この文章は2009年9月29日に書いたものです |
2009年総選挙における民意の動向
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要約
日本では長らく政治不信が続いているが、その根本的原因は民意を無視する政治が行なわれてきたことにある。この政治は、小選挙区制・企業団体献金・政党助成金という「民意無視3点セット」によって支えられてきた。しかし2009年総選挙では人々の長年の不満が爆発し政権交代が実現したことでいくらか民意実現の可能性が出てきた。
この政権交代は、新自由主義的構造改革がもたらした生活・労働破壊への反発として起こり、対米従属・財界奉仕を本質とする自民党政治そのものの崩壊過程を表現している。しかしこのことは十分に自覚されているわけではないので、とりあえずは自民党政権の退場が求められ、民主党という保守政党に人々は政権を託した。ここには二大政党制神話の呪縛がある。一般に、小選挙区制・二大政党制・政権交代は三位一体的に捉えられているが、そのような政権交代は社会進歩を否定するガス抜きにすぎない。小選挙区制・二大政党制とセットでない政権交代を捉える必要がある。
民主党の308議席は小選挙区制によるバブル議席であり、民意の動向を知るためには比例区の得票率を見るべきである。前回総選挙は「小泉劇場」として、今回は「政権交代」選挙としてマスコミで喧伝されたが、それぞれ圧勝した前回自民党と今回民主党の比例区得票率はともに4割前後にすぎない。有権者は意外に冷静である。しかも社会進歩の観点から見れば「小泉劇場」は逆風に過ぎないが、「政権交代」選挙はいくらか順風といえる。普通に思われているよりも人々は自主的に判断し着実に前進している。小選挙区制は廃止すべきだが、その以前にもこの人々を信頼して理念と政策を語り政治変革に接近する可能性はある。
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<1>政治不信の本質
わが国では長らく政治不信が続き、政治家への人民の評価は低く、二大政党などが議員定数削減を公約するのが人気取りになる、という体たらくになっている。一向に政治家の汚職の減らないところに政治不信の直接の原因があるけれども、民意を無視した政治が続き、国会がさながら悪法製造マシーンと化しているのが根本的原因である。さらにその根源を探れば、そもそも資本主義社会における政治は階級闘争の舞台であって、そこでの体制的政治は階級支配の道具である、というところに行き着く。だから民意を無視して人民の利益にならない政治が行なわれるのはむしろ当然だともいえる。しかし民主主義的政治体制をとっている以上は、この体制的政治といえども人民の同意に基づいて行なわれるという建て前になっている。ここには内容的には階級支配だが、形式的には民主主義(民主主義とは本来「人民の権力」と言う意味である)という矛盾が存在する。
もっとも階級支配のあり方そのものには様々なものがあって、変遷もある。高度経済成長時代には、所得再分配の余地が大きいなど、様々な政治経済上の矛盾を経済成長で買い取る余裕が大きかった。飴とムチの時代である。しかし低成長下、売り上げ増よりもコスト削減で利潤を確保する企業行動の時代に、政策的には飴なしのムチとなった。もちろんこの時代にこそ政府のイニシアティヴによる所得再分配の意義はかえって大きいのだが、強欲の新自由主義の資本蓄積様式に同調する政府は逆に再分配機能を縮小させた。ここに政府の政策と人民の利益との矛盾が拡大し、人民の同意という民主主義的形式を保持しながら階級支配を続けることが以前より困難になった。経済原理からいえば、かつては労働力の価値に値する賃金が一般的だったが、今日の非正規雇用などのワーキングプアの賃金は明らかに労働力の価値以下になっている。こうして出生率が下がり、毎年3万人以上が自殺する社会、つまり多くの人々が生き難い社会を作り出した政府の政策に同意する人々は減り続けた。貧困と格差が拡大する中で、民主政治の建て前に隠れた階級支配が露呈され始めたのである。
蛇足ながら、もちろん政治とはすべて階級闘争だというのではない。医療や福祉をどう充実していくのか、子育て支援・中小企業の振興・農業の再建をどうするかなど、その他どれをとっても立場を超えた共通の問題性や困難さは当然含んでいる。しかしそこには政治経済に対する財界・大企業支配によって、人民の生活と労働が圧迫されているという本質的問題があり、ここを突破しなければ前進はない。初めから超階級的視点で考えれば、諸困難を人民全般で分かち合うのが責任ある対応だ、という凡庸で実は偏向した結論に至るのは当然である。そこでは、人民に向かって「痛みに耐えよ」という小泉元首相の言明を歓迎し、あれほど露骨な階級支配の政治をあたかも新時代を切り開く責任ある政治姿勢であるかのように描いた、当時の論調が成立してしまうのだ。
内容と形式との矛盾は、そのときどきの力関係に応じて様々な過渡的妥協的統一形態を生み出す。議院内閣制においては民主的選挙を通じて選ばれた国会議員が内閣総理大臣(首相)を選出し、首相が組閣して政府を構成する。だからそこで行なわれる行政は民意に基づいているという民主的形式が成立している。首相や政府は合法的であるのみならず民主政治における正当性を保持している。この権力の合法性や正当性は決定的に重要であるが、その建て前を残したままで(というか単なる建て前にしてしまう、というべきか)階級支配という内実はこの民主的形式を巧妙に多角的に浸食してしまう。
この形式の核心は民主的選挙にある。ところが現代日本においては、その選挙制度(小選挙区比例代表並立制)が実質的にきわめて非民主的であり、また選挙を闘う主体である政党の資金が主に企業団体献金と(国庫からの)政党助成金とから成っている。これら小選挙区制・企業団体献金・政党助成金は「民意無視3点セット」と呼ぶべきもので、民主政治を形骸化させ、階級支配を貫徹する舞台装置であり、「改革を断行する」(政府やマスコミは「民意無視」をしばしばそう表現する)ことを可能とする。残念ながら現代日本においては、階級支配という内容と民主政治という形式とは、「民意無視3点セット」を通じて前者優位の下に過渡的妥協的に統一されており、日本国憲法の「国民主権」原則は内実をともなわなず単なる建て前に空洞化している。
「民意無視3点セット」の中核は小選挙区制である。たとえば世論調査では、消費税増税や憲法9条改悪には反対が多いが、国会内の議席配置は圧倒的に増税=改憲勢力で占められている。ここには、有権者の多くが必ずしも重要な政策を考慮せずに投票することがある、という事情もあるが、決定的なのは、小選挙区制によって増税=改憲勢力の二大政党しか当選できなくなっているということである。一時が万事で様々な政策課題についても、民意による反対の多い法案が国会では可決されることが続いている。これでは政治不信にならないほうがおかしい。なお選挙制度については後にも詳しく触れたい。
企業団体献金は要するに企業団体による政治買収であり、これを受けた政党が、献金をくれる企業団体を民意よりも重視するのは当然である。まさに現在の日本政治はその露骨な姿をさらして財界の言いなりになっている。企業団体献金が合法であることは日本の民主主義の形骸化の象徴である。
政党助成金を受ければ、人民の中に入って政策を語り支持を依頼して個人献金を集めることをしなくなる。民主党と自民党はあれほど「官から民へ」を喧伝し、人民に向かっては自己責任を強調していたのに、自分たちは個人献金を集める努力を怠って今や財政的には国営政党と化している。ここには民の声を聞くインセンティヴはない。
二大政党は「民意無視3点セット」に保護されて存立している(弱者ではなく強者を「保護」している!もっとも第二党になると小選挙区制では損する場合もあるが)ので、その政権は構造改革を断行できる。それは人民の利益を害して大資本体制を守る「責任ある」政策の実行である。しかし2009年総選挙において民意無視の継続によって鬱積された不満はついに爆発し、階級支配という内容を民主的選挙という形式が抑制しうる局面を切り開いた。この内容と形式との過渡的妥協的統一形態、内容優位による従来型のそれが崩れ始めたのである。
<2>政権交代の意味
2009年総選挙による政権交代は深い意義をもっている。保守二大政党の中での政権移動に過ぎないと考えればたいした意義はないが、自公政権の悪政への批判と変革への期待とが民主党に集中した結果だという意味では、民主党の本質的体質を超えた変革的意義があるといえる。対米従属の国家独占資本主義体制を担う自公政権が行なった新自由主義的構造改革は、人民の生活と労働を破壊し社会は荒廃した。これへの批判をうまく吸収しえた民主党が政権を奪取したのである。だから「財界中心」、「日米軍事同盟中心」という「二つの政治悪」を特徴とする自民党政治そのものが、もはや通用しなくなり、その崩壊過程が始まった、という日本共産党の評価は核心を衝くものである。かつて自民党と構造改革を競っていた民主党は基本的には「二つの政治悪」の枠内にある保守政党であるが、政権交代に向けて自公政権の失敗を糾弾するために「国民生活第一」を掲げて、スローガン的には新自由主義から変身し、ばらまき政策を多く掲げた。そこで一部には民主党を社会民主主義に擬する向きもあるが、日米FTA締結の主張に現れているように本質的には新自由主義的構造改革を脱したとはいえない。しかしともあれこれから財界とアメリカ政府とから加えられる掣肘に対して、民主党政権が人民の監視や共産党の動きをにらみながらどう対応するのか予断は許さない。
日本の政治変革における今回の総選挙の意義は、民主党政権の今後の動向に左右される部分も大きいけれども、この世界的意義については今のところ以下のことが言いうるのではないか。
一つには、2008/09年世界恐慌の結果として、資本主義世界第一位と第二位の大国の政権が崩壊したということである。日米両国人民の実際の意識動向はともあれ、客観的には資本主義の危機を反映した政権交代であることは間違いないだろう。世界史的な変革の節目となる可能性もはらんでいる。
二つ目には、新自由主義的構造改革の徹底とその破綻の世界的典型という意義である。この限りでは中南米の変革と同様である。対比されるのは西欧と東アジアである。この両地域では必ずしも新自由主義的構造改革は徹底されなかった。西欧ではもともと福祉国家があり、新自由主義的グローバリゼーションによる攻撃によってかなり傷ついたけれども福祉国家の屋台骨が崩れたわけではない。たとえば非正規雇用の比率は低く、手厚い失業給付などは残っており、日本のような「派遣村」が出現する余地はない。
ASEAN加盟国など東南アジアを含む東アジア諸国はいわゆる開発独裁であった国が多い。東アジア諸国は対外的にはグローバリゼーションに乗って外資導入や輸出政策で工業化を成し遂げたけれども、国内的には新自由主義的というよりは政府が主導する経済成長政策によっていた。もちろん金融自由化など新自由主義的政策も採っており、民主化の動きもあって開発独裁は徐々に消滅しつつある。しかし必ずしも新自由主義的政策が徹底されるのではなく貧困層にも配慮した政策が採られている国々もある。この点では1997年のアジア通貨危機の教訓が大きい。アメリカの要求に追随した無防備な金融自由化が危機を拡大し、逆に金融鎖国と揶揄されながらも自主的政策を貫いたマレーシアの相対的成功によって、この地域では新自由主義への警戒感が定着した。日本のような対米従属一辺倒ではなく、ASEANを中心に政治・外交・経済において独自の地域形成に動いている。
だから西欧と東アジアではこれまでも基本的にはゆっくりした政治変動が続き、今回の世界恐慌を受けても激変が起きたわけではない。日米の政変の大きさは注目すべきだろう。以上に対比しても中南米は特筆すべきである。いわばもう一つの9.11、1973年9月11日のチリ・クーデターでアジェンデ左翼政権を打倒した後、ピノチェト軍事独裁政権は新自由主義の首領ミルトン・フリードマンの弟子たち(シカゴ・ボーイズ)を経済顧問に迎えて強権を背景に構造改革を強行した。これを号砲として中南米では早くから各国でまさに新自由主義の様々な実験が試行された。その結果、格差・貧困は激化し、国民経済は疲弊した。1998年にチャベスがベネズエラの大統領に当選し革命が始まると、大国ブラジルとアルゼンチンでも中道左派政権が成立し(2003年)、その他にもボリビア、エクアドルに左翼政権が成立し、こうした波は中南米全体に及び、さながら反新自由主義の大陸の様相を呈している。
新自由主義政策の破綻による政変という意味では日本も中南米と同じだが、矛盾の深さが違うのか、左翼政党が抑え込まれているせいか、日本では反新自由主義・反構造改革という明確な意識によるものではない。二大政党が前提とされ、生活=労働破壊の根本原因が十分に認識されない下で保守の民主党に政権交代した。生活=労働破壊をやめさせたいがために政権交代させたが根本的解決にならない選択をしたといえる。しかしそのことは有権者はわかっており、民主党の政策に期待しているわけではないが、とにかく自公政権をやめさせる当面の選択をした。問題はその変革の意識が共産党支持までには行かないことにある。そこには多くの問題点があるが、二大政党制神話というものも大きいと思う。
<3>二大政党制神話
日本では、二大政党制が民主主義の理想であるという考えが広く流布している。二大政党の一方である政権党が失敗したら他方の野党が次の政権を担うことで安定した民主政治がずっと続くというわけである。両党には政策的に大きな違いはないとされる。これは政権や政党がどのような権力基盤にあり人民とどのような関係にあるかという政治内容を問わない形式論である。しかし現体制(日本でいえば対米従属の国家独占資本主義体制)の継続は自明の前提とされているので、この一見無内容な形式論は実は社会進歩を拒否して現体制を擁護するという重い内容を抱えている。つまり二大政党制論者が政治内容を問わないのは、現体制の継続が無意識のうちに前提され、それ以外の体制が考えられないという視野の狭さがあるからである。二大政党制は振り子であって、胴体が一方から他方に揺れても足元は一点に固定して動かない。支配体制に原因がある人民の不満に対して眼前で揺れることで足元から目をそらしガス抜きをする。肝心なのは足を上げて前進させることなのだが。
階級支配としての現体制を前提する二大政党制論は必然的に、人民にとって政治がどうあるべきかではなく、「統治のツール」として政治を見ることになる。つまり「上から見て、どうすれば内政がうまくいくかという、統治する側から見た学問」(これは片山善博元鳥取県知事が従来の地方自治論を批判した言葉だが、二大政党制論のような体制的政治学全体にあてはまる。蒲島郁夫熊本県知事との対談「知事は国とどう渡り合うべきか? 片山善博の『日本を診る』連載22拡大版」『世界』10月号所収、37ページより。この対談、我々とは立場や意見の違いは多いけれども、共感でき参考になる点も多い)より生じた考え方に陥ってしまうである。
たとえば五百旗部真防衛大学校長は、戦前戦後の政治史を概観した上で「今後に来るべきものは、小選挙区制下の二大政党による政権交代制以外にないであろう」(寄稿「歴史の中の二大政党」、「朝日」9月5日付)と結論づけている。スキャンダル暴露合戦などによる短期的な政権交代ではなく、じっくりやらせるべきだと言う。「激流の現代政治であるから、格別に有能でなければ2年ほどで政権政党は限界をきたすであろう。政権の収穫逓減を野党の側は待ち、満を持して自らの政治を展開するサイクルを形成せねばならない」(同前)。「政権の収穫逓減」などという用語臭も含めて誠に統治技術論的で「激流の現代政治」の中身をまったく理解していないように思える。<「財界中心」、「日米軍事同盟中心」という「二つの政治悪」を特徴とする自民党政治そのものが、もはや通用しなくなり、その崩壊過程が始まった>という日本共産党の総選挙評の迫真性に比べてまったく形式的空虚さが際立っている。しかし注意すべきは、一般世論の認識は圧倒的に五百旗部派であり、共産党の認識は客観的には的を得ているけれども、多くの人々にとっては思いもよらぬことだという事実だろう。総選挙直後(8月31日、9月1日)の世論調査では、自民党について、民主党に対抗する政党として「立ち直ってほしい」が76%であり、「そうは思わない」は17%しかない(「朝日」9月2日付)。自民党の悪政そのものが政権交代をよぎなくさせたにもかかわらず、二大政党制神話はなお健在である。今回の政権交代をもたらした人々の投票行動の客観的根拠とその歴史的意義を我々は認識できるけれども、それだけでなく当の人々にとってそれを無意識ではなく自覚的なものに転化することができて初めて実際に歴史をさらに進ませることができるだろう。
言うまでもないことだが、五百旗部氏は日米同盟を重視する。それもインド洋の給油活動を絶賛するほどの徹底した現状容認である(日米同盟支持とはいってもそこには様々な程度があると思うのだが。対米従属にある程度批判的な寺島実郎氏などとは大きく違っている)。オバマ政権との関係については「環境と新エネルギーをめぐって世界大の協力関係」(同前)は言うけれども、最重要な「核兵器廃絶」には触れない。体制的政治学の技術的形式的空虚さの前提には、決して動かないという意味での牢固とした形而上学的内容が詰まっているといえる。
五百旗部氏の「小選挙区制下の二大政党による政権交代制」はきわめて的確な表現である。このように「小選挙区制」「二大政党制」「政権交代」は一般には何の疑問もなく、三位一体として捉えられている。五百旗部氏のみならずマスコミその他でも今回の政権交代は小選挙区制のおかげであるかのように語られている。実は是非とも専門家にこれまでの総選挙結果における得票率・議席の変遷を選挙制度との関係で深く分析してほしいところだけれども、ここでは大ざっぱなことだけを言いたい。
政権交代を決するのは本来民意そのものであって制度ではない。小選挙区制がなすことは、民意の変化を過大に議席に変換し、選挙結果を「劇的」にすることだけである。これは第1党に実力(得票率)以上の議席を不当にプレゼントすることで行なわれる。今日の日本では過半数を得票するような政党はなく、本来ならば多党制による連立政権が正常な姿である。ところが二大政党制論では、単独政党による「安定した政権」が理想とされる。そのため小政党には得票率に応じた議席を与えないことが当然とされ、このような民意無視を「民意の集約」と称している。二大政党制による安定政権とはまさに民意実現よりも「統治のツール」としての政権である。だから「小選挙区制」「二大政党制」「政権交代」という三位一体の中で捉えられた「政権交代」は社会進歩のためのそれではなく、体制維持のためのガス抜きの手段としてのそれである。逆にいえば我々は、「政権交代」を「小選挙区制」「二大政党制」とは切り離して民主主義政治一般の中で捉えて、その進歩的意義を打ち出していく必要があるだろう。今回の政権交代を三位一体の中に押し留めてしまうのか、それとも自民党政治の「二つの政治悪」を打破する第一歩として社会進歩の方向に進めるのかは今後の闘いにかかっている。
この三位一体の理想例としてイギリスとアメリカがあげられる。しかし両国は21世紀になっても世界の大勢に逆らってイラク侵略戦争を強行しており、これだけでもこの三位一体がいかに間違っているかははっきりしている。イギリスにおいては「左」であるはずの労働党の政権が戦争を始めて、保守党も支持していたのだから、この二大政党制はまさに不毛の選択の醜態をさらしてしまった。対してアメリカではイラク戦争反対の民主党オバマ大統領が出現し、核兵器廃絶を打ち出すなど今日では前進的な変化が見られる。しかしこれは三位一体擁護論を救わない。もしアメリカにもともと小選挙区制と二大政党制がなければ、たとえばラルフ・ネーダーのようなオバマよりも進歩的な政治家が早くから影響力を大きくすることができただろう。そうすれば21世紀に入ってさえもブッシュのような最低の大統領が登場することはなかっただろう。三位一体の「成果」であるブッシュ政権が余りにひどかったのでやっとオバマが登場できたということだ。人民の立場からすれば三位一体はこのように酷評できる。しかし政治は「統治のツール」だという立場からすれば、この三位一体は侵略戦争も強権政治も可能とする理想形なのである。
<4>政治意識としての民意の形成と反映
政治意識としての民意はどのように形成されるのか。土台は資本主義的生産関係によって規定された生活と労働の現実である。しかしもちろん労働者階級であるから共産党を支持するというようなストレートな反映はほとんどない。家庭生活・地域社会・職場のあり方、あるいは教育やマスコミの影響、さらには選挙制度からも影響を受け、そこで各政党などによる普段からの政治活動ならびに選挙活動を通して、政党支持や投票行動へと至る。
たとえば今日の学校における社会科教育はテスト目当ての「暗記科目」とされているので細かいことは色々と詰め込まれるが肝心なことは抜けている。歴史をその核心において学ぶことができれば、普通選挙権というものを獲得するのに人類がいかに大きな努力と犠牲をはらったが腹に落ちるしその偉大な価値を理解するだろう。そうして今日を生きる人々は熟慮して投票に臨むはずだが、現実には多くの選挙で投票率は低く、人気投票のようになっている場合も多い。これはまさに社会科教育の敗北である。その他にも生活と労働の現実から政治意識に至る様々な過程について、今日の日本の実情に応じた政治社会学的な総合分析が必要だろうが、私にはとても無理なので、以下ではその中から選挙制度について考えてみたい。
民意がどのように形成されるのか、に続いては、形成された民意がどのように政治に反映されるか、特に選挙での議席に反映されるかが問題となる。ここで決定的なのが選挙制度である。また上でも触れたが、逆に選挙制度は民意の形成の一要因でもある。ということで、特に今回の選挙結果について選挙制度の観点から若干の分析をしてみたい。
<5>選挙制度の問題点と民意
(1) 小選挙区制が民意を歪めることの意味
今回の総選挙で小選挙区の投票総数7058万票のうち、当選者以外に投じられた票は3270万票で、「死票」率は46.3%にもなる。全国300小選挙区のうち87選挙区では「死票」率が50%超となっている。このように民意を切り捨てる小選挙区が300議席を占め、比較的に民意を反映する比例区は180議席しかないので、現行の小選挙区比例代表並立制は全体としては非常に非民主的な選挙制度である。
小選挙区制は民意を歪めると言われるが、そこには二重の意味があることに注意すべきだ。一つには「死票」が多いことに現れているように、民意が議席に正しく反映しない、ということである。民意がまっすぐにではなく、歪んで議席に反映する、つまり民意の議席への反映の仕方が歪んでいるということである。
それだけでなくもう一つ、小選挙区制によって民意そのものが歪むという効果がある。「死票」を回避するために、本当に支持する党ではなく当選しそうな党に入れるということが多くなる。それどころか今回の総選挙の場合、前回、全選挙区に立候補した共産党が大幅に候補者をしぼり込んだため、小選挙区で同党支持者の投票先がなくなるという事態が各地で発生した。彼らは白票か多くの場合民主党などに投票した。本意の投票だろうと不本意の投票だろうとも結果としては同じ一票である。このような投票行動の結果で当選者は決まり、各党の議席数も決まる。こうして選挙結果が確定すると、次回選挙ではこの議席数を実績として参考にしつつ有権者は投票するので、ますます政策よりも当選可能性を考慮するようになる。大きい党はより大きく、小さい党はより小さく、選挙をするたびに格差が拡大する傾向が生じる。こうして政党を支持する基準の変質が起こる。政策ではなく当選しそうな党を選んで投票しているうちに支持政党そのものが変わってしまうことがある。「共産党はいいこと言うが力がない」というような声が多く聞かれる。したがって「中選挙区制では同じ党内での争いで政策本位の選挙にならないが、小選挙区制によって各党が激突し政策本位の選挙になる」と喧伝されたのは大ウソであり、初めから小政党は政策本位の選挙から排除されている。本当の政策的争点は二大政党の間ではなく、二大政党と小政党との間にあるのだから、小選挙区制によって固定化された二大政党制によっては政策論争は実質的には死んでしまうと言うべきであろう。
さらに現行の小選挙区比例代表並立制は小選挙区制が中心なので、小選挙区で当選する党が一人前であって、それ以外は添えもの、という意識が強くなる。これは比例区での投票行動にも影響しうる。実際今回の総選挙では、勢い・風向きが圧倒的に民主党寄りだったせいもあるが、共産党支持者の12%程度が比例区で民主党に投票したという調査推計もある。
こうして小選挙区制は二重の意味で民意を歪め、小政党を実質的に排除して、大政党に不当に過大な議席を与えている。弱者を切り捨てるのみならず(というか、そのことによって)、あろうことか強者を保護助長しているのである。しかもそれは、民主政治で最大限尊重されるべき民意を踏みにじる、という最も忌むべき行為の結果である。さらに付け加えれば通常言われるような「少数意見の排除」に留まるものではなく、半数近い意見が排除されているのである(小選挙区の「死票」率46.3%)。マスコミや多くの研究者が小選挙区制を支持しているが、彼らに民主主義を論じる資格はない。
(2)有権者の投票行動
それではこのように民主主義を破壊する劣悪な選挙制度の下で、日本の有権者はどのような投票行動をとっただろうか。そこから民意の動向を探りたい。結論を先取りして言うと、通常思われているほど軽薄ではなく比較的堅実である。
今回総選挙での民主党の308議席は小選挙区制によるバブル議席であり、それを独り歩きさせずにその意味を吟味する必要がある。各政党の実力は、民意を比較的よく反映する比例区の得票率で測るのが最も適当だろう。前回(2005年)と今回の総選挙結果について、比例区の得票率を軸にした表を作ってみた。比例区の得票率とそれに応じて按分した想定議席をまず見て、それに対して現実議席とその占有率を比べると、民意がいかに議席に反映されず歪められたかがわかる。それのみならず民意のあり方そのものに迫れる。
2009年総選挙 2005年総選挙
|
A(%) |
B |
C |
D(%) |
A(%) |
B |
C |
D(%) |
|
民主党 |
42.4 |
204 |
308 |
64.2 |
31.0 |
149 |
113 |
23.5 |
|
自民党 |
26.7 |
128 |
119 |
24.8 |
38.2 |
183 |
296 |
61.7 |
|
公明党 |
11.5 |
55 |
21 |
4.4 |
13.3 |
64 |
31 |
6.5 |
|
共産党 |
7.0 |
34 |
9 |
1.9 |
7.3 |
35 |
9 |
1.9 |
|
社民党 |
4.3 |
21 |
7 |
1.5 |
5.5 |
26 |
7 |
1.5 |
|
みんなの党 |
4.3 |
21 |
5 |
1.0 |
- |
- |
- |
- |
|
国民新党 |
1.7 |
8 |
3 |
0.6 |
1.7 |
8 |
4 |
0.8 |
|
新党日本 |
0.8 |
4 |
1 |
0.2 |
2.4 |
12 |
1 |
0.2 |
|
諸派・無所属 |
1.4 |
7 |
7 |
1.5 |
0.6 |
3 |
19 |
4.0 |
|
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|
|
|
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A.比例区得票率 |
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B.Aによる按分議席(四捨五入) |
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C.現実議席 |
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D.議席占有率 |
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確かに今回の選挙で、民主党に風が吹いて共産党には吹かなかったが、風におびえて無力感に陥る必要はない。風速を見誤らないようにすることが必要である。現実議席では民主党対共産党は308議席対9議席だが、民意を反映した実力(比例区得票率による按分議席)では204議席対34議席となるはずである。
前回は「小泉劇場」、今回は「政権交代」がマスコミで喧伝され、前回は自民党が、今回は民主党が三百議席を得た。これを見て「しょせん有権者はマスコミに踊らされるばかりで今回は前回の裏返しの現象に過ぎない。政策で自主的に判断する選挙にはなっていない」という「醒めた」見方もあるだろう。しかしこれは正しくない。議席でなく比例区得票率で見ると、前回の自民党は38.2%、今回の民主党も42.4%となる。「小泉劇場」や「政権交代」に踊ったのは四割前後に過ぎない。残りの六割前後は独自に多様な選択を示した。投票者は意外に冷静だ。前回も今回も、6割強の議席を占めた第一党(前回:自民党、今回:民主党)は比例区では4割前後の得票しか取れず、逆に議席が4割弱しかない他党派は6割前後の比例区得票を取っているのである。
ただしこれは人々が「風」に対してどれだけ影響されずに自分自身で判断しているか、ということを表わしているだけだ。それは民主主義にとっては非常に大切なことだが、それだけでは社会進歩の観点からの評価はできない。「風」と「判断」の中身が問題となるだろう。たとえば今回自民党に投票した人は「風」に乗らなかったという意味では自立した判断を示したといえるが、崩れ行く自民党政権に固執したという意味では反動的な判断をしたことになる。前回「小泉劇場」の「風」は社会進歩の観点からは明らかに「逆風」だった。しかし今回の「風」は政権交代による変革の可能性を開いたという意味ではやや「順風」ともいえる。もちろん民主党は対米従属の国家独占資本主義体制の枠内の政党だから「順風」全開とはいかないが。で、今回民主党に投票した人は、「風」に乗ったお調子者であるかもしれず(もちろんそれなりの信念をもっている場合もあるが)、共産党に投票するほどの確固とした変革志向はないとはいえ、自民党政治の悪政を終わらせたいという意志はしっかり表明したといえる。
そこで次に「風」への態度ではなく、自民党政治を続けるかやめさせるか、という観点で比例区得票率を見る。すると自民党と公明党との合計得票率とそれ以外の合計得票率は、前回は51.5%対48.5%、今回は38.2%対61.8%となる。自公政権への評価がいわばプラス3.0%からマイナス23.6%へと大きく落ち込んだともいえる。
だから前回から今回の総選挙へと全体を大ざっぱに見渡していえば、一方では、人々は普通に考えられているより自立した判断を保持しており、他方では、判断のベクトルも社会進歩の方向に向いている、と評価できる。結論としては、劣悪な選挙制度とマスコミ状況の中でも政治変革の理念と政策が浸透しうる人民的基盤は存在しているといえる。
次に「小選挙区制のオセロ」を見てみたい。民主党と自民党の得票率合計は2005年が69.2%で、2009年は69.1%とほとんど変わらず、民主党が11.4ポイント増えたのに対して自民党が11.5ポイント減っている。つまり保守二大政党の支持率が7割弱で安定する中で(他の三割強とはだいたい別のところで)投票者のわずか1割強程度の変化によって、三百議席が一方から他方へ移動したのである。これは民意を歪める小選挙区制による政治の博打化である。これでは「民主的」選挙によって「一党独裁」が実現しかねないだろう。
(3)政治意識(民意)と議席における本質と現象
以下では改めて比例区得票率を軸にした選挙結果分析の意義を確認したい。選挙結果が出ると、議席占有率に応じて民意を推し量るという錯覚が生じる。民主党308議席となれば6割以上の人々が民主党に投票したかのように思える。自民党三百議席が民主党三百議席に転換した現象から民意にも激変が起きたように見える。これを基にマスコミでは様々な「識者」が民意をあれこれと忖度し解説してみせる。これでは「死票」とともに複雑な民意も切り捨てられ、錯覚が「学問」化してしまう。思想状況の「小選挙区制化」とでも言えようか。
しかし上述のように実際には民意の変化はそれほど大きくはない。民意を本質、議席を現象とすれば、両者を媒介する選挙制度の歪みによって、本質の小さな変化は誇張されて現象の大きな変化を生み出す。確かに現象は確固たる事実であり、我々の社会認識はそこから出発する以外ないけれども、現象を無批判に取り扱ってそこからストレートに本質にさかのぼると誤る。東から出て西に沈む太陽を見て天動説を引き出すようなものである。特に歪んだ選挙制度に媒介されれば、本質としての民意は歪んだ議席数という現象に反映される。この現象は仮象と呼ぶべきものである。
ところが問題はもっと複雑である。自然現象と違って、仮象といえどもそれが本質をそのまま反映していると多くの人々に誤認されれば、そのこと自体が社会的には一つの客観的な力となる。天動説が信じられていても地球が太陽の周りを回っていることに変わりはないが、民主党が圧倒的に選挙で支持されたと錯覚されれば、同党に投票しなかった人も含めて民主党への期待が高まり、そのことは政権運営にとって追い風になるだろう。総選挙後の新政権発足時に、世論調査で支持率が高まる「ご祝儀相場」の原因の一つにこの錯覚があるのではないか(「勝ち馬に乗る」という意識もあるだろうが)。だから上記「識者」たちの誤認もそれ自身が世論を新たに作り出す効果があるかもしれない。
錯覚や誤認が自己実現する可能性があることを述べたが、もちろん本質が貫徹される側面はもっと大切である。現行の選挙制度の下で二大政党制神話が健在な中では「小選挙区制のオセロ」は逆方向にも起こりうる。保守二大政党支持者の内部で一定の寝返りが起こるだけでも三百議席が右へ左へと転がりうるのだ。現象の表面だけをながめていると、またここで大変なことが起きたと騒ぐことになるが、仕組を知っていれば大騒ぎするまでもなく、選挙制度が異常なのだという本質を認識することができる。我々は錯覚や誤認が自己実現するのを許さず、本質や真実を広く知らせる必要があるだろう。
「民意の底流」を本質とするならば、「現実の議席」は本質からかなり離れた現象であり、むしろ本質を隠し見誤らせる仮象である。この本質は「比例区の得票率」という現象に比較的よく表現される。そこから見た民意の動向の一端は上記のとおりである。我々にとって小選挙区制を廃止するのはきわめて重要な課題だが、それが実現する以前でも民意の底流そのものを見据えて、社会変革の理念と政策を広めていくことは大切なだけでなく可能な課題でもあろう。
<追伸>
拙文は総選挙の前から書き始めて、今は「政権交代後」という重要な現実に直面している。新たに政権に就いた鳩山民主党は矢継早に公約実現の姿勢を示している。自民党政権の構造改革の無惨な失敗を目のあたりにして、民主党は構造改革の党であった(ある?)ことは曖昧にして(撤回とか反省は言わずに)当面は人民へのサービスを続けようとしている。その中には明らかに共産党などとも共通する政策も多くあり、その部分については是非実現が望まれるところだが、今後、財界やアメリカ政府からの圧力が強まることが予想され先行きが大いに注目される。その過程で現体制擁護政党としての民主党の本質に何らかの変化があるかどうかも合わせて注目されるが、人民の運動と世論の動向が最も重要な要素となろう。
9月24日、鳩山首相は国連安全保障理事会の首脳会合で演説したが、以下の件(くだり)が目を引いた。
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なぜ日本は、核兵器開発の潜在能力があるにもかかわらず、非核の道を歩んできたのでしょうか。日本は核兵器による攻撃を受けた唯一の国家であります。しかし、我々は核軍拡の連鎖を断ち切る道を選びました。それこそが、唯一の被爆国として我が国が果たすべき道義的な責任だと信じたからであります。近隣の国家が核開発を進めるたびに、「日本の核保有」を疑う声が出ると言います。だがそれは、被爆国としての責任を果たすため、核を持たないのだという我々の強い意志を知らないが故の話です。私は今日、日本が非核三原則を堅持することを改めて誓います。
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日本の進歩的勢力にとっては当然の内容ではあるけれども、首相の国際公約として語られた事実に対して深い感銘を禁じ得なかった。「唯一の被爆国として」の「道義的責任」とは明らかに四月プラハでのオバマ演説の「唯一の核使用国としての道義的責任」に呼応するものであり、待ち望まれた回答であろう。最後の「非核三原則の堅持」という言明も、長年にわたって日本人民をだましてきた歴代首相の「核密約付の非核三原則」とは違って真実のものであろう。北朝鮮の脅威などを口実に、先制攻撃力の保持とか、果ては核兵器保有などの妄論がかまびすしい中で、日本の外交力の真の源泉はどこにあるのか、安全保障はいかにあるべきかについて、鳩山首相はずばり正論を述べたと評価していいと思う。対米従属の下で軍事的役割の拡大を果たすのが「国際貢献」で「責任ある対応」として日本の安全保障になる、という錯覚から脱し、憲法の理念と被爆国の立場に基づくオリジナルな平和国家としてのリーダーシップの追及こそが国際的な信頼を勝ち得、日本と世界の平和に貢献するという方向に根本的に切り替えることが望まれる。「被爆国としての責任を果たすため、核を持たないのだという我々の強い意志を知らない」のか、というのは世界に向けて見事な啖呵を切ったものだ、と感心したが、従来の日本外交はきちんとそれを知らせてこなかったのだ。ただしこうしたことを本当に追及するならば、民主党や鳩山氏が依拠し主張してきた、核の傘を含む日米同盟の強化とか憲法9条の改訂とは明らかに矛盾するであろう。
9月25日にはカザフスタンの首都アスタナで開かれた「第5回アジア政党国際会議」で志位和夫共産党委員長が「『核兵器のない世界』をめざして」と題して発言している。もちろん鳩山首相の演説とは違って一般マスコミでは無視されていたと思うがその内容はきわめて先進的である。9月24日、国連安全保障理事会で「核兵器のない世界」を目指した画期的な決議が採択された。オバマ米大統領が先導するこうした一連の流れを見ながら、志位氏は日本の原水爆禁止運動の伝統を引き継ぎ、「『核兵器のない世界』を実現するためには、核兵器廃絶そのものを正面からの主題とした国際交渉を開始することが、強く求められている」と主張した(「しんぶん赤旗」9月27日付)。部分的措置の積み重ねだけでは核兵器廃絶という目標には接近できず、核兵器廃絶そのものを正面から提起することが肝心だということを日本の運動の本流は一貫して主張してきた。さらに志位氏は、オバマ米大統領が「NPT体制の不平等性を抗議することへの理解と、核兵器廃絶への意思を語りました」(同前)と指摘している。ここには日本の運動の高い理論的到達点から見て、核兵器廃絶に至る道の現時点における前進的要素をつかもうとする鋭い洞察が見られる。
世界は何とか前進しようとしている。日本の新政権もその流れに乗れるかもしれない。それを正確に批判的に推進するには、より先を見渡せる目をもって現在を評価できなければならない。それができる政党は日本共産党の他にはないであろう。