これは『前衛』編集部あてに2006年8月4日に送った文章です。 |
グローバリゼーションと愛国心・公共性
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要旨
グローバリゼーションとの関係で公共性をどう形成していくのかという問題に対して、愛国心を強調するのが支配層からの一つの回答です。私たちにとってはどう別の答えをだすのかが問われています。それを考える際に、イデオロギーや政治だけでなく経済も問題にする必要があります。またブルジョア民主主義の徹底だけでなく、社会主義への展望も視野の先の方には入れておく必要もあります。
愛国心は分析的に捉えるべきであり、自然な感情と国家権力に対する意識とを区別し、後者についてはさらに現存の国家とあるべき国家とへの意識を区別する必要があります。その他に歴史的概念としても、市民革命的・帝国主義的・民族自立的な、それぞれの愛国心が展開してきたのであり、今日ではグローバリゼーション下の愛国心が成立します。
グローバリゼーション=新自由主義とナショナリズム=愛国心とは対立するだけのように見えますが、グローバリゼーションにより喚起される競争国家的ナショナリズムもあります。グローバリゼーション下の日本資本主義国家はイデオロギー的には<新自由主義+ナショナリズム>を採っています。新自由主義を基調として、競争国家的ナショナリズムで補完し、伝統的共同体的ナショナリズムをなだめつつ支配を維持しています。私たちは<経済民主主義+自由主義>で対抗することになります。政治的にブルジョア民主主義・自由主義でナショナリズムに対抗するとともに、経済民主主義で新自由主義的グローバリゼーションを規制してナショナリズムの基盤を断つことを狙います。これは政治的にはマルクス主義とブルジョア民主主義との統一戦線です。マルクス主義者にとってはここで思想的・理論的にはブルジョア民主主義の批判的継承のあり方が問われます。
階級性一般と公共性一般とが対立するのではなく、資本の論理による新自由主義的な階級性=公共性と、労働と生活の論理による人民的な階級性=公共性とが対立します。現代のイデオロギー闘争はそれぞれの階級性を担った異質の公共性どうしの論争となります。新自由主義的な公共性が支配的な日本においては、人々の目を世界の動きに向けつつ人民的な公共性の側に獲得していくことが必要です。
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問題提起
佐貫浩氏の論文「教育基本法は『愛国心』をどう考えているのか 愛国心と民主的価値形成をめぐる対抗」(『前衛』2006年7月号)は今日の焦眉の課題と格闘し平易な言葉で様々な問題を解明しています。具体的なものとの取り組みの中から普遍的な諸問題が提起されています。その中でも最重要な問題提起のまとめは次の言葉に表現されていると思います。「『愛国心』の問題は、グローバリズムのなかで、日本が人と人とのつながりをもった社会へと再生していく見通しを、誰がどういう形で提起することができるのかにかかわって、その一つの選択肢として登場しているのだと理解できます。私たちが、この対抗関係のなかで、どういう政策や理論を提起できるかが問われているのです」(47ページ)。
当面の政治課題からすれば迂遠ではありますが、以下ではこの問題提起への社会科学的接近に絡んで思いつくままにいくらか述べてみたいと思います。「愛国心とグローバリズム」という問題設定そのものが核心をついたものですが、同時に両者の関係からは二つの問題が浮かび上がってきます。一つはイデオロギー・政治と経済との関係であり、もう一つはブルジョア民主主義と人民的民主主義(および社会主義)との関係です。愛国心はイデオロギーや政治の問題であり、グローバリズムは主に経済の問題です。また愛国心は個人と国家との関係であり、特に市民革命以後の国民国家形成以来ずっと問題とされてきました。これに対してグローバリズムは今日の資本主義の世界的あり方であり、多国籍企業への民主的規制を含む人民的民主主義あるいは社会主義との関係において問題とされます。したがって「愛国心とグローバリズム」という組み合わせの中で、「日本が人と人とのつながりをもった社会へと再生していく見通し」つまり公共性の展望を提起することは、単に日本国憲法と教育基本法とが想定する民主主義をめぐる政治闘争だけにかかわるわけではありません。それは社会構造の問題としては経済的土台を含み、歴史段階の問題としては資本主義の克服(当面はグローバリゼーションへの民主的規制、その先に社会主義への展望)を含みます。
愛国心の分析
愛国心をめぐる議論では、愛国心とは何かということが曖昧なことが多いようです。佐貫氏はここに多面的に切り込んでいます。まず愛国心は三つに分析されます。
一、国や権力に関する意識としての愛国心
二、身近な人への親しさ、懐かしさの感情
三、ふるさとの自然等への愛着や親しさの感情
さらに一は対極的な二つに区分されます。
X.現存する政府に対する愛の感情や態度
Y.よりよい国をつくる意欲と情熱が前提となった自分の国への愛着
権力者は二や三を利用してXを受容させようとします。したがって郷土愛を含めて、愛国心につながるものを教育基本法に書き込むことは、内心の自由を保障した憲法に違反することになります。今回の改定策動において、そこでの愛国心は国家や政府を愛することとは違うのだと、公明党あたりが盛んに言いますが、いかなる意味でも国家が愛国心を法定することはきっぱり拒否しないと、自然な感情が国家権力によって悪用される橋頭堡を提供することになります。
その例が靖国神社問題です。小泉首相や安倍官房長官などは「国のために戦った方への尊崇の念」で参拝するなどといいます。確かに戦死した兵士や遺族にとって「国」とは、家族・恋人・郷土・自然などを含む国を指しますが、彼らを召集し死を強いた「国」とは、天皇制絶対主義の軍国主義国家でした。靖国神社は侵略戦争を美化することで、その主体である軍国主義国家を免罪し、あろうことかそこで戦死者が顕彰されることで今日の国家が彼らに報いているかのように振る舞います(もちろん今日では靖国神社は一宗教法人に過ぎないのですが、実質的に国家機関かのようにみなされています。たとえば厚生省の名簿に基づいて神社側は合祀してきました)。戦死者が(上記の二や三の意味での)「国」のために戦ったというふうに国家から認定されたと思えることで、遺族は家族の死に意味を見い出します。そうなることで兵士を死に追いやった国家犯罪は隠されます。このように、遺族においては、靖国神社による戦死者の顕彰によって「国」と国家は一体化されていると思われます。残念ながら今日の国家はかつての侵略戦争への本質的反省を欠き、新たにアメリカの目下の同盟者として戦争可能な国家体制を目指しています。今、かつての侵略戦争の戦死者を英霊と賛えるのは新たな英霊を作り出す準備に他なりません。本来、国家がなすべきことは戦死者を賛えることではなく、戦死者に謝罪することです。「国」のために戦うと思わされて、軍国主義国家の犠牲となった多くの人々の無念を晴らすためには、少なくとも国という言葉の持つ多義性を理解し使い分け、愛国心の名の下に自然な感情が戦争に利用されるのを防ぐことが必要です。
閑話休題。佐貫氏はさらに愛国心を歴史的概念において三類型として把握しています。
一、市民革命後の国民国家形成過程において自分たちの国に対して抱く誇りの感情
二、帝国主義段階で国民を戦争に動員していくナショナリズム
三、植民地支配に対抗する被抑圧民族のナショナリズム
このような概念区分は、たとえば近代から現在までの日本とアジア諸国におけるナショナリズムを理解する上では不可欠だと思います。最近の日本と中国におけるそれぞれのナショナリズムの高まりを一色に描くことは誤りです。明らかに日本では二の要素の名残があり、中国には三の要素の名残があります。もちろんそれだけでなく、停滞局面におけるナショナリズムと躍進局面におけるそれとの区別もあるし両国各々の大国主義もあるでしょう。日本においては対米従属下での対中国・アジア関係という重層性もナショナリズムのあり方に影響しています。そういったものがグローバリゼーションの中で複雑に絡み合っています。
佐貫氏は近代以降の愛国心・ナショナリズムの概念区分という重要な指摘をした後で、現局面の最重要な問題としてのグローバリズムと愛国心という問題の解明に向かいます。
グローバリゼーション=新自由主義とナショナリズム=愛国心
グローバリゼーションと愛国心というのは普通に考えれば両立しません。世界を単一の市場として資本が国境を越えて移動することで国家の影は薄くなると思われるからです。「国策捜査」で逮捕・起訴されることで有名になり今では論壇の寵児となった感のある佐藤優氏が朝日新聞で村上ファンド事件に関連して新自由主義と国家について語っています(6月23日付)。長くはないインタビュー記事のせいか、博覧強記の佐藤氏にしてはずいぶん単純な論理を展開しているという気がしますが、通俗的な議論の代表として紹介します。「市場原理主義を理論的に突き詰めていくと、規制緩和というより『無規制』、『小さな政府』というよりも『無政府』へと必然的に向かっていく」。これは佐藤氏による新自由主義の本質論ですが、それとの関連でナショナリズムにも触れられています。「小泉政権には『二つの顔』がある。ひとつは、小さな政府という規制緩和と自己責任に基づく新自由主義。もうひとつが、靖国神社参拝問題に象徴される新保守主義の二つの側面だ。この両面をアクロバットのように渡り歩きながら、一方で限界に近づくと、もう片方をあおることによって、国民の幅広い支持を得てきた」。この説明では、新自由主義とナショナリズムとは本来はまったく相容れないものであって、小泉政権において両者がきわめて外面的に接合されているだけ、ということになります。
佐藤氏によれば、新自由主義による政府の否定とは官僚の否定になり、村上世彰氏が自己の可能性を最大限に追及しようとすれば官僚組織そのものを飛び出すしかありませんでした。これは一見きわめて明快です。しかし商法・証券取引法を専攻する上村達男早稲田大学教授はまったく逆の説明をします。
村上氏の「挫折の原因は、彼が信奉してきた会社観、経営観そのものにある。そしてそれは近年、経済産業省主導で行われてきた会社法制や企業買収法制そのもの、すなわち、規律なき最大自由の追及路線の限界である(それは経済界が求めたものでもあった)。村上前代表は経産省会社法路線がもたらした最大自由を最大に利用して一応の成功を収めた。しかし経産省会社法路線の今ひとつの特徴である規律の欠如によって大きな失敗を余儀なくされた。村上ファンドはまさしく経産省会社法路線の申し子であり、経産省会社法路線の限界の体現者である」(「村上ファンドはなぜ挫折したのか」『世界』8月号、37ページ)。村上氏は官僚機構を飛び出したとはいえ、やっていることは経産省会社法路線そのものでした。経産省は財界の期待に応えて、新自由主義路線の規律なき最大自由を追及しました。グローバリゼーションの時代には政府がなくなるのではなく、政府が率先して新自由主義の政策を推進するのです。福祉は「小さな政府」になるけれども、多国籍企業のための政策推進および軍事・弾圧機構においては強力な政府が要請されます。
上記のように佐貫論文においてはナショナリズムの歴史的概念が、1.市民革命的、2.帝国主義的、3.民族自立的 の三つに区分されていました。今日におけるナショナリズムの高まりはそれらとは違って、ナショナリズムとは一見相容れないグローバリゼーションとの必然的に密接な関係として、佐貫氏は描き出しています。そこで明示されてはいませんが、立論の前提として、たとえグローバリゼーションの時代でも、資本は自由に国境を越えるが、人間はそこまで自由ではなく、特定の国民国家における「国民」として存在せざるを得ない、という事情があると思われます。たとえば住民税を逃れるために年始を含む一定期間は外国に住むというようなことなどは大部分の人々には不可能です。今日もなお人々の命運は国家の盛衰にかかっているというわけです。
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新自由主義の論理は、ナショナリズムを呼び起こす論理を含んでいるということもできます。新自由主義は、グローバルな世界市場で、国民が、民族と国家単位で競争のスタートラインに立たせられるようなイメージをつくりだすことで、国家の利益、日本企業の利益が同時に国民の利益であるという意識を不断に再生産していくシステムとして機能します。新自由主義的なグローバリズムは、ナショナリズムを喚起する性格をそなえているのです。
さらには、社会崩壊を、民族共同体意識--今の若い青年にとっては「ニッポン」という共同体感覚といった方がぴったりするでしょう--で再統合するという点です。
42ページ
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この引用の前半部分が、グローバリゼーションとナショナリズムとの必然的な関係という一見逆説的な佐貫氏の論理を見事に証明しています。しかし後半部分はそれとはやや異質な面を抱えています。国家間競争も社会崩壊もグローバリゼーションに随伴するものですが、前者が資本の論理の延長線上に捉えられるのに対して、後者は資本の論理の排泄物でありその阻害要因である点において異なっています。資本の論理の推進においては、天皇制や伝統を必ずしも前提にしないナショナリズムが成立しえます。資本の論理の推進では解決できない社会崩壊に対応するナショナリズムの場合には天皇制や伝統といった共同体意識に依拠せざるをえないでしょう。ここに競争国家のナショナリズムと伝統的共同体のナショナリズムが共存します。もちろん現実のイデオロギーはそのように判然と区別されるものではなく、様々な混合物に満ちていると思います。日本では何といっても天皇制を中心とする共同体的意識がナショナリズムの伝統的形態として強固な道具建てであり、それから離れたナショナリズムはなかなか成立しません。したがって競争国家のナショナリズムも現実にはこの道具建てに頼らざるをえません。これは日本資本主義の近代化過程の歪み、ブルジョアジーが自立した支配者階級とならなかったことの反映です。しかし最近の若い世代では天皇制抜きの体制側のナショナリズムというものも見られるようですから、グローバリゼーション下における競争国家的ナショナリズムという概念にも有効性と現実性はあり、今後のナショナリズムの動向を見る際に参考になりそうです。
上記のように佐藤優氏は小泉政権を新自由主義と新保守主義との結合と捉えました。それははなはだ外面的把握なので、佐貫氏の論理を踏まえて、グローバリゼーション下の保守政権が新自由主義とナショナリズムとをどのように結合させているかを考え直してみたいと思います。グローバリゼーション下の保守政権が多国籍企業を基盤としている以上、そのイデオロギー的基調は新自由主義となります。そして国家が融解することなく依然として国民国家であり続けている以上は競争国家としてグローバリゼーション下での生き残りをかけます。ここに新自由主義的政策を推進するナショナリズムが成立します。自国と自国を基盤とする多国籍企業との勝利のために「国際競争の痛みに耐える」意識です。しかし新自由主義の推進は格差の拡大、社会崩壊の傾向を招きます。ここに資本の論理への反発が様々な形で噴き出します。新自由主義とは敵対する伝統的共同体的ナショナリズムが高まります。支配層はこれを利用します。市場原理主義や弱肉強食への批判をある程度は右側からやらせて人々のガス抜きをして左傾化を防ぎます。また抵抗するものは民主的権利を奪ってでも弾圧しますが、それを容認するような世論形成にとって、伝統的ナショナリズムのような遅れた意識の高まりは有利です。なお新自由主義やナショナリズムとは別に、地方や業界を基盤とする従来型の保守イデオロギーも分厚い層として存在していますが、特に小泉政権以降では「構造改革」による経済的地盤沈下と「守旧派」批判にさらされてかつての活力を失い、新自由主義政権の敵役=引き立て役とされてきました。しかしまともな生活保守勢力としては現実主義的意義を持っているともいえ、草の根部分では革新派との連携の可能性もあります。官僚機構においても現実主義的保守主義が新自由主義にある程度抵抗している場合もあり無視することはでません。
以上をまとめると今日の日本資本主義国家はイデオロギー的には、新自由主義を基調とし、競争国家的ナショナリズムで補完し、伝統的共同体的ナショナリズムが暴発しない程度になだめて利用しているということができそうです。小泉政権においてはそれらが首相のキャラクターの中にアンバランスに共存しており、佐藤優氏のいうようにきわどく使い分け、かつマスコミの支援を不可欠の要素として希代の反人民的政治が維持されてきました。
<新自由主義+ナショナリズム>という日本の支配層の立場に対して、私たちは経済の分野では、新自由主義の経済政策を批判して、独占資本への民主的規制を含む経済民主主義で対抗しています。これは直接的に社会主義を目指すものではありませんが、資本主義経済へ部分的な規制をかけるわけですから、ブルジョア民主主義や自由主義の政治原則に対応する経済像をある程度越えるものです。
政治やイデオロギーの分野では、たとえば憲法と教育基本法の改悪策動などに見るように、新自由主義の狙いを伴いながらもナショナリズムが全面に出てくるので、市民革命以来のブルジョア民主主義や自由主義の原則を全面に押し出して対抗します。典型的なのは、立憲主義の問題で、現憲法では主権者国民が国家権力をしばる立憲主義になっているのに対して、逆に自民党の改憲案では国家から国民に対する指令になっています。市民革命以前への逆行を許すかどうか、ということですから21世紀の日本において17・18世紀のヨーロッパ並みの闘いをしているとも言えます。しかしそのような古ぼけた形の闘いの中身は新しいとも言えます。近代ヨーロッパにおいて人民に立ちはだかったのは絶対君主ですが、現代日本ではそれは実質的には天皇ではなく多国籍企業という資本です。現代日本の君主たる資本は、国際競争で勝ち組となるために、人民の社会権はもとより、自由権をも奪おうとしています。
このように、<新自由主義+ナショナリズム>という支配層の立場に対して、私たちは<経済民主主義+自由主義>という立場で対抗しているかのようです。ナショナリズムは一面では佐貫氏のいうようにグローバリゼーションによって喚起されますが、他面では明らかにグローバリゼーションへの反動として強化されます。<新自由主義+ナショナリズム>という結合は、このような遠心力と求心力との複雑なバランスの上に成立していますが、対米従属を含むグローバリゼーションへの適応という大枠の中に何とか調整されています。それを崩すのは人民の動向です。生活・労働破壊に導く新自由主義の競争国家政策、および社会崩壊に対するナショナリズム的統合とをともに拒否できるオルタナティヴの提示で共感を広めることが必要です。グローバリゼーション推進の新自由主義という支配層と共通の立場でナショナリズムだけに反対して、ブルジョア民主主義と自由主義を掲げると失敗します(注)。新自由主義の競争国家政策および生活・労働破壊、社会崩壊を放置しては、それらを重要な原因として興隆するナショナリズムを克服することはできません。市民革命以来の歴史があり、人々に常識として定着しているブルジョア民主主義や自由主義の原理でナショナリズムに対抗することは必要です。しかし今日においては新自由主義を否定して、現行のグローバリゼーションのあり方に一定の規制を加えることで、ナショナリズムの一つの重要な根を断つことも併せて行わねばなりません。<経済民主主義+自由主義>となるゆえんです。これはイデオロギー的には、科学的社会主義とブルジョア民主主義との統一戦線となります。政治的には、いかに説得力を強化して人々の中にこの統一戦線を広げていけるか、が課題ですが、マルクス主義者にとっての理論的課題としては、ブルジョア民主主義をいかに批判的に摂取・発展させていけるか、が問われているように思われます。
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(注)オーストラリア労働党政権下で、先進的な政治的民主主義と新自由主義の経済政策との結合が結果として社会不安を招き政治反動の温床となったことを、テッサ・モーリス=スズキ「新たな市場に出荷された古い偏見」(『世界』2000年8月号)が紹介しています。それへの言及が、刑部泰伸「今日の政治経済イデオロギー」(「文化書房ホームページ」の「店主の雜文」より)にあります。
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これは単に私の勉強不足による疑問かもしれませんが、たとえば立憲主義に代表される人民による国家権力の制限という思想は現代のマルクス主義にはどのように位置付けられているのでしょうか。いわゆる「マルクス=レーニン主義」においてはそれが欠如していたと思われますが…。日本共産党においては、「プロレタリアートのディクタトゥーラ」という用語を綱領から削除する過程に関連して、立法権と執行権との統一というソヴィエト型民主主義に代わってブルジョア民主主義の三権分立が積極的に位置付けられました。資本家階級の権力である資本主義国家に対してマルクス主義者が攻撃を加えその弱体化を狙うのは当然ですが、労働者階級が権力を獲得した後にもその権力を相対化することはどのように理論的に位置付けられるのでしょうか。それはブルジョア民主主義ではあたりまえのことですが、「マルクス=レーニン主義」においては、労働者階級が権力を執ったのだから、人民のための政治が行われ、人民の自由を侵害するはずがない、というタテマエがあり、労働者階級が自らの権力をしばる必要性が見当たらないということになります。逆に残存する旧支配者階級を抑圧するための民主主義の制限が正当化されます。実際にはそれが人民に対する反民主的抑圧に転用されました。
では「マルクス=レーニン主義」のブルジョア民主主義批判は、20世紀社会主義国家の独裁政治の正当化だけに過ぎなかったのかといえば、そうとも言い切れません。ブルジョア民主主義が資本家階級の権力の政治形態である以上、人民の権力(デモクラシー)という実質を持たない形式的なものであることは事実です。それに対してパリ・コミューンやソヴィエトが直接民主主義の要素を含んで労働者階級の権力の民主主義を実質化しようとしたことは重要です。ただしそれらは中間社会においては有効であったとしても、国民国家のレベルでは成功した経験を生み出せず、逆に独裁権力に転化したのは歴史の事実です。あらゆる権力は腐敗し独裁の傾向を持つので、監視と抑制の仕組が必要だ、というブルジョア民主主義の懐疑的原則は、権力主体の階級的性質を問わず、実質多数の人民自身の権力にも該当する、というのが冷厳な教訓です。国民国家のレベルでは、人民が実質的な主権者となったとしても、少数の専門家たちに政治を委任せねばならないことに変わりはなく、そこでは人民主権の実質性が形骸化する危険性は常にあると言わねばなりません。このように国家権力と人民との緊張関係が存在する以上、ブルジョア民主主義の懐疑的原則は労働者階級の権力にも妥当します。人民自身の権力は例外だとする「マルクス=レーニン主義」のタテマエ的権力観はあまりにもナイーヴだったということです。同様のことは市場経済の克服という問題にも言えます。現実の経験はそれが簡単ではないことを教えています。権力論にしても市場論にしても、常識的観点からすればブルジョア的議論が現実的であり、マルクス主義者は現実ばなれしたナイーヴな理想論に酔っていたに過ぎないことになります。しかしブルジョア的常識論では、一方では、権力一般への懐疑が語られるだけで、これだけあからさまな財界本位=人民犠牲の政治が続けられても、資本家階級の権力としての資本主義国家の本質的認識に至ることはありません。したがって自民・民主の二大政党間の無意味な「政権交代」が重大問題であるかのように扱われて、国政の根本問題はまったく看過され争点そらしに終始します。また他方では、社会主義計画経済の困難性から市場の優位が信仰にまで高められ、資本間の自由競争を媒介とした野蛮な搾取強化が市場の自由の名の下に美化されます。ある意味ではこういう情けない現実を許したのは、マルクス主義者のナイーヴな理想論の無力さ、それへの大衆的失望であったともいえ、現実を直視した上で本質論を鍛え、現状追認のブルジョア的常識論を克服することが求められます。
したがって現代のマルクス主義者は一方では、ブルジョア民主主義のしたたかさを認め、きちんとした反省の下に継承すべき点は継承することが必要です(黙認するという姿勢ではなく、なぜ以前には批判していたものを継承するはめになったかをよく考えて)。他方では「マルクス=レーニン主義」の負の遺産を引き受けることが必要です。継承と断絶をはっきりさせることです。まるでそれとは元々関係なかったかのようにブルジョア的観点の一部をこっそり受け入れる姿勢では不誠実であり、反省のない分、将来に渡って左右の誤りを犯す可能性が大です。
また平和主義の思想といえばカント以来のブルジョア民主主義の伝統が想起されます。これに対してロシア革命・中国革命などが帝国主義の包囲の中で成就し、革命国家を武力で防衛する必要があったことから、「マルクス=レーニン主義」は普遍的な平和主義の思想としては展開しなかったと思われます。ソ連や中国を中心とする御都合主義的な平和とか、国家を廃絶した遠い将来の共産主義段階での平和というようなものはあったとしても…。日本共産党が80年代に、それまでの中立自衛、したがって将来的には憲法9条の改正を含む政策から、将来に渡って9条を堅持する政策に転換したことは、今日の内外の情勢に照らして見ても意義の大きいことでした。政治課題としてはそういうことですが、理論的・思想的には課題が残っているように思います。日本共産党が9条の平和主義と自らの政策との関係を、ブルジョア民主主義と「マルクス=レーニン主義」との関係の総括という視点を交えて検討することが必要でしょう。ここでは上記とは逆に、ブルジョア民主主義(の一部の進歩的部分ですが)が理想主義であり、「マルクス=レーニン主義」は力の現実主義であるのですが…。この問題もまた現代のマルクス主義者にとってのきわめて重要な課題だと思います。誤解のないようにいえば、日本共産党の平和政策が「マルクス=レーニン主義」の引き写しだったというのではありません。それは何より、一方では侵略戦争の敗北による軍国主義国家の瓦解、それへの国民的反省を体現した日本国憲法の成立、他方ではサンフランシスコ体制による対米従属的反共国家づくりを体現した安保・自衛隊の存在、という戦後日本独自の現実から出発したものでしょう。ただしそこで中立自衛政策の成立と変更に「マルクス=レーニン主義」が何らかの影響があったのではないかという論点はありうるでしょう。
ブルジョア民主主義の元来の進歩性と今日的意義は、近代市民法原理の発生過程に見ることができます。それは「商品所有者の意志関係の法的抽象として成立するが、その抽象性のゆえに、自立的な諸人格による自由・平等な社会形態の原理的基準の重要な側面を表現しえている」(大島雄一「経済学と国家論」/同『現代資本主義の構造分析』大月書店、1991年/所収、204-205ページ)。近代市民法原理は抽象的であるために普遍性を有し、それを核とするブルジョア民主主義は時代を超えて自由・平等の原理として適用されることが可能となります。しかしその抽象性は形式性に通じ限界を持ちます。資本主義経済はヨコの関係としての商品=貨幣関係だけでなく、タテの関係としての資本=賃労働関係という搾取関係からも成ります。ブルジョア思想は搾取論を欠くため、その社会観や民主主義観は形式的で欺瞞的であり、資本主義経済や社会の内実を反映していません。搾取に根源を持つ人民の苦難を普遍的な民主主義の外皮で覆い隠すことになります。しかし搾取に対する規制という社会的実質が加わったとき、ブルジョア民主主義の形式性は別の内容を与えられて蘇ってくる可能性があります。ここには、ブルジョア民主主義の形式性を批判することで実質的民主主義に進むのでなく逆に民主主義そのものを廃棄してしまった20世紀社会主義国家の誤りを克服する道があります。こうして<新自由主義+ナショナリズム>に対する<経済民主主義+自由主義>というオルタナティヴの前進的な意義を見い出すことができます。市場と権力に対するナイーヴさを克服した堅実な歩み(とはいえその成功は何ら保障されているわけではないフロンティアですが)としての市場社会主義像をこの延長線上に見ることも可能ではないかと思います。
公共性の形成
佐貫氏は、どのように公共性をつくりあげるのか、という課題を考察しています。戦前には、共同体がまずあってそれが個人を規定する、という「公共性→個」の形になっており、侵略戦争への動員の基礎となっていました。これに対して戦後の憲法と教育基本法の下では「個→公共性」に逆転しました。民主主義国家では当然の形になったわけですが、残念ながら日本社会はそこで自立した個の形成を土台として公共性を実現することには失敗してきました。その実現をはばんだのは一方では企業社会の存在であり、他方では高度な人間的力量が必要だというハードルの高さです。そうしたアウトラインに基づく佐貫氏の分析には共感できる部分が多いのですが、ここではやや観点を変えて考えてみたいと思います。
一つには、公共性の形成とは、無秩序状態から公共性をつくりあげていく、とかあるいは階級性を抑えて公共性をつくりあげていく、というものではなく、古い公共性を克服して新しい公共性に代えていくことではないか、ということです。もう一つは公共性はすぐれて政治的あるいは社会的問題ですが、経済的土台との関連が重要ではないか、ということです。
経済学と国家論の一般的原理的関係について方法論的な検討をおこなった大島雄一氏はこう述べています。
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階級支配機能と公共的機能とは、国家の二重の機能であって、相互に対立する二つの機能ではない。対立するのは、それぞれの国の資本主義の特殊的構成によって規定され、それぞれ特定の段階において解決を迫ってくる国民経済的課題に対する、それ自体が階級的利害の集約である二つの公共性の概念である。 大島雄一、前掲論文 201ページ
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私たちの課題は、階級性X=公共性Xから階級性Y=公共性Yに転換することであり、両者を経済的に規定しているのは、二つの対立する経済整合性の観点であるといえます。Xを規定しているのは、グローバリゼーション=新自由主義=「構造改革」であり、Yを規定しているのは、生活と労働が尊重される社会的再生産の立場であろうと思われます。Xを主導するのは利潤追及=資本蓄積であり、そこではたとえば法人税の増税のような資本への民主的規制政策は国際競争力を損なって経済成長を妨げ、ひいては人民の生活向上の害になるので、経済整合性がない、つまり公共性がない、と判断されます。Yにおいては人民の生活向上を直接サポートする政策によって豊かな内需市場を形成することで適切な経済成長を実現するのが経済整合性であり、そのためには資本への民主的規制にも公共性があるとされます。Xはグローバリゼーション下の世界経済の支配的現実であり、それだけにその経済整合性は強力に自己貫徹しています。どのような福祉国家といえども「構造改革」に取り組まない国はありません。しかし今日ではその中で資本蓄積は実現されても人民の生活向上どころか生存権の否認に至る傾向がはっきりしてきました。Xの経済整合性=公共性への根本的疑問が世界的に広がってきています。人民の生存権・労働権から出発するYの経済整合性=公共性の確立が求められています。
無から、あるいは階級性を抑えて公共性を創造するという考え方ではなく、上記のように考えるべきである理由は以下の通りです。
社会変革を目差す者から見てどんなに理不尽であり、特定の階級・階層の利益に資する政策を採るようであっても、現存する国家は一定の公共性を備えています。それは階級性を抑えて妥協してそうであるというばかりでなく、逆に階級性を十分に発揮することでそうであるという点にその真髄があります。佐貫氏が指摘するように、グローバリゼーションの下で、日本を基盤にした多国籍企業を先頭に、国ぐるみ民族ぐるみの競争に勝利する、そのために人民は痛みに耐えるべきだ、と喧伝され、それなりに受容されてきました。まさにこれこそ、「解決を迫ってくる国民経済的課題」に対する支配層による公共性の形成であり、階級性X=公共性Xです。これに対して、アメリカ中心・多国籍企業中心のグローバリゼーションのあり方そのものに異議を申し立て、必ずしもそれに同調しない世界の様々な流れと連帯して、人間的労働と生活に支えられた国民経済への変革を目差すのが、逆の意味できわめて階級的=公共的な道です。この階級性Y=公共性Yは、「解決を迫ってくる国民経済的課題」に対する人民による公共性の形成です。
さらに言えば、かつての軍国主義日本においては、天皇のために死ぬことは絶対不可侵の公共性でした。それが私たちにとってどんなに理不尽に感じられても、当時実際に人民によって受容され現実社会を動かしてきました。階級性と公共性とを対立するものではなく、国家や社会の二面性として把握し、階級性X=公共性Xから階級性Y=公共性Yへの転換として社会進歩を捉えることによって、現存するものの根拠をありのままに捉えつつ、その矛盾の展開から、克服の展望を見い出していくことができます。
現代日本における公共性の様相を二つの事例を基に考えてみましょう。一つ目は授業料減免制度をめぐる問題です。「しんぶん赤旗」6月15日付に、群馬県立高校事務職員で全日本教職員組合事務職員部常任委員でもある清水裕氏が非劇的事例を報告しています。
A君の家庭では、父親が失業しうつ状態で家にこもり、母親のパート収入だけで生活していました。清水氏は母親の相談に応じて、父親が働けないことを客観的に証明できれば、授業料の免除制度を活用できるので、町会長か民生委員に証明してもらうように勧めました。後日、町会長が学校に来て「高校は義務教育でないのだから授業料は払うものだろう」と述べたので、清水氏は免除制度についてていねいに説明しました。町会長は制度の存在は理解しましたが、父親が「働ける年齢なのに働かない」と、証明を拒否しました。やがて父親が自殺し、ようやく免除が適用されました。父親の死の前後で所得に変化はないのに!この町会長の姿勢は私たちの社会における公共性の現状をよく示しています。それは社会保障以前的な救貧思想のレベルだとも、あるいは新自由主義の「自己責任」論であるとも言えそうですが、いずれにせよ教育を受ける権利や教育の機会均等を保障する国家責任に対する無理解があります。「財政厳しいおり我慢すべし」というのが我が公共性なのです。
二つ目はCPE(新雇用制度)をめぐるフランス社会の闘いです。フランス在住の池澤夏樹氏のメールマガジン「異国の客」6月19日付(執筆は4月25日)の「街頭民主主義、社会サービスの質 その2」には、パリのリヨン駅で遭遇した学生たちの鉄道線路坐り込み作戦の模様が実にいきいきと描かれています。帰宅しようと池澤氏の乗った列車は、学生たちのデモ隊がその前に坐り込んで動かなくなってしまいました。乗客たちはおとなしく待っています。そして…
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乗客の間でなんとなく会話が始まる。
ある男が、「こんなにデモやストが多いのでは不便でしかたがない」と現実的な愚痴を言った。
すると近くにいた女性が、「でも、社会の矛盾を若い人たちにしわ寄せする政策が間違いなの。彼らがデモをするのも当然よ」と説得し始めた。
「あの法案が通れば雇う側は2年で使い捨てのつもりで若い人を安い給料でこきつかうのよ。研修という名目の不安定な期間が1年から2年に延びるの。2年ごとに入れ替えればずっと正採用しないで済むわけだから」と彼女は言う。
車内の空気は明らかに彼女の側に傾いていた。
それはそれとして、たまたまこの列車に乗り合わせた見知らぬ乗客たちがこういうことを論じられることをぼくは好ましいと思った。
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さすがの私も列車の前に坐り込むというのはどうかと思うし、日本なら乗客がデモ隊に食ってかかることは必至でしょう。絶対にこんな戦術は取れません。ところが…
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一部の乗客がホームに降りて、駅構内の様子を見ていたところ、アナウンスがあった――「これから機動隊が来ます。危険ですから車内に入ってください」
これを聞いて人々がどっと笑ったのは、デモなどより機動隊の方がずっと乱暴で危ないという思いを共有していたからだ。
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ここの乗客たちは市民的権利意識を通り越して階級的でさえあるようです。結局この晩、列車は動かず乗客たちは駅から出されてしまいます。それでも事態は穏やかなものであり、それぞれに工夫してこの不便をしのいだのです。池澤氏はタクシーで帰宅しました。彼はこの文章において、CPEに反対する若者たちの行動に共感する人々の人情の機微を細やかに描出する中で、その政治意識の高さとそこでの公共性のあり方を見事に具体的に示してくれました。もちろんこれがフランス世論のすべてではないことは断りつつも、翻って日本の状況に目をやります。
CPEは26歳未満の若者に限って2年以内ならば自由に解雇できる、という制度ですが、日本では事実上、何の制限もない不安定雇用が一般化しています。フランス政府が目論んだ雇用の改悪よりももっとひどい状態が常態化しているのが日本です。池澤氏はこう結論づけます。
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つまり、フランスと比較してみると日本は資本家に有利で労働者に不利な社会ということができる。
それは日本人の選択だからかまわないけれど、労働者の立場が弱いとすれば、その理由の一端はデモをしない、ストをしない、組合さえ支持しない日本の民衆の姿勢にあるだろう。
政府の側にすれば、まこと御しやすい国民であるということができる。
これは皮肉でもなんでもなく正直に言うのだが、従順であることにおいて日本国民は世界でも群を抜いている。
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日本人は政府や企業には従順ですが、消費者としての不便・不都合にはまったく我慢しません。もちろん良質な商品やサービスを求めるのは当然の権利ですが、それらを供給する労働者の状態にまったく無頓着なのは行き過ぎです。結果として、消費者としての利便性は大いに享受できるが、働く者としては際限もなく過剰労働を強いられるというのが日本社会の状態であり、ここに日本的公共性があります。いかなる理由があっても平穏(のみならずたいへんに便利)な生活をじゃまするのは公共性の侵害なのです。これは、労働の効率性とそれに規定された生活の効率性(生活の効率性といっても、しばしば実際には過剰労働を支えるための生活時間の切り詰めであって、生活の希薄化と言うべき場合がある)の追及であり、実に新自由主義に親和的な意識です。近年の例外はプロ野球労組のストライキでした。よりよいプロ野球観戦のためには数試合の中止は我慢して、横柄な球団オーナーたちを糾弾して、ストに立ち上がった「たかが選手」たちを応援したのです。これだけにとどめず自分たちの労働の問題に、国民経済的規模で考えていければいいのですが。フランス人のように消費者として当面の不便は忍んでも労働者の闘いを支持すれば人間的な労働に近づくことができます。日仏の意識の違いの中に、公共性X=資本の論理の公共性と、公共性Y=生活と労働の論理の公共性との対照を見ることができます。
公共性の形成(私たちにとっては公共性Yの形成)にとって、国家と個人を媒介する中間集団での支え合いや合意形成の経験が重要であることを佐貫氏は強調します。誠にそのとおりですが、上記の例ははなはだお寒い現状を示しています。もちろん民主団体など先進的事例もあるのですが、企業社会が支配していた日本社会においては中間社会での公共性はあまり育ってきませんでした。佐貫氏のいうように企業社会は、外に向かっては疑似共同体ですが、内部では激しい能力主義的競争が支配していました。企業社会の再編で疑似共同体の枠組は融解し、裸の競争が社会を支配するようになりました。その中で憲法と教育基本法が想定する「個→公共性」を実現する困難性は増大しています。ブルジョア民主主義的な社会契約観による市民的権利意識を動力とする市民社会形成だけではこれを実現していくことはできません。グローバリゼーションや企業社会に切り込んで行くためには、経済的土台の変革も同時に問題となります。身近な中間社会での公共性形成の経験蓄積は、労働のあり方を変える階級闘争と合い携えて進んでいくことが不可欠です(たとえば労働時間の短縮なくして、家庭や地域社会での時間を確保することはできません)。競争による個人的な経済的向上という「普通の社会」の公共性規範に対して、競争の制限による集団的な経済的向上(ないしは安定)という組織労働者の公共性規範が、職場において優位に立ち、さらに社会全体に波及することによって私たちの公共性は実現されていきます。それは資本主義イデオロギーの部分的克服でさえあり、成果主義賃金が導入され、労組の力が弱体化している日本の現状からいえば夢物語かもしれません。しかしフランスの状況を見るともう一つの世界があることは否定できません。日本ではあまりにも新自由主義が浸透し、それへの不満の代弁者は守旧派や反動派のようなドメスティックな連中ばかりで、国際派は対米従属の新自由主義者だと思われています。まるで反動と進歩の闘いかのように。そこで生活を守る主張は後ろ向きの姿勢かのように言われます。実際には世界の大勢は米国流の新自由主義ばかりではないことを人々に知らせて、私たちの生活実感としての「構造改革」などへの反発には立派な大義があることを一人でも多くの人のものにしなければなりません。「公共性」像をめぐる闘いです。現在多数派である「資本の論理の公共性」X派に対して、「生活と労働の論理の公共性」Y派がどれだけ多くの人々を奪い取ってこられるかが問題です。
最後に
初めに「問題提起」でも述べたように、拙文は緊迫する政治課題に関連した考察であるにもかかわらずそれとはずいぶん迂遠なものとなりました。憲法改定に触れていても、その中心である9条をめぐる熱い論点には言及していないし、新自由主義へのオルタナティヴという問題でも現実の勢力配置からすれば社会民主主義にも言及すべきところを、マルクス主義にばかり触れました。社会科学の一部には現実の課題から遠くて問題意識のわかりにくいものがある一方で、当面する課題に役立つ実用的なものもあります(もちろんその多くは単に実用的であるのではなく理論的にもしっかりしていますが)。どちらも必要だと思います。特に後者は一般の人を対象とする月刊誌などでも活発に論じられており、私も学ぶことが多くあります。私としては現実の課題から触発された問題意識を社会科学的に多少は深く長い射程のところで考えてみることも無駄ではないかと思った次第です。それにしてはあまりに非力ではありますが。