月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2015年1月号〜6月号)。 |
2015年1月号
現代資本主義論の課題
特集「21世紀の資本主義 限界論と変革の課題」は、最近の話題書をも取り上げつつ、7つの論文で現代資本主義へ多角的にアプローチしています。私は現代資本主義としての新自由主義の本質を、実体経済における強搾取と金融における投機化と見ています。その観点からすれば、岩橋昭廣氏の「金融化・投機化と現代資本主義」は主に後者について論じています。
岩橋氏は経済の金融化の内容として金融の「国際化」と「国債化」を挙げています。1970年代の世界的なスタグフレーションから脱却するために、米国は製造業ではなく金融業の活性化に活路を求め、米国主導のグローバリゼーション下に、グローバル・スタンダードとして規制緩和・国際化を押し進めました。これが「金融面での規制緩和・国際化を柱にして、経済社会全体の規制緩和によって資本主義経済を再生させるという新自由主義的蓄積戦略の中心で」した(58ページ)。
他方で日本での金融自由化を進めた要因として「金融の国債化」が挙げられます(59ページ)。「政府は、77年に銀行保有国債を金融市場で売却することを認め、これをきっかけに、発行された国債の売買市場が形成され、国債の市場価格が形成され」、「市場価格の変動に対応して国債の利回り(流通利回り)が形成され」、「国債利回りの形成と変動が、金融市場での長期金利の変動と連動することになる。この結果、市場金利の自由化を通じて金融の自由化が進展していくことになる。これが『金融の国債化』と金融自由化の関係である」(同前)。こうして「金融の国債化」が進むと「国家財政は金融に依存し(金融に抱かれた財政)、金融機関は国債に寄生(財政に抱かれた金融)している」(55ページ)状態になります。
「金融の国債化」によるこのような財政と金融の融合は、アベノミクス下ではさらに国家と金融機関との共通利害構造において投機化を進めることになります。
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国家債務である国債は、国家が必要な財政資金を調達するための債務証券であると同時に、国債保有者に対しては着実に利子が支払われ、元本の償還が保証されている優良な金融商品である。したがって国家は国債価格を高く維持することによって低金利で資金を調達することができるし、投資家である金融機関などからすれば、貸付先のない大量の資金を運用し、利益を得る絶好の金融商品なのである。
最近の「異次元金融緩和」、今年10月の追加的金融緩和を実現すべく日本銀行が行っている国債の大量購入も、この国家と金融機関の、国債価格を高めに維持するという共通した利害関係をものがたっている。この関係が、国債増発と国債累積をもたらした有力な背景としてあり、経済の金融化、金融の投機化にとっての運動の場を国債市場として提供している。 62ページ
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このように金融の「国際化」と「国債化」によって、グローバル経済・財政・金融といったものがすべて投機化していくことは、現代資本主義としての新自由主義の寄生性・腐朽性を物語ると思いますが、その起源と本質をどう捉えるかについては後述します。
石川康宏氏の「資本主義の発展段階を考える」もまた「資本主義の限界」について投機化から説き起こしています。さらにそこに留まらず、資本主義の段階認識についてレーニン批判を含んだ明晰な問題提起、あるいは資本主義から社会主義への移行に絡んで、改良と革命の関係等々、重要な問題提起があります。それらをきちんと受け止め整理して考えていくべきところですがその余裕がないので、以下では、そこで触れられていないけれども原理的に重要な問題について書いてみます。
資本主義経済は資本=賃労働関係を基軸に展開しますが、その基底には商品=貨幣関係があります。この商品流通の原理が兌換制から不換制に移行することが資本主義の現代性のいちばん基本にあります。不換制は、兌換制の能力を超えた異常な財政需要(軍事費、不況対策費等)に応ずるものであるので、不換銀行券の過剰発行=インフレーションはそのもとでは本来的です。
ここに金融投機の構造化の根本を捉える必要があります。よく言われる現実資本の蓄積の停滞による貨幣資本の遊離という主に循環的要因のさらに基本に、過剰貨幣資本の不比例的構造的累積という構造的要因があるのです。
不換制による通貨管理は信用管理と為替管理から成ります。不換制では銀行券発行の経済的制限が消滅することでインフレーション的蓄積が可能となりますが、銀行券の発行制限などを政治的人為的に決定する必要が生じます。そうした信用管理の面から経済政策国家が登場し、財政政策・金融政策・国債管理政策が展開され、完全雇用政策、財政危機=行政改革、経済軍事化といった政治経済的諸事項が関連します。
為替管理の面から見れば、IMF固定レート制は、不換制=インフレーション的蓄積を前提としながら、それとは原理的に対立する兌換制での為替レートの固定性を世界的な規模で政治的協定によって人為的に保障しようとした擬制であり、不換制下でのその完成形態です。その破綻による変動相場制への移行が今日に至る金融投機化の原因としてよく指摘されます。しかし上記のように不換制そのものにその最奥の構造的原因があり、それを制御する擬制としてのIMF固定レート制の崩壊によって投機化への濁流が解放されたと見るべきではないでしょうか。
新自由主義が格差・貧困を拡大し金融投機化を促進していることは、不換制による信用管理が生み出した経済政策国家が資本主義下ではその寄生性・腐朽性を加速する旧体制的特質を表現しています。逆にそれに対して、経済政策国家の役割を資本への民主的規制へと軸足を移していくならば、それが将来的には社会主義下で民生安定の手段となる方向へ接近します。このように資本主義経済の基底にある商品流通の兌換制から不換制への移行は資本主義の段階認識にとって非常に重要な位置を占めると思われます。
現代は搾取の廃絶を課題とすると考えるならば資本主義について以下のように評価し得ます。もともと資本主義経済は資本蓄積の過程で社会の一方に富の蓄積を、他方に貧困の蓄積をもたらしますが、これは階級社会一般にある搾取の特殊資本主義的形態です。さらに不換制の現代資本主義では、資本主義一般における実体経済での搾取関係のみならず、金融化による「カネ余り」現象が追加され、投機化という寄生性・腐朽性をともなって、富と貧困の対立は極大化しています。このように富と貧困の対立が、階級社会一般から資本主義一般へ、さらに現代資本主義へと性格を「進化」(深化)させており、それを一掃するのが、人類の前史から本史への入り口に立った現代の課題です。眼前にある現代資本主義の旧体制的性格をこのように重層的に捉えるべきでしょう。
そうした立場から、世界史認識として、第一次世界大戦という帝国主義戦争の勃発とそれによるロシア革命の成功以降を「資本主義から社会主義への移行の時代」と捉える見地の復権を提起したいと思います。ソ連・東欧社会主義の崩壊以降、もっぱら資本主義の生産力発展にのみ注目して世界史的に「資本主義の時代」が続いているという見解が事実上の通念になっていますが、それは資本主義美化論です。上述の観点から現代資本主義の旧体制的性格を捉えるならば、それは「生産力的優位性=資本蓄積の展開可能性と生産諸関係の旧体制的寄生性との二側面的統一において規定されるべき」でしょう(大島雄一「現代資本主義の基本性格―危機論からのアプローチ―」150ページ、同『資本主義の構造分析』所収、大月書店、1991年、初出:『経済』第283号、1987年11月。不換制や通貨管理については同論文を参照していますが、拙文ではそれとははずれているところもあります)。
現代資本主義における生産力と生産関係との矛盾は頂点に達しています。レーニンが帝国主義を「資本主義の最高にして最後の段階」(石川論文、23ページ)と呼んだことを簡単に誤りとして葬るのでなく、その意義をこのような違った角度から見直してみることも必要ではないかと思います。『帝国主義論』の対象は自然発生的な兌換制による商品流通を基礎とする資本主義経済であるのに対して、帝国主義戦争による世界大戦とロシア革命後の現代資本主義は人為的政治的な不換制=通貨管理による商品流通を基礎としており、生産関係的には上述のような旧体制としての特徴を備えています。「資本主義の最高にして最後の段階」であるレーニンの帝国主義に対して、現代資本主義はポスト帝国主義として「資本主義から社会主義への移行の時代」における旧体制として存在しており、オルタナティヴとしての新体制はいまだその姿が確立しない状況という、世界史的過渡期に現代はあるのではないかと思います。
新体制の模索の中で、旧体制が依然として優位であることから、現代を「資本主義の時代」と捉えることは無理からぬものがあります。しかしその限界と反人民的性格はもはや明確でありそれを旧体制と認識することが現代を移行期と捉える端緒になると思われます。それはちょうど―適切なアナロジーではないかもしれませんが―バブル崩壊後の閉塞感が蔓延する中で、自民党政治に嫌気がさしながらも、野党のふがいなさに選挙を棄権したり、自民党に投票したりする人々が相対的には多い今日の日本の政治状況と似ています。現状況を「夜明け前の暗さ」と捉えて、その問題点を徹底的に解明し、その矛盾から生まれるオルタナティヴを追求することが日本でも世界でも必要でしょう。
以下関連しますが、話題は転換します。インフレーション的蓄積を目的とする通貨管理に関連して言いたいことは、今日流布する「デフレ」論の誤りです。バブル崩壊後の日本資本主義における物価下落ないし停滞は貨幣的要因によるのではなく実体経済の問題であることは明白です。したがってそれをデフレと呼ぶことは明白な誤りであるのみならず、その定義を改変して原因にかかわらず長期の物価下落・停滞をデフレと呼ぶことも、通貨管理によるインフレ政策の継続と投機化の促進という本質を見失わせる錯覚につながります。物価変動現象に対してその原因を問わずにインフレ・デフレの用語を使うことで、あたかも資本主義の時代を画するかのような錯覚が起こされ、インフレーション的蓄積を目的とする通貨管理の時代という大きな意味では変化はないということが没却されています。
今日の「デフレ」現象は、発達した資本主義諸国における経済の成熟と格差拡大・貧困化との複合としての資本蓄積の停滞を反映したものです。それに対してアベノミクス第三の矢「成長戦略」に表された新自由主義構造改革はひたすら大資本・多国籍企業の利潤確保のために格差拡大・貧困化を促進するばかりで無力です。第一の矢「異次元の金融緩和」を推進した「リフレ派」の主張と第二の矢「財政出動」はインフレ政策であり、大資本の利益優先で投機資金を供給するものです。これらはすべてインフレーション的蓄積を目的とする通貨管理の枠内で追求され、それとはことなる「デフレ時代」の政策ではありません。逆にデフレの名を使うことで通貨不足を印象付け、投機資金の垂れ流しとしてのインフレ政策を正当化しています。これらは旧体制としての資本主義的生産関係を反映したものです。
「デフレ」現象の真の解決には、現代経済の成熟化がもたらす新たな生活様式と需要に対応した産業のあり方を、格差・貧困の解決とともに追求することが必要です。それには諸個人の生活と労働の立場から新自由主義グローバリゼーションに対抗してグローバル資本に民主的規制を加えることが不可欠であり、それはやがて資本主義的生産関係の変革を課題として上らせざるを得なくなるでしょう。
誤りをどう反省するか
ところで以下は余談に属することであり、わずかな知見に基づいて問題意識を表出するだけのことですので失礼ではありますが、いくらか述べます。前記論文で石川康宏氏がマルクスとエンゲルス=レーニンとを切り離す見解を打ち出されたことは、その内実は別としても、少なくとも外形的にはかつての宇野派や初期マルクス研究家などの一部の主張と重なります。おおむね「正統派」はマルクス・エンゲルス・レーニンの一体性を主張していました。石川氏の分離の主張が正しいのか否かは判断を留保しますが、そうした見解が『経済』誌上に掲載されるということには今昔の感があります。
「正統派」の中で、確か不破哲三氏の1976年の執権論の論文あたりからレーニン評価の相対化が進み(そこには執権論に絡んで明確なレーニン批判があった)、同氏の『レーニンと資本論』でそれは決定的になりました。近年では、マルクスの経済学草稿類の研究から、『資本論』第2・3部のエンゲルスの編集における誤りが多く指摘されることも一つのきっかけに、レーニンに連動するようにエンゲルス評価の相対化も進んでいます。マルクスをその歴史の中で捉える(マルクスの諸命題を絶対化しないでその発展過程において捉える)という姿勢もそうした歩みと関連があるでしょう。それらは教条主義の克服の過程と言え、現代的問題意識の投影があります。
不破氏の現在進行形の『前衛』連載「スターリン秘史」はもっと劇的だろうと思います。スターリン批判以来徐々に進み、ソ連崩壊によっていっそう明らかになってきた、スターリンとソ連の実態が総括されようとしています。この連載に限ったことではありませんが、かつて「正統派」が擁護しようとした諸事実や政治の見方などの多くが覆されてきています。体制側やいわゆる「新左翼」諸派が攻撃してきた内容の方がむしろ正確であった部分が多々あることも明らかになっています。
私はリアルタイムの経験がないので何とも言いようがないのですが、当時スターリニストと揶揄されながらもそうした攻撃と闘った人々は今この事態をどう見ているのか、が非常に気になります。今日の時点から見れば、そうした批判者の側の認識の方が正確であった部分は多くありますが、彼らは多くの場合、暴力的妄動に走ったり、支配層の立場に変節したりして社会進歩の陣営から脱落しました。
だからと言って民主陣営の大道を歩んだ「正統派」の当時の「認識」「判断」あるいは「理論」の誤りが免罪されるわけではありません。今それにどのように誠実に向き合うのかが問われます。自分たちの誤りと反対者たちの暴走・転落とをともに社会科学的に分析し切ることが求められます。
思想をただ時流に乗るものではなく普遍性のあるものと思うならば、歴史的に真実を解明して結果として当時の誤りが明らかになったというのみならず、なぜ間違ったか、その反省点を今後にどうつなげていくかが真に問われるべきなのです。現代的問題意識で古典を読むとかソ連史などを見直すということは是非必要ですが、それは目先の政治的都合に合わせて様々に解釈を施し、過去を断罪し、現在の正当化を図るという技巧と紙一重でありうることが留意されねばなりません。過去を鏡に未来を拓くのか、逆に過去に学ばず現在の延長線上で停滞に陥るのか、の分岐を見極めることが必要です。
複雑で多岐にわたる諸現象を概念的に整理しまとめるためには何らかの方針が必要です。ただしそれによってきれいにまとめられたとしても、もしその方針が対象の本質を外していたならば、その美しい構築物は現実とずれた幻影となります。簡単に言えば、思い込みによって諸現象の解釈を誤って美しい誤解に至ることがありえます。そうした真贋を見分ける基準は構築物の整合性や美観ではなく、その現実妥当性を問うことです。ただし目先の狭い事実だけでなく長期的で広い視野をも持って問わねばなりませんが…。
なんだか抽象的な自戒ですみません。そのような「壮大な」自戒とはまだだいぶ距離がありますが、若干の参考になる文章を見つけましたので紹介します。鋭い社会認識を示す人の言葉です。
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大人にできるのは、自分で判断できる様な議論および思考の訓練をさせることだけ。日本の教育にはそれが決定的に欠けていたが、その欠陥を放置したまま、今また天下り式の道徳教育が始まる。それを推進するのは、議論の能力が無く似たもの同士で「そうだ、そうだ」と盛り上がり、役人の作文に同意するのを仕事と心得る面々。これは血肉と化した道徳を身につけた国民を育成するのとは正反対の道だ。
…中略…
車の運転者の顔は歩行者からは見えにくい。この単純な事実に気付かず、「車の中から挨拶したのに無視した」と思い込んで悪感情を抱く人達がいる。極めて単純な状況判断と論理で避けられる人間関係の悪化を、知の衰えが引き起こす。そんな知力と理性の衰退が、社会を愚かしいルサンチマンで満たす。繰り返された無差別殺傷事件などは、その結果の一例に過ぎない。
見知らぬ人達に襲いかかった若者達の中には、学校で成績優秀だった者もいた。彼らは実践的な思考および対話の訓練を受けなかった。価値観や目標を上から与えられ、無理な努力の末にそれらと内的な欲求とのズレや虚しさに耐えられず、問題の根っこを探る思索も、悩みを人に相談することもできず、短絡的に怒りを外に向けて爆発した。「いのちの大切さ」などのお題目は、彼らには何の役にも立たない。
秋田圭介(各務原市・67歳・自営業)「対話なき道徳はあり得ない」
(『世界』1月号所収「読者談話室」より) 19ページ
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これは、支配層による道徳教育とともに、ネット右翼・各種バッシング等々、安倍政権下で隆盛を誇る反知性主義の状況に向けられた批判でしょう。しかし社会進歩の勢力の中でも、議論を欠いた付和雷同や「価値観や目標を上から与えられ」という状況に陥ることはあり得ます。「知力と理性」に基づくプロテストと「愚かしいルサンチマン」とは必ずしも万里の長城で隔てられているとは限りません(だからこそ積極的方向への変化もありうるし逆の退行もありうる)。運動における民主主義を陶冶する不可欠の要素の一つとして、紋切り型や先入観を乗り越えつつ現実と切り結んだ学問的批判力の存在を是非とも挙げたいと思います。その不存在は運動の停滞、場合によっては悲劇をもたらすでしょう。
ご覧のとおり問題意識がまったく漠としており、事実認識の点で相当な努力を要する状態です。しかしそういう低い段階でも表白しておきたいことではあったのです。
恐慌論研究上の問題点
不破哲三氏が『前衛』2014年12月号と2015年1月号に「マルクスの恐慌論を追跡する」上下を発表しています。これは基本的には2011年に『経済』に連載された「『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる」の中の恐慌論を再提示したものです。したがって当時私が『経済』誌宛に送った感想(2011年6・7・10月号および2012年5月号宛)における主な批判は今なお妥当であると思われます。
その批判点の多くは恐慌論の組み立てに対するいわば「見解の相違」に属するものですが、事実認識の誤りに関する指摘も含まれています。マルクスは1868年4月30日にエンゲルスに送った手紙において、『資本論』第3部を構成する7つの篇の内容について書いています。マルクスは「君が利潤率の展開方法を知っておくということは、好都合だ。だから、君のためにごく一般的な形で道筋を述べておこう」(国民文庫『資本論書簡2』136ページ)として、第2部と第1部に簡単に触れた後に「次に第三部では、われわれは、そのいろいろな形態および互いに分離した諸構成部分への剰余価値の転化に移る」(同前、137ページ)として第3部の各編について説明しています。この主題から見て、第3篇の説明で恐慌論や資本主義の没落論に言及しないのは当然です。
ところが不破氏はこのような主題の限定を(意識的にか無意識的にか)無視して、これを「マルクスが第二部および第三部の内容のあらましをエンゲルスに説明した手紙」(『前衛』2015年1月号、146ページ)だとしています。その上で、第3部第3篇についてのその手紙における説明では、社会の進歩につれての利潤率の低下傾向という難問を解決するということに絞っているのだから、他のことは完成稿からは削除されるべきだ、という強引な結論を引き出しています。事実としては、上記の限定された主題に関連してはそうした内容が展開されるということに過ぎず、第3部第3篇では他のことは削除されるべきか否かということをマルクスがそこで問題にしているはずはありません。このような資料解釈の誤りが放置されていることは誠に残念です。
この誤りに関連するのが「『資本論』全三巻がマルクス自身の手で完成していたら、そのどこかに恐慌論を集中的に展開する場が設定されていたはずです」(同前、147ページ)という問題意識です。私がかつて学んだ当時の通説に従えば、恐慌論は経済学批判体系の全体で各論理次元に応じて順次展開され、その最後の「世界市場と恐慌」で総括されるものです。そうすることで恐慌を本質から現象へと把握できます。ある特定の場所で「集中的に展開する」のではそうした概念的把握からはずれ現象論に堕する恐れがあります。
不破氏は第2部第3篇「社会的総資本の再生産と流通」が「恐慌論を集中的に展開する場」だと推測しています(同前、148ページ)。そうなれば第3部では恐慌論は少なくとも主要なテーマではなくなります。不破氏が第3部第3篇における恐慌論の取り扱いにきわめて消極的である理由の一つがそうした構想にあり、それがまた強引な資料解釈を誘発していると思われます。
「集中的に展開された恐慌論」は不破氏の「恐慌の運動論」つまり恐慌=産業循環論を含むと思われますが、利潤概念の登場以前であり、また市場価格の変動をまだ本格的に論ずべきではない第2部第3篇においてそれが可能だとは思われません。もしそれを可能だとするならば、恐慌の可能性から必然性に至るその本質論と、産業循環現象のメカニズムの解明という競争論段階の議論とが混同されていると言わねばなりません。このあたりのことは恐慌論の組み立てに対するいわば「見解の相違」に属するものですが、資料の取り扱いとも関連するので言及しました。
消費税の軽減税率導入について
12月号、山根香織・藤川隆広・大門実紀史座談会「消費税10%増税 冗談じゃない!」において、全商連副会長の藤川氏は軽減税率導入を次のように批判しています。「軽減税率となると、業者は税金の計算が複雑になって大変です」(90ページ)として、さらにインボイスの導入で免税業者が取引から排除される問題も発生することを指摘し、「私どもの感覚からすると『そんなの出来っこない』という思いです」(同前)と斬り捨てています。これはわたしも零細業者としてまったく同感です。
これを受けて主婦連会長の山根氏が、生活必需品は非課税や軽減税率にしてほしいと思うけれども、食料品と言っても容器代・流通費用なども含むといったややこしい議論もあるし、藤川氏の発言を聞くと「やはり増税をしないのが一番ですね」(91ページ)と応じているのが印象的です。
もともと消費税には、転嫁の問題など、消費者と事業者とを分断する性格があるのですが、軽減税率導入はそれを激化させます。この座談会のように問題の根本に迫ることで、相互理解と共闘に至ることが非常に重要です。
軽減税率については、湖東京至氏の「まやかしの低所得者対策 軽減税率の狙いと問題点」(「全国商工新聞」12月8日付)が様々な問題点を指摘し批判しています。
経済の勘どころ
安倍政権は性懲りもなく、消費増税による庶民の苦しみと不況激化そして財政赤字をまったく省みることなく、法人税率の削減策動に狂奔しています。それが経済の好循環を招くという破綻済みのトリクルダウン理論にいまだ固執しています。あの「安倍様のNHK」のニュースでさえ、法人減税では内部留保が増えるだけだという批判があることを紹介しているにもかかわらず。
こういう迷信に囚われていると経済が見えません。経済指標が発表されると「想定外」と驚くことになります。その点を衝いた「しんぶん赤旗」12月17日付のコラム「経済アングル」(金子豊弘記者)が秀逸です。
政府や多くのエコノミストたちは、個人消費も設備投資も見損なっています。まず11月17日に発表されたGDP速報値が2四半期連続のマイナス成長になったことが驚かれました。さんざん警告されていたのに、実質賃金の減少が予想される中でも根拠もなく楽観的に消費増税の影響を過小評価していたのです。
それだけでなくさらに12月8日に発表された改定値が下方修正された(速報値年率換算1.6%減→改定値同1.9%減)ことも衝撃をもって受けとめられました。速報値の後に発表された7〜9月期の法人企業統計で設備投資が前期より増えていたため、当然、改定値は上方修正されると予想されたのです。
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ところが法人企業統計は、資本金1000万円以上の企業が対象。一方、改定値で追加反映された「個人企業経済調査」では、設備投資(前年同期比)が一部を除き減少していました。
この統計の調査対象は町工場や、そば屋、クリーニング店など暮らしに密着した個人経営の事業所です。事業所数は、全国の民間事業所数の4割、従業員数は全国の民間事業者数の11.5%を占めています。
大企業を潤すのが「アベノミクス」であるだけに、日本経済の「真の活力」を知るためには、暮らしに密着した経済実体の実情をつかむことが、ますます重要になっています。
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見事な結論! ついつい長く引用してしまいました。財界の主流であるグローバル資本が国民経済を見捨てて世界展開している今、まさに底辺から経済を見直すことが求められています。下から豊かにしていくにはどうしたらよいのか。その課題に取り組まなければ私たちの社会は存続し得ません。トリクルダウン理論の「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場→個人の生活と労働)ではなく、オルタナティヴとしての「下から視角」(個人の生活と労働→職場→地域経済→国民経済→世界経済)で経済を見ることが必要なのです。
小選挙区制による独裁
2014年12月14日投票の総選挙では、日本共産党が躍進し、沖縄の四つの小選挙区全部で「オール沖縄」連合が自民党を打ち破ったことが最大の特徴です。次いで半数近くの有権者が棄権する中で、自公与党が引き続き3分の2以上の議席を維持し、民主党が伸び悩み、いわゆる第三極が敗退したことが特徴です。決してマスコミが流布する「自民党圧勝」ではなく、全体として政治に対する諦めが強い中でも変革の芽が確実に育っている、という錯綜した過渡期の状況ではないでしょうか。
今日の政治にはある錯覚が支配しているようです。今回の総選挙での自民党の比例区の得票率は33%に過ぎず決して勝利とは言えません。このところの世論調査でも、自民党の支持率はだいたい3割台であり半数には程遠い状態です。ところがその程度でも「ずいぶん支持率が高いな」と感じてしまいます。確かに民主党に負けていた頃に比べれば盛り返しているという感じがするせいもあるでしょうが、根本的には小選挙区制の下ではその程度の支持率で十分に政権を維持可能なほどの議席を確保できる、という事情が知らず知らずに脳裏に反映しているためでしょう。
人民の多くは安倍政権の政策を支持していないし、自民党を支持してもいない。しかし選挙をすれば小選挙区制マジックで自民党・安倍政権は盤石である。……多くの人々にとって支持してもいない政党の政権が続くということは、否定的な影響として政治への諦めを生みます。逆に肯定的な影響としては政治の現状への怒りと新たな探求を生みます。投票率の低下と共産党の躍進はこの両面を表現しています。
それにしても日本政治においては、およそ民主主義と相容れない制度が存在しているということがきちんと銘記されるべきでしょう。人々は政党助成金制度によって、支持していない政党への(国家による)強制カンパを徴収されるのみならず、小選挙区制によって、支持していない政党の政権を押し付けられているのです。必ずしも支持が多いわけではない単なる比較第一党に巨額の資金と政権までが転がり込んでくるのです。こうして民主主義が形骸化し、実質的には政権党の独裁が実現しています。これでもし偉そうに上から目線で有権者の質をとやかく言うならば、それは民主主義のなんたるかを知らないのです。政党助成金と小選挙区制を廃止しないところに日本の民主主義の実質化はあり得ません。
政党の大小の実感は議席数によります。それは実際の支持状況とは乖離しています。「自共対決」というと「共産党が勝手に言っていることだ」とか「政策上はそうかもしれないが実力では問題にならない」と思っている向きが多いのではないでしょうか。しかし議席と得票とを比較しながら最近の選挙における変化を見ると、小選挙区制による隠蔽作用による霧の向こうに、自共対決は実質化し前進していることが分かります。
表にあるように、議席数を見ると、2012年の衆院選では、共産党に対する自民党の倍率(以下、「自共倍率」とする)は36.75もあります。依然として自共両党の実力比のイメージはいまだにそんなものかもしれません。しかし比例区の得票の自共倍率は4.51しかありません。既にこの時点で議席では30数倍の開きがあっても、得票では4.5倍くらいしか違わないのです。
直近の2014年の衆院選では劇的に変化しています。議席の自共倍率は13.86まで低下し、比例区得票のそれは2.91に過ぎません。まだ自民党は共産党の14倍弱の議席を取っていますが、票は3倍弱しかないのです。ここにこそ、世間のイメージとは乖離した自共両党の実力比の真相があるというべきでしょう。
変革の動きはかくも底堅く大きく広がっているのです。共産党に投票したり、あるいは影ながら期待を寄せているという形で、変革に参加している人々自身の多くがおそらくそのことに気付いていないのではないでしょうか。あるいは選挙運動を担った人々の中でも同様のことがあるかもしれません。この事実を大いに知らせて「国民的確信」にすることが変革の第一歩です。国政・地方政治を問わず、共産党はとても小さくてその選挙候補者は泡沫候補であり、そこへの投票は死票になる、という誤った先入観を一掃することがさらなる質的変化を生むでしょう。大衆運動での様々な一点共闘をさらに前進させ、つながって線へ面へと発展させ、今回の沖縄の全小選挙区のような政治的勝利にまで到達するにも、共産党がそれにふさわしい前進を勝ち取ることが促進材料となります。そのためにもマスコミによって喧伝され、多くの人々の意識に失望と共に沈殿し定着しているであろう「自公与党圧勝」という間違ったイメージを打破することが重要です。
表・自共対決の前進と小選挙区制による隠蔽 |
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議席(参院は改選分) |
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2014衆院 |
占有率 |
2013参院 |
占有率 |
2012衆院 |
占有率 |
共産党 |
21 |
4.4 |
8 |
6.6 |
8 |
1.7 |
自民党 |
291 |
61.3 |
65 |
53.7 |
294 |
61.3 |
倍率(自/共) |
13.86 |
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8.13 |
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36.75 |
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比例区得票 |
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2014衆院 |
得票率 |
2013参院 |
得票率 |
2012衆院 |
得票率 |
共産党 |
6,062,962 |
11.4 |
5,154,055 |
9.7 |
3,689,159 |
6.1 |
自民党 |
17,658,916 |
33.1 |
18,460,335 |
34.7 |
16,624,457 |
27.6 |
倍率(自/共) |
2.91 |
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3.58 |
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4.51 |
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衆議院解散の限定説を復権させよう
去る11月21日、伊吹衆議院議長は憲法第7条に基づいて国会の解散を宣言しました。先月、「衆院解散については、国会が内閣を不信任した時だけできるという限定説と、天皇の国事行為を定めた7条3項を根拠にいつでもできるという非限定説があります」と紹介したところでもあり、議長の言葉に注目して、実際の解散が非限定説により7条に基づいて実行されたのを確認しました。ところがその後、非限定説にはそれ以外にも自律解散説、65条説、制度説があるということを知りました(高安健将「政治における『信頼』はどこにあるか 解散とデモクラシーの行方」、79ページ、『世界』1月号所収)。天皇の国事行為を理由に解散するのはおかしい、という拙論の批判の射程外の議論があるということです。
高安氏によれば非限定説が支持される理由は以下のようです。
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学説の多くは、内閣が解散を行いうるのは六九条に基づかない場合もありうるとの立場である。その理由としては、第一には、憲法六九条が定めているのは内閣総辞職についてであって、解散を行いうる場合を限定しているとは読み取れない。第二に、解散の目的は、衆議院が民意を反映しているか疑わしい場合に、国政の重大な問題について民意を確かめるために行われるべきである、という二点が指摘できる。 79ページ
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しかし第一に、衆議院の解散という重大事態について、条文に「限定されず」に勝手に「読み取って」いいものだろうか。第二に、確かに衆議院が民意を反映しているか否かは重大問題ですが、その際でも内閣が勝手にそれを判断することは理不尽です。それどころか現実には今回の解散に見られるように、それを単なる名目にして内実としては党利党略で解散が実施されてきました。非限定説では内閣(実質的には首相)の良識に期待するのみで、それへの歯止めはありません。そんなことであれば、あくまで解散権は内閣不信任の場合に限定して、民意の反映のためには、与野党の話し合いによって形式的に内閣不信任案を可決する「なれ合い解散」にゆだねる方がどんなに格好が悪くても実質的にはましであり、首相の独裁を防止します。たとえばドイツでは1949年の西独から今日の統一ドイツまで18回の連邦議会選挙のうち解散総選挙は3回に過ぎません(佐藤健生「『戦う民主主義』は育っているか 続・東京はワイマールではない」、『世界』1月号所収、139ページ)。
憲法上は国会が国権の最高機関です。民主主義では三権分立が常識ともされています。この両者は相いれないという見解もあるようですが、そのような違いは実際のところは些少な問題であるように見えるほど、両者ともに空洞化しており、行政権の優位が定着しています。それが人民抑圧の政治の一つの重要な原因であることは明白です。であるならば、その優位に加担する上に憲法上の疑義があるような、衆議院解散に関する非限定説は退けられ、内閣の解散権は内閣不信任時に限定されるべきだと思います。権力への懐疑に立脚する立憲主義を実現するためには、理不尽に慣行的に実質上、首相に与えられてきた無限定な解散権を取り上げることが必要です。
2014年12月30日
2015年2月号
内部留保と日本資本主義
―企業分析と賃金論からのアプローチ
日本経済において格差と貧困の拡大が隠しようもありません。そこでは一方に失業と不安定雇用の拡大・労働条件の悪化・賃金の停滞ないし下落があり、他方に大企業の利潤や内部留保の増大があり、両者は相補的関係にあることも周知の事実になりつつあります。つまり一部資本の大繁栄が大部分の人民の犠牲の上に成立している構造が強固である以上、トリクルダウン理論なるものが成り立たないことも明白です。
それだけでなくこの内部留保の増大が投資・雇用の拡大に結びつかず、いわば死蔵されていることが今日では国民経済停滞の最重要な原因であることも認識されつつあります。内部留保を溜め込む企業に対して、麻生副総理・財務相でさえも守銭奴呼ばわりして非難せざるを得ない事態となっています。
もはや内部留保の溜め込みを漠然と批判するだけではなく、企業分析によってこのような資本蓄積のあり方を詳細かつ緻密に明らかにしつつその本質を捉えることが必要です。その上で内部留保活用としての賃上げの意義と他の課題との関係を明らかにし、諸課題推進の方向性を示さねばなりません。その際にそうした闘いに資する賃金論を、原点に立ち返って今日的情勢において把握することも重要です。
藤田宏氏の「変容する大企業の付加価値配分と搾取強化の新段階 労働分配率を入り口にして」は、内部留保の増大とそれによる投機化をもたらす基となる搾取強化と付加価値配分の実態を詳細に明らかにしており、その分析手法に注目しつつ繰り返し熟読すべき論稿です。
論文では、労働法制改悪の一大転機となった1998年を起点に2013年までの労働分配率などの変動をたどっています。結論的には、それによってこの間における「新型経営」の本格的展開と、その新たな展開としての「新・新型経営」の登場を論定しています。両者は次のように説明されます。
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日本の大企業は92年のバブル崩壊後、経済のグローバル化がすすむなかで、日本企業が生き残るためには、「国際競争力」の強化が必要だとして、徹底した総額人件費コストの削減にのり出してきた。徹底的にコストダウンを図ることで、価格競争力を武器に海外で販路を広げ、「売り上げが伸びなくても利益が上がる新型経営」を追求してきた。
109ページ
なお、「新型経営」は2000年代の半ば以降、とくに08年のリーマンショック以後、新たな展開を見せることになる。経済のグローバル化が進み、国際的規模で金融市場・投機市場が拡大するなかで、日本の大企業は、「新型経営」によってため込んだ膨大な内部留保を元手に、海外投資や有価証券や債券の運用によって営業外収益を重視する財テク・投資活動を重視するようになる。それは、「新型経営」によって、労働者の賃金が全体として低下し、内需が冷え込み、本業でのもうけ(営業利益)が減収するなかで、その減少分を投機の拡大による営業外収益でカバーしようとする経営戦略である。つまり、「新型経営」を土台に、財テク・投資活動による収益を新たな柱とする「新・新型経営」が登場した。
同前
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上記のような「新・新型経営」が国民経済にもたらす「悪魔の循環」は以下のように定式化されています(118ページ、下線は刑部)。
財テク・投資による営業外収益の増大→本業の軽視→国内設備投資減少・リストラ推進→雇用悪化→国内需要の縮小→営業利益の減少→営業外収益への一層の依存→財テク・投資による営業外収益の増大
「新・新型経営」の前提になっている「新型経営」の描く「悪魔の循環」もまた以下のようなものです(同前)。
賃金減少・雇用悪化→内需減少→生産減少→リストラ・中小企業倒産増大→賃金減少・雇用悪化
大企業の経営戦略がもたらす国民経済の病的帰結に対するこうした診断を私の言葉で言い換えると次のようになります。「新型経営」から「新・新型経営」への「発展」は、搾取の一層の強化から投機化に向かうものであり、まさに新自由主義的資本蓄積の展開を示しています。そして新自由主義グローバリゼーションの推進主体たるグローバル資本の論理に従うこのような経営戦略は国民経済と人民の生活・労働とを破壊する、と。
こうした現状診断に基づき論文では、内部留保の還元などによる打開策が打ち出されますが、それを見る前に統計資料の活用方法や分析手法に注目することが必要です。
論文では「経営指標と労働分配率との関連を踏まえながら分析することが容易になるから」(108ページ)統計は財務省「法人企業統計」が採用されています。その特徴はこう説明されます。
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この方式では、企業が新たに生み出したとされる付加価値は、労働者に配分される人件費・福利厚生費、他人資本への配分としての支払利息、動産・不動産賃借料、国家への配分としての租税公課、企業への配分としての営業純益とそれぞれ考えることができる。それぞれの配分がどう変化しているかをとおして、好況期と不況期の付加価値の内容について踏み込んだ分析ができる。 108ページ
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ただし労働分配率(人件費/付加価値)における人件費の定義について財務省方式では<役員給与・賞与+従業員給与・賞与+福利厚生費>としているのに対して、藤田氏は<従業員給与・賞与+福利厚生費>として、役員給与・賞与を除いています。階級的分析としては当然の措置と思われますが、「法人企業統計」が給与・賞与について役員と従業員とを区別しているからこそそうした分析が可能であるという点が重要でしょう。この点で日本銀行の「主要企業経営分析」が両者を区別せずに一括して人件費としていることに比してより有用だと言えましょう。ここではまず「法人企業統計」の以上のような意義を押さえますが、その限界については後述します。
一般的に比率の変動を分析するには、その算定の基になっている分子と分母のそれぞれの変動を考慮することが必要です。特に労働分配率の場合、賃金が上昇する好況期に下がり、賃金が下落する不況期に上昇する、という一見逆説的な動きをするのが一般的(通常、人件費よりも付加価値の方が景気変動による変動幅が大きいから、好況期には人件費よりも付加価値が大きく増大し労働分配率は低下する。不況期は逆)なだけに、人件費(分子)と付加価値(分母)の双方の変動を組み合わせて経済分析上の意味を把握することが不可欠です。
論文では、大企業(資本金10億円以上)の労働分配率が中堅企業(同1〜10億円)や中小企業(同1000万円〜1億円)に比して低いだけでなく、不況時の98年度の64.3%から好況時の13年度に55.1%にまで低下していることを指摘しています(113ページ)。これは経団連が主張するように付加価値(分母)が増えたことだけではなく、人件費(分子)が98年度42.9兆円から13年度41.1兆円と減っていることが重要な原因です。好況時にさえ賃金を抑制する姿勢が大企業の労働分配率の低下を増幅していることは明白です(同前)。
次に、分母としての付加価値全体の増減だけでなく、それを構成する各項目の配分の変化に着目する点にこの論稿の重要な特質があります。「法人企業統計」における付加価値の定義は<営業純益(営業利益―支払利息)+役員給与・賞与+従業員給与・賞与+福利厚生費+支払利息+動産・不動産賃貸料+租税公課>です。大企業の付加価値は1998年から2013年にかけて、82.5兆円から90.7兆円に増えています。しかし労働者への配分である人件費は減少し、役員給与・賞与も減少(役員数が減ったためで、役員一人あたりは増えている)、他人資本への配分である支払利息、動産・不動産賃借料、国への配分である租税公課もすべてマイナスになっています。にもかかわらず付加価値が増えているのは、企業への配分である営業純益だけが大幅に伸びているからです(113・114ページ)。
ここに着目した藤田氏は、企業配分率という概念を新たに提起し、それを<営業純益/付加価値>と定義しています(114ページ)。そこで興味深いのは、労働分配率が1981年の54.8%と2013年の55.1%とほぼ等しいのに対して、企業配分率では、前者の10.3%に対して後者の25.4%と大幅に増大していることです(113・114ページ)。その原因は支払利息と租税公課が大きく減っていることです。その含意は「大企業は海外進出を強め、国内での設備投資をほとんどせずに、金融機関からの借入金も劇的に減らしている。また、歴代政権による大企業優遇税制の拡充のもとで税負担も減らしている。その結果、好況期に増大する付加価値の配分の割合が大きく異なり、『企業配分率』だけが飛躍的に増大するようになった」(115ページ)と見ることができます。同じ好況期であっても、1980年代と2000年代以降とで労働分配率が近似しているにもかかわらず、企業配分率が非常に増大している背景はそのようなものでしょう。この間における「新型経営」による低成長下での搾取強化=新自由主義的資本蓄積の進展を見て取れます。
ところで労働分配率の対概念は資本分配率でしょう。それは<(付加価値―人件費)/付加価値>と定義されます。(付加価値―人件費)は、「法人企業統計」の項目に従えば<営業純益(営業利益―支払利息)+役員給与・賞与+支払利息+動産・不動産賃貸料+租税公課>となります。したがってこの分子には他人資本や国家への配分も含まれるので、労働分配率と資本分配率との対抗は労働者階級全体と資本家階級全体との対抗をそれなりに反映していると言えます。(もちろん両概念が労働価値論を否定することで、「労働が作り出した価値を資本が搾取するという本質的関係」を、「労働と資本という両生産要素に対する分配関係」にすり替えているということを忘れてはなりませんが、搾取論の観点から利用することは可能です)。それに対して、「企業配分率」の分子である営業純益においては、付加価値の中から他人資本と国家への配分が除かれています。これは新たに生み出された価値(付加価値)の内のいわば個別資本の取り分の比率を現しており、個別企業の行動原理を説明するのにより有用です。
上記の定義から<資本分配率=100−労働分配率>になるので両分配率は1対1に対応します。したがって「同じ労働分配率であっても、80年代と2000年代以降では、付加価値の中に占める『企業配分率』がまったく異なっている」(115ページ)という指摘の中の「労働分配率」は「資本分配率」に置き換えることができます。そのような叙述にすると総資本と個別資本との矛盾を資本分配率と企業配分率とのズレとして表現できます。
企業配分率の上昇をもたらすのは、強搾取による(1)人件費の抑制であり、それによる内需縮小は投資を抑制させることで(2)支払利息を減らし、さらに国家による法人税等の切り下げが(3)租税公課を減らします。(1)は資本分配率と企業配分率ともに有利に作用しますが、(2)と(3)は営業純益を増やすことで企業配分率のみを押し上げます。(3)はその裏に消費増税や福祉切り捨てをもたらすことを考慮すれば、(1)とともに内需縮小効果を増幅させます。こうした状況下で企業配分率の上昇を目指す個別資本の行動は「新型経営」の「悪魔の循環」を形成し、付加価値の増大によらない営業純益の増大の追求に走ることになります。
総資本の立場から資本分配率の上昇を目指すならば、人件費の抑制はそれなりに追求するにしても、一定の支払利息を払っても投資を拡大し、過度な法人減税や大衆増税を抑制し、そこそこの福祉は守るなどして、スパイラル的な内需縮小を防ぐという、付加価値増大の中での政策的対応もありうるはずです。しかしすでに新自由主義グローバリゼーションの中で、国民経済に相応した総資本の立場(商品資本循環の立場)というものがなくなっているのかもしれません。新自由主義グローバリゼーションは貨幣資本循環の立場から個別資本の野放図な剰余価値追求の場をグローバルに提供するのみなのでしょうか。個別資本が企業配分率の上昇をひたすら目指す行動を放置するだけでなく、法人減税など政府の経済政策で後押しするようでは、個別企業のコストダウンという経営上の「合理的行動」が国民経済全体では「不況促進行動」になるという「合成の誤謬」を促進します。つまり新自由主義的資本蓄積の展開が「生産と消費の矛盾」を激化させることで、個別資本と総資本との「合成の誤謬」が激化し、それが資本分配率の動向と企業配分率の動向との乖離として現われているということができます。
ところで論文では付加価値を構成する各項目の増減に着目して「企業配分率」概念を提起する際に、そこで実際に問題としているのは付加価値構成の質的変化であるのに、「なぜ付加価値が増大したのか」(113ページ)と、その量的増大を問題提起しているのは混乱ではないでしょうか。
商品価値を<W=C+V+M>とするならば、付加価値<V+M>を増大させるには、(1)生産を増加させて、W全体を増大させる、(2)労働時間延長や労働強化によってV+Mを増やす(結果としてWも増える)、(3)Wが不変なら下請けへの買い叩きなどでCを減らす(その分Mを増やす)、といったケースが考えられます。しかしこれらはいずれも「他人資本と国家とへの配分を減らして個別資本の取り分である営業純益を増やす」という付加価値の内部構成の問題とは次元が違います。後者は直接には付加価値の増大とはなりません(個別資本を刺激して生産増大するという間接的効果がありうるかもしれないが、そういうトリクルダウン的発想の無意味さには十分辟易させられている)。
このケース(3)は中小企業に対する大企業による収奪(前者から後者への価値移転)によって大企業の付加価値が増えることを示しています。次にその問題にアプローチしてみましょう。
1998年以降の労働分配率を見ると、大企業では不況期には60%前後で推移し、好況期にはほぼ50%台前半であるのに対して、中小企業は好不況にかかわらず65%前後で推移しています(110ページ)。つまり労働分配率が大企業は低く中小企業は高い(資本分配率は逆)という格差構造がある他に、中小企業は労働分配率が景気によって変化しないという特徴があります。もちろんこれは何ら中小企業の安定を示すものではありません。本来ならばそれは景気に応じて変化するものであり、その問題点を見るにはここでもやはり分母(付加価値)と分子(人件費)の双方の動向を把握する必要があります。結論的にはこうなります。
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中小企業の場合、好況期を迎えているにもかかわらず、不況期と比べて企業が新たにつくり出す付加価値が減少し、それと同時に人件費も減少しており、分母と分子が同じ割合で減少しているから労働分配率に変化がないということである。 112ページ
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中小企業の付加価値の減少は大問題であり、その国民経済的意味を考えてみる必要があります。そこで論文の表1「規模別労働分配率比較」(112ページ)を利用して、付加価値を規模別におおよそ比較するミニ表を以下のように作ってみました(四捨五入による誤差有)。なお定義は大企業(資本金10億円以上)、中堅企業(同1〜10億円)、中小企業(同1000万円〜1億円)。
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1998年 |
2013年 |
増減 |
大企業 |
82.5兆円 |
90.7兆円 |
+8.1兆円(1.10倍) |
中堅企業 |
35.0兆円 |
40.8兆円 |
+5.8兆円(1.17倍) |
中小企業 |
122.2兆円 |
109.3兆円 |
―12.9兆円(0.89倍) |
3者計 |
239.7兆円 |
240.7兆円 |
+1.1兆円(1.00倍) |
1998年から2013年にかけて、大企業の付加価値が8.1兆円増えているのに対して、中小企業のそれは12.9兆円も減っています。そのため全体ではわずか1.1兆円増に低迷しています。合わせて、中小企業の売上高を見ても、1998年の553.9兆円から2013年の501.0兆円へ52.9兆円も減っています(112ページ本文より)。大企業の下請に対する買い叩き等の価格支配力による価値移転を考えれば、中小企業の売上と付加価値の減少の内の幾分かは大企業などのそれらの増加に移転していると考えられます。こうした大企業による中小企業への収奪は零細企業(資本金1000万円未満)を考慮に入れればもっと増幅するでしょう。
確かに産業をリードしているのは大企業でしょう。しかしこの表にも見られるように、付加価値(当該年中に新たに生み出された経済的価値)における中小企業のシェアは今日でも依然として大きいと言えます。したがって内需不振とこの収奪による中小企業の苦境は日本資本主義(その国民経済)全体の苦境を規定しているのです。
今日の経済構造では、大企業の「新型経営」「新・新型経営」が独立変数で、収奪される中小企業の経営は従属変数であり、中小企業のシェアの大きさを考えれば、それに連動して、国民経済・地域経済・諸個人の生活と労働もまた従属変数となっていると言えます。大企業経営は新自由主義グローバリゼーションの論理によっていますから、ここには私が常々言っている「上から視角」<世界経済(グローバル企業が支配的)→国民経済→地域経済→職場・企業(中小企業が中心)→諸個人の生活と労働>が貫徹しています。国民経済に対応する政治機構である国家もまた労働法制改悪などの新自由主義構造改革の政策的後押しによってこの図式を強化しています。矢印を逆向きにした「下から視角」への変革を目指すことが必要です。
さらに論文は2004年に初めて大企業の経常利益が営業利益を超え、その後、差が拡大していることに注目します。つまり大企業は「営業外収益を伸ばし、営業外費用を削減するなかで、財テク利益をあげ、営業利益を上回る経常利益を確保するようにな」り、その「収益構造は、本業と同時に財テク・投資活動による財テク利益の2本柱となってい」ます(116ページ)。「新・新型経営」の形成です。そこで先述した財務省「法人企業統計」の限界が指摘されます。
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財務省方式の労働分配率計算では、本業でもうけた営業利益を基本にした営業純益にもとづいて計算するために、営業外損益から営業外費用を差し引いた財テク・投資活動の収益、財テク利益は計算の埒外におかれている。大企業の収益に大きな比重を持つ柱の一つが計算式に含まれないのである。 118ページ
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論文では経常利益に占める財テク利益の割合を示しています(116ページ)からすでに「新・新型経営」の実態に迫っているわけですが、上記の指摘はさらにそれを労働分配率にも反映させようという意図でしょう。そういう意味では、先述の日本銀行「主要企業経営分析」の労働分配率計算では、付加価値の構成要素として営業純益ではなく経常利益を採用していますから有用かもしれません。もっとも、これは古いですが、それは平成7年度版によれば、原則として資本金10億円以上の一部上場企業で、当該業種の動向を反映するに足りると認められる程度の社数を選定した統計です。その版では647社(製造業374社、非製造業273社)と非常に限定的です。
営業純益ではなく経常利益を採用して、付加価値に財テク利益を反映させるということは、「新・新型経営」企業に対しては、さらに低い労働分配率(=高い資本分配率)を暴露し、「ぼろ儲けを労働者に還元せよ」と迫る材料を提供します。だから確かに個別企業の分析では有用だと思いますが、国民経済的にどういう意味を持つかは考えてみる必要があります。本来、財テク利益は生み出された価値とは言い難いものであり、全体としてはゼロサムになるように思えますが…。
以上、統計を使った分析手法についてあれこれ述べてきました。論文では最後に、「新型経営」・「新・新型経営」の下、大企業が企業配分率を高め財テク利益も追求してため込んだ内部留保のこれ以上の溜め込みを阻止し還元させること、安倍「雇用改革」を阻止し大企業優遇税制を是正することなどを打ち出しています。後者も内部留保の溜め込み阻止と取り崩しに関係しています(120ページ)。
1月7日に発表された労働総研の「春闘提言」によれば「最低賃金の引き上げ」と「働くルールの徹底と労働時間短縮」(不払い残業の根絶・年次有給休暇の完全取得・週休2日制の完全実施・非正規雇用の正規化)に必要な原資は25兆8600億円です。2013年度の資本金各規模合わせて509兆2000億円の内部留保があり、この5%強を活用すれば「春闘提言」の課題を実現できます。また2013年7〜9月期から2014年7〜9月期の間に増加した内部留保は42兆8000億円であり、この60.3%で先の原資として足ります。これ以上、内部留保を増やさない経営に転換するだけで持続的に実行可能だということです(「しんぶん赤旗」1月9日付)。
藤田論文の緻密な企業分析が大企業の経営戦略の本質と問題点を深く明らかにしたことは、それによって生み出された内部留保を還元せよという要求の大義をさらに明るく照らし出すものでしょう。
内部留保の還元を一部大企業労働者の問題にとどめず、広く一般的要求にするためにはどうしたらよいか、また今こそそもそも賃金論の原理原則を確認すべきではないか、という問題意識を提起しているのが、牧野富夫氏の「人間らしい生活が日本経済を救う 2015春闘の可能性」です。
内部留保の賃金還元論が中小企業労働者はもちろん、大企業労働者の確信にさえもなっていない現状を牧野氏は指摘します。そこで「大企業の内部留保還元のたたかいは、それを間接賃金=社会保障などで『富の再分配』の一環として労働者・国民へ還元させる方向に転換すべきである。そうすれば、中小企業労働者や非正規未組織労働者だけでなく、勤労国民全体が還元の対象となり、国民春闘の実質化にも通じる」(100ページ)と提案されます。内部留保をこれ以上積み上げさせない大幅賃上げと社会保障などへの還元という二刀流戦法≠フ勧めです。社会的に「賃上げ当然」の機運・風潮が醸成されている中で、政治的にも「オール沖縄」の勝利や自共対決の鮮明化など前進が見られる中で「国民的な一大運動に発展する可能性が高いだろう」(同前)というわけです。
賃金闘争では大衆的に理論的確信を強めることが必要です。そこでいくつかのそもそも論が問題提起されます。初めに「年功賃金」をどう見るかです。以下のようにまとめられます。
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@一家の生活≠ェできない極度に低い賃金(初任給)からスタートすること、A性別・学歴別などによる賃金差別が大きいこと、Bしかし、労働者のライフサイクルをある程度反映した「生計費考慮型」の賃金であり、長期雇用慣行を賃金面から支えてきたこと、など3点に要約できる。 101ページ
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年功賃金をめぐる錯綜した論争はこうした分析によって整理されます。年功賃金全体にイエスかノーではなく、労働者の立場からは@Aは反対だがBには賛成となり、資本家の立場では逆になります。原則を抽出すれば「労働者の団結強化に役立ち、かつ賃金を上げやすい賃金体系が労働者・労働同組合にとって望ましく、逆に団結破壊に役立ち、賃下げが容易な賃金体系が資本・企業にとって望ましい、といえる」(101・102ページ)となります。明快です。
次いで「同一労働・同一賃金」に関連して「同一価値労働・同一賃金」が批判されます。後者は前者を精緻化したものだという見方が多い中で、牧野氏は「同一価値労働」なる概念が恣意的に解釈・運営されていると主張します。「同一価値」なる表現が多義・多様だから、「正当な理由がない」差別を「正当な理由がある」扱いのようにみせるカラクリを「同一価値労働」なる表現には埋め込みやすい(102ページ)と痛烈に論断しています。私も以前から「同一価値労働」という表現には胡散臭さを感じていたので共感しました。
最低賃金については生活保護基準との関係が問題にされ、前者が後者を下回っていることを「逆転現象」と呼ぶことが厳しく批判されます。それは「働いた代償である最低賃金」より「働いていない障害者や高齢者の生活保護」は高くてはならないという前提に基づきます。そうなると最低賃金をナショナルミニマムとした場合、生活保護はそれを下回っていなければならないことになり、ナショナルミニマムの二番底ができ、それは憲法25条の「最低限度の生活を営む権利」に反するというのです(104ページ)。確かに。基本的人権はあまねく平等に保障されるべきで、そこに自己責任論的な差別を持ち込んではなりません。これも痛快な議論です。
最低賃金に関連して、賃金を決める「生計費」の基準は世帯であり単身ではない、と牧野氏は強調します。「労働力再生産の社会化≠ェ進まず、子育て・教育・介護などの大部分が家族単位の自助・自己責任≠ノ委ねられ、賃金の性差別が極端な国=日本での賃金は、『一家の生活』を可能にする『世帯賃金』とならざるをえない」として、「このような『生計費』理解を忘却させる思想攻撃」(106ページ)を批判しています。この「思想攻撃」というのは、現実を軽視して、もっぱらシングル化などの原則論を唱えるリベラルとかフェミニズムとか社民主義とか一見進歩的な議論を指しているのかもしれません。確かにその根無し草的空想性は批判されるべきでしょうが、上記にあるような「世帯賃金」とならざるを得ないような日本的現実の後進性は克服されるべき対象です。現状を直視することは前提にしつつも、社会保障の充実によって様々な生き方が可能になる社会を目指すことと合わせて、賃金のあり方も変化していくと考えるのが妥当ではないでしょうか。
労働時間の問題も実に深刻に重要だということが分かりました。「時間決め」で労働力を資本に売っている労働者にとって、「残業代ゼロ」など労働時間概念の崩壊を許せば「現代の奴隷」に転落してしまうというのです。それは生活者としての労働者性の確保ということと一体です。次の一節を厳粛な気持ちで読みました。
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労働時間確定の意義は、労働者に「自分の時間(生活時間)」を事前に計画的に保障するもので、労働の「なりゆきしだい」で不規則な予定できない「自分の時間」が労働時間の残余として与えられるのとは決定的に異なる。賃金の本質が「労働者一家の生計費」であるのと同じく、労働時間は「労働者一家が人間らしく生活できる時間」を保障できる長さでなくてはならない。憲法第27条第2項も、その保障のため「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」としている。 105ページ
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「限定正社員」の問題については、雇用・賃金・労働時間の「三位一体」の関係が重要だということです。この三面をそれぞれ一挙に改悪していく(安倍政権が労働分野の全面を対象に「改革」する)ところに打ち込む楔として「限定正社員」を導入する狙いがあり、この策動の危険さ重大さが感じられました。
順序が逆になりますが、論文の初めに賃金決定の原則や賃上げ条件について解説してあります。ここで気になったのは、明示してはありませんが、もっぱら名目賃金で考察されているようで、実質賃金の観点を入れる必要があるのではないかということです。
よく分からなかった点は管理春闘の話です。1980年の春闘について、金子義雄中央最低賃金審議会会長(当時)の試算では、日本に労働組合が存在しなければ10%強の賃上げになったはず(実績は6.7%)だというのですが(99ページ)、どういう論理でそうなるのでしょうか。確かに労働4団体の要求が8%だったというのですから、金子氏の試算から見れば賃上げ妨害になりますが、それにしても労組がなければ10%になったという根拠は何なのか、という問題はあります。
散漫にいろいろと書いてしまいましたが、賃金論に関する牧野氏の原理的解明はなかなか刺激的であり、こうした議論が多くの労働者のものとなり、元気に賃上げ闘争に励み、内部留保の還元に結実することを期待します。
自共対決の社会的位置
先月、自共対決の前進を強調しました。確かに自民党対共産党という枠内ではそれが言えるのですが、社会全体の中に置き直してみると、まだその前進的意義は一部の動きにとどまっていると言えます。
2014年総選挙・比例区における自民党の絶対得票率は17%であり、共産党は6%弱です。両者合計でも全体の1/4以下に過ぎません。棄権が半数近く、投票者中では自共両党で半数弱の得票率です。したがって自共対決は政策内容的には本質的ですが(客観的側面)、いまだ人民の多くを掴んでいないのです(主体的側面)。
中長期的に見れば両党とも支持基盤が崩壊しています。経済成長が減速しながらも搾取強化が追求され、市場化・個別化・消費社会化(合わせて人々の分断化)が進み、イデオロギー的には新自由主義が興隆する中で、一方では企業主義・開発主義が崩壊しつつあり、他方では労働組合・協同組合等々の共同的組織が後退しています。もちろん前者が自民党の、後者が共産党の後退につながります。
この搾取強化と分断化の中で格差・貧困が激化し生存権の危機が深刻化しています。新自由主義グローバリゼーションに基づく構造改革の下で、搾取強化とともに、社会の本源的性格である共同性が破壊されてこの危機を招きました。そこで自己責任論やバッシングなど、この破壊をあくまで正当化するイデオロギー支配が強化される動き(1)と並行して、何らかの共同性の回復や連帯の必要性が人々によって痛感されるようにもなっています。そこに(本質的には)上からのナショナリズム・排外主義・歴史修正主義などによる自慰的「絆」(2)か(これが現象的には反知性主義を伴って下からの動きとして出てくる)、憲法的人権・民主主義による下からの共同的・理性的「絆」(3)か、という対決が出現しています。以上の(1)(2)(3)の三つ動きをにらんで、こういった社会次元ならびにイデオロギー次元での動きを制することなしに、支持基盤を広げて政治変革を実現することはあり得ません。
眼前の問題としては、安倍政権の性格をどう捉えるかが重要です。そこで目立つのは戦後最悪の保守反動・右翼的性格ですが、新自由主義構造改革を強力に推し進めるという性格も見落としてはなりません。それでこそ安倍政権は米日支配層に認められているし、保守反動性が必要とされるのも、上記のように新自由主義による社会破壊の文脈の中から出てくるものだからです。様々な一点共闘が可能なのも、一方では安倍政権の超右翼性に反発する保守良識派の存在によりますが、他方では新自由主義構造改革では生存が否定される地域の保守層の立ち上がりにもよることが看過されてはなりません。
長年の苦労の末に共産党が躍進を勝ち取った現時点で、水をかけるような議論で申し訳なく思います。しかしその躍進を永続化するには、中長期的視点で振り返って、政治のみならずその土台の社会的変化ならびにそれにヴィヴィッドに影響される社会意識を見つめ、その変革を掌中に握ることが不可欠だと考えます。
断想メモ
以前にノーベル賞に関係して、自然科学の普遍性が重要であり、受賞業績の人類史的意義を差し置いて、「日本人の受賞」ということばかり喧伝されるのはおかしい、ということを書きました。多少は気の利いた議論だったかと思っていたのですが、さすがにプロの意識ははるかに進んでいることを最近知りました。自然科学の普遍性は人間社会の国境などは超えている、次元が違う、などと思っていたわけです。しかしそのような断絶ではなく、逆にそれは人間社会に働きかけ敵対を友好に代える力さえ持っている(「自然科学の普遍的なあり方」が「社会の普遍性に欠けるあり方」に対して模範となりうる)と知り、人間の主体的活動の一環としての自然科学の意義を見直しました。
「基礎科学は平和の開拓者=@国は敵対でも研究者は共同」という見出しが躍る記事(「しんぶん赤旗」1月5日付)は村山斉・東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構長へのインタビューです。たとえば村山氏も属する欧州原子核研究機構(CERN)では、インドとパキスタン、イスラエルとイラン、ロシアとウクライナの人たちが一緒に仕事をします。東西冷戦時代でもCERNとソ連の研究所は共同研究をしていたそうです。研究者にとってそれは当然のことなのです。
村山氏は「もともとCERNは第二次大戦後のヨーロッパを統合する、平和を実現するということが念頭にあってつくられた組織です。ヨーロッパ共同体という意識が生まれる前にこういうことが先駆けでできていたことが、ヨーロッパの平和の機運をつくる一貫になったのではないでしょうか」と語っています。
戦争を防ぐのは本来は軍事的抑止力ではなく、外交であり人々の国際交流だと言われますが、自然科学はその中でも特別の貢献を成しうることがここからわかります。もちろん戦争利用などの危険性を抱えていることも忘れてはなりませんが…。
「真理の前の平等に基づく交流」はあらゆる学問の前提でなければなりませんし、人間関係・社会のあり方としてもそうあるべきですが、現実の社会や学問においてそうでない場合が多いことは周知です。そこにもまたそれなりの「理由」があるわけです。しかしそこに病理があること自体に気付かず見過ごしていたら、その「理由」を見出して解決しようとする姿勢に立てません。村山氏が語る科学研究の現実の一端(敵対国の研究者が当たり前のように共同研究する)に触れることは新鮮な驚きをもたらします。そしてそれは現実の不合理性への不感症に対する良薬となるでしょう。
2015年1月31日
2015年3月号
「最小限一致点追求による幅広合意主義」の意義と限度
「最小限一致点追求による幅広合意主義」とでも呼ぶべきような姿勢があるように思います。たとえば集団的自衛権に反対する運動において、その一点での共闘を目指して、個別的自衛権を根拠に自衛隊の存在そのものは容認する立場とそれを認めない立場とが、お互いに違いを留保するという場合があります。革新勢力たる後者にとって、これは当面する運動課題の達成のため必要な妥協だと思います。ところがそれに引きずられて革新勢力内部に自衛隊そのものの容認ないしは批判姿勢の曖昧化という傾向が生じる可能性があります。そこで憲法学者などから初心・原点を喚起する議論が出てきます。
この辺は運動における政治判断と、問題への理論的追求そのものとをきちんと区別した上で両立させることが必要でしょう。同様に経済問題でも、たとえば近代経済学者のトマ・ピケティが資本主義における格差を厳しく批判し是正のための経済政策を提起しているとか、格差によって経済成長が阻害されていると言って、OECDがトリクルダウン理論を事実上否定している、といったことが革新勢力の中でも喧伝されます。それらは近代経済学者でも、あるいは(「先進国クラブ」たる)OECDでも、昨今のひどい格差拡大に際して資本主義の現状に批判的にならざるを得ない、という意味で、立場の違いを超えて多くの人々が合意でき、社会変革に資する事態だと言えます。
それ自身は結構なのですが、マルクス経済学の立場から独自に現代資本主義批判をいっそう深め、それを広い合意に高めていく努力が忘れられてはなりません。「近代経済学の立場でさえも××の問題に関しては資本主義の現状に批判的にならざるを得ない」という言い方は、立場を超えた広範な人々に対する説得力がきわめて大きいし、世間の通念からはずれたマルクス経済学の理論をわざわざ説明する手間が省けるので、革新勢力の間でも好んで利用されています。しかしそれだけにとどまっていると、資本主義経済の本質を抉り出す立場からの批判的現状分析が鈍ります。たとえば昨今の日本経済の状況をデフレと呼んで平気な「マルクス経済学」が支配的だという状況を、私は問題視します。
集団的自衛権反対を真に支えるには、憲法の原点を擁護し、安保条約廃棄を目指す理論的探究と運動が確固としてあり、それ自身が広がることが望ましいと言えます。逆にそれがなく、当面の課題に汲々とするだけでは、理論の変質が運動の動揺を招く恐れもあります。もちろん集団的自衛権阻止という当面の課題の重要性は極めて大きいので、その一点での幅広い合意に向けて理論と運動が最大限動員されるべきことは言うまでもありませんが、それを確固として支えさらに先を見通すためには独自の理論的追求が必要です。
経済問題でも近代経済学を利用するだけで用が足りるというものではありません。労働価値論や搾取論からの現代資本主義批判に立って、格差・貧困など解決すべき深刻な課題を捉えることが必要です。特に資本主義経済を市場経済と同一視する新古典派理論が(資本主義経済における「領有法則の転回」という客観的基盤によって、さらには学校の社会科教育によって)通念となっているときに、搾取論から資本主義経済を捉えることを新たな常識とすることに挑戦しなければなりません。たとえば生存権という法理念もそれを抜きには確立しえないのではないでしょうか。
「最小限一致点追求による幅広合意主義」の意義は十分に認めます。しかしそこに安住して現代社会に対する科学的社会主義の見地からの理論的探究がおろそかになるようなことはしない、ということに自覚的であるべきだと思います。
格差論と停滞論
本田浩邦氏の「アメリカ経済の長期的変化 T.ピケティ、R.ゴードン、W.ボーモルらの研究と考察」はその題名にもかかわらず、アメリカ経済の分析というより、現代資本主義一般を捉えうる理論の構築を目指した論稿のように見えます。主に3人の近代経済学者の議論に内在し、ピケティの格差に関する実証研究の成果とゴードンやボーモルの生産力発展に関する新たな見方とに依拠して新たな現代資本主義像を切り開こうとしているようです。
ピケティが200年以上にもわたる統計の分析から、資本主義における所得・資産の格差拡大を実証したことは広く賞賛されています。本田氏はそれだけでなくサイモン・クズネッツによる資本主義的発展における平等化の通説や、やはり資本主義的発展による生活の向上を主張する新古典派成長理論のコブ=ダグラス型生産関数をも評価しています。これらはピケティによって批判されていますが、彼らの眼前の資本主義に対する実証分析の結果(「歴史的傾向から帰納的にもとめた理論」、145ページ)としては正当なものである、というのが本田氏の評価の理由です。格差論での結論は反対でも、実証性という点では、ピケティ、クズネッツ、ダグラスは同様に優れているというわけです。
確かに実態を無視した「イデオロギー」的偏向に対して、冷静に現実を見つめる実証分析の成果の優位性は尊重されるべきです。しかしそれを理論的に捉え直す必要があります。理論と現象との一致の根拠はどこにあるのか。たとえばコブ=ダグラス型生産関数は資本と労働とを同等の生産要素と見て、おそらくそこから両者の並行的発展(労働分配率と利潤分配率が固定的、144ページ)を予想し、結果的にそれを実証していますが、その結論が現象的に正しいとしても前提の理論が正しいとは限りません。価値の源泉は労働であり、それを資本が搾取し蓄積し、労働者の貧困化が進むのが資本主義的生産過程の姿であり、そこに労働者階級の抵抗があり、それを反映した資本への規制が働くことで貧困化に一定の歯止めがかかった結果として資本と労働との並行的発展が(ダグラスの見た1920年代のアメリカでは)実現した、と考えるべきように思います。
あるいはそれは憶測に過ぎないかもしれません。「イデオロギー」的偏向かもしれません。しかしとにかく実証性を重視するのは当然ですが、もし現象の奥に本質を探ろうとすることを形而上学として切り捨てるならばそれは「実証主義」であり理論的深化の道を塞ぎます。ピケティVSクズネッツ・ダグラスの対抗関係において見られる共通する実証性と対極的結論との矛盾は確かに「経済学が時代を反映し、それに限界づけられるものであることをよく表してい」(145ページ)ますが、そのような判定をし得るのは、歴史的パースペクティヴを持った正しい理論であろうと思います。彼らがそれぞれに眼前の対象に対して行なった実証分析の成果をマルクス経済学の理論的組立で説明し直すことでその判定を下すことができます。
ピケティの格差論の根底にある「低成長への回帰の産業的基盤」に関連して「経済成長の実体的基礎の変化について、きわめて説得的な議論を展開している」のがロバート.J.ゴードンです(146ページ)。彼によれば「第一次世界大戦から70年代初頭までの華々しい半世紀を支えた高い生産性の上昇率」(146ページ)は歴史的に例外であり、それは人々の「生活を一変させた」(147ページ)のであり、その前にも後にもないということです。それは今日については「技術革新がすでに一巡し、社会的に飽和状態に陥っているというイメージ」(148ページ)の停滞論につながります。これは昨今の日本経済について私たちが抱く成熟と停滞のイメージに符合します。
史的唯物論の図式的解釈では、生産力発展は過去から未来に向かって(それなりの曲折があっても基本的には)斉一的に進行するものであり、そのいくつかの一定の段階ごとに生産関係が変革される(量の質への転化)というイメージがありうるのですが(それが正しい解釈かどうかは問題ではあるが)、ゴードンの発展論はそれを否定しています。生産力発展は実に極端にでこぼこしており停滞の時代と急速な発展の時代とがあります。そして1970年代までの例外的発展期において、生活は一変し社会的に飽和状態が訪れ、もはや今後の華々しい発展は望めないというのです。これは「きわめて説得的な議論」と実感されるのですが、そうすると生産力発展についての従来の見方をどう反省すべきかという問題が生じます。
ボーモルは経済を、労働節約的でコスト削減的な「生産性上昇部門」と労働集約的でコストが高い「生産性停滞部門」とに分けて捉え、両者の部門間生産性格差によって、後者にコスト病が発症すると考えています(151ページ)。したがって後者への家計の支出割合は増加し、その構造を理解せず、コスト削減をいたずらに行なうと弊害を生みます(同前)。「ボーモルの議論はサービス経済部門がゴードンが描いた在来製造業の停滞にとって代わって肥大化し、国民支出に占めるそれらの比重を高め、人々の消費行動を支配するという、現代経済の構造的特徴と変化の理由をうまく説明しているといえ」ます(152ページ)。
以上のようにゴードンとボーモルはそれぞれに「停滞」や「生産性」などについて説得力のある議論を展開しています。私たちは両者の議論をどう総合し独自に組み立てていくかが問われます。
ここで本田氏は生産性について、ゴードンが付加価値で、ボーモルが物理的に捉えていることに注意を喚起しています。したがって製造業についてゴードンは「停滞部門」と見るのに対してボーモルは「生産性上昇部門」と見ます。ところがボーモルは物理的生産性を採用しているにもかかわらず、賃金については新古典派の限界生産力理論に立っています。本田氏は「過剰生産を認めない新古典派の理論的ドグマ」(154ページ)を批判して、「生産性上昇部門では、慢性的かつ潜在的な過剰供給能力が形成され、それらがこの部門の収益性、賃金、投資のいずれをも抑制したとみるべきなのである」(同前)と指摘し、物理的な生産性上昇部門(限界生産力理論なら賃金上昇すべき部門だが)での賃金停滞の真の原因を明らかにしています。
これは重要な指摘なのですが、もっと初めから言えば、ゴードンとボーモルの生産性の定義の違いは価値と使用価値という商品の二重性の捉え方の違いから来ています。そうした労働価値論を基礎に賃金については搾取論によって何とか議論を整理し直したいという気がします。
なおゴードンとボーモルの生産性の定義の違いに関連して、「生産力発展」と「停滞」に関する価値論上の逆説に留意することが必要でしょう。生産性が上昇(=ボーモルの着眼点)すれば商品の個別価値は減少します。それを実現量で補えなければ、付加価値生産性としては減少します。それは「停滞」と映ります(=ゴードンの着眼点)。資本主義の発展期においては「飛ぶように売れた」けれども、成熟期(停滞期)には商品の実現は困難になるので、製造業において「生産力発展」と「停滞」が共存するという逆説が発生します。ボーモルが生産力発展部門と捉えた製造業をゴードンが停滞部門とみなすのはこうした関係のそれぞれに一面的な二つの反映でしょう。
そもそも特別剰余価値の獲得をめぐって個別資本に強制される資本間競争を通して生産力発展は強力に貫徹されるわけですが、それは結果的に個別価値の減少と大量実現とを伴わねばならないものであり、いわば下りのエスカレーターを駆け上るような熾烈なものです。現代資本主義はこの駆け上る力が欠け始めているのです。
議論がつまみ食い的になって恐縮ですが、他に普遍的な社会保障について考えます。社会保障は国民の不満を封じ込め、それ自体が資本蓄積の手段の一つである、という議論に続いて「国家は、こうした制度によって労働力の価格に影響を及ぼすことで労働と資本の敵対関係を市民と国家の政治的争いにすりかえる役割を果たす」(157ページ)という重要な指摘がされます。
労働者家族の生活を賄うにあたって、賃金依存と社会保障依存とをどのように組み合わせるかが問題となります。社会保障への依存が高ければ賃金を低く抑えることができます。それは結果として国家が資本のコスト削減を援助することになりますが、その代わりに資本への課税を強化して社会保障の財源とすることができます。従来、企業内福利で労働者をかこってきた大企業がそれを放棄している昨今では、そうした方法で普遍的な社会保障を実現することが求められます。そうすれば中小企業の労働者や自営業者なども含めて社会保障の権利を全面的に実現する第一歩となります。
社会保障をめぐる「市民と国家の政治的争い」の土台には「労働と資本の敵対関係」があります。本来労働が作り出した価値を労働者自身の生活にどう還元するかについて、まずは資本に対して賃金を、次いで国家に対して社会保障を要求しており、両者は別物ではなく、生産過程における労働と資本の関係から派生することが理解されねばなりません。
以上のように本田氏の論稿は、近代経済学の諸理論に内在してその成果を活用することで現代資本主義の性格にアプローチしていますが、マルクス経済学の用語で再構築されていないので勉強不足の私には理解が難しいです。この成果を生かすために、価値論・搾取論の観点を明確にして精緻に再構築し現代資本主義の本質に迫ることが可能だし必要だという感を抱きます。もっとも、著者がそう考えているかどうかは私には不明ですが。
自己責任論と生存権 その前段的考察・試論
(1)個人と社会との関係 社会科学的見方
生活保護バッシングに代表される、人民同士のたたき合いが社会進歩の重大な障害となっています。支配層にとっては下々の者が勝手に足を引っ張り合って、支配の根幹に気付かず支配層を批判しないことが幸いとなっています。各種のバッシングを支える重要な柱の一つが自己責任論です。バッシングの多くは「自己責任を果たさない悪人」に向けられ、そうすることで逆に自分は「自己責任を果たす善人」として苦境にあっても自助努力にこれ努めるという形で自分の首を絞めることになります。こういう状況では生存権は主張されず、その具体化はされないどころか、逆にバッシングの対象となります。
そこで社会進歩にとって、自己責任論を批判し生存権論を確立することは喫緊の課題となっています。その課題の全体に取り組むことはとても無理ですので、以下ではそのための考察の前提として二つのことを挙げたいと思います。一つは「個人と社会との関係についての社会科学的見方」であり、二つ目は「資本主義とは何か」ということです。
どのような社会現象も諸個人の行動を通じて現れてきますから、現象的にはそれらすべてを個人的問題に解消しえます。そうした見方の問題点を典型的に示しているのが、一時期喧伝された「パラサイト・シングル批判」です。若者たちがだらしなくなって、まともな仕事に就けず、親と同居して寄生している、というのです。確かに個々のケースを見ると、当該若者の性格的欠陥が目についたりなどして、「納得」しそうになるのですが、これが一人二人の話ではなく社会現象として存在していることを想起すれば、そういう安易な「分かりやすい」結論にはなりません。
そうした若者たちの多くは派遣などの非正規労働者だったり、様々な形態のワーキングプアであったりします。彼らは生活できる賃金を得ていません。つまり企業は「労働力の価値」に見合った賃金を払っていないのです。これは資本主義の「正常な搾取」を超えた異常な超過搾取を行なっているということです。賃金が生活を支えるのに不足する部分は親に頼ることになります。要するに現象的には若者が親に寄生しているようだけれども、本質的には企業が若者の親に寄生しているのです。企業が若者だけでなくその親をも搾取していると言っていいでしょう。
個別の事象に内在することは大切ですが、「パラサイト・シングル批判」のように社会全体の構造を看過すると、社会の問題を個人の問題に解消してしまいます。実際には個人のできることには限界があり、社会的に規定される部分が大きいのですが、「自由で独立した個人」を絶対化すると、本来何でもできるはずなのにできないのは個人の能力や努力に欠けるところがあるのだから個人の責任だということになります(特に資本主義社会における「雇用」という制度の社会的規定性は決定的です。それは自由な個人が自発的に選び取ったもののように見えながら、客観的には労働者が資本の支配下に置かれるということに他なりません)。これが自己責任論の始まりです。だから個人的問題に見えるものの中に社会的なものを看取する姿勢が必要となります。
ブルジョア的社会観では、孤立した諸個人の集合として社会が捉えられます。特に新古典派理論では、まずこの孤立した個人をあれこれ分析するなり想定するなりして、その原子論的運動の総体として市場経済が捉えられ、それがすなわち資本主義経済だとされます。
しかし孤立した個人がまずあるという想定自体が間違っています。「人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物でもない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体である」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」六)。これを理解しないで人間を見ると「彼の分析する抽象的個人が或る特定の社会形態に属することを見ない」(同前・七)という陥穽にはまります。主観的には純粋に抽象的な個人を分析したつもりで、利己的な人間像をこしらえたりしますが、それはすでに商品経済的な関係に規定づけられた人間像に過ぎません。いかなる個人を見るときにもそれがどんな社会関係を反映しているかという観点を抜きに済ますことはできません。
日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」を新自由主義的・自己責任論的に解釈するならば、利己的なホモ・エコノミクスが原子論的経済活動の中での競争によって自由に幸福を追求する、という人間像・社会像が浮かんできます。そこでは孤立した人間の能力が個人のために発揮されるというように見なされます。強い個人が典型として思い浮かべられ、競争での敗北は弱者の自己責任とされ、大量の不幸が生まれ正当化されます。これは<個人→社会>アプローチの帰結です。
逆に社会連帯的解釈もあり得ます。社会の土台に生存権の尊重があり、そうした安心の上に社会的助け合いの中で諸個人の能力が形成され発揮されるという自覚を前提に、強いとか弱いとかその他さまざまな性格の諸個人がそのままで個人として尊重され発達でき、したがってそれぞれに幸福が追求できる、という人間像・社会像です。
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このところ、学校ですっかり定着してしまったいじめは、個人の尊厳の否定である。個性を否定し、目立つ者がいるとみんなのレベルに引きずり落とそうとする。弱いとみると、つけ込む。「いじめられる者が悪い」などというとんでもない考え方があるが、憲法は、「強くなければ生きていけない」ような、非文化的な社会をつくろうとはしていない。どんな人であろうと、自分の個性を大切にして、楽しく生きていける社会をつくろうとしている。「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法一三条)とは、そういうことを言っている。
堀田力「憲法違反な人」 「朝日」夕刊 2001年5月2日付
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「『強くなければ生きていけない』ような、非文化的な社会」を「非文化的」と意識できないのが商品経済に規定されたホモ・エコノミクスであり、この社会の大多数です。そのような現状を自覚し、個人のあり方の中に社会のあり方が反映されていることを見抜き、人間らしい社会の中でこそ人間らしい人間が存在できる、あるいは人間らしくない社会を変える努力の中から人間らしい人間が生まれてくる、と考えることが「個人の尊重」と「幸福追求権」を真に実現する道であろうと思います。これが<社会→個人>アプローチです。
したがって再度確認すれば、自己責任論を克服する最低限の前提は、個人と社会との関係を正しく捉えることです。それは、孤立した個人から出発するのでなく、社会のあり方を見抜いてその中に個人を位置づけることです。そうして個人的問題に見えるものの中に社会的なものを看取する姿勢が必要となります。
(2)資本主義とは何か 「領有法則の転回」を基軸に捉える
自己責任論は資本主義社会における支配的イデオロギーであり、生存権は資本主義に対する規制的イデオロギーであると言えます。したがって資本主義社会の土台にある資本主義経済とは何かを正しく規定することが問題理解の出発点になります。
<資本主義経済=市場経済>というのが通念であり、それが誤っているが故に、自己責任論と生存権が正しく捉えられません。市場経済とは商品=貨幣関係であり、資本主義経済の土台をなしています。その上に資本=賃労働関係という搾取関係が屹立しこれこそが資本主義のアイデンティティと言えます。商品=貨幣関係の土台上に資本=賃労働関係が展開するその総体が資本主義経済です。もっとも、比喩的には、土台とその上部との総体という静的像よりも、大海上(市場経済)を大小の船(搾取経済の単位としての企業)が行き交うという動的像の方が資本主義経済のイメージとしてはふさわしいかもしれません。
資本主義経済の特徴を理解するには、人類史の中にそれを置いてみるのが効果的です。どのような社会であれ、人々がそれぞれ労働しその成果を持ち寄って分かち合い生活していくという本源的な共同性を持つという意味では同じです。弱肉強食の非情な競争社会でさえもそれが存続できているならば、それもまた人類社会の持つ普遍的な本源的共同性の一つの特殊な存在形態であると言えます。そうした歴史貫通的な本源的共同性を共通に持ちながらも、歴史上のそれぞれの社会は独自のあり方を示しています。それを表す生産関係の人類史的変遷を二方向から捉えてみます。
まず社会的広がりにおける人間同士の横のつながり方から見ます。要するに共同体か市場か、ということです。
前近代の共同体<原始共同体→奴隷制→封建制>→商品生産(市場経済)・市民社会
→本史としての共同体(共産主義社会)
ここでは、社会の本源的共同性が直接的に表れて人格的依存関係を示す前近代の共同体から、それが分解し、そのような直接性が失われて人格的自立とその裏にある物象的依存関係によって事後的・間接的に社会の本源的共同性が実現される市場経済への移行がまず表現されます。さらには市場経済によって実現された人格的自立性を保持しつつ、社会の本源的共同性を直接的に実現するような将来の共産主義社会が人類史的には展望されます。
次いで、直接的生産過程における人間同士の縦のつながり方から見ます。要するに搾取か非搾取かということです。
原始共同体(非搾取社会)→搾取社会<奴隷制→封建制→資本制>
→本史としての共同体(共産主義社会・非搾取社会)
このような生産関係についての二条の歴史の見方を合わせて、歴史の諸段階にある社会の特徴を表現すると下図のようになります。
非搾取社会 |
搾取社会 |
非搾取社会 |
||
原始共同体 |
奴隷制社会 |
封建制社会 |
資本主義社会 |
共産主義社会 |
前近代の共同体 |
市場(市民社会) |
未来の共同体 |
「市民社会」という言葉は実に多義的であり、様々な意味で用いられますが、図中のそれは「独立した自由・平等な人々によって構成される社会」というほどの意味です。先に資本主義経済の構造を見て、それを商品=貨幣関係の土台上に資本=賃労働関係が展開するもの、つまり市場経済上に展開された搾取関係として規定しました。上の人類史的図式の太字部分に表されているように、生産関係によるこの二層的規定に基づいて、資本主義社会は市場経済を基礎とする市民社会の土台上に展開する搾取社会だと言えます。
一方で共同体から市場への移行という側面では、近代資本主義社会は、人格的独立性を実現し自由・平等を少なくともタテマエとする段階に達したという意味において、前近代社会に対する明確な進歩性を有します。しかし他方で搾取社会という意味においては、前近代の搾取社会と共通する性格を持つことが忘れられてはなりません。したがって一方で、人間社会から生まれながらそれを支配するに至ったという意味では疎外体である市場を、人間社会の制御下に置き、他方で搾取を廃絶して諸個人を解放する、という二層の意義を担うのが資本主義から共産主義への移行であり、人類がその前史を止揚して本史に進むということの中身です。
なおここで注意すべきは、同じ搾取社会といっても奴隷制や封建制などの前近代のそれと、近代の資本主義のそれとでは大きな違いがあるということです。前近代の搾取はあからさまであるのに対して、近代の搾取は隠蔽され、搾取される側がそれを自覚できません。
全面的な商品経済である資本主義では、労働力も商品化されます。流通部面を見れば資本家と労働者は労働力を等価交換します。しかし生産過程においては、労働者は自己の労働力の価値(それが賃金に相当する)を超える価値を生産し、その超過部分が資本にとっての剰余価値となります(その現象形態が利潤)。こうして資本は労働力の等価交換の条件下で剰余価値を得ることができ、いわば不払い労働の取得を実現します。こうして搾取が成立します。
商品流通のもともとのイメージは、おのおの自立した生産主体が生産した商品を交換し合うということであり、そこでの等価交換では自己労働に基づく所有が実現しています。それを経済的土台として、各人が独立した自由・平等で公正な市民社会が成立していると考えられます。商品経済が全面化し労働力が商品化しても、賃金の支払いという労働力商品の購買行為自体は自由平等な商品流通の一部である以上、そこに支配従属関係はありません。等価交換が成立しそこには「自己労働に基づく所有」が実現しているように見えます。しかし生産過程において上記のように資本は不払い労働を取得します。したがって労働者は自己労働の一部を搾取されます。生産過程における搾取を媒介することで、自己労働に基づく所有を実現するはずの流通過程の等価交換は何ら侵されることなく、不払い労働の搾取が実現されます。逆に言えば、実際に起こっている「不払い労働の搾取」が「自己労働に基づく所有」という仮象によって覆い隠されてしまいます。こうして資本主義経済はあたかも搾取のない自由・平等な社会の基盤であるかのように誤認されます。このように、労働力の商品化によって、「流通過程の等価交換が何ら侵されることなく、生産過程の不払い労働の搾取が実現される」こと、つまり「商品生産の領有法則(自己労働に基づく所有)が資本主義的領有法則(他人労働の搾取)に変転しているにもかかわらず、後者が前者であるがごとくに現象する」ことを「領有法則の転回」と呼びます。
領有法則の転回という客観的基盤があることで、もともと資本主義的搾取は見えにくいのみならず、その反対物である自己労働に基づく所有が支配しているかのように見えます。これが<資本主義経済=市場経済>という見方が成立する根拠であり、ブルジョア的社会観の基本です。それによれば資本主義は基本的には、搾取社会ではなく、自由・平等で公正な社会としてイメージされます。したがってそこでは、格差や貧困など様々な諸問題を認識しても、それを体制的矛盾と見ることは避けられ、せいぜい対症療法的な修正・改良を施すことに終始します。
新自由主義の立場では、逆に開き直って市場への規制を敵視し、市場競争の自由を絶対視し、商品生産の領有法則(自己労働に基づく所有)を貫徹する(規制緩和=構造改革の推進)ということで、実質的には資本主義的領有法則(他人労働の搾取)の専一的支配を実現しようとします。社会保障分野など従来、市場の枠外とされてきたセクターを市場化しようとする動きの意味はそういうことです。そこでは市場経済的な競争の自由・公正を表看板として掲げて(それを主張する当人らも正義だと信じ込んでいるのだろうが)大資本の支配の強化が目指されます。
もともと新自由主義の基礎にある新古典派理論では、過剰生産というものはあったとしてもあくまで部分的・一時的であり、原理的には市場経済には存在しないと考えられます。市場経済に何かの不都合な現象があるとするならば、政府とか労働組合とかが、「神聖な市場」に不当に介入することが原因であるとみなされます。労働者が生活と労働を守るために団結することを市場への侵害と考えるような立場では、その生存権は基本的に否認されており、格差・貧困を始めとする資本主義の諸矛盾は原理からはずれたものであり、本来ないものだと思われているのでしょう。搾取概念の否認を徹底すればここまでたどり着きます。あからさまにそこまで言わないにしても、格差・貧困の指摘に対してあれこれの抵抗を試みる向きのホンネはこんなものでしょう。そうした逆流には搾取概念を徹底的に対置すべきであり、それを人民的常識に高めることも必要です。
(3)人間的自由の展開と自己責任論・生存権
人間の自由の観点から(人類史における)資本主義を捉えると以下のようになります。一方では、市場経済の展開によって、前近代的共同体の人格的依存関係から解放され、人格的には独立・自由・平等が実現し、社会的つながりは物象的依存関係へ移行します。ここでは人間社会の本源的共同性が直接的には喪失し、その共同性は結果的にしか実現されません。各人の私的労働が社会的労働であるかどうかは、彼が生産した商品が売れるかどうかによって決まります。市場経済は社会の本源的共同性の喪失のリスクを伴いつつ人間の自由を解放するのです。
この「売れるかどうか」は自己責任において対処されます。共同体に埋没した人間と違って、市場経済によって自立した人間は自己責任を問われるのです。自己責任論が成立する基盤がここにあり、それは進歩的意義を持っていると言えます。資本主義は市場の全面化の上に成立している以上、そこに生きる人々は自己責任論を当然のイデオロギーとして所持することになります。したがって<資本主義経済=市場経済>という通念の下では、自己責任論を克服することは難しくなります。
他方では、資本主義経済は単なる市場経済ではなく、搾取経済でもあり、労働者の資本への従属を本質的特徴とします。前述のように「領有法則の転回」を通じてそれは隠蔽されていますが…。その隠蔽下で労働者が自己責任論にとらわれていようとも、不払い労働の搾取は容赦なく彼を襲います。
彼は品行方正にして刻苦勉励し、およそ二千万円もの貯蓄を実現したとしましょう。しかし病気とか解雇とかで彼が失業を余儀なくされたならば、彼の家族は何年持ちこたえることができるでしょうか。搾取され日々何とか生活できる程度の賃金では、資本主義社会に生きるリスクに備えることはできません。ここには現代社会における社会保障制度の必然性が明確になっています。資本主義的搾取の下では自己責任論は成立しえないのです。
つまり資本主義経済が市場経済であるがゆえに自己責任論は普遍的イデオロギーとして成立しますが、それが同時に搾取経済であるがゆえに労働者が自己責任を果たすことは基本的に不可能なのです。にもかかわらず彼が自己責任論にとらわれ続けるならば、生活苦を克服することは困難です。事実、いくら絶対得票率が低く不公正な選挙制度に救われているとはいえ、一貫して保守政党が選挙戦における相対多数を維持し政権を担い続けて、社会保障の削減など、労働者に敵対的な政策を続けていける原因の一つは、自己責任論が受容され変革が諦められている現状にあります。こうして自己責任論は一方では広く受容され、他方では生活苦の根源ともなるのです。
以上にもまして素人論議で恐縮ですが、図式的に単純化すれば<市場経済、商品=貨幣関係、自由権・市民法の世界>ならびに<搾取経済、資本=賃労働関係、社会権・社会法の世界>という二層の関係概念が成立するように思います。しかしここで注意すべきは、自由権は市場経済の反映ですが、社会権は搾取関係の規制を意味することです。したがって資本主義経済(市場経済+搾取経済)と自由権は正の相関関係、社会権は負の相関関係にあります。資本主義社会における自由権と社会権の矛盾の原因は第一にその論理次元のずれにあり、第二に逆の相関関係にあると言えます。
先に見たように、自己責任論は市場経済に生まれ、(労働者の立場からは適用されるべきでない)搾取経済にも適用されることで労働者の(社会権の一部である)生存権を否認することになりました。ここに上の図式を合わせれば、自己責任論は自由権に親和的であり、社会権に敵対的です。
もちろんだからと言って、自己責任論とともに自由権を抑制するのではなく、人間的自由の実現の見地からは自由権と社会権の両方を実現することが必要です。社会進歩の勢力からすれば、ソ連・東欧など20世紀社会主義の崩壊を受けて、市場経済をどう扱うかは未解決の分野であり、少なくとも近未来におけるその廃絶は問題外です。搾取経済に対する規制を強化しつつ、市場経済の制御に努める、というのが今日的には人類の本史に向かう慎重な道であろうかと思います。それは市場経済とともに生まれてきた自由権を尊重し、搾取経済の克服過程で社会権を伸長させる道でもあります。
独立・自由・平等・公正が自己責任一般と共存することは当然ですが、その論理は生存権を原則的に否認する搾取経済に適用されるべきではありません。それは搾取されるものがそのままの状態の責任を引き受けさせられることであり、搾取する側を免罪し理不尽です。資本主義社会において人はだれでも自由に生きていると感じており、それは一面の真理です。しかし経済的に抑圧されリスクを背負わされ、そういう意味では不自由の中に生きているというもう一面の真理を直視することが必要です。そうすることで社会的責任を自己責任にすりかえて負わされることを防がねばなりません。
以上の考察で、市場経済と搾取経済とを機械的に分離しており、搾取経済の抑圧性については強調していますが、市場経済そのもののリスクなどについては捨象しています。このあたりについては今後の課題とします。
(4)社会保障要求の根拠、資本主義的競争の捉え方
自己責任論と生存権についての前段的考察はそろそろ終わります。最後に労働価値論・搾取論の観点からの二つの論点に触れます。一つは自己責任論を克服して社会保障を充実させる議論の展開であり、もう一つは貧困・格差の原因となる競争の捉え方です。
労働価値論の観点からは、資本と労働という生産要素がそれぞれ生産したからそれに応じて分配されるのではなく、労働が全価値をつくり出した後、分配されます。資本主義経済においては、全価値の一部は資本主義企業によって搾取されます。
今日、労働者を始めとする日本人民は社会保険料を支払い、その上に医療・介護等を利用する際に一部負担金を払っています。これに対してあるべき社会保障像として、全日本民医連の旧綱領は「国家と資本家の全額負担による社会保障制度の確立」を要求して「われわれは国と資本家の全額負担による総合的な社会保障制度の確立と医療制度の民主化のためにたたかう」(1961年10月29日、全日本民主医療機関連合会)と宣言しています。
この要求の根拠はおそらく上記の労働価値論と搾取論であろうと思います。もともと国民所得の価値は労働者が作り出したものであり、搾取し収税した資本家と国家が全額負担して社会保障制度を確立するのは当然である、と。「階級的な闘う」というより「労資協調的な」性格を持つであろうヨーロッパの労働組合でも、経済的価値をつくり出しているのは労働者だというのが常識だと考えているそうですから、「会社が賃金をくれる」というところから出発しがちな日本人の多くの発想を転換することが重要です。
もう一つ、資本主義社会における競争の意味です。格差・貧困の原因として競争が挙げられますが、往々にして、その帰結としての社会的状況はよくないにしても、競争が貧困・格差を生むのは能力や努力の差として理由のあることであって、当然ないしやむをえないのであり、その結果を手当てするしかない(はなはだしくは「放置しても構わない」)というように考えられてはいないでしょうか。それは正しいでしょうか。これは競争と貧困・格差との関係についての自己責任論的理解であり誤っていると考えます。
競争の典型として思い浮かべられるものとしてスポーツ選手の競争が挙げられます。彼らは個人的主体として才能・能力・意欲・努力をかけて競争します。資本主義以前の単純商品生産の場合にはこれがある程度当てはまります。そこでの小生産者による生産の性格は生業であり、彼の生活を賄うための価値の取得を目的とし、市場で売れる商品の生産に努めます。そこにはおのずと身の丈に合う生産活動があります。スポーツ選手の場合と同様な個人的主体による競争があります。
しかし資本主義的市場経済においてはその生産の目的は剰余価値の獲得です。そこに際限はありません。大企業を中心に中小企業を含めて、競争に負けて市場からの退出を宣言されないように、激しい資本間競争が展開されます。そのために企業内では搾取が強化されます。企業にとっては、望むと望まざるとにかかわらず「生産のための生産、蓄積のための蓄積」が状況によって強制されます。それを仕掛けているのは自分自身でありながら、同時に外的に強制される状況に追い込まれるのです。
つまり資本主義的競争の主体は資本(自己増殖する価値)であり、通常考えられているようにそれは生身の人間主体による競争ではありません。搾取に基づく資本主義的競争の本質・典型を示すのものとして、労働時間の延長・労働強化・労賃の低下などが挙げられます。ここに際限がなくなれば、究極的には過労死に至ります。企業内においてすべての諸個人の才能・能力・意欲・努力はこの基本線に収斂されます。確かに現象的にはすべての競争は諸個人の主体性をかけて行なわれますが、このように本質的にはそれは本当の主体たる資本に操られています。誰も過労死など望みませんし、生活の向上を望んでいますが、場合によっては過労死が起こったり、生活がなかなか向上しないのは競争の主体が諸個人ではなく資本だからです。競争に打って出る生産の目的が特定の使用価値の獲得ではなく、無限の剰余価値の獲得だからです。個人主体の生活目的を超えたところにそれはあるからです。
もちろん資本主義的競争といえども、使用価値の向上なども目指して行なわれますからすべてが否定的な結果になるわけではありませんが、残念ながら日本資本主義の最前線では過酷な実態があまりに多いことは周知のとおりです。
しかもこうした資本間競争の成果は資本主義企業のものとなり、労働者にはわずかなおこぼれしか分配されません(まったくないことも珍しくない)。たとえば発明の成果の帰属は労働者個人にはなく、企業のものとなります。したがって人々の間の経済的格差の最大の原因は、競争戦における諸個人の才能・能力・意欲・努力の差にあるのではなく、その収入がもっぱら労賃によるのか、資本の利潤の分け前にあずかることができるのかによります。後者に属するのは、巨額報酬を得る著名経営者とか、株を始めとする有価証券などの資産を持っている大資産家などです。
以上のように、資本主義社会における競争による格差を直接的に諸個人の才能・能力・意欲・努力の差から説明してはなりません。それは資本主義経済を単純商品生産段階の市場経済と混同するものです。資本主義的競争における格差では、搾取する側とされる側との分岐に決定的な原因があると考えるべきでしょう。
かつて米国で「ウォール街を占拠せよ」と始まった運動は99%の人々を代表するとしていました。目前に見やすい格差の間で普通の人々同士がいがみ合うのではなく、そばには見えないけれども、社会全体を俯瞰すれば見えてくる1%の支配層に向って99%が団結することを説いたのです。ここで私が主張した「競争と格差」理解はそうした団結に資するものだと思います。
(5)終わりに
自己責任論と生存権についての前段的考察はこれくらいにしておきます。自己責任論と生存権について、考えるべきことはたくさんあるでしょうが、思いつくまま課題を挙げると以下のようになります。
○個人と全体との関係についての意識
日本では戦争受忍論(それは他国ではまったく考えにくいらしい)に代表されるように、全体のために個人が我慢するという意識が非常に強いです。それは一面では共同体的意識ですが、他面では「自分のことは自分でしろ」という市場経済的な自己責任論に通じます。いずれにせよ支配層にとっては好都合で、人民に犠牲が強いられています。
またここでは全体とは何かが問題とされねばなりません。「自分の目先の都合だけでなく社会全体の長期的利益を考えよ」という大所高所論が説教する全体とは何なのかが問われるべきです。
○生存権を実現する経済政策
権利意識とその実現展望を具体化する政策論とは相互促進の関係にあります。この相乗作用が重要です。
○日本における人権の空洞化 その状況と原因
とはいえ日本においては人権が空洞化する状況が広範に存在しており、それを抉り取って認識し、その原因を明らかにし対処法を探ることが必要です。その中で特に生存権をめぐる客観的状況は厳しいものがあり、そうなるにあたっての意識状況を直視することが不可欠です。
○バッシングについて
その受容される社会構造・意識構造と分断支配への利用のあり方を分析し対処法を確立することが求められます。
2015年3月1日
2015年4月号
(1)生産・分配・再分配
トマ・ピケティ『21世紀の資本』は3世紀にわたる膨大な統計資料を分析して、資本主義経済が格差を拡大することを実証し評判になっています。これは多くの人々が漠然と抱いていた実感に確証を与えたという意味で待望久しい功績を打ち立てたと言えます。
格差と貧困を克服して圧倒的多数の人々が豊かさを実現するためには、格差論の達成をどう位置づけ、次に何を考えるかが問題となります。私見によれば、まず「生産と分配・再分配」についての原理的考察を経て、次に「経済への線(一次元)的認識から面(表・二次元)的認識へ」つまり「格差・搾取論から地域経済の再生論・国民経済の再編論へ」と進むことが必要となります。
格差問題に接近すると、生産よりもまず分配に目が行きます。生産はともかく、分配がうまくいっていないから格差が発生するのだ、と言われればいかにも直截的で分かりやすいですから。しかしそもそも生産と分配は一体なのです。
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経済学の対象は、けっしてしばしば言われるように「物財的価値の生産」なのではなしに(それは技術学の対象である)、生産をめぐる人々の社会的関係である。「生産」を、第一の意味に解するときだけ、生産から「分配」を独自にとりだしたりできることとなり、その場合には、生産にかんする「篇」において、歴史的に規定された諸社会経済形態のカテゴリーの代わりに、労働過程一般にかかわるカテゴリーが登場したりできるのである。ふつう、そうした無内容で月並みなやり方は、あとで歴史的社会的諸条件を隠蔽するのに役だつだけである(一例として、たとえば資本の概念がある)。それにたいして、もしわれわれが一貫して「生産」を、生産をめぐる社会的関係として見るならば、「分配」も「消費」もいっさいの独自的意義を失うであろう。ひとたび生産をめぐる関係が解明されたならば、まさにそれによって個々の階級に帰属する生産物の分け前も、したがってまた「分配」と「消費」も、解明されたのである。
レーニン『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(田中雄三訳、国民文庫、1974年)
107ページ
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レーニンが依拠しているマルクス『資本論』第3部第7篇第51章「分配諸関係と生産諸関係」では、「分配諸関係は、この生産諸関係と本質的に同一であり、その裏面なのであり、したがって両者とも同じ歴史的な一時的な性格を共通にもっている」(新日本新書版第13分冊、1537ページ)、あるいは「労賃は賃労働を想定し、利潤は資本を想定する。したがって、これらの特定の分配形態は、生産諸条件の特定の社会的諸性格と生産当事者たちの特定の社会的諸関係とを想定する。したがって、特定の分配関係は、ただ、歴史的に規定された生産関係の表現にすぎない」(同前、1543ページ)と指摘されます。
このようにマルクスとレーニンが生産と分配の本質的同一性を指摘するのは、両者の質的・歴史的規定を与える中においてです。今日、格差論において注目されるのは分配の量的側面であり、それは生産と分配の関係の質的・歴史的規定を欠いた無概念的把握の中でも認識しうるものです。しかしそこでは格差の原因として資本主義的生産関係に踏み込み、搾取の現場への批判的認識を深めるという視点は期待できません。さらに、労働過程の歴史貫通的性格と資本主義的生産関係との関係を概念的に把握できずに混同するブルジョア的社会認識を批判するマルクスの視角を見ましょう。上述のレーニンの見解はここから学んだものでしょう。
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分配諸関係のみを歴史的なものとみなし生産諸関係をそうみなさない見解は、一方では、生まれつつあるがまだ囚われているブルジョア経済学批判の見解にすぎない。しかし、他方では、この見解は、社会的生産過程と、単純な労働過程―異常な孤立状態にある人間もまた、いっさいの社会的援助を受けずに行なわなければならないような―との混同および同一視にもとづく。労働過程が人間と自然とのあいだの単なる一過程にすぎない限り、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態に共通であり続ける。しかし、この過程のどの特定の歴史的形態も、この過程の物質的基礎および社会的形態をさらに発展させる。一定の成熟の段階に達すれば、特定の歴史的形態は脱ぎ捨てられ、いっそう高い形態に取って代わられる。このような危機の時機が到来したことがわかるのは、一方では分配諸関係、それゆえまたそれに照応する生産諸関係の特定の歴史的な姿態と、他方では生産諸力―生産能力およびその諸作用因の発展―とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを現わすときである。そのとき、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起こる。
同前 1546ページ
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ここでは、生産関係を歴史貫通的な労働過程に解消してしまって(眼前に問題となっている)分配関係と切り離すような捉え方が批判されます。そして生産力発展が生産関係を突き動かし、生産関係と不可分の関係にある分配関係へ影響することについてもここから看取できます。そうした関係を捉えるならば、例えば今日の格差問題の中に分配問題として表現される現代資本主義の危機を見て取ることが可能です。ピケティなどのように格差問題が分配論として意識されるのは、生産力と生産関係との矛盾としての現代資本主義の危機の鋭い現われなのです。
以上、まず「生産=分配」というマルクスの大きなスケールの質的・歴史的規定に依拠して格差問題を捉えることの重要性を確認しました。分配関係の問題は本質的には生産関係の問題であることを認識し、今日的にはたとえば非正規労働の正規化や、過労死に至るような過酷な労働現場の改善などに踏み込み、そこにある雇用という資本主義制度そのものの持つ問題点に焦点を定めることが必要です。分配論に着目するあまりに、この基本点を忘れてはいけません。
ただしそうしたきわめて基本的な観点だけで今日の格差問題を捉えるわけにはいきません。それは「経済認識の抽象度」「変革の課題」の二点をにらみながら検討を要します。
生産関係と分配関係との同一性というのは、理論的には経済の自律性という抽象度における議論です。さらに上向して国家機能としての経済政策を含んだ、経済のより具体的な論理次元においては、社会保障・財政を通じた再分配の問題が登場し、それは生産関係とは相対的に独立したものです。今日、分配問題として扱われることの多くは実際には再分配の問題であり、累進課税や社会保障の所得再分配機能をめぐって議論されています。
このように今日、分配をめぐってマルクスと議論の重点がずれているのは、上記の論理次元の問題だけでなく、現代の資本主義における経済政策国家の登場、あるいはそれと不可分の問題として、変革の課題の違いにもよります。
マルクスにとって、格差・貧困の解決は生産関係=分配関係の革命的変革であり、そこでは経済そのものの論理としての「生産=分配」という認識で十分あり、当然、資本主義国民経済のマネジメントという発想はありません。ところがその後の資本主義の展開において、恐慌と階級闘争の激化に対抗して、20世紀には革命を回避する経済政策国家が出現し、「生産=分配」とは相対的に独立した再分配機能が重要な意味を持つに至ります。さらにはソ連・東欧の20世紀「現存社会主義」の失敗によって、資本主義社会における人民にとっての社会主義の魅力は色あせ、「市場経済」の力が再認識され、社会主義革命の課題は後方に退き、社会進歩の勢力の中でも資本主義の枠内での変革を当面する課題とせざるを得なくなりました。そこでは当然、資本主義国民経済のマネジメントという課題において、支配層が「うまく運営」しようとするだけでなく、変革勢力も対案を提出する必要が生じました。
以上のように、資本主義体制延命のためブルジョア国家が経済政策国家化してそれなりに機能し、(資本主義的生産関係=分配関係を止揚する)社会主義革命の課題が当面押し込められる状況が現出しました。それ故、「生産関係=分配関係」という抽象的論理次元の経済認識から上向し、資本主義国民経済のマネジメントという政策次元に属する(「生産関係=分配関係」から相対的に独立した)再分配に焦点を当てた具体的な論理次元の経済認識が重要とされるに至ったわけです。
しかしそのような再分配の問題の重要性を確認しつつも、現代資本主義においても分配関係を規定する生産関係の次元での闘争の重要性は、上記したところであり、その理論的意義は再度強調しておきたいと思います。
ところでマルクス・レーニンと内容的には正反対なのですが、資本家・支配層もまた「問題は分配でなく生産だ」と言います。パイの理論がその典型です。マルクスが「生産関係=分配関係」の革命的変革を前提に、生産関係の規定性を押し出すのに対して、資本家は現状の生産関係の維持を前提に、労働者への分配を押さえて搾取強化を図る視点から、生産の優位を説きます。
それに対して労働者は資本主義的生産関係が変わらないなら分配を増やせと要求します。これは資本主義的生産関係の枠内での力関係の変革の要求であり、さらに進んでは、国家に対して税制・社会保障を通じた再分配の要求を突き付け、最終的には労働者階級の歴史的使命として、資本主義的生産関係=分配関係そのものの変革を求めることになります。
資本家階級が「生産」を、労働者階級が「分配」を要求して闘っているように見える現象の本質的意味は以上のようなものです。それは「生産」対「分配」の闘いではなく、「資本主義的生産関係=分配関係」の止揚をめぐる闘いです。もちろん現実の労働者の階級闘争がそのようなものになっているわけではありません。しかし目先の物取り主義ではなく、搾取者に対抗して、直接的生産者が新たな社会を築く、という長期的位置づけを闘争が持つことは是非必要なことです。ブルジョア的意識においては、自分たちが歴史貫通的な「生産」を担っており、労働者の「不当に過大な分配」要求からそれを守り、生産拡大という公益を実現し、社会発展に貢献するということになっているかもしれません。しかし「当たり前の分配」要求から出発して、この非人間的な生産関係=分配関係を廃棄し、ディーセントな「生産」のあり方を実現するという労働者階級の歴史的使命はそれに勝るものでしょう。私たちの眼前に広がる利潤追求と搾取強化の荒野を見るならば、どちらが社会進歩における大義・公正さ・普遍性を体現しているかは明らかです。
そうした長期的課題としての社会主義的変革の前に直面する資本主義の枠内での変革においては、生産関係そのものではなく、資本主義的蓄積様式・再生産構造の変革が課題となります。今日の新自由主義的資本蓄積へのオルタナティヴが求められます。
(2)産業再生と再生産構造の諸問題
格差問題を追求し下向していくと、本質的には生産(=分配)過程における搾取率の問題にたどり着き、そこから逆に引き返して上向すると、その途上に財政・社会保障による再分配問題に当たります。経済認識における抽象度が違うとはいえ、これらは資本家階級と労働者階級との綱引きという一直線上に並ぶという意味では、経済に対する線(一次元)的認識に属します。そういう視角における抽象度を下げて、面(二次元)的認識に進む必要があります。
生産・分配・再分配を通して、搾取・収奪とそれへの対抗という資本家階級と労働者階級との綱引きがあります。これは基本的には生産関係に属する問題です。そこに生産力視点を加えて、地域経済・国民経済における産業構造・再生産構造を描くことができ、経済への面的認識に進みます。生産力としては、いかなる商品をどのような生産性で生産しうるかということが問題になり、それに対応した資本蓄積のあり方、その結果としての産業構造・再生産構造が形成されます。そこでは剰余価値率も重要な要素ですので生産関係視点が含まれます。以上を一方で抽象的本質的に表現したのが『資本論』第二部第三篇の再生産表式論であり、他方で近代経済学的に対応し具体化したのは産業連関表ということになります。いずれも面(二次元)的認識が表として現われるのです。
新自由主義的資本蓄積が吹き荒れる中で、格差の暴露は喫緊の課題であり、分配・再分配の要求は当然です。しかしそれにとどまらず、現代資本主義の生産力水準に対応した生活と生産のあり方を考えていく中で、新自由主義グローバリゼーションの求める法外な利潤追求ではなく、適正な剰余価値率に応じて形成される再生産構造を示していくことが必要です。つまり高い搾取率の「現実」が作り出した再生産構造に代えるべく、低い搾取率の「構想」による再生産構造を対置するのです。
ここに経済における線的認識と面的認識との対応が現われます。新自由主義セット<高搾取率Aに対応する非ディーセント再生産構造P>から経済民主主義セット<低搾取率Bに対応するディーセント再生産構造Q>への転換、というのが全体像です。格差の告発はこのうち線的認識でのAからBへの転換を主張するものであり、労使間交渉の進展や労働法制の改善、社会保障や税制での再分配政策の強化などから成ります。それを前提としつつ、面的認識でのPからQへの転換という対案提出へ進むことがさらに必要であり、地域経済・国民経済における産業政策などを含みます。
たとえば地域経済の衰退は深刻な問題であり、どう解決するかが問われています。そこに搾取と収奪の問題は確かにあります。その現象の一つとして岡田知弘氏が指摘するように、地方支社が生み出した価値が東京本社へ移転されることで、法人税収入などで実際の産業状況以上に東京一極集中が加速しています。この場合、東京本社は、支社からの価値移転を抑制して、支社が地元の労働者にもっと高い賃金を払ったり、下請け単価を上げたりして地方経済に正当に貢献する道を開くべきです。
しかしこうした搾取・収奪を改善するとしても、主要な問題は各地域でどう産業を作っていくか再生するかにあることは明白です。分配に先立つ生産が必要です。輸出大企業との連携を主軸にしてきた地域中小企業の崩壊が重要問題となり、国民経済の基盤としての製造業をこの先残していけるかという危機感さえあります。その他に、地域経済や中小企業だけでなく、グローバル企業も国際競争をどう生き残るかという課題に直面しています。こうした大きなことを統一的に認識する理論の力と危機打開の政策力が求められています。
今日の発達した資本主義経済は、生産力的には大量生産・大量消費・大量廃棄の段階を「卒業」し、自然環境・伝統文化などに根差した豊かな生活(「懐かしい未来」)を前提とする成熟社会に入っているはずです。ところが生産関係的には新自由主義グローバリゼーションがもたらす資本主義の純化作用による格差・貧困社会となっています。マルクス的に、資本主義的生産関係から社会主義的生産関係へ変革すれば単純明快ですが、先述のように諸般の事情でそうはいきそうもないので、資本主義の枠内での暫定的解決策を探ることになります(暫定的と言っても、人類史的意味であり、一人の人生というスケールでは全期的でさえあろうが…)。
高度成長期には、それなりの所得平準化を基盤とする大量消費が経済の拡大を押し上げていました。しかし今日では成熟化による無駄な消費の削ぎ落としのみならず、貧困化による必要生活費の削減までをも含めて、消費需要の低下が進行しています。絶対的過剰生産と相対的過剰生産の複合による経済のスパイラルダウンが起こっているのです。そこでは、大量生産時代の惰性とグローバル競争の圧力(貧困化を含む)との双方によって、画一的使用価値による低価値化が支配的な中で、成熟した生活文化にふさわしい内容の使用価値を支える価値水準を維持することが困難になっています。資本主義市場経済の内的論理でこれを克服することはできないので、政策的に規制・誘導する他ありません。問題は経済の現場のどこから出発するかです。どの現実を選び取り、依拠し伸ばすかです。
状況を打開する姿勢は、「上から視角」(世界経済→国民経済→地域経済→職場・企業→個人の生活と労働)に対抗する「下から視角」(個人の生活と労働→職場・企業→地域経済→国民経済→世界経済)に求められるべきでしょう。その姿勢が支えるのは、諸個人の尊厳と幸福追求権に発する要求・民意に基づく社会を作るべきであり、それは可能だという主張と運動です。それは単なる願望ではなく、日々の生活からにじみ出てくる切実な要求という現実の岩盤(安倍「改革」のドリルなどによって決して壊されない岩盤)に根差し、新たな現実をつくり出さずにはおかない動向です。
「しんぶん赤旗」にはブルジョア・マスコミではありえない「国民運動面」があります。解釈を超えた変革への胎動が毎日報道されているのです。たとえば3月11日付の同面を見ると以下の記事が満載です。
・TPPに反対する市民諸団体の集会
・3.13重税反対全国統一行動へ向けた国分稔全商連会長の談話
・共産党福岡県委員会による福岡市内労組への雇用制度改悪反対申し入れ行動
・日航内の全職種労組による春闘勝利・解雇撤回を求める集会
・医労連による社会保障切捨て反対のラジオ意見広告
・辺野古基地反対の学生組織が都内で報告会開催
これらはいずれも諸個人が生活と労働の現状あるいは思想信条に突き動かされて、諸組織に参加して運動しているものですが、このように並べてみると、ある一日の報道という断片に過ぎないのに、その運動領域は(経済という視角から見ても)職場・企業、地域経済、国民経済、世界経済の全般にわたっています。それらは現代資本主義という一つの現実の多様な現れと考えられ、要求闘争の個別的必然性は、全体的変革の必然性につながっていることが分かります。私たちはたとえばこうしたところからも、新自由主義グローバリゼーションへの対抗構想を練る出発点における表象(現実と要求における)を得ることができるように思います。
格差経済の現実への対案提起の必要性とその現実的基盤について、いささか冗長に述べてきました。端的に言うならば、分配問題への批判は重要ですが、それだけでなく、どのような再生産(産業)構造を作っていくかが重要であり、単なる野党的批判から建設的対案の提示が求められています。大ざっぱな課題としては…
1) 大資本に社会的責任を果たさせつつ、その生産力をどう生かすか
2) 農林水産業と中小企業を中心とする地域経済の内需循環構造をいかにつくるか
3) 1)と2)の組み合わせを主軸に国民経済の再生産構造をどう組み立てるか
…ということになり、それをまとめた再生産構造の一枚の表が描けるならば課題達成です。
とはいえこれではあまりに雑駁な「総括」なので、ここで特集「産業再生 対抗軸を探る」を参照します。まず吉田三千雄・米田貢・藤田実・入谷貴夫の4氏による誌上シンポジウム「空洞化する産業・地域 政策転換の課題」では、近年における貿易赤字の定着という重要な構造変動を振り出しに、産業空洞化の急進、中小零細企業と地域経済の衰退などが、貧困化・福祉削減などによる人々の生活危機、それに伴う内需減少・国民経済縮小とともに危機的に進んでいることが描かれます。たとえば空洞化については、輸出大企業だけでなく、内需関連型産業の中小企業も海外進出しているように、広く深く進行しています(28ページ)。
それらの最大の原因は、国民経済の利益と矛盾するグローバル企業の行動様式の変化であり、それを支援する政府の経済政策と(外来型開発の)地域政策にあることも解明されます。そこで政策転換の課題が提起されます。その際に基軸となるいくつかの視点があります。たとえば内需については、「国内市場の縮小、国民経済の縮小は、労働力の再生産費にみあった賃金が確保できているかどうかが最大のポイントだ」(34ページ)と指摘されます。バランスある貿易構造の維持や安定した雇用基盤の中心としての製造業の重要性に関連して、<国民経済を重視した産業構造の転換の鍵となる製造業>という角度(35ページ)から「金属・機械産業の大きな生産能力と高い技術・生産力水準は、大事にしていく必要があります」(34ページ)とか「日本の国民の消費需要に基礎をおいた自立・安定的な再生産構造の構築に向けての重化学工業の役割の再検討の必要性が存在する」(35ページ)と主張されます。
そうした点に留意しつつ、目指すべき「成熟した豊かな社会」の土台として挙げられるのが「@農林水産業の再建、A地場産業の育成、B既存の公共構造物の維持補修、C社会保障・社会福祉の拡充、D自然エネルギーの生産・利用・普及―を軸にして、安定した地域経済と雇用を創出すること」(40ページ)です。そうした成熟社会像とも関連して、新たな地域社会を形成する「三つの地域循環」(「3層の地域循環構造」)……1)地域経済循環:地域内での経済循環、2)公共・民間循環:公共部門による支援と福祉向上が民間を活性化し、税収を増やす、3)環境・社会循環:環境保全・活用がエコツーリズムや自然エネルギーなどの新たな社会的な価値をもたらす……(41ページから)といったものが、先進的な地域実践事例から抽出され提唱されています。
戦後日本資本主義が高度経済成長期を中心に形成してきた生産力を基軸にした経済構造とそれに規定された社会像と、上記の成熟社会像・地域像は異質であり、後者は前者の反省の上に立つ構想です。前者はもはやそのままでは持続不可能であり、後者へと進化(深化)する道は必然であるという他ありません。上記の指摘における製造業の重要さの確認は、いわば既存の産業構造における重要さの延長線上にされており、それが転換後の経済像においてどのように新たに確保されうるか、というのは考慮すべき課題です(本シンポジウムの議論上、論者によるニュアンスの相違が垣間見られますが、それは製造業の転換のあり方に関連して生じているのではないでしょうか)。そうした転回基軸としての製造業の転換を含む再生産(産業)構造の転換については、「グローバル経済に依拠せず、自立的な国民経済を構想するため」の「産業の革新と構築」の課題として次のようにまとめられているように思います(23ページより)。
1)第一次産業の再構築
2)グローバル展開・グローバルコスト競争に巻き込まれている製造業から
新規・先端製造業への転換=再構築
3)製造業と連結し、IT技術革新と内需を基礎とする第三次産業の再構築
医療・介護・健康・教育などサービス業と、IT技術・製造技術を結合させた
課題解決型産業の創出
4)ローカリゼーション 地域資源を利用した生産―加工産業の構築
5)ディーセント・ワークの実現による国内市場の形成
藤田実氏によるこのとりまとめと新自由主義グローバリゼーションとの関係を考えてみます。新自由主義グローバリゼーションは、グローバル資本が国民経済どうしを競争させて賃金・税・社会保障負担などのコスト削減を実現させる、等々の手段によって、超過利潤を獲得する体制でしょう。そこから脱するには、根源的には世界革命によって世界資本主義を止揚するしかないのですが、そういう空想の類を措くとするなら、こうした悪質な「底辺への競争」を、世界人民の世論と運動によって民主的に規制することがさしあたっての本質的対抗措置です。タックスヘイブンの規制、金融取引税の創出、ILOなどによるディーセント・ワークの推進等々、そうした本質的対抗措置は注目されつつあります。
しかし依然として新自由主義グローバリゼーションが支配的である現実を前提するならば、そこでの対応策として一つには、国内市場の充実により国民経済の内部循環をある程度確保して、対外経済の影響力を弱め「底辺への競争」に巻き込まれる割合を減らすことが考えられます。とはいえ、一定の対外経済関係は必要であり、そこでの国際競争力も必要とされるので、その際に低価格競争などの「底辺への競争」に属しない部分での独自性発揮による存在感を通した競争力確保が求められます。要するにグローバル競争に悪質にのめり込む(それが今日の各国の新自由主義政権の政策だが)のではなく、それへの本質的対抗をにらみつつ、その影響を緩和したり、独自の競争参加形態を模索していくことが必要でしょう。
上記まとめの5つはいずれも国民経済の充実を新たに図っていく方向性を持ったものです。そこが何より大切ですが、その中でグローバル経済への対応ともなりうる部分もあります。たとえば3)の「課題解決型産業」は製造業と第三次産業との複合による新タイプの内需型産業の創造を目指していますが、その成果は「輸出産業としても発展の可能性があります」(36ページ)。2)の「新規・先端製造業」は低価格競争を回避した独自の競争力確保に資するものでしょう。
と、一応紹介しておりますが、何分にも製造業を始め産業諸分野に通じてはいないので、自分としてしっかり理解しているわけではないけれども、厳しい新自由主義グローバリゼーションの中で、日本経済のあるべき方向性に関する一縷の望みとして期待するものです。
藤田氏が「新規・先端製造業の創出」を打ち出されたのは、おそらく2000年代における日本の電機・電子産業の崩壊を分析した教訓によるのではないでしょうか。エレクトロニクス製品のデジタル化・モジュール化と半導体分野の完全自動化システムで、グローバルな水平分業が形成され、大量受託による急激なコストダウンが実現し、垂直的統合型の日本企業が太刀打ちできなくなりました(藤田実「電機産業 『電子立国』から『電子崩壊』へ」、69・70ページ)。電機・電子産業ではこのような技術展開によって、日本企業が得意としてきた技能領域や「微妙な調整」は不要となり、高度先進産業分野も身もふたもない低価格競争に突入するに至ったのです。これを反面教師として、「底辺への競争」を回避し、本当に豊かな生活に資する「新規・先端製造業の創出」を日本経済の「売り」にすべきだという構想に藤田氏は至ったのではないかと想像します。
それにしても近年の電機・電子産業の崩壊は日本的技術・技能の粋がグローバル競争において敗北するという側面を持っているだけに深刻な問題を投げかけているように思います。日本の製造業を始めとする諸産業が、自らの自然・生活・伝統に根差した「新規・先端製造業の創出」を果たしていけるのかが問われます。
ここまで特集「産業再生 対抗軸を探る」を参照して考えてきましたが、再度私の単純な問題提起に戻ります。
1) 大資本に社会的責任を果たさせつつ、その生産力をどう生かすか
2) 農林水産業と中小企業を中心とする地域経済の内需循環構造をいかにつくるか
3) 1)と2)の組み合わせを主軸に国民経済の再生産構造をどう組み立てるか
1)と2)は産業像のみならず、生活像も異なります。両者の統合は、<大量生産=大量消費型「近代」生活>から<地産地消型「懐かしい未来」生活>への移行の下で達成されねばなりません。グローバルとローカルの齟齬もあるでしょう。両者の生存論理を交えて世界経済に向き合いつつ国民経済・地域経済の充実を図り、何より諸個人の生活と労働を豊かにする再生産構造を一枚の表にまとめる政策構想力が必要です。
つまらない当たり前のことを繰り返しているのかもしれませんが、若干気になる点があるのです。社会進歩の勢力において、一方では成熟社会への移行を念頭に新たな理念での地域経済の再生を追求する方向性が強く出ているのに対して、他方では新自由主義グローバリゼーション下での生産力に適合すべく、対外経済の整合性を含めた重化学工業の維持強化を重視する傾向もあります。日本資本主義として国民経済の危機を克服し人々の生活と労働を守り発展させていくためには、両立の難しい両方の課題を達成することが必要です。しかしそれを厳しい新自由主義グローバリゼーションとの対抗的対応関係の中でどう実現していくか、それをまとめた再生産構造の構想を創り上げていく課題の提起という形で問題をはっきりさせたかったのです。
アベノソーシャルを支えるナショナリズム
「朝日」3月29日付の社説「安倍政権の激走 『いま』と『わたし』の大冒険」に安倍首相の言葉が引用されています。
施政方針演説…「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。行動です」
あれだけ民意を無視した言動を繰り返し、悪政を断行し、沖縄基地問題に最悪の形で現れているように民主主義を完全に無視しているのだから、大いに批判されるのが当然なのですが、当の安倍首相は批判されるのは不当だ心外だ、と本気で思っているらしい。いくら自分が正しいと思っていても、これだけいろいろな抵抗を押し切って「行動」しているのだから、普通の神経の人間なら「批判もありだな」くらいには思うものですが、そんな月並みなことをこの人に期待してはいけないようです。
防衛大学卒業式訓示…「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」
もし憲法9条がなかったら、必ずや「日本軍」は米軍の指揮下でベトナム侵略戦争に参加していたでしょう。この極めて簡単なことだけからでも、首相訓示の「無責任な言説」が「荒唐無稽」であることは明白です。今まさに「不安をあおろうとする無責任な言説」を最大限利用して軍拡を推進している当人が、平和を守る人々に自分の手口をなすり付けているのです。
報道への介入を批判されて、「私に議論を挑むと論破されるのを恐れたのかもしれない」「それくらいで委縮してしまう人たちなのか。極めて情けない」…… 恐れ入った!
しかし裸の王様が威張っていられるのも理由があります。「朝日」社説の結論は…
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そうは言っても、安倍政権が激走を続けられるのは、社会の空気が、なんとなくそれを支えているからだろう。
長引く不況。中国の台頭。格差社会の深刻化。さらに東日本大震災、過激派組織「イスラム国」(IS)による人質事件などを経て、焦燥感や危機意識、何が不安なのかわからない不安がじわじわと根を張ってきた。
国ぐるみ一丸となって立ち向かわなければやられてしまう。国家が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、政府の足を引っ張ってはいけない―。そんな気分が広がり、熟議よりもトップダウン、個人の権利や自由よりも国家や集団の都合が優先される社会を、知らずしらず招きよせてはいないだろうか。
無理が通れば道理が引っ込む。「反日」「売国奴」。一丸になじまぬものを排撃する一方で、首相に対する批判はメディアのヘイトスピーチだという極めて稚拙な言説が飛び出す。
昨今「メディアの委縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な感想だ。
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なかなかアベノソーシャル(安倍的社会)の気分を的確に捉えています(だったらいつもの体制擁護の姿勢を反省してもっとまともな批判を展開して事態を打開したらどうか、これだけなら自己弁護だろう、と突っ込みたくなるが)。個人よりも国家優先、政府や首相の批判をするな、という空気はある程度浸透しているようです。これほど権力者にとって、願ったりかなったりの状況はないでしょう。
いくら小選挙区制のイカサマで総選挙に勝ったとはいえ、そろいもそろって民意無視の諸政策をごり押しし続けるこの政権の支持率が四割や五割程度をキープしているのは摩訶不思議です。日本社会がアベノソーシャル化していることの証左でしょうか。危機感による政権批判も強くなっているし、この支持率は決して盤石ではなく、気分的要素が大きいとは思いますが、それでもその分析は重要です。
アベノソーシャルを支える要素の一つとしてナショナリズムが挙げられます。以前に私はノーベル賞の問題で、「日本人」の受賞を過度に強調する風潮を問題にし、自然科学の進歩にとってどこの国の人かは関係ないという普遍主義を提起しました。しかしそれをわざわざ言わねばならないほどナショナリズムは強固だということでもあります。人は世界市民として生きているわけではなく、自分の生存環境として一定の自然・文化・言語・伝統・産業等々を受け入れて日々を過ごしています。いわば自分の身体条件の延長としてのそれらを総括している「国」は生きていく基盤であり、そこには強固な帰属意識が生じます。
国家・民族は当然、社会科学的批判の対象でありうるわけですが、それ以前にすべての人々にとって自己の生存と不可分の帰属意識の対象である点が重要です。人はみな自分が生活基盤を置き帰属意識を持つものが批判されることをきらいます。批判内容を検討する以前にそういう感情は喚起されます。問題はそうした感情を自覚しつつ理性的検討にまで進めるかということです。
アベノソーシャル下、盛んになっている歴史修正主義は「自虐史観」批判を展開しています。そこでいう「自」とは何でしょうか。たとえば十五年戦争を侵略戦争と認めることは自虐的だというのです。「自」とは自分たちの日本国家ということになるのでしょう。
実際に侵略戦争をやった国家を批判することは自虐でしょうか。そもそもそのような侵略国家を「自」と認める意識が間違っており、そのような感情がまやかしによって喚起されていることを自覚すべきでしょう。侵略国家は「自」ではなく、「他」であり徹底的に批判し尽くすべきでしょう。侵略国家は支配層のものであり、圧倒的多数の人民はそれによって支配されていました。もちろんそうはいっても国民として戦争の一端を担った以上、アジア諸国に対する加害責任はすべての日本人にあります。それは認めた上で、侵略国家を「自」とするような見解・感情を一切放逐することが正しい歴史認識の第一歩であり、平和な未来に向かう必要条件です。
中国共産党と中国政府は「日本の侵略戦争は軍国主義指導層によって起こされ、日本人民もまたその被害者である」といった公式見解を持っています。これはまったく正当だと思います。この問題に関する今日の中国人民の実際の意識がどういうものかは分かりませんし、今日の中国の党と政府の理論・政策・行動に多くの問題があるのも事実でしょうが、この公式見解そのものは科学的社会主義の階級的見地に沿った健全なものです。日本がどうであったかと歴史的に問うときに、その支配層と被支配人民層とを分けて考えるのは当然です。
実際問題、十五年戦争を侵略戦争と認めるか否かは、日本と外国との間で争点になっているわけではなく、日本国内で、理性的に考えられる普通の多数派と、大東亜戦争の大義を再興して今後も戦争を起こしたい少数派との間で論争になっているだけです。世界的にはまったく問題にもされません。侵略を認めれば「国益」を害し、否認すれば「国益」に資するというようなことではもちろんありません。逆にそれを認めなければ、世界から警戒され「国益」を害することは、安倍政権のホンネとタテマエをめぐるこの間の迷走に明らかです。
ベトナム戦争当時、ベトナム問題とはアメリカ問題だと喝破した人がいます。アメリカ資本主義の病弊こそが帝国主義的侵略としてベトナム戦争を起こしているのだということです。同様に、今日の日本人民がかつての侵略戦争を問題にするのは、自虐のためでも、外国に資するためでもなく、自分たちの未来に二度と戦争を起こさないために、徹底的に当時の戦争責任を追及するためです。何よりも自分たちの利益、ひいては国益を守るためなのです。
今日、安倍政権の支持要因として有力なものに、日中韓の相克によるナショナリズムの高揚が挙げられます。そこには様々な問題がありますが、いわゆる歴史問題については、日本の非は明確であり、本来こんなことはずっと以前に解決済みにしていなければならない問題です。実際、村山談話や河野談話で公式には一応の決着を見ているはずなのに、その後も日本の反動政治家が問題を蒸し返すことで中国や韓国などアジア諸国から批判され、今日もまた右翼の安倍政権が存在することで問題再燃となっています。「いつまで謝らなければならないのか」という日本人がいますが、そういう事態を招いているのは日本の反動政治家の責任です。
日本世論の大勢は歴史問題については常識的・健全な見解を示していますが、アジア諸国の批判が続く状況下では、上記のような感情的反発が起こってきます。世論は理性的判断はそれなりについているはずでありながら、なかなかナショナリズム的感情からは逃れられないという状況下にあるようです。それは客観的に見ると、反動政治家の妄言が彼らの意図する効果を発揮していることになります。日本国内でそれほど支持されない反動的内容であっても、それが他国世論を挑発することで憤激を呼び、ブーメラン的に国内に反射してナショナリズム的感情を喚起する、という悪循環が起きます。ここで対中・韓の歴史問題の本質は日本対中・韓の問題ではなく日本自身の歴史への反省の問題であるという、ナショナリズムを超えた理性が働けば断ち切ることができます。残念ながら日本世論は決して反動的ではないけれどもそこまで理性的ではなく、国益という言葉に象徴されるようなナショナリズムの枠組みから抜けることはできずに、対中・韓で必要以上に反発的になっています。
現状がきわめて危険な状況なのは、従来ならば「時々の反動政治家の妄言」がその都度問題になるという事態だったのが、それに代わって安倍政権の存在自体が問題とされざるを得ないという事態だということです。具体的に何か言わなくても顔に書いてある妄言政権だからです。
歴史問題に限らずに考えると、問題を複雑にするものとして現在の中国の覇権主義を挙げざるを得ません(日本にも日米軍事同盟などの問題がありますがここでは措きます)。しかし領土問題等に見られる現在の中国の誤りを、歴史問題での日本の不当な反発の合理化に利用してはなりません。いずれにせよ問題を判別するのは「国益」とかナショナリズムではなく、理性的・普遍的基準であり、過去・現在をそれぞれそれによって判断する他ありません。
追記すれば、ナショナリズムは世界的普遍性と階級的視点という二方向の批判的分析に掛けられなければなりません。一方で、各国は世界的秩序の中で生きていくのであり、そこでは国際法などの普遍的原則が必要です。他方、各国内は階級的に分裂しているのだからそれにそった批判的分析が欠かせません。いずれにせよ「国」を不可侵の原則にすることなく、科学的批判の対象とすることが必要です。
また今日ではグローバリゼーションへの反発としてのナショナリズムがあり、逆に両者の相互依存的共存もあります。これも重要な分析課題で、安倍政権を捉える際に不可欠でしょう。
2015年3月31日
2015年5月号
労働者階級の変革主体形成
資本主義下での生産力発展は労働者に対する資本の支配を強化します。資本家は「生産方法の改善によってもたらされた新たな生産力を自らの所有物へと転化」します。「協業においても、分業においても労働者の計画的、かつ共同作業は統一的指揮機能を要として実現するものであ」り、「その生産力発揮の軸点となる指揮機能はいまや資本家・経営者が担うこととな」り、「それに反比例して個々の労働者は無力な存在となり、その結果として資本家に対する対抗力を失」います(福田泰雄「剰余価値の生産、富と貧困の蓄積」、30ページ)。マルクスはこれを資本による労働者の実質的包摂と特徴づけました(31ページ)。また生産の機械化・オートメーション化は労働者を削減し、産業予備軍を形成します。それは労働者を個別分断化し、労働者間競争を激化させます(同前)。
これらは資本主義のきわめて原理的な要因から生じるものですが、今日の新自由主義グローバリゼーション下では、政府の経済政策(労働法制の緩和等々)による労働条件の悪化の促進と底辺に向かうグローバル競争とによってさらに加重されます。いわゆる「ブラック企業化」はその典型であり、グローバル化を背景とする「価格破壊と労働基準の引き下げの連鎖」がその要因の一つです(小越洋之助「『ブラック企業』問題とは何か 安倍『雇用改革』との関連性で」上、136ページ)。
それに抗して労働者が生存権を確保し、人間的発達を実現させるには、個別分断を克服する団結力が必要となります。そうした闘いが労働者を変革主体として鍛え、資本主義を止揚し、やがては社会主義社会を運営する主人公へと成長させます。「労働者が要求にもとづいて多くの仲間と連帯し、組織をつくり、維持し、資本とたたかい続けるには、多くの知識と経験が必要です。この活動をつうじて労働者は鍛えられ、未来の人間的な社会をつくる力を身につけていきます」(上瀧真生「資本のもとで働く」、47ページ)。
話は若干先走りますが、社会主義・共産主義の社会(共同社会)において労働者階級がその運営の主人公となるような展望について、不破哲三氏の「社会変革の主体的条件を探求する―労働者階級の成長・発展に視点をおいて―」(下)(『前衛』5月号所収)が触れています。
不破氏によれば、『資本論』第一部を完成した段階でマルクスは、共同社会の基礎をなす「社会的生産経営」が資本主義的生産の胎内ですでに出来上がっているのだから、資本主義から共同社会への経済的移行は比較的短い期間しか要しないだろうという見通しを立てました(125ページ)。しかしその後、パリ・コミューンの経験を検討した『フランスの内乱』においては、この「社会的生産経営」にはまだ「奴隷制のかせ」がまとわりついており、それから解放されるには長い期間がかかるだろう、と考えなおしました。上述の福田泰雄論文からの引用にあるように、資本主義経済においては、資本家・経営者が指揮権を独占しそれが労働者への支配力の源泉になっていますが、不破氏によれば、共同社会においては、指揮者はいるが、支配者はいないような「自由な結合的労働」を実現しなければなりません(126ページ)。しかし長年、指揮機能と支配機能とが一体となった資本主義的経営の下で従属的地位に置かれて働いてきた労働者にとって、それを実現するのは容易ではありません。だからマルクスは階級闘争の新しい一局面として「既得の権益や階級的利己心の諸抵抗」との粘り強い長期の闘争が必要になることを強調し、階級社会から引き継がれてきた古い習慣や権益、あれこれの考え方の克服が労働者の内部での闘争として問題となることを、敵対階級との闘争とは区別して提起したのです(同前)。「一連の歴史的過程を通じて、環境と人間とをつくりかえる長期の闘争を経過しなければならない」(124ページ)という『フランスの内乱』の記述を不破氏は以上のように読み解きます。
マルクスは資本主義から社会主義・共産主義への過渡期の課題として、政治革命後の長い社会革命の期間における労働者階級の粘り強い自己変革を提起したということです。これを人類史的に位置づけてみます。この過渡期において、労働者階級は利己性と共同性の相克を止揚して、人間とその社会が本来持っている共同性を、諸個人の自立した連帯のもとで再現します。前近代の人格的依存関係から脱した商品経済において、諸個人は自立・孤立し競争します。商品経済を土台とする資本主義経済は、市場関係における諸個人の自立を前提にしつつ、資本主義企業経営内においては、指揮権と支配権とが資本に独占される下で労働者は従属的地位に置かれます。この社会では競争イデオロギーが市場でも企業内でも支配しており、人間とその社会が本源的に持っている共同性は奥底に押し込められています。ただしそれは存在しないわけではありません。どのように酷薄な弱肉強食の経済であっても、社会的分業という形で本源的共同性は最低限ながら潜在的に生きています。資本主義を止揚して共同社会を実現することは、資本主義的市場経済が実現した諸個人の自立を前提に、連帯した諸個人が高い次元で共同性を復活させることを意味します。そこでは支配者ではない指揮者がおり、諸個人が全員、社会の実質的な主人公となります。
ところでマルクスにとって、資本主義はひたすら革命で打倒すべき対象であり、野党として労働者階級がその改良を要求することはあっても、彼らが政権を取った後も比較的長期に渡ってそれを運営するということは想定されていません。しかし今日では諸般の事情により、社会主義的変革の前に、資本主義の枠内での変革が当面する課題とされます。するとそこでは資本主義国民経済の運営という新たな課題が労働者階級に提起されます。このように社会主義革命の課題がいわば先送りされ、資本主義段階内での長い変革の時代が続けば、逆に労働者階級の自己変革の課題が前倒しで部分的にでも追求されるということにならないでしょうか。労働者階級が社会主義革命で初めて国民経済の主人公になるのではなく、資本主義の枠内という段階でその地位に就くのならば、それにふさわしく従属性を脱してその段階なりの全国的共同性をつくり上げるような新たな階級性が必要となります。さらに言えば、それを見据えて、新自由主義というもっとも労働者階級にとって過酷な被支配状況下(資本主義的搾取の純化と強化という資本原理主義の制覇下)でも、NPOや社会的企業を立ち上げたり、既存の企業に対してもその社会的責任を追及する、という形で目先の短期的利己性を克服する長期的共同性の萌芽が意識的に追求されています。こうして搾取への抵抗の段階でも、分断支配に抗する労働運動での連帯的人間像を基礎に、未来社会に生かせる「ホモエコノミクスから共同体的人間像への転換」の萌芽を描くことができます。
労働者階級の変革主体形成は、まず資本主義打倒のために必要であり、次いで社会主義社会建設のため必要です。今日では、その中間に資本主義の枠内での変革において国民経済を主体的に運営しうるような変革主体形成が新たに求められています。どの段階でも、個々の労働者にとっては、目先の利己的な短期的利益でなく、共同的・長期的な利益を優先しうるような人間変革が求められます。資本主義下での資本家階級との闘争の過程では、それは分断政策を乗り越えて団結する力となり、社会主義下では、新たな共同社会を建設する主人公にふさわしい共同的な労働者性となります。その間にある資本主義の枠内での変革過程では、その段階の進捗状況にふさわしく、両方の役割に応じた労働者性が必要となります。そうした全過程を通じて、資本主義社会における利己性・従属性をもった諸個人が自己変革し、短絡的な利己性を克服した諸個人が連帯して主人公となるような共同社会が実現していく、というのが大ざっぱな展望でしょうか。
ここまで書いてから、内山節氏の「現代日本の閉塞をつきくずす『地方』の価値と力」(『世界』5月号所収)を読みました。内山氏は「都市は発展し自由で、田舎は遅れており不自由だ」という通念を神話に過ぎないと批判します。戦後の個人主義は、都市において「何者にも束縛されない個人の自由を求め」(88ページ)、それを実現するため「たえず経済成長を望み、企業の発展のために働くひとつの時代精神」(90ページ)でした。内山氏が根本的に批判するのは、そのように自由を望む人々が「企業への従属」(85ページ)あるいは「労働の不自由」(86ページ)を受け入れていることです。
「田舎では社会を維持していく上ではいろいろに決まりがある。しかし、労働の場面ではそれぞれの自由に任されてい」ます(同前)。都市において「何者にも束縛されない個人の自由を求めようとした戦後的な自由の概念」とは違って、田舎では「自然との自由な関係、労働との自由な関係、暮らしとの自由な関係、人々との自由な関係、そういったものが個人の自由を確立する基盤だと感じてい」ます(88ページ)。しかし田舎においても雇用労働者であれば、企業に従属して不自由な労働を強いられますから、ここでいう都市と田舎との対照は(自然との関係などを措けば)、雇用労働者と自営業者との対照がやや不正確に(しかしイメージとしては鮮明に)転移したものだと言えます。しかも企業での雇用労働を市場主義・個人主義的にのみ捉え、労働者間競争や企業への従属関係という負の側面は正しく注目しつつも、労働そのものがもたらす個々の労働者の発達可能性や共同性、搾取への抵抗の過程において生まれうる労働者の連帯といった側面への関心は欠落しています。都市批判として、「企業への従属」に正当に着目したのはいいのですが、そこでの反撃の可能性を見ないのでは、現代資本主義の変革の視点としては極めて狭いと言わざるを得ません。
とはいえ、田舎・農業・自営業といった不当にマイナー視されているものに正当な光を当て、資本主義に包摂されていない自然・地域において新たな自由像を見出そうとする人々の実践と思想に未来を託す、という視点は重要です。農業の資本主義化と土地・自然の資本主義的利用が社会進歩の条件というわけではなく、家族農業・農家とそれが支える自然・地域がそのままで都市産業と労働者とともに「懐かしい未来」を切り開いていくという社会変革像を今描くことができます。絶えて久しく聞かない言葉ですが、それが新たな「労農同盟」の形かもしれません。
先月、格差批判から出発して再生産(産業)構造論の必要性へ、という議論をしました。格差批判の核心には高搾取批判があり、さらに言えば、高い搾取率への建設的な批判のためには、高い搾取率の「現実」が作り出した再生産構造に代えるべく、低い搾取率の「構想」による再生産構造を対置する必要があります。その際の課題として…
1) 大資本に社会的責任を果たさせつつ、その生産力をどう生かすか
2) 農林水産業と中小企業を中心とする地域経済の内需循環構造をいかにつくるか
3) 1)と2)の組み合わせを主軸に国民経済の再生産構造をどう組み立てるか
…ということを示し、それをまとめた再生産構造の一枚の表を描くことを提起しました。
変革主体形成も同様な課題を抱えているように思います。上記の再生産構造の形成と合わせて、労働者階級と農民・自営業者階層とがそれぞれのやり方で変革主体として自己形成し、両者が合流し相互補完して、自然・地域あるいは地域経済・国民経済の主人公となっていくことが展望されます。なお片山善博・小田切徳美対談「真の『地方創生』とは何か 下請け構造から脱却し、内発的な地域づくりへ」(『世界』5月号所収)は、安倍政権の「地方創生」を根底的に批判しつつ、地域経済の再生産構造の問題点を剔抉して政策課題を指し示し、自治体と住民の役割やローカル人材の育成など的確な問題提起に満ちています。
以上、『経済』『前衛』の諸論稿で、労働者階級の変革主体形成に触れ、『世界』からは安倍政権批判に絡んで地域における農民・自営業者階層などの新たな展望を見ることで、併せて全社会的な変革主体形成の問題へと進みました。いまだ木に竹を接いだ体のものにとどまっておりますが、必要な視点ではないかと思っています。
(追伸)目先の私的利益にとらわれて個別分断に応じるのでなく、長期的利益をつかんで団結するというのが、資本主義・社会主義の時代を問わず、ここでの重要なテーマなのですが、もちろんそれは言うほど簡単なことではありません。
4月28日、ホウネット・くらし支える相談センターの相談員研修会で愛労連労働相談センター所長の渥美俊雄氏の話を聞きました。渥美氏は毎年三百数十件(延べで五百数十件)もの労働相談をこなされています(主に電話相談。これは渥美氏個人の実績で、同センターとしては毎年千数百件)。退職も辞さず、せめて残業代だけでも獲得したい、というような相談が多く、労働組合に加入して職場を改善するというケースはまれだということです。せっかく労働組合に入って闘っても、個人的な要求が解決すると脱退してしまうことも多いそうです。もちろん相談員としてはたとえ組織化に結びつかなくても、要求を解決すること自体が大切なのですが、変革主体形成と組織化の道はなかなか困難です。相談者の中にはうつ病など精神疾患の人も多く、たとえば長時間にわたって何度も同じ話を繰り返されるのを相談員は忍耐強く聞きます。その苦労は並大抵のものではありませんが、相談者にすれば、誰も聞いてくれない話を聞いてもらえるだけでも救われる部分があるようです。このように労多くして功少ない活動を積み重ねることが大切で、粘り強く数多く実直に取り組んでいく中で変革主体形成に少しでもつながっていけばよい、というのが現状かもしれません。労働者諸個人に対して、その経済的インセンティヴといくばくかの苦労を伴う団結の利益とをどう結び付けていくか、そこを労働組合運動が乗り越える工夫が必要なのでしょうが難しいところです。
こうした実践に触れることで私はようやく根無し草の観念的な言説を自戒することができると感じています。
執拗に、デフレ用語批判
小西一雄さんに聞く「異次元緩和の2年 リフレ政策の帰結」は大いに勉強になる論稿であり、基本的に内容に異存ありませんが、重要な用語が間違っています。
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デフレを物価下落としかとらえないのは、現象的な把握に過ぎませんし、しかもマインドの話にするのは、二重におかしい話です。
長期にわたって消費が低迷して売上高が伸びず、そのために企業の設備投資が停滞する、こうして雇用と所得が伸びずに経済が低迷している、それがデフレということであり、物価下落はそのような経済状態がもたらす結果であって、デフレの原因ではありません。その結果、モノが売れなくて物価が下がったということであって、デフレを物価下落とだけみるのは、なにも説明していないのと同じです。しかも、物価を上げれば、デフレから脱却できるというのも、まったく原因と結果を取り違えたものというほかないですね。
155ページ
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この部分も事実認識について異存ありません。しかしデフレという用語を、物価下落を伴う不況、というような意味で使用しているのは混乱を助長する姿勢で賛成できません。デフレの本来の定義は、貨幣的要因による物価下落であり、これが本質的規定で、現象的規定としては、原因を問わず長期的な物価下落をデフレと定義するのが政府統計などの立場で、一般的にはそれが流布しています。そうしたいかにも表面的な定義に飽き足らないとすると、小西氏のように実体経済の不況を含めた定義にした方が、日本経済の実相に迫れるように見えます。
しかしこれはその意図とは逆に、議論を正しい方向に持っていくのではなく、錯覚の余地を拡大するものです。デフレ議論の焦点はリフレ派の誤りにどう対処するかにあります。政府統計の現象的定義を入り口に「近年の日本経済はデフレである」と認識した人々に対して、リフレ派はデフレの本質的定義を持ち出して、デフレは貨幣的現象なのだからリフレ政策が有効である、という出口に導きます。こういう入り口から出口へのすり替えに対する正しい回答は、デフレの本質的定義に則って、近年の日本経済の物価下落は実体経済に起因するものだから、デフレではない、ときっぱり言明することです。デフレという言葉を使う限り、貨幣論を中心に考えるという傾向を脱することができず、日本経済にとって金融緩和政策が本質的対処方法であるかのような幻影がまとわりついてきます。この閉塞感に満ちた不況を克服するには、内需不足を解決するために賃上げなどを中心とする実体経済への対処が本質的政策であることをはっきりさせねばなりません。そのためには、デフレの本質的定義に立脚して、日本経済の現状認識からデフレ用語を追放する必要があります。
学問研究における民主性
トマ・ピケティは膨大な統計資料を踏破して、資本主義経済の格差拡大の傾向を実証しました。その理論そのものについては批判も多いとはいえ、その実証の成果はどこでも重く受け止められており、体制派の学者たちからは大いに攻撃され、進歩的陣営からは歓迎されています。それだけでなく、その研究姿勢の民主的性格も注目されています。彼は経済分析に際し、その研究スタイルからして当然のことながら、統計的根拠は非常に重視しますが、それだけでなく社会や経済に対する文学的直観も軽視したりましてや侮蔑することはなく、逆にその積極的意義を認めています。そして経済学を民衆のものにすることの大切さを力説しています。したがってその貴重な成果を導き出した膨大な資料を公開し、広く検討の場を提供しています。
しかしながらこうした学問の伸びやかな発展方向というのは容易に定まるものではありません。そこには学問というものの難しさから来る民主的発展の困難性が横たわっているように思われます。素人と専門家との関係、専門家同士でも異なる専門分野研究者間の関係をどう捉えるかを考える必要があります。
「無知な者ほどたくさん発見する」という言葉があります。正確には「発見したつもりになる」ということでしょうが…。大学の教官が学生に卒論の指導をするときには必ず、当該研究テーマに関する主要な既発表論文をきちんと読むように言います。先行研究を身につけずに初めから全部自分の頭で考えていては労多くして功少なく、せいぜいすでにある成果を初めて自分が発見したつもりになるのが関の山だからです。研究テーマを掌握するためには、後方の遅れた地点からではなく、できるだけ最前線に近い位置からスタートすることが効率的です。
しかし「発見したつもり」もあながちまったく無意味というわけではなく、単に論文を読んで過去の発見を暗記するよりも深く身に付くという効能はあります。スマートな手っ取り早い理解よりも、不器用な試行錯誤の果ての理解のほうが中身がぎっしり詰まっているだけ、応用が利き、発展性もあるという場合もあるでしょう。また先入見にとらわれずに本当の発見につながる場合も稀にはあるでしょう。いずれにせよ素人は一方で基本的知識の習得に努力しつつ、他方であくまで自分の頭で考えることが大切でしょう。次の「独学の人間」の自戒と自負は教訓的です。
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ある分野の学問で専門の教育を受けたということは、たんに必要な専門知識を講義や演習でインプットされたということだけではなく、研究室や学科の人間との日常的な接触によってその学問世界での共通了解事項をいつしか身につけているということを意味している。独学の人間の悲しさは、それがなく自分のバイアスのかかった思い込みや誤解を訂正するきっかけがないということにある。その点は、つまり私自身まったく意識のないままに間違ったことを書いているのではないかという不安は、正直言って書きながら離れなかった。
…中略…
しかし他方では、研究者集団と没交渉でいるということは、ポジティブに考えれば、研究者集団の共通了解事項―パラダイム―にとらわれることなく、自由に発想できる位置にいるということでもある。それゆえ、プロの研究者が考えつかなかったような独自な見解を提起することもありうるであろう。
山本義隆『磁力と重力の発見3 近代の始まり』(みすず書房、2003年)944ページ
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で、私は素人の立場は分かるわけですが、専門家の立場についても想像力を働かせてみたいと思います。
学問研究にも様々な性格のものがありますが、ある研究者が膨大な原資料を読み込んで分析した上で一定の結論を得て仕上げ叙述したような、いかにも労作という業績にまつわる問題を考えてみます。素人や、専門家でも専門が異なる場合には、事実上この業績を正確に評価することは不可能です。たとえばこの研究者があらかじめ抱いた結論にそって原資料を読み込んだことによる理論展開のバイアスがあるかもしれません。そのような欠点追求だけでなく、彼の問題意識によって取捨選択されたのとは違った形での資料分析の可能性という積極的研究展望の発見があるかもしれません。しかしそうしたことを判断しうるのはその原資料を同様に読み込む条件と能力を持った専門家だけです。それ以外の人にとっては、その論理展開の矛盾を指摘するか、現実適合性を様々に考察するか、さもなくば出来上がった労作の叙述の素晴らしさを称えるか、くらいしかありません。こうした性格の労作が学問研究に重要な貢献をしてきたことは疑いありませんが、その力業に圧倒されることで、原資料との関係から来る問題点が見過ごされるようなことが多くあったのではないかと推測されます。
そのような弊害をなくすことは不可能ですが、少なくする努力は可能です。そのためには原資料ができるだけ公開されていること、当該部門の専門家が(できれば立場・方法論の異なる人で)複数確保されていることの他に、こうした力業を成就しうる権威ある研究者に対して遠慮なく批判できることも重要です。研究の科学性はその民主性によって保障されます。集団的検討が不可欠であり、真理の前の平等が確保され、あらゆる権威主義・個人崇拝が排除されねばなりません。そんなことは当たり前だと思われるでしょうが、「言うは易く行なうは難い」のが現実でしょう。専門家集団はそのような民主性の確保によって始めて広く一般の人々に対して学問研究の科学的性格を請け合うことができ、研究発展の広いすそ野を開拓することができます。民主性の欠如の下で、人々に権威主義的盲信を促すようなことは厳に慎むべきでしょう。
ナショナリズムのバイアス
過去への歪んだ見方は、現在のあり方と願望(現代社会の病理とそこから生じる歪んだ願望)を映し出したものであり、未来を誤らせる原因となります。それは大きくは歴史修正主義の安倍政権の暴走を貫く本質ですが、それを指摘するにとどまらず、その培養土としての日本社会の広範な病理から見ていく必要があります。
先月、アベノソーシャル(安倍的社会)を支えるナショナリズムについて書きました。ナショナリズム同士の対立・「国益の衝突」の次元でしかものが見えないと、偏見の高進を招くばかりですので、そこでは結論として「問題を判別するのは『国益』とかナショナリズムではなく、理性的・普遍的基準であり、過去・現在をそれぞれそれによって判断する他ありません」という基準を提示しました。
たとえば日韓関係について、韓国元外交官・長崎県立大学名誉教授の徐賢燮(ソヒョンソプ)氏は自国について以下のように言える公正・冷静な目を持っています(「朝日」4月8日付、インタビュー「隣国を、見直す」)。
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韓国人は、「日本に文化を伝えたのは我々の先祖」と考えているだけに今も非常に悔しい思いをしています。だから日本の実力を評価したがらない。好きか嫌いかではなく、必要かどうかでみるべきなのに、それができない。隣国同士とは往々にしてそんなものですが、韓国のその傾向は世界でも際立って高いでしょう。
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そう言える徐氏に現在の日本はどう映っているのか。
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韓国を見下して自国を立派だと礼賛する空気が目立つ日本をみると、「韓国化している」と私も思います。もっと言うと、明らかな劣化ですね。かつての韓国のあれだけの逆風の中で私が評価した、あの日本と同じ国なのかと、がっかりすることがあります。韓国での不祥事や一部の反日的な言動などをとらまえて、さも韓国全体の問題と批判している。
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ここで言われる「日本の劣化」は正確な観察でしょう。もちろん日本にも公正な目はあります。戦時中に日本へ動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑を撤去するよう求める動きが最近、各地に広がっています。それに対して、朝鮮人強制連行の歴史を20年以上研究している歴史学者の外村大(とのむらまさる)東京大学教授は「戦前の日本帝国の実像は、裏側からのほうがよく見える。今後、日本がどんな社会をつくっていくかを考えるうえでも大切な歴史です。韓国・朝鮮人のためというより日本人自身のため、未来のために記憶し、伝えていくべきだと思っているのです」と述べています(インタビュー「強制連行 史実から考える」「事実の断片つなぎ労務動員を正当化 願望や妄想に近い」「腰引ける自治体 歴史の真贋を見抜く力が必要」、「朝日」4月17日付)。まさに先月、私が強調したように、歴史問題・侵略戦争責任の問題は、本質的には対外関係よりも日本自身の問題なのです。それを正しく認識すれば、明るい未来をつくる可能性が大きくなります。しかし逆に、安倍政権が居座る今、隆盛を誇る歴史修正主義の下、この朝鮮人犠牲者追悼碑撤去を求める動きのように、歴史の真実を隠蔽して「日本は良い国」という自慰的意識に浸る一方で、アジア諸国を不当に蔑視するような恥ずべき傾向が拡大しています。
戦時の労務動員・強制連行についての当たり前の史実が曲解され、歴史家の常識と世間の一部の感覚がずれてきたように感じるという外村氏は、曲解の手口をこう説明します。
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事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは「こうあってほしい」というゆがんだ願望や妄想に近い。慰安婦問題で国が直接、連行を命じた文書が出ていないことに乗じ、強制連行までも「なかった」ことにしたい人がいるのでしょう。
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現在の日本社会の閉塞感の原因を直視せず、安易な自慰的意識・ナショナリズムと排外主義に逃避し、そこから生まれる願望・妄想によって過去を歪めるようでは、結局現在を破壊し未来を塞ぐことになります。戦時動員・強制連行が可能だったのは、差別意識の下、朝鮮人が無権利とみなされていたからだとする外村氏に対して、聞き手記者は「最近の外国人労働者問題の議論に似ていますね」と応じています。もちろん問題は外国人だけではなく、日本人にも跳ね返ってきます。外村氏は民主主義・人権の観点から、無謀な戦争に突き進んだ日本帝国の姿を洞察力鋭く次のように描き出しています。
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戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実です。総力戦では、まさにその国の素の姿が現れます。英国のように労働運動が盛んな国では、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えた。日本では民主主義も労働運動も弱かったので「ともかく働け」となった。
…中略…
民主主義を欠いた社会が、十分な準備もないまま無謀な目標に突き進めば、結局はその社会でもっとも弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだと思っています。
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まさに至言です。そして恐ろしいのは、これが日本帝国の姿のみならず、現代の日本社会にも重なりうるということです。新自由主義構造改革を断行する「積極平和主義」国家は民主主義を破壊し人権を無視する安倍暴走政権によって担われています。……グローバル競争に勝つため、中国脅威に備えるため、無権利で働き、戦争を辞さない覚悟を持つ。「欲しがりません、勝つまでは」。日本国家に疑念など抱いてはいけない。……すべての社会矛盾・閉塞感を飲み込んで増大するナショナリズムによる過去の隠蔽は、政権の現在にとってまさに重要な「効用」があるのです。
野田耕造氏の「真実を直視しない国の戦争 記録映画『ハーツ・アンド・マインズ』再公開」(「しんぶん赤旗」4月17日付)もまた秀逸な記事です。米国の良心がつくり上げた記録映画は、パリ協定による米軍撤退を祝うパレードを映して、そこに敗色がなく、米国社会がベトナム侵略を何ら反省していないことを描き出しています。「時は異なるが、侵略戦争の敗北を直視しない、日本、アメリカの二つの国が、今また辺野古で強力な侵略の基地を新設しようとしている。私たちは力をこめてこのことを語らなければならない」という野田氏の言葉は鋭く真実を衝いています。
侵略と言えばもっぱら十五年戦争での日本のことを言い、米国は民主主義陣営とされます。確かにその時点の問題としてはそうですが、それから戦後の米国の侵略史と日本の追随を忘れてはなりません。日本の十五年戦争での侵略責任と戦後の侵略加担責任、米国の戦後の侵略責任がすべて普遍的基準によって裁かれねばなりません。そこにおかしなナショナリズムの入り込む余地はありません。
ベトナム戦争の話題がでたので、韓国の問題にも言及します。韓国では今でも、ベトナム戦争は「共産主義と闘い高度経済成長をもたらした聖戦」であって、学校で負の側面が教えられることはありません。しかしもちろん韓国でも、真実を見つめる良心的な人々はあって、ベトナム戦争での韓国軍による民間人虐殺という加害の歴史を見つめ直す動きが出ています。「日本の責任を問う以上、過去の自らの過ちを直視すべきだ」として、タブー視による反発にさらされながらも、被害者遺族二人を初めて韓国に招待したり、虐殺を採り上げた本も刊行されています(「しんぶん赤旗」4月21日付)。このようにナショナリズムを超えて真理を直視する動きはどこの国にもあるという、これまた普遍的事実をもっともっと知らせる必要があります。
話は脱線しますが、ベトナム戦争つながりで言うと、古田元夫氏の論説にも注目したいと思います(「しんぶん赤旗」4月21日付)。「大国を中心とした軍事同盟という冷戦時代の安全保障とは異なる、『冷戦後』の時代にふさわしい地域秩序のあり方をアセアンが体現」していることに着目するなら「この東南アジアにおける冷戦構造の克服という角度から見た場合、南北分断という、冷戦がベトナムに押し付けた事態を克服するたたかいだったベトナム戦争の意義は、きわめて重要な位置を占めている」と古田氏は主張します。ソ連・東欧の社会主義政権の崩壊で経済的に行きづまったベトナムがアセアン流の経済発展を取り入れざるを得なくなった、というのが一般的な見方です。しかしそれよりも、ベトナム戦争と今日のアセアンの発展を冷戦構造・軍事同盟路線の克服という同一の流れの中に位置づけるという古田氏の見方は卓見であろうと思います。東北アジアにあっていまだに「日米同盟の強化」という古色蒼然とした方針しか提起できない政権をいただき、マスコミも無批判にその方針を垂れ流すこの国の現実を考えれば、ベトナムへのこの見方の普遍的意義は十分に理解できます。日米軍事同盟絶対視の従属的ナショナリズム(対米従属+アジア蔑視)とでも言うべき形容矛盾的なイデオロギーが人民に向って不断に注入される状況の中で、軍事同盟を超える普遍的平和思想とそれを実現しうる方針があるということ、それは東南アジアにあり、何より日本国憲法にある、ということを想起すべきでしょう。ベトナム戦争の世界史的意義を見直すという行為を通じてそこに回帰しうるということは普遍性のなせる業です。
安倍流詐術に利用される「戦後平和国家」
安倍首相は十五年戦争を侵略戦争とは認めたくないけれども、主に対米関係の都合から、あからさまにホンネを出すわけにはいかないので、様々な詐術を弄します。一つは「未来志向」という言葉で、声高に「未来」を語ることで、過去のことは後景に退くように仕向けています。しかし「未来志向」とは実際には過去の悪事隠しのためのイチジクの葉だということはもはや見破られています。
もう一つは戦後70年の日本の平和の歩みを強調することです。それによってあたかも過去の贖罪を済ませたかのように装って、侵略の事実を素通りしようとします。何だかわからない「反省」は言うけれども「侵略」には決して触れない作戦には不可欠の術策です。しかもこれは過去の問題だけでなく、今後の問題にも都合のいい言い方です。3月22日に行なった防衛大学卒業式訓示で首相はこう言いました。「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」と。今後に向けた含意としてはこんなところでしょうか。……革新勢力の批判にもかかわらず、戦後70年続いてきた保守政権下で戦争は起こらなかった。それを引き継いで私がこれからやろうとしている集団的自衛権行使容認や改憲の行動にも、為にする批判が浴びせられているが気にする必要はない。この道に間違いはない。改革は断行する……
もちろん私たちがまずすべきは、戦後70年の平和を守ってきたのは誰かを問うことであり、それが主には保守政権ではなく、日本国憲法と革新勢力による運動だということを明らかにすることでしょう。先月も述べましたが、ベトナム戦争時にもし憲法9条がなければ、「日本軍」が米国の侵略戦争に参加していたのが確実だということだけ見てもそれは明白です。さらには革新勢力の批判を受け止める形で保守政権も集団的自衛権は禁じてきたのであり、それを破ろうという安倍政権が保守政権の「過去の実績」に依拠することはできるはずがない、という点も重要です。その上で、「ただ不安をあおろうとする無責任な言説」や「荒唐無稽」さは、集団的自衛権行使容認を無理やり押し通すために、中国脅威論を煽り、「日本人を救護する米戦艦を自衛隊が守れなくてどうする」といった珍妙な「事例」を提出してきた安倍政権の姿勢にこそあてはまることも指摘すべきでしょう。
そうした安倍政権批判の上で、革新勢力は「戦後70年、日本の平和の歩み」なるものを自省する必要があります。少なくとも戦後日本はベトナム・イラクその他への米国による侵略戦争に対する加担責任があり、日本の「戦後平和国家」なるものはないというのが真相です。本当に憲法による道を歩んでいたなら、侵略戦争への加担はあり得ません。もちろん日本の国土が戦火にまみえることがなく、自衛隊が誰も殺さず殺されずという70年が続いたことはたいへんに重要です。問題はそのような戦後日本の「平和」を正確に位置づけ、今後の誤りがないように、人々の中に説得力を持った平和論を打ち立てることです。
私見によれば、平和を考えるには、真の平和とカッコつきの「平和」を区別することが必要です。根本的に平和を守るには、貧困・格差・差別など紛争の原因となるものをなくして安定した社会をつくることが必要です。こうして形成されるのが積極的平和です(安倍首相の言う積極的平和主義はまったくのまがい物であり、彼が勝手な意味をでっち上げてマスコミを通じて世間に流通させているのははなはだ遺憾です。これは言葉に対する侮辱であって、加担しているマスコミはジャーナリズムへの背信を自覚すべきでしょう)。そこまでできていなくても紛争をもっぱら外交・話し合いによって解決して平和を維持しているなら、消極的平和が形成されていると言えます。ここまでは真の平和に属します。それに対して軍事力の均衡などを通して、戦争を防いでいる状態をカッコつきの「平和」と呼びます。それは戦争状態と隣り合わせです。
以降は両者を単に、真の平和→平和、カッコつきの「平和」→「平和」と表記します。日本国憲法が目指していたのはもちろん平和ですが、戦後日本の平和は実は「平和」です。戦後日本は片面講話でサンフランシスコ体制という冷戦構造に組み込まれ、日米安保条約という軍事同盟を締結しました。それは仮想敵国を持つものであり、そうである以上、軍事力・軍事同盟によって「平和」を維持せざるを得ません。軍事同盟の補完としての自衛隊という軍隊を持つに至るのは必然でしょう。要するに最初のボタンの掛け違えをやったのであとはそれに合わせて整然と矛盾なく(私たちの観点からすれば)間違うほかなくなりました(支配層の観点からすれば「この道しかない」正しい選択だが)。今日では中国脅威論が、冷戦期にはソ連脅威論が煽られ、自衛隊・安保によってこそ平和が守られてきたしこれからも守られる、と喧伝されています。しかしそれは中立政策を取らずに軍事同盟によって仮想敵国をつくっているからそうなるわけで、平和に関するマッチポンプ戦略と言わざるを得ません。初めから全面講和に基づいて分け隔てなく友好関係を築いておけば日本国憲法路線の率直な実践によって平和を実現する可能性がありました。
しかし実際には戦後日本において、憲法とそれを支持する世論と、安保・自衛隊という根本的に対立するものが共存してきました。前者が求める平和と後者の「平和」との闘争の妥協・結果として、戦後日本の「平和」は形成されてきました。それは平和憲法とそれに親和的な世論のおかげで、諸外国にはない強烈な平和主義の色彩に満ちてはいますが、安保・自衛隊の存在によってあくまで平和ではなく「平和」に過ぎないという冷厳な事実を直視しなければなりません。「平和」は戦争と隣り合わせですが、戦争に転落するのを主に防いできたのは、憲法に依拠して平和を求める勢力です。
戦後70年の「平和」の成果をつまみ食いして、過去の贖罪に仕立て上げ、さらにはこれからの軍拡と戦争準備体制の整備に突き進むのをカムフラージュしようとする安倍政権の暴走を許してはなりません。実際には暴走であるものを、従来の「平和」の延長線上であり、それへの批判は無責任で党利党略的な為にする議論であるかのように見せかける安倍的詐術を暴露する必要があります。
革新勢力においても「戦後平和国家」を無批判に前提するような無自覚な状態が一部に見られますが、それでは安倍的詐術を正確に批判することができません。「戦後平和国家」の全体像=真実を見極め、その虚像の部分をしっかり認識するとともに、その積極的部分を担ったものが何であるか、それを崩そうとするものが何であるかを分析的に明らかにして人々に知らせなければなりません。「戦後平和国家」なる部分だけは安倍政権と同様の認識だ、などというとんでもない錯覚があるとしたら、早急に是正すべきです。
なお平和について考えるには、平和と「平和」との区別の他に、現状認識と価値判断との区別も必要だと思います。そうした議論の全体については拙文「平和について考えてみる」を参照してください。
21世紀のバカ殿騒動と歴史の審判
21世紀の初め、まず大阪に起こったハシズムの跋扈、続いて安倍政権の全面的な暴走。これらを良識ある後世の人々は「そんなことがあったのか。今では考えられない」と驚きあきれ、一笑に付すでしょうし、また必ずそうなるように今私たちは奮闘しなければなりません。橋下・安倍といった人たちの登場は、日本社会の閉塞状況と支配層の動向からすれば、必然性のある事態ではありますが、彼らの政治信条そのものは荒唐無稽の類です。そんなものを利用せざるを得なくなっている支配層の堕落と荒廃は深刻な状況です。それを許したままでは日本人民の歴史に新たな恥辱を残すことになります。
安倍政権の暴走に対する反撃で最近のヒットとしては、まず4月5日に沖縄県の翁長知事が菅官房長官と会談し辺野古基地建設阻止を断固として表明したことが挙げられます。これは、両者の政治家としてというよりも人間としての格の違いを見せつけた会談でした。ここで押され気味の官房長官が初めて「粛々」という言葉を今後使わないと表明したことは、まさに溜飲の下がる思いでした。米軍基地問題に限らず、安倍政権の本質とは、あらゆる民意に聞く耳を持たない「粛々」政治だと思っていましたので、漸く最初の一穴が開いたという感慨があります。
『世界』5月号に、翁長雄志知事と寺島実郎氏との対談「沖縄はアジアと日本の架け橋となる 辺野古からアジアの平和構想を」が掲載されています。両者は、対米従属以外に何の見識も持たない政権とは正反対の深い見識で、長い歴史的視野を踏まえて沖縄と日本・アジア・アメリカとの関係を論じています。対談の最後におそらく辺野古をめぐって目前に展開する安倍政権の乱暴狼藉を念頭に置きながらでしょうが、寺島氏が以下のように述懐しているのが印象的です。
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歴史というのは、あざなえる縄のごとく変わって行く。一見不条理な問題が深刻になっていくようだけれども、結局長い時間の中で提起された問題は、あるべき姿の方向に近づいていくと、歴史を見ていて実感します。 48ページ
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次いで、関西電力高浜原発3・4号機の運転を認めないという福井地裁の仮処分決定(4月14日)も快挙でした。ところがこれに対して菅官房長官は再稼働を「粛々と」進めると、相変わらずの姿勢です。続く川内原発の再稼働問題では鹿児島地裁は運転容認の判断をしており、司法の多くはいまだ死んでいるようです。しかし再稼働反対の世論は揺るぎません。そこに希望があります。小出裕章氏は専門家の立場から実に平明に原発の問題点を説明し、原発事故を起こした「原子力マフィア」の誰一人として責任を取っていないことを問題視しています(「核廃絶への道程 福島原発事故後の地平に立って」、『世界』5月号所収、55ページ)。
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彼らを処罰し、きちんと責任を取らせたいと私は願う。残念ながら、今の日本はそこまで進んでいない。しかし、歴史は大河のように流れる。一九五四年に国会で初めて原子炉建造予算が成立したころ、ほぼすべての国民が原子力に夢をかけていた。しかし今や、原子力にかけた夢はすっかり褪せたし、多くの国民が原子力の胡散臭さに気付いている。
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これは寺島氏の述懐と肝胆相照らすところがあるように思えます(もっとも、ここでは寺島氏の原発への姿勢は措く)。私たちの眼前には、多くの人々の意向に反したことどもが、余りにバカバカしい有り様を呈して粛々と進行しています。しかし真実をつかんだ多くの人々の思いと動きは必ずや歴史の大道を形成して、逆流を排除していくに違いありません。もちろんそれは自動的に起こることではないので、不条理に抗する怒りを結集していく効果的な闘いを今組織していかねばなりません。
2015年4月29日
2015年6月号
経済理論はどう現実を把握するか
理論は抽象性と歴史性を持ちます。どのような理論も抽象的であるが故に普遍的で汎用的です。理論の抽象度は様々であり、したがって具体的現実との乖離度も様々です。抽象度が高ければ、現実との乖離度も高く、その代り普遍性・汎用性の度合いも高くなり適用範囲が広くなります。理論を現実に適用する場合、抽象度に応じてまず適用範囲を見極め、次いで乖離を埋めるため、場合によってはより抽象度の低い理論を援用しつつ、具体的な現実分析を補うことになります。というか、むしろ具体的な現実分析が主体であって、抽象的理論は補助線として役立つということかもしれませんが…。
また社会現象においては歴史貫通的要素の上に特殊歴史的要素が重なっています。理論はそうした現実の重層的な歴史性とその現在の構造への反映とを分析し得なければなりません。対象の歴史的推移を追跡する際にもそれは前提とされます。
古典の豊饒性に注目することも必要です。古典が残っている理由は、まずその核心部分が現代にも通用する普遍性を持っているからであり、それは当該理論の抽象性における優位を示しています。しかしそれだけでなく、その時代との対峙が真摯で深いために、そうした姿勢とともに、現実へのアプローチの具体性が様々に参考になるということもあります。現代人からすれば、その時代から現代までの歴史的経緯を見渡せるという優位性をも生かして、この抽象性と具体性の両面から古典に学ぶことができます。多くの場合、初めから抽象的理論の形成を目指したというより、眼前の課題への取り組みを深めていくことを通じて、その洞察の鋭さが後の世にも通じる普遍的理論形成につながるところに、古典と呼びうるものが成立してきたと言えるでしょう。
よく知られているように、そもそもマルクスが後に壮大な経済理論を形成することになる初めのきっかけは、『ライン新聞』の編集者として「いわゆる物質的利害関係に口だしせざるをえないという困った破目におちい」り「木材窃盗および土地所有の分割」や「自由貿易と保護関税」などに関する経済問題に取り組まざるを得なくなったことでした(国民文庫『経済学批判』序言、14ページ)。法律を専攻して、実際には主に哲学や歴史を学んでいたマルクスにとって、「物質的利害関係」なるものへの関わりは「困った破目」と感じられたことでしょう。しかしそれこそが革命家として実践の根幹とならざるを得ないことを理解した彼は、逆に哲学や歴史学の中に「物質的利害関係」をその核心として含めることでそれらを根本的に作り変えるに至ります。今日生まれている労作の中にも、その問題意識の切実さ・深さによって現実把握力が研ぎ澄まされたものであれば、諸理論を革新し将来にわたって古典として受け継がれるものがあるでしょう。
友寄英隆氏の「マルクス、エンゲルスと人口問題(下)」の最後には、このテーマに取り組む問題意識が披瀝されています。「人口減少社会・超高齢化社会」が喧伝され、たとえばそれが消費税増税不可避論などに誘導されているような現状に対して、科学的社会主義の立場からの「人口問題」の解明が遅れていることを指摘して以下のように述べられます。
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筆者が本稿を思い立ったのも、直接には、今日の日本で「人口減少社会」などという、それ自体は現実に進行していることではあるが、きわめて現象的な状況認識が、ほとんど無批判に横行していることにたいして、科学的な経済学の立場から、なんらかの批判的検討が必要だと考えたからである。そのための準備作業として、マルクス、エンゲルスの「人口問題」についての立ち入った探究が必要になったのであった。 139ページ
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「人口問題」に限らず、新しく複雑な経済現象は常に生起しており、さしあたってはそれに対して「きわめて現象的な状況認識が、ほとんど無批判に横行している」という状況に必ずなります。マルクス経済学の立場から言うと、それに対する取り組み自体が遅れるか、逆に取り組んでも、ミイラ取りがミイラになって、無批判的な現象的認識に陥っていることを「斬新な理論展開」と勘違いするようなこともあり得ます。友寄氏は古典に立ち返ることで、そうした両翼の誤りに陥ることなく、現状に対する批判的本質的認識に達するための理論的基礎を据えようとしたのではないかと思われます。もちろん必ず古典に立ち返らねばならないということではなく、一つの有力な方法として採用されているのだと思います。
友寄氏によれば、マルクスの眼前では各地・各時期によって、人口増大と減少、労働力不足と過剰といった錯綜した現象が起こっていました。人間における自然的なものと社会的なものとの交点に人口問題は生起するのだから、マルサスのようにそれを自然現象に解消することを排し、さらに歴史段階に応じて(前近代社会と資本主義社会との対照において)マルクスは考察しました。その理論的核心は「資本主義的生産様式に固有な人口法則」としての「相対的過剰人口の累進的生産」の解明です。それを土台に現実の人口統計を丹念に分析して、マルクスは錯綜した諸現象の意味を解読していきました。
現代資本主義の分析においても、様々に生起する諸現象を直視しつつ、それに対して現象的説明に終わらせず、原理的本質的に解明することが必要です。人口問題でのキー概念としての「相対的過剰人口の法則」について友寄氏は以下のように規定しています。
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資本主義のもとでの「相対的過剰人口」は、累進的に形成されるという意味では、量的な規定性をもっているが、その前提になっているのは、生産諸力の発展に規定づけられた過剰人口であるという質的な規定性である。 135ページ
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したがって資本蓄積の急速な進行によって、産業予備軍が減少するような局面においても、「相対的過剰人口の法則」はその質的規定性においては貫徹されています。もちろん社会全体の総人口については様々な現象が起こりうるわけですが、それらも「資本蓄積によってたえず生産される『相対的過剰人口』の作用によって規定されて」(同前)いるのだから、「『人口問題』の研究は、資本蓄積の具体的な分析をすすめることと一体的におこなわなければならないので」す(136ページ)。
資本蓄積の具体的分析の前提として、資本主義の中での時代認識が挙げられます。マルクスの生きた産業資本主義の時代には総人口の過剰化が進みましたが(同前)、今日のように多国籍企業によるグローバリゼーションが進む時代には、グローバルな資本蓄積に伴って産業予備軍が形成され、先進資本主義諸国では人口減少や停滞が見られます(137・138ページ)。このように人口問題の現象形態は違っても、資本蓄積のあり方を見据えた「相対的過剰人口の法則」の視点から分析されねばなりません。そしてひとたび基本的視点を据えたならば、「歴史的な具体的な諸条件の分析を抜きにして、単純に人口法則を適用して一律に解明することはできない。現実の歴史的時代に規定された個々の社会の『混沌とした表象』としての人口現象を具体的に分析することが不可欠なので」す(137ページ)。
友寄氏は、「広義の経済学」の立場からの捉え直しも提起しています(138ページ)。「相対的過剰人口」は資本主義社会においては失業・貧困に帰結します。しかしその前提である生産力発展がもたらす「余剰人口」は、資本主義を止揚した未来社会においては「国民本位の経済発展と労働者・国民の生活と福祉の向上のために活用することも可能で」す(同前)。これ自身は現代資本主義分析を超えた課題ですが、資本主義そのものを相対化する視点があることによって資本主義認識がより批判的・本質的になり、変革の展望に結びつくという意味では重要だろうと思います。
私たちの眼前には、様々な社会現象や経済現象があり、その中には生活と労働に困難をもたらすものも多く、それを克服しようとする意志が働き、その意志の周囲には様々な問題意識が付随して、現実に立ち向かう姿勢を豊かにしてくれます。以上のとりとめのない叙述は、それらを支える理論的営為が実りをもたらすための留意点をぽつぽつと提出したものです。
蛇足ながら、物価現象は本来的には人口現象ほどに「混沌とした表象」とは思えないのですが、特に2013年4月4日からの日銀の異次元の金融緩和による「2%物価目標」設定以降は特に世間的にはまったく混沌としてきました。物価変動は様々な原因で起こるので、その結果としての物価上昇率だけを見て、その良し悪しを判断することは不可能です。したがって特定の物価上昇目標を設定すること自体が無意味です。昨今の原油安によって物価上昇が抑えられることで、日銀の物価目標達成が困難になると騒がれていますが、原油安による物価安定は日本経済にとって良いことであって、問題視するのは笑止千万です。「官製春闘」によって賃金が上がったと喧伝されていますが、実際には物価上昇にも追いつかない程度のものであり、実質賃金は下がり続けています。こんなときに2%物価上昇を政策目標とするのも馬鹿げたことです。
人々の生活を少しでも改善することで内需を拡大し、国民経済の再生産の困難を減らすことが今日の経済政策の目標でなければなりません。2%の物価上昇を政策目標にするのはまったく逆行しています。結局その本当の意図は異常な金融緩和による投機資金の提供と株価上昇だろうと思わざるを得ません。
それにしても「2%物価目標」なるものが大真面目に提起され問題にされているのは、物価変動に対する「混沌とした表象」が支配し、それを分析的に見て物価現象の本質を解明する視点がどこにも欠落しているためだと言わざるを得ません。ブルジョア経済学がこの点で無力なのは当然ですが、マルクス経済学の大勢がそれにふさわしい理論的解明をしているとも思えないのが大問題です(物価現象についての私見は「文化書房ホームページ」→「店主の雑文」→「物価下落をどう見るか」参照)。
物価とともに為替相場も重要な現象であり、生活とグローバル経済を結ぶものです。今宮謙二氏の「日本経済に打撃をあたえる円安―為替相場の検討を通じて―」(『前衛』6月号所収)は、現象論に留まらない理論的な現状分析として大いに学ぶべき論稿です。簡単に内容を紹介してから方法論的意義について若干触れたいと思います。
さすがに掲載されたのが学術誌ではないので、今宮論文では為替相場変動の原因について、価値論や貨幣論まで下向していませんが、現状分析の論文としては比較的詳しく原理的に説明しています。その中長期的要因として、景気変動、金融機関の動向、経済構造の動向を挙げています。短期的要因としては、社会的政治的混乱、政府・中銀の金融政策の変更、投機マネーの動きを挙げています。
次いで為替相場が果たす役割として、投機対象、通貨安競争などによる市場争奪競争の手段、多国籍企業や国際的大金融機関の新興国や途上国に対する収奪手段、人々の暮らしや中小企業など実体経済への大きな影響、といったものを指摘しています。
重要なのは為替相場不安定の背景として小手先の問題ではなく、グローバル資本主義の危機を指摘していることです。それが新自由主義の支配下では克服されないばかりか、人間社会の危機にまで至っていると喝破しています。
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このような新自由主義のもとで全面的に展開したのが投機資本主義であり、世界的危機はたんなる経済危機ではない。それは人権、生存権、労働権、平和、民主主義も守れない人間社会そのものの危機であり、健全なバランスのとれた経済構造が失われはじめるとともに投機資本主義の限界も示している。為替相場不安定=通貨安競争はこの背景のもとで生じているのである。 86ページ
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以上で為替相場変動の基本問題を押さえた上で、いよいよ円安の真の原因に迫りますが、それは通常思われているようなアベノミクス効果ではありません。アベノミクスは円安を加速させただけであり、円安傾向となったのは投機マネーを中心とする国際的資金の流れが変化したためです。その客観的要因としては、欧米経済など海外経済情勢の変化と日本経済の構造変化、特に貿易収支の赤字転落が挙げられます。
円安によって日本の経済構造は歪みを拡大しています。今宮氏は「人間社会の経済構造は本来バランスをもって組織化されなければ存在しない」(88ページ)という歴史貫通的視点に準拠して、「労働・資本・技術の三要素のバランスある社会」(同前)が必要とされ、投機資本主義の支配する社会でのバランス崩壊を問題とします。このバランス崩壊の典型がアベノミクス下の日本経済であり、円安が大企業と中小企業・人々の生活との格差拡大をもたらしています。
今後、海外生産による産業空洞化や国際競争力の相対的弱化による貿易収支赤字が続いて経済構造の弱体化が進行するならば、円や日本国債への信頼が低下する事態ともなりかねません。そうした状況を放置し、アベノミクスは異常な金融緩和・株価浮揚策によって投機資本の利益を図り、円安を利用した原発・武器輸出など対米従属の軍事大国化による経済再生を狙っています。この亡国の政策は以下のように告発されます。
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経済構造のゆがみを拡大し、格差を広げ、投機資本の利益を守り、国民を苦しめ、「平和国家」から「軍事大国」へ変えようとする安倍政権が続けば、日本社会は破滅するであろう。この道を断固として阻止し、国民生活や中小企業を重視するバランスある社会を目指すべきである。そのためにもルールある民主的な社会づくりが必要であろう。
93ページ
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今宮氏は1960年代に為替ディーラーとして働き、その際に「決断力が重要」、「事実をよくつかみその本質をとらえる」、「相場には経済より政治動向が重要」という教訓を得ています。自身の研究テーマの性格とそれに対する考え方の基本については、「国際金融分野は国民の目からよく見えないために、資本主義の自由市場メカニズムの名のもとで寄生性・腐敗性がもっともよくあらわれるところである。国民が経済の主人公となり、国民生活を豊かにする方向が同時に国際金融のゆがみを直す最大の道である」(『国際金融の歴史』あとがき、新日本新書、1992年)と述べています。今回の論文でもそうした経験が生かされ、基本的視点が貫徹されているように思われます。
「現状分析と理論」について、「現象論的把握を超えて本質に迫る」という観点からこの論文を見ると、まずは筆者が現象そのものに精通し詳細に把握しているであろうという点が重要です。その上で局部的表面的認識を超えるために当該問題を原理的に解明し、さらにその背景にある現代資本主義認識の領域まで考察を深めたことで、為替相場不安定性の本質的意味が明らかになりました。しかもそれが人民の立場・社会進歩の方向においてこそ解決されうることが言明されていることも重要です。また現状の歪みを検出し、新たな展望を見出していく上で、その基準としての歴史貫通的経済認識が示されていることも見逃せません。新たな現象を把握するためには、それを生み出す現代資本主義の現実に内在する他ありませんが、そこに埋没しないためにはその現実を相対化する視点が必要です。
ちなみに歴史貫通的経済認識は、商品経済や資本主義経済などの歴史的性格を理解していて初めて成立する認識です。ブルジョア経済学は商品経済の表象をもって経済一般として誤認し、資本主義経済もその延長線上に認識しているため、経済認識における歴史貫通的なもの・特殊商品経済的なもの・特殊資本主義的なものを区別することが不可能であり、資本主義を相対化する視点を持ちえません。
これに関連して、「『資本論』が商品からはじまることから、マルクス経済学の出発点ないし下向の限界は商品でなくてはならず、それ以上に、たとえば労働、財貨等々に下向すると、ブルジョア経済学のように、生産関係の歴史的性格をみのがすことになる、とする」「通念」に対する以下の反論が参考になります。
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ブルジョア経済学が生産関係の歴史的性格を看過するのは、労働・財貨にまで下向しそこから出発するからではなく、たとえば財貨と商品を、労働生産物とその商品形態を区別しないことから結果するのである。もともと下向とは、混沌たる表象から諸範疇を分離・識別し、それらの存立の社会的条件を確定することに他ならない。だから、ブルジョア経済学の弁護論的性格は、財貨にまで下向せずに商品から出発すること、つまり財貨と商品とをその差別と同一の諸側面において規定しえないことから発するのである。
大島雄一『価格と資本の理論―現代マルクス経済学の一展開―』増補版、未来社、1974
29ページ
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閑話休題。人口減少とか異常な円安など、人々にとって不利になるような困った現象とかデリヴァティヴのような複雑難解な金融商品等々、巻き起こる様々な現象を避けていては現代資本主義の認識はできませんし、それらを無理やり従来の理論的枠組みにはめ込んで「解釈」して済ますことも出来ません。そこで現象を詳細にありのままに捉えてなおかつ本質をえぐるような新たな理論的認識にどう到達するのかが問われます。私としては、到底そのような課題に応えられませんが、問題認識の端緒にでも食いつきたいものだと思っています。
安倍政権の基本性格とアベノソーシャル
安倍内閣は2014年7月1日、集団的自衛権行使容認を閣議決定し、2015年の通常国会を大幅に会期延長してでも戦争立法を成立させる構えです。私たちはこのとんでもないまさに売られた喧嘩を買わねばならなくなっています。この闘いの位置づけと展望などについて、渡辺治氏の発言が注目されます(「戦争法案をどう阻止するか」「米国の意受け憲法破壊、『大国』狙う 列島揺るがす国民的共同を急速に」:「しんぶん赤旗」5月17日付、「『戦後』日本の岐路で何をなすべきか」:『世界』6月号所収)。
戦争立法は明文改憲の前哨戦という位置づけではなく、9条の規範的意義を解体する解釈・立法による改憲そのものだ、と先の「赤旗」記事は警告しています。『世界』論文は、この問題にかかわる戦後政治史を簡潔に概観しながら、安倍政権の性格を規定し、その矛盾と弱点、反対闘争の主体と展望などを的確にまとめており、秀逸な論稿です。後者が先に書かれ、前者は情勢の進展に応じた応用編として語られています。ともに大いに読まれ活用されるべきでしょう。
渡辺氏は安倍政権の性格を実に的確に把握しています。通常は時代錯誤的・右翼的性格がもっぱら注目されますが、渡辺氏は新自由主義構造改革を強行するという側面を正当に強調し、米日支配層の支持の下、この政権において両面がどう統一されているかを解明しています。グローバル競争大国化・軍事大国化を目指す支配層から見れば、安倍首相による歴史修正・改竄への危惧を抱きつつも、彼のように「戦後」を否定する野蛮な情熱の持ち主こそが自分たちの宿願を達成する切り札だというのです(83ページ)。
渡辺氏は戦後政治史を振り返る中で、これまで3回の岐路における客観情勢と闘争主体のあり方をそれぞれに特徴づけ、それらとの対比で「四度目の、そして最大の岐路」である現在の闘いの展望を語っています。
安倍政権の弱点について、渡辺氏に従いつつ私なりにまとめると、一方でその右翼的「戦後」否定が保守的な大衆の懸念を呼んでいることであり、他方で新自由主義構造改革の犠牲となってきた「地域」の離反が生まれていることです。これは政権の性格の両面に対応しています。
安保闘争時に比べて不利な点が目立つとはいえ、上記の弱点とも関連して、「第4の岐路」における「新たな可能性と経験」を渡辺氏は以下のように指摘しています。
1)保守層との共同の可能性、2)地域の政権離反、3)市民運動の力量の増大、4)女性の運動参加の高まり、5)中高年の参加、6)韓国などアジアの市民運動との連帯
その上で安倍政権に反対する三つの立場があることを指摘しています。
1)安保・自衛隊反対で「武力によらない平和」を求める立場、2)安保・自衛隊は肯定するが、自衛隊が米国に加担して戦争するような国づくりには反対する立場、3)立憲主義を蹂躙するやり方に反対する立場
ここで相互の違いを認め合うことは必要ですが、過度に議論を抑制することは運動を強めることにはならない、と渡辺氏は指摘しています。合わせて辺野古基地反対にも取り組むべきであり、そこでも立場の違いを乗り越えた共同が必要ですが、「基地問題の解決のためには、日米安保への批判を独自に強めていくことが不可欠」(90ページ)とも主張しています。
実際、戦争立法の問題を話していく際にも、憲法と安保・自衛隊の評価を含めて、平和とは何か、それを守るものは何か、軍事力はどういう役割を果たしているか、等々について反省していくことが不可欠です。そうした基本的認識をめぐる議論が大切です。国会論戦は戦争法案に即した内容にならざるを得ませんが、「国民的議論」においてはむしろそうした(敢えて言うと)「些細な」ことよりも、戦争と平和、憲法と政治情勢などをめぐる大筋こそが問題とされるべきでしょう。そこではたとえば安保・自衛隊への評価の違いも大いに議論する他はなく、その上で違いを措いて一致点を追求することになります。そうした議論の深まりは今後に生きてきて、情勢の様々な変化の中でも平和に向かう世論形成に資するでしょうし、今まさに現在の闘いの課題としては、戦争法案に反対する「空気」を世論の中に打ち立てていくことが細かい議論を差し置いても必要です。そこでは平和についての基本的観点が重要なのです。国会内における巨大与党の強権発動を規制する最大の力は圧倒的な世論の包囲網であることは明白です。「列島騒然」の情勢をつくり出すために津々浦々で平和の議論を沸騰させることが重要です。
安保・自衛隊によって、憲法による「戦後」は根本的に改変され未完です。安倍政権の「戦後」清算に対抗して、未完の「戦後」実現への第一歩が今回の闘いだというのが渡辺論文の結語です。それは立場の違いを前提にした共同闘争の中でも、後から振り返れば「客観的には貫かれていた」と言えるであろう、未来からの視点だと思います。もちろんそれは立場の違う共闘者に押し付けるものではありません。しかし「武力によらない平和」を求める立場を自覚しつつ積極的に議論し、併せて広範な人々とともに眼前の敵、安倍政権に対抗するのがそうした未来を切り開く第一歩になる、という心構えを持つことは重要です。
ところで以下では、戦争立法阻止という一点から離れて、安倍政権とそれを支える社会状況・社会意識はどういうものかという問題に移ります。政権発足以来、個々の重要政策ではどれをとってみても世論の支持がないにもかかわらず、内閣支持率は高水準を維持しているというパラドクスが続いています。
もちろんマスコミの役割が大きいことは明らかですが、それはここでは措きます。社会状況・社会意識はどうなっているのか。たとえば、一票の格差の問題に政権がまともに取り組まないことについて、御厨貴氏は「安倍政権の特徴は世論を正しく分析しているところです。一票の格差を解消しようと頑張っても世論の喝采が期待できない現状では、本格的に手をつけなくて当然でしょう」として、世間の「緩い空気」について以下のように述べます。あの右翼政権の存続根拠について、全体主義的・軍事的・右翼的・マッチョ的等々ではなく、「緩い空気」を持ち出してくるのが意外であり卓見でもあります。
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もともとこの問題に世論の関心は低かった。一人一票が実現しても、生活がよくなるわけではない。景気が良くなるわけでもない。まともな議員が出るといわれても現実味はない。司法が、「違憲状態」と指摘しても、なんとなく続いていて、みんなが不都合を感じていなければ、それでいいではないかと。
これって一票の格差に限らず、安倍内閣に漂うムードかもしれない。特定秘密保護法にしても集団的自衛権の解釈変更にしても、実は世の中が大きく変わる問題なんだが、今のところ大して変わってないからいいんじゃない、みたいな空気がある。緩いんです。安倍首相はそれをうまく使っている。
「朝日」3月20日付
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もちろん「朝日」3月29日付社説のように、格差社会や中国脅威論、ISによる人質事件などによる焦燥感・危機意識から「国ぐるみ一丸」気分が広がり、個人の権利や自由より国家や集団の都合が優先される社会を引き寄せていないか、という全体主義の台頭の指摘もあります。
こうした「緩い空気」と全体主義を、生活と労働の日常意識の中に「出る杭は打たれ、空気は読まされる」と看取した長谷川ふみという19歳の学生の論説が秀逸です(『世界』6月号、「読者談話室」)。それは鋭敏な感性とまっとうな見識で、国家のみならず資本の問題も含めて、個人を押しつぶし、変革を許さないような社会のあり方(とそこで惰性に流され我慢する人々の意識)を告発しています。
マクドナルド店員が時給1500円を求めてデモを起こしたことに対して、その労働の価値を否定したり、賃上げ=コスト高による商品価格の上昇を批判したりする友人たちがおり、憲法25条は企業による保障を想定していない、と冷笑する教授がいる、という状況を長谷川氏は危惧しています。そしてそれらの言説がデモを否定する根拠にはなっておらず、「そういう面倒なことはしない」と言っているに過ぎない、と鋭く見抜いて批判します。ちなみにこの友人たちの意見は、搾取強化によって内需不振を招き長期不況に陥った日本資本主義によって規定され、またそれを促進するイデオロギーであり、資本の利潤追求(それが「全体」の利益に擬せられる)を無批判に前提し、労働者諸個人の人権を軽視しています。
さらには、労資関係そのものについて、「雇っていただいている」という意識に陥って、交渉して闘おうとは考えないような諦念を摘出しています。また「数倍の量の義務を果たさなければ恐ろしくて権利など主張できないような」社会の目の中で、我慢が美徳という価値観に染まって、仲間の権利主張の足を引っ張る労働者がいることを指摘しています。そんな中で弱々しくも声を上げた人々に対して社会が冷淡であることを嘆き、次のように指摘します。
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渦中にいるひとは日常に追われて愚痴をこぼしながらこき使われ、渦中にいないひとは小難しい理論を用いて人びとを納得させようとする。
日本国憲法七〇年になろうというときに、本来高潔であるはずの条文が、弱者を隘路に迷い込ませるまやかしのために引用されたことが、なんとも歯がゆい。
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こうして見ると、御厨氏の指摘した「緩い空気」というのを、その語感から来る「余裕のあるのんびりした状況」としてではなく、「追い詰められて余裕がなく、よくものを考えられなくて、とりあえず身に迫るものがないことについては無視するか許容し、他人が追い詰められても声を上げて連帯はしないような状況」と捉えることができるのかもしれません。波風の立たない「緩い空気」は、むしろ厳しい状況の中で共感・連帯が成立しにくいために状況を打開できず、その結果どうなろうとも我慢する他ないと個人個人が諦めて、これ以上は考えたくないと思っている「空気」ではないかと考えられます。これがグローバル競争の強調や中国脅威論などの排外主義・歪んだナショナリズムと結びつくと、個人の権利や民主主義を軽視する全体主義につながります。それは先の「友人たち」に見られる不況下のイデオロギーの中で培養され、「現実主義」の学者のシニカルな無批判的「理論」によって補強されます。「渦中」に飛び込んで行って困難な人々を救い出す理論的営為が求められ、日本国憲法という貴重な用具があるにもかかわらず、どちらにも逆行している研究者への厳しくも正当な批判がここにはあります。
長期不況下の閉塞感の中で以上のような「緩い空気」をまとった日常意識的なソフトな全体主義が、必ずしも突出した右翼イデオロギーの形はとらずに存在しているのが、アベノソーシャル(安倍的社会)の主要な意識形態なのかもしれません。ネット右翼的な言説は目立つし、確かに安倍政権の突撃支援部隊の役割を果たしていますが、そこだけを見ていると現実を見損なうように思います。安倍政権への支持を維持する広範な社会的土台とそこでの意識形成を日常性の中に看取する必要があります。その克服は生活と労働の現場からの粘り強い民主主義の闘いから始まるでしょう。
以上はアベノソーシャルについてやや静的な見方です。しかし閉塞感の蔓延は体制にとっても危険であり、ガス抜きが必要です。そこで静的なものを補完する切り札として、ネット右翼のような世間的にマイナーなものではなく、キャッチ―でポピュラーな橋下劇場による「現状打破の攻撃」が挙げられます。「人々が抱いている怒りや猜疑心を刺激し、ネガティブな感情に火をつけ」る手法を駆使して「民主主義は感情統治」とうそぶく橋下劇場は、当人の政界引退の言明にもかかわらず、決して終わってはいません。アベノソーシャルの補完物として不可欠だから、これからも性懲りもなくマスコミの劣化に乗じて登場し続けるでしょう。想田和弘氏の以下の警告はアベノソーシャルとの闘いにおいても生きてきます。
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「橋下的なるもの」に対して、「恐怖政治」「民主主義の蹂躙」といった紋切り型の言葉では、対抗できない。回り道のようでも、自分の言葉を紡ぎ、デモクラシーについての本質的な理解を深める必要があるのではないでしょうか。
「朝日」5月23日付
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アベノソーシャルの広範な日常的で静的な形態であれ、その見かけ上対照的な補完物として、日常を破るような激情解放の橋下劇場であれ、その温床は長期不況下に蔓延する生活苦・労働苦や閉塞感と展望喪失であり、その上に「民主主義=多数決」という類の「民主主義に対する浅い理解が日本人に広がっている」(同前)ところに危険な状況があります。アベノソーシャルや橋下劇場の天敵は民主主義についての本質的理解であり、想田氏はそれを次のように説明しています。
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本来、自立した個人が利害や価値観の違いを認めつつ、時間をかけて、それぞれが妥協をしながら合意形成を図ることこそが民主主義です。最終的には仕方なく多数決になりますが、大事なのは勝ち負けでない。少数派の権利が守られることで「敗者」にしないことを目指すものでしょう。 同前
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これはある意味で民主主義の形式的側面に関する指摘ですが、その内実として大切なのは、上記の長谷川氏が看取しているように、日常の生活と労働の中で諸個人が主人公となれるような改善を諦めない共感と連帯(草の根民主主義)ではないかと思います。
戦争立法阻止のため「列島騒然」の情勢をつくり出さねばなりません。小泉劇場・橋下劇場を逆方向からやるのが効果的か、とも思ったのですが、やはり民主主義の本格的理解に立った正攻法で行くべきでしょう。大阪の若者たちが、「大阪都構想」の住民投票に際して、維新の党の物量作戦・マスコミなどでの大量宣伝に抗して、草の根からの地道な対話を積み重ねて僅差の勝利に貢献しました。彼らはこれに確信を深めたと言われていますが、安倍政権の暴走阻止にも教訓的です。
2015年5月31日
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