月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2006年)


2006年1月号                                                                                                                                                                                                 

 松本朗氏の「『預金封鎖』という亡霊 戦後60年・敗戦後インフレに学ぶ」の主要な課題は、預金封鎖の経済史的研究ではなく、それを材料にしたインフレ概念の理論的研究であると思われます。その研究はまた現在の日本経済の混迷打開に向けた政策課題を正しく据えることに資するであろうとも思われます。

 調整インフレ論などのように、貨幣数量説に立つ一面的な物価論が跋扈している中で、本論文が、実体経済と貨幣・信用関係との統一として物価変動を捉えている点が重要だと思います。一般的には、敗戦後のインフレーションの原因は単に日本銀行券の過剰発行であるとして、「預金封鎖は、日本銀行券の吸収と、財産税による増税とによって国民の購買力を一時的に凍結、減少させ、インフレーションを収束させようとする措置であったと考えられ」(157ページ)ています。しかし結局、預金封鎖はインフレを封じることはできませんでした。その理由の解明には、戦後インフレの性格を、実体経済と貨幣・信用関係との両面から正確に規定する必要があります。「敗戦後のインフレーションは、軍事経済という実質的な価値破壊を進める経済体制の下で、戦中から敗戦へと続く過程においてふくらんだ公信用の破綻が顕在化したものと言い換えることができる。確かに、このインフレーションの性格を一言で示せば、一方での価値破壊と、他方での架空な信用膨張という二つの矛盾の調整ということになる」(159ぺーじ)。従って「戦争という価値破壊と架空な信用(公信用)の膨張という二つの矛盾の調整という意味をもつ戦後ハイパー・インフレは、一方の国民の購買力の削減だけで押さえ込もうとしても、他方の問題、すなわち生産の拡大と消費物資の供給という再生産過程での回復が伴わなければ、本質的な解決にはならなかった」(162ぺーじ)。

 戦後インフレの性格の誤認とそれに応じた誤った対策としての「預金封鎖」とは、理論と政策の錯誤的ワンセットといえます。今日でも、「デフレ」対策としてのマイルド・インフレへの期待と、不良債権処理の強行及び大衆増税による財政再建という政府の路線の中にその再現を見ることができます。

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 そもそも政府は、物価が上昇すること(とりわけ、マイルド・インフレーション)は、景気上昇と同じ意味を持つものと誤解しているように思われる。それゆえ、インフレによって、不良債権処理を強行することに伴う経済停滞を緩和できると、期待(いや、誤解)していたのではないか。だから、九○年代後半にいわゆる「量的緩和政策」を求め続けたとも考えられる。今の段階でも「量的緩和政策」の継続を求めている理由は、増税による所得削減の痛みを「マイルドなインフレ」によって緩和できると誤解しているからなのではないだろうか。こうした過ちは、インフレを名目的な物価騰貴と理解できないことから引き起こされるのである。       (165ページ)

 (注)原文では「それゆえ、インフレによって」の後に点はありませんが、これは「経済停滞を緩和できる」にかかると思われるので補いました。「インフレによって不良債権処理を強行すること」もありえますが、ここの文脈とは不適合でしょう。

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 インフレによる物価上昇と景気上昇による物価上昇とを区別する問題意識がないところでは、インフレ・物価上昇・景気上昇の三者は混同されます。景気上昇による物価上昇の場合は、増税による所得削減の痛みを緩和できるように所得の上昇が生じている可能性はあります。しかし不換通貨の減価による物価上昇(インフレ)は、増税による所得削減の痛みを緩和するどころか増強するでしょう。景気上昇の場合でも、今回のように労働者などの犠牲による企業利潤の最大化によるものであれば、大衆増税の痛みはやはりかえって増大するでしょう。

 またたとえば原油価格の高騰による物価上昇はインフレでも景気上昇でもありません。それは国内所得の流出であり、再生産の困難を引き起こしています。いわゆる「デフレ」脱却願望から、物価が上がればいい、という意識があります。もちろん原油価格の高騰がいいという人はいないでしょう。しかしどれだけ物価が上がるか下がるかしか問題にしない姿勢からは、原油価格の高騰も物価変動要因の数値の一部として量的にしか捉えられられません。大切なのは、物価変動の数値の意味を、人民の生活と営業、国民経済の再生産の状況との関連で捉えて質的分析的に見ることです。物価の名目的変動と実質的変動を区別することもこの捉え方の一環として重要です。

 「調整インフレ」「インフレ・ターゲット」などだけでなく「量的緩和政策」も一定の物価上昇を自己目的化しており、それは大衆増税路線などとあいまって、実体経済、なかでも人民の生活・営業と齟齬を来すことは上で見ました。そこで一部に次のような議論があります。従来のような設備投資・輸出主導型ではなく、個人消費主導型の経済への転換を図って、当面の混迷を打開するために緊急対策として、日銀引受国債を発行し、1年後に棒引きする、というものです。これは物価上昇を目的とするのでなく、国民消費需要の純粋な増加による景気振興であり、有効需要が増加しても遊休生産能力がある限りインフレは起こらない、とされます。

 これに関連して松本論文の以下の箇所が注目されます。

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 公信用によって生み出された信用は、本質的には、貨幣支払い約束(債務)である。したがって、貨幣支払いが滞らない限り、信用としての実質を持つ。つまり、国家への貨幣還流によって公信用が生み出した債務の返済が続いていけば、公信用は信用としての実質を持つ。現実的には、この貨幣還流は将来の国民による税負担という形で担保される。この税金は、資本の運動の展開によって生産された新価値から支払われる。つまり、本来資本の運動あるいは再生産とは無関係に創出される公信用ではあるが、何らかの形で現実の価値生産=資本の運動と結びつき、資本の還流とともに税収という形で、国家に還流してくる限り信用としての実質を持つ。その限りにおいて公信用は、実体経済が順調に拡大していくことに支えられているといっても言い過ぎではないだろう。次に、公信用の結果として創出された日本銀行当座預金とその結果として発行されていく日本銀行券は、実体経済での資本の運動に支えられながら日銀への絶えざる還流が維持される。そして、その還流が滞らない限り日本銀行券は信用貨幣としてどこまでも流通する。 

 しかし、本質的には「公信用は現実資本の運動に基礎を置かない信用であり、現実資本の再生産外からの追加的な外生的な信用である」。基本的には、公信用が創出した購買力は、名目的であり、単なる紙切れにすぎない。したがって、公信用の見返りとして日本銀行が直接に発行した日本銀行券は、本質的には信用の実質を失っており、不換紙幣化してしまう。典型的には、日本銀行が政府から直接に国債を引き受け、発行した日本銀行券が政府紙幣化し、インフレーションが発生するという形で現実化する。  (158ページ)

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 長い引用になってしまいましたが、前段と後段では逆のことが言われているようであり、問題の日銀引受国債は後段で否定されています。しかし「日銀引受国債発行」論がいうところの「有効需要が増加しても遊休生産能力がある限りインフレは起こらない」ということは、前段では支持されているようにも思われます。実体経済と貨幣・信用関係との関連をどのように捉えるかが上記引用文での課題としてあり、前段から後段への暗転はいかにして起こるかが問題でしょう。戦時経済の破綻による価値破壊がハイパー・インフレの条件となったことはよくわかりますが、設備の遊休と価値破壊との入り交じった現代の不況においては状況が複雑です。「日銀引受国債発行」論は一見して奇説であり多々問題点もあるでしょうが、たとえばこの論点(インフレを惹起するかどうか)をとってみると、その当否は簡単には判断できないように思われます。                                         

 

 従軍慰安婦問題の番組への自民党議員の干渉問題などを見ていると、NHKはまったく権力に屈服した偏向放送局になってしまったようでもありますが、個々にはすぐれた番組も少なからず見られます。たとえば菅原文太氏が地方を訪ね歩き、過疎と闘い自然との共生を目指した人々を紹介した「長靴の旅」という教育テレビの番組がありました。確かここでは内橋克人氏を解説にむかえ、「もう一つの日本は可能か」というテーマを掲げていたと思います。やはり教育テレビで毎週金曜日の午後10時25分から「ビジネス未来人」という番組が放映されています。これも新自由主義とは違った経済のあり方を探るのが基調となっているように思います。総合テレビの「クローズアップ現代」にもときどき優れた内容のものがあります。

 うろ覚えで不正確かもしれませんが、少し紹介します。「ビジネス未来人」では毎回ユニークな観点で様々な仕事に取り組んでいる人々が紹介されています。私が印象に残ったのは東京の豆腐屋さんです。売れ残る豆腐を前に何とかさばけないか、と考えて、リアカーでの行商を始めました。自動車ではなくあくまでリアカーで狭い路地をラッパを鳴らしながら極めてゆっくりと歩くのです。するとお年寄りたちが窓から手を振って呼び止めます。早く歩くとつかまらないから駄目です。

 あるとき、なかなか話の通じないお年寄りがいたのですが、数日後にまた行ったときにはすらすらと話せました。独り暮らしで長い間、人と話をしたことがなかったので最初はすぐに言葉が出てこなかったのだそうです。その他にも色々と話し相手になったりとか相談事にのったりすることもあります。お米を買いに行くのが大変だといえば、配達してくれるお米屋さんを紹介します。店員たちがこうして集めてきた情報で地域の様子が分かってきて、都内に支店もいくつか持っているので、さながら豆腐屋の情報ネットワークができて他業種とのつながりも生かして住民の要望に答え、暮らしに役立てているそうです。

 今、都会では小さな商店がなくなって、自動車を持たないお年寄りには不便ですが、この豆腐屋さんはそういう住民のニーズによく応えた仕事を立派にこなしています。大切なのは、何でも早く効率的に儲け第一という、今の世の中の圧倒的な風潮に逆らって、町の中をゆっくり歩くことで、お客さんの本当のニーズをつかんできたことです。「構造改革」を進める政府や大企業は消費者の視点ということを掲げるけれども、実際には多くの人々の生活を破壊しているし、特に弱者の生活要求を捉えることはできません。ここに生活を同じくする中小業者の出番があるといえます。小泉政権の悪政に反対することは本当に大切なのですが、それとともに中小業者が町の中で細かな要求に応えた仕事を成功させて、政府・マスコミが推奨する弱肉強食の社会とは違うもう一つ別の社会がある、ということを見せていくが重要です。

 もう一つ紹介します。NHK総合テレビ、12月6日の午後7時30分からの「クローズアップ現代」では巨大スーパーのショッピングセンターの進出を取り上げていました。それは場合によっては医者もあるという、いわば一つの街をつくってしまうようなものです。その影響で地元スーパーの撤退が増えています。すると特に自動車を持っていない人にとっては非常に不便になります。そこで地元住民たち自らが商店街の空店舗などを利用してミニスーパーを立ち上げているところもあるそうです。これもまた弱肉強食時代に立ち向かって、自分たちの生活・仕事・街を作っていこうという運動です。

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【補注】

 この番組ではショッピングセンター建設ラッシュの要因として3つをあげていました。

1.規制緩和……大店法の廃止など

2.土地余り……不況でなくなった工場の跡地など

3.不動産投資ファンドの登場……これによってスーパーは自己資金が少なくても大型ショッピングセンターを建設できる。投資家はスーパーからの賃貸料を当てにして配当を受け取ることができ、スーパーは多くのテナント料を受け取ることができる。

 次いでショッピングセンターと地元スーパーとの熾烈な価格競争の様子をレポートし、地元スーパー撤退後の住民の奮闘を伝えています。住民の作ったスーパーでは、価格競争ではなく、高齢者に見合った商品構成など細かいサービスを重視しています。

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 中小業者のある集まりで以上の番組を紹介して、残念ながら自分としては仕事の具体的なアイデアには結びついていないけれども、それぞれのヒントになる部分があったり、共同できるところがあると幸いです、と結びました。                                     2005年12月18日



2006年2月号                                                                                                                                                                         

 新自由主義の攻撃が強まり革新的諸運動が困難な局面をむかえているとき、厳しい現実をその全体像において捉えることで、その豊穰さを余さず掬い取っていけるような実践と理論とが求められています。やせた理論を現実との矛盾にさらして鍛えていくような実践の一部を座談会「国民運動の発展をめざして」などに見てみたいと思います。

 すべての運動の出発点にあるべき要求というもの自体が埋没してしまっている、そんな現状が広く存在します。今日のように厳しい情勢の中で、要求が自覚されずにずるずると日を過ごせば、生活そのものが徐々に破壊され朽ち果てていくことになります。その集積として今日の社会的荒廃があるといえます。それを防ぐためにも組織化が求められていることが、高田公子氏の発言からうかがえます。

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 私たちの新日本婦人の会は、昨年一一月の大会めざして二ヶ月間で会員を一万二○○○人、新婦人しんぶんの読者を二万三○○○人増やすことができました。この活動のなかで、あらためていま本当に一人ぼっちの女性たちが増えているということを感じました。

 団地なんかで一軒ずつ個別に訪問すると、どなたとも一週間話をしなかったとか、一日一回だけ外へコンビニのお弁当を買いに行って、朝、昼、夜、三回に分けて食べているとか、職場でも、隣の人とも会話がないとか、もう本当に一人ぼっちの人が多いのです。一人ぼっちということは、結局、自分自身もあきらめているし、今の現状があたり前になっている。一人ぼっちでは要求は自覚されなくてあたり前だということを、今回、たくさんの仲間を迎えるなかで、あらためて実感しました。自分のやりたいことをみんなといっしょにやるなかで、仲間に心を許して本音も出せて、初めて要求も自覚して行動になっていくのではないか、ということです。       63ページ

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 しかし組織化されても組織の社会認識がリアルでなく、現実を掬い取らずに既成の理論に基づいて「あるべき論」を現実に押し付けるならば運動の動脈硬化が起こります。大木寿氏(全労連副議長)はこう述べています。

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 大阪の堺市職労の委員長さんの話ですが、全組合員のアンケートをとってみたら、とくに若い人から、「今の労働組合はまったく建前だけしか言っていない。まず役員から本音を語れ」という答えが返ってきたというのです。労働組合は「こうあるべきだ、これしか道がない」という発信機能ばかりで受信機能がない壊れたケイタイだと言っています。このような組合では、若い人たちが何を求めているのか、その願いや要求がわからなくなる。最低賃金、公契約、均等待遇、こういう言葉すら若い人にはなかなか通じない。若い人たちの目線に立って、わかる言葉でメッセージを送ることが大切だと痛感しています。

                   74ページ

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 単なる批判と要求運動だけでは、人間生活の丸ごと全体を掬い取ることはできないのであり、そこに政府の社会保障構造改革路線が展開していく基盤があることを篠崎次男氏は指摘します。

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 「地域戦略」と「健康戦略」は、ともに公表された翌月には社会保障審議会介護保険部会で取り上げられた。「地域戦略」は地域密着型サービスの新設、それらをマネジメントする機構としての地域包括支援センターの創設などとなる。「健康戦略」は予防重視型介護保険への転換を促し予防給付・地域支援事業などとして具体化しようとしている。この二つの給付は地域保健法などの自治体の保健事業の保険化でもある。

 二つの戦略は、介護保険の見直しに組み込まれることでその役割を遺憾なく発揮しようとしている。高齢者の日常的に発生する生活要求は、仮に、制度や事業所サービスがきめ細かくなろうとすべて解決することはない。三世代同居型家庭機能や、隣組的近隣関係での相互助け合いなどで、解決されてきた部分もある。それらが、福祉ボランティア活動、住民運動としての健康づくり等での異世代間の文化交流がおこなわれ、家庭の日常生活力の向上へとつながる。これらの生活の営みとしての諸活動は、単なる批判や要求運動だけでは太刀打ちできにくい。そこに政府の計算された施策がある。社会保障構造改革路線は、非常に巧妙に組み立てられた展開を見せようとしている。

      篠崎次男「医療『構造改革』と社会保障運動の課題」107ページ

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 こうした政府の戦略に対して、篠崎氏は「人びとの不安と不満は日々増大している。それを怒りに変える。新しい社会の創造のエネルギーに変える。それは、地域密着型の組織と活動の創造で可能となろう」(108ページ)と応えています。正論でしょうが、具体的イメージは浮かびにくいところです。

 そう思っていたところ鮮やかな運動の方向性を感じさせる論文に出会いました。『前衛』2月号に掲載された菅原良子氏(首都圏青年ユニオン書記次長)の「二○○人の組合でも大企業や政府、そして社会を動かします! 不安定雇用の広がりと青年ユニオンの発展方向」です。久しぶりに目の覚めるような論文で、10ページの中に紋切り型や常套的な文章展開がなく、生き生きしており、新たな発見満載でした。まあそれはこれまで私が何も知らないからこそかもしれませんが。私は80年代には労働組合員であったこともありますが、1988年からは零細古本屋経営で、若者との接点もありません。だからこれから述べることは的外れの山かもしれませんが、以下に感想を記します。

 まず著者(「菅原良子さんに聞く」だから「話者」か?)がタダモノではなさそうだ。労組専従わずか一年ぐらいにして「いろいろな集まりで講師として話す」(157ページ)。前職(大手自動車部品メーカー)はといえば、「職場での毎日のコミュニケーションは英語がベースで、それ以外の言語が必要になることもありました。ITのシステム開発の知識や経験も必要とされる仕事で、何十億というお金を動かす仕事の契約書をつくったり、アメリカ・ドイツ・日本の三拠点で電話会議を深夜や早朝にする仕事をしていました」(158-159ページ)。まさに最先端のキャリアーウーマンなのに何と時給1690円の派遣社員! だったら正社員っていったいどんな人? しかも2010年までで使い捨て。今どきの企業の人件費管理はなんてすさまじいのだろう。こういうひどいことをやっているから、本人にとっては幸か不幸か、労働界は貴重な人材を得ることができたというわけです。ジュリアード音楽院の学生だったニール・セダカはポップス系のバイトをしたのがばれて退学になったそうで、クラシック界の厳格主義がポップス界に人材を提供したようですが…(ラジオでの聞きかじりなので真偽のほどは保証の限りにあらず)。それはともかくアメリカでの生活経験もあるということで、いわば新自由主義的職場で鍛えられた人が労働運動の最前線で活躍している、ということが重要なポイントでしょう。

 青年たちのひどい労働実態はもちろん描かれているのですが、やがては低労働条件の青年によって中年労働者が代替されてしまうという形で影響が社会全体にも及ぶだろうという指摘は重要です。またこのひどい労働実態がほとんど違法であるという点に日本資本主義のすさまじさ(そう言ってよければ「強さ」)があるのですが、それは同時に最大の弱点でもあります。首都圏青年ユニオンの団体交渉の勝率は99%で、なぜならほとんどのケースが労基法違反だからということです。この1年間、50社と交渉して勝ち取った解決金が何千万! 今どきこんなに目だって役に立つ労働組合があるだろうか。負け犬根性が染み着いて賃上げはおろか雇用を守ることさえできない日本の労働組合運動の中にあってまさに希望の星です。未組織・無権利の青年労働者は大量に存在するのだから、青年ユニオンは勝利だけでなく、大きな広がりの可能性も持っています。もしこうした運動が広がれば、「構造改革」の労働(条件)破壊によって作り上げた日本資本主義の蓄積基盤(それが今日の「景気回復」=空前の企業利潤の実現を可能にしている)を浸食することになります。それは人間的労働の復位、人民の生活本位の内需循環型国民経済へ、という日本経済の民主的転換のきっかけとなりうるものです。もちろん財界はそれを許すはずもないので激烈な闘争となりますが…。ここまで展開すると誇大妄想と言われそうですが、青年ユニオンの担う戦線はそのくらい日本資本主義の核心部分にあり、経済民主主義を切り開く潜在的可能性に満ちている、ということだけは確かだと思います。

 しかも青年ユニオンはそれにふさわしい組織=運動形態を展開しています。そこに言及した162-165ページ部分は本当に読み逃せません。菅原氏は個人加盟組合の意義として「企業のグローバル化に対抗するために、労働組合も企業別組合から職種別組合(Trade Union)にシフトする必要性が迫っています」(162ページ)としています。日本の労働組合運動の長年の課題がグローバリゼーションの下でいっそう切実になっているわけです。このほかに変革主体形成の問題からいっても重要です。『資本論』では大工場での生産過程の規律によって陶冶された労働者集団が変革主体としてイメージされていますが、現代ではサービス化・IT化などの進展により個別化・分断化された労働者像が生み出されてきました。ここには、アトミックな社会像をもった新古典派経済学の隆盛とそれに基づく新自由主義的政策の採用の実在的基盤があると思います。ここに切り込まない限り、根底からの社会変革はありえません。不安定雇用の下で様々な企業に散らばった労働者を一つの組合に組織することで私たちは初めて現代の労働者階級を顕在化させることができ、新古典派とは違ったもう一つの社会像(分断された個人から結集した階級へ)を見い出せるのです。

 青年ユニオンはタテ軸とヨコ軸の組織化というユニークな戦略を持っています。タテ軸は職種別分会で、ヨコ軸は地域別分会で、一人の組合員は両方に所属します。企業別組合から職種別組合へ、という志向からすれば職種別分会があるのは当然ですが、出身地域などに定住して職種を転々とする青年にも居場所を提供する意味で地域別分会も重要です。彼等も職種別分会に所属することで、職能の高い人々とともに一つの社会が形成されます。様々な青年の結集を目指し、新たな労働社会を創造するという意味でよく考えられた組織形態です。なおここで労働社会というのは、ヨーロッパの労働組合運動が形成した、労働者階級の働き方の規範(個人的競争を抑制した集団主義の原則など)に支えられた職場社会であり、日本のようにそうした働き方の規範を欠き、個人間競争的な企業社会しかない職場のあり方と対照したものです(熊沢誠『新編・日本の労働者像』など参照)。労組の論理が職場での働き方の中になく、企業社会の価値観(要するに資本の論理)が社会全体を被った日本では、逆に企業の外に労働社会を形成することを目指すのが現実的なのかもしれません。「弱いけれど広いつながり(ウィーク・タイズ)をつくり出す(まるで、公立の小学校や中学校のクラスのように)ことで、多くの人々が、何らかの打開策をお互いに力を出し合って考えるきっかけを得ることができます」(163ページ)というのがその具体的なイメージでしょうか。組織の強さという点では組合費などはどうなっているのかは知りたい点ですが。

 青年ユニオンでは、それぞれに違った状況に置かれていても、同じく不安定な社会を生きていかねばならない現代青年としての共感を重視しています。「大人の組合」が青年たちの状況に無理解な説教をするのが批判されています。おじさんとしては自戒すべき点ですが、青年ユニオンでは大人を排除するのではなく、逆に「青年ユニオン支える会」を作って資金・活動の援助を受け、「昔とった杵柄」を蘇らせ、地域・社会を動かす大運動への発展を目指しています。これもまたユニークで創造的な方針です。

 リーダーの育成でも、個性や能力を生かして様々に行なわれ、特に団体交渉が要求実現の場だけでなく、組合員の学習・成長・団結の場として効果的に活用されています。文化行事にも参加しています。

 「こうやって、大衆運動、市民運動、文化・芸術活動と労働運動が一体化・交流することにより、今まで組合に無関心だった若者や非正規労働者を組織し、社会を根底から動かす大きなウェーブ(波)をつくれるのです」(165ページ)。「たった一人からの交渉でも、二人からの運動でも、私たちのたたかいで何千人、何万人という規模の会社を動かすことは可能だと思います」(同前)。既存の組織もなく、ばらばらにされてしまった青年たちの悲惨な状況は、まさに分断と対立を振りかざす新自由主義の攻撃の最前線です。社会的にも最も困難な戦線の中でも、青年たちに本当に寄り添って、一人・二人からでも運動を作り出してきた青年ユニオンの活動は、新自由主義の攻撃に立ち向かう社会的連帯の典型であり、「社会を根底から動かす大きなウェーブ」というのは誠に正確な自画像だといえます。全国的にも限りなく発展することを期待します。

 

 現代資本主義論という場合、軍事と農業を欠いた小ギレイなそれを見ることがありますが、リアリティがないといえましょう。アメリカを欠いた現代資本主義論はありえませんから、なおさら軍事と農業は不可欠です。軍事はまずは政治問題ですが、経済の観点からも現代資本主義を規定するものとして重要です。農業は今日いかにその産業的比重が低下していても社会にとっての死活的重要性は変わりません。この点がしばしば事実上、軽視されるきらいがあるように思われます。2月号では農業問題の論文もあり、河相一成氏の「BSEと反芻動物」、加藤光一氏の「東北アジアの経済発展と農業・農村の構造変動(下)」が注目されます。

 河相論文はBSE問題を政治問題に終わらせるのでなく、畜産技術のあり方と肉市場の構造との関連で考察しており、批判的社会科学の面目躍如たるものがあります。その際に労働過程論にまで遡って農業の生産力構造が分析され、まず価値を目的とした資本主義農業と使用価値を目的とした家族農民経営とが対比されます。しかし農産物の商品化の進行とともに家族農民経営においても、労働主体から、労働対象・労働手段主体の経営への逆転が生じ、価値を目的とする生産に移行し、BSE発生の背景を形成することになります。次いで畜肉市場の構造が分析されます。農民に価格決定権がないもとで、しばしば生産費を下回ることもある、もっともらしい使用価値「差」による価格差が強制されます。価値論的にも興味深い部分がありますが、家族農民経営の重要性が農業技術との関係からも解明されているのが重要です。

 加藤論文でも韓国・台湾・中国・日本において、それぞれの仕方で家族農業経営が根強く存在していることが解明され、通念としての小農切り捨ての生産力主義的発想が批判されています。そして東アジア共同体論議(やFTA締結交渉)の一部に見られる事実上の日本農業切り捨ての姿勢が東アジア的規模で根本的に批判され、オルタナティヴの基本が提起されます。

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 グローバリゼーションのもと、反グローバリゼーションの道は、小手先の地域統合としての「東アジア共同体」ではない。今私たちが構想しなければならないのは、とりわけ日本、韓国、中国そして台湾にとって二国間の処理としてのFTA(結果としてはWTO体制の補完的機能としての)ではなく、各国・地域の「食糧自給権」の確立と「環境権」の確立を前提にした「東北アジア共通農業政策」の必要性であろう。その出発点は東北アジアにおける多様な家族農業経営=小農の認識からである。      171ページ

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 切り抜きするのを忘れてしまったのですが、1月初めの朝日新聞に政治学の藤原帰一氏が現実主義の勧めを書いていて、ブッシュも憲法9条も同列に並べて理想主義として非難していました。あえて「9条の会」を挑発しているように見えるのですが、この人は最近この類の発言が多いように思う。まあしかしわかりやすく問題提起しているので、考えてみる必要はあると思ったのですが、肝心のその記事がもうなくて、あえて取り寄せようとまでは…というところです。

 伊東光晴氏が『世界』1月号の「増税を真剣に考えよう」で消費税などの早急な増税を主張しています。都留重人氏と同じく元来からの付加価値税論者なので「想定内」の主張ですが、新自由主義の御用学者ではなくて、理論にも現状分析にもすぐれた経済学者がこういう意見なのが残念です。それにしても財政再建の道を示すのは難しい。我々にとっては要求運動と経済政策の現実整合性が問われるところであり、伊東論文は真剣に考えてみるべき対象でしょう。
                                  2006年1月20日




2006年3月号      

 鈴木久清氏の「市場原理主義とクレジット・サラ金 上限金利規制緩和・撤廃論を批判する」ではこう述べられています。

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セーフティネットというのは、言わば敗者復活戦を準備して問題を糊塗することです。彼らは、アベイラビリティ=セーフティネットによって、あたかも高リスク者のクレジットへの参加が開かれるかのような装いをこらしていますが、実際は「優勝劣敗の力学」が一層作動する市場に、社会の底辺層に位置する弱い消費者を引きずり込んで、食い物にしようとしているのです。    151ページ   アベイラビリティ:受けやすさ

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 セーフティネットを盛んに口にするのは、ただでさえ貧困な日本の福祉をさらに削減しようという連中です。だからセーフティネットといっても何の実体も志向さえもないのです。ただそれを言うことで弱肉強食の格差社会を作っても安心であるかのように人々を欺こうとしているのです。つまりセーフティネットというのは実際には、新自由主義的「構造改革」の実体なき免罪符と言うべきでしょう。大切なのは真面目に働けば生活していける経済をつくるというあたりまえのことです。その課題から人々の目をそらすために、リスクを取る生き方を礼賛し、すべての人々に強要するために、言い訳としてセーフティネットを喧伝しているのです。「負け組」は挑戦して負けたのだからまだましで、「待ち組」が一番悪い、という妄言を吐く大臣、同調する首相は、強搾取の権化、リスキー資本主義の人格的担い手なのです。

 

 社会保障総合研究センター編『「福死国家」に立ち向かう 社会保障再生への道を問う』に対する書評の中で石川芳子氏(全労連常任幹事)は次のように述べています。

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 私がもっとも興味を持ったのは、「構造改革なくして財政再建なし」と声高に断言した小泉政権発足からの四年間に、財政赤字は二五○兆円も純増している事実と、「財政赤字を拡大し続けることによって、真面目な国民が社会保障拡充要求を自己抑制する効果をねらっている」という指摘だった。

 社会保障への支出増を求めれば、その財源はどうするのかとの反論に多く出合う。財政難の折であり高福祉を望むのは間違っているとの主張に対し、「逆再配分の経路になり始めている税・社会保険料を、再配分の経路に戻すこと」が必要だと数値を上げて明快に説いている。                124ページ

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 そこで以下では「真面目な国民」の少なくない部分が抱いている、消費税などの庶民増税もやむなし、という思いについて、伊東光晴氏の「増税を真剣に考えよう」(『世界』1月号)を材料に考えてみたいと思います。

 伊東論文では、所得税の累進制の強化だけでなく、消費税の増税もすぐにしなければならない、という結論になっています。ただしそれは、財政の計量的検討に基づいて出された結論ではありません。財政破綻、不平等の進行、労働政策の崩壊という、政治が対処すべきでありながらそれを怠ってきた三大問題を検証する中から出された理念的な結論であるといえます。そこには傾聴すべき主張も多く含まれるとはいえ、この結論はいただけません。庶民増税に反対する理念を対置したいと思います。もちろんそれは財政論の入口に立つだけのことであり、そこから本格的な計量的検討が必要なのですが、正しい入口にたどり着けない議論が横行している以上、私の序の口的議論にも多少の意味はあろうかと思います。

 財政破綻の原因論について伊東氏は「九○年代のバブル崩壊によってつくり出された税収の落ちこみと減税、社会保障費の増加が赤字の主因であり、不況対策としての公共投資は実質わずかで、主因ではない」(78ページ)としています。その際に「九二年八月から九九年一一月まで九回にわたる景気対策としての公共投資の合計は約五六兆円、しかし現実の政府固定資本形成の合計はわずかに五・九兆円にすぎない!」(同前)としているのですが、これだと景気対策としての公共投資がいかに実質ムダであったか、という話にはなっても、財政赤字の主因が公共投資ではない、という主張にはつながらないようであり、意味不明に思えます。だからこれだけでは公共投資を免罪する主張は証明されざる断定に過ぎないと思います。この独断のためか、伊東論文においては、大型公共投資への批判が欠落しているのが特徴的です。ただし社会保障費の増加が赤字の主因のひとつであることは、それが財政支出の中の最大項目であり自然増が不可避であることからいって、肯定でき、それをどう支えるかが大問題であることは確かです。

 論文では所得再分配機能について、日本では税によるそれは低く、社会保障がその主役となっていることを示し、前者の改善のために個人所得税の累進制をかつてのように強めることを提唱しています。また財産所得への分離課税を批判してはいますが、総合課税の強化という主張はなく、所得税の所得再分配機能は期待されるほど高くない、という現状の指摘にとどまっています。法人税については税制特別措置への批判はありますが、税率には触れられていません。そして議論の中心は消費税率アップに収斂していきます。高齢化社会では年金・医療・介護などに多額の原資を必要とするので、累進課税の強化や軍事費削減ではとても間に合わない、したがって付加価値税によって大きな財源を確保して、その支出を社会保障に向けることによって、所得再分配を実現すべきだ、という主張です。そして「付加価値税の逆進性を強調し、これを否定する革新は真の革新ではない」(82ページ)と語気強く迫ります。しかし逆進的な付加価値税は社会保障の財源としてはふさわしくないのであり、伊東氏のように理念的にも適切であるとして社会保障の財源とすべきではありません。仮に財源とするにしても、財政全体の検討の中でそれ以外にない場合に限るべきです。いずれにせよことの当否は具体的な計量的検討を俟たねばなりませんが、その検討姿勢は理念によって左右されます。

 論文では消費税へのインボイス方式の導入と税率アップを提唱しています。インボイス方式についていえば、消費税を純化・強化する立場からいえば当然の主張です。しかし我々は消費税に原則的に反対する立場です。現行消費税が低税率かつ色々と不純な要素を含んでいるのは支配層と人民との妥協の産物だからです。それは好ましい状態ではないけれども消費税を純化する方向よりはまだましです。消費税の問題点(逆進性のような本質的問題のことではなく益税・損税のような制度的不具合)を解決するには、インボイス方式の導入だけでなく免税点の廃止などで究極的に純化するか、さもなくば消費税自体を廃止するしかありません。もちろん我々は後者を望みますが、それができない段階では、インボイス方式などの一見合理的な主張に対しても、逆進性などの本質的問題を押し出すことで消費税の純化・強化には断固反対するしかないと思います。これは一見きれいな「理論」に対する泥にまみれた現実(とそれを正しく反映した本当の理論)の優位を実現することだと思います。

 論文では他国の付加価値税率の高さには触れていますが、免税品目について触れていません。これについてはさっそく『世界』2月号の「読者談話室」に批判が寄せられています。しかしそこでも税率アップ自体は容認した上で生活必需品の免税ないし低税率の導入という主張であり、増税論の土俵に乗ったもので、警戒すべき論調だと思います。 

 財政支出面については、年金支給年齢の引き上げと「定年後は等しく初任給で七○歳まで働く労働慣行をつくる」(95ページ)ことが提唱されています。働く能力と意思がある高齢者に働く場を提供することは是非とも実現すべきですが、財政赤字のためにあまねくそうした「労働慣行」をつくるというのはいかがなものかと思わざるをえません。また「二○○六年度医療給付費用が二八兆三千円(ママ、三千億円か?)と予想されるものが、放置されれば、二五年度五六兆円になる」(90ページ)とあります。医療給付費用というのは、国民医療費から患者の自己負担分などを除いた公的医療費であり、2025年度に五六兆円という予測数値は厚生労働省の医療制度改革試案によると思われます。しかし過去において医療費予測はすべて極端な過大推計であり、この五六兆円も過大推計なのは確実だ、という指摘があります(注)。政府による増税と社会保障削減攻撃はこのような統計数値にも現われていることには注意が必要です。

 (注)二木立「より悪い医療制度にしないために--小泉政権の医療改革の批判的検討」

(『北海道医報』第1049号附録所収、2006年2月1日付)14ページ。なおこれは北海道医師会での講演(2005年12月3日)の記録であり、経済財政諮問会議議員・吉川洋氏の同日の講演「よりよい医療制度を目指して--改革の方向性と課題」(同号に収録)への批判になっています。両者はきわめて興味深い対論となっています。当日の資料についての連絡先:北海道医師会事業第二課、TEL011-231-1725 FAX011-252-3233

 

 以上のように、国家財政の歳入と歳出のそれぞれの中身がまず問題ですが、財政規模そのものもひとつの問題点です。伊東氏は「イギリスにくらべ日本は税の実質負担が企業も人も軽く、タックス・パラダイスの国だ」(94ページ)と指摘しています。その含意は、「大きな政府」か「小さな政府」かということに関連して、「高福祉・高負担」か「低福祉・低負担」かという問題提起であろうと思われます。しかしこれは財政の中身を問わない俗論であって、同じ財政規模でも社会保障の水準は様々です。確かに財政規模も問題ですが、それ以前に税金の使い方が問題です。この点を見ないと、「高福祉・高負担」か「低福祉・低負担」か、という誤った二者択一論につかまって、低福祉は低負担が原因であって高福祉を望むなら高負担が必要だ、という議論にはまってしまいます。不覚にも忘れてしまったのですが、社会保障について、各国の国民負担に対して給付の割合がどれほどか、つまり払ったものに対してどれだけお返しがあるか、という統計が確かあって、日本は他国よりも低くなっていました。日本人は絶対額において社会保障水準が低いだけでなく、負担の割にも報いられていない、ということです。資本家的言い方をすれば、福祉国家としての(絶対水準だけでなく)効率も悪いということになります。その裏には公共事業支出の異常な多さがあります。

 ただし現実の生活者として大切なのは、福祉国家の効率よりも社会保障の十分な絶対水準です。それが確保できるか否かを見るには、福祉先進国との間で、GDP対比での社会保障支出の水準を比較して、各国民経済の実力に応じた社会保障水準を比較すればよいのです。ここでも日本は低水準になっており、一層の社会保障充実の余地があることが分かります。ただし留意点があります。各国民経済の実力と社会保障水準とは直結しているわけではなく、間に国家(地方政府を含む)財政をはさんで間接的につながっています。つまり実際にはGDPの内の一定割合が国家財政となり、そのまた一定割合が社会保障に支出されます。現状でも日本は「小さな政府」なので、仮に財政における社会保障支出の割合が他国と同じであっても、GDP対比では少なくなります。もちろんそうであっても国民経済の実力に比べて社会保障が貧困だという事実には変わりありません。その際に他国並みに社会保障を充実させるためには、財政そのものを拡大する方法と、財政規模はそのままで社会保障支出の割合を拡大する方法(税金の使い方の転換、たとえば「福祉と公共事業の割合の逆転」など)、あるいは両者の併用、ということが考えられます。財政規模を拡大するといっても、どこに負担を求めるかで、方法は分かれます。喧伝されている、福祉切り捨てのための「小さな政府」をこれ以上目指すのは論外です。いずれにせよ、社会保障の充実のためには、時々の情勢と世論動向をにらみながら、財政の適正規模と歳入・歳出の中身を様々に検討することが大切であり、選択の余地はあります。社会保障の確保のためには庶民増税しかない、それがいやなら福祉切り捨てもがまんしろ、という含意の「高福祉・高負担」か「低福祉・低負担」か、という誤った二者択一論が横行するのを許してはなりません。

 ここで今まで述べてきたものも含めて考えて見るべき要素を列挙してみましょう。

◎歳入面

 #所得税の累進制と総合課税の強化

 #法人税率の引き上げと特別措置の整理

 #道路特定財源の一般財源化

 #真の景気回復、雇用の正常化により税収を確保する

◎歳出面

 #大型公共事業の抑制

 #軍事費の削減 特に米軍関係

 #必要な社会保障費は確保する 年金の充実 高い薬剤費・医療機器代を見直す

   政府の過大な医療費予測を正す

他に地方自治関係も重要です。

 伊東論文には傾聴すべき点も多く見られます。まず最近問題の格差社会論では、太田清氏、大竹文雄氏などの格差拡大否定論を公平に検討した上で説得力ある批判を展開しています。また「政権に近い市場主義者は、医療の増加に対処して、″受益者″負担を強めようとして、患者負担の引き上げを求めている。大病にかかって医者にかかる者は受益者なのであろうか。不幸な人ではないのか。かれらはどのような考えの持主なのであろうか」(95ページ)という伊東氏の怒りは、人を人とも思わない新自由主義者に向けられており、共感できます。生真面目さが感じられます。しかし残念ながら伊東論文の全体は氏なりの財政合理性に重きを置くあまりに、人々の生活と労働の大変さに理解を示しつつもそこに犠牲を求めるのを止むを得ないとする点に「負の生真面目さ」を感じざるをえません。そこには、責任ある財政論議をするためにポピュリストたることは断固拒否するという決意がうかがえ、増税を回避する政治と世論に対する怒りを隠しません。以前には伊東氏はこうした意識の延長上に、不況下での賃下げを当然とするような議論も展開しています(『世界』2002年5月号の河合正弘氏との対談「デフレに有効な政策はありうるか」。これに対する拙論は「文化書房ホームページ」内の「店主の雑文」中の「不況対策に賃下げ?!」にあります)。伊東氏の生真面目さのこうした両面性は決して個人的な理論とキャラクターによるだけではなく、もっと一般的にも見られる社民的視野の限界によるのではないでしょうか。伊東氏は新自由主義批判のオルタナティヴとして西欧社民福祉国家を置いているようであり、それは今日広く見られる見解です。しかしそれは正しいでしょうか(なお他に市民主義的オルタナティヴも理念的には興味深いものがありますが、現実的影響力の点では今一歩であり、今後の検討課題としたい)。

 たとえば新自由主義的グローバリゼーションへのオルタナティヴとしてすでに社民を超えた方向性を示しているのがチャベス大統領の主導するベネズエラ革命です。『世界』では以前に社民系とみられる論者がこれをポピュリズムと非難していました。「朝日」1月27日の社説でも中南米の左派政権をポピュリズムと非難していました。しかしベネズエラ革命の帰趨は予断を許さないとはいえ、そこで起こりつつあることは参加型民主主義による全人民的発達とでもいうべき底深い社会変革であり、敗者に恵みを与えているという類の表面的な変化ではありません。単なる分配政策の変化ではなく、国民経済の主人公が変わってきつつあり、それまでまったく顧みられなかった貧しい人々が新たに政治経済の主体となって登場してきているのです。これは「勝ち組、負け組」の格差社会推進の新自由主義と違うだけでなく、格差社会の結果是正の社民路線とも違う、全員で作り上げる参加型社会を志向していると言えそうです。新自由主義者や社会民主主義者にはそのような地平は見えないのでしょう。何をもってポピュリズムと批判するかによって、逆に批判者自身の立場や視野の広さ(=狭さ)が映し出されるのです。

 日本の現状でも、消費税増税の主張を勇気ある反ポピュリズムとして賛えるような「負の生真面目さ」を克服するためには、新自由主義批判はもとより、社民路線も超える構想力を持つ必要があると思います。日本は西欧よりも財政破綻が酷いという現実がある一方で、独自の平和福祉国家に向かいうる条件も持ち合わせています。

 まず軍事費です。日米軍事同盟の打破という課題は未達成のままだし、冷戦後も軍拡が進んだのですが、憲法9条と人民の運動・意識のおかげでGDP比では軍事費を押さえてきましたし、これからも東アジアの平和の情勢を切り開いていくことでさらにこれを押さえていくことは可能です。近年機能不全とはいわれつつもNATOを前提とした「普通の国家」として一定の軍事支出があたりまえの西欧諸国とは基盤が違うといえます。

 日本は長く付加価値税を持たず、今日でも低税率に押さえており、人民の中にもかなり定着したとはいえ、いまだ消費税アレルギーは残っています。これは核アレルギーとともに正の遺産として継承すべきものです。

 西欧では長年にわたって莫大な失業者があたりまえのように存在してきました(それだけに対策も充実していますが)。日本では失業率の定義に問題があるとはいえ、長年にわたって低失業率の社会を維持してきました。したがって近年の失業の増加は異常な事態として捉えられています。

 もちろん付加価値税と失業率についての上記の有利な条件は、かつての例外的な高度経済成長と若年型の人口構成などによるところが大きく、低成長、高齢化、生活の社会化の進展による福祉需要の増加、などの現状は逆風となります(福祉需要の増加は、財政負担の増加という意味では厳しい問題ですが、新たな福祉社会を築く基礎でもあります)。しかしそれを克服する国民経済を目指すための出発点としての意味は大きいのです。

 ここで見るべきは、伊東氏が所得格差の拡大と労働政策の崩壊とに対して正当な批判を展開していることです。特に若年雇用の深刻化に触れて「日本社会の将来にわたっての活力を削ぐ新しい二重構造の深化に対処するには、ILOの同一労働・同一賃金の原則の順守がまず行なわれなければならない」(89ページ)という指摘は重要です。ここではこれ以上の展開はないのですが、中長期的視点としては経済特に労働のあり方が財政のあり方を規定することが想起されるべきです。つまり税収・社会保険料収入はまともな労働による所得によってこそ支えられるべきです。これがどんどん破壊されている現状を放置して増税に走るのは、バケツの穴をふさがずにとにかく水を入れろと強要しているようなものです。日本ではグローバリゼーションへの過剰適応による労働破壊によって、個人消費の疲弊した国民経済・少子化と自殺増加・技術継承の断絶・税収などの減退、といった弊害が生まれているのですから、財政問題もこの大きな枠組みの中で考える必要があります。

 以上を勘案すると、西欧社民型福祉国家とは違って、日本の経済民主主義が目指すべきは、付加価値税に頼らない、完全雇用に近い、軍事支出のない平和福祉国家ということになると思います。それには、無駄な公共事業の抑制はもとより、グローバリゼーションへの過剰適応を正す、対米従属を改善する、東アジア共同体を目指す、内需循環型国民経済を築く、といったことが必要となり、かなり難しいですが、目標を正確に掲げることには意味があります。西欧社民的視点を前提する限り、伊東氏と同じく、消費税率アップ反対というのは無責任なポピュリストのスローガンにしか見えません。しかしそのような見方は人民の生活と労働の実態からいって正しくありません。

 もちろん現状では新自由主義と対決することが最重要の課題であり、そのためには社会民主主義者や市民主義者は言うに及ばず、一定の保守層も含めて広い立場の人々と共同していかねばなりません。だからここで西欧社民型福祉国家を批判したのは、ことさらに立場をあげつらうことに意味があるのではなく、何より人々の労働と生活の現実に根差して共感を獲得しうる政策的提起を可能とすることに眼目があるのです。下から見ることから始めようということです。漠然と西欧社民モデルに囚われることなく、日本の現実に根差した経済民主主義を構築していくことが何より大切であり、そうしてこそ立場を超えた合意を獲得して行くことも可能となります。政府・財界の上からの経済整合性=財政整合性(それはサービス残業など「労基法違反込み」の日本的「グローバリゼーション型」国際競争的国民経済像に基づくものです)に対抗して、人々の生活・労働整合性に見合った経済整合性=財政整合性を見い出さねばなりません。

 以上、結局イデオロギッシュな話に終始してしまいました。こういう心構えの話は大切だと思うのですが、ようやく問題の入口まで来たに過ぎません。肝心なのは庶民増税路線をはねかえせるような財政上の数字を示した議論です。それがなければ構想といったところで空想に過ぎません。

 累積債務については返済計画を作成するのは困難であり、別枠で慎重に管理し、当面プライマリー・バランスの確保を目指すことになるのではないか、と思います。財政赤字の問題に気を取られて要求運動の萎縮を招くことは良くない、とも思います。たとえば消費税率引き上げ反対という旗を降ろしたら、民主勢力が求心力を失うというにとどまらず、そもそも社会進歩という観念に対するニヒリズムやシニシズムが(今でも知識層を中心に蔓延していますが)人民の間に相当に広がってしまうのではないでしょうか。支配者層が人民に無理難題を押し付けるのは当然でも、批判勢力が同じことをすれば日本社会全体が意気阻喪状態になってしまいます。庶民生活の苦しさはそこまで来ているように思います。ただし国債価格暴落や金利高騰の可能性など、累積債務の管理は非常に難しいので、それも含めた大ざっぱな経済財政改革の方向性を検討していくことが大切です。

 

 社会保障をどう支えるかという問題は財政の中心に位置します。自己責任論を批判して社会保障の理念を明らかにしつつ、経済と社会保障の関係を解明することが大切です。そのために以下では真田是氏の『社会保障論 21世紀の先導者』(かもがわ出版 1998年刊)から重要な部分を紹介したいと思います。

 今日では自己責任論が跋扈しており、社会保障もずいぶん歪められています。それだけに原点を確認することが重要です。

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 人権・生存権一本で社会保障の機能を捉えるものは、生活問題が改善されていないかぎり社会保障を政策的・財政的に優先させることを求める。この機能の捉え方は、生活問題を社会問題として捉えることによって「社会的責任と危険」という理念に一致してくる。しかし、社会保障の政治的・経済的機能を基本にしているものは、経済成長を勘案したり社会保障をあまり必要としない国民の部分との「公平」を配慮して、社会保障以外の政策や財政支出を優先させたり、自己責任論に接近した社会保障の自己負担増を主張することも出てくる。

 社会保障の理念・機能で大切に思うのは、生活問題を社会問題として捉えて社会的責任論に立ち、人権・生存権保障を基本にする立場を堅持することである。その上で、実際の情勢・状況を踏まえて他の政策や財政支出との関連を現実的に追及することであろう。

                      34ページ

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 さらに真田氏は社会保障の公的責任の根拠を6点にわたって指摘しています。

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 1)生活問題は自己責任によるよりも社会的にもたらされる社会問題である。いまの経済社会の仕組みは、資本という富を体現したものが自己増殖を本性にしていることから、自然や人間をはじめあらゆるものをその手段に変えていく。そのためにさまざまな問題が生み出される。社会保障が対象にする生活問題もこうして生み出されるものであり、したがって社会的責任で対処しなくてはならないものである。

 (2)この社会的責任の中身は資本にあるのだから、実は資本の私的責任である。

 (3)しかし資本の富と自己増殖は社会的分業と協業によってつくられ遂行されているものなので、資本は私的な存在でありながら社会の協力・共同の産物でもあり富である。この意味では資本は社会的な存在であり、みんなの共同の富である。

 (4)資本が社会問題としての生活問題についての責任を自主的・自発的に果たすことは期待できない。また、いまの経済の特徴である市場経済はこの問題への対応をする仕組みではない。需要はあっても供給を買い取る貨幣を備えた需要でないと市場経済の有効需要ではないので、必要な貨幣を欠いた需要には反応しないからである。「市場の失敗」と言われてきたものである。

 (5)市場経済の外側から資本の責任を果たさせる仕組みが求められる。公的機関、何よりも強制力を委託された国家に行わせる以外にない。社会保障における公的責任とはこのようなものであって、資本に責任を果たさせる国家の責任である。

 (6)内容としては、資本からの税収入を大きくして国家財政のできるだけ多くを生活問題を負わされた国民の権利保障・生存権保障に当て、社会保障費用の徴収に当たっても資本の費用負担を中心に課す。これは社会の共同の富が私的に占有されているのを、共同の富にふさわしく使う措置にほかならない。     105-106ページ

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 このような観点を前提に、真田氏は社会保障と経済との関係を解明します。社会保障の要求に対して、財源がないとか、経済が衰退する、というよくある主張にていねいに反論しています(124-129ページ)。そして社会保障は経済に従属しない、と主張します。それは社会保障が経済を無視するということではなく、経済が社会保障の基盤であることは認めます。しかしその経済のあり方が問題であり、社会保障は新自由主義とは共存できず、自らと親和的な経済のあり方を選ぶのです。経済に従属しないとは、そういう意味です。そこでの社会保障と経済の関係は次のようになります。

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 しかし、社会政策研究の到達点のところでふれたように、経済は自律的な法則で動いているものであって外から恣意的にどうこうできるものではない。現実の経済は、社会保障が選ぶ人間のための経済に、社会保障の影響でなっていくというほど簡単ではない。今日の経済の自律的な法則と言えば資本の自己増殖の法則であり、人間も自然もその手段にしていく法則であった。人間のための経済とは逆の法則が働いている経済である。したがってこうなる。

 今日の状況では、社会保障が経済を選ぶということは、現存する経済との緊張関係に置かれて、この経済法則に規制を加えるということになる。そして、規制を加える力は国民世論の合意と共同の力のほかにない。

 資本の自己増殖の法則に一定の規制を加える社会保障の選ぶ経済は、社会保障の物質的基盤になることで社会保障の充実を促進することになる。その結果は国民の消費力を増すことになり、国内市場を拡大する。今日の高度に発達した資本主義国を繰り返し襲う経済不況は、国民の消費力を増すことでしか克服できないものになっている。このことは、社会保障が国民経済に貢献するポイントを示している。社会保障が経済に貢献する一番大事な点は、国民経済のバランスのとれた発展を促進することであり、つまり人間のための経済を理念と実地とで拡げることにある。      132ページ

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 このような社会保障と経済との関係から見ると、第二次大戦後の福祉国家の形成は、決して社会保障の理念が人類に行き渡ったからではなく、帝国主義=巨大資本の支配下での不安定な共存に過ぎません。戦後復興を梃子にした経済成長の持続下において労資協調路線で人民の支配に有効な限りで社会保障と帝国主義との共存が可能となりました。私が先に批判した西欧社民型福祉国家とは、普遍的モデルというよりは実はこうした歴史的過渡的形態だということになります。経済成長の終焉とともにこの共存は敵対に転化しました。そこでは社会保障とか福祉国家の意味そのものが変化してきました。

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 資本、とりわけ巨大資本が本性的に社会保障と相いれず、手段・方法としてのみ社会保障を使うことがあることから、手段・方法として利用できる好条件が後退すれば、本来の両者の対立が露呈せざるをえない。

 その上に、民主主義のより高次の段階への発展が、帝国主義=巨大企業の支配というものが民主主義と相いれないことをいわばあぶりだすことになり、社会保障との対立を前面に据えることになる。さらに、ジグザグはあるにしても、生活の社会化の進展が社会保障やソーシャル・サービスの要求を国民的な規模に広げる必然性があるので、帝国主義=巨大企業の利益と衝突するようになる。              146ページ

 

 福祉国家政策は、もともとは社会主義の暮らしと健康を守る仕組みからの圧力に対して、それへの対抗策として生まれ展開されてきた。資本主義か社会主義かで、社会主義への指向を逸らすための「第三の道」という位置づけがあった。かつての福祉国家批判はこの点に向けられて展開されてきた。ところが、いま指摘してきたことは、帝国主義=巨大企業の支配が社会保障を手段・方法としても利用できないような、封じ込めが、情勢として進んできているということである。

 帝国主義=巨大企業の支配が存続している下では、社会保障の充実は、これも指摘してきたように、国民の合意と共同の力による巨大企業に対する規制によって実現する。福祉国家が現実のものになるのは、これまでのように巨大企業の手段・方法としての可能性はいちじるしく小さくなっていて、これからは国民の力による巨大企業への民主的規制によるものが主要になることを予想させる。このような福祉国家であれば、これは社会主義への対抗ではなく、社会主義への道に通ずるものであるかもしれない。このような文脈でみても社会保障は二一世紀と未来の先導者である。      147-148ページ

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 以上、あまりにも長い引用で、内容的にも抽象的・原則的で現実的ではないと思われるかもしれません。しかしこうした見地を踏まえてこそ厳しい現実にも力強く対処していくことが可能となります。
                                  2006年2月16日




2006年4月号

 大特集「21世紀と日本の大学」では、政府・財界によって国際競争力強化至上主義の新自由主義的な「大学改革」が急速に進んできたことが描かれています。それに反対して真の大学改革を進める側の取組は残念ながら追い付いていないようです。私の学生時代は産学共同ということ自体が糾弾の対象でしたが、現在では立場の如何を問わず推進されています。特集でも各地の大学での様々な取組が紹介されています。確かに地域経済や中小企業などとの連携を強化していくことは必要ですが、そこで学問の自由や大学の自治が確保されていくことに留意されねばなりません。「戦時下の強権的な弾圧とは違って、いまの手法・形態は第三者評価などによる『競争による誘導』ないし『競争による管理』であり、これを通じて『大学の自治』・『研究の自由』がじわじわと侵害されていっている」(牧野富夫「『大学改革』の経済的背景」31ページ)。そうしたなかで、政府の「大学改革」に対して大学人のトータルな反対運動が起こらず、ましてや労働者・人民には縁遠い問題となっていることは重大です。現状を打開する切り口の一つとして、切実になっている学費・学生生活の問題から取り組んでいくことが必要ではないでしょうか(平野厚哉「深刻化する学費問題」、蓮見澄「学生生活の実態はいま」)。新自由主義はグローバリゼーションのイデオロギーですが、必ずしもすべての問題にわたって世界中に定着しているわけではありません。たとえばイラク人質事件において「自己責任」論による人質(及び家族への)バッシングが跋扈したのは特殊日本的現象でした。実に鎖国的な新自由主義イデオロギー支配という逆説がここにはあります。多くの日本人が自己責任と思って諦めている大学の異常な高学費も、外国の実情を知らない無知の産物という側面が大きく、ここにも鎖国的な新自由主義イデオロギー支配があるのではないでしょうか。国際人権規約(A規約)13条2項にある「高等教育での無償教育の漸進的導入」を日本政府が留保している(A規約批准国151ヵ国中、日本、ルワンダ、マダガスカルのみ)のは言語道断です。こういうことをすべての人々に知らせることから始めねばなりません。

 藤岡惇氏の「新入生とオリター制度」からは、適切な場を設定し、きっかけを与えさえすれば、学生たちが自主的に活動し素晴しく成長していくことが、生き生きと描かれています。大学改革、大学の自治、学問の自由などを考えるにも、このような視点が欠かせません。上からだけながめていると間違うし、意気消沈することにもなりかねません。学費や学生の自主的活動は、大学改革、大学の自治、学問の自由といった問題の主要な内容ではないかもしれませんが、政府・財界と進歩的大学人との闘いという図式から脱して、問題を大衆化していかないと先が暗いと思えます。

 ところで次号予告で、<大特集>国民のための財政改革13講、とあります。まさに期待していた特集で、大変ありがたいのですが、5月号では他にもすべきことがあるのではないでしょうか。新入生が手に取る号です。「読者の声」でも中高年の声ばかりが多いのですが、学生に本誌を普及する工夫が大切です。失礼ながら編集部では諦めているのでしょうか。もっとも私も学生時代、本誌はツンドクだったので大きなことは言えませんが。

 

 黒川俊雄氏の「もう一つのグローバル化をめざして」はグローバル化の歴史を跡づけ、ケインズ主義から新自由主義への学説史的変遷にも若干触れた上で、「『もう一つのグローバル化』を追及して全国一律最低賃金制を軸とするナショナル・ミニマムの法制化を追及することが不可欠の課題になってきている」(160ページ)と結論づけています。グローバリゼーションが一つの全体性をもって貫徹される現実主義である以上、願望や部分的抵抗では押しつぶされます。新自由主義的グローバリゼーションがあたかも自然法則のように貫徹されるのは、人民の抵抗を回避できる限りでです。開発独裁の延長線上でそれを抑圧できることもあるでしょうが、民主化が進んでそうした段階を過ぎれば、経済成長で様々な矛盾を買い取ったり、イデオロギー支配で人民の自発的な服従を組織したりすることになります。いずれにせよ新自由主義的グローバリゼーションがもたらす、失業の増大・格差拡大などの現実は人民に厳しい労働と生活を強いています。生存権の否認のグローバル化というこの現実に対して、生存権の確保の上に立つ国民経済とその連合としての世界経済という別の現実を創造するのが、もう一つのグローバル化であり、その中心をなすのは全国一律最低賃金制を軸とするナショナル・ミニマムの法制化と言えましょう。新しい現実を創造するためには、みじめな現実を聖化する新自由主義イデオロギーを自然と感じるような埋没状態から脱して、まずはもう一つの現実を想像する力を持たねばなりません。それは夢想ではなくて、目前の現実のみじめさの直視と、その現実との闘いという確かな地面に根差しているものです。日本と世界での様々な闘いの現実から新知識を吸収することによって、対米従属的鎖国とでもいうべき小泉劇場の改革幻想を打ち破ることが必要です。

 黒川論文では、WTO体制下で多国籍企業アグリビジネスが進める「開発輸入」方式によって、「安くて危ない食品」が世界市場を席巻し、先進国でも途上国でも家族農業経営が破壊され、低賃金労働が作り出される、そのような仕組に言及されています。そうしたなかでグローバル化による労働条件への不断の下方圧力によって、多国籍企業の利潤が増大する一方で、「GDPに占める賃金総額の比率が下がりつづけてい」(168ぺーじ)ます。これを逆転し、食料主権を確保し、まともな労働に基づく経済を作り出す「もう一つのグローバル化」のため、「全国一律最低賃金制を軸とするナショナル・ミニマムの法制化を実現するための国民共同」と「国際連帯」(175ページ)の必要性が説かれます。そこではILOの「公正なグローバル化」の提起が紹介され、欧州最低賃金制をめぐるEUでのせめぎあいにも触れられています。残念ながら日本では改革幻想がまだ支配的であり、耐震偽装・ホリエモン事件など新自由主義のほころびは明白になりながらも依然として頑強です(小泉内閣の支持率50%弱程度)。それはマスコミの問題や民主党のガセネタ騒動などが直接の要因ですが、改革幻想に替わるもう一つの現実の分かりやすい提起がない、という現段階の特徴だといえます。労働運動の論理がそれなりに社会のなかに存在感のあるEUと違って、従来の企業社会が崩れつつある下でも、資本の論理の支配が変形しながら強化されている日本の厳しさがここにはあります。それだけに「全国一律最低賃金制を軸とするナショナル・ミニマムの法制化」の追及はきわめて重要です。

 

 「しんぶん赤旗」3月4日付「こちら経済部 リストラで競争力低下」では結論として、(一)「構造改革」の小泉政権が「努力したものが報われる」と言っているのは、実際にはホリエモンのように甘い汁をすうことである、ということと、(二)「労働者を大切にする社会でなければ、本当の意味での生産力の上昇にはつながらない」ということとが言われています。両方とも額に汗して働くものが報われていない現実を示していますが、前者は、金融的術策=虚業の勢力が政府を動かす国家独占資本主義の寄生性と腐朽性を指しており、後者は、実業においても賃下げリストラの害悪が広がっていることを指しています。

 生産力の上昇を資本主義的に捉えれば、賃下げリストラが最も手っ取り早い方法です。投下労働量と生産物量とが同じでも、賃金が下がれば、資本家的には、少ない人件費で同じ生産量を確保したことになりますから、「労働生産性」が上がったことになります。これを許せば技術開発へのインセンティヴが働かず、本来の意味での労働生産性は上昇しにくくなります。国際競争力の指標がどういうものかは知りませんが、おそらく現実に使用されるのは、投下労働量に対する生産物量という実物的関係ではなく、人件費と諸経費とに対する商品価格という価格関係に基づくものでしょう。したがってそこで国際比較される生産力は、技術力だけでなく階級関係をも反映したものとなり、資本と労働との関係が前者に有利であるほど国際競争力も強くなります。

 そうしたなかで「労働者を大切にする社会」による「本当の意味での生産力の上昇」を実現するためには、野蛮な階級関係による資本家的生産力の追及を規制しなければなりません。それは歴史的には19世紀イギリスでの工場法の制定とか、日本の戦後改革での労働改革による経済発展として実現されました。

 生産力とか国際競争力とかを示す様々な統計数値を価値論や階級関係の観点から分析的に見直して、資本の立場、特に多国籍企業の立場ではなく、働く人々のために国民経済の再生産を確保する立場から見ることが大切です。そうしないで数値の上下だけを見ると危険です。

 やはり同日付の「消費者物価0.5%上昇」という記事では、「参考値として公表している食料とエネルギーを除く総合指数は0.1%上昇」という部分が重要です。すると大ざっぱなことをいえば、0.5%の上昇のうち、0.4%分は食料とエネルギーの寄与によることになります。記事にあるように「原油高の影響が目立ちま」す。

 政府や日銀では、物価変動の主な要因は、商品への需給関係であると考えられているようです(実際にはその他にも、通貨の価値と商品の価値という重要な要因がありますが)。日銀が金融政策決定の参考値として消費者物価指数を重視するのも、次のように考えるためでしょう。……物価が上がるということは実体経済が活性化して需要が旺盛になった結果であるので、そろそろ実体経済への金融的支援を控え目にしてもよい……しかし今回の物価上昇が主に輸入品である原油高によるものであるなら、それは経済の活性化を示すとは言えません。原油が高いのは国内の需要が増加したからではなく、輸入された時点ですでに高かったからです。これは商品の価値が上昇したのに準ずる事態ですが、価値上昇分は国外に流出してしまいます(一部、国内石油資本の儲けになっているとはいえ)。したがって再生産の観点からいえば、今回の物価上昇が示すのは実体経済の改善ではなく、むしろ困難の増大です。物価指数を分析的に見ないで、その増減だけを見るのは誤りです。およそ商品価格の変動を問題にする場合、生活と営業の再生産にとってどういう影響があるかを中心に考えるべきです。たとえば生産性の上昇によって商品価値が下がったのならばそれに応じて価格が下がっても問題はありません。もちろん現在は人々の所得が減少ないし停滞しているので、個人消費が伸びず、需要不足で商品価格が低迷しています。これは再生産の困難を現わしています。だからといってやみくもに物価が上がるのがよくて下がるのが悪いとは言えません。原油高で物価が上がるのは再生産の困難を招くので悪いのです。再生産を保障する価格の実現、というのが基準なのです。

 なお私は、もともと金融の量的緩和政策というのは実体経済の支援になったということには懐疑的であり(資金は「民間」に流れず銀行に滞留していた)、それは小泉「構造改革」政権による実体経済つぶしのいちじくの葉ではなかったかと思っています。問題は金融政策よりも、庶民生活を破壊して国民経済を縮小再生産に追いやり、輸出などの外生要因に頼らざるをえなくした「構造改革」にあります。この意味では、同紙2月28日の「論壇時評」で土井洋彦氏が書いているように、『世界』3月号で高橋伸彰氏や山家悠紀夫氏が今回の景気回復を批判しているのは大いにうなずけます。資本主義経済のダイナミズムは資本蓄積つまり新投資に現われるので、その元本である利潤の増加をもって景気回復と見るのは根拠があります。しかし問題は景気回復のあり方です。今回の景気回復は主に庶民生活の犠牲を基礎に、輸出のような外生的要因によって起こっているのであり、従来の景気回復とは変質しています。ここにバブル崩壊後の長期不況を克服した日本資本主義の新たな蓄積基盤を見ることができます。

 景気回復をめぐる資本の利潤と庶民生活との対立は、グローバリゼーションと国民経済との対立に転位していくといえます。国民経済の内部では、剰余価値追及のあり方が、直接的生産過程においてはなりふりかまわぬ強搾取となり、金融面でも寄生性・腐朽性が強まっており、これらが、正常な生活と営業を支えるべき社会的再生産のあり方と鋭く矛盾しています。世界経済においてはこの関係が、投機やソーシャルダンピングの強要などを含む多国籍企業の利潤追及によって、国民経済のバランスある再生産構造が破壊されていく、という形で貫徹されます。EUは一方では、アメリカ帝国主義に対抗して現行のグローバリゼーションのあり方へ異議を申し立てる、という性格を持っていますが、他方では独仏などの多国籍企業の論理で福祉国家を切り崩していく新自由主義の傾向も持っています。東アジア共同体が問題となっていますが、ここでも資本の論理と社会的再生産の論理とが、あるいはグローバリゼーションと国民経済の論理とが鋭く対抗することになるでしょう。

 先の高橋伸彰氏や山家悠紀夫氏は近代経済学の立場であっても、世界を股にかけて最大限利潤を求める多国籍企業の論理よりも、人々の生活の観点から国民経済の社会的再生産を擁護する立場に近いといえます。こういうまともな論者が増えていくことが重要です。マルクス経済学の立場からは、価値論や再生産論を踏まえた統計の読み方によって、人々の労働と生活の観点による現状分析をいっそう前進させることが大切だと思います。

 統計の読み方に関連しては、たとえば「しんぶん赤旗」3月4日付経済面中央にある記事に注意を引く点があります。総務省の1月の勤労者世帯の家計調査によれば、サラリーマンの実収入は実質前年同月比3.9%減(名目同3.4%減)となっています。ところが厚生労働省の同月の毎月勤労統計調査によれば、労働者一人あたりの平均現金給与総額は前年同月比0.1%増の284746円、とあります。このように両者で増減が分かれる理由は何でしょうか。この「サラリーマンの実収入」と「労働者一人あたりの平均現金給与総額」とはそれぞれどういうものかが問題でしょう。このようにしばしば統計によっては逆の結論を導くことも可能となるので、経済分析として意味のあることをいうためには、様々な統計数値の根拠を知ることが必要となります。

 同紙編集局に問い合わせたり、官庁のホームページを見たところでは、まず基本的違いとして、家計調査の対象は世帯単位であり、毎月勤労統計調査では労働者個人となることがあげられます。また前者には、家賃収入・公的年金給付・受贈金など、あるいは短期雇用や副業の収入が含まれるのに対して、後者は常用労働者の一人当たりの賃金を調査している、という違いもあります。その他にも違いがあるのですが、こうした基本点を考慮して言えることは、景気判断の重要な要因としての個人消費の動向を予想するために、人々の所得のあり方を知るという目的であれば、より包括的に収入をカバーしている家計調査のほうが適切ではないか、ということです。その他には、家計調査は家計簿をつけるという面倒さがあるため低所得層の動向は反映されにくい、とか、毎月勤労統計調査も従業員5人未満の事業所は含まれていないので同様の問題がある、というようなことに留意することが必要です。こういうことはおそらく統計の問題としては初歩的でしょうが、私としては初めて知ったことです。同様の問題はいくらでもあるでしょうから、できるだけ気をつけたいものです。
                                  2006年3月19日




2006年5月号

 財政赤字・政府累積債務について、岩波一寛氏は「現在日本の財政は、政権を担ってきた自民党政治によって事実上破綻させられている。そしてその痛手は国民生活を直撃している。ところが政府は、その財政の破綻を逆手にとって、専ら犠牲と負担を国民に押しつけて財政の建て直しを進めている。国民にとっては、まさに二重の危機である(「日本の財政危機とは何か」48ページ)と述べています。ここでは日本の財政は破綻しているということと、だからといってその犠牲を人民に押し付けてはならないということとが主張されています。財政悪化を逆手にとって人民に負担を転嫁する政府の姿勢を批判する意図から、喧伝されるほど財政は悪化していない、という見解もありますが、岩波氏は財政破綻を明確に認めた上で、なおかつ人民への犠牲の転嫁を批判しています。おそらくこれは現在の財政危機に対する正しい対処姿勢ではないかと思われます。犠牲の転嫁を警戒するあまりに、財政危機はたいしたことはない、という立場では、政府の責任があいまいになるし、危機爆発の回避のためにこれまでも人民に負担を押し付けてきたことが忘れられるし、さらには今後の財政運営を誤れば、本格的な経済危機を招きかねないことが無視されるからです。

 岩波論文では、財政破綻とは何か、日本財政が破綻しているという根拠は何か、その破綻の顕在化はどのように先送りされているのか、その先送りによってどう矛盾が深まっているのか、が解明されています。財政破綻の事態としては「財政硬直化」「クラウディング・アウト」「財政インフレーション」「公債費負担の拡散」が上げられています。現在そうした現象は現われていませんが、もし異常な低金利がなければ利子負担によって「財政硬直化」が起こっているはずであり、日本の財政は事実上破綻している、というのが岩波氏の主張です。日銀の低金利政策・超量的資金緩和政策による独自の資金循環の創出、政策的巨大「公債隔離市場」の存在、日銀の外為管理によって、財政破綻の顕在化は先送りされています。この先送りメカニズムの中心にある日銀の低金利政策・超量的資金緩和政策は、結局家計の犠牲によって政府・企業・金融機関を利するものであり、日銀のバランスシートを膨張・劣化させバブルやインフレの制御を困難にしています。ここにきてさすがに日銀も軌道修正せざるをえなくなっています。しかし政府の財政再建策においては、財政赤字の主因を社会保障費に求めるなど、真の政治責任が回避され、弱肉強食の「税制改革」によって景気回復によっても税収が十分に上がらない構造をつくってしまったことは聖域とされています。ここに根本的批判を加えねばなりません。

 以上のように岩波論文は、日本財政の現状について、破綻状態を直視して経済危機の可能性を指摘しつつも、かといって人民犠牲の財政健全化主義には与せず、政府の責任を明確にした再建策を求める、という我々のスタンスを確認する上で有益です。

 二宮厚美氏の「憲法に立脚した財政政策を」では、資源の効率的配分・所得再分配・経済の安定的成長という財政の通説的三機能に照らして、小泉政権の新自由主義的財政政策がまったく逆行していることがまず指摘され、最後に「現代の公共性規準に依拠した財政再建の課題」(25ページ)が提起されます。そこでは「財政再建屋のワナにはまりこまない」ために「過去の累積債務の重圧から国民生活にとって不可欠な財政領域を解放する」つまり「債務勘定と一般歳出勘定とをいったん分離」し、「債務勘定における国債管理では、一般歳出部門とは逆に、受益者負担原則を適用する」(25-26ページ)ことが提案されます。新自由主義政策の恩恵を得てきた大企業に負担してもらうことです。これを実現するのは政治の力であり、現行のグローバリゼーションのあり方に順応する、企業競争力第一主義の発想しかない新自由主義政策に代わって、それに異議を申し立てる、人々の労働と生活第一主義の国際連帯を掲げた民主的政策への圧倒的共感を広げることが必要となります。

 ところで所得再分配の本質をどう捉えるか、は一つの問題点です。金持ちから貧乏人へのお恵みとか「惻隠の情」という見方があります。友寄英隆氏の「『新自由主義』とは何か・4」(「しんぶん赤旗」3月10日)によれば、奥田碩日本経団連会長は、アダム・スミスの「共感」概念を自由競争で勝者が敗者にいだく「惻隠の情」と理解しています。この十年ばかりの間、財界主導で正規雇用を非正規雇用に切り替えることによって「敗者」が大量に出現し、それによって資本は利潤を増やし「勝者」となりました。この勝者と敗者の区別は能力と努力をかけた競争の結果ではありません。資本による飽くなき搾取強化の結果であり、勝者の富は敗者の生き血を吸収したものです。奥田会長の「惻隠の情」なるものは傲慢・偽善・勘違いの類です。ここで行なわれる所得再分配は野蛮な搾取の結果を多少なりとも是正するというものであって、金持ちによるお恵みなどではありません。

 地方交付税について都市から地方への仕送りなどという恩着せがましい説明が見られます。都市と地方の経済格差が問題になっており、都市住民の一部には自分たちの納めた税金が地方で使われるのに不満を抱く向きもあり、いやそこは「惻隠の情」で、などという言い方もありそうです。しかしそういう問題なのだろうか。都市住民が地方住民より特に長時間労働しているというわけではないでしょう。そこに顕著な所得の差があるとしたら、都市と地方との間に不等労働量交換があるということです。これを市場主義の立場から言えば、都市の労働は効率的であり、地方の労働は非効率的だとなります。だから人口の都市集中は当然ということになりますが、それが都市と地方の双方に様々な問題を起こしており、国土政策のアンバランスとなっています。都市と地方の所得格差の重要な原因として農産物価格の低迷があり、その原因の一つとして輸入農産物との価格差があげられます。ここで国内農民に向かってもっと安い農産物を作れ、効率的労働をせよ、というのが主な解決策だろうか。大規模農家でさえも苦しいというのが現実です。農民の労働にふさわしい所得を保障できるような政策が必要だといえます。その上でなお都市と地方の自治体の財政力には差があるのだから地方交付税による格差是正がまだ必要でしょう。こうしたことの全体は都市と地方の不等労働量交換の是正ということができます。今の市場の声に耳を傾けるだけでなく、この是正によって、歴史的に形成されてきた労働力配置の保全に意味を見い出すことも必要となります。

 搾取は生産過程における不等労働量交換と捉えることができ、都市と地方との経済格差は市場における不等労働量交換といえます。財政の所得再分配機能を、再分配当事者間の優劣関係から生じると見て余計な感情を込めるべきではありません。上の例にあるように所得再分配の一定の部分は、不等労働量交換の是正という客観的過程とまず捉え、その上で価値判断を含む政策的操作の対象と見ることができるのではないか、というのが私の素人的仮説です。

 

 新自由主義のイデオロギーが浸透して、格差の拡大についても、能力と努力に基づく競争の結果として自己責任において捉えられる傾向があります。もちろん世論調査などでは格差の是正は必要であるという回答が多いのですが、格差の発生そのものについては当然という見方も多いようです。身近な問題として格差を具体的に考えると、たとえば同じ職場で成功するもの=勝ち組、失敗するもの=負け組というように見えてくるものは、能力・努力による自己責任的格差であり、漠然とこの延長上に格差の全体像を捉えると、さっぱり社会的に捉えられずに個々人の問題とされてしまいます。社会的連帯でなく個々人と諸階層の分断という新自由主義的気分にはまります。

 格差の検証については多くの議論があり、計量的分析において多くの成果があるようですが、その他に質的分析による概念的把握が必要です。諸統計による計量的階層分析を階級的観点から捉え直していくことが求められます。そういった問題意識を刺激するのが、『前衛』5月号の二宮厚美氏の「小泉『構造改革』を主犯にした格差社会化」です。「現代日本の格差社会化は、総体的で構造的な関係をもって進行しているということ、そして、その問題点は底辺下層の視点からつかまなければならない」(44ページ)という立場から、二宮氏は様々な格差弁護論を総括的に批判しており、三浦展氏の『下流社会』や森永卓郎氏の議論についても、格差社会の根本的批判でない「癒し系」として斬っています。そこには新自由主義とそれに基づく小泉「構造改革」批判として興味深い論点が多々あるのですが、ここでは「二重の意味での格差社会化」という卓越した概念的分析を取り上げたいと思います。

 「小泉構造改革は、九○年代後半以降、財界が進めてきた『総人件費の圧縮』策に手を貸し、労働市場の規制緩和を推し進め、労資間の敵対的格差を広げつつ、同時に労働者相互をゼロサムどころかマイナス・サムと言うべき競争世界に投げ込んで、分断的格差を対立的格差にまで発展させたのである」46ページ)。いきなり結論を引用してしまいました。二宮氏は以上を「一例」として書いているのですが、これが結論と言って差し支えないでしょう。これを表象に思い浮かべてその前の説明を読むとよく分かります。私が前述した職場における勝ち組・負け組という問題も、ここで二宮氏がいう労働者間競争として位置付ければ社会的に捉えることができます。

 一般的には格差は漠然と捉えられ、そのまま様々に計量的に分析されているのですが、二宮氏は二つに分析しています。一つは階級間のタテ型格差であり、その中心は労資間の支配関係に基づく敵対的・対立的格差です。もう一つは市場原理のもとでは必ず発生する優勝劣敗型の競争関係によるヨコ型の格差です。労働者間の格差はこれに当たります。これは必ずしも敵対的・対立的とはいえません。前者は支配関係に基づく敵対的格差、後者は競争関係に基づく分断的格差と総括されます。その上で、両者の関係が問題とされ、分断的格差が対立的格差に転化してしまうことがあり、それは上の引用のように労資間の敵対的格差の拡大の下で労働者間競争が対立的格差に転化する場合です。

 二宮氏は以上を一般化して述べます。「小泉政権の新自由主義的構造改革が呼び起こした格差の広がりとは、実は、こういう二重の意味での格差の拡大であった。それは、労資間に典型される支配関係の強化にもとづく弱肉強食型の敵対的格差と、市場原理の徹底による競争関係の強化にもとづく優勝劣敗型の分断的格差とを同時に拡大し、前者が後者を後押しするようにして、分断的格差を対立的格差に転化する役割を果たしたのである」46ページ)。

 通常は、競争関係による優勝劣敗型の分断的格差だけが認められ、階級的支配関係による敵対的格差は見過ごされます。資本主義社会では後者こそが推進力となっているのに。後者の強調に二宮氏の卓見があるのですが、ではなぜ普通それは見逃されるのか。

 資本主義経済は市場を基盤として資本=賃労働という搾取関係がそびえ立つという立体的構造から成ります。しかしこの搾取関係は企業と労働者との自由・平等な雇用関係という現象の内に隠蔽されます。この俗見に基づいて、新自由主義の基礎にある新古典派理論では資本主義経済は単なる市場経済として平面的に捉えられます。それは自由・平等・自己責任に基づく競争によって能力と努力に応じた格差が自然に作られる世界です。ここでは階級支配による敵対的格差が見えるはずはなく、競争関係による分断的格差だけしか目に入りません。

 ところで今日では政府・財界によって社会保障の改悪が続けられているため、彼等の強調する「自己責任」を物的に保障すべき所得のラインはどんどん上がっています。ところが、賃金などは、これも政府の後援で財界が推進して抑制されています。これは各人の能力と努力を超えた次元で起こされている事態です。つまり個人間競争よりも不安定雇用化などによる搾取強化こそが、「自己責任」を担えない諸個人が増えた根拠です。ところが新自由主義の「資本主義=市場経済」論では、そのような事態さえもあたかも個人の失敗や努力不足による競争での敗北として描かれ、資本(及び政府)の責任が「自己責任」に転嫁されてしまいます。二宮氏が、競争関係に基づく分断的格差と支配関係に基づく敵対的格差との区別と連関とを指摘し、様々な格差弁護論や「癒し系」の議論を総括的に批判したことは、『資本論』の正確な資本主義像の適用で最新の種々の妄論を一網打尽にした一例であるといえるでしょう。

 この「自己責任」ラインの上昇と所得の減少とのはざまで苦境に立つ労働者世帯の実態を総務省「家計調査」などで詳細に描き出した金澤誠一氏の「『構造改革』がもたらした貧困・格差構造 変貌する今日の社会における労働者の生活=家計の分析」(『前衛』5月号)も必読です。
                                  2006年4月20日



2006年6月号

 座談会「マスメディアはなぜ原点を見失ったか」を興味深く読みました。たまたまその頃、あるささやかな機関誌の編集者とジャーナリズムについて話をしていて、原稿を依頼されました。以下の文章が、座談会からも学びつつ書いたものです。残念ながら、長すぎるのと難しい(ジャーナリズムのあり方よりも経済の理屈にこだわっている)のとで、短くかつ分かりやすく書き直すことになり、これは幻の原稿となりました。
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   朝日新聞はどちらを向いているのか

       疑問多い最近の論調  

1.朝日新聞への期待と現状

 このところ、学校ですっかり定着してしまったいじめは、個人の尊厳の否定である。個性を否定し、目立つ者がいるとみんなのレベルに引きずり落とそうとする。弱いとみると、つけ込む。「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とはそういうことを言っている。

     堀田力「憲法違反な人」(「朝日」夕刊2001年5月2日)

 この間の経済をめぐる言説はどうですか。マクロな経済数値をもてあそんで「人間」を見ず、時流に便乗し世の中を見下して。「市場が淘汰する」なんて、どんな怖い言葉を口にしているかわかっているのか。切実な思いで生きてきた人々に比べ、なんと軽薄な
 なりわい、営みとしての経済、それを侵すものに怒りを覚えます。

     内橋克人(「朝日」夕刊1999年5月21日)

 いずれも朱玉の言葉だと思う。私はかつてある学童保育所の父母会役員として毎月「父母会ニュース」を出していて、その余白に好きな言葉を引用して読者の好評を博した。色々な本や新聞などから文を拾ったが、「朝日」の夕刊が一番役に立った。それは知性と感動の宝庫だと言ってもいい。加藤周一氏や大江健三郎氏などに代表される評論やエッセイにはいつも引き付けられるし、文学・芸術関係にも興味深い記事が多い。 
 
 しかし今「朝日」の紙面は全体的にはどうであろうか。堀田氏の観点はいくらかは継承されているかもしれないが、内橋氏の立場はほとんど投げ捨てられているというほかない。いわゆるナベツネ路線で「読売」はタカ派・保守的傾向を鮮明にし、憲法改悪の旗振りなどをしてきた。それに対して少なくとも戦後民主主義の成果を擁護しようとする多くの人々から「朝日」は歯止め役を期待されてきたが、あまり応えていないように思われる。政治問題では右傾化の時流に弱々しいながらも抵抗しているかもしれないが、経済問題では逆に新自由主義の布教紙となってしまっている。「読売」の渡辺恒雄氏でさえ、小泉首相の後継者の条件として、靖国神社を参拝しないことと並べて、新自由主義の市場原理主義ときっぱり手を切ることを上げているのに、きわめて異常なことだ。こうしたねじれについては後でまた触れたい。

2.新自由主義を推奨する経済記事

 かつては都留重人氏が「朝日」の論説顧問であった。都留氏といえば近代経済学とマルクス経済学の双方に通じた碩学で、環境問題などに先駆的に取り組んできた世界的な経済学者として知られる。対して現在、客員論説委員として紙面によく登場するのはシカゴ大学の博士号を持つ小林慶一郎氏である。シカゴ学派といえばミルトン・フリードマンを総帥とし、新自由主義の牙城として知られる。小林氏の紙上での役目も読者に新自由主義を啓蒙することのようだ。

 3月27日付の「小林慶一郎のディベート経済」のテーマは「マネーゲームは悪か」である。ディベートといったところで、両論紹介の形だけで実質は小林氏の新自由主義講座である。つまりマネーゲームは善である。なぜなら第一に、投資ファンドが利鞘を取れるのは買収される企業などに非効率があるからであり、投資ファンドの脅威によって企業は非効率な慣行をなくし、消費者や株主の利益になるからである。第二に、金融とは生命保険が典型だが、リスクを軽減する機能を持ち、最先端の金融技術もその発展形態であり、グローバルな金融市場のおかげで、個人や企業のリスクは分散され軽減されているからである。ハゲタカファンドは「すでに価値の落ちた企業を掃除してくれている」のであり、これを批判するのは、バブルの発生と崩壊で日本経済をゴミタメにした政財界の指導者の責任逃れに荷担する卑怯な議論である、と。

 この記事は反共・反人権の雄『週刊新潮』でもヤリダマにあがっているくらいだから、立場の如何を問わず、多くの人々の気持ちを逆なでしたと思われる。だが「素人の感情論にはまってはいけない」。経済学の教科書にはこう書いてある。「投機とはもともと将来の価格にたいする社会一般の予想が正しくないと思われるとき、それを利用して利益を得、かつ結果的には誤った予想による弊害を防止するような行動である」(新開陽一、新飯田宏、根岸隆『近代経済学』新版、有斐閣大学双書、1987年、291ページ。なるほど投機によって市場メカニズムはより効率的に発揮されるのか。小林氏はこの原理を現在の日本や世界の経済に適用したわけだ。マネーゲームは素晴しい。しかし現実の市場や投機がこんなに牧歌的に有益でないことは、新自由主義を信仰する経済学者以外の普通の人なら誰でも知っている。いや失礼。新自由主義者だってもちろん知っている。彼らが普通の人と違うのは、ダーティな現実を美しい原理で言いくるめる能力を持っていることだ。

  投機家が正しい予想をするという保証はないし、小林氏も触れるだけで回答は寄せていない問題として、そもそも何が非効率かをどう決めるのか、ということがある。

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 投資家たちはファンダメンタルに反応しているわけではありません。金融市場は群集心理や恐怖を基礎にして動いています。…中略…大規模な年金基金機関投資家の投資戦略を実質的に運用しているのはこのファイナンシアル・マネジャーたちなのですが、彼らはしばしば一ヶ月単位の契約で雇用され、時には三ヶ月のこともあります。そして、彼らはその期間の平均収益率を超える業績を残さなければならないのです。

 ですから、彼らは非常に短期的な視野しか備えていません。

  遠藤誠治、スティーヴン・ギル、武者小路公秀「グローバリゼーションと民主主義の危機」(『世界』1998年11月号、289・290ページ)からギル氏の発言より。

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 この「短期的な視野」というのは投資家たちだけの問題ではなく、今や株主資本主義というアメリカモデルとして資本主義経済全体を覆わんとしている。株価至上主義である。その最悪の現われが、エンロン、ワールドコム、ライブドアなど粉飾会計を含んだ日米の企業スキャンダルである。そこまでいかなくてもアメリカ資本主義の深刻な問題点も指摘されている。ゼネラルモーターズの関連会社の社外取締役を7年勤めた入交昭一郎(いりまじりしょういちろう)氏は、「『株価重視の経営が技術力の壁になっている』と指摘する。技術を強化したくても資金回収までの時間をGMは待てない。よそから買ったほうが早い、とする目先の収益重視がものづくりを空洞化させた、という」(「朝日」夕刊5月11日、ニッポン人脈記、外資系で挑む11)。マネーゲームが非効率としてつぶしてしまうものの中に大切なものがあるのだ。

 アメリカ資本主義は製造業の空洞化で国際収支が恒常的に赤字となっている。これは他国では許されない。ドルが基軸通貨として世界中で通用するからアメリカは支払いには困らない。製造業がダメだから情報技術を駆使した金融的術策で儲けているのである。マネーゲームの開放はアメリカの戦略である。小林氏の議論はいかにもアメリカ仕込みであり、日本はまねしてはならないし、できない。

 小林氏は金融のリスク軽減機能に触れている。それはもちろん正しいが、グローバリゼーション下、投機マネーが横行する世界では、逆にその機能がリスク増大、金融不安定性の拡大に転化していることに触れないのは、素人だましの類であろう。たとえば輸出企業が外国為替の先物取引によって半年先の売買を現在の為替レートで行うのは、為替変動のリスクを避ける行為である。しかし先物取引市場が発達すると実需とは関係ない投機マネーも集中するようになる。国際金融市場を機関投資家やヘッジファンドなどの巨大な投機マネーが駆け巡るようになると、世界経済の撹乱要因となり、小国などは国民経済そのものがノックアウトされる危険がある。1997年と翌年にアジア発およびロシア発の国際通貨危機が勃発したが、それまで急速な経済成長を達成していた諸国がたちまちにして金融危機に沈んでしまった。経済学の教科書にある市場像は、登場するプレーヤーたちがたくさんいてしかも似たような大きさで競争しあうような関係を想定している。そこでは投機も効果的であるとされる。そのこと自身も問題ではあるが、そもそも国際金融市場においてはまったく大小さまざまな各国株式市場が存在し、巨大な機関投資家も存在している。ここでワシントン・コンセンサスに従って国際的な自由な資金移動を認めれば、小国の金融市場は翻弄されるのだから、彼らがワシントン・コンセンサスに同意しないのは当たり前である。現実を無視して自由・平等・公正などと「美しい原理」を振り回すことが誰の利益になるかも明白であろう。

 小林氏は投資ファンドによるリスク軽減によって新規事業が可能となることにも触れているが、いいことばかりとは限らない。不動産投資ファンドを活用することで、それまではなかった巨大ショッピングセンターが都市郊外に林立することになり、中心市街地の空洞化に拍車がかかった。さすがに地方自治体のみならず、「改革派」の政府も規制の方向に動き出した。手軽に立ってしまうショッピングセンターは儲からなくなったらさっさと撤退してしまう。地域のためにはならない。

 つまり金融の機能について利潤第一主義のマネーゲーム賛美の文脈で語るのは大きな間違いだということである。リスクマネーを助長するような金融のあり方は変えなければならない。本来まず実体経済が土台にあって、金融はそこに資金を提供しつつ、国民経済上の決済機能のネットワーク(それは中央銀行によって統括される)を形成するという公共的な性格を持っている。そこを踏み外して金融機関がマネーゲームを暴走するとき、国際金融市場はカジノと化し実体経済も破壊される。そこで外国為替取引税(トービン税)によって投機資金の自由な移動を抑えようという有力な主張も存在するのである。ウォール街の反対で実現していないが、まともな世界をもたらそうというこのような動きがあるとき、あえて「マネーゲーム」と合わせて「グローバルな金融市場」賛美の姿勢で読者を啓蒙しようとする「朝日」のあり方に特異なものを感じざるを得ない。

3.外報部記者も新自由主義路線か

 4月11日付1面には「仏、新雇用制度を撤回」という見出しが躍っている。問題の重要さからすれば当然の扱いだが、内容的には典型的な偏向報道で、「朝日」では経済部だけでなく外報部もここまで来たかと思わせるものである。

 フランスでは、26歳未満を雇えば理由を示さず解雇できるとする新雇用制度(CPE)に対して、労働組合や学生団体の大規模な抗議行動が続いていた。ここに来て、ドビルパン首相は、最近成立した機会平等法からそれを削除する方針を発表した。労働者・国民から見れば大勝利である。ところが「朝日」記者の立場はまったく逆で、政府・財界の立場から、労働者や学生の行動を非難するものとなっている。「いったん雇えば解雇しにくい現行制度。これに風穴をあけない限り企業の採用意欲は高まらず、若者の大量失業は解消できない。だが、この理屈は当事者の学生や労働組合に通じなかった」(補注)。

 この議論を支えるのは、グローバル化によって企業が、より効率的な労働力、より有利な税制を求めて拠点を移す時代だから、企業の言うとおりにしなければならない、という考えである。国内企業が国際競争に負けたり、海外移転するのを避けるため、人間的な労働への要求を取り下げろ、ということである。ドイツもイギリスも労働市場の硬直化を改めようとしている、と。さらにはこうまで言う。「不安定でも、まず雇ってもらうこと。CPEは、そこからしか人生が始まらない暴動の主役たちの救済策でもあった」。こういう議論は新自由主義者が好んでするものである。……弱者に有利に見える政策は本当は役に立たないポピュリズムだ。そんなことをすれば企業は雇用しなくなったり海外に逃げたりして結局弱者に不利に作用する。一見弱者に厳しく、企業を利する政策のほうが企業活動を活発にしてまわりまわって弱者を助けることになる……

 圧倒的な企業優位の下で劣悪な労働条件、厳しい労働市場を作り出しておきながら、さらに企業の行動の自由や労働条件に対する決定権を前提にして、助かりたければ企業の言うがままにせよ。要するにそういうことだ。こういうマッチポンプ的議論に対しては、前提を疑い、初めの惨事の真の責任者を明確にすることから出発しなければならない。マイノリティの若者たちが暴動を起こさざるをえなくした社会のあり方に企業は責任があるのではないか。企業の自由を前提にせず、むしろ一定の規制を加えてこそまともな社会発展が望める場合があるのではないか。たとえば労働時間の規制については、企業は強制されなければ実施しないが、その規制の下で業績を上げるため技術力を高めることで生産性を上昇させる努力をするようになる。規制のないところでは、そうした努力よりももっぱら労働時間の延長や労働条件の悪化によって利潤を追及することが優先される

 ごていねいにも4月28日には後追い記事がある。フランスの経団連にあたる仏企業運動のロランス・パリゾー会長へのインタビューである。フランスの奥田碩はなんと46歳の女性であるが、資本の論理に国境・性別・年齢は関係ないようだ。CPEの挫折について「雇用制度を正面から議論することのタブーが破られ、大きな前進だ」と彼女は評価している。さらに、CPEが失敗したのは年齢層を限ったからで、雇用の柔軟化は全世代で分かち合うべきだ、と主張する。CPEに対して学生・若者だけでなく労働組合が全面的に闘ったのはまさにこの狙いを見抜いていたからだ。財界の会長も臆面もなくそれを主張する。ひるがえって日本を見ると、若年と壮年と老年、労働者と自営業者、大都市と地方…等々、様々な分断の花盛りで、まとまって闘おうということにならない。さすがにフランスは階級闘争の先進国というべきか。

 それはともかく、この記事では何のつっこみもなく、会長に得々と語らせている。それどころか、「日本が経済活力を取り戻した道筋、グローバル化に合わせた国内調整のノウハウは興味深い」などと余計な言葉を聞き出している。記者は単にグローバルな新自由主義者であるだけでなく「愛国」的な小泉「改革」応援団の一員でもあるのだろうか。

(補注)雇用を増やすためには解雇しやすい制度にしなければならない、というのは正しいか?筒井晴彦「ILOと若者雇用」(『前衛』2006年5月号、205ページ)には次のようにある。

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 OECDは、「先進諸国」の雇用法がその国の雇用にどの程度影響をあたえているのかを調査分析しているが、ILOによると、雇用保護法制と雇用とのあいだに明確な関係はみられない。つまり強力な雇用保護法制が雇用に否定的影響をあたえていることを実証できていないということである。雇用保護法制があるから若者の失業が増えるという議論を裏づける確固とした事実が見いだされていないのである。

 ILOが主張するのは″雇用保護法制を弱体化させることで若者雇用問題を解決することはできない。雇用保護法制があるからこそ、使用者は人材育成に向かい、「良好な労使関係」を築こうとする。雇用規制(最低賃金制を含む)は、若者を雇用する上で障害にならない″ということである

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 調査や議論の内容抜きに結論だけが紹介されているのが不満だが、ILOの見解は尊重されねばならない。「グローバル化に合わせた国内調整」と称して労働条件の切り下げだけが喧伝されているが、「ディーセント・ワーク(人間らしい労働)のグローバル化」というILOの方針こそ日本のマスコミは目を向けるべきである。そのような視点を合わせもつならば、フランスでのCPEの失敗という事態を、単にグローバリゼーションからの脱落=経済的失敗、と見るだけで済ませられないはずだ。逆にその国際的衝撃が、ディーセント・ワークのグローバル化=経済の人間化へと向かう一つの歩みとなる可能性にも考えが及ぶであろう。事実、欧州労連はいち早くフランスの労働者の闘いに全面的支持を表明したし、フランスの結果を受けてドイツ版CPEも適用を凍結する状況に追い込まれたのである。

 

4.偏った眼で経済を見る危うさ

 一般に政治問題では、見解の相違、意見の対立というものは意識されやすく、両論並記されることが多い。どちらか一方を支持しながら、という場合でも、両方の立場がそれぞれどのような利害関係を表現しているか、を指摘した上で支持の根拠を述べるという形になる。一方が「正解」で他方が「不正解」というような決めつけは少ないであろう。ところが経済問題では、仏CPEを扱った上記の記事に典型的に見られるように、真理を知っている政府・財界とそれを知らずに勝手気まま・無理難題をいっている労働者・学生というパターンがよくある。ここで真理とされるのは新自由主義である。グローバリゼーションの下では新自由主義が貫徹されるのだから抵抗しても無駄だ、抵抗の根拠とされるのは間違った不自然な経済理論である、というつもりであろう。

 新自由主義者は現行のグローバリゼーションのあり方を絶対視し、あたかも自然の過程かのように思っている。多国籍企業の自由の立場から出発すれば当然そう見えるが、それによって押しつぶされる人々の労働と生活の立場から見れば、世界は違って見える。

 ヘッジファンドの仕掛けを直接のきっかけとして始まった、1997年のアジア通貨危機はまさにグローバリゼーションの落とし子で、21世紀型危機と呼ばれた。これに対してマレーシア政府は他国と違って、IMFに従わず通貨管理を強化して危機を克服した。当初は新自由主義に立つ「国際世論」から金融鎖国などと揶揄されたが、他国よりも犠牲を少なくできたことで、結局はIMFもマレーシア方式を是認せざるをえなくなった。

 経済危機に直面したアルゼンチンには、2003年、新自由主義に批判的なキルチネル政権が誕生し、今年にはIMFからの借金を繰り上げ返済するに至った。他にも南米では新自由主義政策による極端な経済格差の発生などをきっかけに左派政権の誕生が相次いでいる。2001年にブラジルの革新自治体ポルトアレグレで第1回が開催され、その後も各地で開催されている世界社会フォーラムは、反グローバリズム運動の中心として「もう一つの世界は可能だ」というスローガンを定着させている。それはNGOを中心とした緩やかな組織の運動体だが各国政府にも影響を与えているし、対極にある金持ちクラブの世界経済フォーラム(ダボス会議)からも無視できない存在と見られている。また「『すでにはじまっている未来』を現実のなかに探し」た、内橋克人氏の名著『共生の大地 新しい経済がはじまる』(岩波新書、1995年)には、新自由主義支配に風穴を開ける世界と日本の優れた実践が多く紹介され多角的に理論化が試みられている。

 確かに多国籍企業によるグローバリゼーションが今日の世界経済を動かす中心にあるのだから、マスコミの中でも新自由主義のイデオロギーですべて割り切る傾向が強いことは理解できる。しかし見てきたように、それとは違った経済のあり方は単に理念としてだけでなく、実績としても確実に存在している。そこにも目を向けるべきである。だが日本のマスコミでは「世界」とか「グローバル」という言葉はアメリカ(それも支配層・多国籍企業の側の)を通して見たものでしかない。実際には「もう一つの世界」があるのに。それを知らない限り、人々は、労働と生活を押しつぶす新自由主義的なこの現実が必然であって、我慢せざるをえない、と思い込むことになる。たとえば日本では子どもを大学に通わせようとしたら、家計の破綻さえ覚悟せねばならないことが多い。西欧の大学は無料かそれに近い状態であるのに。国連人権規約(A規約)13条2項の「高等教育での無償教育の漸進的導入」を日本政府は留保している(A規約批准151ヶ国中、日本、ルワンダ、マダガスカルのみ)。日本の学費が高いのは国民的常識であり、世界の非常識である。医療費にも似たような現実がある。こうした事実をほとんどの人々は知らされていない。ただでさえ我慢強い日本人がこうして目をふさがれてぎりぎりの我慢を強いられている。結果として生活の荒廃から社会の荒廃が生み出されている。人間が尊重され共生できる別の社会の可能性から目をそらされ、「自己責任」による競争戦での勝利とか、目前の不安への手っ取り早い強権的対処ばかりがクローズアップされることになる。マスコミの責任は本当に重い。

5.「改革派」対「守旧派」図式の意味

 「構造改革」とはグローバリゼーションに合わせて、政治・経済・社会を根本的に改造することであり、多国籍企業の利益のために人々の労働と生活は切り捨てられる。新自由主義はそのイデオロギーである。「朝日」を初めとした多くのマスコミが新自由主義の立場から「構造改革」を推進しているという事態を、日本社会のあり方の中に位置付けてみたい。

 日本社会は財界を中心に大企業が社会の実権を握り、アメリカに従属している。これが根本的特徴である。次いで政官財が癒着した土建国家という副次的特徴を持っている。さらには弱々しいながらも福祉国家という特徴もある。一貫して喧伝されている「改革派」対「守旧派」(抵抗勢力)という図式は、根本的特徴を前提とした上で、従来の土建国家や福祉国家をつぶすか守るかという対立である。そこでは、アメリカへの従属から脱却し、大企業への民主的規制を通じて国民生活を豊かにして内需循環型の経済発展を目指すという、真の改革は最初から視野にない。

 むだな公共事業を生む土建国家は今や悪名高いので、「改革派」が繰り出す「小さな政府」「官から民へ」「既得権の打破」などというスローガンは呪文のように人々を捉えてきた。しかし実際のところこれらは福祉国家つぶしに使われてきた。「改革派」は確かにグローバル化への障害になる高コスト構造の土建国家を改造しようとしているが、多国籍化した日本の大企業にとっては福祉国家のコスト負担を回避することがそれ以上に重要である。「小さな政府」とは企業負担が小さくて国民負担の大きな政府である。「官から民へ」とは安全を犠牲にして人々の費用負担を大きくしてでも公共の仕事を民間企業の利潤追及に開放することである。民とは庶民のことでなく民間大企業のことである。「既得権の打破」というが天下りはまともに規制されずに、労働基本権が改悪されてきた。2005年「郵政民営化」解散・総選挙で小泉首相は「既得権の打破」として公務員攻撃に集中した。国民を分断して公務員の労働条件を改悪できれば民間のそれもさらに悪化させられるからである。日本経団連の奥田会長は国民全体が「抵抗勢力」となりうる、といったが至言である。つまり「構造改革」とはこれまで人々が獲得してきた諸権利に対する全面的攻撃なのである。

 いつでもどこでも役所の不正と腐敗は絶えない。それへの人々の怒りを前記のスローガンなどを通じて「構造改革」支持にすり替えるのが政府・財界の狙いであり(マッチポンプ!)、新自由主義を信仰するマスコミのかけがえない役割がここにある。グローバリゼーションへの適応のための社会・国家の改造、国際競争力の強化を至上命題とし、「抵抗勢力」となりかねない国民全体を「正しく導く」ことにエリート主義的使命感を持っている、と捉えれば「朝日」などの経済記事のあり方を理解できるのではないか。

 グローバリゼーション下では「守旧派」は本流にはなれない。財界主流となった多国籍企業からすれば新自由主義的「構造改革」の断行こそが必然の過程であり、理論的一貫性もあるのだから。確かに「守旧派」の古い温情主義は不明朗・非効率として多くのマスコミで蹴散らされ「構造改革」はグローバルに断行されている。しかしそれは企業利潤至上主義の下で人々の生存権を脅かし続けているのだから、抵抗もまた必然である。だからグローバリゼーションへのオルタナティヴ(真の改革)が明確でないところでは、抵抗勢力として「守旧派」が活躍する余地がある。また新自由主義的「構造改革」では、格差の拡大など社会の不安定化を前にして社会統合の原理がない。そこで伝統、国家主義などが喧伝されるようになる。それは「守旧派」と言うよりはグローバリゼーションへの「反動派」であり、新自由主義を感情的に非難する(理論的批判もあるが)。それは新自由主義的「構造改革」の厳しい現実の「癒し」にもなっている。すると本来新自由主義とは相容れないものが、支配層の立場からは補完的に利用されうる。「構造改革」を断行しつつ、ガス抜きに利用できるものは利用する。私は「読売」は読んでいないので正確かどうかわからないが、その新自由主義批判はこうした「守旧派」ないし「反動派」の立場ではないかと推測している。しかしどのような立場であれ、「構造改革」への抵抗は生活と労働の深みから生じるものである限り、政府や財界にとっては危機要因になりうるし、革新派にとっては反転攻勢の機会となりうるものであろう。新しい国家主義・排外主義の危険性をともなってではあるが。

 私は新自由主義に反対であり、「改革派」と「守旧派」双方に批判的だが、もちろん「朝日」に同じ立場を求めているのではない。新自由主義を真理と思い込んで現実を裁断するのでなく、それを現実に照らして相対化する視点を持ち合わせてほしいのである。

6.せめて生活と労働の視点にも配慮

 私事になるが、3月末に家族が脳梗塞で入院した。その後、4月8日付オピニオン面で多田富雄氏の「診療報酬改訂 リハビリ中止は死の宣告」を読んだ。そこで今回の診療報酬改訂によって脳血管疾患等のリハビリが発症後180日で打ち切りになることを知り、衝撃を受けた。多田氏は、人間の尊厳を踏みにじるこの措置を鋭く告発している。その見解は効率至上主義の新自由主義の立場とは正反対である。 4月28日付生活面には「リハビリ日数上限に不安の声」という関連記事が載っている。厚生労働省の言い分と専門医の反論という両論並記だが、後者の立場に近い内容だといえる。政府側の論理もその問題点もわかるよい記事である。患者の立場という視点がしっかりしていることが評価できる。

 残念ながら、こういう優れた内容は「朝日」紙上ではたまにオピニオンや傍流の記事としてしか見られず、全体の基調としては人間の尊厳を踏みにじる経済を支持しているのである。人々の生活と労働から出発するのか、企業の利潤から出発するのか。前者の立場に立ち切れとまでは言わないが、そういう見方がもっと増すべきではないか。経済を見る目をめぐって社会の公器としてのジャーナリズムの根幹が問われているのだ。

 以上のように拙文では経済問題を中心に検討した。他にも在日米軍再編など重要な問題で、「朝日」に限らず日本のマスコミの多くの部分がジャーナリズムの体をなしていない。それだけでなく劇場型政治の先導者として私たちの未来を危うくしている。読者・視聴者の批判の声を積極的に上げていくことが必要だろう。幸いにして「朝日」の「声」欄はまだ捨てたものではない。また逆にたとえば格差社会問題に真剣に取り組む記事も一部には見られるようになってきているので、声援も必要であろう。

 なお冒頭の引用文は、文化書房ホームページ(http://www2.odn.ne.jp/~bunka)の「店主の雑文」の「私の選んだ言葉」に掲載されている。また思想状況の基本的図式については、やや古いが、同じく「店主の雑文」の「今日の政治経済イデオロギー」を参照されたい。

参考文献

 伊東光晴『「経済政策」はこれでよいか』 岩波書店、1999年 

 大槻久志『「金融恐慌」とビッグバン』 新日本出版社、1998年

 今宮謙二『投機マネー』 新日本新書、2000年

                                  2006年5月19日




2006年7月号

 1776年1月10日、トマス・ペインはフィラデルフィアで『常識(コモン・センス)』というパンフレットを出版し、アメリカの即時無条件独立を要求しました。版を重ねて十万部も売れるにしたがい、革命を求める声が全植民地に広がりました(ビーアド『新版 アメリカ合衆国史』、岩波書店、1964年、112ページ)。植民地支配の屁理屈を「常識」が打ち破ったのです。今、米軍再編で日本に三兆円もの理不尽な負担が押し付けられようとしています。属国日本の人民はまさに「常識」を持って真の独立に立ち上がるときです。

 新自由主義の「構造改革」が吹き荒れ、人々の労働と生活が苦境にあり社会が荒廃している今、経済についての庶民の「常識」が形成されつつあります。

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  (X1)マネーゲームは何も生み出さない。額に汗して働く人々が低所得にあえいでいるとき、金を右から左に動かすだけで儲けを上げ、「金で買えないものはない」などとうそぶくやつは反社会的だ。

 (X2)違法な高金利で庶民を苦しめているサラ金などは問題だ。高金利を規制してグレーゾーン金利をなくすべきだ。

 (X3)首きりをしやすくしたら失業が増える。働く人々の権利を守るべきだ。

 (X4)経済格差が拡大している。「改革」を見直して所得再分配を強めるべきだ。

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 もちろんこのような「常識」は経済学を知らない庶民の感情論なので、経済学者が「正しく導く」必要があります。

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 (Y1)市場が正しく機能するために投機は欠かせない。投資ファンドのようなものがあるからこそ、乗っ取られないために企業は非効率を改めるので、株主や消費者の利益につながる。また投資ファンドなどの金融機能はリスクの分散に役立っている。マネーゲームは善である。

 (Y2)サラ金などの高金利を規制すれば、そこから漏れた人たちがヤミ金に流れ、かえって被害がひどくなる。

 (Y3)企業にすれば、解雇しやすい人は先のことを心配せずに気軽に雇える。だから社会全体で雇用を増やしたければ企業が解雇しやすくすべきだ。

 (Y4)経済格差の拡大は見かけ上のことにすぎない。もともと格差の大きい高齢者世帯の増加と世帯人員の減少という世帯構成の変化とによってジニ係数が上がっているだけだ。仮に格差が拡大しているとしてもそれは経済活力の原因であり結果である。どこが悪い。

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 あまりにも現実がひどいので、こういう御用学者の屁理屈に納得する人は少ないでしょうが、一応反論を書いておきます。

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 (Z1)投機家が正しい予想をする保証はないし、企業の効率の基準も問題だ。株主利益ばかりを追及すれば、製造業などの長期的発展は望めない。投機的市場ではリスクヘッジ機能は同時に逆にリスク拡大ともなる。総じて(Y1)はカジノ資本主義の現実から見れば恐るべきノーテンキな議論である。詳しくは『経済』6月号の感想参照。

 (Z2)「高い金利は、そのものが借り手に返済不能の状態をつくりだす大きな要因です。金利が下がると貸せなくなるというが、金利が下がれば借り手の負担も減り、返済不能=貸し倒れとなるリスクも減るのです」。「リスクに見合ったリターン(見返り)を求めるのは、実は株や債権に投資する際の理論です。新自由主義がこれを個人・企業への融資にまで持ち込んできました。しかし、企業や人間は、投機商品ではない。景気などの影響で支払い能力も変わる。支払い能力が低いほど高金利を要求して、人間を破たんさせることを社会が認めてはいけません」(鳥畑与一静岡大学教授、「しんぶん赤旗」6月12日)。フランスやドイツでは高金利を規制しているが「ヤミ金ははびこっていません」(現地調査した宇都宮健児弁護士、同前)。

 (Z3)企業にはまともな雇用をする社会的責任がある。グローバリゼーションを理由に労働条件の切り下げを際限なく認めていけば世界中の人々の生活が破壊される。それは有効需要の縮小を通じて経済発展を阻害する。そのように人間を犠牲にして企業利潤だけを追及するような経済のあり方は転換されるべきだ。ILOの掲げる「ディーセント・ワークのグローバル化」というもう一つの世界の展望がある。詳しくは『経済』6月号の感想参照。

 (Z4)格差の問題は『経済』7月号のテーマなので別途検討したい。

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 庶民の感情論(X1-4)は労働と生活の厳しい現実の反映であり、そこにはまともな経済のあり方への希求があります。健全な「常識」というべきものです。

 それに対して経済学者の説教(Y1-4)によれば「市場経済」においてはそういう「常識」は通用しません。庶民の素朴な願いがストレートに実現することはなく、逆にそこはがまんして企業利潤が増えるように各経済主体が行動することで結果として人々のためにもなります。……素人にも勉強してもらって、こういう「逆説」をきちんと理解して、むやみな要求は抑えて経済整合性にかなった行動をしてもらいたい。痛みに耐えよ。庶民は自分の利益よりも大所高所に立つべきだ。それで所得が低いのなら、皆さんしっかり勉強して投機でかせげばいい……

 そういう説教に納得したわけでもないでしょうが、結果としては痛みに耐えつづけてきて、「景気回復」で、企業は空前の利潤を獲得し、人々の労働と生活はますます苦境に立たされ、格差拡大が大問題となっています。企業利潤を絶対視せず民主的規制を加える立場(Z1-4)からは「市場経済」の現実に切り込んでなお庶民の「常識」を実現するもう一つの経済のあり方が提起されます。

 

 『経済』7月号の特集「『格差社会』を考える」では、格差の実感が広がっていることから出発して、格差を否定したり開き直ったりする新自由主義の屁理屈が全面的に批判されています。

 友寄英隆氏の労作「所得格差の拡大をどう検証するか 『法人企業統計』による『階級・階層間の所得格差』の試算」では「法人企業統計」を加工して階級的観点から所得格差が分析されています。膨大な統計の加工はたいへんな作業であったと推測されますが、正しい理論が統計の適切な利用を導くという手本として貴重な論稿となりました。

 格差の拡大が国民的実感となっていることは、日本資本主義の矛盾の集中的現われだといえます。しかしそれがなお身辺に感じられるレベルにとどまり、個人間の能力や努力に基づく競争の問題として意識されているうちは十分な社会変革の意識にまで至りません。確かに「構造改革」との関連でも議論されてはいますが、商業マスコミなどでは自己責任論の枠を打ち破るところにはいきません。もちろん新自由主義の側では格差と「構造改革」との関連を否定しています。そもそも搾取の理論がなく、市場経済と資本主義経済との区別もつかないところでは格差の問題を科学的に扱うことはできません。格差の問題は、市場での競争から発する部分があることは確かであり、それは見やすいのですが、それだけでなく、搾取の強化による部分があり、これが見逃されているし、これを統計的に実証することは難しいのでしょう。

 友寄氏は、経済格差の現代的問題として、独占資本の形成・国家の介入・グローバリゼーションの影響などにも触れているのですが、その前に大前提を押さえています。

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 マルクス経済学の立場から経済格差(所得や資産などの経済的な格差)の問題を考えるさいに理論的な前提となるのは、いうまでもなく資本家階級と労働者階級の間の搾取・収奪関係であり、資本蓄積の進行とともに富と貧困の「格差」が累積していくという経済法則である。          60ページ

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 あたりまえの指摘なのですが、この観点を押さえた研究、ましてやそれを統計的に実証した研究はあまり見ないように思います(もっともこの経済法則が現在に当てはまるのは当然のように思えますが、高度経済成長期にはどうであったのかは、一つの論点ではありますが)。階級的な分析では、所得を賃金と利潤とに分けて格差の生まれる原因を探る必要があります。しかし通常、格差を論じるのに使われるのは、総務省「家計調査」などであり、これらでは所得の源泉に立ち入った分析はできません。そこで友寄氏は「法人企業統計」を使って、役員報酬と労働者賃金とを企業規模別の観点を交えて様々に比較検討しています。また友寄氏は通常の分析で多用されるジニ係数の限界にも触れて、二重三重の平均化(無差別化)で算出されるジニ係数の格差指標では、格差の性格や原因について明らかにならない、と指摘しています。レーニンが『ロシアにおける資本主義の発展』において、統計の扱いにおいて平均値にのみ注目すると階級差の分析ができない、と警告していることが想起されます。これらは近代経済学者の間で華々しく展開された格差論争への方法論的批判として重要なものです。

 近代経済学者の橘木俊詔氏による格差拡大の先駆的問題提起に対して、格差拡大否定論の大竹文雄氏・太田清氏の反論が加えられた論争は一般に優れた業績として評価されています。友寄論文は、政府見解の後ろ楯となった大竹氏の見解を紹介・批判しつつ、マルクス経済学からの独自の展開を加え論争を高い次元に引き上げるものといえますが、ここではまず論争への伊東光晴氏の評価を参照したいと思います。

 『世界』2006年1月号の伊東氏の「増税を真剣に考えよう」については、私はその表題に関連して『経済』3月号の感想の中で批判しましたが、それとは別に格差論争に対する興味深い論評を含む点は見逃せません。伊東氏は大竹氏の研究を高く評価しつつも、格差拡大否定論は批判しています。

 大竹氏は次のように主張します。ジニ係数の上昇は、高齢者世帯の増加と世帯人員の減少とが主な原因であって、実質的に経済格差が拡大したのではありません。つまり高齢者世帯は他と比べてジニ係数が異常に高いので高齢者世帯が増えれば全体としてもジニ係数が高くなります。また核家族化の進行や単身世帯の増加で所得の少ない世帯が増加するので全体としてはジニ係数が上昇します。両者はいわば人口論に属する変化であって、貧困化というべきものではないのだから、そこでのジニ係数の上昇は、所得格差の実質的な拡大ではなく、見かけ上の格差拡大を表わすに過ぎません。

 ではなぜ高齢者世帯では格差が異常に大きいのでしょうか。これについては伊東氏が分かりやすく説明しています。高齢者は年金を生活の柱としていますが、当初所得にはこれは入っていません。したがって年金だけで生活している人と働いて別に収入を得ている人との所得格差は非常に大きくなります。給与所得者においてはこの差は自由意思によるのではない(たとえば「天下りができる境遇」を想起せよ)のだから、この当初所得の格差は社会的に是正すべきものです。伊東氏のこの指摘からすれば、ジニ係数の上昇が高齢化によるものだとしても、そこにも実質的格差の社会的拡大を見るべきです。さらに言えば『経済』7月号の座談会「格差と貧困の拡大をどうみるか」で唐鎌直義氏が述べているように、年金しか収入のない高齢者世帯の生活問題は深刻であり、ここに格差問題の一つの焦点があることは明らかです。高齢化をジニ係数の形式的上昇要因としてしか捉えられず、その内実を見ない議論の誤りは重大な意味をもっています。

 伊東氏は60年代から今日までの趨勢からも格差拡大否定論を批判しています。この間、高齢化も世帯の平均人員の減少も一貫して続いています。それに対してジニ係数の方は60年代から80年にかけて縮小し、80年以降は拡大しています。つまり近年の格差拡大を「自然現象」のように見るのは無理であり、経済成長の失速と「構造改革」などの経済政策の影響を見るべきなのです。大竹氏らの研究を考慮して、厚生労働省「所得再分配調査報告書」2002年版では、2001年について高齢者世帯と母子世帯とを除いた一般世帯のジニ係数を調査しています。それによれば当初所得のジニ係数は、全世帯0.4983、一般世帯0.4123、高齢者世帯0.8264、母子世帯0.3537 であり、高齢化が格差拡大の大きな原因となっていることが分かります。しかし1980年の(高齢者を含んだ)全世帯は0.3491であり、2001年の(高齢者を含まない)一般世帯が0.4123となっていることは、高齢化の影響を超えて格差が拡大したことを物語っています。以上の事実を紹介して伊東氏は80年代から90年代にかけて所得格差はかなり拡大した、と結論づけています。

 ところで伊東氏は結論的には批判しながらも、統計調査の扱い方などの点で大竹氏らの研究業績を高く評価しています。これは研究者として公平な姿勢だといえるのですが、私たちにとってはそれだけで済まない問題があるように思われます。つまり大竹氏らは一方では確かに優れた研究者であるけれども、他方では「構造改革」を擁護するという体制派イデオローグとしての役割を果たし、そのために能力を発揮している、という問題です。それは格差論争において結果的・客観的にそういう役回りになった、というにとどまらず、格差拡大否定論を導き出す過程においても階級的立場が出ているということです。それは当人がそう意識しているのではなく、ジニ係数上昇の要因としての高齢化を指摘するという形式的考察にとどまり、高齢化の含む問題点という内実に踏み込んだり、他の要因との関連を考えるところまで進まずに、そこには実質的な格差拡大はない、という結論を導き出した姿勢にその立場がにじみ出ているのです。何を考え語るかだけでなく、何を考えずに語らないかにも立場は反映します。前者は意識的だから分かりやすいけれども、後者は無意識的だから分かりにくいのです。形式的考察は一見中立的・脱イデオロギー的であるけれども、必ずしもそうだとは限らないのです。しかしながら「私たちの問題」というのは、そういうことを指摘して自己満足するのでなく、新自由主義者などの優れた業績を批判的に摂取して、同じ課題に対してより視野の広い、形式的でない社会科学的な回答を対置する能力を持つことです。立場だけはっきりしていて技術が稚拙なのは研究とは言えないのですが、社会科学の研究はイデオロギーや階級闘争から自由ではないことも明白であり、科学的研究は両面の統一です。

 上述のようなイデオロギー批判に似たことは友寄論文でも簡潔に触れられているところですが、ここからは論文での「法人企業統計」の分析を見てみましょう。まず階級・階層間の国民経済的格差を析出するには巨大企業役員と中小零細企業労働者との比較が重要であると押さえられます。そしてこう結論づけられます。

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 検証によって明らかとなったことは、九十年代後半から現在の「景気回復」期へかけて、一方では巨大企業が労働者の雇用と賃金を大幅に切り下げ、中小零細業者への収奪を強めながら、他方では、その労働者・国民の犠牲によってもたらされた巨額な富の一部が巨大企業の役員層の手に渡り、所得格差拡大の背景になっているという現実である。今回の検証の結果は、こうした階級・階層的な視点からの統計分析が、今日の格差拡大の要因を解明するためには不可欠であることを示している。     74-75ページ

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 大竹氏などは格差拡大や貧困化を「構造改革」から切り離し、不況のせいになどしたがるのですが、上記のようにその誤りは明白です。新自由主義的「構造改革」とそれに後押しされた巨大企業の強搾取による資本蓄積様式こそが景気循環にかかわらず格差を拡大しているのです。さらに論文では「法人企業統計」分析の限界(格差の過小評価の可能性)や残された諸課題へも言及しています。しかしその要点と意義はおおむね上記に尽くされていると言えましょう。

 私たちはまず庶民の「常識」に依拠しなければなりませんが、そこにとどまるだけではいけません。成果主義賃金などに見られるように、身辺での個人的な競争と格差はすぐ目に触れます。しかしその背景には友寄論文が明らかにした、国民経済的規模での資本=賃労働関係ならびに企業規模間格差による搾取・収奪があること、それを推進する「構造改革」があることを語っていかねばなりません。

 さらに言えば、格差問題が脚光を浴びるのは、いたるところで自然人どうしの格差があらわになってきたためであり、日本資本主義の矛盾の深まりの現われです。しかし元来は人間が資本に搾取されることに根本問題があります。役員報酬と賃金の比較は自然人としての資本家と労働者の所得の比較になりますが、役員報酬は剰余価値のすべてではありません。その意味では法人企業が獲得する全剰余価値と賃金とを比較することにも意義があると思われます。現在の情勢とはずれた問題意識かもしれませんが。
                                  2006年6月18日




2006年8月号

 日銀が量的緩和政策に続いて、ゼロ金利政策も転換しました。世界的にも異例の政策をやめたわけで当然ではありますが、問題は政府が「構造改革」そのものを転換すべきことです。グローバリゼーションへの適応ということで、多国籍企業の利益のために人民には痛みを強要し、それが不断の不況圧力として作用するのを、日銀の異常な超金融緩和政策で糊塗してきたのです。低金利によって、利子所得が人民から企業・銀行に移転し、国家財政危機を潜在的に激化させ、人民はあずかり知らぬ「金余り」の下で官民一体の犯罪的な投機行為が横行しました。こういう経済循環を逆転して人民の生活と労働を重視した政策への転換による経済発展が求められます。

 田中祐二氏の「よみがえるブラジル経済 インフレ・通貨危機をのりこえて」を読むと日銀の異常な政策も顔負けの波乱に満ちたブラジルの実験に驚かされます。インフレ・外国為替・国際収支・財政・金利・失業率・生産と消費の関連…といった、様々な対外関係を含む国民経済の諸要因のバランスを取る難しさが迫ってきます。もちろん日本とは状況がまったく違うので直接の参考にはなりませんが、新自由主義から経済民主主義への転換において留意すべき現状分析と経済政策の複雑な諸関連を教えられる気がします。

 ブラジルは革新的政権だったわけではありませんが、オーソドックスタイプの安定化政策(IMF=新自由主義路線)の失敗の後に別タイプの安定化政策の実験を重ねました。ヘテロドックスタイプの安定化政策は、物価・賃金の凍結と、物価スライド制の廃止を特徴とします。たとえばクルザード計画では、賃金に有利に凍結して、消費拡大→生産拡大の好循環を企図しましたが、投資の本格化の前に消費に火がついて、結局、凍結価格が崩れて物価が上昇してしまいました。他にもヘテロドックスタイプの安定化政策は何回か実施されますが、失敗します。その原因は主に二つあり、一つは、「特定時点での全面的な価格凍結による相対価格の不均衡の固定化」(105ページ)です。この不均衡を実質的に是正するためにヤミ値や「新製品」の横行で価格凍結は尻抜けになりました。もう一つは、財政改革が伴わなかったことです。財政赤字の拡大によって国債モラトリアムへの懸念が生じ、ドルや金あるいは不動産へ資本逃避しました。国債の市中消化ができず、中央銀行引き受けとなり、結局ハイパー・インフレに帰結しました。

 論文の中心は、ハイパー・インフレとそれを克服したレアル計画との分析にあります。

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 ハイパー・インフレーション時は、インフレ指標に基づいた遅れのないインフレ予想とそれによる価格調整が要求される。その際、インフレ指標は日々刻々と成立している自由為替市場レートの切り下げが唯一の指標となる。すなわち、全ての価格が自由為替レートに同期化し(シンクロナイズ)、相対価格のばらつきや分散がなくなる。……中略……このような条件のもとでは為替レートを固定化することによって物価上昇は国際価格(輸入価格)に落ち着くということを意味する(世界インフレに収斂)。いわゆる為替レート・アンカー(錨)政策といわれる安定化政策である。この壮大な実験がはじまった。

            107ページ

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 この為替レート・アンカー政策がレアル計画であり、その具体的な段取りは107・108ページに紹介されていますが、以後ブラジルの物価は安定しました。ハイパー・インフレ時には様々な経済指標が自由為替レートにシンクロナイズすることを把握し、それを固定化することで経済を安定化させた、ということは、現状分析としては、複雑で動的な諸関連の中から最重要な環をつかみ出し、経済政策としては、周辺を整備しつつその環を実現した(1レアル=1ドルに固定)ということであり、画期的成果です。

 その後、ブラジルは通貨危機にみまわれ、固定相場から変動相場制に移行します。もともとレアル計画の固定為替レートを維持するためには、豊富な外貨準備が必要であり、そこで高金利政策を余儀なくされ、財政赤字が拡大しインフレ懸念を生じさせました。「ブラジルの場合はインフレ沈静化を図る安定化政策のためにした為替水準を一定水準に保つ政策それ自体が、財政均衡を不可能なものにしている」(113ページ)。

 このように国民経済の様々なバランスを保つ経済運営の難しさはあるのですが、レアル計画によるインフレ終息、マクロ経済の安定が対外開放にむすびついて、多国籍企業の直接投資を呼び込み、ブラジル経済は回復し産業構造も高度化しました。「生産性の上昇とそれに伴う輸出拡大、資本財部門ならびに技術集約的部門の好調に支えられ、実質賃金の低下が進行しながらも雇用状況が上向き、成長・回復軌道を歩むブラジル経済の底上げが起こっていると言える」(120ページ)。

 ブラジル経済が危機を乗り越えられた要因の一つとして外貨準備の確保があり、今日の発展を支える要因として労働力人口の増加があげられます。GDPの成長やファンダメンタルズの好調さ(それらがブラジルの国際評価を高めているのだが)が必ずしも人々の生活の向上に結びついていないのは、上記引用の他、松井高氏の「日本とブラジル」にも指摘されています。中国にも似て、外資導入で経済成長を遂げ、生産力発展によって諸矛盾を買い取っているのがブラジルの現状かもしれません。それは一つの経過点としてあるのでしょう。山崎圭一氏の「ブラジルの対外関係」にあるように、現実主義的かつ革新的な現ルーラ政権の課題として、マクロ経済の安定を確保しつつ、人民の生活と労働条件の向上が求められています。

 ところで田中論文では「構造主義の理論」「ヘテロドックスタイプの安定化政策」「慣性インフレ論」など耳慣れない言葉が登場してきました。後の二つは論文中に説明があるのですが、「構造主義」については新古典派に対抗する理論であること以外は意味がわかりません(おそらくフランスの哲学とは関係ないように思われますが)。それはともかく、これらはブラジルないしはラテンアメリカの現実の中から生まれてきた理論や政策であろうと思われます。かの地において、必ずしもワシントン・コンセンサスに縛られない理論・政策的格闘が展開されてきたことの証かと思います。日本においても、労働力人口の減少・財政赤字の累積・豊富な外貨準備・低金利……等々、独自の条件の中で、人々の生活と労働条件の改善、安定的経済成長などを求めて、新自由主義あるいは西欧福祉国家などとも違った道を探究していくことが必要でしょう。そうした政策に際しての様々な反作用・不均衡をどう全体的にまとめていくのか、その青写真を今から作るのは間違いでしょうが、多くの事例に学ぶことで逆に囚われない目を獲得できると思います。
                                  2006年7月18日




2006年9月号

 自殺者が8年連続で3万人を越え、2005年の合計特殊出生率が1.25にまで低下しました。日本社会がいかに生き難いかを象徴しています。資本主義社会の主人公はあくまで資本であり、人間は労働力であり、労働力は資本の価値増殖の手段にすぎないとはいえ、人間がいなくなっては資本主義は存続できません。人間が労働によって自然を変革し社会を形成するという、歴史貫通的=本源的な関係からは資本主義もまた逃れることはできないのです。人間が生み出した生産関係としての資本に人間が従属させられる、という疎外し転倒した社会であることが資本主義の本質であり、人民の苦難の根源がここにあります。資本の法則が過剰貫徹する日本社会ではついに、剰余価値追及のためのリストラ強行・労働条件切り下げが、今生きている生命と将来生まれるべき生命とを奪うところまでエスカレートしてしまいました。見境もなく効率追及に明け暮れたため日本資本主義そのものがカローシしかかっているのです。もう少し冷静にいえば日本資本主義の再生産基盤が人的に崩壊しつつある、ということです。資本への規制によって人間的な社会を再建する以外にまともな道はありません。新自由主義の暴走による強行突破という「国民的自殺行為」を許してはなりません。

 中山徹氏の「『構造改革』と子育て支援の避けがたい矛盾」では、教育と保育が「構造改革」によっていかに破壊されようとしているかが具体的に書かれています。不覚にも認可保育所の仕組や意義をよく知りませんでした。中山論文によって、それが、保護者の事情にかかわりなく、保育を受ける子どもの権利を保障する公的制度であることを知りました。「認定子ども園」などによってそうした公共性が浸食されようとしています。

 論文で紹介された私学教育の「充実」ぶりには驚かされます。同志社小学校や立命館小学校のデラックスな給食とか修学旅行、英語教育の重視や本格的な音楽教育とか…。公立ではとても望めない内容を年間百万円前後の授業料で買わせようというのですが、はっきりいって歪んでいる。ろくな子どもが育つとは思えません。トヨタ等が設立した中高一貫校・海陽学園にいたっては初年度納入金300万円(入学金、寮費を含む)、6年間で約1500万円だそうです。学校の理念は要するにエリート教育でさもありなんですが、庶民の気持ちなど一切わからず、社会を虚しくするリーダーたちを輩出(排出)することは間違いありません。公立教育はまったく不十分で、金持ちは隔絶した内容の私学教育を買うというのが、新自由主義的「構造改革」の「公共性」像なのでしょう。資源を非効率的な部分から引き上げて効率的な部分に集中するのが「構造改革」ですから、私学のエリート教育の充実がその理念にかなっているといえます。日本の教育がそのように変質して格差が固定化されれば、都心には貧民街、郊外には要塞化した高級住宅街というアメリカの社会構造に近づいていくことでしょう。

 保育や教育を通常の商品と同じように市場化すると保護者は消費社会の「公共性」にはまっていきます。「かつてのように、教育条件全体を引き上げる中で、自分の子どもの教育条件を改善させた時代ではなくなってきている。教育条件をお金で買う時代、社会全体がそのように動いている」(70ページ)。保護者は、市場で供給される保育所や学校を選んでその費用を稼ぐだけという「消費者」になってしまいます。新自由主義の自己責任的「公共性」の中で、金持ちの子どもは恵まれた保育・教育を、そうでない子どもはそれなりでがまん、となります。公的な制度の下ですべての子どもに必要な保育・教育を保障する「公共性」が堅持されるべきですが、それは単に格差社会に反対するということにとどまりません。中山氏が主張するように、保護者は保育・教育の消費者ではなく、保育所や学校に関わることで主体者とならねばなりません。そうすることで初めて家庭や地域社会の中で「親」となることができます。公的責任の貧弱さによって余儀なくされた結果とはいえ、各地の学童保育においては親たちの運営努力の積み重ねの中で、地域社会における一つの「公共性」が育っています。「手間ひまかけずにカネかける」という消費社会的習性の圧倒的影響下においても、カネがかかる上に手間ひまもかけて苦しい共同の道を進んでいく親たちの群像は「少子化」を克服する主体形成の萌芽とはいえないでしょうか。

 以上、新自由主義的「公共性」に対する私たちの「公共性」という観点で書いてきました(新自由主義的「公共性」という言い方には違和感があるかもしれませんが、公共性概念については、拙文「グローバリゼーションと愛国心・公共性」を参照してください)。私たちの公共性のためには、たとえば労働時間の短縮、福祉の充実などの要求を実現することが必要となります。ところがそうした要求は非現実的であるとか、経済整合性がないという言い方で支配層から拒否され、その見解はマスコミによって人民の間に流布されます。私たちの観点では、格差を縮小することには重要な公共性があると考えますが、支配層はそうは考えません。ここで自民党の武部幹事長のご意見拝聴。

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 武部氏は格差問題に関し「よく野党の皆さんが『格差ゼロ社会』というが、格差ゼロというのは全員負け組み(の社会)だ」と指摘。「国際競争に負ければ格差社会も是正することができない」と述べ、格差是正のためには経済成長が必要との立場を改めて示しました。              「しんぶん赤旗」2006年8月6日付

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 さすがに問題の核心が捉えられています。財界に奉仕し人民に苦難を押し付ける政治は突き詰めれば国際競争を勝ち抜くことを目的としているのであり、それによる経済成長なしには格差是正などの経済問題を解決することはできません。人民を甘やかし、多国籍企業の利益を害するような政策をとるならば国際競争に敗れて、結局は人民の利益にもならないのだから、今は痛みに耐えることが公共の利益であり、経済整合性がある行動だというわけです。2005年の郵政解散総選挙において、初めのうちは自民党内でも分裂選挙を危ぶむ声が多くありました。なにしろ郵政民営化法案が自民党の造反議員によって参議院で否決されたことは重大でしたから。しかし選挙の初めから、小泉政権を支える実力者である中川秀直氏は「改革」を進めなければ日本はダメになるという強い信念を表明し、選挙勝利を確信する旨を発言していたように記憶しています。それがハッタリだったかどうかはわかりませんが、彼らにとっては困難な情勢の中で強烈な公共性意識を持って闘い抜いて現実に勝利したことは事実です。マスコミの小泉劇場で人民がだまされて与党が大勝利したというのは一面の事実であって、支配層が逆境にあっても「構造改革」への強い確信によって情勢を主導したことが忘れられてはなりません。

 問題は、小泉政権によってこのように確信され強力に敢行された新自由主義的「構造改革」が何をもたらしたかです。支配層の推進する公共性や経済整合性の姿を確かめねばなりません。不良債権を解消した、企業が空前の利益を上げている、マイナスやゼロからプラスの経済成長に転換した、総じて、バブル崩壊後の長い不況を抜け出した、ということで「改革」の成功を支配層は謳歌しています。この際、それらは「改革」ではなく輸出増という中国や米国などの外国頼みの成果だ、という論点は措いておきます。仮にそれらが「改革」の成果であっても相殺して余りある悲惨な現実があるのですから。それはマスコミなどでは格差社会という言葉に集約されています。格差形成の最大の原因は、財界が主導した不安定雇用の増大であり、それがグローバリゼーションを勝ち抜いて資本の強蓄積を実現する手段である以上、上記の武部発言のように開き直るしかないのです。格差社会の結末は最初に書いたように、自殺増と「少子化」です。日本資本主義は命の不可能性をもってその特徴とするのですから、人間の観点からしてこれ以上に反公共的で経済整合性に反する仕組があるでしょうか。日本人は目先の便利さを求め、日々の暮しのやりくりに追われる余りに、悪政を変革する粘り強い展望と行動をもつに至らず、ただ従順に耐えてきました。無理が通れば道理が引っ込むのですが、いくら押し殺しても経済法則は現われてきます。労働と生活を犠牲にして経済成長を嵩上げしてもそれに耐えられない命は失われたり生まれて来なかったりするのです。従順な人々の最後の無意識的な抵抗です。いつまでも無理は続かないという法則をこんな悲惨な形でしか私たちは表現できないのでしょうか。

 今日の国際競争の中において資本蓄積の観点からは新自由主義的「構造改革」は経済整合性を持っているとしても、人間の生存とは不整合です。社会的再生産の内容は著しく劣化しました。資本蓄積的には拡大再生産でも人間生活は縮小再生産されています。ならば生活と労働の観点からの経済整合性から出発して国民経済と世界経済を変革するオルタナティヴが求められます。ここでそれを展開する能力はありませんが、世界を見渡せばその萌芽はあちこちに見られることだけは指摘したいと思います。

 佐貫浩氏の論文「教育基本法は『愛国心』をどう考えているのか 愛国心と民主的価値形成をめぐる対抗」(『前衛』2006年7月号)では、愛国心の問題をグローバリゼーションとのかかわりで考察しています。グローバリゼーションの中でどのように公共性を形成していくか、という課題への支配層からの一つの回答が愛国心の強調であるので、私たちとしては別の回答を準備しなければなりません。それについては佐貫論文を参考に、前記「グローバリゼーションと愛国心・公共性」で少し書きました。そこでは公共性の問題を経済の問題に引き付けて考えました。ここではさらに価値論にまで下向しようかと思います。

 上述のように支配層と人民とはそれぞれの公共性像を持って対決しています。つまり一定の社会において公共性は一つではなくそれぞれの階級性を担って並立しています。もちろん支配層の公共性が現実の社会では支配的であり、人民の公共性は萌芽的存在です。前者を公共性X、後者を公共性Yとしましょう。公共性の一形態として愛国心は一般にはイデオロギーや政治の問題ですが、日本の多国籍企業が国際競争で勝利するのを願う、という愛国心は経済と深く関係しています。政治のあり方から身近な社会意識まで公共性は様々なレベルにあります。そうした公共性の一定の体系としての公共性像は対応する経済整合性像に支えられているといえます。グローバリゼーションに勝ち抜くために痛みに耐える、という公共性は新自由主義的経済政策による経済整合性の要請するイデオロギーです。経済整合性は再生産構造に対応しています。再生産構造は資本=賃労働の階級関係と産業構造とからなります。経済整合性の認識は経済政策に反映され、再生産構造の認識は価値論と不可欠です。

 <公共性X=経済整合性X=再生産構造X>と<公共性Y=経済整合性Y=再生産構造Y>との対決の焦点として、前者が生み出した格差社会・ワーキングプアがあります。7月23日放送のNHKスペシャル「急増・働く貧困層・」が衝撃を広げています。新自由主義的グローバリゼーションに適合的な経済整合性の認識の下に(要するに国際競争に勝てるような経済のあり方のために)不安定雇用が拡大し、大都市の繁栄のために地方が犠牲にされるなどして、人々の労働と生活が圧迫され生存ぎりぎりの状態も珍しくなくなりました。その生々しい実態が公共放送の映像に映し出されるまでになったのです。ある50歳の父親は子どもを大学にやろうと3つのアルバイトをかけもちしています。体力の限界まで働いても大学にやれるかどうかはわかりません。さらにひどい青年労働者や農家・自営業者の実態も紹介されていました。真面目に働いても労働力(自分自身と後継者)の再生産がままならない状態になっているのです。経済整合性Xにおいては、グローバリゼーションの枠組みの中で企業利潤・国際競争・経済成長といった指標群の整合性は問題とされるけれども、労働力のまともな再生産を基軸としたバランスある社会的再生産のあり方は無視され事実上、犠牲にされています。その結果として再生産構造Xは資本のために労働が犠牲にされ、一部先端産業のため多くの在来産業が衰退させられる形になっています。これは決して持続可能な経済ではありません。社会的再生産の歴史貫通的法則から乖離して G-W-G' という貨幣資本の増殖結果だけの観点で経済活動を評価する、いわば「社会的成果主義」が跋扈して、投機や株価資本主義が隆盛で、それがさも新しい経済であるかのように賛えられてきました(最近、ホリエモンと村上ファンドの凋落で若干水をさされたとはいえ)。私的なマネーの増殖も元をたどれば社会的な労働の果実であることが忘れられています。再生産構造Xに無批判的な価値論Xは労働価値論を嘲笑する価値なし価格論・マネー現象論なのです。

 <公共性Y=経済整合性Y=再生産構造Y>に対応する価値論Yは労働価値論です。そこでは労働力のまともな再生産がすべての出発点です(ILOはディーセント・ワークのグローバル化を提唱しています)。価値論的には、NHKスペシャルが提起したワーキングプアの問題は一方では労働者の問題であり、他方では自営業者の問題や都市と地方の格差の問題です。前者は直接的生産過程における階級関係の問題であり、剰余価値の搾取強化として不安定雇用などを捉えることができます。ここでは労働力の価値以下への賃金の低下、あるいは労働力の価値そのものの低下が問題とネります。それに対して後者は市場における不等労働量交換の問題です。同じ時間働いても地方住民の所得が都市住民の所得より低いとすれば、両者の間には不等労働量交換があります。ここにはたとえば地方の重要産業としての農業の低所得が影響しています。農業の低所得は輸入農産物の低価格が大きな要因となっています。一般論としては市場での不等労働量交換は(低所得の労働部門から高所得の労働部門へ)労働力の移動を促して効率的な労働力配置を実現し社会全体での生産力発展につながります。しかしここでの都市と地方、特に農業の問題はそのような効率論だけでは割り切れません。農業の自給率や自然環境の問題、人口分布の片寄り、バランスのとれた国土のあり方なども考える必要があります。そうしないと都市生活の快適さにも影響が出てきます。不等労働量交換を含んだ形での労働力配置を残すことで対応せざるをえません。そこでは政策的配慮として所得の再分配が必要となります。これについて都市住民が地方に搾取されているとか、仕送りをしてやっているというのは正しくないのであって、不等労働量交換の是正が行われている、と見るべきです。

 「弱肉強食」とか「勝ち組・負け組」というのは貨幣の流れだけを見て議論しているわけで、その底にある国民経済全体での搾取の体系と不等労働量交換の体系を見通す必要があります(世界経済まで見通せればなおよいのですが)。搾取の問題は異常に資本優位になっている現状から労働側が巻き返すべき、ということで、現実はともかく理論上は複雑な問題ではありません。不等労働量交換の問題は、上記のような都市と地方や産業間の格差などの他に投機的利益の問題なども含める必要があるかもしれません。

 労働価値論は現実の市場価格の根底に投下労働を認める理論ですが、実際には幾重にも渡る不等労働量交換によって両者は乖離しています。この乖離をめぐって労働価値論は現実の価格を説明できない理論とされることが多かったわけです。しかしこの乖離を形成している不等労働量交換のあり方をていねいに解明することで、労働価値論は経済社会の根底をなす投下労働の体系と表層にある貨幣の流れの関係とを把握する道具建てとなっています。労働と貨幣とはいわば土台と上部構造との関係になぞらえることができます。本来は労働の社会的配分のあり方が貨幣の流れを規定する関係ですが、特に現代資本主義においては反作用のほうが強力で、異常な貨幣の流れが労働の社会的配分を歪め、自然と人間社会との物質代謝をも損なっています(もちろんここでの貨幣は貨幣資本としての貨幣を含みます)。資本主義経済もまた歴史貫通的な再生産の法則に規定されるのですが、過度な剰余価値追及がそれを破壊しています。労働力再生産の不能、産業構造や地域間の不均衡、環境破壊、投機の横行による経済のカジノ化といった問題の根底には、直接的生産過程における搾取強化と市場関係における不等労働量交換の暴走とによって国民経済的に投下労働の体系が破壊されている、という問題があるように思います。貨幣資本の効率一辺倒の観点(「社会的成果主義」)からは再生産構造の破壊が導かれ、アメリカのような産業空洞化(日本もまた近づいている)となります。投下労働の体系が無視されているのです。このようなことを問題として設定しうるためには、価値論なしの価格論ではなく労働価値論が必要であり、こうして新自由主義の経済像と経済民主主義の経済像との対決は価値論にまで下向することになります。もちろんこれは対決点を究極化した議論であって、それを強調しすぎると新自由主義に批判的な近代経済学諸派との経済政策次元での共闘に水をさすことになりますが。

 誤解のないようにいえば、不等労働量交換一般を悪いといっているのではありません。「理想的平均において考察された資本主義」にもすでに不等労働量交換は存在しています。通説的には社会的平均的な抽象的人間労働が価値論の出発点としての「投下労働」ですが、平均ではない個別の労働を投下労働とした方が理論としての実在性があります。そうするとたとえば障害者と健常者との間には不等労働量交換が認められます。市場経済において成立する社会的平均的な抽象的人間労働はすでにそのような様々な不等労働量交換を含んだものです(単純労働と複雑労働、非熟練労働と熟練労働など)。さらに資本間競争による平均利潤と生産価格の形成においても不等労働量交換が見られます。短期的な需給変動によって市場価格が不断に上下すればそこにも不等労働量交換があります。普通には価値と価格の差が不等労働量交換の現われとされます。しかし通説的な「投下労働」を反映した価値そのものがすでに上記のように不等労働量交換を含んでいるので、生産価格や市場価格はより重層的な不等労働量交換を含むことになります。投下労働の理論次元をより現実に近づけることで、労働価値論のカバーできる次元を、市場経済による抽象化作用以前の具体的な人間の生き様にまで広げることができます。たとえば障害者問題を不等労働量交換の視角から考察することができます。社会保障財政をどのように支えるか、という問題について、成人男子正職員労働者の長時間労働を社会的平均とする、それで初めて一人前とする市場の抽象化を離れて、障害者やパート労働者など様々な「半人前」の力を生かしていける社会のあり方を追及することもこの価値論の観点に適合的です。

 現実の投下労働を出発点として不等労働量交換の重層的展開として資本主義経済を捉える労働価値論の観点(正確なところは和田豊氏の『価値の理論』を参照してください)からは、このように「通常の不等労働量交換」が把握されますが、これを地域間、産業間あるいは投機などにも応用して、投下労働の体系の観点から貨幣の流れを批判することが考えられます。そこでは社会的再生産を破壊するような不等労働量交換の暴走を析出することができるでしょう。実際にも国民経済統計を利用して荒削りながらそれができないかと思うのですが…。

 マルクスの資本循環論に依拠して、まともな社会的再生産の観点から投機化経済をわかりやすく批判したのが、『前衛』9月号の橋本正二郎氏の「『格差社会』を許さず、公正な経済社会は可能だ」です。それによれば、今回の景気回復によっても労働者の賃金が上がらず格差が拡大しているのは、企業利潤の拡大が賃金の切り下げによっているというだけでなく、利潤が配当や株価上昇のために使われているからです。つまり賃金の下落は、一方では資本=賃労働関係において労働者階級の力が下がっているからですが、他方ではまともなモノづくりから株価中心主義へと資本主義そのものが変質しているからです。資本循環論からいえば、前者の問題は、貨幣資本から生産資本に転換する、つまり企業が労働力と生産手段を買う場合に不等に安く買って利潤を増やそうとすることです。後者の問題は、そもそも資本循環からはずれたところで、バブル期のようにメーカーが本業とは別に不動産や株式の投機をする、あるいは今日では企業防衛のために配当を高めたり自社株をつり上げたりせざるをえなくなっていることです。阪急ホールディングズと村上ファンドとの攻防戦では「二五○○億円という資金が、阪急という電鉄会社の従業員のために使われることもなく、また安全や技術革新、環境のための投資などに使われることもなく、ただ村上ファンドをはじめとする株主のために消えていくのである」(34ページ)。投機化経済とは不等労働量交換の暴走であることがよくわかります。

 強搾取と投機化という資本主義を転換するために、橋本氏はこう提唱します。

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 資本主義社会では、生産も消費も企業(資本)の運動によって決まる。日本経済をまともな経済にするには、企業(資本)の運動をまともにしなければならない。そのためにはまず、企業の「社会的責任」を日本経済にすえつけることである。  35ページ  

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 剰余価値の追及が資本主義経済の目的であるので、企業を放置しておけば強搾取と投機化に流れます。「社会的な圧力と包囲網をつくりあげていく」(38ページ)ことが必要であり、論文では情報開示と社会的責任投資が紹介されています。こうして個別企業がまともな資本循環を担えばまともな社会的再生産の必要条件が整います。さらにはまともな資本循環の結果としての利潤に税=社会保障費を賦課し、生活費には賦課しないのが「もっとも経済合理性にかなったもので」(42ページ)す。論文の最後には、こうした方向が国際競争力を妨げるものではないことにも言及されています。現実には難しい問題はいくらでも出てくるでしょうが、日本経済の問題点の基本とその健全化の方向性の大枠がわかりやすく提出されているといえます。

 ここで基本的観点としてあるのは、剰余価値追及を目的とする資本が主体となった資本主義経済が、労働力の正常な再生産を含む社会的再生産を担っていることからくる問題点であろうと思います。つまり前者は後者から不断に逸脱する傾向があるので、それを調整・修復することが当面の課題としてあります。逸脱の主要な内容は強搾取と投機化ですので、生産過程にかかわる労働力の価値の問題、および市場にかかわる様々な不等労働量交換の問題という価値論上の問題意識を社会的再生産の問題に結びつけていこうと思っていました。橋本論文では、両者の中間項として、個別資本の循環にかかわる「企業の社会的責任」の問題が提出され、より現実的なアプローチの手がかりが得られたかもしれません。

 いつもそうではありますが、今回は特にゴタゴタ未整理・冗長になりました。妄言多罪。

                                  2006年8月20日



2006年10月号

 森岡孝二氏の「労働時間の逆流と市場個人主義」は「資本主義の発展は時短をもたらすか」という問いに始まっています。確か1970年ごろテレビで「週休三日になったらどうする」というテーマの番組を見たことがあります(教養番組ではなく娯楽番組でしたが)。しかし21世紀の今日、それどころか働きすぎが重要な社会問題となっています。生産力発展は時短の可能性を生みますが、資本主義的生産関係の下ではしばしば逆の現実が結果となります。森岡氏が引用しているJ.ショアの言葉のように、「労働者たちが労働時間を決定する通常のプロセスに対抗して激しく闘ったから」余暇は得られたのであり、「余暇というものは、資本主義の結果というよりも、むしろ資本主義にもかかわらず存在しているのである」(88ページ)。マルクスも『経済学批判要綱』において「資本の傾向はつねに、一方では自由に処分できる時間を創造することであり、他方ではそれを剰余労働に転化することである」と書いています。確かに1970年ごろの日本では労働運動も今よりは健在であり、「モーレツからビューティフルへ」などという宣伝文句さえあったくらいで、高度経済成長への一定の反省下で生産力主義と利潤第一主義とへの懐疑もあったのです。そのような社会的状況が続いておれば今ごろ時短大国日本であったかもしれませんが、1974/75年恐慌やバブル崩壊後の長期不況などの経済危機においては、労働組合は退潮し、「反省・懐疑」のへったくれもなく生産力主義と利潤第一主義とに覆われて、カローシ大国日本となってしまいました。残念ながら危機においては日本資本主義の地金が露呈して、カッコつけるような品性もありません。「お上品ぶってて生き残れるか!」…。しかし生きるに値しない生き方を克服するために経済をどう変えるか、という問題意識のないところでは人間の生活は崩れていくばかりです。

 初めの問いに対して森岡氏は理論的な回答を提出しています。

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 「資本主義の発展にともなって労働時間はしだいに短くなる」と言えないのは、労働生産性の上昇は労働時間の短縮をもたらすと無条件には言えないからである。労働生産性が上昇すると、(1)労働時間の短縮(余暇の増大)か、(2)賃金の増大か、(3)利潤の増大、あるいはこれらの間の二つないし三つの多様な組み合わせが可能になる。しかし、このような可能性があっても、階級としての労働者が労働組合の力や、政治的力によって、生産性の配当が企業利潤に転化することを阻み、かつ賃金の上昇よりも労働時間の短縮を優先させるのでなければ、労働時間の短縮、したがって余暇の増大は現実化しない。            74ページ

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 生産性の上昇と労働時間との関係を資本主義的生産関係のなかで捉えるためには、このような分析的観点が必要となります。上記の基本的ケース(1)(2)(3)を価値的に例示し、使用価値量と労働時間を考慮すると次のように説明できます。

 出発年 2000C+1000V+1000M=4000

として、現在は全社会的に生産性が2倍になっているとすると

 (1)1000C+500V+500M=2000   使用価値量不変 労働時間半分

 (2)2000C+1500V+500M=4000   使用価値量2倍 労働時間不変

 (3)2000C+500V+1500M=4000   使用価値量2倍 労働時間不変

 

 (1)労働生産性が2倍に上昇すれば同じ使用価値量を生産するのに要する労働時間が半分に減るので、生産量を増やさなければ労働時間を半分に短縮できます。消費資料の価値が半分になるので労働力の価値も半分になります。ただし実質賃金は変わりません。なぜなら実質賃金とは物量で計った賃金だからです。労働者の生活用品のバスケットの中身は価値が下がっていても使用価値的には同じ、というのがこの状態です。

 (2)ところがここで労働時間を短縮しないならば生産される使用価値量が増大します。しかし労働時間が同じなので生産物価値(C+V+M)の総量は変わりません。ここでの500Mは使用価値量としては出発年の1000Mと同じです。1500Vは出発年の1000Vの使用価値量の3倍になります。実質賃金3倍です。生産性の2倍化に対して剰余価値部分の使用価値量を据え置いたため賃金としては社会的平均以上の成果を享受できることになります。

 (3)やはり労働時間を短縮せず(2)とは逆に実質賃金を据え置いて剰余価値部分の使用価値量を3倍にするケースです。

 

 現実には、生産性上昇による個別生産物価値の低下が個別価格の低下には直結しない場合が多いので、生産性上昇による生産増大の効果は、森岡氏の説明するように、賃金ないしは利潤の上昇として現象します。ここでわざわざ価値量と使用価値量という観点で説明したのは、労働時間の短縮のためには階級間の力関係だけではなく、使用価値量に対する管理も必要だ、ということを示したかったからです。上記の「賃金の上昇よりも労働時間の短縮を優先させる」というのは消費資料の増大よりも自由時間の増大を重視しよう、物を作るのを控えてもっと休もうということです。資本主義社会では利潤追及と資本間競争の圧力で、ないところにも需要を創出してトリビアな物作りに狂奔しています。これは確かに何より資本主義の問題、階級闘争の問題ですが、歴史貫通的な必要時間と自由時間の問題にもつながっており、使用価値量の適切な管理の視点も必要とされます。

 森岡氏は上記の3つの基本ケースの組み合わせを考えるように指示しています。それは生産性上昇と労働時間短縮との関係を解明するためのものですが、ここでは逆に生産性上昇と労働時間延長のモデルを示しましょう。

 出発年 2000C+1000V+1000M=4000

として、現在は全社会的に生産性が2倍、労働時間が1.5倍になっているとすると

 (4)3000C+1500V+1500M=6000  使用価値量3倍 労働時間1.5倍

 (5)3000C+  400V+2600M=6000  使用価値量3倍 労働時間1.5倍

 

 (4)生産性が2倍になった上に労働時間も1.5倍化し生産量が3倍になったケースで、階級関係は出発年と同じです。労働力の価値は1.5倍化、実質賃金は3倍化しています。労働者は無理してがんばった分、生活水準が上がっています。

 (5)生産性と労働時間は(4)と同じだが労働者にとって階級関係が悪化したケースです。労働力の価値は0.4倍化、実質賃金は0.8倍化です。労働者は無理してがんばってもなお生活水準が下がっています。消費資料の価値が下がっていますが(0.5倍化)それ以上に労働力の価値が下がっているので実質賃金も下がっています。

 今日の日本資本主義では、厳しい資本間競争の下で生産性の上昇が追及され過剰労働が強要され過剰な商品が生産され、物価下落以上に賃金が抑制されています。(5)は働きすぎ・ワーキングプア・高利潤をデフォルメした日本資本主義モデルといえます。ただし現実の物価下落は、生産性上昇による商品価値の下落を反映するだけでなく需要不足による市場価格の下落をも含むことが忘れられてはなりません。

 森岡氏は新古典派理論をわかりやすく批判しています(76ページ)。私なりに言えば、雇用とは、市場での対等平等な労働の売買という形式をとりながらも、その内実は生産過程における剰余価値追及のための支配従属関係です。新古典派理論が言う、労働時間の「選択」と「自己決定」なるものは、雇用の内実を無視しており、資本主義経済を市場経済に解消する誤った資本主義観の必然的帰結です。資本主義経済の重層構造と領有法則転回の理解(重田澄男氏の『マルクスの資本主義』桜井書店、2006年、と同氏『資本主義とはなにか』青木書店、1998年、参照)によって誤った労働理論を根本的に批判することがマルクス経済学の任務です。現実には、財界・政府を先頭にしたすさまじい雇用不安定化の攻撃があり、労働者側の反撃も始まりつつあり、労働現場での生々しいつば迫り合いが展開されているとき、そんな原則論は悠長な話だという気もします。しかしこのひどい時代は、搾取を中心とする資本主義観の普及のチャンスであり、それは底堅い社会変革のうねりに結びついていくものでしょう。

 森岡氏の紹介するアメリカとイギリスにおけるすさまじい働きすぎの現実はまさに新古典派教条主義の様相を呈しています。ここには経済学史的にはひとつの逆説があるように思えます。伊東光晴氏によれば、ジョーン・ロビンソンはマルクス、マーシャル、ケインズをイギリスの古典派経済学の流れを汲むと見て、大陸の経済学ワルラスと対照しています。前者では資本対労働の関係から、広い意味での利潤がまず捉えられ、それが利子や地代や狭い意味での利潤に分かれていくという構造になっています。後者では企業家、資本家、労働者、地主が対等の立場で市場で財を売買するとされ、利子も地代も賃金もまったく同一平面で捉えられます。「ロビンソンは、資本主義の特質把握が、イギリス古典派経済学の流れを汲む経済学では確立しているのに対して、ワルラスはそうした視点がなく、その基本的骨格がくずれていると考えたのであろう」(伊東光晴「ひとつの比較経済学 マルクス経済学再読」『経済評論』1993年5月増大号所収、11ページ)。今日、近代経済学の教科書で教えられ、新自由主義的経済政策の基礎とされている新古典派理論はここでいう「大陸の経済学」です。ところがイギリスとその旧植民地であるアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドでは「イギリスの経済学」は衰退し、おそらく「大陸の経済学」への教条主義の成果であるかのごとくに働きすぎが蔓延しています。逆にフランス、ドイツ、北欧諸国など大陸では、「大陸の経済学」を教条的に適用することには批判が多く、働きすぎには歯止めがかけられています。

 産業革命によって世界で最初に資本主義経済を確立した当時のイギリスでは「資本主義の特質把握」を確立した科学的経済学が成立しました。しかしその旧植民地アメリカは現代の資本主義世界の覇権を握っていますが、もはや人民の生存権に敵対する資本主義の本質を隠蔽する総本山として「イギリスの経済学」を捨て「大陸の経済学」を奉じている、ということでしょうか? それにしても日本では戦後長らく「イギリスの経済学」が盛んで、80年代あたりから「大陸の経済学」に取って代わられたのですが、他国との比較では働きすぎは一貫しています。その原因はここでは措くとしても、「大陸の経済学」の増長によってそれがますますひどくなることだけは阻止しなければなりません。

 森岡氏は理論経済学の立場から労働時間の問題など現実の重要なテーマに挑んでこられました。本論文でもそうした姿勢から具体的問題に大いに論及されているのに、私としては抽象的議論に終始したことは遺憾とするところです。

 抽象的議論から脱皮するには経済統計の分析が必要となります。しかしそれだけでも社会認識としては不十分だということを都留民子氏の「失業とは何か 大牟田市・失業者の面接調査から」は教えてくれます。それは失業の現実を生き生きと伝えています。統計数値は現実を様々な断面で切り取っています。それを総合して一つの社会認識を組み立てるには生きた現実感が必要です。個別具体的なものを凝視することで普遍性の認識に至るような文学的現実把握力とでもいうようなものが求められます。それが統計の持つ抽象性を補完する何かであるような気がします。

 問題意識こそが社会科学研究の核心ですが、都留氏は「日本社会での失業軽視への強い懸念」を持ちつつ「統計数値では分からない失業(者)を示す」ことを意図されています。「失業者の言説で明らかにされた職業行程・求職活動・家族生活などから、失業とは何かと、考えたい」。「個々の実態から、失業論議に必然なファクターを検出すること、小さな作業であってもそれを重ねることで、今日の失業すなわち失業者像を組み立てていくことが可能ではないかと考えている」(114ページ)。つっこんだ感想を述べている余裕はありませんが、こうした姿勢の研究がさらに質量ともに充実して行くことを願います。
                                  2006年9月21日



2006年11月号

 岡田知弘氏は「グローバル化の新段階での地域・自治体をどうみるか」において、多くの問題を考察するなかでも、人間の生活と地域の観点から、グローバリゼーションの新展開とそれに対抗する地域や国民経済のあり方を説いています。「自分たちの生活領域で、観光と旅館、商業、農業を結合したまちづくりに取り組ん」でいる湯布院の例を引いて岡田氏はこう述べます。

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 人間の生活領域というのは、こうした実践からみても、限られた自然条件にもとづく領域と、歴史的な社会関係でつくられています。これが、本来の人間の生活領域としての地域です。その地域があって初めて人間は生きていけるし、そこに住む人々の基本的人権を守る制度、組織として地方自治体が成り立っていくと思うのです。

 現在のグローバリズムというのは、決して人間そのものを大事にしようと動いてはいません。今日の話のように一部の巨大企業が、短期的な利益を上げることが最優先され、後は放っておかれ、格差が拡大する仕組です。経済のグローバル化や構造改革の中で、住民の生活領域としての地域の持続可能性が脅かされてきているわけです。

               30ページ

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 中越大震災の震源地近くの発電所が東京都心の山手線に電力を供給している(幸いにして地震時には代替電力が利用できたが)ことなどから、「大都市の経済生活、社会生活は中山間地域が供給するエネルギー、水、空気、食料などによって保障されている」ことが指摘され、国民経済のあり方について次のように述べられます。

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 したがって大都市だけが生き残ればよい、という考え方では、水害も含め自然災害が多発している現在、日本の持続的な発展はありえません。エネルギー、食料の自給率を相当高めて、確保していくことが、都市と農村のバランスある発展、持続性に重要な意味をもっているのです。

 今後の国土政策、地方自治体政策、行財政政策、地域開発政策は、そういう大きな視点を持たないと、非常に不安定な社会構造に陥ってしまう。グローバル化時代に日本の各地域が持続的に生きていける視点こそ、非常に大事ではないかと考えています。

               18ページ

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 しかし現実に行われてきたのは、人間の生活と地域の視点から今日のグローバリゼーションのあり方に主体的に対抗することではなく、それへの従属的適応でしかありません。つまり多国籍企業への財源集中であり、東京の国際競争力の強化です。そうした政策がとられる中で、農業などを中心とした地方産業と、先端産業を含む東京などの大都市圏の産業との不等労働量交換の結果から来る格差にさらに拍車がかかってきました。この不等労働量交換そのものを是正するためには、たとえば地方産業のいわゆる付加価値を高めることが必要でしょう(残念ながらその具体的イメージは私にはよく分かりませんが、湯布院などの地域ブランドの確立はこれに当たるかもしれません)。あるいは不等労働量交換の結果としての格差の是正には自治体間での所得の再分配が必要です(岡田氏によれば三位一体の改革はこれに逆行します)。または不等労働量交換を減らすために地方での地域内経済循環を強化することも有効でしょう。地域で発生した所得を大都市圏の大企業本社に吸い上げられるのを防ぐことなどです。今各地で取り組まれている地産地消の運動はそのような意味を持つともいえます。『世界』9月号の大江正章氏の連載ルポ「人が豊かになる地域づくり6 愛媛県今治市 地産地消の学校給食と食農共育」は見事な理念と実践を紹介しています。わずか10ページのこのルポには驚くべき豊かな問題提起が満ちており、私の下手な紹介より是非とも直接読んでいただきたいのですが、ここではその一端を引いて若干の考察を加えてみたいと思います。

 今治市は、地産地消・食育・有機農業の三つを推進しています。発端は学校給食をセンター方式から自校方式へ転換した市民運動にあります(文部省が推進したセンター化と民間委託へという新自由主義的流れとはまったく逆!)。運動の中心を担った女性は回想します。「あれは八一年二月の寒い日です。長女が通っていた小学校の給食試食会に参加して、本当に驚きました。冷えた汁をアルマイトの食器に注ぎ、そこへビニール袋に入ったうどんを入れて、先割れスプーンで食べるのです。こんなものを食べさせられてたまるかと思い、この日から私たちの運動が始まりました」(306ページ)。効率至上主義の企業男社会にはないこの強烈な一念・センスこそが、<経済→生活>という転倒状態から<生活→経済>という足で立った状態に戻す起爆剤です。今治市は1988年に「食糧の安全性と安定供給体勢を確立する都市宣言」を行い、98年には「安全な食べ物による健康都市づくり戦略」を打ち出しました。掛け声だけではありません。具体的な施策を進めています。安全な食べ物の生産・流通・消費を拡大していくために、(1)地産地消協力店の認証、(2)実践農業講座の実施、(3)有機農業に限定した市民農園の設置、(4)有機農産物生産への助成、などを行っています(303ページ)。国の新農政が経営規模で担い手を選別しているのに対して、こうした施策を通じて今治市ではすべての市民を地域農業振興の担い手として捉え育成しています(304ページ)。

 地産地消・有機農業は自校式の学校給食と堅く結び付いています。栄養士がきちんと配置されそれぞれが裁量権をもって個別に食材を購入するので量は少なく、地産地消・有機農業の作物で十分に対応可能です。広域購入・共同献立ではこうした工夫の余地が少なくなります(306ページ)。

 今治市立城東小学校では毎日、前日の給食の残食の量と、当日の地元食材の生産者(写真入りで)を教室のテレビで放送します。同校では、子どもたちが生産者を訪問し、校庭で農作物を作り、食と環境をテーマに勉強しています。「有機農業の苦労とやりがい、地産地消の大切さ、フードマイルと残量世界一の日本の現実を知るからこそ、給食の食べ残しも減る」(310ページ)。競争・管理・強制に堕した日本の教育では、食育といっても、感謝の気持ちとかの押し付け的な道徳主義に陥ったり、無理やり食べさせて点数評価するようなやり方になりかねません。同校のようなやり方でこそ、自分の経験と実感に基づいた自主的・批判的な本当の学力が育っていくのではないでしょうか。丹下清美校長はこう述べています。「小さな子どもたちにとって、知ることは感じることの半分も重要ではありません。ここで感受性をみがき、イモ掘りのときの土が固いとか大根が重かったとか、ミカンにテントウムシやクモが来るとか感じていくことが、やがて知識や知恵を生み出していくのです」(309-310ページ)

 今治市の農産物の地域自給率は32%で、決して高いとはいえません。ある農協の直売所では、一人当り年間売り上げ30万円以下が49%です。こういう統計数字だけからは、今治市の取り組みは取るに足らないものに見えますが、上記のような住民と行政との運動の過程の中に生活と経済の質を問う大きな意味があると言えます。たとえ30万円以下の売り上げでも、高齢者や女性に稼ぎをもたらし、生きがいを生み出すことで、生産者が増え、遊休農地が減っていきます(305ページ)。経済学の好きな「資源の有効利用」が実現されます。

 ここで二つのことを考えたいと思います。生産力とか効率の見直しと行政などの「公」の役割です。生産力が発展するのは基本的にはよいことで、生活の豊かさや自由時間の増大の可能性を与えます。しかしそれはしばしば人間の肌合に合わない場合があり、資本主義的生産関係においてはそういう事態が加速されます。学校給食をセンター化し民間委託するのはたいへんに効率的なのですが、「こんなものを食べされられてたまるか」というものが出てきます。それをがまんするかあるいは何とも思わなくなるのが資本主義的生産発展による生活=社会変革です。人間生活にとって有効なものに生産力発展をコントロールすることが必要です。その際に見直してみたいのが、低生産性部門や小経営です。個別経営の次元で見れば非効率で淘汰すべきようなものであっても、仕事と雇用を創出し、生活=文化を維持する作用があるならば社会的には存在意義があります。

 今治のルポは小さいことの良さを気付かせてくれます。前述のように自校式の給食では少量の作物で足りるので、各地域でいろいろな人々が生産に参加できます。今治市では給食用のパン製造のために10aあたり2万円の助成金を出して小麦栽培が始まりました。米の給食にも、低農薬の特別栽培米の買い上げに行政の補助を出して生産を推奨しています。小さな需要にきめこまやかに対応する小さな生産者たちが新たな生産物にも進出しているのです。「かつては、小麦も米も代金は市外へ流れていた。いまでは、顔の見えるものを食べられるようになり、わずかとはいえ地域市場を新たに創出し、資金の地域循環の拡大につながっている」(307-308ページ)

 このように小さいものの良さを生かして地域経済循環を活性化させるには、行政の助成が重要です。通常栽培に比べて効率が悪くなる有機栽培などに対して減収分を補填することが行われています。生産力のハンデに下駄をはかせているわけで、個別経営の観点からは非効率であり、そのような補助金をばらまけば社会的非効率を温存する、というのが昨今の議論における「錦の御旗」です。しかし広く社会的効果を加味して判断することが必要です。要は使い方次第であり、このように生活の質を高め、全員参加型の地域経済を創造できるなら有効利用と言えます。生産者への補助金だけでなくマンパワーの手当も必要で、先述のように栄養士を配置してしかるべき権限を与えるような政策が求められます。金の問題だけでなく、市民運動の提起を受け止めて、行政が政策設計と細かな援助を実施していくことで今治市では「公」がしっかり根付いています。このように地域経済が自立することは「地域の文化や伝統を見つめ直し、経済成長で失った地域資源を取り戻」す(303ページ、今治市企画振興部企画課課長補佐の安井孝氏の言葉)ことと一体です。しゃにむに資本主義的競争で生産力発展を追及することで、生活・地域・社会のあり方そのものがそれに合わせて変質してしまった部分があります。だから消費者主権とか生活者重視とかいっても、過重労働と自由時間の不足などから来る生活状態の中でジャンクフードを嗜好したり、24時間営業のコンビニがあたりまえという「生活要求」に基づいた経済のあり方は病んでいます。<経済→生活>から<生活→経済>に立て直すにしても、そこでいう生活とは、ジャンク生活ではなく、「地域の文化や伝統を見つめ直し、経済成長で失った地域資源を取り戻」したような生活であることが大切です。

 地域経済の再生を国民経済にどう位置付けていくかが問題です。あいまいで感覚的な表現ですが…

   国民経済=大×少 + 小×多

 この等式のように日本資本主義は少数の大企業がリードし、中小企業や農民・自営業者など多くの中小経営が裾野を形成しています。労働者・下請企業を初め多くの社会的資源を糾合することで大企業は絶大な国際競争力を発揮して、外貨を稼ぎ、エネルギーや食料の輸入を賄っています。エネルギーや食料の自給率を高めることは必要ですが、こうした基本的構造は続いていくでしょう。日本経済を国際的に存立させているのは「大×少 」の力が大きいのですが、生活・文化を守って人間を存立させていくには「小×多」の部分の充実が欠かせません。新自由主義的「構造改革」では資源の効率的配分の名の下に「大×少 」ばかりを優遇して「小×多」がないがしろにされてきました。「官から民へ」ということで、「官」が本来の役割を積極的に放棄して、庶「民」ではなく、「民」間大企業のもうけのために施策を展開してきました。そうではなく今治市のように「官」は「民」を援助して伸ばすことが求められています。農民や自営業者の減少に見られるように、「小×多」の「多」の部分が陰っています。ここにこそ底辺での経済活力の多様性があるというのに。失業などは重大な社会的損失です。市民運動と行政が結んで工夫をこらすことで、低生産性部門の持つ仕事創出力・雇用力あるいは生活=文化維持力を発揮させていくことが可能です。そのような裾野を持つ国民経済こそが世界の中で生き残る価値が認められるのだと思います。世界経済のフロントランナーの一人である日本には、ソーシャルダンピングによらない、豊かな国民経済に支えられた適切な国際競争力という新しいモデルを創造する義務があります。

 

 安倍晋三氏が首相となり、いよいよ石原慎太郎都知事に続いて右翼タカ派揃い踏みが実現しました。新自由主義政策による労働・生活破壊、そこから来る様々な生活不安・社会不安に直面した多くの人々の中では、打開策を見い出せない不定型の不満が渦巻いています。彼らにとっては、仮想敵(北朝鮮、テロリスト、潜在的な凶悪犯罪者、公務員など)への強硬姿勢を売り物にする右翼タカ派的ポピュリストが魅力的に見えます。そのようなジャンクフードならぬジャンク政治家たちの人気は日本社会を危険な方向に向かわせています。これはいわば支配層の常套手段としてのマッチポンプとスケープゴート策の術中にはまっているわけで、根本的には新自由主義へのオルタナティヴの確立と普及で対抗すべきものです。しかしたとえそこまで進まなくても、日本国憲法を軸とする民主社会の蓄積の結果として右翼タカ派的傾向そのものへの警戒感が強く存在することは心強い事実です。たとえば東京都教育委員会による「君が代」強制を断罪した東京地裁の判決はその現われです。ある意味でそれよりも大きな意味を持っているのが、NHKの連続テレビ小説「純情きらり」が制作され高い視聴率を維持して終了したことです。この危険な時代に、庶民生活に根づいた深い反戦ドラマが好評のうちに迎えられたことの意義はきわめて大きく、制作に携わった人々に敬意を表したいと思います。

 多くの朱玉の名台詞に彩られたこのドラマの豊穰さを評価することなどは、まったく私の手に余ります。ここではその政治的意味についてだけ若干述べてみます。NHK「朝ドラ」の主なテーマは近・現代における女性の自立であろうと思います。諸困難を乗り越えてたくましく成長していく様々なヒロイン像が描かれてきました。諸困難の中でも最高のものが戦争体験であり、「朝ドラ」の中でもこれを描いたものは王道を行く本格的作品でした。また「朝ドラ」の多くはヒロインの成功物語として完結してきました。「純情きらり」は一方ではこの王道をとことん極めましたが、他方ではアンチ・サクセスストーリーとして異彩を放ったといえます。

 「純情きらり」は戦争がもたらす自由への抑圧と生活困難を執拗に描き出し、その中でもたくましく生き抜いた人々を称えました。生きることへのいとおしみはその喪失に対する深い悲しみ、死を強いたものへの正当な怒りとして表出されました。ヒロイン桜子の夫達彦が亡き戦友の姉を訪ねたシーンは圧巻でした。NHKOBの沖野晧一氏は次のように書いています。

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 「どうかお許しください」と頭を下げる達彦に対する戦友の姉のせりふに、私は思わず箸を止めてしまいました。「許しません」という静かな言葉。音声と内容の差異が意想外だったからです。

 「許してしまったら、弟が浮かばれないからです。この戦争を私は許さないことに決めたんです。この戦争がどういうこと、正しいことだ、戦うべき価値があるんだと、弟を奮い立たせて、戦場へ送り込んだ人たちのことを。それを止めなかった自分も。ですから、あなたのことも許しません。あなたには未来がある。でも、弟にはないんです」

 静かな音声に込められた怒り、悲しみ、決意。作者、演出者、出演者の気持ちが見事に一致していた場面でした。

  日本ジャーナリスト会議東海地区連絡会議『東海ジャーナリスト』第72号 2006.9.23

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 残念ながら多くの戦没者遺族は、靖国神社とともに、かつての日本の戦争が意味のある戦いであったので戦死者は犬死にではなかった、と思おうとしています。そう思うことで人民を無謀な侵略戦争に導いた国家の戦争責任は免罪されます。これはいかにも戦死者の名誉を重んじているように見えても、実際には彼らをまったく浮かばれなくしているのです。戦争を許さない、家族を奪った戦争に責任のあるものを許さない、というこの真実のメッセージの前では、靖国神社に参拝パフォーマンスするジャンク政治家たちの醜態ぶりが鮮やかに浮かび上がってきます。

 余談ですが、先日、「改正」保険業法による自主共済への規制に反対する国会要請行動に行ってきました。その際に衆議院議員会館の杉浦正健氏(自民党)の部屋を訪ねました。この間まで小泉内閣の法務大臣だった議員です。前述の「君が代」強制を断罪した東京地裁判決が出た当時、大臣としてコメントしています。判決を批判して、自分の選挙区である岡崎の学校の式典ではみな「君が代」は歌われている、というような内容でした。自由とか民主を掲げる政党からの法務大臣がブルジョア民主主義の初歩を踏みにじって恥じない発言をしているのです(と、今さらそんなかまととぶった批判をするのもナンですが)。ところで他の自民党議員の部屋には安倍首相のポスターがこれ見よがしに貼ってあったのですが、杉浦議員の部屋では「純情きらり」のポスターが目立ちました。地元岡崎を舞台にしたドラマの人気にあやかろうというわけでしょうが、およそ今の自民党政治ほどこのドラマの内容にふさわしくないものはありません。それでも自由や民主やついでに平和もタテマエとする以上、反戦ドラマの人気に文句を言うよりおもねろうというのでしょうか。ここには「国民的感情=常識」をめぐる争奪戦の最前線が見られました。

 閑話休題。「純情きらり」は若いヒロインが病死するという、「朝ドラ」としては異例の最終回を迎えました。アンチ・サクセスストーリーとして完結したのです。桜子の短い人生は世間的にいえば何物をもなしえませんでした。才能に恵まれ努力もしたけれどもなしえなかったのです。結核にかかったため、我が子を抱くことも出来ずに死んでいきました。しかし、桜子が何物をもなしえなかった、といったら多くの視聴者たちが怒り出すでしょう。彼らは桜子がどんなに一生懸命に生きたかを知っているのですから。多大な困難を乗り越えて作曲だってしたし、夫の家業のために心底から貢献したし、家族のためにどれだけ献身したことか。しかしそれを知っているのは身内と視聴者だけです。世間に名を残すことはありませんでした。

 残念ながら桜子が子どもに遺した言葉をあまり覚えていません。……あなたにとってもお母さんの人生はつまらないものに思えるかもしれない。しかし一生懸命に生き、十分に輝いた。愛する夫に出会えた。およそ生きるに値しない人生などはない。みんな生きる意味を持っている……というようなものだったでしょうか。「純情きらり」は普通の人の人生を描こうとしたのだと思います(庶民よりはやや上層の人々だったかもしれませんが)。かけがえない人生に立ち塞がるものとしての戦争の真実を活写して、今の日本社会に警鐘を鳴らしました。私見では、それだけでなく、一見つまらなく思えるありきたりの人生の一つひとつがどれだけ充実しており大切なものか、ということを桜子の生き方に託して訴えたのだろうと感じています。人生が資本に従属し、生きるために経済活動があるのではなく、経済活動のために生かされている、そして利潤を生むのに役立たなければ意味がないように扱われている多くの人々への声援だったのではないか? アンチ・サクセスストーリーはアンチ格差社会、新自由主義批判にもつながっていくように思います。

 近・現代における女性の自立という「朝ドラ」のテーマはもちろん女性だけの問題ではありません。それを可能にする男性と社会の変化をも含むものであるはずです。「純情きらり」に登場する男たちはまさに女性から見た理想像であり、現実に照らすとそこにはずいぶん厳しい目を感じるわけですが、社会を見る目も批判的です。このテーマ設定に的確に対応したドラマが制作されるならば、これからも日本の朝は健全な「国民的感情=常識」を生み出す可能性を持っています。

 こんなことを書いているうちに、北朝鮮の核実験の報が入ってきました。この暴挙を糾弾するとともに平和的解決に向けた国際社会の統一的行動に期待しなければなりません。ところで残念ながらこれは新発足した安倍政権への追い風となるでしょう。先の北朝鮮のミサイル発射に際して、麻生外相が思わず失言して金正日に感謝しましたが、その比ではなく、これで一気に戦争のできる国家体制構築に向けて安倍政権が突っ走ることが危惧されます。就任間もないのですが、安倍首相は単なるジャンク政治家ではなく、「能あるタカ」かと思える節があります。「美しい国」という言葉に代表されるような情緒的な表現で人気を獲得するかと思えば、必ずしも自己陶酔的なロマン主義に溺れるわけではなく、しっかりした階級的自覚に立って現実主義的対応をしています。過去の言動からすれば彼が靖国史観の信奉者であることは間違いありませんが、首相となった今はあくまで爪は隠して村山談話と河野談話を継承する姿勢を示しています。外遊の最初に中国と韓国を訪れ、5年間の小泉政権の負の遺産をとりあえずは片付け交流を再開しました。過去の言動に対する反省はしないのだから、個人としての右翼的信条(心情)は保持しつつ、公人=首相としての仕事は別の立場でこなしています。安倍氏個人の信条はとても首相として通用するものではなく、各方面からの批判の中で公人としては引っ込めざるを得なくなったということです。しかし爪を隠した能あるタカは、名を捨て実を取ろうとしているのではないでしょうか。政権の発足に当たって、5年間というような具体的な改憲日程を明らかにしたのは今までにないことでした。東京地裁判決に従って「君が代」強制を抑制するどころか、東京都を支持してそれを全国に広げると、国会で答弁しています。これらの重大なことが隠すべき爪と意識されないでおおっぴらに公言できる、というのが残念ながら今日の世論の状況です。露骨な靖国史観は隠すけれども、それで意外に穏健かなと思わせておいて、当面は教育基本法の改悪、さらには憲法改悪への道を着実に清めるという実を取ろうとしているのでしょう。もっとも、安倍首相は能あるタカではなく、財界と米国の忠実な番頭として管理され抑制されているだけだという見方もあるでしょうが…。いずれにせよ油断することなく警戒することが必要です。

 北朝鮮の核実験に際して世論の雪崩的右傾化を防ぐためには、平和勢力・革新勢力の言説が説得力あるものでなければなりません。現状と展望を区別すること、つまり現時点において日本人民の生命を守っているものが何かということと、今後の平和の展望とを区別することが必要です。それは現実認識とそれに対する価値判断とを区別するということでもあります。私たちの言説には、将来展望や価値判断の観点を現状認識にまぎれ込ませることで現実の厳しさを直視できず、世論から甘いとか単なる理想主義だとか見られる傾向があるのではないでしょうか。そのような状態で現在の世論の支持を得られなければ9条の理想を実現するという将来展望は絵に描いた餅になってしまいます。ここでは抽象的な言い方になりましたが、もう少し考えてよければ具体的に表現したいと思います。
                                 2006年10月21日




2006年12月号

 教育基本法の改定問題が厳しい局面を迎えています。これは性格的には憲法改定問題とも共通して、新自由主義的かつ国家主義的な全面的攻撃となっています。憲法・教育基本法への攻撃に対する捉え方としては、かつては戦前回帰のような復古的・国家主義的性格が強調されてきましたが、近年では新自由主義的性格が注目されるようになっています。この両面性について、たとえば佐貫浩氏は「愛国心とグローバリズム」という問題設定で論じています(『前衛』2006年7月号、「教育基本法は『愛国心』をどう考えているのか」)。本誌12月号の二宮厚美氏の「新自由主義的国家改造のもとでの現代公共性の変質」と岩佐茂氏の読書ノート「吉田傑俊『市民社会論』を読む」もまた関連した論稿となっているように思います。以下ではそれらに刺激されつつもずいぶん単純化した図式的な私見を大ざっぱに述べるに過ぎませんが…。

 二宮論文では、自由主義が三世代に分析されています。第一世代の古典的自由主義、第二世代の19世紀型新自由主義、第三世代の現代新自由主義となります。これらは市場原理と資本原理の関連から説明されています。そして現代新自由主義は「資本の帝国」として特徴づけられます。「資本の帝国」が進めるグローバリゼーションは決して国家の消滅に至るのではなく、逆に国内外での市場化への抵抗勢力を撃破すべき軍事的・権力的な「資本の国家」を必要とします。結局第三世代の新自由主義は、福祉国家の起源となった第二世代の新自由主義だけでなく、第一世代の古典的自由主義の生み出した市民国家的公共圏をも破壊することになります。ここでは今日の国家主義的攻撃も新自由主義の一環として説明されていると言えます。重要なのは市場原理と資本原理との関連という観点であり、新自由主義の理解において、市場原理主義という側面よりも「資本の帝国」という点が押し出されていることが注目されます。

 経済的土台は、市場あるいは共同体関係というヨコの関係と階級関係(搾取あるいは非搾取関係)というタテの関係とから成ります(注)。前者に支えられて、後者において直接的生産過程が成立し人々はそこからの所得で生活が可能となります(階級社会の場合は、多くの人々は自己労働に基づいて、残りの少数者は他人労働の搾取に基づいて所得を獲得します)。したがって経済の中心にあるのは後者の階級関係です。岩佐茂氏の読書ノートにおいて、吉田傑俊氏が市民社会史観と階級社会史観との関係を問題にしていることが紹介されています。市民社会という言葉は非常に多義的に使用され、土台から上部構造まで様々なものを指す場合があります。そして様々な問題意識に基づいて使い分けられ膨大な研究が行われてきました。岩佐氏の読書ノートからは、吉田氏の著書がかなり総合的な研究であることがうかがえます。そのような中で貧しい私見を述べるのも躊躇されるのですが、市民社会史観と階級社会史観とは、とりあえずは、経済的構造(共時的なもの)におけるヨコの関係とタテの関係とをそれぞれに歴史(通時的なもの)に適用したものと捉えることができるのではないかと思います。そして階級関係を基軸に捉えるべきではないか、と。「粗雑な階級一元論」への反省から市民社会論が登場し、社会や歴史に対する多様な見方を提供してきたという、社会科学上の成果を考えると、私見は後ろ向きに思えるかもしれません。しかし新自由主義をめぐって、「市場主義」次元での議論が多くなり、搾取論を中心にすえた理論的展開が遅れている、という印象を持っているので私としてはあえて階級を強調しています(資本主義経済においては搾取関係も自由=平等な市場関係として現象するという「領有法則の転回」も考慮すべきです)。流行の格差論は自己責任の競争論である以前に搾取論・階級論であるべきでしょう。

 新自由主義は多国籍企業のグローバルな資本蓄積=搾取強化の要請によって展開しているものです。それは一方では市場原理主義として非市場地域や公的領域にも市場を拡張し、従来からの市場では弱肉強食を徹底しています。しかし他方では生存権を否認する「資本の帝国」としての新自由主義は抵抗勢力を抑圧するため、市民的政治的自由をも侵害する傾向を持ちます。近代の市場が育んできた古典的自由主義が危機に陥っているのです。これを抽象的にいいかえれば、経済構造におけるタテの関係がヨコの関係を利用したり抑圧したりする関係が新自由主義にも貫徹していることになります。ブッシュが何よりも愛し世界に広げようという「自由」は資本の自由であり、市場の自由はその手段となる限り推進し、人間の自由はその結果としてどうとでもなるのであり、最悪の場合はイラク人民のように生存の自由を奪われます。

 憲法・教育基本法への攻撃はブルジョア民主主義のイロハもわきまえない勢力によって行われています。それは現象的には無教養な世襲政治家たちの復古的願望とも受け取れるのですが、二宮論文を適用すれば、古典的自由主義をも破壊する新自由主義の現われと言えます。もちろん政治やイデオロギーなど上部構造の問題は独自の解明を要するので、一概にすべてを経済的土台の観点から新自由主義のせいにするわけにはいきませんが、彼らの策動の客観的位置付けとしてはそのようなものかと思われます。

 ついでながら平和の問題に関して。古典的自由主義の時代にカントの「永遠平和のために」が現れ、今日もなお平和論の古典の地位を占めています。近代的市場経済の勃興は自由・平等とともに平和な経済活動を希求する独立した主体を形成したのでしょう。封建的秩序を脱し、支配者や強い者の恣意によって左右されない客観的なルールによる商品取引秩序が形成されることで、近代市民法を生み出す土壌ができてきます。この人間精神の新しい息吹の時代に、常備軍の全廃を含む平和論が現れたことが重要です。近代市民法原理は普遍性を有し、時代を越えた自由・平等の原理となりうるのですが、逆に資本主義的搾取と固く結び付いたときには搾取を覆い隠すイチジクの葉ともなります。日本国憲法9条の源泉の一つとしておそらく古典的自由主義の時代の平和論をもあげることができるのであり、9条は近代市民法原理の最良の部分の精華と言えましょう。そのように考えると、生まれ出たときからいじめられ続けてきた9条を守り発展させることは、傷つけられた近代市民法の普遍性を実現していく活動の一環だと言えます。今日における近代市民法の普遍性の実現は、搾取に規制を加え自由・平等を実質化していくことです。新自由主義との闘いはそういう意義を持っており、古典的自由主義の継承発展です。新自由主義は近代市場経済が開いた人間の自由を資本の自由に換骨奪胎して「継承」したのであり、私たちは人間の自由を継承するために資本の自由に規制を加えるのです。

 もちろん平和の問題は搾取の問題に解消されるわけではなく、それは高度な独自性を持っています。ただ古典的自由主義の継承発展と新自由主義批判という点においては似ていると言えます。

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(注)『資本論』の体系性からいえば、商品=貨幣関係と資本=賃労働関係という資本主義経済での論理次元の相違として捉えられるものを、歴史貫通的に適用して、社会的な経済体制におけるヨコの関係とタテの関係という幼稚な言葉で表現しています。ヨコとタテの組み合わせとして4つの抽象的型が考えられます。市場=搾取、市場=非搾取、共同体=搾取、共同体=非搾取。実際にはそれぞれグレーゾーンや混在型がありえます。生産力と生産関係の観点から捉えられた諸社会構成体はそれぞれこの4つの型のどれかに当てはめられ、それによって市民社会史観と階級社会史観の交点に置くことができます。

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                                 2006年11月20日

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