月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2016年7月号〜12月号)。 |
2016年7月号
下からのグローバリゼーション
グローバリゼーションは歴史の必然です。それがグローバル資本の主導で新自由主義グローバリゼーションとして進行してきたのも必然でしょう。しかしそれが格差と貧困をグローバルに拡大し、それへの反発と抵抗もグローバルな連帯を生み出しており、それも歴史の必然でしょう。問題はそれがオルタナティヴを提起して実現できるか、それを推進する下からのグローバリゼーションの主体形成は進んでいるか、ということです。様々なNPOや市民運動などが注目される一方で、労働組合は古い既成勢力として力量の低下が喧伝される存在になっています。確かに現代資本主義の変容の中で、大工場において陶冶され集団的な変革主体が形成されるという『資本論』などの労働者像は当てはまらない状況が多くなっています。しかし今日もなお、労働者階級は人口の多数を占め、その組織化による闘争力が社会的に大きな影響力を持つ(はずである)ことは変わりません。新自由主義グローバリゼーション下の新たな状況に応じて、労働組合がどう運動を連帯的に発展させていくかは各国と世界の政治経済の変革にとって重要な意義を持ちます。
布施恵輔全労連国際局長の「グローバル大企業とたたかう労働組合の国際連帯 全労連・国際シンポジウムの成果から」には、世界の様々な労働組合による、下からのグローバリゼーションを担う活動が紹介されています。
特に注目されるのがオーストラリアのナショナルセンターのアンドリュー・デットマー氏の報告で、布施氏は次のように紹介し高く評価しています。
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オーストラリアはこれまで移民を受け入れてきた国ですので、労働組合は海外から働きに来る労働者の労働許可に対して、極めて厳格なルールをもって、きちんと規制することを求めたたかっているのが特徴です。そのため、オーストラリアは日本よりも労働市場は開放されていますが、建設の組合では一定の資格がなければ働くことができず、入ってきた労働者の労働条件は確保されます。それは移民労働者を排除する論理ではなく、入ってきた労働者をきちんと組合に組織化しています。その点は日本よりも進んでおり、学ぶ点は多かったと思います。 124・125ページ
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今日、ヨーロッパでは移民問題が社会を揺るがしていますが、オーストラリアの労働組合はきちんとした運動の論理でそれに正しく対処していることが分かります。排除の論理ではなく、平等と組織化の論理によって、法外な搾取を防止するとともに、新たな格差の持ち込みがもたらす労働者間の分断的競争を未然に防ぎ、社会の中に無用の対立を生じさせない努力をしています。まさに社会進歩における労働者階級の役割を絵に描いたように実践しています。当然のことながらそれは坦々と進むわけではなく、「政府が労働組合に厳しい攻撃をしている背景に、組合が自由化政策の邪魔だという考えがあることも、オーストラリアの特徴だ」(125ページ)ということになります。このように分断と連帯との厳しい対峙があります。そこにおいて労働組合=組織労働者が固有の論理を持って闘い、社会の中に確固たる地位を確保していることが、世論にも大きな影響を与えうるのではないでしょうか。
多国籍企業の民主的規制の取り組みという点で、布施氏はインドネシアからの発言を重視しています。
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インドネシアではこの3年ほど、韓国と同じように大規模なストライキをうって、最低賃金を引き上げる取り組みが積極的に進められています。ここには、低賃金競争をして資本を呼び込むのではなく、ディーセントワークを実現してこそ経済のグローバル化に対応できるのだという、労働組合の提起の方向や問題意識が非常にはっきり現れています。東南アジアでは経済統合も進んでいると同時に、各国間で賃金水準に格差があります。その点を踏まえ、東南アジアレベルでの連携のあり方を深め、それをアジア全体に広げていこうという方向性にはこれからも積極的に参加したいと思わされました。
126ページ
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発達した資本主義諸国を含めて、搾取強化や社会保障削減などの攻撃を激化させる背景として、底辺へのグローバル競争があります。グローバル資本に依拠した諸国の政府が、個人の尊厳を毀損し、諸要求を圧殺する新自由主義政策を展開できるこの基盤を規制することが是非とも必要であり、インドネシアなどの運動に倣って労働組合のグローバルな連帯が求められます。
このように世間の思い込みとは違って、先進的な労働組合運動は今なお社会的影響力を持ち、新たな運動の地平を切り開いています。しかし非正規労働者、低賃金労働者は圧倒的に未組織であり、どう運動をつくって組織化していくか、模索は続きます。この点で最賃の引き上げを各地で実現してきたアメリカの経験が参考になります。
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アメリカの「15ドルのためのたたかい」は、グローバル企業に対抗する運動の軸として、非正規労働者が直接声をあげて労働組合を組織し、社会的な運動と一体となって展開して、運動のあり方として極めて示唆があると思います。彼らの組織化の最初のひと言は、一緒にストライキをしないか、というものなのです。労働組合に入ろうではなくて、あなたのその状況を改善するために、一緒にたたかおうよというのが最初の言葉なのです。
129ページ
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このように労働者の状況と意識に見合った呼びかけが大切です。日本でもエキタスやユニキタなどの「若者のグループが、最低賃金や非正規労働の問題を取り上げて、デモなどをする動きが始まっています」(同前)。「人間らしく働きがいのある仕事を実現するために、最低賃金の引き上げなどの課題を地域にもちこみ、ディーセントワークを実現するために連携してたたかい、労働組合に入ってもらう流れをつくることの重要性は各国でも共通しているものです」(130ページ)。
こうした動きをさらに自覚的に広げていくものとして、全労連は今年の春闘で「社会的賃金闘争」という運動を提起しています。それは、最賃の引き上げ、公契約条例制定による地域の中小企業の賃金の引き上げ、公務員賃金の保障による公共サービスの拡充という三つの柱からなります(122ページ)。ここには企業別組合が自分たちの賃金闘争に特化した従来の運動を超えていく方向性があります。労働運動が資本の勝手気儘を許さず社会的規制力を発揮して、地域社会を変え、世論にも影響を与えていくことが非常に重要です。弱肉強食の競争の論値(分断)を超える組織労働者の論理(連帯)を企業内・産業別・地域・全国といった重層的闘いにおいて貫徹し、世論を変え政治を変えていくことが、下からのグローバリゼーションを支える力となります。……社会保障の財源をどうするのか。国際的な法人税切り下げ競争やタックスヘイブンを放任していては何もできない……私たちの要求実現を阻害しているのが究極的には、グローバル資本の利潤追求に偏った新自由主義グローバリゼーションであることは明らかです。それへの民主的規制を実現する世界人民の闘いにおいて労働組合・労働運動の国際連帯がきわめて重要になっています。
戦争と経済
先月の「感想」の最後に、参議院選挙に絡めて、安全保障政策の問題について書きました。それは抽象的な一般論に留まっていたし、経済の問題に言及していなかったので、今回は多少なりともその穴を塞ごうかと思います。
小泉親司氏の「戦争法と日・米『軍産複合体』の進展」は、軍需産業という経済的土台から人権・民主主義抑圧の政治反動や学問研究の軍事化という上部構造まで迫る論稿です。
安倍政権は軍拡を誇るという異常な性格を持ち、米国製の攻撃兵器を大量に購入しています。その第一の理由は戦争法に基づく対米従属の戦争準備態勢をつくることですが、第二の理由は衰退するアメリカの軍需産業を救済する軍事分担です。そのため取引方法として、これまでよりもライセンス国産を抑えて、「価格や取引条件など、すべてがアメリカの言い値≠ナ決まる」(103ページ)FMS(米政府売却)がこの10年間で5倍以上に膨れ上がっています。それでは日本の軍需産業の利益が失われるので、その強い要望で、F35の導入に当たってはFACO(最終組み立て)方式がとられました。それによって三菱重工の生産ラインの設置に852億円、IHIの組み立て工場の建設に426億円などを投入し、さらにはアメリカ他の共同開発国への技術支援経費として3年間で1995億円を義務付けられたりして、単価が大幅に跳ね上がっています。「日本の軍需産業を救済するFACOのためだけに、多額の国民の血税が投入されていいのか」(107ページ)という事態になっています。
また自衛隊へのF35やオスプレイの導入に伴って、日米「両軍」しかも平時だけでなく戦時のその整備態勢を国内に設置する計画になっています。「世界規模で米国の支援センターと現場部隊をシステムで結んで整備支援等をする兵站システム」(ALGS体制、108ページ)に組み込まれるのです。まさに戦争法の予定する麗しい日米同盟の協力態勢の実現です。日本の予算を使った日米軍事産業の救済は、対米従属の戦争準備態勢へますます深く日本を引きずり込むことになります。
最後に小泉氏は日米「軍産複合体」が日本を導く三つの危険を指摘しています。第一は「日本がさらなる軍備拡張を義務づけられ、国民のくらし、福祉、医療が切り捨てられる危険」です(110ページ)。第二は「武器輸出の突破口になる危険」(111ページ)、第三は「秘密保護法の拡大・強化や日本の軍事化の急進展の危険」(同前)です。第二については、ALGS体制では「それぞれの国がF35 の部品やエンジンを製造し、必要としている国に提供することを義務づけている」(同前)ことが指摘されます。第三については、F35やオスプレイなど高度の機密性を有する兵器の導入が秘密保護体制の強化・拡大につながることが考えられます。また最近「軍学共同」復活の動きが活発で、学問・研究の自由の侵害も危惧されます。まさに「『軍産複合体』は、国民生活の『繁栄』ではなく、日米の軍需産業の『繁栄』をはかるものである。それはまた、戦争を引き起こす道である」(113ページ)と言わねばなりません。「我が国をめぐる安全保障環境の悪化」なるものによって戦争法がつくられたのではなく、日米「軍産複合体」がそれを欲したのであり、「中国・北朝鮮の脅威」なるものに対して「軍事的抑止力」ではなく、外交努力によって解決する以外の道はないことは明らかです。
軍需産業が国家財政を圧迫して社会保障を削減し、戦争を呼び起こすことはもちろん日本だけのことではありません。古賀茂明氏はこう言っています(「悪魔の成長戦略 民意が変質させられる前に」、『世界』6月号所収)。
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武器を売って喜ぶのは「武器産業」とそれと癒着した「政治家」たち。彼らには、悪人というイメージがある。しかし、実は、喜ぶのは彼らだけではない。普段は善良な労働者と一般の市民らも自分の生活の利益になると思えば、決して悪気はないものの、武器輸出に拍手を送る人間になってしまうのだ。 128ページ
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その典型例として古賀氏はフランスの最新鋭戦闘機ラファールの「大成功」を挙げます。2014年にはさっぱり売れなくて「世紀の大失敗」とされていたのが、2015年には中東諸国に飛ぶように売れて「大成功」とされ、マスコミでもヒーロー扱いだとか。売れた原因はシリアなどで高い空爆性能を証明したから、ということで、雇用が3000人生まれたとか、それを報道する口調に罪悪感はほとんど存在しない、というのです(127ページ)。
谷口長世氏の「国際テロの巣窟の街で眺めた素顔の軍産複合体」(『世界』6月号所収)によれば、2014年、防衛装備品及び技術の移転に関する日仏間協定が結ばれていますが、フランスの武器輸出先の2位は中国です。つまり日本の技術で性能の向上した武器が中国に輸出される可能性があります。安倍首相が煽る中国脅威は日本自身の技術によって高まるかもしれないのです。まさに安倍軍拡は日本と世界の軍需産業の掌で踊っていることになります(他にも日本の技術流出によって軍事的脅威が高まる可能性の紹介としては、『世界』6月号所収の望月衣塑子「国策化する武器輸出 防衛企業関係者は何を思うか」参照。そこには日本の非軍事的実績と平和意識に規定された防衛企業関係者の武器輸出に向ける戸惑いも描かれており、引き返す可能性も示唆されている)。さらに谷口氏は中東などの戦争が欧米からの武器輸出で支えられていることを告発しています。欧米諸国の和平「努力」なるものが本気かどうかが疑われる事態です。イラク侵略戦争を始めとして、欧米諸国が中東を含む「不安定の弧」で犯してきた数々のヘマが紛争を拡大し、軍需産業の利益になっていることは少なくとも客観的事実ではあります。
谷口氏は欧州屈指の軍産複合体研究者のベルギー人、ルック・マンペイ氏の言葉を紹介しています。
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当面、軍産複合体はコントロール不能だ。合併・買収のラッシュの末に巨大化した軍事産業は、今では欧州のほとんどの国の政府よりも力を持ってしまった。自国とは無縁の国々の多くの金融上の利益や産業・雇用の利害が絡むため、もはや一国の政府が独自の政策と戦略を貫くことは非常に困難になった。 136ページ
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このような軍産複合体に対して国連のコントロールがあるべきですが、潘基文事務総長は武器輸出大国に対して生産や貿易を控えるようには言わず、所謂「国際社会」の嘆きと非難表明のスポークスマンに成り下がった、と谷口氏は厳しく批判しています。日本についての次の評価と提言も正鵠を得たものです。
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安倍首相は一昨年に憲法九条の再解釈によって日本の集団的自衛権発動に道を開き、昨年、これを受けた安保法制を性急且つ強引に成立させた。私はこの一連の暴走政治を世界規模で進む軍産複合体の再編の一部と認識している。ならば操られる安倍首相への批判に留めず、暴走を許した構造自体にメスを入れねば暴走はポスト安倍も続く。
136ページ
国連改革における日本の使命は、空手形の日本の安保理常任理事国入りではない。国連諸機関が任務と機能を存分に発揮するよう、兵器の非生産・非輸出の代表となり、世界を主導することだった。だが逆に、愚かにも武器輸出三原則というタテマエを捨て「死の産業・商人」に仲間入りする道を選んだ。
136・137ページ
今後、日本は否応なく軍産複合体の影響の強まりと、見たことのない脅威に次々とさらされるだろう。その中で憲法改正の世論説得が進む。グローバル化する軍産複合体に操られる政府は国民生活は窮乏させ、やがては国は破綻へ導く。大国・日本も例外ではない。良識ある政党には軍産複合体のホンネを見抜く眼力が要る。主要国の息のかかった非政府機関(NGO)と違う、「国際協力機構(JICA)を監視する会」(架空の組織)等の自立した市民団体が要る。報道界も、遠足日記のような、見せられたままを描く幼稚園ジャーナリズムを卒業すべきだ。政府や軍産複合体にとり手強い調査報道の特別報道部や特定分野一筋の専門記者を育成し、重用する時代が来ている。使命は重い。
137ページ
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谷口氏はブリュッセル在住でベルギー国際記者連盟副会長という肩書を持っています。「遠足日記のような、見せられたままを描く幼稚園ジャーナリズム」という強烈な揶揄に並々ならぬ矜持と使命感が感じられます。
今世界で起こっている戦争を理解する鍵がここにあるでしょう。日本でも戦争法や安全保障問題を考えるとき、法的・政治的検討がまず第一に来ることは当然としても、経済的土台に目を向けることが事態の真相に迫る上で不可欠だとつくづく思います。
ISのような凶悪な組織があるのだから空爆も仕方ないか、と迂闊にも思ってしまいますが、ISのようなものができた理由をまず知ることが大切です。臨場感を持ってそれを教えてくれるのが、高遠菜穂子氏の「死の商人はどこから来る? イラクの現実と軍需産業」(『世界』6月号所収)です。そこでは「イラクの解放」と称してやってきた米兵の蛮行、住民たちの非暴力のデモ、その要求に対して発砲で答えたイラク軍、それでも丸腰でデモに参加する市民たちとまたしても発砲で答えるイラク軍、それらが描かれています。一時、発砲事件の前には「これだけのデモが毎週各地で行われ、政府との交渉がうまくいけば、彼らはデモで自由と権利を獲得できるかもしれないと思えたくらいだった」(103・104ページ)高遠氏も現地の人々と同じ幻滅を味わうことになります。人々の要求が政府によって解決されず、回答が暴力であったことが、アルカイダやISの跳梁を許すことになったのでした。ISはイラク軍の空爆で死者が出るたびに見舞金を出すなどして人心を掌握し、ほんの数カ月の間に「建国宣言」を出すまでに至りました。
2014年3月1日にはバクダッドで「第3回国際武器見本市」が開催され、9カ国から50社以上が参加しました。15年、16年も開催されています。軍需産業が稼ぐそうした武器を人々に使った悲惨な結果の一端を高遠氏は描写していますが、余りにむごいのでその引用はやめておきます。
イラクの民衆には何の責任もありません。彼らは事態の平和的解決に立ち上がってもいましたが、それはアメリカやシーア派のイラク政府によって葬られ、ISの登場などによってますます死の商人たちの稼ぎ場とされています。
ここで考えたいのは、発達した資本主義国と発展途上国との関係です。以上で見てきた中東での戦争と軍産複合体の実態などを見れば、前者が加害者で後者が被害者であることは歴然としていますが、人権・民主主義などの問題では発展途上国の問題がいろいろと出てきます。両者の国内での問題と国際関係の問題とを絡めてどう捉えるべきか、時間がないので今後の宿題としたいと思います。
社会科学の視点
戦前を舞台にしたあるドラマの中で「女が一人で生きていけるほど世の中は甘くない」という意味の台詞がありました。いまどきそういう言い方はあまりしないかもしれませんが、「******ほど世の中は甘くない」というフレーズはよくあるように思います。しかし考えてみると、この場合甘えているのは「女」(とか「**」)ではなくて「世の中」の方ではないでしょうか。……「世の中」からすれば、「女」は安い賃金で思い通りに使える、したがって「女」にとって、そういう「世の中」は一人では生きにくい、という結果になる……事実を客観的に俯瞰すればそういう状況が見て取れます。「女」が生きにくい責任は「女」ではなく「世の中」にあるのです。甘えているのは「女」ではなく「世の中」なのです。ところが普通は逆に見えてしまいます。資本の強搾取を隠蔽してなおかつ個人を責めたてて強搾取をさらに推進する、という転倒した構造を資本主義市場経済は持っているのです。
親と同居して自立できないワーキングプアの若者をかつて「パラサイトシングル」と呼んで非難していました。親に頼る情けないいまどきの若者、というわけです。しかしこれも俯瞰的に客観視すれば以下の状況が見えてきます。資本は、若者が自立できないような労働力の価値以下の賃金しか払いません。そこで親が不足分を補っているのです。つまり若者に対して資本は通常以上の強搾取を実行した結果、親の所得(か資産)がその穴埋めに使われています。資本は若者だけでなくその親も搾取しているのです。ところが直接見えてくるのは「情けないいまどきの若者」であり、「パラサイトシングル」というバッシングが横行することになります。
前近代の共同体社会が崩壊して市場経済が発展し、独立・自由・平等の市民社会が成立すると諸個人の自立が自覚され、それが基本的人権の土台になります。そこで諸個人は向上心を持って真面目に自己の人生に取り組み、自らの責任において生きていくことになります。社会はそうした諸個人の集合体でありながら、それ独自の構造を持っています。搾取社会であれば諸個人の努力は搾取の仕組みの中に回収されます。諸個人の努力は本来同時に自己実現の過程でもあるのですが(こちらの側面を捉えない限り、社会進歩の運動は単なる現体制批判に終わり、一つの社会の生産力を把握して変革を達成することはできないのですが、その課題はここでは措きます)、その仕組みから逃れるわけにはいかず、そこには様々な矛盾が生じます。
こうして自己責任論は市場経済・市民社会に適合的なイデオロギーであって、そこに積極面もありますが、同時に資本の搾取を隠蔽し推進するイデオロギーともなります。諸個人の向上心・責任感・真面目さに付け込んで社会の責任を免罪する、という一般構造がそこにありますが、とりわけ資本主義的強搾取の隠蔽と推進が中心であり、「******ほど世の中は甘くない」という本来転倒したイデオロギーを自然な意識として感じさせます。このようにして、実際には社会が諸個人に対してひどいことをやっていても、諸個人の側が自らの至らなさを責めることで、既成の抑圧的な秩序を保ち、とりわけ強搾取を推進していることが隠蔽されます。
諸個人のアクションを出発点にして、社会をアトミックに捉えるブルジョア社会科学はそうしたイデオロギー・意識構造の無批判な反映であり、それがいかに精緻を極めようとも科学的認識としては根本的欠陥を持ちます。個人の尊厳から出発することは大切ですが、それが新自由主義的な自己責任論に回収されないためには、個人の集合体でありながら個人を支配する疎外体でもある社会のあり方を独自に解明する社会科学の視点が必要です。個人の努力という実感に満ちた身近なリアリティは当然尊重されるべきですが、それだけでなく社会を俯瞰・客観視する中にこそ自分が何であるかが科学的に解明される、ということが自覚されねばなりません。
以上のことは実務の視点と理念の視点との対立として描くこともできます。日常生活を過ごし、仕事をこなすには、既成秩序や資本主義的市場経済がもたらす物神崇拝を無批判に前提しなければ進まない、というところがあり、その無批判像にリアリティが感じられ基準とされます。たとえば様々な所得や資産の源泉が何で、そこにどう搾取が隠されているかをいちいち詮索していると仕事は進みません。現にある所得や資産は資本主義的所有関係の下に生じたもので、課税はそれを基準にされます。現行制度に従ってテキパキと実務的に計算されねばなりません。すると富裕な所有者にすれば、累進課税なるものは国家権力が不当に収奪するもので、理論的根拠がなく、ただ政策的要請から強制されるように観念されます。実務の視点からはそれが正当に見えます。
理念の視点では、資本主義的所有関係そのものが批判的に検討され、投下労働の観点から富の源泉を考えるところから出発し、累進課税の理論的根拠が考察されるでしょう。実務の視点は日々社会を形成しているものであり、強力に自己貫徹します。それに埋没しない理念の視点を堅持する必要があります。受験勉強のように暗記された理念の視点では実務の視点に太刀打ちできません。そこに変節の一つの重要な原因があります。実務をこなす中に理念の貫徹を探る社会科学力のようなものが必要です。
2016年6月29日
2016年8月号
電力システム改革と原発ゼロ
大島堅一氏の「電力システム改革と原子力延命策」はそのテーマについての簡潔明瞭な論稿で問題の基本構造をつかむことができます。中心は電力システム改革の意義・任務と方向性であり、それに照らして原子力政策に対する評価が定まります。
従来、発電・送電・配電・小売を垂直統合した地域独占の電力会社による既存の体制こそが電力供給の安定性と経済性に優れていると考えられてきました。しかし東日本大震災と福島第一原発事故によってその欠陥が露呈し、「既存の電力会社から送配電部門を切り離して公正・中立的な系統運用を行わせ、同時に、多様な事業主体が参加する、公正で開放的な市場を形成」し「事業者間で活発な競争を行わせ、効率的で安定的な電力供給体制をつくる」(16ページ)電力システム改革が必要となりました。
電力システム改革そのものは、2030年代原発ゼロ政策を曲がりなりにも表明した民主党政権下で始められましたが、自民党の政権復帰によって原子力回帰が明確になった後も引き継がれました。しかし原発の安全基準が強化され、電力システム改革によって総括原価方式の電気料金が撤廃される下では、コスト高に見合う収益確保は困難となり、原子力の経済性は厳しい状況を迎えます。そもそも電力システム改革と原子力推進とは矛盾するということです。それでも原発利益共同体の番頭である自民党政権においては、原子力の三つの延命策(24ページ)が講じられるとともに、再生可能エネルギーなどを抑制して「発送電分離のもとでも、原子力優先の系統運用が継続してい」ます(25ページ)。その先行きを見通して大島氏は当然のことながら次のように厳しく批判しています(26ページ)。
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原子力延命策は、現時点でも未完成であり、今後も制度改変が進められる可能性がある。このことは同時に、原子力のリスクとコストを国民・電力消費者に転嫁することを伴っている。原子力延命策が完成すれば、原子力を半永久的に保護しながら、その他の電源や事業者は自由競争の下に置くという歪んだ電力市場ができあがる。これは、電力システム改革の意義そのものを大きく減じることになるだろう。
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2014年閣議決定「エネルギー基本計画」は原子力を「ベースロード電源」と位置付けることで再生可能エネルギーなどよりも優先する体制を構築しようとしました。ドイツなどでは消え失せつつある「ベースロード電源」という考え方を残すことで、欧州で採用されているメリットオーダーという限界費用の安い電源を優先使用する方向が妨げられます(18・19ページ)。電力システム改革は、リスキーな原子力から限界費用の安い再生可能エネルギーへの移行を実現して、電力供給の安定性と経済性を増大させます。その意義を損なうような原子力保護を許していれば、生産力段階としても日本は欧州などから周回遅れの位置に留まることになるでしょう。日本資本主義の行く末がそのようなところであっていいはずがありません。原発利益共同体は、もはや従来からの国家的保護政策によるぼろ儲けと福島を始めとする数々の事故に対する贖罪として、廃炉や核廃棄物処理という後始末事業に特化すべきでしょう。そこで培われるであろう技術や経験は原発ゼロの日本の実現にとって不可欠なだけでなく、新たな国際貢献となることは間違いなく、少なくとも今後、半世紀以上にわたって必要な産業分野となるでしょう。原発や石炭火力発電などを典型とする悪質なインフラ輸出が、世界の環境破壊や諸国人民の生活圧迫の元凶となり、わが国の評価を落とすことと比べればどれだけよいことか。わが原発利益共同体は、地震国でテロにも揺れるトルコに原発を輸出するなど、あらゆる意味において正気の沙汰とは思えないことを敢行するつもりです。この無責任な貪欲さは政治の転換によってしか阻止しえないのでしょうか。
2016年参院選結果を受けて
7月10日に実施された参議院選挙は戦後初めて本格的な野党共闘が実現し、それが一定の成果を上げたことが最大の注目点です。とはいえ、全体としては安倍政権与党が勝利し、野党が敗北したという事実は直視せざるを得ません。初めは野党共闘が「戦争法廃止・立憲主義回復」という大義を掲げ、攻めの課題で臨んだ選挙でした。しかし選挙情勢の不利が伝えられる途中から、改憲を許さないため自公与党と他の改憲勢力による2/3議席獲得を阻止する、という課題まで戦線を後退して闘って、それでも敗れたのです。死守ラインを突破されました。もちろん改憲勢力は多分に呉越同舟の要素もありますから、このまま一気呵成に改憲とはなりませんが、決して油断できない象徴的な結果を招いたことは重大です。
選挙終了後、安倍政権がまず手を付けたのは、沖縄東村高江におけるヘリパッドの建設再開であり、さらに辺野古基地建設のために、翁長知事の埋め立て承認取り消しの違法確認訴訟を起こし、陸上部分では工事を強行する構えです。沖縄選挙区では現職の大臣が野党統一候補に10万票差で敗れ、民意は明白であるにもかかわらず、まったく無視して国家権力の暴走が再開されました。選挙中の演説では安倍首相は改憲隠しに終始していましたが、「選挙に勝った」となればマスコミも動員して改憲策動に拍車をかけています。このように政権の暴走は計り知れずという状況です。このまま推移すれば、改憲などで今回の参院選が歴史のターニングポイントであった、と将来評価される事態となる可能性も大です。
戦争法廃止・立憲主義回復や安倍政権の暴走を止めることが選挙戦の意義であることに何ら間違いはないし、その訴えが届いたところでは熱い反応が起こったことは事実です。しかし今なおそれが届かない人々が多数派であり、安倍政権の危険性について実感を持たない、というのが世間の一般的感覚であることに留意する必要があります。「正義の訴え」は多分に空回りしており、それに気づかずに、「目覚めた人たち」という内輪で盛り上がっている状況だということを直視すべきです。上記の沖縄の一件だけでも、恐るべき民主主義破壊の暴挙であり、世論が沸騰して政権が倒れるくらいの事件であるべきなのですが、決してそうはならない、という状況が「達観」されています。それは沖縄の問題だから、というにとどまりません。戦争法の強行でも同様です。この「空気」は何か。本来そのように問題を組み立てるべきですが「思いもつかない」。なぜなら、心底安倍政権に怒りを燃やしているにもかかわらず、状況に悪慣れしているのか、潜在意識では諦めているのか、世論が全体として立ち上がってくるという実感がつかめないので、反対勢力の側でさえも、本来の筋を忘れて成り行きを眺めるかのようになってしまっているからです(内輪での盛り上がりに「確信」を深めながらも、世論一般の温度差も感じ取っている状態)。それほどに民主主義破壊が日常化してしまっている「安倍政権時代」をどう捉えるかが問われています。
事実上、憲法遵守義務を無視して暴走する安倍政権は、戦後ずっと続いてきた保守政権一般とは違う異質で最悪の右翼政権であるにもかかわらず、一応、政府として存在し続ける以上はあたかも通常の民主主義的政権であるかのように扱われ続けることでそれが既成事実化し、広く受容されていきます。一部にこの現状に怒りが鬱積し批判的政治行動が活発化しながらも、世論全体としてはこの既成事実化につられて社会意識の基軸が右傾化している状況を的確に把握する必要があります。
安倍政権は政策的にはまったく行き詰まり、個々の重要な中心的政策に対する世論の支持も失われています。もはやアベノミクス幻想は衰退しつつあります。にもかかわらず内閣支持率が(戦争法の強行採決時などの例外はあるにしても)一貫して4から5割程度を維持し国政選挙にも4連勝するという逆説(アベ・パラドクス)を解明することが喫緊の課題です。それを看過して野党共闘の一定の成果という視点を中心に今回の参院選結果を捉えるわけにはいきません。野党共闘の一層の前進のためにも、アベ・パラドクスを直視し、特に民意のあり方を捉える視点から考察を加えることが求められます。とはいえ、私に今まとまった答えがあるわけではないので、あれこれ気づいたことを書きながら考えていくしかありません。したがって以下は散漫なできそこないの随筆のようにならざるを得ないのですが、そこを経過しないでは真実に接近することはできないだろうと思っています。
参院選投開票の翌日、7月11日のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」に印象的なシーンがありました。ヒロイン常子が妹二人と協力してつくり上げた雑誌「スタアの装ひ」を、後に「同志」となる花山が実に的確に酷評しました。……何を見せたいのか。文章か絵か。テーマがはっきりしない。何が言いたいのか。割り付けがみんな同じでメリハリがない。読者を想像できていない。食うものもない時代に浮世離れした服を見せてどうする。材料をどう手に入れるか。型紙も載せないでどう作るか……
まさに今回の参院選の野党にそのままあてはまると思いました。すでに野党共闘で国会には15もの法案が共同提案されるという実績がありながら、選挙戦ではそれを基にアピールする点をしぼって争点を明確にすることに失敗していました。中心点がはっきりせず、せっかくの実績の野党共闘の政策も実現の手段がどうなっているのかよく見えない状況でした。そして何よりも「有権者を想像できていない」。人々の生活実態とそこから来る実感・関心事・願い、そして政治知識のあり方を理解せずに、「正解」を一方的に訴えていたのではないでしょうか。
政治知識について言えば、改憲勢力が3分の2を占めることについて、その「3分の2」の意味(改憲の是非を問う国民投票の発議に必要な衆参両院議員の割合)を8割以上の人が知らない、という驚くべき報道がありました(投票前の7月5日付「高知新聞」。7月25日付「全国商工新聞」の斎藤美奈子氏の随想に教えられた)。また24歳のある若者が介護職の職場で話した内容では、一人は誰に入れればいいかわからないので投票に行かない、他の一人は、期日前投票に行ったけど、情報がないので勘で入れた、とのこと(「しんぶん赤旗」7月20日付「若いこだま」)。それを受けたこの投稿者の考察……「確かにふだん車で移動していたら候補者のポスターも見ない。携帯電話で生活していたら選挙の電話も関わりない。選挙の電話も、せっかくの休みに迷惑と思う人もいることは理解できる。忙しい→疲れる→情報気にする余裕がない→選挙行かない→改善されない→忙しいの悪循環。/けれども、もっと選挙へ興味持ってほしいなーと思います。自分の身にも降りかかるって感じにくいのですかね。」……確かに人々の実情に心を寄せても、それだけでは政治参加への(ましてや政治変革につながる)解決策は見つからないのですが、少なくとも相手の事情や気分感情かまわず「正論」を流し込むスタイルを卒業しなければ勝てない、という問題意識は持つ必要があります。人々の生活と労働の困難と悪政の悪循環、ここにどう切り込むか…。「赤旗」にはこういう優れた反省的な投書も載っていたのですが、しかるべく学び活用されていると言えるのでしょうか。話題になった「保育園落ちた日本死ね」に匹敵するような政策の打ち出しで、人々に忙しさと余裕の欠如をも忘れさせるくらいにその心をつかまえる、という構えが必要です。
朝ドラ「とと姉ちゃん」では、花山がスカートをはいてくるシーンがありました。花山のモデルの花森安治氏がスカートをはいたというのは有名なエピソードですが、ドラマではその理由として、男性も女性の立場に立ってみる必要性が力説されていました。男のスカート着用が象徴するのは、相手になりきる努力を払ってまでする「違う立場への想像力」でしょうか。このドラマのテーマは一言、「暮し」。ささやかな日常生活のかけがえのなさと大切さ。それ以上のものはない。それを侵す国家と戦争への怒り。ちょっとした工夫と心遣いが生活に彩りを添え豊かにすること。常子や花山たちの雑誌は、そうした生活に内在しそこでの必要性をキャッチすることからつくられました。それは食うや食わずの時代から必然的に生まれたのでした。今日、私たちは一方では便利さや豊かさに満ちながら、他方では格差と貧困、そして深い閉塞感や疲労感にさいなまれながら生活しているのだから、そこに真に内在するなら人々の心情にフィットした政策とそれを現わす言葉を必ず生み出すことができるはずです。このように「とと姉ちゃん」から学ぶことは大きなものがあります。今や政府広報と化したニュースを毎日流し続けるNHKの中にあって、こういうドラマをつくる志ある人々がいることがどれだけ尊いことか。この番組のプロデューサーが「しんぶん赤旗」日曜版に登場(7月17日付)し、「現代への強いメッセージ」として反戦の誓いを語った心意気には感動しました。
閑話休題。以下の表は、2012年に自民党が政権復帰した以降の4回の国政選挙における比例代表の得票数と得票率の推移を現わしています。自民党は12年総選挙の1600万票余り、率にして約28%に対して、今回16年参院選では2000万票余り、約36%と増えています。小選挙区制効果によって無理やりつくられた「一強多弱体制」の錯覚が支配しているとはいえ、四年間にわたるこの自民党の強さはそれだけでなく、何らかの実体を伴っていると考える必要があります。もっとも、「強さ」と言っても投票率が54.70%なので、自民党の絶対得票率は19.6%と、2割弱に過ぎないのですが…。それにしても有権者の半数近くが棄権することで結果として、政治の現状に対する事実上の白紙委任を与え、投票者の3分の1以上(4割近く)が、あまり政策を支持しているわけでもない政府自民党に投票する、という消極的で不本意な二つの政治行動が安倍自公政権を支えているとは言えます。あえて言えばその政治行動は無関心と空虚な支持の現れです。投票の棄権をすべて無関心の結果というわけにはいきませんが、無関心やそれに近い状態が重要な要素である以上、その状況をどう理解するかが問題であり、空虚な支持の中身を考えてみることも必要です。
ついでに下表から自共対決の様相を見ます。それは今回重要な野党共闘という文脈からははずれますが、階級闘争の一番の基礎を確認するという意味では重要です。7月26日現在の国会議席数を見ると、衆議院:自民党289、共産党21で、参議院:自民党122、共産党14であり、議席比は衆議院で13.76倍(自/共)、0.07倍(共/自)、参議院で8.71倍(自/共)、0.11倍(共/自)となります。ここから来るイメージとしては、大ざっぱに言って自民党は共産党の10倍くらいの支持があり、共産党は自民党の1割程度の支持しかないように見えます。しかし実際に各党の実力を現わす比例区での得票を最近4回の選挙で見ると、格差最大の12年で、4.51倍(自/共)、0.22倍(共/自)であり、格差最小の14年では、2.91倍(自/共)、0.34倍(共/自)となります。近年では自共の実力比はだいたい3倍(自/共)、3割(共/自)程度になっています。今回16年の参院選では安倍首相を先頭に厳しい反共攻撃が加えられたので、14年総選挙よりも共産党は後退させられましたが、自共の勢力比はおおむね持ちこたえたと言えます。
自民党への支持はあまり政策によるとは言えない消極的なものだという意味では質が悪い。しかもそれだけでなく量的に見ても得票が共産党の3倍程度でしかない(10倍は錯覚)。「一強多弱」というのは虚像であり、案外敵は我々の射程圏内にあるという実像を捉えておく必要があります。以下ではアベ・パラドクスの解明を念頭に厳しい考察が多くなるでしょうが、それは一面であり、しかも主観的要素が大きいのに対して、他面では以上に見たように、得票実績という重要な客観的要素においては先行き有望だともいえることを、ここであえて申し添えておきます。共産党のこの実績を土台として、いかに野党共闘を効果的に作動させるかで、安倍政権打倒への道が開けてきます。
比例代表の得票数と得票率の推移
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2016年参院選 |
2014年総選挙 |
2013年参院選 |
2012年総選挙 |
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得票数 |
率 |
得票数 |
率 |
得票数 |
率 |
得票数 |
率 |
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共産 |
6,016,195 |
10.7 |
6,062,962 |
11.4 |
5,154,055 |
9.7 |
3,689,159 |
6.1 |
||||
自民 |
20,114,788 |
35.9 |
17,658,916 |
33.1 |
18,460,404 |
34.7 |
16,624,457 |
27.6 |
||||
倍率 |
3.34倍 |
0.30倍 |
2.91倍 |
0.34倍 |
3.58倍 |
0.28倍 |
4.51倍 |
0.22倍 |
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(注)最下段は自民党と共産党の得票比較で、
各選挙の左側は 自民÷共産、右側は 共産÷自民
アベ・パラドクスへの一つの答えとして有力なのがメディアとかジャーナリズムの問題です。確かに『世界』8月号は「ジャーナリズムが生き延びるには」という特集をしているし、「朝日」の論壇時評では小熊英二氏がメディアの委縮を論じています(7月28日付)。「しんぶん赤旗」でも、超タカ派の安倍内閣が選挙で「連勝」するのは「マスコミがそれに対して的確に批判をしないからです」と、田原総一朗氏が強調していることが紹介されています(谷本諭氏の論壇時評「政権のメディア介入を問う」、7月27日付)。そのとおりであり、だからメディアのあり方を分析することが重要で、その権力からの独立が問われている状況にあります。しかしここではその問題は措きます。その理由は、何より問題が大きすぎるので考察の準備がなく、とりあえずはパスするということです。ただそれだけではなく、メディアを重視するあまりに、世論や人々の社会意識そのものの分析が後景に退く傾向がありはしないか、という危惧を持っているからでもあります。
メディアをはさんで政権=国家権力の意向と人々の社会意識のあり方が対置されます。その中で委縮と忖度によってメディアの権力監視機能が低下すれば、権力による世論操作の余地が拡大します。それどころか政府や支配層はメディアを利用することで、世論操作に乗り出してもいます。中にはNHKや「読売」のようにメディア自身がそこに乗っている場合さえあります。だからメディアの権力からの独立が大切です。しかしあえて言えばメディアとはあくまで媒体であって、主体は権力と人民であり(人民の客体化が問題ではあるがそれは措く)、究極的にはこの両者のあり方こそが問題であって、メディアのあり方論議はそこに従属されるべきものです。
権力の世論操作がある程度進んでいる、という状況を前提すると、操作する方が悪いのであって、操作される方は悪くない、という認識から、メディア論では、操作する側とそれに加担するメディアが批判されることになります。それは良いのですが、そこから世論そのものの分析が弱くなります。世論の中に操作を受け入れる要素がどこにあり、操作する側はどう切り込んでいるのか、また操作の結果、世論はどうなったのか、を問う必要があります。決して弱くはない反発を受けながらも、中長期的に着実に進んできた世論の右傾化の様相を本格的に描き出さなくてはなりません。そこにアベ・パラドクス解明の最重要課題があると思います。そこが明らかにならないところでは、人々の中からの反転攻勢の芽をつかむことが難しいままです。
と言いながら、以下では旧メディアの代表である新聞を素材に世論や人々の社会意識を考えます。それは矛盾していますが、残念ながら拙文の限界であり今の到達点です。しかしあえて弁解すれば、メディアに反映したものがメディアを変える可能性はあり、それを追求する意義はあります。
先に、安倍政権は無関心と空虚な支持に支えられている、と書きました。無関心というとまるで有権者をバカにしているかのようで、たとえば「無党派層といえども決して無関心ではない」という言い回しが常套句であり、無関心という言葉自身はタブーでした。しかしそれを考察対象から外していいのか。かつて長い間ずっと選挙を棄権してきた高橋源一郎氏は、今は「いい子」になって投票するとはいえ、あの頃の気持ちは忘れないようにしています(「朝日」7月13日付オピニオン面「参院選の演説を通り過ぎる人々」)。もっとも、あのころの棄権の理由ははっきりしないということですが…。
今回の選挙で街頭演説の会場を回って、まず高橋氏が指摘しているのは与野党とも支持者や「身内」だけに向って話しているのが多いということです。しかしある野党候補の演説会では、自分の言葉で、支持者を超えて届けようとする学生の応援演説があったことや、他にも音楽やダンスを使ってアピールする試みもあったことに触れています。しかし人々が無視して通り過ぎることも書いています。高橋氏の記述からは、新しい試みの効果に懐疑的でありながら、それでもいくばくかの好感をもっていることがうかがえるようです。しかしそれにもまして通り過ぎる人々の胸中を推し量ることの大切さを説いているようにも見えます。
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嵐が来て、海の表面がどんなに荒れ狂おうと、少し潜れば、暗い静寂が広がっているように、社会の深層には、どんな政治的なことばも受けつけず、身の回りの小さな日常しか信じない人たちがいる。彼らは、政治家の演説する姿を見ても黙って通りすぎるだろう。すべての政治のことばの究極の願いは、彼らに届くことばを創り出すことなのだが。
「いい子」になったわたしの中に、通りすぎる「彼ら」、黙って棄権する「彼ら」は、いまも生きている。そして、世界や社会について「立派な」発言をするわたしを静かに見つめているのである。
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「身の回りの小さな日常」が政治とつながっている実感をどう獲得してもらえるのか、そこに届く言葉が求められています。以上、「無関心」をテーマに少し書きましたが、何ら解決策にいたっていないことは見た通りです。しかしここにスポットを当てる問題意識を今持つことが大切なのです。
上記で高橋氏も注目しているように、最近ではシールズなどの若者たちが政治を語る新鮮な言葉が脚光を浴びています。それは彼らがおかれた厳しい状況からやむにやまれず発せられる言葉でもあります。安藤隆穂名古屋大学名誉教授(社会思想)は、今回の参議院選挙で愛知選挙区のすやま初美候補を応援するあいさつの中でこう語っています(「しんぶん赤旗」東海北陸信越のページ、7月1日付)。
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昨年夏、戦争法案に反対する集会で訴えた女子学生の言葉が忘れられません。
「私の友達は子どもをおろしました。もう一人の友達は風俗に行きました。でも私は、やめてと言えませんでした。少しだけ生活に余裕のある私はこうしてここでスピーチしています」。
涙があふれました。こんなひどい世の中を残すために、私たちは働いてきたわけではありません。
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続けて安藤氏はアベノミクスを糾弾し「こんな非人間的なシステムはすぐにやめさせなければなりません」と、働く権利と働く者の尊厳を強調しています。さきに、介護職の24歳の若者が、「生活と労働の困難」と「悪政」の悪循環の中で、それを気づかなくさせているものとして、余裕の無さを挙げていることを指摘しました。ここの女子学生は「少しだけ生活に余裕のある私」と自己規定し、問題の所在に気づいて活動に参加できる立場から、かつて救えなかった友だちへの思いを胸に「こんなひどい世の中」を変える活動に立ち上がっています。強大な悪政が一見抜けられない悪循環の中でひどい犠牲を強いようとも、それを突破する力は的確な言葉を伴って生まれてくることを示しています。
ここで「ひどい世の中」として最近目立つ右傾化の事例を若干書きます。自民党がホームページで「学校教育における政治的中立性についての実態調査」を呼びかけ「政治的中立を逸脱するような不適切な事例をいつ、どこで、だれが、何を、どのように行ったのかについて具体的に記入」するように求めています(「しんぶん赤旗」7月10日付)。さすがにツイッターで批判が集中し、「密告フォーム」の名で炎上したそうですが、自民党は開き直っているようです。ついにこんな「中立」を名目とした価値観の押しつけと教育の監視が堂々と実施されるに至ったことは脅威です。だいたい最近、右翼勢力が「中立の確保」を看板に教育・マスコミ・社会生活などに介入することが急に増えていますが、これも右翼が首相になって「中立」の基準が大幅に右にずれてしまったせいでしょう。
米空軍横田基地に所属する米兵が都内の中学校の行事に参加し、「新兵訓練」と称したイベントに生徒を参加させていました(「しんぶん赤旗」7月20日付)。従来から自衛隊の学校への関与は問題になってきましたが、米軍とは前代未聞です。教育委員会は、軍事訓練ではなく交流だと説明しています(同21日付)。「属国の教育行政」による言い逃れではないでしょうか。ついに日本の平和・民主主義・教育の危機はここまで来たか、という感じです。
経済権力が民主主義を圧殺する例として原発問題は典型ですが、こんなところまで、という事例を紹介します。よしもとで芸人をしながら、原発事故や様々な取材をしているおしどりマコさんの経験です(「全国商工新聞」7月4日付)。
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面白いことに、原発の取材を始めた途端さまざまな圧力がかかり続けています。こんなちっぽけな存在なのに?雑誌編集長に電事連が「おしどりを載せるな」、TVロケ前日に広告会社から「おしどりを出すな」、福井県の営業で北陸電力から身分照会。TV番組の作家の先生が、すれ違いざまに「原発に触れるかぎりTVに出られると思うな」、業界の圧力だけでなく公安調査庁の尾行がびっちりついてたことも。
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生活がかかっているのに、これだけいやがらせされても負けないというのはすごい。
まだいくらでも「ひどい世の中」の事例はあるでしょうが、以前であれば考えられないような民主主義破壊が平然と行われるようになり、それがきちんと報道されないこともありますが、反対世論が沸騰して止めさせるという状況にならないところに深刻な問題があります。
それなりの抵抗はあっても、以上のように進む右傾化を背景にして、安倍政権・自民党に対する「空虚な支持」がぼんやりとしているようでも支配的な力を発揮しています。その中身の「分野別」として、いわゆる安全保障問題、野党への不安、経済問題があります。安全保障問題については、今回の参院選での対話でも、中国脅威論やナショナリズムなど厄介な議論になった経験があり、重要なのですが、他の機会に論じたこともあり今回は措きます。野党への不安や経済問題について、「朝日」7月16日付の「(耕論)瀬戸際のリベラル」における五野井郁夫氏の議論を紹介します。五野井氏は野党共闘の成果を一定評価しながら、それでも自民党に負けた原因を探ります。
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今回の参院選を含め、最近の国政選挙で自民が連勝しているのは、低投票率に加えて「経済や生活を良くしてくれそう」だから。その点で「野党よりは良さそう」と投票した人は多いでしょう。
だけど、人びとの暮らしが現状、楽になっているわけではありません。目に見えて食べられない人たちが出てきている。国連児童基金の報告によると、日本の子どもの貧困格差は先進41カ国で34位と深刻です。幼い子がティッシュペーパーに塩をかけて口にしている、などという痛ましい記事もありました。生活苦から無理心中を選ぶ事件も多発しています。
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生活が苦しいにもかかわらず、人びとが政府に対して怒らないのはなぜか。それは「自分のせい」と思っているからです。「自己責任論」が叫ばれたことがありました。それにまだとらわれている。
自分の生活が苦しいのはちゃんと貯蓄をしてこなかったから、仕事が見つからないのは努力が足りないから、お金がなくて子どもが学校に行けないのは私たち親のせい……。全部違いますよね。安心して暮らせる社会を作るのは政府の責任です。「自分のせい」と思っている人がいたら、それは間違いだと知らせてあげてください。
アベノミクスの実感がないという人は多い。でも「生活が苦しい自分」を代表してくれそうな政党、投票したい政党がない。それも実感でしょう。野党は、リベラルの側は、どこが足りなかったのか。「生活が苦しい我々」のために有効な政策を打つ党だということを十分に示せていなかった。野党は、ここから変わってほしい。
9条を守ることも、立憲主義を壊すなと言うことも、もちろん大事。でもそれだけでは貧しい人たちはメシが食えない。「食えるだけの生活がしたい」というぎりぎりの訴えに応えるのが、リベラルの本来の強みだったはず。それなのに「この政党が勝てば少なくとも食べていける」と思わせる政党が今の日本に出てきていません。
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そして「生活感の薄い旧来の護憲リベラルではなく、より生活の実感のあるリベラル。こうした動きが、復活の鍵を握ると私は見ています」と結論づけています。右傾化した風潮を背景に、特に経済問題では何となく与党に頼るのが「自然」であり、野党の政策をよく検討しようという意欲が出てこないという状況でしょう。それだけにまず生活と労働の困難の原因を明らかにし、自己責任論を拭い去り、経済再建の方向を今日の新自由主義政策との対照から分かりやすく示すことが必要です。その上さらにできるなら、そうした生活と労働の改善にとって、憲法の指し示す人権・民主主義の意義が絶大であることもきちんと提示できるならば素晴らしい。そこでどのような言葉を開発できるかが問われます。
中野晃一氏は運動の中で出会った学生や一般市民が語る力強い言葉を「ポジションの言葉ではなくベクトルの言葉」と特徴づけています(「安保法制強行―いま自民党がたどり着いた地点」56ページ、『前衛』2015年11月号所収)。それを評して「考え抜いた意見や理念があったりするわけではないのですが、自分で情報を集めて、自分で考えて、自分の体験に照らし合わせて、自分の思いを語るので、血肉のついた言葉が出てくる」とか「ポジションの決まった言葉と違い、力強い言葉になっています。まだ自分の位置を決め、完成している、ということはないが、向きたい方向はこっちだということが力強く出ています」(同前)と語っています。これ自身が、敬意をもって普通の人々から学べる素敵な研究者の言葉になっています。
以上、参議院選挙の結果に鑑み、今後の政治の見方を考えました。その際に、アベ・パラドクスの解明を主に人々の生活と社会意識の中に探り、そこからの変革を考えるという方向を想定しましたが、まだ暗中模索の段階を出ていません。問題意識をより鮮明にして少しでも政治の見方として具体化していきたいと思います。
2016年7月31日
2016年9月号
社会の道徳性
特集「安倍『教育再生』のねらい」は安倍政権の教育政策について、「保守反動・復古的政策による人権や民主主義への攻撃」という面よりも、「新自由主義と対米従属下におけるグローバル資本優先政策と戦争可能な軍事大国化」との関連という面を中心に展開されています。中でも佐貫浩氏の「今求められている道徳性の教育とは何か」は、安倍「教育再生」における道徳の教科化による人権・民主主義への攻撃について、新自由主義政策がもたらす経済社会状況から説き起こしており、その危険なイデオロギーを経済的土台から捉えて説得的です。
論文のキーワードは「社会の道徳性」だと思います。新自由主義政策は格差と貧困を固定化し、「そこから這い上がることが極度に困難になり、誰も救いの手を差しのべてくれず、人間としての誇りや意欲をも奪い去り、絶望に陥れるシステム」として「社会の土台に深く組み込まれつつ」あります(38ページ)。「それは社会の道徳性の大きな後退、人権や生存権保障という正義の後退に他ならない」のです(同前)。こうした苦難にある人々を周りの人間が「自己責任」として放置するような状態も社会の道徳性の大きな後退の現れです。しかし社会の道徳性に思い至らず、社会問題を個人の道徳性に解消する立場からは、まったく転倒した問題把握と解決策が提起されます。
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にもかかわらず、道徳教育推進のメッセージは、社会の規範を守る個人の道徳性の弱まりこそが現代日本社会の活力を衰退させ、社会の安全を低下させているとして、問題を個人の規範意識や心構えの教育、自力で生きていく「強い」人間になれという「生きる力」を競わせる教育によって解決できるとしている。ここにある問題のすりかえを見抜かなければ、問題の本質は見えてこない。 39ページ
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およそ社会現象は諸個人の活動の集合だから、さしあたって眼前に見えるのは個人であるため、このような問題のすり替えは俗耳に入りやすいと言えます。個人のあり方が社会的に規定されている、という社会科学的思考によって、自己責任論を克服することが重要です。それを端的に指摘したのが「社会の道徳性」という表現でしょう。「道徳的な社会という言い方には抵抗を感じられる方もあるだろう」(39ページ)という箇所で想定されている「道徳的な社会」とは、支配層の作った秩序とそこでの規範意識を諸個人が受容させられるような非民主的で抑圧的な社会のあり方でしょう。社会問題を個人の道徳性に解消する俗論においては、「道徳的な社会」としてそのようなものが思い浮かべられます。しかし佐貫氏はそうではなく、市民革命を経て逆に「国民こそが社会秩序と道徳性を形成する主体とな」り、そこで社会的正義・人間的正義が「社会の仕組みと政治の制度に組み込まれた」(40ページ)「道徳的な社会」が形成されると主張します。その正義は自由権と社会権を含む基本的人権の保障として憲法に書き込まれており、したがって「社会の道徳性は、憲法的正義の継承発展と」され、道徳教育の中心は「憲法的正義を担うことのできる主体を育てること」とされます(同前)。
ところで新自由主義との関連では、特に生存権を中心とする社会権の破壊が問題とされるので、市民革命によって「道徳的な社会」が形成されるようになったという立場からは、その説明が必要となります。なぜなら市民革命(17世紀:イギリス革命、18世紀:フランス革命)は自由権を確立しましたが、社会権の確立は20世紀を俟たねばならないからです。
この点について佐貫氏は、市民革命が「国民主権政治の仕組み」と「資本主義の経済システム」という二つのシステムを生み出したことをまず指摘します。当初、政治は経済に不介入でした。その結果、粗暴な資本の自由が展開し、搾取強化で労働者の貧困などが深刻化する危機に直面して、国民主権政治の権力は資本への強力な規制によって、それを是正することになりました。ところが新自由主義は「政治による規制」への反動であり、資本への規制緩和によってグローバル資本の利潤を最大化し、労働者を犠牲にしました。さらに「これでは生きられないと声を上げようとする国民の民主主義的政治参加を阻止しようとする政策を立て続けに打ち出して」(40ページ)おり「そこに今日の社会制度に組み込まれた道徳性の危機が引き起こされる必然性があるので」す(41ページ)。つまり新自由主義は、人々の社会権の侵害に続いて自由権をも侵害するようになるのであり、それこそが社会の道徳性の危機として捉えられねばならないのです。
このような理論展開によれば、社会権の擁護を掲げた人民の運動は、市民革命の理念の批判的・発展的継承者であり、社会の道徳性を高めるものです。グローバル資本に奉仕する新自由主義政策を断行する諸国政府は、社会権に続いて自由権の破壊にまで進み、社会の道徳性の危機を深め、市民革命の核心である「国民主権政治」そのものを損なうものでしょう。ただしここで問題となるのは、「国民主権政治」の形式性と内実です。選挙制度やマスコミなど多々問題があるとはいえ、新自由主義的な各国政府は、「国民主権」の下での民主的選挙によって合法的に樹立されています。佐貫氏が想定するような、経済に対する必要な規制を加える「国民主権政治」はその形式性を超えた内実を具えてこそ実現されます。そのためにはその内実の実現主体が選挙で勝つ必要があり、そのような変革的社会状況を不断から作り出していかねばなりません。
ここで道徳性における個人と社会の問題に立ち返って、私流に両者の関係をいささか単純に再考してみます。俗論では個人の道徳性が社会の道徳的状態を規定しています。そうすると、現状では個人の道徳性が悪いために社会の状態が悪くなっているので、個人の道徳性をよくする教育を施して社会の状態をよくすることが必要になります。そこでの道徳は支配層の望む秩序を形成するのに役立ち、個人の自由を規制するものとなります。なぜならこの立場では、社会が悪いのは個人が悪いのが原因だから、そのような悪い個人の自由に任せていてはますます社会が悪くなるので、あらかじめ型にはめる必要があるからです。そのような型は支配層に都合の良い既成のもの以外にはありえません。そこでは、自由な諸個人が形成する適切な社会秩序などというのはまったく想定外ですから。
逆に、社会の道徳性が個人のそれを規定する立場からすれば、個人の道徳性が悪いのは、社会の道徳性が悪いからです。その原因は新自由主義が社会の道徳性を破壊したためであり、それを回復することによって個人の道徳性も回復することができます。社会の道徳性を回復する力は、新自由主義の攻撃に反撃する諸個人の連帯から生まれ、まさにこの過程そのものが社会と個人の道徳性の相互作用的好循環を形成します。
新自由主義は社会そのものを破壊することによって、社会の道徳性を破壊し、そこに生じる荒廃や閉塞感などの責任を個人に負わせます。したがってそこでの道徳教育の課題は、決して悪政に反抗することなく、その責任を引き受ける個人をつくることです。その中心的なねらいは以下の二点です。
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第一には、この新自由主義的な過酷な競争社会を「自己責任」で生き抜く「生きる力」をもった国民を形成すること、第二には、このような社会改変を受け入れ、自らも推進するような社会観、国家観を国民にもたせ、グローバル資本が世界競争で勝ち抜く政策を、自らも所属する共同体としての日本社会がサバイバルするための不可避の政策として支持する国民意識を形成することである。 41ページ
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このような道徳教育は人権意識を低下させ、バッシングが横行する社会的病理を生み出します。社会の道徳性を看過して、個人の道徳性を制御しようとすれば、下記のような唾棄すべき個人を増やすことになります。
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(…略…)社会問題に目を塞ぎ、生きにくさや格差を、全て自分の自己責任として引き受けて生きる態度の形成が目的とされることになる。競争は、社会の活力を引きだす当然の方法であり、その結果としての格差を、人間の努力や能力の差によって生みだされる避けがたいものであるとして受け入れる態度を求める。そのような態度や価値観の育成のために、人権を主張せず、福祉に頼らず、問題が起きれば自分の努力や心のもちかたの弱さの結果として困難を潔く引き受ける態度の育成がねらわれている。そのような生き方でサバイバルした人々のなかには、競争にたえられない人々の弱さや、福祉に依拠して生活を維持しようとすることへのいらだちや批判の意識が生みだされ、それがさらに競争と自己責任を求める声をも生み出していく。弱さを背負わされた人々が攻撃の対象とされ、社会からの排除の圧力を受けるようになる。 41・42ページ
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さらにはこの道徳教育はナショナリズムと現政権支持とを一体のものとして強化し、すでにマスコミを通じて系統的に追求されている「国民教化」を教育の場でより徹底するものです。これは新自由主義と保守反動ナショナリズムとの野合である安倍政権への高支持率の重要な背景だと考えられるので、長い引用ばかりで恐縮ですが紹介します。
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安倍内閣は、実際には日本社会の破壊と解体を進める新自由主義政策を強引に進めているが、その本質を国民に見破られるならば、政権が崩壊する。それを避けるには、安倍内閣を国民のための政府として偽装することが不可欠となる。そのため、国家と一体化するなかに個人のアイデンティティを実現しようとするナショナリズムの育成が目指されている。政府は、日本という運命共同体の共同性を担った存在であり、日本国民としてのアイデンティティは政府と一体化し、政府を支持することによって実現されるという意識を育てる道徳教育である。 43ページ
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新自由主義によるグローバル競争至上主義と社会破壊に対して、一方では競争主体としての「国家共同体」の力を鼓舞するものとして、他方では諸矛盾を糊塗し精神的に帰依できるものとしてナショナリズムが必要とされている、という状況でしょうか。いずれにせよ幻想に過ぎません。新自由主義は国民経済も地域共同体も破壊しており、「国家共同体」の経済的土台は空洞化傾向を増していますし、日本に対する自慰的感情を動員しても何ら現実の諸矛盾は解決されません。その幻想を克服するには、諸個人の生活と労働の立場からグローバル資本の横暴を規制し、生活と労働の厳しい現実を改善する具体的施策を実現できる展望を、様々な要求実現運動の中で実感を持って提示することが必要であり、その集結点として新自由主義(とナショナリズムの野合した)政権を打倒し政権交代を実現することが求められます。そうして新自由主義的に歪曲された職場・地域経済・国民経済の民主的再建を果たしたときにこの幻想は一掃されます。逆に言えば、ナショナリズムは文化的同一性による「自然な感情」に支えられているので、新自由主義的社会病理下に現れるナショナリズム幻想は強い基盤を持っているのであり、生活に根づいた全社会的闘争によらなければ克服できないでしょう。
佐貫氏は「国民主権政治の活性化」(48ページ)と「憲法的正義の実現」(50ページ)が、新自由主義とナショナリズムの道徳教育を克服する基盤だとします。そうした展望の前提として、以下のような子どもたちの現状への認識があります。新自由主義が社会の道徳性を破壊する中で「子どもたちの間で、人権や平和や平等や生存権や民主主義などの規範への信頼が下がり、…中略…競争を勝ち抜くこと、他者を支配すること、時には暴力によって自分を有利にしたり自分の要求を実現する方法に依拠して生きる道を選ばせるような社会の形成力が働いて」おり、「共同や連帯によって生きるという生き方への確信――が持てなくなってい」ます(51ページ)。こうした現状認識を欠いたままで「憲法的正義」を上辺で説いても偽善や机上の空論と受け止められます。そういう中で「弱さをかかえて生きることが普通であり、そういう弱さをもつものが互いに支え合っていく仕組みを、憲法的正義に沿った生き方として作り出すことが目標として掲げられている社会を、いま自分が生きているのだという理解を共有する」(同前)ためには、教育の場ではその全体を通して、教科学習による理性的獲得と仲間との体験による感性的獲得が必要となります。大人にとっては生活と労働の現場を踏まえた要求実現運動の経験が最良の学校でしょうが…。
佐貫氏は「国民主権政治の活性化」は経済の領域まで及ぶべきことを主張しています。それを考える際に、新自由主義による格差と貧困の拡大を主に競争の結果と捉えるのは分かりやすいのですが、問題があります。誰しも自分と他人の能力や努力の差はいつも実感しており、その延長線上に格差と貧困を捉えると、それはあたかも自然なもののように感じられ、自己責任として認識されます。資本主義社会における格差と貧困はそのような横並びの競争を主な原因とするものではなく、搾取制度そのものから生じていることを明確にすることが重要です。非正規労働はその端的な例です。同じ労働をしていても差別を付けられているのは、ひとえに剰余価値生産の追求のため低賃金労働が必要とされ、非正規労働が創出され拡大されてきた結果です。自分を職場の同僚労働者や近所の公務員と比較するのではなく、大企業の莫大な内部留保と比較することが格差と貧困を見る視点として必要です。そこに「バッシング的社会観」から「1%対99%的社会観」への転換があります。
「国民主権政治の活性化」という視点で新自由主義の悪魔の経済を批判することは、戦後の社会科教育によって常識化した市民革命の論理の延長線上にあります。それは広い大衆的基盤を持ちうるという意味では極めて有効です。それと同時に、この問題をより深く理解するためには資本主義を搾取制度として捉える視点が必要となります。それはまだだいぶ先の課題ではありますが意識しておく必要があろうかと思います。格差と貧困のあまりの広がりに対して、人々の多くは自然な批判意識を持っています。そこでの当面の関心と政策課題は所得の再分配に向っています。それは当然のことですが、その先に生産関係そのものへの切り込みがいずれ必要になります。非正規労働の問題は、強搾取というものを象徴する事象として資本主義的生産関係への反省の入り口となるでしょう。
参議院選挙結果再考
欧米では既成政治家への批判が高まっているにもかかわらず、参議院選挙で自民党が勝利したことについて、五十嵐仁氏はいくつかの原因を挙げています(「市民と野党の共同の発展を願う 参議院選挙をふりかえって」)。
まず移民問題がないことが欧州などと違って現政権に有利に働きました。また日本周辺の安全保障環境への不安・世界経済の先行き不透明感・バングラデシュのテロ事件で日本人犠牲者が出たことなど、いずれも人々の不安をかきたて安定志向を強めるもので、これも政権に有利になりました。さらにマスコミの選挙報道が貧弱で、安倍首相の争点隠しと反共攻撃・野党共闘非難も一定の効果を上げました。
しかし野党共闘は一定の成果を上げ、与党が争点を隠しきれなかったところでは勝利しています。「安倍暴走政治をストップさせるために手に入れた最強の武器である野党共闘こそ、日本の政治変革に向けての希望となっています」(88ページ)。これをさらに発展させるため五十嵐氏は3点を強調しています(同前)。――(1)主体的な力を強める。市民や野党間の多様なつながりや信頼関係を大切にし、共同の力を発展させ団結を強める。 (2)政策的な魅力を高める。個々の政策で安倍政権への支持は高くない点を衝くため、野党の政策合意の幅を広げる。 (3)国民運動の分野で個々の政策課題についての日常的な取り組みを強め、一点共闘を発展させる。――
いずれも妥当な指摘だと思います。与党勝利の原因についてさらに分析しているのが北野和希氏の「『三分の二』を手中にした周到な安倍戦略」(『世界』9月号所収)です。北野氏は安倍政権と自民党の高い支持率について、個別政策での支持は少ないが、野党への期待感のなさが手伝って維持されている「弱い支持」であることを指摘しています。したがって「安倍氏が取り得る戦略は@個別政策に焦点が当たらないようにする、A無党派層、特に自身に批判的な有権者を政治から遠ざける、B成功しなくても失敗をしない、C争点は作らない――ことに収斂していくことになる」(69ページ)と実に的確に要点を挙げ、安倍首相の一連の行動がそうした対策になっていることを説明しています。逆に個別政策に焦点が当たってしまった一人区では野党共闘に敗れています。ここに今後の野党勝利の鍵があります。
北野氏の論稿は他にもメディアの問題や自民党が都市部で強いこと、自公共闘の成果などにも触れて、ある程度行き届いた分析で与党勝利の実態に迫っています。ところが野党共闘の成果を強調する論者の多くはそうした分析が弱く、これからどのように安倍政権の壁を破っていくか、有権者をいかに獲得していくかを考える土台をつくりきれていない憾みがあります。
北野氏の論稿は主に政治次元での的確な分析だと言えますが、人々の生活意識・社会意識・政治意識の次元をどう見るかも重要です。それについてはこれまでもたびたび言及してきました。今回はわずかながらですが、気づいたものを紹介します。日本共産党創立94周年記念講演会(8月5日)での西郷南海子さん(安保関連法に反対するママの会)の発言が秀逸です(「しんぶん赤旗」8月6日付)。
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この夏の選挙で、野党共闘でたくさんの成果と同時に、なかなか響かない層もあるのではないかとの危機感も出てきています。目の前の生活に必死という人たちと、私たちの思いは必ずどこかでつながると思っています。それは、山の中にトンネルを掘る時の、こっち側と向こう側だと思います。どちら側も先が見えない中で模索しています。それが、どこでなら出会えるのか、自分のことばで考えるのが、この夏のオトナの宿題です。あなたのことばでないと届かない人が必ずいるはずです。この夏休みの宿題、一緒に頑張りましょう。
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これは紙面上で要約されていますが、講演会の中では、「目の前の生活に必死という人たち」は少しでもお金が回ってきたらいいなという思いで自民党に入れてしまう、と言われていました。「私たちの思い」は反戦平和・脱原発の思いです。つまり、ずばり、自民党に入れた人たちをどうやって野党共闘の側に引き寄せるかを問題にしているのです。ここには啓蒙する側とされる側という上下関係はなく、ともに必死に模索している同時代人としての共感を自分たちの言葉でどう作り上げていくかが課題として設定されているのです。安倍政権の暴走阻止・政権打倒による政治変革という当面する政治目標の本当の深い意味がここにあると思います。
いきなり抽象的な話題に逃避するようで恐縮ですが、政治的スタンスとして「啓蒙でも迎合でもなく、現実に内在し、かつそれを相対化する」という姿勢を推奨したいと思います。啓蒙とは「人々の外から説教し変えようとする」ことであり、迎合は「人々の現状を変えずにそれに合わせて自らの信念の実現を断念する」ことです。自ら現実に参画しつつも、現状を判断する基準を持つことでそれを絶対化することなく、大勢に流されずに変革の展望を見つめ続けたいと思います。
現状を相対化して捉えるというのは大小あらゆる現象に必要ですが、ここでは大風呂敷を広げてあえて大きなことを問題にします。現代人はみな生まれたときから今まで、そしておそらく死ぬまで、資本主義市場経済の中に生き続けています。しかしそこで起こる経済的諸矛盾の多くは資本主義的生産関係がもたらすものですから、資本主義市場経済を絶対化する視点からは諸矛盾は宿命と捉えられるか、さもなくばあたかもないものと見なされます。それを相対化するには、歴史貫通的な経済のあり方を抽出し、それに対する資本主義市場経済の特殊性と歴史性を確定することが必要です。その見方は労働価値論であり、『資本論』第1部の初めの方にある物神性論、ならびにマルクスのクーゲルマン宛の手紙(1868年7月11日付)にエッセンスが展開されています。
日本人の多くは生まれたときから対米従属の国家独占資本主義体制下で生きてきました。すると世界を見るのにアメリカ帝国主義の眼鏡を通すのが「自然」になります。私が読んでいる朝日新聞の国際報道などはまさにそういう見方であり、何の疑念も抱いていない様子です。昨今の東アジアの安全保障環境の悪化なるものを言い立て、軍拡と軍事同盟強化が必然であるかのような風潮があります。それに対しては、日本の戦後処理として全面講和と中立化という選択肢もありえたこと、そうすれば憲法が今日のように激しい矛盾にさらされるのではなく条文通りに世界をリードする可能性もありえたことを想起すべきです。たとえそれが小さな可能性であったとしても、対米従属下の国家独占資本主義体制を絶対化して自らを縛ってしまうイデオロギー的奴隷状態への特効薬として意味があります。軍事的抑止力の絶対視に対して、平和外交努力の可能性を説く際にも、かつてありえたオルタナティヴ(全面講和=中立)を想像しそれを思想的基準に現状の異常性を告発し、今後つくり上げていくオルタナティヴの礎とすべきでしょう。それは冷静な現状分析となんら矛盾しないどころかその可能性を広げると考えます。
閑話休題。お笑いコンビ「クワバタオハラ」のくわばたりえさんが『ママの涙』というエッセーを出しました(「しんぶん赤旗」8月6日付)。昔から子どもが大好きだったけれども実際には育児がたいへんで、「育児しんどい」って言えなくて苦しかった、という経験をしました。そこで「読んだ方が『しんどいのは私だけやない』って感じて、ちょっとでも笑顔になってくれたらうれしいです」という思いで書きました。育児の中で近所づきあいも始まり「人の輪が広がる幸せを実感します」。そこで以下の思い(同前)。
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めっちゃ壮大な夢ですけど、育児しやすい日本にするのに何か私にできることないかなって思っています。子どもとママ、パパに優しい日本になってほしいなと。親の介護もするようになれば「お年寄りにも優しい日本に」って思うんでしょうけど、いろんなことを見て、その都度、大変なことを改善できるようになればなって思っています。
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ここでは生活と政治がつながり、自己責任論が克服されています。その出発点は、「育児しんどい」って言えなくて苦しかった、という思いです。この自己責任論的苦しみから抜け出して、思いを読者と共感しよう、と本を出しました。共感の獲得からさらに社会の改善へと思いは進んでいます。生活や労働現場において一人で苦しんでいる人はたくさんいます。まずはその思いと状況を多くの人々と共有する。そして連帯して社会的改善に立ち上がる。ここには個人の尊厳から社会変革への法則があります。この切実さをいつどこでいかにキャッチして組織できるか。西郷南海子さんの「夏休みの宿題」にも通じる課題がここにあります。安倍政権打倒は生活の深みから始まります。
断想メモ
アベノミクスの異次元の金融緩和によって円安が加速して輸出大企業は大儲けしました。しかし財務省・貿易統計の数量指数によると「第2次安倍政権が発足した12年12月以降、輸出数量が100を超えたことはありません」(「しんぶん赤旗」8月24日付、2010年平均を100とする指数)。「輸出大企業は、ドル建て価格を引き下げて輸出量を増やすのではなく、ドル建て価格を維持して円建てでの利益を増やす道を選びました」(同前)。輸出量を増やしたわけではないので、国内での雇用・所得・設備投資にはつながりません。今では円高傾向で輸出量も輸出額も低迷しています。アベノミクスがいかに国民経済の活性化に役立たなかったかが分かります。
商品の二要因は使用価値と価値です。資本主義的生産の目的は剰余価値の増大です。したがって使用価値よりも価値に目が行きます。しかし再生産の分析には使用価値のつながりが重要です。輸出額(価値の側面)だけでなく輸出量(使用価値の側面)も見ないと国民経済の再生産のあり方は分かりません。
2016年8月31日
2016年10月号
新自由主義の地域再編成とオルタナティヴ
中山徹氏の「アベノミクスによる国土と地域の再編成」は、高度経済成長期との対比を通じて、アベノミクスの「国土と地域の新自由主義的再編成」(105ページ)の内容を非常に分かりやすく浮き彫りにしつつ、オルタナティヴの方向性を提示しています。したがって特に地域の生活者の諸要求実現や地域づくりの運動に係わる人々にとっては、それぞれの直面する課題が新自由主義的政策の全体構造の中に占める位置を確認し、対抗構想を練る上で参考になる論稿でしょう。
論文における考察方法としては、支配層の政策の狙いとそれがもたらす人民との矛盾、さらにはその体制的「克服」策という形で、高度経済成長期と新自由主義期とが一貫して分析され、国際競争での勝利を通じて経済成長を実現するという生産力主義的性格が貫かれていることが指摘されていると思います。しかし今日の日本は資本主義の成熟期を迎え、人口減少・高齢化を背景にして、生産力主義的な経済成長第一主義はもはや時代錯誤です。いまだアジア諸国との競争を重視するような我が国の新自由主義政策が生活破壊と社会の荒廃をもたらすのは明らかであり、発想の転換が必要です。
そこで中山氏は「国家戦略特区」「地方創生」「コンパクト」「連携中枢都市圏」等々、マスコミにも登場する「改革」用語を、日本の社会状況の変化を背景に、新自由主義政策の中身として組み立てて解説した上で、オルタナティヴの方向性として「国土と地域の展望」(113〜115ページ)を提示しています。たとえば、人口減少を逆手に取って都市化の問題の解決を図ることが可能であり、そのコンセプトが以下のように打ち出されています。
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……人口減少でもたらされた余裕を活用して、自然環境の再生、防災性の向上、公共施設の整備、住宅事情の改善、景観整備等を進めることができる。
20世紀の日本や現在の途上国、新興工業国が人口規模やそれを背景とした量的成長を追求するのは理解できるが、今後の日本が量を追求しても勝ち目がない。それよりも質、多様性を重視すべきである。経済の質や多様性を重視するのであれば、その基盤となる都市も質や多様性を追求すべきであり、東京一極集中は明らかに反する。
全国的な人口減少が避けられないのであれば、農山村や地方都市の人口をできるだけ維持し、国土の多様性とそれに裏付けられた文化、生活、経済の多様性を維持すべきである。そして首都圏や大都市圏では、人口減少を活かした都市環境の向上、安全性の向上を計画的に進めるべきである。 113ページ
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さらに、経済の質や多様性を重視するような産業構造を持った地域経済像として「中心に集中させる連携ではなく、周辺が中心を支える連携」が次のように描かれます。
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都道府県の総合戦略で自治体が重視していた経済分野は、第一次産業、それに関連する六次産業、観光、再生可能エネルギー、創業支援、企業誘致等である。この意向を最大限尊重すると、農山村こそ雇用を生み出す拠点となる。20世紀、日本の農山村は安価な労働力の供給源であったが、これからは食料供給源、エネルギー供給源、文化供給源として位置づけ、それとの関係で雇用を生み出すべきである。そのような農山村ができれば、その住民が地方都市で買い物をし、地方都市の活性化も進む。 114ページ
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こうした地域経済の形成に次いで、地域コミュニティをどうつくっていくかも重要な課題です。深刻化する介護問題などに対して政府は「地域包括ケア」を打ち出しています。それに限りませんが、政府の施策に対して機械的に反対するのではなく「本質的な問題点を押さえつつ、地域にとって必要な事業は積極的に展開するという両面作戦が重要とな」ります(115ページ)。つまり「地域包括ケアの考え方は重要だし、NPO、企業を含めたコミュニティの再編も大切である。ただしその動きが、公的責任の後退、公費負担の削減を伴っているところに問題がある」(114ページ)という捉え方です。その上で公的責任の一つのあり方として、たとえば今日の市民ニーズにきめ細かく応えるためには、職務、権限を地域に分散すべき、と提言されます。「小学校区単位出張所を設置し、複数の行政職員を置き、子育て支援、高齢者福祉、障害者福祉、社会教育、身近なまちづくり、防災・防犯等は基本的に出張所が担当」(114ページ)し、この出張所配置と並行してコミュニティ組織の再編を図ることで、「充実した子育て支援、高度な地域包括ケアが実現できる」(115ページ)という展望が語られます。これは「行政の地域化とコミュニティの再生が車の両輪」(114ページ)としてまとめられています。
論文の最後には、新自由主義的な地域の再編成がもたらす種々の困難な事態によって、地域を守りたいという保守との新たな連携の可能性が生まれ、それを顕在化させ「新自由主義的な再編から地域を守る新たな主体形成が進んだとき、地域の展望が開けるだろう」(115ページ)という結論が出されます。
今日、新自由主義政策による格差と貧困の拡大が進行する中で、一方では日々の生活に手いっぱいで政治について考える余裕がなく、選挙は棄権か、与党による「景気対策」に期待してしまう層が多くあります。他方では人権や民主主義はしょせん絵に描いた餅であり偽善であって、それより身近な生活保護受給者や公務員など「既得権を享受」している人々を攻撃して、「税金の無駄遣い」を吐き出させる方が世のため自分のためになるという「正義感」を抱く層も分厚く存在しています。こうして新自由主義政策による悪政が、一方で経済政策における政権与党依存を、他方で政治面における人権・民主主義攻撃を生み出し、新自由主義政策を推進する政権与党の権力を強化しています。このような新自由主義・格差・貧困の悪循環(支配層にとっては好循環、分断支配の成功)を克服するには、それがもたらす破壊から地域を守り、そのことによって生活を守るという実体験が最重要です。移民排斥のポピュリズムが人権・民主主義を危機に陥れている欧州で、今年、パキスタン系のムスリムの市長がロンドンに誕生したことは悪循環を好循環に逆転する可能性を指し示しています。ロンドンでは住宅問題などが切実で、それらの解決を具体的に訴えた労働党の候補者が、人種差別を煽った保守党の候補者を大差で下しました。地域生活での展望を実感できることが、経済政策の民主的転換と人権・民主主義の擁護発展との双方にとって最大の推進要因なのです。
野党共闘の政策問題
先の参院選での自民党勝利の要因として二宮厚美氏は二点を挙げています(「参院選後の安倍改憲勢力との戦略的対決点」)。一つは、対決陣形が不鮮明になったことです。本質的にはそれは「安倍改憲勢力陣営」対「野党共闘・市民連合陣営」(81ページ)ですが、改憲勢力であるおおさか維新(現「日本維新の会」)がテレビ討論などで「野党席」に座り「第三極」を名乗ったことが撹乱戦術として功を奏し、有権者には本質が鮮明になりませんでした。ところで二宮氏は維新を「ゾンビ型サバイバル」(同前)と呼んで、大阪特殊要因としています。確かに選挙結果から現象的にはそうですが、過激な自己責任論によるバッシングや反人権・反民主主義のポピュリズムを煽って大衆的支持を得るという意味では、まさに新自由主義的社会像に適合した政党であり、支配層にとってのトリックスター的補完勢力として普遍的意義を有しています。仮に維新そのものでなくても形を変えて全国どこでも現れうる勢力としてあなどれません。
二つ目は政策的対決点の問題です。安倍政権の政策の多くは世論から支持されていないので、まともに政策型選挙を展開すればその敗北は見えています。事実、米軍基地・TPPといった各地域にとって切実な課題が正面から問われた沖縄や東北では野党共闘が勝っています。そこで安倍政権は消費増税を先送りした上で、改憲や福祉切り捨てはひた隠し、美辞麗句のスローガンをならべて政策上の戦略的争点を回避する作戦に徹しました。そしてもっぱら野党共闘と共産党に対する攻撃で不安を煽って、「安心・安定」の与党をアピールしました。
当然のことながら野党共闘としては逆に戦略的争点を明確にすることが必要でした。この点で、二宮氏は参院選の戦略的争点として、改憲・軍事大国化路線の評価、アベノミクス評価の他に、@脱原発か原発再稼働か、ATPP協定の批准か離脱か、B税・社会保障一体改革にイエスかノーか、の3点を挙げています(82ページ)。しかし「野党共闘は、さしあたり、戦争法反対・廃止と立憲主義回復に焦点を絞った一点共闘の展開過程で成立したものであり、脱原発、反TPP、消費税ノーといった上記の戦略的争点のすべてにわたって、4野党間で合意に到達してはいなかったので」す(83ページ)。
戦争法廃止と立憲主義回復はそれだけで政権交代の課題となりうるものですが、実際問題として、選挙で勝つためには身近な生活問題としての経済政策・社会保障という課題で政策を一致させ、有権者に分かりやすくアピールすることが不可欠です。もちろん4野党が参院選前に手をこまねいていたわけではなく、次の共通政策を確認しています(小池書記局長に聞く「豊かに発展 4野党共通政策」、「しんぶん赤旗」6月5日付)。
▽安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回
▽アベノミクスによる国民生活の破壊、格差と貧困の拡大の是正
▽TPPや沖縄問題など、国民の声に耳を傾けない強権政治に反対
▽安倍政権のもとでの憲法改悪に反対
このような大枠の他にも、先の通常国会に野党が共同提案した15法案も共通政策として確認されました(同前)。内容的には、<戦争法の廃止、介護・福祉職の賃上げ、保育士の賃上げ、児童福祉手当の拡充、残業時間の上限規制、畜産農家支援の法制化、住宅再建支援金の引き上げ、選択的夫婦別姓制度の導入、性暴力被害者の支援体制の確立、性的マイノリティに対する差別解消、政治分野の男女共同参画推進、税制関連(大企業の情報開示強化)>といった広範な分野に及び、切実な生活要求を含んでいます。選挙戦でこれをより効果的にアピールすることができていれば、野党不信を克服する一助となり、安倍政権にもっと打撃を与える選挙結果を実現できたのではないかと思われます。
二宮氏が指摘するような「脱原発、反TPP、消費税ノーといった戦略的争点」ですっきりと一致することは、保守政党の民進党との間ではなかなか困難だろうと思われます。それでも「共通政策」の大枠に見られるように、共産党としては苦心してぎりぎりの一致点をつくり上げて、一歩でも野党共闘が政策的に前進する工夫を凝らしたことが痛感されます。
民進党にはこう言いたい。……原発・TPP・消費税・社会保障などで自民党との「共通政策」を抜け出せないのは、もともと新自由主義出自の党として当然だとは思う。しかしここで反人民的政策に囚われている限り民進党の未来はない。自民党・安倍政権が反人民的政策にもかかわらず一応の支持を得ているのは、野党不信、マスコミへのコントロール、中国・北朝鮮脅威論の流布、生活不安時の安定志向と与党への景気対策頼みなど、おおかた「与党のアドバンテージ」によっている。したがって野党である民進党にそれ(政策が悪くても支持を得ること)はまねできないので、人民の利益に沿った「野党の共通政策」をより前進させ、選挙では与党の争点隠しを許さず、政策本位の選挙戦を実現して効果的な政策アピールを成功させる以外に勝利の道はない。実際、2009年の政権交代は、当時の民主党が「国民生活第一」のスローガンで政策を一変させ、自民党政権の新自由主義構造改革で疲弊した人々の期待を集めた結果だった。にもかかわらず初期の一部の成果を除いて、事実上の自民党的政策への復帰が進行することで期待は幻滅に変わり、選挙敗北による政権陥落後の厳しい野党不信の時代を招来することになった。……
野党共闘の真価が問われ、それを深化させられるかどうかは、「日本の社会保障の未来を左右する、まさに一大決戦の時期」である「今年の後半から来年」(谷本諭「いまこそ安倍政権の社会保障改悪に総反撃を」、『前衛』10月号所収、81ページ)に正念場を迎えます。参院選終了を待って、安倍政権による社会保障の給付削減・負担増の全面攻撃が始まります。それに対して人民が諦めて我慢を重ねるのか、野党不信を乗り越えて変革の展望を持って反撃するのかが勝負どころです。支配層はこうした攻撃に際してはマヌーバーを弄して政策の「正当性」を説き、人民を分断し、諦めさせようとします。そこで野党不信は絶大な効果を発揮し、対案としての政策をろくに知ることもなく、生活改善の見通しはないと思いこまされます。そこにマスコミが加担し大きな影響力を持っています。そこで「消費税と社会保障のリンク論」や「高齢世代と若年世代の対立論」などが世論に沈殿していることを十分に意識しつつ、「安倍政権の社会保障改悪の実態を広範な国民に知らせ、国民要求の封じ込めをねらったイデオロギー攻撃をはね返す、草の根の取り組みが求められます」(同前、98ページ)。年金積立金の株価対策への流用での巨額損失や、給付削減と負担増で介護保険が「国家的詐欺」に変質させられようとしていることなどで人々の怒りを組織することもきわめて重要です。そこで併せて、税金の集め方・使い方を根本的に変える道を提起していくことによって、政治を変える意義と展望を広めていくことができます。
こうしたこの秋以降の闘いの高まりによって世論を変えていく中で、共産党や市民運動組織の働きかけによって、民進党の政策を第二自民党路線から脱却させ、野党共闘を深化させることを目指すべきでしょう。
安倍政権の暴走を阻止する拠点は諸個人の生活を守り改善することですが、そこを明け渡していては闘いになりません。日本社会の質・あり方はその点での困難を抱えています。悪政にギリギリまで耐える日本人の心性を変えていくには、個人生活のあり方があくまで社会的なものに規定されていることと、それ故、孤立を克服して連帯の力で社会を変えることによって諸個人の生活を変えその発達を大いに促していける、という確信・実感とを広めていくことが必要です。日本社会で個人が大切にされない理由として、資本の論理の過剰貫徹を挙げることができます。もちろん問題をあまりに単純化してはいけないので他の要因をも考える必要はあるでしょうし、「日本社会の質」と「資本の論理の貫徹」との相互関係がどういうものかという問題もあります。しかしこの社会の諸現象を資本の論理の過剰貫徹から理解し変革の道を探ることは、一つの切り口として有効ではないかと思います。
まず日本社会は外国人からどのように見られているか、新聞の投書から拾います。あるイタリア人は「日本での生活はとても疲れる。スピードと成果ばかりが優先されている。こんな社会では、気持ちの優しい人や繊細な神経の持ち主が疲れて病んでしまうのはあたり前。その人たちのほうがずっと正常なのだ」(「しんぶん赤旗」9月10日付)と語っています。またあるベトナム人留学生は、初め日本社会の発展や豊かさに感心し日本人は幸せを感じているだろうと思っていたけれども、10か月が過ぎてそうではないと感じるようになりました。日本は自殺率が高く「電車の中では、睡眠不足で疲れた顔をよく見る。日本人はあまり笑っていないし、いつも何か心配事があるような顔をしている。/日本人は勤勉で、一生懸命働いて今の日本を建設した。でも、会社や組織への貢献ばかり考え、自分の成果を自分が享受することを忘れていると思う。…中略…/経済的豊かさは幸福につながるとは限らない。日本人は何のために頑張っているのか。幸福とは何なのか。日本人自身で答えを探した方がいいと思う」(「朝日」7月10日付)。
「外の目」は日本社会の過酷さと日本人の不幸を端的に把握しています。ここから様々な日本特殊論を導き出すことも可能でしょうが、それは日本不可知論や非合理主義的理解につながる危険性を抱えています。むしろ資本主義社会の普遍性の中に日本社会のあり方を置いてみる方が合理的解決への道に近づくように思います。
資本主義社会の主人公は資本であり人間は従属しています。剰余価値獲得のため資本は人間労働を酷使します。その極北にカローシや自殺があります。このカローシが日本語から生まれた世界共通語であることが事態を象徴しています。過労死は日本に典型的に見られるけれども外国にも存在しています。日本から輸出されたという側面もあるでしょう。資本の論理が過剰に貫徹するところに過労死は起こり、それはまさに日本が典型だけれども同様なことは資本主義社会ではどこでも起こり得るので、世界共通語としてのカローシが成立します。解決策は労働における資本への規制に尽きます。それがなかなかできないところに日本社会の特殊性があり、その原因を経済学や他の社会科学を結集して解明することは必要ですが、社会運動や政治変革の活動の課題ははっきりしています。むしろ資本への民主的規制を実現して日本特殊論を克服し、新たな日本社会像の形成に向かうというような姿勢を取りたいものです。諸個人が社会の主人公となって少しでも人間らしい生活ができるようにすることが目標です。
日本の働き方の問題点を浮き彫りにするのが外国人看護・介護人材が定着しないという問題です。経済連携協定(EPA)でインドネシア・フィリピン・ベトナムから受け入れて8年で入国が4000人弱あり、資格取得は600人に及びますが3割は離脱しています。原因として、言葉と仕事自体のむずかしさ、支援体制の弱さがありますが、日本の働き方にも問題があると専門家は指摘します(「外国人看護師・介護士、難しい定着『もう疲れ果てた』」、「朝日」9月18日付)。
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長崎大大学院の平野裕子教授(保健医療社会学)は昨年12月、インドネシアの日本大使館がEPAを離れた帰国者を集めた就職説明会で調査をした。回答した帰国者29人のうち、13人が「日本で仕事をする生活に疲れた」と答えた。そのうち8人は合格者だった。
平野教授は「看護や介護は日本人にとっても楽な仕事ではない。言葉の問題をクリアした先には、多忙や子育ての難しさといった日本人にも共通する悩みを抱える人がいる。根本の問題が解消されない限り、日本人と同じように外国人も疲弊する。日本の働き方自体を見直す時だ」と訴える。
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こうした問題でまず目に付くのは、日本社会における外国人のあり方ということですが、実はそのほかにも日本社会のあり方そのものという日本人にも共通する問題が上記のように隠れているのです。そして働き方はまさに資本の論理がどのように貫徹されるかに依存する部分が大きく、それは一般的な私企業以外の職場が多い看護・介護での労働にも影響を与えるでしょうから、その現場の過酷さは日本社会における資本の論理が貫徹するあり方を反映しています。
以上、外国人の置かれた立場や見方から日本社会のあり方を見ましたが、障害者の立場から見ることも示唆を与えます。障害に対する考え方として「医学モデル」は「社会に適応するように個人の側を変えていく、集団の価値を優先して、リハビリや治療で障害者を改造する」というのであり、それに対して「社会モデル」は「障害は、個人の中ではなくて社会の側に宿ると」考えて「障害むきだしのままで生きていていい、むしろ多様な個人を包摂するものへと社会を改造する必要がある」というものです(熊谷晋一郎「『語り』に耳を傾けて 分岐点を前に」、『世界』10月号所収、34ページ)。
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障害の「社会モデル」に則って考えると、社会が不要とする人間は時々刻々と変化します。たとえばかつては黙々と働くコミュニケーション下手な人の価値が認められていたのに、そうした仕事が機械で置き換えられるようになって、いわゆるコミュニケーション能力が強く求められるようになった。消費の場でも、生産の場でも、長期的に安定して見通しのつきやすい関係性が崩れ去って、めまぐるしく配置や距離の変わる関係性へと変化した。そのなかで、コミュニケーションが苦手な人、自閉傾向の強い人は「障害化」させられる。
時代とともに、場所とともに、不要なものとされる人の範囲が広がっていきつつある。しかもその「不要」の基準が流動化しているというか、いつ変化するかわからない世の中で、端的に言えば、みんなあす新しい障害者になるかもしれない。
「障害者の問題は他人事ではない」という言うときのテンプレートは、誰でもいつ交通事故に遭ったり病気になったりするかもしれないという想像力止まりだったと思います。でも、社会が求める範囲がどんどん厳しくなることで、あした障害者になるかもしれないというリアリティが増している。…中略…
……多くの人々が共有しているこうした不安は、いいほうに向かえば、連帯につながる――みんな障害者であるというロジックにいくかもしれない――し、悪いほうにいけば排外主義へ、自分を集団的価値と同一化して、より弱い立場、より障害化させられた人々を排除することで自分の価値を高めようとする方向にいくかもしれない。その分岐点で、どうすればそれを連帯のほうに持っていけるのか。それはたぶん分配の問題とも関わってくると思います。 同前 40・41ページ
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この論稿で熊谷氏は個人に集団や国家を対置していますが、効率優先の優生思想との関係ではむしろ対置されるべきは資本が第一になります。「障害は社会の側に宿る」という場合、その社会の中心に資本があるのです。障害の「社会モデル」では変わるべきは個人ではなく社会なのですが、規制されない限り、資本は利潤追求という本性を変えることなく、そのために必要な労働のあり方の変化によって、労働主体である諸個人への要求を変え、それに応じられない諸個人は「障害化」させられます。障害の「社会モデル」に想を得た熊谷氏の巧みな説明は、資本主義下でいわば「社会的障害者」が発生することを普遍的に示しています。
多様な諸個人が存在するというだけでなく、一人ひとりの個人はその内部に多様な部分を持っています。「社会モデル」では、できるだけそういうものに配慮しうる多様で柔軟な社会をつくることで、諸個人の全面発達を実現することを目指しているのでしょう。「スピードと成果ばかりが優先されて、気持ちの優しい人や繊細な神経の持ち主が疲れて病んでしまう」のでなく、それを優れた性格として生かす社会に変えるべきなのです。
鷲田清一氏は「傷つきやすいというのも能力の一つです(山本毅)」という言葉を次のように解説します(「折々のことば」、「朝日」2015年12月6日付)。
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「どーだ」とばかりに、自信満々の演奏をする人がいる。それはそれで立派だが、競争を勝ち抜かないと職につけない音楽界の現状がそうさせているところがあると、打楽器奏者は言う。音楽は人を励まし、奮い立たせもするが、人を慈しみ、慰めるものでもある。傷ついた心によく共振するのは、傷つきやすい繊細な感受性だ。そもそも音楽は競いあうようなものではない。
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「競いあうような音楽」とは資本主義的に疎外された音楽であり、あたかもそれが当たり前の姿かのように思われていますが、本来はそうでないことに気付くことで音楽の可能性を柔軟に広げられます。ここでの「音楽」は「社会」に置き換えられます。自信満々でない人にも出番はあるはずです。
資本の論理では、諸個人を分断して個別にいいように使い、個人の利用できる部分だけを利用し、ある個人が全体として利用できなければその個人そのものを「不要」とします。そのような社会の中で孤立して自省的であると、自分の欠点に目が行き、しばしば自信喪失に陥ります。しかし障害者の「社会モデル」が教えてくれるのは、個人が自信喪失する必要はなく、諸個人の様々な可能性を引きだすべく社会が変わるべきだということです。最初に返れば、安倍政権が社会保障を削減するなど、諸個人を切り捨てる施策を強行してくる中で、自信なくひたすら耐えているのではなく、怒りを持って社会を変えるように要求することが正当なのです。
そのように立ち上がるためには、孤立を克服して連帯を求めねばなりません。障害者の運動が確立したことは、次のように社会一般に普遍的に適用できます。「『誰にも頼らず一人で生きていける』ことではなく、『必要な助けを、必要なだけ得られる』ことこそ本当の自立である」(熊谷前掲論文、35ページ)という考え方に立って、分断と孤立ではなく、決して恥じることなく依存することの大切さを広めることが重要です。「依存先が少ないと暴力の加害者や被害者になるリスクが高まる」ので「まずすべての人に依存先を保障することを考えないといけないし、依存先が存在するという情報を、きちんとみんなが見られるようにしておく必要もあ」ります(同前、40ページ)。各地で取り組まれている生活相談活動はその実践であり、相談者本人を助けるだけでなく、社会のあり方を真に人間的に変えていく活動の重要な一環でもあります。
日本人が悪政に耐えるのではなく、資本の論理の過剰貫徹に抗して、個人の尊厳を守るために立ち上がる、という課題についてあれこれ散漫に書いてきました。日本社会の特殊性そのものについてはほとんど言及することができず、もっぱら資本の論理の観点から考えただけですが、以上に引用した文章自体にはそうした観点はないので、いくらか意味はあっただろうと考えています。最後に、耐える個人が社会認識に進むうえでの文学の役割について、今年アメリカで『日本プロレタリア文学選集』(シカゴ大学出版局)を出版したノーマ・フィールド氏の話を引用します(「しんぶん赤旗」日曜版9月18日付)。日本プロレタリア文学の作家たちは厳しい弾圧の中でなぜ作品を書き続けたのか。
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彼ら彼女らは、文学だけで社会変革ができると思っていませんでしたが、同時に、文学抜きで可能だとも思っていませんでした。
社会的、つまり制度的抑圧は気付きにくいものです。自分の精神的、肉体的被害を認識し、ひとと共感し、手を結ぶこと以外に将来に向けての希望などありえません。
彼らにとって文学は最高に豊かな世界認識とコミュニケーションの手段だったのです。それらの小説は、現代のツイッターやフェイスブックにあたるかもしれません。双方を比べてみるのも有意義だと思います。
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現代に生きる人々も苦しさや切ない思いを多く抱えていますが、その中の少なくない部分が社会的・制度的抑圧に起因することは気付かれていないでしょう。今「最高に豊かな世界認識とコミュニケーションの手段」を私たちは獲得できるでしょうか。
日本経済の落ち込みと個人消費
日本経済が低調で消費増税を先送りした安倍首相は、その原因を世界経済の減速のせいにしています。しかし内閣府「世界経済の潮流」2016Tによれば、リーマン・ショックの2009年以降を比較すると、個人消費・設備投資ともにその回復程度において、G7中で日本は最下位クラスです(「しんぶん赤旗」9月9日付)。日本経済の不振は世界経済のせいではなく、2014年の消費増税を含むアベノミクスが原因と考えるべきでしょう。大資本優遇・搾取強化の新自由主義政策による個人消費の不振、内需の縮小が「企業に設備投資をためらわせています」(同前)。
このように個人消費の不振が日本経済の低調さの重石となっています。その原因がアベノミクスにあることをさらに見ましょう。「しんぶん赤旗」9月8日付は、総務省「家計調査」と「消費者物価指数」から実質可処分所得を算出しその推移を描き出しています。それによれば、2015年8月から16年7月までの1年間を第2次安倍政権発足前の11年8月から12年7月までと比較すると12か月すべてで下回っています。12か月中5か月では2万円以上の減額です。実質可処分所得が下がる原因は<1.賃金・年金など所得の減少、2.社会保険料の引き上げ、3.消費増税・異次元の金融緩和による物価上昇>であり、要するに資本の強搾取と誤った経済政策によるのです。賃金よりも実質可処分所得は消費支出により広く直接的に影響していると考えられるので、同記事が実質可処分所得に注目したことは重要です。
さらに可処分所得が増えても消費支出が減る場合があることにも注意が必要です。個人消費の低迷の中でも深刻なのが若年子育て世帯による消費抑制です。2016年度「経済財政白書」によれば、世帯主が39歳以下の「若年子育て世帯」(2人以上の勤労者世帯)は全年代中で平均消費性向(可処分所得に対する家計消費支出の比率)が最低です。しかも14年・15年は可処分所得が増えているのに平均消費性向は低下しています(「しんぶん赤旗」9月15日付)。その原因として「白書は、保育料や教育資金、社会保険料などの負担が発生する中で将来も安定的に収入を確保できるのか、老後の生活設計は大丈夫かといった将来不安があると分析しています。若年層で非正規雇用比率が高く、近年上昇していることが将来不安の背景にあるといいます」(同前)。日銀の異次元金融緩和・円安・消費増税による必需品価格の上昇も消費を押し下げる効果が確認されています。低所得者層の多い若年子育て世帯はこうした影響を受けやすいというのです。
悪政というものは、実質賃金や実質可処分所得の低下という直接的悪影響だけでなく、社会保障切り捨てによる将来不安という心理的悪影響をも通じて、個人消費の不振という日本資本主義の宿痾を育てているのです。
2016年9月30日
2016年11月号
地域経済政策の意義
新自由主義下で格差と貧困が拡大しあまりにひどい社会状況になっています。一方ではその反動からか、高度経済成長期へのノスタルジー的美化論が生じています。その中には、史的唯物論の生産力主義的解釈によって、あの高度経済成長を歴史の必然とみなすものもあります。しかし歴史の必然をそのように狭く捉えることは誤りです。色川大吉氏は「水俣病は高度経済成長の犠牲だと人は言うけれども、水俣病を許すような社会だからこそ高度経済成長が可能であった」という意味のことを述べています。別の道もあり得たけれども日本社会はそれを実現し得ず、様々な闘いの末に「水俣病を許すような社会」を選択する結果になったということです。
確かに戦後日本資本主義は生産力的には戦前の軽工業段階から重化学工業段階に移行する課題に直面していましたが、対米従属下で農林水産業を破壊し、(公害や都市問題、過密過疎、過重労働など)人民の生活を犠牲にして、その課題を果たす「必然性」は必ずしもありませんでした。自主独立の外交関係下で、人民の生活を真に豊かにしながらそれを基盤にバランスの取れた産業構造を形成する形でその課題を果たす、という実現様式における「必然性」の貫徹もあり得たはずです。高度経済成長期におけるそうした二つの路線対抗を振り返ることは、今日の新自由主義・アベノミクスへのオルタナティヴを考える際に参考になります。
他方では、格差と貧困の拡大の衝撃は、目前の惨状を少しでも救いたいと、各地に子ども食堂や学習支援などの運動を誕生させました。これらに対してその意義を評価しつつも、それは貧困の不利益を軽減する活動ではあっても貧困対策とは言えず、貧困対策とは貧困そのものをなくすことである、とする批判的言及があります。そして貧困そのものをなくす決定打は再分配政策であると主張されます。確かに再分配政策はきわめて重要ですが、それだけでなく、新自由主義グローバリゼーションで疲弊した地域経済と国民経済を立て直す産業政策も不可欠です。生産そのものを再建して生活本位の豊かな経済を実現することが必要です。
なお生産・分配・再分配と再生産構造などの問題については、「『経済』2015年4月号の感想」の中で「格差問題から産業再生へ 人々の豊かさの確保」と題して書きました。そこで「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場・企業→個人の生活と労働)に対抗する「下から視角」(個人の生活と労働→職場・企業→地域経済→国民経済→世界経済)を強調しました。今号で、「上から視角」に立つ安倍政権の地方制度改革によらない「地方再生の展望について、下(地域)から地域政策を確立する展望のもと都道府県の地域政策の役割に焦点を当てて考察」(41ページ)したのが、入谷貴夫氏の「『地方消滅論』と都道府県の地域政策 高度成長期の二つの事例を検証」です。
入谷氏は「そもそも地域の生活・産業・文化の衰退や崩壊を食い止めるためには、この根本的な原因である戦後の中央集権的な行財政制度を根本的に改め、地方分権的な行財政制度を確立することによって地域の特性に根ざした内発的な地域政策を推進するほかない」(41・42ページ)という立場から、「3層の地域循環構造(地域経済循環、公共・民間循環、環境・社会循環の三つの有機的な構造)を創出」する(42ページ)ことが必要であると主張しています。さらにそれを支援する市町村・都道府県・国の連携のあり方が重要であることを提起しています。地域政策認識におけるそのような批判的視点に立って、高度経済成長期の地域政策を反省し、そこから今日に生かす展望を見出そうとしています。
安倍政権は「地方消滅回避のために」中央集権的な政策を取ろうとしていますが、これはかつての「戦後復興のため」「高度成長のため」の中央集権体制と同様の発想に立っています。高度経済成長期に政府は、全国総合開発計画(1962年)に基づいて、新産業都市建設促進法(同年)と工業特別地域整備促進法(1964年)を制定し拠点開発方式を推進しました(42ページ)。入谷氏は、この方式に乗った大分県とそれを批判して独自の政策を展開した京都府とを比較検討しています。大分県が導入した重化学工業コンビナートは地域経済での産業連関を形成し得ず、大分県経済の浮揚に結び付けられませんでした。それに対して京都府の地域政策の優位性は次のようにまとめられます(52ページ)。
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それは、第一は、国の全国総合開発計画による拠点開発にくみせず、「タテの開発」を唱え独自の内発的発展を志向し、地域の特長を活かして産業間のバランス(地域経済循環)を創造したことである。
第二は、二次にわたる総合開発計画により、市町村と連携しつつ都道府県の広域機能(総合計画の性格)、補完機能(府事務所の維持)、連絡調整機能(市町村との政策調整)を動員して都道府県の役割を果たしたことである。
第三は、拠点開発方式の批判を踏まえて独自の内発的発展を模索したことに止まらず、さらに国の役割の変革を展望していたことである。
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これは1970年と80年の京都府の産業連関構造を比較して、後者において基本的に産業全体のバランスが維持されていることを確認した上での総括です。京都府は、1964年の総合開発計画において、その地域経済が抱える問題点を具体的に分析しつつ、国の拠点開発方式を批判して、地域性に即しない工業の導入ではなく、地域に根ざした独自の発展の必要性を説きました(43ページ)。それは、各地域・各産業に応じて、経営規模、生産手段や労働力のあり方、資源配分、生活環境などの問題点を把握することを基に、「自然的、社会的諸資源を総合的に利用して諸問題の解決を図りつつ、府の有する潜在的発展性を最高度に発揮させることにより、住民の所得と生活の普遍的な向上を期するとともに、あわせて近畿圏の秩序ある発展と国民経済の均衡ある成長に寄与するため」の「総合的、広域的かつ長期的な施策」でした(同前)。京都府の地域経済は様々な困難を抱えていたけれども、中央集権的な上(国)からの画一的な施策ではなく、このように地域の実情に内在的な府の(国から見れば下からの)リーダーシップによってバランスある産業構造を維持することができました。こうした地域連関と住民の所得・生活向上が税収の増大に結びつき民力培養型公共投資を可能にする、という好循環を生み出す論理は根幹的事業方式と呼ばれています(43・44ページ)。
ここで格差と貧困を拡大する今日の新自由主義政策へのオルタナティヴという初めの問題意識に返ります。今日の経済状況の惨めさへの反動から高度経済成長期とその政策の美化に陥るのでなく、当時も京都府のように厳しい現実に内在したオルタナティヴが提起され実践されたことが銘記されねばなりません。あくまで住民の生活と地域の実情を出発点にした下からの経済政策が具体化されるべきで、「地方消滅論」で脅した上からの画一的な処方箋による拠点中心主義では地方の疲弊は解決されません。また格差・貧困に対して再分配政策だけに焦点を当てるのではなく、それによる内需拡大効果を含めて、具体的な産業政策の提起によって地域経済を再生させ生産活動の活発化を図ることが必要であり、その実例として当時の京都府の経済政策の意義を認めることができます。
理想を追求する者は現実を直視しないと思われがちですが、現実をどう捉えるかが問題です。その姿勢によって現実は様々に見えてきます。多くの場合、現状追認の姿勢を暗黙の前提にして現実の「重さ」や「確固性」を理由に理想を排撃します。しかし変革の理想に向かう姿勢を持つとき、別の「確かに重い」現実を見つけることができます。戦後日本経済の原点と高度経済成長期について実在した歴史の大枠に囚われるだけでなく、別の可能性への理論的想像力を働かせることができるなら、そこに当時の京都府の経済政策という(大枠からは外れているけれども確かに実在した)オルタナティヴを見出せます。もちろん過去の話だけでなく、今日においてもたとえば自然エネルギーの地産地消をテコにした地域経済の内発的な再生に取り組む自治体などもあります。それらは厳しい現実に対峙して成果を上げてきて、私たちはその成果の一部を伝え聞く程度のことではありますが、そこに高度経済成長へのノスタルジーを乗り越え、国の再分配政策(それはまだ実現していないが)の先に位置する新たな現実としての地域経済を創造する芽を捉えることができます。
憲法の理想と現実 日本の過去・現在・未来
1.憲法と現実をめぐって
来る11月23日にホウネット(名古屋北法律事務所の友の会にして市民運動組織)主催で、憲法サロン(学習会)「憲法どおりなら、こんな日本に!」を実施します。憲法の人権規定を実現するなら、どんな日本社会をつくることができるか、というコンセプトで教育・子育て・労働・社会保障の4分野の報告を行なって参加者で意見交流をしようと考えています。私は教育の報告を担当しますが、門外漢だし、今さら何かきちんとした文献を読み切る余裕もないので、手近にある本誌9月号所収の2論文(三輪定宣「安倍教育改革の危険性と無償教育の展望」、岡村稔「ローン化が進む日本の奨学金制度と課題」)とOECD編、徳永優子他訳『図表でみる教育 OECDインディケータ』2015年版(明石書店)を参考にしようと思っています。
この学習会の取り組みの対象は<憲法の理想 VS 日本社会の現実>ということです。「現実に合わせて憲法を変える」という議論を克服するために、日本社会の現状を直視するとともに現状追随になるのでなく、憲法の原点に返ってそれを実現するとどうなるかを想像し、世論を喚起して実現への道を考えます。その際に、教育については、憲法に基づく戦後改革期の施策が「かつてあった現実」として、世界(外国)の事例が「今、確かにある現実」として参考になり、日本の現状に拘泥しない発想に資するものです。私自身も大学の学費がきわめて高いという日本の現状が世界的には例外的であることを初めて知ったとき、日頃慣れ親しんだ日本社会の異常さを改めて認識し、様々な現実を知ることの重要性を痛感したものです。学習会の報告では、(1)三輪論文で憲法の原点とそれに基づく戦後改革期の教育と安倍教育改革とを対比し、(2)岡村論文で奨学金の現状を紹介し、(3)OECD資料の教育の国際比較によって日本の異常さを浮き彫りにし、それに比べればまだ世界標準は日本国憲法に近いことを明らかにしようかと考えています。
憲法の理想は空想ではなく、現実的根拠を持つことを、日本社会の現状とは別の現実(ここでは過去の日本と現在の世界)を突きつけることによって明らかにしようというのです。ところが憲法の理想と今日の日本の現実とを対比する場合、通俗的には現状の重みに引きずられて、現状に合わせて憲法を変えようという言説が趨勢となってきました。そうした中で、理想を重視する希望を持っている人々の中でもしばしば現実把握と現実追随とを混同して護憲への姿勢がぐらつく例が多くあるように思います。それは9条論において多く見られます。9条は歴代保守政権によってさんざんに蹂躙されてきた結果、その理想が空想に見えるような現実が形成され、空想では説得力がないという配慮から現実追随になる傾向を絶えず生み出してきました。
2. 「護憲VS改憲」と「立憲VS非立憲」の諸派
そうした中で、前代未聞の極右の安倍政権が成立し、そのあまりにもひどい憲法無視の姿勢に、「壊憲」に反対する勢力が立憲主義を掲げて、護憲・改憲を問わず形成されました。その状況は、対抗の最前線が「護憲VS改憲」から「立憲VS非立憲」へ移ったと評されています。こうした対抗軸の移動は、一方では良心的な保守層をも含めて、戦争法反対・安倍政権打倒の一点共闘を大きく広げていく効果を持ちましたが、他方では護憲派の融解現象をもたらし、立憲主義であれば改憲でもいいという一部の傾向を生み出しました。これに対して、護憲派の立場からは、政治戦線における一点共闘の陣地の拡大とともに、理論の劣化を克服して深化を目指すことが必要です(量的拡大・質的深化)。
ここで「護憲・改憲」と「立憲・非立憲」に自衛隊「違憲・合憲」という軸を加えて様々な立場を図式的に分類します。護憲派は同時に立憲であって、改憲派は立憲と非立憲に分かれることを考慮すると以下のようになります。
(1)自衛隊違憲論・護憲・立憲派
(2)自衛隊合憲論・護憲・立憲派
(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派 (3-1)改憲派出自 (3-2)護憲派出自
(4)自衛隊合憲論・改憲・立憲派
(5)自衛隊合憲論・改憲・非立憲派
(6)自衛隊違憲論・改憲・非立憲派
(1)〜(6) それぞれの立ち位置の表示
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護憲+立憲 |
改憲+立憲 |
改憲+非立憲 |
自衛隊違憲論 |
(1) |
(3) |
(6) |
自衛隊合憲論 |
(2) |
(4) |
(5) |
護憲VS改憲 |
護憲 |
改憲 |
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立憲VS非立憲 |
立憲 |
非立憲 |
自衛隊違憲論は条文と現実との矛盾を認める立場であり、現実政治における憲法体制と安保・自衛隊体制との矛盾を反映しています。矛盾の解決策として前者に合わせるのが護憲であり、後者に合わせるのが改憲です。自衛隊合憲論は条文と現実との矛盾を解釈によってないものとする立場であり、現実政治の矛盾をそのまま容認することになります。それを持続可能とすれば護憲となり、持続不可能とすれば改憲となります。
「護憲VS改憲」から「立憲VS非立憲」への対抗軸の移動によって、今日の政治状況としては、(1)〜(4)が(5)(6)と対抗しています。従来の自民党政権の公式的立場は(4)でしたが、不断に(5)(6)への傾斜を示していました。改憲の党是・米国の指示と護憲派の運動・世論とがせめぎ合うという長年の状況下で、自民党政権の公式の立場とホンネとは揺れてきたのですが、そうした微妙な状況を「打開」しつつあるのが安倍政権でしょう。安倍政権もまた自民党政権の継承という外形的事実からして公式には(4)なのですが、閣議決定で解釈によって集団的自衛権行使を容認するなどまったく立憲主義を無視しているので、実態的には(5)であり、さらに改憲の理由づけとして、憲法学者の多くが自衛隊違憲論である現状を持ち出していることからすれば、ホンネは(6)にあると見るべきでしょう。(6)は保守反動右翼の立場であり、彼らが自民党政権を簒奪したのが安倍政権なのだから、公式(4)、実態(5)、ホンネ(6)という現状になっていますが、(6)への純化という方向性は明らかです。
3. 逆立ちした「立憲主義」批判
以下に問題とするのは「(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派」ですが、これには「(3-1)改憲派出自」と「(3-2)護憲派出自」があります。(3-1)は安倍政権の暴走に直面して断固反対するために、(6)の非立憲主義との違いを強調し護憲派に接近したものであり、プラス方向への変化を示しています。(3-2)はやはりそうした闘いの中で、おそらく現実主義的見地から(3-1)との交流なども通じて「(1)自衛隊違憲論・護憲・立憲派」から「(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派」へ移行したものであり、マイナス方向への変化として護憲派の弛緩と劣化を現わしています。これは要するに自衛隊の存在を認めるための変化であり、同じ動機から「(2)自衛隊合憲論・護憲・立憲派」への移行もあります。
(3)は「護憲的改憲論」とか「新9条論」などと呼ばれています。これに対して「(2)自衛隊合憲論・護憲・立憲派」の立場から批判したのが杉田敦氏の「憲法九条の削除・改定は必要か 立憲デモクラシーに基づいた安全保障論議のために」(『世界』2016年1月号所収)であり、なかなか見事です。「(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派」というのは私見による分類上の特徴づけであり、それは杉田氏による「戦後の平和主義的な価値理念を共有する人びとの中から」(169ページ)の「9条削除・改定」論に該当します。そこには削除派と改定派があるわけですが、両派共通の議論によれば、絶対平和主義としか読めない9条2項をそのままに自衛隊と個別的自衛権を認めることは憲法の空文化・非立憲主義だから9条2項は削除することになります。その上で削除派は、憲法上に安全保障について規定することはやめ、その都度自由な政治議論をすべきだ、と主張します。改定派は「自衛隊の存在と矛盾しないような、しかし同時に、それ以上の拡大解釈はいっさいできないような、新たな九条二項をつくるべきとします」(170ページ)。9条の精神を生かすには集団的自衛権を認めないような新たな規定が必要だというのです。
これについて杉田氏はいくつかの点で反論しています。法解釈論では、長谷部恭男氏に従って、9条は準則(文字通りに実施されるべきもの)ではなく原理(政策の方向性を示すもの)なので、自衛隊の存在と矛盾しない、とします。「しかし、解釈の幅があるからといって、その幅は妥当な範囲のものでなければなりません」(172ページ)。すると「その幅は誰がどうやって決めるべきか」(同前)という問題が出てきます。裁判所は十分に機能していません。政治に任せるのは民主的だけれども、それにあえてブレーキをかけるのが立憲主義の本質です。したがって「法曹・学者からなる法律家共同体のコンセンサスを基本に運用する以外にない」(同前)となります。
また9条は空文化しておらず、「安全保障政策を方向づける力を、依然としてもってい」ます(170ページ)。だからこそ安倍首相ら改憲派は今なお9条2項の改定を求めています。軍隊の場合は、できないことを「ネガティヴリスト」で指定し、それ以外は何でもできますが、軍隊ならぬ自衛隊は「ポジティヴリスト」以外のことはできません。9条改定で自衛隊を軍隊とすればその活動の制限ははるかに難しくなります(同前)。
政治的論点としては、9条2項削除論の空想性が厳しく指摘されます。憲法の条文上の規定を外してしまえばどうなるか。
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そもそも安全保障論議において、政府に対抗的な議論をするということには、非常に大きな困難が伴います。安全保障にかかわる事項は機密とされがちであり、一般にそうした事項については政府が情報を独占するからです。したがって、政府がこれこれの措置が必要だとした時に、それに反論することは難しい。憲法上の規定を削除すれば、対立する考え方の人びとが自由に、対等な立場で議論できるというのが削除論者の見解ですが、全く非現実的です。 171ページ
規制を排除すれば自由な市場があらわれる、という発想そのものがあまりに楽観的です。
172ページ
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こういう非現実的な楽観論は、現状で憲法改定論議に打って出ようとする姿勢そのものにあります。メディアは「政治弾圧」によって「すでに政権に対して批判的な姿勢を保つことができなくなっています。そのように、言論の舞台そのものに、構造的な非対称性ともいうべきものが仕掛けられているにもかかわらず、憲法改正論議において、安倍さんたちに対抗してヘゲモニーを握ることができると、どうして考えられるのか」(172ページ)というのは当然の疑問です。
杉田論文で極めて重要なのは、憲法論議と安全保障論議とを分離する主張への批判です。杉田氏は「戦後日本においては、まさに憲法論という形で、安全保障論議が行なわれてきたのです。そして、これからも、そういう形でしか行なえないということを、私は主張したいのです。憲法論を手放せば、安全保障論議のヘゲモニーは政府に独占されてしまいます」(173ページ)と喝破します。
これは9条と立憲主義との内的連関から生じます。戦前日本における軍事権力の暴走の経験を受けて、立憲主義を強化し権力へのブレーキをつけようとしたから、「軍事的なものについて、抑制的な規定がつくられたことは自然です」(171ページ)。今日、安倍政権が実質的には「国家が危機なのだから、憲法などはそれに合わせてどうにでも解釈すればよい」(173ページ)という姿勢で打ち出してくる安全保障政策に対して、あくまで憲法論議で立ち向かい立憲主義を守ることが重要です。そのときに憲法改定論議の土俵に乗ることがいかに政治オンチであるかのみならず、自らが守ろうとしているはずの立憲主義を守り活用しようという姿勢を欠いていることについて真剣な反省が求められます。
以上の杉田氏の議論において、長谷部氏の法解釈論を援用した部分は、自衛隊の存在を無批判に前提した屁理屈に過ぎないように思われます。しかしそれを措けば「(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派」にたいする法的・政治的批判として傾聴に値するものでしょう。
次に「(1)自衛隊違憲論・護憲・立憲派」の立場から(3)を批判します。(1)だけが自衛隊解消論で、(2)〜(6)の自衛隊存続論ないし軍隊化論とは異なっています。ただし後者のそれぞれは内容的にずいぶん異なっているし、(1)は自衛隊解消を当面の課題としていないので、(1)に対して(2)〜(6)が一括して対立しているという状況ではありません。しかし将来の自衛隊解消を堅持する立場からの批判は(3)だけでなく「(2)自衛隊合憲論・護憲・立憲派」にも妥当する部分があるので、(1)から(2)や(3)へ移行した(しようとする)立場への批判になります。なおかつての日本共産党は中立自衛論であり、これは外形的には(3)に該当しますが、自衛隊そのものに反対であり、それを解消して独自の自衛戦力を保持する立場なので(1)の変形と言えます。しかし今日では同党は(1)の立場となっています。
(1)においても、一般論としては、自衛隊を名称通りに自衛に特化した戦力と捉える立場と、その本質を違憲・対米従属・人民弾圧の暴力機構として捉える立場とがあり得ます。両者で自衛隊解消の意味合いは違ってきますが、以下ではどちらでも通用する議論をします。つまりたとえ特に後者のような階級的観点に立たずとも、前者のような通俗的観点であっても、違憲の自衛隊を将来、解消すべきだという立場から(3)への批判を展開します。
「(3-2)護憲派出自の自衛隊違憲論・改憲・立憲派」のうち、9条2項(削除派ではなく)改定派の問題意識は次のようなものでしょう。――そもそも自衛隊の存在自体が元来違憲である上に、近年の集団的自衛権行使容認の閣議決定や戦争法制定などによって9条はますます空文化し、立憲主義は侵害されている。そこで個別的自衛権による専守防衛の自衛隊の存在と集団的自衛権の排除とを条文化し、これ以上ひどくならないよう安倍政権より前の状態で固定するという形で立憲主義を回復すべきだ。それが本来の9条の平和主義を今日活かす道であり、たとえ改憲の形はとっても護憲を現実的に実現する方途だ――
しかしこれは立憲主義の回復とは言えません。なぜなら憲法と現実が一致しさえすれば立憲主義だ、とは言えないからです。日本の現実を日本国憲法の条文に合わせるのならば立憲主義と言えますが、逆に憲法を現実に合わせるのは、あえて言えば逆立ちした「立憲主義」です。このように、「護憲VS改憲」から「立憲VS非立憲」への対抗軸の移動の中で、護憲派の一部が逆立ちした「立憲主義」を掲げて改憲派へ移行しています。立憲主義の強調はもちろん今日の情勢の中で非常に大切なのですが、そこに逆立ちした「立憲主義」が紛れ込むことによって、護憲から改憲への変節の通路になっていることに注意する必要があります。
逆立ちした「立憲主義」には安倍=稲田流もあります。憲法学者の多くが自衛隊違憲論だから9条を改定する必要があるというのです。そもそも憲法を守る気がなく、さんざんに蹂躙して非立憲的な既成事実をつくっておいてから、立憲主義をもちだして憲法改悪を正当化しています。もちろん安倍=稲田流と(3-2)の立場が同じだとは言いません。前者は初めから憲法を尊重する気がなく、後者は尊重するつもりだけれども現実が乖離してしまったから改定しようというのですから。しかし現実に合わせて憲法を改定しようという姿勢においては共通しています。前者は現実を主導的に改悪してその帰結として改憲を狙い、後者はそうした現実の改悪を途中までは受け入れつつも、自分たちなりの改憲でこれ以上の拡大を防ごうとしています。前者が攻勢的で後者が守勢に立たされているのは明白です。それは現憲法という「現実改悪阻止のこれ以上ないバリア」を死守することを放棄しているからです。杉田氏が先に指摘しているように、安倍政権下ではメディア支配などで改憲闘争において「言論の舞台そのものに、構造的な非対称性ともいうべきものが仕掛けられている」状況です。そこで勝つには、70年にわたって不変の憲法という確固たる存在に依拠し、それを断固として守り、それによって現実を変える展望を指し示すほかありません。
自衛隊違憲・解消の立場から言えば、そもそも1950年代初めの片面講和・日米安保条約締結・自衛隊の発足から、憲法と現実との間には矛盾があり、その意味では非立憲的状況はずっと続いてきたわけで、その責任は歴代保守政権にあります。もちろんその政権を選んできた主権者国民にも責任はありますが、護憲派はずっと、憲法に合わせるように現実を変える、という本来の立憲主義に相当する主張と運動を続けてきました。憲法と現実との矛盾という非立憲的状況を解消するのに護憲派は現実の変革を、改憲派は憲法の改定を求め続けてきたのです。護憲派が立憲主義を活かすというならば、その路線を継承する以外にはありえません。自衛隊解消まで非立憲的状況は続きますが、そこで常に立憲主義は現実変革の起動力として働き続けます。今慌てて(安倍政権より前の)現実に合わせて憲法を改定するなどという(3)の立場の逆立ちした「立憲主義」は、社会進歩の方向性を見失わせ、反動攻勢を助長するものです。
非武装平和主義という憲法9条の理想は今、棚上げされています。はるか最上段に。しかし現に存在しその理想が条文として見えており、敬意をこめて仰視されていることが重要なのです。私たちは最上段にあるものを一段ずつ下ろして最終的に手にできればいいのです。現状では、東北アジア平和協力構想のようなものをまず実現して、周辺諸国の融和を図り、続いて日米軍事同盟を破棄して仮想敵国をなくし、さらなる平和的な交流を発展させる中で自衛隊の解消という課題が眼前に見えてきます。
中国・北朝鮮脅威論などが渦巻く現状に想像力を奪われ、そうした忍耐強い段階的努力を行なうという展望が見えないままに、現時点で9条の理想を放棄してしまうのは許し難い短慮であり、未来の可能性を塞ぐものです。(3-2)の逆立ちした「立憲主義」は、その意図につきあってひいき目に言えば「お人よしの慌て者」の短慮ですが、客観的には「愚かな裏切り」行為という他ありません。
護憲派にとっての要諦は、自衛隊解消論が圧倒的に少数派でありながら、9条支持が多数派であるという世論上の矛盾を直視し活かすことです。それを直視しないところに自衛隊合憲論という自己欺瞞が生じ、活かさないところに9条改憲論という致命的誤りが生じます。矛盾は反動的に解消されることもありますが、本来は社会進歩の原動力なのです。9条支持が多いという世論状況は、護憲派にとってかけがえのないアドバンテージであり、ここにくらいついて現状に囚われない未来を確保することが現在の私たちの使命です。
4.歴史を知って現状の本質をつかみ未来を切り開く
9条に基づく自衛隊解消論がまったく非現実的に見えるのは、日米安保条約と自衛隊の存在を所与の前提とし、9条を付け足し程度に扱い、米国のベトナム・イラクへの侵略に協力しながらも、「戦後平和国家」などと称している、極めて偏った現状認識が通念となっているからです。当然そこでは中国・北朝鮮の脅威は喧伝されても、歴代保守政権の対米従属姿勢とましてや安倍政権の特異なタカ派軍拡路線が周辺国の脅威になっているという事実は認識されません(韓国のような対米従属仲間―いわゆる「価値観を共有する国」―からさえ警戒される状態です)。これまさに自国は白無垢で他国は邪悪であるというナショナリズムのバイアスが為せる業です。
こうした世論状況は、日本の現状が何かということが把握されていないということです。現状の本質を捉えるには戦後の原点という歴史を顧みる必要があります。1946年の憲法公布に引き続いて、1951年のサンフランシスコ講和条約による片面講話と日米安保条約の締結から、1954年の自衛隊創設にいたる一連の対米従属化と再軍備の過程が同時に反憲法策動であり、ここに戦後日本を規定する憲法体制と安保体制との矛盾が形成されました。実は当時は憲法に従った非武装中立という可能性もありましたが、1950年の朝鮮戦争の勃発により、米日支配層の政策が転換し世論も片面講話支持に傾いたためにその芽は摘まれました。以後、極めて大ざっぱに言えば、1950年代前半の安保・自衛隊容認という第一次解釈改憲から、今日の安倍政権下における集団的自衛権行使容認などの第二次解釈改憲に至るまで、延々と憲法体制空洞化の攻撃が加えられながらも、9条を含む憲法の明文改憲は阻止してきました。それは「憲法九条の歪曲と維持という矛盾的状況」(小沢隆一「憲法九条の七〇年と戦争法 歴史から今を照らす」、『前衛』11月号所収、14ページ)を生み出しました。
今日の安倍政権との闘いは、安保・自衛隊容認の第一次解釈改憲がもたらした9条の歪曲を前提とした土俵上で、第二次解釈改憲に反対し明文改憲を阻止することを課題としています。それに全力で傾注することは当然ですが、その先の未来を見据えるならば、9条が歪曲される以前、安保・自衛隊体制確立以前の本来の姿が何であったのかを忘れないことが重要です。戦争法廃止・安倍政権打倒の先には本来の9条にふさわしい日本の平和を築く課題が待っています。現在の土俵を所与の前提としてこの先ずっと続くような通念を打破してこそ、日本の平和の展望が開かれるし、それが今日の闘いをも励まします。そこに「理想主義の現実的意義」(前掲小沢論文、16ページ)があります。日本の現状では、過去が現在を批判し未来を切り開くという関係にあるのです。「(3)自衛隊違憲論・改憲・立憲派」などの逆立ちした「立憲主義」は、現状の重さの前に理想を捨てて現状追随に陥ることで、現状の本質を見失っています。そして過去(原点)を顧みず現状に埋没し未来(の理想)を損なう結果を招いているのです。
なお戦後初期の憲法制定と片面講話・安保条約締結・自衛隊発足という歴史的経過とその今日的意味については前掲小沢論文が秀逸であり参考にしました。
以上の拙文では、安保・自衛隊に反対する立場から、自衛隊の存続を前提にした改憲論・護憲論を主に批判しました。もちろん今日の情勢では、安保・自衛隊肯定の人々とも共同して、戦争法廃止・立憲主義回復(注)を進めるのが喫緊の課題です。その中で拙文のような内容はいわば内輪もめになるのではないか、という危惧はあろうかと思います。
しかし節度を持ってそれぞれの立場を表明し相互批判するのは共闘の中ではありうることであり、むしろ共闘を発展させるのに資する場合もあります。また戦争法廃止の共闘の外にある広範な世論をいかに獲得していくかが最重要課題であり、そこでもそれぞれの立場が独自の語りかけで努力していけばいいのです。その際に、安保・自衛隊反対の護憲派が理論的確信を強めていくことが重要ですが、どうも不確信による弛緩現象が見られるように思えます。それは護憲派の危機ですがチャンスでもあります。この際、ラディカルに(根本的に)自分たちの見解の根拠を問うことを、安倍政権打倒の闘いの中で自己を鍛えるように敢行することが求められているのです。ただし昨今の闘いの中では、何を伝えるかよりも、どのように伝えるかのほうがはるかに重要である、という教訓が確立したようにも見えます。正しいことを言えばいい、というのは怠慢のそしりを免れない状況ですから、そうした課題も重くのしかかってきています。
(注)今闘われている立憲主義回復は、安倍政権による集団的自衛権行使容認などの第二次解釈改憲の是正です。それはいわば第一次立憲主義回復です。なぜなら安保・自衛隊を合憲化した第一次解釈改憲を是正する第二次立憲主義回復がまだ残っているからです。ただし第一次解釈改憲が世論上はそれなりに徐々に長期に定着してきたのに対して、第二次解釈改憲は世論を無視して過激に急速に行われたために、第一次立憲主義回復もまた戦争法反対世論が熱いうちに間髪を入れずに行なう必要があります。それに対して第二次立憲主義回復は長期にわたって世論を粘り強く説得して行なうほかありません。だから立憲主義回復は第一次のほうが非常に切実であり、今日、立憲主義回復と言えば第一次だけを指すわけですが、第二次もあるということを言いたいのです。立憲主義というものを根本的に考えるならそこまで視野に入れる必要があります。
第一次解釈改憲(1950年代前半) ⇒ 第二次立憲主義回復(将来の長期的課題)
↓ ↑
第二次解釈改憲(2014年〜) ⇒ 第一次立憲主義回復(今、喫緊の課題)
矢印の説明 < 原因 ⇒ 対策 ↓、↑ 時間の流れ >
法学素人の雑感
1.人権概念について
以上も素人論議に過ぎないものですが、以下はさらに「きちんと勉強してからものを言え」と叱られる類の言説かもしれませんが、日頃の問題意識を述べます。
天賦人権説や社会契約説はそれらが果たしてきた進歩的意義は承認しますが、社会認識として正しいとは思えません。人権を公理のように扱う(そのように扱っているように、私には思えるのだが)ことも同様です。公理とは「真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり,それを出発点として他の命題を証明する基本命題」です。あるいは「自明な命題」であることを否定する立場からは、単に「理論の前提となる仮定」とされます。いずれにせよ人権を公理として扱うと、それ以上に説明することを拒否することになりますが、人権は経済などの社会的要因から説明されるべきではないでしょうか。人権は先天的に存在していたわけではなく、人類の政治闘争によって歴史的に獲得され、その結果あたかも先天的に存在しているかのごとくに観念されるようになったのです(それ自身は重要な成果ではあるが)。国家も契約によって成立したのではなく、経済活動を始めとする人類の諸活動によって社会が形成される中で徐々に成立してきました。要するにここで言いたいことは、諸々の法イデオロギーについてその存在を自明の前提とするのでなく、史的唯物論の見地から社会科学的に説明されるべき対象として把握しなければならない、ということです。もちろんそれは人権の尊重が当たり前のものとして社会的に定着している状況を守り発展させるという立場を前提にして、それをより強固にする意図をもって主張しています。
学校教育では人権を公理のように教え込むので、そういうものとして一定社会的に普及しています。そうした状況を前提に、進歩的な社会運動や政治活動においても人権を説明無用の錦の御旗として前面に押したてています。もちろんそれでいいのですが、今日盛んになっている人権を否定する言動に対して頭から無知・馬鹿者呼ばわりでいいのか、という問題はあります。あるいは「ポピュリズムに踊らされている」と言って見下しているだけでいいのか、ということです。それは進歩勢力において、人権を成立させている歴史的社会的状況をよく考慮することなく、それが存在し尊重されるべきであることを独断的に述べるだけで済まされている、という現状を反映しているように思われます。
新自由主義下では格差と貧困が拡大し、生存権を始めとする人権への侵害が蔓延する中で、天賦人権説への反動的批判が受容される状況があります。たとえば非正規雇用やブラック企業の横行に対して労働権を基に闘うべきですが、労働組合運動が弱体化して諸個人がバラバラにされた状況下でなすすべのない労働者たちが、学校で習った人権は絵に描いた餅であり偽善だ、と思っても不思議ではありません。そこで何事にも自己責任で対処するか、となれば、弱肉強食の新自由主義イデオロギーを受容することになり、家族に頼るか、となれば復古的な家族主義のイデオロギーを信奉することになります。あげくのはて、社会保障切り捨てなどで庶民に冷たい国家で実質的に頼れるはずもないけれども、傷ついた精神にとってはナショナリズムが慰謝となり、「反日的」言動に反感を抱く場合もあるでしょう。いずれも人権よりは役に立ちそうに見えます。もちろん実際には単なる気休めか、自己欺瞞に過ぎず、彼(彼女)にとって何の問題解決にもならないのですが。
結局、この厳しい時代に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(憲法12条)という条文に相当する何らかの実践に触れ、生活や労働条件が改善され、社会が良くなるという実感がなければ人権が本当に受容されるのは難しいでしょう。そういう意味では、人類が長年の闘争によって勝ち取ってきた人権について、一人ひとりが追体験するようなことが必要とされる状況かもしれません。知識不足で、人権概念について理論的にどう説明すべきかは分かりませんが、人権を公理のように扱って済ませるべきでない、という問題意識はこういうところに当てはまるように思います。
日本共産党憲法草案(1946年6月)の第41条は「人民は日本人民共和国の憲法を遵守し、法律を履行し、社会的義務を励行し、共同生活の諸規則に準拠する義務を持つ」となっています。安倍政権の暴走のおかげで、21世紀の日本人民は立憲主義をよく学習し、憲法はそもそも主権者国民が国家権力を規制するためのものだから、それを守る義務は主権者ではなく権力者・公務員にあることを知っています。残念ながら戦後初期の日本の科学的社会主義者はその点に自覚的ではなかったようです。ただし第7条には「政府が憲法によって保障された基本的人権を侵害する行為をしまたかような命令を発した場合は人民はこれに服従する義務を負わない」という規定があるし、第2章「人民の基本的人権と義務」は第6条から41条まで充実した内容になっているので同草案が決して遅れた非民主的な内容だというわけではありません。しかし立憲主義について十分な理解が不足していることは伺えます。ちなみに1992年発行の『社会科学総合辞典』(新日本出版社)に「立憲君主制」という項目はありますが「立憲主義」はありません。1989年発行の『講談社 カラー版 日本語大辞典』にはあります。
憲法は国家権力を規制して個人の自由と権利を守るために存在する、という基本認識がかつての科学的社会主義において不明確で、ブルジョア法学に後れを取ってきたような気がします。立憲主義は絶対主義打倒のブルジョア・イデオロギーですが、その時点での先進的意義のみならず、その後の歴史段階にも普遍的意義を持つと考えるべきでしょう。その点で科学的社会主義の側には「人民権力性善説」のようなものがあって、国家権力の規制を軽視したのではないでしょうか。残念ながらこれまでの歴史的経験は、被搾取人民が革命によって打ち立てた権力もまた専制権力化することを示しています。
ソ連・東欧諸国・中国などの20世紀社会主義諸国は欧米資本主義諸国の形式民主主義を超える実質的民主主義を説きましたが、その実情は形式民主主義・ブルジョア民主主義以前の前近代的非民主政治でした。アグネス・スメドレーの名著『偉大なる道 朱徳の生涯とその時代』では中国革命に至る過程での解放区における共産党による徹底した実質的な民主主義の様子が活写されています。また革命後初期において、侵略戦争の加害者である日本軍兵士の捕虜を実に人道的に扱い民主的教育を施したことも進歩的理性の発揮として、ブルジョア民主主義を超えるものを感じさせます。しかしその中国共産党も独裁権力と化し、「文化大革命」なるあだ花はユン・チアンの『ワイルドスワン』に悲惨な姿を露呈しています。社会主義が本来目指したブルジョア形式民主主義を超える実質民主主義とは何であるのかは『偉大なる道』と『ワイルドスワン』との落差を抜きに考えることはできません。前者から後者への転落は必然であったのか。別の道はなかったのか。
いまや崩壊の危機に直面していますが、チャベスのベネズエラ革命に端を発した中南米左派政権の連続的成立においては、議会を通じた革命と参加型民主主義が特徴的です。レーニンの第三インター出自の各国共産党とも、西欧社会民主主義とも別の道の「21世紀の社会主義」が追求されてきました。残念ながらその道も頓挫しそうではありますが、その新たな模索には歴史的意義があります。
立憲主義に普遍的意義があることは先に書きました。国家権力の抑制の重要さはこれまでの歴史的経験から明白です。それでも社会進歩はそこに留まるわけにはいきません。搾取者階級の支配を打倒して人民が権力を掌握すること自身は必要です(それを今日的に示唆するのがウォール街占拠運動のスローガンにある「1%対99%」でしょう)。その変質をどう防ぐかの答えは未だありません。「人民権力性善説」を超えてなお、「立憲主義の否定的権力観から人民の積極的権力観に止揚できるか」という課題は設定すべきではないかとの思いは否定できません。
2016年10月31日
2016年12月号
丸山惠也氏の「企業の不正事件を告発し、企業の社会的責任を問う」と小栗崇資氏の「株式会社とは何か マルクスの『所有と機能の分離論』から」は、ともに経営学・会計学研究者による資本主義の本質論となっており、そこでは企業の社会的責任(CSR)という観点が中心的論点とされ、CSRは単に企業活動の誤りや行き過ぎを是正し社会的に貢献する責任を負わせる方針ということに止まらず、資本主義的発展がもたらす生産の社会化に伴う必然的なあり方であり、さらには社会変革の見通しにもつながるものとして重視されています。小栗論文はその上に資本主義と株式会社の本質と不可分の問題として社会主義的変革の本質論をも論じています。
丸山氏は最近の日本企業の反社会的行為の代表例を採り上げた後、そこに「日本の『ものづくり』の危機とそれに立ち向かう企業の真摯な姿勢の欠如」(25ページ)を見ています。特に電機産業の衰退においては、デジタル化・コモディティ化などの技術的要因と量産体制の確立やコスト競争などの経営姿勢とが問題となります。「一般の企業は厳しい市場競争の中で、商品生産の重要な側面である使用価値の新しい生産に凌ぎを削ってい」ます(25ページ)。産業衰退を克服する生産技術的突破のためには「『ものづくり』を育てるのにふさわしい経営環境を構築する」ような「長期的経営視点」(同前)が必要です。ところが日本企業は逆に株主価値の極大化を目指すガバナンス改革を進めています。これでは、「当面の収益確保という短期志向の株主の圧力を強めれば、投機資本を利するだけで、実体経済を担う『ものづくり』経営は死んでしまう」(同前)ことになります。
原理的にはここに使用価値と価値との矛盾を見ることができます。「使用価値の新しい生産」が「株主価値の極大化」によって阻害されるのです。丸山氏は企業の反社会的行為の究極的基礎に「資本主義的商品生産の転倒性」を見ています。歴史貫通的には使用価値の生産を確保することによって社会が存立してきたわけですが、商品生産においては価値の生産が目的であり、使用価値の生産は手段に過ぎません。そこでは価値生産を通じて結果として使用価値生産が実現することで社会的再生産が行なわれ、人間社会の継続という歴史貫通的用件が間接的に満たされます。さらに資本主義的商品生産においては、単なる価値ではなく剰余価値が生産の目的とされ、価値の無限の自己増殖が追求されます。これは、たとえば自営業者のような単純商品生産の場合、生業を目的とすることで、同じ価値生産といってもおのずと限度があるのとは違って、生産の制御がはるかに難しくなることを意味しています。企業の反社会的行為の「根底にあるのは、企業の商品生産の目的と手段の転倒性であり、それを生み出す企業の資本としての自己増殖への衝動である」(30ページ)という丸山氏の言明を私は以上のように二段階的に理解します。
とはいえこれは企業の反社会的行為の究極的根拠を示す一般論であり、その具体的現れが様々であることについて解明するためには、企業の本質論としての個別資本の論理が必要となります。
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企業とは「社会的総資本の独立化された、いわば個別的生命を与えられた一断片」としての個別資本のことであり、したがって資本主義企業の経済活動の本質をなすものは、自己増殖を求める個別資本の運動といえよう。 29ページ
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資本主義的商品生産の転倒性はすべての企業にとって客観的条件として現われてきますが、個別資本はその枠内で主体的活動をいわば個性的に展開します。
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経営者の管理活動は、企業の個別資本の運動としての所与の客観的な側面を前提として、その運動に働きかけ、その目的である利潤を実現するための経営者の意識的、主体的な活動として現れるといえよう。 …中略… 経営者のこの管理活動は、同じ条件の下でも、利益を確保しようとする目的にむけての経営者の戦略、意識などで異なって現れ、その結果も違ったものになってくる。企業はいわば「個別的生命を与えられた」個別資本だからである。 30ページ
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そうした個別資本は、巨大な生産力発展の下で、グローバル化まで推進された生産の社会的性格を担う存在として、今日では次のように深刻な社会的責任を負っています。
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戦争、地球環境、経済格差、貧困、福祉などの問題は、地球社会の維持存続それ自体を危うくする、深刻な問題となっているような今日の段階にあっての企業は、社会の維持存続に不可欠の社会的存在になっているだけに、「持続可能な社会」のために自らの課題としてこれらの問題と真剣に取り組まなければならない社会的責任を負っているのである。
33ページ
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このような課題に直面する企業の社会的責任(CSR)への向きあい方において、まさに前述のような個別資本の個性が噴出します。一方の極には、もっぱら株主資本主義の立場でCSRを軽視して短期的利潤を追求し、さらには投機にうつつを抜かす企業があり、他方の極にはCSRの尊重を通じて中長期的な収益を確保しようとする企業があります。丸山論文は資本主義の枠内での民主的変革を想定して、そこでのCSRの重要性を結論としていると思いますが、企業の反社会的行為の究極的基礎に「資本主義的商品生産の転倒性」を見る立場を延長すれば社会主義的変革を視野に入れざるを得ません。剰余価値追求ましてや投機追求を排して使用価値生産を目的とする経済社会に接近する道を探る必要があります。
小栗氏は『資本論』に依拠して、ヒルファーディング流の通説を批判しながら、株式会社の本質論を展開しています。株式会社において株主は生産から分離して外部にあり、生産は機能資本家たる管理人(経営者)に担われますが、それも労働者に代わられます。こうして「所有と機能の分離」(80ページ)が行なわれ、「私的所有の内実が失われ否定され」(81ページ)ます。なぜなら「私的所有は、所有者が所有対象に対する指揮権や処分権を発揮することによって十全なものとなるのであるが、生産過程に『非参加』である貨幣資本家の私的所有は完結に至らず分解している」(同前)からです。論文は以上のコンセプトを基に、80ページの図1によって、資本の所有(人格の側面)、資本の機能(物象の側面)、企業の管理・運営(労働の側面)という形で重層的に株式会社の原理的構造を巧みに説明しています。こうして小栗氏はマルクスの株式会社観を、「私的所有としての資本の廃止」へと至った存在、あるいは脱資本主義的な性格の社会的生産体として、資本主義の中でその止揚への過渡的な形態を形成するもの(同前)として描いています。さらに次のように結論づけています。
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こうした株式会社の構造分析に立てば、「株式会社は誰のものか」の答えは株主のものでも経営者のものでもなく、人間が長い矛盾の過程をへて構築しようとしている「社会的・公共的なもの」であるということができよう。 82ページ
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こうした理論構築の返す刀でヒルファーディングに基づく通説が批判されます。それは社会主義的変革に対する通説への批判にもつながります。まず「大株主が産業資本家としても君臨し、所有と機能を併せもつようになる」(83ページ)というヒルファーディングの議論が今日の株主資本主義現象や金融資本の支配現象を説明するのに適した面を持つことを小栗氏は認めますが、それはマルクスの株式会社本質論を見誤り、その結果、資本主義の変化と発展の道筋を見誤るものだとしています。資本家の「所有に基づく支配」が株式会社の基礎をなすという観点からは「私的所有を否定することが資本主義の変革となる」(83ページ)わけです。しかし小栗氏の見方では、マルクスによれば株式会社において私的所有自体が「所有と機能の分離」の中で変容し自己否定されるので、その見地からは「株式会社における社会的生産を実体化(私的所有を社会的所有に転換)させることが変革の課題となる。その転換は生産者(労働者)たちの管理によって可能となる」(同前)ということになります。したがって「会社は資本であり敵」と見るような従来の運動の見方(85ページ)は捨てられるべきであり、「資本主義の資本性を抑えて眠り込ませ、脱資本主義へと押し進めることが変革とな」り「政治的転換を基軸としつつ、様々な規制の強化、法・制度の改革、労働運動や市民社会の運動などの広範で長期にわたるトータルな展開となるであろう」(同前)という漸進的改革が主張されます。通念から見れば大胆な問題提起だと言えます。
以上の議論は、株式会社論においてヒルファーディングは現象論でありマルクスの本質論を見失っているとしながら、その現象論の現実説明力はそれなりに認めています。資本主義的私的所有の暴力が今日のあらゆる社会問題の基礎にあることは明白だからです。したがって私的所有を株式会社論や社会主義的変革論の中心から排除することは非現実的に見えます。しかし株式会社に対してCSR(企業の社会的責任)を問うことを社会主義的変革にまで延長する戦略は、今日闘われている様々な運動の現実的展望として違和感なく受け入れやすいとも言えます。眼前の漸進的改革の運動が根本的社会変革につながるものであれば結構なことです。いずれにせよ小栗氏による株式会社本質論と社会主義的変革論の問題提起を検討することは重要だと思われます。
ここで「マルクスの本質論」を見事に導出した小栗氏の理論的抽象の性格とその現実適用のあり方について考えてみます。株式会社における「所有と機能の分離」の結末を小栗氏は以下のように描きます。
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会社は人格(ヒト)としての資本家のいない存在となるが、現実の会社を動かすには生きた人間を必要とする。機能資本(家)の機能を代替するのは管理人(経営者)である。管理人(経営者)は資本家ではなく単なる指揮・監督労働者であるが、資本を機能させ、資本に代わって搾取を行う存在である。管理人が「資本家」と同様の機能を果たすのである。彼は「ただ人格化された資本」でしかなく、「彼の魂は資本の魂」となる(『資本論』第一巻、302ページ、新書版A395ページ)。会社は事実上、上から下まで支配・敵対関係をはらみつつ労働者(「機能者だけ」)によって管理・運営される存在となるのである。資本家を不要としつつ、物象としての資本の力のもとで、そうした労働者によって社会的生産が担われるのが株式会社である(労働の側面)。 80ページ
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「ここでは私的所有の内実が失われ」(81ページ)ており、資本所有から分離された機能資本の世界が抽出されています。そこではさすがにまだ「搾取」や「支配・敵対関係」があるものの、労働者によって社会的生産が担われる姿が描かれており、資本性を捨象した歴史貫通的再生産の世界に一歩近づいています。それは理論的抽象の一段階として正当なものですが、問題は、この抽象の成果をもって現実の分析に臨むには、資本所有が猛威を振るう株主資本主義の現実を見据えなければならない、ということです。この抽象の成果はあくまで現実批判の根拠として活用すべきものであって、現実がそのようになっているかのような錯覚に陥ってはなりません。確かにそれは現実の本質的側面として実在していますが、資本所有の圧倒的現象が現実を主に制しています。
この抽象段階でも「搾取」や「支配・敵対関係」が措定されなければならない理由も考える必要があります。資本を所有と機能とに分析する場合、資本主義の様々な害悪は所有の側に帰せられることになります。資本主義経済の今日的発展は生産の社会化をグローバル化まで推し進め、格差・貧困・環境問題など多くの困難を地球規模で出現させています。そこには生産が社会的性格を持っているのに取得は私的であるという、エンゲルスの「基本的矛盾の深刻化という事態が存在する」(丸山惠也氏の前掲論文、31ページ)という所有論の視角が出てきます。所有論に基づく通説的な社会主義的変革論はここに根本的変革の急所を見出してきました。ところが20世紀の社会主義革命がうまくいかなかったこともあり、所有論視角そのものへの批判が様々に出てきました。機能資本に着目した小栗氏の漸進的変革像もそうした流れに属するものでしょう。
資本を所有と機能とに分析した後に、さらに機能の二重性を分析する必要があります。丸山氏の前掲論文には次のようにあります。
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機能資本としての経営者の管理活動は、社会的生産過程の特徴を反映し、使用価値生産のための指揮機能としてあらわれると同時に、それが自己増殖(営利活動)のための機能として進められるという二重性をもっている。この二重性のうち規定的な目的であるのは、さきにみたように企業活動が「自己増殖を求める個別資本の運動」であることから後者の機能である。このように、資本としての企業は、自己増殖を目的とし、その手段として社会に財・サービスを提供する。その逆ではない。 29ページ
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機能資本をもっぱら「使用価値生産のための指揮機能」として捉えることは誤りであり、「自己増殖のための機能」としても捉える必要があり、しかも後者こそが機能資本にとっては規定的だ、ということを銘記しなければなりません。機能資本の世界を安易に歴史貫通的再生産像に近づけて捉えることはできません。資本所有が捨象された次元でも「搾取」や「支配・敵対関係」が残ることを理解するのは、機能資本のこうした二重性把握によって可能となります。
先述のように丸山氏は企業の反社会的行為の究極的基礎に「資本主義的商品生産の転倒性」を見ており、その「根底にあるのは、企業の商品生産の目的と手段の転倒性であり、それを生み出す企業の資本としての自己増殖への衝動である」(30ページ)としています。歴史貫通的には、使用価値生産が目的ですが、商品生産においてはそれは手段に過ぎず、目的は価値生産となります(商品生産の転倒性)。ただしたとえ社会主義経済を実現するにしても商品生産の止揚は少なくとも近未来においては不可能です。したがってそこではこの転倒性を克服することは不可能なので、価値生産に一定の規制を加えて適切な使用価値生産となるよう調整することが必要となります。さらに商品生産一般ではなく資本主義的生産の独自の問題としての剰余価値追求による自己増殖への衝動をなくすことは社会主義的変革の課題となります。機能資本の「自己増殖のための機能」をどう抑えていくかは、株式会社を通じた変革においては重要な課題となります。社会主義的変革において、通説的な所有論視角がいいのか、政治転換と社会的規制を外部からのテコとして株式会社形態を利用した内部からの変革がいいのかは、こうした課題をどう達成していくかによって判断されるべきでしょう。
「株式会社の資本性を抑え込み、社会的存在へと変えていくことが変革的な課題となる」(85ページ)というのが小栗氏の社会主義的変革像ですが、その「資本性」とは何かが問題となります。それは私的所有に基づく自己増殖衝動であり、資本間競争に強制されて、搾取強化と生産力向上によって実現されるものです。だからそこには一方に所有論視角に基づく一挙の変革論が生まれ、他方に株式会社の内外からの規制と変革による衝動の調整という漸進的コースが生まれます。したがって今日における「資本所有の強固さ」と「政治変革と諸運動による社会的規制力のあり方」との総合的な関係の中で、路線の模索が続けられると思われます。
ところで小栗氏がいわば「株式会社(の性格)転換型社会主義経済論」とでもいうような構想を提出する発想の源泉は、マルクスの株式会社論を「脱資本主義的な性格の社会的生産体として、資本主義の中でその止揚への過渡的な形態を形成するものとなっている」とか「自己否定が頂点に達しているという意味で株式会社は新たな生産形態(脱資本主義)への通過点となる」(81ページ)として捉えるところにあります。しかし株式会社を「過渡的な形態」とか「通過点」として捉えることは、それをそのまま社会主義経済の形態として利用する、ということとは一般的には別のことです。マルクスは『資本論』においてしばしば株式会社と労働者の協同組合工場とを対比しています。たとえば以下のように。
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資本主義的株式会社は、協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式から結合的生産様式への過渡的形態とみなされるべきではあるが、ただ対立が、前者では消極的に止揚され、後者では積極的に止揚されるのである。
『資本論』第3部第5篇第27章「資本主義的生産における信用の役割」
新日本新書版第10分冊、764ページ
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だからマルクス解釈としては、協同組合工場が社会主義の一つの生産形態として想定されていると見るのは自然ですが、株式会社もそのように考えられていると見ることは難しかろうと思います。もっとも、小栗氏もマルクスがそのように考えていると言明しているわけではなく、自らの構想の補強材料としてマルクスの「株式会社=過渡的形態」論を援用している、と捉えることが妥当かと思います。いずれにせよ「株式会社転換型社会主義経済論」とでもいうべきものの妥当性は現代資本主義の分析と社会変革の運動の中で議論されるべきものです。
小栗氏の株式会社・資本主義・社会主義的変革についての本質論を革命論の中に位置づけることも意義深いかと思います。20世紀のロシア革命や中国革命などの社会主義革命は強力革命による所有変革をテコにした経済・社会変革として実行されました。それに対して発達した資本主義諸国においては、強力革命ではなく議会制民主主義を通じた革命が追求されましたが、その革命による所有変革をテコにした経済・社会変革が構想されたという点においては共通性があります。
ロシアや中国においては革命期にブルジョア民主主義を超える実質的な民主主義が追求された時期もありますが、やがて前近代的で非民主主義的な専制体制に退行していきました。発達した資本主義諸国においては、それを反面教師としてブルジョア民主主義の最高の到達点である議会制民主主義による共和制を出来合いの利用できる政治システムとして批判的に継承するという考え方が一般的になりました。
政治におけるこの転換を経済にアナロジカルに適用するなら、資本主義経済の最高の到達点である株式会社を出来合いの利用可能な経済形態として批判的に継承して、社会主義経済を形成するという構想になります。いわば株式会社形態を主な土台とし、民主共和制を政治的上部構造とする社会主義社会をつくるという問題提起となります。
私的所有の否定を中心とした通説的な社会主義的変革論は資本主義社会との断絶を強調するものであり、ロシア革命や中国革命などでは、強力革命として政治的にも経済的にも実践されました。その後、発達した資本主義諸国においては、まず政治的に資本主義(そこでのブルジョア民主主義)との断絶よりもその成果の批判的継承という考え方が主流となり、経済的にも資本主義の枠内での民主的改革から社会主義的変革へという漸進的な批判的継承路線が強まってきました。小栗氏の提起はその中でいっそう経済面での漸進性・継承性を徹底しそれに一つの明確な形を与えるものです。その意義や当否を検討するに際して、その批判対象となっている通説的な社会主義的変革論を形成する一つのルーツとなった「現存した社会主義」における変革の内容をできるだけ客観的に振り返ることが必要です。いわば反面教師が形成された経験の理論的明確化を通して、逆に(たとえば小栗氏のような)新たな問題提起の意義と可能性を浮き彫りにしてその可否の判断の一つの材料にしたいと思います。
塩川伸明氏はソ連・東欧の「現存した社会主義」を「資本主義体制を否定し、その対極的な体制をつくろうという試みによって生まれた体制」(『現存した社会主義 リヴァイアサンの素顔』、勁草書房、1999年、10ページ)と定義し、そこにおける社会主義の理念と現実とのねじれを描出しています。理念にもかかわらずこうなってしまった現実を必然性において捉えるのか否かは措いて、とにかくまず理解する努力が大切です。
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先ず、理念としての社会主義思想それ自体は国家主義ではなく、従って、抽象的にいえば、社会主義体制が国家主導になるのは論理必然ではない――むしろ本来の理念に背く――ようにみえる。にもかかわらず、ある特定の理念に基づいた青写真によって社会をトータルに改造しようとするなら、現実的方法としては、国家権力の奪取を梃子として、その権力が上から社会改造を領導するという形をとるほかなく、したがって国家主導とならざるを得ない。 …中略… ともかく確認しておくべきなのは、思想としての社会主義が国家主義でないからといって、現実の社会主義体制が国家主導となったことを何か偶然的な逸脱のようにみることはすべきでないということである。もしそれを「逸脱」というなら、それはいわば本質的につきまとう逸脱なのである。
同様のことは、主要な生産手段の国有による経済運営という点についても当てはまる。国有化ということは、理念としての社会主義思想の不可欠の本質的部分だったわけではない。その点に着目して、「国有・指令経済は本来的な社会主義ではない」と考え、それに対置して労働者自主管理とか、「国有でない社会的所有」とか、あるいは市場導入とか、その他様々な社会主義改革論を提唱する議論があり、それはそれなりに理論的根拠がなくはない(どの程度の現実性があるかは別として)。しかし、資本主義経済を根本的に転覆し、社会をトータルに改造しようとするなら、とりあえずは資本家主導の生産活動を根絶するために生産手段を彼らから収奪して国家の手に集中すること、そしてそのようにして生誕した国家的所有主体に基づいた指令型の経済をつくるという道をとることは不可避である。ここでも、指令経済という現実と種々の理念との相克が生じ、そこからしばしば各種の改革論や異論が発生する。これについても詳しくは本論に委ねるが、とにかく本来の社会主義思想が国有万能論ではなかったということをもって、国有と指令経済を社会主義の属性からはずすことはしない。そこからの離脱(改革)の試みが生まれること自体、国有・指令経済が土台だったことを意味するのであって、それを社会主義体制の第一次的な基本特徴と考えないわけにはいかないのである。
前掲書11・12ページ
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おそらく塩川氏は、この現実についての価値判断は措いて、事実認識としてはこうなるということを述べており、理念によって現実を一方的に裁断したり、その理念に沿って容易に現実を変えうるという考えを批判し、現実の重みとその困難性を強調しているようです。このような「現存した社会主義」の現実の重みという見地から、株式会社を中心主体とするローマ―の「市場社会主義」を社会主義には達しないものとして、塩川氏は以下のように評しています。
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「分析的マルクス派」のローマ―[Roemer,1994]が提唱する「市場社会主義」は、社会民主主義とは区別されたものとして提示されている。しかし、それは生産手段の公有を前提せず、株式会社を中心主体としている上、企業内の経営=労働関係も変革しない「経営者管理型」を主たる戦略としているので、それがどこまで資本主義と異なるのか明らかでない。自己実現と幸福、政治的影響力、社会的地位の三者への機会の均等を目標とし、それに近づくように設計するというが、それは「人間の顔をした資本主義」ともいうべきものであるように思われる。 同前、28ページ
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もちろん「現存した社会主義」を社会主義とは無縁のものとする立場からは、塩川氏の考察そのものが無意味ということになるでしょう。しかしそのような人々の理念はどれほど現実の試練に耐えられるのかは不明です。「資本主義経済を根本的に転覆し、社会をトータルに改造しようとする」という姿勢そのものは、「現存した社会主義」では暴力的に非人間的社会を形成するという帰結を招きましたが、そのラディカリズムを別様に実現する道を探るのがこれからの社会主義の運動でしょう。資本主義経済を認めている社会民主主義との違いがそこにあります。漸進的であっても根本的であればいいのですが、そうなるかどうかは何よりもまず眼前の資本主義経済の正確な分析に基づき、変革のキーをつかみ運動を組織しうるかにかかっており、その際に過去の変革の運動の失敗に学ぶことも必要です。塩川氏は「現存した社会主義」においては国有・指令型経済は不可避であった、と指摘していますが、今日の発達した資本主義経済を対象とする変革においてはその路線は不可能であり、それが同時に社会主義的変革の不可能を意味しない道を切り開くことが求められます。小栗氏の株式会社本質論に基づく社会主義的変革論はその一つの試みとして検討されるべきものでしょう。たとえばそれが「生産手段の社会化」の一つの形態として比較的具体的な像を描く(そういう発想そのものがスターリン主義的所有変革論だというのなら話は別だが)ことができ、しかも経済の根本的変革につながるのかどうかという点において。
2016年11月30日
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