これは「『経済』2010年4月号への感想」と「同6月号への感想」からの抜粋です。 |
名目値と実質値 (2010年3月28日記)
わが国では長期間にわたって物価下落が続き、物価指数が100を割り、たとえば名目GDPが実質GDPを下回る、といった「名実逆転」現象が起こっています。そうした中、しばしば「名目値の方が実感に近い」と言われ、日本経団連も「二○一○年の重要政策課題」において「成長を実感できる名目成長と雇用の拡大を目指した成長戦略の早期実行」を要求しています。名目値と実質値とに関する価値判断も逆転しているのです。物価上昇が当り前で名目GDPが実質GDPを上回っていた時代には、実質値の方が重視されていました。どちらも低い方を重視するという意味では一貫しており、いわば会計の「保守主義の原則」を適用して国民経済のマネジメントを堅実にするかのようにも思えます。しかしこれでは名目値と実質値との扱いに関して、理論的に一貫性はなく、物価上昇期と下落期とでこうした違いがある理由を問うてみたくなります。それは単に主観的な問題ではなく客観的な根拠があるのではないかと思うのです。
資本主義の体制的危機を回避するため、激烈な恐慌を緩和することが重視され、管理通貨制度の基礎として不換通貨が導入されました。これはいわば恐慌をインフレで買い取るわけで、不換通貨は減価し物価は水膨れします。こうした中で、現実値を物価指数で除した商は、経済量としてのある内実を現実値よりも的確に表現しうるとみなされます。この商は実質値と呼ばれ、元の現実値の方は名目値という名称に格下げされます。
ただし物価変動は、(1)不換通貨価値の変化による名目的変動だけが原因ではありません。(2)生産性の変化、および(3)景気動向などによる需給の変化といった実質的変動にもよります。三つの変化は現象的にはどれも需給変動として現れざるを得ませんが、本質的には区別されるべきです。ここで物価指数は名目的変動(1)と実質的変動(2)(3)の両方を反映しています。したがって名目値を物価指数で除して実質値を算出することを普通「デフレート」と呼び、あたかも名目的変動だけを除いたようなニュアンスがありますが、実際には実質的変動をも除くことになります。
インフレ期における物価指数の上昇は、(1)通貨の減価を反映し、(2)生産性上昇による価値下落を反映し、(3)超過需要による「価値以上の価格」への上昇を反映したものです。ただし(1)と(3)は物価指数を上昇させるものですが、逆に(2)は下落させます。インフレ期には(1)と(3)の効果が(2)の効果を上回って物価指数は上昇します。
これに対して物価下落期における物価指数の下落は<(1)通貨の増価を反映し、(2)生産性下落による価値上昇を反映し、(3)超過供給による「価値以下の価格」への下落を反映したものです。ただし(1)と(3)は物価指数を下落させるものですが、逆に(2)は上昇させます。物価下落期には(1)と(3)の効果が(2)の効果を上回って物価指数は下落します>というふうに「対称的に」真逆にはなりません。
物価下落期であろうとも、管理通貨制度の下で不換通貨の供給増は続き(景気対策の金融緩和)、インフレ期ほどの減価はしないにしても増価にはなりません。資本主義経済において生産性の下落は特別な時期以外に通常はありません。超過供給による「価値以下の価格」への下落はあります(ただし松方デフレやドッジ・ラインのように、高度なインフレを収束するために強力なデフレ政策が実施された場合は不換通貨の増価もありえます。しかしずぶずぶの金融緩和が継続されている現在の状況は物価が下がろうともデフレとは言えません)。
したがって物価下落期における物価指数の下落は<(1)通貨の減価を反映し、(2)生産性上昇による価値下落を反映し、(3)超過供給による「価値以下の価格」への下落を反映したものです。ただし(2)と(3)は物価指数を下落させるものですが、逆に(1)は上昇させます。不換通貨の減価の程度は非常に弱いので、物価下落期には(2)と(3)の効果が(1)の効果を上回って物価指数は下落します>。このように物価下落期においては、インフレ期の物価指数の上昇とは、総合的には「非対称的な」要因で物価指数が下落します。
つまりインフレ期と物価下落期とでは、(3)需給関係による価値からの価格の乖離の問題においては、逆方向に対称的に作用しますが、(1)不換通貨と(2)生産性との問題では量的な違いはあっても同じ方向に(したがって非対称的に)作用します。特に(1)不換通貨の問題について言えば、インフレ期には不換通貨の減価が急速に起こりますが、物価下落期にはあまり減価が起こりません(かといって増価が起こるわけではない)。ここに一番重要な非対称性があります。したがってインフレ期に物価指数を上昇させる主な牽引力は(1)不換通貨の減価であり、物価下落期に物価指数を下落させる主な牽引力は(3)超過供給(マイナスの超過需要=需要不足)となります。
そうすると実質値化(名目値を物価指数で除して実質値にすること)の持つ意味が非対称的になります。インフレ期の実質値化は主に(1)不換通貨の減価の影響を除くこと、つまり名目的変動の除外として作用します。これに対して物価下落期の実質値化は主に(3)超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落の影響を除くこと、つまり実質的変動の除外として作用します。
以上から、インフレ期において実質値が重視され、物価下落期において名目値が重視されるという非対称的な取り扱いの意味は次のように考えられます。大ざっぱに言えば、インフレ期における実質値は主に名目的変動を除外して経済の内実をよりよく反映するものだと考えられますが、物価下落期における実質値は主に実質的変動を除外することで、逆に経済の内実を歪めてしまうことになります。
さらに言えばこうなります。インフレ期には不換通貨の減価が顕著であり、超過需要による「価値以上の価格」への上昇は経済の加熱・不安定性を意味するので、両者の影響を除いた実質値には、経済量としての内実の確実さがありました。これに対して物価下落期においては、不換通貨価値はある程度安定しているので、名目値への不安は少なくなります。また超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落は再生産の困難につながります(たとえば労働力の価値以下の賃金では、労働力の再生産ができないし、商品価格が価値以下に下落すれば生産費の回収ができずに生産の継続が難しくなる)。だからそれをそのまま表現することが大切になります。ここで100以下になった物価指数で名目値を除して高い実質値を出しても、それ自身は現実を糊塗するだけで実質的な意味を持ちません。ここでは名目値はまさに元々は現実値であったのだということがよみがえってきます。名目値そのものを上昇させて再生産を回復させることが死活的課題となるのです。その回復すべき水準の一つの指標としてなら実質値には意味があるかもしれませんが、実質値そのものはここでは現実を覆い隠す幻想値として作用すると言うべきでしょう。
ところが実質値化(名目値を物価指数で除して実質値にすること)を「デフレート」と言い慣わしていると、それはあたかも名目的変動のみを除外することであるかのように錯覚します。すると「デフレート」とは、インフレ期には不換通貨の減価を除外し、物価下落期には不換通貨の増価を除外することだ、というように対称的に捉えてしまいます。物価下落期における「デフレート」(マイナスの「デフレート」=「インフレート」)はむしろ主に実質的変動を除外して幻想的な高い値を提示することで、実体経済における超過供給=需要不足による再生産困難という根本問題から通貨供給の問題に目をそらしてしまいます。ならば政府統計を見るとき、単に実感の問題としてではなく、理論的にも経済政策の課題の把握という意味でも、積極的に名目値を重視することが必要であろうかと思います。
で、この先、そもそも実質値とは何か、について、現実値から実質値を生み出す物価指数の性格に照らして考えてみたいのです。実質値の持つ両義性―使用価値量的側面と価値量的側面―を中心にして。しかしこれは今後の課題とします。
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名目値と実質値(続) (2010年5月29日記)
以下では「『経済』4月号の感想」に続いて「名目値と実質値」について考えます。日本共産党の志位和夫委員長が2月8日の衆議院予算委員会質問で、リーンマン・ショック前の10年間(1997-2007年)において、先進諸国中、日本だけが例外的に経済成長が止まっていることを明らかにしました。10年間でわずか0.4%の成長率という衝撃的な数字だったのですが、これは名目成長率であり、実質では15.5%になります。年間1.5%成長でも10年続けば16.05%になりますから、それ以下であり、これでも相当に低い数字ではあります。しかし名目値と実質値との間にずいぶん差があるのも事実です。
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(注)GDP成長率について。内閣府『国民経済計算年報2009』によれば、名目GDPは1997年度:513兆6129億円、2007年度:515兆8579億円で、実質GDP(2000暦年基準)は1997年度:498兆0876億円、2007年度:575兆3432億円となります。ここから名目成長率0.4%と実質成長率15.5%を算出しました。
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どちらを採用すべきかについては、前回も書いたように「名実逆転」の物価下落期においては名目値であるべきだと思います。理由を簡単に繰り返せば以下のようになります。インフレ期の実質値化は主に不換通貨の減価の影響を除くこと、つまり名目的変動の除外として作用しますが、物価下落期の実質値化は主に超過供給(需要不足)による「価値以下の価格」への下落の影響を除くこと、つまり実質的変動の除外として作用します。だから大ざっぱに言えば、インフレ期における実質値は主に名目的変動を除外して経済の内実をよりよく反映しますが、物価下落期における実質値は主に実質的変動を除外することで、逆に経済の内実を歪めてしまうことになります。100以下になった物価指数で名目値を除して高い実質値を出しても、それ自身は現実を糊塗するだけで実質的な意味を持ちません。物価下落期の困難は、賃金が下がって生活費に満たないことであり、商品価格が下がってコスト割れの危険性に襲われることです(少子化と自殺増はこうした再生産の危機の表現です)。ここでは幻想的な高い実質値ではなく、まさに現実値である低い名目値を採用して経済実体を直視することが必要となります。
では物価下落期における実質値には意味がないかというとそうではありません。先の例についていえば、1997年から2007年までの間に、名目成長率が0.4%しかないのに、実質成長率が15.5%になるということは、市場価格で評価した国内総生産はほとんど伸びていないが、物量的にはそれなりに拡大しているということを表現しています。逆にいえば物量的な成長を市場価格的には過少評価しているということになります。その意味については別に考えるとして、以下ではまず実質値が物量を表現することを確認します。
物価指数はいかなる性質を持っているでしょうか。基準年において1000円である商品AがX年には1200円に、Y年には800円になったとします。この価格変動が全商品の平均であるならば、X年の物価指数は1.2(実際の統計では100倍して120と表現されるが面倒なので1.2とする)であり、Y年のそれは0.8となります。実質値=名目値/物価指数 であるので、商品AはX年には名目値1200円で実質値1000円であり、Y年には名目値800円で実質値1000円となります。
物価変動が起こる主な要因は(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給です。不換通貨が減価すれば商品価格が上がり、生産性が上昇すれば価格は下がり、商品への超過需要があれば価格が上がり、超過供給(需要不足)があれば価格は下がる、という具合です。物価指数で名目値を除して実質値化するということは、こうした様々な要因の如何にかかわらず、同じ使用価値量は同じ値に還元するということです。上の例では、基準年において1000円である商品Aは、同じ使用価値量である限り、実際の価格がどう変動しようとも実質値としては同じ1000円だ、という評価です。したがって実質値としての価格は他でもなくそれぞれの使用価値量に対応していることになります。だから実質GDPの変化としての実質成長率は国内総生産の物量的変化を表わしています。
一般的には実質値のこのような性格は自覚されていません。実質値化(名目値を物価指数で除して実質値を算出すること)はデフレートと称され、あたかももっぱら不換通貨価値の変動を除くことと理解されているようです。確かにそれもありますが、生産性の変動や商品に対する需給関係の影響も合わせて除かれているのです。そこに残るのは物量の変動ということになります。価格変動における商品側と通貨側との関係や、価値量と使用価値量とを分析的に見ようとしない通念にあっては、こうした実質値の本質を見抜くことができません。まず商品を価値と使用価値とに分析し、商品から貨幣への転化を論ずるという周知の科学的経済学の方法的意義がここでは改めて確認されます。
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**補注**
<1>「物価下落期」という用語について。松方デフレやドッジ・ラインのように高度インフレを収束するために厳しい金融・財政の引き締めが実施される場合はデフレ期と呼ぶことができます。しかし現在のようにずぶずぶの金融緩和が続いている場合にはたとえ物価下落が続いていてもデフレ期とはいえないので物価下落期と呼ぶことにします。物価変動については通貨側要因と商品側要因とを区別することが必要であり、本来的にはインフレとデフレは通貨側要因にかかわる用語です。
<2>実質値の意味を考えるには物価指数の性質を捉えることが必要となります。それについては不十分な内容ですが、拙稿「生産力発展と労働価値論」(政治経済研究所『政経研究』第86号、2006年5月、所収)参照。
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そこで物価変動の主な三要因を分析的に捉える観点から、名目値と実質値の意味を浮かび上がらせるために、両者の中間に位置する「真正実質値」と「価値実質値」とを想定してみます。両者は実際に統計的に算出するのは困難ですが、物価変動を分析的に捉える姿をクリアに示すという点で理論的には意味があります。
まず物価変動のうち、不換通貨価値の変動分だけを調整したものを真正実質値と呼びます。つまり名目的変動<(1)通貨価値>だけを純粋に捨象し、実質的変動<(2)生産性(3)商品需給>の影響は表現できる値です。次いで物価変動のうち、不換通貨価値の変動分と超過需要の作用分を調整したものを価値実質値と呼びます。これは、名目的変動<(1)通貨価値>を捨象しさらに<(3)商品需給>をも捨象することで、<(2)生産性>の影響だけを表現する値です。つまり不換通貨価値の変動と商品需給の変動という流通過程での影響を受ける以前の生産力変動だけを表現する値です。投下労働量の変動を表わすので価値実質値と呼びます。
上記にならって言えば、実質値は、名目的変動<(1)通貨価値>および実質的変動<(2)生産性(3)商品需給>をもすべて捨象して物量的変動だけを表わす値です。あるいは角度を変えて言えば、流通過程的変動<(1)通貨価値、(3)商品需給>および生産過程的変動の内の<(2)生産性>をもすべて捨象して、(生産過程的変動の内の)物量的変動だけを表わす値です。名目値はすべての変動を捨象せずそれらの影響をすべて市場価格として表わす値です。
以上の関係を図式化した表は次のようになります。
- |
不換通貨価値 |
生産性 |
商品需給 |
名目値 |
反映 |
反映 |
反映 |
真正実質値 |
捨象 |
反映 |
反映 |
価値実質値 |
捨象 |
反映 |
捨象 |
実質値 |
捨象 |
捨象 |
捨象 |
ここで理論的抽象の性格を述べれば、名目値は市場価格次元、価値実質値は価値(投下労働量)次元、実質値は使用価値(物量)次元に相当します。真正実質値は市場価格次元の通貨的ヴァリエーションとでもいいましょうか。兌換通貨体制ならば存在しない値です。
次に各値を指数を使って表現します。物価変動の主要因<(1)通貨価値(2)生産性(3)商品需給>を指数化し、その総合として物価指数を捉えると以下のようになります。
不換通貨の減価を表わす指標をインフレ率と名付け、物価上昇率とは区別します。インフレ率は「単位労働量を表示する不換通貨量の増加率」と定義できます。
生産性は通常用いられる付加価値生産性では意味がなく物的労働生産性でなければなりません。ここで問題となる第一点は生産的労働の範囲であり、たとえばサービス労働が価値を生むか否か、です。とりあえずこれについては保留し「物的労働」にサービスなどもつけ加えるかどうかは措きます。第二点としては、様々な使用価値を生産する諸労働の生産性を一つにまとめて表現することは不可能だという問題があります。そこでそれぞれの労働の生産性上昇率を算出してから、国民経済の中でのそれぞれの割合に応じて加重平均して一つの労働生産性上昇率を便宜的に確定するしかありません。
超過需要による価値からの価格の乖離率を超過需要率と呼びます。超過供給になる場合には、マイナスの超過需要率として表現されます。
以上の「インフレ率」「生産性上昇率」「超過需要率」は実際には統計的算出は困難でしょうが、「物価上昇率」を理論的に分析するには必要な概念です。なお指数化にあたって統計では基準年の指数を100としますがここでは1とします。
物価指数=1+物価上昇率
インフレ指数=1+インフレ率
生産性指数=1+生産性上昇率
超過需要指数=1+超過需要率
とすれば
物価指数=インフレ指数×超過需要指数/生産性指数
真正実質値=名目値/インフレ指数
価値実質値=名目値/(インフレ指数×超過需要指数)
実質値=名目値/物価指数
=名目値/(インフレ指数×超過需要指数/生産性指数)……(A)
=(名目値/インフレ指数)×(生産性指数/超過需要指数)
=真正実質値×(生産性指数/超過需要指数) ……(B)
={名目値/(インフレ指数×超過需要指数)}×生産性指数 ←(A)より
=価値実質値×生産性指数
指数的に見ると、(1)名目値をインフレ指数で除すると通貨減価による値の上昇を除きます。(2)名目値に生産性指数を乗ずると、生産性上昇による値の低下を除きます。つまり生産性が上がって単位時間あたり生産量が増えれば生産物単価は下がりますが、あたかも単価の下落はなく総生産物の値が増大するかように表現します。物量の増大がそのまま表現されるのです。(3)名目値を超過需要指数で除すると、超過需要による値の上昇を除きます。超過供給に陥っている場合は、超過需要率がマイナスになるので超過需要指数が1よりも小さくなって値が上昇します。下がりすぎた名目値を「正常化」させるということです。つまり超過供給による値の下落を除くことになります。こうして超過需要でも超過供給でもそれらによる値の変動を除きます。
名目値を物価指数(=インフレ指数×超過需要指数/生産性指数)で除して実質値化するということは、以上の三つの操作を一度にすることになります。こうして現出する実質値の経済像はかなり抽象的であり、使用価値的(実物的)・物量的経済像となります。そこでは(1)不換通貨価値の変動が捨象されるのはいうまでもないですが、他にも一方では(2)生産性上昇による投下労働量の節約(市場経済的には価値の下落として表現されるが)という歴史貫通的要素(生産力の問題)が捨象され、他方では(3)需給変動の影響という市場経済的要素も捨象されます。
経済といえば市場であり需給関係である、というのが俗な感覚ですが、実質値の経済像は違っており、市場的浮動を取り除いた中長期的な堅実な経済像です。ただし生産力発展による生産物単価の下落を反映しなくて物量的だという一面性もありますが、これもたとえば実際に生活するに際しては必要生活手段を実物的に確保することが大切だという意味では有用な経済指標だといえます。
ただし現代の資本主義市場経済に生きる人々が「実質値」に期待するのはこれとはずれており、市場での需給関係による変動をも含んだ値です。また生産性上昇による価格低下も反映してほしいし、ただ不換通貨の減価だけは捨象して経済実体を見たい、ということが期待されるでしょう。それに応えるのは、現実統計上は仮想的だけれども、理論的にはありうる上記の「真正実質値」です。実際には人々は現実統計上の実質値を仮想的な真正実質値と錯覚しています。上記B式より
実質値=真正実質値×(生産性指数/超過需要指数) したがって
真正実質値=実質値×(超過需要指数/生産性指数)
このように現実の統計にある実質値に超過需要指数をかけて生産性指数で割ると、期待される「実質値」(真正実質値)が求められますが、超過需要指数も生産性指数も現実統計にはありません。実質値の経済像が物量的であることを自覚して、需給変動と生産力発展の要素を近似的に付加する何らかの工夫が必要となります。
ところが逆方向からのアプローチ(実質値→真正実質値ではなく、名目値→真正実質値)だとより安易に行けます。物価下落期においては不換通貨の減価が少ないと思われるので、名目値を真正実質値の近似値とみなすことが可能です。つまり
真正実質値=名目値/インフレ指数 であるので、通貨減価が少なくインフレ指数が1に近づけば、名目値≒真正実質値となります。物価下落期の経済分析では実質値よりも名目値を重視すべきだという主張はこのように説明することもできます。
以上、現実統計的には実用性の低い議論をしてきましたが、物価変動の要因を分析的に見ることを通して、名目値と実質値の性格を対照的に捉えることができ、それぞれを踏まえて現状分析に生かせればよいと思います。
ここからは初めに保留した問題を考えてみます。1997年から2007年までの間に、名目成長率が0.4%しかないのに、実質成長率が15.5%になり、市場価格で評価した国内総生産はほとんど伸びていないにもかかわらず、物量的にはそれなりに拡大しているようです。逆にいえば物量的な成長を市場価格的には過少評価しているということになります。しかしそれなりに物量的には成長しているからいいというわけではありません。実質成長率も低いだけでなく、分配に片寄りがあり、持続性にも問題があります。人々が実感できて持続性もあるような経済成長への切り替えを図るに際して、この名実ギャップ=物価下落を分析することには意味があります。
貨幣数量説的には通貨量を増やせばギャップが埋ると考えられます。しかしこの間の経験によれば、日銀が資金をじゃぶじゃぶに供給しても物価は上昇しなかったのであり(通貨量が価格を規定するのではなく、価格が通貨量を規定するという原則が貫徹され、過剰な通貨は実体経済の流通過程から退出して海外投資や資産投機などに向かったといえます)、あくまで実体経済の問題として考える必要があります。
物価下落傾向は賃金の切り下げが主導しているのではないか、ということが考えられます。政府の認識もそれに近いのではないでしょうか。
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消費者物価の継続的な下落傾向は、賃金の低下とともに生じており、両者は相互依存的に低下しているようにみえる。現金給与総額は、1995年以降、ほとんど伸びがみられず、次第に低下する傾向もみられるようになった。その間、消費者物価の上昇は小さなものであったため、賃金の低迷が家計に与えた影響は限定的であったともいえるが、その一方で、完全失業率は上昇し、雇用者の中でもパート、派遣、契約社員等正規従業員以外の者が増加した。こうした中で、物価や賃金低下の影響は、勤労者家計のおかれている状況によって異なっていたものと考えられる。
厚生労働省編『労働経済白書』平成21年版 73ページ
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厚生労働省大臣官房統計情報部編『第61回労働経済指標』平成二十年によれば、消費者物価指数は1999年:103.0、2008年:101.7(1.3ポイント減)ですから、消費者物価は1.26%減となります。この間の消費者物価の対前年変化率を見ると、6回は0.3から0.9%のマイナスであり、2回はゼロ、残り2回は0.3と1.4%のプラスになっています。物価下落傾向が定着しています。
次いで同資料で人々の所得と消費の状況を1999年と2008年とで比較します。国民経済的には雇用者報酬が269兆7648億円から265兆4788億円となり、1.6%減です。「全国、勤労者世帯」の実収入は、574,676円から533,302円へ7.2%減です。同じく消費支出は、346,177円から323,914円へ6.4%減です。以上は名目値ですが、実質賃金指数は101.7から97.0と4.7ポイント減であり、実質賃金は4.6%減となります。実質賃金の対前年変化率を見ても99年から08年までの間で1.0%増が2回だけで、あとの8回は0.1から1.9%減となっています。
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消費者物価と実質賃金
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消費者物価 |
|
実質賃金 |
|
|
指数 |
対前年変化率(%) |
指数 |
対前年変化率(%) |
1999年 |
103.0 |
-0.3 |
101.7 |
-1.1 |
2000年 |
102.2 |
-0.7 |
102.7 |
1.0 |
2001年 |
101.5 |
-0.7 |
102.1 |
-0.7 |
2002年 |
100.6 |
-0.9 |
100.2 |
-1.9 |
2003年 |
100.3 |
-0.3 |
99.7 |
-0.4 |
2004年 |
100.3 |
0.0 |
99.0 |
-0.7 |
2005年 |
100.0 |
-0.3 |
100.0 |
1.0 |
2006年 |
100.3 |
0.3 |
99.9 |
-0.1 |
2007年 |
100.3 |
0.0 |
98.8 |
-1.1 |
2008年 |
101.7 |
1.4 |
97.0 |
-1.8 |
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インフレ的収奪ということがいわれます。物価上昇に遅れて名目賃金が上げられることで、あらかじめ資本側がインフレ的利潤を獲得できます。これに対して物価下落期には、名目賃金の切り下げを先行させて資本側がまず強搾取を実現し、消費財価格の下落によって労働側はいくぶんか犠牲を低減させるという状況です。いずれもまず資本側が利潤を大きく確保し、遅れて労働側がいくらか賃金を取り戻すという形は共通しています。しかし実質賃金を見ると、インフレ期にはその上昇が抑制されたとはいえ継続的に上がっているのに対して、物価下落期には継続的に下がっています。労働者の生活水準そのものが低下し、絶対的貧困化が進んでいるのです。ここでの物価下落は労働者の痛みをいくらかやわらげるけれども根本的には彼を救いません。賃金下落の結果としての物価下落だからこの悪循環にとどまる限り救われないのです。この背景にあるのは、高度成長期から低成長期への移行で資本=賃労働の階級闘争が厳しさを増していることでしょう。ましてや昨今の世界恐慌時には犠牲の転嫁をめぐる死に物狂いの闘争になっています。先に引用した『労働経済白書』においても、失業をも含めた雇用形態のあり方の違いによって、物価変動の影響が様々な形で現われることが指摘されています。しかしそのような労働者階級内部の違いもさることながら、まずは資本と労働との間の違いが大きく存在しているのです。
以上のデータによれば、この10年間ほどは物価下落が続き、名目GDPは低迷し、実質GDPは微増にとどまり、名目賃金はもちろんのこと、実質賃金までもが下落しています。つまり市場価格的にはいずれも低迷しており、経済を物量的に見ても国内総生産は微増しているけれども賃金は縮小しています。生活を切り下げても無理して働いて生産を何とか維持しているような具合です。賃金の下落は需要不足を通じて強烈な不況圧力となりますが、対外需要などによってそれを回避して生産を継続しているわけです。こうした悪循環を前提にした不自然な悪あがきではなく、賃金上昇=生活向上による内需拡大を通じた生産の拡大という自然な好循環に転換しなければなりません。
ここで実質賃金の下落は大きな意味を持ちます。名目値が実質値を下回る(実質値が名目値を上回る)ことは物価下落が根拠であるとして説明できますが、実質値そのものの下落はそれでは説明できません。逆に実質賃金の継続的下落が消費支出減少による需要不足を通して物価下落を先導していると見られます。そして実質賃金の継続的下落とは、物価下落幅を上回るほどの幅で名目賃金の切り下げが継続的に強行されていることにほかなりません。
名目値と実質値との差をもたらす物価下落一般は、生産性上昇と超過供給(需要不足)によって生じます。生産性上昇はともかく需要不足という原因は問題ではありますが、ともかくも下がった物価水準において物量的には均衡しているならばまだましな状態ではあります。たとえば実質賃金(したがって生活水準)が下げ止まっているという状態です。ところが実際にはあまりに過酷な名目賃金の切り下げによって実質賃金も下がり続け、この均衡さえもが破壊され続けているのです。この基盤の上でかろうじて実質GDPが微増しているということは決して「まだましだ」と評価しうることではなく、無理偏に拳骨(と書いて角界では「兄弟子」と読む)状態の「成果」であって、まったく病的だと言わねばなりません。これを打開する、先の悪循環から好循環に転換する前提は労働者への分配を増やすことであり、改めて「成長と分配」という古くからの問題を考える必要があります。
「高度成長期に日本の経済を引っ張ったのは、民間設備投資だったが、安定成長期になると個人消費が経済を引っ張るようになった」(寺沢亜志也「日本経済の再生と個人消費回復への道」『前衛』2000年9月号所収、11ページ)という経済分析を経済企画庁が2000年版『日本経済の現況』で行なっています。GDPに占める個人消費の割合が大きくなってきただけでなく、投資と消費との関係が逆転しています。高度成長期には、「投資→GDP」という影響は「消費→GDP」の3倍以上になり、投資が増えれば消費が増えるという「投資→消費」という力は「消費→投資」という力の7倍以上でした。ところが安定成長期になると「投資→GDP」よりも「消費→GDP」の方が大きくなり、「消費→投資」の力が「投資→消費」の2倍以上になりました(寺沢論文、11ページ)。このような変化がなぜ起きたか、またその再生産論的解明は課題として残っています(史的かつ構造論的課題)が、とにかくこの事実を考慮して「成長と分配」の関係を見直すことが必要です。
スローガン的にいえば「成長か分配か」から「分配も成長も」となります。もっとも「成長か分配か」といっても実際には「資本に分配して労働の方は抑えよ、さすれば成長する」(資本蓄積=投資優先)という意味です。ここでは「成長」という言葉は資本を代表し、「分配」と言う言葉は労働を代表しているのであって、成長一般と分配一般とが対立しているわけではありません。経済効果において、消費に対する投資の優位という状況では、労働への分配を抑えて資本への分配を優先すれば成長を促進する、という命題です。逆に消費が優位という状況では、資本への分配を抑えて労働への分配を優先すれば成長を促進することになります。今は「労働への分配を増やせ、さすれば消費が拡大して成長する」なのです。
実質値が名目値を上回る名実逆転現象、つまり物価下落傾向が定着する下で、経済停滞が長期にわたって継続しています。ここでのキーワードは、実質賃金をも下落させるほどの大幅な名目賃金の切り下げです。この悪循環の起点にメスを入れる=賃上げを勝ち取ることで好循環に転換することが最大の課題です。統計を見るときは無残に低下した名目値に注目です。
先月には工藤晃氏がレーニンから学んだこととして「社会現象の分野では、個々の小さな事実をぬき出して自説を裏付けようとするような方法が広がっているけれど、それは根拠薄弱な方法。個々の事実をぬき取るのではなく、例外なしに、その問題に関係する事実の総体を取り、よりどころになる土台をきずく努力をしなければならない」という言葉を紹介しました。それを想起すると、以上の拙論はまったくの落第となります。ごく一部のデータだけで論じていますし、「賃金下落→物価下落」という因果関係も十分に証明されてはいません。現実の物価指数への対処にしても、GDPデフレータとか消費者物価指数とかあまたあるものを適切に扱うことはできていません。まったく穴だらけでしょうが、もともと自分の手に余るような課題なのだから、こういう低い到達点でも思いつきの経過報告だけでもしようというのが今回の拙文です。妄言多罪。