月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2013年7月号〜10月号)。 |
2013年7月号
アベノミクスと財政再建
6月開かれたG8サミットで、日本に対しては、アベノミクスが一定評価され、財政再建が求められました。G8は今日では帝国主義連合とは言えないかもしれませんが、世界の多国籍企業の利益を反映した新自由主義連合であることは確かでしょう。この日本評価は次のことを物語っています。……日本だけでなく世界的にも、新自由主義的資本蓄積の枠内では、そういう無展望な反人民的方針しか出てこない……。だからこの点に限って言えば、日本は先進国でも例外的なルールなき資本主義だとか、ただ一つ経済成長の止まった国だ、といった日本特殊論的な常套句に関連したことではなく、先進資本主義諸国に共通した行き詰まりの中に日本もはまっている、ということを表わしています(念のため言えば、「常套句」そのものが誤っているわけではない)。
ちなみに日本維新の会の橋下徹共同代表は、年金・医療・介護分野での人民の負担増を主張し、相も変わらず「国民に痛みを求めることをきちんといわなければいけない」と演説しています(「しんぶん赤旗」6月18日付)。彼はアベノミクスについて「第1の矢、第2の矢で株価はグンとあがったが、第3の矢で株価は下がった」と指摘し、第3の矢=「成長戦略」の不十分さを克服するよう、農業や医療分野の規制緩和など、既得権益に切り込むことを主張しています(同前)。
すでに「従軍慰安婦」問題での暴言で米日支配層から見切られ、人気も凋落しつつある橋下氏ですが、支配層の意向を忖度して(というかおそらく主観的には自身の信念を貫く、とカッコつけているつもりなのだろうが、しょせんはお釈迦様の掌の上の孫悟空に過ぎない)、他の政治家が言いたがらない「痛みを求める」発言を続けています。保守反動の歴史修正主義に同調して政治的に失敗しても、彼本来のフィールドである過激な新自由主義で存在感を回復しようとしています。ただし人気がなくなっては、「人民の嫌がることを受容させるポピュリスト」という矛盾した非常に困難な役割を果たすことはできません。
とはいっても、彼の上記の演説は支配層の意向に忠実であり、したがって支配層がマスコミで人民の意識に叩き込んできたイデオロギーに乗っていることを忘れてはいけません。もし橋下氏自身が凋落しても亜流が出てくる土壌は堅固なのです。
株価によって経済政策の成否を判断する、というのは橋下氏に限らず一般的な見方ですが、これがそもそも間違っています。「第3の矢で株価は下がった」原因は、法人税減税がはっきりしていないとか、財界・大企業にとって満足のいくようなものでない、徹底していないということです。この場合、反人民的政策で株価が上がるのですから、上昇を喜んでいるわけにはいきません。実体経済の改善で株価が上がるのとは区別する必要があります。経済を見るのに株価中心主義ではダメです。さらに言えば、その前に、第3の矢=成長戦略と言えば「資本に優しく労働者に厳しい」発想しかないことを反省しなければなりません。
アベノミクスの第2の矢は公共事業のバラマキであり、財政危機を深化させるので、必然的に財政再建を求められます。そこに法人税減税を重要な要素とする第3の矢=成長戦略が合わさってきますから、結局、財政再建といえば消費税増税・社会保障削減(隠された第4・第5の毒矢)という例の条件反射が働きます。アベノミクスを評価しつつ財政再建を求めるのは、新自由主義的資本蓄積を堅持するのみならずそこに放漫財政を重ね、その二重の犠牲を人民に押し付けることです。
この無理から抜け出すには、新自由主義的資本蓄積そのものをやめるしかありません。しかし内需不振を問題視しても、「内需不振を新自由主義的蓄積の結果だととらえる論者は、それほど多いとはいえない。これが、よきにつけあしきにつけ、現代日本の経済論壇の実情で」す(二宮厚美「バブルに賭けた安倍政権とアベノミクス」、14ページ)。マスコミ報道では、実体経済での内需不振を不況の中心問題とする肝心の視点さえないので、無制限の金融緩和や放漫財政的な公共事業、そして搾取強化を核心とする成長戦略という「3本の矢」に何か期待できるかのような幻想が覆っています。ましてや新自由主義的資本蓄積を問うような視点は皆無で、成長戦略と言えば、搾取強化を中心とする国際競争力至上主義による政策しか浮かんできません。その上でアベノミクスと財政再建をどう両立させるか、というあらかじめ人民犠牲の回答しかあり得ない問題意識を振り回し、それがさも重大かのように、誤った問題提起で深刻ぶって自己陶酔しています。確かに日本経済の問題は深刻ですが、それはあくまで生活と労働の大変さをどう打開するかという視点から見るべきであり、それには新自由主義的資本蓄積を廃棄して、大企業の内部留保の国民経済的活用を中心とする内需循環型経済を作っていく方向しかありえません。
新自由主義的資本蓄積を前提とするアベノミクスと財政再建との両立がなぜ難しいかというと、不安定雇用を拡大した上に消費税増税・福祉切り捨てでは大不況が襲ってきて経済成長が頓挫し税収も落ち込むからです。またそれ以前に消費税増税・福祉切り捨てをいかに人民に「理解」させるか、という難問もあります。<大所高所に立たず、グローバリゼーションに真剣に適用しようとせず、わがままに自分の生活や営業を守ろうとする「困った者たち」>への支配層のいらだちがマスコミには充満し、「啓蒙」を強めています。それに対するきっぱりした反撃を来る参議院選挙で示す必要があります。この「啓蒙」が不当であり、展望は別にあることをどれだけ多くの人々と共有できるかが勝負のカギです。
ブラック企業の問題が急浮上してきました。これは一部企業の特殊な問題というより、国民経済全体をブラック企業化しようとする支配層の目論見(その先兵が橋下徹氏の議論)と、まともな生活と労働に立脚した国民経済を作ろうという人民的方向との対決の最前線の象徴だと言えるでしょう。多くの若者たちのやむにやまれぬ実感から提起された問題を的確に受け止め、閉塞感の中から安倍政権など新自由主義と保守反動への支持に向かう若年層に本当の対決点を提示することが必要です。こうして世代の分断を乗り越えることがアベノミクス克服など政治変革の重要な課題です。
東京都議選での日本共産党の勝利
6月23日の東京都議会議員選挙で共産党は、8議席から17議席へと躍進しました。その原因・影響、さらにそれを受けての参議院選挙の闘争方針については、27日に行なわれた「参議院選挙必勝・全国決起集会」において志位和夫共産党委員長が実に的確に報告しています(「しんぶん赤旗」28日付)。
「自共対決」を貫いての勝利が、世論と政界に大きな影響を与えることは間違いなく、その到達点の上に参議院選挙が闘われます。ただしここではこの勝利を、長年に渡る一喜一憂の一コマに終わらせることのないように、その原因について冷静に考えてみたいと思います。
昨年の総選挙で自民党は、敗れた前回総選挙より票を減らしたにもかかわらず、低投票率と小選挙区制マジックのおかげで大勝しました。だからその勝利は見かけ上に過ぎず、有権者の支持を得たとは言えないと批判されました。しかしその見せかけの勝利を土台にしてその後の安倍政権と自民党への高支持率が実現したのも事実であり、今回の都議選での自民党の圧勝につながりました。
同様の基準で今回の共産党の勝利を見ることが必要です。確かに昨年末の総選挙の比例票と比べれば前進しており、短期間で政党の力関係が激変しうることを示したのは事実です。ただし性格の違う選挙については単純に比較するのでなく、一定割り引いてみることも必要でしょう。志位氏の前記「報告」にもあるように、敗れた4年前の前回都議選と比べても、71万から62万へと減らしています。「都議選での躍進は、選挙区ごとの他党の立候補状況、政党の組み合わせ、民主党の共倒れなど、さまざまな要因もあることをリアルにみる必要があります」(同前)と指摘した志位氏は参議院選挙ではそうした要因は作用しないのだから「少しも緩みや甘さがあってはならない」(同前)と警告しています。
様々な要因があるにしても、率直に言って共産党の今回の勝利における最大要因は低投票率です。決して支持が広がった結果だとは言えません。そもそも昨年の総選挙と今回の都議選の最重要な主役は低投票率だったと言えます。2009年総選挙における民主党への政権交代が壮大な失敗に終わり、政治への失望と諦めが世論の大勢となった、この大状況を直視することなくしては何も見えません。低投票率に耐えたかどうかが各政党の明暗を分けました。
昨年の総選挙においては民主党支持崩壊の雪崩現象が共産党をも巻き込み、自民党や維新の会の躍進につながりました。その後、維新の会は自壊したので問題外ですが、この雪崩現象は都議選にも続き、自公の完勝をもたらしました。しかし今回は共産党はこの雪崩に巻き込まれることなく陣地を守ったので、上記の様々な要因の下で勝利できました。
いまだ政治への失望と諦めが大勢の下で、共産党は支持を拡大したとまでは言えないけれども、「自共対決」という正確な方針を貫き、また志位報告にあるような数々の感動的な大奮闘に支えられて「忍耐の勝利」を勝ち取ったのです。それは実体としてはかなり危うい勝利ですが、その意義はたいへんに大きく、これから確かな実体を込めていくことができます。多くの人々にとってこれまで見えなかった「自民党批判の受け皿」が確実に出現したのですから。昨年末から今まで、見せかけの総選挙勝利を土台にして、安倍・自民党バブル人気が続いてきましたが、本質的には悪政の推進という致命的欠陥を抱えています。それに対して、ある意味では共産党の今回の都議選勝利も見せかけと言わねばなりませんが、人々の利益にかなう政策を掲げている点で将来性は決定的に違います。
ところで客観的・潜在的には「自共対決」は万年正しい図式なのですが、なぜ今それが顕在化してきたかが一つの問題です。政治不信という大枠の中で、民主党への幻滅、維新の凋落、一方での自民党への幻想の継続と他方での生活の厳しさの現実があり、そこに加えて、もともと東京では共産党が反対勢力としての存在感を一定持っており議席獲得の現実的可能性があった、という事情があります。これらが作用して低投票率の下で共産党が躍進する結果となりました。ここには偶然的要素がありつつも「自共対決」という必然が貫く戦後政治の法則が現れています。今後この偶然をチャンスとして生かせるか。本来一過性の現象でないものを真に根付かせていけるかが実践的に問われています。
先ほど、政治への失望・諦め、低投票率という大勢を直視すべきだと言いました。ならば課題ははっきりしています。この大勢を変えることです。自民党型政治批判の受け皿としての共産党の存在がクローズアップされたことは、消費税増税反対・反原発・反TPP・改憲阻止など様々な課題を掲げた運動やそれに期待する人々に大きな影響を与えるでしょう。もともと世論の多数を背景にした諸運動にとって、それが国政選挙に反映しないことは大きなストレスでした。そこに風穴があく可能性が出てきたのです。ここで共産党にとっては自党の拡大だけでなく、そうした諸課題の達成のためどのように他党を初めとする政治勢力との連携や交渉をしていくかという点でのリーダーシップが求められます。
上記の大勢におけるあだ花がアベノミクスを主力とする安倍・自民党バブル人気です。人々にとって生活実感として信頼できるものではないにしろ、何となく期待したいという幻想が強く存在しています。これを突破することは喫緊の課題です。原発・憲法など重要な問題も多くあり、それらを総合的に批判してくことが必要ですが、あえて言えば、敵が強みだと思っている経済の分野で正面から闘っていくことが欠かせません。前掲の二宮厚美論文(12・13ページ)にもあるように安倍・自民党バブル政治はアベノミクスのバブル経済政策に乗った砂上の楼閣です。人々の生活実感から出発して、アベノミクスの無展望とオルタナティヴを強くアピールすることが重要です。
一喜一憂することのない政治変革の中長期的課題は、人々の意識をいかに獲得するかということです。それにはまず対米従属と財界・大企業中心主義という日本資本主義の根本問題を深く浸透させることが必要です。もちろんこれは時々の政治経済の課題に必ず現れてくるものであり、意識的に強調されていると思います。しかし多くの人々にとって、アメリカを通して世界を見、日本がアメリカに従うのは常識であり、経済と言えば大企業を中心に考える以外の発想はなかなか出てきません。それが一人ひとりの生活と労働を揺るがしていることに気づいている人も多いでしょうが、だからといってその枠組みそのものを変えるところまでは至らない場合が多いでしょう。こう考えてくると、日本資本主義の本質を把握することは、その変革の展望を獲得することと一体だとも言えます。常にこの太い軸線を見失わないことは、時々の選挙で支配層やマスコミが設定してくる恣意的な対立軸・争点そのものの誤りを暴露することにつながります。
当面資本主義の枠内での変革を目指すとはいっても、資本主義経済そのものの問題点を深く浸透させることも必要です。たとえば自己責任論とバッシングが人々に分断を持ち込み、この間の政治変革を阻む重要な要因となってきたことは明確です。資本主義とは一言でいえば、市場を土台とする搾取経済です。市場は誰の目にも見えますが、搾取は見えず逆に市場の中に解消されてしまいます(cf 『資本論』第1部第7篇第22章に展開される「領有法則の転回」論)。したがって市場経済のイデオロギーである自己責任論は資本主義経済にも通用しますが、そこでは搾取される労働者の生存権の否認論として現れます。バッシングは多くの場合、自己責任をきちんと果たす自分が、それを果たさない者の既得権益、あるいは果たした自己責任よりも分不相応に得る者の既得権益を叩いて正義感的爽快さを得るというものです(生活保護バッシングや公務員バッシングなど)。人々が果てしない競争に巻き込まれ、分断され、連帯を忘れるのには、まず資本主義市場経済そのものの作用があります。資本主義企業やマスコミなどのイデオロギー的働きかけはその土台の上に展開します。これを克服するには労働運動などの意識的連帯が不可欠であり、その際に資本主義的搾取を学習することも求められます。
以上、抽象的なあるいは悠長な議論をしていると思われるかもしれません。しかし時々の選挙の勝ち負けを安易に政治方針の正当化(あるいはその転換)に直結させたり、そこから人々の意識の獲得に成功した(あるいは失敗した)と単純に評価できるものではない、と私は思っていますので、それらの基準を考えることもまた必要だとして貧弱ながら試論を提供しました。
天賦人権説をめぐって
自民党が読むに堪えない危険な「改憲案」を出してきて、選挙もあることだし、ということで憲法学習会がいろいろと行なわれています。
自民党案は西欧民主主義の考え方を否定して、「日本独自」の思想に基づいていますので、およそまともな学校の社会科教育を受けてきたものには理解不可能となっています。ただし私はそこで護憲派にとって考慮すべき問題点があるのではないか、と思っていますのでここに問題提起します。
自民党案では天賦人権説そのものが否定されています。人間には先天的に基本的人権が与えられているという立場を否定して、国家による制限を正当化しています。国家によって認められることで人権が成立するわけです。これはいわば国賦人権説であり、基本的人権の普遍性を否定しおよそ近代憲法の理念から逸脱しています。
諸個人よりも国家を上に置くこうした議論は論外ですが、それでは天賦人権説そのものは正しいのかというと疑問があります。あらゆる諸個人には先天的に基本的人権があり、それを保障する社会が契約によって作られたという、自然権・天賦人権説・社会契約説
この疑問をある学習会で提起したところ、講師の憲法学者は次のように答えました。<確かにフィクションだが、それが普遍性を主張することで発展することができた点が重要だ。たとえばフランス革命当時、女性の人権は認められなかったが、普遍的人権という形で提起されたことにより、その後女性たち自身が権利を獲得する手掛かりになった>。
確かにフィクションであっても有用性が大いにあるのだから、その概念は重要だ、という議論は理解できます。しかしそれは承認したうえでなおかつ「自然権・天賦人権説・社会契約説」の実体を明らかにすることは必要だと思います。
改憲派は護憲派の議論を空想的として攻撃します。特にそれは平和をめぐる前文や9条に関して言われるのですが、基本的人権をめぐっても「自然権・天賦人権説・社会契約説」の空想性を主張し、日本の文化・歴史・伝統という実在に即したものへの改変を押し通そうとしているのではないでしょうか。もちろん彼らの言う日本の文化・歴史・伝統なるものは著しく偏向した代物ですが、それはここでは措きます。基本的人権の今日的到達点を支えるのはフィクションではなく、人類の闘争の成果であることを明確にすることによって、基本的人権がこのような「日本的実在」に勝る客観的普遍性を持つことが確証されます。
今少なくない若者が保守反動思想に走るのは、主には新自由主義グローバリゼーション下での厳しい経済状況からの救いを求めるためだと思いますが、教育、特に社会科教育の問題もそれなりに重要でしょう。社会は暗記科目と化し、憲法や基本的人権もおそらく自分たちの実感とかけ離れたところで教え込まれるような状況でしょう。そうなると子どもたちにとって憲法や基本的人権は現実とかけ離れた偽善の体系としてイメージされるようになります。であれば、そんなフィクションを信じるより、現実の競争社会に対峙するか、さもなくば国家とか家族とかの「共同体」に帰依するほうが本当ではないか、と思ったとしても不思議ではありません。だから社会科が人権・民主主義教育としてのリアリズムを高めるためには、「自然権・天賦人権説・社会契約説」といったものの有用性を教えるとともにその実体を明らかにすることも必要ではないか、と私は思います。
2013年6月30日
2013年8月号
要求闘争と国民経済の立て直し
経済情勢研究会「『アベノミクス』の破たんと日本経済」では、アベノミクスの異常さに対して友寄英隆氏の言葉が紹介されています。
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アベノミクス批判にとどまらず、日本資本主義の現段階を本格的に、体系的に分析することが必要ではないか。 …中略… 従来の再生産方式、資本蓄積方式では回らなくなり、それが年々進行しているから、体制側から見ても、政策的整合性がなくなっている。世界資本主義の行きづまりと、戦後の対米従属下での日本資本主義の行きづまりとが重なってきており、そのことを分析していくことが重要ではないか。改憲問題もそういう背景があるのではないか。 31ページ
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これはなかなか壮大な課題ですが、常に念頭に置いておくべきものでしょう。それは前提にしつつ、運動の観点から言えば、「従来の再生産方式の行きづまり」の打開が労働者を初めとする働く人々・生活者の要求実現と重なっていることが重要です。これは、支配層の新自由主義構造改革の路線がまさに要求切り捨てと一体である(それが行きづまりの重要な要因でもあるが)ことと対照的であり、社会変革の可能性を広げています。労働総研事務局次長の藤田宏氏は以下のように主張しています。
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労働総研の提言はアベノミクスに対する対案となるものですが、そう難しい話ではありません。「構造改革」路線によって生まれた矛盾と、それに対する労働者の切実な要求を整理したものだからです。大切だと思うのは、雇用、賃金、労働時間、均等待遇など労働者の要求はさまざまですが、その要求を一つひとつ実現していくことは、人間らしい労働と生活を労働者が手にするというだけでなくて、日本の社会保障の財源の確立、内需重視・生活充実型の経済社会への転換につながるということです。言葉を変えれば、労働者の切実な要求の実現は、日本の経済と社会を左右する性格を持つようになってきている、そうした国民的大義をもつものになっているということだと思います。
牧野富夫・小越洋之助・藤田宏・大西怜子<座談会>
労働と生活を壊す「アベノミクス」 67ページ
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同座談会で小越氏は「社会の再生産を可能とする賃金」(同前)を提起し、さらにその再生産のためには賃金とともに社会保障や公的サービスも欠かせないと指摘しています(69ページ)。牧野氏も「この間の雇用破壊が、社会保障破壊につながっているわけです。なので安定した雇用をいかに作り出すか、これが税や社会保障制度を支えるためにも、極めて重要なことです」(同前)と指摘しています。
先の参議院選挙はアベノミクスと上記の対案との対決であったとも言えます。一方で自民党の大勝はアベノミクスへの幻想がまだ根強いことを示しましたが、他方で中間諸党の敗退と日本共産党の躍進は、それへの根本的批判としっかりした対案をもつものだけが支持を伸ばしうることを示しました。今後、安倍自民党政権は民意に背いて生活と労働を圧迫する政策を実行してくるでしょうが、逆に要求実現とそれによる国民経済の立て直しを掲げて人々に共感を広げつつ闘っていくことが必要です。
物価下落の位置づけ
梅原英治氏の「『構造改革』・デフレ下の日本税財政」の趣旨に異存はないのですが、現状認識にかかわって気になる表現があります。梅原氏はデフレを「物価の持続的下落」(104ページ)と定義しており、それが間違っていることはこれまで何度も言ってきました。とりあえずそれは措いてその定義に従ったとしても、「デフレは名目所得を減らすので、所得税収は減少する」(108ページ)という表現には非常な違和感があります。「物価の持続的下落」は賃金などの所得の低下を主な原因とする需要不足によって生じた結果であり、それを主語(主体)として所得を減らす原因であるかのように認める表現は、調整インフレ論と同様です。これはデフレ定義の誤りが現状認識の誤りに転化しかねないことを示しています。
「名目GDPは『実質GDP×GDPデフレータ(物価指数)』で表される。実質GDPは景気循環の波を描きながらリーマン・ショックまで趨勢的に増加しているので、名目GDPの減少はGDPデフレータの低下に起因する」(104ページ)という論述も同様に物価下落を主体(原因)としており、現状認識における主客転倒に陥っています。このような主客転倒は、貨幣数量説・外生的貨幣供給論とともに、無制限の金融緩和による景気対策という誤った経済政策に帰結します(もちろん梅原論文がそういう立場であるわけではない)。
ここで想起すべきは、統計上、名目値は現実値であり、実質値は加工値であることです。現実値としての名目GDPが減少する中で、加工値としての実質GDPが増加してきたことの意味を考える必要があります。名目値と実質値との一般的関係は以下のようになります。
実質値は現実値を物価指数で除して算出し、その際元の現実値は名目値と呼ばれます。これはインフレ期における統計値の是正措置として始まったものでしょうが、今日のような物価下落期(デフレ期ではない)にも同様に適用されます。言葉の定義は一定でなければならないので、この実質値と名目値の定義が物価変動の状況にかかわらず一貫していることは当然と考えられます。しかし両者の意味内容はインフレ期と物価下落期とでは違っていることに注意する必要があります。近年、「実感により近い名目値」という言い方がされるのは実はこのことを直感的に示しているのです。
インフレ期における物価上昇では通貨価値の減少に伴う名目的騰貴が重要な要因となっており、それを反映した物価指数で現実値を除することは、確かに統計値における名目的要素を取り除いて実質化する操作だと言えます。したがってそうした加工値が実質値として尊称され、元の現実値が名目値として蔑称されるのも故なきことではありません。しかし今日の物価下落期においては、通貨価値の増大に伴う名目的下落(デフレ)が起こっているわけではなく、需要不足による実質的下落が起こっています。それを反映した物価指数で現実値を除することは、統計値における名目的要素を取り除いて実質化する操作だとは言えず、逆に実質的下落をなかったことにする結果となります。だからこの加工値は本質的には実質値というより(現実を美化する)幻想値であり、名目値と呼ばれる現実値のほうが現実をよりよく反映しています。これについて詳しくは拙文「経済統計の実質値と名目値」および「名目値と実質値」を参照してください。
もっとも、実質値を幻想値と呼ぶのは一面的であり、それはおおむね経済における実物的関係を現わしているということはできます。名目GDPの減少に対する実質GDPの増大というのは、おおざっぱに言って、弱々しいとはいえ使用価値量がいくばくか増大していることが価格量の増大に反映されていない状態でしょう。生産性の上昇を捨象するなら、これは価値以下の価格の常態化を示しており、コスト割れを典型として再生産が困難になっています(その最大の問題は労働力の再生産の困難)。物価下落の起動力である賃金下落は他方で資本の内部留保の増大をもたらしています。つまり物価下落による「名実ギャップ」は、一方で労働力の再生産を中心とする国民経済の再生産の困難を表現しており、他方では資本の内部留保の蓄積と併存する現象だと言えます。双方を見ると、労働者が生み出し、本来再生産に活用されるべき経済的価値が企業内に滞留していることがわかります。したがって内部留保の活用によって再生産の困難を打開するという周知の命題は名目値と実質値との関係の考察からも導くことができます。
以上の考察は、実質値を絶対化することなく、名目値が現わす経済の縮小再生産を実質値が糊塗する役割を果たしていることに着目することから始まりました。低迷する名目値に対してそれを上回る実質値はそういう意味では幻想値ですが、その実質値は同時に、名目値といわれるところの現実値があるべき水準を示しているということもできます。つまりそれは縮小再生産の現状を脱して拡大再生産に向かう水準を示す一つの基準値でありうるということです。
市場的人間像と社会的人間像
民商会員で創価学会員でもある八百屋さんからこんな話を聞きました。
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(猛暑で野菜の生産や消費に影響はありますか。)
大いにある。野菜が腐ってしまう。たいへんな安値になる。実際に自分で作ってみたら、と消費者には言いたくなる。スーパーは安売りして社会貢献だとか言っているが、あんなのは儲けたいだけだ。
(そういえば朝ドラの「あまちゃん」で、漁師のおじいさんがスーパーでバイトするシーンがあって、「命がけでとってきた魚をこんな値段で売っては漁師が嘆く」というようなことを言ってましたよ。)
僕はテレビはあまり見ないから知らないけど、そう言ってたか。阪神大震災のとき、スーパーに物がなくなって、八百屋に来た人が野菜を売ってくれと言うが、いつものお客さんのために取っておかなければ、と断ると、「非国民」と罵倒されたというんだ。それまでスーパーにしか行かなかったくせに、そんなときだけ来てなんてことを言うんだ。
日本人は情けなくなった。(名古屋中心街にある)栄交差点で猫が車に引かれて死ぬのを待つばかりになってたんだ。空にはカラスが舞ってた。車はよけて通り、通行人もみな通り過ごす中、ある若い外国人の女の人が、自分の上着を脱いで瀕死で出血した猫を包み込み抱き上げて草むらに置いて行ったんだ。日本人はテレビで良い話を見てほめたりするが、いざ自分でこういうことができない。
以前、この店の地域と近所にある自宅の方で両方とも町内会長をやってた時がある。引き受け手が誰もいないと言って、あんた、この地域で商売をしているからいいだろう、なんて。普段スーパーしか行かなくてうちの店には来ないような人からそんなこと言われるんだ。都合のいいことしか考えていない。
(ところでTPPが通ると大変ですね。)
安倍(首相)は生活なんかわかっていない。今、学生の就職活動の後ろ倒しを言っているが、自分は学生時代に遊びまくって、親のコネがあるから就職の苦労はない。しかもコネで内定していたところを蹴って他に好きなところに就職している。
共産党の人は庶民の生活はよく知っている。ただし議員はいいだろうけど、町工場の人とか応援している人たちは、自分の利益しか考えていない連中が多い(…ここでTPPのことを思い直したのだろ)。安ければいいのか。中国野菜の危険性とか、以前、問題になっていたけど、そういう安全性とかが重要だ。
仲買人は特定の人に決めているんだ。時には互いに無理を聞き合うような信頼関係が大切だ。
お客さんは大切にしているつもりなんだけどなあ…。
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他に商売の内容や工夫などについても話してくれたように思いますが、メモし忘れています。零細自営業者は厳しい状況に置かれていますが、仕事に誇りを持ち、それを踏みにじるものへの正当な怒りも持っています。市場経済とは何か、人間のエゴとは何か、そこで商売人と消費者はどう折り合って生きていくか、という問題がこの話の中で実践的に問われています。誰もが市場の中で生きているのだけれども、「市場原理とエゴ」全開で生きていけるわけではないので、市場経済に振り回されるだけでなく、どのようにして主体的な関係性を築いて、いくばくたりともお互いに経済の主人公となりうるか、と考えていくことが必要です。
現状では当たり前のように市場的人間像が前提とされており、新自由主義的状況がそれを増長しています。新自由主義的資本蓄積による搾取強化で人々は低所得となり、金銭的にも時間的にも精神的にも余裕を失い、孤立化し連帯の芽を摘み取られ、市場的人間像は市場主義的人間像へと「進化」し、人間性喪失の危機に直面しています。この「人民にとっての悪循環=支配にとっての好循環」を断ち切るには、労働や社会保障などの要求実現運動の具体的発展とともに、社会的人間像の意識的追求が必要でしょう。
諸個人のアクションの集積として社会なり経済なりを捉えるのはいかにも現実から出発しているように見えながら、実のところ諸個人のあり方が社会によって規定されていることを看過しています。市場を基礎に成立する自由で自立した諸個人というのが資本主義経済においては仮象に過ぎず、搾取に抗して社会的連帯によらなければ自由と自立は獲得できないというのが社会的人間像の含意です。それは資本主義段階では社会保障の見方によく現れ、その先には社会主義的人間像へと発展していくことが考えられます。
唐鎌直義氏によれば(「しんぶん赤旗」7月2日付、この簡潔な論説は必読!)、たとえ数千万円の貯金があったとしても、仕事を失った途端、わずか数年で消え失せるような貯金は「資産」とは呼べず、労働者・庶民は本来的に無産者であり、社会保障を必要としています。たとえば失業保険と公的扶助が十分に機能すれば、困窮者がどんな低賃金でも働くような事態を防げます。それは現役労働者の賃金と労働条件の悪化を防止します。このように社会保障は社会的連帯であり、社会的人間像を体現しています。生活保護バッシングなどに現れ、社会保障攻撃を推進する市場的人間像は有産者のイデオロギーであり、無産者がそれにとらわれることはまさに自分で自分の首を絞めることになります。
この唐鎌氏の論稿では、多額の借金を負った労働者は企業の言いなりに働かざるを得ないことが指摘され、借金の主な理由として住宅ローンと高等教育費が挙げられています。広い意味での社会保障制度として住宅保障と教育保障があれば、そうした事態を防ぐことができます。つまり日本の労働者の保守化と社会保障の貧困は表裏一体の関係だったのであり、逆に言えば変革意識の高揚と社会保障の充実は相携えて進んで行くべきものです。社会保障をめぐって自己責任論を介した攻防はまさにそうした日本資本主義のあり方の根幹にかかわるのです。
住宅ローン問題の深刻な意味を論じたのが、平山洋介氏の「マイホームがリスクになるとき」(『世界』8月号所収)です。住宅ローンを返済している持家世帯では所得の減少により頭金が減り、住宅価格に対するローン借入額の割合が上昇しています。それは毎月のローン返済額を上昇させ、可処分所得から住居費を引いた「より実質的な手取り収入」を押し下げます。長期不況が所得を減少させ、それが内需不振を招いて不況を泥沼化させる悪循環がずっと続いています。その際一般的には賃金の減少が最も注目されますが、以上のように住宅ローンが所得内容を劣化させ消費需要を縮小させている効果をもっと重視する必要があります(189〜191ページ)。日本では住宅問題はもっぱら自己責任において捉えられ、多くの人々が頭を抱えていますが、問題の真相を捉えるには、インフレ期のマイホーム政策を長期不況期にも継続した住宅政策の失敗を見る必要があります。
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持家を買う以外に住まいを改善する手段が見あたらないのは、住宅政策が偏向しているからである。社会・経済の枠組みが不変であれば、個人の才覚が役立つ場面は乏しいままである。住宅ローンの借り方をどれだけ勉強しても、安倍政権の金融政策が失敗すれば、融資調達のコストは増える。住宅問題を再社会化し、ライフスキル≠フ次元から政策次元に位置づけ直すことによって、マイホームの時代の次を展望する必要がある。
195ページ
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市場的人間像と社会的人間像との対立が、唐鎌氏の論説においては社会変革の展望という次元にまで及んで捉えられています。それに対して、平山論文では「住まいと社会の将来像」(195ページ)という長期的展望を見据えながらも、長期不況の克服という当面する問題にもその対立の影を見ています。ここには個人と社会との関係について、あらゆる次元で本来の社会科学的見方を貫くことの重要性を見て取ることができます。
もっとも、市場と経済社会との関係を機械的対立において捉えることが間違っているのは、現実の経済政策の次元では明白です(上記の八百屋さんの話にしても、スーパーを禁止すればいい、ということにはならず、適切な棲み分けのあり方を考えることになります)。それのみならず原理的にも、市場というのは経済社会の様々なあり方の中の一つであることを想起する必要があります。あらゆる経済社会は共同性を持っていますが、市場もまたその共同性を実現する一つの様式です。資本主義経済の場合には、市場という土台の上に資本=賃労働という搾取関係が成立しています。ここで共同性一般とその特殊なあり方との関係が問題となります。そういう問題を認識できるかどうかが社会科学の科学性の急所となります。
たとえば原発問題について、自然科学の発展と人間社会の関係という次元でしかとらえられなければ、原発利益共同体という資本主義の利潤原理に基づく問題の核心を看過します。その他、環境問題・少子高齢化社会、等々あらゆる社会問題について、マスコミなどの通俗的見方ではいきなり社会の共同性一般の次元でその解決を模索することになり、資本主義市場経済のあり方や国家・政府といったものの階級性を直視しません。ここには眼前の現象に対するのに、経済社会の共同性とその疎外形態との関係を問うことのない混とんとした意識で臨んでいる姿があります。上記の住宅問題を見ても、各人が「ライフスキル」を駆使してマイホーム確保に努力している、ということの意味(この日本資本主義の中で、その住宅政策に規定されているという意味)を自覚しないままに、「自然なこと」と思い込んでいるうちは、そこには社会科学が欠落していることになり、事実、この社会においてはそれが普通なのです。
こういった社会科学の欠落を克服する近道は他国の事例を知ることです。たとえば日本では高等教育に莫大な教育費の私的負担がかかるのは「自然なこと」ですが、ヨーロッパでは全く違っていることを知れば、それが「社会的なこと」であることがわかります。原理的には、諸使用価値の生産・分配・消費による社会の再生産、という経済社会一般の共同性が、商品生産社会においては価値追求を目的とする生産によって、資本主義社会においてはさらに剰余価値追求を目的とする生産によって、それぞれ媒介的・事後的に達成されます。このことがまず銘記される必要があります。それが歴史的・空間的にさらに様々に具体的に展開されることになり、私たちが接する諸現象が形成されます。
最初と話がずれてきたようですが、市場的人間像を当たり前とすることに疑問を持ち、眼前の諸問題を「自然なこと」と思い込んでいないか、と立ち止まり、そこに「社会的なこと」を見い出す姿勢が大切です。社会諸現象をその重層性(たとえば、社会一般・商品生産社会・資本主義生産社会)において捉えることもまた必要です。
参議院選挙結果を受けて
2013年7月21日投票の参議院選挙の最大の特徴は日本共産党の躍進でしょう。その原因と今後の課題について若干考えてみます。
今日、選挙について考える際に3点が重要になります。
第一) 2009年の民主党への政権交代が失敗に終わったことがいわば「国民的トラウマ」になって政治不信が蔓延し、選挙の棄権につながり、低投票率が続いています。これが事実上の選挙の主役となっており、それへの対処が各政党の消長を決するとも言えます。この状況はいまだに続いています。
第二) 議席獲得可能性の問題。小選挙区制などの非民主的な選挙制度を乗り越えて議席を獲得できることをいかに有権者に訴えられるか、が選挙の帰趨を決します。
第三) 政策によって選挙戦を闘うこと。それは本来当たり前のことですが、実際上は「政権交代」とか「ねじれ解消」とか政策の中身とはずれた選挙誘導が行なわれてきました。これによって政策的民意と議席とのねじれが常態化しています。
今回の共産党の勝利には土台(必要条件)ときっかけ(偶然的要素を含む)がありました。土台としては、この十数年抑え込まれた中でも地道な党活動を続けてきたこと、自共対決を貫き、根本的な批判と対案を提起し続けてきたことが挙げられます。きっかけとしては、まず都議選と参院選が重なるのは12年に1回という条件下で、もともとそれなりの議席獲得可能性を持っている都議選に注力して参院選に連動するという戦術が取れたこと、そして橋下・維新の会がオウンゴールでこけたこと、が挙げられます。
参院選の勝利の直接の原因は、都議選を全力で取りに行って勝利できたことにあります。2ステップの勝利です。まずここで都議選勝利の性格を考えてみます。都議選では議席を倍増し民主党を上回ったのですが、得票自体は昨年の総選挙より多いとはいえ、前回の都議選を下回っていました。つまり支持が広がる中での勝利ではなかったということです。全体の投票率が低下し、民主党の共倒れなどが重なったことがその背景にあります。これは民主主義の発展という観点からすればいわば「姑息な勝利」と言わねばなりません。しかし議席倍増の衝撃は抜群であり、全国の有権者は共産党の議席獲得可能性を認め、それまで選挙の投票における選択対象外であった状態に穴が開きました。このことは多くの人々が共産党の政策に注目することを可能にし、政策によって選挙が行われるという方向への貢献ともなりました。
こうして参議院選挙では、得票率はもちろん、得票自体も伸ばして、3議席から8議席へと躍進しました。都議選からは質的に発展した勝利です。ただし依然として投票率は低く、「国民的トラウマ」としての政治不信は克服されておらず、これが選挙の影の主役である状態はそのままです。共産党が開拓すべき荒地は広大であり、発展の可能性は大きいのです。ここを克服して初めて「姑息な勝利」でなく「堂々たる勝利」を宣言することができます。
都議選・参院選の2ステップ勝利によって、共産党は「議席獲得可能性」による選別の壁を突破し、「政策による選挙」の実現に第一歩を踏み出し、「政治不信」の克服の可能性を広げつつあると言えます。こうして共産党の前進はささやかながら日本の民主主義の発展の大道の中に位置づけることができるのです。
他方、参院選では自民党が大勝し、自公与党で過半数を確保し、いわゆるねじれ解消が実現しました。自民党はアベノミクスへの漠然とした期待に乗り、他の点では政策を隠し通して、比較第一党に不当に有利な選挙制度の下で、大量の議席をかすめ取りました。マスコミでは、これで3年間は国政選挙がなく、自民党・安倍政権が長期安定政権となるというのが定説のようです。それを前提に、「朝日」の星浩特別編集委員は「痛み強いる胆力あるか」との見出しの下、支持率低下を気にせず「農業や雇用など難しい改革を進める。歳出削減も断行。 …中略… 消費税の引き上げや痛みを伴う改革に批判が出ても、国民を粘り強く説得する」(7月23日付)べきだと主張しています。
しかしこれは支配層の願望に過ぎません。民主政治は国会の中だけにあるのではありません。バブル議席に乗り、民意に反する政策を断行しようとする安倍政権はおそらく一年持たないでしょう。人民の側からすれば一年もたせない闘いをすべきだし、その可能性はあります。消費税、福祉切り捨て、原発再稼働、TPP、改憲、集団的自衛権、米軍基地、ブラック企業、等々どれをとっても政治を揺るがす大問題であり、どれだけ世論を盛り上げられるかによって、要求実現のみならず政権基盤にも影響するでしょう。
安倍政権にはほかに独自のアキレス腱があります。以上のような国内における民意とのねじれだけでなく、その右翼的政治・歴史観のため中国・韓国のみならず米国ともねじれがあり、この処理を誤れば政権の致命傷にもなりかねません。普通に考えれば、最低限の体制の理性として歴史問題の「独自の見解」は完全に封印して、関係諸国との友好関係を再構築したいところであり、財界もそれを願っています。しかし国内の右翼勢力の期待を一身にになった安倍政権とはしてはそれはできません。おそらくあいまいに時を過ごす中でジレンマが高じてくることが予想されます。
とはいえ敵が転ぶのを待っているわけにはいきません。反原発運動の高まりのあたりから、共産党に対して様々な政治勢力から選挙協力や共闘の申し入れがありました。共闘は別としても選挙協力についてはゼロ回答となっています。「政策協定なしの選挙協力はできない」という理由は理解できますが、参院選で躍進して期待が高まっている今では、同じ調子でゼロ回答を続けることは多くの人々の失望を招きます。選挙協力に至らなくても、一点共闘の積み重ねなどを通じて、要求実現だけでなく、政権交代の可能性につなげるような行動を何らかの方法で追求していくことは不可欠です。人々に政治変革の希望を持たせることができるかが、「党躍進の第3の波」を実現できるか否かの最大のカギでしょうし、多くの人々の期待の中でそれを担う政治責任を持つに至ったというのが現在の共産党の到達点だと言えます
2013年7月30日
2013年9月号
農民的家族経営の可能性
生産力を捉えなければ経済学は成立しません。資本主義下での生産力の急速な発展は、潜在的には客観的にも主体的にも新しい生産関係を準備しますが、資本主義的生産関係において顕在的には直接的生産者(労働者、小経営者)に苦難をもたらします。この生産力を捉えずに直接的生産者の苦難を救おうとすると、生産関係主義の一つとしての経済学的ロマン主義(反動的批判)に陥ります。逆にこの生産力のあり方に無批判に直接的生産者の苦難を放置するところに生産力主義が成立します。
河相一成・村田武・有坂哲夫氏による座談会「TPP・『攻めの農業』批判 日本農業再生と家族経営」では、今日の農業生産力のあり方が批判的に検討され、農民的家族経営の生産力の本質とその発展の可能性にも言及されています。この座談会の理論的意義として次のことが指摘できます。新自由主義グローバリゼーション下においても、世界的な食料主権の流れと国民経済のバランスをにらみながら、日本農業・農村の持続可能性を確保するために、一方で生産力主義が厳しく退けられ、他方で経済学的ロマン主義に陥らないように、生産実践と経済政策の展望が語られています。
TPP参加と「攻めの農業」は直接的生産者たる農民的家族経営の多くの部分を駆逐し、農業生産の担い手を一部の大規模経営や株式会社に移行するものです。それは一応、大量生産・大量消費の資本主義大工業という生産力段階に適合的であり、大量の輸入飼料と輸入化石エネルギー資源に依存しています。しかし多くの家族経営農民を抜きにしたこうした経営主体だけでは、農村を維持し、環境や国土を保全していくことは不可能であり、国民経済を健全に再生産させる上での障害になります。もっとも、TPP参加に耐えられる「攻めの農業」という生産力主義的「理念」以前の問題として、国際競争下での規模拡大政策の非現実性やそれにともなう「輸出の増大」「所得の倍加」の空虚さなど、スローガン倒れのアベノミクスの政策的無責任さの方が眼前の現実的問題ではありますが…。
農業生産の困難性は、国民経済内での農工間格差と世界経済における為替調整(円高問題)とに現われます(25-26ページ)。農業所得の観点から見れば、農産物価格が低い(国際価格はもっと低い)ことに問題があります。これを考えるには地代論・農業経済論・価値論(国際価値論を含む)などの知識が必要であり、私の手におえる問題ではないのですが、一点だけ通念と違う問題を提起しておきます。
農産物価格の低さから、農業所得は時給二百数十円とも言われ、これは通常、農業の生産性の低さとされているのですが、同じ日本資本主義の国民経済内においてこれだけの格差があるのは異常です。「国際価格の圧力による生産物価格低下」と「生産手段価格高騰によるコスト高」とに挟撃されて所得が落ちているのでしょうか。それはともかく、このように大きな農工間格差をあたかも職業差別のように生産性格差と捉えるのではなく、農工間の不等労働量交換と捉える必要があります。「労働報酬基準の小農的農産物価格の実現をめざした政策価格」(36ページ)は補助金政策と言われることで、ニュアンス的には不労所得権益のようにも思われますが、あくまでこの政策価格は不等労働量交換の是正措置と捉えるべきでしょう。
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非正規労働者の賃金も、中小零細業者の自家労賃も、農家の家族報酬も、生活保障の観点から、ナショナルミニマムを保障できるような取り組みが必要ではないかと思っています。労働者も業者も農家も、健康で文化的な生活ができる社会を築いていくことが必要です。
これは、戦後日本の憲法の理念を体現していく道だと思います。 42ページ
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憲法理念によるこうした普遍的な生活保障の観点を支える考え方の一つとして、不等労働量交換の是正という見方もあるように思います。もっとも、資本主義的生産の観点からは、普遍的な「生活保障の観点」は市場競争による「自然淘汰」を作為的に阻害し生産力発展に敵対するものだと考えられます。ただし上記の「非正規労働者の賃金」、「中小零細業者の自家労賃」、「農家の家族報酬」の内、非正規労働者の問題は明らかに「労働力価値以下の賃金」の正当化であって、「普通の資本主義的搾取」を超えるものであり「ルールある資本主義」ならばただちに是正すべきものです。後の二者はいわゆる「非効率な小経営」の問題であり、大量生産=低価格化を基準とする生産力主義の観点からは淘汰すべきものと考えられます。しかし現実の経済社会の中ではそれぞれ必要な役割を果たしており、小経営者の生存権の問題だけではなく、経済社会のあり方を見直していく中で、生産力の様々なあり方とその発展について多面的に考えていくべき課題がそこにあります。
座談会では、農民的家族経営の生産力について、零細経営の非効率だけに阻害要因を求めるのでなく、国家独占資本主義の搾取と収奪も見る必要性が強調され、次のように述べられています。
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本来、労働主体である農民は、生産手段を所有する能動的な労働主体であって、そこに意欲や目標や工夫などが加わって、生産力の発展に寄与するのですが、農民の労働の成果が、労働手段・労働対象の「機械化・化学化・加工化」を進めた資本によって奪い取られて、農民は所得率を下げて貧困化したのです。その結果として兼業農家化が進行したのですが、こうした農業生産力構造の、今日的な分析が欠かせないと思います。
36ページ
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これを受けて「農業生産力を上げるには、農産物価格を保障して、農民の生産意欲を高めることがカギになります」(同前)と主張されます。
以上は生産力のあり方を価値視点から論じていますが、使用価値視点からも、日本の自然と社会のあり方に即して、生産力主義批判を含めて論じられています。
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日本は、四季が鮮明で、海と山と川があって、生産者と消費者が比較的近いという特徴があります。ところが、それが生かされず、そこが分断され、畜産の飼料や食品加工の材料などが輸入されています。そして国内では、大規模生産、大量輸送が推進されています。こうした歪みをただすことが不可欠です。ひとことでいうと「日本農業の特徴を生かした政策」です。
アジアモンスーン地帯の水田稲作農業、田畑転換、少量多品種生産などの特徴を生かし、食料自給率の向上を図ることです。
あわせて、貿易拡大一辺倒のTPP阻止・WTOを食料主権を尊重する方向に改定することをめざし、国際的には、FAO、WFP(国連食糧計画)など、国際的な調整機関の役割の強化などを大事にすることも必要です。
40ページ
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すでにこうした方向で家族経営農業においては「米単作地帯、北海道を中心にした輪作形態、施設栽培、露地野菜、果樹園芸、畜産と耕種の結合など、自然条件や社会的条件に合わせた努力」(同前)や「地産地消」、「有機農業」などが取り組まれてきましたし、その一層の発展の中に今後の展望もあります。そういったものを、大規模化=生産力主義の自民党農政が生かしてこれず、逆にその弊害を拡大するTPP参加=「攻めの農政」に突っ込んでいることが悲劇的です。何の展望もなく、スローガンだけの「万歳突撃」に向かうのは阻止しなければなりません。
座談会の最後に再生可能エネルギーと農業との結合に触れられています。関連するものとして、吉村文則氏の「欧州で自然エネルギーはどう活用されているのか オーストリアとドイツの実践から」(『前衛』9月号所収)があります。これは具体例を詳しく紹介し、日本にも当てはまる教訓を見出しており、価値視点からも使用価値視点からも新たな生産力のあり方に示唆を与えています。2011年の福島第一原発事故以降、同様の報告は枚挙にいとまがないくらいですが、日本政府が脱原発を決断し自然エネルギー推進政策を確定しさえすれば、それらは容易に生きてくるはずです。
以下は余談になりますが、生産力主義批判の観点として、資本主義の歴史的意義と小経営の今日的意義を考えていくことが有用です。渡辺京二氏へのインタビュー(「朝日」8月23日付)は「生きづらい世を生きる」「資本主義の深化が共同社会を壊した まだ成長が必要か」「人と出会い交わる そこに一生の意味 何かを作り出そう」という見出しの下に次の言葉を掲げています。
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昔は想像もつかなかったほどの生産能力を、私たちはすでに持っているんですよ。高度消費社会を支える科学技術、合理的な社会設計、商品の自由な流通。すべてが実現し、生活水準は十分に上がって、近代はその行程をほぼ歩み終えたと言っていい。まだ経済成長が必要ですか。経済にとらわれていることが、私たちの苦しみの根源なのではありませんか。人は何を求めて生きるのか、何を幸せとして生きる生き物なのか、考え直す時期なのです。
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これは資本主義の生産力的達成だけを述べて、現にある生産関係的問題点が捨象されているのが疑問だとは思いますが、資本主義の歴史的使命が達成され、新たな生産関係が必要とされる、と言っているように読める点は共感できます。
経済社会は本源的には使用価値の生産・分配・消費を繰り返す再生産過程から成っています。商品経済においては生産の目的が使用価値から価値に移行し、使用価値の再生産はただその結果として達成されることになります。さらに資本主義経済においては剰余価値の追求が生産の自己目的とされ、やはり使用価値の再生産はその結果としてのみ達成されます。商品経済の場合、特に資本主義経済の場合、この目的と結果があらかじめ一致する保証は必ずしもありませんが、おおむね達成されることでそうした経済社会のあり方は続いてきました。むしろ使用価値の再生産を直接に目的とするよりも、価値ないし剰余価値追求を目的とするほうが、生産主体のインセンティヴを刺激して、結果として使用価値の再生産がより大きく達成されてきました。そこで剰余価値を目的とし、逆に使用価値を手段とすることが資本主義経済に生きる人間のイデオロギーとして定着しました。このイデオロギーの下で(人生・生活・生命をも利潤追求・経済成長の手段としながら)人々が励んできた結果として、上記の渡辺氏の言うような到達点にある今、経済社会の本源的あり方から見れば、目的と手段との転倒した関係が改めて問題となっているのです。成長はもういいではないか、経済(実質的には資本主義経済を指す)にとらわれるのはよそう、というわけです。
小経営は資本主義経済下でも、もともと剰余価値追求を目的としていません。それは価値追求を目的としますが、使用価値追求への執着もあります。職人気質とはそういうものです(ただし価値追求=市場への直面ということが、職人気質がしばしば持ってしまう狭さ・独善性を克服するきっかけになる、という要素も忘れてはならない)。「商店街があるということは、人と人との関係があるっていうこと。今は金とモノで構成される社会になってしまったけれど、本来の商売は人と人とのやりとりなんだ。商店には、そういう人間の営みがあるからおもしろい」という米倉斉加年氏の言葉(「全国商工新聞」8月26日付)は資本主義的転倒を批判し、経済社会の本源的関係の観点から商店を位置づけたものです。
渡辺氏や米倉氏の観点が生き、小経営が活発化するためには、少なくとも新自由主義グローバリゼーション下での無限の剰余価値追求を規制する必要があります。転倒していない人間観・社会観に共感が増大しつつある今、逆に転倒の極致にある現代資本主義=新自由主義を直視し、具体的な変革の政策を提起することが切実な課題となっています。ここでは経済学的ロマン主義を克服して、最先端の生産力を分析しうる力が求められています。
余談ついでに第二弾。TPP交渉の前哨戦としての「秘密交渉の末に出てきたのは、日本の郵便局網をアフラックという特定の会社の販売窓口に利用することでした」(「しんぶん赤旗」8月20日付「保険めぐる米の勝手放題」)。アフラックは1974年にがん保険を販売し始めて以降、米国の圧力に屈した日本政府が国内他社を規制する下で、今日まで圧倒的なシェアを誇ってきました。その上に出てきたのが今回の日本郵政とアフラックの「業務提携」。米国の要求は日本市場での「対等な競争条件」のはずですが、実態は「米国の多国籍企業の意を受けてなりふり構わず圧力をかける米国と、それに唯々諾々と従う日本政府。保険をめぐる日米交渉の経過は、屈辱的な日本の対米経済外交の姿そのものです」。保険分野で2001年まで続いてきた「自国企業を締め出して、米国企業に独占させるという、まるで植民地のような扱い」は、新自由主義の掲げる「市場競争の自由」の実態が、独占資本による市場独占と国家間の支配従属関係に他ならないことを暴露したのであり、市場原理主義という現象の本質が「市場独占でも植民地状態でも利潤追求の手段を選ばず」という資本原理主義であることを教えられるのです。
スラップ訴訟に見る新自由主義と政治反動
論文「不公正ファイナンスと昭和ゴム事件」(『経済』2011年6月号所収)などに対して、驚くべき卑劣な攻撃が行なわれています。ファンド経営者らが名誉棄損による5500万円もの損害賠償訴訟を、筆者である野中郁江氏個人を相手取って起こしたのです。特集「ファンドと現代社会」は、このスラップ訴訟(恫喝訴訟・いじめ訴訟)の問題に基軸をすえつつ、その裁判の争点や意義の解明はもちろん、学問の自由の意義、「ファンドとは何か」というそもそも論、さらには現代資本主義とファンドの本質論にまで及んでいます。まさに総合的・立体的で充実した内容となっています。
特に長田好弘氏の「学問と研究発表の自由への新たな攻撃 野中裁判にみる『恫喝訴訟』の検討」は学問の自由の意義、それへの攻撃の今日的姿、それを守る気高い決意と姿勢などを語って余すところがなく、感銘を受けました。
裁判闘争の内容は本特集をぜひ読んでいただくとして、まず根本的に押さえるべき問題は「学問と研究発表の自由」の意義です。長田氏は「自然と社会の真理を探究し、調和のとれたよりよい社会へ向かって一歩でも歩みを進めることは人類普遍の原理であって、それは社会の構成員にとっては企業の利潤追求活動よりも高次元の問題である」(141ページ)と喝破し、それを支える学問・研究の自由の重要さを力説しています。それは次のように研究者個人のパトスに反映しますが、そのことは決してディレッタント的な問題ではなく、人々の生きがいとの普遍的共通性において確認されていることも重要です。「研究者は、社会進歩と福祉の向上に貢献したいと、発見と知見の獲得に日々努力をかさねている。地味ではあるが、そうした積みかさねが研究者の仕事を真に価値あるものにしていることを理解しているからである。研究者が心血を注いで論文を書き、それを発表できることは、自分自身の確認であり、自分の人生の道しるべとなるのである。同様のことがどの職業の人びとについても言えるのである」(同前)。
社会進歩に合致する学問は、原発利益共同体に典型的に見られるような御用学問ではありえません。批判を核心とする学問です。
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科学・技術の現状批判とは、現代資本主義の諸矛盾の解明と克服を求めることである。
教育の現状批判とは、研究教育の現場で学問の自由をつねに発展させ、平和的な国家及び社会の形成者の育成を期して、その障害となる不合理とたたかうことである。
現状批判は、専門家の社会的責務であり、自らの権利のための闘争でもある。
145ページ
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これに対して「企業の利潤追求活動の次元」からの攻撃もあり得ます。本件のようなスラップ訴訟では「原告の狙いは勝訴そのものではなく、被告を高額請求で恫喝し『口封じ』をすることにあ」り、「国家権力による直接の言論弾圧に代」わる「表現・メディア規制という政治的意図」を持つ「合法的に司法を利用した言論弾圧である」(140ページ)と言えます。それに負けない決意を込めた長田氏のいわば闘争宣言を紹介します。ここには詩と真実の統一があります。
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権利への攻撃者は、権利者への人身攻撃からはじめるのが常である。痛めつけて、不合理への怒りとそれに抵抗する勇気を奪いとることを目論んでいるのである。
勇気は人間のあかしである。怒りは真実発見の原動力である。怒りと勇気を投げすてたら、人が人でなくなってしまう。研究者は学問から遠く離れた存在になってしまう。野中教授への野蛮な攻撃に対して、集団の力によって怒りと勇気の持続と増大のためのあらゆる手だてをつくさなければならない。それには、野蛮な仕打ちには人間の品格をもって反撃することである。人間の知性と批判的懐疑に基礎をおく科学の存在を支持するものへの連帯を強めることである。研究者自らのたたかいの意義を労働者・市民と共有することである。 147ページ
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スラップ訴訟によって、学問の自由という市民的政治的自由を攻撃するに至ったファンドというものは現代資本主義においていかなる位置づけを持っているのか。そしてファンドを抱えた現代資本主義の本質とは何か。それを解明したのが高田太久吉氏の「現代資本主義とファンド問題」です。高田氏によれば、一般に思われているのとは違って、ファンドは大手金融機関や主要機関投資家に「敵対する、市場の異端分子として活動しているわけではな」く、「いわば現代資本主義の資本蓄積様式を支える階層的な金融ネットワークの不可欠の構成部分になっているの」です(106-107ページ)。つまりファンドの投機行動や企業破壊を規制することは必要であり、それも主要金融機関も含めて網をかけていくべきですが、さらに言えば金融だけを見るのではなく、実体経済を含めてトータルに見なければなりません。根本的には、現実資本の蓄積の停滞とそれと表裏一体の貨幣資本の過剰蓄積とカジノ化という現代資本主義の寄生性・腐朽性が横たわっており、ファンドはその突出した現象だということです。「現代資本主義の根本的な病弊」(116ページ)という観点から、資本主義の戦後高度経済成長破綻後の主流となった新自由主義の弁証法を、以下のように捉えることが重要です。
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今回の経済危機が明らかにしているのは、1970年代以降の資本主義が、一方で、新自由主義的な規制緩和、グローバル化、労働者に対する搾取の強化を際限なく推し進め、財政危機と環境破壊を深刻化させることなしに、持続的に企業利潤を確保する方途が見出せなくなっており、他方で、こうして利潤確保のために「企業活動のあらゆる障害を取り除く」新自由主義的政策自体が、資本蓄積の停滞、金融危機の頻発、階級的矛盾の激化、貧困化と失業増加、自然環境破壊を促進し、資本主義の持続的発展を困難にしているという矛盾である。要するに、1980年代以降、資本主義の救世主の役割を果たしてきた新自由主義自体が、今では資本主義の出口をふさぐ自己矛盾に転化しているのである。
したがって、現在問われているのは、単に投機規制など金融市場健全化のための方策だけではない。最大の問題は、企業利潤を確保するために、すでに歴史の障害に転化している新自由主義をさらに野蛮な形で継続・強化するのか、それとも、新自由主義から脱却し、民主主義と労働者・市民の生存権を持続的に保障できる新しい経済システムを目指すのかという問題である。 116-117ページ
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スラップ訴訟では、ファンド資本が経済的圧力を背景に司法的手段で「合法的」に、学問の自由という市民的政治的自由を破壊しようとしています。ファンドが新自由主義の寵児であることを考えれば、新自由主義が生存の自由はもちろんのこと、市民的政治的自由をも破壊するに至ったことを、スラップ訴訟は明らかにしたのではないでしょうか。それは「すでに歴史の障害に転化している新自由主義をさらに野蛮な形で継続・強化する」行動の一環として捉えることができます。
安倍政権は新自由主義派と保守反動派との野合連立政権という性格を持っています。もっとも、人脈的な野合というより、多くの場合、安倍首相自身を含め政治家個々人の内面ですでに野合が成立していると言えます(これに対して亀井静香氏など、筋を通した保守反動派は新自由主義を敵視している)。新自由主義派と保守反動派との野合については、新自由主義政策のもたらす強搾取・格差と貧困による社会的疲弊を、国家や家族・地域社会など伝統的共同体への依存によって精神的に糊塗しようとする、という文脈において語られます。
しかし実際のところは、新自由主義は市場化の推進と搾取強化による格差・貧困の増大によって、伝統的共同体や地域経済を疲弊させ、結局国民経済を破壊することで国民国家そのものの存立基盤を掘り崩しています。だからといって国民経済を破壊しても、多国籍企業本社を守ってくれる本国政府の国家権力を失うわけにはいきません。つづめて言えば、国民経済を破壊しながら国民国家を(人民のため、あるいは公共性の故に、ではなく)私的に(=階級的に)維持しようというのが現代の独占資本たる多国籍企業の要求です。そういう意味での国民国家の維持に何か新しいものを直ちにあてがうのは難しいので、さしあたって役立つのは出来合いの反動思想であり、傷だらけであっても(自から傷だらけにしたのだが)伝統的共同体的関係に頼ることになります。それらの中心は国家そのものであり、排外主義的愛国心を煽るのが最も手っ取り早いのです。実際そこで人々に想定される国家は新自由主義の食い物にされた実像ではなく、ヴァーチャルな郷愁の対象たる美化された国家です。ここに現代独占資本の要求と人々のイデオロギー状況との結合が図られています。
このように新自由主義と保守反動との矛盾に満ちた野合を捉えることができますが、現代資本主義の反歴史的性格つまり新自由主義自身の政治反動への傾斜そのものも考えてみることが必要です。
資本主義の生成期、市場の自由を土台にして市民的政治的自由が勝ち取られてきました。しかし資本主義経済において市場の自由は搾取の自由をともないます。「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」というのは封建領主の言葉ですが、歴史貫通的に搾取階級に共通する姿勢だと言えましょう。こうして搾取の自由は生存の自由(それは日々をかつがつ生きるということでなく発達の可能性をともなって十全なものとなる)を原則的に否認します。資本主義の自由競争段階の最盛期を築いた19世紀イギリスでは、経済的自由権の侵害という理由で労働者の団結権が禁止されていました。20世紀、世界的に労働者の諸権利が認められたのは、何よりも労働者の階級闘争の成果であり、個別資本による無限の搾取を規制しないでは体制としての資本主義がもたないという総資本の判断であったでしょう。日本国憲法など今日の資本主義諸国の憲法に、自由権と並んで生存権が規定されているのは階級闘争の妥協的到達点だと言えましょう。ところが資本主義の高度成長期が終わり、搾取強化と金融化の新自由主義の時代には、搾取の自由が再び強化され、生存の自由が脅かされる事態となりました。そこでは労働者階級を初めとする人民の反抗が増大する可能性があります。したがって支配層は様々な分断支配の手法、あるいは教育やマスコミを動員したイデオロギー支配を強化しつつ、それのみならず反体制的政治宣伝の弾圧や批判的学問への圧迫を強めています。日本においては、それをおおっぴらにできるようにするのが憲法改悪です。
もともと資本主義経済は自由な市場の土台の上に資本の専制支配(資本=賃労働の搾取関係)が確立しています。自由な市場は市民的政治的自由に反映され、資本の専制支配(搾取の自由)への一定の規制によって生存の自由がわずかに確保されてきました。新自由主義は社会進歩のこの到達点を切り崩し、まず資本の専制を強化し生存の自由をどんどん縮小し、そこから上記のように必然的に市民的政治的自由をも攻撃しています。それを象徴するのが橋下徹氏であり、大企業本位の政治を確立するために、自治体における首長の専制支配を強化し、職員の思想調査を強行しようとまで試みました。ついにブルジョア的自由にまで手を付けたこの政治家は本来ならば政治生命を絶たれても当然なのですが、なんとブルジョア・マスコミ(と私は蔑称しているのですが)は今日に至るもあたかもまともな政治家として扱っています。ブルジョア・マスコミのはずが、ブルジョア以前であったのかと思わざるを得ません。しかしこれはマスコミも支持する新自由主義そのものがそこまで反動化したということです。かつて「憲法は工場の前で立ちつくす」と言われたのですが、今や工場内の専制が、自由であるはずの「市民社会」や憲法をも浸食し始めているのです。
新自由主義のこの反動化をいっそう促進しているのが、搾取強化と並ぶ金融化・カジノ化でしょう。新自由主義的支配層はもはやまともに生産を発展させる展望もなく(原発輸出が「成長戦略」だという体たらくを見よ)、搾取強化の他には、過剰貨幣資本の蓄積に寄生するだけの反歴史的存在になっています。彼らにすれば、人民が健全な生活と労働に支えられた社会や国民経済の展望を持って、現状への本質的把握に向かうような批判的認識(学問を含む)を獲得することは何としても阻止せねばなりません。そこに通じる自由な言論・政治活動にも憎しみを感じるでしょう。したがって市民的政治的自由への圧迫度は搾取者階級の腐朽性に比例していると言えます。スラップ訴訟と橋下徹氏の言動とはそれを見事に表現しています。
ここでも余談を一つ。合田寛氏の「タックスヘイブン 実像と対策」上中下(「しんぶん赤旗」8月7・8・9日付)がタックスヘイブンについてわかりやすく説明しています。その「実像と対策」については是非読んでいただくとして、興味深いのはなぜ今世界の大問題として浮上してきたのかということです。その背景には、世界の主要国で財政危機が深刻化し、それを緊縮政策と大衆課税で乗り切ろうとする政府に対して人民の怒りが爆発し、巨大多国籍企業の税逃れががぜん注目されるようになったことが挙げられます。多国籍独占資本の支配、カジノ化と世界資本主義の危機が世界の民衆を決起させた――まさに歴史の法則が貫徹するさまが見られます。日本の今回の参議院選挙では、一方では右翼的な安倍・自民党が圧勝し危険な政治状況ですが、他方で日本共産党の躍進があり、「民衆の怒り爆発」とまでは言えないかもしれませんが、世界的な社会進歩の流れから取り残されたわけではない、とは言えそうです。
2013年8月27日
2013年10月号
社会意識の形成と社会変革の運動
伍賀一道氏の「ブラック化する日本の労働 その指標と背景」によれば、ブラック企業は決して社会の一部の問題ではなく、今日の我が国における全社会的現象を代表するものです。論文ではそこに生まれる広範な社会意識も合わせて解明されています。
グローバリゼーション下の日本で労働のブラック化が進む要因として、伍賀氏は以下の4つを指摘しています。1)低価格競争の激化による人件費削減のため、「非正規雇用に依存する一方、正規労働者には長時間労働を迫る企業労働の体質が社会標準となりつつあ」ります(35ページ)。2)半失業の増加も重要です。それは、短期間あるいは短時間労働、就業と失業の繰り返し、低賃金=長時間労働など、様々な形態をとっており、資本と政府に二重の効用をもたらしています。一つは失業給付の負担から逃れることであり、もう一つは低労働条件による利潤増加です。3)失業時のセーフティネットが欠如した上に、生活保護への強いスティグマが形成された結果、「社会保障のセーフティネットを活用することで自立のための条件を整えるよりも、たとえブラック企業であってもそこで働く方がマシという意識がとりわけ若者のなかに広がってい」ます(同前)。4)労働運動の主潮流において、非正規雇用・低賃金・長時間労働その他の労働条件への抵抗がありません。
こうして低価格競争と労働基準・労働条件引き下げの連鎖が社会全体に広がり、「非正規雇用の拡大や正規雇用の著しい長時間・過密労働が異常とは見なされず、いまや『社会標準』となった観すらあ」(37ページ)り、ディーセント労働が駆逐されています。しかし私たちは異常を異常ととらえる感覚を取り戻すべきであり、また競争の手段となっている「低価格の過剰サービス」の提供を批判する視点を持つべきだ、と伍賀氏は訴えています。
以上の「状況」「意識」「社会標準」をまとめるならば、「最低生活保障のセーフティネットが欠如した現状は、ブラック企業であってもやむをえないという社会意識を再生産して」(38ページ)おり、悪しき「社会標準」に「結実」していると言えましょう。したがって「ブラック化する労働とセーフティネットの欠如との悪循環を断ち切ることが喫緊の課題」(同前)です。また「ブラック化に歯止めをかけ、ディーセント・ワークに接近」し「まともな雇用機会を増やす」ことを「実現するだけの余力を日本の大企業は十分蓄えている。内部留保を活用すべきという議論が世論のなかに次第に浸透しつつあるが、その実現の帰趨は主体的な力の高揚如何にかかっている」(40ページ)という結論は運動において実現されねばなりません。
内部留保の問題は運動の展望や正当性を支える経済基盤的根拠の一つです。したがって「ブラック化する労働とセーフティネットの欠如との悪循環」は客観的には打破できるわけですが、支配的な社会意識がこの悪循環にとらわれている以上、運動による克服が求められます。ところで運動に言及する前に、「ディーセントな労働と社会保障・最低生活保障の構築との好循環」を想定するならば、悪循環と好循環それぞれにおける「労働状況と社会保障との関係性」が問題となります。その関係性を支えるのはそれぞれの推進軸としての労働観・社会観であり、それが対抗しています。ここでは最基底にある労働観の対抗を見てみましょう。
川村雅則氏は、無法がまかり通る学生アルバイトの実態から、企業と学生双方に「指示されたことには従わなければならないという『働く』観を実感する」と言います(「大学生が労働法・労働組合と出会うとき」、24ページ)。また「今日の労働市場構造分析や学校と仕事の接続の現状に対する批判意識を欠」いたいわゆる「キャリア教育」は「就職活動に心理主義的あるいは適応主義的にのみ対応することを求め、自己責任の内面化を強めるものでしかない」と指摘します(25ページ)。このように資本に従属し、「個人化された『働く』観」に対置して「私たちの暮らしを支える無数の労働(社会的分業)を意識」する「すぐれた労働観」(同前)を広めていくことが大切です。確かに資本主義社会において、労働者諸個人は、競争・自己責任・企業の指示といった条件下で働いていますが、掘り下げて見ると、それは同時に社会的分業というより基底的な労働の一環でもあります(私的労働と社会的労働との資本主義的関係)。前者を資本主義的労働、後者を本源的労働と呼ぶならば、資本主義社会においては、後者は前者の形を取って現象しながら、しばしば前者のあり方が後者を侵すことがあります(たとえばブラック化された労働がディーセントな労働を駆逐することで本源的労働そのものが破壊される)。それを法的・政治的・社会的に防ぐことは、資本主義経済が社会を形成して存続する必要条件です。しかし新自由主義グローバリゼーションはこの必要条件を侵して社会の危機的状況を招いています。そうした現実に直面しても、本源的労働の視点を確保することで、資本主義的労働の現状を唯一絶対視することなく相対視して変革の可能性につなげることができます。
伍賀論文がブラック労働批判の視点から社会保障についても言及するのに対して、尾藤廣喜弁護士(生活保護問題対策全国会議代表幹事)の「生活保護改悪攻撃にいかに対抗すのか」(『前衛』10月号所収)は社会保障の現状と政策とへの批判の視点から賃金・暮らしのあり方・労働観(川村論文での労働観とは別の角度での対抗関係を扱っているが)に及んでいます。両者あいまって今日の日本社会全体を総合的に見る視点を提供しています。さらに尾藤論文は、その丁寧で平易な社会保障批判と合わせて、生活保護行政への不服申し立て・審査請求運動の画期的な意義を明らかにすることによって、「ブラック化する労働とセーフティネットの欠如との悪循環」を克服する運動論を具体的・実践的に提起していると評価できます。実践と理論の両面において広範な人々に是非一読をお勧めします(なお最近の新聞記事で生活保護制度の問題について簡潔にまとめたのは、吉永純花園大学教授の談話です。「しんぶん赤旗」9月26日付)。
本当は論文を詳しく紹介したいところですが、以下、それに学んで書いた文の流れの中で重要な部分に触れたいと思います。今まさに社会保障が全面的に攻撃されていますが、その中でもまず生活保護への攻撃が厳しくなっています。その理由は、(1)客観的制度的要因と(2)主体的イデオロギー的要因とから説明されます。(1)生活保護基準がナショナル・ミニマムを決め、多くの事項に関連しているため、その抑制は財政支出全体の抑制につながります。たとえば周知のように就学援助や最低賃金に影響します。住民税の非課税基準にも影響しますが、これは、医療費の自己負担限度額、介護保険サービスの自己負担限度額、保育料の軽減、障害者・児の居宅・通所サービス料と入所サービス料、難病患者の医療費…等々たいへん多くの制度に連動しています。(2)生活保護を叩きやすい状況があります。マスコミを利用した計画的バッシングによるイメージダウンが浸透しています。
(2)に関連して、生活保護攻撃への反撃力がなぜ弱いか、を考えることは「ブラック化する労働とセーフティネットの欠如との悪循環」の解明につながります。現状では、生活保護基準を若干上回っているか基準以下の人が最も激しく攻撃する、という事態になっています。批判の対象を間違えて、弱い人がより弱い人を叩く構図です。いわゆるワーキングプアの人々は「自分は頑張っているのに、生活保護受給者は…」と感じ、年金受給者は保険料を納めてきたのに生活保護基準にも満たないことに怒り、本来なら、それぞれ賃金を上げ労働条件を改善したり、生活できる年金を要求したりすべきなのに、逆に生活保護基準の切り下げに同調し受給者攻撃に加担しています。
労働について言えば、低賃金と劣悪な労働条件で労働力を売り急いで、自立できない半失業状態に陥るのでなく、社会保障のセーフティネットを活用することで自立のための条件を整えることによって、「ディーセントな労働と社会保障・最低生活保障の構築との好循環」の実現を目指すべきです。年金について言えば、本来、年金が生活保護基準より低ければ足りない分は保護受給でき、生活保護捕捉率100%ならば大幅な国費投入が必要となります。つまり生活できる年金制度と生活保護捕捉率100%とは同じことなのです。しかし現状では生活保護受給を制限することで年金額も抑えています。多くの場合、年金で生活できなくても生活保護を受け(られ)ず、貧困状態に耐えているのです。捕捉率100%なら我慢する必要がないにもかかわらず…。
人々は酷い現実については、いやというほど身に染みていますが、社会のあるべき姿としての生存権や労働者の権利など基本的人権については知らされておらず、というか、あるいはそれらを知ってはいても、それらを体現した憲法を身近に受け止めることはなく、ただ学校で習ったタテマエとして棚上げしています。審査請求運動の目的の一つはこうした現状への異議申し立てです。最低生活の意味とは何か、なぜ生活保護受給者が不服申し立てするのかということを世論に問いかけることで、人々が意識の中で人権を獲得し、弱い人同士のたたき合いを克服することが重要です。
付言すれば、こうした問題提起に対して、財源はどうするのか、という反論があります。法的・政治的次元での正論を支えるのは、経済次元での検討であり、直接的には経済政策や財政論での具体的な量的分析に基づく展望を指し示すことです。それについては日本共産党や研究団体などが取り組んでおりここでは措きます。それとは別に、理論的原則や道義性という角度からすれば、たとえば生存権という法次元の原理に、経済次元では剰余価値論が原理的に対応するのではないかと思います。今日では普通の人々が自己責任において生存権を確保することは困難なので、国家の役割が重要となっており、憲法25条にそれは体現されています。その際、なぜ諸個人の生存権確保が困難であり、国家が生存権を保障せねばならないか、ということの少なくとも一つの重要な根拠を与えるのが剰余価値論であろうかと思います。搾取される人々は生存権を奪われており、ならば剰余価値(搾取した価値)の一部を全社会的に集積した国家が生存権を保障するのは当然であろうからです(もちろん現状では生活費にさえ課税されており、剰余労働どころか必要労働部分をも取り戻す、という意味を財政支出による生存権保障は持っている)。確か全日本民医連の旧綱領には、「資本と国家の全額負担による社会保障制度の確立」といった内容の要求が掲げられていたと思います。おそらくこの要求の原理は「剰余価値の還元」という考え方によるのではないでしょうか。「死蔵された大量の内部留保の国民経済的活用」という今日では核心的な経済政策的要求も単に分配論の問題ではなく、資本主義的生産関係のあり方に発する搾取論として考える必要があります。内部留保として蓄積された経済的価値を元々生み出したのは労働者大衆であり、その生活と労働が危機に陥っているとき、それを経済政策主体が有効活用するのは当然のことです。
閑話休題。尾藤論文は、攻撃の激化による矛盾の広がりこそが反撃を生み出すことを指摘し、運動の展望を語っています。バッシングに乗ってしまう人が多い一方で、他方では、運動の中で生活保護制度が就学援助や年金など多くの問題と関係あることが分かってきて、いろいろな人々に生活保護問題への関心が高まってきました。生活保護利用者が自分たちだけの問題として闘うのではなく、広範な人々と連帯して闘う状況を切り開きうる情勢になっています。ともすれば厳しい攻撃にたじろぎそうな中でも尾藤氏の言葉は明るく響きます。
「これだけ社会全体に矛盾が広がってくると、多くの人たちといっしょの運動をつくっていくことはできると思います。だからこそ、大きな審査請求をやりましょうとよびかけているのです。そのことで、黙っているのではなく、どれも共通の問題なのだということを広く市民に訴えていきたいのです」(56ページ)。
安倍政権の政策に典型的に見られるように、新自由主義構造改革による、労働と社会保障への攻撃は全面的であり、分断的でもあります。いわばグローバリゼーションでの底辺に向かっての競争のようなものが、国内では各制度間で行なわれています。それはたとえば最低賃金と生活保護基準とを(人々の敵対の中で)ともに抑制するような関係であり、「ブラック化する労働とセーフティネットの欠如との悪循環」、一般化すれば「労働と社会保障の悪循環」となります。もちろん労働の内部、社会保障の内部でも分断はありますが、それらは「労働と社会保障の悪循環」に総括され、さらにはグローバリゼーション下での底辺に向かっての競争の一環となっています。反撃するには、最低賃金と生活保護基準とを(人々の連帯の中で)ともに改善していくような「ディーセントな労働と社会保障・最低生活保障の構築との好循環」、一般化すれば「労働と社会保障の好循環」の実現を目指さねばなりません。
「悪循環」によるひどい現実に人々は浸っており、閉塞感にあえいでいます。しかし憲法と民主的な経済政策は「好循環」のあるべき姿とそこへの展望とを指し示しています。それは決して単なるタテマエではなく、「悪循環」にとって代わりうる現実的な目標なのだ、ということを分かりやすく訴えていくことが必要です。誰しも無用な敵対、叩き合いを好むものではなく、信頼感を持った共生を求めています。全面的で分断的な攻撃とは本来、形容矛盾であり、不安定性と破綻を免れません(その一つの現れが橋下徹氏の没落過程ですが、その根強さをあなどることはできません)。全面的ならば連帯的であるのが自然です。「好循環」を見据えての全面的連帯的反撃が私たちの言葉です。
経済像と社会認識の諸問題
◎諸個人と経済像
賃金を上げる闘いは分配闘争であり、社会保障の切り下げに反対しその充実を求める闘いには再分配闘争という性格があります。そういうこともあってか、安倍政権の「成長戦略」に対して、問題は生産ではなく分配だろうという主張が見られます。それは一理ありますが、問題は生産か分配かではなく、生産も分配もであり、分配・再分配を人民に有利にさせることとともに、生産のあり方が次の問題となります。経済成長を自己目的化することは誤りですが、経済成長自体は少なくとも当面は必要です。その際に、人々が「空洞化反対の声を大きくあげ」「国家が巨大多国籍企業のコントロールに乗り出すよう要求」し、「企業の無制限な海外移転を規制」して「空洞化に歯止めをかける」(坂本雅子氏の「日本の自動車産業は空洞化するか」下、156ページ)ことを通じて、従来のリーディング産業を守ることがまず必要です(規制と誘導のやり方など、具体的な政策課題はありますが)。そこを押さえながらも次の課題として、グローバル企業による外需依存を中心にした国民経済から、地域経済が自立できる内需循環型国民経済への転換が必要となります。これは原発や輸入化石燃料に頼るあり方から、自然エネルギーの役割が大きいエネルギー構造への転換をともないます。エネルギーの地産地消は経済的価値の国外への漏出を防ぎ、大量生産・大量消費・大量廃棄の中央集権型効率主義から地方分散的で生活密着型の多品種少量生産への転換を促します。ここでは第一次産業が復活し、第二次・三次産業においても小経営の活躍の場が拡大します。諸富徹氏は、「再生可能エネルギー固定価格買取制度」を「日本で最も成功した公共政策の一つと評価し」つつ、次の課題として、ドイツの経験に学んで、地域内で資金循環を生み出し、売電収入を地域へ再投資しその地域の持続可能な発展を実現する途を提起しています(「再生可能エネルギーで地域を再生する」、『世界』10月号所収)。その際に、利潤追求第一主義の大企業がこの課題に不向きであり、農民・地域住民・地域金融機関などが主体となるべきことが力説されます(ドイツではそうなっている)。
ちなみに、経済産業省のキャリア官僚が被災地の人々に向かって「もともと、ほぼ滅んでいた東北のリアス式の過疎地で定年どころか、年金支給年齢をとっくに超えたじじぃとばばぁが、既得権益の漁業権をむさぼるために」云々、と罵倒した上で「復興は不要だと言わない政治家は死ねばいい」と匿名でブログに書き込んでいました(「しんぶん赤旗」9月27日付)。本人のみならず政権のホンネをもらしてしまった、というのが真相でしょう。彼らが被災地住民のことなど何とも思っていないことは、それまで取り組む姿勢がなかったのに、東京五輪招致のためにあわてて「原発の汚染水は完全にコントロールされている」という大嘘のプレゼンをして恥じない安倍首相の姿勢に明白です。で、官僚のこの言葉ですが、「原子力と化石燃料に頼る二〇世紀型の集権的電力システムから一歩も抜け出せ」(諸富論文、158ページ)ず、「過疎地」の地域経済が再生しうる可能性をまったく思い描きえない支配層エリートのアンシャンレジームぶりを露呈したものです。「もともと、ほぼ滅んでいた」ものは破壊して「新しい」ものに取り換えればいい、という言いぐさは農林水産業や中小企業などに向かって投げつけられてきた新自由主義構造改革の常套句です。人の生活など何とも思わぬ冷血ぶりはここでは措くとして、大量生産・大量消費・大量廃棄の中央集権型効率主義に沿うものだけが「新しい」もので、そこからはずれていると「ほぼ滅んでいる」とみなす方が今や時代錯誤です。自然環境や伝統文化などに根差した生活のあり方に密着した地域経済こそが人間が主人公になった経済であり、そこに「懐かしい未来」があります。
地域経済の再生は何も自然エネルギーだけが起爆剤ではありませんが、東日本大震災以降、がぜんそれが注目され、多くの論稿がある中で、諸富論文が簡潔にまとめているので触れました。以下に、人々の生活・労働や地域経済を起点に経済の重層的あり方を見る視点について考えてみます。
生活視点から規定関係を図式化するとこうなります。
<図式1>
諸個人の生活と労働→諸個別企業(中小企業が中心)→地域経済
ところが新自由主義グローバリゼーションを推進する支配層の経済政策を支える資本の視点では、多国籍企業が世界経済で最大限利潤を上げることから出発するので、規定関係が逆転します。
<図式2>
諸個人の生活と労働←諸個別企業(中小企業が中心)←地域経済
同じ経済を見るにしても、経済の重層的あり方を前にしてどこを起点にどの方向に規定性を見るかで、経済の捉え方が、そして当然経済政策が正反対になります。消費税増税=法人税減税、社会保障削減、TPP参加、労働規制緩和etc. といった一連の政策は<図式2>から必然的に導き出されます。グローバル企業が、国を地域を中小企業を好きなように選び、人々の暮らし方と働き方を上から決めてしまいます。政治権力は、そうした資本の魂を実現する露払いの役割を担っています。私たちの日常生活の中に「上から目線」なる言葉がすっかり定着しましたが、その物質的背景として、グローバル企業が政治経済の諸階層ならびに諸個人を見下ろす目<図式2>があることを指摘できます。自然人たる諸個人の目は<図式1>であるほかないのですが、だんだんと(資本主義的な)「経済人」化されるに応じて<図式2>に感化され、それを内面化することになります。そこであくまで、当たり前の生活とディーセントな労働という出発点に踏みとどまって<図式1>の目を堅持し続けられるよう、経済政策の逆転を新たな経済像として人々に提示し続けることが必要です。
ところで諸個人の生活と労働から出発するものとして、憲法の自由権と社会権、とりわけ13条(個人の尊重・幸福追求権)と25条(生存権)を挙げることができます。憲法の自由権の主体を個人とするのは一見、資本主義なかんずく新自由主義に親和的に思われますが、少なくとも今日的には(新自由主義がもたらした現実からいっても)逆に社会主義的である、すくなくとも経済民主主義的である、ということができます。
市場経済は個人を主体とします(憲法13条などの自由権はそこから成立してきた)が資本主義経済の主体は個人ではなく資本です(資本主義経済の土台に市場経済があるために「個人が主体」という仮象は残り、人々の意識を支配するが)。資本主義経済において、個人は資本によって生存権を否定されます。それを防ぐのは労働者階級と人民の闘いであり、それを反映した政治権力による規制です。生存を否定されては個人の自由権もありえず、新自由主義下での生存権闘争の厳しい現実では、特に憲法13条の言う個人の尊重や幸福追求権は生存権を前提しなければ成立しえないことが銘記されるべきでしょう。生活保護と最低賃金に体現されるべき最低生活やナショナル・ミニマムは個人の尊重の前提です。
ところで日本国憲法第29条は財産権の不可侵を規定しており、これは生産手段の私的所有を含むでしょうから、資本主義経済が想定されていると思われます。ただし経済制度について具体的に述べられているわけではないので、それまでに自由権や社会権の主体とされている諸個人があくまで経済主体とされているように思われます。ブルジョア革命の継承者である日本国憲法はそうした経済像を持っているのではないでしょうか。資本主義経済の主体は諸個人であるとするブルジョア・イデオロギーは、生成期資本主義の実態に即したものですが、現代資本主義では経済の主体は個人でなく資本であり、その実態には合いません。しかしそうしたイデオロギー的錯覚は逆に人間の立場から資本を規制することを可能にしています。したがって諸個人の自由権・社会権から構成される憲法は、グローバル資本が主体となった<図式2>の新自由主義的経済政策に対抗して、諸個人が主体となった<図式1>の社会変革的な経済政策の法的根拠となるように思われます。
諸個人をもって経済の主人公とする初期ブルジョア・イデオロギーは、一方ではそれが形式的に生き残ることで現代資本主義の本質を隠す役割を果たしていますが、他方では現代資本主義への内容的な批判基準として作用しており、歴史的限界を超えた民主主義の普遍的原則としての意義を獲得しています。前述のように人間の身の丈に合った地域経済の伝統的あり方が、その再生に資する「懐かしい未来」となりうることを想起すれば、「古くなった、時代に合わない」と攻撃される日本国憲法は、はるかブルジョア革命時代からのスケールを持って「懐かしい未来」でありうると言えます。
すると資本ではなく市場的生業としての小経営は憲法に直接的に適合します。農地法における「自然人耕作者主義」の現代的意義を検討した石井啓雄氏は、土地所有についてこう主張しています。「個々の国民の生存・生活・生産条件として土地所有は生業が林業か農業か商工業かなどによって差はありうるが、基本的に小規模で十分であり、大土地所有や資産的ないし投機的所有には強い制限が加えられて当然である」、「大土地所有は―半封建的地主的所有であれ近代的資本主義的所有であれ―それ自体として『悪』であり民主主義とは両立しえない」(『日本農業の再生と家族経営・農地制度 石井啓雄主要著作集』への横山英信氏による書評から、101ページ)。
もちろん大規模経営による資本主義経済の最先端の技術・生産力を否定すべきではないのですが、どのようなものであれ、人間の身の丈を無視して暴走する事態には規制が必要です。その典型は原子力です。汚染水などのようにならぬように、経済を的確にコントロールすることが必要であり、それを一部のテクノクラートだけに任せていてはいけません。資本主義経済の中では、多くの人々にとってどこにもある小経営が民主主義の学校としての意味を持ち、その経験が国民経済の民主的運営にも役立つことでしょう。諸個人が主人公となった社会を憲法は想定しており、それは今日的には資本主義国民経済への民主的規制という形で実現します。生業的小経営から資本主義的大企業にいたるまで、憲法が想定するように、諸個人が主体となった社会がコントロールすることが経済の変革の目標となります。
◎民商の愛知県交渉などに参加して
9月13日、愛知県商工団体連合会(愛商連=民商の県連)と愛知県の担当者との「話し合い」に参加しました。中小業者施策を初めとして多くの課題が話し合われましたが、最も議論が沸騰したのは地方税の徴収問題でした。愛知県と市町村が連携して発足させた「愛知県地方税滞納整理機構」(以下、「機構」)の強権的な姿勢が問題となりました。ある業者の発言によれば、年金が振り込まれた日に全額差し押さえられ、「死ねということか」と担当者にただしたら「それはあんたの事情だ」と言われました(「しんぶん赤旗」9月15日付、地方版)。他にも生存権を無視した強引な取り立てと、抗議への開き直りが発言の中で数々報告されました。愛商連は、法的権限のない「機構」を解散し市町村で納税相談に応じ、納税者の状況を踏まえて、地方税法にある納税緩和措置を積極的に活用するように、県が市町村を指導することを要求しています。県側は「各市町村のやることに県がどうこう言う立場にない」という調子の回答に終始し、業者から「機構は県がつくったものだろう。ちゃんと指導しろ」という怒りの声が相次ぎました(同前記事)。
もちろんこの県交渉は口論をするのが目的ではなく、2014年度県予算編成にあたっての話し合いなのですが、激しい議論になるのは、客観的には、経済状況から来る業者の置かれた厳しさに対して、行政側の「粛々として」処理を進める姿勢が生存権に触れるところまで来ているからでしょう。
地方税に限らず、消費税や社会保険料などの滞納が増加しています。払うべきものは払うというのは、当然のことなのですが、そこだけを見るのは、経済の形式論理・表層としての市場関係だけにとらわれています。払うのが困難になっている経済の実態・内実を見ることや、そもそも税などの公的負担が個人にとって重すぎないのか、という問題もあります。ここには当然、新自由主義グローバリゼーションの問題が関係します。と言っても個々の役所や公務員にとっては、経済状況と制度は所与であるので、個別の事例にどう対処するかは悩ましいところでしょう。ここでは先の<図式1>と<図式2>との対立において、個々の自治体なり公務員なりがどちらの立場で仕事に臨むのかということが問われます。もちろん実際には支配層の<図式2>に沿った対応が求められる圧力が強いでしょうが、少しでも諸個人の生活・労働・営業に資するような<図式1>的対応の余地を探すのが憲法の精神に沿うものではないかと思います。
まあしかしそのような悩みを持ってくれればいい方で、疑問もなく、あるいはむしろ確信をもって<図式2>の立場をとる役人が多いようです。先の暴言ブログの経産省キャリア官僚はその典型例でしょう。今回の県交渉で問題にされた「機構」職員の強権的な取り立て姿勢も同様です。当人は「使命感」を持って取り組んでいるのかもしれません。先の尾藤論文によれば、生活保護基準切り下げへの審査請求に対して、福祉事務所の窓口が追い返すという違法状況が多く見られます。法律を知らず、生活保護申請と同じく「水際作戦」で追い返しているのです。不服申し立てするのは国民の権利であることがまったく無視されています(54ページ)。
県交渉が終わってから自民党愛知県連へ消費税増税中止の要請行動に行きました。事務職員が対応して30分以上にもわたって懇談しました。消費税については安倍首相本人にしか何とも分からない、という話ですぐ終わりましたが、中小業者の現状や要求などについて話が弾みました。先方から、業者団体はいろいろあるけれど、民商は思想とかは別としてどんなところが違うのか、と質問がありました。これに対して、太田義郎愛商連会長は、たとえば商工会議所などは法律上の根拠があり公的補助もあるが、民商はまったくの任意団体で補助はなく完全に独立して運営しており、ここが一番の違いだ、と答えていました。要求内容などはどうなのか、という質問には、他の団体と8割くらいは同じだ、と答えていました。民商と保守的な業者団体でも8割がた要求が一致するというのは、上記<図式1>の<諸個人の生活と労働→諸個別企業(中小企業が中心)→地域経済>という部分では共通の立場にあるということです。ここに<図式2>の<諸個人の生活と労働←諸個別企業(中小企業が中心)←地域経済←国民経済←世界経済(巨大多国籍企業が支配的)>を全面的に持ち込んでくることはできません。自民党といえども地域で業者などと付き合う以上は、その切実な声に耳を傾けねばなりません。ここに、地域において様々な保守勢力との共闘が成立しうる経済的基盤があると言えます。
諸個人とグローバリゼーションとの関係を考えようと、経済の重層的構造を見渡す<図式1><図式2>を提示しました。そこで、新自由主義グローバリゼーションをめぐる根本的対立のみならず、様々な階層でのあつれきや一致点などを位置づけることができるように思います。
◎現場に問題を見つける
社会科学の第一歩は現実の中に問題を見つけることではないか、と思います。問題を見つけるとは、たとえば「はっきりしない問題をはっきり見せること」だったり「見えているけどその問題性に気づかないところで問題性に気づかせること」などが考えられます。
大内裕和氏の「奨学金問題を通して若者の困難を考える」(『前衛』10月号所収)は、これまで多くの人々が困りながらも、それぞれが私的な問題だと思い込んで隠れていた奨学金の問題を社会問題として見事に提起しています。いったんこれが社会問題だとはっきりすると、奨学金制度の改悪を起点に、親の所得の減少、学生アルバイトの過酷化=学業困難、雇用制度の改悪、ブラック企業にはまる就活、家庭生活・子育てを襲う返済地獄、両親・祖父母までおよぶ貧困の連鎖…etc.…あまりに多くの問題が団子状に若者と家族に襲い掛かってくる状況が分かり、さながら貧困の自己増殖を見せつけられます。現代資本主義における社会問題の構造的連関の一端に触れられます。ところがマスコミ等では33万人もが奨学金を返済できない、と自己責任論的に報じられ、問題の本質が隠蔽されてきました。実は学費の高騰があまりに急であり、そこで需要が急増した奨学金制度も有利子化が急速に進み、年10%もの延滞金がついて、さながら「貧困ビジネス」へと変質しているなど、相対的に学費の低かった中高年の人々が知らないことが山ほどあります。私的に仕舞い込まれていた奨学金問題が社会問題として明るみに出てきた次には、知らない事実をたくさん知らされ、その全体的連関の把握へ導かれたのです。社会科学の本質的力を発揮した大内論文を読まずに中高年者が若者の困難を語ることなかれ、と思います。
引きこもりというのは、まさに現実の中に見出され、平易に表現された概念だろうと思いますが、それをよりくっきりさせ問題の理解と解決にも生かした実践例が紹介されています。「引きこもり1割の町」「職失い社会と断絶 難しい『普通』復帰 少しだけ背中押す」という見出しの菊池まゆみ(秋田県藤里町社会福祉協議会事務局長)氏へのインタビュー(「朝日」9月18日付)がそれです。菊池氏が問題に気づいたきっかけは、介護保険のヘルパーが受け持ちの家庭から「子どもが仕事をせず、人にも会わない」という相談をよく受けてきたことです。愚痴と思って聞き流している内に、相談者にすれば介護より深刻な悩みではないか、と気づいたというのです。
引きこもりというと「部屋から一歩も出られず、家族とさえコミュニケーションができない」と思われがちです。しかしもっと広く「何年間も仕事に就かず、人間関係も家族以外にない。たまに外出するが、知り合いに決して出会わない場所や時間帯を選ぶ」人々も「実質的な引きこもり」であり、外部からの支援が必要だ、と菊池氏は捉えます。引きこもりに対するこのような気づき方と概念の拡張は、まさに地域に責任を持って正面から問題に取り組もうとする姿勢の深さからもたらされたと考えられます。
問題を発見し解決に取り組もうとするならば、対象を調査・確定しなければなりません。秋田県藤里町社会福祉協議会が2008年から11年にかけて行った調査はまさに問題の深刻さにかなう徹底したものであり、困難をいとわないものでした。
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人は悩みが深いほど、他人に知られまいとウソが上手になる。ありきたりのアンケートでは何も分かりません。地域の人々の情報提供を基に、引きこもっている可能性が高い人々の名簿を作成し、それを基に各家庭を直接訪問して確認しました。
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世にアンケート・調査結果・統計の類をいくらでも見ますが、本当にそれが対象の実情を正しく表現しているだろうか、おざなりな調査方法ではないか、という疑問を持たれるものも見られます。しかしこの調査は問題意識の設定に始まって、取り組みの姿勢、概念設定、考え抜かれた方法からして信頼に値すると思われます。それは「町内の現役世代の1割近くが引きこもり」という衝撃的な実態を明らかにしました。菊池氏は、藤里町が特に引きこもりが多いわけではなく、注目されるのは、ここまでの調査をほかの自治体がやっていないからだろう、と語っていますが説得力があります。
引きこもりの対策として、2010年に居場所・職業訓練の場として「こみっと」という福祉の拠点を立ち上げ、食堂や町の特産品の製造・通信販売をしています。心の悩みを聞くのではなく、あくまで親でない第三者が少し背中を押して就労支援することで効果を上げているそうです。全国から「こみっとに参加したい」という問い合わせが殺到しており、引きこもりを受け入れて町おこしをしようという勢いになっています。地域発展の種は原発や企業誘致ではなく、地域の実情に根差した創意工夫にあることの例がここにもあります。
社会認識は漠然と公正に研究すれば進むというものではなく、現実への肉薄を促す問題意識と切迫感が必要ではないかと思われます。藤里町社会福祉協議会の実践は、地域に責任を持とうとする人々の熱意が問題点の発掘とその解決方法の探究・実施に結びつくことを示唆しており、現実が生み出す使命感が社会認識の深まりを支えると言えるのではないでしょうか。
現場から学ぶことの大切さ。それは科学技術でも無条件に必要でしょうが、福島第一原発の事故を教訓に、それを阻害する社会的・経済的状況があることを元東芝技術者・小倉志郎氏(72)が語っています。…「プロメテウスの罠 追いかける男6 原発って、怪物だ」 (「朝日」9月16日付)より
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無数に延びる小さな配管、それを支える支持構造物、ポンプの振動の個性。機械の腐食、損耗……。
実感、と小倉は表現する。
「大学で原子力工学やってる先生には実感がつかめないんじゃないかなあ。理屈で割り切れないことが現場にはいっぱい転がってるんです。極端なことをいえば、全貌を分かっているエンジニアは世界に一人もいないと思います」
…中略…
「だいたい、出世する技術者は早々と現場を離れますから。そういう人間がコストダウンを口にして偉くなっていく」
昔の原発より新しい原発の方が危ない。なぜならコストダウンを徹底しているからだ、とも話す。
「でも現場に入らない人にはそんな実感つかめてないですよね」
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上記の経産省のキャリア官僚を初めとする多くの支配層の人々は、経済の現場としての庶民生活など顧慮しないからこそ、<図式2>の立場ですべてを割り切って使命感を持って「粛々と」「改革」を断行していけます。「痛みに耐えよ」と言ってのけた小泉首相のあたりから、民を恐れることが非常に少なくなりました。その心性を引き継ぎ、最近の驕り高ぶった安倍首相を見ると、「昔の自民党政治より新しい自民党政治の方が危ない」と確実に言えます。
2013年9月30日