月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2009年)。 |
2009年1月号
資本主義・規制・社会主義
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要旨
たとえ現実が逆立ちしていようとも、実体経済が金融を、階級関係が市場関係を規定するのが基本であろう。新自由主義の失敗は金融化・カジノ化の面で明白だが、実体経済面がより根源的である。不安定雇用が増えて、労働力の価値以下の賃金が一般化し、「自由貿易」によって各国農業が困難に陥ることで、世界人民の生存基盤と経済の再生産は損なわれた。内需不振で過剰となった貨幣資本は不生産的な投機に回され今日の金融恐慌を招いた。たとえば米国民の貧困化による個人消費低迷を回避するためサブプライムローンは活用されたが、その架空性は暴露された。
新自由主義は市場原理主義というより資本原理主義というほうが本質的だろう。市場か規制かという視角は重要だが、資本か労働かという視角がより根本的である。雇用問題はさしあたっては労働市場の問題だが生産過程での搾取のあり方から発する。規制の対象は市場というより資本である。ちなみに寡占的市場においては資本を規制する独禁政策によって市場は自由になることを想起すべきである。「市場・規制」視角では、新自由主義への対案はケインズ主義や社会民主主義だが、「資本・労働」視角ではそれは社会主義となる(体制ではなく理論として)。新自由主義に対抗する共同が今の課題だから、この違いは当面政治的には問題とすべきでないが、理論的には重要な違いだと思う。
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上記「要旨」とはいっても、実際には図式的・独断的・断片的な思いつきを初めに走り書きしてしまったもので、後付けとしてこれから説明するはめになりました。
大門実紀史氏の「新自由主義からの決別 生活・雇用を守る政治への転換を」では、アメリカ発の金融危機と景気悪化を、カジノ資本主義の崩壊だけでなく、実体経済における構造改革路線の崩壊としても捉えています。このように実体経済と金融の両面から新自由主義路線全体の破綻を捉えることが重要な観点だと思います。新自由主義的グローバリゼーションの金融面での世界的機関の代表はIMFでしょうが、実体経済では貿易にかかわるWTOが重要です。今日の状況では両者ともそのあり方が根本的に問われています。WTOについていえば、発展途上国の発言力の強化などによって協定の妥結が困難になっています。「自由貿易」といいながら実のところ欧米輸出国偏重の体制によって世界的な農業危機を招いてきたことの当然の帰結です。これは世界人民の生存を危うくするという意味では、新自由主義の失敗として、金融危機に劣らぬ事態として重視されねばなりません。
そして実体経済と金融とでは究極的には前者が後者を規定します。金融が肥大化して実体経済を振り回すという状況になっていますが、そもそも金融化という現象は実体経済の歪みを反映したものです。高田太久吉氏は以下のように説明します。
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現代資本主義のもとでは、実体経済に比べて貨幣資本の蓄積と金融市場の肥大化がはるかに急速にすすむ経済の「金融化」が起きています。「金融化」のもとでは、この資本主義の根本矛盾が著しく激化します。それは、経済の金融化を促進している新自由主義的経済体制のもとでは、賃上げ抑制や社会保障切り下げによって、消費需要の低迷、実物投資の低迷、失業の増大が起きるのに加え、国際的・国内的な経済格差の急激な拡大(貧困の広がり)によって一部富裕者の手元にますます巨大な富(貨幣資本)が集中されるからです。この結果、利子や利潤の源泉になる剰余価値の生産と、その分け前に与ろうとする貨幣資本の関係が、極度にアンバランス(貨幣資本の過剰)になるからです。こうして、投機市場以外に行き場のない「過剰な貨幣資本」がますます増大することになるのです。
「暴走する投機経済の行方 サブプライム問題および投機資本をめぐる問題」49ページ
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過剰資本を根本的に解決する方法を理解するには、経済一般の視点に立って資本主義的所有と信用関係を相対化することが必要となります。それを端的に実践的に表明するのは「収奪者を収奪する」という社会主義革命のスローガンですが、そのような一見して過激な言い方はしないとしても、現体制を絶対視するブルジョア経済学の観点を離れる想像力さえあればよいのです。そもそも莫大な貨幣資本は「世界の何十億という人たちが生み出してきた貴重な貯蓄であり、人類が共有すべき貴重な資源で」あるにもかかわらず「これまで一握りの金融機関と機関投資家によって好きに利用されてきた」(同前48ページ)ところに問題があります。「莫大な貨幣資本を、国際社会が共有すべき広義の『公共財』として位置づけ、なんらかの形で緩やかな社会的管理のもとに置き、人々の暮らし向きの改善や環境の維持、国際紛争の解決その他の建設的な目的に振り向けることのできる経済体制を築く以外に、問題の解決は見出せ」ません(49ページ)。今回の金融危機を歴史的契機として「『金融のグローバル化』に代わって、グローバルな視野で人間の暮らしを考えるという意味で『経済のグローバル化』が必要になっている」(同前)という高田氏の結語はきわめてラディカルに正鵠を得たものだと思います。
もちろん世界資本主義体制が明日にも世界社会主義体制になるわけではありません。しかしまともな経済のあり方という基準があることが大切であり、そうした羅針盤に沿って、先般の金融サミット以降、取り組まれるであろう世界経済の改変を評価することができます。さしあたって金融投機への規制などが課題となるでしょうが、次の段階では、そうした貨幣資本の市場における行動への規制だけでなく、高田氏の提唱するような国際社会による貨幣資本の管理、つまり有用な諸施策を実施するために信用制度を活用すること、さらには経済的価値の再分配など階級間での所得移動を行なえるかが重要な焦点となります。一般論としていえば、所得の再分配は資本主義の枠内であり、社会主義というためには生産手段の社会的所有によって剰余価値の人民的所有を実現しなければなりません。つまり剰余価値の処分について、価値増殖ではなく使用価値の適正な社会的配置を目的とした拡大再生産を行なうことが必要となります。しかし一国レベルでのこうした経済体制の区分指標が世界経済にどのように適用しうるか、ということは問題です。国家権力という後ろ楯のない世界経済においては所得の再分配が資本主義の枠内で行なえるかどうかはよくわかりません。もっとも今こんなことをいっても空想に近く、当面は投機マネーをいかに規制するか、というレベル、イデオロギー的には新自由主義をどう克服するか、というのが対決の最前線と位置づけられる状況ではありましょうが…。
金融恐慌への緊急の対策として、世界各国が金融機関に公的資金を注入しています。これに対して日本共産党などが、危機回避のために金融市場に公的資金を供給することはありうるが、最終的には銀行業界の責任において返済されるべきだとしているのは妥当だといえます。こうした政策に対して、市場における自己責任を強調するのは、公的資金によって市場への規制を強化するという、社会主義的考え方に反するのではないか、という見方があります。資本主義的考え方か社会主義的考え方かについて、市場の自由を放任するか規制を加えるか、この線上にどのように折り合いをつけるかによって判断する、という単一の基準しか持たないと、このように見えます。しかし金融機関への税金投入は国民経済的には労働から資本への所得の再分配になります。階級的観点からは左翼がこれに反対するのは当然です。金融恐慌の勃発で、市場への規制の必要性が意識されるようになったのは、確かに資本主義の限界を印象づけるものですが、市場の自由を犯して銀行資本などを救済するのは何ら社会主義的行為ではなく、資本主義経済体制を維持強化する行為です。このように資本主義経済における経済政策で右か左かを判断するに際しては、市場の自由度の問題よりも階級関係が優先されると見るべきです(もっとも、大切なのは右か左かではなくて、金融恐慌への有効な対策のあり方なのだけれども)。
金融恐慌によって、市場の自由放任が反省され、市場への規制がいわれるようになりましたが、規制の対象を市場という「場」に求めるのはあいまいな部分が残るように思われます。それよりも資本という「主体」を規制の対象とするほうがはっきりするのではないでしょうか。この違いは、寡占的市場における市場の自由と資本の自由とを対比してみるとよくわかります。独占禁止政策によって、市場支配力を持つ巨大企業を規制すれば市場の自由度は高まります。つまり資本への規制によって資本の自由を制限することが市場の自由の拡大につながります。このように資本の自由と市場の自由とはベクトルが違う場合があり、その際には人民にとって必要なのは、市場への規制ではなく資本への規制なのです。さらに資本への規制についても、大店法のような流通過程での規制、つまり市場という「場」での規制と、雇用や労働条件のような生産過程での規制、つまり生産という「場」での規制を分けて考える必要があります。
新自由主義的構造改革は規制緩和を追及してきました。初めに問題になったのは小売業における大規模店舗の規制緩和でした。大店法が廃止されました。これによって中小業者が淘汰され地域経済・街づくりが大きな打撃を受けました。次いで労働の規制緩和が行なわれ、労働者派遣事業が大膨張し不安定雇用が一般化し、今日の厳しいリストラ被害を招くことになりました。これらは確かに構造改革による規制緩和と一括することができますが、中身が違います。小売業については流通の問題、市場の問題です。労働については、一面では労働市場の問題ともいえますが、基本的には生産過程における搾取形態の問題です。低賃金・使い捨て労働の導入で果てしない搾取強化が実現されました。規制緩和は流通過程から生産過程へと深化してきたのです。
規制緩和であろうと規制の再強化であろうと、以上のように規制の対象と「場」を分析的に見ることが大切です。資本主義経済を単に市場経済と見る立場では、規制とか自由とかが漠然と市場の自由度の問題に解消され、働く人々にとってどう影響するのかが不明になります。資本主義経済は商品=貨幣関係を土台として資本=賃労働関係がそびえ立っているのであり、そこでの支配的主体は資本です。社会進歩の運動にとっては、支配者たる資本をどう規制したり誘導するかがまずあって、次いでその中で市場の機能をどう活用したり抑えたりするかが問題となります。だから新自由主義について市場原理主義とだけ見るのは新古典派と同様の平面的な「市場・規制」視角に立っているのであり、私たちは立体的な「資本・労働」視角に立って規制を階級的に捉える必要があります。(もっとも、市場ならざるものを市場とみなすような市場還元主義というニュアンスをも含めて市場原理主義という言い方をすれば皮肉な意義があります。つまり資本=賃労働関係を市場関係に還元したり、実際には市場の自由を犯してまでも資本の自由を追及する場合があるのに、あくまで市場の自由という「正義」を追及していると思い込んでいるブルジョア・イデオロギーをそう呼ぶのは妥当かもしれません。「人間の自由」「市場の自由」「資本の自由」はそれぞれ区別と連関において捉えねばなりませんが、「市場原理主義」においては三者が「市場の自由」の名の下に混同されています。現実の資本主義社会では「資本の自由」が「市場の自由ないしは不自由」を通して「人間の自由」を抑圧することが広範に見られます)。その際には新自由主義は資本原理主義=利潤第一主義と規定することが適当ではないかと思います。これだと資本主義一般と新自由主義との区別がつきにくいと思われるかもしれません。しかし新自由主義とは、いったん20世紀半ばに定着した一定の規制がかかった資本主義に対する反革命として、むき出しの資本主義が復活したという意味では、資本主義の本性そのものという点を強調することには意義があります。市場は確かに目につきやすいけれども、目立たぬ生産過程における搾取強化にこそ新自由主義のエッセンスはあると見るべきでしょう。もちろん新自由主義は多国籍独占資本によるグローバリゼーションの時代の資本主義であり、小資本が自由競争していた19世紀資本主義の復活ではありません。しかし資本への規制のあり方(その後退)という側面から見ると資本の魂の復活強化ではあります。
なお資本主義経済における市場については、労働者・人民(他に資本家をも含むけれども)の所得流通が行なわれる商品市場と、金融市場や労働市場のような資本市場とが区別されねばなりません(資本市場というのは普通は金融市場を指すのかもしれませんが、貨幣資本の市場としての金融市場だけでなく、生産資本たる労働力の市場としての労働市場もまた資本市場と呼んでもいいのではないでしょうか)。この区別を前提に市場と生産過程との連関を明らかにするのは今のところ宿題です。このようにいつも思いつき的で理論的に緻密でないのは遺憾とするところです。
金融恐慌の衝撃は新自由主義を直撃しましたが、そこから資本主義の限界=社会主義の復権という見方の他に、ケインズ主義とか福祉国家・社会民主主義こそが出番だとする見方も有力です。当面する資本主義の枠内での変革という観点からは、両者を特に対立的に捉える必要はありませんが、理論的には立場の違いを見極める必要があります。上記「要旨」では次のように書きました。
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「市場・規制」視角では、新自由主義への対案はケインズ主義や社会民主主義だが、 「資本・労働」視角ではそれは社会主義となる(体制ではなく理論として)。
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この言い方は理論的に見れば、図式主義の勇み足がありますが、実際の議論なんかを見るとさほどに間違ってもいないと感じます。ケインズは新古典派とは違って、理論上に労働者階級を意識していたし、所得の再分配も考えていたでしょうから、必ずしも平面的な「市場・規制」視角に立っていたとはいえないでしょう。しかし昨今の金融恐慌対策の議論でもっぱら問題になるのは金融市場の自由度であって、過剰貨幣資本を実体経済の問題を含めて階級的に解決すべきだというのは、マルクス経済学者の高田太久吉氏くらいでしょう。ケインズ派からも国際的な所得再分配という程度の議論も聞こえてきそうもない。というよりも高田氏のようなラディカルさは珍しくて、どこでも「市場・規制」視角線上での議論になっているようです。そうすると新自由主義との違いは金融市場での規制の程度という量的次元にとどまります(とはいえその違いが大切なのだが)。確かにそれでも当面の危機対応としては間に合うのかもしれません。しかし「百年に一度」の金融危機を踏まえて資本主義そのものの変革像を考える次元では間に合いません。とするならば、現状ではケインズ派も含めて「市場・規制」視角にとらわれているので、新自由主義的カジノ資本主義へのオルタナティヴとしては金融市場での規制強化ということだけに終わりそうです。私たちは金融の暴走の根源にある実体経済そのものの病弊に目を向ける必要があり、それは将来的には社会主義的変革を見据えつつ、その広範な合意が得られない段階でも、世界的な貨幣資本の管理のために、信用制度を社会的に活用し、さらには所得の再分配を実現していける道を目指すことが必要でしょう。これは「市場・規制」視角の上に、世界的に拡大された「資本・労働」視角を重ねることです。
観点を変えてみます。世界経済の失速を受けて、石油依存に代わる新たな環境・エネルギー産業の振興といった議論もあります(たとえばオバマ新大統領のグリーン・ニューディール。金子勝、アンドリュー・デウィット「グリーン・ニューディール オバマの目指す環境エネルギー革命」/『世界』2008年1月号所収/より)。これは生産力的視点として重要です。確かに家計を応援して個人消費の拡大で景気を支えるというだけでは不十分であり、新たな雇用の道や地域経済の自立などを含めた21世紀的な生産力構造のあり方が追及されねばなりません。ケインズ派では財政出動の声も大きくなっています。たとえ非常措置をとっても、とにかくスパイラルダウンする経済を浮上させることが当面は必要だというわけです。確かにこれらの議論を見れば、実体経済に関しては「市場・規制」視角だけにとどまらぬものがあるようにも思えますが(おそらく金融に関しては「市場・規制」視角しかない)、生産関係視点が抜けているという意味では、「資本・労働」視角に代わるものではありません。どのような生産力構造を展望し、経済成長を実現させるにしても、常に働く人民の労働・経営・生活をどのように発達させるか、そのためにいかに資本への規制と誘導を実現させるかが一番の問題点です。この姿勢を堅持できるのは科学的社会主義の立場であり、ケインズ主義や社会民主主義にはない点であろうと思います。だから資本主義の枠内の改革においても理論的相違点そのものは意識する必要があります。
と、よたよたとおぼつかない筆致で書いているうちに、金融恐慌時における金融と実体経済との関係を原則的に解明した評論に出会いました。現実の信用収縮よりもはるかに急速に実体経済が収縮するという今日の事態は何故起こるのか。どう解決するのか。
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もともと資本主義的市場経済では、いったん金融危機や不況の兆しがみえると、個別企業は、自分の「損失」を回避するために、われ先にと信用を収縮、生産・在庫を収縮するため、市場収縮の悪循環が生まれてきます。
市場まかせ、個別企業まかせでは、こうした無政府的な市場収縮競争の悪循環を断ち切ることはできません。国家や自治体が産業再生、地域再生の長期的、計画的な政策構想を提起して、経済再生の全体的展望を示していくことが必要です。
友寄英隆「経済時評 金融危機・世界同時不況 新しい発想の政策転換必要」
「しんぶん赤旗」2008年12月26日付
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以上のように、市場還元主義としての市場原理主義(そこでは市場メカニズムの静かな均衡化が絶対視され、資本主義経済がもたらす恐慌による暴力的均衡化との連関が見失われる)では決して解明できない資本蓄積の動態とそこでの経済政策の意義を友寄氏は説明しています。続いて、オバマのグリーン・ニューディールについて一定の評価をしつつも、「米国経済の再生のためには、こうした新たな需要創出策だけでなく、軍産複合体でゆがめられた米国の産業構造を抜本的に改革する計画が必要でしょう」(同前)と急所を衝きながら(さすがだ)、大不況打開のために世界的軍縮で経済を再建・活性化することを提唱しています。それを実現するのはなかなか困難でしょうが、このような構想・想像力を持つことで眼前の現実を評価する基準を獲得できます。それは現実逃避の空想ではなく、逆に現実を深く理解するためのよすがとなるものです。つまりこれから起こる諸変化を前にして、その現実がいかなる到達点にあり、私たちはどのような方向性を持たねばならないか、について細かいことにまぎれることなく理解するアンカーとなるのです。
閑話休題。東欧とソ連の社会主義政権がすべて崩壊したのを受けて、1989年以降、人間の理性を過信した計画経済は駄目だ、とか、ケインズの「ハーヴェイロードの前提」はエリート主義であり、傲慢で鼻持ちならない、とかいう新自由主義者の批判が大いに流行しました(後者については進歩的近代経済学者も同意している。宇沢弘文・間宮陽介対談「いま、ケインズを読む意味」149-150ページ、『世界』2009年1月号所収)。そして対照的に市場はエリートが管理するものではなくて、すべての人が平等に参加するものだから謙虚で民主的だ、という言説が続きます。それは確かに一般論としては市場の一面を捉えたものではあります。しかし資本主義経済に包摂された市場はそのように牧歌的ではなく弱肉強食の劇場となります。そこでは自由な諸個人がプレイするかのように見えながら、実際には資本の専制が確立しており、新自由主義者の庶民主義・ポピュリズムの言説は著しい偽善と欺瞞に満ちています。生産過程における搾取に基づいて「生産のための生産」「蓄積のための蓄積」に至る資本の暴走を「自由平等な市場」のベールで隠蔽するのが資本主義的市場経済の客観的構造(領有法則の転回)であり、その忠実な現象的模写が新自由主義の言説です。「市場・規制」視角にかかわる「市場と計画」の問題は、現在の資本主義経済から過渡期を経て社会主義経済に至るまで各段階にそれなりのあり方で確かに存在します。しかし現在の資本主義においてはそれは主要な問題ではなく、「資本・労働」視角にかかわる資本への規制が中心に据えられなければなりません。
資本の本性とその規制についてマルクスはどう捉えていたかを、「『資本論』第一部、第四篇 相対的剰余価値の生産 第一三章 機械設備と大工業 第九節 工場立法(保健および教育条項)。イギリスにおけるそれの一般化」に見ます。マルクスは資本の本性を「労働者が生産過程のためにあって、生産過程が労働者のためにあるのではないという自然成長的で野蛮な資本主義的形態」(『資本論』新日本新書版第3分冊、843ページ)と捉えています。従って「資本主義的生産様式には、もっとも簡単な清潔・保健設備でさえ、国家の強制法によって押しつける必要があるということ、これ以上にこの生産様式をよく特徴づけうるものがほかにあるだろうか?」(同前、830ページ)ということになります。労働者の闘いがあり、資本家が「競争条件の平等すなわち労働搾取の平等な制限を求める」(同前、844ページ)ことから「労働者階級の肉体的および精神的な保護手段として工場立法の一般化が不可避とな」(同前、864ページ)ります。つまり「工場法を、機械経営の最初の産物である紡績業および織物業にたいする例外法からすべての社会的生産の法律に一般化する必然性は、…中略…大工業の歴史的な発展工程から生じる」(同前、844ページ)のです。こうしてマルクスは工場立法の本質を次のように規定します。工場立法は「社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用」であり、「大工業の必然的産物である」(同前、828ページ)。
ここに私たちは新自由主義のシニシズムとの鮮やかな対照を見ることができます。理性への過信を諌めるという一見謙虚な姿勢の名の下に、計画とか規制を排撃しながら、市場の自由放任の推奨という形で資本への無規制(まがりなりにもあった諸規制を「緩和」した)を強引に押し進めたのが新自由主義です。それによって「労働者が生産過程のためにあるという自然成長的で野蛮な資本主義的形態」が全開となりました。逆に今始まっている反撃は、「生産過程の自然成長的姿態に意識的かつ計画的な反作用」を与えることであり、社会発展の必然性を体現するものです。「理性を過信することは危ない。結局なるようになる」という大人ぶった語り口に対して、人間が社会の主人公となるための理性の復権が求められます。理性崇拝ではなく、市場崇拝こそが今日の人々を資本に対する「隷従への道」に導いたのですから。
『資本論』の工場立法の節をあらためて読み返してみたのは、石川康宏氏の論稿「『資本主義の限界』を考える」の中で言及されているからです。石川氏はこう述べます。
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資本主義の発展は、剰余価値生産への衝動あるいは利潤第一主義が無条件につらぬかれるだけの過程ではありません。資本はそれをつらぬこうとしますが、それによって社会の中からこれに抵抗する強い反作用を導き出しもします。そして、両者は衝突し、資本主義はその発展の段階が高くなるほど、むき出しの資本の論理を民主的な社会が管理し、制御していくという発展の姿をとるようになります。 27ページ
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あるいは、「資本主義の民主的改革」「を通じて資本主義は、『社会により管理された資本主義』としての度合を次第に強めていくことになるわけです」(29ページ)とも言われます。資本への規制を通じて資本主義が社会主義へ順次進化していくようなニュアンスが感じられます。そうであればよいという気もしますが、懐疑的にもなります。何よりも、一定の規制を備えたケインズ主義の時代が反転して、無規制を目指す新自由主義時代が出現したという現実の歴史過程は、規制が順次深化し社会が進化していくという「史観」とはずれがあります。このことの意味も考えつつ、今回の金融恐慌を受けて、オバマがフランクリン・ルーズベルトの再来として世界的にもケインズ主義時代に復帰するのか、それとも世界社会フォーラムや中南米の左派政権などを先頭とする新たな社会主義の時代を切り開く端緒となるのか、世界史の大きな動きを「歴史としての現代」として私たちがどう捉えるかが問われます。
仕事に住まいまでも失って寒空に放り出される人たちもいるというのに、こんな抽象的な議論でいいのか、という気はしますが、残念ながら能力に応じて書くしかないかと思っております。それにはなはだ散漫でもあり、申し訳ありませんが、毒を食らわば皿まで、まだあきれはてていない方はもう少しおつきあいください。最後にラテンアメリカの社会主義について。
新藤通弘氏の「ラテンアメリカで広まる社会主義への期待」(『前衛』2009年1月号所収)は、中南米での左派政権の拡大の背景と指導者・政党の理念とについて、科学的社会主義の原則的見地を踏まえて詳細に展開しています。
彼の地で左派政権が陸続と誕生したのは、新自由主義政策の導入とその悲惨な結果により、民意が新自由主義と米国から離反し、しかも少なからぬ人民が資本主義経済モデルでは困難の解決ができないと考えるに至ったからです。引用されたスティグリッツの指摘がきわめて印象的です。「ラテンアメリカの失敗と東アジアの成功をセットにすると、ワシントン・コンセンサスにたいする最強の反証ができあがる」(164ページ)。これは皮肉です。世界的に見れば、新自由主義的グローバリゼーションにおいて東アジアは勝ち組であり、中南米は負け組です。しかしその国内においては、東アジアは政府の役割の大きい反新自由主義的な経済政策をとっており、中南米は新自由主義に忠実な実験場となっていました。その結果、東アジアはグローバリゼーションに対応できる体力を維持したのに対して、中南米の国民経済は疲弊し果ててしまったのでした。その政治的帰結としては、東アジアにおいては、開発独裁政権から徐々に民主的政権に向かいつつあり、ASEANとその周辺に結集して米国からは相対的に自立した経済圏を形成する土台ができつつあります。比較的に開明的な保守政治家が指導者となっていることも、日本の自民党・民主党所属の政治家たちの体たらくと比べるとはっきりします。結果的には、東アジアの資本主義は教条主義を排して現実的に対応することでグローバリゼーションの中でそれなりに生き残ったということでしょう。中南米の資本主義は新自由主義=ブルジョア教条主義に徹することで自滅して社会主義に道を譲りつつあります。両者とも社会進歩の独自の道を歩んでいるといえます。ちなみに日本資本主義は中南米ほど劇的ではないけれども現局面では緩やかに自滅的であり、財界は頑迷、保守政治勢力はきわめて劣悪であり、総じてタテマエとしての教条主義が支配する中(その象徴としての竹中流「骨太の方針」の存続)で、なし崩し的な「現実的対応」の半端さが特徴的だといえましょう。変革主体にとってはチャンスだけれども、今だ明確な勢力形成に至ってはいないということからいえば、日本は東アジア型と中南米型の中間にあるように見えます。
新藤氏は中南米左派政権の中でも社会主義志向の明確なベネズエラのチャベス、ボリビアのモラーレス、エクアドルのコレアの各大統領、そして社会主義政権党として存続してきたキューバ共産党の理念を検討しています。前三者は「21世紀の社会主義」を標榜しており、ソ連型社会主義とは明確な一線を画し、科学的社会主義に対してはそれぞれに独自のスタンスを表明しています。後者は私見によれば、21世紀に唯一残ったソ連型社会主義政権だといえます。
ソ連型社会主義への批判と中南米の現実に即して「21世紀の社会主義」は独自の理念と実践から成っています。新藤論文の178ページにそれは手際よくまとめられていますが、今それらをきちんと検討する余裕はないので、興味深い点に言及します。政治的には参加型民主主義、経済的には、社会化された生産手段の真の所有者となるような人民の参加の追及ということです。これらは、発達した資本主義国において民主主義が形式化・形骸化されている現実、そしてソ連型社会主義において労働者が実質的には生産手段の所有者とはなっていなかった実態という、政治経済の最大の急所に対する両面批判の意味を持ちます。政治的にも経済的にも人民が真に社会の主人公となるような社会のあり方が正面に据えられています。ここを見れば「21世紀の社会主義」は資本主義段階を真に克服した社会主義体制となる可能性を持っているといえます。
もう一つ注目したいのは、共同体主義や環境主義であり、生産力主義への批判的姿勢です。ここには地球環境問題という最先端の状況の反映があるとともに、発展途上社会としての現状への考慮があり(それは伝統の尊重という側面も含む)、資本主義とソ連型社会主義に共通する生産力主義への批判があります。まさに複雑さの焦点となっています。土着の現実を踏まえることなく、新たな社会主義社会を建設することは不可能ですが、問題はグローバリゼーションの中でそれをどう貫徹するかです。
近年キューバの農業や医療が注目されています。米国から経済封鎖されてきたキューバはグローバリゼーションから排除されていました。新自由主義的グローバリゼーションによって世界的に福祉切り捨てが進み、米国がその典型となる中で、キューバはいわば一周遅れのランナーが先頭を走っているような状況となりました(ソ連型社会主義にもいい点はあった)。しかしこの点について、新藤氏は『経済』2008年1月号の「歴史的岐路に立つキューバ経済」において、キューバの農業や医療を過大評価してはならないと厳しく言明しています。キューバには理念があっても条件がないというのです。この冷徹さは必要な観点です。
今回の新藤論文では、中南米左派政権が登場する背景として、新自由主義経済の失敗が詳細に分析されています。それに対して政権樹立後については、もっぱら指導者の理念が分析されています。それが論文の主題なのだからそうなるのですが、もし左派政権の行く末を考えるのなら、理念とともに客観的条件がより詳細に分析されねばなりません。生産力的に劣位にある国民経済がグローバリゼーションの中でどう対処していくのか。東アジアのような外資導入などグローバリゼーションに積極的に乗っていく政策は社会主義的政権としてはとれないでしょう。高邁な理念を掲げる「21世紀の社会主義」としては、「黒猫白猫論」や「先富論」という中国式のプラグマティズムに安易に同調するわけにはいきません。事実、貧困層の底上げという形で政治経済の安定を図っており、格差を拡大しても経済成長を追及するという姿勢ではありません。新自由主義政策の惨状の経験がそれを許さないでしょう。豊富な資源を生かすこと、福祉を充実し人民が政治経済に積極的に参加していくことで内需拡大と生産意欲の喚起によって産業発展を導いていくことなどが今後は考えられます。世界的な金融恐慌はこの地域の実体経済にも危機的に作用しますが、新自由主義モデルが失墜したという意味では有利に作用するでしょう。しかし今後の情勢の展開が「21世紀の社会主義」モデルを許容するか予断は許しません。もっとも、このような凡庸なことを言っていては現実にはとても間に合わないので、研究者には是非鋭い現状分析を期待したいところです。チャベスたちは民主的選挙を経ているし、米帝国主義を初めとした世界の資本主義勢力とも何年も渡り合ってきたわけだから、十分にリアリストだろうと思います。彼らを独裁者と侮っているわが国などのブルジョア・マスコミの不見識ももう持たないでしょう。ラテンアメリカ「21世紀の社会主義」とキューバ社会主義の存在は、発達した資本主義諸国にも大きなインパクトを与え続けるに違いありません。
労働価値計算
泉弘志氏の「現代日本の剰余価値率と利潤率 一九八○〜二○○○年の推計」は労働価値論の原則的見地から現状分析の基本的部分にアプローチしたものです。ただ率直な感想をいえば、この種の研究は労多くして効少ない感じが否めません。現状分析として何か目覚ましい結論が出ているわけではなくぼんやりした感じです。しかし政府統計が近代経済学の概念に基づいて作成されているとき、それを加工して労働価値論の立場から利用しうるようにすることは基礎的研究として大切です。通常は政府統計をそのまま利用して、マルクス経済学的に解釈し、現状分析の重要な成果が多くあげられていますが、それだけでなく、労働価値論を直接的に適用できる方向にも道を開く研究も必要です。
泉氏も研究の意義を強調しています。
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現実の価格がどのような大きさに決まっていようとも、その大きさとは別に、各商品を生産するのに必要な社会的平均労働量(価値量)は客観的に存在し、現実経済において重要な役割をはたしている。だから価値量の計測は必要であり、その計測結果は現実の経済分析において重要な意味を持つ。 142ページ
計算された均等利潤率や生産価格と現実の利潤率や現実の価格とは多かれ少なかれ異なるであろうが、その相違の原因を追及することが現実経済の重要な分析となる。現実価格を観察するだけでなくそれを価値価格、生産価格と比較してみること、現実利潤率を観察するだけでなくそれを価値利潤率や均等利潤率と比較してみること、等々はマルクス経済学的現実分析の重要な方法であると、私は考えている。 143ページ
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農林水産業に着目してみると顕著な結果が見られます。「表1 日本の産品別価値(2000年)」(140ページ)によれば、農林水産業の632.7人時間が石油製品・石炭製品の142.6人時間と不等労働量交換されていることがわかります。他産業はおおむね200人時間台であり、農林水産業の劣位は飛び抜けています。また「表4 日本の価値価格・生産価格・現実価格(2000年)」(145ページ)によれば、農林水産業の価値価格を1.00とすると、生産価格は0.77、現実価格は0.43であり、他産業の現実価格がおおむね1.00前後に分布しているのに対してやはり飛び抜けて低い現実価格に低迷しています。この原因について泉氏は、国際価格の影響や自営業者として大資本に対して弱い立場にあることなどを指摘しています。まさに今日の農業危機の本質が労働量(価値量)の次元で示されており、農産物価格の保障制度などの必要性が読み取れ、「価値量の計測は必要であり、その計測結果は現実の経済分析において重要な意味を持つ」(上記)と言えます。
このように泉論文は理論的抽象の積極的意義を明らかにしています。よく新古典派理論に対して、余りに抽象的で現実性がないので誤りだという言い方がされますが、それは誤った批判だと思います。およそ理論とはすべて何らかの程度に抽象的であるし、抽象度が高いこと自体も間違いではありません。抽象度の高さは普遍性の広さに通じます。問題は論者が理論的抽象の性格を理解せずに適用できない部面にも適用しようとする姿勢にあります。おそらく新古典派においては、経済一般・商品経済・資本制経済の論理次元が区別されておらず、商品経済の論理で経済一般も資本制経済も見るのが誤りでしょう。マルクス経済学は理論的抽象度に応じて資本主義経済を重層的に理解することに自覚的であることが特徴なのです。
残念ながら泉論文について全体的に検討する能力もないので、興味深い点だけに言及します。労働量と産出量とを区別すべきだとする以下の叙述はきわめて明快です。
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産業別あるいは職種別の労働強度や労働複雑度について考えるさい、単位当り労働量の生み出す効用や生産物金額の産業別・職種別相違とは明確に区別して考えることが重要である。労働量はそれを供給するものにどれだけの負担になるかという側面から考えるべきであって、そこにどれだけのものを生み出すかという側面を忍び込ませてしまうと、あいまいな概念になってしまう。労働量と産出量との比率が労働生産性であるから、労働量は産出量とは別のものとして定義する必要がある。 138ページ
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まさに至言であり、これに無自覚な多くの人々は労働量と産出量とを混同し、生産性が上昇して産出量が増えると価値量が増えるかのように錯覚しています。むしろその誤りを自覚的に理論化してしまう研究論文もありますが、それに対する批判は、拙稿「生産力発展と労働価値論」(『政経研究』第86号、2006年5月、所収)および「『経済』2008年3月号の感想」(文化書房ホームページ・店主の雑文、所収)にあります。
141ページでは年間賃金を物価指数を使って実質値に変換していますがここには盲点があります。物価変動は不換通貨価値の変動だけでなく生産性にも大きく影響されます。物価は生産性の上昇には反比例します。そこで不換通貨の減価を表わす指標をインフレ率と定義して、物価上昇率と区別します。物価変動のうち、不換通貨価値の変動分だけを調整したものを真正実質値と呼びます。
物価指数=1+物価上昇率
インフレ指数=1+インフレ指数
生産性指数=1+生産性上昇率
とすれば
真正実質値=名目値/インフレ指数
物価指数=インフレ指数/生産性指数
実質値=名目値/物価指数
=名目値/(インフレ指数/生産性指数)
=(名目値/インフレ指数)×生産性指数
=真正実質値×生産性指数
つまり通常、実質値と呼ばれている値は、不換通貨価値の変動を調整した値に対して生産性上昇分が上乗せされています。通常の現状分析においてはこれはネグリジブルかもしれませんが、労働価値計算では考慮すべきだと思います。
そうであれば「表2 剰余価値率の推移」(140ページ)の「(3)労働者1人当り年間賃金(2000年固定価格)」における1980年と1990年の値は過大であり、実際には生産性上昇分を差し引かねばなりません。すると「(4)賃金財(2000年固定価格)1万円当り投下労働量」の1980年と1990年分はさらに大きくなります。(4)欄の示す労働生産性の上昇はいっそう大きくなることになります。
なおここでは物価指数の意味を正しく捉えるのが鍵ですが、それについては前掲拙稿「生産力発展と労働価値論」を参照してください。
加藤周一追悼
2008年12月5日、加藤周一氏が亡くなりました。私は氏の本をほとんど読んだことはありませんが、「朝日」に載る評論などは必ず読んでいました。その博覧強記と明晰な論理にあこがれを抱いていました。物知りの知識人は少なくないかもしれませんが、加藤氏のように膨大な知識を確固とした理性の傘下に収めえた人は稀有でしょう。
1970年代、私が高校生のときに、「朝日」夕刊に確か「言葉と人間」という加藤氏のコラムが連載されていました。今も覚えているのは、野上弥生子『迷路』が紹介されていたことです。大学入学後、『迷路』は愛読書となりました。この小説の最後のほうに、中国大陸に出征した主人公が思いがけず旧友に再開し話し合う場面があります。そこで「エルフルト綱領」における宗教の規定について議論されます。当時一応、私は科学的社会主義者の端くれとしてマルクスの「ゴータ綱領批判」は読んでおり、その文庫本のカップリングのエンゲルス「エルフルト綱領批判」もかろうじて読んでいました。宮本百合子の友人とはいえ、マルクス主義者でもない野上弥生子がこれを小説の小道具として使うとは、と感心しました。何でも知っているんだな、きっと加藤周一とも知り合いなんだろう、進歩的知識人おそるべし、という感じでした。
「朝日」の「夕陽妄語」で忘れられないのは、「宣長・ハイデガー問題」ともいえるような問題提起があったことです。手元にテクストがないので、うろ覚えで語るしかありませんが、強烈な印象がありました。本居宣長とマルティン・ハイデガーはともに学問研究者としては傑出していながら、政治的には宣長は国粋主義者であり、ハイデガーはナチス党員でした。研究者としての優秀さや冷静さとそれに反した政治的な情念性や粗雑さとの共存を加藤氏は提起したのです。和漢洋の広範な知識の中から、一見関係なさそうなことを抽出し組み立て、現代にも通じる鋭い問題性を洞察し提出するその技に酔いました。同じように感じ入った人はいるとみえて、ある歴史学者が自分にとっての「宣長・ハイデガー問題」は、平泉澄問題だと書いていたのをかすかに覚えています。もっとも、この技に感化されて、あっちのものとこっちのものを牽強付会につなぎあわせるという低次元の思いつきに走るのが私の悪いくせになりましたが。
加藤氏の著作としては、『日本人とは何か』(講談社学術文庫)が忘れられません。1950年代から60年代ごろの論文を集めたものでありながら、今日でもその妥当性が古びることはことはありません。同時代のマルクス主義者に同水準の洞察がはたしてあるだろうか。やはり広範な知識が理性的バランスにより制御されるところに、普遍性が生まれるのでしょう。激越とか偏向とかイデオロギッシュな姿勢から発するものは場合によっては必ずしも悪いとばかりはいえないけれども、長い射程を持って後々まで残るものを作るのには妨げになります。この本では知識人論が素晴しいのですが、そこから厳しい論断を紹介しておきます。知的な学生が社会人になると知的でなくなるのは何故か。「その根本的理由は、決して仕事が忙しいとか、附き合いがどうとかいうような外面的なことではなく、若い時代の活動そのものが、つけ焼き刃であり、なま半可であり、何一つ確かなものを捉えていなかったという事実そのものにほかならない」(151ページ)。
「夕陽妄語・60年前東京の夜」(「朝日」夕刊2005年3月24日付)からは深い感銘を受け切り抜いてとってあります。東京大空襲についての経験と考察が書かれています。2007年には名古屋中民商の数人の会員と勉強会を開きこれを読みあわせました。これをテクストにしたのは、「9条の会」に連なる平和の問題を意識したのは当然ですが、むしろそれよりも認識論・学問論として優れた短文だったからです。
東京大空襲のとき、加藤氏は大学病院の医師として不眠不休で治療に当たりました。すでに反戦論者として普通の国民とは距離感を抱いていた加藤氏もこのときばかりは「東京市民と同じ目的、--何とかして生きのびる目的を共有し、彼らと共に当事者として全力を傾けて行動し」「あれほど強い被害者との連帯感」が生じたのでした。「もしその連帯感がなければ、なぜあれほど悲惨な被害者を生み出した爆撃、爆撃を必然的にした戦争、戦争の人間的・社会的・歴史的意味についての執拗な関心はおこらなかったろう。…中略…しかし戦争についての知識がなければ、反絨毯爆撃・反大量殺人・反戦争は、単なる感情的反発にすぎず、『この誤ちを二度とくり返さない』ための保証にはならぬだろう」。
この評論では、先進的知識人と庶民との関係、当事者と観察者あるいは行動(参加)と観察(認識)との関係などが深く解明されています。加藤氏は知識人として戦争には反対していたからその意識においては庶民からは浮き上がっていました。しかし東京大空襲の共通の被害者として強い連体感を経験することで、悲惨な戦争の意味についての執拗な関心が沸き起こりました。だから「知識の動機は知識ではなくて、当事者としての行動が生む一種の感覚である」と加藤氏は言います。「人は深く感じないことはよく考えもしないのです」(島田豊『学問とはなにか』)。まず行動ありきだけれども、そのままでは「単なる感情的反発」に過ぎないから、距離をおいて客観的に観察する必要があります。それによって全体像が見え、理論的認識が可能となり、後々までも役に立つ教訓を汲み出すことができます。当事者としての切実さと観察者としての冷静さ・広さとがうまく統一されたとき人間の認識は豊かに深まります。そしてそれは現在の新たな行動の原動力ともなりうるような認識です。「現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる」(スウィージー『歴史としての現在』序文)。
2008年12月14日、NHK教育テレビで「ETV特集 加藤周一 1968年を語る〜言葉と戦車≠モたたび」が放映されました。「知の巨人」のラストメッセージです。ドプチェクらチェコスロバキア共産党指導部が推進した改革の時代に加藤氏はチェコ市民と接します。当時「史上初めて自由な社会主義が誕生した」とインテリたちは舞い上がっていて、その前途洋々と思っていました。しかし庶民は懐疑的で、いつまで続くかしら、とおばさんたちは語っていました。加藤氏はソ連社会主義はもちろん、北欧福祉国家の社会民主主義にも満足できないと考えていたので、チェコスロバキアの実験には大いに期待していました。しかし「プラハの春」はソ連の戦車によって踏みにじられ加藤氏は深い絶望感を味わうことになります。番組では戦車のソ連兵に向かって議論をふっかけるプラハ市民の姿を映していました。社会主義の良心にかけての議論ではどちらに理があるかは明らかです。弾圧されても地下放送で抵抗する人々も登場しました。加藤氏は、戦車を持ち出すのは言葉で負けたからだ、として「言葉はどれほど鋭くとも、戦車一台を破壊することはできないけれど、戦車の存在を合理化することもできない」と語ります(「しんぶん赤旗」12月10日付番組欄)。言葉に未来を託したのでしょう。「9条の会」もその延長線上にあるに違いありません。
私の記憶違いがなければ、この番組の中で加藤氏が唯一名指しした思想はマルクス主義でした。広範な思想に通じた「知の巨人」が、現実にコミットする思想としてマルクス主義を別格と考えていたのだと思います。もちろんそれは一種の批判的関心姿勢をともなってのものだとは思いますが。
しかしそれにしても「プラハの春」に対する加藤氏の当時の期待感には、今となっては甘さを感じざるをえません。仮にソ連の弾圧がなくても、自由な社会主義の行く末には多くの困難が待ち受け、その成功は容易ではなかったでしょう。この甘さはマルクス主義者を含めた現状批判的進歩派にありがちなものであり、理想を追及する以上は不可避でもあります。社会民主主義の強みはあくまで眼前の現実の改良に集中し、福祉国家の建設や労働問題の改善に着実な成果をあげてきたことです(このことはきわめて重要であり、それを正当に評価してこなかったマルクス主義側の自己批判は必要です。現状ではそこはあいまいに成果に便乗し、逆にアイデンティティを失いかけている向きもなきにしもあらずか)。しかしそれではたとえば現段階では新自由主義的グローバリゼーションとの妥協的共存にとどまり、働く人民が真に社会の主人公となる社会には向かいません。苦難の根源が解決されないのです。私たちは資本主義経済そのものの止揚を目指さざるをえません。遠くを見ることと当面する課題への対処とをあわせて追及し、甘くもならず絶望もせずに行くためには経済学の本来持つリアリズムが不可欠だと感じます。それを包みこんではるかに広いのが加藤周一の理知(理性に裏うちされた膨大な知識)であったのかと思います。
湯浅誠氏の活躍
第8回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)が湯浅誠氏の『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)に決まりました(「朝日」2008年12月14日付)。「私は論壇の人間ではない」という湯浅氏にとっては迷惑な表現かもしませんが、『世界』2006年12月号に掲載された「『生活困窮フリーター』たちの生活保護」で彗星のごとく論壇デビューした姿は私にとっては実に鮮烈でした。在野の実践家が、あらゆる研究者を凌駕する鋭い問題意識をもって確かな理論化をも成し遂げているのが衝撃的でした。当論文で参照を指示された『賃金と社会保障』No.1428-1429(2006年10月下旬号・11月上旬号)所収の「格差ではなく貧困の議論を 上下」という論文を愛知県勤労会館の資料室に出かけて併せ読むことで、そのような感を深めたものです。『世界』論文では自己責任論にからんで人間観と社会観の反省を迫られ、『賃金と社会保障』論文では「貧困ビジネス」の凄まじさに驚きました。「到底資本の論理が入り込む余地はない、と思われるような領域で見事な資本増殖を実現してみせる」「貧困ビジネス」の嗅覚を直視し、その着眼点から「学ぶ」必要があるという提起の鋭さに舌を巻きました。本気で闘っている人だけが自からの遅れを認め敵から学ぶことができるということです。
その後の湯浅氏の大活躍は周知の通りです。「反貧困」の第一人者としてますます実践と理論の両面で期待が高まります。ところで村松泰雄「朝日」論説主幹は「主張はイデオロギー的でも説教調でもない。分析は誠実、発想は柔軟、文章は平易だ」と称えています。比べること自体がおこがましいけれども、拙文とはまさに正反対で、ほんの少しでもあやかりたいものだと思います。
2009年2月号
大不況の対策
(1)所得再分配の理論的意味
「百年に一度の経済危機」ともいわれる中で、日本経済における対策としては「外需依存から内需主導に」が主張されています。そのためには、(1)安定した雇用の保障(2)社会保障の充実(3)中小企業支援(4)農業再生、といった「大企業から家計に経済政策の軸足を移す大転換」が必要となります(「しんぶん赤旗」1月12日付)。これらは当面の対策としても中長期的政策としても妥当なものですが、中長期的にはこれに加えて、中小企業や中小零細業者あるいは農林水産業者などが新たな経済発展軌道を確立すること、およびそれにともなって地域経済が自立することが必要となるでしょう。つまり当面は大企業の生み出した経済価値の再分配によって経済の歪みを正すことが急務だけれども、そこから先は、大企業が社会的責任を果たすとともに、小経営と地域経済の自立的発展によって国民経済の新たな発展軌道を確立していくことが必要です。小経営が大企業からの再分配の対象というよりも、国民経済の主役の一つとなれるか、が今後の日本経済の中長期的課題です。
実はそのようにいう前に検討すべき問題があります。以上の言い方は資本主義的市場経済における所有関係が前提されています。もちろん資本主義の枠内での改革ではそれは前提されるのですが、今いうのは現実の改革ではなく、理論的認識の問題です。大企業が生み出した経済価値の再分配と通常思われているのは、正確には、大企業労働者が生み出して企業が所有している経済価値の再分配といわねばなりません。農業再生のための価格保障政策への支出についても、その財源が大企業への適正な課税の復活であるならば、大企業からの再分配という形になります。これについては、先述の資本と賃労働との原理的関係の他に、市場における不等価交換の問題があります。1月号の泉弘志氏の「現代日本の剰余価値率と利潤率 一九八○〜二○○○年の推計」に明らかなように、2000年において、農林水産業と他産業との間では3倍から5倍程度の不等労働量交換が行なわれています。市場流通においては等価交換が原則だという立場からすれば、これは労働の複雑度の差異だとも解釈できますが、泉氏もいうようにこのように極端な差を複雑度の差とは考えにくいというべきでしょう。それはともあれ投下労働の次元ではとんでもない不等労働量交換が行なわれていることは事実です。したがって財政を通じた経済価値の再分配については、生産過程における搾取を通じた所有の移動と市場における不等労働量交換という二つの前提を考慮することが必要です。確かに大企業は膨大な経済価値を生産していますが、生産主体は労働者であり、そこには市場を通じた収奪分も含まれています。したがって、大企業に適正な課税をして、社会保障の充実・中小企業支援・農業再生といった財政支出に回すことは、資本主義的所有関係と市場での等価交換とを前提すれば、経済価値の再分配ということになりますが、投下労働の次元で見れば、むしろ搾取と収奪の一部を直接生産者に還元することになります。
このように考えると、内需主導の国民経済への転換において、財政による所得再分配政策の深い正当性が理解されると同時に、財政的介入の以前において搾取と収奪そのものを緩和した経済のあり方が追及されるべきだと思われます。資本=賃労働関係の規制緩和を逆転させて適切な規制により労働者保護を復活させ搾取を弱めること、農産物輸入を規制して国産農産物の価格下落を防ぐことなどがさしあたって必要とされます。
(2)内需主導型経済像
ここでは外需から内需への転換の意義と方法について考えてみます。内需主導型経済像としてはたとえば以下のような姿が考えられます。
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「一週間四〇時間働けばそれなりに生活ができる社会を作り出す」ことを目標に掲げ、最低賃金の引き上げ(当面のメド、時給一〇〇〇円)、雇用規制の強化(年間を通じてある仕事については正規雇用によることとし、派遣等を原則認めない)、残業規制の強化(日、月、年単位での上限時間の設定など)を行うのである。「それでは企業経営が成り立たない」という声がたちまちにして上がりそうだが、そういう与件のもとで企業経営が成り立つ社会の構築を目指すことこそが必要ではないか。必要なのは商品、サービスの価格体系の再構築であり、一人当たり最低人件費を与件として定めれば、それは市場が自ら作り出してくれよう。
山家悠紀夫「日本経済、どこへ向かうべきか」(『世界』2月号)110ページ。
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今日のひどい派遣切りの下でもなお、派遣労働があったおかげで製造業の空洞化が緩和されたのだから、派遣労働を原則禁止にするような「短絡的」な見解は誤りだという開き直りが横行しています。これはまったく逆立ちした発想であり、企業利潤は絶対視して、労働者の生活はそれに合わせてどうにでもなれという話です。本来は、人々のまともな生活と労働を前提にして、そのためには経済はどのようなあり方をしていなければならないか、と考えるべきなのです。もしそれでは世界資本主義の中ではやっていけないというのなら、そのような世界資本主義こそ変えなければならないのです。それが正しい発想というべきです。ただしこの場合はそういう問題ではなく、現行の世界資本主義への日本資本主義の対応のあり方がおかしいのです。伊東光晴氏によれば、派遣労働は「日本と韓国ぐらいにしか存在しません。派遣労働を政府が認めたことは、中間搾取をなくすという戦後の労働政策の原則の崩壊です。…中略…国際競争が大変だ、コストを下げる必要がある、などとグローバル化を理由にしますが、そうなら世界中が導入しているはずです」(「朝日」1月11日付)。
山家氏の上記の見解はまさに、これまでずっと財界や御用学者たちが攻撃してやまなかった「高コスト構造」に当たります。しかしこれは絵空事ではなく、西欧福祉国家はだいたいこんな姿だと言えるでしょう。問題は、これまで形成されてきた、外需依存で内需不振の低コスト構造の日本資本主義をどのようにして正常な姿に近づけていくかということです。もちろんそれは山家氏の上記論文でも中長期的課題として提出されており、今すぐにできることではありません。しかし新自由主義の「高コスト構造」排撃論においては、目先の効率だけを追及するために、そのような課題は見えないどころか目の仇にされてきました。異常な強搾取構造が当り前になって、それが「正常な」姿だとされてしまい、そういう形で世界資本主義にポジションを得て外需依存になってきたために、財界は今回の経済危機で外需を絶たれ混乱し茫然自失状態です。個別企業がただ保身に走っているだけです。そんな状態の中で内需不振を招く強搾取構造のままで強行突破しようとしているので全く先が見えないのです。頭の中が国際競争力一本槍で低コスト構造の維持しか見えないので、「高コスト構造」による内需循環型の経済像が思い描けないのです(人間や労働力を主体としてではなくコストとしてしか捉えられない立場からは、人々の生活と労働を大切にする社会は非効率的な「高コスト構造」社会としてマイナスイメージで捉えられる。実はそのような「高コスト」な人々こそが高い想像力=創造力をもって高度な社会を生み出していくことができるはずなのだが)。「ほんとは、日本経団連あたりが音頭をとったらいいんです。企業としては、日本経済を守るために、あるいは自分たちの企業の未来を明るくするために、内部留保を取り崩してでも、雇用を守り、賃上げをやると宣言する。トヨタ、キヤノン、ソニーなど世界的な企業が率先してやる。そんなリーダーシップがあってもいいと思うんですね」(「しんぶん赤旗」1月26日付)という山家氏の提言はほとんど皮肉にしか聞こえないという気もしますが、そうでもして危機をチャンスに日本資本主義を正常化することが本当は必要なのです。本来ならば政府がリーダーシップを発揮して、農林水産業や中小企業を発展させ福祉を充実して内需を強化し、その中で外需・国際競争力の目指すべき位置を示していくべきですが…。
(3)内部留保の見方
ところで内部留保への注目が集まると当然ながらそれを取り崩すことへの反対論が出てきます。さっそく「朝日」1月30日付がトヨタの弁護なども含めて、内部留保は雇用維持の財源にはならないと主張しています。ここには、内部留保の額を左右する株主配当について不問に付すのみならず、内部留保も「基本的には株主のもの」などという露骨な株主資本主義の姿勢を取るなど、経営・会計上の問題もありますが、この際はその全面的な検討は措くとします。それ以前の報道姿勢を問い正したい。これは徹頭徹尾「個別資本」の立場です。「資本」の立場だというのは、企業の雇用への社会的責任を一顧だにしていない、ということです。「派遣村」を見るまでもなく、悲惨な実態を引き起こした企業がただただ保身に走るのを積極的に援護射撃して恥ずかしくないのだろうか。「個別」資本の立場だというのは以下のことです。個別諸企業がこぞって不況対策にリストラするのが、「合成の誤謬」となって国民経済全体の不況を悪化させることは明白です。企業経営にも当面の展望がなくなります。ならば「総資本」としては雇用維持によって景気対策を図るべきです。それを促すのがジャーナリズムの使命ではないだろうか。そういう姿勢であれば経営分析のあり方も違ってくるのではないか。それさえできないのは何たる視野の狭さか。
このような記事が出てくる背景には、もともとは共産党だけが内部留保の取り崩しを以前から主張していたのに、最近では政府閣僚からも同調する声が出てくるようになったことに対して、財界など支配層の危機感が高まってきたことがあるのでしょう。おそらく「内部留保を取り崩せばうまくいくなどというポピュリズムが招く混乱から日本経済を断固守る」と思っているだろう「朝日」記者の「気高い」エリート主義的使命感がうかがえます。しかし彼らが守っているのは狭い個別資本の利益であって、決して国民経済ではないし、ましてや人々の生活と労働ではありません。派遣労働の自由化が「働く人のニーズ」などと宣伝され、政治家やマスコミの批判が弱かった「原因は彼らに現場感覚が欠けているからです。生身の人間、とりわけ底辺の人間にどんな影響がでるか考えずに、物事を抽象的にしか考えない。だからその本質が見えない」(「しんぶん赤旗」1月31日付)という宇都宮健児氏の苦言をジャーナリストに限らず多くの人々が真剣に受け止めるべきです。私も自戒せねば、と思います。この「朝日」記事については、内部留保の問題を多角的に考える資料としての意義は認めますが、何よりも体制派ジャーナリズムの堕落を象徴するものだと思います。
(4)資本主義経済の内実と形態
話はまた戻ってしまいますが、そもそも「百年に一度の経済危機」をどう捉えるかに関連して、今宮謙二氏は「世界的金融混乱の基本的性格」を国際金融危機と基軸通貨ドル体制の危機との密着として捉えています(『経済』2月号、14-15ページ)。さらに1929年世界大恐慌との比較ではケインズを参照しています。
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J.M.ケインズが一九三○年一二月に発表した「一九三〇年の大不況」という論文を紹介しよう。ここでケインズは次の点を指摘している。一つはいま現代史上最大の経済的破局におちいっていること、二つは多くの人たちはこの原因が分からないまま恐怖にかられ、未来を疑っていること、三つはしかしこれは悪夢であり、天然自然と人間の創意工夫は豊かで生産的であり、かならず悪夢は消える、四つめとして資本主義経済の生産と消費の不均衡拡大が根本的原因であり、この克服には主要諸国中央銀行の国際協力が必要なことを強調している(『ケインズ全集』第九巻、宮崎義一訳、東洋経済新報社、一九八一年、一二六〜一三四ページ参照)。 『経済』2月号 16ページ
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今宮氏は続いてケインズが投機取引の自由放任を批判していたことを指摘しています。この点は伊東光晴氏も強調しています(前出、「朝日」1月11日付)。史上最大の経済危機は悪夢に過ぎないのであって、経済の実体は本来はしっかりしているのだ、とケインズが認識していることが注目されます。これは、経済というものを内実と形態との二面から、あるいは歴史貫通的なものと特殊資本制的なものとの二面から捉える見方に通じます。どのような経済であれ、人々の必要な使用価値を人々自身の労働によって作りだし分配することは共通しています。商品経済においては使用価値の分配は価値の実現を通して行なわれます。資本主義的商品経済においてはさらに剰余価値の追及を通じて結果的に使用価値は分配されます。つまり労働による生産と生産物の分配という経済活動の内実が価値ないし剰余価値という形態を通じて媒介的に実現されるのです。資本主義経済に特有な経済恐慌はこの形態に由来します。形態が内実を破壊するのです。今回の恐慌では、実体経済と金融との両面において新自由主義の暴走があり、破壊力が増強されました。しかし傷ついてもなお人々の労働を中心とする経済の内実は健在であり、ケインズが言うように「天然自然と人間の創意工夫は豊かで生産的であり、かならず悪夢は消える」はずです。そこで社会主義者の立場からは、恐慌から人々を根本的に救うためには、「資本主義的外被を粉砕する」ことが必要となります。もちろんケインズは資本主義的外被を守るために生産と消費との不均衡を国家が調整することに活路を見い出しました。社会主義者としても、当面、資本主義の枠内での変革を進めるならば、ある程度はケインズと似たような路線を取らざるを得なくなりますが、企業利潤を絶対視せず資本への民主的規制を自覚的に追及するという意味では、その路線には独自性があるといえます。
商品の使用価値と価値という二面性は、経済の内実と形態という二面性を反映しているといえますが、当然、資本主義的商品生産もこの二面性を継承しています。それでは資本主義的企業ならびにそこでの直接的生産者にとってこの二面性はどう現われてくるでしょうか。それは企業の社会的責任と利潤追及との二面性としても現われてくるように思われます。きちんとした使用価値を生産することが企業の社会的責任の中の重要な要素ですが、それは利潤追及と緊張関係にあります。新自由主義はこれをもっぱら後者の側面に一面化しました。今回の恐慌で新自由主義が自爆したことから、これからの企業経営のあり方と労働者の動機づけもより真っ当なものとすることが求められます。それは特に労働者にとっては、労働というものが本来もっている積極性を自己に内面化しうる可能性につながります。そのことはただ単に利潤追及の手段としての労働と比べてどれだけ動機づけとして優れたものでしょうか。もちろん資本主義企業内においては限界はあろうけれども追及する価値のあることであり、その萌芽は様々なところに見い出されるはずです。
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マスキー法の一年適用延期が決まったときも、延期申請をしないというわれわれの考え方は変わらなかった。この排気ガス問題に関しては、企業としての社会的責任から、どうしても解決しなければならないと思ったからだ。
法律として決まった以上は、絶対に守らなければならないし、技術的なことならいかようにでも解決できることだからだ。
こと技術的に解決しなければならないことを政治的に解決しようとすると、どこかに無理がでて、永久に悔恨が残る。損得勘定からいえば、一見、損をしているように見えても、やはり技術的に解決すべきものは、どのようにしても技術面からやらねばならない。
政治的に解決しなければならないことと、技術的に解決しなければならないこととを混同してはいけないということだ。
片山修編『本田宗一郎からの手紙 現代を生きるビジネスマンへ』
(文春文庫 1998)122ページ
ホンダは、夢と若さをもち、理論と時間とアイデアを尊重する会社だ。とくに若さとは、「困難に立ち向かう意欲」と、「枠にとらわれずに新しい価値を生む知恵」であると思う。
私はまだまだ心だって体だってその意味で若く、みんなに負けないつもりだ。だが現実問題として、残念ながら「若い人はよいなあ、若い人にはかなわないなあ」と感ずることが多くなってきた。
たとえばCVCCの開発に際して、私が低公害エンジンの開発こそが先発四輪メーカーと同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンスだといったとき、研究所の若い人は、排気ガス対策は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任の上からなすべき義務であると主張して、私の眼を開かせ、心から感激させてくれた。
同前 182ページ
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本田宗一郎の実像を知る由もありませんが、少なくともここから浮かび上がってくるのは、自由で柔軟な精神を備えた良識的かつ魅力的な経営者像です。権威主義の支配的な空間であれば(おそらくそれが通常の企業なり社会のエートスであろうが)、企業業績の向上を説く社長に対して、若い社員が企業の社会的責任などという青臭い主張をぶつけることなどありえません。ましてやそれに感動できる社長の精神の若さと責任感と理想主義そして自己を客観視できる謙虚さ(若い人にはかなわないなあ)にこちらが感動します。資本主義的外被が大恐慌を引き起こし、多くの人たちが「恐怖にかられ、未来を疑っている」今、その解決には政府の役割が大きいけれども、「天然自然と人間の創意工夫は豊かで生産的であ」ることにこそ回復への究極の原動力があるというべきです。貨幣資本のやみくもな自己増殖にあけくれる新自由主義を克服し、社会的責任を自己のやる気として内面化した労働者とそれを伸ばせる経営者が活躍するまともな経済社会が恐慌のあとに来ることを期待します。また上の話からは、資本への適切な規制は企業を弱めるのでなく、逆に社会的責任を果たすことを意気に感じる労働者の積極的な活力を引き出すことで企業を発展させるということが分かります。
(5)公的資金投入をめぐって
次に話がやや横道になりますが、金融危機対策としての公的資金の投入について考えてみたいと思います。システミック・リスクを防ぐために公的資金を投入するのが当然で、反対するのは感情論であるかのような議論が左右を問わずまかり通っていますが、本当でしょうか。伊東光晴氏は投機の弊害を指摘しつつ「日本では欧米のように金融機関への資本投入は必要ありません」(前記「朝日」1月11日付)と明言しています。さらに志位和夫氏は、各国政府が行なっている公的資金の投入や金融緩和について、これが対症療法にすぎず、むしろ金余りを助長して悪循環に陥ると指摘し「金融の自由化路線との根本的な決別、転換が求められている」と結論づけています(「しんぶん赤旗」1月1日付「新春トーク」)。こうした本質論はあまり聞かれません。佐々木憲昭氏によれば、1990年代後半から預金保険機構の役割が「預金者保護」から「銀行業界救済」へと変質する中でずるずると公的資金が投入されてきました(「株主利益優先の大銀行に変容させた公的資金投入 国民にツケを回すシステムはいかに形成されたか 一○年来の国会論戦を検証する」『前衛』2月号所収)。1998年9月4日に日銀総裁は、資金ショートを起こした銀行に対して、政府の資金でなくとも日銀特融で一時的な資金補給をすることができる、と国会で答弁しました(80ページ)。つまりシステミック・リスクを防ぐために必ずしも公的資金を投入する必要はない、ということです。その大義名分は崩れました。結局、公的資金投入は乱脈経営の銀行のモラルハザードを招くとともに、投入を契機に新自由主義的政府によって株主利益最優先の経営体質へと誘導されました。リストラ、利用者サービスの低下、貸し渋り・貸しはがしの加速、投機化が進みました。このように佐々木論文は、日本における公的資金投入に正当性がないことだけでなく、それが危険な金融構造改革の契機となったことを明らかにしています(同論文は、「資本注入」「公的資金」「交付国債」などの基本的用語の具体的意味を明らかにしており、金融システム理解にとって大変有用です)。
ここで注目すべきは、まさに政府丸抱えで大手金融機関の新自由主義的改変が断行された、ということです。新自由主義を市場原理主義とのみ理解しているとこの逆説が不可解に感じられます。本来公共性が高い銀行などの金融機関が、投機の追及を含む利潤第一主義に転落していくところに新自由主義の本質があり、それを政策的に誘導するところに新自由主義的「改革」政権の本領があるのです。新自由主義にとっては、「市場の放任」よりも「資本の利潤の確保」が第一命題だと考えれば難無く理解できます。ここで経済をヨコに見る市場関係とタテに見る階級関係を想起します。公的資金投入を「システミック・リスクを防ぐ」という観点から見るのは市場関係からの視点です。世間ではもっぱらこの見方であり、それが大切なのは否定しません。決済機構が崩れては駄目だからです。しかし階級関係からも見ないといけません。大手金融機関への公的資金投入は国家財政を通じた大衆収奪であり、国民所得の逆再分配です。しかもそれを契機に金融業界の新自由主義的再編が強行されたのです。市場を放任するのが右で、市場に介入するのが左だ、という通俗的・一面的な見方では事態の本質を見誤ります。「銀行業界の自己責任」を掲げた日本共産党の政策の民主的(左翼的)正当性は明確だといえます。
(6)小経営について
最後になってしまいましたが、ここで初めに問題提起した小経営に対する経済政策に戻ります。『経済』2月号では、農林水産業、中小企業、中小自営業者、地域経済などについて様々な現状分析と政策提言が行なわれています。中でも農業の問題については今回の拙文の初めに書いたように、価値論の観点からも、農産物輸入を規制して国産農産物の価格下落を防ぐことが大切です。特に昨年9月の汚染米の発覚は衝撃的であり「ミニマムアクセス米の輸入を中止せよという声が急速に高まりました」(有坂哲夫氏の「農民・漁民 食料の安全と燃料・飼料高騰」、81ページ)。この輸入中止要求は「米政策だけでなく、日本の農政をWTO協定や国際競争至上主義のくびきから解き放つ重要なたたかいです」(同前、82ページ)。私の所属する名古屋中民商でも会員に被害が出て東海農政局に交渉に行きましたし、農水省の対応についても注視していますが、ミニマムアクセス米での政策転換へのガードは固いのが現状です。しかしそうした政府の姿勢の頑迷さの一方で現実は進んでしまっているというべきか、政府保有輸入米の相次ぐカビ発見で、昨年11月以降、引渡を中止しており、米輸入政策が事実上破綻しています(「しんぶん赤旗」1月27日付)。食の安全・安心を求める世論を背景に、ミニマムアクセス米の輸入中止の声をさらに上げていかねばなりません。
本当は具体的な政策について考えるべきですが、ここでは小経営の理論に関連して若干書きます。マルクスは『資本論』第1部の最後に「資本主義的蓄積の歴史的傾向」を論じています。小経営の私的所有が、労働の搾取に基づく資本主義的私的所有によって駆逐され、この資本主義的外被もやがてまた労働者階級によって粉砕され、生産手段の共有に基づく個人的所有が再建されます。この過程を貫くのは生産力の発展・労働の社会化であり、資本主義の生成・発展・消滅を通して個人的所有の否定と再建が行なわれる点に中心的な論点があります。これを小経営論について読むと、まず「小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のための一つの必要条件である」と重要な肯定的側面が指摘されています。しかし次いで、それは生産手段の分散を想定し「生産および社会の狭い自然発生的な限界とのみ調和しうる」ので「社会的生産諸力の自由な発展をも排除する」と、小経営の限界を指摘しています。それで結局、小経営は資本主義的私的所有によって駆逐されることになります。ここだけを読むと、農民や中小企業の没落は社会進歩であり、それを放置ないし促進するのが正しいマルクス主義者の姿勢である、とするような生産力主義的な史的唯物論理解が成立するように思えます。これに対して中小企業論では、中小企業の存立根拠を探る研究があり、マルクスの資本蓄積論についても「集積・集中」だけでなく「分裂・分散」という相反する傾向も現われるものと把握できる、とする解釈もあるようです。
農民問題という視角からですが、『資本論』第3部の分析をも乗り越えたマルクスのノートと内容的にそれに重なるエンゲルスの論文「フランスとドイツにおける農民問題」とを不破哲三氏が紹介しているのが、小経営問題の参考になると思われます(不破哲三「講座 マルクス、エンゲルス 革命論研究 第七回 第四講 多数者革命(上)」から「農民問題と社会主義」の部分、『前衛』2月号所収)。マルクスとエンゲルスは、資本主義経済の下で小農民経営が発展するものではないのでそれを維持する約束をしたり、分割地所有を強化する政策はとれないとしています。従ってあくまで土地の集団的所有つまり協同組合化が目指すべき方向だけれども、それを強制はせず、自発的に進むようにします。農民の没落を促進したり、所有の廃止を布告したりなど農民の気を悪くするようなことはすべきではなく、彼らがプロレタリア化する前に農民のままで労働者権力の味方に獲得できるようにすることが社会の改造を速めることになります。「資本主義的生産がどこでもその最後の帰結にまで発展しつくし、小手工業者と小農がその最後の一人まで資本主義的大経営のいけにえになるまで、この改造を待たなければならないというのでは、どうにもならない」(エンゲルス前掲論文、マルクス=エンゲルス全集第22巻496ページ、不破論文230ページより孫引き)。ここでも小経営の発展の不可能性、したがってその解消の立場は変わりませんが、その没落を放任したり促進したりして解消させるようなことは厳しく退けられ、逆に小経営の利益を守りつつ強制によらない自発的な共同化による解消を目指しています。
ひるがえって現代の小経営をどう見たらよいのか。その没落を進める生産力主義的見解は問題外としても、それへの機械的反発としての小経営維持論だけではいけません。マルクス、エンゲルスの指摘を待つまでもなく、資本主義経済におけるその困難性を直視して共同の方向性を強めねばなりません。もちろんそれは労働者権力下における生産手段の共有化とは違いますが、労働者などとの連帯を強め、大企業の横暴と闘い、民主的規制を勝ちとっていく道です。ただし20世紀的な大量生産=大量消費型社会が終焉し、環境の時代を迎えた今、小経営発展を広く捉える可能性を探ることも大切です。ソ連型社会主義の崩壊とグローバル化の中で市場の役割が再認識され、市場を通じての社会主義への道が普遍性を持つに至った、という文脈でも小経営の新たな可能性を探る意味はありそうです。『資本論』第1部の「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の社会主義革命像は、集積・集中した大資本と結束した労働者階級との横綱決戦・結びの一番・大土俵で一気に決するという趣だけれども、私たちの眼前にあるのは、土俵(市場)のあちこちで序の口まで全員参加で小競り合いがだらだら続くというイメージです。粘り勝ちを目指すしかないか?小経営の問題では具体的に論じ実践することが何より大切なので、抽象的な無駄口はこのへんでやめておきます。
核兵器廃絶の課題
オバマ大統領は核兵器廃絶を選挙公約に掲げていました。日本と世界の反核運動が2010年のNPT再検討会議に一つの焦点をしぼって動き出しているこのとき、注目すべき新大統領の登場ではあります。吉田文彦氏は核軍縮・不拡散をめぐって様々に現実的検討を加えています(「『アジアの世紀』と核時代の変革」、『世界』2月号所収)。吉田氏は論文の最後に「政治指導者の信念と決断」の意義を強調して、1986年のレイキャビクでのレーガン・ゴルバチョフ会談の模様を紹介しています。両者は核兵器廃絶の合意にあと一歩まで迫りながら、レーガンの進める戦略防衛構想(SDI)をめぐって物別れに終わり、何の合意書もまとめられなかったのです。レイキャビク会談の教訓が二つ示されています。「廃絶が首脳の決断で可能であること」と「条件次第で好機と逸機が背中合わせで存在しているということ」です(216ページ)。はたしてオバマはどこまで進むことができるのか。世界の反核世論がレイキャビクの教訓を正面から受け止め、人々に普及して、首脳たちを包囲していくことが大切です。
ここで思い出されるのが、故宮本顕治日本共産党議長(当時)の示した洞察力です。1984年1月、宮本氏はレーガン米国大統領とアンドロポフソ連共産党書記長とに核兵器廃絶を訴える書簡を送りました。1983年11月にレーガンが日本の国会で「核兵器がなくなる世界の夢」について語ったことをとらえてその発言への責任を問い、合わせてアンドロポフに向かっても、レーガンの言明に対応してより積極的な核兵器廃絶のアプローチを迫ったのです。レーガンは返事はよこさなかったけれども、その後ソ連国民に対して核兵器廃絶の呼びかけを行ない、アンドロポフは宮本書簡への同意の返信を送りました。アンドロポフは間もなく亡くなりましたが、この一連のやり取りがレイキャビク会談につながっていったと見てもよいでしょう(アンドロポフの後継者チェルネンコは核兵器廃絶の遺志を継いだ。彼はもっぱらブレジネフ亜流の守旧派とみなされているが、この問題に関しては積極的な役割を果たしたといえる。そのまた後継者がゴルバチョフでありレイキャビク会談を迎えた)。両首脳への書簡について私が当初抱いた感想は、そのようなスタンドプレーは無意味ではないか、というものでした。タカ派のレーガン、そして核兵器廃絶には一貫して不熱心なソ連共産党に対して、日本の小さな野党がものをいっても無視されるだけだろう、と思ったのです。しかし小さい勢力から発せられても、事実と道理が時宜を得、広範な人々の共感を獲得するなら、それは現実政治を動かす力となります。当時宮本氏はそれを見逃さなかったのです。最近の派遣切りへの社会的反撃の経験からもそのことは確認できますが、核兵器廃絶への好機を私たちがどうつかむのかがこれから試されることになります。宮本顕治『核兵器廃絶への道』(新日本出版社、1985)などを読み返してみるのも大切かもしれません。
2009年3月号
雇用と社会保障 その現場図と鳥瞰図
生き生きした現場の視点と俯瞰的な国民経済(と世界経済)の視点とを統一することが変革の立場からは大切です。前者は人々の共感を引き出し運動を起動させる力となり、後者は広い視野と展望を与えるからです。
現場からの発想は、人々の内面にまで踏み込み、私たちには人間観と社会観を鍛え直すことをも要請します。そのようにして初めて変革への立ち上がりを実現することができます。河添誠氏と中西新太郎氏との対談「貧困化する若者とユニオンの力 『派遣切り』と立ち向かうために」は、そのような意味で珠玉の内容に満ちています。
まず非正規労働者が置かれている境遇を把握して、彼らが怒りを持って立ち上がることがなかなかできない理由を理解することが必要です。「繰り返し雇用を切られ続けていると、要求を高く持ってしまうと、自分自身がきつくなってしま」い、「最初から要求を低く押さえておかないと、ますます自分が追いつめられることになる」(65ページ)というのです。また「自分ひとりで何とかすることを強いられている」若年労働者にとっては、自分で何とか生きていることが「最後のプライドを保つ決意の現われなんだ」という心情に寄り添い励ましながら生存権や労働権を同時に伝えていくことが必要です(同前)。自己責任論は間違っていると頭ごなしにいうのではなく、彼らの状況と心情に即した対応が大切となります。
不器用な人は解雇されても仕方ないのか(65ページ)、という問題提起も重要です。多くの人々にとって自分や職場の問題として直面することであり、人間観と社会観が試される場面です。「『器用に生きなければならない』という基準が、あまりにも社会で過剰に強制されているために、『自分が不器用だから悪いのだ』と思いこまされてしまっています」(67ページ)が、「もともとは誰でも、本人のもつ特性、適性に合わせて、働く場を社会から保障される、というのが労働権のはずです。社会の責任として、安心して働く場所が確保されていない問題をぬきに、『頑張っている人は、ちゃんとした職についている』という『自己責任』を持ち出すのは、問題の構造を逆転させている」(66ページ)のです。参加者の半分しか椅子を用意しないで椅子取りゲームをやらせておいて、すわれない人にむかって努力が足りない、と説教しているのが今日の自己責任論でしょう。まさに責任転嫁です。「不器用」とか「能力がない」とかいうのは口実です。「問題の構造の逆転」とはそういうことでしょう。心ある法律家はこう言っています。
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憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。
堀田力「憲法違反な人」(「朝日」夕刊 2001年5月2日付)
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不器用な人の生き方というのは、もともと文学的テーマとしては珍しくもないものだと思います。しかし今日のようにあからさまな資本の論理で人間が切り捨てられていく時代になるとテレビドラマなどにも切実感を持って登場してきます。現在放映中の「ありふれた奇跡」は山田太一脚本の見事なドラマです(フジテレビ系)。2月19日分ではこの問題が出てきました。
主人公は真面目で優しい好青年だけれども不器用でうまく生きられません。就職した企業の営業の仕事がうまくいかず、営業成績を上げるため自腹を切り、200万円の借金を作り、祖父に始末してもらう羽目になります。上司のパワハラに会い、自殺未遂をします。その後は祖父の仕事を手伝って左官職人として生きています。あるきっかけで出会った恋人と結婚する希望を持っていますが、彼女の父親は上記のことを調べ上げ、青年を厳しく詰問します。彼はうなだれるばかりです。彼女も理由ありですが、青年はその秘密をかばうため自分は窮地に追い詰められてもいます。
青年の祖父は慈愛深い人であり、彼女の祖母に会って、何とか若い二人の仲を取り持とうとします。…孫はまだ若い。完全な人間はどこにもいない。厳しい経験を経て優しい若者になった。その意味では挫折もなくきた人間よりずっといい。資格を取れば年収一千万も夢ではない、等々…言葉を尽くすが先方は首をかしげるばかりです。
祖父は自分の息子(青年の父)に話します。孫は世間の目で見れば仕方のない人間だ、と。父は、そうでもなくいいところがあるのだが、と応じますが、祖父は、それが世間にはわからないんだ、と悔しがります。
彼女の父親は特別に酷薄な人ではなく、客観的には世間並みの対応をしただけだけれども、青年を詰問する場面では、妻からも非難されるくらいに居丈高に振る舞います。これは資本の論理の厳しさを象徴するシーンだともいえます。青年の心情は察するに余りあるけれども、それ以上に祖父の悔しさには同情します。誰もが正当に評価される社会をつくらねばと思います。ワーキングプアの零細自営業者にも身にしみる問題だけれども解決策は見当つかずですが。
閑話休題。失業は当人にとって厳しいばかりでなく社会的コストも大きくなります。失業は最大の社会的損失です。社会的コストが嵩むというだけでなく、本来その人が能力を発揮して社会に貢献していただろう機会を奪うことで、当人と社会の双方に損害を与えています。だから止むを得ないの一言で解雇を正当化する企業経営のあり方は糾弾されるべきです。「新自由主義の人間観は、経営上、有利に使えることだけを考えて、社会全体の資源、社会的基盤は犠牲にしても構わないという、あまりに非合理なものです」(69ページ)。労働運動はこれとは真逆の人間観で一人ひとりを大切にすることで社会全体の資源を活用することにつながります。しかし青年ユニオンは従来の企業別組合とは違った厳しい条件の下で組織化し運動を作り上げていかねばなりません。そしてそれを実際に果たそうとしています。「無権利に長期に置かれていて、自己責任を内面化させている人たち、怒りを持てない、声をあげられない人たちを、運動の側が、どうやったら社会の一員として迎え入れられるのか」という根源的課題に対して河添氏は「漂流している人たちを、漂流しているまま組織することは、可能だ」(70ページ)と力強く答えています。青年ユニオンは団体交渉の勝利などを通じて組合員たちの自己肯定感と連帯を培ってきました。不安定労働と貧困の時代を迎え撃つべき労働組合の新しい組織と運動のスタイルを先駆的に切り開いてきた青年ユニオンへの期待は大なるものがあります。
またしても脱線ですが、競争・管理・使い捨ての人間観に対抗して一人ひとりを大切にする人間観に基づく実践は労働運動だけでなく国家が行なう場合もあります。本来社会主義国家はそういうものであるはずですが、20世紀のそれは自身の歪みと資本主義経済との競争とによって失敗しました。21世紀の新しい社会主義を目指す潮流はこの課題に取り組もうとしています。
2月20日、教育テレビ「芸術劇場」は、グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラを「青少年を貧困と犯罪から救え、ベネズエラの音楽教育、エル・システマが生んだ奇跡の響き」として紹介しました。エル・システマそのものは35年前から続いており、チャベス政権が始めたものではありません。しかし貧困を克服し誰もが参加する民主主義社会をつくろうとするその理念にフィットしており、政府が強力に支援していると思われます。エル・システマでは、少年少女に無償で楽器を貸与して早くからオーケストラに組織し、みんなで奏でることの楽しさを実感させています。数十万人の子どもたちが参加し、非行から多くの子どもたちを更正しています。全国的に多くのオーケストラが組織され、その頂点にあるのが、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラで、世界的に活躍しています。昨年来日もしました。そしてエル・システマの生んだ最高の大器が若き指揮者グスターボ・ドゥダメルであり、すでにベルリン・フィルを初め世界の一流オーケストラを指揮してクラシック界に旋風を巻き起こしています。こうした頂点の高さは広い裾野に支えられてこそです。音楽にアクセスする権利が子どもたちに保障され、音楽芸術の持つ教育力が存分に発揮されています。
競争の中で落ちこぼれがあって当たり前、伸びるものだけ伸びればいい、それも個性だ、という人間観や教育観では良い社会はできません。貧困をなくしてすべての子どもを尊重することが不可欠です。ドゥダメルは、音楽は社会(「世界」だったか?)を変える、と語っていました。普通、音楽家はそこまで言うのは傲慢だと思うでしょうが、おそらく彼は掛値なしにそう実感しているに違いありません。エル・システマはヨーロッパでも導入され始めています。
再び閑話休題。現場からのまともな人間観に基づいてまともな社会を作ろうとすると、労働と社会保障がワンセットであることが分かります。
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労働市場の質が壊れ、低賃金でどんな条件でも働くという人が増えたら、誰がまともな賃金で人を雇うというのでしょう。そうやって労働条件がガタガタに崩れていってしまうのです。
貧困は労働市場が壊れた結果であると同時に労働市場を壊す原因にもなります。この循環を見ないで、その人たちが頑張ればなんとかなる、というのであれば社会全体の地盤沈下は止まらないと思います。
必要なのは「救貧」でなく「防貧」です。貧困状態におちいる前に防ぐことが大切です。労働市場と社会保障の質は連動しています。最低賃金が生活保護基準と連動しているように、社会保障の質が上がれば労働市場の質も上がります。人々の生活の底上げに予算を向けていただきたいと思います。
衆議院予算委員会・中央公聴会での湯浅誠氏の意見陳述(「しんぶん赤旗」2月18日付)
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「社会全体の地盤沈下」とは、欧米ほどには金融システムの危機が深くないにもかかわらず、実体経済が極端に落ち込んだ日本資本主義の現況を言い当てています。その重要な原因が「労働市場と社会保障の質が連動して」劣化したことにあります。逆転上昇の連動を実現するためには、湯浅氏のいう予算措置がまず必要ですが、中長期的には、まともな働き方を与件とした資本主義経済を市場に作らせていくべきです。先月も引用しましたが
山家悠紀夫氏は以下のように提言しています。
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「一週間四〇時間働けばそれなりに生活ができる社会を作り出す」ことを目標に掲げ、最低賃金の引き上げ(当面のメド、時給一〇〇〇円)、雇用規制の強化(年間を通じてある仕事については正規雇用によることとし、派遣等を原則認めない)、残業規制の強化(日、月、年単位での上限時間の設定など)を行うのである。「それでは企業経営が成り立たない」という声がたちまちにして上がりそうだが、そういう与件のもとで企業経営が成り立つ社会の構築を目指すことこそが必要ではないか。必要なのは商品、サービスの価格体系の再構築であり、一人当たり最低人件費を与件として定めれば、それは市場が自ら作り出してくれよう。
「日本経済、どこへ向かうべきか」(『世界』2月号)110ページ。
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ここまで現場からの要請による経済像を描いてきましたが、それを実現する条件はいかがなものだろうか。それを解明するためには、国民経済全体の中での所得再分配のあり方のこれまでの趨勢を捉え、今後の方向性を見い出していくことが必要となります。
川上則道氏の「日本の所得再分配構造はどう変わったか 循環構造図の統計分析から(上)」によれば、GDPに占める政府部門の比重は、1970年度と2006年度とを比較すると、17.2%から33.8%へと2倍ほどになっています。これは法則的傾向です。つまり生産力の上昇により公的な諸活動や所得保障に人と資金をまわす余裕ができ、それを基礎に公的な諸活動や所得保障への社会的必要性と、その拡充への人々の要求も強まるので、「歴史的な傾向として、政府部門の比重の増加が実現して」いるのです(49ページ)。続いて川上氏は1987年度から2005年度への変化を検討しています。そこで最も顕著なことは社会保障給付の増加であり、次いで社会保障負担(社会保険料)が給付をかなり下回っていることが分かります。したがって社会保険の赤字が政府部門の赤字の大半を占めることになります。その他の状況も勘案して川上氏は「社会保障給付の拡大は必要とされており、また、日本の政府部門の支出は次にみるように諸外国と比較しても決して大きくはないので、政府部門の収入を全体として拡大するための、国民が合意できる適切な方策を探ることが避けられない課題となってきている」(55ページ)と結論づけています。
現在、政府やマスコミは、大きな政府か小さな政府か、負担はどうするのか、という議論を盛んに仕掛けています。その現実の狙いは消費税率の上昇を正当化することでしょう。つまり消費税率の上昇を主張するのが正論であり、それを避けるのは間違ったポピュリズムだ、というふうに世論の誘導を図るためのニセ問題として先の議論があることは明らかです。そこでは軍事費削減と大企業への適正な課税はタブーとされています。だから当面私たちはこの点を厳しく追及していくことが是非とも必要です。しかしその先には私たちにとってもニセ問題が本当の問題として出現してきます。私たちにとっては消費税に頼らない福祉国家の実現という問題があります。
大きな政府か小さな政府か、という議論に対して、いや大きさでなくて、適正規模で効率的な政府だ、というような形で応じることがあるように思いますが、これは新自由主義に気圧された悪しき妥協的見解ではないか、という気がします。川上論文からいえば大きな政府が歴史の必然を体現しているのではないでしょうか。ここで突飛な議論になるかもしれませんが、それは国家の死滅という共産主義の理念・理想と矛盾するのではないか、という意見があるかもしれません。しかし政府部門が大きくなってもその運営が真に民主化されていくならばその究極は国家の死滅につながっていくことになります。むしろ政府部門の拡大で国民経済に対する操作可能性が高まり、それが民主的に行なわれるなら市場と国家の止揚に近づいていくともいえます。話を元に戻すと、大きな政府をはっきりと認めてその財源をどうするか、という問題設定が先の川上氏の結論の含意であると思います。
山家悠紀夫氏の「対米依存から国内需要が支える経済に」も最後にこの問題に言及しています。社会保障関係の支出をあと50兆円増やす目標を掲げ、その財源として以下のような順序による方策を提唱しています。まず当面は、軍事費・公共事業の削減、株式売買益や配当への課税、そして借金。景気回復後は、まず法人税増、高額所得者への増税、最終的には一般国民に所得税増。福祉を充実させれば人々の担税能力は十分になる、と見ています(23ページ)。繰り返しになりますが、まず現在は、聖域とされている軍事費削減と大企業への適正な課税の問題を私たちは強調する必要があります。消費税の増税を阻止しなければなりません。次いで大きな福祉国家を支える財政のあり方を考えることが必要であり、山家氏の提案などが参考になります。
恐慌対策をめぐる論戦
マルクスは恐慌時に「猛烈に勉強している」と手紙に書き送っています。私たちは21世紀初めの大恐慌の渦中にあって、日々変わる情勢と闘いの中から経済学を初めとした社会科学の新たな発展を目撃することになるかもしれません。そこまで言わずとも、この激しい動きの中で現実が提起し続ける諸問題を考え続けることは素人にとってもたいへん勉強になることです。
「派遣切り」が典型なのですが、要するに今は、恐慌の打撃を誰に負わせるかをめぐる激しい階級闘争が行なわれており、国会やマスコミでの論戦はそれを直接に反映したイデオロギー闘争となっています(これは生産関係視点によるまとめであり、実は生産力視点からは「グリーン・ニュー・ディール」の提起に見られるような、新たな生活様式や生産力のあり方の追及という問題もありますが、ここでは措きます)。現時点でそれを私なりにまとめてみたいとも思ったのですが、とてもその余裕がないので、特徴的なことを少し指摘するにとどめます。
財界・大資本は「派遣労働者を雇用している感覚がなく、生身の人間に起こっている事態をまったく見ようとしません」(上記対談より河添誠氏、60ページ)。もちろん彼らのイデオローグもまったく同様です。たとえば「朝日」の匿名コラム「経済気象台」はあけすけです。「事態をどう読む」と題して日本企業の「対応の早さ」を賞賛しています(2月19日付)。…「特に自動車やデジタル家電は、激しい痛みを伴いつつも、予想される在庫の急増を食い止め、危機意識の深まりで構造的に総点検する流れになってきた」。とか「動きの鈍い欧米企業と対比すれば、不況のトンネルからの出方において、欧米に対する優位が表れる可能性は大きい」。……このコラム、最初に日本のGDPの落ち込みが欧米に比べてひどいことを問題にしながら、その原因として輸出依存と株式市場の外資依存を指摘しつつも、この「対応の早さ」が事態をひどくしていることに触れず、欧米との競争に勝てるからけっこうだとうそぶいているのです。「激しい痛み」なんか言葉だけで何とも思っていないのだろう。フランスやドイツでは政府がリストラを規制しているのだから、「早い対応」なんかできないのに…。「経済気象台」は労働者の生活がどうなっても競争にさえ勝てればいい、という感覚です。要するに資本主義は必要以上に「急ブレーキ・急発進」で人間と資源を浪費し、それに徹したヤツが勝ちというわけです。スピード勝負です。そこにどっぷりつかっていると感覚がマヒしてしまいます。言っとくけど、景気とか恐慌は自然現象ではなく、資本主義制度に固有の現象であり、それがあまりに非人間的であればやめればいいのです。景気に合わせてリストラするのは当たり前で、非正規雇用は不可欠だ、などという言い種にも同様に言ってやりましょう。
雇用については志位和夫氏の国会論戦が理論的にも最前線を築いていると思われます(2月4日、衆議院予算委員会)。緊急の課題としてこれ以上の派遣切りを許さない、という立場から法理を詰め、派遣切りの対象者の大部分が本来直接雇用されているべきであることを立証しました。たとえば偽装請負の期間も派遣期間として通算できるという答弁を厚生労働大臣から引き出しました。これで多くの労働者がすでに3年の派遣期限を超えており、直接雇用されていなければなりません。クーリング期間を悪用した期限のがれを防ぐのに役立つ答弁も引き出しました。また画期的なのは、「労働者派遣法で派遣可能期間を3年としているのは、人ではなく、『同一の業務』である」とする解明です。3年を超えて継続するような業務は「臨時的・一時的」業務ではないので、直接雇用によらねばならない、ということです。だからその業務につく個々の労働者が3年以内でも派遣なら違法になります。この一連の法解釈はまさに闘いが生み出した理論的フロンティアだと言えます。
先月も触れましたが、内部留保論争もあります。「朝日」1月30日付が内部留保は雇用確保には使えないと主張したのに対して、「しんぶん赤旗」2月13日付が反論しています。…(1)雇用確保に取り崩すべき内部留保はわずか1%程度にすぎない。(2)内部留保の多くは設備投資ではなく金融資産になっている。(3)株主配当が増えている。(4)手元資金は減っているがそれでも雇用確保には足りる。金融資産を担保に資金調達もできる。…以上、行き届いた解明であり、この論戦のおかげでこれでも雇用確保を怠っている企業の非情・非道が鮮明になりました。さらに言えば、志位和夫氏はトヨタ幹部との会談の模様をこう語っています(2月21日付「赤旗」)。重要な証言です。
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「どうして内部留保を使わないのですか。トヨタグループはこんなにもっているじゃないですか」といいましたら、「使えない」ということはいいませんでした。「経営上の判断としてそれはやりません」ということしかいいませんでした。
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これを上記の「朝日」コラム「経済気象台」につなげて読めば、現在の日本資本主義の素性が分かるというものです。
音楽雑感
キャット・スティーブンスの「雨に濡れた朝」は1970年代前半の曲ではないかと思う。僕が中学生か高校生のころだろう。昨今でもテレビCMのバックに使われたりするからスタンダード名曲として残っているといえる。ピアノ伴奏が印象的だ。大人になってからクラシックを聞き初め、ベートーベンのチェロソナタ第3番を聞いたとき、ピアノ伴奏のかもしだす格調高い高揚感が気に入った。どこかで聞いたことがあるような気もしたのだが、今になって思えば「雨に濡れた朝」を連想していたのかもしれない。別に似ているわけではないだろうが、この曲のピアノ伴奏もクラシカルな格調高さと高揚感を湛えている。人から見ればつまらない思い入れだろうが、自分にとってはちょっとした「発見」なのだ。
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日本の大衆音楽は今日では分類的には演歌・歌謡曲とJポップとに二分される。二分とはいっても、商業的には前者は圧倒的に劣勢で、業界周縁にかろうじて生き残っている程度だろう。商業的にではなく、日本人の精神構造の中ではもう少しその存在感は大きいかもしれない。が、いずれにせよ、かつてJポップの先達たちがひっそり生きていたことを思えばまさに今昔の感がある。なにせあの名古屋が生んだ不世出のポップ・デュオ、ザ・ピーナッツでさえ、国籍不明の曲を歌っているなどと非難されていたのだ。確かその曲って「情熱の花」じゃなかったか。確かにオリジナルはカテリーナ・バレンテのヒット曲だから国産品じゃなくて「洋モノ」ではある。それが気に入らなかったのだろうが、そもそも原曲をたどればベートーベンの「エリーゼのために」に行き着く。国籍不明どころか、これ以上に由緒正しい曲があろうか。こういう時代を生きてきたザ・ピーナッツとその師、作曲家・宮川泰は限りなく偉大だといえる。愛らしいキャラクターが幸いしたとはいえ、この時代、いや今日に至るまでもこれ程、老若男女の区別なく愛されたJポップがあったろうか。
戦後まもなくジャズのブームがあったし、50年代にはロカビリー、60年代にはイギリスのビートルズの登場に合わせてグループサウンズのブームがあったけれども、いずれも若者だけの音楽だった。しかもグループサウンズのヒット曲はずいぶん歌謡曲風だ。中でもブルーコメッツは「大人の」グループとしてかなり歌謡曲寄りの路線をとっていたけれども、実は彼らはたいへんな実力派で、本格的なロックが演奏できた、ということを最近ラジオでよく聞く。しかしそれが十分に発揮される時代ではなかった。
本格的なロックバンドのブームは80年代以降になるだろうが、演歌・歌謡曲とJポップとの勢力逆転はおそらく70年代に起こり、以後は不可逆的になったのではないか。確か1970年の最大のヒット曲である渚ゆう子の「京都の恋」をその象徴としてあげたい。ミリオンヒットを記録しながら、渚ゆう子は当時のテレビのベストテン番組には出場できなかった。作曲者がベンチャーズ、つまり外国人なので日本の歌謡曲のベストテンには入れない、というわけだ。しかし「最大のヒット曲を締め出すテレビ番組って何なんだ」ということに、おそらくなったのだろう。ほどなくして、外国人作曲のヒット曲を歌う歌手もこの種の番組に出られるようになった。文化的にいって、これがいいことか悪いことか、あるいは外国人作曲のJポップとは何か、というようなことはここでは問わない。しかしこれがある種の「開国」であって、もはや流れを止められなくなったことだけは事実である。「京都の恋」以前の渚ゆう子が無名であったことを思えば、このヒットとそれに付随する「事件」とが商業主義的・作為的に作り出されたのでないことは明らかだ。つまりそれは当時変化しつつあった人々の音楽指向の琴線に触れたからこそ起こったのだろう。
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先日、NHK教育テレビの「視点・論点」という10分のオピニオン番組にジェロが出演して、演歌を熱く語っていた。音楽は何でも聞くけれど、演歌が一番素晴しいというのだ。子どものころ、日本語が分からないままに音楽としての演歌を好きになったという。日本語を学び演歌の歌詞が理解できるようになってますます好きになったのだが、子どものときに聞きながら推測していた歌詞の内容と一致している場合が多い、とも言っていた。つまり演歌の歌詞と曲とは一体であり必然性があるということだ。彼がこのように思えるのは日本人の血が流れているためだろうか、それとも国民性とはかかわりない普遍的な事情によるものだろうか。簡単には分からない。音楽には民族性があるが、その理解は国境を超えるとも言うのだから。
アメリカ黒人の青年から演歌の歌詞の素晴しさを説教されたわけだが、確かに良いものはたくさんあるだろう。とはいっても「勝手な男と耐える女」などといった類の時代錯誤的で僕にとっては聞くに耐えないものも目立つ。しかしそういうものも含めて、同時代の人々の真情はそれなりに捉えているのかもしれない。大衆の琴線に触れなければヒットしないのだから、プロの作詞家が精魂込めた作品ではあろう。「北の宿から」は阿久悠作詞だろうか。「着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます」。淡谷のり子は「なんで着てもらえないセーターを編まなければいけないのよ。演歌なんか大嫌い」と一蹴したが、この絵になる感情描写の妙に感じ入る人も多いだろう。
洋楽を聞き始めたティーンのころの僕は日本語の歌を聞くこと自体が恥ずかしいという感覚を持っていた。さすがに三十過ぎると演歌も聞けるようになったし、四十過ぎてからはロックがうるさくなって演歌のほうが耳になじむようにさえなった。以下はまったくの素人の憶測に過ぎないけれども、こんなことを思っている。
演歌の旋律は、日本の伝統的な五音音階(ペンタトニック)を基礎にしているだろう。それぞれ独自の五音音階を持つ民族音楽は世界に多く、人々はそれを空気のようにして育ち血肉にしているが、場合によってはやがて西洋の七音音階の旋律に触れることになり、カルチャーショックを受ける。このとき人によっては、今まで聞いていたものが単調かつ素朴で垢抜けないと思え、聞くのが何となく恥ずかしいとさえ感じると、洋楽にかぶれてしまうことになる。五音音階への原初的共感を脱して、「恥ずかしくない」洗練された音楽を追及していくと、やがては調性そのものを廃棄して十二音技法に至り、微分音に、さらにはあらゆる表現様式における前衛的手法の追及へと向かっていくのではないか。ちょっと話が極端に飛躍してしまった。しかしたとえばここで、演歌を聞くこと自体が恥ずかしい、とさえ思える感情に陥ってしまったとしても、それは単純な侮蔑や排斥ではなく、きわめて矛盾した感情に違いない。実のところしばしば「恥ずかしい」は「好き」の裏返しだったりするのだから。何となれば人間が一番好きな性交は一番恥ずかしい行為ではないか。歳をとれば原点回帰で、体に染み着いたペンタトニックを臆面もなく愛好できるようになる。だけどこれは「否定の否定」であって、古今東西の音楽に触れて豊かになって帰ってきたと思うことにしている。
演歌に向けるジェロの情熱には敬服した。たいした若者だ。だけど彼の原点はどこにあるのだろう。そう思っているうちに、そういえば今の日本の若者たちの音楽的原点て何だろう、分からない、ということになった。藤圭子の娘である宇多田ヒカルが将来演歌を歌うことはあるのだろうか。彼女もまた「たいした若者」だから目が離せない。派遣切りと闘ったりしているやはり「たいした若者」たちも歌は聞くだろうけど、我々おじさんたちとは接点があるだろうか。民族的なものとグローバルなものとの交点に個々人はある。それぞれのあり方で。音楽の嗜好もそのあり方の一つであり、大衆音楽については個々人というよりも世代ごとの特徴と差異が大きいだろう。今どきの若者たちは幼少より日本のペンタトニックに慣れ親しんでいないかもしれない。しかし和食を初めとした日本文化の様々な要素は日本人としてぜひ守っていきたいものも多いし、むしろ世界的な普遍性を持つものさえあるだろう。日本の大衆音楽もその一つかもしれない。新自由主義的グローバリゼーションが崩れようとしている今、アメリカの文化帝国主義も克服されるかもしれない。音楽に限らず、自国の文化を見直しつつ、双方向的に自由な世界的交流が展開される新しい時代がやってくるのではないか。「たいした若者たち」に期待したい。どうもこう書いてもいかにも上滑りで演歌ほどの迫力はないのが残念だが……。
2009年4月号
二分法について
以前より気になっている論調があります。二分法とか二者択一は誤りだ、善悪は相対的であり、対立軸も様々で錯綜しており、グレーゾーンもある--要するに複雑な現実を単純化すると正しい社会認識ができない、というわけです。これはいかにももっともらしい。ブッシュがイラク侵略に際して、アメリカに味方しないものは敵だ、といって世界を善悪二元論に染め上げた愚も想起され、二分法の誤りは自明のようでさえあります。小泉政権では、郵政民営化は是か否か、構造改革に賛成か反対か、改革派か守旧派か、という誠に歯切れのいい二者択一が展開されました。いずれの選択でも前者が後者を押し退けて突進した結果が今日の惨状を招いていることも周知のとおりであり、二分法はますます分が悪くなっています。しかしこの批判は左翼に対しても向けられています。社会変革を目指す者に対して「これまでと逆に新自由主義を批判すればそれで済むのか。そんなに簡単に行くわけはない。社会はもっと複雑だ」というわけです。
私の立場を述べます。二分法は正しい。新自由主義の二分法に対して私たちの二分法をもって逆襲すべきである。二分法そのものの否定は傍観者の論理である。
二分法の否定そのものも一種の二分法であることは免れません。「二分法のような単純粗雑な社会認識か、そうでない現実に即した複雑な社会認識か、さてどちらが正しいか」というわけです。この二分法は間違っています。私は、複雑な現実をきちんと分析した上での二分法というものがありうるはずだ、と考えます。もちろんそれは難しいし、実際には粗雑な思い込みの二分法に陥る危険性はあり、私がいつも書き散らしている雑文の大方はそのレベルに過ぎないかもしれません。まあおそらくそんなものでしょう。しかしそうでない上質の二分法はありうるし、初めからそれを否定するのでなくそれを目指すべきだと思っています。私たちにとって二分法が成立する究極の根拠は、単純化して言ってしまえば、この社会が支配層と被支配層とに二分されていることにあります。だから私たちと新自由主義者との間で逆方向の二分法が成立します。ただし支配層と被支配層それぞれの内部あるいは両者の中間領域でいくつかの立場が成立することは当然あり、その際には三分法以上になりますが、それは基本的には二分法のヴァリエーションとして捉えられます。もちろん現実は複雑ですが、この太い対立軸をまず押さえて、様々な問題をその周囲に適切に配置することが必要であり、要所要所で決断も求められます。
たとえば派遣切りされた労働者を前にして、この間違った社会を断固として変えるという立場に立つことは当然であり、いろいろと難しい問題があるからアレコレ考えるべきだ、というようなご託宣は問題外というべきです。賢い人が唱える二分法否定論は確かに、社会変革の運動が、勢い余って前のめりに偏向してしまうのを防ぐ意義はあるでしょう。時には頭を冷やせよ、と。忠告はありがたく拝聴すべきです。しかしそれはアクセサリーやスパイスではあっても本体ではありません。必要は発明の母であり、人は深く感じないことはよく考えもしないのです。社会変革における社会認識はそうした切実さの中で深まります。視野に入ったものの中でも、捉えられるものと見逃してしまうものとがあります。もちろん捉えるべきものだけでなく見逃しても構わないものもあるのですが。その区別は状況と立場とによります。いずれにせよ所与の状況において、捉えるべきものを見逃さずに捉えるためには、問題意識を研ぎ澄ましておかねばなりません。その問題意識を支えるものとして実践の意義は大きいといえます。頭の良い人が、まんべんなく冷静かつ公平に注視すれば現実は捉えられる、というような平板なものでは、社会認識はない、と私は思っています。
そういう意味で湯浅誠氏の実践と理論は注目されるべきであり、すべての社会科学研究者への批判になっていると私は思います。研究と活動との緊張関係の中で湯浅氏は活動を選びました。もちろん研究者には独自の役割があるのでそれは尊重されるべきですが、湯浅氏の業績を前にするならば、研究者は理論が実践の中からいかに紡ぎ出されてくるのかをこれまで以上に注視する必要があります。湯浅氏は「溜めの喪失」という分かりやすい言葉で貧困を捉えて、金銭に限定されない人間関係をも含めた貧困概念を提出しました。溜めを増やすための居場所という捉え方も、言われてみれば腹に落ちるけれども普段は気づきません。野宿の人たちと活動してきた成果でしょうか。「居場所」に絡んでは、「たたかうためには、たたかわなくてもいい場所が必要です」(「しんぶん赤旗」3月6日付)という逆説的な認識も、貧困に陥った人々とともに闘ってきた実践者にして初めて得られるものだと思います。
誤解のないように言えば、私は学問研究を実用性や即効性で裁断しようというのではありません。冷静で客観的な研究が必要なのは当然ですが、慎重さ・正確さ・精緻さといった研究作法に傾く余りに、課題によっては切実さ・緊急性・決断力が求められる場合があることに鈍感になってはいないか、ということが言いたいのです。「冷静な頭脳を、しかし温かい心をも」という、経済学についてのマーシャルの箴言は社会科学一般にも通用します。冷静な頭脳と温かい心とは矛盾することもあるけれども、両者をバランスさせ一致させる努力が貫かれてこそ、社会科学研究に値すると思います。このことは二分法の持つ必要性と危うさとをともにしっかり受け止めることにつながります。そうして冷静な頭脳によってその危うさを少なくしつつ、温かい心を忘れることなく人々のための決断を下すことができます。
ところで竹中平蔵氏が二分法を批判しています。
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私は政策の専門家です。現実の経済政策は、市場は善か悪か、規制緩和は善か悪か、という二分法ですむ単純な話ではありません。漫画のように語るのはやめてほしい。理念型で議論しても答えは出てきません。 「朝日」3月9日付
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誤った理念型に基づく小泉式二分法をさんざん演出しておいて、今さらよくこんなことが言えるものです。市場と規制緩和を天まで持ち上げていたではないか。しかしそれをきちんと実行したのだから、机上に空論を並べるだけの研究者と比べれば褒めるべきかもしれません。理論と実践の統一の鏡。その結果、空論を実践すると現実にはどうなるかが多大の犠牲とともに明らかになりました。左翼の教条主義を実践したカンボジアのポル・ポト政権の惨劇と比べればものの数ではないとはいえ、ブルジョア教条主義の実践結果を私たちも目のあたりにすることになりました。開き直りに終始している竹中氏には責任感がないのでしょう。ちなみに私たちは「市場は善か悪か、規制緩和は善か悪か」などとは問いません。市場なり規制緩和なりの中身を問い、その上で新自由主義の市場政策・規制緩和は誤りだという二分法を適用します。
杉田敦氏の「道徳的非難の政治を超えて 『ネオリベ』排除は自明か?」(『世界』3月号所収)は、ですます体で問題意識を率直に披露した比較的短い論文です。竹中氏の言説とは違ってきちんと検討すべき内容ですが、全面的検討は私の手に負えるところではありません。そこで「国民的連帯」についての慎重な吟味などの興味深い論点は措いて、二分法批判や研究者の姿勢といった問題について若干述べてみたいと思います。
論文の結論はこうです。
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あらゆる対立軸を総合する単一の敵対性があるといった考え方は、もはや採用することができないと私は思っています。むしろ、さまざまな敵対性が相互に打ち消し合ったり共振したりする、複雑な政治過程の中に私たちはいるのではないでしょうか。二分法的で単純な図式の中に政治が回収されそうに見える今こそ、立ち止まって考えてみる必要があるでしょう。 193ページ
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国内政治についていえば、私は「あらゆる対立軸を総合する単一の敵対性」は圧倒的多数の日本人民と対米従属の独占資本との間にあると思います。こんなことを言うといかにも非学問的で素朴な政治的言説と受け止められそうです。確かに以前ならそんな認識は笑われたかもしれません。しかし今やかつてなく露骨に財界・大企業奉仕とアメリカ言いなり政治が実行されて、格差と貧困が蔓延しています。だから1980年代には、階級とか貧困などという言葉を発すると嘲笑されそうな空気さえありましたが、昨今では搾取という言葉さえ平然と流通しています。貧困や階級対立は以前からあったのですが、一般的にはその認識は簡単ではありませんでした。しかし今日ではそれが誰にも分かるようにあからさまになりました。つまり小泉政権以後の構造改革では現実の方から単純化に向かって突進してきたのです。この明確な惨状を前にして、なおかつ現実を必要以上に複雑に描きたがる研究者の性は職業病というべきでしょうか。単純粗雑な世論を教え諭し、複雑な現実を提示するのが知識人の任務だということは一般論としてはありえます。しかし現局面は違います。立ち止まって考えている場合ではない。単純化された現実の中で苦しむ人々をどう救うかという急務があります。敵を明らかにし、責任をとらせる必要があります。そこでは道徳的非難は当然ありです。ウォール街の強欲、トヨタやキヤノンのような財界を代表する企業のリストラに対して道徳的非難をしないほうがおかしい、と私は考えます。道徳的に非難すべきものを非難したからといって社会認識が単純化したり歪むことはありません。全体構造をきちんと見据えていれば大丈夫です。
杉田氏は「私は政府を道徳的に非難する言説にも、市場を道徳的に非難する言説にも与しないということです。問題は、私たちにとっていずれも大切なものである政府と市場を、具体的にどう折り合わせるか、です」(192ページ)と述べています。確かに「政府と市場を具体的にどう折り合わせるか」は一般論として様々な社会において解決の迫られる課題です。しかし新自由主義のもたらした惨状をどうするか、という課題を前にしながら、そんな悠長な一般的真理を語っている場合ではありません。まず切り込むべきは、どういう政府であり、どういう市場なのか、という点です。そうでなければ現状の政府と市場とが表象されていることになり、それをどう折り合わせるのか、というのではすでに課題設定において変革の視点を欠いています。さらには、政府と市場との平板な二項対立で考えられ、主体としての資本が抜けているため、資本主義社会における政治と経済を分析する姿勢になっていないといえます。政府のあり方も市場のあり方も資本との関係を抜きに考えるのは無意味です。資本主義経済を市場経済と捉える俗見は問題を不用意に一般化することで、資本主義社会における、ましてや新自由主義の制覇した社会における具体的な真実を見抜くことを妨げます。
杉田氏は単純な論断を否定し、複雑な現実の認識を強調する余りに、主要な対立軸・敵対性の存在そのものを否定します。あれもありこれもあり、いろいろなものが複雑に絡み合っているのだから、どれかが中心だというのは恣意的だというわけでしょう。「伝統的な左派」は正規労働者と非正規労働者との間の敵対性を重視する見解に対して批判的です。そして本当の敵対性は労資間にあり、正規・非正規の労働者は互いに連帯して資本と対決すべきだとします。私はこれはまったく正当な議論だと思います。しかし杉田氏はこの見解を「感情的とも見える反発」と非難しています(193ページ)。いったい感情的なのはどちらか。「伝統的な左派」は正規労働者と非正規労働者との間に敵対性がないといっているのではありません。主要な敵対性は別にあり、それは階級闘争の対象だが、労働者内の敵対性は適切な調整によって克服し、連帯すべきものだと考えているのです。杉田氏は他にも、世代間対立や地域間対立などをあげつらい、「ある種の敵対性はにせものであり、ある種の敵対性だけが真正のものだという具合に、あらかじめ線を引くこと」(同前)は間違いだと論じています。これは二分法を戯画化して非難し、<様々な敵対性の中から主要なものを見い出し、他の敵対性をそれとの関係性の中に位置付けて、全体としての闘争のあり方を見つけよう>という正当でしかも喫緊の努力方向を否定する姿勢です。
今、新自由主義批判が高まっています。しかし慎重な思慮深い研究者としてはこういう安易な流行に乗ってはならないと考えたのか、杉田氏は、新自由主義に対する全面的な批判は自己否定につながる部分もあり、簡単にはいかない、と論じています。そこで、私たちの「内なるネオリベ」(191ページ)が提唱されます。ネオリベは新自由主義のことです。これは著者にすれば重要なアイデアなのかもしれませんが、私には致命的失敗と映ります。一言でいえばこれは「一億総懺悔」です。
侵略戦争の「反省」としての「一億総懺悔」論は少なくとも結果的には、天皇を初めとする支配層の責任をあいまいにするものです。確かに日本人民一人ひとりにまったく責任がないとは言えません。しかし主要な戦争責任は支配層にあり、人民は主には被害者です。戦後の焼け跡ならぬ新自由主義による今日の荒廃を眼前にして、アメリカ帝国主義・日本の財界・大企業・政府の責任と人々の大きな被害とをまず確認することから出発しない者はどんなに精緻な議論を展開しようとも大局的真理には近づけません。加害者たる中谷巖氏が懺悔するのはけっこうですが、被害者人民が懺悔する必要はありません。確かに「内なるネオリベ」を突きつけられて自分はまったく無縁だといえる人はいないでしょう。しかしそれを万人に突きつけて「反省」させてだまらせることで免罪される勢力があることのほうがはるかに重大問題です。これは「内なるネオリベ」論の政治的錯誤です。しかしもっと問題なのは経済学の貧困です。
「内なるネオリベ」論は煎じ詰めれば、人間の欲望原罪論です。最近マスコミでは、人間の欲望ある限り大恐慌は繰り返す、と言われますが、恐慌は資本主義に特有の現象であって、人間の本性がもたらすものではありません。「内なるネオリベ」論も同様な非社会科学的・非経済学的見解です。豊かな生活をしたい、そのために生産力を発展させたい、という欲求そのものは社会進歩の原動力であり、何ら排除すべきものではありません。人間社会においては、人々の労働の総和が社会全体の富を形成し、個々人の労働は何らかの形で評価され、そのこととの何らかの関係において、人々は一方では富の分配を受けて生活を成り立たせ、他方では社会的再生産を担う労働の一部を担当することになります。その際により少ない労働でより大きい成果を得られる方法へと導くための何らかの仕組が必要となります。こういった労働による社会的再生産と社会発展とはあらゆる社会に共通するものであり、人間の発達による歴史発展を貫く内容です。この内容は社会発展の各段階においてそれぞれ違った形で実現されます。社会的分業と生産手段の私的所有(社会全体によらない所有、という方がより正確ではある)という形で社会的再生産が行なわれる経済社会は商品生産社会となり、商品流通が行なわれます。諸個人の私的労働はその生産物が市場で売れることによって初めて社会的労働であることが認められます。売れるものを作るための諸個人の競争は生産力を発展させますが、売れないものという社会的損失も生まれます。さらにはこの無政府的生産によって社会的再生産が円滑に保たれるかが問題となりますが、それは「神の見えざる手」(市場メカニズム)にゆだねられます。商品経済社会では人間に代わって市場が主人公となります。
やがて小経営による競争の中から、賃労働を雇用する大規模経営が抜け出します。賃労働は人間の労働力そのものの商品化であり、商品生産経済が一挙に一般化するとともに、その基礎上に直接生産過程における資本=賃労働による搾取関係が成立します。こうして資本主義的企業が成立しそれは利潤追及を行動原理とします。この経済社会の主人公は人間ではなく資本です。このように商品経済そして資本主義経済が成立することで、人間の欲望が直接に経済発展を導くのではなく、市場メカニズムと、搾取関係を基礎にした利潤追及とが経済発展を主導することになります。人間の欲望はここでは従属化され歪められるのでそれを経済学的諸範疇と切り離して論じると、あたかも歪んだ欲望が経済社会を歪めているかのような倒錯に陥ります。歪められた欲望の究極の姿がウォール街の強欲です。資本とは自己増殖する価値ですが、それは本来は直接的生産過程での搾取を前提にしています。しかし新自由主義の金融面であるカジノ資本主義では貨幣資本そのものが自己増殖するという錯誤に陥り、当然の帰結として破綻しました。
グローバリゼーションには光と影があるのだから、それを一面的に肯定するのも否定するのも誤りだ、という意味のことを杉田氏は主張しています。グローバリゼーションを進める市場主義は一方では私たちを苦しめているけれども、他方では欲望実現のため私たちはそれを望んでいる、というわけです。そして「政府も市場も私たちの中に内面化されている」のだから、問題は両者を「具体的にどう折り合わせるか」だ(192ページ)と論じています。「政府と市場の内面化」とは人々が欲望を満たすために政府や市場を欲しているということです。つまり「内なるネオリベ」にしても「政府と市場の内面化」にしても、人間の欲望をグローバリゼーションのあり方とか、政府と市場の関係とかに直結させる概念となっています。だからそれは一面性を免れた多面的な考察になっているように見えながら、実際のところ方向性がなく従って力のない一般論に終わっています。経済学的反省と媒介が欠如しているからです。そこでは歴史的に不可逆的なグローバリゼーション一般とその中の一つのあり方である新自由主義的グローバリゼーションとが混同されています。だから新自由主義も批判すべきであったりそうでなかったり、あいまいに捉えられることになります。経済を見る場合に、その内実と形態とを区別し両面から見ることが必要です。内実は歴史貫通的に捉えうるものであり、形態はその内実の特殊歴史的な実現様式といえます。欲望の充足を含む人間発達は経済の内実であり、その資本主義的な実現形態の下に私たちは生きています。両者の統一と対立という矛盾的動態過程において経済は捉えられねばなりません。たとえばグローバリゼーションは不可避であるとしても、それがカジノ資本主義という形で進むことは必然ではなく、今日では撹乱的な投機活動をいかに規制するかは広範な世界的世論の一致する課題です。こういった経済の変革過程において新自由主義はあれこれ評価する対象ではなく、断固として克服すべき対象です。
「一握りの腐敗した連中のせいで、何の落度もない私たちに被害が及んだ。悪いのは『彼ら』であり、『われわれ』ではないという」議論は「まずい」(190ページ)と杉田氏は主張しています。しかし「彼ら」と「われわれ」は経済学的には区別すべきだと思います。要は、資本主義経済の中で、庶民の要求とウォール街の強欲とは範疇的に区別すべきだということです。確かに誰も欲望の故に金(カネ)に従属しており、そういう意味では区別はありません。市場経済という土台においてはそうです。しかし資本主義経済において貨幣は商品流通にかかわる機能(蓄蔵貨幣機能なども含めて)だけでなく、貨幣資本としても機能します(貨幣資本は産業資本に投じられるだけでなく、果てはもっぱら投機活動に投じられる場合もあります)。「われわれ」庶民の金は前者であり、「彼ら」ウォール街やホリエモンの金は後者、しかも多くは投機資金です。かつてホリエモン全盛時代には「金は全能か」をめぐる感情的な論争が行なわれましたが、経済学的には不毛でした。「われわれ」にとって金は生活を支えるために必要で大切ですが、「彼ら」の金はまったく違う機能を果たしているのだから、同じ金だからと同列に論じること自身が誤りなのです。確かに新自由主義の制覇の中で「われわれ」の中にも「彼ら」のイデオロギーが浸透してきましたが、そもそも客観的にいって経済的基盤がないところでは根付かず崩壊するほかありませんでした。
「彼ら」と「われわれ」とか、政府か市場か、という形で切断する認識に対して、実はそれらはつながっている、相互依存している、あれかこれかではない、とするのが杉田氏の認識でしょう。つまり非連続的な社会認識を批判して連続的な社会認識を対置しています。実際の社会は非連続に切断されているわけでも、のっぺらぼうに連続しているわけでもありません。連続と非連続を固定的に対置するのでなく、統一的に捉える必要があります。さらに「結節点の意義」「量的変化と質的変化」「経済の論理次元の階層的認識」とかが思い浮かんできますが、失礼ながら予感的メモにとどめ、今後考えるべき課題とします。
安易な風潮に流されるのでなく、研究者としての責任を果たすように、と問題提起したのが杉田論文であり、その意図の真摯さは疑うべくもありません。しかし現実が要請している分析姿勢にはそれはなっていない、と私は感じたので、あえて稚拙さを省みず批判を書きました。妄言多罪。
【補遺】似非二分法の排除と三分法以上について。二分法になっていないものを二分法と呼ぶ場合があります。たとえば自民党と民主党との二者択一という議論です。これは全体を捉えず、同質的な部分内部での五十歩百歩の違いを全体における二分法であるかのようにすり替えています。これに対して「大企業にモノを言える党か、大企業からモノを言われる党か」というのは全体を捉えた二分法になっています。その捉え方への賛否は別としても二分法になっているのは確かです。
支配層がなお強力な場合、その内部が二分され、たとえば「改革派」と「守旧派」として対立し、被支配層の「革新派」も合わせて客観的には三分されても、マスコミや論壇ではもっぱら前者の内部対立だけが問題とされます。そこに二分法を適用しても社会認識としては誤りです。今日、「改革派」の凋落により、支配層の危機が露呈して「革新派」に光があたり、真の二分法が認識されつつあります。なお「自民党VS民主党」図式と「改革派」VS「守旧派」図式とは一致しておらず、「政界再編」で後者の図式に合わせた政党配置に立て直すべきだ、という議論が声高に語られたものです。しかし今となってはこのピンぼけ二分法の無意味さは、「改革」被害者である多くの人々によって実感されているに違いありません。
2000年に私は「今日の政治経済イデオロギー」を書きました。そこではグローバリゼーションへの対応などを基準にして主な五潮流のイデオロギーを鳥瞰しました。だから二分法にはなっていませんが、新自由主義と科学的社会主義との対決を軸に読み直すことは可能だと考えています。
資本循環論と新自由主義批判
先に同じ金であっても「彼ら」と「われわれ」の金は区別すべきだ、と言いましたが、その区別と連関の基礎は『資本論』第2部「資本の流通過程」の資本循環論と再生産論にあります。資本循環論つまり『資本論』第2部第1篇「資本の諸変態とそれらの循環」は『資本論』の中でももっとも地味な部分の一つであり注目されることは少ないといえます。しかしそこでは「資本の循環過程と一般的商品流通との区別および連関」が「明確に叙述」されています(大谷禎之介氏の「『資本論』第二部仕上げのための苦闘の軌跡(中)」122ページ)。マルクスは「貨幣であると同時に資本でもある貨幣資本について、それが果たす貨幣機能と資本機能との区別および関連を厳密に把握する」(同前)ことを通じて、資本=賃労働の階級関係の存在が、単なる貨幣機能を資本機能に転化させることを解明しました。ひるがえって資本循環の外部にある一般的商品流通をも捉えることができました。
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一般的商品流通の事象を資本循環における機能的に規定された一部分にする諸契機ないし諸関係が明確にとらえられたことによって、同時に他方では、資本循環の部分を成していない一般的流通の諸過程がそれとして明確にとらえられた。すなわち、生活手段の個人的消費によって労働力の再生産を媒介するW_G_Wも、資本家が貨幣形態にある剰余価値を個人的消費のために支出するg_wも、ともに一般的商品流通のうちの資本の循環の外部にある部分であることが明確にされた。これによって、社会的総資本の総再生産過程におけるそれらの過程と資本循環との絡み合いを厳密に分析する前提がつくりだされた。
同前 123ページ
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これを基礎にして第2部第3篇「社会的総資本の再生産と流通」では資本流通と所得流通との絡み合いが明確に分析されるようになりました(なお資本循環論の意義について詳しくは松岡寛爾氏の「資本の循環論・回転論の位置」/『経済』1985年7月号所収/参照。まったくの余談だが、この号の「読者の声」欄の投稿者10人のうち54歳の一人を除いてみな20歳代なのには驚いた。1980年代はまだそういう時代だった)。
庶民の金もホリエモンの金も同列に捉えると、人間の欲望との関係でしか見られなくなり、社会認識からはずれます。金で消費手段を買い消費して自己の労働力を再生産し、あわせて子どもを扶養して将来の労働力を再生産する労働者。金で生業を営む中小零細自営業者。これら一般的商品流通の世界に生きる人々は、自己増殖する価値としての貨幣資本である金を操るホリエモンなどとは違います。同じ金、同じ人間である、といういわば自然科学的事実で見るのでなく、貨幣の機能の違いという社会科学的事実から出発しなければなりません。そこからは資本主義経済を商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という階層性において把握する必要性が確認されます。『資本論』第1部では、第1篇「商品と貨幣」において前者が、第2篇「貨幣の資本への転化」以降で後者が分析されます。第2部と第3部でも引き続いて後者が分析されます。この体系性は階層性を反映しているわけですが、それだけでなく第1部第7篇「資本の蓄積過程」では、「領有法則の転回」が論じられ、資本主義経済においては資本=賃労働関係が隠蔽され、商品=貨幣関係だけの「市場経済」として現象することが解明されます。つまり階層性を反映した理論体系の中で、階層性が単層性として現象する必然性をも解明することで、資本主義経済の本質がいかに認識し難く、誤った認識が一般化するかが解明されています。
資本主義経済の階層性は、社会的総資本の再生産と流通において所得流通と資本流通との絡み合いという形で同一平面に現象します。しかし「自然科学的」に見るとどちらも単に商品と貨幣が交換されていると映り、この絡み合いは見えません。そこで第2部「資本の流通過程」では上述のように資本循環論と再生産論において、一般的商品流通と資本の循環との区別と連関が解明されます。
だから庶民の金とホリエモンの金との違いが、まず上述のように、経済理論体系での商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という階層性の違いとして認識されます。次いで「資本の流通過程」における両者の絡み合いとして産業資本の次元でより現象的に認識されます。さらには第3部第5篇での利子生み資本論において金融的術策の秘密が解明されます。こうして両者の金の本質的違いと絡み合いとが資本主義国民経済の全体像の中で理解されることになります。
資本主義経済の階層性の認識に基づいて新自由主義批判を展開するのが二宮厚美氏です。
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市場原理の世界はその住人を同じ市民関係のもとにおくが、資本原理の世界は社会階級的敵対関係に切り裂く。この二重性が資本主義社会の特質である。
したがって、資本主義の土台である市場原理とその柱である資本原理の二重性を視野にいれると、新自由主義とは、市場原理の徹底をつうじて資本原理の貫徹・強化を促進するイデオロギーである、といわねばならない。換言すれば、新自由主義は階級的支配関係を強化する資本の戦略的イデオロギーだということである。
「新自由主義の経済学的帰結 中谷巖氏の『懺悔の書』を素材に」56ページ
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中谷氏批判を含めて、他の論者にはない二宮氏の鋭さはこの資本主義の二重性の認識が基礎にあるといえます。通常の市場原理主義批判一本槍に比べれば、二刀流の強さとでもいえましょうか。
ところで私は「『経済』2008年9月号への感想」の中の「<補>新自由主義と生産力主義・金融化」において、「新自由主義はもっぱら貨幣資本循環の視点で経済を捉えている」と書きました。今回の二宮論文では資本循環論が縦横に駆使されています。先の資本主義の二重性の観点にそれが加わると、中谷氏の自己批判の意味と限界がはっきり見えます。つまりそれは、市場フェティシズムからの宗旨変えであっても資本フェティシズムからの宗旨変えではなく、資本フェティシズム内部で貨幣資本循環形態から生産資本循環形態に移行した、ということになります。さらには商品資本循環の視点が欠如した新自由主義は、賃金や福祉国家を単にコストとしか見られず、需要増の側面を見逃していることが指摘されます。実にクリアなイデオロギー批判です。
二宮氏の新自由主義イデオロギー批判は実に痛快ですが、マルクス主義経済学の研究者たちにはさらに新自由主義の基礎にある新古典派理論そのもののラディカルな批判を期待します。宇沢弘文氏は「新古典派の経済学を学んで、自らも研究を行なってきた者の一人として、この新古典派の制約的体系を否定して、新しい思索的な、分析的な枠組みを構築することがいかに困難であるかという苦悩の軌跡を記して読者の参考に資する」ために『近代経済学の再検討 批判的展望』(岩波新書、1977年発行、71年から76年までの諸論稿を基にしている。引用は「あとがき」より)をまとめました。学問的良心がひしひしと迫ってくる書です。宇沢氏はアメリカにおける経済学の研究=教育体制がいかに体制化した学問を生んでいるかを批判的に指摘し、ベトナム反戦などを背景にした、近代経済学変革への期待とその困難性とをともに述べています。その後の30年ほどの展開では氏の危惧のほうが当たり、新古典派の覇権がますます強化される中で、今日の大恐慌を迎えて振り出しに戻った感があります。
宇沢氏は同書で新古典派理論を内在的に検討して、「新古典派経済学が、生産手段の私有制、主観的価値基準の独立性、生産要素の可塑性、市場均衡の安定性を前提としながら構築されているということを説明し」、「このような理論的枠組みのなかでは非現実的な理論的命題と反社会的な政策的帰結とが演繹されざるをえない」と誠に厳しくラディカルに論断しています(111ページ)。「消費者ローンの高金利のおかげで貧困者たちが助かっている」等々の常識に反した「反社会的な政策的帰結」を理論的に正当化する経済学者たちの詭弁(と私には思われた)に辟易していたので、これには溜飲が下がる思いがしました。新古典派の理論的誤りは人間観と社会観の根本的誤りから発していることも同書では書かれています。私としては資本主義経済を単純商品生産経済の表象から理解している点にもあると考えています。もっとも残念ながら不勉強な私には新書といえどもその内容をきちんと理解することはできないので、宇沢氏がこのような結論を引き出した根拠について十分に分かっているわけではありません。が、その中で生産要素の可塑性に関連して、雇用について述べられた点は印象的なので紹介します。
「労働の雇用が可変的であるという新古典派の前提条件」についていえば、「労働雇用が可変的で、そのときどきの市場的、経済的条件に応じていつでも自由に雇用量を変えることができるという条件が現実に妥当するような国民経済を見出そうとすること自体、不可能であると言ってもよいであろう」(153ページ)という1970年代の宇沢氏の言明は21世紀の今日どうなっているでしょうか。残念ながら私たちは、労働雇用が可変的な国民経済とその帰結としての惨劇を見い出してしまっているのではないでしょうか。先に私は「二分法について」述べたところで「小泉政権以後の構造改革では現実の方から単純化に向かって突進してきた」と書きました。構造改革とは複雑な現実を新古典派の命題に合わせて単純化する政策であったわけです。理論が現実に合わない場合、理論を再検討していろいろ工夫して現実に合わせるのが普通ですが(たとえば『近代経済学の再検討 批判的展望』)、逆に現実を理論に合わせることもあります。その際に、理論が現実の発展法則を予見するような内容であった場合は、現実を理論に合わせる行為は変革とか革命と呼ばれます。しかしそういう内容でない場合は、その行為の思想は教条主義と呼ばれます。ただし現実を理論に合わせることは頭の中でのみ行なわれる(つまり現実を理論に合わせて都合よく解釈する)場合と実際に実行される場合とがあります。左翼の教条主義はほとんど前者ですが、権力を握っているブルジョア教条主義はしばしば後者となります。現実を理論に合わせる何らかの実際の行為が変革か教条主義かの判断は結果からもできます。人間と社会が生き生きと発展しているか惨状を呈しているか、ということです。新自由主義的構造改革とはまさにブルジョア教条主義の実践であったと私は判断しています。その理想とされた新古典派理論の罪は深いと考えます。
大学では、このように根本的に誤った社会観に基づいた新古典派理論を学生たちの頭に叩き込んでいます。卒業後彼らが労働者階級や勤労人民の自覚的な一員となるのではなく、その客観的位置はともかくとしても、企業戦士の一員としての自覚をもって資本の運動の担い手たりうることが目指されています。資本主義的市場経済の時代においては、物神性と領有法則の転回との故に新古典派理論が跋扈するのは当然です。だからその理論的繁栄度は景気循環や資本主義経済の危機の度合に応じて変動するけれども、消えることはなくしぶとく生き続けます。社会変革をもっと有利に進めるためにはその理論的克服が重要であり、たとえそれが難しいとしても、現代のマルクス主義経済学研究というものが総体としてそうした問題意識と気概をもたなければその存在理由はないと思います。
マルクスの過渡期論が今日の社会主義社会論に
提起するもの
『前衛』で連載されていた不破哲三氏の「講座 マルクス、エンゲルス 革命論研究」が4月号の第九回で完結しました。最後は「第五講 過渡期論と革命の世界的展望」です。マルクス自身の過渡期論の発展過程に光が当てられている点も興味深いのですが、ここではもっぱらその到達点の内容に焦点を当てたいと思います。過渡期の持つ長期的で漸進的な性格を中心として。
まずマルクスは「革命後の展開について、社会的な過程と政治的な過程とを明確に区分して、考察しています」(195ページ)。不破氏はここでは経済的改造を含む社会的な過程の方を特に重点的に論じています。そこでは生産手段の社会化はもちろん大切だけれどもそれだけでなく、「労働の性格の根本的な変化」(203ページ)によって「生産の新しい組織」(202ページ)を実現しなければなりません。なぜなら「資本主義的な労働体制のもとでは、不払労働の搾取というだけではなく、労働のあり方、生産の態様そのもののなかに、奴隷制のかせがしみついており、労働者をそれから解放して人間労働の本来の性格をとりもどさせることに、マルクスは、経済的改造の独自の重要な内容をみた」(204ページ)からです。さらに生産点での「生産の新しい組織」「自由で結合した労働」は全国的な協同関係に組織されねばなりません。
また社会の経済的改造は「既得権益と階級的利己心の諸抵抗」(207ページ)を克服する粘り強い長い闘いとならざるをえません。この「諸抵抗」には旧支配者階級のものだけでなく、資本主義経済が刻印した労働者階級への影響によるものをも含みます。
そして私が特に注目したのは、「経済諸法則の自然発生的な作用」という問題提起であり、それは過渡期の社会的過程を総括する概念として重要だと思われます。
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この新しい用語の意味は、一つの経済的社会構成体が本格的に成立したと言えるためには、その構成体に固有の経済的諸法則が「自然発生的な作用」を発揮するところまで進まなければならない、つまり、その生産様式が、あれこれの人為的な仕組みによって維持されるのではなく、自分の足で立ち、経済法則そのものの力によって存立し、存続し、発展する地点まで到達することが必要だ、ということだと思います。 208ページ
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すると過渡期の国家の主要な任務は、旧支配者階級の反乱をふせぐ強力機構という点にではなく、「生産の新しい組織」をつくる組織者としての役割とか、また既得権益と階級的利己心を克服する闘争での教育的・文化的役割とかにあります(210ページ)。もっともこの二つの役割は本来は人民の内部から取り組まれるものであり、国家はそれを援助し方向づける任務を果たすべきでしょう。いわゆる行政的に上から行なうべきものではありません。
不破氏の指摘のごとく、ソ連・東欧の20世紀社会主義体制は「国家によって生命を維持していた体制であって、自身の経済的諸法則が『自然発生的な作用』で存立し、存続し、発展するという段階には到達していなかったのです」(209ページ)。
さらに不破氏は、今後の発展途上国などでの資本主義的発展を経過しない社会主義の可能性について言及し、資本主義と社会主義との世界的な体制的対決というマルクスの予想を超えた現代の事態への留意を喚起しています。そこで私たちにとって興味深いのは、発達した資本主義国での社会主義革命がまだ成功していない現時点で、21世紀の社会主義を掲げている中南米諸国の動向です。
キューバについて、中南米諸国での左派政権の相次ぐ誕生で活気づいている、という報道もありますが、それはほんの一面であり、むしろ政治的にも経済的にも危機の深さを問題とすべき状況にあるようです。革命建国以来の米国による経済封鎖、ソ連崩壊、そして今回の世界恐慌が重層的に作用し、構造的な弊害(輸入への過度な依存、低い生産性、二重の通貨体制、官僚制の極度の一極集中)を抱えたままでキューバは厳しい状況にあります。
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一九九○年代の商品経済の改革は、国民を動揺させ、新たな社会的階層化を引き起こした。キューバ人社会学者マイラ・エピナスが述べているように、「最低限の生活必需品も十分に手に入らない、都市の貧困層は、一九八八年には六・三%だったのが、二○○○年には二○%に上昇した」。「都市や地方のプチブルは、非正規経済や独立の事業、供給における市場メカニズムの拡大によって、恩恵を受けている。非正規経済のなかでは、小企業のように機能する活動も見受けられ、そこでは経営者もしくは雇用者と、賃金労働者、家族的支援、さらには奉公人までもがはっきりと区別できるのである」。
革命の初期に達成された、社会的な均質性や平等は、社会に根を張る価値であり続けながらも、後退を始めている。危機の前には、社会的権利が行き渡ることによって、基本的な食糧や教育、健康、社会保障、雇用そして文化財の獲得を可能にしていた。社会は比較的高いレベルの平等に到達し、人種の同化も進んでいた。こうした達成も危機により切り崩され、緊張が高まっている。
ジャネット・アベル「キューバ 新たな社会主義のモデルを求めて」(『世界』4月号所収) 279-280ページ
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こうした苦境の中で、活動家や知識人、学生グループなどはオルタナティヴな社会主義を求めて議論を活発化させています。経済については「なぜ経済は機能していないのか?
移行期にある社会主義の経済において、国家と市場との関係はどのようなものなのだろうか? 中国とりわけベトナムの経験からは、キューバにとってどのような教訓が引き出されうるのだろうか?」(同前、281ページ)等々…。政治についてはより民主的な参加型の社会主義が求められます。ラウル・カストロ新議長は「システムは機能不全であり、賃金は低すぎるので『構造改革』が必要だと公式に認め」(280ページ)ています。
このように見てくると、キューバ社会主義の従来の達成も今日の危機もソ連・東欧の20世紀社会主義と共通する部分が多いように思われます。だから「国家によって生命を維持していた体制であって、自身の経済的諸法則が『自然発生的な作用』で存立し、存続し、発展するという段階には到達していなかったのです」という不破氏のソ連への評価がこれまでのキューバにもおおむね妥当するようです。革命後の展開として、政治的な過程は急進的に進めざるをえなかったけれども、社会的な過程をじっくり進める余裕を持たなかった(あるいはそもそもその問題意識が希薄であったのか?)という矛盾の中で「国家によって生命を維持していた体制」として存続せざるをえなかった、ということでしょう。それにしても厳しい世界政治の状況下で、それが一因となったこの矛盾を抱えながらキューバはよく生き残ってきたと思います。今後は世界的経済危機と中南米の変革という両翼をにらみながら「自身の経済的諸法則が『自然発生的な作用』で存立し、存続し、発展する」ような経済体制と民主的な政治体制に脱皮できるのか、が問われます。
もとよりこの経済的課題は、社会主義の経済的社会構成体としての自立という前人未到のものであり、相当困難です。ロシア革命や中国革命などの初期の過程においても、「生産の新しい組織」「自由で結合した労働」は追及されたと思いますが、帝国主義の包囲ということもあり(その他にも様々な要因はあるでしょうが)結局成功せず「国家によって生命を維持していた体制」として存続し、ソ連のように崩壊するか、中国のように世界資本主義体制に組み込まれる形で、国内の経済発展のインセンティヴとしても資本主義的方法に頼る形とならざるをえなくなっています。中国の道が社会主義に向かうのかどうかは未知数です。直接的に社会主義的ではなくても迂回的方向なのかもしれませんが。いずれにせよ現実はきわめて厳しい。「社会主義の経済的社会構成体としての自立」はいまだ革命のロマンに属する命題であって、それが単なる教条にとどまるのか、現実の行く末を指し示す道標となるのかは、今後の世界的実践にかかっています。その実践は今日の世界資本主義の危機をめぐる闘争と表裏一体に進むものでしょう。
キューバは米国の経済封鎖のためにグローバリゼーションから遮断され、その中でソ連型の社会主義体制として存続してきました。グローバルな生産力発展には立ち遅れたけれども、グローバリズムの災厄からも逃れることで一定平等で安定した社会を築いていました。しかしソ連崩壊後は、米国の経済封鎖は継続されながらもグローバリゼーションには独自に立ち向かわなければならなくなりました。そこで上記のような危機状態に陥り、グローバリゼーションの中での新たな社会主義のモデルを求めざるをえなくなりました。過度に中央集権的な計画経済を市場経済にいかにソフトランディングさせるか、そこでの「経済的社会構成体としての自立」の追及です。中国・ベトナム型を採るかどうかも含めての模索です。
中南米諸国の左派政権の場合は、逆にグローバリゼーション下での新自由主義政策による国民経済の徹底的な破壊を受けて、市場原理主義と資本原理主義の世界から、人民を主人公にした社会主義指向(その濃淡・方向性は様々だが)経済に向かいつつあります。諸国の最先端を走るベネズエラはチャベス大統領が社会主義を目指すことを明言しています。民主革命の徹底が現段階の課題ではないか、という議論もあるでしょうが、政権が社会主義を標榜して疾走している以上、マルクスの過渡期論からの検討にも意味があるように思います。
チャベス政権発足10年を迎えてもなお旧支配層の力は依然として強く、マスコミの大半は彼らが握っており、変革の政治的過程は予断を許さず続いています。しかしクーデターを乗り越え、度重なる選挙と国民投票を通じて人民の中での政権の政治的権威は定着してきました。この政治状況は、変革の社会的過程によって底堅く支えられています。ベネズエラでは「共同体発展基金」という機関が設置され、住民たちが地区住民評議会を立ち上げる際の申告手続きや運営の助言を行なっています。ベネズエラ西部ポルトゥゲサ州のアカリグア市の同基金のクレイスミス・カスティジョ事務局長はこう語っています。
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社会変革で一番大切なことは、国民が主権者としていかに自覚と誇りを持つかです。予算の執行に住民が直接参加する地区住民評議会は、変革の最大のたたかいの場です。
「しんぶん赤旗」3月16日付
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同記事によれば、ポルトゥゲサ州では「電気、水道、道路、食堂の建設など、基本生活基盤の整備に取り組む評議会が多」く「この三年で生活はぐんと良くなりました。…中略…住民の必要から出発する評議会の成果ですね」と言われています。評議会は人々の意識を変え始め次のように語られています。
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政治の中身を決めるのは国民。これを実感できたのは評議会ができてからだ。石油からの収入が国民に使われていることを感じられるよ。
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いわゆる先進諸国よりもはるかに高い政治意識と主権者としての自覚が見られます。新たな変革主体の形成です。こうして参加型民主主義は過渡期の社会的変革過程を強力に推進するでしょう。国家によって生命を維持する体制ではなく、社会が「自分の足で立ち、経済法則そのものの力によって存立し、存続し、発展する」体制、つまり「経済諸法則の自然発生的な作用」に支えられる体制への道がほの見えてくるようです。ただし発展途上国の段階を脱して消費社会が出現するような段階で、このような政治意識を維持できるのか、という先進国病のような問題などに遭遇することはあるかもしれません。いずれにせよ先のことは分からないのですが、地に足をつけた社会発展の道を資本主義を克服した社会が歩むことがはたしてできるのか。評価基準としての古典の命題を想起しつつ、20世紀社会主義の失敗の経験からも学んでいくことが必要かもしれません。
キューバとベネズエラ(を先頭とする中南米左派政権)とは逆方向から出発して、新しい社会主義という共通の方向を目指すべき地点にいるように思われます。ここに、大恐慌による経済危機を抱えた発達した資本主義諸国での人民の闘いがいかに合流していくかも重要です。新自由主義を克服した世界経済新秩序を構成し、多国籍企業への民主的規制を実現していくことが、労働者・人民の生活向上の道であり、発展途上諸国への支援、中南米左派政権の定着への援護射撃となります。もっとも、それは遥かなる道で、残念ながら大言壮語の類ではありますが。
2009年5月号
社会の見方について
私たちが眼前の社会を批判しうるためには、まず何よりもその社会そのものの内在的分析が必要ですが、その上に、それとは違った社会のあり方を知ること、あるいはより普遍的な社会のあり方に対して、その社会が一つの特殊なあり方であることを知ることも大切です。
たとえば日本人の多くは、教育なかでも高等教育には莫大な個人負担が必要となることを当然だと思い、この耐え難い現実を甘受しています。しかしこれは世界的には例外であり、むしろ授業料が無料であったり、返済の必要がない奨学金制度があるのがあたりまえだという現実があります。OECD加盟30ヵ国中、授業料が無料でなく、給付制の奨学金もない国は日本とメキシコと韓国だけです。しかも日本は高等教育予算の対GDP比率がOECD加盟国中で最低です(「しんぶん赤旗」4月19日付)。日本の学生と親たちの苦難は決してやむをえない現実ではなく、政治の貧困のせいだということが、国際比較によれば明白になります。
資本主義社会においては「国民の常識」として、個人主義的自由競争志向が一般化しています。日本では機会の平等を民主的に保障した上での能力主義的競争が、事実上、戦後民主主義の内容となってきました。こうして企業社会としての職場が形成されてきました(実際には職場での競争の機会均等の前提に位置するはずの教育の機会均等が毀損されています。近年における「子どもの貧困」の顕在化によってこのことは明白となりましたが、ここではとりあえず措きます)。しかし逆に能力主義的競争を規制して、労働内容の決定権を集団的に追及すること=労働生活の自治へと戦後民主主義を組み替えていくことで、職場を企業社会から労働社会に変化させていくことが必要です。カローシに至るような無制限の労働強化を根本的に阻止するためには、競争制限を含む、職場での働き方に関する集団的な自治を確立せねばなりません。だから労働組合とは単に賃上げや労働条件改善のための組織ではなく、職場での働き方そのものを規制し創造していく機能を本来はもっています。熊沢誠氏はこう言います。
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労働者がそこに生活の具体的な必要性と可能性を共有するなかまをみいだすことができ、その可視的ななかま相互のあいだで働きぶり、稼ぎぶり、雇用機会をめぐる助けあいと競争制限の黙契を培うことのできる単位、私はそれを<労働社会>とよんでいる。強靭な労働組合の組織とは労働社会の制度化であり、その機能とは労働社会の黙契の意識化にほかならない。
『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫 1993) 187ページ
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こういうことはおよそ日本の職場や労働組合の状況を見ているだけでは想像もつきません。もちろん熊沢氏は観念的にこれを提唱しているわけではなく、イギリスの労働運動の研究を通じて、日本の現状への根源的批判を展開していると考えられます。
セックスとジェンダーの区別は今では常識ですが、区別されていなかった頃は、社会的性差に属することも自然的性差として認識されていました。このように錯覚された「自然」は社会科学には多く見られます。人間は本来的に利己的であり競争的である、というブルジョア的人間観はその決定版です。ここから経済社会とは競争的市場であるという社会観が引き出されます。というか実際には市場競争を見て経済社会とはそういうものだと思い、そこから人間とは利己的で競争的な存在だと思う、という順序でしょう。しかし少し考えてみれば、人間の社会にとって協力は絶対的だけれども競争は相対的なものに過ぎないことがわかります。どのような社会であっても協力がなければ存立できないけれども、競争がない社会はありえます。さらにいえば競争というのも広い意味では協力のあり方の一種であるともいえます。
だから、市場経済・資本主義経済において競争が積極的役割を果たしてきたことは事実ですが、そこから人間とその社会の本質を競争に求めることは、明らかに間違った抽象です。この間違った抽象の延長線上には、恐慌とか不況も社会にとって自然的事実であるかのような経済社会観があります。これは資本主義社会に生きる人間にとってはある意味では自然に身についた感じ方です。生まれてこのかたずっとそういう社会を見てきたのだから。しかし社会の本質はそういうものではない、不況で失業する心配のない社会の建設は可能だ、という見方ができれば、現状への対処の仕方、生きかたも違ってきます。失業は誰しも辛いけれども、それに対する怒りの質・量とも違ってきます。
労働価値論はそうした社会観の基礎です。『経済』5月号で、暉峻衆三氏はこう語っています。
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マルクスは、社会というのは何で成り立っているのかと考える時に、様々な富をつくりだしていく力である労働力をもった人間を基礎に把握する。その人間の労働力が資本主義の社会では商品として利潤追及のために資本家に買われる。そういう商品であるために、資本家による、今の「派遣切り」のような労働者の切り捨てや、ものすごい人間労働の乱費という事態も起こってくるわけです。
マルクスはそういう問題に着目した。それはある意味では当たり前のことで、現実を直視し、そこからの理論的抽象をおこなったといえるのでしょうが、やはり他の人では出来なかったことなのではないかと思います。
「社会科学を学ぶ人へ いまこそマルクスを」94ページ
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確かに「他の人」は人間や社会の本質は競争だという誤った「理論的抽象」を行ないました。誤った抽象においては、恐慌はあたかも避けられない自然現象のように捉えられます。しかし正しい抽象で経済社会とは本来的にはどういうものかということ(経済社会の歴史貫通的性格)が認識されておれば、恐慌が矛盾に満ちた現象であり、それを自然現象のように生み出す資本主義社会こそ克服されるべき対象だということが分かります。
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マルクスは資本主義を貫く法則を根本にしながら資本主義の社会には理不尽な恐慌という現象、つまり一方には多くの人を豊かに出来る生産力をもちながら、その生産力を十分に使いこなせないで遊ばせる。他方には働く能力と意思がありながら職が得られない人々がいる。この矛盾がどうして起こるのか。恐慌の必然性というものをも明らかにしようとしたのです。
そしてマルクスはこういった資本主義社会の矛盾、理不尽なことがくり返し起こってくることに着目して、資本主義の社会は永遠には続かない、資本主義の社会には歴史的な限界があるということをも明らかにしました。そして、いずれ人間社会は社会主義に移行していくだろうと予見したわけです。 同前 91ページ
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内田樹氏は教育を論じるなかで、市場主義的な社会観を批判して共同的な社会観を対置しています。
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経済危機で社会的な基盤が危うくなっている時に、競争して足を引っ張り合って、勝った人間が全部独占し、負けた人間が飢えて死ぬということをしていたら、社会全体が底抜けになってしまう。一人ひとりの人間に潜在している才能が多様な形で開花するように支援していくことが、社会全体を活気のあるものにする一番の早道だと思います。
労働というものも、自分が入力した分だけの出力が報酬として戻ってくるような単純な方程式ではない。迷惑をかけたりかけられたり、頼ったり頼られたりという複雑な相互支援のネットワークの中で自分の役割を見いだして、受け入れるという訓練がされていなければ、集団での労働はできません。自分の労働が、多くの他者に利益をもたらすことを喜びとする能力を育てることが今、教育に求められていると思います。
「しんぶん赤旗」3月11日付
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以上の引用部分は正しい抽象力によって経済社会の本来のあり方を提示していますが、その後では、阪神・淡路大震災における被災者どうしの助け合い経験が紹介され、前の部分では『十五少年漂流記』のような状況が想定されることでイメージ豊かに共同的な社会像が説明されています。眼前にある私たちの市場主義的社会を分析することと、そうでない社会を想定することとが相まって、市場主義批判が分かりやすく展開されています。『十五少年漂流記』をもってくるのは、『資本論』第1部の物神性論において「ロビンソンの孤島」が出てくるのを想起させます。マルクスもまた労働価値論をもっとも本質的に展開した物神性論において、厳密な理論的抽象に続いて、「ロビンソンの孤島」や中世社会や将来の共産主義社会を登場させることで、対比的に市場経済の本質を浮き彫りにしました。
内田氏は、社会が本来もつ共同性を打ち出すことで、教育にまで及んだ市場競争的状況をきわめて分かりやすく批判してみせました。このように市場競争と共同性とを対比して前者を批判することは大切ですが、マルクスが偉大なのは、競争的市場もまた社会の共同性の一つのあり方である(疎外態ではあるけれども)として、歴史貫通的考察の中でその特殊歴史的性格を明らかにしたことです。逆にいえば、市場経済の中にも社会の歴史貫通的性格は貫いているということです。
これは貨幣の本質を考える際に重要です。大人たちが子どもたちにお金について教えるとき、どうするでしょうか。一方では、世の中にはお金では買えないものがあるとか、お金の亡者になってはいけないとか、言います。しかし他方では、お金を大切にしなさいとも言います。一見矛盾するようですが、この背後には共通して、人々の労働と生活、その総体としての社会があります。商品生産社会であってもその本源的存在はこの社会です。ただし商品生産社会では私的労働と社会的労働とは必ずしも一致しないから、貨幣を介した商品交換つまり商品流通が必然となります。私的労働はその商品価値の実現によって初めて社会的労働でもあることが認められます。
だから本当に大切なのは、人々の労働と生活そのものであって、お金ではない(お金では買えないものがある)けれども、お金は労働の分身(汗水たらして稼いだ大切なお金)として人々の生活と社会の成り立ちを支えています。しかしお金を求める競争は起こり、目的と手段との逆転、お金が人間と社会を支配するという疎外が商品生産社会では生じます。
資本主義社会では貨幣は貨幣資本としても機能します。貨幣資本は産業資本にも投下されますが、貨幣資本の過剰=金融肥大化の昨今はグローバルな投機資金として「大活躍」してきました。
ここにきてお金の醜さと大切さとの矛盾的様相は頂点に達します。前者の代表はウォール街の強欲に象徴される投機資金としての貨幣資本ですが、その同時代であっても依然として、所得流通を支える貨幣があり、それは大切な生活資金としてのお金です。しかしこのお金の醜さと大切さとの矛盾は必ずしも黒白はっきりしたものではなく、本源的社会からの乖離の度合に応じたグラデーションの様相を呈するかもしれません。そこに労働者や勤労市民に対しても「貯蓄から投資へ」などという誘いが生じうるわけで、お金の把握の難しさがあります。
しかしはっきりさせなければいけないのは、どのような社会であろうとも、人々の労働と生活の総体・その共同性という本源的存在がどうなっているのか、という観点を据えて見なければならない、ということです。時々の社会の特殊なあり方から、たとえば競争が人間と社会の本質である、というような誤った抽象を出発点としてはなりません。
なお「臨床教育学」研究者の田中孝彦氏も、「人間は、少数者が多数者を支配する関係ではなく、個人の自由な発達が目的とされるような社会を創り出す努力を強めることによって『悪性』の攻撃性を減らし、人間的にコントロールすることができる」というフロムの見解に依拠して「攻撃的感情を人間的にコントロールするためには、一人ひとりの生き方を問い直すことと同時に、『競争こそ人間の原理』であるとする社会や教育のあり方を問い直すことが不可欠です」と述べています(「子どもたちの声を聴き、教師像を考える 臨床教育学の視点から」『前衛』5月号所収 189ページ)。フロムは、人間の攻撃性は社会のありようからくるのであって逆ではないことを指摘しており、田中氏も競争を人間の本質とするような誤った抽象を批判しています。
話は脱線しますが、田中氏は、困難に直面し「心的外傷」を負った子どもたちの声を聴くことから出発して、あるべき学校像や教師像に説き及んでいます。今、教師たちは、国によって定められた「教育」を滞りなく実践する「実務遂行者」にさせられています。そこから「一人ひとりの子どもへの理解を深め、一人ひとりの子どもの育ちを支える学習指導・教育実践を創り出」(191ページ)す教師像への転換が求められます。それは教師に教育危機の責任を負わせることではなくて、新自由主義がもたらした社会の危機(教育危機の原因)を克服することと平行して行なわれるべきことです。
この論文を読んだとき、アンジェラ・アキの「手紙 拝啓 十五の君へ」を思い出しました。中学生に限らず広い世代で共感を呼んだこの曲は、「負けそうで泣きそうな」多くの人々の悩める心をとらえました。情感に訴える音楽と言葉の威力に感じ入ったものですが、これに応える理性的認識が田中論文であろうと思います。時代の課題はしばしばまず感性的に的確に捉えられるのだから、そこにきちんとはまる研究的営為が求められます。それ自身はひとつの社会的実践でもあります。
本当は、以上に示したまともな社会観という観点から、新聞紙上などに現われた新自由主義的議論を検討しようかと思っていたのですが、残念ながら時間がなくなりました。
金融恐慌と新自由主義批判
今時の金融恐慌を受けて、新自由主義批判が噴出しています。問題はその中身です。杉田敦氏は「道徳的非難の政治を超えて 『ネオリベ』排除は自明か?」(『世界』3月号所収)という論文で、安易な非難の風潮を戒めています。杉田論文そのものについては私は間違いだと思い、先月の拙文「『経済』4月号への感想」での「二分法について」というところで批判したのですが、杉田氏の危惧には留意すべきだと思います。たとえば『世界』5月号には、佐高信、高杉良対談「小泉・竹中路線の罪 『かんぽの宿』問題とマスメディアの劣化を問う」とケヴィン・ラッド(オーストラリア首相)「世界金融危機からの脱出 社会民主主義以外に道はない」が掲載されています。両者とも特に間違っているとはいえないけれども、新自由主義批判を深めるという立場からは大いに限界があると思います。
佐高・高杉対談は、日本における新自由主義的構造改革の失敗があまりにも明白となった現実に乗っかって、小泉・竹中といった政治家や財界人、マスコミなどを斬りまくっており、痛快です。ただし経済理論そのものに対する批判はありません。確かに理論よりもここで俎上に乗せられた諸事実のほうが重いし、説得力もあるのですが、小泉・竹中路線を根底から批判するなら、理論的批判が欠かせません。竹中氏は「構造改革が不十分だから日本経済はいまこうなっている」と放言していますが、要するにこれは「理論は正しいが、(その通りにやらない)現実が間違っている」という教条主義に固執する姿勢です。彼ほど鉄面皮でなければ黙しているだろうけれども、おそらく大方の新古典派の経済学者たちは内心ではそう思っているでしょう。金融恐慌と未曾有の大不況の真っただ中にあってはひたすら雌伏して、いくらか状況が改善されれば「市場経済」への信念を「首尾一貫した」理論で展開しようと待機しているのではないか、と推測します。つまり景気が多少なりとも回復して現実が動けば、彼らは「正しい理論の復権」があると確信しているでしょう。この対談のようにひたすら現実の重みに寄りかかって「改革」路線を叩いているだけではそのときに足元をすくわれます。だから新自由主義の政策的失敗を糾弾するにとどまらず、その基礎にある新古典派理論の誤りへの批判を大衆的常識に高めていくことが求められます。資本主義そのものへの批判者ではない評論家や小説家に対しては、そんなことはないものねだりではありますが、経済学研究の立場であれば、そこまで進まない内容では単なる気晴しにとどまる、と評価されるべきです。
以上は現実の流れに乗るだけでなく、理論的批判が必要だということですが、逆に理論・政策・イデオロギーを注視しても、経済的土台そのものの分析が欠けると非常に不十分なものにとどまります。
ラッド氏は社会民主主義の立場から「世界金融危機からの脱出」について慎重に考察しており、それ自身は参考とすべきものです。しかしそこではもっぱら、「政府と市場」について政策次元で論じられ、また新自由主義という誤ったイデオロギーを廃棄して、社会民主主義という正しいイデオロギーを採用すれば解決する、というかそれしか解決の方向性はないと考えられています。つまり政府と市場との折り合いをつける中庸の道を探ることが大切であり、そのじゃまになる新自由主義のイデオロギーや「極左」「極右」のイデオロギーを排するという立場です。
そこには考察領域の狭さがあります。政策とイデオロギーを詳細に論じることは大切だけれども、その土台を分析しなければ観念論に終わります。世界金融危機をもたらした現代資本主義のあり方にメスをいれるべきです。確かに新自由主義という邪悪なイデオロギーがそこでは主導的な役割を果たしてきたけれども、その舞台を提供したのは現代資本主義の寄生性・腐朽性であり、その資本蓄積のあり方です。新自由主義が政府と市場との関係を誤ったから危機に至ったのではなく、金融独占を含む多国籍企業を中心とするグローバル資本主義が暴走したから危機に至ったのです。それは一方では働く人々の生存権を踏みにじり、そこから必然化する資本過剰を基に、他方では経済のカジノ化を途方もなく進めました。新自由主義はそのイデオロギー的表現であり、危機を増幅する役割を担っただけです。だから「政府と市場」問題を政策技術的に考察しただけでは危機の本質は分かりません。現代資本主義のラディカルな批判が必要です。したがって、今回の危機に直面しても、将来的には社会主義経済を目指すという志向を持たず、あくまで資本主義経済を救うというラッド氏流の社会民主主義の姿勢からは、当面の対策は出てきても、グローバル資本主義に対処する方向性は出てこないと思われます。社会民主主義的な「政府と市場」のベストミックスという問題把握では不十分であり、資本主義批判に基づく資本への民主的規制の観点が、「資本主義の枠内での変革」においても必要です。
うがった見方をすれば、新自由主義「復権」のシナリオはこうです。資本の自由放任を進めた自らの失敗のツケを社会民主主義的政府に負わせ、一定の景気回復の代償として財政危機で身動きがとれなくなった政府を糾弾して政権に復帰し、再び福祉切り捨てや大衆の負担増で資本と政府を「効率化」することで、「経済の活性化」を実現するのは新自由主義の政策だ、とうそぶく。こうすれば「市場への公的介入」という自らの信念に背くことを自分ではしないで、社会民主主義者にやらせて、その失敗を待って政権復帰を果たすことができます。つまり自らの「市場の失敗」(本質的には「資本の失敗」だが)の尻拭いを他人にやらせてきれいにし、その負担が招くであろう「政府の失敗」を待って復権し、「自由な市場の勝利」を宣言する、という流れです。ウォール街は政府に対して「干渉せず自由勝手気ままに儲けさせよ、失敗したときは後始末を宜しく」という姿勢でしたが、これがまさに新自由主義の流儀です。新自由主義者は、自らの確信犯的無策で金融システムを崩壊させておきながら責任はとらず、再建は自分流にはできないので他人にまかせます。こういう厚顔無恥な輩はほとぼりが冷めれば必ず何もなかったかのように再登場します。マルクスも指摘するように資本の本性は「後は野となれ山となれ」であり、新自由主義の本質は資本原理主義(市場原理主義ではない)であることを考えれば、新自由主義者のこうした意識は、彼らが特別に性悪なのではなく、資本の運動の担い手であるという存在位置によって規定されていることが分かります。
この文脈が成立するなら、社会民主主義者が「政府と市場」のベストミックスを追及するのはとんだお人好し、骨折り損のくたびれ儲けとなります。誤解のないようにいえば、「政府と市場」のベストミックスを追及するのがいけないということではありません。資本への民主的規制を利かせることで、独占資本本位の反人民的で寄生的な資本蓄積から、人民の生活と労働の向上に適合的な資本蓄積のあり方への変革の中で、それは追及されるべきなのです。
上記の新自由主義「復権」のシナリオが私の妄想に過ぎないならば幸いです。今は「百年に一度の経済危機」の衝撃で、新自由主義はもはや死んでしまって「市場原理主義」が復権することはなく、一定の規制下における秩序だった市場が実現するような新しい時代がやってきた、という楽観的観測が多いようです。困難な模索の時代だけれども、もはや新自由主義に後戻りすることはない、と。確かにカジノ資本主義は大破綻し、G20など国際社会においては金融市場の規制や新興諸国の発言権の拡大など積極的方向は出てきており、ドル基軸体制の変更を展望する動きも徐々にではあっても現われてはいます。
しかし実体経済に目を向ければ、労働のフレクシビリティの追及を初めとした底辺に向かってのグローバル競争が規制されるわけではありません。それは生産と消費との矛盾から資本過剰を起こし、貨幣資本の過剰は金融市場の肥大化となり、カジノ化への不断の衝動の源泉となります。また破綻した金融機関を救済し、システミック・リスクを防止するために金融緩和・流動性供給が続けられ、金融肥大化を促進しています。カジノ化の元を断ち、金融機関の正常化を実現するためには、人々の生活を重視したバランスある国民経済を形成しうる資本蓄積の型への変革が必要です。資本の内発的運動によってそれを実現するのは不可能であり、資本への民主的規制と政策的誘導が不可欠です。ILOなどを舞台にした、グローバル競争への規制も必要です。
金融大恐慌と未曾有の大不況という事実の重みによって、新自由主義は政策としてもイデオロギーとしても当面封印されるでしょうが、後始末的結果規制だけに終われば、その封印はきわめて不安定で、不断の解放圧力にさらされます。したがって新自由主義への逆戻りを防止するのは、資本主義批判を堅持する社会主義志向の勢力が「資本主義の枠内での変革」の過程でも、社会民主主義者やその他の広範な民主勢力と手を携えて進み、資本への民主的規制を実現することだろうと思います。しかしそれは日本はもちろん、世界的にも多くは実現していません。
発達した資本主義国においては、資本主義の体制安定装置としての政治システムとイデオロギーが強固です。二大政党制における社会民主主義政党はそのシステムに組み込まれています。二大政党制は、多くの場合、不毛の選択を強要して民意を歪める小選挙区制によって非民主的に、したがってきわめて人為的に支配層の意志に沿ってつくられたシステムです。このように社会主義的変革が政治システムとしてあらかじめ事実上断たれているところでは、資本への民主的規制を促す圧力も弱まらざるをえません。
イデオロギー的には、今だにサッチャー、レーガン、小泉といった「改革」のアイドルたちの人気は決して凋落してはいないことを想起すべきです。自由競争信仰、効率信仰は資本主義的市場経済においては不滅です。この新自由主義のイデオロギー、それを支える新古典派理論はまさに資本主義的生産関係の土台に適合的な上部構造として存在しています。第二次大戦後の高度成長期は、一般的にはケインズ経済学の時代と考えられていますが、当時でも世界の経済学研究の中心であるアメリカの大学では、それは新古典派のパラダイムのなかに吸収されていました。兵士一人を殺すのにどれだけ費用が必要となるかという「キル・レーション」概念を導入してベトナム戦争を指導した「マクナマラ長官の考え方は、所与の目的をできるだけ効率的に達成するように希少資源の配分を求め、その目的についてはまったく問わないという新古典派的な発想をそのまま具体化したもので」した(宇沢弘文『近代経済学の再検討』、岩波新書、1977、32ページ)。つまり、レーガン以後、あるいはソ連・東欧の社会主義政権崩壊以後のグローバリゼーションに乗った新自由主義の全開期だけでなく、それ以前から新古典派理論は経済学研究と経済政策の中心に位置していたのです。これを学問的に批判し、大衆的にも新古典派理論の反社会的結論を克服することが必要です。
私の能力ではとても理解しきれるものではありませんが、『前衛』と『経済』に掲載された高田太久吉氏の論文は何とか読んできました。『前衛』5月号の「国際金融恐慌と現代資本主義の課題」はこれまでの論文の総括的位置にあり、「現代資本主義の構造的矛盾と歴史的限界」(123ページ)というきわめてラディカルな観点による分析を踏まえつつ、国際金融恐慌と大不況への総合的対策にも具体的に言及しています。是非とも精読しよく検討したいところですが、その余裕がありません。ここでは特に印象に残った、社会科学研究の限度と改革プロセスに関する注記を引用します。
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経済システムや金融システムなどのマクロな複雑系システムの「改革」は、あらかじめ用意された設計図にもとづいて「計画的に」実施することはできない。筆者の知る限り、現代の社会科学は、そのような壮大な設計図を用意できるほど整備されていないし、近い将来、そのようなことが可能になると期待することもできない。巨大なシステムの改革は、多数の国民が支持する基本的な目標を策定し(例えば、いくつかの構成原理を含む福祉国家をめざすという目標)、その方向に沿ったさまざまな改革のなかで、まず国民的合意が得られて実現可能な改革を当面の目標に掲げ、利害調整を通じて実施するという部分的改革のプロセスを長期間にわたって継続するやり方がもっとも妥当ではないかと考えられる。 138ページ
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改革における観点のラディカルさと実現方法の確実さ・漸進的性格との共存が重要です。人民の支持も欠かせません。重大な状況に際して、科学的社会主義の立場からの原則的で柔軟な対処方法がここにあります。
以上、金融恐慌の勃発と新自由主義の破綻に関していくらか述べてきました。重ねていえば、現代資本主義の土台そのものに対する分析がまず大切であり、それに合わせてイデオロギーと基礎理論への批判も重要です。変革の立場からの学問研究と世論形成の課題がここにあります。
今時の金融恐慌による新自由主義の破綻は、ロシア革命に始まる、資本主義から社会主義への世界史的移行の長い時代における新たな一段階を画したといえるかもしれません。そこではケインズ主義の復権とその後の新自由主義の逆襲という展開を迎えるかもしれませんが、グローバル資本主義への民主的規制を通じた社会主義への移行という可能性も開かれています。後者の展望を見据えた勢力が、金融市場への規制強化・新国際秩序の形成および大不況の克服などの当面の課題でも理論的・実践的イニシアティヴを発揮することが求められます。20世紀初めの大恐慌は一方では新古典派理論を凋落させ、他方では第二次世界大戦に至りました。戦後、新古典派は復権し、グローバル資本主義を暴走させて、21世紀初めの世界金融恐慌を導きました。もちろん歴史は単純に繰り返すわけはないけれども、それを防ぐことを意識しつつ、社会進歩のためには上記のイニシアティヴが大きな意義をもつことを確認したいと思います。
データの見方
4月29日、プロ野球楽天の野村克也監督が、監督通算1500勝を達成しました。史上5人目の偉業ですが、私がむしろすごいと思うのは歴代最多記録を更新中の1506敗です。ここに他の名監督たちとの違いが出ています。下位チームの指揮官を積極的に引き受けて、試合では戦力不足を補う采配を見せ、さらには選手たちを鍛えあげた上での1500勝だということが分かります。もしここで効率主義の観点から、勝率なるものを問題にするなら、野村監督の偉大さはまったく分かりません。負のイメージの数字を前にして、それをどう読み解くかが大切です。こんなことは私が偉そうにいうまでもなく、誰でもすぐ分かることでしょうが、経済統計の数値だとだまされることが多いかもしれません。
元鳥取県知事の片山善博氏の『世界』連載「日本を診る」が好調です。以前には、大臣たちの実態を捉えて「一日局長」と喝破しアチコチで引用されているようです。5月号は題して「地方分権の名の下に進む地方自治の形骸化」。
それによれば、総務省は作成した資料の中で様々な指標を示して、小規模自治体は非効率で欠陥がある、と暗に批判しているようです。しかし片山氏は、これらの批判は「部分的、表面的には当たっている面もあるが、そこには自治の本質を正しくとらえようとする視点は欠如している」(258ページ)とまず指摘し、「地域の多様性を前提にして成り立っているのが地方自治であり、そこに見られる人口密度や年齢構成などの差異がもたらす財政効率の差を埋めるのが地方交付税の本来の役割なのだから、小規模自治体が『非効率』であることも、それを補うべき地方交付税への依存度が高いことも特段批判されるべき筋合いのものではない」(259ページ)と反批判しています。
その他、景気対策の公共事業を国が自治体にやらせた結果として、自治体の交付税依存度が高くなった問題、国・都道府県・市町村の適切な役割分担を無視して市町村にやたらと事務を押し付けている問題なども片山氏は指摘しています。「市町村から不要な事務と身の丈を越えた業務を取り除き、市町村が本来の力を発揮できる環境を取り戻すことが急務である」(260ページ)。要するに、あまり意味のない効率指標を振りかざして、大合併によらない自立を選択した小規模自治体などをいじめるのではなく、住民生活に細かく対応する「自治の本質」に政府は立ち返る必要があるということです。
一般論としては何でも効率は高い方がいいのですが、効率指標が独り歩きするとき、問題の本質が見失われることが多くなります。そこには新自由主義の荒野が広がり、地方や産業の中で弱くても大切な部分が切り捨てられます。いろいろな統計数値をどううまく読んでいくのかを、野村監督の1506敗は問題提起しています。
2009年6月号
地域経済の破壊と再生
特集「地域経済の再興へ」を読んで、「共通性の認識と対策の具体化」ということを感じました。岡田知弘氏の「構造改革の政治によって貧困と格差が拡大し、くらしと地域が破壊されてきたことは事実であるが、その現れや解決の方策は、それぞれの地域によって異なり、具体的な調査が必要である」(木村雅英氏の「みつけた 地域のたからもの 『地域循環型経済・地域づくり』の調査・提言に取り組んで」90ページで紹介)という言葉に触発されたのです。
「共通性」はトップダウンで形成されており、「対策」はさしあたってはボトムアップで想像し創造していくことになるでしょう(新自由主義による悲惨な現実にとらわれないためには想像力が必要だけれども、それが妄想に終わらずに創造につながるためには、現実の中に具体的可能性をみつけられるような「地についた足」が必要となります)。多国籍企業が主導し各国政府が推進してきた新自由主義的グローバリゼーション・構造改革が、世界共通の貧困・格差・社会的荒廃を上からもたらし、くらしと地域が破壊されてきました。いわゆる先端産業の大企業誘致に頼るような、地域経済の再生産構造とは切れた落下傘式のやり方がそこではとられ、今回の経済危機でもろくも破綻しました。だから下からの「対策」としても、地域内循環型経済を再構築するという意味では明らかに「共通性」があります。しかしそのやり方は新自由主義的トップダウンの画一性とはまったく無縁であり、それぞれの地域ごとの特質を掘り起こしすボトムアップの多様性に彩られたものとなるでしょう。そこには多大な困難性と未知の可能性とが共存しています。たとえば「限界集落であっても、多様な地域資源がありますから、それらをうまく活用することが大切です」(橋本卓爾、宇田篤弘「産直運動から見える農の明日 紀ノ川農協の挑戦」119ページ)。以下では、新自由主義的構造改革による地域経済の疲弊とそれへのオルタナティヴの模索について若干述べます。
大阪・関西における行政と経済界の経済活性化策について中山徹氏がまとめている以下の3点は、全国的にも共通するものではないでしょうか(前2点は特に)。一「地域経済対策の初発を大手企業(特に先端産業、金融業等)の誘致に置いている」。二「最初の大手企業誘致を成功させるため、行政は公共投資や優遇策を惜しまない」。三「企業を誘致する場所としてベイエリアを重視」(「関西経済活性化の新しさと古さ」87ページ)。橋下大阪府知事は同じ考え方を関西州という拡大された装いで貫こうとしています。その帰結について中山氏はこう指摘しています。
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関西的視点で従来型の経済対策を展開し出すと、従来以上に問題点が拡大されるだろう。大阪・関西経済が活性化しないのは、高速道路や空港、工業用地が不足しているからではない。それらはむしろ余っている。にもかかわらず、広域的調整を踏まえてそのような施策をさらに展開すると、従来以上の無駄、浪費が発生するだろう。
また、関西州で意識している地域は、大阪平野+京都盆地+神戸市に限定されている。日本海側や紀伊半島南部はどこにも出てこない。市町村合併で周辺部は衰退したが、道州制で中心部以外の衰退はさらに顕著に進むだろう。 同前 88ページ
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一般論としていえば、弱者から資源を取り上げて強者に集中すれば全体としての効率はさしあたっては上がります。つまり弱肉強食と効率至上主義は同値です。しかし余ったものと違って余った人々は廃棄できず、社会のお荷物になります。人間と違って集落や地域なら放棄することも可能かもしれませんが、それがもたらす環境の荒廃が都市住民にも悪影響を与えることは十分に考えられます。本来ならば社会的富を生み出すはずの人々と地域を切り捨てて、企業と社会にとっての費用としか見られない、このようなやり方は究極的には最大の非効率主義となります。さしあたっては非効率的なように見えても、すべての人々と地域とを生かす方策こそが持続可能なやり方なのです。市町村合併も道州制も要するに行政のリストラで効率主義ですが、それによる周辺部の衰退は人間社会と自然との荒廃に帰結します。
以上は原理的な関係から言いうる弊害ですが、現実にはその上に、空港を過剰につくるなど、さしあたっての効率主義の考え方からさえ逸脱した弊害が起きていることも忘れられません。逆に言うと、効率主義からの逸脱によるこのような弊害はすぐに目につくけれども、それを克服するのに効率主義を徹底するという考え方でもダメだということです。支配層が新自由主義を持ち出してきたのは、政官財の癒着構造によるムダを排除するために透明な効率主義が有効だという文脈においてです。しかしこれは支配層お得意のマッチポンプの手法です。本来自分たちの不始末であることについて、責任の所在をあいまいにするか他に転嫁するかして、「俺が直してやる」ふりをして逆に支配を強化しています(転んでもただ起きない)。新自由主義的改革の象徴である郵政民営化に典型的に見られるように、そこでは新たな利権が発生し、置き換えられて温存された癒着構造を尻目に、効率主義はもっぱら地方の切り捨てという形で貫徹されています。確かに小泉改革によって公共事業は減りました。しかしゼネコン奉仕の大型プロジェクトは温存され、その一方で、実に酷薄な効率主義的体制が強化され、地方の疲弊は頂点に達しました。
米国経済の破綻からの教訓として、グローバリゼーションと構造改革下の勝ち組にこそ歪みが大きいことを見るべきです。アメリカは製造業が空洞化して、世界からの金融的収奪で栄えていたのですが、それが今回の金融恐慌で破綻しました。バブル破綻以後の格差景気で繁栄した東京経済もまた製造業が空洞化し、金融業やサービス業が盛んになっている他、特徴的なのは「本社」サービスによる地方と海外からの所得移転額が突出していることです(岡田知弘「経済危機の打開、地域再生の課題」46ページ)。ここで先の道州制に注目すると岡田氏は次のように述べています。
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道州制構想では、所得の再移転、再分配を調整する地方財政調整制度をつくらない方向ですから、本来、地域で生み出され、東京に集中した富が、地域に循環せずに、漏出されてしまうメカニズムをつくってしまう危険が大きいのです。 同前 47ページ
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「所得の再移転、再分配を調整する地方財政調整制度」というのは一見すると弱者救済つまり財政力の強い都市が財政力の弱い地方を援助する制度のようです。しかし上記から言えることは、この財政力の差の一定部分はもともとは首都東京などの都市が地方を収奪した結果だということです。さらに言えば、農業と他産業との間には時給換算した労賃において数倍の差があります。これはすでに投下労働の次元で著しい不等労働量交換が行なわれていることを表わしており、単純労働と複雑労働との差で説明できる問題ではありません。
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稲作農家の家族労働報酬は、八時間労働に換算すると全国平均で一四三○円、時間あたりにすると一七九円である。労働者最低賃金の全国平均六七八円と比較しても異常な低さである。稲作労働は、現在問題になっている非正規労働者の賃金水準以下であり、まさしく「ワーキングプア」水準の労働となっている。
神田健策「雇用悪化と農業問題 活性化めざす最近の事例から」67ページ
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こうして見ると、地方と都市、特に首都東京との所得格差・財政力格差の少なくとも一定部分は何層もの次元での収奪関係の産物であり、それを調整する地方間での所得再分配は弱者救済というよりも、国民経済次元での所得復元適正化メカニズムだと言わねばなりません。それをして初めて適正な労働力配置が実現でき、国民経済のバランスが保てます。東京経済と国民経済の歪みを放置してはなりません。所得再分配の強化と、東京の収奪から自立した地方経済の確立が必要です(もちろんこれは東京で働く人々に責任のある問題ではなく、資本と市場が主導する国民経済の歪みの問題なのだが)。
もう一つの勝ち組、トヨタと豊田市を見ます。トヨタの劇的な赤字転落で、愛知県や豊田市を初めとした自治体財政は甚大な影響を受けます。西三河では自動車関連以外の業種でも仕事がたちいかなくなっています。この状況を受けて、鈴木文熹氏は豊田市を「自動車産業モノカルチャー都市」と喝破しています(「トヨタ城下町にみる貧困と反貧困」76ページ)。私など、言われてみればコロンブスの卵で、危機に陥って初めてそれまでの異常な構造に気づくということです。実際には、公共交通の不便さ、総じてくらし・文化の領域の欠如など「危機以前でも貧困だった豊田市の住民」(同前77ページ)というのが実態です。
こうして見ると、「勝ち組、負け組」という囃子詞(はやしことば)に乗って競争に血道をあげること自体が無意味です。どの地域でも、ひたすら資本の論理にしたがった新自由主義的構造改革型経済活動から脱して、生活と労働を充実させる地域内循環型経済をそれぞれに構築することで、国民経済全体を外需依存型から内需主導型に正常化させていくことが求められています。それにしても、もともと農林水産業や地場産業によって形成されていた地域経済の再生産構造が衰退してきたところで、それと切れた形であっても大企業誘致に頼ってきたわけですから、その失敗が明らかになっても、どのように地域経済を再構築していくかは難問です。まずは地域内循環型経済の意義の確認です。
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地域内循環型経済には、資金循環の面からみた価値的な側面と同時に、もう一つ、素材的に見た使用価値的な側面があるということです。それは農林漁業でははっきりしますが、生産・生活、自然の再生産が一体となって行われます。地域内の経済活動を通じて、人と人との関係とともに人と自然との関係を再構築していくという、総合的な効果を発揮できるものだと考えています。 前掲岡田論文 50ページ
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価値・使用価値の両面による再生産論の視角から、地域経済における農林漁業の重要性が再確認されています。前掲神田論文によれば、青森県の『社会経済白書』(2007年3月)では、外来型の大型開発の効果が持続しないことが指摘され、地域資源を生かした地域経済の再構築に向け、特に同県農業の競争力の強さを捉え直すべきだとしています。ハイテク神話からローテクの再認識への転換です(71-72ページ)。近年、環境問題や食料自給率への関心の高まり、他産業での雇用問題の深刻化による当産業での担い手獲得の可能性など、農林漁業をめぐる状況の変化を的確に捉えて、その再生産確保に向けた政策的転換が行なわれるなら、農林漁業を軸にした地域経済の再生は不可能ではありません。
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北東北の農業動向を見たように多様な農業実践が生まれている。地産地消、都市と農村の交流、食育、農産物加工、直売所、農商工連携、地域資源の活用など多様かつ意欲的な実践が広がっており、地域経済における農業を含む第一次産業の再評価の取り組みに期待が集まっている。例えば、耕作放棄地や休耕田を利用した多収穫米生産によるバイオ燃料生産、米粉・飼料米など米の多様な活用、間伐材を利用したバイオマス燃料、昆布・ホンダワラなどの海産物を利用したエタノール化など、地域資源の積極的活用にむけた研究と実用化が重要な政策課題になっている。国の施策が明確になれば、農林漁業は大きな雇用を生む場になる可能性を有しているのである。
神田論文 72ページ
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こうした「多様かつ意欲的な実践」については、新自由主義全盛時代からすでにマスコミではちょくちょく取り上げられてきました。それらを一部の競争的成功物語に終わらせるのでなく、普遍的共生の取り組みとして広げていくことが求められます。そうした優れた実践の報告が、橋本卓爾・宇田篤弘両氏の対談「産直運動から見える農の明日 紀ノ川農協の挑戦」です。
ここで大切なのは「農業だけで頑張れと言っても展望はでてこない。小さくてもいいので、いろいろな産業が連携していくことが必要ですね」(119ページ)という、地域における農商工連携の視点です。しかもその前提として「個々の農家、農協だけで、農業が成り立っているのではなく、自然、集落、地域全体の共同があって、トマト、タマネギができている」(116ページ)つまり「地域全体の連帯、共同、共生」(110ページ)によって農業は初めて成立するという認識が不可欠です。
この実践では、ある特別の農家ががんばって成功したというのではなく、地域全体への責任を自覚した農協がリードしてきたことに普遍的意義があります。しかも社会科学的に特に注目したいのは次の点です。「地域調査をベースに活動の方向を定めてきたというのも、他の農協にはない特徴です」(110ページ)。それも「単なる形だけの調査ではな」く、「農家の生産・生活の現場に入っていって、そこで生の声を聞きだして、悩みや問題をつかんで、それを解決していくという視点から調査を行っている。ですから、調査結果を次の活動にいかすための調査をやっている。地域の息遣いをつかんでいく、ということを重視しているんですね。地味ですが、地についた調査だと思います」(同前)。さらには消費者との交流を通して「農業の価値に対する共通認識が、国民の中につくられないとならない」(115ページ)というところまで射程を延ばして、こうした意識変革を基にした農政転換をも展望しています。
個々の具体的成果については誌面に譲りますが、以上だけでも地域経済再生に向けた基本的視点と取り組み姿勢において、誰もが参考にしうる教訓があるように思います。この共通の出発点からの延長線上に地域経済再興の豊富な具体性と多様性が生まれることでしょう。
なお地域経済に関連して、農村だけでなく都市農業も見直されています。国土交通省の社会資本整備審議会都市計画部会の下に2008年5月に設置された「都市政策の基本的な課題と方向検討小委員会」の第8回小委員会(2009年3月19日開催)に提出された報告骨子案の中には、「宅地を農地に転換する」という驚くべき政策転換が述べられています。そこでの現状認識は「農地から宅地へと転換していた都市の膨張・拡大から宅地需要の減少へという時代の変化と農業の再評価、都市住民の農への関心の高まりなどの観点から農業政策との関係は重要」「これからの都市政策を考える上では、都市の生活の一翼を担っているとも言える農山漁村との共存を考慮に入れることが必要」というものです。政府の審議会の認識としてもここまできました。農村と都市の双方向から地域内循環型経済を追及する時代となったということでしょうか。以上については『前衛』6月号所収、小倉正行氏の「発展の転機に立っている日本の都市農業 都市計画法改正の動向をみる」にあります。注目すべき論文です。
グローバリゼーションの岐路
これまで、グローバリゼーション下では過剰な貨幣資本の移動を捕捉することは不可能であり、企業の海外移転も不可避、したがって投機は野放し、雇用の空洞化も当然、法人税収なども減少するので付加価値税に頼るしかない、といった「人民の犠牲=宿命」論が当然のごとくに流布されてきました。資本とその政府の立場からは、これでごり押しするのが、もっとも効率的だとされてきました。しかし今次の金融恐慌と未曾有の大不況は、このやり方では世界経済と各国民経済の再生産が破壊されることを証明しました。多少なりとも責任を自覚した政府は、上記のグローバリズムの神話に従うままでは、経済の再生はないと腹を括ったようです。オバマ政権はデリバティブの規制と多国籍企業への課税強化に乗り出しました。
米財務省・証券取引委員会(SEC)・商品先物取引委員会(CFTC)は5月13日、店頭(OTC)デリバティブの規制案を発表しました。「規制案では、事実上野放しだったOTCデリバティブ商品の売買決済の大半を従来のような相対ではなく、当局が監督する中央清算機関を通じて行わせます。さらに取引ディーラーには一定以上の資本確保を求め、当局への報告義務も課します。またCFTCとSECに対し、相場操縦や詐欺行為などの取り締まり権限や同機関を通じないOTCデリバティブ取引の報告を要求できる権限を付与。公正な取引と透明性の確保を目指します」。会見したガイトナー財務長官は「各国の追随に期待感を示しました」(「しんぶん赤旗」5月15日付)。
オバマ大統領は5月4日、税法の見直しを提案しました。1「多国籍企業が海外で税金を支払ったことを理由に減税される現行の仕組みを廃止する」、2「タックスヘイブンにある海外子会社などを利用して税逃れをする企業や富有層への課税措置を強化し」、3「海外への雇用流出を阻止する一環として、海外子会社への投資をする際に認められていた納税の先送りをやめ」るなどといった内容で、「二○一一年から実施し、今後十年間で二千百億ドル(約二十一兆円)の税収増を見込みます」(同前、5月6日付)。
金融恐慌後の一連の国際的な金融会合では、投機規制やタックスヘイブン規制が大きな流れとなっており、その中で今回オバマ政権がこうした具対策を打ち出したことは重要な意義があると思われます。生活と労働を守る経済再建の声を世界中の人々が集中するならば、多国籍企業に関するこれまでのグローバル脱税の時代からグローバル課税の時代への移行が実現し、野放し投機の源泉である過剰貨幣資本の吸収と有効活用に多少なりとも前進する可能性が開けるでしょう。グローバリズム神話を打ち破るときです。
ところでやはり「しんぶん赤旗」5月5日付の以下の記事に注目すべきです(漢数字はアラビア数字に変更して引用)。
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財務省が発表した3月末の税収実績は、前年同月比17.2%減の2兆948億円となりました。単月での落ち込み率は2008年度に入り最大。残業削減に伴う給与の減少などにより、税収に占める割合の大きい所得税が5309億円と33.8%落ち込んだことが響きました。
所得税以外では、法人税が34.7%減の1887億円、消費税は輸出の落ち込みに伴う還付金の減少で5.2%増の5313億円でした。
3月末時点の累積税収は、前年同期比8.2%減の34兆9983億円でした。
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驚くべき内容だといえます。税制を弱肉強食に改悪してきた一つの到達点がここに現れています。景気悪化を受けて、法人税が大きく落ち込み、所得税もそれに準じているのに対して、消費税は増えています。もともと消費税は「景気に左右されない安定財源」という狙いを持っていましたが、この局面でのコントラストは鮮烈です。しかも輸出大企業に対する消費税免税(=還付金発生)という悪名高い措置が見事な「成果」を発揮して、「輸出の落ち込みに伴う還付金の減少で」消費税収が増加しました。日本のような輸出依存型経済においてさらに輸出優遇の消費税制を採用していると、消費税は景気に左右されないどころか、世界的不況で輸出が落ち込むと増収になるのです。
本来、資本主義国家の財政は景気循環の影響を緩和するビルトイン・スタビライザーとして機能します。税収についていえば、不況時には徴税額を減らして民間の負担を減らして景気回復を促し、好況時には徴税額を増やして民間の負担を増やし景気加熱を抑えることになります。ところが所得税の累進構造を緩和し、消費税収の割合を高める弱肉強食型税制を推進してきた結果、景気循環を緩和しにくい税制のあり方に変質してきました。もともと景気循環によるスクラップ・アンド・ビルドは、資本にとっては厳しい側面がありつつも、効率化推進に作用するものであり、資本主義体制の本性に属します。しかし働く人民にとっては景気循環は無慈悲に作用するため、それ自体を緩和する経済政策があり、あるいはその影響から生活を守るための社会保障制度があります。資本のむき出しの利益のためにそれらを破壊したのが新自由主義的構造改革です。「マネーの独走は、過去の苦い経験のなかで築かれてきた『社会的安定化装置』を根こそぎにしてしまった。ビルトイン・スタビライザーが機能しないからこそ、G20をやってみたり、金融規制策に悩んだりせざるをえないわけですね」という内橋克人氏の嘆き(宇沢弘文、内橋克人両氏による連続対談「新しい経済学は可能か3 人間らしく生きるための経済学へ」、『世界』6月号所収、44ページ)はまったくもっともなことです。
輸出促進型消費税については、ビルトイン・スタビライザー機能に逆行するという循環的側面よりも、国民経済を輸出偏重にするという構造的側面のほうが問題かもしれません。いずれにせよ上述のように「多国籍企業が海外で税金を支払ったことを理由に減税される現行の仕組みを廃止する」政策をオバマ政権が取ろうとしているとき、日本の税制の歪みも是正されねばなりません。グローバル脱税からグローバル課税へと時代は移行できるか。オバマ政権の動きはその兆しを感じさせるものであり、昨今の日本の税収実績は反面教師的にこの移行の必要性を感じさせるものです。
<お詫びと訂正>
上記のオレンジ色の部分については、初めに引用した新聞記事の統計数値の信憑性に問題があるので、お詫びして撤回します。
上記のように5月5日付の3月税収についての記事では同月の税収実績は2兆948億円、所得税は5309億円、法人税は1887億円、消費税は5313億円、3月末時点の累積税収は、34兆9983億円となっています。
ところが財務省ホームページの5月29日付「国庫歳入歳出状況」では、同月の税収実績は3兆3145億円、所得税は1兆8332億円、法人税は2068億円、消費税は7726億円、3月末時点の累積税収は、27兆4339億円となっています。
消費税については、前年(2008年)の3月の歳入額は1兆1031億円となっており(2008年5月20日付)、今年3月の7726億円というのは大幅な減収となります。
上記拙文のオレンジ色部分については、一般論として成り立つ部分も多いのですが、「大不況下で消費税収が増加する」というハイライト部分にデータ的に疑義が生じたので、撤回します。たいへんに失礼いたしました。
資本主義経済発展が下からの内発的発展として行なわれるとき、農業から手工業・商業が分離し、軽工業・重工業の発展を経て、生産手段生産部門が機械制大工業によって確立することで、物的生産の再生産構造を確定させながら、その上にいわゆる第三次産業が徐々に成立するといった順序をとります。この場合には一定の政治的民主化と人民のそれなりの生活水準の尊重を前提として、内需の役割が比較的に大きい国民経済のあり方が出現します。しかしこの「典型的」ケースはイギリスなど少数の先発諸国だけで成立しうるものであり、他国ではおおむねイギリスを中心とする世界資本主義の圧力に促されて上から資本主義化を行なうか、あるいはそれに失敗して植民地化の憂き目にあうことになります。上からの資本主義化や、植民地としてあるいは独立後の資本主義化の場合には、下からの内発的発展とは違った促成栽培の歪みがそれぞれ独自に現れます。
さらにグローバリゼーション時代には、多国籍企業の企業内世界分業の一翼を担うモノカルチャー型経済、あるいはそこまでいかないまでも、本来の国内の再生産構造に不自然に接ぎ木したような外来先端工業に主導されるような国民経済が見られます。また国境にはかつてのような意義はない、というようなイデオロギーも広がり、下からの内発的発展としての資本主義国民経済のあり方はもうありえない、という見方が主流となりました。しかしこのようなグローバリゼーションの神話は決して宿命ではない、ということが、アジア通貨危機から今回の金融恐慌に至る、世紀をまたぐ経済的激動とそれへの対抗の中から現れてきたのではないでしょうか。新自由主義的グローバリゼーションとは一線を画した国民経済のあり方が様々に模索され形をとりつつあります。
グローバリゼーション下で東南アジアと中南米とは対照的な歩みをしました。前者は勝ち組であり、後者は負け組です。注目すべきは、それぞれの国内政策と国際的位置とがねじれていることです。東南アジア諸国は開発独裁政権などもを含み、必ずしも新自由主義的でない、国家の役割の大きい経済政策を実行することで工業化を達成し、それによって新自由主義的グローバリゼーションの中で国際的に成功しました。逆に中南米諸国は徹底した新自由主義の実験ともいえる経済政策によって、格差・貧困の拡大を招き、国民経済の疲弊によって、グローバリゼーションで敗退し犠牲者となりました。
アジア通貨危機に際して、多くの東南アジア諸国がIMFコンディショナリティを受け入れて危機を増幅したのに対して、マレーシアは「金融鎖国」などという「国際非難」をものともせず独自路線を貫いて相対的には成功しました。このことによって東南アジア諸国は米国主導の新自由主義的グローバリゼーションから独自に距離を置いて、ASEAN主導で東アジア経済圏を確立する方向へとさらに踏み出しました。必ずしも新自由主義的ではない国内の経済政策によって、国際的にはグローバリゼーションの中で成功した諸国ですから、グローバリゼーションそのものには親和的ですが、米国や多国籍企業の言いなりではない、国民経済と東アジア地域経済を作ろうとしています。
中でもインドネシアが注目されます。同国は周辺諸国とは違って、今時の世界金融危機に際しても、今年も4.5%の経済成長を見込んでいます。これは一つには、タイやマレーシアと比べて輸出依存度が低く、欧米市場衰退による輸出減の打撃が少ないためです。また比較的に個人消費が堅調だともいえます。当地の経済学者たちは以下のように指摘しています。「工業国でないため、政府は自然な形で国内市場を重視し、一定の努力をした」。「貧困層が多いのに消費が強いのは、消費の約四割が食料で、政府が食料価格を低く維持し、成長で貧困率や失業率も低下したからだ。マクロ経済・通貨の安定を図ってきたのはユドヨノ政権以前からで、強い購買力も、(民主化した)一九九八年以降の改革プロセス全体の成果だ」(「しんぶん赤旗」5月5日付)。グローバリゼーション下、発展途上国においても、内需主導の下からの内発的な国民経済発展は不可能ではない、という見本がここにはあります。しかし貧困層や労働組合からは、現政権を新自由主義的とする批判もある(同前、5月10日付)ので一面的な評価は避け、今後も注視したいところです。
一方、中南米諸国は新自由主義政策による経済の荒廃で民衆の怒りが爆発し、左派政権が続々と誕生することになりました。ここでも今回の経済危機の打撃は大きいですが、諸国政府はそれぞれのやり方で雇用の維持に努め、国民経済を守ろうとしています。さらに新自由主義からの離脱の動きは各国政府がそれぞれに努力するだけでなく、政治・経済・金融などで重層的に中南米地域での共同によって追及されています。その上、この地域の変革だけでなく世界経済の変革にも共同の力は生かされています。
2009年4月のG20サミットでは、「金融監督・規制の強化でも、国際金融機関の改革の問題でも、これまでより踏み込んだ内容が合意され」ました(菅原啓「世界金融危機とラテンアメリカ 新自由主義からの離脱、進む地域共同」152ページ)。さらに「注目されたのは、アルゼンチンとブラジルが、声明案にあった『柔軟な労働市場』という文言に強く反発して削除を求めたこと」(同前)であり、削除させることに成功しました。これは、新自由主義の克服という課題において、金融だけでなく実体経済での変革をも求めるという意味で、アルゼンチンとブラジルが根本的な立場に立っていることを示すものです。左派とはいっても、ベネズエラのような急進的左翼政権よりは穏健とみられる両政権であるけれども、西欧社民を超える位置にあることがわかります。
以上のように、これまで常識とされてきた新自由主義のグローバリズム諸神話が様々なレベルで打ち破られようとしています。日本においてもこの流れを太くしていくことが必要です。
経済学のあり方について
民間に任せればうまくいく、うまくいかないのは規制のせいだ、という新自由主義の教条が今だに多くの政策に浸透しています。論より証拠。事実を突きつけて打ち破るのが大切です。
少子化対策として保育所の増設は急務です。保育制度の大幅な改変を狙う厚生労働省は、「現行の都道府県による認可に代え、客観的な基準を満たせば参入自由とする指定事業者制を導入する方向を打ち出しました」(「しんぶん赤旗」5月18日付)。この制度改変の論拠としては「都道府県に、認可の可否の判断に対する幅広い裁量が認められ…待機児童がいる市町村で、かつ、客観的な基準を満たしている事業者からの申請であったとしても…必ずしも認可されない」ことが挙げられています(同記事)。ところが同紙の調査では、厚労省保育課ではそのようなケースをつかんでおらず、47都道府県の保育所認可担当者への聞き取りでも、そういうケースはないという回答でした。制度改変の論拠とされたのは、「都道府県の認可という規制のせいで保育所ができない」という無責任な規制緩和の神話、机上の空論であったわけです。
そもそも保育所が増えない最大の問題は、国と地方の保育予算が少ないことです。規制緩和神話の屁理屈はこのことを隠蔽しています。しかも指定事業者制では、保育の質の低下や予算削減も懸念されます。この記事は、現実を無視して新自由主義の教条から出発することがいかに危険か、そして事実の調査で本当のところを解明できることを教えてくれます。もっとも、拙文も思いつきと思い込みで書いている部分が多いので自戒しなければいけませんが…。
宇沢弘文、内橋克人両氏による連続対談が『世界』6月号で第3回となり「新しい経済学は可能か3 人間らしく生きるための経済学へ」と題してヒートアップしてきました。その中には私としては賛成できない点もいくらかありますが、全体としてはきわめて大切で厳しい内容であり、是非とも研究者も一般の人々も心して読むべきものだと思います。宇沢氏が研究者のモラルについて具体的に述べていることもたいへんに重い内容で印象深いのですが、スミス、ミル、ヴェブレン、ケインズ、ベヴァリッジと経済学史を概観した部分がよりいっそう興味深く感じられました。
宇沢氏は、スミスの『国富論』は『道徳感情論』の問題意識を掘り下げた書物であるとし、ミルの『政治経済学原理』は『自由論』の経済学的エッセンスであるとしています。スミスについては「彼の心にはいつも、植民地化されたスコットランドの悲哀が流れている。自然、国土を大事にして、そこに生きる人々すべてが人間らしい営みをすることができるというのが、アダム・スミスの原点です」(42ページ)と語り、自由放任論を中心にしたスミス観を否定しています。スミスもミルも、まず人間の生きる社会についての哲学があり、その分析として経済学がある、ということでしょう。宇沢氏の「講義」を受けて、内橋氏が語ります。
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結局原点は、人間が人間として人間らしく生きていくためにこそ、豊かさや、もろもろの道具としての財、つまりは経済の力が必要なのであって、決してその逆ではない。また、それぞれ歴史的な系譜の中に位置づけられる思想家、経済学者の方々自身の、生き、考え、暮らす、そういう人間形成のあり方そのものが、優れた思想的結実へと結び付いていくのだというお話……。たいへんに感動的でした。 43-44ページ
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学問を単なる知識の集積として捉えるのではなく、人間の実践活動の一部として捉え、それ故理論には歴史性や生活のあり方が刻印されることが語られています。その刻印されたものは決して不純物ではなく、「優れた思想的結実」とされています。当然のことながら理論は洗練を目指します。しかしながらどうあがいても研究者のあり方そのものから逃れることはできません。きわめてエレガントな一般均衡理論もまたイデオロギー性の濃いものです。経済学とは人間らしく生きることを目的とするものであるとするならば、特にこのことは銘記されるべきです。生きた人間が生きた社会を解明することが本道であり、あくまでその手段として分析用具の洗練は必要となるのです。資本主義社会では、歴史貫通的な社会のあり方に比べると、人間の生活と経済力との関係において、目的と手段とが転倒しており、それを無批判に反映する理論もまた転倒した構造をしています。だから今日の「経済学批判」とは、人間が手段で経済が目的となった理論を再転倒させて、きちんと足で立たせることだといえます。これだけ言うのは簡単なのですが、実際それを実現するのは、現実と理論との緊張関係の中で、cool heads but warm hearts を貫いていけるのか、というところで試されることになります。
ところで宇沢氏は「経済的動機だけで動く心をもたない経済的主体と見る新古典派」と並べて「階級的な思考で人間の行動を考えようとする」マルクス(43ページ)と捉えていますが、少なくとも後者については、単純化があります。マルクスは歴史貫通的な経済社会のあり方を前提に、歴史的展開として市場や階級を解明しています。労働価値論はそうした構造をもつことで、市場経済や資本主義経済を相対化して見ることを可能にしました。ここで宇沢氏が紹介し、かつて都留重人氏が言及したこともある、ミルの「定常状態の経済」というのはおそらく一種の未来社会論なのであり、今日的にはたいへんに興味深い問題提起でもあります。マルクスもまた階級社会を止揚した後の未来社会における自由について考察しています。今日の資本主義経済の激動の中で、新自由主義批判を貫くには労働価値論という基礎が必要であり、しかもその射程は人類史の過去・現在・未来を射抜くものであろうと私は考えています。
その意味では、宇沢・内橋対談はきわめて真摯で鋭い批判力に満ちていますが、それはまだ未完の批判であって、本来はマルクス経済学の研究者が継承すべきものだと私は思っていますが…。ただ経済学史を的確に鳥瞰し、それを縦横に駆使しつつも、ファクト・ファインディングと結びつけて現状分析を深めていけるような研究者は、宇沢氏の他にやはり近代経済学の大御所の伊東光晴氏くらいしか私は思い浮かばず、現存するマルクス経済学者の中に果たしているのだろうか、という気もしていますが。
宇沢氏があげるスミスやミル以下の偉大な経済学者たちだけでなく、新古典派など現代の近代経済学者たちについても、私は残念ながら不勉強なので、誠に安直ではあるけれども新聞記事に頼ることにします。社会経済学者の松原隆一郎氏が「朝日」5月25日付の「論壇時評」で「経済学の行方 いまこそ発想の新機軸を」と題して今の経済学の状況を批評しています。松原氏もエコノミストのモラルを問題にしています。宇沢氏は上の対談の中で、竹中平蔵氏の過去における研究者としてのモラル欠如を具体的に批判していましたが、松原氏は今日の日本の大不況に対する竹中氏の責任を問い、その開き直りぶりを理論的に批判しています。
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構造改革によって供給の効率を高めれば需要は自動的に増え、一国経済は自律的に発展するというのが彼のサプライサイド思想である。この論法では、都合の悪いことはすべて反対勢力のせい、うまく行ったことは構造改革の成果となる。どう転んでも反証されないのである。需要が不足しているときに供給力を強化すれば需給ギャップは拡がり不況は深まると思われるが、そうした反論は受け付けない。
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以前、竹中大臣が国会の場で「セーの法則」という言葉を使って答弁していたのをテレビで見たことがあります。マルクスのみならずケインズによっても批判されたものでも、新古典派の基本原理であれば政策上も固守するのが「学者大臣」の姿勢ということだろうか。供給が自動的に需要を作り出さなかったことは、この間の人々の厳しい経験の中で痛感されているはずですが…。これは先述の厚労省の保育制度改変の論拠とされた事実無根のドグマと同様のものです。
次いで松原氏はアカデミズムの最先端の現状を紹介しています。それは先の宇沢・内橋対談の目指す経済学の志とは無縁で、逆にそこで批判されている体制擁護論(内橋氏の言う「権論」)の寒々とした風景を呈しているように見えます。
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個々の主体は政策や技術にかんする将来の外生的ショックを予想しつつ最適化行動を取るというのはM.フリードマンに発する想定で、そこに参加者が一人だけ、情報や競争が完全な純粋市場といった単純化(RBC=リアル・ビジネス・サイクル・モデル)が施される。そのうえで情報が不完全な場合、価格が硬直的な場合、職探しに費用がかかる場合といった条件が加わると、インフレ目標という金融政策や、労働の流動化促進という政策提言が導出される(DSGE=動学的一般均衡分析)。現在の若手研究者たちは、専門家の称号を勝ち取る条件として、甚大な労力を投じてこの思考法を修得し、論文を完成することを課されているのである。
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不勉強な私から見ると、ここには資本主義経済の本質がどこにもない徒労の研究が行なわれているとしか思えないのですが、ともかく松原氏は、この理論に対して論壇に出現した内在的な諸批判を紹介した後、以下のように論断しています。
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そもそも物々交換モデルであるRBCでは、相対価格が収縮すれば需給は均衡するから、価格の硬直性でしか不況を説明できない。賃金が下がれば失業はなくなると見るのである。一方ケインズは『一般理論』で、賃金が下がっても総需要が縮小し不均衡が拡大する可能性を語っている。貨幣を保有したまま使わない人がいれば不況になると示唆したのである。バブルやその崩壊は、貨幣経済に特有の現象ということだ。
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おそらく新古典派の若手研究者たちにしてみれば、自分たちの精緻な研究に対して先輩の社会経済学者から冷や水を浴びせられた感じではないでしょうか。蛸壷の中にいることを反省してほしいと思うのですが、しかし構造改革を懺悔して新自由主義を撤回した中谷巖氏に対して彼らが浴びせた「経済学を勉強したことがない」という非難を松原氏にも向けそうな気もします。それはともかく、資本主義経済の諸矛盾は貨幣を通して現象するのだから、「物々交換モデル」ではなく貨幣論が問題にされねばならないのは当然ですが、資本蓄積の本質、再生産構造、そこから産業循環の動態といったところまで進まなければならないでしょう。ケインズの貨幣論で終わるわけにはいきません。それに「賃金が下がれば失業はなくなる」というのも新古典派では当り前だろうけれども、まったくとんでもない議論で、ワーキングプア当然視論です。派遣村と大不況を見よと言いたい。労働力の価値以下の賃金が一般化することで労働者の生存が脅かされ、国民経済の再生産も困難に陥っている日本資本主義の現状を直視すべきでしょう。ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』に倣って、エリートたちは要するに馬鹿なのだ、と言うべきでしょうか。
2009年7月号
世界的金融危機の歴史的意義
井村喜代子氏の「現代資本主義と世界的金融危機」は、「今回の世界的金融危機は資本主義の歴史では経験しない新しい質のものであって、これまでの危機とは比べられない深刻な内容をもっている」(67ページ)と評価しています。そしてこの危機を生み出した米国での金融取引膨張を詳細に分析して、金融が実体経済を振り回す歪んだあり方に焦点を定めて批判しています。その際に、金・ドル交換停止による初期IMF体制の崩壊を画期として重視し、その前後の対比が強調されます。
初期IMF体制においては、「通貨膨張・信用膨張、財政赤字への歯止めが存在しており、『国際資本移動の規制』の各国『管理』が認められて」(68ページ)おり、その持続的高度成長は、技術革新や消費拡大などの「実体経済に根ざした成長であった」(同前)とされます。それに対して初期IMF体制崩壊後は、実体経済から独立した投機的金融活動に移行し、実体経済においても革新的な新生産方法開発などによるよりも競争市場原理による徹底的な効率化・コストダウンによるそのかぎりでの経済再生である、として批判されます。
最後には危機対策の現状が根本的に批判されます。
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投機的金融活動を極力抑制し、実体経済の立て直し、安定した国際通貨体制の立て直しをはかっていかないかぎり、世界大での金融救済の拡大と膨大な財政赤字累増による財政ばら撒きは、国債発行難、インフレ、国民負担増の拡大、貧困層の拡大等の危険を生みだすとともに、世界的な投機的金融活動が新しい部面で新しい投機・バブルを発生させていく危険を増幅することになる。 81ページ
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これは今回の世界経済危機を、今までにない新しい質のものとして捉え、とりわけ金融と実体経済の歪んだ関係を問題にする姿勢から出てくる見解です。金融救済や不健全で大幅な財政支出が危機対策の名の下に当然視される大勢に抗して、根本的な立て直しを提起することが重要です。この点では金融機関への公的資金の投入や金融緩和政策に対して志位和夫日本共産党委員長が以下のように批判していることが想起されます。
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これは金融危機にさいしての対症療法にすぎません。高熱が出たときに、熱さましが必要なときもあります。しかし、これをやるとお金がまた余ってくるわけですよ。そしてつぎのバブルを起こし、それがまた崩壊する。そのたびに被害にあうのは実体経済であり、諸国民の暮らしです。世界の資本主義がそうした悪循環のなかに落ち込んでいるように思われます。まさに、「カジノ資本主義」の破たんです。金融の自由化路線との根本的な決別、転換が求められていると思います。 「しんぶん赤旗」2009年1月1日付
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ところで井村論文では、主に米国金融の分析から現代資本主義における金融と実体経済との歪んだ関係が解明されましたが、金融危機下に急速に悪化した実体経済そのものの問題点についても多くの論考が見られます。その中から『前衛』7月号の藤田実氏の「世界恐慌と日本型生産システムの危機 なぜ日本の製造業は急速に深刻な恐慌に転化したのか」を取り上げます。
その次に以下のことを考えたいと思います。井村論文には初期IMF体制の崩壊前後を対比する図式があり、実体経済と金融のそれぞれのあり方、あるいは両者の関係においても相対的には崩壊前の方が健全であると判断されているようです。これはケインズ主義から新自由主義への経済政策の転換を問題にしつつ新自由主義を批判する立場(現状では勢いがある)とある程度重なり会う観点のように思われます。しかしケインズ政策に戻せばいいというものではないことは、上記の井村氏の経済政策批判にも明らかです。この政策批判の根拠をより明確にするためには以下の問題意識が必要だと思われます。初期IMF体制崩壊前後に対するいわば善悪の対比図式はその限りでは正当だと思われるが、より根本的に長いタイムスパンの中において資本主義の本質的矛盾という根源的な視点から捉え直すことも必要ではないか。これです。
まずは藤田論文です。「不況を深刻化させた経済・産業構造と日本型生産システムのゆがみ」(90ページ)として(1)産業構造のモノカルチャー化、(2)生産過程と流通過程のネットワーク統合、(3)労働力のフレクシビリティ の3点を上げています。単純化していえば、いずれも最高度の効率化追及の果てに奈落に落ちたという格好でしょう。
6月号の鈴木文熹氏の「トヨタ城下町にみる貧困と反貧困」で、豊田市が自動車産業モノカルチャー都市と規定されているのを見てなるほどと思ったのですが、藤田氏は2000年代日本の経済・産業そのものがアメリカ市場と自動車に依存したモノカルチャー的構造になっていると喝破します。衝撃的事実です。少なくとも1980年代には自動車と電機という二つの産業が産業構造の基軸となっていたのが、90年代以降は電機産業の凋落により自動車だけになり、自動車の販路はアメリカ中心であることから、日本経済のモノカルチャー化が進んだということです。しかも自動車産業は産業連関が幅広いのでその生産調整は日本経済全体に波及し不況を深刻化させました(91ページ)。この惨状は効率至上主義で企業のリストラからさらに国民経済のリストラに進んだ結末ではないでしょうか。「非効率的な」農林漁業・中小企業・地場産業などをスクラップして、「効率的な」モノカルチャー型国民経済へとリストラすれば、資本蓄積の高揚期には強さが際立って見えます。しかし過剰生産が顕在化すれば、バッファーを失ったアンバランスな国民経済はスパイラル的に下降します。
「生産過程と流通過程のネットワーク化」と「労働力のフレクシビリティ」の強化とは市場の需給動向に即座に対応できる生産体制の構築であり、利潤追及のための最高度の効率化を企業内に合理的・計画的に確立したということになります。しかし資本主義経済は無政府的であり、個別資本は儲かるときには他を押し退けて前のめりになって儲けようとし、失速すれば労働者や他の資本にいかに犠牲を転嫁するかをめぐって厳しい競争を繰り広げます。こうした資本間競争による急発進と急ブレーキが資本主義経済の恐慌・産業循環を形成します。したがって資本主義的市場は俗に信じられているような理想的な均衡作用を演じるものではなく、暴力的調整をその本質としています。だから企業内の計画性を究極まで追及して市場即応体制を完璧に築くということは、逆に無政府的な暴力的市場に即応することになります。個別企業がリストラなどの不況対策をすることが国民経済全体としては不況を悪化させることを合成の誤謬といいますが、市場即応のための企業内計画性の追及は(それが未確立の場合と比べて)生産の無政府性を増幅させることになるのです。歴史貫通的視点からすれば、生産物への需給動向を的確に把握できることや多能工化のような労働力の質の向上などは良いことです。しかしそれは長期的観点から生産のあり方に生かせることが前提です。資本主義的経営、特に今日の株主資本主義の立場からもっぱら短期的視点で市場状況に即応するために、「生産過程と流通過程のネットワーク化」と「労働力のフレクシビリティ」の強化が行なわれる場合には、恐慌・産業循環を導く市場の暴力性を増幅することになり、人々の生活が破壊されます。俗流経済学の見方では生産力の内容と生産関係、あるいは歴史貫通的なものと特殊資本主義的なものとが区別されないので、生産過程において内容的によさそうに見えるものが、資本主義的形態においては働く人々に不幸をもたらすことが理解されません。逆に資本主義的利用形態そのものが美化されリストラ推進に利用されます。
確かに今次の経済危機は世界金融恐慌を起点とする世界的大不況(ないしは世界恐慌)となっており、特に金融化を中心に見る必要があり、藤田論文などの直接的生産過程の分析は危機の全体像からは部分的なものに見えます。しかし金融化をも貫く基底は過剰生産恐慌であり、それへのブルジョア的対応の諸形態が様々に発現しているのです。だからあえて企業内での計画化と生産の無政府性との矛盾という教科書的な規定にも触れました。このように資本主義経済の諸矛盾の芽は直接的生産過程にあり、それを忘れないことが大切ですが、問題は、過剰生産の衝動が、資本主義経済の歴史の各段階において、各国政府の実施する経済政策のあり方、あるいは国際通貨体制のあり方などを通じてどのように現れてくるのか、を確認することです。逆にいえばその解明を通じてあらゆる現象の基底に、搾取制度としての資本主義の直接的生産過程から発する過剰生産恐慌の根を確認することが必要なのです。そこから今次世界恐慌の提起する資本主義の限界を看取することが可能となり、それを基準とするならば昨今のケインズ主義的対応の意義と限度を判断することもできます。
松本朗氏の「戦後物価変動の変容と経済危機」(『立命館経済学』国際経済学科設立記念特別号 2009年5月 所収)においては、過剰生産恐慌の爆発とその発現形態の変容について、金本位制から不換制へ、IMF固定相場制から変動相場制へ(井村氏の用語に従えば初期IMF体制の確立後から崩壊後へ)という資本主義経済の歴史的変遷の中で考察されています。
松本論文の入り口は「経済諸変数の変化の結果としての物価変動分析」(175ページ)です。金本位制においては「物価は基準年の上下約20%程度に満たない、景気循環に伴う周期的な変動で」(177ページ)した。「金本位制のときには兌換という装置の結果、物価変動は一定の幅に収まるが、価値破壊というかたちでの強制的な経済調整が進んで」(181ページ)いくからです。全般的な過剰生産恐慌が襲うのです。
兌換が停止され管理通貨制度に移行すると、恐慌対策として赤字国債が発行され、実体経済とは無関係な追加資金が国民経済に供給されます。こうして、景気過熱によって価値以上に騰貴した価格が価値に向かって下落すべきところを過剰な資金供給で下支えすることになるので、「流通必要量を上回る通貨供給」となり、インフレーションが発生します。インフレ過程では、「本来価値破壊されなければならない部分が価格転嫁によって解消され」(182ページ)、結局、一般家計が負担することになります。
「このように資本主義的経済に必然な過剰生産を調整するための『価値破壊』は、通貨と金との関係が兌換によって一定に保たれている金本位制の時には恐慌という形で、不換通貨になった管理通貨制ではインフレーションという形で現れ」(同前)ます。
ところで不換制でインフレーションの可能性があるからといって、一方でそれをまったく放置すれば不換銀行券の信用がゆらぐことになるから、中央銀行にとっては銀行券の価値を維持する(物価を安定させる)金融政策をとる必要があり、他方では為替相場を維持するために自国通貨の価値を維持する必要があります。こうしてインフレーションの発生は一定程度抑制されます。そこで「戦後のインフレーションの発生を考える場合には国際通貨制度の枠組みを通して問題を考える必要があ」(182ページ)ります。だから戦後の物価動向を見るには、基軸通貨国アメリカとその他の周辺国とを区別しまず前者を中心に見ることが必要です。戦後アメリカ経済においては、傾向的な財政赤字の累積に対応して持続的な物価騰貴が見られます。これに対して、他の発達した資本主義諸国ではどうかとうと、IMF固定相場制の時代には、為替平価(基軸通貨ドルとの固定関係)を守る義務によってインフレーションに対して一定の歯止めがかかり、物価騰貴が「アメリカを軸にして一定幅に収まってい」(183ページ)ます。しかしアメリカではベトナム戦費などによる財政赤字が進み、国際競争力の相対的低下による経常収支の赤字も慢性化しており、世界的ないわゆる高度経済成長もこうしたアメリカ経済を起点とする軍需インフレ蓄積によって実現されたことが忘れられてはなりません。
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こうして、金ドル交換性と固定相場制の維持義務という歯止めのかかる中で、インフレーションがじわじわと進行する状況が生まれたのである。しかし、固定相場制維持義務という枠組みの中で、世界各国のインフレと経常収支の不均衡、特に基軸通貨国アメリカの経常赤字拡大という矛盾が累積していった。その結末が、金・ドル交換制停止と旧IMF固定相場制の崩壊である。 183ページ
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こうして初期IMF体制の崩壊により、1970年代から80年代前半にかけて世界的に物価騰貴が起こります。対抗措置としての経済政策の中で実体経済が停滞し、全般的な過剰生産と貨幣資本の過剰が起こり、90年代以降の金融投機とバブル経済の時代を準備していきます。そこでは周辺国においては物価の安定の一方で資産市場における価格の騰落で経済調整が行なわれるようになります。それに対して基軸通貨国アメリカには世界の過剰貨幣資本が集中し、バブル現象からインフレが継続します。
以上の経過と今日の経済危機を松本氏は以下のように総括しています。
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(1)資本主義経済が内包する過剰生産という矛盾を戦後の世界経済は、インフレーションという形で克服しようとしてきた。(2)しかし、インフレーション(名目的な物価変動)政策の(に? 引用者)よる所得再分配を通して過剰生産を処理しようとする矛盾は、結局、スタグフレーションという形で破綻する。(3)その後、世界経済は金融資本市場の拡大という形でそれを克服しようとするが、キャピタル・ゲインという架空利得による需要喚起によって過剰生産を処理しようとしても架空性は克服できなかった。(4)むしろ、現代資本主義の信用膨張力の大きさは、架空資本の拡大による矛盾をこれまで以上に深刻化させ、その調整を困難にしていると言えそうである。つまり、現在の経済危機の深刻さがそれを示している。 187ページ
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この総括に先だって、過剰生産の金融的処理の架空性について詳しく述べた部分を引用します。
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80年代を通して、スタグフレーションという形で現れた資本主義経済における過剰生産の矛盾は、解決されたように見えた。しかし、それは過剰な貨幣資本を資産市場という「閉じられた空間」にいったん迂回させ、信用を膨張させることで超過需要を創出し(アメリカの巨額な経常赤字)、過剰生産を処理するという形に変容したにすぎなかった。資産市場でのバブル的な価格騰貴とそこから発生する超過需要は、キャピタル・ゲインに基づく実体的な裏付けのない需要であるから、その需要の裏付けとなる利得を保証する損失は、いずれはどこかの誰かが負担することになる。バブルによる過剰な需要もまた、価値以上の価格の騰貴によってもたらされた架空需要であるから、その架空性が表面化すれば強制的に調整される。この調整はまずは金融市場の崩壊と金融危機となって現れ、多数の金融機関の倒産と不良債権を処理するための公的資金の投入、そして実体経済の収縮という形で行われる。現在進んでいるアメリカ発の経済危機の本質はここにあるといえる。
186ページ
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根本にあるのは過剰生産の矛盾であり、資本主義経済はそれを歴史的に様々な形に変容させてきました。初期IMF体制崩壊後の新自由主義段階において最高度の金融的架空性の中に糊塗してきた矛盾が今次の経済危機で露呈しました。そこで当面する対策はカジノ資本主義を退場させるための様々な方策であり、それは初歩的とはいえ、アメリカのオバマ政権や国際的な種々の金融問題会合においても着手されようとしています。投機の規制から始まって、過剰貨幣資本を吸収し再分配して、貧困や環境問題などに役立てることまで進むことが必要です。すでにこれらは、現在緊急対策として行われている金融救済や財政スペンディングとは次元の異なる政策です。さらにその先には資本主義的過剰生産そのものへの対策が必要です。新自由主義のトリクルダウン理論とは真逆の、人民の生活を温める政策や地域経済の復権などによるボトムアップ型で内需主導型の国民経済と、その連合としての下からのグローバリゼーションへの道です。恐慌・産業循環を激化させる資本間競争を規制し、インフレ政策に頼るのでもない、長期的な再生産構造を見渡した経済政策を実施できる主体が登場することが求められます。当面の変革をどう性格づけるかという問題とは別に、そうした主体の中心となるのはケインズ主義を超えた社会主義志向の勢力であることは確かだろうと思います。もちろん立場は違っても、社会民主主義、市民主義、ケインズ派、その他新自由主義的構造改革の被害者である保守的な人々なども含めた広範な層と手を組んで、カジノ資本主義の克服から始まって、逆流と闘いながら内容的に一歩一歩前進することが必要です。
せっかく理論と現状分析の諸労作を前にしながら、以上は教科書の初級レベルの内容の確認に終わった憾みがあります。妄言多罪。
蛇足ながら、不換制下でのインフレーションと恐慌について若干。
資本主義的過剰生産の調整は、兌換制下では恐慌、不換制下ではインフレーション、と一応図式的にいうことができますが、不換制下でも恐慌・産業循環そのものが消えるわけではなく、それを赤字国債でどこまで買い取れるかに応じて恐慌的現象の現れ方が違ってくるでしょう。不換制下でも今日のようにインフレ政策がだいぶ難しいときには、かつては死語であった「恐慌」という言葉が一般的にも復活しています。
実体経済の次元で考えれば、不換制においては、インフレーションの展開とそれへの歯止めとの拮抗のあり方が、過剰生産を調整する価値破壊のあり方を規定し、より激烈な恐慌現象的なもの(倒産・失業など)になるか、より緩慢な人民の所得収奪的なもの(物価高による賃金の目減りなど)になるか、ということに影響するのではないでしょうか。もちろん生産力発展や資本蓄積の大きさが基礎にあり、「経済成長によって資本主義の諸矛盾を買い取る」という要素は見逃せませんが、それが「成熟した」資本主義経済では難しくなっている下で、今日では価値破壊のあり方の意義が大きいといえます。初期IMF体制崩壊後の新自由主義段階においては、累積財政赤字を背景にしながら、インフレーションを抑え込むために福祉切り捨てなどの形で財政規律を強化することにより、価値破壊のあり方がより恐慌現象的になってきたといえそうです。
実体経済におけるインフレとディス・インフレとの拮抗のこの困難を迂回的に回避するのが、信用膨張による金融投機化であり、資産市場のバブル経済です。サブプライムローンに見られるように、住宅価格バブルが個人消費を刺激して実体経済の好況を演出しました。しかしその架空性が露呈したとき問題は振り出しに戻り、激烈な価値破壊と恐慌に帰結しました。この出口はもはやインフレ政策ではありえず、上記のような実体経済の健全化が必要となるでしょう。
2009年8月号
世界恐慌における実体経済・金融・国際通貨体制
アメリカ発の世界金融恐慌から始まった今次世界恐慌に際して、実体経済と金融との関係の捉え方が一つの焦点となっています。先月号では井村喜代子氏の「現代資本主義と世界的金融危機」などに学んだのですが、今月号では、友寄英隆氏の「日本経済の現局面をどうみるか 二○○八/○九年世界恐慌と日本資本主義」が総括的に論じています。また『前衛』8月号所収の二論文、鳥畑与一氏の「国際基軸通貨としてのドル特権はどのように揺らぎ始めたか」と平野健氏の「現代アメリカ経済の構造と今日の経済危機」もきわめて学ぶところの多い労作です。
今次世界恐慌は「百年に一度の危機」とも言われ、1929年の大恐慌とアナロジカルに対比されることが多いのですが、友寄氏はより現実的に「一九七四/七五年世界恐慌以後はじめての本格的な世界恐慌である」(18ページ)とする視点から論じています。生産力的には「多国籍企業化した巨大独占資本が、ICT革命による生産と流通の『大合理化』を強行し、生産と資本の集積・集中の新たな段階のもとで起こった最初の世界恐慌で」す(同前)。そして「多国籍企業による再生産の国際的絡み合いは、グローバルな規模で展開されてきた資本蓄積の矛盾(グローバルな「生産と消費の矛盾」)を作り出し」ています(20ページ)。また金融自由化の徹底により、景気循環に中心的に影響するものが、実体経済の有効需要の動向から金融資産価格など金融の動きに変わってきました(ケインズ的景気循環から新自由主義的景気循環へ、19ページ)。
1974/75年恐慌は、1971年の金ドル交換停止による(井村氏の用語によれば)初期IMF体制の崩壊過程に、いわば国際的なケインズ主義体制の決算として起こったといえます。これに対して2008/09年恐慌は、1974/75年恐慌後の荒廃を「克服」して1980年代以降に確立してきた新自由主義的資本蓄積が破綻したものだといえます。(友寄氏の用語によれば)基軸通貨ドル体制が「限界点へと向かってきた」(19ページ)ともいえます。
こうした中で、今次世界恐慌を捉えるには「実体経済の部面で現実資本の蓄積が作り出した矛盾と、金融部面で貨幣資本(および擬制資本)の蓄積が作り出した矛盾、この二つの部面の矛盾の発展の過程を、基軸通貨ドル体制の矛盾とのかかわりで総体的につかむことが重要で」す(17ページ)。
たとえば米国経済の矛盾を「過剰消費」に見る考え方に対して、友寄氏は「海外での『過剰生産』抜きに、米国の『過剰消費』だけを論ずることはできない」(32ページ)として、実体経済における国際的な再生産の絡み合いを指摘しています。また米国の景気悪化が世界経済にどれくらい連動するかという論争については、「『影響は小さい』とみたデカップリング(非連動)派は明らかに間違っていたわけだが、カップリング(連動)派の主張も、必ずしも正確ではなかった。『国際金融の連動』は重視したが、『実体経済の再生産の絡み合い』を軽視していたからである」(同前)と批判しています。ここは実体経済の再生産の国際的絡み合いを強調する部分なのでこのようになりますが、さらに進んでは、「国際金融の連動」と「実体経済の再生産の絡み合い」との関連を基軸通貨ドル体制の中で明らかにすることが必要です。
この点で、前掲の鳥畑論文(『前衛』8月号所収)から多くを学ぶことができます。それによれば、日本や中国などの「外貨準備の運用を背景にした公的資金の米国流入が米国財政赤字を支え、さらには住宅ローンの証券化を支えた政府系金融機関の資金調達を支えていたことが確認されます」(102ページ)。今日、米国経済の矛盾である「過剰消費」の象徴ともなったサブプライムローンを支えていたのは日本や中国などの外貨準備であったわけです。米国の「過剰消費」と輸出国の「過剰生産」という「実体経済の再生産の絡み合い」は「外貨準備の運用」という「国際金融の連動」と不可分なのです。
この連関は基軸通貨ドル体制の根本性格によって規定されます。金ドル交換停止によってドル垂れ流しが拡大し、それが投機資金となり、変動相場制とも相まって、金融自由化の下で世界資本主義がカジノ化したことはよく指摘されます。そこにとどまらずさらに基軸通貨国・米国とそれ以外の非基軸通貨国との非対称性・不平等性とがそれぞれの国民経済(中でも実体経済)に与える悪影響についても考えることが必要です。
輸出国の稼いだ外貨はなぜ米国に還流して運用されるのか。ここが問題です。鳥畑氏は以下のように説明しています。
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この金ドル交換保証によるドル価値安定への基軸通貨国としての義務を放棄したのが一九七一年のニクソン・ショックであり、それ以降、経常収支赤字是正の規律を失った米国の経常収支赤字の拡大が、変動相場制の下でのドル価値の傾向的低落や外国為替相場の乱高下、国際的な過剰流動性を背景としたマネーの投機的運動の拡大を促進し、世界経済並びに国際通貨金融システムの不均衡と不安定化を結果してきたのでした。このことは米国の基軸通貨ドルの価値安定の責任放棄がされたにもかかわらず、国際収支やドル相場の不均衡の調整義務は米国以外の非基軸通貨国が負うという不平等性(非対称性)のみが残され、米国の基軸通貨ドルの特権の享受の一方で、ドル相場安定のための介入などの様々なコスト負担が黒字国に一方的に押し付けられることを意味します。現在でも、ドルは外国為替取引の決済において九○%を占める「媒介通貨」として圧倒的な地位を占め、国際取引における最大の支払い決済通貨として機能しています。いわば各国通貨の通貨としての役割を担っているのであり、各国通貨当局は対ドル相場を安定させるために外国為替市場に介入せざるを得ない立場に置かれているのです。そして各国は、金ドル交換停止の結果、対米貿易黒字で得たドルを自国通貨に転換(内需に転換)しようとすれば自国通貨高・ドル安を招くことで、保有しているドル資産価値の減少を招くことになり、そしてドルを自国通貨に転換せずドル資産として保有すると輸出で得たドルを国内の需要に転換しえないという矛盾を抱え込むことになってしまうのです。 96ページ
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自国通貨高・ドル安は輸出競争力の低下にもつながり、この点からも、ドルを自国通貨に転換(内需に転換)することは避けられます。さらに発展途上国の場合には、IMFへの依存を回避したり、通貨投機に対する防衛策などのため外貨準備の増大を強いられてきました(101-102ページ)。これらドル資産の一部が米国債などで運用されたり、投機資金に化けたりして、いずれにせよ黒字国の内需とならず米国に流出してきました。米国の「過剰消費」と輸出国の「過剰生産」という実体経済の国際的連関が崩壊してしまったことが今日の世界的経済危機の重要な内容なのですが、それが「正常に」機能してきたこれまでの状態そのものが世界的な格差と貧困の原因でもあったのです。「基軸通貨ドル体制の下での米国への輸出増は確かに各国のGDPを押し上げる効果を持ちますが、その経済成長の成果が国民経済に還元されないという問題をもたらすのです」(104ページ)。ここに日本の「格差景気」の一つの原因があり、内需主導型経済への転換とより民主的な国際通貨体制への転換を求める必然性があります。
以上のように基軸通貨特権をフル活用して黒字国のドルを還流させる米国への資金一極集中システムが世界金融危機で崩壊しました。「低利回りの外国資本流入によって支えられた米家計の債務依存の消費スタイルとハイレバレッジで高収益を実現してきた投資銀行モデルが崩壊したことで、米国経済そのものの外国資本を吸引する魅力が消失したのであり、公的資金を中心とした外国資本流入の継続は極めて困難と思われます」(105ページ)。もはや従来型の不健全な米国経済が持続されてはならない、ということです。日本の対米従属の是正と基軸通貨ドル体制の克服は「米国経済の再生」にも資するものでしょう。「金融の肥大化、製造業の海外依存、軍産複合体などで歪められた米国の産業構造を抜本的に改革する経済政策が必要で」す(友寄論文、39ページ)。これは遠大な道ですが空想的な理想論ではありません。このような本質的関係を知らないで当面の彌縫策に汲汲としているのと、ゴールを見つめながら目前の改良策を提起するのとは雲泥の差があります。
前掲・平野論文(『前衛」8月号所収)は米国における実体経済と金融との関係について解明しています。そこでは、新自由主義的構造変化によって1990年代以降に基層と上層という二層構造が成立したこと、その基層と上層との相互関係、1990年代と2000年代との違い(矛盾の深化)などについて実に手際良くまとめられており、頭のなかがすっきりします。新自由主義政策が実体経済においては貧困化を進め、経済成長に抑制的に作用するけれども、米国では基軸通貨国特権による海外資金の流入や金融自由化・証券化によってバブルを発生させその資産効果で経済成長を実現してきました。しかし2000年代にはいると実体経済の成長抑制作用はますます強まり、金融バブルの虚構性も「純化」してその極点で世界恐慌に突入してこの構造は崩壊しました。新自由主義政策は労働者を貧困化させ独占資本の供給力を強化することで、実体経済においては「生産と消費の矛盾」を極大化させますが、米国においては上記の金融的条件下で逆に「過剰消費」を成立させて世界資本主義を引っぱってきました。しかし虚構が現実を創造することはできず、資本蓄積を貫徹する「生産と消費の矛盾」は結局世界恐慌として現出したといえます。ここには米国における「生産と消費の矛盾」の新自由主義的な屈折した現れとその展開過程が見られます。資本蓄積の法則は「克服」されたように見えながら(「ニューエコノミー」の自画自賛)強力に自己貫徹したのです。
新自由主義はこのまま退場するか
平野論文では傍論に属することでしょうが、新自由主義に対する見方が注目されます。前記の友寄論文では、今次世界恐慌に際して新自由主義の「小さな政府」や市場原理主義への理論的反省もなく、なし崩しで「国家信用や国家財政を野放図に拡大して、いわばケインズ主義の全面復活」という展開になっている(20ページ)と述べられています。これはまあ現状の「空気感」といえるでしょう。これに対して平野氏は「それでは新自由主義はもはや限界に行き着き、資本の立場から言っても新自由主義からの離脱しかなくなったと評価できるのでしょうか」と自問し「必ずしもそうとは言えないと思います」と自答しています(124ページ)。私は的確な問題設定であるとともに妥当な回答でもあると思います。
一般に民主党クリントン政権の経済政策は新自由主義とみなされています。それは何より、グリーンスパンとも組んでルービンやサマーズなどの新自由主義者の閣僚を中心にウォール街重視の金融自由化政策を強力に推進してきたからです。これに対して平野氏は実体経済の側面でもこの政権の新自由主義的性格を指摘しています。レーガン=ブッシュ(父)の共和党政権が企業への直接的支援には消極的だったのに比較して、「新しい民主党」クリントン政権は大企業の国際競争力強化支援策を推進しました。これは一見「大きな政府」路線のようですが、「古い民主党」ケネディ=ジョンソン政権のような福祉拡充をめざすケインズ主義的な「大きな政府」とは違って、あくまで新自由主義的構造改革の枠内での供給側重視の路線だといえます。
平野氏は米国経済の二層構造形成に政府が果たしてきた役割が大きいと見ています。
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具体的にはクリントン政権とグリーンスパンFRB議長ですが、両者は同じ時期に属しており、一九八○年代のレーガン政権とボルカーFRB議長の政策が大企業と大銀行を経営難に追いやったことへの対応として生じたものです。すでに述べたようにこの「大きな政府」は「積極的調整政策」の基本原則と大企業・大銀行の当面の利害とを調整するための存在であり、新自由主義からの離脱のためのものではありません。これは、一方で市場メカニズムで「負け組」淘汰を進めつつ、他方ではその作用が上位の大企業・大銀行にまで及びそうになると政府が救済するという、二律背反的なダブルスタンダードですが、独占資本擁護という点で首尾一貫しています。 123ページ
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市場原理に対してはダブルスタンダードがあろうとも「独占資本擁護という点で首尾一貫してい」ることこそ新自由主義の核心であると私は思います。だから大企業・大銀行救済のために国有化を頂点とする様々な非市場的政策が採られることそのものはケインズ主義的と即断する必要はないし、ましてや社会主義的などというのは論外です。それは市場信仰というブルジョア・イデオロギーが「世間的」には敗(破)れたという意味では重要な意義を持ちます(もっとも、「経済学を知っている」人々の間では情勢にかかわらず新古典派理論のエレガントな市場均衡の体系は保持される。そのことのイデオロギー的意味は一つの検討課題ではある)が、現実の政策は独占資本の支配を維持するためになりふり構わぬ市場介入として敢行されます。
現局面における経済政策の選択という政治的意味合いにおいては新自由主義とケインズ主義との区別は重要です。たとえば新自由主義的構造改革を続けるのかやめるのかといった問題があります。しかし原理的には両者ともブルジョア支配の二類型であって、独占資本の利害を代表する点では同じであり、そこに絶対的な区別はないと見るべきでしょう(ケインジアンと目される吉川洋東大教授が今や悪名高い経済財政諮問会議の「民間議員」として新自由主義的構造改革を推進してきたのはその象徴だろう)。危機に立つ独占資本を救済するような「市場介入」をもってケインズ主義とするか、新自由主義の枠内とするかは定義の問題ともいえます。この区別とか定義は本来まずは理論内在的に検討すべき課題ですが、もちろん私にそのような能力はないので、マスコミなどで報道される、情勢の展開の中での政策的対応などから気付くことを述べてみたいと思います。
両者の相対的区別をどこに見るかというと、通常は、市場原理主義か市場規制を重視するか、小さな政府か大きな政府か、といった「市場の自由度」ないしは「市場と政府との関係」視角に立ちます。しかしたとえば日本の1990年代後半の金融危機に際して公的資金注入が行われたように、新自由主義的構造改革の政府が市場原理に対してダブルスタンダード(中小企業への淘汰政策と大企業への too big to fail という名目による救済政策)を採るのは珍しくありません。しかし独占資本擁護という点では首尾一貫しています。ダブルスタンダードという非難を受けようとも、この政策が新自由主義でなくなったという評価をあまり受けないのは、人々が新自由主義の本質を無意識のうちに見抜いているからかもしれません。ちなみに市場介入容認のケインズ主義の場合にはダブルスタンダードという非難は免れます。確かに新自由主義は市場原理主義であり、ケインズ主義はそれを批判しているというのは大まかな傾向として重要ですが、新自由主義のダブルスタンダードを考慮すると、これは現象的対立であって、本質は別にあるように思えます。
それでは両者の相対的区別はどこにあるかというと、人民に対する階級支配のやり方(独占資本擁護のやり方)として露骨に強圧的か多少なりとも宥和的かという点ではないか、という「資本=賃労働」視角が私の仮説です。
階級支配の根幹は剰余価値の確保のための賃金抑制にあります。ケインズ主義の場合には貨幣賃金の「下方硬直性」は認めてインフレ政策によって実質賃金を切り下げる方法を採ります。新自由主義では、労働組合への抑圧、不安定雇用化などを初めとする労働者階級への直接的な攻撃によって貨幣賃金そのものを切り下げます。これは労働力の価値以下の賃金を一般化させ、福祉切り捨て政策とも相まって、ケインズ主義時代には隠れていた絶対的貧困を社会的に顕在化させました。もっともこの政策的・イデオロギー的違いは、戦後世界資本主義の高度成長期とその破綻後の低成長期という土台の違いを反映しているともいえます。資本の側からは「飴とムチ」のうち「飴」を与える余裕がなくなり、労働の側からは「飴」を獲得する力がなくなりました。高度成長の破綻という資本主義の危機を迎えて、資本側は開き直り攻勢的に剰余価値を確保したのに対して、労働側は守勢にまわり賃金の確保に失敗しました。
こうした階級的力関係の変化の原因は様々に考えられます。たとえばIT化の進展は、大工場における集団的労働の意義を低め、労働の個別化を進めることで、階級的連帯の基盤をせばめ、原子的個人によるブラウン運動的市場という新古典派的経済像に近づくという見方です。こうして独占資本の時代に自由競争が復活するという「逆流する資本主義」という提唱もありました。
また1970年代以降くらいに明確になった社会主義のマイナスイメージと1989/91年における東欧・ソ連社会主義国家の破綻も資本主義国の労働運動・社会進歩の運動などに決定的な影響を与えました。資本主義へのオルタナティヴがなくなったという見方が一般化することは労働側の力を弱めました。1980年代くらいにNIESなどの東アジア諸国が資本主義工業化に成功しつつあったことは、市場導入を試行した東欧社会主義諸国の経済改革の困難さと対照的であり、社会主義政権崩壊の要因になったともいわれます。このような事実の重みを理念(社会主義とは本来は云々…)で打ち消すことは容易ではありません。ソ連のような「巨悪」がなくなったことは社会進歩の運動にとってプラスになるという見方があり、確かにそれ自身は運動の主体にとっては重要な事実ですが、客観的にはあくまで一面の真理です。社会主義政権の崩壊によって、もはや社会主義という選択肢はなくなったという意識が一般化したという、より重大な事実を忘れることはできません。それが幾多の誤解によるとはいえ、あるいはその後の資本主義の失敗、なかんずく今次世界恐慌によっていくぶんかやわらいだとはいえ、社会主義拒否(ないしは無視)の意識が世界のとりわけ日本の人民の多くの部分をつかんでおり「物質的な力」となっている事実を見ない振りをするのは大きな誤りです。運動主体がしばしば陥る希望的観測という「イデオロギー的」偏向です。社会主義やマルクスが今日、注目されているのは確かであり、そこに未来の萌芽があり、それを促進することが大切なことも否定しませんが、現状ではあくまで大海に落ちた一滴だ(大げさな表現だが)という冷静な見方も必要です。
この社会主義政権崩壊も一つの要因とするグローバリゼーションの急進展は「市場拡大の時代」を切り開きました。それは販路拡大によって過剰生産の矛盾を弱め、発展途上諸国や(東欧などの)移行経済諸国の安価な労働力を世界デビューさせることで賃金・労働条件の底辺へのグローバル競争を熾烈化させました。
福祉国家や一定の賃上げの容認という、ケインズ主義的な多少なりとも宥和的な階級支配によってスタグフレーションが発生し資本主義の活力が削がれた、と支配層が考えているとき(もちろんこれは上からの見方であって、そこには人民の生活と労働の充実による下からの経済発展の可能性という発想はない)に上記のような階級的力関係の変化などを背景として新自由主義的な強圧的階級支配が成立したのではないでしょうか。
それでは「小さな政府」対「大きな政府」という言説についてはどう考えるべきでしょうか。私自身は今のところ、社会保障の増大などを考慮すれば「大きな政府」は社会進歩に沿うものであり歴史の必然を体現していると思います。一部の「マルクス主義者」は新自由主義を賛美して「小さな政府」をもって共産主義(国家の死滅)への接近などとしてきましたが、まったくの錯誤です。逆に政府部門が大きくなってもその運営が真に民主化されていくならばその究極は国家の死滅につながっていくことになります。むしろ政府部門の拡大で国民経済に対する操作可能性が高まり、それが民主的に行なわれるなら市場と国家の止揚に近づいていくともいえます。また国家と市場との中間領域にある「市民社会」によって国家と市場とを相対化する、という市民主義の戦略には見るべきものがあると思いますが、その際も国家機構そのものの民主化を「市民社会」の発展と結び付けるという展望を欠くならば空論に終わります。
閑話休題。以上の議論はむしろ蛇足であって、本筋としては新自由主義の席巻というこれまでの文脈の中で、「小さな政府」対「大きな政府」という言説を捉えねばなりません。この言説はもちろん「大きな政府」を攻撃して「小さな政府」を推奨するという狙いで持ち出されてきました。これは典型的な「政府対市場」視角の市場原理主義の議論のように見えますが、独占資本の危機に際して当然のように政府による市場介入が行われることを見ればそうとばかりはいえません。これに対してやはり「政府対市場」視角で、市場への規制が必要だという立場から市場原理主義の不備を衝いても、問題の本質には迫れません。
ここでは「資本=賃労働」視角を導入して、新自由主義の「小さな政府」論の真の狙いを忖度してみたい。警察や官僚機構が強力である、軍事費が大きい、大資本救済に公的資金を投入する。以上のような理由で「大きな政府」が攻撃されるわけではありません。攻撃の対称は、社会保障費が大きい、農業や中小企業に補助したり、関連の公共事業に投資する、といったことです。新自由主義者にすれば「大きな政府」一般が悪いのではなく、むしろ階級抑圧機構としての軍事・警察・官僚機構は(宥和的政策のケインズ主義の場合よりも)強大でなければならないし、独占資本の危機に際しては機動的に対処できる機敏さのみならず大きさが必要です。だから彼らにとって悪いのをあえて一言にまとめれば「資本蓄積の障害となるような大きな政府」です。
財界主流の多国籍企業からすれば、内需主導型のバランスある国民経済や地域経済というのは政策課題にならないので、農林漁業・地場産業・中小企業への財政支出は無駄だ。社会保障給付もなるべく抑えたい。このような財政負担は資本蓄積にはじゃまになる。資本の人間観からすれば、貧弱な福祉と失業の恐怖とをもって人々の労働のインセンティヴとする。この点からも「怠惰を生む福祉国家」には反対だ(露骨にそう主張する向きは最近では少なくなったが、福祉予算の削減と生活保護での「水際作戦」などに見られる行政姿勢とに如実にそれは現れている)。道州制によって行政サービスはリストラしたい。法人税と企業の社会保険料負担は下げたい。なによりも行政の財源は資本の負担にならない消費税としたい。しかし大型公共事業は「インフラ整備」として不可欠だ。
こういう意味での「小さな政府」こそ資本が望み、新自由主義的構造改革が実現したり実現しようとするものでしょう。これは日本における新自由主義の実績と展望(私たちとしては「願望」に留め置きたいところだが)です。できればなまぬるいケインズ主義よりも確固たる新自由主義を貫徹したいけれども、「百年に一度の経済危機」に際して、資本主義そのものの危機を乗り切るためには宥和的政策も当面は容認せざるをえない、というのが支配層の現状認識ではないでしょうか。米国でのオバマ政権の誕生や日本の自民党・民主党の「構造改革」姿勢の後退などはこういう微妙な情勢の反映といえます。新自由主義を葬りさるのは簡単ではないと思いますが、経済危機の全面転嫁を許さない人民の闘いの進展が重要な意義をもつことは確かでしょう。なお新自由主義の復権の可能性とその防止の闘いについては『経済』5月号の感想の中に書きましたが、以下では新自由主義の復権はさほど簡単ではなく、資本の「願望」の実現には困難が多いことをあえて指摘します。
平野論文では新自由主義経済における「基層」が成長抑制的作用を持つことが指摘されていますが、原理的にさらに厳しく評価すれば、新自由主義は労働力の価値以下の賃金を一般化することで、労働力の再生産を困難にし、生産と消費の矛盾を激化させて、社会的再生産の基盤を掘り崩しているといえます。さらに労働力の価値以下の賃金の一般化が進行すれば、労働力の価値そのものが低下します。この場合の労働力の価値の低下は、生産性上昇によって生活に必要な消費手段の価値が低下したことの反映ではなく、この消費手段の使用価値量の削減(つまり生活水準の低下)の結果です。新自由主義とは資本が人間を食うという面での資本主義の本質をむき出しにしたものであり、科学技術の応用による生産力発展によるよりも、人件費削減などの後ろ向きのコストカットによる剰余価値追及にインセンティヴの多くを負っています。これを逆に切り替えるには資本への規制が必要です(19世紀イギリスの工場法を想起せよ)。生産力発展と人間の発達とを担えずその障害となる経済体制は歴史の舞台から去るほかなく、資本主義は新自由主義と心中するのか、自己変革して踏みとどまるのかが問われています。それがケインズ主義で果たされるかどうかは分かりませんが。
生存権の否認による社会的再生産の困難は日本資本主義においては、毎年3万人を超える自殺者や止まらない少子化傾向という形で如実に現れています。日本の新自由主義が生きながらえてきたのは、人民の無類の忍耐強さ・従順さおよびオルタナティヴを知らされていないことによる諦観が原因だといえます。しかしさすがに生きることや産むことができない社会を耐え忍んできた人民も「生きさせろ」と叫び始め、「ついに労働者が立ち上がりました」とNHKが報じるまでに変化しました。支配層の戦略でありながらまるで不可侵の「国民的課題」(人々が「痛み」に耐えてまで敢行されねばならない社会共通の課題)であるかのごとくに振られた「構造改革」の旗は今やぼろぼろです(にもかかわらず捨てられはしないが)。
米国では平野論文が指摘するように、金融的術策でバブルを発生させその資産効果で消費を喚起することで、新自由主義の再生産破壊を糊塗してきましたが、金融恐慌でこの構造は破綻しました。
中南米では他に先駆けて意欲的な新自由主義の実験が行なわれた結果、劇的な失敗で国民経済が破壊されたことで諸国人民の反撃が始まり、続々と左派政権が誕生し、新自由主義は退場しました。ここでは反新自由主義の地域連帯による経済発展が進行しつつあります。
東アジア諸国は新自由主義的グローバリゼーションの世界資本主義に乗って経済成長を実現してきましたが、国内経済は必ずしも新自由主義的ではなく、開発独裁から徐々に民主化の道をたどってきました。1997年のアジア通貨危機の教訓から米国流のグローバリゼーション一辺倒ではなく、特にASEANを中心とした地域内経済の関連強化が図られています。ASEANは日中韓を含めた東アジア経済共同体を目指す方向で指導性を発揮しています。
EUでは新自由主義と社会的市場経済とが妥協的に共存しており、それが新自由主義の暴走を抑えて人民の生活と労働の一定の安定が保たれているといえます。
再生産破壊という根本矛盾を抱える新自由主義は、以上のように世界中で自立(自律)的に存在することが難しくなっています。しかしそれが資本の本性であり、支配層によって望まれるものである限り、その復活の芽はなくなってはいません。実体経済の問題では、労働における底辺へのグローバル競争は続いており、金融では、恐慌対策として財政金融政策が緩く推移する中で、過剰貨幣資本の発生が継続し、それを根本的に改める発想がないので、何らかのバブル発生は今後も大いにありえます。学問的には新古典派理論が標準理論として教科書を支配し、政治と経済の施行者たちがそれに従っていることは変革への重大な障害になっています。これらの条件は新自由主義の強固な基盤を形成していますが、上記のように根本的には反動的で歴史の舞台から去るべき状況にあり、生活と労働を守り変革しようとする人民の闘争と新古典派を放逐するイデオロギー闘争とが相まって新自由主義を退場させる可能性はあるはずです。それは資本主義そのものの退場の可能性をも含んだ道であろうかと思います。
消費税と社会保障
ケインズ派の大御所ですぐれた経済学者である伊東光晴氏は、年来の付加価値税論者で、消費税の増税で西欧型の福祉国家を実現することが所得再分配に資すると主張しています。これは共産党などの消費税反対勢力への批判でもあります(「増税を真剣に考えよう」『世界』2006年1月号所収)。狙いは違う(福祉国家は目指さず、大企業の財政負担軽減を目指す)けれども、財界・政府・御用学者たちも増税を擁護して消費税の逆進性をやっきになって否定しています。増税されても低所得者にとっては消費税の負担増より社会保障の受益増のほうが大きい、というのです。
垣内亮氏の「消費税増税で社会保障はよくなるのか」(『前衛』8月号所収)は、社会保障との関連における消費税の過去・現在・未来を全面的に展開しています。消費税は主に社会保障に使われてきたわけではないし、今後の増税分も同様であり、そもそも社会保障財源としてふさわしくないことが明らかにされています。この見方を前提にして、論文のハイライト部分が提出されています。2008年11月28日の経済財政諮問会議に「民間議員」の名で提出された「内閣府試算」に対する周到な考察による徹底的な批判です。蛇足ながら、小泉内閣以来、「官」批判のポーズで経済財政諮問会議を派手に引き回してきた「民間議員」と称する財界人と御用学者が内閣府の隠れ蓑に堕したということは、日本型「構造改革」の黄昏を象徴する出来事のように思われます。経済財政諮問会議の廃止も間近でしょう。
内閣府試算によれば、確かに消費税自体は逆進的だが、社会保障の「受益」が低所得者ほど高いため「社会保障目的の消費税増税により所得再分配は強化される」ことになります(29ページ)。思わず納得してしまいそうですが、垣内氏は実にていねいにそのごまかしを説き明かし、より現実的な試算によって、増税に対して低所得者ほど負担が重くなることを証明しています。消費税増税による負担(対年間収入比)はいずれにせよはっきりしているので、問題は社会保障増の受益(対年間収入比)をどう評価するかになります。垣内氏は詳細な考察で内閣府試算のごまかしを5点ほど指摘しています。その中でも最も明々白々な虚構が「消費税を一兆円増税して、その一兆円が丸々、社会保障財源に充当される」(35ページ)というものです。垣内氏の試算では半分は社会保障にあてられるとします。その他細かい部分は論文そのものにあたってもらうとして、私としては、こうした政府側などからの様々な試算に対しては、しっかり現実に引き戻してその前提条件を吟味することの大切さを痛感しました。その視点を支えるのは人民の立場から問題の全体像を見据えることのできる「哲学」だと言えます。垣内論文で言えば消費税の過去・現在・未来を展開した部分です。
内閣府試算に対するこの切り替えしは見事なものなのですが、条件と数値について内在的に検討することの確かさだけでなく、見方をややずらして同じ問題に迫ることも必要ではないかとも思います。内閣府試算はもっぱら収入対比という相対値で「負担」と「受益」とを分析しており、それは様々な収入階級に対する影響を比較検討する上で必要なやり方です。だから反論もまたこの相対値という同じ土俵で相撲をとるのも当然です。しかし低所得層にとっては「負担額」「受益額」という絶対値が切実な問題です。これは高所得層とは大いに違います。近年、最低賃金で実際に暮らしてみるという実験的運動が評判となりましたが、人々の実感に具体的に訴えることの意味はたいへん大きなものがあります。消費税と社会保障についても、目に見えやすい形での影響評価を試みることが大切でしょう。
来る総選挙は、恐慌下の人民の苦難を反映して、自民・民主のばらまき対決の空中戦の様相を呈していますが、そこに共産党が地に足をつけた財源論争を挑んでいます。軍事費や大企業・金持ち減税を聖域としないことによって初めて、財源として消費税を出口にしないことができる、という主張は急所を衝いたものです。私たちにとってはあたりまえのことでも、これを「国民的論争」の焦点に高められるかどうかが政治革新の要になります。この聖域はずしの問題提起は当然、政治・経済・外交の全体像の論争へと発展するものです。軍事費削減と大企業・大金持への応分の負担とを求められるような、新たな外交と国民経済のあり方を語らねばなりません。わかりやすくどう語っていくかが重要な問題ですが、その際に消費税については垣内論文のようなしっかりした見方を身につけておくことも大切です。
2009年9月号
自動車産業のゆくえ
特にリーマン・ショック後、マスコミのセンセーショナルな報道が目立ちましたが、現在経済情況の若干の持ち直しが伝えられる中で、報道姿勢が低調に推移しそうです。いずれも本質を見ず、目前の現象に飛びついて早く高く売るのがこの業界の本性なのでさもありなんですが、現象を的確に捉えて本質をつかみ出し、先行きを見通すためには地道な研究が前提としてなければいけません。森靖雄氏の「自動車産業の不況と地域経済 トヨタ周辺地域を例に」は従来からの研究・提言の上に、最新の聞き取り情報に基づいて展開されています。
森氏によれば「『リーマンショック』まで全国でも突出した好景気地域ともてはやされた名古屋・愛知県は、『トヨタショック』によって奈落に突き落とされたような報道が氾濫している」けれども「県民生活も市民生活も混乱しているわけではなく、自治体がつぶれそうなわけでもない」(62ページ)というのが当面の実情です。しかしむしろ逆に地域経済の先行きには厳しいものがあります。目先の「ショック」を煽るような姿勢では、困難が本当のところはどこにあるのかが分からなくなります。
たとえば喧伝される「エコカー減税」や「プリウス効果」については、「永続性も需要拡大も弱いとする見方が根強」く、「部品業者の生産拡大意欲を鈍らせる要因になってい」ます(65ページ)。これは目前のつまづきの石ですが、来年以降も4つの影響がのしかかると指摘されています。(1)自動車部品や関連部品工場への受注減の影響、(2)法人税の減収などによる自治体財政への影響、(3)賃金などの減収による労働者・住民への影響、(4)トヨタなどの経営方針の変化による影響、といったものです(65-66ページ)。(1)については「自動車の国内需要が回復してもアメリカ向け輸出分を中心に現地生産に切り替えられ、発注部品総量が大幅に減少すると予想され」ます。(2)については、「今後数年間は法人税など税収の減少を見込まざるを得ない」ので「その影響は行政サービスの低下となって住民へしわ寄せされると予想され」ます。(3)については失業者の増加に対して就業問題が解決されなければ、自治体財政への圧迫になり、個人消費の減退が小売業に悪影響を与えます。(4)については、輸出減少による国内生産削減の影響により地域経済が縮小し税収・雇用・購買力の低下が予想されます。そうした中でトヨタ自体は新分野への事業拡大の動きを強めていますが、それに対応できる地域企業はごく少ないと思われます。「したがってトヨタ自体の存続とそれによる周辺地域での仕事確保とは一致しない」ことになります(以上、66ページ)。
「製品出荷額も県税収入(法人税)も七○%近くが実質的に車関連だと見られている」ように「愛知県は全国に類がない『県ぐるみ企業城下町』という状況」(63ページ)に陥っています。これが基盤にあって、上記のような深刻な問題点が発生しています。本来、愛知県は農業大県でもあり、繊維業・窯業など伝統的な製造業も発達してきたのですが、地域経済の支配的な構造としては効率的な自動車産業に特化することで、グローバリゼーション下日本の「産業首都」となりました。対して情報・金融さらには本社機能が集中することで、首都東京は確かに日本資本主義の司令塔であり同時に寄生性・腐朽性の中心でもあります。世界資本主義になぞらえれば、東京はアメリカであり、愛知県は日本であるといえます。愛知県は外貨を稼ぎ国民経済の屋台骨を支える存在であり、日本資本主義の実体経済の先進性・堅実さとその裏腹にある奇形・危うさとをともに象徴する地域経済を抱えていると言えましょう。
藤田実氏は、2000年代日本の経済・産業そのものがアメリカ市場と自動車に依存したモノカルチャー的構造になっていると喝破しています(「世界恐慌と日本型生産システムの危機 なぜ日本の製造業は急速に深刻な恐慌に転化したのか」『前衛』7月号所収)。そこから出てくる「輸出依存型から内需主導型の国民経済への転換」という日本資本主義の課題は、「県ぐるみ企業城下町」の愛知県にも典型的に当てはまります。上記のように産業構造において愛知県がもともともっていた豊かな潜在的可能性を引き出すことが必要です。その際に、他地域や海外といった広い市場でどれだけ儲けられるかという従来型の近視眼的な効率指標だけによる選別ではなく、地域に根差して住民生活をどれだけ豊かにしていけるか、という域内市場の深化・成熟という方向をも勘案した総合的な地域経済像が求められます。農商工連携の追及が重要です。
その他、特集「どうなる自動車産業」では経営学や会計学をも含めた手堅い内在的かつ批判的分析が並んでいます。ただあえていえば自動車産業に対するもっと突き放した見方も必要ではないか、という気がします。自動車産業はその産業連関の広さからいっても国民経済に占める位置が大きいので、当面その回復と拡大強化が求められます。しかし少なくとも中長期的視点に立つと、環境問題や交通政策などに照らしてむしろ縮小すべき産業部門ではないかと思います。若者の車離れが言われています。それは直接的には貧困化が重要な原因でしょうが、ライフスタイルや考え方の変化も影響しています。環境やゆとりを重視する一方で、車をステイタスシンボルとしてそのグレードアップに憧れるような感性が薄れつつあります。たいへん積極的な変化ではないでしょうか。経済活動のために人生があるような「スピードとモーレツ」型から、生活の内実を深めて納得できる人生を送ろうとするライフスタイルへの移行期です。それには自然や伝統に根差した地域経済が適合的です。国民経済の主流をこちらにし、外需型のグローバル産業は補完的部分とするような組み直しが必要です。
もちろん現在における真逆の産業構造からすればそれは夢物語なのですが、日本経済の未来像として、相変わらずこの構造の延長線上に中国などとのグローバル競争に命運をかけるようなあり方は日本人民を幸せにしないでしょう。私たちにオルタナティヴへの想像力さえもがなくなれば、グローバリゼーション下、資本と人民との間で展望のない消耗戦が延々と続くことになります。低い食料自給率などを考えれば(多少の上昇は政策努力で可能とはいえ)、外貨を稼ぐことはこれからも必要ですが、そのために国民経済があるような今日の転倒した姿は異常です。内需主導型の国民経済像とそれへの移行形態とをどう描くのかは難しい課題ですが、現在の大不況からの立ち直り策を考えることにおいてすでにそれへの挑戦は始まっているはずです。
ところで想像力は未来に向けるだけでなく、過去に向けることもできます。たとえば日本戦後の高度経済成長のあり方は唯一無二のものではなく、他の形もあったのではないかと考えることです。生産力的に重化学工業段階を達成し、生産手段生産部門を自前で育成し安定的な再生産構造を確立する、といった課題は不可欠のものだったでしょう。しかしそれを対米従属下で、農業を犠牲にして行なう、というのとは別の道もありえたはずです。効率至上主義でない生活重視の国民経済です。もちろんそれは現実のものとはなりませんでした。しかし歴史の中に実現されたものだけを見るのではなく、可能性のまま消えてしまったものをも探る想像力も必要です。そのような姿勢においてこそ温故知新の意味は深まり、未来への視野をより大きく広げることができます。未発の可能性としての戦後日本の国民経済のあり方の延長線上に、今の危機克服の先の未来像を描くこと……そこに経済史、現状分析、経済政策論の交点があるように思います。その交点を導く経済理論も発展させねばなりません。
閑話休題。リーマン・ショック後の自公政権の対応は、大企業奉仕と輸出依存というまったくの従来型であり、内需主導の国民経済像への志向性は見られません。8月17日、内閣府は2009年4-6月期のGDP速報値を発表しました。実質GDPは前期比0.9%増、年率換算で3.7%増(名目GDPは0.2%減、年率0.7%減)と、前2期連続した年率換算2桁のマイナス成長から一転してプラス成長になりました。ただし内容的には公共投資や中国への輸出に頼ったものであり、個人消費がプラスになったとはいえ、エコカー減税・エコポイント制など自動車・電機大企業奉仕の消費先食い政策によるもので持続性は期待できません。何より、雇用者報酬が実質で前期比1.7%減(名目2.2%減)、前年同期比名目で4.7%減と過去最悪の下落率となっているのが深刻です。以上の実質と名目の差とも関連し、物価動向を示す国内需要デフレータは前年同期比1.7%のマイナスで、1-3月期の1.0%マイナスからさらに落ち込んでいます。需要不足で価格競争が進んでいることを示しています(以上、「朝日」8月17日付夕刊、18日付、「しんぶん赤旗」18日付より)。さらに物価については次のデータも重要です。総務省が8月28日発表した7月の全国消費者物価指数は、価格変動の大きい生鮮食品を除く総合指数が前年同月比2.2%低下しました。5ヵ月連続のマイナスで、比較可能な1971年1月以降で下落幅は3ヵ月連続で最大を更新しました。やはり総務省が同日発表した7月の家計調査によれば、1世帯あたりの消費支出は28万5078円となり、価格変動の影響を除いた実質で前年同月比2.0%減少しました。最も深刻なのは雇用情勢です。総務省が同日発表した労働力調査では、7月の完全失業率(季節調整値)が前月を0.3ポイント上回る5.7%となり、過去最悪です。落ち込み方も極めて急速であり、一段の悪化も避けられそうにありません。年内に6%を超えるという見方も出ています。労働法制規制緩和の政治責任と大企業の雇用責任とが問われます(以上、「朝日」8月28日付夕刊、「赤旗」29日付より)。
ここには新自由主義的構造改革の「成果」が見事に現れています。労働法制改悪と目先の利潤を重視した企業行動とによる雇用破壊が起点となって、社会保障の連続的改悪も相まって、国内市場が縮小し商品の価値が実現できず、国民経済の再生産に深刻な支障が生まれています。人々の生活と労働を置き去りにして公共投資と輸出によるプラス成長では本格的な景気回復とはならないし、相変わらずの格差景気で、経済政策とは、あるいはそもそも経済とは誰のためにあるのかが問題となります。今回のプラス成長を導いた自公政権の政策が一時的なカンフル剤にすぎず、自律的な経済成長につながっていかないことが十分に予想されます。藤田実氏は住宅投資と設備投資のマイナスに注目します。住宅ローンの優遇策がとられても、継続的な所得の見通しが立たなくては、ローンを組むことを躊躇さざるをえないし、企業も生産活動の先行きが不透明で設備投資に踏み切れない状況です。企業収益の改善はコスト削減によるものであり、売り上げ上昇の結果ではありません。まず大企業の雇用破壊をやめさせねばなりません。そして「人々が安心して消費ができる、住宅が購入できるような暮らしにゆとりが出る政策に転換する必要があります。本格的に内需に火がつき、自律的な成長軌道に乗るためにも社会保障の制度拡充を含めた政策が必要です」(「赤旗」8月18日付)。
自公政権としては、手っ取り早く公共投資と大企業支援・輸出頼みでプラス成長を実現したということですが、その内容は以上のように「新自由主義的構造改革=格差景気」路線の延長線上でしかありません(財政支出増という意味では新自由主義路線への若干の手直しではありますが、大企業奉仕という本質は変わりません)。大企業に対する民主的規制で雇用破壊をやめさせ、さらに社会保障を充実することで内需の基盤を拡大することが当面する課題です。これは予想される自公政権退陣後の民主党政権にその公約の積極的部分をきちんと実行させることができるならば、ある程度は実現可能です。その後、新政権による日米FTA締結のような農業破壊を阻止し、経団連との協調による財界奉仕路線をさえぎって、農商工連携などの地域経済活性化を中心とした内需循環型の国民経済への転換を求める運動を繰り広げることが必要です。民主党は本質的には新自由主義的構造改革の党であり、それが「国民生活第一」などと言い出して、一部に社民化への幻想を抱かせるに至ったのは、一方では構造改革の現実があまりにひどいからであり、他方では確固とした左翼の日本共産党が存在しており、この現実を放置して体制的危機を招くわけにはいかないからです。人民の運動が緩めば民主党政権はすぐに本質返りを起こすだろうし、逆にしっかりした運動が継続されるならば一定の改良を克ち取ることも可能でしょう。この経済危機の中で、従来型の目先の景気対策を超える国民経済の構造転換を見据えた人民の運動を作り出していくことが大切であり、それに資する経済学の発展も求められます。
2009年10月号
内需主導型経済への道
<1>地域建設産業における歪みと「改革」
今回の世界恐慌によって他国に比して日本経済の落ち込みが激しいことから、その原因として外需依存が指摘され、内需主導の国民経済への転換が立場を超えて唱えられるようになりました。そこで旧来型の公共事業依存に戻る傾向も一部にありますが、それでは様々な歪みをまたもたらし、今後の展望も開けません。旧来型の内需のあり方への反省をしつつ、新たな内需主導型経済のあり方を問うことが必要です。その際に、旧来型内需産業の一つの典型であり新自由主義的構造改革で破壊された地域建設産業の変遷と今後の展望を考えることが参考になります。村松加代子氏は以下のようにまとめています。
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建設産業は国内での建設需要があって、存続し、発展する産業である。その点では、これまでの内需の在りようが建設産業の特性―歪みを形成してきたといえる。その歪みを正さないままバブル期後の公共投資の拡大時期を迎え、その後、新自由主義的「構造改革」で建設産業の非効率性が喧伝されて、産業政策として一気に業界の淘汰が促されていったのである。 「地域建設産業から構想する」 69ページ
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「開発主義型政治」の下で「公共工事依存型」となった地域建設産業は地域の雇用を担いつつも、以下のような歪みを形成してきました。大型公共工事を優先し地域住民に必要な生活基盤整備は後回しになりました。同時にそれは国と地方の財政赤字体質を相互作用的に引き寄せ社会保障などが後退しました。この過程では利益誘導型の政官財癒着が構造化し、そこで税金が不正かつ無駄に費消される一方で、現場では対等な労使関係がないままに賃金・労働条件が改善されませんでした(同前、70ページ)。
その後の新自由主義的構造改革では、建設産業は非効率的産業とみなされ、公共投資の「選択と集中」が図られました。グローバル競争を勝ち抜くため、大都市部に集中し、地方からは撤退しました。この時期には「雇無業主」いわゆる「一人親方」が増加しました。彼らは労働者としての権利を剥奪された名目的な自営業者といえます。こうして構造改革下でも大型公共事業は継続され、政官財癒着も残り、自治体財政は改善されず、雇用は縮小し現場労働者や地域住民の苦境は深まりました(68-71ページ)。
小泉構造改革以前から「守旧派」と「改革派」との対決図式が喧伝され、後者の勝利によって改革が断行されても、旧来の歪みが是正されたのではなく、新たな問題が重ねられ事態はより深刻になったのです。だから構造改革の破綻が明らかな現在、「守旧派」に戻るのではなく、その歪みを克服しようとする新たな地域建設産業の展望が求められます。建設業は新自由主義的構造改革の一つの焦点であったことからいえば、ここにおける「守旧派」と「改革派」との対決図式の真の意味、その経過と帰趨とについては他産業も含めて「改革」前後の全体像に当てはまるのではないでしょうか。
それではその歪みを是正し「地域建設産業を発展させる立場から内需主導型の経済と産業をどう構想していくの」でしょうか(73ページ)。松村氏はまず理念的には「地方自治体と住民の意向に基づく地域主導による自立的、持続的な地域経済・社会運営主体の形成と、その中で建設産業が活動すること」(同前)をあげています。そこで「域内経済循環の形成・拡大」によって住民一人ひとりの仕事と生活の状態が良くなるような「自立的、持続的な地域経済・社会をつくっていくこと」(同前)を提起しています。旧来型の「内需型経済」の歪みを正すためには「国土計画の経済政策従属からの脱却、政官財の利権構造の解体による国土づくりと建設行政、そして財政の民主的改革、真の地方分権と地方自治の確立、重層下請構造の改善、地域建設業者と建設労働者の労使交渉機構づくり(産別労使関係の構築)、公契約法・条例の制定、業界全体による技能者・技術者の育成など」(同前)が必要となります。次いで松村氏は具体的な事業内容を指摘し、最後に最近の取り組みを紹介しています。それによれば、高知市においては、市の公共工事発注の転換を求めた要望書を既存の業界団体によらずに130社が提出しました。今後とも住民要求実現に取り組みたいとのことです。また大手ゼネコン団体の日本建設業団体連合会が建設技能者の確保・育成のため賃金水準の改善にまで踏み込んだ提言を初めて出しました(74ページ)。危機の深い建設産業ではこのような構想と実践が出てきていますが、他産業や各地の地域経済においても、旧来型の歪みを直視つつ、新自由主義的構造改革による破壊から立ち直る新たな内需主導型経済・産業の構想と実践が求められます。
<2>内需主導型経済の産業構造
(1)文化型産業と文明型産業
内需主導型経済像をイメージ豊かに提出しているのが吉田敬一氏の論文「内需型産業をどう展望するか」です。吉田氏によれば「内需の中心は国民の最終消費需要であるが」「内需産業の主な担い手は、国民に雇用と所得を提供する地域密着型企業でないと、国民経済・地域経済の自立性・自律性は達成され」ません(58ページ)。しかし現状ではグローバル企業によって「完成品の逆輸入や部品の海外調達という形で内需向けの生産基盤をも掘り崩す方向に作用してい」ます(56ページ)。
吉田氏によれば産業構造は大きく二つのタイプに区分されます。衣食住関連業種あるいは環境・福祉産業などのように地域特性に強く規定される文化型産業と自動車・家電に代表される文明型産業です。後者は「使用する場面や機能面において民族性や地域性を越えた普遍性を有するので、市場・ニーズは普遍性を持ちグローバル化し、経済成長に大きく貢献」します(59ページ)。次にどちらのタイプの産業においても、競争力の源泉を対極的方向に求める企業経営の二類型があります。一つは本質的機能追及型・ホンモノ志向型経営であり、もう一つは価格破壊志向型経営です。日本経済の問題点は、文明型産業の肥大化と文化型産業の疲弊がまずあげられますが、それのみならず文化型産業においても価格破壊志向型の大企業が内需拡大の担い手となっていることも重大です。吉田氏の志向と現状への警告は以下のようです。
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衣食住に関わる財・サービスは命と健康、暮らしの在り方および人間の生き方に関わり、それを規定するものである。また、それゆえに文化の香りと雰囲気を醸し出す要因ともなり、個性的で豊かな社会の経済的基盤を形成する。文明に先進・後進はあるが、文化に優劣はない。高度な経済力を持っていても文化トレンドを発信できない国は、コスト競争の悪魔のサイクルに絡みとられ、持続可能な豊かな社会は実現できない。 61ページ
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(2)「コスト競争の悪魔のサイクル」の克服
輸出依存経済においては国際競争力至上主義になるので、コストカットのため、労働条件の引き下げと下請企業への取り引き条件引き下げとが強要され、消費基盤が狭くなり、内需不振から外需依存がさらに拡大されます。構造改革論によれば物価下落で消費が活発になるというシナリオですが、物価下落幅よりも賃金下落幅の方が大きいのですから、消費が上向くはずはなく、結局、発展途上国に見られる農産物の飢餓輸出と同じことを工業品で行なっているのです(ただし発展途上国の飢餓輸出では国内で必要な食料を輸出してしまうのだが、日本の場合は国内で余りある工業品を輸出している。しかしなぜ余るのかといえば…生産能力の巨大さがまずあげられるけれどもその他に…人々の所得が少なく有効需要が足りないからだし、輸出競争力をつけるために賃金切り下げや下請叩きなどのコスト削減をして内需を縮小させてもいる。このように強要された貧困によって可能になる輸出は飢餓輸出に準ずるものであろう)。国民経済の縮小再生産を輸出で糊塗していたのが、世界恐慌による外需縮小で白日にさらされたという格好です。
文明型産業の代表である自動車産業を分析した久山昇氏も「日本経済の死重ともいえる発展構造=合理化・コストダウン・円高・産業破壊の『悪魔の循環』は、今こそ断ち切られるべきではなかろうか」(「産業別レポート 自動車 『輸出依存型収益構造』の見直し」87ページ)と結論づけています。久山氏は「グローバル企業としての展望が開けても、そもそも何のための経営であるのかが問われるべき時代である」(同前)としています。前出の松村論文でも「そもそも経済や産業、そして行政、政治は、住民が安全・安心に暮らし、働く条件整備を行う社会的責務がある。その実現に向けて各々の発展があるが、経済や産業の拡大が自己目的化してしまっている」(73ページ)と言われています。原理的にいえば剰余価値と資本蓄積を追及する資本主義経済そのものが社会的再生産の担い手としての歴史的存在意義が問われているといえます。自動車産業でも建設産業でも生産の担い手としての労働者の確保・育成と関連中小企業の経営維持に対して大企業がしかるべき責任を持たねばなりません。これまでのような搾取と収奪の強化ばかりではいけません。これは企業の社会的責任という文脈と企業への民主的規制という文脈の二方向から考えられるべき問題です。民主的規制は政府が主体となるのが最も強力で本筋ですが、それ以前にも例えば共産党が経団連やトヨタなどに雇用の維持を申し入れたような下からの働きかけもあります。
内需主導型経済への転換でまず必要なのは、大企業の責任を含めて雇用の悪化を防ぎ最低賃金を上げるなど、労働条件を改善し、そして社会保障を充実して安心して暮らせ消費支出が増えるようにすることです。これはよく言われることであり、政府の施策とリーダーシップとによって実現されねばなりません。さらに久山氏は自動車大企業に対して長期ビジョンとして、労働者・関連中小企業や地域経済のために利益の一定部分の拠出を求めています。「現実の企業経営、グローバル経営の中での判断は容易ではないだろう。しかし内部留保を薄くしても、いざというときの従業員・関連産業・地域社会の支援は有力な武器にすることが出来る」(87ページ)。ここには様々な困難があるでしょうが、グローバル競争を規制することが重要です。その中心になるのは労働条件ダンピングの規制であり、多国籍企業と国際的な労働組合との労働契約の締結、その際にILOのディーセントワークの尊重といった、すでにグローバルな権威を持った主体と論理とに基づいてもう一つのグローバリゼーションを実現していくことが求められます。ソーシャルダンピングを利用した現在のグローバル競争ではなく、ディーセントワークを前提にしたグローバル競争に変えていくことです。なお友寄英隆氏は「グローバル化(再生産の国際的絡み合い)の二つの道」があることを指摘し、それが単なる理念形ではなく、国内外を関連させた現実的基盤を持つことも示しています。
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一つは、「多国籍企業化した巨大独占企業」が主導する無政府的なグローバリゼーションの道です。そこでは、「国際競争力」の強制法則が無制限に作用し、各国の労働条件や中小企業を保護・育成する条件はだんだん切り下げられていきます。
もう一つは、国内で「ルールある経済社会」を確立するとともに、世界市場でも、民主的な国際的ルールにもとづいて、民主的な共存共栄の共同市場を形成する道です。
EU(欧州連合)は、ルールある欧州共同市場を広げながら、国内ではルールある雇用、福祉を大事にする「社会的市場経済」を発展させてきました。EUの経験は、国内のルール作りと国際的なルール作りとは密接に連動していることを教えています。
「中小企業の新たな役割と党綱領の立場 世界的経済危機のもとで」
(『前衛』10月号所収)85ページ
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EUはグローバリゼーションの主体である多国籍企業本社がある地域だという意味で特に重要なのですが、中南米や東アジアなどの他地域でも「民主的な共存共栄の共同市場」を形成する過程にあることも想起すべきでしょう。確かに米欧日の多国籍企業を中心とする新自由主義的グローバリゼーションが今もなお支配的力をもっていますが、「ルールある経済社会」を基礎にしたグローバリゼーションの可能性は単なる夢想ではありません。
さらに上記の吉田敬一氏の場合は産業構造のあり方に踏み込んで内需主導型経済像を描いています。それは資本の利潤追及という上からの立場ではなく、人々の地域・文化に根差したライフスタイルという下からの立場によって国民経済を設計しようとするものです。ただし「資本の論理の普遍性」は新自由主義的グローバリゼーション下での「コスト競争の悪魔のサイクル」を導くものであり、わが国においてそこからどう脱却するかが大問題です。実は資本の論理は戦後日本のライフスタイルそのものをアメリカ化し、「本物に接しない生活をしているから感性がボロボロになってしまう」(座談会「外需依存から内需主導型経済へ」における吉田敬一氏の発言、27ページ)状況にもあり、それが今、次第に反省されつつあるところです。「悪魔のサイクル」からの脱却は、この反省による本物の生活の追及とともに、上述のように、企業の社会的責任の自覚と実践、企業への民主的規制、家計支援的なマクロ経済政策、そして地域密着型企業を支援する産業政策などの地域経済活性化策などが必要とされます。吉田氏はこう結論づけます。
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内需に基礎を置いた国民経済の構築の問題は、内需を支える経済主体は誰なのか、どのような国づくりを目指すのか、を問わない限り、持続可能な国民経済・地域経済の構築は夢物語に過ぎないであろう。
前掲「内需型産業をどう展望するか」63ページ
外需と内需のバランスの取れた自律的経済構造への転換は、地域を単位とした内発的産業革新の地道な積み上げとそれを支援する経済政策の確立にあり、そのための国民的合意の獲得が焦眉の課題である。 同前 64ページ
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つまり内需産業もグローバル企業に支配されている現状こそが問題であることに人々も為政者も気づき、民族的生活文化に根差した各地での地域密着型産業が立ち上がって来るような経済政策が必要です。「そのための国民的合意の獲得が焦眉の課題である」というのは、一方では人々自身の消費生活などのライフスタイルの地道な変革への合意と実践であり、他方では産業変革への財政的支援への合意などを含むかと思います。財政的支援には「国民的合意」が必要です。なぜならそれは私たちの現状の経済社会にとっては「自然」ではない特別のことだからです。そこで「自然」なのは資本の論理で形成された経済社会であり、それは所得再分配などの「作為」以前の姿を示しています。次には外需依存から内需主導へというこのような経済政策が本来含意し提起する経済理論の問題を探ってみたいと思います。
<3>経済変革における価値と使用価値
最初に述べたように、今次世界恐慌において日本資本主義の外需依存が問題とされ、内需主導型の国民経済への移行が課題とされました。そのために必要なのはまず雇用や労働条件の改善、所得再分配による生活支援、福祉充実による生活安定などで内需を拡大することでした。これによって企業の業績が上がり、賃上げや設備投資の活発化による経済の好循環を実現します。これはいわば価値の生産と分配に関わることであり、主に生産関係に沿った問題だといえます(ただし生産力一定の短期の分析の場合。中長期になれば生産力の上昇を当然視野に入れる必要がある。俗に言うところの「分配と成長の関係如何」という問題と関係する。だが不況対策でまず当面するのは短期的課題としての分配の問題であろう)。
対して吉田敬一氏が提起したのは使用価値のあり方に関わることであり、主に生産力の内容に沿った問題だといえます。価値はもっぱら量的にのみ問題とされますが、使用価値はまず質的に区別されそれぞれの質の量的バランスも問題とされます。日本の気候や風土に根差した衣食住のあり方にふさわしい使用価値が提供されることが、環境・資源問題などにも貢献し、持続可能な国民経済・地域経済をつくっていくことになる、という考え方に対して今日では広い合意が得られるでしょう。しかし現実には製品も原材料も輸入に多く頼り、ライフスタイルもそれに合わせたものに逆立ちし、国内各地の資源や地場産業が有効に活用されていません。こうなるのは「コスト競争の悪魔のサイクル」によって、手間ひまかけた豊かな諸使用価値の体系は淘汰されざるをえないからです。剰余価値と資本蓄積の追及という資本の論理が形成した「自然」がここにあります。対抗する問題意識としては、コスト競争に向かう生産力だけでなく、生活と文化に根差した独創的な使用価値を作り出すような生産力のあり方に目を向ける必要があります。
市場経済は価値の生産と(交換を通じた)実現という回り道によって結果的に使用価値の社会的な充足を図ります(仮にこれを「市場の論理」と呼ぶ)。経済の本来の目的は使用価値の充足ですが、ここにはすでに価値実現という手段の自己目的化という危険性が内包されています。さらに資本主義的市場経済においてはこの転倒性は完成し、資本蓄積の展開の陰で、生活・労働・環境は劣悪化してきました。前出の久山氏や松村氏が言うように「何のための経営であるのかが問われる」し、安全・安心な暮らしや働く条件整備がないがしろにされ「経済や産業の拡大が自己目的化してしまっている」現状です。「市場の論理」や「資本の論理」がもたらす「自然」がこのようなものであるなら、本来の経済の目的を達成するために「作為」としての経済政策を施す必要があります。価値の生産と分配においても、諸使用価値体系のあり方においても。ただし「作為」を成功させるためには「自然」を分析し規制し誘導する必要があります。その際に新たな産業構造像として現れる諸使用価値の体系のあり方は目標像として掲げられますが、そこに至る道は価値の生産と分配をいかに変革するかに求められます。当面するのは「コスト競争の悪魔のサイクル」をいかに克服するかであり、上述のように人々のライフスタイルの変化・企業の社会的責任・労働組合や市民団体の運動・政府の規制政策・国際機関の関与などの多くの要因によって推進されます。
社会的再生産を投下労働の総体として捉えるなら、手間ひまかけた地域的文化的な使用価値は多くの労働が投下され価値が高いものとして、その生産者には高い報酬が与えられ再生産を保障すべきです。しかし「市場の論理」では、それは当面必要な用途以上の形状や意味性が付与された、いわば余計な労働が投下された非効率的な製品とされます。投下労働に見合った価値はつかず再生産は不可能となります。市場を席巻する低価値の諸使用価値により形成されるライフスタイルの非文化性が今問題とされ、市場では非効率とされる高価値の諸使用価値により形成される文化的ライフスタイルが資源・環境的にも持続可能として見直されています。したがってもし文化型産業を担う地域密着型企業や産地に対して何らかの再生産保障の政策が採られるなら、それは確かに市場経済の次元においては「不自然」な価値操作となりますが、投下労働の次元では原状回復措置としての「自然」な政策と評価されます。こうした見方は、この経済政策に対する「国民的合意の獲得」の上で重要な視点ではないでしょうか。大切なのは「持続可能な国民経済・地域経済の構築」であり、その目標に照らして見た「市場の失敗」を是正する政策主体が望まれます。
投下労働と価値との乖離という視点を持って国際比較を見ると興味深い問題点があります。2007年5月23日付の「朝日」記事によれば、日本の労働生産性は主要先進国の中で最低になっています(詳しくは拙文「『経済』2007年7月号の感想」参照)。労働生産性とはいっても単位労働時間あたりに生産される使用価値量ではなく「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出」(同記事)したものであり、実際には付加価値生産性です。日本はOECD加盟30ヶ国中19位で、主要先進7ヶ国では11年連続最下位です(同記事)。サービス業の生産性の低さが目立つのですが、これに対しては「日本では、接客がいいのは当然とされ、金を払う文化がない。このため、サービスの質の高さはGDPに反映されにくく、生産性の数字も上がらない」(同記事)という解説がつけられています。「サービス労働が価値を生産するか否か」という論点は捨象して、統計と同じ立場(「生産する」)を前提するならば、日本のサービス業では投下労働と価値生産との乖離が生じています(「生産しない」立場なら、投下労働に見合った価値の分配がない、ということになる)。ここから類推すると、日本がヨーロッパより生産性が低いとされるのは投下労働と価値との乖離が大きいからではないでしょうか。つまりヨーロッパは投下労働が比較的に価値実現する市場をもっており、日本の市場では投下労働が比較的に価値実現しにくい、と考えられます。ヨーロッパの市場のイメージは以下のようなものです。
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こうした本質的機能追及型の産業・企業は、個性的で創造力・想像力のある人材と技能・熟練および地域固有の資源を大切にする。また地域密着型経営スタイルを基本としているので、多様なタイプ・条件・能力の人間が定住できる雇用と所得を地域に提供することができる。その結果、地場産業・農林漁業・商店街を大切にするドイツやイタリアの都市を見ればわかるように、安定した個性的なコミュニティが形成されやすい。また、オリジナリティを持った柔軟な企業間ネットワークが形成されるので、地域内での仕事や原材料のやり取りが活発化し、地域内での経済循環と再投資力あるいは「地産・地商・地消」型の経済基盤が強化され、地域経済の自立性・自律性が向上する。
吉田敬一前掲論文 59-60ページ
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このように自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済が内需循環型であれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じるのではないでしょうか。
外需依存で国際競争力至上主義の日本の「労働生産性」が低いというのは、とんでもない逆説に見えますが、それは字面にとらわれているためです。比較されているのは「労働生産性」とはいっても実は付加価値生産性だということに注意すべきです。輸出大企業が労働者と下請企業を搾取・収奪して低価値の製品を大量に生産する(=労働生産性が上がり競争力が強化される)ことが主柱になった国民経済では、生活が縮小し国内での付加価値(価値生産物、V+M)が伸びずに、投下労働の結晶の多くの部分が安く海外に流出することになります。強い国際競争力は、高い生産性のもたらす商品の低価値に大きく依存しており、したがって付加価値生産性が低いこととは両立しうるといえます。
ただしここでさらに考えなければならないのは、統計上、日本において、製造業のような国際競争にさらされる産業の付加価値生産性は高く、サービス業のような内需型産業のそれは低くなっていることです。これは一見、やはり国際競争によって「労働生産性」が高くなり、国際競争にさらされない産業はそれが低くなるという通念を支持し、国際競争の影響で付加価値生産性が下がるという上記の私見は正しくないように見えます。確かに国際競争に鍛えられて輸出産業の付加価値生産性が上がるのは事実でしょう。個別商品の価値低下を上回る販売量を確保して全体としての付加価値量を増大してきたのが「集中豪雨的輸出」をもって知られる日本の大企業の姿ですから。しかし国民経済全体がこの輸出大企業を支える形で編成された日本では、何度も述べてきたように「悪魔のサイクル」で内需が不振となり、自立(律)的な地域経済が育っていない中で、内需型産業といえども、グローバリゼーション下、多国籍企業の戦略の影響をもろに受けてしまいます。
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アジアへの生産移転が国内製造業に対して与える影響は、輸出向けの仕事の海外移転に留まらず、完成品の逆輸入や部品の海外調達という形で内需向けの生産基盤をも掘り崩す方向に作用している。不況下で注目を集めているユニクロ・ブランドのファーストリテイリングの経営戦略(企画・デザインは日本で、生産は中国で行い、低価格商品を日本へ逆輸入する)は、その代表例である。 同前 56ページ
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つまり輸出大企業や多国籍企業自身が単位商品の低価値を実現量で取り戻して付加価値を確保しても、低価値を支える国内産業はそうはいかず、日本全体の付加価値生産性は低くなるということです。
資本主義経済の主役は資本であり、今日では貨幣資本が特に注目され、経済とはカネだという通念が支配的です。しかし本来経済とは人々がみんなで働いて社会全体を支え合うことです。その原点から出発して眼前の経済の歪みを分析し正すことが必要です。グローバリゼーションの時代、投機マネーが飛び交う下でも、内需循環型の地域経済(およびそれを基礎とした国民経済)を構想し実践することはこの原点にたいへん具体的に近づくことだと思います。以上の拙文は現状分析への接近としてははなはだ抽象的なものに留まり、唐突に価値論に触れましたが、転倒した資本主義経済を前に正気を維持するには労働価値論が不可欠なものだと考えている次第です。
2009年11月号
政権交代をめぐる政治と経済
階級支配と民主主義
通常、内容が形式を規定しますが、形式が内容に反作用することもあり、内容と形式とが対立することもあります。現代の資本主義社会の政治を大まかに捉えれば、内容的には階級支配であり形式的には民主主義(本来は「人民の権力」という意味)となります。俗に言えば、それは本音としては独占資本家階層が人民を支配する体制ですが、建て前としては人民が主人公となっている体制です。したがってこの内容と形式との矛盾が階級闘争の一つの原動力となり、そのときどきの力関係に応じて様々な過渡的妥協的統一形態が生み出されます。その点で今回の総選挙結果は過渡的妥協的統一形態のあり方に重大な変化をもたらしたといえます。自公政権では、民主主義的形式はきわめて形骸化し、それが内容を規定し返す反作用は微弱で、階級支配という内容がかなり露呈していました。民主党への政権交代はこの自公政権への反発の結果起こったものだけに、それなりに民意を反映しており、民主主義的形式が活性化して階級支配の内容をある程度規制する可能性を与えています。もちろん民主党政権の性格そのものについては予断を持たずに見ていくとともに、変革の可能性をつかまえて人民の諸運動を高めていくことが重要ですが。
ところで前近代の階級社会であれば、階級支配の内容に規定されて形式的にも支配者階級が人民を支配することは明確であり、政治における内容と形式は一致しています。実は通念においては、資本主義社会における政治もその内容と形式は民主主義的性格で一致しており、そもそも内容と形式に分ける必要性が認められないでしょう。資本主義経済における搾取と政治上の階級支配とを認識し、それを資本主義社会の内実と捉えて初めて上記のような「内容と形式との対立」という認識に至ります。この認識があるのとないのとでは、具体的な政治現象の捉え方にも雲泥の差がでます。たとえば今回の総選挙結果の捉え方を見ても、階級支配を考慮すれば「対米従属の国家独占資本主義体制への重大な打撃」と考えるでしょうし、それを考慮しなければたとえば「保守二大政党間における健全な政権交代民主主義時代の幕開け」などと考えたりするでしょう。このように大きな違いが出てきます。
こうした違いは政治への本質的認識の次元で起こりますが、時々の具体的諸課題をめぐっては、階級支配があるのかないのかが争われるわけではなく、だれもが少なくとも建て前としては認める政治の民主主義的性格を前提にして具体的な論争が行なわれます。たとえば政府の各種審議会は、官僚のお膳立てに基づいて財界代表と御用学者などが参加して、おおむね内実としては階級支配に役立つ結論を出すわけですが、あくまで建て前は有識者が民主的に議論して政府に対して建議するという形になります。これを批判する側は審議会の報告書などの内容が人民の利益に背き民主主義的でない、と訴え、擁護する側は人民の利益になり民主主義的である、と答えることになります。この議論は本質的には階級支配をめぐる対決なのですが、建て前としてはあくまで政策が民主的であるか否かが問われます。
前近代社会とは違って、資本主義社会の政治における内容と形式とが本質的には対立しているのに対して、現象的には、建て前としては、あるいは公的次元においては、両者が民主主義的に一致している、という構造が以上のように見られます。これは資本主義経済における領有法則の転回に相当するように思われます。そこでは、労働者の行なう労働と資本家が払う賃金とが等価交換されるという流通過程における外被はそのままに、生産過程においては労働者に対する資本家の支配に基づいて剰余価値の搾取が行なわれます(他人労働に対する搾取過程が自己労働に基づく所有の等価交換過程として現象する)。もちろん両過程におけるこのような矛盾的外見は、労働力の価値と労働が生み出す価値との差が剰余価値の源泉となる、ということの解明によって解決されます。しかしこの本質的関係の解明によっても、流通上の等価交換に規定される自由・平等の外被が消えるわけではありません。さらに大切なのは資本主義社会においては生産過程はあくまで私的領域であり、流通過程が公的領域であるということです。市場における自由・平等が資本主義社会全体における民主主義を規定しています。ところがこれは社会における外被であって、その内実は支配従属関係に満ちています。「憲法は工場の門前で停止する」という言葉がそれを象徴しています。資本主義経済は商品=貨幣関係を土台として資本=賃労働関係がそびえたっており、後者における支配従属関係をも前者における「独立・自由・平等」の関係として現象させる構造をもっています。こうした経済構造が政治に反映すれば、階級支配の内容が民主主義的形式の下に包摂される構造になるように思われます。図式的にいえば、資本=賃労働関係が政治的内容としての階級支配の土台であり、商品=貨幣関係が政治的形式としての民主主義の土台となり、公的領域としての政治社会の全体は民主主義原理に基づくことになります。前近代社会においては経済の土台が共同体であり、そこに人格的独立性はなく、社会の公的領域に自由・平等は成立していないのだから、直接的生産者に対する支配者階級による搾取関係をストレートに反映した支配従属の政治構造が成立します。これに対して近代以降の資本主義社会における経済と政治を通した自由・平等・民主主義の成立は、その外面性や社会の内実との矛盾とにもかかわらず(あるいはその矛盾の故に)人民の闘いの橋頭堡を提供しています。
総選挙によって画期的な政権交代が実現し、鳩山民主党政権による政策決定と実行過程との詳細な中身が注目されることによって、政権交代の内実が問われようとしているこのときに、改めて以上のように原理主義的な印象を与える議論をしているのはいかにも間が抜けているかもしれません(総選挙結果に関する私見は拙文「2009年総選挙における民意の動向」を参照してください)。しかし体制的ジャーナリズムの代表たる朝日新聞のみならず、進歩的とみられている『世界』11月号の選挙評価なども含めて、政権交代をもたらした日本社会の政治経済等の状況の本質的解明を抜きに、もっぱら「統治のツール」として政治をあれこれ「責任ある現実主義」から論じている現状に接して、原点を再確認する必要性を感じたのです。もとより不勉強な私の議論が正鵠を得ている可能性は少ないかもしれませんが、支配者階層の立場からの政治安定の視点ではなく、人民の立場からの変革の視点で選挙結果と政権の行方を捉えることが大切です。「頭のいい人たち」は木を見て森を見ません。自公政権が倒れたのは、さんざん民意を無視した政治を続けて生活と労働を破壊した結果だという、当たり前の最も重要な事実を認識の真ん中に置かず、(たとえ人々が意識していなくても)客観的には階級支配の政治そのものが問われていることを看過しています。支配を維持する「責任ある観点」から技術的なことを詮索していると、本当の意味で間抜けてしまいます。
政権交代をもたらした日本社会の内実とその変革の理念
冗長で気分的な前振りをしてしまいました。政権交代の意義を理解するためには、政治の土台にある日本社会の内実を捉え、その後に選挙結果の分析、新政権への対応、今後の政治展望などを考える必要があります。以下ではそのほんの一部分について書きます。
政権交代は客観的には構造改革の否定の結果であったといえます。しかし政権についた民主党はもともとは構造改革を自民党と競っていたのであり、今回の総選挙では実質的に構造改革路線とは違った政策を掲げたとはいえ、明確に以前の路線を否定したり反省しているわけではありません。日米FTA締結といった政策を掲げているところなどには構造改革路線が見え隠れします。また人々の意識としても、小泉改革以来の余りにひどい惨状への反発として自公政権を引きずり降ろしましたが、構造改革の新自由主義イデオロギーを自覚的に否定したわけではありません。このあたりの微妙な事情を理解するためには、まず貧困と格差の現実を分析的に解明し、そこにおける人民のイデオロギー状況を捉える必要があります。
『前衛』11月号に「貧困問題の解決は政治の責任」という特集が掲載されています。中でも主論文としての後藤道夫氏「データが告発する日本の実相―求められる社会保障を充実させる政治への転換」は力作です。後藤氏は各種統計を縦横に駆使して、貧困の様相を浮き彫りにし、それとの関連で社会保障のあり方の問題点を析出しています。
後藤氏は勤労世帯の貧困を重視しています。それは一方では「この一○年間の変化では、勤労世帯の貧困率が大幅に増えたことが一つの特徴だ」(73ページ)からです。他方では、勤労世帯が貧困であれば、何らかの施策によって他の世帯の生活水準が勤労世帯のそれを超えると、反発(やっかみ)が起こるという事情があります。したがってこのような分断を克服するには「勤労世帯の貧困を減らす努力を社会全体のベースにおくことが福祉を充実させていくうえでどうしても必要」(72ページ)だからです。勤労世帯の貧困が増えてきた背景には周知のように非正規雇用が増えてきたことがまずあげられますが、それのみならずその悪影響もあって正規雇用労働者も低所得化してきたことが見逃せません。さらに深刻な問題としては、雇用保険給付なしの失業者が急増し200万人を超えていることがあります。こうした労働市場の悪化にもかかわらず勤労世帯を支える社会保障体制は脆弱です。このように労働市場と社会保障の両面から見て、西欧福祉国家やその他の先進諸国と比べても日本は劣悪な状況にあるため、高齢者・障害者などだけでなく、勤労者も含めて貧困が急速に拡大しました。
後藤氏は様々に工夫して統計を利用していますが、特に統計の見方として大切なのは貧困の分析との関連で失業率をどう扱うかです。もともと日本の政府統計の「完全失業率」概念は失業の実態を少なく表現してしまうので、失業の全体像を捉えるには潜在的失業や半失業を考慮する必要があります。完全失業率は上がったとはいえまだ6%には届きませんが、失業者に潜在的失業者や半失業者を加えると「労働力人口の一割強、多く見れば二割以上」(83ページ)になるようです。後藤氏は失業と貧困の関係についてこう説明します。
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一般的に失業率は低いほうがよいのはあたり前ですが、半失業を失業と完全就業に分けると、失業率が上がることが予想されます。その場合は、高い失業率を受け入れるべきでしょう。失業率が相対的に低くても高い貧困率を示すのが日本、韓国、アメリカなどですが、逆に失業率は高いが貧困率は低いのがフランス、ドイツ、イタリアなどの福祉国家です。
失業率が高くても貧困率を低くできるためには、一方で、「フルタイム・期限なし」で働く権利が労働者に保障され、それで生活がきちんとできる賃金水準が確保され、他方で、失業中の生活保障と職業訓練など必要な社会サービスを受けられる環境がどうしても必要です。 83ページ
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統計数値の意味を捉えるためには、きちんとした社会観が必要となります。貧困を表面的に捉えて失業率を下げることを自己目的化すれば、失業者を不完全就業に追いやることで事足ります。しかしそれでは働く貧困層を増やすことになります。そうして不健全な労働市場が形成されると、労働者の生活水準が下がって消費需要が低迷し、保険料が払えないので社会保険が機能しなくなり、将来の生活保護が増加します。また不安定雇用・低賃金・劣悪な労働条件では、労働者側から見ればやる気にならず、資本の側から見れば技術革新なしで利潤が確保できることになり、いずれにせよ労働生産性が上昇しなくなります。こうして個別資本の短期的利益が国民経済の長期的不利益になるという合成の誤謬が生じます。この悪循環を逆転させるべきです。新自由主義は失業の恐怖と低福祉とを労働のインセンティヴとし、資本の利潤を増大させてきましたが、それが行き詰まってきたのであり、ディーセントワークと充実した社会保障とによって国民経済の安定的発展を図る福祉国家の大きな政府に変わらねばなりません。こうして新自由主義的経済社会観からの脱却は重要な課題ですが、容易ではありません。
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この社会保障・社会支援の脆弱さのもとでの暮らし方の感覚、感じ方は、今でも強い影響を社会に及ぼしています。不安定な市場収入で、しかも自己責任で暮らすということがあたり前だという感覚です。そして、もし生活がよくなるとすれば、それは大企業が伸び、それが中小企業や他の領域におよび、その結果労働者の生活がよくなる場合だ≠ニいう大企業中心の生活向上の考え方があります。ここから多くの国民が依然として抜け出せていない。この考え方では、新自由主義的な政策に対抗することはもちろん、旧来の自民党型の開発主義的な政策に対抗することもむずかしい。地方への公共事業のバラマキこそ生活が豊かになる道だという感覚もいまだ根強くあるわけです。
だから社会保障やさまざまな社会的支援を通じて国民の家計が直接支えられ、社会サービスが低額・無料になることで家計の支出が減り、家計消費の増加と社会サービス部門の増加が、経済を活性化させるという、これまでとは違う、消費と社会保障が経済を活性化する経済のあり方に本気で国民が納得しないと大きな変動にはつながりません。
77-78ページ
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ところが逆に公共の領域をさえ新自由主義のイデオロギーは浸食しています。
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最近の日本の現実は、学校はサービス機関であり、教育は商品、保護者と子どもは消費者と考えるイデオロギーが国民の中にも浸透している。「消費者」の要求に応えることが学校の役割であって、その要求に応じて、学区を自由化し(なくし)、学校の選択を認める自治体が増えている。ただし、そこで選択を認める代わりに、子どもに対する教育は(親の)自己責任とする新自由主義的教育観が広がり、その結果、教育の私事性というイデオロギーが強まり、将来の社会のために子どもを育てる、子どもを育てるのは社会と国の責任という教育の公共性論は弱まっている。「競争の教育」が政府によってつくられているのである。
青砥恭「高校中退がつくりだす若者の貧困」(『前衛』11月号所収)99ページ
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小泉改革のころと比べれば新自由主義のイデオロギー的影響力は弱まっているとはいえ、まだまだ根強い。それは決して単に「遅れた意識」ではなくて、資本主義的市場経済が必然的に生み出すイデオロギーだからです。後藤氏が指摘する、大企業中心のトリクルダウン理論は、「蓄積が独立変数であり賃金は従属変数である」という資本蓄積の法則の反映であり、青砥氏の指摘する「教育の私事性」イデオロギーは商品=貨幣関係の論理の反映なのです。したがってそれらは資本主義的市場経済においては人々が日常的に経験することから不断に生み出される「自然な」意識であり、それを克服するためには、はっきりした政策的展望を含めて、福祉国家が主導する内需循環型国民経済のイデオロギーを提起し続けることが必要です。それは生活と労働の困難な現場から発する様々な大衆運動の経験を通じて(できれば運動の成果としての要求実現をも通じて)人々の間に定着していきます。しかしそれに参加しない多くの人々にとっても、今回の総選挙以前から生じてきた新自由主義への懐疑が政権交代劇とともにより大きくなり、新自由主義的構造改革とは違う形への政策的変化によって、生活経験的に深まっていく可能性はあります。
先述のようにここでは人間と社会をどう見るかが問われます。低福祉と失業の恐怖によって、劣悪な条件でも働かざるをえなくして、安価な労働力を確保して経済の活力を発揮するのが新自由主義のやり方です。これに対して、生活と労働の安定を通して内需拡大と生産性上昇を追及するのが福祉国家のイデオロギーでしょう。つまり「生活・労働」と「経済」との関係が新自由主義ではトレード・オフになっており、福祉国家ではウィン・ウィンを目指しています。この対抗は煎じ詰めれば、搾取的生産関係に立つ資本主義経済と非搾取的生産関係に立つ社会主義経済との対抗になります。人民にとって「生活・労働」と「経済」とがトレード・オフになるのは搾取があるからです。ウィン・ウィンの関係を実現するには搾取をなくすことが必要です。もちろんこれは極端な議論であって、現実には、様々な理由によって少なくとも発達した資本主義諸国では社会主義への移行が当面する課題になっていない現在、このきわめて原理的な対抗関係は新自由主義と福祉国家との対抗関係の中に形を変えて現れているといえます。資本主義の枠内であっても搾取の強化か緩和かによって国民経済のあり方が大きく変わり、そこに対抗関係が現れます。
新自由主義的構造改革の貫徹によって、日本資本主義は相当程度まで「生活・労働」と「経済」とをトレード・オフ関係にしました(人民が苦しむ対極に大企業が空前の利潤をあげる「格差景気」の出現)。トヨタシステムのような独占資本の強搾取構造に合わせて、労働関係や中小資本の系列、地域経済のあり方、社会保障・税制など国民経済の全体を編成変えし、グローバル企業中心の外需依存体質にしてしまいました。そこでは「コスト競争の悪魔のサイクル」が貫徹し、グローバル企業が肥え太る一方で、人民の生活ともども国民経済全体が脆弱に痩せ細ってしまいました(先のトレード・オフ関係を続けていけば結局は「経済」もだめになる。トレード・オフからウィン・ウィンの逆のルーズ・ルーズへ)。これを逆転して好循環を実現するためには、生活を豊かにし労働を安定させることを起点に国民経済を発展させることが必要です。その際の一つの鍵を握るのが社会保障であり、『経済』11月号が「社会保障で経済再建へ」を特集しています。
この課題に国民経済の次元で取り組んだのが川上則道氏の「社会保障の拡充のための経済財政論」です。社会保障を充実させることが増税や社会保険料の上昇によって人民の負担増になるという危惧に、この論文は原理的に答えています。老後生活費や医療費などは必ず必要な費用であり、川上氏はこれを「要保障生活費」概念として提起しています。もし公的年金や公的医療費がなくても依然として要保障生活費は存在するので、その場合には全部私的に負担せねばなりません。
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したがって、「要保障生活費」の公的保障の原資を国民全体が負担しているということの意味は、この特定の諸個人にとって重く過酷なものとなる負担を国民が全体として担うということである。言い替えれば、「要保障生活費」の負担を国民にできるだけ公平に分散し、特定の諸個人にのしかかる重く過酷な負担を軽減し、さらには無くそうということなのである。
したがって「要保障生活費」の公的保障である社会保障を拡充することは、国民全体の負担の全体量を増やすことではなく、負担のあり方を変えることである。 61ページ
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これはきわめて原理的な指摘です。もう少し現実的要素を加えれば、社会保障では応能負担などによって所得再分配が行なわれるので、多くの庶民にとっては、社会保障が拡充されれば、それによる公への負担増よりも私的負担の減少幅が大きくなります。そこで先の後藤論文からの引用にあるように、家計負担の軽減が個人消費の増加につながり、経済を活性化させます。
川上論文の最後には、資本主義経済が抱えている「生産と消費の矛盾」の観点から、労働者階級の消費需要の増大によってこの矛盾を緩和するのに、社会保障の拡充が役立つことが指摘されています。ところでもともと資本主義的な経済成長は、搾取強化によって利潤を増大させ、そこから資本蓄積を推進し、消費手段生産部門(第2部門)に対する生産手段生産部門(第1部門)の不均等発展による再生産構造の変化(それによる有効需要の構造変化=個人消費需要よりも投資需要が拡大する)を通して「生産と消費の矛盾」の露呈を回避しながら進行します。もちろん再生産構造は無限にフレクシブルではなく、その時点での一定の生産力と生活水準とに規定されるので、この矛盾はやがて爆発し恐慌をもたらします。この暴力的調整によって「生産と消費」および部門間の不均衡を是正して新たな資本蓄積が始まります。この恐慌=産業循環過程を通して資本蓄積=経済成長は実現していきます。これは教科書的説明なのですが、むしろ日本資本主義における現実の高度成長過程では第2部門のほうが速く拡大しており、「生産と消費の矛盾」の作用は緩和されたことを川上氏は指摘しています(『計量分析・現代日本の再生産構造―理論と実証―』、大月書店、1991、12ページ)。
この理論と現実の違いは重要な問題ですが、ここでは措きます。現実の高度成長がそのような過程であるならば、搾取と資本蓄積がその動態を主導する(あるいはケインズ的に「投資がリードする」と言い替えてもいい)という資本主義像は今日の資本主義国民経済像としてはそぐわない古典的なものということになります。寺沢亜志也氏は、経済企画庁の2000年版「日本経済の現況」に依拠して「高度成長期に日本の経済を引っ張ったのは、民間設備投資だったが、安定成長期になると個人消費が経済を引っ張るようになった」(「日本経済の再生と個人消費回復への道」『前衛』2000年9月号所収、11ページ)と結論づけています。先の川上氏の分析ではむしろ高度成長期からすでに個人消費が重要であった、ということかもしれません。しかしそうであっても、第2部門がより速く拡大するというその分析結果からは、GDPに占める比率において、民間設備投資が低下していき、個人消費が上昇していく、という政府統計上の変化が導き出されるわけで、今日の時点における国民経済上の個人消費の重要性という意味では一致します。
これによって「コンクリートから人へ」という民主党政権の経済政策のスローガンの経済学的意味が明らかになります。今では個人消費の重視は自明のことのように言われますが、新自由主義的構造改革ではあくまで独占資本支援が中心でした。今でも「成長戦略がない」という新政権批判は古典的資本主義像に依拠しているわけで、今日の資本主義国民経済像による内需循環型の成長戦略への無理解を示しています。それでは古典的資本主義像には根拠がないのかというと、そうではなく、搾取的生産関係から発する本性をそれは表現しており、今日でも個別資本の行動基準となっています。しかしかつての大恐慌から今日の世界恐慌にまで至る経験は、それはもはや国民経済形成の原理ではありえなくなった、ということではないでしょうか。日本資本主義の高度成長期においても財政出動による有効需要注入など国家の経済政策や輸出ドライブなどによって過剰生産が処理されています。個人消費の拡大も社会保障の拡充や労働組合の活動など「非資本主義的」要素によって支えられました。資本の論理や市場の論理とは異質なものを抱え込むことで資本主義は国民経済として何とか生き延びてきました。そのことは逆に資本の論理(搾取強化による成長)に基づいて「経済停滞」を批判する言説を常に呼び起こすことになります。先述したように、資本主義と社会主義との対抗の論理が新自由主義と福祉国家との政策的対抗の中に形を変えて現れてきます。
「生活・労働」と「経済」との関係をトレード・オフ(新自由主義)からウィン・ウィン(福祉国家)へ、という変化は川上論文の問題意識(生活水準の向上が経済成長をもたらす)に即して言えば、「生産と消費の矛盾」の強化から、その緩和、生産と消費との平行的発展の可能性の追及へ、と表現できます。それは現実の資本主義経済の歴史的変化という土台にそうものです。
このウィン・ウィン関係を財政に見ているのが、やはり『経済』11月号の特集「社会保障で経済再建へ」にある二宮厚美氏の「新しい政治状況と経済危機の打開」です。福祉国家型財政への転換においては、軍事・土建国家型財政を見直すとともに安易に消費税には頼りません。したがって無駄な歳出を抑制しながら、内需に冷や水をあびせるのを防げるので「財政危機の歯止め」(16ページ)になるというわけです。また金融資産などへの課税強化で投機マネーを吸収して今回のような金融恐慌を防ぐとともに累積債務の減少にも資することになります(18ページ)。さらに二宮氏は政権交代への私たちの対処について発言しています。
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短期的には鳩山政権の可能性を生かして社会保障充実の第一歩を早期に達成する。それと同時に、次につながる将来ビジョンを明らかにしていく、この二正面作戦がいま私たちに問われる、ということです。 24ページ
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「鳩山政権の可能性」を捉えるためには、民主党の二面性とその政権の過渡的性格を、特に小泉改革以降の政治的経過の中から明らかにすることが必要であり、「将来ビジョン」を立てるためには、福祉国家の歴史的必然性やその理念を理解することが必要でしょう。これらについて後藤道夫氏の議論から若干紹介したいと思います。
小泉改革から政権交代へそしてそれ以降
10月17日、全商連全国会長会議において後藤道夫氏が「民主党政権の誕生と日本社会の課題」という講演をしました。この会議に参加した名古屋中民商副会長の藤田政史氏よりレジュメを提供していただきました(一読して、是非とも実際に聴講したい内容です)。前掲の同氏『前衛』論文はこの講演の内容の一部に当たり、講演ではその他に、小泉改革から今回の総選挙までを振り返って、新自由主義的構造改革をめぐる情勢の変化と自公政権と民主党それぞれの変化の過程が捉えられています。また福祉国家型の大きな政府・自治体の歴史的必然性と福祉施策の理念、それに向けての日本社会の課題が展開されています。
2005年の郵政選挙=小泉劇場で急進的構造改革派は圧勝しますが、その後から翌年にかけてすでに格差論議が始まり構造改革批判の火の手が上がります。2007年の参議院選挙では「国民生活第一」を掲げた民主党が大勝し構造改革路線にブレーキがかかります。小泉政権を継承した安倍・福田・麻生政権期には構造改革路線の破綻が明確になり、様々な政治社会問題や諸施策への世論の厳しい批判の中で自公政権は路線の修正と社会危機への対処を求められます。つまり07年参議院選挙に向けた民主党の政策転換だけでなく、自公政権側も構造改革路線をそのまま継続することは不可能となりました。この間の社会状況と政策的対応や世論の動向などを後藤氏は丹念に追っています。こうして迎えた2009年の総選挙で民主党が圧勝します。
後藤氏はここでの民主党のマニフェストを一方では「反構造改革」型に深化したと評価していますが、他方では「マニフェストの個々の内容を方向付ける戦略・思想は民主党にはない」として以下を指摘しています。
○ 個々の議員の活動・周囲からの期待がそのまま反映
○ 選挙に勝つため(財政問題は勝ってから)+党内民主主義の欠如
○ 種々の色合いの自由主義(非軍事大国型、規制緩和、官僚批判、地方分権等)
○ 福祉国家の政策思想なし
○ 財界、アメリカと戦えない
これは民主党政権の過渡的性格を理解する上でたいへん参考になる分析です。確固たる理念と立場がなく、雑多な思想の寄り合い所帯が場当たり的政策で政権を取ったという状況だから、日和見的性格が濃厚となります。そしてここから「世論、運動による圧力の重要性」という当然の指摘だけでなく、「大きな福祉国家型の政府への無自覚的・跛行的な歴史的転換点の可能性」という非常に興味深い示唆も記述されています。
次いで後藤氏は「福祉国家型の大きな政府・自治体の歴史的必然性」を主張しています。「福祉国家型の大きな政府・自治体」というのは、民主党政権下では「無自覚的・跛行的」ですが、客観的には「歴史的必然」だということです。その根拠として「非常に不安定な市場収入のみで暮らすことの無理がはっきりした10年」とか、生活様式の高度化で、必要な社会サービスの量的・質的高度化が生じることなどが指摘されています。これまで新自由主義の圧倒的な影響下にあって、世論上、小さな政府が金科玉条のごとく扱われ、革新勢力でもおよび腰の批判になっていたように思いますが、きっぱりと大きな政府を対置することは大切だと思います。その立場を明確にした上で、新自由主義ではなく市民主義の問題意識にある官僚批判とか「新しい公共」についても考慮することは有意義ですが、前提を欠いてただそれに同調すると、生存権・社会権に関する行政責任の免罪に陥ります。
この「歴史的必然」を前提に、後藤氏は「日本社会の課題」に迫っています。その全体に触れることはもはや私の力量を超えていますが、印象深かった点を一つだけあげれば、「社会サービスと所得保障における普遍主義」の指摘です。こうした理念を実現しうる大きな財政とそれを支える福祉国家型の国民経済・地域経済のあり方を後藤氏は提起しています。政権交代後の政治展開をにらみながら、この点でのいっそうの理論的・政策的展開は多くの研究者の課題になっていると思います。
保守主義について
自民党の下野にともない、その復活を求める問題意識から、保守とは何か、保守主義のあり方は、といった議論が盛んになっています。この問題意識そのものは社会進歩の観点から評価すればまったく問題外です。自民党政治は今日の人々の生活と労働の苦難をもたらした元凶であり、下野した後もそれに対する反省はまったくなく、相変わらず独占資本の代弁者として振る舞っています。本来ならば自民党は人々に謝罪の上、解党すべき存在です。現今における日本政治の進歩とは、自民・民主の二大政党制を克服して、民意を反映する多党制に生まれ変わることです。その意味では、このまま自民党が衰弱して共産党などが大きくなれば最もよい展開となります。そうすれば、自民党もろとも新自由主義を基本的に駆逐した上での政治展開となります。あるいはそこまでいかなくとも、新自由主義を引きずった民主党と共産党などの革新政党とが対決する多党制がその政治的内容となるでしょう。なかなかそうはいかないでしょうが、何となく現状に埋没するのでなく、あるべきイメージをもって目指すことは必要です。自民党の復権などというのは反動以外の何者でもなく、「健全な政権交代を含む二大政党制の定着」とは、「民主党による政権奪取=自民党下野」という現状からの明確な後退です。この現状を社会進歩の第一歩とできるのか、歴史的停滞に迷い込むのか、それを表わす一つの指標が自民党の今後の盛衰です。
保守主義が問題となるのは、自民党の復権という文脈においてなどではなく、革新勢力が伸長する上で、保守と自覚する多くの人々をいかに獲得するか、という文脈においてです。これまで二大政党に投票してきた、全投票者の7割の人々(それがみんな保守だというわけではないけれども)の心情をいかに獲得するかは重大問題です。ここでは、新自由主義と真正保守主義との関係という問題、日本の自然・歴史・伝統・文化・生活心情の捉え方の問題など様々な点について、革新の側からの新鮮で根源的なアプローチが求められています。最近の新聞記事などを素材にあれこれ考えようかと思ったのですがその余裕がないので残念ながら今後の課題に先送りします。
「いったいどうなんだ」と…
何日にもわたって断続的にだらだらと書いていたら、情勢が展開して民主党政権の地金もだいぶ出てきました。まだ断定的なことは言えませんが、沖縄の米軍普天間基地の問題では米政府から恫喝されて岡田外相を初めとして早くも白旗が上がっているようです(あの男、もう少しは気骨があるかと思ったが)。しょせんは自民党と同じ対米従属か、という感じです。財界相手のほうははたして大丈夫だろうか。厳しい批判と監視の世論が必要です。
2009年12月号
雑感アラカルト
社会科学などに関連した雑文を書くことが今や私にとっては最も大切なことです。本来それは(資本主義的市場経済における負け組であることを初めとした)自分自身の客観的惨状を正面から受け止め挑戦する行為の一部であるはずです。しかし必ずしもそうならずに、最悪の場合、逆に現実からの逃避行為のような机上の空論に陥る可能性もあります。ここでは理論と実践の統一が、生き方の真摯さと理論の深さとの結合として試されます。
とは言ってもしょせんは不勉強のままに好きで書いている(ものを知らないからこそノーテンキに書いていられる)だけなので、貧しい知識の枠内で現実を強引に解釈する形にならざるをえません。現実へのこの「届かなさ加減」もまた理論と実践の統一の障害となりますが、それはまあ措くとして、そのような雑文に自己満足以上の意義があるのかは問題となります。ここは開き直るしかない。「好きこそものの上手なれ」。上手になった形跡がない、と言われれば、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」。不勉強な思いつきでもたくさん書けば中にはものになる内容もあるのではないか。きちんとした研究者が責任をもった議論でリードするのは当然ですが、素人が参加しうる裾野の広さも社会科学にとっては必要なことでしょう。もっとも、すでにネット上には無数の議論があるわけで(私は見ていませんが)、研究の民主化はそれなりに実現しているのかもしれません。しかしそのほとんどはゴミだとも言われているから、そんな評価はできないのかもしれません。いずれにせよそのゴミの一部であろう拙文ではあるけれども、せめて問題意識の提供くらいのことで世の中に貢献できはしないか、と思っています。
こうして「反省」したところで、いつもよりましな文を書こうというわけでは残念ながらなく、今回はいっそうとりとめのない雑感を並べることになりそうです。ややテンションが落ちていて、いつものように牽強付会に文をまとめるのができそうもありません。
◎競争と搾取
浅井春夫氏と山科三郎氏の対談「現代の『子どもの貧困』を解剖する」の中で、山科氏は「搾取抜きの『格差論』に終わっていては社会の根本問題が見えてこないのではないでしょうか」(18ページ)と述べています。商品経済そのものは確かに弱肉強食の競争によって格差と貧困をもたらしますが、それはまだことの半面でしかありません。資本主義経済は労働者への搾取によって成り立っており、資本間競争は個別資本に対して搾取強化を強制します。つまり格差と貧困を拡大するのは、市場における競争一般だけではなく、資本間競争に由来する搾取強化でもあり、むしろこちらのほうが主役だという認識が重要です。資本主義経済は商品=貨幣関係の土台の上に資本=賃労働関係がそびえ立つという重層的構造から成り、その認識から競争と搾取をともに捉えることが必要なのです。通常は雇用関係も含めて、市場競争から格差と貧困を導き出してしまいますが、これだと個々人の能力などを格差と貧困に直結させる自己責任論に転化しやすくなります。
ただそこに進む前に社会的再生産一般の観点から出発して商品経済の意義なども含めて考えてみたいと思います。対談では子どもの成長や文化の問題など多岐にわたって現代的状況を検討しています。なのにあえて原理的考察に及ぶのは本質還元論であり理論的逆行かもしれません。しかし競争を人間の本能と考える無概念的認識を克服して、それを生産関係の変化の中に捉えることが、現代的状況の解明にとっても大切だと私は考えます。
対談の中で執拗低音(バッソ・オスティナート)のように反復され流れているのが、連帯・共同と分断・競争との対比です。まず「人間は本来、共同的な存在だ」(23ページ)と確認され、現状は次のように描かれます。
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新自由主義の人間観というのは、人間を人間とみない、物象化していく人間観です。能力があるものは勝って、能力のないものは負け犬となるという人間観です。子どもは、おとなとの関係でも、子ども同士の間でも、いろいろな顔をもって生きているのですが、それを競争の人間観として押しつけ、あらゆる社会的人間関係をズタズタに切りました。なぜなら、競争は、一つの社会的人間関係で個々人を業績で争わさせ、人間的連帯を断ち切り、究極的には自己責任の名であたかも個を重視するかのような虚偽意識としてのイデオロギーで正当化されるものです。 27ページ
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歴史貫通的な人間の共同性に対して、現代では新自由主義の一面的な人間観の下での競争によってそれが徹底的に分断破壊されていることが告発されています。確かに現代において事態は深刻ですが、その発端はどこかというと「資本主義は、歴史的にみても市場競争がつきものです」(26ページ)ということで、資本主義の成立にまでさかのぼれそうです。
ここであたりまえのことを確認したいのですが、あらゆる人間社会にとって共同性とか協力というのは絶対不可欠なものであるのに対して、経済社会における競争というのは特殊歴史的・相対的なものです。あえていえば、競争もまた人間の共同性のあり方の一種だといえます。人間は共同して社会を作らなければ生きていくことができません。その共同のあり方は様々であり、共同体を形成する直接的な形もあれば、無政府的に事後的に共同性を確認する形もあります。後者の場合は競争が重要な役割を担います。いずれにせよ、競争とは人間の本能であってあらゆる社会形成の原理であるかのような錯覚は是正せねばなりません。それは資本主義的人間像の無批判的拡張による誤った抽象を適用した無概念的人間観です。もちろん資本主義社会の人間といえども「いろいろな顔をもって生きている」のですから、この抽象は通時的に誤っているだけでなく共時的にも誤っています。資本主義社会の競争的側面を分析するとき以外にこの抽象で裁断することがあってはなりません。
前近代の共同体が解体する過程で市場経済の中に自立した人間が現われます。それまでの共同体になかった独立・自由・平等がその光の側面とすれば、分断が影の側面といえます。そこで作用する利己心とか競争というものの評価は絶対化することなく、歴史的に相対化する必要があります。絶対的な善とか悪とかではなく、それぞれの状況の中で捉えねばなりません。共同体においては分断はなく、直接的な共同性があります。これに対して市場経済においては共同性はなく、分断と競争だけがあるように見えます。しかし市場経済といえども人間社会の共同性の一つのあり方であり、さまざまな不均衡をかかえつつも長期・平均的には社会的再生産を維持するという形で共同性を実現しています。対談の中で現代社会における連帯・共同と分断・競争との対比が繰り返し現われますが、これは現代社会もまた市場経済の上に成立している以上、市場経済に顕著な分断・競争と潜在的な共同性とがそれぞれのあり方で現われていることの反映です。
ここで競争は一面においては市場経済における経済主体の自由と自立性を表現しており、前近代の共同体に埋没した個人に対しては進歩的であることを忘れてはなりません。しかしそれが今日においては社会の分断を象徴し多くの人々を傷つけていることも事実です。ならば適正な競争なら良くて、過度な競争は悪いということになるのでしょうか。確かにそうですが、もう少し理論的な説明はないか。実は競争といえば暗黙のうちにその主体は個人ないしとにかく人間であると考えられています。それが間違いではないか。確かに単純商品市場における競争の主体は人間かもしれませんが、資本間競争における競争の主体は資本です(ただし単純商品市場においても、商品=貨幣は人間を支配する物象であり、その意味では人間が競争の主体であるとは言い切れないのですが、ここではそれは措き、前近代的共同体から自立した人間の主体性という側面を重視します)。資本とは自己増殖する価値であり、資本蓄積は「生産のための生産、蓄積のための蓄積」として敢行され際限がありません。この運動は人の丈を超えたものであり、人間の個人のコントロールが及びません。今日その行き着いた先が日本資本主義における「コスト競争の悪魔のサイクル」です。だれもこれを止められず、内需の空洞化した国民経済は世界恐慌の中で最も深刻な影響を受けました。
だから「自己責任の名であたかも個を重視するかのような虚偽意識としてのイデオロギー」がなぜもっともらしく受け入れられ、どこが間違っているかの答えが出ます。市場経済の自由に生きる経済主体が個人として尊重されていると感じるのは根拠のないことではありません。そこでの成功と失敗は自己の能力と努力の結果として自己責任において捉えられます。競争の主体が個人であればそのように受け止められるのは当然であり、事実、競争の実際の主体は個人としか見えません。ただ資本主義経済を批判的に認識する者だけが、競争の主体が資本であり、その資本間競争が個別資本に強制する搾取強化によって個人が抑圧されることを理解することができます。現実を肯定的に理解することを通じて否定的に理解する姿勢で、競争の自由が個の尊重ではなく個の抑圧に転回することを理解することが重要だと思います。
ところで資本主義国民経済が全体としては社会的総資本の再生産として存立している以上、個人自営業者といえどもその競争のあり方は、資本間競争の際限ない(労働者にとっては)悪循環的性格の影響を逃れることはできません。自営業者にとって、単純商品市場の独立・自由・平等の表象は誤りではないにしても、資本主義企業の制覇する市場の下では様々な制限・歪曲をまぬがれないことはだれもよく知っている通りです。
社会的分業と工場内分業との区別もまた競争の概念的把握につながります。図式的にいえば、資本主義的市場経済において社会的分業は市場経済の独立・自由・平等の世界に属します。工場内分業は資本=賃労働の搾取関係の専制の世界に属します。競争の主体をもっぱら個人だと捉える通俗的立場からは、競争における自営業者と労働者との区別がつかず、等しく能力と努力の結果として、つまり自己責任において格差と貧困を捉えることになります。自営業者が直面するのは独立・自由・平等の市場経済の世界ですが、今日の彼にとっての問題は、国家独占資本主義の下では、独占資本の圧迫とその意を受けた政府の政策とによって、独立・自由・平等の市場世界が実質的には存在していない、ということです。だから彼は元来自己責任の意識は強いけれども現実的な困難を前にして、政策的責任を追及せざるをえなくなります。
これに対して労働者の場合はもっと事態は明白です。企業内で労働者間競争が組織されますが、これはもともと独立・自由・平等の市場世界での競争ではなく、利潤極大化を図る労働強化のために資本の専制支配の枠内で管理された競争です。ここでも競争の主体は個人のように見えるけれども、本質的には、主体たる資本の魂のすさまじい搾取に個人は抑圧されており、個の尊厳とか自己責任を本来的に主張できる場ではありません。
ところで私たちは資本主義経済に対して、市場を止揚した社会主義経済というオルタナティヴはもっていません。少なくとも近未来においては市場経済を尊重しなければなりません。ならば市場原理とか自己責任論それ自体を否定することはできません。ここでは市場経済一般という次元で考えますが、それでは市場への規制を主張できる根拠は何かといえば、自由競争の放任が貧困と格差を生み社会的危機を招いたことへの結果責任論です。原理そのものを全面的に否定できなくても、明白な悪い結果を前にして原理の修正を要求することはできます。
市場経済一般からもう一歩具体的に資本主義経済について考えます。資本主義企業の内部には市場があるわけではなく、市場原理とか自己責任論の世界とは基本的には違っています。ここで強搾取によって人間の尊厳が損なわれることが資本主義的経済法則の必然によるものである以上、政治による資本規制によるほか解決方法はありません(「市民社会」の運動による社会的規制も経済外的という意味では同種)。
競争は人間の本能であり、競争の主体は人間であるという俗見は、資本主義的市場経済における人間の姿を現象的に捉えて誤って抽象した人間像と競争像です。ここから個人の能力と努力を格差に直結する自己責任論が生まれます。このような競争観に機械的に反発するのではなく、その無概念性を衝くことが必要です。そのためには、資本主義的市場経済を再生産一般との関係を考慮しつつ、その歴史性において進歩性と限界を捉え、次いで商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層的構造を捉えます。すると、経済社会における競争は歴史的所産であること、資本主義的競争の主体は資本であることがわかり、「個人競争普遍主義」ともいうべき「市場経済」像による自己責任の無限定な拡張の誤りが明らかになります。今では格差と貧困の第一の原因として周知のこととなった「不安定雇用の拡大」はまさに資本=賃労働関係における搾取の問題です。資本主義経済を市場経済に解消してしまう俗見では、雇用問題も労働市場での競争に解消され(ミスマッチ論、自由な働き方の選択論など)、資本の責任が自己責任に転嫁されてきましたが、さすがに事態の深刻さから資本の責任が広く認識されるようになりました。80年代あたりでは時代錯誤扱いされた「搾取」「階級」「貧困」というキーワードが世間的に復活してきた今、少なくとも先進的な人々には「競争と搾取」に関する概念的理解を広めることは必要ではないかと考えます。
◎真実と誠実 希望と政策
上記対談で山科氏はアラゴンの有名な言葉を引いています。
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ナチス・ドイツがストラスブール大学を軍靴と銃剣で蹂りんしたとき、アラゴンが「教えるとは希望を語ること。学ぶとは真実を胸にきざむこと」と学生たちに贈った詩句を想い出しました。「貧困」に対して「希望」というものを考える際に大切なことは、現実の社会的生活過程の内部にしか「希望」を見出す可能性は存在しないことですね。
28ページ
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山科氏は「真実」に「まこと」というルビをふっています。残念ながら私は原語を知りませんが、普通ここは「誠実」と訳されるように思います(あえて言えば、原語が何かということを措いても以下の議論は可能)。真実を学ぶのはあまりにもあたりまえであり、誠実を学ぶとするところに妙味がある、というより核心がある、と考えられているせいでしょうか。そこをさらに「真実」と書いて「まこと」と読ませる。その心は「真実=誠実」ということでしょうか。たとえば、真実を獲得することは誠実さを身体に浸み込ませることにつながる、と。
学生時代に聞いた真下信一氏の講演でヤスパースの言葉を知りました。「知的で誠実でナチス的であるような人はいない」という意味の言葉だったと思います。敷衍すれば、知的で誠実であればナチス的ではありえない、知的でナチス的であれば誠実ではありえない、誠実でナチス的であれば知的ではありえない、ということです。真下氏は「悪魔はたいがい知的だ」とも語っていました。つまり「真実=誠実」が成立する必要条件として、ナチス的なものが排除されていることが上げられるのです。
今日的には「ナチス的」を「新自由主義的」に置き換えることはできるでしょうか。「知的で誠実で新自由主義的である」人はひょっとするといるかもしれない。しかし「知的で人道的で新自由主義的である」人はいないように思いますがどうでしょうか。いずれにせよ他所の人のことはともかく、「真実=誠実」を貫けるように、深く学んで誠実に行動できるようになりたいものです。
そして「希望」は他所から降ってくるものではなく「社会的生活過程の内部にしか」見い出すことはできません。見い出された「希望」は政策に具体化され現実化されます。
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本書は、福祉・保育現場の貧困化を克服するための政策提言でまとめている。政策とは希望の組織化であり、運動の指針であると政策の本質を言い切っていることは福祉・保育運動に勇気を与える。福祉・保育は、対象者に希望を与える制度であり職場である。
浅井春夫・金澤誠一編『福祉・保育現場の貧困 人間の安全保障を求めて』への
杉山隆一氏の書評 97ページ
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もちろん「政策とは希望の組織化であり、運動の指針である」との至言は福祉・保育の現場にとどまるものではなく、あらゆる学問と運動とをつなぐ環に当てはまるものであり、理論と実践の統一の一つの現実的姿であるといえます。
「学ぶとは真実(まこと)を胸にきざむこと」。そうして獲得された学問は希望にまで高められます。希望の一つの形が政策です。「教えるとは希望を語ること」。人にものを教えるほどの人は希望としての政策を語れることが必要ではないか。たとえ抽象的な理論を教えている場合でも胸中にはその備えが必要ではないか。ナチス占領下のアラゴンの思いからははずれるかもしれませんが、今日、社会科学を学び実践する人々にとって、「真実と誠実」そして「希望と政策」は大切に心に留め置くべきことではないかと思います。
◎現場の眼から
11月号の川上則道氏の「社会保障の拡充のための経済財政論」においては社会保障について、国民経済論の立場から論じられました。いわば俯瞰する眼からの議論であり、政策的展望を示す意味では不可欠の視点です。いくら願っても、国民経済的にそれを実現する可能性やプロセスがあるのかを問わなければ空想的願望に留まるからです。しかし私たちの生活や労働が所与の国民経済的枠組みによって規定されるのは事実ですが、逆に私たちの生活と労働のあり方などが国民経済の性格を規定するという側面もあります。特に国民経済を変革しようとするならば、生活と労働の現状から出発してそのあるべき姿を追及し、それを実現しうる国民経済のあり方を求めることになります。その立場から、現状の枠組みを突破するにはどう考えればいいのか、という問題意識が重要です。ここでは現場の眼が大切であり、人間観・社会観が問われます。今、俯瞰する眼と現場の眼との関係をきちんと考える余裕はないので、とりあえず現場からの発想に関連することをあれこれと拾っていきたいと思います。
確か色川大吉氏がかつて新聞紙上で次のような意味のことを語っていました。「水俣病は高度経済成長の犠牲だと言われるが、むしろ水俣病を許すような社会だからこそ高度成長が可能になったのだろう」と。宮本憲一氏も経済関係だけでなく公害を起こすような社会のあり方を問題にしています。
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公害問題は資本形成や産業構造、交通体系などの経済、また基本的人権の態様や市民社会の在り方といった政治、社会という三面からなる政治経済社会システムを含めて考えなければならず、単純に経済関係だけで考え、それを変えれば解決するというように考えるのは誤りだと認識したのです。こうして、素材と体制とともに、環境を規定する社会システム、つまり「中間システム」というものを設定し、分析しなければならないと考えました。 「世界の転換期と環境経済学の役割」 156ページ
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公害問題に際して、当時のマルクス経済学が「体制が変われば問題が解決される」という発想であり、近代経済学はGNP主義で、それでは計れない問題を経済学の外に置いてしまい、いずれも現実を見ない態度だったと宮本氏は批判し「こういう新しい問題は現場に行ってよく観察し、どこまでが今までの経済学で解け、どこから新しい理論をつくらねばならないのか試行錯誤しなければ、環境問題を解く経済学はつくれないと思っていました」(154ページ)と語っています。さらに今日における研究の専門化と理論の抽象化の一方で、総体的認識が欠如し、問題の現場に出て行かない傾向を指摘し「古典を読み、現場に行くこと」(157ページ)を強調されているのは、碩学からの苦言として重いものです。そういう意味では、たとえば今日では「貧困の現場」もきわめて重要な問題であり、湯浅誠氏などが実践的・理論的に新しい地平を切り開いています。この現実から出発して新自由主義的状況を打ち破った新しい福祉国家型の国民経済をつくることが重要です。
宮本氏は1970年代の自動車の排気ガス問題を取り上げ、当時日本の自動車メーカーがこの対策として独自の技術開発を進めたことがその後の自動車産業の発展につながったことを指摘しています。
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当時の日産の社長は「禍転じて福と成す」と言いましたが、技術開発とはそういうもので、利益が上がるか上がらないかという線で議論している間は、画期的なものは生まれない。それを超えて、人間の生命や幸福のためにどうしてもやらなければならないという高い目標が示された時、画期的な技術を開発しなければならなくなるわけです。
152ページ
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これは技術開発の現場の論理を捉えたものですが、次のような証言もあります。当時ホンダではどう議論されたか。経営者の回想から。
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たとえばCVCCの開発に際して、私が低公害エンジンの開発こそが先発四輪メーカーと同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンスだといったとき、研究所の若い人は、排気ガス対策は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任の上からなすべき義務であると主張して、私の眼を開かせ、心から感激させてくれた。
片山修編『本田宗一郎からの手紙』(文春文庫、1998)182ページ
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このような現場技術者のエートスが日本の自動車産業の発展を支え、ひいては国民経済のあり方に影響を与えた、ということは考えてみるべきテーマです。
商品経済は価値の実現を目的とし、そのために使用価値を生産します。使用価値の生産は手段であり価値追求に従属します。一方、歴史貫通的視点からすれば、どのような経済制度であろうとも社会的再生産を円滑に進めるような使用価値の生産が確保されることが必要条件となります。「良い仕事がしたい」という生産現場の論理は、もともとはいわばこの使用価値中心視点に直接立脚すると言えるものですが、商品経済においては価値実現の論理、さらに資本主義経済においては利潤(剰余価値)極大化の論理に従うことになります。そう考えると使用価値と価値との対立と統一という関係は、現場と経営者との関係に重なります。さらには資本主義的国民経済は価値実現と利潤追求を通して使用価値の社会的再生産を結果的に確保するのだから、そこでは現場の論理は従属することになります。宮本氏がかつてのソ連・東欧社会主義国の公害の深刻さを問題にしていることを考慮すれば、これらの国民経済においても現場の論理は(資本の論理とは別のものによるのだけれども)やはり従属させられていたことになります。本田宗一郎を感心させた若い技術者はこうした従属関係に一点の風穴をあけたと言えます。資本主義の枠内においてその国民経済の論理を全体として転換することは不可能だけれども、少しでも人間らしい経済社会を目指すならば、生活と労働の現場の論理がいかにどれほど実現されるのか、という視点が欠かせません。
こんな言い方ではあまりに漠然としているかもしれないので、角度を変えて具体的な政策論に関連した二木立氏の指摘を紹介します。ずいぶん長くなって、しかも堤修三氏の言葉以外はこれまでの文脈とはずれますが興味深いのでお読みください。<「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻63号)」/2009.11.1/の中から、「私の好きな名言・警句の紹介」より なおこの「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/ >
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○東谷暁(ジャーナリスト)「壮大なイメージによる経済予測から、何らかの戦略が導き出せるかといえば、私には疑問に思える。/誤解のないように述べておくと、エコノミストが歴史的素養を持つことは悪いことでないどころか好ましいことだろう。しかし、その素養や知識から直接に変転きわまりない現在の経済変化を導き出すのは、時間的な単位が異なるものを接続してしまう危険があるということである。エコノミストに期待されているのは、もう少し短い期間でのプラクティカルな予測ではないだろうか」(『エコノミストを格付けする』文春新書,2009,173-174頁。水野和夫氏の「壮大なイメージ」に疑問を呈して)。二木コメント−医療政策の分析や予測についても、まったく同じだと思います。これを読んで、竹中平蔵氏と堤修三氏の次の言葉を思い出しました。
○竹中平蔵(慶應義塾大学教授。小泉構造改革の旗振り役)「[中谷巌氏の『資本主義はなぜ自壊したのか』は]さーッと読みました。政策の議論ではないですね。政策は非常に細かな行政手続きの積み重ね。だから、難しいんです。細かいことがだんだん分からなくなってくると、みんな思想と歴史の話をします。大いにされればいいが、それで政策を議論すると間違えます」(『エコノミスト』2009年5月19日号,83頁「インタビュー」。東谷暁『エコノミストを格付けする』文春新書,2009,51頁でも引用)。二木コメント−私は竹中氏の「経済が悪くなったのは構造改革を止めたから」というノーテンキな主張にはとても賛成できませんが、この批判は的を射ていると思いました。
○堤修三(厚生省大臣官房審議官・当時。現・大阪大学教授)「最近、多くの学者やエコノミストあるいはジャーナリスト達が、鳥のように高いところから社会保障を見おろして、様々な議論を展開している。(中略)だが、今、求められているのは、制度を建てようとする地面に実際に降り立ち、その地質を確かめ、それにあった構造の制度を、"周辺住民"の同意を得て、構築することなのである」(『社会保障−その既在・現在・将来』社会保険研究所,2000,176頁「あとがき」。広井良典氏等の社会保障論を念頭に置いて)。
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大きく捉えれば、東谷氏と竹中氏の議論も現場から遊離した抽象論への警告とも言えます。ただし現場と理論とは、次元を区別すべきだというだけでなく、他面では不可分でもあることにも留意すべきですが。これに対して堤氏は現場と国民経済との関係を直接扱っています。民主主義社会の政策論においては「周辺住民」の同意が必要だというのが私たちにとっても心すべき点でしょう。
◎NPTをめぐって
かつて原水爆禁止運動の分裂をもたらしたものは、「いかなる国の核実験にも反対」というスローガンへの賛否そのものではなく、それを運動全体のスローガンとして採用するか否かという論点でした。続いてやはり部分的核実験停止条約についてもそれ自身への賛否ではなく、それへの支持を運動全体の方針として採用するか否かが問題となりました。あくまでこのスローガンや条約への支持を日本原水協全体に押し付けようとして失敗し、組織を分裂させてできたのが原水禁国民会議でした。俗に「原水協=共産党系」「原水禁=社会党系」といわれ、イデオロギー対立の反映としての路線的な組織分裂かのように描かれてきましたが、「意見の違いを保留して一致する課題での統一」という大衆運動の民主的原則を貫くのか破るのかというのが問題の発端の本質です。底流に路線対立はあったのでしょうが、それを組織分裂に至らせるのか統一を守るのかは、運動の発展にとって大問題であり、セクト主義・覇権主義の克服が求められたのです。とはいえ組織分裂後は路線対立が固定化されることになったのではないかとも感じられます。運動の統一の試みはありましたが今日に至るまで結局は成就していません。
今日では核不拡散条約と訳されることが多いNPTは(私が学生であった)1970年代には核拡散防止条約といわれていました。日本原水協を初めとする日本の平和運動の主流は、あくまで核兵器廃絶の課題を常に運動の中心においており、様々な部分的措置についてはこの中心課題との関係の中で評価されるべきものでした。核兵器廃絶の課題に照らして見れば、NPTは不平等条約として核兵器保有国による核独占体制を是認する逆行的な性格を持っており、当時はもっぱら批判の対象であったと思います。NPT支持を原水禁運動に押し付けるような原水禁国民会議などの一部の動きとは、運動の主流は厳しく対立していました。
ところが近年では、原水協など日本の平和運動の主流もNPT再検討会議を重視し、特に来年2010年の会議については「核兵器廃絶への展望を切り開くステップとする」という構えで臨もうとしています。NPT体制をめぐるこのような平和運動の変化は、私を当惑させ、のどに刺さった子骨のような感じを抱かせるものでした。平和運動の前線に立つ川田忠明氏は時々の論文で運動の理論的解明を行なってきましたが、『前衛』12月号では近年におけるNPTをめぐる情勢の変化を説いており、私のこうした疑問に答えるものとなっています(「『核兵器のない世界』にむけて何が必要か 二○一○年核不拡散条約再検討会議を前に」)。
川田論文の前半は「NPT再検討会議と国際的な反核運動」と題されています。そこではソ連崩壊後の世界平和をめぐる動きが包括的に解明されています。運動の明確な成果が多く見られますが、たとえ「失敗」のように見える局面でも先進的な諸国政府と反核運動団体との共同が前進するなどして、力強く確実な変化が生み出されてきました。そして今日の「核のない世界を目指す」オバマ演説に代表される重要な前向きの変化にまで至ったのです。論文ではこの経過が説得的に浮き彫りにされています。またそこでは、NPT体制の本質とその矛盾を起点に、核兵器廃絶の課題が前面に押し出されてくる必然性が平和運動の視点から洞察されています。NPT体制の本質とその矛盾は次のように捉えられます。
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核不拡散条約(NPT)は、五年ごとにその運用状況を点検する「再検討会議」の開催が定められている。NPTの本質は、一部の大国だけに核保有を認め、他国によるその取得を禁じるという核独占体制の維持にあるが、この不平等性を「緩和」するために、核保有国は「軍縮」の努力を誓約し、非核保有国は核エネルギーの平和利用の権利を得ることになっている。しかし、「軍縮」を口にしながら、核独占を続けるという欺瞞は、とりわけソ連崩壊後、非核保有国の核軍縮要求を噴出させた。それが国際的な反核運動ともむすびついて、NPT再検討会議は、核軍縮をめぐるたたかいの重要な節目となっていった。
74ページ
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つまりNPTの本質は核独占体制の維持にあり、それは打破すべきものだけれども、その体制のいちじくの葉としての「軍縮」努力の誓約が存在する以上、その欺瞞性を衝きつつ実行を迫る、というNPTの矛盾を利用した闘い方がありえるのです。事実、2000年の再検討会議においては、新アジェンダ連合などの闘いによって、核保有国の(核兵器廃絶を事実上遠い将来に棚上げする)「究極廃絶」論は打ち破られ、「核兵器の完全廃棄を達成するという全核保有国の明確な約束」が明記されました。2005年の再検討会議はブッシュ政権の妨害で合意文書も発表できない状況でしたが、世界の平和運動では核兵器廃絶の課題を前面に押し出す流れは強化されました。そして来る2010年再検討会議を迎えることになります。
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核軍縮を約束しながら、核独占を維持するというNPT体制の矛盾は、核兵器を完全に廃絶することによって最終的に解消される。しかし、それはNPTの文言やその枠内での交渉からは生まれてこない。NPTをめぐる国際政治の動きを、核兵器廃絶条約締結の動きへと飛躍させるためには、NPTの枠外からの力=市民社会の声と行動、世界の世論と運動の発展が欠かせない。二○一○年NPT再検討会議にむけて問われるのは、まさにこの点である。
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川田氏は体制的状況の本質とそれが抱える矛盾・その解消形態をまず捉えます。そしてそれを解決する力がこの体制外からもたらされることを説きます。ただし体制の抱える矛盾は、核保有国という旧勢力と世界人民を代表する社会進歩勢力との間の対立が体制のあり方に反映したものであり、その意味では世界内的矛盾です。だから人民の平和運動は体制外的であるとともに世界内的であり、世界史発展は内部矛盾そのものの運動として把握できます。体制の外から体制に働きかけることは体制を是認することではなく変革することであるのは言うまでもありません。したがってNPT再検討会議に平和運動の諸勢力が取り組むことはきわめて積極的な意義があります。
あたりまえのことをわざわざ思弁的に確認したようで申し訳ありませんが、このように「現状の本質」を捉え、「矛盾がどこにあるか」と「それを解決する力が何か」とを見定め、そうして運動の展望を引き出すというやり方は様々な問題に適用できるように思えます。たとえば新自由主義的グローバリゼーションの中心的役割を果たしてきたIMFを人民の立場からどうするのか、という課題などです。さらにいえば、核兵器廃絶という「ゴール設定をはっきり見極めること」と「現状の矛盾とその発展方向とを内在的に分析すること」との両方がそろっていることが大切です。ゴール設定がはっきりしてこそ、現実批判の問題意識が鮮明になり現状の分析が鋭くなりますし、現状の分析なくしてはゴール設定は単なる空想に陥ります。たとえば新自由主義的グローバリゼーションがカジノ資本主義化している現状に対して、確かに現状から内在的に出発しているにしても彌縫策的な分析に終わっていることは多いのですが、やはり過剰資本そのものの解決という一定のゴールを見定めた立場からの分析が望まれます。
川田氏は分析の基軸が定まっているから、たとえばCTBT(包括的核実験禁止条約)の批准をめぐる米国議会での見通しの厳しさなどを前にして悲観的になってしまうことはありません。核兵器廃絶と部分的措置との関係の好循環を川田氏はみごとに解明しています。
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核兵器廃絶の合意形成を最初から正面にかかげて追求することが重要である。部分が暗礁にのりあげても「核兵器のない世界」をめざす本体の交渉が追求される限り、このプロセスは途絶えることはない。また、核兵器の存在を前提としない共通認識ができ、「やがては廃棄される」ものだということがはっきりすれば、部分的措置をめぐる合意も、より容易となるはずだ。 81ページ
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以上、川田論文の前半を検討しただけですが、そこでは、ソ連崩壊後から2010年NPT再検討会議を前にした現時点までの平和運動の総括的分析から、これからの運動を推進する理論が確実に織り出されているのみならず、他分野にも示唆するところがあると感じられます。
◎全日本人の必読論文 治外法権の実態を衝く
拙文を読むような人は少ないから、声を大にして言っても仕方ないのだけれども、言わずにはおれない。『世界』12月号の布施祐人氏のルポルタージュ「もう一つの日米密約 21世紀ニッポンの治外法権を追う(上)」はすべての人に読んでほしい。以上。
◎金大中氏追悼
韓国の金大中元大統領が8月18日に亡くなりました。在野にあっては独裁政権によって何度も命を奪われそうになりながらも民主化の志を貫き、大統領としては南北朝鮮の和解への道を切り開いたその業績は不滅であり、世界でも最も偉大な政治家の一人であることは間違いありません。命をかけた民主化闘争はもちろん素晴しいものですが、私はむしろ大統領としての業績に驚異の目を向けます。今となっては自らの不明を恥じるしかありませんが、彼が大統領になったとき、正直言って私はこう思ったのです。結局は保守勢力に取り込まれて晩節をけがし、せっかくの民主化闘争の栄光を台無しにしてしまうのではないか、と。しかし彼は理想のために命をかけるだけではなく、現実を巧みに動かす手腕を発揮して歴史的な南北首脳会談を成功させました。以後、いろいろ逆流はあってもかつての南北対立に戻ることはありません。彼は南北関係に不可逆的な変化をもたらし東アジアの平和構築に最大の貢献を果たしたのです。理想主義と現実主義を見事に統一した希有な政治家だといえます。アメリカとの軍事同盟の枠内の政治家であっても、日本の保守政治家とのあまりの違いに深く考えこまざるを得ません。私は立場を超えた敬意をもつし、私たちが現実を動かす力をもつにはどうすべきかについても学ぶべきことがあるのだろうと思います。
その追慕碑に刻まれた彼の言葉は上記の違いを説明しているように思えます。このあまりに美しい言葉を日本の政治家が言ったら、偽善というより冗談にしか聞こえないでしょう。金大中氏の言葉だからこそ信じられる。そしてそれは私たちの言葉ともならねばなりません。
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私は私の一生が苦難に満ちた一生だったと思うが、決して不幸な一生だったとは思わない。私は私の一生が真に価値ある一生だったと思う。それは私が何かを多く成し遂げたからではなく、正しく生きようと、国民のために忠誠を尽くそうと、私たちの国民だけでなく世界のすべての苦痛を受けている人々、世界のすべての平和を愛する人々、世界のすべての自由と正義を愛する人々のために忠実に生きようと努力してきた一生だったと自ら信じているからである。
人生は考えるほど美しく、歴史は前向きに発展する。
金大中
韓勝憲「金大中氏の苦難と日本 『拉致事件』と『死刑判決』」より
『世界』12月号所収 260ページ
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