月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2008年)

                                                                                                                                                                                   
2008年1月号
 

 編集部による「特集・世界の構造変化をみる」への前書きと、緒方靖夫氏の「世界の歴史的変化をどうつかむか」では、世界が四つのグループに分けられています。高度に発達した資本主義諸国、社会主義をめざす諸国、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国、旧ソ連・東欧諸国です(12、22ページ)。これは世界史の発展の大道を大きくつかむ上では欠かせない見方であり、主に政治的視点を重視しているといえます。

 ところがグローバリゼーションへの対応という視角を入れて見ると、たとえば社会主義をめざす諸国の中でも中国・ベトナムとキューバとでは立場が異なるし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の中でもインドとサハラ以南アフリカとでは大きく様相が異なります。そこで経済の歴史的発展段階として現代を「新段階に達した不均等発展」と捉えたグループ分けがあります。

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 いまなお新自由主義的収奪体制から逃れられていない先進諸国、グローバリゼーションに乗って経済成長を続ける諸国、そして新自由主義を排除して新たな道を探りつつある諸国、貧困化のもとにあえぐアフリカの諸国その他等々

    小宮昌平「21世紀の経済大発展」(『政経研究』No.89 2007.11 所収)4ページ

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 この小宮氏の分類では、中国・ベトナム・インドは第2グループであり、キューバは他のラテンアメリカの左派政権諸国とともに第3グループに所属することになるでしょう。もっともブラジルなどは第2か第3か微妙なところかもしれませんが。

 緒方氏の分類においては、民族自決・内政不干渉という国際関係を律する原則を前提としていると見られ、その点も重要です。民族や国家が一つの単位として尊重されるということは、その達成の度合が国際関係の民主化のバロメーターになるともいえます。アメリカ帝国主義のイラク侵略などに代表される民族自決権への乱暴な蹂躙が大問題になっている今、その意義はいささかも軽視できません。ただしそうした政治原則とは違った次元で、私たちが世界を具体的に分析しようとするなら、諸国家における階級関係を初めとした、内部の経済的政治的諸相を明らかにせねばなりません。たとえば発展途上諸国を全体として世界における社会進歩の勢力とみなすことは当然ですが、個々には腐敗した独裁国家も多く存在し、その国内では厳しい階級闘争があります。独裁政権の存在を理由に発展途上諸国の運動の進歩的意義を否定するような見解に対抗するためには、一国単位を基礎とした国際関係という見方からさらに踏み込んで、諸国の国内経済・政治の分析に進む必要があります。

 これは国際政治上の友好運動にとっても重要な問題です。ある国が国際関係で民主的諸原則に立った政策を取っているとしても、国内において抑圧的な政策を敢行していることはよくあります。この場合、国際的な人権尊重の原則と内政不干渉の原則とは微妙な関係にあり、途上国などに対して機械的に先進諸国の民主主義の水準を求めることは誤りですが、何があっても見て見ぬ振りをするわけにはいきません。その国において民主化闘争をしている人々を苦しめるような対応にならないか、という配慮も必要でしょう。この問題の具体的な判断基準については私は勉強不足でよくわかりませんが、社会進歩を目指す勢力が他国政府と友好関係を樹立する場合に看過することができない問題です。

 アフリカについては何も知らないので、福田邦夫氏の「アフリカの苦悩はなぜなのか? 構造調整プログラムで再生は可能か」はたいへん勉強になり、途上国経済を分析する方法の一端に触れた気がします。

 サハラ以南アフリカ諸国においては、地下資源保有国はモノリソース経済を、非保有国はモノカルチャー経済を形成しており、「いずれの国も、独立後、植民地時代に培われた経済からの脱却を図るのではなく、植民地時代の経済にも増して依存する経済政策を選択し」ました(107ページ)。1970年代半ばまで、一次産品が国際市場で高値をつけていたころにはこれら諸国の経済は好調であり、1965年の一人当たりGDPにおいては東アジアの倍ありました(108ページ)。今では信じられない状況です。しかし1975年を境に一次産品価格が急落し始めると諸国経済はほころび始めました。問題は国際市場での一次産品価格だけではなく、鉱業でも農業でも生産方法が改善されずに生産性が停滞したことや、国民経済として自立できる再生産構造の確立が追及されなかったことにもあります。その原因は諸国の独裁者たちが経済を私物化していたことであり、彼らはアメリカ・フランスなどの帝国主義勢力に支えられることで、独立期の民主的指向を持った指導者たちを押し退けて支配を維持してきました。

 この没落過程に前後する70年代から80年代にかけて、経済危機に陥った先進資本主義諸国は過剰資本を途上国に貸し込みます。サハラ以南アフリカ諸国では、この資金が独裁政権を強化しその腐敗を助長し、対外累積債務を増加させます。やがて一次産品価格の下落によって返済不能となり、冷戦集結後の世界的激動とも相まって、独裁政権から民主的政権への移行が進み始めます。しかしこれら新政権は債務圧力の下、ワシントン・コンセンサスに取り込まれ、新自由主義をドグマとする政策に取り組んでいきます。こうして「アフリカは先進工業国に対する希少金属や一次産品の供給基地として国際分業体制に深く組み込まれ」ました(116ページ)。国民経済として自立しうる再生産構造を確立するのでなく、民営化や外国直接投資など、国際資本に市場を全面的に開放することでアフリカの再生を図る、という動きの中では労働者階級に過酷なしわ寄せがいきます。「こうしたなかサハラ以南のアフリカ諸国では、二○○五年以降、かつて見受けられなかった巨大な労働運動が高揚してい」ます(117ページ)。

 発展途上国は進歩勢力であるという認識は当然です。しかし「腐敗した独裁政権はどうなのか。先進国による民主化が必要ではないか」といった類の議論にたじろぐようでは素朴な認識だと言わねばなりません。独裁政権が帝国主義の後押しで存続してきたことや、民主化が新自由主義の押し付けをともなっており、途上国支配層がそれに従っていること、それに対する労働者階級などの意義申し立てが活発になっていること。そして発展途上国政府が国際関係において進歩的役割を果たすとすれば、以上のような様々なベクトルの合計の上に立ってなおかつ帝国主義的秩序を打開しなければならない状況に置かれているからであろうこと。世界資本主義の中での各国の政治経済状況を分析することで、このようなことを理解し、社会発展の観点から今日の世界を見る目をより豊かに養うことが必要だと思われます。

 新藤通弘氏の「歴史的岐路に立つキューバ経済」では、キューバ政権に対して温かくも厳しい分析がされています。キューバは中国やベトナムとは違って大胆な市場化(広範な資本=賃労働関係の創出、資本市場の整備を含む。従ってそれは資本主義化ではないか、という議論を呼び起こす)には進まず、従来型の社会主義経済を維持しながら「対症療法的に問題と取り組」み「新たな発展モデルの模索」を続けてきました(72ページ)。アメリカによる厳しい経済封鎖下に置かれ続けてきたので、そもそもグローバリゼーションからは排除され、独自の道を歩まざるをえなかったとも言えます。グローバリゼーション下の新自由主義政策で打撃を被ったラテンアメリカ諸国がそこから決別しつつある今、キューバはまるで一周遅れのランナーがトップを走っているかのような状況にあるのかもしれません。今月、NHK教育テレビで、チェ・ゲバラの評伝が放送され、解説の作家・戸井十月氏は、キューバを過去何回も訪問した印象として、人々は貧しく厳しい生活だけれども明るさを失わないのはずっと変わらない、と述べていました。それはこの国において、弱い立場の人々が脱落しないで生きていけるという、革命の初心の政策が今日まで一貫されているからだ、という意味のことを語っていました。医療支援など実利をともなった援助にとどまらず、キューバがこうした理念や希望をラテンアメリカの民衆に示し続けたことが、今日の変革に少なからぬ影響を与えているのではないかと思います。今日のラテンアメリカでは、武装蜂起路線は否定され民主的選挙を通じた革命が追及されるようになりました。これはゲバラ主義の克服とも評されますが、今なおゲバラ人気が根強いということは、革命路線ではなく、学生時代の志を一途に生き逝った彼のヒューマニズムとヒロイズムが、キューバ革命の持続された初心の象徴として支持されてきたのではないか、と思えます。

 しかし新藤氏はキューバ経済を冷静に分析します。近年、キューバの農業や医療が注目されていますが、それを過大評価してはならないと戒めています。都市農業の推進によっても食料問題は抜本的には解決されていないことや、闇歯科医の存在など医療に歪みもあることが指摘されています。医療事情は、一方では人道的な政策理念があるかどうか、他方にそれを許す経済的財政的環境があるかどうか、によって決まりますが、日米には前者がなくキューバには後者がありません(83ページ)。キューバには理念はあっても条件がないというのが厳しい現実です(この新藤氏の医療事情の評価基準は、経済政策一般にも適用されると思います。私たちが日本において様々な要求運動を進める際にも、まず理念を先行させることが重要ですが、客観的条件への配慮も必要です)。またキューバ政府の経済戦略には「製造業が欠けており、第一部門の生産財の生産部門を強め、第二部門の消費財生産部門を刺激し、投資が投資を呼ぶという再生産構造の観点からの戦略が欠けている」(79ページ)とも指摘されています。ウォーム・ハートとクール・ヘッドを持って、評価できることと問題点とを分析しています。

 ここで再び世界諸国のグループ分けに返ります。前述の小宮昌平氏の分類は、「鉄の必然性をもって」貫徹する資本主義的生産の諸法則・傾向の中で、現代経済の状況を「新段階に達した不均等発展」として捉えた結果です。主に経済の観点による現状の把握と言えます。これに対して最初の緒方氏の分類は、世界史発展の大道という立場から行われているようです。経済発展はもちろん前提にあるけれども、民族自決など国際関係の民主化の観点が大きくあります。いわば政治の観点に重きを置いた先行きの展望の把握と言えそうです。先の新藤氏の医療事情の評価基準になぞらえてあえて図式化すれば、小宮式分類は経済的条件に、緒方式分類は政治的理念に重きを置いているとも言えそうです。

 中国やASEAN諸国は、小宮式分類ではともに「グローバリゼーションに乗って経済成長を続ける諸国」に属するでしょう。しかし緒方式分類では、中国は「社会主義をめざす諸国」に、ASEAN諸国は「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国」に分かれて属します(ベトナムだけは「社会主義をめざす諸国」に属するが)。経済の現状分析としては小宮式分類のほうがぴったりくる感じがあります。中国はキューバとは違い、そしてASEAN諸国はサハラ以南アフリカ諸国とは違って、どちらもグローバリゼーションの勝ち組として一括できるからです。中国とキューバを「社会主義をめざす諸国」に一括し、ASEAN諸国とサハラ以南アフリカ諸国とを「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国」に一括する緒方式分類では、確かに「資本主義の不均等発展」の現状を捉え難くなります。ただし緒方式分類の「社会主義をめざす諸国」と「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国」とには、将来の社会主義世界につながる進歩性というニュアンスがあり、これが重要です。小宮式分類の「グローバリゼーションに乗って経済成長を続ける諸国」からはこぼれる側面が捉えられるのです。

 確かに中国もASEAN諸国もグローバリゼーションに乗って経済成長を続けてきました。そしてアメリカや日本など新自由主義を推進する諸国と不可分の関係にあり、かなり共通の利益に結ばれています。多国籍企業の活動とも親和的です。ここだけを見ると中国とASEAN諸国は進歩的とは思えません。しかし両者はともに欧米と日本によって植民地化されたり侵略されたりし、戦後、独立したり自立した発展の条件を勝ち取ったりしました。だから日本と比べるとはっきりしますが、帝国主義・覇権主義に反対して自主独立を貫こうとする傾向があります。日本は一方では対米従属で一貫し、他方ではアジアへの歪んだ盟主意識を持続しています。象徴的なのは、同じ保守政治家であっても、韓国(ASEANではないが)の金大中やマレーシアのマハティールのような独立国の政治家としての毅然とした理念や気概をもった政治家が日本にはいないということです。歴代首相にも、現在の自民党や民主党の中にも。ASEAN諸国はベトナム戦争後、米軍基地を撤去して、紛争の話し合い解決の実績を積み、非核平和地帯を形成してきました。開発独裁的な手法で経済発展してきた国が多く、その基盤をもってグローバリゼーション下でも成功し、政治的にもゆっくりとではあるが民主化しつつあります。そうしたなかで1997年のアジア通貨危機は東アジア諸国に深刻な影響と教訓を残しました。ここでスハルト政権のような開発独裁が倒れる一方で、新自由主義的グローバリゼーションの危うさが共通の認識となりました。各国の条件を考慮しない一律の国際金融への開放ではカジノ資本主義の餌食になることがはっきりしました。ドルと米国市場への依存を減らして、アジア通貨の協力、地域内市場を豊かにすること、そしてEUにも比べられるような東アジア共同体の結成へと、ASEANや中国が中心になって動き出しました。東アジア諸国にとっては一方では、今だドルと米軍の存在は大きく、グローバリゼーションに乗って経済成長を続けてきましたが、他方では、独立と建国の初心が通低しており、反覇権主義を確認しつつ、グローバリゼーションのあり方についても手放しではなくコントロールする方法を探りつつあると言えます。日本もまたそのような流れに合流すべきですが、対米従属の発達した資本主義国の支配層はそうはしません。対照的に、「社会主義をめざす諸国」に属する中国と「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国」に属するASEAN諸国の進歩性が浮き彫りになります。

 東アジア諸国とインドがグローバリゼーションに乗って成功したのに対して、サハラ以南アフリカ諸国はグローバリゼーションの犠牲になったと言えますが、支配層は新自由主義の政策をなおも追及しているようです。前述の福田邦夫氏の論文にあるようにそれが成功するとは思えませんが、ではラテンアメリカ諸国はどうでしょうか。『世界』1月号の内橋克人氏と佐野誠氏による対談「連帯・共生の経済を 日本型貧困を世界的視野で読み説く」における佐野氏の説明を紹介します。

 佐野氏は、新自由主義政策とその補正の「政治的景気循環」を「新自由主義サイクル」と呼びます(104ページ)。チリとアルゼンチン両国は早くも70年代の軍事クーデター後に新自由主義改革を始めます。「そのもとでバブルが起こり、破綻して、金融危機・通貨危機になり、対外債務危機の形で実体経済にも影響した。失業率がチリで二○〜三○%に上るなど、八○年代初めに二国ともかつてない経済・社会危機を迎える」(103ページ)。両国は失敗に学んで補正を行いますが、アルゼンチンは再び90年代にもっと原理主義的な新自由主義の実験を敢行し、バブルとその部分的崩壊、それへの補正を経て2001年末に「アルゼンチン危機」と言われる形で最終的に破綻しました。「大規模で原理主義的な新自由主義の実験を二回にわたって行った国」(103ページ)はアルゼンチンだけであり、佐野氏はこの研究から「新自由主義サイクル」理論を提起します。これは80年代から現在の日本の政治経済における「改革」と補正の蛇行的歩みにも当てはまります。しかし90年代からラテンアメリカはすでに「ポスト新自由主義を模索する段階」(105ページ)に入っています。チリやブラジルでは「中道左派政権のもとでの補正、あるいは妥協的試み」として「経済の自由化と再規制を臨機応変に使い分け、これと同時に格差・貧困の是正を図る、単なる新自由主義とは一線を画する政策体系をとりつつあります」(105ページ)。「アルゼンチンも特に二○○三年以降は、新自由主義サイクルの補正にとどまらず、より積極的にサイクルそのものを断ち切ろうという、再規制その他の政策レジームに移りつつあります」(105ページ)。ベネズエラやボリビアなどの左翼政権に触れられていないのは何故かと思いますが、佐野氏がチリやブラジルの中道左派の妥協的政策よりもアルゼンチンの政策をより進化したものと評価しているのは明らかです。

 アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を発展途上国として一括しますが、(中国・ベトナム・キューバの「社会主義をめざす諸国」をも含めながら)以上見てきただけでも、東アジアとインド、サハラ以南アフリカ、ラテンアメリカではまったく違った諸相を示しています(中東あるいはイスラム諸国というのもきわめて重要ですが、ここでは措きます)。新自由主義的グローバリゼーションへの対応の仕方の違いがそこに現われています。しかし何故、アフリカはグローバリゼーションの犠牲となり、東アジアやインドはグローバリゼーションに乗ることができ、ラテンアメリカは超早期から新自由主義の実験に取り組み失敗して卒業したのか。それらを総合的に明らかにするには、世界資本主義の「新段階に達した不均等発展」の観点を踏まえつつ、各国・各地域の具体的研究が必要になってくるのでしょう。ここまでくると拙文はもはや収拾不可能なので適当にまとめなければなりません。そもそも発達した資本主義諸国と発展途上諸国との分岐は、封建制(などの前近代社会)から資本主義への移行の時期に近代化と国民経済の自立を成し遂げたか、それがかなわずその時期から帝国主義期にかけて植民地・従属国に組み込まれたか、というところに生じたのでしょう。それが今日に至るまで国際社会における各国の基本的位置を規定しているといえます。グローバリゼーションは発展途上諸国の間に第2の分岐をもたらしましたが、依然として第1の分岐はより大きな意味を持っています。

 佐野氏の見解にあるように、ラテンアメリカ諸国はポスト新自由主義段階に入って、中道左派政権から左翼政権まで様々な模様の模索が続いています。東アジア諸国においては、グローバリゼーションに乗って発展してきただけに保守政権が続いていますが、手放しの新自由主義路線やアメリカ一辺倒は修正され東アジア共同体などの自主独立路線が追及されています。新自由主義的な政権の下で労働運動が激化しているサハラ以南アフリカ諸国もラテンアメリカの後を追うか、少なくとも路線の修正は避けられないでしょう。以上のように発展途上諸国の置かれた立場は様々ですが、グローバリゼーション下で覇権国家となれる可能性はなく、欧米日への従属から自立して国際社会の一員となってきた経過からしても、発達した資本主義諸国に対して国際関係の民主化と公正な経済関係を一貫して求める姿勢に立たざるをえないでしょう。非同盟運動が冷戦終了後の一時期の停滞を乗り越えて前進し始めているように、各国・各地域の違いを措いて発展途上諸国の連帯が世界の政治と経済を進歩的に動かしていく必然性がここにあると言えます。

 

 前述の内橋克人氏と佐野誠氏による対談「連帯・共生の経済を 日本型貧困を世界的視野で読み説く」(『世界』1月号)は秀逸です。まず貧困の問題とそれをめぐる経済学のあり方についての内橋氏の把握の広さ・深さ・厳しさには共感します。氏は貧困を都市労働者の問題だけではなく、「農業恐慌の恐れ」としても捉えます。また格差や貧困を論じていた学者たちが、格差社会を前提にした処世術ハウツー本に名を連ねていることに対して、「あっという間に『商品化される貧困』にひと役買う学者たちに、私は違和感をもたざるを得ない」(99ページ)と批判しています。

 佐野氏は新古典派経済学について、初級・中級・上級に分け、中級や上級はそれほど問題ないけれども、非現実的な初級が学生に刷り込まれ、それが官僚・ジャーナリスト・政治家の世界観になってしまうところに根本的な問題がある、としています。「経済学の場合は、よく言われることですが、市民が経済学者にだまされなくなるための経済学批判、オルターナティブの経済学を、日本の現実に即しながら、いかにわかりやすい形で初級から考え直すか、これに尽きる感じがします」(111ページ)というのが佐野氏の問題意識であり、新古典派の取扱いもそこから発想していると思われます。新古典派についてはよく知らないので本当は何とも言えないのですが、あえて言えば、初級は間違っているけれども、中級や上級は手直しされて正しさに近づくというのはどうなのでしょうか。佐野氏は「企業と労働者が市場のプレイヤーとして全く対等で、権力的にもイコールな存在として描かれる」(102ページ)という理論を批判しているのですが、これは新古典派の根本的問題点であって、初級・中級・上級というような問題ではなかろうという気がします。初級という言葉の意味は、素朴とかわかりやすいとかいうよりも、むしろ基本的土台とか根本的ということであって、きわめて重要だと思います。少なくともオルタナティヴの経済学の初級とはそういうことでしょう。私の立場からすれば、それは労働価値論の深みから具体的な現状分析にまで至るマルクス経済学の体系的展開を含むものと考えます。まあしかしこの辺は私の思い込みに属することかもしれないので措くとして、佐野氏がアカデミズムとジャーナリズムとの連携を重視して、経済学の初級に着目していることが大切です。経済学というのはそれが人々をつかめば現実的な力になるイデオロギーであって、今は新古典派経済学が官僚・ジャーナリスト・政治家をつかんで資本主義経済を動かしていますが、オルタナティヴの経済学が人民をつかんで連帯・反撃・変革の方向に結集していくところに私たちの希望があります。アカデミズムとジャーナリズムとの支配層的連携から人民的連携への転回を実現できるオルタナティヴの経済学の創造が俟たれます。

 オルタナティヴの経済学として、内橋氏は、「欧米の経済学に日本の現実を合わせ、解釈や分析を加えて普遍性を装うあり方」ではなく「いま日本が置かれている世界史的にも極めて特異な状況」を解決する「日本の経済学」が必要だとしています(110ページ)。佐野氏は「様々な日常的な経験を言語化し、理論的にすくい上げることによって、それがまた主体的に意識化される効果」(110-111ページ)に着目して、内橋氏の独創的な概念をさらに理論的に詰めることを主張します。……「FEC(食糧・エネルギー・ケア)自給圏」「共生経済」「市民資本」「自覚的消費者」「マネー」、(私としてはこの他に「社会的有用労働」という概念が労働価値論の観点から興味深い)……佐野氏はこれらは「分析的であると同時に、規範的な概念にもなってい」(111ページ)るとして、単に分析的な通常の経済学用語に対する優位性を以下のように説明します。

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 規範的な概念を考えないとどんなに丹念な現状分析をして、それに基づくと大体こういう政策が望ましいでしょうと言っても、市民の共感を得られず、上滑りになりがちなのです。望ましい社会はこうだと予感させるような概念を理論的に詰めて、その学問的な基礎づけをきちんと行なうことができれば、もっと頑強な、堅固な基盤になるわけです。

   111ページ

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 認識方法の問題ばかり言っていても抽象的なので、最後に、ラテンアメリカとの対比から日本を分析している部分に触れてみます。内橋氏は日本型貧困の由来として、近代的な福祉・社会保障体系の不在と会社福祉によるその代位という従来の構造から、今日では会社共同体が崩壊して福祉不在が露呈してしまったこと、あるいは対米従属構造下においてアメリカに収奪されることなどを指摘しています。その他に「若者たちの憤懣を、巧みにからめとってしまう力学の存在」(98ページ)や「抵抗あるいは連帯に行かないように絶えず社会統合を切り崩す仕掛け」の存在(108ページ)にも言及しています。こうした日本社会の特質とは対照的に、佐野氏によれば「ラテン・アメリカでは連帯を信じることができる雰囲気、文化もまだ残っていて、必要になると、この社会資本が活用されてレジスタンスが湧き起こる」(107ページ)そうです。だからラテンアメリカでは抵抗を押しつぶすために、軍事独裁や権威主義体制によって強引に新自由主義改革を行なわざるをえなかったという事情があります。民主化後はお任せ民主主義という形に移行したようです。これは日本の観客民主主義に近いものでしょうか。自分で日常的には政治参加らしいことはせずにテレビを見て、「抵抗勢力に刺客が向けられてこれは面白い」といって小泉自民党に投票し、リーダーのワンフレーズ的決断・トップダウンの政治に期待する、という類のものが連想されます。しかしラテンアメリカではそれが長続きしなかったからこそ、今やポスト新自由主義段階に入っているのでしょう。日本のお任せ民主主義として、佐野氏は小選挙区制やマスコミ、審議会政治などを上げて、内橋氏が「民意の偽装」と応じています。まったくその通り。

 佐野氏によれば、ラテンアメリカの経済学者は自分たちの頭で考え抜きました。抵抗と連帯の文化を含んだりその他にも色々あるでしょうが、その特異な「くせ」を持つ政治・経済・社会構造を重視した「構造派経済学」をうち立てるべく半世紀以上も苦闘してきました。ラテンアメリカの現実はIMFや新古典派の理論・仮定とはまったく違うのだから。すると日本の場合はどうなるでしょうか。古い集団主義が崩れて、分断・個別化が支配的になり、新たな連帯はまだまだといえる状況です。これは新古典派のアトミックな市場社会像に近いと言えます。日本における新古典派の隆盛はこの現実を反映しているのかもしれません。そういえば中国も怒涛の勢いで市場化が進んでいる影響から、新古典派がアカデミズムを支配しているとも言えそうです。確かに存在が意識を規定し、意識は存在を反映するのですが、その意識が存在を正しく反映しているとは限らないし、ましてや存在を正しく変革できる意識であるとも限りません。日本資本主義における個別分断的競争状況が新古典派の勢いを促進するとしても、彼らの処方箋である構造改革は、聖化された競争市場を目指しつつ、実際には人民の生存権の毀損と社会的再生産の困難に帰結していることは、ワーキングプアの増大や企業の不祥事などに如実に現われています。新古典派のアトミックな市場経済像では、生産一般・商品生産・資本制生産、という三つの次元の区別と連関が喪失しているので、たとえば佐野氏の上記批判のように「企業と労働者が市場のプレイヤーとして全く対等で、権力的にもイコールな存在として描かれる」という途方もない「反映」となります(資本=賃労働の搾取関係を市場関係に解消している)。その認識に基づく新古典派の変革実践は、労働市場の規制緩和=労働・生活破壊=社会的縮小再生産に帰結します。ここから始まろうとしている連帯・反撃・変革という現実がオルタナティヴの経済学を生み出し、それがまた現実をリードする、という新たな存在と意識の連関が求められます。とはいえ私たちが現実をつかもうとするなら、現実の現象論的反映としての新古典派理論の優秀な実績に学ぶことも必要です。たとえば近代経済学者たちの間で闘わされた格差論争において、格差拡大否定論を展開した論者たちは統計の解釈方法を発展させました。これは伊東光晴氏の「増税を真剣に考えよう」(『世界』2006年1月号)に教えられたことで、『経済』2006年7月号への私の感想において触れました。

 いや本当は日本資本主義のもっと具体的な問題とか、「民意の偽装」の政治メカニズムなどについて考えるべきでしたが、今回はこれで終了します。

                                   2007年12月26日



2008年2月号

 湯浅誠・猪股正・河添誠の三氏による座談会「若者の貧困問題にどう立ち向かうか」(以下、『経済』座談会)は、失礼ながら、『経済』誌にしては珍しく具体的で心に迫るものとなっています。ここには個人と社会、人の心と客観的状況、そして実践と理論といったものをそれぞれ変革的に統一して行く道への示唆が含まれます。

 貧困に苦しむ人々を個別に実際に救済する活動に携わってきた三氏は、自己責任論との闘いの最前線にもあります。自己責任論を本当に克服するためには、個別の貧困の実態を具体的に理解しなければなりません。貧困問題での画期をなしたNHKスペシャル「ワーキングプア」でも、登場したのは貧しい中でも頑張っている人たちであり、頑張る意欲の持てない人たちは出てきませんでした。これは逆にいえば意欲の問題は自己責任だ、という立場になりそうですが、やはり河添誠氏と湯浅誠氏とが対談している「反・貧困を軸とした運動を 希望は、連帯。」(『世界』2008年2月号所収、以下、『世界』対談)では、「意欲の貧困」が取り上げられ、意欲や自信も失われていくものとして貧困を捉えるべきであり、そこに自己責任を持ち込んではいけないとされます。

 こういう徹底した立場は普通の人にはなかなか理解しにくいのですが、湯浅氏は巧みに説明しています。「過労死も自己責任だ」という奥谷禮子氏の発言に対してはすごい反発が起こりましたが、それは、そういう職場では休むという選択肢は実質的にはない、という実情を誰でも知っているからです。ところが常用の仕事を選択しない人は「甘えている、意欲がない」と見られるのは、その人が置かれた状況が理解されていないからです。その日の生活費にも困っている人にとっては、月末給与払いの常用の仕事は選べず、日雇い、日払いの仕事しかありません(『経済』座談会、110ページ)。河添氏はこう言います。「困窮化した生活の中で意欲も貧困化してきてしまう。貧困状態の中では世間を器用に渡るためのコミュニケーション能力もなかなか育てられない。そういう人がまっさきに解雇されてしまう。本人もそれに異議を申し立てたり、たたかっていこうとする意欲を持てない。何度も解雇されていくなかで自分への自信も失われてしまっている。貧困とはそういうものなんですよ」(『世界』対談、137ページ)。

 貧困に陥った人を「意欲の貧困」も含めて具体的に理解するためには、貧困概念を拡張し豊富化する必要があります。湯浅氏は、貧困を単に所得が少ない状態としてだけでなく、「溜め」がない状態と定義しています。「溜め」とは、社会保障などの社会の支え、貯金、家族・友人の人間関係、自信などであり、外界の衝撃を吸収するクッションであるとともに、自分が外界に働きかける際に、そこからエネルギーをくみ上げてくるべき能力の機能をも持ちます。多くの人々は何らかの「溜め」を持っていて、決定的に貧困に落ち込むのを免れているのですが、たとえばネットカフェ難民の若者などは「溜め」を喪失しています。だから貧困をめぐって様々な立場の人々が相互に理解しあうためには「溜め」がどうなっているかを見る必要があります。

 このように人を見る目が豊かになれば、安易に人を切り捨てなくなります。そういう姿勢の集積として真実の社会があります。だれもが脱落しない社会。これは当面の効率は悪くなります。すぐに結果を出せる能力で人を選別していけば、容易に効率的な社会を作れます。しかしそこでは脱落した人々の潜在能力が毀損され(プラスがゼロに)、失意の人々が社会の重しになったり、治安悪化の原因になったりします(ゼロがマイナスに)。

新自由主義は目先の効率を追及することで、失業・不安定雇用・成果主義管理を拡大させ、社会の持つべき最低限のまともさを破壊してきました。自殺増、少子化、医療・介護・教育の崩壊、企業の偽装、技術継承の困難 etc. これらは日本資本主義社会の持続可能性の危機を表わしています。浅薄な人間観は、分断を煽り、競争を神聖視して過酷で無責任な社会を作り上げたのです。その集中点に今日の貧困があり、それと闘う人々は温かい心を持って深い人間観に至り、誰をも切り捨てない連帯を通じて、社会の中に共同性を回復すべく努力を続けています。このように新自由主義との闘争が、私たちの人間観・社会観を鍛え上げてきたことが重要です。

 話は飛躍しますが、ベネズエラを初めとする南米左派政権(その実情について詳しくは岡部広治氏の「中南米における変革の進展」参照)に対する日本のブルジョア・マスコミの見方は新自由主義の人間観と社会観の貧困ぶりを露呈しています。まず独裁という批判は最低限の事実にさえ反しています。もう一つは、ばらまき政策の政府とそれに踊らされる民衆、という虚像です。チャベス政権は、これまで社会から脱落させられていた人々を救い上げ、経済的に自立を促し、政治的にも参加型民主主義の担い手として育成してきました。人民が政府に広範な支持を与えているのは、ばらまかれて受動的な生活に安住しているからではなく、自分たちの社会を築こうとしている実感があるからでしょう。ブルジョア・マスコミは、福祉を削ったり増税するのが責任ある政府のやることで、逆をするのは誤ったばらまき政策であり、そういう中で、人民が政府に批判的であるのが健全であり、支持し過ぎるのはどこかおかしい、と思っているようです(もっともこういうひどい政府や政策をあからさまに支持するのが望ましいとするマスコミもあるようだが、問題外)。人々に不満があるのだからそれを大いに表明するのが正しい。しかし何故不満が生じるのか、その根本的原因を問うことはない(問えない)。こういうのがどうも「リベラルな」感覚らしい。これは、資本家階級の権力の社会において、支配者階層が自己の利益を追及し、人民を分断と競争に追いやって、資本主義社会の本質を隠蔽している現実の表面的追認に過ぎません。「リベラルな」感覚からすると、人民が政府を支持するなどというのは、独裁やばらまきでだまされている、としか考えられないのでしょう。日本においても、新自由主義の貧困な人間観の下で社会から脱落させられた人々が、連帯的な共同社会の担い手として復帰する可能性を、「21世紀の社会主義」を目指す国々の経験から謙虚に学び取る努力をすべきです。「先進国」面して「独裁」「ばらまき」批判を説教するマスコミの傲慢さは恥ずべきものです。もちろん「人民の権力」が独裁政権に変質した例は枚挙にいとまなしですから、慎重な観察は必要です。だからといって自国の権力の本質を看過(あるいは隠蔽)して、人々の苦難の原因に言及せず、ひるがえってその姿勢の延長線上に、まともな社会を建設すべく苦闘している国の人々をシニカルに眺めるのは許されません。そこには、グローバリゼーションの今日のあり方を絶対視して、それを知らない民衆を新自由主義の原理で啓蒙しなければ、というエリート主義的使命感が見え隠れします。

 閑話休題。貧困の社会的状況・原因については一般論としては比較的理解されてきたけれども、いざ眼前の個人のことになると自己責任論に陥ってしまう、という問題があります。これについては、先述の湯浅氏による「溜め」の概念や「意欲の貧困」への理解を前提にして個別の状況をよく知ることで、個人の問題を社会の問題として把握することが可能になります。またここで「意欲の貧困」にまで踏み込むことで、客観的状況と心との関係の問題にも光が当たります(「状況」によって意欲を持てなくなった人も決して切り捨てられるべきではないことなど)。人が社会科学を学ぶ動機としては、自分や社会の状況を改善したいという要求が大きくあると思います。そのためには社会を一般的に理解するとともに、それを個人の問題として、さらには心の問題として統一的に把握することが必要です。あえて心の問題というのは、社会変革に立ち上がる意欲の喚起を含めて社会科学は完結すると思うからです。今回の『経済』座談会がきわめてヴィヴィッドであったのは、そうした社会科学の全体性に迫ったものだったからでしょう。それを支えたのは三氏の具体的実践であり、個別事例をよく見ることです。そこから止むに止まれず生み出された理論はまだ荒削りかもしれないけれども迫真性を持っています。

 2006年初めに『前衛』2月号所収、菅原良子氏の「二○○人の組合でも大企業や政府、そして社会を動かします!」を読み、青年労働者の過酷な労働実態に驚くとともに、首都圏青年ユニオンの素晴しい闘いに大いに希望を持ちました。その年末には『世界』12月号所収、湯浅誠氏の「『生活困窮フリーター』たちの生活保護」を読み、その貧困救済活動の実践と新たな貧困概念の提起に感動し、同氏の「格差ではなく貧困の議論を」(『賃金と社会保障』2006年10月下旬号、11月上旬号所収)という論文で貧困ビジネスのことなどを知るに及んで、湯浅氏の活動と論文こそが同年最高の社会科学上の成果ではないか、と思ったものです。首都圏青年ユニオンと湯浅氏の活動が社会的に評価されることを当時切に願ったのですが、なんとそれが今日では現実となり、感慨深いものがあります。それは、現実の厳しさと、NHK「ワーキングプア」などマスコミの影響とが相まってのことですが、闘いは始まったばかりです。こうして在野の実践が理論にも重要な問題提起をしてきた中で、闘いは大きな可能性を開くかもしれないし、逆に巻き返しや懐柔にしてやられるかもしれません。アカデミズムが適切な役割を果たすときです。

 『経済』座談会に挿入された手記(「反貧困たすけあいネットワーク」発足記念イベント参加記)において、作家の旭爪あかね氏が今日の状況を活写しているのを最後に紹介します。

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 観念的にとらえられがちな心の問題や平和の問題も、貧困という経済的な視角から光を当てると、その実像の一端がクリアに見えてくる。苦しみを訴える言葉を奪われていた貧困の当事者たちが、自身の状況を語りはじめた。

 これまでは点在していた当事者とそれを支える人々の運動が、いま急速に収斂し、線となり、面となり、網目状に発展しつつある。    120ページ

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 1月7日放送のNHKテレビ、クローズアップ現代「2008新マネー潮流」は、アメリカのサブプライムローン破綻が世界経済に与える深刻な影響を実に分かりやすく解説していました。ゲストは三菱UFJ証券の水野和夫チーフエコノミストと元大蔵省財務官の榊原英資早大教授です。

 サブプライムローン破綻によって、それまでのアメリカ中心のマネー循環が崩れかけています。アメリカでは、住宅価格の上昇をあてにしたローンによる大量消費が普通の生活スタイルであり、これが世界経済を引っぱってきましたが、住宅価格の下落=サブプライムローン破綻によって、消費が冷え込み始めています。オイルマネーはアメリカばかりでなくEUやアジアにも分散するようになり、そして石油後をにらんだ国家的投資戦略により中東にも留まるようになりました。サブプライムローン破綻に代表される市場原理主義の失敗と新興国の台頭とがあいまって、アメリカの金融市場に世界中のマネーが集中される構造が崩れつつあります。今回の危機で新興国ファンドの投資がなければ、シティやメリルリンチは破産していました。市場原理主義の破綻が国家資本によって救われるという皮肉な事態となったのです。番組では、銀行の貸し渋りがアメリカ経済の危機を招きかねないことや、物価高と消費低迷ですでにスタグフレーションになっているという指摘なども出て、サブプライムローン破綻問題の深刻さが印象的でした。

 アメリカ経済の失速で、中国経済への影響が懸念されますが、番組では特にアメリカに引きずられる日本経済の脆弱な体質を問題にしていました。またマネーに振り回される世界経済のあり方が問題にされ、マネーは必ず暴走するのだから国際的な新たな規制が必要だと強調されました。

 アメリカの金融バブル崩壊について、これまで楽観派と悲観派が対立し、従来の危機では消費の立ち直りを受けて楽観派が勝ってきたが、3回の利下げも効を奏さず消費が落ち込んできた今回は違う、と榊原氏は解説していました。投機的な金融が実体経済を振り回して調整困難な現状について、水野氏が「資本主義の限界」と言ったのを、榊原氏が「市場原理主義の限界」と言い直していたのが印象的でした。

 サブプライムローン破綻がここまで世界経済に深刻な影響を与える原因の一つは、アメリカのGDPの7割を占める個人消費の動向が住宅価格に左右される、という構造にあります。これについて萩原伸次郎氏は、ケインズ的景気循環から新自由主義的景気循環へ、という性格づけをしています(「アメリカ経済の動向と予測 サブプライムローン問題の影響」)。かつては個人消費はもっぱら所得に左右されたのですが、金融資産が肥大化した今日のアメリカでは資産価格の動向にも影響されるようになりました。「金融資産価格の動向に、消費、投資などのフロー指標が決定的な影響をこうむる景気循環」(99ページ)を萩原氏は新自由主義的景気循環と呼びます。また投機の野放しという問題についても、ケインズ主義から新自由主義への転換が重要な要因です。ケインズ主義では金融は実体経済に従うべきとされ、「国際資本取引における投機的取引は制度上厳格に規制され」ました(97ページ)。ところが70年代の変動相場制への移行を契機に国際資本取引の自由化が展開され、80年代以降は新自由主義的経済政策として自覚的に体系化されました。                                                                           

 サブプライムローン問題の実体経済への影響としては、上述のようにアメリカの個人消費の冷え込みに発する世界的なものが上げられますが、この問題が国際金融市場の深刻な動揺を引き起こしている原因としては、ローン証券化に注目する必要があります。高田太久吉氏は以下のように指摘します(「サブプライムローン問題に現れたローン証券化の虚構性」、『前衛』2月号所収)。

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 問題の根底にあるのは、現代のあらゆる金融市場に革命的な変化を促しているローン証券化がはらむ構造的な危険性と、その市場構造の極度の虚構性である。ローン証券化市場は、住宅ローン、消費者ローン、企業向けなど従来のローン債権を原資産としながら、これらが銀行にもたらすキャッシュフローを引き当てにして原資産の何倍もの複雑な資産担保証券(擬制資本)を作り出すことで、金融大手に莫大な利益(引き受け手数料、売買差益、利鞘その他)をもたらしてきた。それはまた、ヘッジファンドを始めとする世界の機関投資家に、かれらの手元に止めどなく積みあがる貨幣資本を運用するはけ口を提供してきた。しかし、このようなローン証券化市場の異常な膨張は、遅かれ早かれ破綻が免れない空想的な期待の上に実現したものであり、その構造全体がいくつもの虚構の上に築かれているのである。          86ページ

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 続いて4つの虚構性が指摘されます。(1)住宅ブームが無限に続き、住宅価格が今後も上がり続けるという空想的期待。(2)金融大手のリスク管理の杜撰さ。(3)格付け制度の虚構性。(4)金融証券化が金融システムを効率化するという言説の無内容さ(現実には深刻な混乱状態)。

 ローン証券化は金融システム効率化の可能性を秘めているけれども、その前提は十分な規制・監督制度であり、現状は金融大手と格付け会社による市場支配と濫用となっています(88-89ページ)。以上から、今日の危機の責任の多くは「自国の金融大手と機関投資家の利益を優先し、金融市場の健全性と透明性を確保する責任を放棄してきた主要国の政府・金融当局に帰せられることは明らかで」す(89ページ)。

 『世界』2月号所収、赤木昭夫氏の「アメリカ型グローバライゼーションの終焉 サブプライム・ローン破綻とドル危機」は、「無規制(無法)の金融行為を黙認し、それが行き詰まれば助けを求め、それにたいしいち早く助けを繰り出す暗黙の関係」としての「ウォール街とワシントンの癒着の正体」(38ページ)をドキュメント的に描き出しています。さらに世界経済におけるユーロの比重の増大やアラブ産油国でもドル離れが進みつつあることなど、アメリカとドルの地盤沈下が着実に進んでいることに触れているのも興味深い点です。

 赤木論文で、高田論文でもさらに懇切にローン証券化市場について説明していますが、非常に複雑なので難解です。ごく大ざっぱに一番基本的なことを理解するには、「しんぶん赤旗」1月24日付「けいざい?」の熊さんとご隠居の対話が役立ちます。また投機とその規制については、今宮謙二氏の「よくわかる経済ジャーナル 16、世界金融危機の背景と解決策」(「全国商工新聞」1月21日付)や友寄英隆氏の「経済時評 投機マネー跳梁させた経済学」(「しんぶん赤旗」1月17日付)があります。

 新自由主義の限界は、第一には人々の生存権を事実上否認することから、社会的再生産が困難になることです。人が生きて生むことができない経済社会は持続不可能です。第二には、投機などあらゆる金融行為に無規制で資本主義の寄生性・腐朽性を究極まで進めることです。それがもたらす格差と混乱については、先述のように榊原英資氏や水野和夫氏のような近代経済学者も批判的にならざるを得ません。第三には、新興国の発展とアメリカ経済の地盤沈下がゆっくり進むとともに新自由主義的グローバリゼーションの秩序が徐々に崩壊してゆくだろうことです。こうして貧困の問題とならんで、サブプライムローン問題に代表される国際金融危機もまた新自由主義の最後の鐘を鳴らすことになります。こうした条件を現実化するためには政治変革が必要です。

 

 とは言うものの、1月27日には自民党推薦のタレント候補が圧倒的得票で大阪府知事に当選しました。とても弁護士とは思えないような、不見識が服を着て歩いているような人物です。私たちの言葉はなかなか人々には届かない。左翼ならぬリベラルの人たちはどう思っているのか、その一端が、「朝日」1月13日付の作家・高橋源一郎氏と音楽評論家・渋谷陽一氏との対談に見られます。かつてイラクで高遠さんたちが人質になったとき、小泉首相を先頭にした「自己責任論」バッシングの大合唱が起こりましたが、これに対して「朝日」紙上で反撃の嚆矢を放ったのが高橋氏であり、心ある人々が溜飲を下げました。渋谷氏は「文芸春秋」を仮想敵とするオピニオン誌「SIGHT」を発行し、ボランティアではなくビジネスとして成り立つ勝算はある、と語っています。気骨ある二人です。

 高橋語録から 

◎「だいたいで、いいじゃない」というのはまさにリベラル。

◎真の意味で原理的な思考は「リベラル」で現実的だと思っています。

◎リアルということの意味の一つは、具体的ということ。それは自分の肉体と頭脳を通して考えることだと思います。

 渋谷語録から

◎権力がわかりやすい言葉を使ってきたときは注意しないといけない。それなのに、権力と戦う側が相変わらずの政治的な方言を使っていたんでは負けてしまう。

 再び高橋語録

◎政治の言葉を、想像を絶するぐらいわかりやすい語り言葉に解体できた時、見たことのない新しい風景に出会えるかもしれない。

 

 いかに現実から柔軟に学ぶのか、わかりやすく語るのか…ほとんど「政治的方言」の雑文に終始している私としては耳が痛いところです。先の湯浅誠氏や河添誠氏らの実践と理論はまさに具体的リアルの見本だと思いますが。

 この一週間前、1月6日付「朝日」には上野千鶴子氏と加藤周一氏との対談が載っていてこれも非常に興味深いものです。民主党と「朝日」は、リベラルの仮面で新自由主義を売る、というのが基本的スタンスだとも言えますが、現実や世論の動向とも相まって左右に揺れています。基本的スタンスからはずれた二つの対談から学ぶとともに、マスコミが注目せざるを得ないようなうねりをどう作っていくのか、地に足をつけつつも、目の醒めるような動きを、とまるで私たちにとってのヒット商品祈願のような気持ちもあります。資本主義社会での闘いは市場でも勝負しなければならないようです。

                                   2008年1月29日



2008年3月号

 川上則道氏の「『資本論』の「価値」概念 価値の物質性について」に関連して価値論について書きます。考えがまとまっておらず、時間もないので拙速なものにならざるをえませんが、急いでメモしておきたいのです。川上氏は問題を限定し詳細に論証していますが、私としては価値論の課題という点から問題を広く捉え、あるいは多少は現状分析への問題意識を大切にして荒削りであっても、今考えられることを表明します。

 川上論文は、価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉える立場から、価値を「労働量そのもの」と捉える立場を批判しています。私は第一次接近として、後者の立場の相対的な正当性を主張し、前者の立場を批判したいと思います。次いで価値論の階層性の中にこの議論を位置付けます。

 マルクスが労働価値論の根拠を最も説得力ある形で説明したのは、有名なクーゲルマンへの手紙(1868年7月11日)の中です。

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 どの国民も、もし一年とは言わず数週間でも労働をやめれば、死んでしまうであろう、ということは子供でもわかることです。また、いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということも、やはり子供でもわかることです。このような、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象様式を変えうるだけだ、ということは自明です。自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。歴史的に違ういろいろな状態のもとで変化しうるものは、ただかの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです。

 マルクス=エンゲルス『資本論書簡』(2)、国民文庫、1971年 162-163ページ

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 様々な歴史段階における経済の仕組の違いにもかかわらず、社会的労働の分割の必要性は普遍的であり、資本主義的商品経済も例外ではありません。今日、サブプライムローンの破綻、あるいは投機マネーの跳梁による世界経済の混乱とか、格差と貧困、等々現代資本主義の複雑な諸問題を社会的労働の諸関連にまで遡って考察するのが労働価値論の立場であり、それによって働く人々にとって社会のあり方がどうなっているのかを明らかにすることができます。商品の二要因として価値と使用価値とが分析され、価値の実体として労働が析出されることで、資本主義経済を構成するモノの奥に労働の諸関連を見通すことができます。労働価値論者はここに執着しなければなりません。価値を労働量と生産物とが一体化したものとして捉えることは、価値量と使用価値量との相対的に独自な動きを捉えることを妨げて、商品を価値と使用価値とへ分析することの意義を減少させます。それはまた価値概念を物量概念に従属させ、労働の世界そのものへの着目が薄れます。

 川上氏は、半年前に8時間の労働量で生産された自転車が、現在4時間で生産される場合を例に上げています。ここで価値を「労働量そのもの」と捉えると半年前の自転車の価値は労働量8時間となりますが、価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えればその価値は労働量4時間となります。現在の自転車の価値は労働量4時間なので、前者の立場では、同じものが違った価値を持つという矛盾に逢着する、というのが川上氏の主張です。要するに価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えなければならない、とする端的な根拠は一物一価原理だということになります。しかしここでは一物一価原理の適用範囲が不明確なままに過剰適用されています。この例では価値比較における通時性と共時性とが区別されていません。一物一価原理は競争関係にある生産物どうしに適用されるものであり、共時的な価値比較には適合的ですが、通時的な価値比較には適用できません。過去にあるものと現在のものとは競争できないからです。半年前の自転車が売れ残って現在も存在するなら競争関係にあるのでその価値は労働量8時間より下がりますが、現在もうないのならば競争できないので8時間のままです。

 またこの川上氏の議論では、過去の労働量8時間は現在では4時間とみなされ、逆に言えば、現在の労働は過去の労働の2倍の価値生産力を持つと考えられており、これは生産力が倍加して生産される使用価値量が倍になったことを反映しています。川上氏が主張する「労働量と生産物との一体化」とは結局、生産力、価値量、使用価値量が平行に発展していく形になっていくことを確認しておきます。

 川上氏が、価値を「労働量そのもの」と捉えるのを間違いだとしたきっかけは次の問いです。

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 ある国の労働者数と一日の労働時間が変わらないとするならば、その国の年々の総労働時間(総労働量)は変わらないのだから、年々に生産される価値の総量であるとすると国民所得の年々の増加(=経済成長)は無いことになるという奇妙なことになる。これを理論的にどう解決すべきか。

 この問いの前提となっているのが、価値を、生産物から切り離して労働量そのものとして把握するという捉え方である。本稿では、私自身も陥っていた、この捉え方を批判したのであるが、この不十分な捉え方の方がマルクスの価値概念についての一般的な解釈なのである。          174ページ

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 この問いに対して私は回答しています。詳しくは川上氏の『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』(新日本出版社、2004年)の第3章「経済成長と価値」、あるいは刑部泰伸「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所編『政経研究』第86号、2006年5月、所収)をご覧ください。端的に言えば、政府統計における国民所得はマルクス経済学でいう価値には当たらず、使用価値量を表現するための「偏倚した価値」という両義的性格を持ち、生産性の上昇による物量の増大を経済成長として表わします。つまり年間総労働量が変わらず生産性が上がった場合、労働価値論でいう国民所得(V+M)は変わりませんが、政府統計の国民所得は増大し経済成長を表現します。ここには理論的な困難はなく、複眼的な経済分析への道が開かれます。高度成長期には、労働力人口の増大によって価値量そのものが増え、その上に生産性の上昇が加わって使用価値量は著しく増大しました。低成長期に入るとおそらく年間総労働量はあまり増えず、したがって価値量は停滞しており、生産性の上昇による使用価値量の増大が経済成長の主な実質となったと考えられます。価値(量)と使用価値(量)とをしっかり区別することは経済成長のあり方の分析に役立ちます。

 価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」とする立場から国民所得や経済成長を捉える場合、生産性上昇による使用価値量の増大をそのまま価値量の増大とみなします。ここでは同じ労働時間でも過去より現在のほうが多くの価値を生むことになります。これは価値・使用価値の複眼的分析から、物量分析一元化への後退です。そこでは生産性上昇によって生産物の価値が減少することの意義が欠落します。確かに資本の本質は価値増殖であり、それに物量の増大がともなうという側面は一元化された物量分析でも捉えられます。しかし資本間競争は特別剰余価値の獲得をめぐって展開されるのであり、その結果は生産力の拡大と生産物価値の減少です。価値増殖を目指しながらも生産物価値は減少させる、という矛盾した、下りのエスカレーターを駆け上るような運動が資本の本質です。ここには、人類にとっての必要労働時間を減らし自由時間を拡大するという、歴史貫通的な「価値法則」が特殊資本主義的な形態で貫いているのです。全体としての使用価値量の増大と個別価値の減少という双方向への運動は人類史的課題にかなうものですが、資本自身は価値増殖を目的として行動し、結果としてこの課題を担うものです。したがってそこにはしばしば齟齬が生じます。

 神野直彦氏は「経済の発展とは、人間が人間として高まることと軌を一にする形でおこなわれるべきなのです」として、小泉「構造改革」を「人間をコスト(費用)を高める妨害物だとみなしてしまう」あるいは「人間を経済競争で勝利するための手段と考えています」と批判しています(「しんぶん赤旗」2001年10月3日)。人間はそれ自身が目的であって手段ではなく、ましてやコストではない、という批判は新自由主義に対する根本的告発であり、倫理的あるいは政策的にも大いに共感できます。これを労働価値論の観点で基礎的に考えてみましょう。商品価値C+V+Mのうち、C+Vは資本にとっては費用価値となります。生産性が上昇し、消費財の価値が下がれば労働力の価値も下がり、労働時間が同じならば価値生産物V+Mのうち、V↓でM↑となり、相対的剰余価値が発生します。この場合、労働力の価値が下がったといっても、消費財の価値が下がったのであり、その使用価値量は変わりません。ここでは人間はコスト扱いされていますが、通常の資本主義的搾取の範囲内であれば消費生活上の実害は生じません(相対的過剰人口をともなう資本蓄積法則の影響についてはここでは捨象)。あえて言えば、生産性上昇により労働力の価値が下がること自体は歴史の進歩です(欲望の発達とか社会生活・消費生活の高度化といった現実的問題を捨象して必要生活手段を一定とするような抽象的次元での話ではありますが)。この新たな労働力の価値が基準となって、わずかな賃上げでも、発達した生産力から容易に追加的な消費財を得ることが可能となり、消費生活の向上が見込まれます。人間発達の可能性が広がります。ところがこの低下した労働力の価値をさらに下回る賃金しか支払われなければ、生活に必要な使用価値量の水準が満たされず、生活水準が下がります。今日の新自由主義下においては、雇用・労働条件の様々な悪化を通じて、生産性上昇に対応した労働力の価値の低下よりもさらに賃金が下げられます。つまり相対的剰余価値の一部だけでも労働者に分配すればその生活が改善される、という形で、生産力の拡大は社会進歩の条件を作り出すにもかかわらず、逆に相対的剰余価値の搾取を超える強奪的搾取で、労働者の生活の再生産を困難にしているのが今日の資本主義です。ここに社会進歩の条件の拡大とその圧殺という新自由主義的資本主義の歴史的意味を読み解くことができます。

 まとめれば、生産性上昇によるコスト低下を反映した限りでの労働力の価値の低下は価値量の減少にもかかわらず使用価値量は不変です。ところが生産性上昇にかかわらない、あるいはそれを上回るコスト削減による賃下げは、労働力の価値に対応した使用価値量を下回る事態を招き、生活破壊につながります(人間をコスト扱いするな、という怒りはこうした局面を反映した叫びだといえます)。以上のように、賃金の低下という価格変化の意味を価値・使用価値の複眼的分析で明らかにすることが大切です。こうして量的変化の質的本質を解明するのです。すると神野直彦氏による以下の妥当な提言を価値論的に解釈できます。「技術革新を伴わないコストダウンによる価格破壊は、だれかの所得を減らすことになり、生活が破壊されます。環境、福祉、医療などの人間の生活を支える新しいニーズ(要望)を開発し、技術革新で生産性を向上させる必要がある」(同前)。

 こうして見てくると、新自由主義は「むき出しの資本主義」とも言われますが、通常の資本主義的搾取を超えて働く人々の生存条件を掘り崩しているという意味では、「強奪の資本主義」と呼ぶほうがふさわしいかもしれません。それは人類史的課題から逸脱した価値増殖のあり方を本性とする資本主義であり、課題の枠内に収まるように規制するか、資本主義そのものを止揚するか、という問題を私たちに突きつけています。

 ところで川上氏による以下のような価値の意味づけは妥当でしょうか。

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 そもそも価値という言葉は人間にとって有用であるということが主たる含意である。したがって価値の言葉は第一義的には「使用価値」を意味すると思う。しかし、有用さ自身はそれぞれ有用さの中身が異なるから、それを計る共通の尺度はない。ところが、有用な生産物を計る社会的な共通の尺度として「価値」が歴史的に形成され、その価値が貨幣として自立した。すなわち、多額の貨幣(=大きい価値)を持っていることは、自分の欲する、どのような有用な生産物をも多量に手に入れることができることと同義になるわけである。使用価値に裏付けされ、使用価値を超えたものが「価値」なのである。 

         175ページ

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 これでは価値は使用価値の補助的役割に留まります。私は両者をもっと対極的関連において捉えたいと思います。使用価値は、商品を生産物という生産の結果から見た概念だといえますが、価値はむしろ生産過程を規定する概念だといえます。人間が自然に向かって労働し生産物を得るという一連の過程に重ねて見ると、価値は労働投入を、使用価値はその出力としての生産物を反映し、両者は商品の二要因として定着します。そして価値量と使用価値量とは労働の生産力の発展を媒介にして相対的にそれぞれ独自に変化します。冒頭に引用したように、マルクスはクーゲルマンへの手紙(1868年7月11日)の中で価値の本質を「一定の割合での労働の分割が実現される形態」と捉えました。こういう見方は、価値を有用性の尺度とする見方よりも分かりにくいけれども、経済の見かけではなく本質を捉えています。本質はそれを隠す様々な現象に覆われながらも自己を貫きます。クーゲルマンへの手紙はこう続きます。

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 この俗流経済学者は、現実の日常の交換割合と価値量とは直接に同じではありえない、ということには思いつきもしなかったのです。ブルジョア社会の核心は、まさに、アプリリに〔その本性上〕生産の意識的な社会的な規制が行なわれない、ということにあるのです。理性的なものや自然必然的なものは、ただ、盲目的に作用する平均として実現されるだけです。そこで、俗流経済学者は、内的な関連の暴露に対抗して、事態が現象ではそれとは違って見えるということを主張するときには、一大発見でもしたつもりでいるのです。じつは、彼が主張しているのは、自分が外観を固執してそれを究極的なものと考えている、ということなのです。それならば、いったい科学とはなんのためのものなのでしょうか?   マルクス=エンゲルス『資本論書簡』(2)、163-164ページ

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 これは痛快な文言ですが、一歩間違えば、見るべき現象を顧みず誤ったドグマを本質として固執する場合もありうることは自戒せねばなりません。川上氏が使用価値量の共通の尺度の必要性に言及したことは間違っていないと思います。ただそれを価値の本質のように捉えるのは問題があり、価値の副次的機能としてならば理解できます。鉛筆3本とソーセージ3本とを使用価値量として比較したり合計するのは無意味かつ不可能ですが、昨年の日本の総生産物量と今年のそれとを比較するのは意味があるので何とか可能にしなければなりません。現実にはそれは政府統計の実質GDPの比較として行なわれています。たとえば物価指数の基準年の総生産物量と昨年のそれとを比較する場合、両者とも多種の使用価値を含むけれども種類が大きく変わるわけではないので、諸使用価値の一つの巨大なバスケットの大きさが変わるだけだとみなせます。そこで両年の総生産物の名目価格をそれぞれ合計し(中間生産物を除いて)名目GDPを算出します。多種の使用価値量そのものを合計することは不可能なのでここは価値概念を利用します。両年の比較には名目値を実質値に変換する必要があります。基準年の名目値はそのまま実質値です。昨年の名目値を実質値に直します。ところで物価指数はある生産物の価格が変動しても基準年の価格に合わせて調整するものだから、これは一物一価原理(投下労働量が違っていても使用価値が同じであれば同じ価値とみなす)の通時的適用です。従って物価指数によって調整された実質値を経年比較すれば、価値量ではなく使用価値量の比較になります。

 数字例を示します。基準年にボールペン1本当たり30分かけて、1万本が生産され、1本の価格が100円であれば、その総価値量は5000労働時間であり、総名目=実質価格は100万円となります。ここで第1例として、昨年、生産性は変わらず2万本が生産され、1本の価格が150円とします。ボールペンの価格が物価と同様に上がっているとすれば、昨年の物価指数は1.5です。すると総価値量は1万労働時間で、総名目価格は300万円、総実質価格は200万円です。第2例として、昨年、生産性が上がり1本当たり15分で生産でき、2万本が生産され、単価はやはり150円であったとします。物価指数は第1例と同じく1.5です。すると総価値量は5000労働時間で、総名目価格は300万円、総実質価格は200万円です。第1例と第2例とでは生産性が違い、従って総価値量が違いますが、総使用価値量は同じで総実質価格も同じです。両例とも、昨年は基準年に対して総名目価格では3倍になっていますが、物価指数で調整して総実質価格では2倍となります。これは使用価値量の増加を表わしています。ところが第1例と第2例とでは生産性が違い総価値量が違うのですが、物価指数の調整ではこの違いは表現できません。従って名目GDPを物価指数で「デフレート」して実質GDPを算出する場合、経年比較できるのはGDPの価値量ではなく使用価値量ということになります。もちろん多種の使用価値量そのものを合計することは不可能なので、価値概念を借用して擬似的に合成された使用価値量ですが、これは価値量そのものとは区別しなければなりません。

 ところで名目値を実質値に換算する物価指数が理論的にそんなに重要な問題かといぶかしむ向きもあるかもしれません。少なくともそれが現実の統計上、きわめて重要だという事態が最近発生しました。内閣府が2月14日発表した2007年10-12月期のGDPの伸び率は実質で前期比0.9%増、年率換算で3.7%増と、予想外のものになりました。経済の現状分析的な中身はここでは措くとして、統計上の問題点に触れます。名目の年率換算では1.2%にとどまっており、実質3.7%となったのは、GDPデフレータが10-12月期マイナス1.3%に大きく落ち込んだためです。消費者物価指数とは違って、GDPデフレータは輸入価格の上昇分は「何も価値を生んでいない」として差し引きます。このため今回、消費者物価指数が上がってもGDPデフレータは下がりました(「朝日」2008年2月15日)。このGDPデフレータの取扱いを理論的にどう考えるかは宿題ですが、とにかく物価指数が経済統計においてきわめて重要な位置を占めることは劇的に明らかになりました。

 価値量と使用価値量との区別の問題は、労働生産性の国際比較とかかわってきます。社会経済生産性本部による昨年の各国の労働生産性統計で、日本が主要先進7ヵ国中、11年連続最下位であったことが話題となりました。世界に冠たるカローシ、サービス残業大国がなぜそうなるのか、たいへんな逆説です。統計技術上の様々な問題点も指摘されていますが、中心点は労働生産性をどう計るかです。この統計では付加価値生産性になっており、これではモノやサービスの生産性の比較にはならないのではないか、とひとまずは言えます。しかし付加価値(GDP)の国際比較にあたって購買力平価を用いているので、ある程度、価値量よりも使用価値量寄りの比較になっているのではないか、とも言えそうです。いずれにせよこうした現実の統計の価値論的な解明が求められます。

 川上氏は価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えるのか、価値を「労働量そのもの」と捉えるのか、という形で議論していますが、これはやや問題提起がずれています。実は川上論文からの初めの引用(174ページ)で「この問いの前提となっているのが、価値を、生産物から切り離して労働量そのものとして把握するという捉え方である」とありますが、「この問いの前提となっているの」は正確には「一定量の投下労働は一定量の価値を生むという捉え方である」とすべきです。年間総労働量が変わらなければ、国民所得も変わらない、という命題は、労働と価値との量的関係に関するものです。だからこれを検討するためには、労働量と生産物とを一体化して捉えるのか、離して捉えるのか、という質的規定を議論するのでは不十分であり、価値と労働との関係を量的に規定する必要があるからです。つまり本質的には、一定の労働量は一定の価値量を生むのか、それとも生産性の上昇に応じて多くの価値量を生むのか、という問題です。川上氏の議論では「労働量と生産物との一体化」という質的規定は、価値量を使用価値量(物量)と一体化するような量的規定のための媒介環として出てきていると思われます。

 以上では、価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えるのを批判するために、あえて価値を「労働量そのもの」と捉える立場から議論しました。しかしそういう言い方は一見していかにも一面的に映ります。以下ではそれを価値論の階層性の中に位置付けて軌道修正しようと思います。

 価値論は、現実の個別的な投下労働に始まって、市場価格にまで至る、抽象から具体への重層的な体系を持っています。クーゲルマンへの手紙にもあるように、社会的労働の分割を起点に、現象と本質との矛盾を上向の動力としてそれは展開されます。その際、私はまず現実の生の投下労働を重視します。通説的には投下労働は社会的平均的労働というように、すでに商品経済の結果として存在するものを指しますが、そうではなくて、個別具体的な支出されたままの労働を投下労働としたいと思います。それはまさに実在であり、様々な社会的現実はそこから出発するからです。経済学は近代の市場から生まれたものであり、そうしたモデルが多くの学問的成果を上げてきたのは事実ですが、今や私たちは市場からこぼれる多くの経済的現象をも捉えられなければ、特に新自由主義へのオルタナティヴを構想することはできません。たとえば障害者の労働は社会的平均からははずれています。農民の時間給が256円にしかならない(座談会「本格的転換の年に」での坂内三夫氏の発言より、47ページ)というのは、農工間での不等労働量交換です。市場競争による平均化作用を前提にそこを出発点とする価値論から発想を転換して、「クーゲルマンへの手紙」の原点から考えていきたいと思います。

 価値を「労働量そのもの」と捉えるのは価値論の大切な一面を抽象的に捉えた出発点であり、実際には価値・価格は具体的段階になるに従い、上記の投下労働から離れていきます。その第一段が商品経済=市場であり、特に競争による一物一価原理によって社会的平均的労働が強制され多くの労働が淘汰されます。価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えるという川上氏の主張はこの段階の一要素を摘出しているのですが、それが適用範囲を越えて主張されているのは誤りだと思います。第二段階として資本間競争によって平均利潤と生産価格が形成されると投下労働からさらに離れます。第三段階として市場での短期的な競争の次元では需給の変動に応じて市場価格が常時変化し、さらに投下労働とは乖離します。

 労働価値論とは、投下労働から出発しつつも、価値・価格がそれから乖離する様とその原因を探究する理論体系であるとも言えます。また逆に乖離を通しても投下労働が何らかの規制力を持っていることや、乖離によるフィードバック機構のあり方も研究されます。たとえば市場価格のメカニズムが再生産の均衡に導くのでなく、逆に不均衡を累積して恐慌・産業循環を形成し暴力的均衡化によって「解決」されることなど。現代資本主義においてもバブルと投機のカオスの底には異常に巨大化した不等労働量交換があるのだろうし、そのひずみのあり方に規定されて深部の力の蓄積と発散の方向が出てくるのではないでしょうか。私はこういう漠然とした言い方しかできませんが、現代資本主義の表層に惑わされずに本質を射抜く目を労働価値論によって持ちたいと思います。

 価値論において、一方には『資本論』などの緻密な解釈があり、他方には代数的検討を援用するなどした徹底的な経済理論的詰めがあります。そうした理論的内実に届かぬ外縁的部分で問題意識だけを吼えているのはどうかとは思うし、理論的純度の低いごった煮を書くのも恥ずかしいことですが、貧しくてもこれが私の到達点であり出発点でもある、という他ありません。もっときちんと勉強できれば、と思っています。

       以下は600字以内の感想です。

 川上則道氏の「『資本論』の「価値」概念」は、価値を「労働量と生産物とが一体化したもの」として捉えています。しかしこれでは、生産力・価値量・使用価値量が平行に増大していく形になり、物量分析への一元化の下で生産力発展による価値量減少の意義が見逃されます。価値量と使用価値量との相対的に独自の動きを認める複眼的見方によってこそ、マルクスによる価値と使用価値とへの商品の二要因の分析がより生きてきます。
 生産性の上昇は、一方に使用価値量の増大をもたらし、他方に個別価値の減少をもたらします。前者は生活の豊かさの可能性に、後者は投下労働時間の短縮を通じて自由時間の拡大の可能性につながります。これは人類史的課題であり、資本は価値増殖という動機から生産性の上昇を担うことで結果としてこの課題を果たし、人類史上の一時代を画しました。しかし今日の新自由主義的段階の資本主義はこの課題から逸脱した価値増殖の道を歩んでいます。一方では労働力の価値以下の賃金や長時間労働などを押し付けることで強奪的搾取を行ない、他方では投機によって実体経済の果実を奪っています。貧困が拡大し自由時間も奪われています。商品の価値量と使用価値量との相対的に独自な動きの中に、人類史の課題の反映を見ることは、逆に新自由主義的価値増殖方法の異常さを浮き彫りにします。商品の価値と使用価値とへの分析の今日的意義をここに見ます。

                                   2008年2月18日



2008年4月号

      「大企業批判」へのカイゼン提案

 ここ数年、新自由主義政策の下で格差と貧困が急速に悪化し、人々の意識も変わってきましたが、2006年夏のNHKスペシャル「ワーキングプア」がその変化の一つの画期になったことは間違いありません。当然のことながら体制側はこれを苦々しく思っているでしょう。かつて教育テレビで従軍慰安婦問題を取り上げた番組「ETV2001」に対して、安倍某、中川某を先頭に自民党が露骨に介入したことがありました。以後この問題はテレビでは事実上タブーとなりました。ちなみにこの番組を制作した永田浩三氏は制作現場からNHKアーカイブス(過去の番組の保管と公開をする施設)に左遷されました。永田氏の「またふたたびの生きがい 若年認知症の佐藤雅彦さんと『生きがいについて』を読む」(『世界』4月号)は、永田・佐藤両氏が「無念と、それを乗り越えることについてずっと語り合ってきた」(237ページ)記録であり、そうした状況下で両氏が神谷美恵子『生きがいについて』を深く読む様は実に感動的です。

 閑話休題。永田氏もかかわってきた「クローズアップ現代」は優れた番組ですが、最近は回によっては露骨に体制的な内容も見受けられます。政府・与党筋は批判的番組への介入・弾圧よりも、自分たちのメッセージを直接番組制作に反映させようとしており、それに呼応するNHK内の現場がある、という状況なのかもしれません。NHK出身の戸崎賢二愛知東邦大学教授が「制作者に求めたい批判精神」という「テレビ時評」(「しんぶん赤旗」2月22日付)において、1月27日からのNHKスペシャル「日本とアメリカ」(3回シリーズ)を批判しています。戸崎氏によればこれらの番組は「私たちが知り得なかった日米関係の最前線の動きが精密に追われているところに価値があり、提示された事実や情報には驚かされ」るけれども、日米軍事同盟や経済関係の現状に対して無批判的な世論誘導の作用も認められます。「テレビ番組の取材・構成・演出の技術がますます精緻になり、高度な達成が見られるのに比して、番組の根幹となる制作者の思想・ジャーナリストとしての批判精神は逆に深みを失い、ごく常識的なレベルに後退しているかに思える」と戸崎氏は懸念しさらに「強固なジャーナリスト精神がないと、取材者は取材対象者や取材した事実に逆に影響を受け、説得されてしまう」と警告しています。私がさらに思うのは、「説得されてしまった」優れたジャーナリストがむしろ体制派的なエリート主義的使命感を持つ段階にまで進んでしまうのではないか、ということです。メディア総合研究所主催の「NHK『再生』への道」というシンポジウムの基調講演で原寿雄氏は、今日の経営委員と執行部の発足によって、NHKが自民党のグループと財界に乗っ取られ、国策放送に変えられる危険性があることを訴えました(「しんぶん赤旗」3月19日付)。このような環境の下で番組制作者の変質が懸念されます。

 すでに朝日新聞の経済部は新自由主義の立場から、エリート主義的使命感をもって読者を「啓蒙」しようとしているように思われます。消費税率アップの社説を出したり、シカゴ大学の博士号をもつ小林慶一郎氏を定期的に登場させて新古典派理論の立場からの啓蒙記事を載せています。私はここでマスコミ論をやろうというのではありません。高度な能力を持ったマスコミ人の少なくない部分が体制派の研究者を巻き込んで、このように動いているときに、私たちはどのように対抗するのか、が問題です。まずはこうした上からの視点に対して、下からの視点で臨み、徹底的に庶民の労働と生活の実態と実感から出発することが大切です。次いで現代資本主義の最先端の現象と現場に通じてしかも本質をはずさないという高度な理論的達成が求められます。以下では主に後者の問題について「大企業批判のあり方」という視角から若干触れてみたいと思います。

 藤田宏氏の「大企業の労働分配率は五二・三% 財界の『労働分配率』論の欺瞞」は、政府統計の批判的活用によって経団連の議論(日本の労働分配率は歴史的にみても、国際的にみても高い水準にある)の欺瞞を暴露しています。藤田論文によれば、この10年間で中小企業の労働分配率は変化ないのに対して、大企業のそれは劇的に下がっています。大企業は新自由主義的経済政策を追い風に、労働者と中小企業を犠牲にして莫大な利潤を上げています。サブプライム問題に端を発した日本経済の苦境を打開するには、経済政策の軸足を大企業から人々の生活重視に転換する必要があり、その財源としては大企業が積み上げてきた莫大な内部留保の一部を回せばよい、と結論づけられます。これはいわば国民経済レベルで資本と賃労働および大企業と中小企業との対抗関係を明らかにしており、そのマクロ的・本質的分析視角は大企業批判の根幹部分をなすものです。もちろんこれはまったく正しい議論であり、特に小泉「改革」以来、露骨な弱肉強食の逆立ちした経済政策で貧困・生活困難が広がっている現在、共感も得やすくなっています。ただ留意すべきは「安易に大企業を打出の小槌として扱っている。大企業も大変なんだ」という議論にも説得力をもって反撃する必要もあるということです。大企業の莫大な利潤は、搾取方法に知恵をしぼり、厳しい企業間競争を制して実現したものであり、マクロ的な統計値はその結果です。この結果をもたらした過程に注目せねばなりません。大企業批判のさらなる展開はミクロ的・現象的視角によって、つまり企業経営や生産現場のあり方、あるいは厳しい企業間競争の現実に迫ることによって果たされるでしょう。

 『資本論』の理論体系に考察のヒントがあります。第1部で搾取が本質的に解明され、剰余価値率が均等とされ、第3部はそれを前提に資本間競争が行なわれ平均利潤率と生産価格が成立するとされます。ここで大切なのは、資本主義経済においては、一定の生産力の下、資本と賃労働との対抗関係から平均的な剰余価値率が形成されて剰余価値が生産されるのが本質的関係であり、それを前提にして資本間競争が展開され、生産された剰余価値が争奪され、その資本間での分配が実現される、という論理的順序です。現象的に見やすいのは資本間競争であり、ここで敗れれば剰余価値は実現されず、したがって個別資本にとっては競争での勝利こそが決定的だと映るのですが、それは剰余価値生産の現場である資本・賃労働関係を所与のものと(あたりまえで不変のものと)考えているためです。実際には生産点での搾取こそがすべての出発点です。確かに生産された剰余価値は実現されねば意味がありませんが、実現の可否は生産のあり方に大きく規定されます。また第1部では剰余価値生産の解明に続いて資本蓄積の法則が提示され、社会の一方での富の蓄積と他方での貧困の蓄積が解明されます。藤田論文で解明された、現代日本の国民経済レベルにおける、資本と賃労働、大企業と中小企業との搾取・収奪関係による格差構造は、第1部の資本・賃労働関係による搾取の本質的解明と資本蓄積法則とに対応していると言えそうです。以下では自動車産業を例に、この格差構造を生み出す具体的過程として資本間競争の姿を確認し、その競争を規定するものとして個別資本における生産・搾取過程を見る、というふうに、第3部と第1部との観点の往復運動的考察によって、藤田論文の結論を過程的観点からさらに豊かにしたいと思います。

 久山昇氏の「GMの苦悩と米自動車産業 米資本主義のシンボルはどうなるか」は資本間競争の厳しい現実を捉えています。GMなどビッグ3は北米市場においてもトヨタを初めとする日本企業の攻勢によって苦境に立っています。ビッグ3衰退の要因としては、以下のことが指摘されています。1960年代以降、長期投資が大幅に削減されたこと。小型車、低価格車、低燃費、環境対応といった分野で日本企業などに遅れをとったこと。グローバル購買によって国内部品サプライヤーを切り捨てて関係が悪化し、製品開発と品質向上に障害を作ったこと。こうしてグローバリゼーションの中で関連分野をも含むM&Aで国際的な業界再編に乗り出したけれども、こけおどしにすぎず、「アメリカ自動車産業は恐るべき空洞化の中に立たされてい」ます(78ページ)。長期投資の削減、グローバル購買、M&Aなどは新自由主義的な株主資本主義の問題点であり、小型車、低価格車、低燃費、環境対応といった問題は市場の需要に対応した使用価値を供給できるか、ということです。ビッグ3は新自由主義的な経営行動により失敗し、市場対応にも失敗して日本企業に遅れをとったといえます。そうするとトヨタなどは立派なのか、ということになりますが、資本間競争においては何が問題なのかを見る必要があります。一つには市場対応として適切な使用価値を供給できるか、ということで、その中身としては環境適応などのように明らかに積極的意義を持つものから些末なモデルチェンジのようにムダなものまで様々ありますが、それが資本主義の現実というものでしょう。二つめには科学技術の応用、生産現場・過程の整備などを通して生産性を向上させることです。三つめには搾取強化によるコスト削減と生産性向上です。おそらく三つともトヨタなどがビッグ3に勝利したのでしょう。資本間競争という視点ではそこまでです。確かに適切な使用価値の提供や無理のない生産性の向上で勝利することは、単に資本主義的のみならず歴史貫通的にも意味のあることであり、社会進歩に貢献することになります。問題は搾取強化です。トヨタの勝利は賞賛すべきことなのか。トヨタ生産方式をグローバルスタンダードとして競争することは良いのか。これを検証するには資本間競争の部面からまた直接的生産過程の部面に立ち戻って見ることが必要です。

 それに関連してもっぱら肯定的側面を描いたのが「朝日」(名古屋本社)3月23日付の「世界を拓く東海の技 北米編 米企業の生産カイゼン トヨタ方式 『指導部隊』134社に貢献」という記事です。トヨタは1992年、トヨタ生産方式の指導を通じて米国の生産性向上に貢献するため、子会社トヨタサプライヤーサポートセンター(TSSC)を設立し、これまで病院や銀行など非製造業を含めて134社を指導してきました。トヨタ生産方式がまさにグローバルスタンダードとなりつつあることを感じさせる事実です。指導を受ける動機としては中国からの安価な製品の輸入などが上げられます。労働コストでは中国に勝てないから米国で生き残るには生産効率向上しかないのです。TSSCは指導前に、生産性向上を理由に従業員を解雇しない、と経営陣に約束させます。従業員は自分の首をしめることには積極的に知恵を出さないからです。指導を受けた大手家具メーカーの社長は「従業員と経営側が相互に尊敬して改善を進める哲学に共感した」と語っています。これらから言えるのは、トヨタは資本間競争に対して、労働コスト削減よりも生産性向上という健全な方法で臨んでおり、その生産性向上についても従業員と経営側が協力して遂行している、ということです。これは明らかに株主資本主義といった新自由主義的な米国企業よりも優れており、労働者にとってもよい経営姿勢であり、こういう方針で競争に勝利するのなら大変結構だといえそうです。しかしトヨタの勝利はそれだけでもたらされたのでしょうか。並外れた強搾取という問題があるのではないか?

 『前衛』4月号は、「過労死をうむトヨタの異常」を特集し、岡清彦氏の「゛世界のトヨタ〃追いつめた家族の訴え」、田巻紘子氏の「トヨタ過労死裁判勝利判決の意味と重み」、猿田正機氏の「トヨタ生産方式・トヨタウェイと『働かせ方』 労働者はなぜ追い込まれるのか」の三論文を掲載しています。前二者は、夫の過労死認定を求め勝利した内野博子さんの裁判闘争を扱っており感動的かつきわめて意義深いものです。猿田論文はこの裁判闘争をにらみつつ、トヨタによる労働者の「働かせ方」を詳細に解明しており、そこに見られる実に巧妙な「動機づけ」管理によって労働者(であるけれども自己認識としては「トヨタマン」)に長時間・過密労働を受容させるメカニズムはまさに驚異的であり、トヨタの成功の秘密がよくわかります。

 猿田論文の見事な内容をうまく要約することはできず、本当は直接読んでもらう他ないのですが、下手ながらも紹介します。トヨタの「動機づけ」管理には3つのポイントがあります。第1は、「年功賃金」「企業福祉」「終身雇用」「企業内教育」など経済的刺激により企業帰属意識を植え付けることです。昇格・昇進・昇給管理もきわめて巧妙です。第2は、小集団管理としてのQCサークルや創意工夫提案制度でやる気を引き出し続け、人員を最少化し出勤率管理を徹底していることです。第3は、労働のフレクシビリティの利用です。日本的に柔軟な「働かせ方」に加えアメリカから行動科学を輸入して整備しています。

 さらに猿田論文では、高品質で低コストな商品を短期間に納入することを可能にしたトヨタの人事管理として6つの注目点が上げられています。(1)労働者の「改善活動」への「参加」によって、徹底したムダの排除を実現した。(2)定員制を打破した「少人化」とそれを実現するための「多能工化」教育。(3)欧米では技術者が作っている標準作業票や作業手順書をベテラン労働者も加わって作成し、作業効率を大幅に上げている。(4)先述の「動機づけ」管理の巧妙さ。(5)労働者が不満を顕在化させることなく長時間・過密労働に従事することを可能にした。(6)関連下請企業を利用して約30万人もの労働者を分断・差別管理して低賃金と劣悪な労働条件を実現した。

 これらを実現するには労働組合の協力が不可欠であり、トヨタ労働組合は「共通の価値観」を労使宣言するほど異常に徹底的な企業内労組となっており、内野健一氏の過労死問題の解決に協力することはありませんでした。

 また先述のようにトヨタの「動機づけ」管理・人事管理は、「日本的経営」や日本的労使関係を利用しつつ、アメリカの行動科学的労務管理を導入したもので、全体としては新自由主義的な短期利潤至上主義的経営姿勢とは一線を画するものだといえます。トヨタが財界活動を通じて自民党政府に新自由主義的構造改革を推進させて、日本を悲惨な労働社会に変え、福祉も削減させることで、「トヨタの正規労働者の『経済的地位』が社会的・地域的にも、社内的にもより高まった」(121ページ)というのは予期せぬ皮肉な結果かそれとも意図された顛末なのだろうか?

 トヨタの成功はしかしながら内野健一氏の過労死を生みました。もちろん氷山の一角でしょう。トヨタ過労死裁判では、熊沢誠氏の言う「強制された自発性」(『前衛』田巻論文114-115ページ)によるQCなどの「自主的」活動が業務と認定され、多大なサービス残業が断罪されました。また深夜二交代勤務のストレスも認定されました。判決に対する国の控訴断念を受けて、元労基署長で、全国労働安全衛生センター連絡会議(東京)の井上浩顧問は「QC活動はトヨタのカイゼンの原動力で、なくすことはないだろう。ただ、QC活動に残業代を払うとコストアップになり、国際競争力が落ちる。強制と受け取られないやり方に整えていくのではないか」と指摘しています(「朝日」名古屋本社、2007年12月15日付)。判決の影響は日本産業全体にも及ぶはずであり、国際的な反響も大きくなっています。長時間・過密労働、サービス残業、過労死を基礎として成立してきた今日の日本資本主義の生産力のあり方そのものが断罪されたのです。指摘されるようなごまかし的対応ではなく、労働者をまともに取り扱い、その生活の豊かさによってリードされる国民経済への転換が大企業の社会的責任としても求められますし、そのチャンスでもあります。もちろんそのようなことを大企業に勝手に期待することはできないので、批判を強め、政府には民主的規制を要求しなければなりません(「しんぶん赤旗」3月28日付によれば、小池晃議員の質問に対して舛添要一厚生労働相は、QCサークルなどの小集団活動を労働時間として算定する、と答弁しました)。さらには、猿田氏の指摘するように「トヨタによる『人づくり』=トヨタマンづくりと正面から向き合」い「トヨタの『動機づけ管理』に飲み込まれず、労働者の立場から仕事に『やりがい』、生活に『豊かさ』を生み出すシステムをどう構築するか」(128ページ)を労働者・労働組合の課題とするような高い運動の志向がトヨタに限らずすべての現場に求められています。

 以上のように見てくると、トヨタは確かに多国籍企業だから各国政府や世界市場に向かっては新自由主義的グローバリゼーションを推進しているけれども、その内部は別の論理で固めているといえます。資本主義経済においては、資本の専制支配の貫徹した企業が、理念的には自由・平等な市場において競争します。新自由主義では労働コストダウンが最優先され大量の非正規雇用が活用されます。これはいわば企業共同体の中に労働市場を部分的に導入することになり、資本の専制支配にほころびが生じます。トヨタももちろん非正規雇用を活用していますが、正社員による企業共同体はがっちり固めています。おそらくビッグ3などは、雇用だけでなく、株主資本主義の考え方による短期的利益優先志向にとらわれるなどして、経営姿勢全体が新自由主義に侵されて専制的な企業共同体が弱体化したのではないでしょうか。トヨタの場合は御用組合の存在もあり、現場からの提案活動が効果的に組織され、擬似的民主共同体企業という性格でさらに強固な資本の支配が貫徹しています。新自由主義は短期的利益至上主義で、結果として中長期的には生産性の向上と搾取強化に成功しなかった、あるいは少なくとも別の方法をとったトヨタには敗れた、ということができます。さらにいえば新自由主義は金融肥大化に対応して金融的収奪の技術には熱心だけれども、米国に見るように製造業などの資本への包摂には失敗し空洞化を招いたともいえます。だとすれば「大企業批判」は新自由主義批判一本槍ではいけないということになります。トヨタ生産方式がグローバルスタンダードになりつつあるとき、現行のグローバリゼーションのあり方に対する批判も新自由主義批判だけで済ますことはできません。最近、雇用問題での潮目が変わり、キヤノンなど大企業が直接雇用を回復しつつあります。「さらば新自由主義」という言葉も聞かれるようになり、小泉「改革」当時とは様変りともいえます。もちろん財界が手をこまねいてずるずる後退するとも思えませんが、とりあえずは労働者などの運動の成果だといえます。まともな労働に基づく内需型の国民経済への転換のチャンスです。しかし仮に新自由主義型の不安定雇用を改善できたとしてもカローシ型労働は残っており、その克服が引き続く課題です。日本では新自由主義的構造改革の始まる前から過労死とサービス残業はすでにありました。フランスでは残業の上限規制によりそれ以上は禁止されており、サービス残業はありません(『前衛』岡論文、101ページ)。新自由主義という上層を剥がしても日本資本主義の厳しい地金が出てくるのです。

 以上、冗長で錯綜してしまったので、「大企業批判のあり方」に関する強調点を再度提示します。一つ目は、資本の生産過程における搾取と資本間競争とを総合的に見ることが大切だ、ということです。二つ目は、大企業批判は新自由主義批判一本槍ではダメで、地金としての日本資本主義のあり方をも対象にする必要がある、ということです。後者についてはすぐ上で触れました。以下では前者を敷衍します。

 「大企業も競争で大変だ」とか、小泉元首相の国会答弁のように「大企業は金の卵を生む」といった弁護論は、結局は今日の大企業の野放図な利潤追及を放任したり、政策的に優遇したりするためのものですが、大企業の利潤からの再分配だけを主張するのは生産的な経済論議ではない、という一面の真理は含みます。それに対する回答は私たちの経済民主主義論の中にすでにあると思います。私たちが当面求める資本主義の枠内での経済民主主義は、大企業の生産力や存在意義は認めた上で、利潤追及の暴走を民主的に規制して、その存在にふさわしい社会的責任を果たさせる、というものです。単に大企業に対する「ものとり主義」(という表現は適切ではないが)ではなく、生産力発展などによる社会貢献を評価することも視野に入っているはずです。こうした観点に見合った大企業批判においては、「大企業のぼろ儲けと人々の貧困の増大」という結果批判だけでなく、それをもたらす過程としての「資本の生産過程における搾取のあり方と資本間競争のあり方」という両面をそれぞれさらに分析的に批判することが必要になります。

 上記のトヨタ生産方式を例に検討します。個別資本内での生産性の上昇と搾取の強化とのあり方については、新自由主義的な雇用破壊とは一線を画し、労働者の創意工夫を引き出している点などについては一定の評価が可能ですが、労務管理の総体としては、サービス残業を含めて長時間・過密労働を制度化し、過労死に至らしめる非人間的なものです。資本間競争のあり方については、新自由主義的な短期的利益至上主義を排し、生産過程のムダをカイゼンして、高品質で安価な製品を提供することで勝利している点などは評価できますが、これらが上記の非人間的労働を前提にしていることは見逃せません。

 資本間競争において新自由主義的経営が敗北するとすれば、積極的意義がありますが、トヨタ生産方式がグローバルスタンダードとして競争が展開されることは非人間的労働のグローバル化であってとうてい容認できません。その帰結は、資本と賃労働、そして大企業と中小企業とにおける富と貧困の格差構造の固定化であり、さらにはその再分配による是正を怠り弱肉強食を強化するような逆立ち経済政策を推進する政府の強化でしょう。資本主義である以上、資本の搾取と利潤追及による競争とは避けられませんが、その両面に対して、非人間的労働を規制し、労働コスト削減でない生産性向上の工夫によって適切な使用価値を供給することによる競争へと改善していくことは可能でしょう。こうして新自由主義的な雇用や競争のあり方を克服し、トヨタ生産方式の中の積極的要素を人間的労働に包摂していくことができるなら、それは社会主義の一歩手前とも言えます。そこまで行かなくても、企業における資本の専制支配、つまり現行の経営権の確保という資本主義的秩序の枠内でも、上記の高い目標を目指した企業内外の労働者と人民の運動は、政府に適切な規制を実施させる力となるでしょう。

 内野博子さんはトヨタ過労死裁判の判決を受けて「世界一の自動車メーカーは、社員や家族、地域を大切にすることでも世界一になってほしい」(岡論文107ページ)と語っています。この言葉はきわめて重い。これを「甘い夢想」と切り捨てるようなシニカルな姿勢は単なる空語のもてあそびであって大企業批判ではありません。大企業に対してこの要求を突きつけることこそ経済民主主義の立場からの大企業批判の真髄だろうと思います。この要求を実現するには、不断の社会的批判と内部の労働者の闘いとが結合されることが必要です。「世界のトヨタ」においても、闘う労組「全トヨタ労働組合(ATU)」が「2年前に下請け・孫請けの社員や期間工・パートなどトヨタ関連企業で働くすべての人を対象に」結成され、今年1月20日には「ATUをサポートする市民の会」も結成されました(日本ジャーナリスト会議東海地区連絡会議「東海ジャーナリスト」第77号、2008年3月15日付)。困難な闘いでしょうがその意義は限りなく大きいといえます。

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 初めのほうに「現代資本主義の最先端の現象と現場に通じてしかも本質をはずさないという高度な理論的達成が求められます」と書きました。以上ではトヨタを例に製造業においてそのような試みと思われる諸論稿を紹介しましたが、新自由主義の時代としては金融業界をはずせません。高田太久吉氏の「資産証券化の膨張と金融市場 サブプライム問題の本質」もそのような力作であり、「資産証券化の進展は金融システム全体のリスク負担能力とリスク評価・管理能力を高め、金融システムの効率性と安全性の向上に大きく貢献する」(88ページ)という新自由主義的言説にしっかりつきあい批判しています。本当は熟読し検討したいところですが、今月は時間と力が尽きました。

 藤田英典氏の「和田中『夜スペ』 何が問題か  地方分権・学校裁量権の暴走と公教育の危機」(『世界』4月号)は、俗見と世間の風潮に流されやすい教育問題において、教育の原点に立って良識的判断を取り戻すため、私たちとしても学んでいきたい論文です。
                                   2008年3月29日





2008年5月号

 20世紀末から世界を席巻する新自由主義的グローバリゼーションの潮目が変わりつつあるかどうか。それにまつわる3つのトピックを取り上げます。

 (1)世界の進歩勢力の熱い目が注がれる中南米の変革のゆくえを探るには、やはり社会の土台としての経済のあり方を捉えなければなりません。一口に左派政権とはいってもその性格は国により様々です。左翼的性格の強いベネズエラと中道左派のアルゼンチンとが良好な関係を築いている基礎には、「アルゼンチンのIMF融資返済を可能にしたのは、ベネズエラによるアルゼンチン国債の購入であった」(毛利良一「中南米の変化と地域経済統合 左派政権の群生と域内エネルギー・金融協力」167ページ)という事実があります。両国の主導により2007年12月9日、七ヵ国による南米銀行が設立されました(同168ページ)。またベネズエラが主導して中南米のエネルギー協力が進展しています(同162-166ページ)。中南米の地域経済統合を主導しているのが、産油国で資金力のあるベネズエラであり、その大統領がカリスマ的な社会主義者チャベスである、ということが中南米の変革に確固とした性格を与えているようです。これは政治と経済の積極的な関係ですが、楽観できない経済的要素もあります。ベネズエラに次いで左翼的なエクアドルとボリビアですが、エクアドルの法貨はドルであり、ボリビアも事実上のドル化が世界最高レベルに達しています。こうして「政治的にアメリカ離れを声高に叫んでも経済の根底でアメリカの支配から逃れるのは困難である、という問題を突きつけ」(169ページ)られており、「ボリビア経済における金融政策は、金利政策にしても通貨供給量政策にしても、政府が影響力を公使し得ない米ドルの存在によって大きく制約される状態から、脱出が困難なことを認識しておく必要があ」ります(170-171ページ)。

 毛利氏は慎重に結論を述べます。中南米において、内外の妨害勢力に左派政権が打ち勝つためには「マクロ経済を安定化させ」「『石油資源高騰ボーナス』が利用できる間に、どれだけ社会連帯を強化し、ゆり戻しや後戻りを許さない制度づくりを進められるかが鍵となろう」(171ページ)。

 (2)グローバリゼーション下の大競争によって、世界的に賃金が下落し物価上昇も抑えられてきましたが、最近は食料・資源・エネルギーなどの価格が上昇しています。その原因としては、供給側の制約事情、新興国による実需の増加、投機資金の流入などが指摘されています。高橋文夫氏の「究極の資源産業大再編」(および同氏「製鉄用原料の急騰 その背景にあるもの あくなき利潤独占願望」「しんぶん赤旗」4月19日付)では、資源企業の再編・独占化による市場価格支配が指摘されています。自由競争が独占に転化するという法則は現代のグローバリゼーションにも貫いているのであり、新自由主義の規制緩和政策によって競争が激化することを一面的に強調するのでなく、独占化の進行との両にらみで分析することが必要な段階になってきたということでしょう。

 (3) 4月11日に開かれたG7の共同声明を受けて、友寄英隆氏は「新自由主義」的金融政策からの転換の可能性に言及しています(「しんぶん赤旗」4月19日付「経済時評 金融危機 『守旧派』と『改革派』」)。ここで注目されるのは「守旧派」と「改革派」という、新自由主義者が好んで使う(我こそは正義の味方「改革派」であり、反対側は左右を問わず「守旧派」である、という)用語法をあえて逆転して、新自由主義派を「守旧派」と決めつけていることです。確かに「金融自由化」はもはや「従来の路線」になったのであり、新たなルールある国際金融秩序をめざすのが新しい路線であるので、攻守ところを変えた現状ではこれが正しい用語法です。これは新自由主義に支配されたブルジョア・マスコミに対する挑戦状であり、言葉の闘争の最前線です。

 両派の対決点も実に簡明に確認されています。サブプライムローン破綻に発した今回の米国発の金融危機の本質は、新自由主義の「金融自由化」「金融証券化」路線の破綻であり、「製造業などの地道なモノづくりによる価値生産ではなく、投機的、寄生的な『金融的繁栄』を追い求める経済活動の行き詰まりが原因です」と指摘されています。この路線を転換するのか否かが対立軸です。この立場がはっきりしているので、白川方明日銀総裁の「日本の金融危機の経験とノウハウ」を役立てたい、という発言がピントはずれであり、榊原英資早大教授の公的資金投入論が問題の解決にならないということがすぐに理解できます。マスコミで取り上げられるこうした議論の誤りを的確に判断できるところに科学としての経済学の魅力があります。

 公的資金の投入は即効性とか「やむをえない」とかで容認されやすいのですが、根本問題である金融の投機化・寄生化という病巣から目をそらし、それを取り除かず温存することになります。無規制で勝手な金融活動を認めさせ、いざ危機になれば助けを求め、それに対していち早く助け船を繰り出す、という暗黙の関係が、ウォール街とワシントンとの癒着体制であり、人民に自己責任を説教する連中の実態がこれです。新自由主義を市場原理主義と呼ぶのは不正確な部分がある、と私はこれまでも繰り返してきましたが、公的資金投入とは究極の市場原理破壊です。彼らの辞書には市場原理はご都合主義に従属すると書いてある。要するに新自由主義の本質は利潤追及のためなら何でもあり、ということであり、資本原理主義とでも呼ぶほうがぴったりくるでしょう。

 友寄氏によれば、EUは銀行健全化に公的資金を活用することには反対しており、投機的な資本市場の透明化、金融機関への規制強化を主張しています。米財務省でさえも、FRBの監督機能を強化して金融証券化に対応する改革案を出しています。ここから友寄氏は、金融政策では「改革派」が主流になりつつあり、今回の金融危機を抜け出すときに、世界は「ルールある国際通貨・金融秩序」へ向けて、一歩踏み出すことができるではないか、と展望しています。そこまで楽観できるかどうかわかりませんが、新自由主義的グローバリゼーションのあり方が曲がり角に来ていることは確かでしょう。

 (4)村岡俊三氏の「マルクスの『グローバル経済』論と現代」は今日のグローバリゼーションを考える際にも必要な基礎理論を整理した論稿です。難しいので一読してすぐ理解できるものではありませんが、現状分析をより深めるためには、このような研究を考慮することが大切だと思います。

 

 友寄英隆氏の「『資本論』第一巻を読んで「目から鱗が落ちる」20の事例」では、価値の実体は、人間労働の「対象的形態」であること、とされ、価値の実体を労働そのものとする(刑部などの)見解は誤りであるとされます(116ページ)。友寄氏は3月号の川上則道氏の「『資本論』の「価値」概念 価値の物質性について」の参照を指示しているので基本的に川上論文と同じ立場なのでしょうが、川上論文に対してはすでに3月号への感想において批判を書いておきました。遺憾ながら『資本論』の叙述そのものを詳しく解釈する余裕を持たないのでいけませんが、価値実体が労働そのものか、あるいは労働の対象的形態なのか、ということが重大な論点だとも思えません。川上論文において「労働量と生産物との一体化」が強調されているのも、それによって一物一価原理を(私から見れば限界を超え誤って)適用して価値量と物量との平行的発展を導くための伏線とされているようです。つまり「価値の物質性」を持ち出してくる経済学的に実質的な意味内容は、川上論文では一物一価原理の登場準備に尽きるように見えます。生産的労働論への伏線という意義もあるのかもしれませんが(あるいはその他にもあるかもしれませんが)、価値実体論の次元ではそのように見えます。このように分析の切り口をクリアにして問題を整理すれば、大切なのは、一物一価原理の適用範囲だということになります。ここに川上氏と私との違いがあります。

 さらにいえば、価値論の対象は何か、という問題があります。商品経済において一物一価原理にさらされる「労働の対象的形態」としての価値はもちろん重要な分析対象です。しかし「価値を形成する」「流動状態にある人間的労働力、すなわち人間的労働」は価値論の対象ではないのか。私はこれも価値論の対象であると考え、「投下労働」として捉えます。通常は市場競争を経た社会的平均的労働が投下労働とされますが、それ以前の、その捉え方からはこぼれ落ちる、現実の生の投下労働から、価値論は出発しなければならないと思います。価値論の対象は、この投下労働から価値・生産価格・市場価格へとつながる重層的な論理次元の総体でなければなりません。

 それに関連して、(狭義の)経済学の(上向法の)出発点は商品である、という通念は誤りだと思います。商品の、商品経済の本質を明らかにするには生産一般にまで下向しなければなりません。商品を交換関係の中で考察するだけではそれはわかりません。マルクス経済学の教科書でも多くは史的唯物論を説明し、商品経済とは何か(生産手段の私的所有と社会的分業)を明らかにしてから、商品の二要因の分析に進んでいます。これは何も広義の経済学をやっているのではなく、資本主義経済の、商品経済の本質を明らかにする必要から行なわれている措置です。ちなみに本号の金子ハルオ氏の「科学としての経済学・『資本論』の魅力を語る」もそのようになっています。もっといえば『資本論』第1部第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」では、「ロビンソン物語」から中世の共同体、未来の共産主義社会まで、歴史を自由に移動することで、人間社会一般の存立条件との関連で商品経済とは何かを解明しています。商品が使用価値と価値という二要因を持つという「現象」の本質的意味も解明されています。これを端的に説明したのが有名なクーゲルマンへの手紙だといえます。労働価値論の意味を本質的に明らかにしたのはこの物神性論であり、教科書はこれを中心に説明すべきで、ここが軽視されると労働価値論はドグマのような印象を免れません。

 坂田昌一氏によれば「一般的にいって、どんな理論のなかにも偶然的要素というものは必ずふくまれており、その偶然性を必然性にまで高めようとすれば、その理論が対象としている階層よりもさらに深い階層がさぐられねばならなくなる」(『新しい自然観』国民文庫1974年、86ページ)。「形の論理」を「物の論理」に還元する、ある階層の「形の根拠」をより深い階層の「物の構造」として捉える、というように坂田氏は認識の深化を描いています。これになぞらえれば、商品における使用価値と価値という「形」を、私的労働と社会的労働との関係あるいは労働の社会的編成という「構造」の反映として解明したのが物神性論ではないかと思います。
                                   2008年4月21日




2008年6月号

 残念ながら見ていなかったのですが、5月18日、テレビ朝日系「サンデープロジェクト」に志位和夫共産党委員長が出演して「資本主義の限界」をテーマに語ったそうです(「しんぶん赤旗」5月19日付)。その中で「過度な投機」を規制することに対しては、さすがに他の出演者からも異論は出ていなかったようです。世論を気にせざるを得ないマスコミにおいてはうべなるかなです。しかし世界的な政治経済の現実においては、昨年のサミットでドイツなどからヘッジファンドへの規制の提案が出ても、米日が反対する、という状態です。もちろんそれは両政府が金融関係の諸資本の利害を代表しているからそうなるのですが、イデオロギー的には新自由主義に支えられた確信があるのでしょう。「世間の『俗論』に惑わされることなく市場原理を貫徹するのが正しい」。投機に荒れた現実経済と「美しい市場原理」とはいかなる関係にあるのか。

 5月号、相澤幸悦氏の「投機社会と経済学の課題」は全体としては、投機を規制して、実体経済の健全な発展に資する金融への変革を主張していますが、ヘッジファンドについてはこう述べています。

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 ヘッジファンドは、市場のゆがみを利用して売買を行ない、適正価格に収斂していく過程で利益をあげるというのが実態である。     …見出し略…

 通貨・経済危機などが生じるたびにヘッジファンドが槍玉にあげられる。EMSの危機やアジア通貨危機などは、ヘッジファンドに経済政策と為替政策の齟齬を突かれたものである。ヘッジファンドは厖大な利益をあげたが、その後、この齟齬は、徐々に解消された。

 ヘッジファンドの経済的機能というのは、割高・割安な金融商品に投資して、適正価格にもどす役割、経済政策の不合理さを是正するという点にある。すなわち、金融市場に流動性を供給するとともに、市場が一方的に動くことを防止する役割がある。  65ページ

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 ここだけ読めば、ヘッジファンド礼賛に見えますが、同ページに「ヘッジファンドなどの投機的な買いによって」実需を越えて一次産品や原油の価格が上昇し、「諸国民の生活と経済は深刻な被害をこうむっている」とも書かれています。いったいどちらが正しいのか、まったく不可解です。確かに投機そのものは市場の機能につきものであるということからいえば、ヘッジファンドの機能についての上記の叙述がまったく誤りだともいえないでしょう。しかしここからはヘッジファンドが世界経済を混乱させている根拠がわかりませんし、したがってヘッジファンドを規制する論理も出てきません。とにかく現実は酷いのだ、というだけでは理論の無力さをさらけ出すことになります。「現実が間違っているのだ。市場原理が貫徹できるように不純な現実を純化せよ」というのが新自由主義的構造改革の御託宣ですが、私たちがこのようなブルジョア教条主義を嗤うためには、理論と現実の一致を実現しなければなりません。つまりグローバリゼーション下の投機の現実を批判的に説明しうる理論を提出することです。

 もちろん残念ながら私にそのような能力はありません。理論から現実に迫るに当たってとりあえず思い浮かぶのは、短期・中期・長期の区別とか、市場観における単純商品生産表象と資本主義生産表象との関係といった抽象的な観点くらいです。そういう意味では恐慌論の中に何かヒントがないかと思っています。

 価格メカニズムと不均衡化について、岡稔氏50年前にこう述べています。

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 価格は多かれ少なかれ価値から乖離することによって、商品生産社会にたえず発生する不均衡を反映し、そうすることによって均衡化の運動をよびおこす媒介者としての役割をはたすことができるのである。調整はつねに事後的であるほかないが、とにかく価格はこの不断の事後的調整において決定的な役割をはたす要因である。したがって、一定の状況のもとにおいて、価格と価値との乖離を累積的に拡大するような力が作用したばあいには、この事後的調整機構が一時的に麻痺して、生産過程の矛盾が隠蔽され、累積されて、重大な混乱をともなうことなしには調整のつかないほどに進行することが可能である。

     ……中略……

 資本主義的商品生産における不均衡の事後的調整の唯一の指標である価格が、価値から乖離しうるということ、つまり一定の事情のもとでは、ミスリーディングな指標になりうるという点に、矛盾の累積機構の最も深い基礎があるといえそうである。

 「恐慌理論の問題点」(『資本主義分析の理論的諸問題』所収、新評論、1975)92ページ。初出は『講座恐慌論』第3巻、東洋経済新報社、1958。

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 ここには価格メカニズムつまり市場原理の正常な進行が生産過程の重大な混乱に帰結するという逆説の可能性が示唆されています。価格は一方では均衡化に作用するけれども、他方では「ミスリーディングな指標」として「矛盾の累積機構の最も深い基礎」ともなりうるのです。しかしこの錯綜した論理をまとめ上げて、資本主義的市場における価格の役割と恐慌=産業循環との関係を解明するのは難問です。

 緻密な論理構成でそれを達成したのが、松岡寛爾氏の「静かな均衡化と暴力的均衡化 競争論における試論」(『景気変動と資本主義』大月書店、1993、所収、初出は『社会科学』/静岡大学文理学部研究報告/13号、1965、『産業と科学』別冊、1965)ではないかと思います。

 松岡論文では、まず分析の論理次元が自覚的に確定されています。需給一致、価値・価格一致を前提に長期平均を扱う「資本一般」の次元ではなく、需給不一致、価値・価格不一致の短期的動態を含めてより具体的な分析を扱う「競争論」の次元に焦点が当てられます。そこでは超過需要(マイナスのそれ=超過供給をも含んだ意味の用語)の動きを丹念に追うことを通して、「日常的諸変動・局面的諸条件・長期的諸条件の差異と連関、これらの織りなす立体的動的過程、静かな均衡化と暴力的均衡化の差異と連関」(93ページ)が把握されています(日常的諸変動・局面的諸条件・長期的諸条件は価値論的にはそれぞれ市場価格・調整価格・生産価格に対応する)。つまり恐慌=産業循環の一周期を長期的過程とすれば、論文は短期・中期・長期の視点をもれなく含んで資本制経済の動態を明らかにしているのです。また資本制経済は、静かな均衡化(価格メカニズム)と暴力的均衡化(恐慌)という二つのメカニズムを持ち、両者は不可分に絡み合っていますが、論文はその全体像を捉えています。この到達点から見れば、様々な理論の持つ一面性や偏向が明確になります。

 上述のように論文は資本一般と競争との論理次元を区別して、競争論での展開を選ぶことで分析の場と用具を確定しています。方法的にそれとならんで重要なのが、単純商品生産と資本制生産との区別です。静かな均衡化の本来の作用基盤は単純商品生産です。そこでは価格は日常的に変動するけれども、価値によって直接的に規定されています。超過需要の発生が一時的・偶発的であって、継続的・構造的ではないからです。ところが資本制生産においては、諸資本の競争の下、個別資本にとっては「蓄積のための蓄積」が強制法則として作用し、超過需要が継続的・構造的に発生し、生産価格が市場価格を直接に規制することはできません。本来の作用基盤を破壊された静かな均衡化は資本制生産に適合します。それは日常的諸変動を局面的諸条件にむけて調整します。つまり市場価格は調整価格を中心に運動します。ところで調整価格は、超過需要を継続的・構造的に発生させる資本の本性を反映するものだから、静かな均衡化がそこにむけて調整するということは、逆に本質的・長期的視点での不均衡を累積します。それはもはや静かな均衡化によっては解消されず、やがて暴力的均衡化を招来します。これは結果的には生産価格による調整という意義をもちます。

 世間で市場原理が語られる場合、単純商品生産を調整する静かな均衡化の万能の機能が思い浮かべられ、それで資本主義的市場を判断しているようです。だから市場原理を批判する場合でも多くは、あくまで複雑な現実との対応関係において批判しているのであり、それ自身が資本の本性を反映して不均衡を累積する市場であるという捉え方は弱いかもしれません。松岡氏は「静かな均衡化本来の作用を、そのまま資本制生産の分析にもちこむようなことをしてはならない。この誤りをおかすときには、Say's lawをとおして資本制生産をみることになり、単純商品生産表象からえられた理論で資本制生産にたちむかうことになる。それでは、資本の規定性から生じる諸矛盾をみおとすことになる」(53ページ)と述べています。実は、物神性世界を現象的に記述するという近代経済学の性格を考慮すれば、「単純商品生産表象によって資本制生産を裁断する」という誤りは恣意的というよりは現実的根拠をもつといえます。なぜなら本質的には商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層構造をもつ資本制経済が、領有法則の転回によって、単に商品=貨幣関係による平面的な「市場経済」として現象するからです。もっとも松岡氏はマルクス経済学においてもそうした誤りがあると指摘しているのですが…。

 ここで初めの問題意識に立ち返ります。ヘッジファンドなどによる投機が市場における正当で有効な活動であるという理論と、投機によって荒れた世界経済という現実との関係をどう考えるか、が課題でした。もちろん本来は投機の理論と現実そのものを研究せねばなりませんが、不案内な私は恐慌論の労作にヒントを探しました。そこからは次のことがいえるのではないでしょうか。市場における投機の機能を理論的に考察する場合、単純商品生産表象による結論を資本主義的市場にそのまま適用しているのが、理論と現実の不一致の原因ではないか。単純商品生産表象からは理論的に静かな均衡化を期待される投機は、実際には資本主義的競争の中では不均衡の累積と暴力的均衡化へと働くのではないか。そもそも投機は短期的差益を追及するものだから、投機が想定する適正価格とは、実体経済の安定を反映するものではなく、不均衡の中での一時的・相対的安定値に過ぎないのではないか。それはアナロジカルには、産業循環論において松岡氏が局面的諸条件を反映するとした調整価格に相当するものではないか。

 以上は資本主義的市場の機能という視角からのアプローチであり、成功するならば基礎理論的意義があります。この点の解明なくしては、新自由主義を根本的に批判して投機を規制するしっかりした理論的根拠が得られません。もちろん現実政策としては、実体経済の当面する混乱を収めるために投機を規制する、というだけでも理由としては成立します。しかし喉元過ぎれば「それは本来の市場を歪めるものなので、すぐに元どおり自由に戻すべきだ」という「正論」が蒸し返され、新自由主義的「旧体制」の金融活動(真の改革派としては攻勢的にこのように決めつけることが必要です)が温存されます。過度な投機に対する批判は、単に倫理的でなく、経済理論的にもいっそう追及されねばなりません。

 とはいっても、恐慌=産業循環論からの価格メカニズムの解明は、資本蓄積運動つまり実体経済の動態に規定された下での解明であり、その前提でも暴力的調整は免れない、ということです。投機擁護論は価格メカニズムへの信頼ですが、それに対して、価格メカニズムは実体経済に規定された次元でもその枠内での暴走を免れない、ということを以上では指摘してきたのです。これは問題の大切な土台です。ところが問題の現実的深刻さはその上にあります。それは実体経済から遊離した膨大な過剰貨幣資本の運動であり、そこでの投機の乱舞です。

 したがって現状分析としては、以上の機能的アプローチからさらに制度や構造からのアプローチに移行する必要があります。1970年代に世界資本主義の戦後高度成長が破綻し、初期IMF体制が崩壊し、米国が野放図な金融自由化を進めた上に、20世紀末、社会主義体制の崩壊などによる金融市場の拡大が重なって、実体経済への投資先を失った過剰貨幣資本は大規模な投機的金融活動になだれ込みました。6月号、井村喜代子氏の「サブプライムローン問題が示すもの 実体経済から独立した金融活動」はこれを解明しており、投機を中心とする金融活動の現状分析から現代資本主義論への重要な問題提起となっていますが、残念ながら今月はもはやしっかり読む時間がなくなりました。上述のことと重ねれば、投機を擁護する理論は二重に誤っているといえます。(1)実体経済との関連では、資本制生産の恐慌=産業循環機構への無理解から、単純商品生産表象によって投機の機能を理解し、静かな均衡化を絶対視して、実際には投機が不均衡を増幅するように働く可能性を看過している。(2)世界資本主義が過剰貨幣資本を累積して、金融活動そのものが実体経済から独立するような段階となったことの深刻な意義を理解できずに、相変わらず投機の均衡化作用を過大視している。

 やはり6月号、米田貢氏の「投機社会と金融論」は労働価値論の基本から金融を説明しており、金融が肥大化・複雑化した現代にあっても(というか、そういう時代だからこそ)人々の共通認識にしたい内容です。ただしそこでは基本的には『資本論』をなぞる形になっていますが、生産的労働論の難しさを思うと、金融そのものは価値を生まないことを多面的にさらなる説得力をもって説明できないか、という気もします。また投機による莫大な利潤と貧困の蓄積とを収奪関係として解明できないか、とも思います。

 中谷武氏の「経済学の学び方 賃金と利潤を中心にして」は『資本論』をなぞるようなマルクス経済学の教科書的叙述ではなく、近代経済学の成果にも依拠して賃金や利潤などの経済学の課題について解説した論文です。ただ数学に疎く(この論文に難しい数式があるわけではないけれども)不勉強な私には何となく違和感があります。マルクス経済学では、抽象から具体へ重層的な理論の体系性が重視されますが、近代経済学では様々な経済諸量が因果関係や相互依存関係などとにかく同一平面に並べられているように思われます。それは無概念的だともいえるのですが、経済学の究極の課題である現状分析においては直截簡明に役立つという意味では実質的な成果を生む場合もあるでしょう。そうした姿勢との近親性をもって、マルクス経済学についての数理経済学的研究ではおそらく『資本論』の体系性にこだわることなく諸概念の関係性について究明されてきたのかもしれません。このへんは無知からくる憶測に過ぎませんが、以下ではマル経の古い教科書に慣れた頭で新しい「経済学の学び方」に接するとき注意すべきかもしれない点について述べます。せっかくの論文に対してその内容についてよりも、以下のように用語ばかりに言及するのは誠に失礼ですが、ご容赦願います。

 つまらないことを言うなと叱られそうですが、「実質賃金率」と「利潤率」とでは同じ「率」でも意味がちがいます。論文では初めに実質賃金率と利潤率の相反関係が指摘されますが、後では実は両者が同時に増大する可能性もあることが指摘されます。もしここで両者を価値生産物=付加価値(V+M)に対する賃金や利潤の割合だと誤解すると理解不能になります。しかし両者の相反関係という指摘は、言葉面とも相まって、そういう誤解を誘発しやすいともいえます。もちろん中谷氏は初学者むけに、賃金に「『率』をつけるのは一時間当たり、一日当たり、あるいは月当たりというように一定の時間に対して支払われる賃金という意味である」と親切に説明しています(169ページ)。また170ページの利潤率の定義式を、マルクス用語に直せば、不変資本に対する利潤の率となります。剰余価値率と違うのは当然としても、マルクスの利潤率とも違って分母に可変資本もなく、付加価値部分とは縁が切れていることを心得る必要があります。

 経済理論の有効性を高めるために実質賃金概念が出てくるのは当り前と思われるかもしれませんが、留意すべき点もあります。実質賃金率は「その賃金でどれほどの財貨が入手できるのかを示す」ために「名目賃金率を物価指数で除したものである」(169ページ)と定義されているように、物価変動を反映します。物価は、<(1)商品価値(2)商品の需給関係、および(3)通貨価値>の変動、つまり実質的変動と名目的変動を総括的に反映した現象です。物価が大きな問題となってきたのは不換制により通貨の減価=インフレが恒常的になって以来です。しかし物価指数そのものはこれらの要因を分析的に示すものではありません。したがって実質賃金の動きを評価する際にもその点に気をつけなければなりません。

 「労働者がいくら強くて賃金(貨幣賃金率)を上げても、生産物需要が旺盛で財の価格が上がれば、実質賃金を上げることは出来ない。…中略…ただ急いで付け加えておかなければならないのは、市場メカニズムが重要だとしても、賃上げが無意味だということではない。市場の反作用を受けるにしても、賃上げに成功するとさしあたり一定期間は高い実質賃金率を実現できるからである」(176ページ)という中谷氏の主張の前半は、労働組合の賃上げ要求に対する資本家の批判として伝統的なものです。マルクスは『賃金、価格、利潤』においてそれを論駁しています。マルクスは市場メカニズム・市場の反作用を知らないのでしょうか。そうではなくてマルクスと中谷氏とでは市場像が違うということでしょう。『賃金、価格、利潤』においては、賃金の全般的な上昇による消費財需要の増加で価格が上がるにしてもやがて供給が追いついて結局は価格は元に戻り、結果的には賃金の上昇と利潤の減少となる、とされます。通貨価値が一定の前提下では、ある程度の期間を置いて見れば、賃上げ闘争の効果として、階級間の分配関係の変更に結実すると見ています。中谷氏の場合は観点が短期的であり、しかも通貨の減価が前提されているように見受けられます。インフレ過程における賃上げの一時的効果が表象されているようです。

 実質賃金率を経済諸量の関係式に導入するということは、物価変動を反映させることであり、通貨価値の変動を含むことでしょう。ただし物価変動の原因・本質は上記のようにいくつかありますが、現象的にはどのような場合も「市場メカニズム」の需給関係を介して生じます。数式が表現するのはその表面でしょう。私たちがそこから経済学的含意を読み取るときには諸概念の意味を忘れずに多面的に考慮する必要があります。市場メカニズムの一言の下に経済諸量の変動をながめるだけにならないことが大切です。

 170ページの労働生産性の定義は付加価値生産性であって、時間当たりの使用価値の生産量ではないことにも注意しなければなりません。

 「現実に生起している経済問題をそれぞれの理論がどう説明し、いかに有効な解決策を説得的に提示できるかという経験的検証を経て理論の優劣がつき、経済学の共有知識として蓄積されていくことになる」(166ページ)という中谷氏の言葉は誠にもっともであり、現実と諸理論に対するオープンマインドが学問を発展させます。私のような者はこういう点で大いに遅れを取っています。ただし諸理論の間での討議を成立させるには、用語の同床異夢を解消する必要があります。その点では世間で流通している意味が前提されることになるのでしょうが、そうするとマルクス経済学の場合には独自の考え方を提出するのが難しくなります。そこでなし崩し的に流されてしまうのでなく、うまく言葉を補ってきちんと説明することが求められます。そのように表出されるべき内実が確固としてあれば、の話ですが。
                                   2008年5月26日





2008年7月号

 どのような社会であれ、諸個人が労働し、それらの総体において社会的再生産が成り立っています。諸個人の労働をどのように統制して社会的再生産を形成するか、その仕方によって様々な経済のあり方が区別されます。生産手段の私的所有(正確には非「全社会的所有」)に基づいて社会的分業が組み立てられている社会は商品生産経済となります。商品生産経済は無政府的だけれども、価格メカニズムによる調整を通して計画によらず事後的に社会的再生産を成立させ、しかも生産性上昇のインセンティヴを内包しています。これを土台にして資本主義経済は利潤追求と資本蓄積の推進によって際限ない経済成長を目指してきました。このように資本主義的商品経済はそれなりの自立(律)性を備えていますが、階級支配、あるいは様々な国民経済的調整の必要性から国家による経済政策を不可欠のものとしています。

 特集「食料危機と日本農業」では、座談会「世界の食料危機と食料主権」、横山昭三「米は国民のいのち」、佐藤了「米生産と農業政策の問題点」、北出俊昭「米政策の検証と稲作経営の課題」、中野一新「アメリカ中西部農業の現状と2008年農業法」などの論稿により、日本と世界の農業や食料の危機的状況が解明されています。それによると、上記のように商品経済・資本主義経済・経済政策の三層からなる日本と世界の資本主義体制そのものが根源的に問い直されざるをえない段階に入ってきたようです。人々の生存に直接かかわる問題なのですから。どこに問題があるかといえば、まずは政策次元で各国の経済政策とWTO体制そのものです。利潤追求の資本主義経済次元を見れば、世界の食料危機を尻目に穀物メジャーのカーギルの純利益が2007年度第三四半期に10億ドルを超え、前年同期の86%増に膨張している(中野論文、81ページ)ように、通常の搾取のレベルを超えた強奪的収奪の多国籍企業体制が目立ちます。そして土台にある商品経済が社会的再生産を確保するのに失敗しているのも明らかです。穀物価格の急上昇が発展途上国に深刻な食料危機をもたらし、それは食料自給率39%の日本にとっても他人事ではなくなっており、そもそもカネを積んでも食料が手に入らない可能性も出てきました。「政府統計で米農家の労賃は時給二五六円」(横山論文、40ページ)というのは、農業と他産業との間での著しい不等労働量交換の存在を表しています。日本農業の再生産は実質的にもはや不可能になっています。昭和一桁世代が「農産物価格の低下などによる経営不況を労働強化や生活費の引き下げでカバーして」(北出論文61ページ)持ちこたえているだけで、「世代交代が進めば稲作崩壊の危険性が強ま」ります(同前)。

 志位和夫氏は農民連の真嶋良孝氏の試算から、農地1ヘクタールで何人養えるかを紹介しています。オーストラリア0.1人、アメリカ0.8人、イギリス2.6人、フランス2.9人、ドイツ4.5人、韓国7.5人に対して、日本は10.5人です。日本農業のすばらしい能力は水田という最も高い生産力を持つ農地が中心となっているからです。日本農業は競争力がないと否定するのは根本的な間違いだと志位氏は指摘しています(「食料自給率向上へいまこそ国民的共同を」日本農業の再生を考えるシンポでの発言 「しんぶん赤旗」4月23日付)。商品は価値と使用価値の二要因から成りますが、生産性や競争力はもっぱら価値の側面から、つまり個別商品としては価格が安いか、産業としては付加価値生産性が高いか、という具合に評価されます。そこでは使用価値の側面が欠落し、農業の場合では生産物がどれだけ多くの生命を支えているか、という社会の持続的発展にとっての最重要な問題が看過されます。本来ならば、商品経済は、価値の生産・交換を通して使用価値の社会的充足をもたらすのですが、少なくとも農業の場合にはこのような価値と使用価値との統一は実現していません。人民の生命を支えるという使用価値を果たしている農業は、それにふさわしい価値を付与されておらず、著しい不等労働量交換の下で崩壊の危機に瀕しています。

 こうした事態は、資本主義経済がその土台たる商品経済の次元で機能不全に陥っていることを示していますが、それを直ちに市場の機能そのもの、価格メカニズムの否定に直結させるならば早計であろうと思います。資本の強奪的搾取とか経済政策の誤りといった上層の要因も考慮する必要があるし、現実的には市場の活用を図っていかなければならないからです。ただし、市場が資源の最適配分を実現するのだから、あらゆる介入は排除するのが原則的には正しい、という新古典派理論に対しては、あらゆる論理次元で対決する必要があります。さしあたってここでは、WTO体制と各国の経済政策が主に「市場原理」に基づいて展開され、結果として食料危機という体たらくに陥っている、という最も具体的な現象の次元で斬っておけばいいでしょう。新古典派にすれば、理想的な自由競争市場にはまだ遠いのでさらなる「改革」が必要だ、とでも開き直るのでしょうが、「信じるものは救われない」のがこれまでの現実であり、将来もそうでしょう。国連の人権理事会に提出(1月10日付)された特別報告も、食料問題を市場任せにする新自由主義理論を厳しく批判しているそうです(「しんぶん赤旗」6月29日付「洞爺湖サミットの焦点4」)。

 日本農業がたいへんな低所得に陥っている(これを社会的再生産や国民経済での諸関連の観点からいえば、著しい不等労働量交換下に置かれている、と換言できる)のは米を初めとした農産物価格が低迷しているからです。その画期となったのは、「九五年のWTO協定の受け入れと価格政策の放棄」(座談会、20ページ、有坂哲夫氏の報告)あるいは「一九九五年の食管理法の廃止と食糧法の施行」「二○○四年、『米改革』とこれに基づく食糧法の改訂」(横山論文、42ページ)です。流通規制が撤廃され、価格支持政策が放棄される中で「自由な市場」で農産物価格が決まるようになりました。その帰結として、生産者価格の暴落、急速な生産縮小、就業者の減少と高齢化、農地の荒廃と農村の衰退が劇的に進行しました(座談会、20ページ)。以下では、過剰から不足へと一変した世界の農業・食料情勢を見てから、我が国の「自由な市場」の中身は何かを考えましょう。

 一方で気象変動によって穀物供給は不安定化し、他方では原油高に対応したバイオエタノール生産増や新興国の穀物輸入大国化などの需要増があり、需給関係が逼迫しています。その上に投機マネーの流入で穀物価格は高騰しています。価格高騰の6割は需給による基礎的な変動と考えられます(「今日の食料と農業」上下 村田武・愛媛大学特命教授に聞く 「しんぶん赤旗」6月25・26日付)。こうした世界的状況を背景に、日本はどうなっているでしょうか。新自由主義的構造改革路線で人民の所得が低下し、食費を切り詰めています。これに対して大手スーパーはディスカウント競争を展開し、価格決定権を握っています。これをささえるのは低価格の輸入農産物です。この影響で国内農産物の価格が低迷します。世界的な穀物価格変動で、飼料価格が高騰しても 畜産物価格は上がらず、畜産は危機的状況です。果樹も輸入品の影響で価格は上がらず、肥料・農薬・ガソリン代などコスト上昇で苦境にあります(同記事より)。

 このように見ると、一方では世界的な資源価格上昇によるコスト増の圧力を受けながら、他方では農産物価格そのものは依然として輸入品との価格差が大きいので低迷し、農業所得ははさみ打ちで打撃を受けています。土地など自然条件からいって輸入品との価格競争がもともと難しい下で、それを利用した流通独占資本の市場支配力で買いたたかれているのが日本農業の現状だといえます。これを、小生産者の自助努力で切り開く「自由な市場」とイメージするのは間違いです。日本農業の再生産を確保するための価格保障は、こうして生まれた不等労働量交換(時給256円!)を是正して働きがいを取り戻し、バランスのとれた国民経済を自然環境とともに確保する措置だといえます。こうした政策は世界経済の変革の中で実現されていくもので、国家主権と国民主権の両方を含む食料主権の推進が不可欠でしょう(「座談会」16-17ページ、真嶋良孝氏の報告参照)。

 ポル・ポトの「左翼」教条主義の実験は、カンボジアにおいて大量殺戮に至りましたが、あくまで世界の異端児としてあっけなく破綻しました。これに対して、新自由主義というブルジョア教条主義は世界の支配的イデオロギーとして君臨し、その実験としての構造改革は多くの人々の生活を脅かしてきました。そして自由貿易と投機の暴走の果てに、人々の生存の根底に迫る食料危機に至りました。新自由主義は今なお世界の覇権を握っているとはいえ、まさにラディカルなクリティカル・ポイントにさしかかっていることは確かです。過激な教条主義は人々のまともな生活とは両立しません。新自由主義の過激さとは、資本の論理がむき出しであり、市場をそれに従属させて、人々からの大規模な収奪の手段にしている点にあります。少なくとも現在、市場の廃絶が私たちの課題ではない以上、それをいかに人間的社会のコントロール下に置くかが問われます。農産物に対する価格保障は「販売量が増えるにつれて収入増に結びつく政策であり、農家の生産意欲を高めるうえで決定的です」(「食料自給率の向上を真剣にめざし、安心して農業にはげめる農政への転換を 日本共産党の農業再生プラン」「しんぶん赤旗」3月8日付)。このように必要な修正を加えることで市場の発展方向を制御し、国民経済を安定させる政策のいっそうの展開が求められます。

 

 市場の働きをどう捉えるかについては、地球温暖化問題に一つの試金石がありそうです。諸富徹氏は「排出量取引制度は、地球温暖化対策の救世主なのだろうか、それとも『虚財』を生み出す『イデオロギー先行型の市場原理主義』なのだろうか」と問題を整理し、同制度への批判にていねいに答えています(「排出量取引制度を擁護する 岡・赤木両氏の排出量取引批判に答えて」『世界』7月号、204ページ)。私はこの論稿で初めて排出量取引制度の狙い・特長・仕組について基本的に理解できました。

 市場の失敗から生じた環境問題を「排出量取引市場という人為的な新しい市場の創出によって解決できると考えるのは幻想ではないか」(205ページ)という疑問に対して、諸富氏は「『市場に翻弄されるのではなく、市場を使いこなす』、これが二一世紀の市民社会に求められる新しい公共性の原理である」(206ページ)と答えています。なぜなら「『市場か規制か』という二項対立的な議論の枠組み自体が不毛」であり「排出量取引自体、市場メカニズムを用いた厳格な規制体系としての性質を持っており、市場と規制の両側面を併せ持っている」(同前)からです。肝心なのは、「排出量取引が厳格な総量規制のシステムであることを理解する」ことです(同前)。つまり「厳格な総量規制の下では、企業間でどのように排出枠が取引されようとも、排出総量はしっかりとコントロールされ」ます(同前)。

 諸富氏は、排出量取引市場の投機性が払拭されないことは認めます。しかし為替市場や株式市場でも投機性があるからといって廃止すべきではないのと同様に「投機性の存在が排出量取引を全否定する理由にはならない」(212ページ)としています。この点に関しては、6月25日に発表された日本共産党の「地球温暖化の抑止に、日本はどのようにして国際的責任をはたすべきか」(「しんぶん赤旗」6月26日付)では以下のように提案されています。「排出量削減のうち排出量取引でまかなう割合や、海外からの買い入れの割合に上限を設けることが必要です。また、投機によって市場が振り回される事態を避けるために、排出量の需給状況に関する情報公開を徹底し、実際の裏づけのない取引は規制すべきです」。「市場と規制」の問題は、二項対立的な議論を克服して、確かにこのように「市場を使いこなす」立場から規制政策を探求する段階に入ったといえそうです。

 

 6月20日付「朝日」オピニオン面で、安富歩氏は大規模災害に対して「東アジア国際救助隊」の設立を提案しています。その活動の具体的イメージは「空が真っ暗になるほどの飛行機やヘリコプターが出現し」「赤外線スコープや人命探査装置、救助ロボット、救助犬、医療機器、食料などを携えて何千人もの救助隊員が着陸し、直ちに活動を始め」る、というものです。人々に安全・安心を提供することは、それ自身、各国・地域の総合安全保障の観点から有効ですが、安富氏は日・中・韓・朝・台の兵力の一部を転用して国際救助隊を共同設置すべき、としているので軍縮にもなり、相互理解も進みます。1921年、石橋湛山は、率先して植民地を放棄する道徳的攻勢に出ることが、日本を救う唯一の道である、と説きました。安富氏は、今こそ日本政府は戦前の湛山の先見性に学んで、国際救助隊に率先して参加する道徳的攻勢に出るべきだ、と主張しています。日本国憲法の平和主義の理想にも通じる卓見だといえます。それだけでなく、各国において政権を担う政治家や軍人の功名心にも訴える、という意味ではきわめて現実的な提案であるともいえます。ぜひ実現してほしいし、実現可能だとも思います。

 この提案とは直接関係ないけれども、平和民主勢力において理想と現実との関係を冷静に整理し、野党的批判機能の理想主義から現実的変革の道の推進へと進化(深化)していくことが必要ではないか、と思います。
                                  2008年7月1日




2008年8月号

              マーシャルのbut

 

 アルフレッド・マーシャルの名言は、一般には、「[経済学徒に必要なのは]冷静な思考力と温かい心」と訳されていますが、二木立氏によれば、正確には「冷静な思考力を持ち、しかし温かい心をも兼ね備えた(cool heads but warm hearts)」となります。原文はand ではなくbutだからです。これについて、権丈善一氏は「普通に[経済学の]訓練をすれば、冷静な頭脳と温かい心情は平行して育たない」ため、マーシャルは意図してbutを使ったと解釈しており、二木氏も支持しています(「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター」2005年5号、2005.2.1)。経済学において冷静な思考力と温かい心とが両立することは難しいけれども両立させなければならない、ということでしょう。この両立の困難性と必要性というアンビバレンスを一語に担っているのが「マーシャルの(kならぬ)but」と言えそうです。

 大ざっぱにいえば、新自由主義は論理的・科学的・合理的でそれゆえ冷血であり、逆に反対派はいくぶんか情緒的であり、それゆえ論理性・科学性・合理性において欠けるところがある、というイメージで大方は捉えられているように見受けられます。おそらく新自由主義においては冷静な思考力と温かい心とは本来的に矛盾するものでしょうが、私たちは両者の統一を目指さねばなりません。つまり新自由主義者が思っている「冷静な思考力」そのものが間違っているので「温かい心」と矛盾するに至るけれども、本来の冷静な思考力は温かい心と両立するものだ、という筋が成立しないだろうか、と考えるのです。そんなふうにマーシャルのbutはandに転換できないだろうか(傍論としては、マーシャルと今日の新古典派や新自由主義とはどういう関係にあるのか、という問題がありますが、学説史的・用語的にけっこう複雑そうなので措きます)。

 新自由主義と果敢に闘ってきた経済評論家の内橋克人氏はこう言っています。

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 ただ、大変残念なことに、現在の規制緩和一辺倒論は、なまじ経済学の装いをもち、あるいは経済学者が主導しているがゆえに、一見、理路整然としている。そのために、当事者はどう反論してよいか分からず、面と向かって声を上げるのも難しい、という状況にあり、現場の人々は、既得権にしがみつく守旧派扱いされても反論できなくて、本当に悔しい思いをしているわけですね。 

  内橋克人編『経済学は誰のためにあるのか』(岩波書店、1997)258-259ページ

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 まるで弱音の吐露のようです。しかし今でこそ構造改革のもたらす惨状があまりに明白で、あちこちから反論の火の手が上がっていますが、数年前まではマスメディアはまったく構造改革翼賛体制をとっており、内橋氏はその雰囲気を上記のように直視したのです。気休めをいって現実逃避していては勝負にならないからです。そして温かいというより熱い心を持って「現場の人々」の代弁者として果敢に挑戦していったのです。次のようにも発言しています。

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 この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間」を見ず、時流に便乗し世の中を見下して。「市場が淘汰(とうた)する」なんて、どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に比べ、なんと軽薄な。

 なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。

   「朝日」夕刊 1999年5月21日

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 激情ほとばしる、という感じですが、人によっては、気持ちは分かるけど「冷静な思考力」はどうなっているのか、と疑問に思うかもしれません。もちろん私たちは名著『共生の大地』(岩波新書)などによって内橋氏の業績を知っているので、反論できますが、たとえそれを知らずとも、「現場の人々」や「なりわい、営みとしての経済」に寄せた上記の熱いメッセージはそれ自身が正確な理論的姿勢でもある、と私は思います。価値論の抽象的な次元からそのことを見ます。

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 マルクス主義の価格理論の特徴は、価格にたいする労働価値論的基礎づけと価格関係を商品生産に立脚する社会の直接的現象形態とみる現象論的価格認識にあるといえる。

 マルクス主義の見地からいえば、価格関係とは、社会存立の永遠の条件たる物的再生産のなかでの、人間の社会的歴史的諸関係が諸生産物の交換関係のうちに反射され投影された虚像にほかならない。資本制社会の発展の「深部の諸力」をなすのは、前者すなわち物的再生産においての諸労働の社会的関係であり、後者すなわち価格関係はその表皮、泡沫をなすにすぎないといえる。価格理論の労働価値論的基礎づけは、こうした観点から価値法則の価格支配の諸側面を上向的にあきらかにするものとしてあたえられるのである。しかし他方では、商品生産社会、とりわけ資本制社会では「流通は商品所有者たちの一切の相互的連関の総和」(『資本論』第一巻一七三頁)をなしており、その内部の社会的諸関連はすべて商品流通=価格関係のうちにあぶりだされてくる。だから価格分析は、価格関係のうちに投影され集約されてくる生産諸関係を下向的にあきらかにするものでなくてはならないといえる。

      大島雄一『増補版 価格と資本の理論』(未来社、1974年)序

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 つまり「現場の人々」や「なりわい、営みとしての経済」こそが資本制社会の発展の「深部の諸力」つまり「物的再生産においての諸労働の社会的関係」であり、価格メカニズムの支配する市場は「その表皮、泡沫をなすにすぎない」のです。そもそも商品が価格を持って交換されるということは自然現象ではありません。生産手段の私有(非「全社会的所有」)と社会的分業という社会的再生産のあり方によって私的労働と社会的労働とが分裂しているために、生産物は市場で交換されざるをえず、「商品」となります。交換されて初めて、商品を作った私的労働は社会的労働でもあったことが確認されます。商品のもつ交換可能性という性質は自然属性ではなく、社会的再生産のあり方を映す影としての社会的属性です。だから「現場の人々」や「なりわい、営みとしての経済」を重視しそこから出発するのは、「温かい心」の差し示すヒューマニズム的価値判断であるのみならず、「冷静な思考力」の所産としてのリアルな認識に立つ経済学方法論であるともいえます(内橋氏はマルクス経済学者というわけではないでしょうけれども、方法の正しさは立場を問わない)。逆に市場メカニズムへの物神崇拝に立つ新自由主義は、その内部の論理でいかに精緻を究めようとも、商品経済や資本主義経済の逆立ちぶりを現象的に模写するだけで「深部の諸力」を見失い、現代資本主義の行方を差し示すことができないのです。

 世界的な食料危機は一方で市場メカニズムの破綻を示し、他方で直接生産者としての農民の決起を促しました。自由貿易を推進するWTOの混迷と対照的に、世界的な農民団体「ビア・カンペシーナ」の提唱する食料主権が国際社会で急速に支持を広めています。過剰な貨幣資本の乱舞としての投機が資源・食料価格の高騰をもたらし、実体経済を破壊していく様は、資本主義的商品経済の転倒性を究極の姿で暴露しました。大地に脚で立った本来の経済のあり方とは何か、を人々は否応なしに意識せざるをえなくなりました。まさに資本主義経済が危機的局面を迎えることで、その「表皮、泡沫」が剥がれて「深部の諸力」がむき出しになってきたのです。それ自身が逆立ちしている「経済学」はこの期に及んでもなお逆立ちしたものを逆立ちしていると認識できず、これまでの延長線上で自分にあわせて世界を「改革」しようとしています。少なくとも今年のサミットやWTOには反省の様子は見られません。

 以上、価格関係を「虚像」とする、商品の物神性論を参考にすることで、商品経済や資本主義経済における「深部の諸力」とその「表皮、泡沫」とを対比しながら、経済学の展開の出発点においては「冷静な思考力と温かい心」が一致しうることを見てきました。しかしこのような基礎的な議論だけで、マーシャルのbutをandに転換したとは言えません。さらなる展開ではどうなるのか、検討すべきことは多くあるでしょう。ただしその前に、上記の経済学の方法の一部にある「価格関係のうちに投影され集約されてくる生産諸関係を下向的にあきらかにする」立場になぞらえて、「経済の金融化」にともなう諸問題を現代資本主義の矛盾の現われとして捉える論稿を見てみます。

 高田太久吉氏はサブプライム問題についての詳細な論考をいくつも発表しています。それを受けて『経済』8月号では金融投機と現代資本主義のあり方との関連を理論的に解明しています。

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 今回のザブプライム問題として顕在化した現代経済の矛盾は、単に金融市場や証券市場だけの問題ではなく、現代資本主義が抱えるもっと根本的な矛盾(資本の過剰)の現れと考えるべきでしょう。現代資本主義の構造の基礎にあるこの矛盾が、経済の「金融化」のもとで、とりわけ金融市場に激しい形で顕在化したととらえるべきでしょう。

 もしそうであるとすれば、現代経済の深刻な病理現象を単に金融問題としてだけ捉え、ファンドや金融機関の投機活動を封じ込めるための対策を講じようとしても、根本的な限界があるということになります。そうした対策はそれとしてももちろん必要ですが、そのことで満足して、もっと根本的な問題を見失ってはならないと思います。

        「『経済の金融化』は資本主義をどこに導くか」29ページ

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 高田氏はザブプライム問題のような現代資本主義の「表皮、泡沫」の諸現象そのものを丹念に分析する(それなしには何も語れないのだが)だけでなく、その根本矛盾としての資本過剰を捉える必要性を力説しています。だから金融市場から始まって、たとえば製造業のあり方などを含む社会的再生産の全体的な把握まで進むことが求めらることになります。そのように下向して現代資本主義の「深部の諸力」に達するのですが、さらに人々の生活の次元まで下向して、投機マネーが家計を略奪することを分析したのが、同号、鳥畑与一氏の「『サブプライム』=略奪的金融の実態」です。

 貧困な私たちにとって、そもそもカネ余りなどというのは想像し難く、そんなものが本当にあるのならば、適当に再分配してバランスある経済発展を実現してほしいものだと素朴に思います。しかしマスコミはそういう「誤った考え方」を非難してきました。

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 「東京新聞」(○七年一二月二四日付)に山口二郎・北海道大学教授がコラムを書いていました。「政策とは分配である」「労働分野の規制緩和は、労働者から企業への富の再分配をもたらす」「強者に対する再分配は改革と賞賛し、弱者への分配をバラマキと非難する」、マスメディアは、このような言説のゆがみに敏感になるべきだという、たいへん明快で読んでいて痛快ですので、行く先々で紹介していますが、こうしたイデオロギー攻撃とのたたかいが重要になっています。

  村田武、真嶋良孝、有坂哲夫 座談会「世界の食料危機と食料主権」

   (『経済』7月号所収)における有坂氏の発言(37-38ページ)

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 「このような言説のゆがみ」にもそれなりの「根拠」はあります。生産性の高い強者に対して再配分して資源を集中すれば、社会全体としては効率が上がるので、強きを助け、弱きをくじくことこそ資源の最適配分だ、そうしないとグローバル競争に負けるぞ、というのが「経済学の教え」(という名の脅迫)なのでしょう。そういう構造改革でどんなひどい社会になったかは言うまでもありません。バランスある経済発展が大切なのです。しかしこのような「サイテーの弁明」にさえ当てはまらないのがサブプライム問題です。貧困層から略奪し不生産的なマネーを蓄積するという、金融関係の独占資本の寄生性・腐朽性の極みがそこには見られます。湯浅誠氏が総合的に分析した「貧困ビジネス」(「格差ではなく貧困の議論を」上下、『賃金と社会保障』2006年10月下旬号・11月上旬号所収)を、アメリカでは、ブッシュとウォール街が中心となって国家独占資本主義をあげて敢行した、というのがサブプライム問題ではなかろうか。

 サブプライム問題は世界経済への深刻な影響の広がりからいって、証券化がもたらす過剰な投機の危険性がもっぱら注目されてきました。もちろんそれ自身大問題ですが、鳥畑論文ではその投機性が略奪性と不可分に結びついていることが強調されており、現代資本主義の「深部の諸力」に迫る重要な観点だといえます。一方でブッシュが、貧困層やマイノリティにもマイホームを、という住宅政策を掲げ、それにウォール街が乗って、流入する投機マネー活用の証券化ビジネスの「材料」としてサブプライムローンが利用されました。「借り手以外は全ての関係者が利益を得たとされる証券化を通じた収奪の仕組み」(43ページ)については論文を見てもらうとして、ウォール街はまさに「蓄積のための蓄積」に狂奔し無理な貸し込みにのめり込んで今日の破綻を迎えました。「住宅市場を舞台にした略奪的貸出の暴走が、米国家計の重要資産である住宅エクイティ(住宅価格とローン残高の差額である純資産)の略奪を通じて膨大な住宅差押さえをもたらす」(40ページ)結果となりました。

 上記は貸す側の事情ですが、「サブプライムローン拡大の借り手側の要因には、新自由主義政策による米国における貧困の深刻化があります。米国労働者の賃金停滞の一方での医療費、教育費、生活必需品等の高騰と失業保険給付期間の短縮、年金・社会保障のカバー率の低下、そして貯蓄減少が進む中で、…中略…米国家計の高利カードローン債務への依存が急速に高まってきたのです」(47ページ)。したがって「サブプライムローン契約で住宅購入が行われたのは…中略…三八%程度でしかなく、大部分はカードローンの返済、病気や失業等の緊急的支出、そして生活費不足を補う消費支出目的で活用されてきたのです」(49ページ)。まさにサブプライムローンは貧困につけ込んでさらに収奪するという貧困ビジネスであり、新自由主義の徒花だといえます。

 資本主義経済での悪事には必ず「正当な理論的根拠」があります。日本のサラ金の暴利を擁護するのと同じ理屈で、サブプライムローンもハイリスク層の金融アクセスを改善した「信用の民主化」と賛美されました(45ページ)。「しかし『リスクに見あったリターン確保』という論理は、借り手へのリスク(コスト)転嫁を通じて、借手の支払能力とは反比例的な高金利負担を強いるという略奪性を本質としています」(52ページ)。このような逆立ちを正して、「リレーションシップバンキング(顧客・取引先との長期信頼関係による金融サービス)に基づく貸出(支払い能力に見合った金利形成)」(同前)に戻していく必要があります。一般的にいえば、金融が実体経済を引き回すのではなく、実体経済の発展に見合った金融のあり方が追及されねばなりません。なお消費者金融の高金利については、松本朗氏がマルクス経済学の信用論に基づいて理論的に検討し、その収奪的性格を論証しています(「消費者金融とその高金利をめぐる基礎理論的検討」、中小企業家同友会全国協議会編『企業環境研究年報』第11号、2006年/所収)。

 「冷静な思考力と温かい心」の問題に戻ります。以上では、労働価値論なかでも商品の物神性論の次元から、資本主義経済における<「深部の諸力」すなわち物的再生産においての諸労働の社会的関係と、その表皮・泡沫をなす価格関係>という構造にまず注目しました。それを拡張して、様々な次元での「深部の諸力」と、その表皮・泡沫という関係性を捉えると、働く者の立場に立った経済学は前者から出発し、新自由主義は後者から出発していることがわかります。両者の心の違いはこの出発点の違いに規定されています。さらにいえば資本主義経済の構造そのものは前者から後者へという形です。「冷静な思考力」はそのように捉えます。だから働く者の経済学においては、本来は「冷静な思考力と温かい心」が統一されていることになります。

 上記の金融問題でも、高金利に対する批判は、差し当たっては誰でも感じるヒューマニズム的価値判断の問題です。新自由主義は価格メカニズムの観点から、そのような感情を敢えて逆なでして「俗論」を批判し高金利を擁護してみせます。これに対する松本氏や鳥畑氏の反批判は、金利の本質を資本主義的生産関係の深みから説き起こし、さらに現代資本主義の様々な特質の中に位置付けることで、高金利の略奪的性格を明らかにしています。新自由主義の認識がいかに平板・浅薄かが分かります。新自由主義における冷血と平板・浅薄との共存が必然かどうかは分かりませんが、だいたいそうなっているように見えます。

 とはいえ問題はそう簡単ではありません。一番基本はこれまで述べてきたことだとしても、実際に経済を発展させるためには「温かい心」だけではすまない厳しさも必要となってきます。そのような資本主義的商品経済の現実のあり方が、「冷静な思考力と温かい心」の統一という学問的認識の課題を規定しています。具体的に現状分析と政策提言に取り組んでいる研究者の言葉を聴きましょう。

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 沖縄の課題の一つは、生産力、経済力をつけることにあると思われる。自由競争を原理とする経済環境のなかでは、このことを避けては何事も生じない。ところが、この経済力をつけるということが分かっていながらなかなかに困難なことなのである。独自の商品を作りだし、生産コストを下げ、宣伝をし、有利に販売するという、その原理は分かっていても、それを実行する力が弱い。

 それを筆者は「後進性」といってきた。それは、沖縄の気候風土と、歴史によって形成されてきた体質なのであって、一朝一夕に解決できることではない。人間味がある、やさしいなどと評される気質は、同時にルーズさであり、がんばりのきかない気質のことなのである。すぐ仲良くなるという人間関係は貴いが、決して経済活動での協同の力を生み出す力になっていかない。人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない。したがって、この課題は沖縄の課題であるとともに、日本の課題であり、人類の課題であると考えている。

    来間泰男「米軍基地と沖縄経済」(『経済』1996年1月号所収)116ページ

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 「人間のやさしさと経済力の強さの両立する社会が理想だと思うが、このような社会はどこにも実現していない」という冷徹な認識が大切であり、それを「人類の課題」と設定するところに研究者の真骨頂があるともいえます。「マーシャルのbut」が語るのも一言でいえば、「課題の困難性」であり、それを直視することです。だから安易にbutをandに転換すべきではないのです。

 しかしながら難しいとはいえ、「人間のやさしさと経済力の強さの両立」は絵空事ではなく、ある意味では人類はそれを資本主義社会においても法則的に実現してきたとさえ言えなくもない。その代表例はマルクス時代のイギリスの工場法です。労働時間を制限することで、資本主義経済の発展方法が、労働者の使い捨てから科学技術の応用へとヴァージョンアップしました。日本の戦後改革も重要な事例です。農民と労働者が戦前の非人間的状態から解放されることで、生産力発展と国内市場の拡大が実現しました。今日のグローバリゼーションにおいては、世界的な底辺への競争が行われており、悪いヤツが強い状態ではあります。しかし人民の反撃によって、グローバル企業への民主的規制を実現できるところまでいけば、「人間のやさしさと経済力の強さの両立」の方向も夢ではないので、「人類の課題」として追及していくことが大切です。

 前段は、「冷静な思考力と温かい心」問題の運動や政策への応用編、あるいはそれらから理論研究へ投げられた課題編ともいえるものでしたが、最後に、運動と学問研究との一種の緊張関係とも連動して、「冷静な思考力と温かい心」とが見せる難しい関係について述べます。

 4月17日、名古屋高裁は、自衛隊のイラク派兵を違憲とする画期的判決を下しました。小林武氏は「日本戦後史において金字塔としての輝きをもつことになるであろうこの判決を生み出したものは何か」と問い、「これまでの永年にわたる人々の努力がその土台をなしていることは明らか」とした上で、「今回の訴訟では、原告の皆さんの熱意を、豊かな力量を持つ弁護団が支えました。名古屋訴訟で蓄積された裁判文書は、そのことを遺憾なく証明していると思います。加えて、学者による理論的貢献もみられました。こうした団結した態勢こそ、歴史的判決を押し出す力となったと言えましょう」と答えています(「九条の生命力を示す イラク派兵違憲4.17名古屋高裁判決の意義」/日本ジャーナリスト会議東海地区連絡協議会「東海ジャーナリスト」第78号 2008年7月4日/所収)。ここにはまさに「冷静な思考力と温かい心」のみごとな統一を見ることができます。さらには「イラク派兵違憲」の他に「この判決のもつ画期的意義のもう一つは、平和的生存権が具体的な裁判規範としての性格を備えた権利であることを、これまた正面から認めたところにあります。…中略…これまでのほとんどの裁判所は、これを抽象的な権利にすぎないとして、市民が訴えの根拠にすることを認めてこなかったのです」。しかし今回の判決によれば「この権利を根拠にして、市民は、国家の違憲行為に対して差止め請求や損害賠償請求ができる、というのです。これにより、平和を求める訴訟の地平は大きく拓かれた、と言えます」(同前)。原告は敗訴したけれども実を取り、喜びであふれました。「自己の利益を通路としつつ、真の目的はみんなの権利の擁護をめざす、憲法裁判の真髄を如実に示した光景でした」(同前)と小林氏は賛えています。

 こういう見方に対して奥平康弘氏は一定の疑問を呈し、『世界』7月号に「名古屋高裁の『自衛隊イラク派兵差止請求控訴事件』判決について (上)違憲判決の意義」、8月号に「同 (下)『平和的生存権』をめぐって」という論文を載せています。もちろん奥平氏はこの判決の画期的意義を評価していますが、それは政治的実践的な性格においてであり、「憲法研究者としての私は」(7月号、47ページ)「裁判で争う以上は」「どうしても法律解釈学的・法制度的なシステム」(同前、40ページ)の観点で考察せざるをえない、として8月号で「平和的生存権」論に対する批判的分析を提出しています。

 問題の難しさは「『裁判』に持ち込むには、それが個人としての自分の『権利』問題であることを論証しなければならないという前提が立ちはだかって来る」(以下8月号、107ページ)ことにあります。奥平氏は、原告や名古屋高裁判決の「平和的生存権」にかける熱意には大いに敬意を表するけれども、憲法研究者としての「冷静な思考力」においては疑問を感じ、「『平和的生存権』の立論に呻吟する私」(106ページ)となっています。「私の理解によれば、名古屋高裁は『平和的生存権』の『権利性や具体的権利性の可能性』を論証することに、結局は成功しなかった」(106ページ)。「私は、九条厳守の志にゆるぎがないつもりではあるが、これと抱き合わせで個々の市民に、『平和的生存権』が保障されているという九条構成には、相当に懐疑的である」(105ページ)。先の小林氏のように「憲法裁判の真髄」を「自己の利益を通路としつつ、真の目的はみんなの権利の擁護をめざす」こととするならば、それは憲法裁判を主に政治的実践的な性格において捉えることにつながり、奥平氏のような立場は「運動に水をさす」ものとされるかもしれません。法にはまったく素人の私には正直なところ何が正しいのか、よくは分かりません。ただ、役に立つ理論が真理なのではなく、真理である理論が役に立つことに留意しつつ、護憲民主勢力が足元を固め、多様な人々の団結を強めていくことを望みます。

 「冷静な思考力と温かい心」は簡単には統一しないけれども、その難しさを直視して統一する努力をする者こそが誤り少なく道を進むことができるのでしょう。私たちにとっても、マーシャルのbutは含蓄が深いと思う。

 

 『経済』8月号、奥田宏司氏の「ドル体制の変容と現代国際金融」は、ドル体制のまさに現局面について多くの新知見をもたらしてくれます。失礼ながらまとめる根気がなくなったので一部を丸々引用します。

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 一つは、日本、ユーロ地域は○五年から○六年にかけてアメリカへのネットでの資本供給国でなくなった。第二に、大量のオイルマネーが「その他西半球」(カリブ海地域等)およびイギリスに流れ込み、それらの地域から再びアメリカへ流れ込んでいるとともに、オイルマネーは○六年には中東諸国から直接アメリカへ一部流れ込んでいる。第三に、中国の外貨準備が大量にアメリカへ流入している。したがって、アメリカの経常収支赤字のファイナンスは、○六年にはオイルマネーと中国のドル準備が中心となっているといえよう。           164ページ

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 こうした中で中国はドル離れは困難で現状維持的な為替相場とならざるをえない、と奥田氏は予想しています。なぜなら「人民元の大規模な改革(変動相場制等)は、輸出に貢献している外資系企業、有力民間国内企業の競争力に即した為替相場形成となり、逆に、国有企業、地方中小企業、農業の切り捨てとなって社会的混乱につながる可能性が大きいからで」す(169ページ)。だから為替相場維持のためのドル買介入によるドル準備増加とその減価によるコストは社会政策的費用といえます。

 人口や格差の規模からして深刻さが違うのかもしれないけれども、日本の場合は変動相場制の下、もっぱら大企業に合わせた為替相場形成で経済的弱者は切り捨てられ放題でした。そうして対米従属体制の下、構造改革が進んで「人件費の抑制、海外へのシフト、余剰資金の偏在」という日本大企業の収益・財務構造の歪みが形成されてきました(『経済』8月号、小栗崇資「日本企業の収益・財務構造の歪み 二○○八年三月期決算の特徴」、137ページ)。この体制から発想されるのは悪名高い構造改革しかなく、やればやるほど人々が不幸になります。日本も中国もそれぞれなりにアメリカからの自立を模索していくほかありません。奥田論文では「東アジア全体の通貨・為替体制の樹立の道筋には多くの難関が横たわっている」(174ページ)とありますが…。意志と現実の相克。なんかここにも、マーシャルのbutのような…。 
                                  2008年7月29日



2008年9月号

     1〕共産主義と社会民主主義との境界線

 

 石川真澄氏が亡くなってもう何年になるだろうか。支配層が「政治改革」の名の下に小選挙区制を導入し民主主義を破壊したとき、商業マスコミは完全に取り込まれ、何の道理もない小選挙区制礼賛報道に終始していました。当時、石川氏は朝日新聞に所属し社内で「守旧派」と呼ばれながらも小選挙区制批判を貫きました。商業マスコミ内では稀有の例であり、気骨のジャーナリストここにあり、と感心していました。その石川氏の政治的立場はおそらくかつての社会党右派くらいの位置ではなかろうかと思います。晩年、『世界』に政治時評を連載していたとき、石川氏は日本共産党に対して社会民主主義化を勧めていました。残念ながらその文章を手元に残していないので正確なところは分からないのですが、民主党や社民党の体たらくに接して、現実的な理論政策の次元では共産党に期待せざるを得ないが、共産主義は困る、というネジレた気持ちを持たれたのではないか、と推測します。私のやや年配の知人に、学生時代は全共闘で今は社会民主主義者という人がいるのですが、彼も共産党の社民化を要請しています。イデオロギーはともかく、実際の政策や運動では共産党に期待せざるを得ない、という人に対しては、確固たる理念があるからこそ現実に対しても柔軟でありながらブレない姿勢が発揮できる、と言いたいところです。労働者派遣法制や後期高齢者医療の問題を見ても、当初は社民党まで含めて政府の方針に賛成しており、世論やマスコミも支持か軽視の姿勢であったときから、共産党は本質をついた議論を展開して断固として反対を貫き、それが今日では世論と現実政治を動かしつつあります。このような先見性は、資本主義そのものに対する根本的批判の上に、対米従属と財界本位の日本政治の本質を綱領的に捉えた共産主義者が、今日の具体的状況に政策的に的確に対応した成果であり、あいまいな政治的姿勢の社会民主主義者ではできないことであろうと思います。ただこれは共産主義者が優れている一つの事例の紹介であって、全体的な証明になってはいないかもしれませんが、こうした重要な問題を積み重ねて見ていくことが大切です。

 共産党に社民化を勧めるということは、今はまだ社民ではない、という判断があるのでしょうが、すでに社民化しているという見方もあるでしょう。境界線はどこにあるのでしょうか。それは理論政策と党組織原則とから考えることができるでしょう。より重要なのは理論政策ですが、問題として単純なのは党組織原則なのでそちらから言及します。なお両者の関連も考えるべきでしょうが、ここでは措きます。

 党組織として民主集中制を取るかどうか。これが共産党か否かの分水嶺となります。世界を見渡すと、何事にも例外はあるようですが、それも措きます。多少なりとも支持しながらも共産党に社民化を勧める人(だからまだ社民化していないと判断している人)は、おそらくここに引っかかっているのではないか、と思います。民主集中制は党の理論政策の一貫性と団結した闘争力を保障するものだから必要だと私は思います。しかしこれが世間でははなはだ評判悪く、知識人などからも一番の攻撃対象になっており、大問題なのですがこれ以上言及はしません。

 以上のように党組織論においては問題ははっきりしています。しかし理論政策においては、共産主義と社会民主主義の境界線は曖昧なように見えます。だから共産党はすでに社民化したという人もいます。

 レーニン時代(その晩年)には、強力革命とソヴェート型民主主義の採用、西欧型議会制民主主義の否認ということも共産主義の要件とされていました。しかし今日の共産主義では議会主義的革命方式やブルジョア民主主義の形式の継承は広く認められており、日本共産党は70年代には三権分立も積極的に承認しました(以前には反対していたということを知らない人が今では多いだろう)。法学・政治学には暗いので、一般的にいえばブルジョア民主主義に対するこのような評価の変化を、科学的社会主義の理論原則からはどのように考えれば良いのかはよくは分かりません。

 共産主義のこのような変化は社民化のようにも見えます。かつての社会民主主義は、ともかくも社会主義は目指すのであって革命方法が強力革命でなく、漸進的方法を取り、議会制民主主義を尊重する、としていました。ところが今日では社会民主主義の多くは、社会主義経済を目指さず、資本主義経済の枠内での改良にとどまるとしています。つまり共産主義と社会民主主義の境界線は、かつては革命方法の違いにあったのが、今日では革命目標の違いになったといえます。もちろんこれは単純化であって、かつても両者の社会主義像には違いがあったでしょうが、とにかく今では社会民主主義は社会主義経済を目指さず修正資本主義でいく、というのは大きな変化です。境界線はだいぶ右寄りになりました。もっとも、ソ連・東欧社会主義の崩壊後では、社会主義経済とは何かが大問題なのですが、これも措きます。

 両者の境界線は他にもあって、重要なのは、第一次大戦での自国の帝国主義戦争に当時の第二インターナショナル所属の各国社会主義政党が賛成したのを受けて、レーニンたちが帝国主義戦争反対の共産党を立ち上げたことです。また日本共産党の立場からは、時代の重要な課題に取り組むのか避けるのかが分水嶺だともいわれます。これは戦前・戦後の綱領論争に関連した見方でしょう。戦前においては絶対主義的天皇制、戦後においては対米従属、これらを革命の戦略的課題つまり権力問題として認識し闘うかどうか、ということでしょう。これらは重要なことなので指摘しておきますが、上の問題との関連をどう考えるかは難しい点です。

 かつてはマルクス主義者の間では「社民」というは蔑称だったのですが、特にソ連・東欧社会主義の崩壊後とグローバリゼーション下においては社会民主主義は一定の評価を受けているといえます。それは西欧社会民主主義政党が政権党として福祉国家を作り上げたり、様々な改良の取り組みを続けてきたことが現実的な成果となって表れているからです。アメリカ主導のグローバリゼーションへのオルタナティヴとして唯一具体的なものが社会民主主義だという見方も多いといえます。同じ資本主義体制とはいえ、アメリカとは違ったヨーロッパ社会のあり方に世界中の注目が集まっています。科学的社会主義の立場に立つ『経済』誌上にもオランダやスウェーデンを高く評価する論文が載るようになりました。

 しかし西欧社民政権は新自由主義的グローバリゼーションと何らかの折り合いをつけてやりくりしている点では、積極的意義とともに当然限界もあります。環境問題・資源エネルギー問題・貧困格差問題など資本主義経済そのものの矛盾が噴出している今、社会民主主義をも超えて、新自由主義的グローバリゼーションや資本主義体制そのものに反旗をひるがえす潮流も育っています。その意味では、ラテンアメリカ各国左派政権の社会主義志向(それは濃淡色々だが)が注目され、日本での「蟹工船」的状況をどう闘うかも問われています。

 

 

      2〕イギリス労働党のニュー・レイバー路線

                 日本の状況もにらみながら

 

 共産主義と社会民主主義との境界線の「右傾化」を見てきましたが、ブレア前首相の主導したイギリス労働党の「第三の道」「ニュー・レイバー路線」はさらに右寄りであり、新自由主義的な社会民主主義といえます。もっとも日本には新自由主義的マルクス主義者もいるくらいだから、ある思想が生産力主義的に偏向してしまえばそれが何であれ、今日のグローバリゼーション下では容易に新自由主義と結びつきうるのかもしれません。

 ニュー・レイバー路線の具体的現れとして、医療と教育を見ましょう。本来非市場的なこれら分野を新自由主義は市場化し公的支出を削ってきました。ニュー・レイバー路線では財政支出は拡大して、新自由主義のサッチャリズムによって荒廃した医療と教育をある程度立て直しました。ただしそこで市場的・企業的手法による競争・効率重視の新自由主義的なニュー・パブリック・マネジメント(NPM)が導入され、現場や研究者からは批判が出ています。近藤克則氏の「イギリスの医療荒廃とブレアの改革」と岩橋法雄氏の「ブレア教育改革の嘘と実 イギリスにおける教育の変容」では、ブレアの改革に対して前者は概して好意的に後者は概して否定的に見ています。

 近藤克則氏によれば、イギリスの改革では、医療費拡大の前提として医療費が無駄に使われることがないようにNPMが導入されたことが重要であり、そのNPMも新自由主義のそれとは違って目標の中に効率だけでなく、公正・平等・医療の質の重視などが入っています。これに関連して「日本への示唆」として「医療の質を高める戦略とモニタリング」の必要性が強調されています。一般論としてはその通りでしょうが、近藤氏も紹介しているようにイギリスでもNPMには様々な批判があり、日本における「医療の質を高める戦略とモニタリング」のシステムをどのように作っていくかは簡単ではありません。特に、NPM的手法によるPbR(Payment by Result)という差別的な報酬支払い方法によって効率と質の向上を目指す制度が出てきたのは、診療報酬における定額払いの拡大傾向の中だということに注意しなければなりません。日本においては、診療報酬の出来高払い制度の堅持は重要な争点であり、PbRが問題になる状況とはいえないでしょう。日本が低医療費にもかかわらず、長寿など高く評価される医療効果を生んできた背景の一つには、医療従事者の異常なまでに献身的な努力があり、それがここのところの医療危機でキレかかっている状況にあります。確かに医療が概してブラックボックスであり、医療従事者も説明責任を十分に果たしてこなかった事実はあり、自己改革を求めたいと思いますし、「医療の質を高める戦略とモニタリング」の何らかのシステムも必要でしょう。ただしその前提として、あるいは同時にでもよいですが、医療従事者に人間らしい労働条件を整えることが不可欠だと思われます。医療の質の向上は、あくまで現場から自主的にわきおこる創意工夫が「主」であり、だからそれを支える労働条件は重要であり、モニタリングは「従」であろうと思われます。

 蛇足ながら、介護は医療よりもさらに劣悪な状況であり、『世界』9月号、白崎朝子氏の「介護派遣労働の現場から コムスンショックからグッドウィル崩壊へ」はそれを克明に伝えています。ヘルパーは女工哀史状態であり、利用者も危険にさらされています。白崎さん、書いてくれてありがとう、と言いたい。おそらく誰も知らない様々な種類の労働現場で悲惨さに対して何の声も上げられずにいる人たちがたくさんいます。どのような分野であっても何らかの政策的な飴とムチで効率や質が上昇するという思い込みは安易であり、現場の実態をよく見ることが何かにつけても第一ではないかと思えます。

 岩橋法雄氏によれば、「イギリスの新自由主義教育改革は、日本のテスト主義と能力主義の競争教育を、戦後福祉国家の建設の中で豊かに築いてきた福祉のシステムから人々を切り離し、個人の才覚で福利厚生を獲得するための手段とするために導入したのである(競争する「私」個人の創出)」(155ページ)。ブレアは教育予算を増額して成績向上や弱者支援には一定の成果をあげているものの、基本的には新自由主義的改革を継承しています。増額された予算はNPM的手法で差別的に配分されています。

 ニュー・レイバー路線は「福祉から労働へ」であり、福祉援助対象者を狭めて労働に向かわせるために、能力獲得競争の手段として教育が位置づけられます。岩橋氏はここでアマルティア・センの理論が利用されていることに注目します。センの議論に立脚した教育議論は「選択の自由を強調し、能力獲得の『多様な』機会の提供こそが社会的被剥奪者の能力向上につながり、社会的経済的改善をもたらすことを強調」し、「その結果、実態としての格差の拡大、能力主義的競争の中で疲弊している子どもたちの実態には目が十分に向けられてい」ません(161ページ)。

 それでは「福祉から労働へ」のニュー・レイバー路線の経済理論的基礎を見ましょう。深井英喜氏の「ニュー・レイバーの貧困対策 現状と課題」によれば、福祉国家における生産と分配の関係は以下のようになります。

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 国家の主導で社会的再分配を図る福祉国家は、その再分配機能の前提として、再分配するための資源が生み出されていなければならない。そして資源は、労働力層の生産活動によって、資本主義社会においては市場機能を通じて生み出される。したがって、失業を貧困問題の中心に置くならば、福祉国家再編の課題は、単に再分配制度を微調整することにとどまらなくなる。社会の中でどのように資源を生み出していくかを、根本的に見直す必要が出てくる。そして、その資本蓄積様式に見合った再分配機能を構築する必要がある。

              164ページ

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 確かに再分配だけを孤立的に議論するのは誤りであり、<生産→分配→再分配>という順序そのものは経済学的には当然ですが、問題は生産のあり方にあります。ニュー・レイバーの想定する資本蓄積様式は新自由主義的なものです。「ニュー・レイバーのマクロ経済政策の中心は、有効需要管理にはなくインフレ率の管理にあり、新古典派経済学のマネタリズムの市場観にもとづいてい」ます(168ページ)。さらに新古典派の市場観によれば、失業問題は自然失業率仮説にもとづいて考察され、構造的失業に対して有効需要政策は無効で、労働市場の効率化が必要とされます。そこで柔軟で順応性に富んだ労働市場をつくるための教育・職業訓練が政府の責任とされます。ニュー・レイバーはさすがに社会民主主義政権として、失業問題を政治的課題として取り上げる点でサッチャリズムとは違うけれども、新古典派経済学の市場観は継承しているため、就業機会の平等は重視しても、所得再分配による結果の平等は政策目標としていません。ここには新自由主義的な生産力主義の傾向を見て取れます。

 ニュー・レイバーに対する新自由主義の影響は生産力主義とともに金融化もあるのではないか、と思われます。岩橋論文によれば「テストによる良い成績の獲得が、より良い社会的経済的ステイタスの獲得につながるという価値規範の浸透を支える強固な物質的基盤が存在する。それはイングランド東南部を中心に、国際競争に伍していくことのできる知識集約型産業に特化した産業構造への、被雇用者としての勤労者の収容力である」(162ページ)。「国際競争に伍していくことのできる知識集約型産業」のイギリスにおける典型は金融業でしょう。したがって教育の目標の一つとして、シティ(ロンドン市場)で働けるようになることが目指されているように思います。

 『前衛』9月号、鳥畑与一氏の「投機マネー暴走に拍車をかける福田内閣の『金融立国』路線」は金融化の誤りを徹底的に批判しています。東京市場と日本の金融機関の国際競争力低下にあせった政府=財界が金融立国を掲げていますが、結局それは「国民の金融資産や公的年金資金の投機マネーとしての活用」(37ページ)を狙った危険な策動です。サブプライムローン問題に見られるように、そもそもシティやウォール街を中心とした現在の国際金融秩序そのものが異常であり、日本の金融機関が実体経済に資する役割を離れてマネーゲームに転換することは大きな誤りです。今日のグローバル金融市場での競争力とは「マネーゲームの場としての『使い勝手のよさ』の評価にほかならず」(35ページ)、そこには「労働市場の柔軟性=解雇の容易性」とかホワイトカラー・エグゼンプションの導入などが含まれます(同前)。まさにグローバリゼーション下のソーシャル・ダンピング競争の金融版がここにあります。「投機マネーの自由の保障が、同時に労働者の使い捨て天国化を意味しているのです」(同前)。

 そして国際金融市場の評価ランキング1位がシティです。国民経済の規模が小さいイギリスのシティが1位であるというのは、マネーゲームの拡大が実体経済から乖離しているために、まさに上記の「使い勝手のよさ」だけで評価されるということです。ここで次のことを考えたいのです。グローバル経済に寄生するシティを勝ち組としてイギリス国民経済(それは日米よりも小さい)が抱えていることは、政治にも影響するのではないか。確かに「八○年代以降、先進各国の福祉国家は、就労と福祉との関係を明確にするワークフェア路線をとっている。…中略…ワークフェア路線の基本構造は、マネタリズム主義的なマクロ経済政策と、労働供給側に働きかける雇用政策とによって、雇用の安定を図ることにある」(深井論文、174ページ)とするならば、社会民主主義と新自由主義との結合はある程度普遍的な傾向かもしれません。しかしその結合の強さにおいてイギリス労働党のニュー・レイバー路線が突出しているのは、顕著な金融化によってグローバル経済に伍していこうとするイギリス国民経済のあり方に原因があるのではないでしょうか。ワークフェア路線は生産力主義の一つの現れでしょうが、イギリスではその上に強力な金融化があります。それが経済的基礎となって、岩橋論文にあるように、競争教育の価値規範が広範に浸透していることに代表されるように、新自由主義が社会民主主義勢力まで深く浸透しているのではないでしょうか。

 「教育における競争主義の克服」(162ページ)という課題から出発して、岩橋氏は新自由主義に対抗する考え方を打ち出しています。それは「経済成長至上主義の構造を、平等主義の観点からどこまで規制できるかという国民的努力」「連帯と協同」です(同前)。それは以下のように説明されています。「『物質的豊かさ』を個人主義的に競って獲得しようとすることは、労働の強化によって家庭や市民社会で過ごす時間を貧しくさせ、家族や友人たちとの間でのゆとりのある人間的な交わりを狭小なものにしている。…中略…サッチャー以来の『私』個人的問題解決という新自由主義の価値観と生活スタイルから離別する努力を必要としている」(同前)。

 新自由主義に対抗する価値観・生活スタイル・連帯と協同は先進的な運動の自覚的努力に負うところが大きいのですが、グローバリゼーション下でその基盤となるような国民経済を作り上げていくことが同時に追及されねばなりません。生産力主義と金融化を克服するような経済のあり方です。新自由主義は福祉国家の破壊という形で所得再分配の機能を逆転させただけでなく、そこで起こる矛盾の解決策を「福祉から労働へ」という形で生産過程の次元に求めてきました。ここにこそ独占資本の強さがあり主戦場があります。もちろん私たちは、税の取り方・使い方、福祉といった目立つ分野で、所得再分配の機能の回復という華々しい闘いをしなければなりません。しかしそれだけでなく、労働現場での資本への規制、労働者の賃上げ、自営業者の所得向上などを通じた内需主導型で、投機的でない堅実な国民経済を作り上げることが重要な課題です。

 教研全国集会で、首都圏青年ユニオンの河添誠書記長は、青年の就職について正規労働者になる「いす取りゲーム」をしているようなものだと指摘し、「いす取りゲームにどう勝つかを教える教育でいいのか」と問題提起しました(「しんぶん赤旗」8月26日付「潮流」)。「福祉から労働へ」の新自由主義的生産力主義路線では、資本への民主的規制によって「正規労働者のいす」を増やすことはせず、労働者には「いす取りゲーム」をさせて、その結果としての経済成長によって「いす」は増えるはずだ、というタテマエになっているのでしょう(トリクルダウン「理論」)。実際には経済成長は格差景気を生み、企業利潤の増大を尻目に「いす」は増えず、はや景気後退で「いす」の間引きが心配されます。

 ニュー・レイバーのイギリスでどうなのかはともかくとして、日本での「福祉から労働へ」の生産力主義的思い込みは度し難いものがあります。「必要なのは最低生活を保障するセーフティネットと、まともな働き方を保障するルールの徹底であって、『自立支援』ではないわけですね」と問われて湯浅誠氏はこう答えています。

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 母子世帯を対象にしたマザーズ・ハローワークなどはその典型でしょう。すでに日本の母子世帯は世界一働いているんですよ。その人たちに必要なのはハローワークではなく労働状況の改善だということは、多少でも実態を知っていればわかることでしょう。行政は知っていてわざとやっているのか、それとも本当に実態を知らないのか。私は以前は意図的にやっているのではないかと思っていましたが、最近は、官僚相手に講義をする機会ができてきて、本当に何も知らないのかもしれないと思い始めました。

  生田武志、湯浅誠「貧困は見えるようになったか」(『世界』9月号、43ページ)

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 だとすると、官僚たちは賢い悪人ではなくて、無知な善人かもしれません。いずれにせよ生産力主義という井の中の蛙であり、人々の生活という大海を知らないか、無視しているのです。私たちとしては新自由主義的に逆流する所得再分配政策の正常化、福祉の復活を追及することで生産力主義への偏向を阻止することが必要です。それとともに「福祉から労働へ」と言うのなら、その労働の中身はどうなのか、を問い、生産過程そのもののディーセント化を起点に豊かな生活の実現による国民経済の活性化という「逆トリクルダウン」=ボトムアップ型経済への転換が求められます。そこでは、新自由主義によって与えられた「いす取りゲーム」教育から、ゲーム内容そのものの変革主体を形成する教育へ転換できるような、大人たちの発想の逆転が必要となります。「王様は裸だ」と言えることです。

 三菱UFJ証券チーフエコノミストの水野和夫氏は「もう内需には頼れない」という議論を展開しています(「朝日」8月21日付)。水野氏は「グローバル企業をつかさどる資本は、16世紀の絶対君主をしのぐような権力を手に入れ、圧倒的に優位になった時代といえる」とか「いまは資本に圧倒される労働者の没落が格差問題として表れている」などと喝破しています。グローバリゼーション美化論やあいまいな格差議論ではなく、誠に階級的に正確な現状認識だといえます。しかし水野氏は、資本の専制というこのような現状を宿命のごとくに受け入れることを人々に迫っています。「内需に依存した業界やその労働者は今後も苦しい」。「今後は、グローバル化と自分をいかに結びつけるかを考え、政府に依存しない心構えが必要だ」。そして中小企業に対してさえ「海外の顧客と直接つながって外需を獲得する新しい産業構造に立て直す必要がある」とか「世界で利益を上げる仕組みをつくっていかないといけない」として、そのための構造改革を強調しています。

 つくづく世のエコノミストたちはビョーキだなと思う。人々の生活はどこにもない。その役にたつ産業構造のあり方がどうなのか、という視点はない。資本と利潤がすべての出発点であり、そのために経済がどうあらねばならないか、という逆立ちした見方しかない。もっとも、構造改革があたかも人々の生活に資するかのように言う偽善的なエコノミストたちに比べれば、水野氏は厳格なリアリストなのかもしれません。確かに現状は水野氏の言うとおりです。しかしそれでは人間は生きていけないのだから、反抗と改善に立ち上がっています。それもまた現実です。

 トヨタ過労死裁判の原告・内野博子氏は「なぜ車は夜勤までしてつくらなければならないのか」と問うています(佐々木昭三「世界一トヨタの社会的責任 トヨタ内野過労死裁判勝利判決確定とトヨタ総行動をふまえて」40ページ)。まともな人間社会のあり方からすれば、病院や警察が24時間可動体制を維持するのは理解できるとしても、工場や商店で働く人々が夜勤をする必要はありません。資本間競争・市場競争による強制が、そのような非人間的労働を、あたかも不可欠な必要なものと錯覚させているのです。子どもだけでなく大人も大挙して「王様は裸だ」と声を上げ、人間生活から見て逆立ちした資本主義経済のあり方を少しでもまともなものに近づけていかねばなりません。本来、経済の主人公である人民が資本に対して必要な規制を加える、そのあり方の差が日・米・欧の間に社会の質において少なからぬ違いをもたらしています。同じグローバリゼーション下でも、ひたすら「適応」するのか、ある理念を持って「対応」するのかによって、人間生活への影響は大違いなのです。

 もっとも、十年一日のごとく人間的な経済のあり方への転換ということをただ一般的に主張しているのも芸のない話で、要するに私の勉強不足と思考能力の低さを露呈しています。今日のグローバリゼーション下で、社会民主主義者や市民主義者などが様々な議論を展開し、欧州などの社民政権が米国とは(大いにあるいは微妙に)違った政策を実施していることに具体的に注目していくことが、科学的社会主義の理論的発展には不可欠です。新自由主義のご無体な理論と実践に断固対抗するために原則論は欠かせず、そればかり言う結果になりますが、単細胞では発展はない、と自戒せねばなりません。

 

 

    <補>新自由主義と生産力主義・金融化

 印象的感想にすぎないけれども、ここで新自由主義の性格について思うところを書いておきます。

 新自由主義は資本の自由を全開にしてなりふりかまわず利潤追求します。市場との関係では、対政府及び資本間において、「官から民へ」と規制緩和で、市場拡大と競争強化を追求します。ただし独占的利潤の獲得が可能ならば競争を抑えることもあり、危機に陥った資本を救うために公的資金を導入することもあります。だから新自由主義に対して市場原理主義と規定するのは現象的にはおおむね当たっていますが、はずれるときもあります。そこで新自由主義はしばしばご都合主義と非難されますが、利潤追求第一主義という点では一貫しているので、本質的には資本原理主義と規定できます。

 また新自由主義は、生産力主義と金融化という重要な側面も持っています。もとよりブルジョア社会科学では本質的には生産関係の概念がなく、資本主義は永遠なので(資本主義的商品生産表象で他のあらゆる生産関係をも見る)、その矛盾の克服策はもっぱら生産力の拡大=経済成長であるほかなく、生産力主義は宿命といえます。もちろん生産関係が現に存在する以上、ブルジョア社会科学といえどもそれを現象的に観察することは当然であり、ケインズ主義的政策は労働者階級への部分的譲歩という意味では生産関係的アプローチだともいえます。しかしそれは所得の再分配という次元であり、生産過程そのものに触れるものではありません。生産過程そのものの社会主義的変革を防止するために所得の再分配の次元で対処したということです。それは高度成長期にはかなり有効でしたが、低成長期に入ると機能不全となりました。新自由主義はそのような「彌縫策」としての生産関係アプローチを排し、生産過程そのものにおける反革命(労使関係への規制を排除し資本の自由を全開にする)という正面突破によって一定の経済成長を実現することで生産力主義を貫徹し、ブルジョア社会科学の本懐をとげたといえます。

 ここで生産力主義は二重の意味でいえます。一つは、現実のあり方として、所得再分配の次元ではなく、生産の次元での「改革」に本丸があるということです。もちろん所得再分配においても、福祉切り捨て・大衆課税・大資本優遇税制などの顕著な反革命が敢行されましたが、生産過程における反革命をテコに大資本が圧倒的な収益力を確保したことが土台となっています。それをバックにした財界の政治力とイデオロギー支配によって所得再分配の反革命も可能になったといえます。先述の「朝日」記事で水野和夫氏は、グローバル化の下では「『改革なくして成長なし』を唱えた小泉元首相のおかげではなく、改革がなくても、大企業・製造業は成長したのだ」といっています。これでは構造改革をその「成果」と害悪において過小評価する恐れはありますが、独占資本の自立性を強調することで、経済が政治を規定し、生産が分配を規定するという基本的関係の認識につながる言葉だとはいえます。

 二つ目には、現実の捉え方の問題です。科学技術の応用もさることながら、実際には様々な搾取強化によって資本蓄積を拡大してきた部分が大きい、ということからいえば、この「生産力発展」は生産関係の「改革」に起因するところが大きいといえます。にもかかわらず生産力主義的偏向の目でこれを見ると「生産の合理化による経済成長」というように自然現象的に捉えられてしまいます。

 さらには、貨幣資本過剰時代の資本主義として、新自由主義は金融化という特徴を持っています。実体経済での搾取強化と金融面での投機の全面的解放とが表裏一体となっています。ちなみに新自由主義はもっぱら貨幣資本循環の視点で経済を捉えているように思われます。生産資本循環による歴史貫通的な再生産の視点、ならびに商品資本循環の視点によって、(剰余価値部分を含んだ)商品の実現過程が織り成す、資本流通と所得流通の絡み合いが、社会的総資本の再生産つまり国民経済を形成するという捉え方も欠如しているのではないか。とにかく貨幣を投下して増大させるためなら何でもありで、しかも長期的視点がなく、短期的利益をひたすら求めているようです。生産過程においては、賃下げや労働条件悪化を中心とするコストカットが利潤追及の主要な手段となっているので、科学技術の応用による生産性上昇という正常な方法へのインセンティヴが低下する可能性があります。また貨幣の自己増殖はありえないのですが、あたかもそれが可能かのようにマネーゲームに狂奔しています。その目で国民経済を見ると、「『企業の価値=株式時価総額』という株主資本主義流の国富論が金融立国論として展開され」(『前衛』9月号、前掲の鳥畑論文、38-39ページ)ることになります。経済の実体とは何よりも、人々の生活であり、それに対する生産物やサービスの供給活動ですが、それらから乖離した金融活動によって擬制資本の大きさを競うのがいかに危険かは言うまでもないことです。社会的再生産の観点を欠いてもっぱら貨幣資本の増殖を追及するのは、以上のように、生産過程では不健全な搾取強化につながり、そのことがもたらす消費不況などの実体経済の不振、つまり資本の過剰蓄積傾向も相まって、金融面では実体経済から乖離したマネーゲームへの傾斜が強まります。このように見てくると、金融化と結びつくと、生産力主義も必ずしも力強い経済成長をもたらすとはかぎらず、労働力破壊的な搾取への依存によって格差景気と社会的閉塞感に帰結すると言えそうです。

 

    <その他>

 以前に『世界』7月号、諸富徹氏の「排出量取引制度を擁護する」を肯定的に紹介しました。引き続いて9月号には、赤木昭夫氏の「気候は売買可能か 排出量取引への戒め」、岡敏弘氏の「排出権取引は中核的政策手段にはなり得ない」、明日香壽川氏の「温暖化交渉 サミットの『成果』と今後の展望 セクター別アプローチをめぐる混乱を超えて」が掲載されています。前二者は排出量取引には否定的であり、後者は肯定的です。岡論文では、個別規制・補助金などの政策とも合わせて検討されています。注目すべき論争となっています。

 やはり『世界』9月号、石田英敬氏の「公共空間の再定義のために(4) 公共空間を編み直す」では、ネット上の「情報がタダ」だということは、逆に人々が商業主義の奴隷になっていることであり、ネットを編み直して消費主義から脱却し、そこに公共空間を創出することが提唱されています。政治的文脈としては、「代議制民主主義とマスメディア」の時代から「代議制民主主義」と「参加型民主主義」との関係が問われる時代への転換が展望されています。ラテンアメリカで今追及されている「参加型民主主義」が、発達した資本主義国においても違った形で問題となるのが興味深い点です。

 それはともかくとして、公共空間を創出する試みの一つとして、テレビ放送におけるアーカイヴの組織が取り上げられいます。そのあるべき理念は「いかに、人びとの生活世界にテレビは触れ社会の記憶を生み出してきたかを、明確に整理し、文化の記憶と成熟に役立つデータ構造にもとづいたアーカイヴ」(119ページ)となります。

 そこで私は、社会科学を学び、民主的諸運動に参加する人々に役立つアーカイヴをネット上に作ることはできないか、と思いました。今ではアクセスが難しい過去の文章などをみんなの知恵で収集し公表するのです。その中から出版に結びつけるものも出てくるかもしれません。このように考えたきっかけは、ある学習会で資料を探していたとき学生時代に読んだものを発見し、是非広く多くの人々に知ってもらえないか、と感じたことです。それは以下の二つです。島田豊「若い日の自己形成と総括の意義」(赤羽功・有田芳生・浦上立志編集責任、立命評論特別号編集委員会発行『激動に生きる』/1976年/所収)、和田一郎「金融機関の中枢から」(『経済』1980年5月号所収)。いずれにせよ著作権をどうするかが問題となるでしょうが、何とかクリアして、特に若い人々の参考になるアーカイヴができないものか、と思います。しかしITオンチの私には無理です。

                                  2008年8月31日





2008年10月号

         格差論争をめぐっ

 今日、特に1990年代以降、貧困と格差が一般的にも大問題となり、反貧困の実践運動は大いに広がり、労働や社会保障のあり方をめぐる具体的議論も活発になっています。そうした中で近代経済学者の間でも、格差拡大への批判論と弁護論との論争が展開されるに至りました。しかし本来これは理論経済学の問題としては、理論的にも実証的にもマルクス経済学の真骨頂が発揮されるべきところです。

 関野秀明氏の「現代日本の格差論争と『資本論』 資本蓄積にみる格差の本質」は主にマルクスの資本蓄積論の観点から問題にアプローチしており正統的だといえます。ただし「現代日本の格差論争」の全体像に触れるためには、近代経済学者間の論争内容、特に大竹文雄氏の格差拡大否定論をもう少し詳しく扱い、マルクス経済学の立場からの実証的研究にも言及すればいっそう良かったのではないかと思われます(それは紙幅の関係で無理かもしれませんが)。また『資本論』の取り上げ方そのものについて言うと、「領有法則の転回」(この言い方は、新日本新書版『資本論』からの引用とは違いますが、私としては学生時代から慣れ親しんできた表現として使用しています。用語の厳密な検討は措きますが)の捉え方にやや疑問があります。

 近代経済学者間では近年におけるジニ係数の上昇(格差拡大を表現するとされる)の解釈をめぐって論争が行われました。もちろんマルクス経済学の立場からは、ジニ係数の経年比較という方法そのものの限界として、このような国民経済全体での平均値ではなく、階級的分析が必要だという批判が当然あります。しかしそこに踏み出す前に、ジニ係数の解釈をめぐる論争そのものにも興味深い点があります。残念ながらこの論争を直接読んでいるわけではないので、伊東光晴氏による紹介に依拠します(『世界』2006年1月号所収の「増税を真剣に考えよう」)。

 関野論文にもあるように大竹文雄氏の著書はエコノミスト賞受賞を初め多くの栄誉に輝いています。伊東氏も統計調査の扱い方などの点でその研究業績を高く評価しています。その優れた分析力をもって大竹氏が下した結論は、ジニ係数の上昇は、高齢者世帯の増加と世帯人員の減少とが主な原因であって、実質的に経済格差が拡大したのではない、ということです。大竹氏によるジニ係数研究の成果を前提にしつつ、伊東氏はこの結論には反論しています。

 伊東氏によれば、高齢者世帯で当初所得の格差が大きいのは、年金だけで生活している人と、別に収入を得ている人との格差が大きいためで、これ自身が重要な問題であり、高齢化の影響を単なる自然現象のように扱うのは間違いです。また60年代からの趨勢を見ると、高齢化は一貫して続いているのに対して、ジニ係数は80年以前は縮小し、それ以降は拡大しています。さらには、大竹氏の研究を考慮して、2001年について高齢者世帯と母子世帯とを除いた一般世帯のジニ係数が調査され、0.4123となっており、全世帯0.4983よりも低くなっています。確かにこれは大竹氏の狙い通りの結果です。ところが1980年の(高齢者を含んだ)全世帯のジニ係数は0.3491であり、2001年の一般世帯よりもさらに低いのです。高齢化というハンデを除いた2001年の数値のほうが、同じハンデを背負った1980年の数値よりかなり悪いということは、ジニ係数の上昇は高齢化では説明できないということです。以上から、伊東氏は80年代から90年代にかけて所得格差はかなり拡大した、と結論づけています。

 『経済』2006年7月号所収の友寄英隆氏の「所得格差の拡大をどう検証するか 『法人企業統計』による『階級・階層間の所得格差』の試算」では「法人企業統計」を加工して階級的観点から所得格差が分析されています。マルクスの資本蓄積論を踏まえて、政府統計の中から階級的分析に利用しうるものを選びだし加工したこの労作の結論は、以下のようになっています。

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 検証によって明らかとなったことは、九十年代後半から現在の「景気回復」期へかけて、一方では巨大企業が労働者の雇用と賃金を大幅に切り下げ、中小零細業者への収奪を強めながら、他方では、その労働者・国民の犠牲によってもたらされた巨額な富の一部が巨大企業の役員層の手に渡り、所得格差拡大の背景になっているという現実である。今回の検証の結果は、こうした階級・階層的な視点からの統計分析が、今日の格差拡大の要因を解明するためには不可欠であることを示している。     74-75ページ

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 以上について、詳しくは「『経済』2006年7月号の感想」を参照してください。

 さて冒頭の関野秀明氏の論文については、先述のように「領有法則の転回」の捉え方にやや疑問があります。関野氏は『資本論』にしたがって「自己労働にもとづく所有にのみもとづいていた商品経済が資本主義的に発展するに従い、他人の不払労働の取得に転換する」(152ページ)と述べ次のように主張します。

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 ここで特に注目したい事実は、「自己労働にもとづく所有」、自らの努力・頑張りで所得を得るという法則は前資本主義社会のルールであることである。

          153ページ

 そして本稿にとって決定的に重要なことは、財界や小泉元首相が強調する所有・取得の「自己の努力、頑張り、責任」原則なるものは資本主義の経済法則には存在しないということである。彼らの強調する自由競争、自己努力にもとづく報酬、自己責任原則とは遠い過去の前資本主義社会に歴史的に存在していたものであり、未来社会へ向かう人間社会の発展法則に逆らう弱肉強食の考え方である。現代の格差は本質的に「頑張った人と頑張らない人」の格差ではなく、「頑張らせた人と頑張った人」との格差である。

          154ページ

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 そのような見方は「資本主義経済の本質を暴く」という限りでは正しいし、それを多くの人々が共有することは大切だけれども、おそらくその普及はなかなか困難であり、その努力には啓蒙主義的不自然さがつきまとうことになるでしょう。たとえば搾取という言葉の用法を考えてみましょう。マルクス経済学を学んだものならば、それが通常の資本主義的生産に不可欠なものであることを知っています。しかし世間の用法は違います。何か特別に過酷な労働条件を課すとか、ひどい低賃金とか、あるいはそれでぼろ儲けをする、といった状態を指す言葉として使います。だから今日のワーキングプアとか、外国人の「実習生」労働などに対しては搾取と言う言葉が聞かれることもあります。経済学的には、資本主義企業の利潤追及が成立している以上は、たとえディーセントな労働であろうとも搾取されているのですが、通常それが実感されることはありません。賃金が「労働力の価値」ではなく「労働の対価」として観念されている以上はそうなります。

 そしてそれは決して無知に基づくのではなく、資本主義的生産の客観的構造から出てきます。商品経済の所有法則は資本主義経済においてはなくなる、とはマルクスは言っていません。むしろ両者の一体性を強調しています。「資本主義的取得様式は、商品生産の本来の諸法則とどんなに矛盾するように見えるにしても、それは決してこれらの法則の侵害から生じるのではなく、むしろ反対にその適用から生じるのである」(新日本新書版『資本論』第4巻、1001ページ)。労働力の価値どおりの売買が行われている限り、商品生産の所有法則は貫徹されており、資本主義生産過程における搾取によって資本家が不払労働を取得することになり、まさにそれが資本主義経済の内実だとしても、それを覆い隠す流通形式は残ります。「資本家と労働者のあいだの交換関係は、流通過程に属する外観にすぎないものとなり、内容そのものとは無縁な、内容を神秘化するにすぎない単なる形式になる」(同前、1000ページ)。この神秘化の集大成が新古典派に代表されるブルジョア俗流経済学であり、資本主義的生産の特殊性が商品経済の性質に解消され、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層構造をもつ資本主義経済が平面的な市場経済として現象的に捉えられます。この捉え方は、「領有法則の転回」が備える神秘化作用という、イデオロギー発生の客観的な基盤に支えられている以上、強固なのです。

 『資本論』のこの文脈においては、商品経済の所有法則に対して「内容を神秘化するにすぎない単なる形式」という消極的な表現が与えられていますが、今日の格差現象から立ち入って搾取の本質を暴こうとする私たちにとっては、「内容を神秘化する形式」は重大な壁であり、多様な労働条件に付随する様々な賃金形態など、それ自身のあり方の綿密な分析が必要となるでしょう。労働者に対して搾取の本質を説くのは大切だけれども、現場に内在して新しい現象とそこでの労働者意識の変容を探ることなしには啓蒙主義にとどまります。

 先の二様の搾取概念に戻れば、私たちの当面する課題は、搾取自体をなくすことではなく、あまりに過酷な搾取からそこそこの搾取へのクールダウンであり、これは「ルールなき資本主義」から「ルールある経済社会」へ、という国民経済の当面の変革像に対応します。それは世間的意味での「搾取」をなくすことであり、その限りでは資本主義的生産の所有法則を知る必要はありません。

 しかし今日の格差拡大の真の根拠とその全体像を理解するためには、「領有法則の転回」をもたらす、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係との重層構造を知る必要があります。競争教育の中で育ち、職場においても成果主義賃金などの個人間競争が全面的に組織された環境に置かれた人々は、資本主義経済というか経済社会の全体そのものを市場競争的に捉えようとします。ここに「流通形式の神秘化作用」は強化されます。そうすると眼前にはっきりと見える諸個人の能力や努力の差異がそのまま社会的格差の原因として直結して見えてくるのではないでしょうか。これは日々の生活と労働の実感に裏付けられたものだけに解きほぐすのは容易ではありません。しかし過酷な搾取労働をディーセントな労働に変革する当面の闘いでも、資本=賃労働関係の壁には突き当たるのであり、そうした中で、「単なる市場経済としての資本主義経済像」が揺り動かされる可能性はあります。このときに啓蒙主義的に教え込まれるのではなく、これまでの様々な経験とそこでの実感がそれとして十分に尊重されつつ、搾取とその隠蔽の構造の理解につなげられ、格差と貧困を社会的に捉えられるようにリードされることが大切です。

 もちろん搾取概念や「領有法則の転回」に直接かかわるものではないけれども、『世界』10月号が若者の労働についての特集を組んでおり、現状の把握にはたいへん役立ちます。なかでも今野晴貴・本田由紀氏の「働く若者たちの現実 違法状態への諦念・使い捨てからの偽りの出口・実質なきやりがい」は、アンケート調査をもとに厳しい実態と屈折した意識状況を浮き彫りにしています。特に「やりがい」を分析していることは労働者意識に迫る点で重要です。また湯浅誠氏の「貧困ビジネスとは何か」は簡潔にして鋭い貧困ビジネス批判であり、実践の積み重ねが生み出した秀逸な理論化です。

          国民経済の新しいあり方

 昨年来のサブプライムローン破綻に続いて、今月、リーマンブラザーズ破綻を皮切りにアメリカ金融界は大混乱に陥り、グローバル金融市場も深刻な影響を受けています。アメリカ型金融ビジネスモデルとカジノ資本主義は危機に直面しています。いっそのこと新自由主義的グローバリゼーションの息の根を止めたいところですが、そのオルタナティヴはどのようなものでしょうか。田山謙堂、吉田敬一氏の対談「国民を豊かにしてこそ中小企業は発展します」にはそのヒントがあります。

 製造業中心の経済は、企業相互の生産活動が連携し会って発展する「育てあう経済」であるのに対して、アメリカ型の金融活動中心、それも投資ファンドが主役の経済は、M&Aを繰り返し、いかに高く売り抜けるかを追及する「奪い合う経済」である、と吉田氏は規定しています(76ページ)。ちなみに「読者の声」欄の「筆者からひと言」で、井村喜代子氏は「投機的金融活動は価値を生まないばかりか労働、資源、資産を浪費するものですが、それにもかかわらず膨大な収益をあげています。この膨大な収益はいかなる経路で取得され、いかなる内実のものなのか」(163ページ)ということを検討課題にあげています。吉田氏の言葉で言えば「奪い合う経済」のメカニズムを解明することになるのでしょうが、現実にはそれは無理がたたって持続不可能性を露呈しつつあります。それでもこのメカニズムの理解そのものは必要であり、その生成・発展・消滅を捉えるまでに至りたいものです。

 閑話休題。「奪い合う経済」へのオルタナティヴとしての「育てあう経済」をどう作っていくか。その前提的認識として、新自由主義的グローバリゼーションはカジノ資本主義の面だけでなく、実体経済の面でも持続不可能だということ、を確認する必要があります。先月紹介した水野和夫氏の「もう内需には頼れない」(「朝日」8月21日付)では、中小企業にさえも「海外の顧客と直接つながって外需を獲得する新しい産業構造に立て直す必要がある」などと主張されており、一見今日のグローバリゼーションに合わせた現実主義的考え方のようですが、WTO型の自由貿易体制そのものが今揺らいでいるのが現実です。吉田氏が言うように「二一世紀、現在の世界環境は、もはや食糧、エネルギー、環境が確保できるのか、分からない時代になっています」(80ページ)。農林水産業の振興を起点に、関連する中小企業や観光業、再生可能エネルギーを導入した地域循環型の町づくり(79-80ページ、田山氏)が求められています。国民経済全体でも、今日のような外需偏重の脆弱な体質から「内需中心、国内経済で循環する経済へと脱皮を図る」(77ページ、吉田氏)必要があります。もちろんこれらに向けては国の経済政策の転換や自治体の協力が必要ですが、それだけでなく「製品の質にかかわる課題」をも解決しつつ日本の国民経済の新たな地平を切り開くべきことを吉田氏は説いています。

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 ところが日本の地場産業は、確かに機能的には素晴しいかもしれないが、合成物質材料を使った「使い捨て型」製品中心で、これは「後進国型」の域を抜け出ていない。その点で、先進国にふさわしい内需型経済の仕組みをどう考えていくかというのは、製品の質にかかわる課題でもあります。中国、アジアの追い上げ攻勢の下で、大量生産、標準規格化商品では、日本の産業はやっていけなくなっています。過去の「成長志向」から、持続可能な「成熟志向」の経済への転換という課題が、そこからも迫られていると思います。

 バブル経済崩壊後、一○年以上たっても、日本経済は安定した発展軌道を取り戻していないわけですが、それは日本が、本格的な先進国型経済、内需循環型経済に脱皮できるかという、過去の不況とはまったく異なる解決口が求められていることと関係しているのではないでしょうか。       78ページ

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          排出量取引制度をめぐって

 『世界』誌上で排出量取引制度をめぐる論争が続いています。9月号における赤木昭夫氏と岡敏弘氏の排出量取引制度批判論に対して、10月号には諸富徹氏の「排出量取引制度の本格実施へむけて」と藤井良広氏の「『日本版・排出量取引制度』の・孤立リスク・」が反批判を加えています。私には論争を評価する能力はありませんが、諸富氏の議論が最も分かりやすく感じられます。原理的には市場と規制をうまく組み合わせること、実践的には炭素税と排出量取引とのポリシー・ミックスが今後の地球温暖化対策をリードしていくように思われます。

          平和的生存権の問題

 名古屋高裁による自衛隊イラク派兵違憲判決(4月17日)に対して、政府側はことさらに無視パフォーマンスで応じていましたが、ついに航空自衛隊が年内にイラクから撤収することになりました。イラクでの戦争と平和をめぐる情勢の展開と名古屋高裁判決の重みなどがもたらした朗報です。

 「『経済』8月号への感想」でも触れましたが、同判決に対する奥平康弘氏の批判が波紋を広げているようです(『世界』7・8月号所収の「名古屋高裁の『自衛隊イラク派兵差止請求控訴事件』判決について」上下)。もちろん奥平氏は九条厳守派ですが、「個々の市民に、『平和的生存権』が保障されているという九条構成には、相当に懐疑的で」あり、同判決が平和的生存権の具体的権利性の論証に成功しなかったと考えています。これに関連して小沢隆一氏は、奥平氏の主張について「平和的生存権は、それが侵された際の裁判よりも、侵されまいとする運動の中でこそ役割を発揮するということであり、重要な指摘といえる」と評価しています(「今こそつかもう憲法九条と平和的生存権のかがやき イラク派兵違憲判決から派兵恒久法の危険性を見る」40ページ 『前衛』10月号所収)。こうした見解は、あえて相違点(平和的生存権は、裁判に持ち込めるような個人の具体的権利として確立されているかどうか)での批判は避けて共通点を強調した感じです。

 実際にこの訴訟に参加した人々をシンポジストに迎えて、7月17日に「第22回市民と言論シンポジウム」が名古屋のNPOボランティアセンターで開かれました。その中で中谷雄二弁護士は「判決文だけを読んで批判する側の人と、訴訟の流れの中で裁判官と現実に対峙している立場の違い」という観点から奥平氏を批判しています。全国の法律家・実務家は判決に概して好意的であり、奥平氏から見れば判決文は不十分だろうけれども、裁判日程を考えれば止むを得ないことであり、理解すべきだ、と。小林武愛知大学教授は「平和的生存権は裁判規範性を有し、人々はこれを根拠にして平和のための訴えを起こすことができる」という名古屋高裁判決の認識は、決して突然出てきたものではなく、湾岸戦争以来取り組まれてきた全国的運動の中で理論的に深められてきた成果だとしています。そして以下のように続けます。

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 正面から平和と人権を結びつける、あるいは人権としての平和という認識をとる判決だったので、この判決がもっている豊かさというか、これから発揮されるであろう可能性は、今考えられる以上に大きいと思います。奥平氏はそういう可能性があるというのは、なおあいまいということだと、むしろ警戒的に見ておられます。そういう視点も大事だとは思いますが、私は同時に、発展的にこの豊かさをどう活かしていくかという観点から考えるべきだと思っています。

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 中谷氏や小林氏の議論が必ずしも奥平氏の批判に噛み合っていないように思われますが、現場からの発言としての重みは尊重すべきでしょう。護憲運動の発展の中で建設的に議論されるべき課題です。

 ところで論点は異なりますが、九条と現実との関係について、小林氏の以下の発言が参考になりますので、紹介します。

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 ここで私は、判決がなぜ「法令違憲」(注 法令違憲=法令の全部または一部に対して違憲を宣告すること)に入らなかったのか、その点の今日的意義について述べてみようと思います。その一つは、戦後(少なくとも長沼判決から現在までの35年間くらい)の政治状況や世論が大きく変化したことです。正面切って「法令違憲」が出せるような状況ではなくなってきていること。二つには、九条があるにもかかわらず、日本には世界有数の強大な軍隊が成立し、九条の実効性が大きく後退していることです。

 しかし、九条の規範を考える時、実効性とともに拘束性という一面があります。つまり、拘束性があるために戦闘地域への派兵や武力行使は禁止するとイラク特訴法の中に書かせるわけです。そして、そこからはみ出せば、取りも直さず違憲になります。九条の拘束性は健在であり、九条は生きているということです。さらに言えば、日本政府が自ら作った法を犯してまで、航空自衛隊のような違憲行動をせざるを得なくなっている対米従属という政治的な問題を指摘しなければなりません。

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 九条と現実との矛盾は私たちの立場からすればはなはだ遺憾なことなのですが、それが一つの現実を構成しており、それを基に理想と現実との様々な綱引きの議論が起こり、果ては、矛盾的共存という現状への開き直りのような議論(それが常に後退的・保守的とは限らず、右傾化が激しいときには抵抗の意義さえもつこともある)も飛び出してきて、この矛盾は左右を問わず政治運動の動因とさえなっています。理想から出発することは大切だけれども、それだけでなく、この現実を直視し綿密に解釈し直していくことを抜きに運動の前進はありません。小林氏の発言はその試論として重要です。なおこのシンポジウムでの発言は、次の機関誌から引用しました。

日本ジャーナリスト会議東海地区連絡協議会「東海ジャーナリスト」第79号 2008年9月16日  連絡先 TEL 052-531-7284(加藤剛 方)                               
                               2008年9月29日



2008年11月号

         格差と貧困 資本主義と社会主義

 シリーズ・現代経済入門第5回、唐鎌直義氏の「貧困論の今日的課題」は、一面では平易で静かな入門の文章でありながら、その実、研究者たちに挑戦した熱い論争文とも見えます。

 唐鎌氏は、貧困の原因を(したがってその解決も)あくまで社会的に捉えることを強調しています。そこに「コペルニクス的転回」としての「貧困の発見」の意味がある、と。それを捉え損なって、そこに折衷的に個人的原因を含ませる「理性的見解」に立つ多くの研究者を批判しています。

 すべての社会的行為は個人の行為を通して現われるのだから、貧困を初めとするすべての社会的事実を個人的原因から説明することはできるし、そこに間違いはありません。新古典派などの方法論的個人主義とかアトム的社会観(まず個人の行為があり、その集積として社会のあり方が決まる)というのはこの現象的因果関係をそのままなぞったものでしょう。しかし唯物論の観点(存在が意識を規定する)からは、個人の行為は、その個人の意識から独立した社会のあり方によってすでに規定されています。この社会的規定の中には、人間の自由に対する束縛も多く含まれており、それを正しく認識し変革するために社会を本質的に捉えるのが、本来の社会科学の任務です。あたかも束縛のない自由な諸個人が社会を作っているという社会観は、一方では、商品経済の発展による前近代的束縛からの解放を反映していますが、他方では、資本の自由が人間の自由を抑圧していることを隠蔽し美化するものであり、特に新自由主義段階の今日の資本主義世界においては悪質な弁護論であり、俗耳に入りやすい現象論というほかありません。今日では、資本の自由が市場の自由を支配することで人間の自由を抑圧しているにもかかわらず、「個人の自由な選択」が実現しているという偽善がまかり通っています。今日の労働市場においては、日雇派遣という「自由な働き方」が可能である!これが方法論的個人主義の最新の出発点でしょうか。

 資本の自由は市場の自由を支配するだけでなく、政権をも支配しているので経済政策も格差と貧困を創出しています。生産過程における搾取強化、労働市場での「自由な選択」、それらを積極的に推進して「格差はどこにでもあるものだ」と放言する政府。唐鎌氏がいうように「貧困はもはや『政治の失敗』の結果でも、『制度の失敗』の結果でもありません。もろもろの格差拡大政策を通じて積極的に創出されたもの」であり「政財界にとって利用できる、意味ある現実として存在しています」(137ページ)。

 こうした過酷な現実を前にしながら、貧困と格差を批判する側になお社会的原因説に徹底できずに個人的原因説を忍び込ませる論者が多いことに対して、唐鎌氏はじれったさを感じ、そのような社会的雰囲気が問題の解決を妨げている、と考えているようです。そしてヨーロッパの福祉国家では、個人的原因説を克服するイデオロギー闘争が国民の側から相当に行われてきたことに言及してから、以下のように続けます。

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 とくに日本では、戦後の民主化過程で社会保障制度が外部から導入されたこともあって、イデオロギー闘争が未成熟に終わったためか、はたまた福祉国家を修正主義とか改良主義と捉える伝統が長く支配したためか、それとも唯物論でありながら主体性論に傾倒してきたためか、未だに貧困の原因を個人に求める傾向が強いです。  

                    140ページ

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 この後、チャールズ・ブースとシーボーム・ラウントリーによる「貧困の発見」(=社会的原因説への「コペルニクス的転回」および政府による政策課題としての認知)を紹介して、「貧困の発見」において「イギリスではマルクス主義よりもフェビアン社会主義の方に一日の長があった」(141ページ)と主張されます。つまり社会調査に基づいて「貧困の発見」を果たし、社会主義革命ではなく資本主義の枠内での漸進主義的改良を選択したイギリスの社会民主主義者の方向を唐鎌氏は支持しています。ひるがえって上記引用の日本のマルクス主義者の状況は厳しく批判されています。

 論点は二つあって、貧困の原因論と福祉国家への評価です。フェビアンは貧困の社会的原因を正しく認識し、福祉国家の基礎を築いたといえます。対して日本のマルクス主義者は、貧困の個人的原因説を克服できずに福祉国家を否定しました。今日の時点でどちらが正しかったかは明白です。なぜ日本のマルクス主義者は間違ったのか。

 唐鎌氏がここで「主体性論」というのは、社会主義へ移行する客観的条件は成熟しているのに主体的条件が未成熟だから移行できない、という70年代の主張を指す、と限定的に使用されています(140ページ)。しかし「唯物論でありながら主体性論に傾倒してきた」という表現から推測されるように、70年代の政治認識に留まらず、戦後まもなくの唯物論哲学者の間で展開された主体性論争、およびそこから「新左翼」のイデオロギーに「進化した」主体性論のイメージをも重ね合せているのではないか、という気がします。フェビアンが社会調査に基づいて貧困の社会的原因を認識したのに対して、日本のマルクス主義者は観念的戦闘性から主体性を強調して結局、貧困の個人的原因説を払拭できず、左翼版の「自己責任論」に陥っている、というように考えられそうです(「新左翼」を典型としつつも正統派もまた)。通常の自己責任論(個人的原因説)に、目覚めないヤツ・闘わないヤツが悪い、という思いがプラスされるのが「左翼版」の特徴でしょうか。

 70年代の「主体性論」とも関係しますが、「福祉国家を修正主義とか改良主義と捉える」ことは、おそらく「資本主義の枠内での改革」とか、「市場を通じての社会主義への道」が十分に確立していない時期の認識ではないかと思います。たとえ民主主義革命から社会主義革命へ、という2段階革命戦略が確立していても、当初は、プロレタリアートが主導する民主主義革命は連続的に社会主義革命に転化すると想定されていました。そしておよそ市場の積極的役割などは想定しない計画経済としての社会主義経済像が考えられていました。そうした路線においては、福祉国家なるものは社会主義革命への道を妨げる余計な寄り道でしかありません。しかし現実には、ソ連・東欧社会主義体制の行き詰まりと崩壊、それに比しての資本主義体制の強さなどから、発達した資本主義国における革命は、市場の役割を重視して一歩一歩進むような長期的で漸進的な過程であることが分かりました。そのような路線では、福祉国家の存続と改革は必要でしょう。

 しかも資本主義の高度経済成長の終焉後は、ケインズ主義に基づいた福祉国家に対して新自由主義による右からの攻撃が始まり、人民の既得権が侵害されるようになり、マルクス主義者にとってもそれへの反撃、つまり福祉国家の擁護が課題とされるようになりました。これは人民のこれまでの闘争による改良の成果の重要性を切実に感じさせるものでもあり、観念的な急進性は淘汰されざるを得ませんでした。

 今日の日本のマルクス主義者が福祉国家に対してどのように評価しているかは分かりませんが、少なくとも左から「否定」している場合ではなかろうと思います。北欧を含めて西欧福祉国家から批判的に学び、眼前の日本資本主義の変革に積極的に役立てて、人民の生活・労働・営業の擁護・改善を具体的に推進すべきです。中心的視点は人民の利益であり、そのための社会変革であり、そのための社会認識です。地に足のついた社会科学のあり方として、諸個人の問題を社会の問題として捉え、その着実な変革の道を探ることが求められます。福祉国家の評価はそうした文脈においてされるべきでしょう。その際に福祉国家へのこれまでの否定的な評価についての総括が欠かせません。

 現実の進展、また現実への認識の深化にともなって理論が変化することは当然ありうるのですが、その変化の根拠が、従前の理論への評価とともに明らかにされる必要があります。そのような反省関係があって初めて、理論への現実の規定性は実現されるのであり、それなしのなし崩しの変化は単なる現状追随・大勢順応であり、理論への現実の反映でも理論の変革ともいえません。それは理論の存在理由の喪失と将来にわたる誤りの再生産の可能性につながります。そこであえて一知半解をも省みず、上記のような思いつき的試論を書いてみたのです。

 ところで唐鎌氏は、貧困と格差の問題を論じるのに、戦後民主主義とか憲法の「法の下の平等」の理念とかを提起しています(137ページ)。ここには一見すると違和感があります。なぜなら貧困と格差は資本主義経済の問題(剰余価値の搾取と資本蓄積法則)であり、その究極的解決は社会主義経済への変革によるべきものであるのに対して、戦後民主主義とか憲法の「法の下の平等」の理念とかは、とりあえずは資本主義経済を前提にした政治と法の問題であるからです。だからそこには、資本主義と社会主義、および政治(法)と経済、という二様のずれがあります。

 たとえば論文ではこのずれが貧困の認識において現われています。一方では江口英一氏の『現代の低所得層 「貧困」研究の方法』(残念ながら私はこの浩瀚な名著を読んだことはないが、マルクスの資本蓄積論を実証しているということです)に依拠して、戦後高度経済成長期を通じても貧困は存続したことがいわれ、他方では同時期の戦後民主主義の進展により貧困の解消が期待された、といわれます。もっとも、表現は微妙であり、前者では「江口氏によれば」であり、後者では、貧困の解消が「期待された」であり、著者自身の断定は示されていないともいえますが。また論文の主な対象が貧困一般というよりは、高度経済成長破綻後の新自由主義政策によって創出された貧困であるという意味でも、この両者の食い違いはさほどに問題ではないようにも見えます。しかし現代の貧困に対しても戦後民主主義や憲法の理念を対置するのが著者の立場であるので、依然として上記の「二様のずれ」の問題は残っているといえます。

 「二様のずれ」をほぐしてみたい。民主主義・資本主義・社会主義といった概念は、それぞれに思想・運動・制度として、また政治・経済として多義的に使用されます。もちろん民主主義は主に政治的概念だけれども、経済的民主主義ということもいわれます。資本主義・社会主義というのも主に経済的概念だけれども政治的概念としても使用されます。それらがまた思想・運動・制度という様々な次元で問題とされます。

 将来の社会主義的変革を目指す立場の場合、資本主義・社会主義は変革のパースペクティヴでの遠近という違いを持ちつつも、現代資本主義経済における重なり合いという側面も持っています。たとえば現代の福祉国家は資本主義経済の上にありつつも、社会主義への変革過程において一定の役割を担うかもしれません。また資本への民主的規制は、それ自身は体制としての社会主義経済への転換ではなく資本主義段階の枠内にとどまりますが、資本の自由が放任された場合の弊害を除く措置であり、資本自身の不可避の衝動を社会の名をもって規制するという意味では、資本主義経済の部分的否定だといえます。

 ここでは以下のことに留意したいと思います。福祉国家とか資本への規制とか、その他含めて資本主義経済への修正・改良は人民の要求・運動の部分的実現であり、体制側からすれば一定の対応・譲歩です。高度成長期のケインズ主義時代にはそれは人民を体制に包み込む仕組みとして体制的に機能し、資本主義経済を安定化させる意義をもちました。高度成長破綻後の新自由主義時代にはそのような飴を配る余裕はなく、失業の恐怖と「改革」賛美のイデオロギー的洗脳などによって、人民をして修正・改良の成果の破棄を余儀なくさせることになりました。つまりケインズ主義時代と新自由主義時代とでは、改良の意味が反転しています。前者では改良は資本主義体制に組み込まれたものであり、後者では改良は体制維持のために廃棄されるべきものとなりました。だから改良の要求運動(あるいは改良の成果を守る運動)の意味も異なってきます。もちろん要求運動そのものは、資本主義経済の矛盾を反映して起こってくるものであり、その意味では常に資本主義経済への異議申し立ての要素をもっているとはいえます。しかしケインズ主義時代には要求実現に部分的に応じて、そのエネルギーの一定部分を体制維持機能に回収することができましたが、新自由主義時代にはゼロ回答どころかマイナス回答で応じるほかなく、対抗する要求運動も反体制化の傾向を帯びてきます。改良はかつては穏和な体制的要求でありがちだったのですが、今では資本主義体制そのものとの対決の要素が増大してきたのです。このことは「マルクス主義の社民化」と見える現象を説明する一つの要素を提供するかもしれません。マルクス主義者も含めて、「福祉の充実」というような改良要求を掲げること自体がかつてとは違って反体制的な意義をもちうるのです。

 日本国憲法を含む戦後民主主義の経済的土台は資本主義であり、もっといえば対米従属の国家独占資本主義ということになります。これは支配体制の本質を規定したものですが、それに加えて戦後変革の民主主義的性格を反映した部分を見逃すことはできません。唐鎌論文が貧困と格差の問題意識から戦後民主主義を問題にする場合には、労働改革・農地改革・財閥解体そして種々の社会保障立法を含みます。これらは経済的民主主義であり、資本主義への規制を含みます。「社会の一方の側への富の蓄積と他方の側への貧困の蓄積」という資本蓄積の法則をある程度抑止するものです。つまり戦後民主主義は政治思想・制度だけでなく、経済思想・制度としても存在しているのであり、しかも変革のパースペクティヴという問題意識からすれば、資本主義への規制、将来の社会主義的変革の芽という意義も持ちます。対米従属の国家独占資本主義は、経済的民主主義を体制安定装置として抱えていたといえるかもしれません。現実の日本戦後史はこの土台によって資本主義の高度経済成長を成就するのですが、その破綻後の、格差・貧困全開の新自由主義的資本主義への対置形態として、唐鎌氏が戦後民主主義を取り上げるのは、以上のような意味で大いに根拠があるといえます。

 論文では憲法の「法の下の平等」が強調されています。これは市民法の規定であり、醒めた言い方をすれば経済的不平等と共存するものだ、となります。もともとはブルジョア革命により人間の平等が実現されるという理念だったのですが、その後の資本主義経済の現実は、法の下の平等が経済的不平等を生み出すことを見せつけました。そこで市民法とは矛盾する生存権など社会権が、ワイマール憲法以降、資本主義国の憲法にも埋め込まれるようになりました。日本国憲法をあえてブルジョア憲法と規定するのでなく、ブルジョア革命のもともとの理念を資本主義経済の現実の下で実現するため、あえて矛盾的存在の社会権を包含したのだと捉えれば、「法の下の平等」の理念を広く理解して貧困・格差に対置することも容認されうるように思います。

 以上のように、格差・貧困に憲法・戦後民主主義を対置するのは資本主義の枠内での変革として大いに意義があります。しかしその変革は社会主義的変革と現時点でも観点としては重なる部分があり、歴史時間的には変革の連続性があることも確認できます。なぜなら格差・貧困は資本蓄積が法則的にもたらすものであり、その一定の規制は資本主義下でも可能ですが、根本的解決は社会主義的変革によらねばならないからです。私たちが日々痛感する格差・貧困の現実は、資本主義経済そのものに根がある以上、今日でも資本主義批判の意識は人々を捉え始めており、これからの変革の経験が人々をしてやがて資本主義制度そのものを乗り越えさせる日が来ることでしょう。かなり先の話かもしれませんが。逆には次のこともいえます。新自由主義とは裸の資本主義であるので、資本主義批判の高まりは、当面する新自由主義打倒の闘いにも大きく貢献することになります。

 

         人間と社会を底上げする変革はできるか?

 「清濁合わせ飲む」などというのは汚い生き方を合理化するイヤな言葉だと思っているのですが、資本主義社会を生きるのは確かになまやさしいことではありません。山口孝氏の「研究余話4 パチンコ屋」に登場する根本悌二氏の生き方は凄まじいものでした。根本氏は助監督であり日活労働組合そして日映演(日本映画演劇労働組合)委員長を努め、後に日活の社長・会長にもなり、高い志を持続しつつ、怪しげな人物たちと渡り合いながらきわどい経営を続けたけれども、結局会社は倒産しました。「パチンコ屋」という題名は映画産業の斜陽ぶりにパチンコ産業の隆盛を対置したものです。

 経営再建の相談に訪れた根本委員長に、山口氏が「直営映画館を閉鎖して、レストランかパチンコ屋にしたらどうですか」と提案したところ、憤然とした根本氏は「映画の良心を守る」と言い残して研究室を出ていったそうです。その後、社長となった根本氏は香港の詐欺師などを相手に資金を引き出したりして、危ない橋を渡り続けたようです。1996年、脳出血で闘病中に会社は倒産してしまいます。しかしなおも「日本の『金権主義の系譜』というようなものも書きたい」とリハビリに励んでいましたが、2000年に亡くなりました。

 読んでいて痛ましい感じがしました。根本氏は労働運動家としても経営者としても「映画の良心」に生きようとしましたが、その目的のためにはブラックな手段に訴えざるをえませんでした。山口氏の教え子が、日活を吸収したナムコの執行役員として「にっかつ」会館をパチンコ屋にするという話も出てきます。批判的会計学者とその弟子も資本主義経済での生き残りを直視する以上、きれい事は言ってられない、ということでしょうか。山口氏の諦観を表わす言葉があります。「人類の追及すべき永遠の理想は真・善・美とか、自由・平等・友愛とかいうが、放っておくと飲む・打つ・買うが盛行するのではないだろうか」(160ページ)。もっと人々が映画にコンサートに行けるようになれば、人間と社会の質は違ってくるのではないかという気がしますが…。

 などと悠長なことを言っていたら、厳しく早い現実には追いつかない、と言われそうですが、人間と社会を底上げする変革力という意味で参考になるかもしれない話を紹介します。9月1日にフランス国立リヨン歌劇場の首席指揮者に就任した大野和士氏へのインタビューが「しんぶん赤旗」に載っています(中村尚代記者「音楽は心の壁を開く」9月29・30日付)。「ヨーロッパでは町全体を巻き込んだ、音楽の教育普及プログラムが盛んだと聴きます」という中村記者の問いに大野氏は以下のように答えています。

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 移民の方がたくさんいて生活が貧しく、若者の暴動がおこり、車がもやされるなどの事件が頻繁におきる地域がありますが、リヨンの劇場は、そんな町に舞台装置をつくる工場を建てました。そして、地域の子どもたちにその場でリズム教育をし、安い食券を配り、劇場の食堂で給食サービスをしています。

 もう一つ、五年前、今の支配人が就任したときには、劇場の周りがヒップ・ホップの人たちであふれ、中に入れないくらいでした。支配人が、「最低限のマナーを守ってくれるなら、劇場のなかのホールが空いているときに使っていいよ」といい、若い人を劇場の中に入れました。最初は劇場の人も彼らも、まんじりともせず、居心地が悪そうでしたが、そのうちに、彼らがヒップ・ホップの世界大会で優勝したんです。そうしたら、フランス全土で話題になりまして。今や彼らは劇場の制作のシステムのなかに組みこまれています。「ポーギーとベス」などのオペラがあるとダンサーとして契約され、子どもたちへのリズム教育にも参加しています。

 劇場が中心になって音楽をつくり、演奏のノウハウを教えた結果、劇場が社会教育、生涯教育のシンボルとなり、その実践者となった。これが、いまのリヨンのオペラ劇場の位置を特殊たらしめているところで、私は、とても魅力を感じております。

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 しかるべき人々の手にかかれば、芸術は人々と地域社会を変え、「飲む・打つ・買う」から「真・善・美」「自由・平等・友愛」の方向に導く可能性があるということです。芸術至上主義ではこうはなりません。このインタビューは大野氏が考え実践する「芸術家の使命」を伝え、感動的です。

 大野氏は、ユーゴ内戦時、クロアチアのザグレブ・フィル音楽監督として、灯火官制下での公演を体験し、集まり来る聴衆をみてこう考えました。「人間は困難に直面したとき、尊厳というものが危機にひんしたときにこそ、音楽、あるいは芸術を求めることを知りました。それは、人間であるということを自己の中で確認することなんですね」。このように芸術の根源的意味を捉える大野氏は、格差と貧困の広がる世界を前に音楽家の使命についてこう言います。「音楽を共有することによって人間同士が国境を超えた言葉のいらない会話ができるということ、言葉の壁を超えた心と心の窓を開き合うことができるということ。これは、厳然たる事実だと思うので、これからもより強く願い、仕事をしていきたいと思っています」。

 このように音楽や芸術は崇高であるだけでなく、人々の身近になければならないと大野氏は本気で考えています。

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 今まであまりに忙しく働いてきた方にとって、夜七時のコンサートに行くということ、六時半のオペラに行くということは、事実上不可能だったわけです。その基本は今も変わっていない。大多数の方がたにとってコンサート、演劇、歌舞伎などの芸術が決して身近ではないのです。

 私の父母の世代にあたり、日本の高度経済成長を支えてこられた方々に、音楽家として音楽を聴いてほしい。その方たちの癒やしのためにこそ芸術が存在するにもかかわらず、届いていない現実があるのです。「私は何をもって音楽家であり続けるのだろう」という問いがふつふつと沸いてきました。

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 芸術への愛と普通の人々への愛とが見事に一致しています。庶民の現実にも思いを寄せるマエストロがここにいる。思うだけでなく、大野氏は自身がピアノを弾いて若い歌手と一緒に、介護施設や子ども病院を回る「こころふれあいコンサート」をボランティアで実践しています。

 芸術家は自らの道を究めるだけでも大変だし、またそれだけで自足できる存在でもあります。確かに多くの芸術家は経済的に恵まれないので、そこには芸術と普通の人々との関係を考えるインセンティヴが働きますが、十分に自立できる一部の芸術家の場合には芸術至上主義に走っても不思議ではありません。経済的問題だけでなく、クラシック音楽のような内容自体が高級なものではますますその傾向が大きくなるでしょう。そこを突き抜けて大野氏のように芸術の根源的意味を問い、人々に向かって実践する芸術家がいるということは、人間と社会を底上げする変革力を形成していると思います。

 ひるがえって社会科学者の使命は果たされているでしょうか。研究者の間で高度な理論を築き上げていくことはもちろん必要ですが、普通の人々に普及することが今ほど求められるときはないように感じています。

 

         歴史法則について

 『前衛』11月号に近藤忠孝氏の「公害裁判勝利への展望開いたイタイイタイ病のたたかい 提訴四○周年に思う」が載っています。私たちは一連の公害裁判で患者側が勝利したことを知識としては知っています。そこでなまじ歴史発展の法則を心得ていると思って、公害裁判の勝利を社会進歩の一駒として暗記したりするのですが、こういうのは「結果論としての史的唯物論」とでもいうべきもので、歴史のダイナミズムが抜け落ちています。

歴史法則を学ぶのは、まさに今、渦中にある「歴史としての現代」を生き抜く参考にするためであり、ならば具体的な動きの中で歴史を捉えねばなりません。公害裁判は当時敗北必至といわれました。近藤氏を初めとする青年弁護士たちは前人未到の困難な闘いに挑んだのです。近藤氏は、勝利を切り開いた彼らと被害住民たちの知恵と情熱を生き生きと伝えています。近藤氏も出演したNHKテレビ番組の題名のようにまさに「その時歴史が動いた」のです。ここで下手な紹介をするよりも是非とも多くの人々に読んでほしい、わずか5ページの論稿です。

 かつてアグネス・スメドレーの『偉大なる道』を読んだとき、「中国革命は歴史の必然」などということを軽々しくいうべきではないと思いました。その中身を知って重みをかみしめて初めていいうるのだ、と。おびただしい人命が失われました。もちろんそれは犬死にではなく、解放のため、不可能を可能とするような必死の険しい闘いの犠牲だったのです。清朝の搾取と帝国主義列強の侵略で人間としての尊厳を奪われた農民と労働者たちがぎりぎりのところで立ち上がったのであり、とても無理と思えるような歴史の扉をこじ開けたのです。ここから、歴史の法則とか必然というものがいかにして貫徹されるのかに思いをめぐらせ、グローバリゼーショ下に大恐慌の再来かと思われる現代世界と日本の歴史を切り開くため為すべきことに向かっていきたいものです。

 やはり『前衛』11月号の巻頭グラビアは「神々の源郷 熊野」と題した熊野の自然と信仰にまつわる7枚の写真であり、巻末には説明文が掲載されています。写真と文は岡田満氏です。熊野の険しい自然と独自の生活様式が彼の地の宗教を生み出したことをまず押さえ、その後の権力者と庶民とのかかわりの歴史に思いを馳せ、その反映としての現代、そして未来を切り開く私たちの立場にも岡田氏は言及しています。ここには生きた史的唯物論を見ることができます。長くなりますが、終わりの部分を引用します。

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 今日、熊野を旅して最も魅力に感じるのは、こうした変遷を経てきた宗教や祭など伝統文化が、原始の時代にまで遡って見られることだと思います。それらは原始的な宗教の原形から、仏教や山岳・海洋信仰との習合、国家権力からの干渉などを経てきた経過を多面的に見せてくれます。そしてそれらを通じて豊かな熊野の自然に溶け込んで時代の制約の中で慎ましやかに生きてきた人々の、素朴な生き様を見せてくれるのです。

 現代に生きる私たちは、住民の総意で時代を切り開く事ができる時代に生きています。古き時代から受け継いできた心や文化を大切にしつつも、新しい時代にふさわしい社会体制とそれを支える思想を確かなものとするために努力することが、現代の要請だと私には思えるのです。          232ページ

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 人々の生活への慈しみと変革の立場、そういう根幹があって、自然・宗教・国家などを一貫した歴史の歩みの中に位置付けることができます。一見したところ、混沌として暗いものにも理性の明りを照らすことができるのです。
                                  2008年10月28日





2008年12月号

          金融恐慌の傾向と対策

 今進行している金融恐慌の性格と対策をどう考えるかは難しい問題です。これまで様々な問題について大槻久志氏の論稿は大いに参考としてきましたが、今回の論文「米国発の金融恐慌と世界経済の行方 その妖怪性の根源としての市場主義」に関しては疑問があります。

 一般には、今回の金融恐慌の深刻さが語られ(巷間「百年に一度の危機」とも言われる)、公的資金を投入する各国の政策に対して批判も多く出ています。しかし大槻氏は深刻な落ち込みは予想せず、これまでの世界的な政策対応も概ね肯定的に評価しています。

 金融恐慌の実体経済への影響としては、日本の7-9月期のGDPは年率換算で0.4%減であり、7年ぶりの2四半期連続減となり、与謝野経済財政相も景気が後退局面に入ったことを認めました(11月17日付「朝日」夕刊)。またIMFの2009年世界経済見通し(WEO)では先進国全体の成長率がマイナス0.3%と予想され、「第二次世界大戦後に先進国全体がマイナス成長に陥った年はなく、予想通りとなれば、異例の事態となります」(「しんぶん赤旗」11月8日付)。OECD加盟30ヵ国全体の経済見通しでも2009年の実質GDP成長率がマイナス0.3%に落ち込むと予想されます。「加盟国全体の成長率が年次ベースでマイナスを記録した場合、一九六一年の発足後初めてとなります」(同前11月15日付)。各地の地域経済や中小企業に関する報道でも前代未聞の厳しさが強調されています。雇用情勢も急激に悪化し、株価も低迷しています。

 大槻氏は株価下落の原因を株式市場自身の問題として捉え、実体経済の大幅な悪化を否定しているのですが、上記の経済見通しなどを見る限り疑問とせざるをえません。赤木昭夫氏は「今回の混乱と最近の混乱とを比較して、今回の混乱は規模がより大きく、影響が長引くと予測」し、「これから実体経済が悪くなり、金融にはね返り、それが実体経済を悪くし、さらに金融を悪化させ、二九年恐慌のように第三段階の本格的停滞に襲われるのが、二○一○年になるかもしれない。そうなると断言できないが、それもありうることを視野に入れ、大局を見誤らないことが肝心だ」(「世界恐慌への構図」、『世界』12月号所収、116ページ)と主張しています。伊東光晴氏はサブプライムローンを1980年代の前史から現在までていねいに検討した上で、今回の金融危機がサブプライムローン問題を超えて進行していることを指摘します。「二○○○年以降、アメリカの不動産バブルはすべての分野で進行し、そして崩壊したと言ってよい。サブプライム・ローンはその引き金になったにすぎないのである」。そして「アメリカの景気を左右する大きな要因である住宅投資の減少--それはアメリカの不況が進行することを意味する。それは同時に長期的である」と断じています(「世界金融危機から同時不況へ サブプライム・ローンの軌跡」、『世界』12月号所収、81ページ)。萩原伸次郎氏がケインズ主義的景気循環から新自由主義的景気循環への変化として特徴づけているように、アメリカではGDPの7割を占める個人消費の動向が住宅などの資産価格に左右されるようになったことからいっても、伊東氏の指摘は重大です。

 大槻氏は、株価が下げ止まらない要因として、「銀行その他の金融機関の損失そのものが、実ははっきりとつかめないからである」(大槻前掲論文、16ページ)と指摘していますが、それを「疑心暗鬼」(同ページ)と捉えるのはどうでしょうか。経済実体としての問題があるのではないでしょうか。アメリカ政府が用意した7000億ドルについて、赤木氏は「せいぜいそれは金融機関の資本不足の補填に過ぎない。全経済にとっての損失の穴埋めにはならない。…中略…焦げ付きで最終的に損失となる額は、アメリカだけでもその一○倍、七兆ドルを超えるだろう。…中略…信用不安解消の促進剤は提供できても、損失の穴は大きすぎて、埋めようにも、アメリカ政府にも手におえない。金融が肥大しすぎたのだ」(赤木前掲論文、106ページ)と指摘しています。全経済の損失を政府が埋めることはそもそも不可能だと思いますが、金融機関の欠損について見ても、サブプライムローンの不履行額に、低く想定したレヴァレッジ率を掛けても2兆ドルになる(同ページ)ということですから深刻であることは明らかです。

 それでは世界的に金融機関に公的資金を注入するという政策対応はどう捉えられるでしょうか。大槻氏はそれを的確とする根拠を述べています。

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 金融恐慌は、金融機関における資産の不良化、自己資本の損耗が基本的な原因となって、金融市場における信用不安、銀行間決済の不能、銀行の倒産、その連鎖という形をとるのであるから、当局が恐慌過程に介入するとすれば当然不良資産の買取りないし棚上げ、あるいは勘定の分離と、そうした処理に伴って表面化する自己資本の不足を補強することがその中心手段となる。        大槻前掲論文 15ページ

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 なおここで若干注意しなければならないのは、アメリカにおいては今回の公的資金注入で5年後には銀行業界の責任において返済処理されることになっているけれども、日本では初めから最終的には税金による処理が想定されていることです。それはともかく、赤木氏が上記のように指摘する量的な問題は措くとしても、当面のシステミック・リスクを回避する手段としては大槻氏の指摘が当てはまるのかもしれません。ただしカジノ資本主義を退場させるという問題意識からすると逆行になります。桜田氾氏は次のように本質をついています。

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 そもそも、金融秩序を維持するために設けていた規制を排したことが問題である。「京」の単位で計られるほど膨れ上り暴走する資金にタガをはめることこそが必要なことである。各国中央銀行が競って市場への資金の供給を行っているが、金融秩序の正常化を取り戻すには、むしろ資金を吸収すべきである。しかし、それをやれば資金繰りに行き詰まり破綻する金融機関が続出し、経済システムが混乱することは明らかだ。

      「世界金融危機と日本の銀行」、『経済』12月号所収、21ページ

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 ここには本質的・戦略的方向と当面の対策とのジレンマが見られます。しかし当面の対策だけに視野を限定するのでなく、その先を見通すことは必要であり、そうしてこそこの先カジノ資本主義を終わらせることを目指した経済政策の提言も可能になります。

 日米欧に新興国を加えたG20による金融サミットは11月15日「宣言」と「行動計画」を採択しました。友寄英隆氏は「投機的な金融活動への規制強化の方向は明確に打ち出されていますが、実効性のある具対策は、来年四月までに開く次回会議まで先送りされています。世界は、国際的な金融改革の扉を開いたが、まだ乗り越えなければならない困難な課題があるという感じがします」と評しています(「しんぶん赤旗」11月20日付「経済時評」)。こうしてカジノ資本主義への規制を世界的に共同して進めることは大切ですが、同時にいっそう深刻化するであろう実体経済の不況への対策をどう講ずるかも問題です。

 90年代不況に対して、伊東光晴氏は「公共投資による有効需要政策は効果を持たない」し、「金融政策はインフレ対策としては有効であるが、デフレ対策としては効果がない」(伊東前掲論文、81ページ)のであり、「政策は無効、古典的景気循環の様相になるだろう」(同前、82ページ)と予想し、現実にも固定資本の更新ないし建設循環あるいは海外需要によって2002年からの上昇が起こった、としています。しかもこの「政策無効」は宮崎義一氏と同様にケインズ『一般理論』の真意をくみ取った結論だ、という理論的解説付です。で、「今日のブッシュ不況も、このような様相を呈する可能性は大きい」(同ページ)と予想します。

 伊東氏によれば、アルビン・ハンセンは29年恐慌とそれに続く不況を繰り返さないために、アメリカ社会を混合経済体制に変えなければならない、としました。おそらくその見方と関連して次のように意味深長に続けています。「不況を起こし、その治療策を探るより、予防なのである。ケインズは『一般理論』の結論として、投資の社会化を提起した。しかし、それが何を意味するかは語っていない。そして、それを深く掘り下げる研究者もいない」(同ページ)。伊東氏は社会民主主義的な方向性を提出しているのでしょうが、その当否は措くとしても、当面の問題についてはニヒリズムだという気がします。

 ポール・クルーグマン氏は「大不況克服へ巨額財政出動せよ」、そして「債務増を心配する時でない」と主張しています(「朝日」11月17日付)。今は非常時なので大胆な政策が必要だというのです。こういう主張に対しては、右側から「構造改革」を遅らせるという批判が出てくるでしょう。新自由主義者としては、有効需要政策によって、淘汰すべき弱い部分が温存され、資本主義経済の強化・効率化を阻害するのはがまんならないでしょう。しかし左側から見ても、アメリカでいえば金融恐慌の責任があいまいとなり、日本でいえば外需だのみ経済をつくった責任、そして貸し渋り・貸し剥がしを横行させている責任、といった経済構造とパフォーマンスの問題点をあいまいにする恐れがあります。構造的矛盾を経済成長で買取る(隠蔽する)というのは資本主義的経済政策の常ですが、人民にとってはそれを許しておけば今後も苦難が繰り返されることになります。そうであるならば、有効需要政策について伊東氏は無効だといっていますが、仮にクルーグマン流の巨額財政出動が効を奏するとしても大きな問題は残ることになります。彼は日本の90年代不況に対して、インフレ目標政策を主張していました。日銀はそれを採用したわけではありませんが、超金融緩和政策を継続したということは実質的にはそれに従ったともいえます。それは、不況の原因はあたかも金融政策にあるかのように思わせ、日本経済を財界などの多国籍企業中心から個人消費・内需中心へ変革するという政策課題から目をそらし、結果として、資本の利潤極大と労働・生活破壊が表裏一体となった格差景気を作り出したといえます。今回の不況が長期化・深刻化する場合、巨額財政出動が一つの選択肢としてありうるかもしれませんが、あくまで基本は、格差と貧困を克服し、農林水産業や中小企業、そして地域経済が生きるような内需主導型の国民経済に変革していくことでしょう。

 ダニエル・コーエン氏は主に新自由主義を批判していますが、同時に左翼への批判も欠かしていません(インタビュー「裁かれる資本主義の倒錯」、『世界』12月号所収)。私たちとしては後者を参考にして、経済政策の方向を点検することが必要です。

 1970年代、スタグフレーションによって西欧福祉国家が限界を迎えたとき、「ケインズの掟にならって、ミッテラン政権をはじめとする各国の政府が、消費のテコ入れを目指しました。この政策はどれ一つとして成功しませんでした。それと同時に失業によって福祉国家の負担が大きくなり、崩壊目前となったので、厳しい引き締めプランの標的にされました」(コーエン前掲論文、95ページ)。この失敗の性格についてコーエン氏は「我々が直面したのは消費の減退ではなく、企業の生産力や支払い能力のマイナス作用だったのです。ケインズ・システムは唐突に信用を失いました」(同前)と見ています。そして「福祉国家こそが、企業の競争力の喪失という失敗のすべての原因で」「規制なき市場こそが無謬である」(同前、96ページ)とする新自由主義が席巻することになります。

 新自由主義が追及する競争力を体現した企業とは、短期的利益のため極端なコストカット・外注化を進める「従業員なき企業」であり、究極的にはそれが目指されました。

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 グローバル化の到来により、競争は拡大し、より安い労働力が供給され、このプロセスは完成へと向かいます。資本主義のこのような側面が、今後どのように変化するかは不透明です。エコロジー危機の拡大や様々な社会問題を考えれば、慢性的な「短期主義」に対する批判が高まりを見せるのは確かでしょう。とはいえ価値の連鎖を世界の隅々に行き渡らせる「世界資本主義」のダイナミズムは、変化するはずがありません。変わると考えるのは短絡的に過ぎるでしょう。     同前、97ページ

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 そうした理解に立って、コーエン氏は今回の金融恐慌を受けて、規制を目指した「新たな金融法は絶対に必要です」(同前、101ページ)としつつも、左翼勢力には警告を発しています。

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 しかしここで二つの素朴な態度に出くわすことになります。ひとつは右寄りの態度で、自分の家の前の掃除を拒みながら、「十分わかったので、ひとりでにモラルは高まるでしょう」と述べるような態度です。もうひとつの態度は左寄りで、次のような叫びをすでに上げています。「これぞ資本主義へのとどめの一撃だ」。しかし資本主義も、市場のグローバル化も止まってはくれません。インドや中国を追い出して、もう市場に商品を売ってくれるなと頼むことはできないでしょう。しかも新たなテクノロジーは、誰もが望めばインドや中国にサービスを外注することを可能にします。このような現代資本主義の競争が、金融危機によって変化することはないのです。   同前、101ページ

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 コーエン氏の議論の特徴は、グローバリゼーションにおいて、金融への規制はいうが、実体経済での競争は放任するということです。「短期主義」の企業へは批判的だけれども結局その手を押さえることはできないと見ているようです。ミッテラン政権などの福祉国家政策の失敗の原因を、企業の競争力の喪失により、新自由主義政策との競争に敗れたからだとも見ています。ここには生産力主義があります。

 新自由主義との勝負どころはどこにあるのでしょうか。確かに短期主義では長期的に見れば企業の生産力をスポイルする、という視点から生産力の面で闘えるという見方もあるでしょう。これはトヨタとビッグ3との競争に現われています。トヨタは非正規雇用を多用するという点では新自由主義的ではありましたが、技術開発・設備投資などの長期的視点に立った経営戦略という点では、短期的視点のビッグ3に勝りました。しかし一般的にはそのような競争に持ち込む前にM&Aなどの金融的方法で短期的に支配されてしまう、ということはありえます。

 そこで生産力競争の問題は措くとしても、今回の金融恐慌で新自由主義の権威が揺らいだことを絶好の機会として、金融への規制だけでなく、実体経済への必要な規制もまた追及されるべきでしょう。すでにWTOに対して「自由貿易」を金科玉条とする立場から早期妥結を求める論調が支配的ですが、それよりも食料主権の確保のほうが先決です。多国籍アグリビジネスの利益を最優先する「自由貿易」の帰結は各国における食料暴動でした。欧米諸国によって補助金輸出(これが何故か「自由貿易」のWTO体制下において推進された)された安価な穀物の輸入によって、多くの発展途上国で本来できるはずの穀物自給が阻害されたことは人々の命にかかわる重大問題です。労働の分野でもILOのディーセントワークを世界的に推進し、底辺への労働各差競争に歯止めをかけることが必要です。ヨーロッパ労連は多国籍企業との産別の労働協定の締結を進めています。金融サミットではIMFの変革も課題に上ってきましたが、実体経済の各分野でも新たな世界的秩序が模索されるときです。規制即経済停滞というのは偏見であり、新たなルールを土台としたよりディーセントな競争が展開される、と見るべきです。

 実はコーエン氏の議論からも、生産力主義的先入観さえはずせば実体経済の放任という結論は出てきません。企業の短期主義は金融化と不可分の関連にあります。「金融革命の契機となったのは、企業ガバナンスが株式市場の要請に従属するようになるという変化でした」(同前、96ページ)という氏の言明からすれば、金融への規制を強化し、金融的利益を最優先する株価資本主義が後退すれば、短期主義を克服する可能性が開けてきます。株主の方ばかりを向いていた企業を、企業の社会的責任に配慮する方向に向けることが大切です。それには不断の社会的圧力が必要ですが。

 企業の社会的責任といえば、今雇用責任が厳しく問われています。これまで安上がりの非正規雇用で莫大な利益を上げてきた自動車大企業がいっせいにリストラに踏み出しています。トヨタは昨年度の2兆円の利益が今年度は6000億円に減る見込みだとしています。しかしまだ赤字ではなく内部留保は13兆円もあるのですから、雇用責任を果たす体力は十分あります。各社とも雇用は削っても配当は維持する模様で、従業員より株主と株価重視というのでは、雇用責任だけでなく、ものづくり企業としての責任をも果たさず金融的利益追及に偏っているといわねばなりません。経営者とすれば、このままでは来年度は赤字でじり貧となり競争力も落ちるから何とかするのが経営責任だ、というような言い分はあろうけれども、労働者をモノ扱いして簡単に捨てるような姿勢はいかなる意味でも許されるものではありません。

 中長期的なことをいえば、二つの問題があるように思います。一つは自動車産業の問題であり、もう一つは非正規雇用を前提とした企業経営のあり方であり、そういう企業経営を前提とした日本資本主義の国民経済としてのあり方です。

 自動車産業の問題については、友寄英隆氏が「GMの経営危機 問われる産業・貿易政策のあり方」(「しんぶん赤旗」11月26日付「経済時評」)と題して行き届いた考察をしています。しかし以下ではいささか大風呂敷な議論をしてみたいと思います。確かに自動車産業は裾野が広く日本と世界の経済にとってきわめて重要な位置にありますが、このまま自動車産業に依存した経済を続けていくのは考えものです。今回のサブプライムローン問題に発したアメリカでの急激な自動車需要減による販売不振は異常であり、やがて徐々に回復していくでしょう。しかしこれまでのような隆盛を取り戻せるでしょうか。日本企業の苦境にビッグ3の凋落も考えあわせれば、将来的には自動車産業の黄昏も考えるべきではないかと思います。

 貧困化も影響しているとはいえ、日本では都会の若者の車離れが進んでいます。これはある意味で健全な傾向だといえます。自動車は事故及び環境破壊と不可分であり、それは確かに文明の象徴であると同時に野蛮の象徴でもあります。人類は遠い未来に、20世紀を振り返って、事故による人命の喪失をも省みず、自動車の効率が愛された異常な時代として規定するに違いありません。それは現代の私たちが江戸時代の「切り捨てご免」に抱く違和感と同様のものでしょう。自動車産業は20世紀のリーディング・インダストリーであったけれども、21世紀の巨大な構造不況業種になる可能性があります。そうなれば産業連関をたどって国民経済への打撃が大きくなります。地球環境問題からいっても新興国市場に過度に期待するのもやめるべきです。先進国だけ自動車文明の恩恵にあずかるのはどうか、という意見もありましょうが、むしろ先進国を反面教師として、公共交通機関を中心としたクリーンで人間的な交通政策を発展途上国が採用するほうが本当の意味で人々の幸せへの道ではないかと思えます。もっとも私たちの想像もつかないような自動車が新たに生まれ産業として発展することがあるかもしれませんが、そうでなければ野蛮な乗り物にあわせて無理やり需要を喚起するようなことはやめていくべきです。クリーン・エネルギーとか福祉とか人間が取り組むべき仕事は今もそしてこれからもたくさん出てきます。今から少しずつディーセントな産業構造への変革を見据えて進むべきでしょう。

 もう一つの問題。非正規雇用による搾取体制、それを前提として利潤を何とか出す企業経営のあり方、その総体としての国民経済のあり方、これをひっくり返すことなしに日本経済の真の再建はありえません。

 非正規雇用を正してまともな賃金と労働条件を回復することは焦眉の課題ですが、おそらくそれを実施すると採算割れに陥る企業が出てくるでしょう。そういう企業にとっては、この正義を実現することは蛸が自分の足を食べるような事態に見えてくるでしょう。しかしそもそも日経連の1995年の方針がその後実現していき、非正規雇用が急速に拡大したことによって、わが国の国民経済は蛸が自分の足を食べる状態になったのです。賃金低下と失業の増大は内需を冷えこませ、外需依存の体質を定着させました。企業利潤はバブル期を凌駕しました。高度成長期の「いざなぎ景気」を超える長期の「格差景気」が実現しました。こうして資本が労働を食って太ったけれども労働がやせることで生産力と消費力が萎縮しました。生産力についていえば、大企業における非正規雇用の常態化で技術継承が劣化したり、高い技術力を誇っていた中小企業の集積した産地が危機的状況に陥っていたりします。

 非正規雇用化による搾取強化によって、大企業の空前の利潤を尻目に国内経済は縮小均衡状態で外需依存に陥り、その外需の突っかい棒がはずされて深刻な不況に突入しつつあります。実は今日の財界の立場からは、この縮小均衡状態が「経済整合性」を形成しているのであり、労働者生活の再生産を不可能にする「労働力の価値以下の賃金」が不可欠の要素です。その帰結は人口の減少であり、それは国民経済を縮小再生産に導きかねませんから、財界の主導してきた今日の経済状態は「経済整合性」の名に値しないものです。このような賃金によってしか利潤を確保できない企業経営は異常ですが、そうした状態は国民経済の縮小再生産の傾向による狭小な内需の帰結なのです。財界的「経済整合性」では、利潤が独立変数で賃金は従属変数となります。もともと人件費は固定費とみなされますが、非正規雇用の多用は人件費を変動費のように扱うことになります。一定の人件費を前提に経営が行なわれるのではなく、経営戦略に合わせて人件費を削減しようということです。これは経済政策にも貫徹されました。企業には減税と社会保障負担の軽減、人民には福祉の縮小・増税・社会保障負担増が実施されたり狙われたりしてきました。これは袋小路です。逆転されねばなりません。

 「利潤が独立変数で賃金は従属変数」を放任し推進した結果として国民経済が窮地に陥っているとき、経済政策としては「賃金が独立変数で利潤は従属変数」という姿勢で臨まねばなりません。賃金などを生活できる所得として保障することで国民経済の基盤が初めて確立します。大企業の雇用破壊をやめさせることは最低限の条件です。庶民には想像できない金余り状態にメスをいれて、マネーゲームから資金を奪回して所得再分配で実体経済を甦らせることも必要です。国民経済の基盤の確立により内需主導の拡大再生産が実現することで、「労働力の価値に見合う賃金」を前提に利潤を生み出す企業経営が再び一般化することになります。こうすれば国民経済の中でまともな賃金と適正な利潤は相互前提の関係となります。一方的に賃金が犠牲にされる縮小均衡状態を当り前とか仕方ないと感じ、それを「経済整合性」と錯覚するのでなく、まともな賃金を出発点にした「経済整合性」を対置することが今求められます。経済政策の転換を起点に、農林水産業や中小商工業が生きる地域経済を各地に確立していけるかが、わが国の国民経済の未来を決めます。

 別様に説明すれば次のようになります。財界流の「格差景気」路線では、国民所得(V+M)のうちVを削ってMを増加させました。Vの低下とMの増分の投機など不生産的利用とがあいまって、長期的景気拡大と喧伝されながらも国民所得(V+M)は微増にとどまり、金融恐慌をきっかけにVの縮小が利いてきて、国民所得(V+M)は急速に反転降下しようとしています。不況の打開には、Vを増やし、Mのうち不生産的部分を再分配することで、生産と消費の両面から国民所得(V+M)を増大させることが必要です。

 以上のように、金融恐慌に際しても「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく」るくらいの貘とした話しかできないのは、はなはだ遺憾とするところです。これから繰り広げられるであろう厳しい風景を思えば、こんなのは実にゆるい雑感に過ぎないかもしれません。しかしおそらく奇策はない。地道な経済活動を続ける人々に心を寄せ、具体的な実践から生み出されるささやかな創意工夫たちがやがて太い変革につながっていくことを願うばかりです。

 

         衆議院解散の憲法的根拠

 常々我ながら素人の疑問と思っていたことに十分根拠のあることがわかりました。『世界』12月号の「片山善博の『日本を診る』(12) やはり『七条解散』は憲法違反だ」の内容には大方賛同できます。

 衆議院解散の法的根拠は、内閣不信任決議の可決を想定した憲法六九条、および天皇の国事行為を規定した七条とされています。このうち前者はまったく問題ありませんが、後者は、主権在民および三権分立の原則に反するものであると考えてきました。つまり天皇の国事行為を根拠に衆議院解散ができるというのは法形式としては主権在民の侵害であるし、実質的には内閣総理大臣に恣意的な解散権という「伝家の宝刀」を与えることであり、立法権に対する行政権の一方的な優越を認めることになります。これはこれまでの自民党の政権独占を説明する一つの根拠だと思います。しかし寡聞にして「七条解散はおかしい」という意見を聞いたことがなかったので疑問に思っていたのです。

 片山論文によれば、1948年には七条解散への反対論に配慮して、わざわざ内閣不信任案の「やらせ可決」まで行なって衆議院を解散したそうです。しかし1952年の七条解散を違憲とする訴えに対して、例によって最高裁が高度の政治性を理由にして憲法判断を回避して上告を棄却して以来、七条解散は繰り返され既成事実化して、憲法学者も疑義を差し挟むことはなくなりました。

 天皇の国事行為を単にリストアップしただけの七条に基づいて衆議院の解散が認められるなら、そこには憲法改正も含まれるのだから、「内閣の助言と承認さえあれば天皇の国事行為として今すぐにでも憲法改正を行うことが可能となる。『七条解散』ならぬ『七条憲法改正』の道が開けるのである」(63ページ)。このように七条解散の論理がいかに無謀であるかを片山氏は見事に示しています。

 議院内閣制においては、首相が変わったからといって総選挙を行う必要性はない、という片山氏の議論も妥当です。日本においてはもともと政党政治の意味が理解されておらず、選挙に対しても議員個人本位に捉えられています。そこで「小選挙区比例代表並立制での重複立候補はおかしい。小選挙区で落選した議員が比例区で『復活当選』するのはおかしい」という謬論がまことしやかに唱えられます。小選挙区で落選し比例区で当選した議員は、一度小選挙区で落選した後に比例区で「復活当選」したのではなく、小選挙区と比例区はまったく別の論理で当落が決まるのであり、そこに前後や上下の関係はなく、そうした関係の下で比例区で当選したのです。両区で当選した場合には小選挙区での当選が優先されるという順位が決まっているだけのことです。これを立候補者個人を見る角度からしか見られずに、政党本位の比例代表制の意味を看過するので重複立候補はおかしいなどと思うのです。

 議院内閣制においては、本来は民意を鏡のように正確に反映する選挙制度によって議席が決定され、その政党間の議席配置に基づいて政権が構成されます。片山氏が指摘するように、たとえば1993年の総選挙の結果として細川政権が誕生したときに、誰一人として細川護煕氏を総理大臣にしようと投票した人はいませんでしたが、彼の総理就任は全く正当でした。また当時それに反対する世論も起こりませんでした。この論理の限りでは確かに麻生総理にも正当性はあります。

 ところで小選挙区制は民意を歪めるので議会制民主主義にもっともふさわしくない制度です。その小選挙区制を合理化する様々な屁理屈のうちに、国政選挙では政権選択が争われるべきであり、総理の座を目指す党首を推し立てた二大政党に民意を「集約」できる制度が良い、というのがあります。これは多様な民意を切り捨てて顧みない暴論である点が一番問題ですが、上記のような議院内閣制の仕組みへの無理解もあります。

 しかしあたかも大統領制のような政権選択選挙論が一定支持される雰囲気があるのも事実です。これは決して憲法システムとしての議院内閣制が劣っているためではなく、実態として政党政治が民意と乖離しているために政党不信が生まれ、直接顔の見える個人に投票するのに近いやり方がいいかのように思われるためです。先述のように、もともと政党政治への無理解が強い日本の政治風土に加え、マスコミが政策論を欠落させて「党首力」なるものを喧伝するという「わかりやすい政治」の弊害がここに現われています(政治をわかりやすくするというのは、政策の論理を明瞭に伝え、対決点を的確に整理して提示するということであって、マスコミが主にしているのは情緒化・一面化・争点そらしです)。

 もっと根底的にいえば政党政治と民意との乖離とは、国会における政党の議席配置と世論との乖離と換言できます。たとえば憲法への賛否についていえば、国会内では護憲の共産党と社民党との議席は全体の1割にも満たない。しかし世論調査すれば護憲と改憲は拮抗するし、9条に限っていえば近年では護憲がいつも多くなります。消費税率のアップについても似たような状況があります。国政の重要な諸問題において民意と議席配置がずれているのだから、人々の反対する法案が次々に成立し、国会がさながら悪法製造マシーンと化し、政治不信が蔓延するのは当然です。

 それではなぜ国会における政党の議席配置と世論とが乖離するのでしょうか。それはもちろん選挙が歪んでいるからです。まず小選挙区制に代表される、民意を歪める選挙制度があり、次いでマスコミのミスリーディングな選挙報道があります。後者についていえば、基礎的な誤りとしては、常に大政党中心の政局報道が中心であり、すべての政党を対象にして、有権者にとって各党の政策がいかなる意味をもっているかを伝えることが抜けていることが挙げられます。その上、視聴率主義による娯楽化があります。その典型は2005年の小泉劇場であり、「郵政選挙」という誤ったシングル・イシュー化、「刺客騒動」という興味本位化などにより、有権者は各政党の政策を考えて投票するという当たり前の基本を忘れてしまうことになりました。長時間労働のせいもあるが、日本においては普段から政治に関心をもち、何らか身近な問題などで政治参加することが少なく、選挙のときだけ政治家任せに投票に参加するという「観客民主主義」が一般化しています(投票さえせずにテレビで選挙観戦する層も含めて)。これはマスコミを使った世論操作ならぬ議席操作に対して著しく脆弱な政治風土を形成しているといえます。そこでは「偽装された民意」を基盤とする政権が常態化しかねません。

 議院内閣制における法形式と政治実態とのずれが以上のようにあることが真の問題点であり、その解決には二様の道があります(ここで政治実態とは、政党政治と民意との乖離を指します)。一つは実態に合わせて形式を換骨奪胎することであり、小選挙区制=二大政党制による疑似大統領制化であり、首相の強力なリーダーシップによる「改革」断行型政権を作るという道です。要するに人々の利益に反する政治を断行するために、普段は民意を無視でき、選挙時には選挙制度とマスコミとによって民意を偽装できる政治体制を確立することです。これは民主政治の空洞化による形式と実態との一致の追及といえます。

 もう一つは形式に合わせて実態を改善する道です。そのためには小選挙区制を廃止して比例代表制に一本化することが必要です。企業団体献金の禁止、政党助成金の廃止、個別訪問の解禁・政策ビラの自由化など公職選挙法の改善などにより、政策買収や電波ジャックによるイメージ選挙をなくして政策本位の選挙運動を実現することも必要です。マスコミの民主化も重要で、具対策はここでは浮かんでこないのですが、NHKの民主化を求める運動などが行なわれているように、読者・視聴者の自覚的な声を結集していくことが求められます。憲法に規定された議院内閣制の仕組みは、このようにして民意に基づく政党政治を実現することで甦ります。民主政治の実質化による形式と実態との一致です。

 実をいえば、法形式と政治実態とのずれが起こってくる深い根拠は、憲法の国民主権という法形式と、政治・経済の実権を財界・アメリカが握っているという政治実態(権力構造)との矛盾にあります。この本質が様々な現象形態をとって現われてくるわけです。ここで片山氏が議院内閣制による総理大臣選出の正当性の例として考察した細川政権について考えましょう。1993年の総選挙では、有権者は自民党を政権から下野させ、新たに「非自民政権」を選択しました。非自民の連立諸党は衆議院議員であった細川氏を推し、彼は総理大臣に就任しました。それはもちろん法的にはまったく正当であり、彼は大臣経験さえなかったけれども、それを世論が非難することもありませんでした。民意は政権交代を望んだのであり、それが実現したところでは、首相が誰になるかは大きな問題ではなかったのです。ここには束の間の民意と政党政治の一致、議院内閣制の実質化が実現したといえます。しかし細川政権はこの後、米の輸入自由化を実現したり、実質的には消費税率の上昇を意味する国民福祉税構想を提唱するなど、人々の利益に反する政策を押し進め、民意の離反を招きます。非自民連立政権なるものが自民党政権とその本質において変わらないから当然のことです。細川政権の行なった最悪の実績が小選挙区制の導入です。自民党政治とは違う新しい政治を実現してくれる、という民意の幻想に支えられていた細川政権はその正体を露呈するとともに、民意と政党政治の不一致に逆戻りし、あろうことかさらにそれを制度的に固定化する小選挙区制を置土産として退陣したといえます。ここには日本の憲法政治の本質と現象とが織り成すドラマがあります。今後も、国民主権原理と財界・アメリカ本位の政治経済との矛盾が動因となって、民主政治の空洞化と実質化とをめぐる様々な現象が咲き乱れることになるでしょう。

 論点が拡散して大げさに脱線し、失礼しました。麻生政権の正当性という問題に立ち返れば、片山氏のいうように法形式的には問題ないのですが、政治内実的には大いに問題ありです。「筆者は首相及びその周辺が衆議院の解散総選挙を弄んでいるとしか思えないことに強い憤りを覚えている」(64ページ)という片山氏の怒りと、その「弄び」を可能にしている「七条解散」という誤った憲法解釈への批判には同感します。しかしだからといって衆議院議員も任期満了が原則であり、現在の状況も解散すべきような「与野党の間に大きな争点は見いだせない」(64ページ)というのは言いすぎだと思われます。小泉政権以来の自公政治の行き詰まり(負の遺産)を反映して、麻生政権は発足早々末期的状態であり、有権者に信を問うべきときです。これが政治的内実からの必然的要求だと思いますが、残念ながらだからといって内閣不信任案可決というような状況にはなりそうもありません。悩ましいのは「七条解散」は誤りだと思うのですが、この状況ではそれ以外に解散の方法がない、ということです。

 私は片山氏とは違って、衆議院議員の任期満了が原則だとは考えず、適宜解散総選挙があるほうがよいと思います。ただしそのやり方が「七条解散」のような時の政権に不当に有利でしかも憲法上の疑義がある方法は問題だと思います。解散は必要だけれども適切な方法がないという矛盾を解決する憲法解釈なり政治手法というものは私には思いつかない、というのが遺憾な現状ではあります。

 以上のことを書いて二週間くらい寝かせておいたら、麻生氏の暴言連発などで、あれよあれよという間に政権の求心力は地に落ちてしまいました。見るのも恥ずかしいような状況ですが、これもわが国の現実であり、早く変えなければいけません。

 

       地位協定をめぐって

 11月18日付「朝日」によれば、来年以降も米軍がイラクに駐留する法的根拠となる米・イラク安全保障協定について、16日にイラク政府が閣議承認にこぎつけ、成立の可能性が出てきました。両国の交渉でイラク側は、「米軍撤退を明記する」「米兵の免責特権をめぐりイラク側の権限を強化する」などの5項目の修正要求をつきつけ、免責特権を除いては米側が一定の条件を付けて修正要求に応じました。

 この交渉でイラクは日米地位協定を熱心に研究しました。ハンムード外務事務次官らが6月初旬、5日間来日し、日米地位協定の成り立ちや運用の詳細な説明を求め、特に刑事裁判手続きに関心を示しました。同記事では、1995年沖縄での少女暴行事件を受けて、地位協定の運用改善に合意したことなどを紹介しつつ、最後は、「イラクの事務次官らは、日本の事情を聞いて、『日米間はこんなに進んでいるのか』と驚く場面もあったという」という言葉で結んでいます。

 驚いたのはこっちのほうです。こんな記事を読まされて。記事全体の見出しは「粘ったイラク」。米大統領選挙でオバマ優勢という情勢を背景にイラクは粘り腰の交渉に臨んだという、おなじみの「政局報道」的姿勢はまあよしとしても、日本とのかかわりや比較の点での無自覚・ノーテンキさは目を覆うばかりです。日米間が進んでいるどころか、少なくともイラクは米軍撤退を明記させているのであり、米軍の永久駐留を恥じない日本の支配層とは天と地との差があります。交渉で粘るとか何とかという手の問題ではなく、政治理念というより独立国としての最低限の自覚があるかないか、という根本的な問題です。

 記者らは在日米軍による深刻な被害が一向に改善しないことに心を痛めたことがないのだろうか。地位協定の改訂さえ提起せず、「運用の改善」などという何の実態もない方策でお茶をにごしている日本政府の姿勢に怒りをもたないのだろうか。もちろん感情的な記事を書けといっているのではない。きちんとした目の付けどころがあれば別の事実を書くことができるはずです。日米軍事同盟を不動の前提として、世界といえばアメリカの目でしか見られない社の姿勢だからこういう記事になります。ついでに言えば、消費税率の引き上げを主張するのが責任ある態度であり、そうしないのは無責任であるかのごとき報道姿勢も体制的エリートとしての傲岸不遜さを露呈しています。人々の生活実態に対する無関心さなくしてこういう考えは出てきません。財界流の「経済整合性」はもはや破綻しているのであり、人々の生活と労働に視点を置いた新たな「経済整合性」を追及しなければならないのです。

 閑話休題。「別の事実」について考えましょう。その際に、そもそも外国軍隊が駐留先で刑事裁判権免責特権をもつということ自身が前近代的国際慣習の押し付けでありおかしい、という当り前の感覚が前提にされねばなりません。もっとも軍の論理からすれば逆にこれは異常であってそのような状態では軍は駐留できないのです。実際にも「タイの中立志向の政権が大半の米軍部隊の撤退を要求する一方で、居残る米軍についてはタイ政府が全面的に刑事裁判権を行使すると通知した」のに対して「アメリカ政府は、米兵に対する刑事裁判権を外国政府が握るのなら、米軍部隊を同国から撤退させる以外にないとの結論を示し」、1976年春までに全面撤去したという事実があります(新原昭治「なぜ日本政府は米兵犯罪でアメリカいいなりか 裁判権放棄の日米密約を成立の原点から徹底的に洗い出す」/『前衛』12月号所収、129ページ)。つまり日米地位協定など外国軍部隊の駐留にかかわる協定などそれ自身が異常な不平等状態の法制化であることをまず確認します。

 その上さらに日米地位協定は密約によってもっと酷い運営が行なわれてきました。新原昭治氏は一貫してアメリカ国立公文書館で精力的に米政府解禁文書の調査にあたってきましたが、今年9月には「地位協定で第一次裁判権が日本にあるとされる『公務外』の米兵犯罪の大部分について、裁判権を放棄すると包括的に米側に約束した日米密約の原文」を入手しました(同前117ページ)。これまで密約の存在を否定してきた日本政府はこのような動かぬ証拠を突きつけられても、今なお「裁判権放棄という重大な主権投げ捨ての現実の是正をはかるどころか、この密約の真相を国民から覆い隠すことにだけ全力を注いでいます」(同前127ページ)。

 先の「朝日」記事によれば、イラクの事務次官らが6月に来日していますが、新原氏はその直前5月に日本で起こったことに注意を喚起しています。「米兵犯罪処理の詳細を政府部内の通達類も含めて記録した法務省資料」を国会図書館は過去18年間閲覧に供してきましたが、法務省からの申出を受け入れて、一般の閲覧を禁止してしまいました(同前122ページ)。新原氏は以下のように推測します。「イラク国会の与党議員を含む圧倒的多数がブッシュ政権が押しつける地位協定に強い反対を表明したさなか、マリキ政権は米軍地位協定問題調査チームの六月初めの訪日を日本政府に通知しました。その直前の時期に法務省が動き、国会図書館に閲覧禁止を求めたのですから、この背景にアメリカを含む舞台裏の国際的動きがかかわった疑いも濃厚です」(同前123ページ)。こんな姿勢ですから(新原氏の推測はともかくとしても、少なくとも閲覧禁止は厳然たる事実です)、当然のことながら日本の役人はイラクの役人に詳細なレクチャーはいくらでもしただろうけど、本当のこと肝心のことは決して語らなかったに違いありません。その結果として「朝日」記事のようにイラクの事務次官らは日米間が進んでいるかのごとき感想をもったのでしょう。それを無批判に記事にするのはもはやジャーナリストとはいえません。

 実はこの問題はイラクとアメリカの問題だけでなく、日本とイラクとの関係により重点があります。米イラク間の地位協定交渉に合わせて、「日本政府もイラクと自衛隊員の刑事裁判権免責を内容とする地位協定作成の交渉をおこなう方針を五月に固めました(共同通信五月六日)」(同前122ページ)。すでにクウェートとはそのような取り決めを結んでおり、カタールとの交渉では先方が密約にするよう求めたのを日本側がことわって決裂した、ということもあります。こういう調子ですから、イラクとの地位協定交渉への不安材料を隠す意味で閲覧禁止措置がとられた可能性もあります(同前123ページ)。とにかく本当のことを知られるのはまずいのでしょう。

 重大なのは、外務省地位協定室長(発言当時、今年2月29日)が「地位協定第一七条を変えれば、それが海外展開する自衛隊の法的地位に影響を与えることも考慮している」と言っていることです(同前121ページ、詳細については同ページ参照)。つまり「自衛隊の海外派兵推進に当たり海外における当事国の刑事裁判権からの自衛隊の免責を追及したいが、それは日本において米軍がやっているのと共通したものであり、したがって日本の米兵犯罪問題に関して米軍が保持している軍事特権の抜本的改訂要求を出すわけにはいかないという論理と見ることができます」(同ページ)。

 これまで日米安保条約や地位協定については、日本の支配層の余りの卑屈さ、対米従属の深さばかりに目がいっていました。しかしそれに隠れて、米帝国主義の目下の同盟者という枠内ではあっても、彼らが他民族抑圧の衝動にもつき動かされていたことがはっきりしました。自国と自国民が他国によって支配されることに鈍感なものたちは他国と他国民を当然のように支配します。私たちはとても危ない地点に立っていることを自覚しなければなりません。

 日本人民の反戦平和意識の原点は、何よりも先の大戦による甚大な被害体験です。二度とあのような目に合わないために戦争を絶対的に否定する、という気持ちでしょう。その後、日米安保条約と自衛隊を肯定する意識の増大という後退的側面(これについては単に切り捨てるのでなく、慎重な分析・検討を要する)もありつつも、80年代あたりからは、十五年戦争での加害者としての日本への反省という高い自覚としての反戦平和意識が広がってきました。ただし朝鮮戦争やベトナム戦争への荷担という問題意識は今日では広く共有されているとはいえません。それなのにさらに深刻な次元として、自衛隊の海外派兵を通じて、米帝国主義の侵略戦争に荷担することに私たちは直面しています。日本が他国に従属的地位を強要するために地位協定を締結しようというのはその象徴です。逆にいえば、真に各国・各民族の平等が実現されているところでは戦争を起こすことはきわめて困難だということです(先述のタイ政府の毅然たる対応による米軍撤退を見よ)。侵略戦争への反省という反戦平和の意識を、戦後そして現在にも及ぼし、真に平等な国際関係が普遍化することに貢献し、わが国が再び過ちを犯すことのないようにすることが日本人民の運動の使命です。

 今日でも在日米兵による深刻な犯罪は後を断ちません。それに対して日本人民が当然の怒りを燃やして抗議し、地位協定の改善さらには米軍撤退、日米軍事同盟の廃棄を目指して活動することは、日米間の平等を達成する道であるのみならず、日本国政府が他国に対して不平等条約を締結させて侵略戦争に荷担するのを事前に防ぐ意味があるのです。

 以上のことを書いて、やはり1週間余り寝かせておいたら、11月27日、イラク連邦議会が米軍地位協定を承認しました(「しんぶん赤旗」11月29日付より)。もちろん即時撤退派は反対しましたが、内容的には撤退時期を明記するなど早期の主権回復への節目となるものです。合わせて「赤旗」同日付によれば、24日にイラク周辺国安全保障協力調整委員会第3回会議が、シリアのダマスカスで開かれ、米国を含む国連安保理常任理事国5ヵ国とアラブ連盟、イスラム諸国会議機構、クウェート、エジプト、バーレーンなどの代表が参加しました。この会議では、「米国などにイラク周辺国への出撃基地としてイラク領を使用させないことが確認され」ました。同記事によれば「もともとこの周辺国会議は、ブッシュ米政権が提唱して二○○六年に初めて開催されたものです。ブッシュ氏は当時、米国一国で手に負えなくなったイラク情勢に、国連や周辺国を関与させて負担を軽減することを狙っていました。それがいまでは、中東域内の米軍の軍事的策動を封じる役割を果たすようになっています」。

 戦争が続き、どのような厳しい情勢にあっても、平和的解決と国家主権の維持・回復というきっぱりとした理念があれば、情勢を主動的・前進的に切り開いていけることが、ここからはわかります。このように「国際社会」の動向を読み取るべきでしょう。ところが日本政府は対米従属に惰性的にどっぷりつかり、国際貢献とは対米貢献だと錯覚しています。そして他国を抑圧する地位に立とうともしています。本来世界に誇るべきで、その理念に従った外交をすれば世界から尊敬されるような憲法を持ちながら、それを手かせ足かせとしか感じない政府でもあります。これを変えるのも本当の世界に目を向けた日本人民の使命です。
                                  2008年11月30日

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