界』11月号所収 116-117ページ
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CDFIやコミュニティ銀行が上記のようにきめの細かい債務管理を行うのに対して、営利金融機関は「一定のデフォルト率を見込み、その分をカバーできる高金利を設定する営利の手法で対応し」(同前、117ページ)ます。いいとこ取りで、ダメと判断したものはさっさと切り捨てる。もともとCDFIの市場だった低所得者向け市場に営利金融機関が進出したのは、FRB(米連邦準制度備理事会)の超低金利政策に背を押されたためでした。サブプライムはグローバルな使い捨て経済の象徴であり、CDFIはローカルなじっくり育てる経済の象徴だといえます。どちらが強力か、どちらが人間的かはともにはっきりしています。市場の自由をめぐって人間の自由と資本の自由とが対決しているとき多くの場合、放っておけば資本が制覇するでしょう。ましてやこのFRBの姿勢のように、新自由主義の政府機関が資本の後押しをするなら状況の悪化は倍加されます。市場の自由を人間の自由のコントロール下に置くためには、資本への民主的規制が必要です。その実現には、人民の諸運動が高揚すること、さらには民主的政府を確立することが必要となるでしょう。
2007年12月号
前畑雪彦氏の「マルクス計算貨幣概念と『ペイメントシステム』の電子化 支払い手段に含まれる無媒介的矛盾の不換制下の独自形態」という難しい論文を読んで、いや読んでというより私の能力ではあまり理解できないので、眺めてというべきでしょうが、あれこれ思い浮かんだことを書きます。もとより論文の中身に内在して、まとまった感想を述べることは無理なので、気ままな内容になってしまいますが、ご寛恕ください。
従来の日本のマルクス経済学の弊害として、『資本論』解釈学に偏重して現状分析が弱いと言われてきました。そこで「大胆な」現状分析では理論から「自由な」展開が図られたりして、理論と現状分析が乖離し、というよりも理論は現状分析にとっての桎梏とみなされているような向きもあります。そういう理論ならないほうがいいけれども、理論そのものが見失われているのではないか、という気もします。ソ連・東欧社会主義が崩壊した後、1993年の『経済評論』終刊号「特集・マルクス経済学とは何であったか」では、近代経済学者の伊東光晴氏が巻頭論文で分析武器の検討という視角から、理論と実証分析の有効性とを不可分に論じ、新古典派やケインズに対するマルクスの理論的長所を鮮やかに明らかにしています。理論・学史・現状分析に総合的に通じているとはどういうことかをここに見ることができます。対照的に同誌では多くのマルクス経済学者たちがマルクスにとらわれていたことがいかに間違っていたかを懺悔しています。歴史的大変動を前にして、何もなかったかのようにしているよりも、腰を抜かすほうがよほど誠実なのかもしれません。しかしそもそも理論への理解が本当に正しかったのかも反省する必要があります。
今日の理論状況はいささかアバウトな感じがします。20世紀末から今日までの物価下落について多くのマルクス経済学者がデフレと規定して現状分析を論じています。これで政府の経済政策を正しく批判できるでしょうか。実体経済の不況を金融の問題にすり替える用語法に自覚的に対決するには、物価の騰落をインフレ・デフレと区別するというマルクス経済学の基礎理論に立つ必要があります。やはりテキトーな理論にはテキトーな現状分析が対応するように思うのですが…。
経済を見るセンスとは何か、が依然として私のような者にはよくわかっていません。経済学を応用数学と勘違いしているような近代経済学者がいる一方で、経済学を応用哲学か応用論理学と勘違いしているようなマルクス経済学者もいるような気がして、どうなのかなとも思います。理論には様々な抽象度がありうるので、特に抽象度の高い理論を扱えばすぐに現状分析に役立つとは限りません。それでも当該理論と具体的現実との関係について自覚的であれば、研究の進展は何らかの形で、自分を取り囲む経済を把握できていく実感とともにあるだろうと思われます。どうもそうではなくて言葉が概念が自己回転していくだけでそうした実感に開かれていないことがあるのではないか。そういう人たちと比べれば現実の経済統計の分析などに取り組んでいる近代経済学者の多くは現実経済をそれなりに把握しているだろうし、経済を見るセンスもあるのだろう、という気がします。たとえばそれは経済動向に対する先見性の如何といった部分に反映されます。これに対して、人民の立場に立つということとともに、資本主義経済を概念的に把握しそれを現状分析に貫くことを抜きにしてマルクス経済学の優位性は発揮できません。特に近代経済学において貨幣の本質論はないのだから、そこをきちんとするところにマルクス経済学のアイデンティティがあり、逆にいえばそこが抜ければ現象論に陥ることになりかねません。
前畑論文は、価値尺度・流通手段・支払手段などといった貨幣の諸機能を現代経済のなかで厳密に考察するという基礎理論的課題を果たすことを通じて、「不換制の資本主義の人類史上の位置付けとこれに独自の新たな体制移行条件の解明」(124ページ)に迫るような恐慌論にも資する、という問題意識を持った実に気宇壮大なものです。現実経済に対する理解の中にマルクスの貨幣論を貫こうとするこのような姿勢のなかには、理論と現状分析との乖離という悪弊を打ち破る方向性があります。とはいえそこには最初から困難な課題があります。それは不換制下の今日もなお金が貨幣であるか、という問題の解決です。「大学に籍を置く日本のマルクス経済学者においては、価値論は承認するが金は廃貨されたと主張する中途半端が多数存在する」(125ページ)と、前畑氏は嘆きます。IMFにおいても金廃貨が決定されている現状では、金は畜蔵貨幣ではあっても、価値尺度や流通手段や支払手段ではないように見えます。正直なところ、私には金廃貨の問題を判断する力はありません。もし上記の「中途半端」な立場が本質論を獲得するためには、たとえば不換銀行券などが直接に労働量を表現するいう「価値形態論」を据えるかしてでも、とにかく「金廃貨の労働価値論」という理論体系を確立する必要があるでしょう。もちろん前畑氏など金貨幣論者はそれは不可能だと考えるでしょうが。これに対して金貨幣論の立場ならばマルクスの理論体系をそのまま継承すればよいのですが、金が廃貨されたように見える現実をどう反証するかが問題です。前畑論文でもそのことに言及されているようですが、それが論文の主要なテーマではないので基本的には金貨幣論は当然の前提とされているようです。
10月に松本朗立命館大学教授から「現代における金(Gold)の貨幣性 金生産、金生産コスト、金市場価格」という論文(来年春出版目標である山田喜志夫氏喜寿記念論文集に掲載予定)を送っていただきました。論文の課題は「実際の金の需給構造、金の生産の動向、金市場価格と物価の長期的な傾向を検討することで、今日においても金が貨幣として機能し、さらには価値尺度として機能している可能性を探ること」です。つまり現代における金の貨幣性の実証的検討です。これも私にとっては難しい論文でおそらく何度も読まないと一応の理解にさえも到達できないでしょう。そこで金貨幣論(現代における金の貨幣性の主張)が論証されたかどうかは、今のところ私の判断力を超えています。しかし一読して目を引いたのは、同じ金貨幣論者である前畑氏への根本的批判を含む点です。
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(前畑)氏によれば、現実の貨幣制度では貨幣の「実在的貨幣と観念的貨幣への二重化」が進行する。それと同時に価値尺度機能も本来的な価値尺度機能と計算貨幣の機能(=観念的な価値尺度機能)へと二重化すると考えられる。そして、不換制下では後者(観念的な価値尺度機能)が自立化し、インフレーションは「観念的貨幣である円の継続的価値減価」となって現われると理解される。さらにそれは、「金生産における生産力上昇による価値尺度商品の継続的価値低下と同様の効果を持って、物価水準の持続的累積的騰貴」につながっていくと考えられる。つまり、不換制下ではあたかも通貨そのものが価値尺度として機能するようになると考えられ、その限りでは実際の金貨幣は必要なくなる。言い換えれば、氏においても現代の通貨と金との関係は切断され「観念的な」関係へと封じ込められる。
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これに対して前畑氏は「通貨が価値尺度として機能するとは言っていない」と反論するかもしれません。預金貨幣は計算貨幣であって流通手段ではないので、それは通貨ではない、と主張する前畑氏にとっては、通貨が価値尺度であるということは考えられないだろうからです。前畑論文では「購買による補足を必要としない価値尺度としての計算貨幣」(128ページ)の意義が強調され、それが多国籍企業の帳簿に記録され「諸国に展開する資本の実在的存在を、様々な項目において全て円という観念的貨幣数値で統一的に存在させることによって、全体の資本蓄積のコントロールが可能とな」り、「こうして資本存在は、貨幣資本を含めて実在的存在と観念的存在とに二重化する」(128ページ)とされます。前畑説の発想は、「いわば実在と観念との弁証法的関係において観念的なものの役割を重視する」とでもまとめることができるのかもしれません。なるほどとも思うのですが、頭の悪い私にはわかったようなわからないような、という感じもします。
松本論文では、現代の通貨について信用貨幣説と紙幣説とが紹介され、前者においては「信用貨幣の必要条件として債権債務の相殺・還流を重視する」とされています。そして紙幣説の代表として前畑説が上記のように検討されています。観念的計算貨幣の重視ということと紙幣説とが関係しているのかどうかはわかりません。しかし信用貨幣説(松本氏の立場)においては「債権債務の相殺」が還流という実在的関係と並べて理解されていることは、前畑説と対照されるべきように思えます。
実在の金に関する統計を駆使して実証分析を試みた松本論文の立場からは、貨幣の諸機能についての概念的分析で現実経済を解釈しようとする前畑説は観念的に見えるのかもしれません。そうしてみると誠に粗雑なアナロジーで申し訳ないのですが、松本説と前畑説との対立は、現代不換制下における金貨幣論という新たな共通の土俵上で、メタリストとノミナリストとの伝統の取り組みが再現されたかのように見えてきます。
私は零細自営業者として現金商売を営み、小切手・手形・当座預金などには縁がありません。物の本を読むことで、現金通貨でなく預金貨幣が国民経済の多くの部分の取引を決済している仕組を知りました。世の中そういうものか、と思ったわけです(経済を見る初歩的知識の獲得)。ところが教科書的にはそれは預金通貨と呼ばれていますが、前畑氏は預金通貨概念を否定します。私にとっては晴天の霹靂というか…。前畑氏の批判はなかなか峻烈です。
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預金を通貨と把握するのは、貨幣をその様々な規定において具体的に理解することができず、それを単に流通手段としてのみ理解し、従って諸貨幣機能の間の機能転換を知らない古典派・新古典派的思考の限界の表明である。すなわち市場とは商品対商品の交換という実物バランスであり、貨幣はこの交換を媒介するための単なる形式的な中間項(貨幣ベール)に過ぎず、現代においては、この中間項が流動性預金の形態を取っているのだという単純な認識である。そして金融政策は、ベースマネーコントロールによって、流動性預金(マネーサプライ)の伸び率を商品対商品の交換における両極の商品量(GDP)の成長率に適合させるべきという現代通貨主義としてのマネタリズムである。したがって流通手段から畜蔵貨幣への機能転化(またその逆の機能転化、ケインズはこれらを理解した)を知らないのみならず、商品と貨幣との絶対的対立を認識できない。そしてこれによってこのシステムの内在的リスク、即ち観念的計算貨幣の突然の現金化と言う貨幣機能の転化と、これの防止メカニズムの独自の性格の把握に失敗するのである。 134ページ
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転形問題について近代経済学者も参加して数理経済学的な論争が展開されえたのは、おそらくそれが、価値の増減とか消滅とかという点から労働価値論を検討する価値実体論に属する問題であるからでしょう。そこでネオ・リカーディアンが労働価値論批判派として立ちはだかったのもそうしたフィールドの故かもしれません。これに対して価値形態や貨幣の諸機能という経済学の重要な課題は近代経済学には欠落しています。貨幣ベール観に立つ古典派・新古典派はもちろん、事実上、畜蔵貨幣を理解したケインズにしてもその課題に自覚的であったわけではないでしょう。だから前畑氏が上記のような批判を展開する問題意識はマルクス経済学のアイデンティティという点から理解できます。ただし預金通貨論批判というものが、そういう文脈に適合するのかどうかはよくわかりません。
確かに計算貨幣の相殺機能によって流通必要通貨量は節約され、差額も日銀の各行当座預金の振替によって処理されます。国民経済的にはそうなります。しかし「個々の流通当事者の主観的立場から見ると…中略…彼にとっては預金があたかも流通手段あるいは支払い手段として機能したように見える」(134ページ)ということは、単なる個人の錯覚から国民経済的に働く貨幣の機能を見誤ったものだと言えるでしょうか。現実に国民経済における商品の多くの部分が預金貨幣の働きで流通している、ということからすれば預金を流通手段や支払手段として預金通貨と呼ぶことができるようにも思えます。価値尺度として計算貨幣機能を持った預金貨幣がその他の機能を合わせ持つことは不都合でしょうか。
預金通貨を否定すれば、当然ながら預金貨幣(前畑氏によれば「預金帳簿上の貨幣の機能」)は「流通手段プラス支払い手段の広義の流通必要貨幣量の構成部分ではない。逆である。それはそこから控除される相殺部分である」(133ページ)ことになります。私たちは政府統計から通貨量としては通常マネーサプライを参照しています。ここから預金貨幣を抜いてしまって国民経済の分析用具として機能するでしょうか(こういう疑問はマネタリスト的偏向なのかもしれないが)。それとも「流通必要貨幣量」の理論的分析にはそれが正確なのでしょうか。
概念的に重要なところでありながら、どうもこのへんは考えが深まらずまとまらず表面的な印象で書いているようで申し訳ないのですが…。
以上、意見が定まらず無知をさらしただけのような気もします。しかしこういう水準でも理論問題に関心を持つことは大切であり、何か書いて考えることによって、いっそうの勉強の必要性を痛感できること、あるいはそういう者がいることを知らせることにも意義があるのではないかと思います。今月はまた特に妄言多罪。
2007年11月27日
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