月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2018年1月号〜6月号)

                                                                                                                                                                                   


2018年1月号

          グローバル資本の本性の顕現

 日本の大企業が巨額の内部留保を抱えながら、賃上げや設備投資をせず、金融化が進行する中で本業をおろそかにして資金運用している――それが日本経済停滞の最大の問題となっています。グローバル資本の大本山たる米国も同様というか、むしろ「手本」を示しているというべきでしょう。山脇友宏氏の「トランプ政権と多国籍企業 『内向き資本主義』と新型グローバル統合体」(下)によれば、米国資産運用会社のビル・グロウCEOは「米国はいま、空前の規模の現金をかかえている。ところが経営者たちは、その資金を使って、自社株を買うだけで、工場、設備そしてイノベーションへの投資が決定的に不足している」(63ページ)と語っています。山脇氏はこうした「内向き資本主義の進行」について次のようにまとめています。

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 20世紀末の90年代から、デジタル/インターネットを基盤に拡張一途だった多国籍企業グローバル化の時代は終わり、エスタブリッシュメントの巨大企業(国際資本)は、国際企業間競争を生き抜くべく、新しい技術へ対応=企業イノベーションと事業の高収益部門への絞り込みによるビジネス領域の再編成(=プラットフォームの構築)をはかるべく、21世紀に入って戦略転換をはかってきた。伝統ある多国籍企業は、従来の在外子会社の連合体を超えて、米本国拠点の新型グローバル統合体へと進化させ、主にシリコンバレー企業の新技術、新経営手法を取り込みつつ、寡占化と収益力の拡大をはかってきた。対外投資拡大よりも、国内市場で弱い部分を捨て去り、国内ライバル企業間のM&Aを進め、設備投資よりも、新技術企業の買収や出資と自社株買いを推進し、価格支配権を強固にすべく寡占化を進め収益性をたかめてきた(内向き資本主義の進行)。   68ページ

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 寡占化とか価格支配権という言葉を目にすると、かつて1970年代あたりに、独占資本の支配による停滞傾向と危機が盛んに言われていたことが想起されます。当時のそうしたスタグフレーションへのタカ派的対応として新自由主義が登場し支配的になり、労働運動を弾圧し労働者階級の抵抗を抑え込みながら、グローバル競争を展開することで資本の活力を謳歌したように見えました。確か80年代あたりに「逆流する資本主義」という議論が登場し、独占から自由競争への逆転が生じている、という見方も出てきました。さらに1990年代以降はソ連・東欧社会主義体制の崩壊もあいまって、「停滞する社会主義」の対極に、利潤追求と自由競争をインセンティヴとする資本主義の優位が確定したかのように言われるようにもなりました。

 しかし山脇氏の観察が正しいなら、資本主義=新自由主義のそのような勝利の果てに到達したのは次の事態です。それは、搾取強化ならびに寡占化・価格支配権に基づいて過大な収益を確保したものの、資本間競争のリスクに備えて内部留保を死蔵することで経済成長の足かせとなり、国民経済・世界経済の発展を阻害し、当然のことながら、労働者階級を始めとする人民の生活向上に逆行しています。「シリコンバレー企業の新技術、新経営手法を取り込」んだ最先端の生産力が正常な経済発展を実現しないというのは、資本主義的生産関係が桎梏となっていることを示しています。

 しかも内部留保が設備投資などに活用されないというだけでなく、金融ビジネスに乗り出し(65ページ)、現代資本主義のカジノ化を進めている、という点に、1970年代などと次元の違う金融化の進展があり、そこに新たな寄生性・腐朽性の深化を見ることができます。そのような中で、2008年の金融危機以降の金融規制強化の流れを逆転して、トランプ政権は再緩和を強行しようとしています。「反エスタブリッシュメント」「反ウォール街」を掲げて労働者大衆の期待を受けて登場したこの政権は、誕生早々にウォール街丸抱えの閣僚人事を行なっており、ゴールドマン・サックスの前会長・CEOのジム・ポールソン氏から「いまやトランプ大統領はより節度がありプロビジネスの人々に囲まれている」(71ページ)と評価されています。

 さらに、核ミサイルを背景にトランプは金正恩とガキの喧嘩を演じていて、偶発的な核戦争が起きる危険性さえあります。そこで「米国産軍複合体は、対北朝鮮戦争瀬戸際状況を、ビジネスチャンスととらえており、日本や韓国にも新型ミサイル防衛システムなどの売り込みも拡大してい」ます(72ページ)。日本の軍需産業も同様であろうし、タカ派で対米従属の安倍政権はトランプの売り込みに気前よく応じています。

 トランプと安倍という米日それぞれ最悪の政権が押し進める新自由主義は、必ずしも現代資本主義の唯一の型ではないでしょう。しかし搾取強化と寡占化による経済の停滞とカジノ化、そして軍事化というのはグローバル資本の帝国主義的な世界支配から必然的に生じるものであり、型の違いがあるとすれば、そうした資本の本性への規制をどう行なうか、という点に求められるほかありません。つまり根源的には、高度に発展した生産力を資本主義的生産関係はもはや制御できないのであり、客観的には人類史はその止揚を求めているのです。少なくとも日本で見る限り、世間的には社会主義は問題外扱いされているのですが、問題解決の大道はそこにこそあり、私たちの生活の危機と政治的危機を打開する将来の展望に直結していることを示すことが必要です。

自由時間の拡張を基調とする「未来社会論」は、まずはその遠大な構想にロマンをかきたてるものがありますが、それだけなら今の現実的影響力としてはいかがなものか、となります。しかしそれは現代的問題として直接的には「働き方」に悩む労働者の意識にアプローチする社会主義論として意味があります。その他に、資本主義経済の停滞状況とそこから発する腐敗と反動化、戦争の危機、生活苦・労働苦をトータルに捉えて、根源的オルタナティヴとしての社会主義を対置していくことも求められています。当面する「資本主義の枠内での変革」は、資本の本性への規制を本質とするものであり、その延長線上には社会主義があります。社会主義のマイナスイメージが圧倒する中で、新自由主義の非人道性は資本主義そのものから発することを地道に示して、社会主義の意義を明らかにしていくべきでしょう。

 

 

          再生産表式の捉え方

 川上則道氏の「再生産表式は商品資本の循環とどうかかわるのか 『資本論』第二部を理解するポイントには、年間総生産物9000の構成として次の表式が掲げられています(138ページ)。

   T(生産諸手段)60004000c+1000v1000

   U(生活諸手段)30002000c+ 500v 500

 学生時代に経済原論の講義で、左辺が右辺のように構成されていると見るべきで、右辺から左辺がつくられるように見てはならない、という意味のことを聴いたように思います。今回の川上論文によって、それが重要な意味を持っていることが初めて理解できました。長くなりますが、再生産表式の起点や期間に関して、商品資本循環に基づいて正しく捉えるとどうなるか、について説明した部分を引用します(同前)。

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 循環の出発点(始点)は、年初に用意された総生産資本ではなく1年間に供給される年間総商品生産物(=総商品資本)です。すなわち、年間総生産物9000が循環の出発点になります。この年間総生産物の構成は

 T(生産諸手段)60004000c+1000v1000

 U(生活諸手段)30002000c+ 500v 500

です。この年間総生産物の各構成部分が相互に交換されて(=流通して)、再生産を行う条件を整わせつつ、全体として同じその年度の総商品生産物として実現する(=生産される)ことになります。これらの生産や流通を担うのが個別諸資本の総体です。出発点は年間総生産物であり終結点も年間総生産物なのです

 ですから、総資本の循環の出発時期は年初にあるわけではありません。具体的に言えば、年間総商品生産物とは1月から12月までに生産された個々の商品生産物のすべてです。生産物の交換は生産物が生産されてから始まりますから、循環の出発時期はその1年間の全期間ということになります。

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 これに対して「年初に準備された総生産資本が時間の流れにそって循環して、総生産物を生産し、年末に次年度の総生産資本が準備されるというような誤解が見受けられます」(139ページ)。そうすると、総資本が年1回転で年末に一斉に流通的取引が行われる、というような極めて不自然な想定を再生産表式がしている、という解釈になります。確か高名な研究者の著書でそのような叙述を見かけたように思います。しかし川上氏の議論に従うならば、それは生産資本循環の視点による解釈であり、再生産表式が商品資本循環によって捉えられなければならないことへの無理解による、ということになります。

 論文では、『資本論』第2部第1篇の資本循環論に基づいて、貨幣資本循環と生産資本循環とに対する商品資本循環の特殊性から、それが社会的総資本の循環の把握に適していることが説明されます。さらに、「社会的総商品資本の循環」と「個別資本の商品資本の循環」との大きな相違点が指摘されていることが重要です。後者は時間の流れに沿って行なわれますが、前者は、そうした別々の時点で行なわれた個別諸資本の形態転化の総集計を循環範式にまとめて把握するものです。「したがって、社会的総商品資本の循環における形態転化は、時間の流れにそって、順次、行われるのではなく、対象とした一定の期間(たとえば1年間)において、その社会のすべての個別資本による形態転化として行われます」(137ページ)。こうした循環範式と時間に対する把握によって、上記のように商品資本循環に基づいて再生産表式を捉えることが可能となります。同時に、不自然な解釈がしばしばみられるのは、生産資本循環の視点を誤って適用して、社会的総資本の循環を、個別資本の循環のように時間の流れに沿って順次行われるように理解するのが原因となっていることが分かります。

 以上のように商品資本循環に基づいて再生産表式を把握することは、現実経済の分析への適用にとって次のように重要な意義を持ちます。

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 年間総生産物の循環を捉えたものとして再生産表式を正しく理解すれば、その年間総生産物の額(価値)は個別諸資本の年間総生産物の総合計額として単純に集計できます。年間総生産物の素材構成、価値構成も統計的に明らかにでき、再生産表式を現実経済の統計的分析へ適用する場合に困難は生じません。ところが、再生産表式の前提が総生産資本年1回転であるとすると、現実経済の総生産資本は年1回転ではないのですから、再生産表式を理論的な道具として、現実経済を統計的に分析することはほぼ無理になります。

 現実にある社会的総資本ではなく、架空の社会的総資本の数値は集計不可能だからです。再生産表式を総生産資本の循環把握と誤解することは再生産表式の意義を大きく引き下げることになるわけです。         141ページ

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 ここからは、一方に現実経済分析への再生産表式の積極的適用に対する楽観的志向を見て取ることができ、他方に再生産表式に対する誤解がそれを妨げることに対する抗議を看取することができます。生産資本循環の視点によって誤解された再生産表式が、年1回の資本回転とか、期末にいっせい取引というような想定をすることについて、川上氏は誤った理論的抽象として次のように批判しています。

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 現実認識への接近方法としては、現実のある面を捨象するとか、変化する現実をある一点に固定するとかの想定(仮定)を設けることはしばしば行われます。しかし、認識対象とする現実が取り得ない想定を設けるのは現実離れそのものです。   140ページ

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 このように再生産表式の方法論的誤認に基づく誤りを川上氏が厳しく批判するのは、その積極的適用についての立場を理論的に確立しているためだと思われます。再生産表式については、現実的適用への消極的見解が多くあり、たとえばその極端な主張の例として、宇野弘蔵と見田石介という対立する立場の両巨匠によるそれぞれなりの議論があります。それらに対して山田盛太郎を継承する立場は再生産表式の現実分析への意義を積極的に認めるのですが、その中にも、『資本論』体系内における再生産表式の抽象性を根拠にして、現実的適用への消極的見解が多くあり、それらがかつての標準的教科書に掲載されていました。そういう教科書の記述に対して、川上氏は『計量分析・現代日本の再生産構造――理論と実証――』(大月書店、1991年)において果敢な批判を展開しています。またも長い引用になって恐縮ですが紹介します。

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 1に、マルクスの再生産表式は、表式の仮設的な数量を特定の資本主義の計量された数量におきかえること(これは、原理的・技術的に可能である)によって、いわば直接無媒介的に、その特定の資本主義の構造分析に適用できるのである。この適用は、再生産表式が特定の資本主義の構造を反映したものでなく、社会的総資本一般の再生産構造をあつかった抽象的なものだからこそ可能となる。この意味では、再生産表式が抽象的性格をもつから現実に適用できないのではなく、逆に適用できるわけである。もし、マルクスの表式そのものに原理的な適用可能性がないのなら、それにいわゆる媒介項をいくら加えても、適用可能性が出てくるはずがない。ある媒介項を加えたら突然適用可能になるのだろうか。ただし、適用が原理的に可能であることは、誤った適用を、また正しい適用から誤った結論を引き出すことを排除するものではない。

 第2に、したがって再生産表式を特定の資本主義経済の分析に適用するのに、いわゆる媒介項は必ずしも必要ではない。しかし、より具体的な分析を目的としての適用には、分析対象と表式との媒介項を表式そのものに組み込む必要がある。つまり、再生産表式をより具体的な表式に発展させる必要があるわけである。    102ページ

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 おそらく初出論文「再生産表式と計量分析」(『経済』19774月号所収)でこの叙述を読んだとき、教科書的説明に慣れていた私は鮮烈な印象を受けました。特定の資本主義の構造分析に直接無媒介的に適用できる、とか、理論は抽象的だから現実に適用できないのではなく、逆に適用できる、という断言は特にそうです。理論の抽象度が深いことは現実への適用を妨げるのではなく、その抽象度に対する自覚があり、また様々な抽象度の理論を使い分けることができるならば、媒介項を適宜補うことを通じて、現実への適用は自在にできる、と考えるべきなのでしょう。

 そこで、再生産表式における資本循環範式を見誤ると、まったく現実離れした抽象に陥る、という今回の川上論文の指摘は、現実分析という視点から理論的抽象のあり方を考えるうえで大切な問題提起となっています。問題は抽象度ではなく、理論の性格そのものへの正確な理解にある、ということでしょうか。

 抽象度の異なる諸理論を積み上げることで重層的な経済理論の体系が形成されます。そのもっとも典型的な例が『資本論』あるいは「経済学批判プラン」におけるマルクスの理論体系です。今日のマルクス経済学の理論体系としては、基本的にそれに従うものだけでなく、全く独立の体系を組み立てるものもあります。この点で興味深い考察として、「労働量計算」のあり方と経済理論の体系を論じている佐藤努氏の「労働量計算と『資本論』の体系」(政治経済研究所編『政経研究』No.109201712月、所収)を挙げることができます。

 佐藤氏によれば、労働価値論の立場から労働量計算を扱った、置塩信雄・高須賀義博・長島誠一各氏のうち、置塩・高須賀両氏は『資本論』体系とは独立したそれぞれ独自の理論体系を前提しているのに対して、長島氏は『資本論』を踏まえながらもさらなる「上向」を加えています。佐藤氏は置塩・高須賀両氏の体系へのコメントは控えつつ、長島氏については『資本論』体系における労働量計算の位置づけが間違っていると批判し、以下のような結論を述べています。

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 長島氏の指摘するように、「投下労働による価値の規定は、生産手段も入れた労働過程として与えたほうが正確である」。(ただし、ここで「労働過程」とされる「生産の構造(投入と算出)」は、『資本論』第2部第3篇に属す)。しかしそうであるからといって、「正確」な価値規定を第1部第1章で与えなければならないということにはならない。『資本論』においても、第1部第1章で抽象的に価値規定をあたえたうえで、第5章において価値形成過程としてより具体的に価値規定をあたえているのである。したがって、労働量計算を、価値の「正確」な、すなわち定量的でより具体的な規定として取り上げるときに、第1部第1章で取り上げなければならないということにはならない。『資本論』の体系を前提するならば、労働量計算の基礎となる投入・産出関係をあきらかにすることを課題とする第2部第3篇の論理次元において労働量生産を取り上げるのが正しい。

 価値の量的規定にそくしていうならば、価値の量的規定は『資本論』第1部第1編第1章で最も抽象的にあきらかにされ、第1部第3篇第5章でより具体化され、第2部第3篇の論理次元で労働量計算としてさらに定量的に具体化され、あきらかにされるのである。労働量計算は『資本論』第2部第3篇の論理次元に位置づけられるのである。そしてこれによって、『資本論』の体系は価値量について定量的な規定をもつことになるのである。

       71ページ

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 ちなみに『資本論』第2部第3篇とは再生産表式が初めて登場する箇所です(第3部第7篇に『資本論』体系の総括として再登場する)。佐藤氏はこのように『資本論』体系を前提にして、価値の量的規定に関する理論の重層的組立を提起しています。ただし、置塩・高須賀両氏それぞれの独自の体系に対する評価はこの論文の主題としては対象外です。マルクス経済学において『資本論』は長らく自明の前提であり、それ故、宇野理論のように公然と他の体系性を提起するとそのこと自体がかつては異端として論争になる状況でした。しかし今日では、様々な研究者が『資本論』とは違った理論体系を提起し、それぞれの教科書を作っている場合もあります。それらが『資本論』体系との異同をどの程度意識しているかはわかりませんが、『資本論』体系とそれ以外の体系とを比較することで、『資本論』体系の独自の意義が明らかになり、今日の経済原論として何が最も有効なのかも次第に明らかになっていくのではないでしょうか。

 佐藤論文を見ると、『資本論』体系の理論的重層性は各論の考察にも有効であるように思えます。置塩・高須賀両氏が、『資本論』とはまったく異なるそれぞれの体系の中に労働量計算を位置づけていることから、佐藤氏は「労働量計算は『資本論』とは異質であり整合的でないという印象が生じ、数理派以外のなかに、労働量計算を取り上げることを回避する傾向が生じているように思われる」(72ページ)と憂慮しています。ここで数理派とはさしあたっては置塩・高須賀両氏を指し、両氏以外でも(意識的にか無意識的にか)おおむね独自の体系を持っており、数理派以外とは『資本論』体系に準拠する研究者をおおむね指していると思われます。

さしあたっては、労働価値論の立場から労働量計算を取り上げることがまず問題であり、その際に『資本論』体系を取るかその他を取るかは二次的問題となります。しかし労働量計算を取り上げることが労働価値論にとって重要な課題であるならば、それを回避することは労働価値論離れの一つの原因となりうるといえます。佐藤氏の憂慮はそこにつながっているのかもしれません。「数理派以外」にとってそれが問題であるのに対して、「数理派」においても労働価値論の採否は常に問題になっているようです。不勉強でその内容については知らないのですが、こうした状況下で、佐藤氏が労働量計算を『資本論』体系に正しく位置づける必要性を力説するのは、労働価値論に基づく一貫した経済理論体系の擁護に一つの眼目があるように思えます。もっとも、それは理論にとっては外在的な私の推測に過ぎないので、理論内在的に『資本論』体系の労働価値論との不可分性を考察し、かつ資本主義分析としてのその体系性の優位性(そういってよければ唯一性)を他の体系との比較の中で考察することが必要だと思われます。

 川上則道氏が現実分析への展望を踏まえて、資本循環論の正確な理解に基づく再生産表式の把握を確認したのに対して、佐藤努氏は『資本論』体系における労働量計算の位置づけを通して、再生産表式論を展開する第2部第3篇の枢要的意義を提起しました。私の恣意的関連付けに過ぎないかもしれませんが、再生産表式の考察を通して、理論的抽象のあり方と経済理論の体系性、そして現実分析への適用などについて考えさせられる二つの論稿でした。

 ところで別件になりますが、川上氏の「日本経済と労働生産性の問題」(『前衛』1月号所収)は、表題のテーマについて「付加価値生産性」と「労働生産性」という両概念の違いに焦点を当てて分析しています。これは先月の拙文「『経済』12月号の感想」の中の「労働生産性をどう捉えるか」と同様の問題意識で書かれており、注目しました。同論文では、「両概念」に限らず様々な概念規定がきちんとされ、産業別の付加価値生産性の比較のやり方に関してもっともな指摘があります。何よりも、以下の端的な結論が問題の核心を衝いています。

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 この間の低経済成長の主要な原因は生産能力(労働の生産力)の側にあったのではなく、需要不足によって生産能力の十分な実現が抑制されたことにあったことになります。したがってまた、粗付加価値生産性の上昇率向上のための課題は労働生産性の引き上げにあるのではなく、国民経済規模での需要拡大にあるのです。    104ページ

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 拙文ではこの最重要なポイントを中心に据えることができていないと反省しました。

 

 

時代の意識についての未整理なメモ

 

○日本社会の右傾化

 安倍内閣支持率はいまだに4割以上のようです(たとえば「朝日」1219日付では41%)。戦後第3位となる5年間もの長期政権を通じて平均46%の高支持率を記録しています(1227日付)。モリカケ疑惑とそれによる都議選での自民党大敗を受けて、一時は急落するかに見えた支持率も回復しています。もちろんその重要な要因として、さる10月の解散・総選挙において、自公与党が圧勝したことを挙げることができ、その最大の原因が小選挙区制マジックによる虚構の多数議席獲得であることは確かです。安倍政権にはシラケた目が向けられており、積極的支持はほとんど見られません。しかし消極的支持は継続しており、自民党支持率も高止まりし「1強」状態にあります。

安倍政権に反発する層では、保守層も含めて強い嫌悪感と熱心な反対行動が見られますが、それが「国民的意識」には全くなっていません。右翼タカ派で異常な暴走を続ける安倍政権といえども5年も続くことで、慣れが生じ、たとえば「忖度」が流行語となって社会の隅々にある意味で定着してしまっている状況で、民主主義・人権破壊が静かに確実に進行しています。社会全体のアベ・ソーシャル化が進み、アベ・スタンダードが成立していると見るべきでしょう。つまり安倍政権への高支持率はもちろん様々な政治的状況から直接的には生じていますが、その底で新自由主義による社会破壊とそれを補完する反動的ナショナリズムの跋扈、それらに伴う社会状況の劣化、マスコミが主導する世論の右傾化(特に全くアベ・チャンネルと化しているのに「不偏不党で信頼されている」NHKがA級戦犯)、社会意識の保守(反動)化によっても支えられていることを無視してはなりません。安倍政権打倒に向け、野党共闘の強化など政治次元での動きが最も重要なのは言うまでもありませんが、社会次元・社会意識次元の動向の把握とそれへの対策を抜きには根無し草であることを強調したいと思います。「日本社会のあり方」と「そこでの人々の気分ないし社会意識」とを問うことが不可欠です。

本来ならば中長期的な社会変動に関する様々な客観的指標と社会意識に関する多面的な調査に基づいて、社会の底流の変化をまとめることが必要ですが、もちろん私ごときものにそれができるはずがありません。そこで最近気が付いた新聞記事などによる直観的考察をアトランダムに並べて、心ある人々の分析の参考に供したいと思います。できの悪いオムニバスではありますが、私のようなものには無理にまとめることが難しい段階での一つの試みです。

2011年の東日本大震災と原発事故以降、「デモのある普通の社会」が回復され、2015年の戦争法の強行に対抗して、画期的な野党共闘の方向が打ち出され、歴史的な60年安保闘争をも超える意義を持つとも言える、下からの人々の立ち上がりが実現し、かつてない民主主義の高揚が見られることに異存はありません。しかしそのようなプラスの方向への展開の意義は極めて大きいのですが、もともと座標軸そのものが相当に右寄りになってしまった中での立ち上がりだという点を押さえる必要があります。

ソ連・東欧社会主義体制の崩壊と日本における小選挙区制の導入以降、国会の議席は基本的に総保守化し、かつては国政の基軸的対立点であった日米安保条約への賛否が問われることはまれになり、安保と自衛隊への世論の圧倒的信認のもとで(ただし本来それと対立する憲法がそれなりに定着していることは見逃せないが)、革新という言葉は事実上死語となり、一部の保守をも含めたあいまいなリベラルという言葉が代替している状況です。一言で言えば、政治状況も社会意識も右傾化がかなり進行しています。もちろんそのような状況を前提に、保革を超えた共闘で安倍政権の暴走を阻止することは喫緊の課題なのですが、その際にも全体としての世論の右傾化が安倍政権を支える裾の広い基盤となっていることは無視できません。

おそらく右傾化の最大の要因は、1970年代後半あたりを起点に80年代以降は、グローバリゼーションが展開する下、グローバル資本が支配層を形成し、イデオロギー的・政策的に新自由主義の覇権が確立したことでしょう。生産力的にはICT化が進みそれは生活のあり方にも浸透しました。それらに伴う社会状況として、市場化・個別化・分断化・消費社会化が進行し、ミーイズム・私生活主義に加えて自己責任論が世を覆う中で共同的関係が衰退していきました。これに対して労働組合や民主的大衆運動が大勢としては効果的な対応策を打ち出せずに非常な困難を迎え、組織的縮小を余儀なくされました。それは革新政党の後退に直結しています。

新自由主義は政治的にも経済的にも人民に対する強力的な階級支配をもたらしており、資本主義社会のタテマエである民主主義的性格を破壊しつつあります。当然そこには反発が生じますが、そのような分かりやすい階級的対決に行かないようにする様々な状況があります。そこには新自由主義がもたらす社会的病理があり、日本社会の抱える独自の様々な問題がない交ぜになって複雑な状況を呈しているようです。

 

○弱者への攻撃、なぜ苛立つのか

 最も分かりやすい社会的病理としては、ヘイトスピーチに代表されるような反動的ナショナリズムの異様な言動があり、それはまさにカウンタースピーチが叫んでいるように「人間のクズ」「日本の恥」としか言いようがありません。それはおよそ理解不可能と思えるのですが、現にあるものには必ず存在根拠があります。

最近では127日と13日に米軍普天間飛行場のヘリコプターから相次いで部品や窓が、宜野湾市の保育園と小学校に落下しています。子どもたちの命にかかわる重大事故ですが、米軍は何もなかったかのように同型機の飛行をすぐに再開し、いつもながら日本政府は卑屈にも追認しています。こうした極めて悪質な日米権力のいわば親衛隊として、被害者である沖縄県民に対して心無い中傷と揶揄を浴びせる輩がいます。「やらせだ」「仕方ないだろう」「そんなところに保育園(小学校)があるのが悪い」……(「朝日」1216日付記事、22日付社説)。同社説はこれらが無知と偏見によるものであることは明らかだとして、沖縄の歴史と事情を簡潔に説明し反駁しています。さらに本土の政治家の認識と対応を批判しつつ、「誹謗中傷を許さず、正しい情報を発信して偏見の除去に努めるのは、政治を担うもの、とりわけ政府・与党の重い責任である。肝に銘じてもらいたい」と正論に力を込めます。「朝日」の沖縄記事は「現実主義」の残念なものが多いのですが、社説はおおむねまっとうです。

 問題は、まともに論じるのもバカバカしいようなこうした言動が生じる理由を探ることです。無知と偏見だけで片づけるのではなく、それらが発生するに至る社会的基盤がそこにあることを理解しなければいけません。

 上記のような言動について、小熊英二氏は「朝日」論壇時評(1221日付)木村忠正氏の議論を引きながら、「生活保護」「沖縄」「LGBT」「障害者」「ベビーカー」などに対する「弱者利権」批判という見方を紹介しています。韓国や中国に対する批判も同様に、第二次大戦時における弱者の立場を盾に賠償金を取ろうとして問題を蒸し返される、と捉えて、「弱者利権」批判の延長と見なされます。こうした「弱者に対する強い苛立ち」を持った人々は「マジョリティ」として満たされていないと感じており、「弱者」や「少数派」より、自分たちこそ優遇されるべきだ、と考えます。彼らはそうした認識に立ち、「その人たちなりの公正さ」を主張しているのだというのです。

 旧東独部で移民排斥運動への支持者が多いのも同様の事情によるようです。体制の変動に翻弄され、敗北感や疲労感に苛まれてきた人々が自分たちこそ優遇されるべきなのに、少数派や「弱者」の方に目をむける新聞や政治家は許せない、という心理が、難民への憎悪となるというのです。

中国の中流層が、比較的リベラルな人々でさえ、反体制派を軽蔑して、体制は悪くないと考えていることに衝撃を受けたジェームズ・パーマー氏は「これは生き延びるための自己防衛であり、独裁主義に順応する1つの方法なのだ」と解釈しています。この議論を受けて小熊氏は一つの結論を提出しています(下線は刑部)。

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 パーマーはいう。「不公正な世界を前にしたとき、人間は精神的な防衛機能として、世の中は公正だと思い込もうとする」。そして「他人の苦しみを正当化する理由を探し、自分は大丈夫だと根拠もなく安心したくなる」。つまり、現状を変えられない自分の無力を直視するよりも、今の秩序を公正なものとして受け入れ、秩序に抗議する側を非難するのだ。

 もちろん中国、ドイツ、日本はそれぞれ事情が違う。だが急激に変動する現状に苛立ちながら、それを制御できない無力感を抱く人に、不寛容が蔓延(まんえん)する状況は共通する。ここでの決定要因は政治的・経済的な無力感と疎外感の程度で、必ずしも所得の多寡ではないようだ。

 そして世界各地では、無力感の反映としての投票率低下、少数派への不寛容、新たな権威主義が広がる。   …後略…           

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 以上見てきたのは、さしあたってはヘイトスピーチや沖縄ヘイトのような異様な言動がなぜ存在するのか、ということなのですが、「弱者利権」批判とか「政治的・経済的な無力感と疎外感」はそうした極端な例だけでなく、アベ・ソーシャルを形成するような広範な社会意識にも通じるものがあるように私は思います。人々の生活・労働上の諸困難の重要な原因は新自由主義政権の諸施策にあるのだから、本来そうした不満は体制批判に向かうべきものですが、両者を経過することで、一方では的外れにも弱者や体制批判者を批判し、他方では自らを体制に同化していると思いこむことで安心を確保します。これは確かにネット右翼などの心理をよく言い当てているように思いますが、彼らのように攻撃的ではなくても、様々な不安に苛まれる普通の人々が体制擁護的心情に流れる経過を描いてもいるでしょう。たとえば、政府が生活保護費を削減する予算を当たり前のごとくに提出してくるのは厳しく糾弾されるべきです。しかしそうしても世論が反対で沸騰することはない、政権の打撃になるほどのことはない、という読みがそこにあり、「弱者利権」批判の一種である生活保護バッシングがそれなりに広範な層に効いている状況を反映しています。

 こうした事態を受けて、小熊氏は「無力感と苛立ちを他者にぶつけても何も生まれない。逆にそれを制御する力を自覚することは、誰にとっても生きやすい社会を築く第一歩となる。新年は、そうした努力の始まりにしていきたい」として、ネット上の過激な言辞への対策を提案しています。

しかしむしろ根本的対策としては、まず「弱者利権」批判については、格差と貧困をなくしそれなりの経済的安定を実現することでしょう。それは部分的には各種の社会運動によって実現できますし、それに取り組むこと自体が間違った考えを正して人々を社会変革に向かう姿勢へと導くことになります。

もちろん安倍政権を含めて新自由主義政権に根本的な格差・貧困対策を望むのは無理なので、野党が政権交代に向けた政策的オルタナティヴを分かりやすく提起して「政治的・経済的な無力感と疎外感」を解消する展望を示すことが必要です。安倍政権の延命の重要な要因は、人々にとって野党の対案が見えていないことにあります。

「朝日」1219日付によれば、「政権担当能力があると思う党」として自民党を選んだ人が75%にのぼり、共産党に投票した人でも52%が自民党を挙げている、という驚嘆すべき状況があります。政権党としては自民党だけしか眼中にないというのが世論の大勢なのです。もちろん自民党や安倍政権の政策そのものには大した期待は持たれていません。かといって野党は信用できない、ということで世論は自縄自縛状態であり、「無力感と疎外感」に陥るのも当然です。政治次元と社会意識次元での閉塞感はここに集中的に現れています。「野党はアテにならない」という思い込みの縄から人々が解放されることがカギなのです。極めて困難だけれどもこの高い壁を乗り越えることができるなら視界が開けてきます。ここに、「市民と野党共闘」が政治次元と社会意識次元での閉塞感を同時突破する可能性を読み取ることができます。

 

○苛立ちの原因をさらに――時代の気分を読む

 さらに苛立ちを増幅するものが日本社会にはあります。顧客・消費者とサービス提供者との関係です。流通や小売りで働く人たちの労組UAゼンセンが実施した悪質なクレームをめぐる5万人のアンケート結果には、「お前はバカか」「死ね、やめろ」「私の会社だったらクビだ」など聞くに堪えぬ暴言があります。それを紹介した「朝日」の「天声人語」1121日付は以下のように続けます。

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▼おもてなしの国、世界一心のこもったサービス……。そんな美名への疑念を、作家の石田衣良(いら)さんがかつて雑誌に書いていた。「最高のサービスの裏に最低の客が隠れているのではないか」。そう疑いたくなると▼客としては王様のように振る舞うが、サービスや商品を提供する側に回ると、下僕のようにさせられる。日本社会を大きな目で見れば、消費者である私が労働者である私を追い詰めてはいないか▼ …後略…

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 日本社会におけるこのような消費者と労働者の関係の悪循環の中で、労働者は追い詰められ、苛立ちを高進させます(彼が消費者の立場に回れば、クレーマーとして憂さ晴らしをする)。これは主に小売・サービス業での問題ですが、製造業においても企業と需要家との関係で同様の問題はあります。さらに企業間競争で労働者は追い詰められます。最近相次いで発覚した日本の製造業の不正に絡んで、『経済』1月号所収コラム「ゴールなきマラソン競争」は、第一にコストダウン競争で現場と技術陣が命を削っていること、第二に日本企業の体質として技術者を大切にしない風潮を指摘しています(72ページ)。

 ここには、資本主義一般の問題として、人間ではなく資本が主人公であり、資本間競争の至上命令の前に労働者が疲弊していく姿とともに、日本社会の独自性としての歪んだ消費者優位の構造がない交ぜになって、労働者を苛んでいる様子がうかがえます。

 ここまで日本社会の右傾化と人々の苛立ちについて書き、その基本的解決についてもわずかに言及してきました。その際に政治や社会運動にも触れました。そこで解決を求めるには、人々の気分をどう捉え、どうアプローチするかが付随する課題となります。「右傾化」と「苛立ち」は新自由主義下の格差・貧困社会の閉塞感とともに生じており、それに対して高度経済成長期にはもちろんいろいろ問題はあったにせよ、今よりは希望が多く革新勢力が伸びていました。それは逆説的なのですが、その気分を反映するものとして浪曲の盛衰を見てみましょう。

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 戦後、豊かになろうとしている高度成長期に浪曲が廃れたのは、大衆が、社会の底辺の、血と汗にまみれた聞くも涙、語るも涙の物語など忘れ去りたかったからだと思うんです。ところが、いまの生きづらい世の中、お客さんが、そんな物語に心底、共感している反応が伝わってくるんです。

 浪曲の神髄は、荒ぶる魂だと思います。道端で雨に打たれ風にさらされてきた芸だから、人をなぎ倒すかのような声を出し、心を重苦しく覆っているものを取り払ってしまう。だから、浪曲を聞いて胸がスッキリしたと言われると、浪曲師冥利(みょうり)に尽きますね。

「朝日」 be on Saturday 20171216日付 玉川奈々福浪曲師談

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 高度経済成長期に戦後民主主義を伴いながら、人々は近代化した豊かできれいな社会を作ろうとしました。そうした中で「社会の底辺の、血と汗にまみれた聞くも涙、語るも涙の物語など忘れ去りたかったから」浪曲は廃れました。ところが新自由主義下で格差・貧困社会が成立した「いまの生きづらい世の中、お客さんが、そんな物語に心底、共感している反応が伝わってくる」中で浪曲が復活しています。問題はそんな「荒ぶる魂」を誰が獲得するかです。 

閉塞感に満ちた今日の社会において、戦後民主主義そのものをタテマエに過ぎない偽善だとするホンネ主義がまん延する中で、橋下徹氏のような右派ポピュリストが「荒ぶる魂」を捉えたように思います。「浪曲は、臆面もない感情表現とパワフルな声、多彩な節が特長です」と玉川師は言います(同記事)。正直言うと私は「臆面のなさ」は苦手としますが、そういう「お上品」なことでは、時代の魂をつかまえられないのでしょう。人々の心に飛び込んで、民主主義は単なるタテマエではなく、ましてや決して偽善ではなく、生き方そのものなのだ、という得心を得ることが必要です。「憲法を暮らしに活かす」とはそういうことでしょう。右派ポピュリストの巧みな言説は「心を重苦しく覆っているものを取り払ってしまう」ような錯覚を人々にもたらしたのですが、真にそのような爽快感を引き出すために、情理兼ね備えた訴えで(場合によってはパフォーマンスで)対抗しなければなりません。

 

     ○日本社会の神話の崩壊 

 今日、社会不安が増している一要素として、日本社会の神話の崩壊を挙げることができます。かつては事実であっただろうことが、今では神話に過ぎないかもしれないとされ、徐々に崩れ去っていく、という状況があります。たとえば「日本人は礼儀正しく、規則は守る」とか「日本の技術力と製品の信用は世界一」「鉄道は時間厳守で安心・安全」などとはもはや言えなくなっているのではないか、と疑われています。

1)横断歩道で車が止まらない

 ロンドン生まれで日本人と結婚し、通算20年以上日本に暮らしている名城大学准教授のマーク・リバック氏50)が、119日付「朝日」の「私の視点」に以下のような趣旨で投稿しています。

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 日本では、信号機のない横断歩道では歩行者がいても車は止まらない。私の母国イギリスやオーストラリアでは車は必ず止まる。日本の道路交通法でも歩行者優先で車の停止が定められている。歩行者と車のあいだには日本人独特の「あうんの呼吸」があって、その中でいつ渡るかを決めているようだ。ただ、外国人は「日本人は親切で礼儀正しい」と信じているので、車が止まると思い込み、事故にあう人が出かねない。この問題に取り組んでほしい。

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 これを受けて「朝日」紙上では3回にわたって大きな特集を組んで議論を組織しています。当然のことながら、道交法をきちんと守れ、という議論が多いのですが、なぜこんな事態になっているのかについて、リバック氏の妻は「日本人は人を待たせることを心苦しく感じるし、停車してあげるとあわてて渡ろうとして、反対車線の車にひかれてしまうかもしれない。また、停車しようと急に減速すると後続車に追突される可能性もある」とか、これまでの運転経験から「安全運転のためには『交通ルールを守る』ことだけでなく、『交通の流れを妨げない』必要もあると学んだ」と言います(1217日付)。

 なんだか、先述の歪んだ消費者優位社会に通じる事情だと思えます。少なくとも外国人にとっては理解しがたいでしょう。日本人はまじめでとにかくルールを守る、という先入観があればなおさら。1231日付の紙面では、弱者に冷たい社会でそれが車優先の意識に現れており、その発想を変えなければいけない、というのが大方の結論になっています。法律や何かしらのルールを守るよりも強者優先という日本社会の隠れた常識(ホンネ)は、モリカケ疑惑で「官邸の最高レベル」が見事に実践してくれました。

 中には悪法もあるとはいえ、基本的には強者の横暴を許さないために公正なルールを定めたのが法のタテマエです。だからそれを守ることは、外国人の誤った期待(美しい誤解)に合わせて日本社会をきれいにするという以上に、弱者も生きやすい民主的社会をつくるという意味がありそうです。「日本人はルールを守る」神話は今後、そういう意味での実話に変えたいと思います。

2)鉄道事故と製造業品質不正

 1211日、乗務員や車両保守担当社員らが鉄の焼けるような臭いや「びりびり伝わる振動」に気づきながらも、JR西日本ののぞみが3時間以上も走行しました。のぞみの台車には亀裂が入っており、あわや脱線事故寸前でした。これについて、JR福知山線脱線事故(2005425日、107人死亡、562人負傷)遺族の藤崎光子氏は「福知山線事故の時と、全く変わっていないのではないか。国鉄の分割・民営化した当時と比べて、労働者の数が半数近くまで減ったと聞きます。安全のために人手を割けない、安全のために運行を止めたくても、指令が許してくれない。そんな事態が広がっているのではないでしょうか」と語っています(「しんぶん赤旗」1231日付)。

 このほかにも最近はJRで設備の故障などによる異常な事故が多発しており、幸い人身事故にはなっていませんが、何時間もの運休が頻発し、鉄道の安全性と運行の信頼性が傷つけられています。その原因について、1218日朝のNHKニュースでは、「設備の老朽化」「技術の劣化(←採用抑制による年齢構成のいびつ化)」「設備の増加・複雑化」「複数社の相互乗り入れによる直通運転により、遠方の故障が影響し合う状況」などを指摘しています。

 まさに世界に冠たる日本の鉄道の信頼性が崩壊しつつあります。交通網の発達や設備の変化などに保守点検と老朽化対策が追い付いていないし、労働者不足により安全性が確保できない状況です。安全性と保守点検への軽視があると言わざるを得ません。

 今年は、エアバッグのタカタ・日産自動車・神戸製鋼・SUBARU・三菱マテリアル・東レ・日立製作所等々、製造業の品質不正が止まりませんでした。「品質よりもコストなどを優先する企業風土」(「朝日」1225日付)は、在庫を極小にする「カンバン方式」が定着する中で供給を滞らせるわけにはいかず無理をする、といった生産上の問題の他に経営姿勢からも生まれています。同記事はこう指摘します。

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法政大の西岡靖之教授は、「一部の経営者が短期的な利益を追い求め、ものづくりの現場をコスト要因としか見ないようになった」と話す。

 ニッセイ基礎研究所の百嶋徹・上席研究員によると、国内の大手製造業の多くは人材や設備への分配を抑え、株主配当を捻出する傾向がある。「製造現場が余裕のない操業を強いられれば、安定的に素材や部品の供給を受けたり、製品をつくったりすることが難しくなる。もっと人材や設備に投資するべきだ」

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 そうして不正が起こっても「日本企業の不正は多くの人が気づきながら、『会社のためだから』と関わるものが目立つ。信用を失えば会社の存続を危うくする。この戒めを肝に銘じたい」と同記事は警告しています。

 藤田実氏は「現場主義の揺らぎ」に問題の根本を見て説得力ある議論を展開しています(「全国商工新聞」1127日付)。詳細は省きますが、以下のような諸点を指摘しています。

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1.リストラによる人減らしのため生産現場で余裕がなくなり、熟練労働や現場での労働倫理などの継承が進まなかった。

2.現場を知らない経営陣の要求する利益目標は必達で、「できない」と言うことは許されないという現場権限の弱さ。

3.現場主義は他部門から独立しているから、ルール無視が生じても現場全体のもたれあいにより是正に動くことは少ないし、日本企業社会特有の職場への同調圧力がかかる。

4.職務分担が不明確な日本の職場では無資格者が検査しても裁量の範囲内という意識が強い。欧米では無資格者がするのは職務領域を侵すことで許されない。

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以上の現場主義の機能不全は、多国籍企業がグローバル展開による国内生産軽視、産業空洞化を推し進めたことと関係あり、日本のものづくり再建のためには国内設備投資を増大させ、製造現場の正規労働者を増員させるとともに、労働倫理を含めて現場主義の再構築が急務である、と藤田氏は結論づけています。

 そもそもまともな使用価値を生産することによってしか価値を生産することはできないし、それを前提にして始めて剰余価値を生産し実現することができます。だから安全性や品質保持は全くの大前提です。しかし剰余価値の追求が目的である資本主義的生産においては、使用価値の生産は手段であるので、その大前提が壊される可能性が常にあります。また現場の労働こそが価値を生み出すのですが、「ものづくりの現場をコスト要因としか見ない」ようでは話になりません。リストラ・人減らしと搾取強化では労働者ならびに現場が疲弊してまともな使用価値の生産はできません。始めの山脇友宏氏の論稿に見るように、グローバル資本主義は最先端の生産力を行使してもまともな経済発展を遂行することができなくなっています。民主的規制が必要です。

 鉄道事故と製造業の品質不正は深刻な問題であり、そこには資本主義一般とグローバル資本の問題がまずあり、加えて日本の企業社会が抱える問題が重なっています。原因は複合的ですが、ともかく結果として日本の企業・産業・経済の権威失墜や自信喪失につながるものを含みます。そういう時代にテレビでは異常に日本ぼめ番組が跋扈しています。自信喪失の中でナショナリズムを煽るという自慰的現象が見られます。いわゆる自虐史観批判というのは、その裏返しとしての居丈高な開き直りであり、誠に見苦しいものです。まともな経済発展を実現して、生活と労働を安定させ、軍拡とナショナリズムではなく平和外交による親善友好を実現せねばなりません。
                                 2017年12月31日





2018年2月号

          現代資本主義の理論的把握

 井村喜代子氏の寄稿「現代資本主義の特質と分析課題」(以下「分析課題」と略)は、2016年刊行の450ページに及ぶ労作『大戦後資本主義の変質と展開―米国の世界経済戦略のもとで』(以下「著書」)の成果を基に、「短く分かり易い形で現代資本主義の特質と解明すべき主要課題を明らかにした」(「分析課題」128ページ)論稿です。残念ながらその大著を読んでいないのですが、鶴田満彦氏の書評(政治経済研究所編『政経研究』NO.1082017.6、所収…以下「書評」)に詳しく紹介されています。この「書評」への井村氏のリプライ(『政経研究』NO.1092017.12、所収…以下「リプライ」)も併せて読むことで、「現代資本主義の特質と分析課題」についていろいろと考えさせられます。

 論点は多岐にわたりますが、時間がないので若干の点だけに触れます。鶴田氏は現代資本主義の性格について、まず大戦中から大戦直後における「ケインズ主義政策的変質」(「書評」91ページ)を特記し、次いでケインズ主義から新自由主義への変質を重視しています。しかし井村氏はむしろ両者に共通する現代資本主義の性格をそれ以前からの変質として重視しているようです。井村氏は「大戦後の米国の発展はケインズ的政策によって実現されたとは考えていない」(「リプライ」105ページ)として、大戦後の一大変質は「ケインズ主義政策的変質」ではなく、資本主義の「基本」に関わる「変質」であり、「これまでの資本主義とは経済的構造・枠組み、発展法則が『変質』し、これまでとは質の異なる資本主義となったと考えてい」ます(同前)。そして米国と西欧諸国の大戦後の経済発展のあり方に触れた後でこう述べています。

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 私は以上のように、大戦後資本主義では史上類の無い「新しい軍事と経済の関連」、「新しい実体経済と金融の関連」が創出され、国家(政府・通貨当局、軍)が資本主義の経済過程に大規模かつ恒常的に介入し、資本主義の経済法則が規制され「歪められる」ようになったことをもって大戦後資本主義の「一大変質」と規定しており、これをもって大戦後資本主義が「新しい段階の資本主義」となったと規定している。           

「リプライ」106ページ

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 そしてさらにこの「一大変質」に続く次の変質は変動相場(制)への移行であって、ケインズ主義政策から新自由主義政策への変質ではないとされ、「変動相場(制)を決定的な『変質』として解明した上で、この下で現れた新自由主義政策を位置づけるべきではなかろうか」(「リプライ」107ページ)と述べています。資本主義の本質的あり方に着目した卓見だと思います。

 ケインズ主義VS新自由主義という対立図式は分かりやすく、特に政策を論じる場合は重要ですが、それをそのまま現代資本主義の性格規定の中心問題に適用することは、ブルジョア的現象把握に流れ、本質を見逃す恐れがあります。特に「小さな政府」とか「自由な市場」という新自由主義のスローガンに無批判に乗っかることは、イデオロギッシュなマヌーバーに引っかかることです。それではリーマンショック後の世界金融危機に際して各国の新自由主義的政府がなりふり構わず市場介入したことが説明できません。それはケインズ政策に転換したという問題ではなく、井村氏が指摘するような現代資本主義の基本性格がしからしめたと考えるべきでしょう。

 井村氏は債権の証券化、証券の証券化などについて詳細に触れ、そこに「新しい信用創出メカニズム」(「分析課題」135ページ)を規定してそれを次のように説明します。

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 CDOでは預金業務のできない大手投資銀行、商業銀行投資事業体が実体経済・預金に基づかないで、政府・FRB(連邦準備制度理事会)と関係なしに、膨大な資金を調達していく。

  …中略…  公的・私的年金、ヘッジファンドの富裕層委託金、一般家計の貯金、各種ファンドから短期資金を調達し、長期証券の組成・運用が行われる。伝統的な預金に基づく貸与・信用創造(預金創造)をはるかに上回る資金が実体経済から離れ、預金に基づかないで、政府・FRBと関係なしで、調達されるのである。

 「分析課題」135136ページ

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 これに対して鶴田氏は疑問を呈します。

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 これら各種ファンドや個人家計等に蓄えられている資金は、ABCPMMMF等に向かう前は預金や現金という形で、マルクスのいわゆる蓄蔵貨幣として存在していたのであろうから、たとえばあるファンドが投資銀行のABCPを買うということは、ファンドの預金・現金が投資銀行の預金口座や金庫に移動するということ、あるいは蓄蔵貨幣が動化されたことを意味する。投資銀行がABCPで集めた資金で、自己の組成したCDOをオフバランスのSIV(投資専門事業体)を経由して購入したとしても、その投資銀行と傘下のSIVを併せた資金総量が増えるわけではない。CDOを外部の個人に販売すれば、投資銀行とSIVの資金は増えるであろうが、増えた分だけ外部の個人の資金が減少する。

 したがって、新金融商品が登場し、新資金調達ルートが開発されても、資金が預金・現金というリスク・フリーな形態から比較的にリスキーな新金融商品に移動、動化されるだけであって、他の条件を同一とすれば、社会全体の資金の量には変化は生じないように思われる。資金の移動・動化だけをもって「新しい信用メカニズム」ということには、若干の疑問が残らざるをえない。      「書評」93ページ

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 井村氏は「『金』の制約の無くなった変動相場(制)において、『社会全体の資金の量』が『預金・現金』総量を超えて膨張するようになったのであり、このことは、変動相場(制)によって生じたきわめて重要なことだと考えている。膨張は様々だが主な柱は次のとおりである」(「リプライ」108ページ)として3点指摘しています。

 まず、住宅価格の持続的上昇による住宅資産価値の膨張であり、これを「虚(資産価値)」膨張と規定しています。第2に、CDO組成においてリスクを安全な上位に仕立て上げることによって、原証券価格よりも膨れ上がった評価価格をもつようになり、この膨張部分が増大します。第3に、既発行CDORMBSの一部が高い価格で売買されると、当該証券すべての価格が上昇します。これが「虚(証券価格)」と規定されます(「リプライ」108109ページ)。

 井村氏が挙げているのはいずれも「虚」であり、バブルだと思われます。確かにそのようなものが恒常的に存在するところに現代資本主義の歪みがあると言えますが、それはいつか破裂することが必至であり、「社会全体の資金の量」の膨張と規定しうるかは難しいところです。虚の価格が実現している状況下ではそう見える、ということは言えますが…。

 上述のような個々の論点以上に、「現代資本主義の特質と分析課題」というテーマに関して経済理論に対して突きつけた井村氏の厳しい指摘が重要でしょう。井村氏はリーマン破綻後をマルクスの「金融恐慌」とする多くの見解を否定してこう主張します。

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マルクスは好況・過熱後に勃発する過剰生産恐慌に付随して「貨幣恐慌」または「信用恐慌」が生じるという。しかし今回の金融危機の深化・勃発はすでに述べた金融大膨張によるものであって、過剰生産恐慌の爆発に付随して勃発したわけでは決してない。また恐慌・金融恐慌では過剰資本は破壊され、それによって不況後に新しい生産拡大が始まることになるが、今回では国家の強力な金融救済によって金融機関は棄損証券・不良金融資産を抱えて生き残り「投機的活動の温床」が創られ、経済停滞・失業は長期化している。マルクス経済学では「恐慌」「金融恐慌」と呼ぶことで矛盾を強調する傾向があるが、筆者は以上の金融大膨張〜金融危機勃発はいっそう深刻な矛盾の爆発であると考える。

      「分析課題」143ページ

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 ここでは、リーマン破綻後についてマルクスの「金融恐慌」に従う通念が資本主義の矛盾を強調したつもりになっているが、それによって実は現にあるいっそう深刻な矛盾を看過していると痛烈に批判されています。このように井村氏は『資本論』や従来のマルクス経済学の通念の漫然とした延長を許さず、今日の資本主義の新たな現象に内在することによってその本質に迫ろうとしていると思われます。その姿勢は次のようなものです。「大戦後資本主義は、資本主義経済一般の基本法則を解明したK.マルクス『資本論』のような理論的体系化は不可能である。筆者が旧くから考え悩んできたのは、『大戦後の新しい段階の理論的解明』はいかなるもので、いかにして可能かということであった。筆者が辿り着いたのは『新しい段階』において生じた主要な問題の理論的解明を積み上げるほか無いということであった」(「著書」3ページ、「書評」88ページから孫引き)。

 さらに「新しい段階」の理論的解明については次のように言われます。

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 「資本主義の発展段階」は本来、競争の支配する資本主義、独占資本主義のように、ある特定の構造の下で、それ固有の特質をもった資本主義を意味するものである。私は大戦後では、「軍事と経済の関連」も「実体経済と金融の関連」も、国家(政府・通貨当局、軍)の介入によって内容が人為的に動かされ変化・「変質」するため、大戦後資本主義を、ある独特の構造の下である独特の発展法則をもった「ある発展段階の資本主義」と規定することはできないと考えている。       「リプライ」106ページ

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 このような言明に接すると、一方では、既成の理論的枠組みにとらわれずに変化する現実に内在し、それを把握しきろう、という理論探求への誠実な姿勢が感じられますが、他方では、そうした努力が届かないところでの一種の不可知論のようなもの、あるいは法則認識に対する一定の諦観じみたものがあるような印象を持ちます。井村氏は軍事技術を始めとする科学技術、金融工学などがもたらす資本主義経済の大きな変化を直視しながらも、それを収めきる新たな経済理論の枠組みの創造に難渋しているように思えます。そこに生じる新たな「軍事と経済の関連」・「実体経済と金融の関連」とそれに対応する国家介入がもたらす人為的な変化・「変質」によって資本主義の経済法則が歪められる状況を前に、法則的認識や理論的体系化は確かに困難に見えます。たとえば井村氏は「為替相場を完全に為替の変動に委ねるという『変動相場制』は現実に存在することは無かった」(「分析課題」131ページ)と喝破して、こう続けます。

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 1973年に現れた変動相場(制)は、国家の国際資本移動の規制・管理が廃棄され、国際収支均衡・財政均衡・インフレ抑制の機能も無くなった下で、実体経済とは関係の無い「投機的金融取引」が膨大化し、外国為替が絶えざる変動・リスクに晒されている状態である。実体経済での「財貨取引のための実需取引」に、実体経済・実需とは関係の無い膨大な「投機的金融取引」が加わり、これらによって為替相場が決定され変動するのである。ここでは実体経済に対応する為替相場の「適正な水準」はもはや存在しないし、為替変動によって為替相場が「適正な水準」に収斂していく作用が働くわけでは決してない。

 一般に国際金融制度は「金本位制」、「IMF体制」、「変動相場制」と分類されている(変動相場制は投機的取引を除いた非現実的仮定をおくものが多い)。しかし1973年以降の「変動相場」は本来的な意味での「制度・システム」では決してない。それゆえ筆者は「変動相場(制)」とする。       同前

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 つまりきわめて乱暴に一言で言えば、変動相場制なるものは制度ではなく、むちゃくちゃな状態に過ぎない、ということでしょうか。確かにここには現実が活写されています。しかし理論的認識としてはどうすればいいか。解決にはならないかもしれませんが、「金本位制」の崩壊後に現れた不換制による「通貨管理」(それは「IMF体制」、「変動相場制」

の前提である)の理論的把握について、大島雄一氏の「現代資本主義の基本性格――危機論からのアプローチ――」(『経済』第283号/198711月/に初出。同『現代資本主義の構造分析』大月書店/1991年/に所収…以下「基本性格」と略。ページ数は『現代資本主義の構造分析』より)を見てみたいと思います。

 「『資本論』は、当面の社会の分析における『一般的照明』=『特殊なエーテル』となる特定の『生産諸関係』の発見と分析の決定的意義を開示している」(「基本性格」147ページ)という方法論にこそ『資本論』の現代的意義がある、と大島氏は主張しています。「一般的照明」とか「特殊なエーテル」というのは、『経済学批判』の「序説」の「方法」に出てくる言葉で、「どの社会形態」にも、「他のすべての諸関係に順位と影響力を指示」する「一般的照明」となり、「他のすべての色彩はそのなかに浸されてそれぞれの特殊性に応じて修正される」「特殊なエーテル」として作用する「一定の生産諸関係」があることをマルクスが強調する文脈に登場します(同前)。『資本論』においてそれは当然「資本」です。同様にレーニンにとってそれは「独占」であったと大島氏は説明します。そして現代資本主義の「一般的照明」=「特殊なエーテル」となる規定は、インフレーション的蓄積機構の基底となる「通貨管理」です。現代資本主義の現代性は、「資本」「独占」の支配を保障し、かつ制約する「通貨管理」の展開のうちに現れます(「基本性格」150ページ)。「通貨管理」の原型は第一次大戦の戦時国家独占資本主義における軍需インフレーション的蓄積機構のうちに見られます。

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 ここでは、資本制の一般的基礎である商品流通そのものが、一般的等価物ではない不換化銀行券=価値章標によって再編される。それは、インフレーション的蓄積を目的としたブルジョア国家による基底=商品流通の国家管理であり、国家独占資本主義的計画化の起点となる。資本の支配的保障である資本蓄積運動が自然発生的な商品流通のうえでは展開不能となり、蓄積の進行のためには、一般的等価物ではない擬似貨幣=紙幣によって商品流通そのものを再編=管理しなければならない。「通貨管理」の意義はこの点にあり、それは、資本の支配の旧体制的性格=崩壊期的性格を端的に表現するものといえよう。「通貨管理」は、こうした意義をになって、第一次大戦の戦中・戦後インフレの基底となり、一九三〇年代の「管理通貨制度」さらに、第二次大戦後のIMF固定レート制として発展し、完成させられる。       「基本性格」151152ページ

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 先述のように、井村氏は第二次大戦後の資本主義の変化と国家介入による「変質」「歪み」の故に、基本法則の解明や『資本論』のような理論的体系化は不可能だ、としています。それに対して大島氏は第一次大戦の戦時国家独占資本主義のうちに「資本蓄積運動が自然発生的な商品流通のうえでは展開不能となり」人為的な「通貨管理」を行わなければならなくなった点に、その後の現代資本主義につながる「一般的照明」=「特殊なエーテル」となる規定を見ています。ここには「歪められた」現代資本主義の一般理論的認識の構築につながるヒントはないでしょうか。

 もっとも、「基本性格」はIMF固定レート制の意義とその崩壊に触れていますが、その後の変動相場(制)の理論的意義には触れていません。そもそもこれは21世紀のリーマンショック後の世界金融危機はもちろん、20世紀末のソ連・東欧の社会主義体制崩壊よりも前の1987年の論稿なので、今日の世界の資本主義にそのまま当てはまりませんが、『資本論』の現代的意義についての方法論的視点には示唆するところがあるように思います。井村氏と大島氏の論稿は、どちらも基礎理論を踏まえた現状分析があり、その両面が一体となった稠密な展開が強い緊張感をもたらします。マルクス経済理論が本来持っている現実把握力を発揮する道は大きく開かれていると思います。
                                 2018年1月31日





2018年3月号

          鉄道の維持と交通権の実現

 

1)交通権を必要とする現実

 特集「鉄道を守る」では鉄道にまつわる多くの問題を扱っています。自然災害や事故と安全性、労働のあり方、物流と環境問題なども重要ですが、特集の中心は、人々の豊かで文化的な生活を保障する交通権の確保に置かれています。困難な地域が多い中でも、鉄道ネットワークの維持に向けて、鉄道の持つ多面的機能に着目し、地域経済・住民生活との関連を改めて考え、それらと資本主義市場経済ならびに新自由主義的な経済政策との対抗について原理的に考えることも必要になっています。特集を構成する論稿は以下のとおりです。

*安部誠治さんに聞く「鉄道の役割と安全を考える」

*桜井徹「欧州における鉄道維持の取り組み 鉄道事業の公共性

*上岡直見「ローカル線の現状と将来」

*畠山和也「『オール北海道』で鉄路の維持・存続へ」

*小田清「北海道開発と鉄道 その歴史と存続の危機、再生に向けて

*関公平「三江線廃止とローカル線存続の課題 地域の持続可能性と鉄道の役割

*相木伸之さんに聞く「JRの職場からみた鉄道のいま」

 20161118日、JR北海道が全路線の約半分について「当社単独では維持困難」と発表したことが全国の路線廃止問題の象徴です。このため本特集でも、北海道については、畠山氏と小田氏の二つの論文が掲載され、他の論文でも必要に応じて言及されています。

 ところで、北海道出身・在住の芥川賞作家・池澤夏樹氏が北海道150年の歴史と現状についてコラムを書いています(「『北海道』命名150年 汗と涙の歴史に思う」、「朝日」27日付(注)。それは幕末における松浦武四郎の蝦夷地探検に始まり、沖縄戦での犠牲者の中で、他地域の出身者としては北海道が圧倒的に多い、という意外な事実を含みます。対ソ連など軍事的性格の強い土地柄なのです。池澤氏はそこで、北海道が植民地として拓かれ、中央政府にとっては二級地として今日にまで至る、その苦難の歩みと現状を語っています。注目すべきは、その簡潔な北海道論が鉄道の現状への警告と交通権確保の訴えでまとめられていることです。北海道を総体として論じたこのコラムが、その結論部分において本誌特集「鉄道を守る」と基調を同じくしているのです。北海道にとって鉄道はそれほど重要だということでしょう。それは、一般論としても周縁地域における鉄道の死活的重要性を物語り、またそうした交通権を基本的人権の一つとして全国的課題として取り上げる必要性を示しています。コラムの最後に置かれた池澤氏の訴えに耳を傾けましょう。

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 今、都道府県別年収ランキングで北海道は三十位。物流の不利が大きいから重工業などは振るわない。その代わり、自然条件を生かした農業・牧畜と水産業が盛ん。食料自給率がカロリーベースで二百二十一%というのは全国一位である。生産額では四位になるけれど、それはつまり実質的に国民の栄養になる食料を作っているということだろう。

     *

 それでも植民地の影は残る。

 JR北海道が赤字に苦しんでいる。もともと広大な土地であり人口密度は他の都府県より格段に低い。鉄道経営が営利事業として成り立ちにくい。

 一九八七年の国鉄分割に際して、国はJR各社に持参金を持たせた。その利子で経営を支えろということだったが、後の低金利政策への転換で持参金は画餅(がべい)に帰した。JR北海道は資金不足で車両の整備もままならず、ここ数年は事故を多発している。今後については廃線の話ばかり聞こえてくる。

 現代の社会で交通権は基本的人権の一つではないのか。人々は駅があって鉄道が走っているからそこに移り住んだ。通勤、通学、通院の手段を保障することは国の責務ではないか。日本国憲法第二五条には「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とある。

 中央から見て僻遠(へきえん)の地も住民にとっては世界の真ん中なのだ。

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 ちなみに、食料自給率(カロリーベース)が全国1位で、生産額では4位というのは、生産された食料について、その(カロリーで量った)使用価値量としてはたくさん「国民の栄養になる食料を作っている」が、価値量から見れば割安だということです。これは北海道が全国に対して労働奉仕している事例の一つであり、おそらく周縁地域と都市部との関係一般にも示唆するところがあるように思われます(価値論としては、不等労働量交換の問題)。

 それは後の考察のため覚えておくとして、ここではまず池澤氏が強調している基本的人権の一つとしての交通権に着目し、その内容を敷衍し、その正当性の根拠を見出し、その実現に向けた政策を考えていくこととします。本来ならそれとともに、関連する「都市と地方の関係」の理論問題、さらに一般的抽象的にその根源にある「効率と公正の関係」についても考えるべきでしょうが、残念ながらそれらに関する知見に乏しいので、とりあえず、本誌特集「鉄道を守る」の諸論稿にそっておおむね具体的に、ときにそれなりに理論的・抽象的に考えていくこととします。

 交通権という抽象的概念が抽出されるにあたっては、現実の多面的・具体的把握が前提となっているでしょう。本特集の諸論稿からそれを見つけましょう。

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 人の移動と物の円滑な輸送は、現代社会が存立する基本的な条件です。現代社会においては、適切な交通体系が形成されていなければ市民は生活ができませんし、社会経済活動も成り立ちません。そのために極めて重要なのが交通手段なのです。

                   安部論文 27ページ

 

 通学や通勤、通院など国民の「移動する権利」を保障するのは国の責任である(。)

                   畠山論文 57ページ

 

 鉄道を含む交通網の存続は、国民生活にとっての基本的な権利である。特に北海道では、日本の食糧基地としての役割、広大な大地・景観を拠り所とする観光産業の存在、通学・通勤・通院、買い物等に不可欠な手段として地域発展に貢献してきたのである。欧米では、成熟した豊かな地域社会をつくる「公共財」として「鉄道復権」が言われ、整備が進んでいる。大量輸送と高速性、定時性と安全性、広い車内空間と快適性、省エネによる環境適合性など、鉄道は21世紀に適合した公共交通機関でもある。

                   小田論文 71ページ

 

 鉄道は地域にとって単なる移動手段に限られない大きな意味を持っているという。例えば、駅周辺に中心街が形成されるという地域づくり上での集積機能や、地域のシンボル・文化性、さらには地域への愛着をはぐくむといった価値を持っている。まさに鉄道は地域資源、生活財産であり、これを地域が失うことの意味は大きい。

                   関論文 73ページ

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 本来は交通権一般をまず問題とすべきですが、ここでは主に鉄道を念頭に置いて交通権をイメージし、そういう方面にやや広がりを持たせて考えます。上記の諸論稿によれば、諸個人の移動する権利を原初として、それに伴って地域社会・地域経済ひいてはそこでの文化性の形成を担う「鉄道を含む交通網の存続」を不可欠の条件として、交通権の内容が捉えられています。そして池澤夏樹氏が憲法25条を引いて「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という位置づけを交通権に与えていることからも言えるように、「保障するのは国の責任である」(上記畠山論文)という捉え方、つまり社会権として把握することも重要でしょう。

 交通権について勉強したわけでもなく、本特集を読んで勝手に以上のようなことを言っているだけなので恐縮ですが、ついでに言えば、交通権という言葉はあまり聞きません。それは、「日本では旅客輸送の面で鉄道はなくてはならない存在であり、大都市や幹線では大量の利用者があるため、特段の助成措置を講じなくても鉄道事業が成り立つという特徴が」(安部論文、15ページ)あるため、従来「国の責任」が問題となることが少なかったという事情によるものでしょう。したがって「日本は民営的手法で公共交通が提供されてい」るため「民営事業者は採算が取れないとなったら、撤退します。こうして、公共交通の空白地帯が生まれていきます」(同前、28ページ)。かつてのような人口増大・経済成長が望めない今日では、そういう事態がますます増えていきます。「そうしたエリアでは、自治体が予算の一部を使ってコミュニティバスや乗合タクシーの運営などを行っていますが、住民の移動の手段の確保は行政の重要な役割であり、福祉施策の一つといってもいいと思います」(同前)という状況が生じ、交通権が意識されざるを得なくなります。

 今日でも大都市や幹線では民営的手法で公共交通が提供できますが、地方ではそれが困難になり、移動に支障が出る地域が増えていきます。資本主義市場経済の論理で行けば、「赤字路線はなくなっても仕方がない」(小田論文、70ページ)のですが、そうなると地方の人々は移動の手段を失い、豊かな地域社会をつくる公共財を失うことになります。したがってたとえ赤字路線となってもそれを維持するのは、「移動の自由を保障する基本的人権の確保であり、生活権の保証でもある。それは決して地域エゴなどではない」(同前)という交通権を認める言説が成立します。とはいえ、経済成長の低下した昨今では、不採算・非効率部門を淘汰して全体の生産性を上げるために市場の論理が闊歩しており、支配的イデオロギーとなっています。交通権を補強する論理をもってそれに対決して世論の支持をよりいっそう得ることが必要と思われます。

 

2)交通権の正当性

 まずは問題提起として、市場の論理の側からは状況がどのように見えるかを予想してみます。

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 マイカーの利用者にとって公共交通は「タダでも利用しない手段」である。したがって市場メカニズムに基づく需要・供給の調節は機能しない。三大都市圏以外では公共交通は「オマケ」のような位置づけに置かれ、公共交通の維持のために公費を支出することは一方的な負担であるかのように認識されてきた。   上岡論文  49ページ

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 これに対しては、交通権を導き出す上記の豊かな表象を対置することができます。農業が単に食料生産だけでなく、(里山など)地域の自然形成、環境と景観の保持、さらには地域社会の維持にも役立っているように、交通も移動手段だけでなく多面的価値をもっている、ということです。たとえば地方路線が廃止されれば、「高齢者の出控えによる社会参加の機会の減少や、通学可能な地理的範囲の縮小、さらには観光客の減少といった、地域に対するマイナスの影響」(関論文、74ページ)が考えられます。そこから裏を返せば、たとえ不採算でも地方路線は「移動手段としての側面のみならず、商工・観光面での重要性、交流人口増加といった多面的価値や存在価値を有し」、その「存在そのものが地域の維持に役立つ可能性」(同前)を持っている、ということになります。

 この多面的価値をより明示して当該対象の存在価値を試算するのが、「クロスセクターベネフィット」という考え方です。それは「ある部門で実施された施策が、他の部門に利益(節約)をもたらす効果」であり、「逆にいえばもしその施策がなければ他の部門に出費が発生する影響をもたらす」ものであり、「これを交通にあてはめれば、地域公共交通サービスが存在することにより、医療・福祉・まちづくり等の行政費用が節約されている効果を指」します(上岡論文、50ページ)。クロスセクターベネフィットの試算によれば、公共交通への補助は何倍もの便益を生み出しています。したがって「公共交通への補助は『赤字の穴埋め』ではなく、地域の持続可能性を維持するための投資と考えるべきで」す(同前)。

 「内部相互補助」の概念も重要です。それは(鉄道に適用すれば)「原価主義と独立採算を路線ごとに厳密に守ろうとするのではなく、鉄道全体としての収支があえばよいという考え方」で「赤字路線を黒字路線の超過収益でカバーし、鉄道ネットワーク全体としての収支のバランスをとることを意味する」(関論文、77ページ)ものです。これは郵便や電話事業にも見られるユニバーサルサービスの考え方です。それは「不便な地域に住んでいようと便利なところに住んでいようと、同じ日本国内の住民が、同じサービス水準 …中略… を享受するための費用負担について、あまりに大きな差が生じることは不公平であり望ましくない、という国民的合意が存在してはじめて成り立」ちます(同前)。

 こうした国民的合意を邪魔するのが新自由主義構造改革の規制緩和万能論です。そこに生まれる対峙状況について情理を踏まえて捉えたのが内橋克人氏の以下の言葉です。

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 ただ大変残念なことに、現在の規制緩和一辺倒論は、なまじ経済学の装いをもち、あるいは経済学者が主導しているがゆえに、一見、理路整然としている。そのために、当事者はどう反論してよいか分からず、面と向かって声を上げるのも難しい、という状況にあり、現場の人びとは、既得権にしがみつく守旧派扱いされても反論できなくて、本当に悔しい思いをしているわけですね。    『世界』19978月号133ページ

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 鉄道などの交通権に即して言えば、地方の人々に向かって「赤字路線を無理に維持するのは地域エゴだ」と罵倒する類の「既得権にしがみつく守旧派扱い」型の批判が該当するでしょう。1990年代後半は新自由主義イデオローグによる規制緩和万能論が主要メディアを完全制覇していました。メディアには出ないにしても一部の生産力主義的マルクス経済学者も同調していました。メディアで孤軍奮闘していた良心的エコノミストの内橋氏が主流派「経済学(者)」を厳しく批判し、「現場の人びと」に温かい目を向けていたことは、知的誠実さと勇気において特筆すべきことです。格差・貧困の拡大と経済停滞で新自由主義の失敗が明白になった今日ではその先見の明は誰の目にもはっきりしています。

 当時の座談会「再販維持は文化の問題」(『世界』199710月号所収)で、作曲家の服部克久氏が「消費者の利益」とは、CDに関して言えば、値段が安いということではなく選択の余地がたくさんあることだ、と指摘しています。また「簡便主義は文化にはそぐわない」とされ、文化論には考え及ばない学者たちに「彼らの頭の中は、単純に、独禁法のたった一つの除外例の再販制を取っ外せば独禁法はきれいになるということじゃないでしょうか」と喝破しています。「理論の美しさ」の罠にはまって現実と人間を見失う学者の性を見抜いているようです。その上でユニバーサルサービスについてこう言及しています。

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 たとえば過疎地とか遠方の地方の流通のお金のかかっている分を都市の読者が負担するのはいかがなものかと言うけれども、そんなことは当り前じゃないですか。そういうものを維持するために負担できる人がちゃんと負担していかないと、社会とか人間の関係というのはなくなります。こんな考えは論外だと思います。

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 人間社会についてのまともな考え方として、私を含め多くの人々はこの議論に賛同すると思いますが、市場原理主義者は納得しないでしょう。彼らの納得を得るのは如何にしても無理でしょうが、彼らに影響されている人々を一人でも多く奪還することが必要ですので、議論を続けます。

 公共交通への公的負担について、赤字の穴埋めであって経済的に非効率なのでやめるべきだという議論があります。それに対しては、先述のように、その多面的価値に着目して、クロスセクターベネフィットを試算すれば、公共交通への補助は何倍もの便益を生み出しており、非効率ではないと反論できます。これはそれぞれの地域における公的負担のあり方の問題ですが、地域間の関係も問題となります。先述の内部相互補助、あるいは公的負担を広域に調整する制度などの場合には、都市から農村への所得あるいは財政的移転が生じることになります。それには国民的合意形成が必要です。その根拠として、不採算路線維持を正当化する公共性を設定し、地方での交通権を保障する考え方は以下のようになります。

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 都市部から農村部への所得・財政移転によってローカル線の存在が可能になるとすれば、農村部が都市部に対して経済・財政的に依存していることを意味する。しかしそれは都市と農村の相互依存関係の一部と理解すべきだろう。 …中略… エネルギー、電力、水、食料など、都市は自らの生活の維持にとって不可欠な物質的基盤の多くを農村に依存する、いわば都市は物質的には農村に依存している関係にある。

 一方、農村は、地域文化、森林資源や土地(耕作放棄地)をはじめとした地域資源を、資金・人材不足によって十分に維持・利活用できない状態にある。こうした未利活用状態に置かれ、維持も困難になっている「地域資源」を国民的利用に供するためにも、農村が持続的可能性を持つことは重要であり、都市住民も含めた全国的な問題として受け止める必要がある。ここに市町村と国・都道府県、農村と都市との間で財政調整していくことの根拠が求められる。          関論文 81ページ

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 以上のように、農村地域が持続することは都市にとってもぜひ必要であり、それには十分に公共性があることが分かります。都市部から農村部への所得・財政移転によって、農村部の未利活用状態に置かれ、維持も困難になっている「地域資源」を国民的利用に供することができるならば、問題はゼロサムではなく、ウィンウィンであることが分かります。こうして農村と都市との関係を対立ではなく共存として構想できるならば、公的負担などによる不採算路線の維持への世論の支持を得るための有力な根拠になります。

次いで以下、農村と都市との相互依存関係についてよりいっそう突っ込んで考えてみたいと思います。関論文は、農村が都市に経済・財政的に依存し、都市は農村に物質的に依存し、両者を合わせて相互依存関係にある、と見ていますが、私は物質的には両者は相互依存関係にあり、経済・財政的には農村が都市に依存している、と見ます。関論文では物質的には都市が農村に多く依存しているように描かれていますが、農村生活での消費財や農機具などの生産財の多くは都市工業によって提供されていることを考えれば、相互依存関係であると見ることができます(ただし人間生活にとって根源的に必要となる物質的基盤を提供する自然は農村に多く存在するという意味では農村に優位性はあると言えるかもしれませんが)。ただし農村と都市との関係についてのこのような意見の違いがあっても、都市部からの所得・財政移転によって、農村部における未利活用資源を活かす、という点では一致できます。

先に北海道が食料を使用価値量としては大量に生産しながら、価値的には割安に全国に供給していることを指して、「北海道の労働奉仕」と表現しました。農村と都市との交換関係に着目すれば、食料を割安に提供する側は工業製品などを割高で購入していることになります。そこに農業と他産業との所得格差が成立します。そのような価値的関係は産業間の不等労働量交換を意味します。産業間の問題は地域間の問題として現われます。

つまり農村と都市とがそれぞれの産業の製品を交換する関係が成立しつつも、同時に農村の多くの労働量が都市のより少ない労働量と交換されることで、所得格差が生じ、それを埋めるために都市から農村への所得・財政移転が存在するというのが現状の関係です。これは使用価値的には相互依存関係が成立しているが、価値的には一方が優位な依存関係になっている、ということです。その根源は農村と都市との不等労働量交換にあります。なぜ不等労働量交換が成立するのか、は考えるべき課題ですが、まずは両者間に成立している「使用価値的な相互依存関係」と「価値的な優劣型の依存関係」とを比べて、前者が尊重され後者は修正されるべきだという政策的判断を下すことが必要です。少なくとも現状の農村と都市との格差を拡大することなく、(使用価値的な相互依存関係としての)両者の経済関係を維持するためには、所得・財政移転が必要であり、内部相互補助や公的負担による公共交通の維持はそうした政策判断の一環として位置づけられます。

 そもそも経済の最深層は労働の社会的編成と産業の実物的連関という使用価値次元の関係であり、それをうまくやりくりできるかが経済のあり方にとって最重要な課題です。資本主義市場経済の最表層では、利潤追求を推進動機とし市場価格範疇に基づいて運動し資本蓄積を展開します。それは必ずしも経済の最深層の課題を解決するものではありません。むしろ農村と都市との関係に見られる不等労働量交換を原因とする困難のように、その課題を深刻にさせるものであるので、「市場に任せる」のではなく、当面は政策的再分配で解決するしかありません。根本的には農業所得を増大させ、所得・財政移転を少なくすることが必要であり、それを資本主義市場経済で達成することは難しいと思いますが、そこに民主的規制を加えたルールある経済社会においては、「使用価値的な相互依存関係」に見合った「価値的な相互依存関係」を築くことが必要です。格差構造を伴う経済の現実は利潤追求と市場価格範疇によって成立しているのであり、確かにそれは現存在です。しかしそれを不動の前提と見るのでなく、資本主義市場経済による失敗であると見て、労働の社会的編成と産業の実物的連関を調整する、という観点から政策的に是正することが不可欠だ、と捉えるべきです。

 

3)交通権を実現する政策

 以上で、交通権の内容と、それを実現するために公共交通へ公的負担をすることの正当性を見てきました。次いで交通権実現の政策に触れます。

 まずEUの公共サービス義務(PSO)補償を紹介します。PSOは「一般的利益から必要とされる旅客輸送サービスを監督官庁が事業者に行わせる場合に、それに対して補償を行うというもので」す。一般利益のサービスとは「鉄道事業の公共性」であり「市場の力にゆだねていた場合には実現できない安全で、高い品質の、そして安い価格で提供されるサービス」つまり「不採算であっても、社会的に望ましい」サービスです。さらに「交通における一般的利益には、アクセス確保、雇用確保、環境保護や地域発展における社会的役割もふくまれてい」ます(桜井論文、33ページ)。まさにPSO補償は交通権保障の豊かな内容を実現しようとするものです。

 実績を見ると、PSOによる旅客輸送は鉄道輸送全体の中で、EU28ヵ国全体で2014年には68.1%を占めます。鉄道運営費に占めるPSO補償の割合は、12年の調査でEU平均は41%程度となります(桜井論文、3334ページ)。EUでは農業保護が手厚いと聞いていましたが、鉄道でもこのようにPSO補償が定着しており、日本でも同様の政策的枠組みを整備して交通権を保障することが必要と思われます。

 日本における交通権確保の政策としては、以下のように、短期と長期の両視点を持って、前述の「内部相互補助」とともに、道路行政との調整を含む公的負担の制度設計が重要となります。

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 全国の廃線問題への短期的対応としては、すでに述べたようにJR各社における内部相互補助の維持を追求することが重要である。しかし、JR北海道のように内部相互補助による鉄路維持が不可能な場合もあるため、JR各社による経営安定化基金の充実と並行して、長期的には公的負担を前提とした制度設計も構想されなければならない。具体的には、国と地方の財政調整制度において、鉄道を交通インフラとして明確に位置づけ、少なくとも(鉄道インフラ部分については)現在の道路なみの地方財政措置を実施することを考えるべきである。

 誰もが享受することのできるナショナル・ミニマムとしての鉄道サービスの維持・存続という位置づけを明確化し、すくなくとも国道なみに国の責任と関与、財政措置を採るべきであろう。既存の第三セクター鉄道など、沿線自治体・住民に過度な負担を強いる形で鉄道を存続するこれまでのやり方を改め、国・都道府県のレベルで、道路、バスも含めた交通手段全体にたいする現在の財政措置の体系をトータルに見直し、その中で鉄道を位置づけることが、ローカル線の存続にとっては不可欠である。財源は道路インフラをはじめ既存の交通関連の事業費を再編し、さらに交通・自動車関連の税制などを活用しながら確保されなければならない。         関論文 80ページ

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 内部相互補助は企業の内部で行われるものですが、市場任せに放任していては実施されません。「内部相互補助は企業の自主性によるものではなく、撤退を規制することで可能になる」(関論文、77ページ)のだから、民主的規制が必要であり、それには国・自治体の確固たる姿勢とともに、そういう姿勢を取らせるためにも地域住民の運動が重要です。本特集の諸論稿も廃線阻止や公的負担実現においては首長の姿勢が結果を左右することを指摘しています。また上記に鉄道インフラについて「現在の道路なみの地方財政措置を実施する」とか「国道なみに国の責任と関与、財政措置を採るべき」と主張されています。これについて以下では、「上下分離」という形で国の責任を求めています。

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 鉄道は道路、港湾、空港、国土保全などと並ぶ基本的公共インフラとして、国の基本政策に位置づけるべきである。そうした公共インフラとしての鉄道を維持するためには、いわゆる「上下分離」の「下」(レール・地盤・橋梁等)の部分を国が担うことを求める必要がある。          小田論文、70ページ

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4)公共交通における企業――JRの社会的責任

 以上、交通権保障という問題で、公共交通の公的負担などに焦点を当ててきましたが、運輸資本、特にJRの問題も重要です。JR北海道が事故を多発し安全面で危機的状況にあるとともに、路線の半分について「自力で維持困難」と廃線や地域への負担転嫁の姿勢を示しています。JR北海道は運用益が減少する下で「駅ビルなど不動産事業の拡大で利益を向上する策と、鉄道の補修・保線など安全面での人減らし・リストラによる経費削減策」(畠山論文、52ページ)を講じました。その結果として事故と不祥事の続発となり、慌てて安全関連費を増額して「路線維持困難」と言い出しています。JR北海道がこうした状況では、もはや国が交通権と安全への責任を果たす緊急対策を実施する必要があり「中長期的にはJR各社などが利益にふさわしいお金を出しあう『公共交通基金』を確立して全国の鉄道網を支えるといった抜本的打開が必要です。技術継承が問題化している今、その確保と養成も急がれます」(同前、57ページ)。

 またJRはその内部においても、公共交通を担うのにふさわしい企業となることが求められます。最近、輸送障害が大幅に増加していますがその「背景には、国による安全に関わる規制緩和とJR各社による車両・設備の検査周期の延伸があります」(相木論文、86ページ)。また職場の状況、労働者の働き方にも問題があります。

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 競争主義的な成果主義の人事・賃金制度が浸透し、一人ひとりが個人で仕事をしているような状況におかれています。職場のなかで仕事の段取りや注意すべき点について話しあう機会が奪われ、安全に対する意識や基本的な行動が希薄になっているように感じます。「ものがいえぬ」職場風土になっている。その積み重ねが、重大事故につながるミスやトラブルとして現れています。     同前

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 これでは公共交通を担うJRの社会的使命を自覚した労働者が生まれません。このような職場を改善し人々の交通権を実現するJRに向けた労働組合の闘いが求められています。

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 鉄道は交通弱者には必要です。鉄路を活用し、地域を活性化していこうという声や運動の広がりもあります。そういう世論と運動を広げていくのが私たちに課せられている課題です。そして鉄道の安全・安心を支えるふさわしい労働条件を、グループ会社の労働者を含めて検証していくことが必要だと考えています。   同前 89ページ

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 資本主義市場経済において、企業は内部における労資関係と、外部である市場における社会的責任との接点にあります。公共交通を担う企業であれば、社会的には通常の営利企業とは違った高い公共性を課せられています。そのような業務を担う協同的な職場と労働者が求められるのであり、もっぱら搾取強化のための分断を狙う競争主義的な労務管理はやめねばなりません。そうした中で、交通権としてのさまざまな内容を持った世論の要求を背に受けて「鉄道の安全・安心を支える(のに)ふさわしい労働条件を、グループ会社の労働者を含めて検証していくこと」は労働組合ならではの任務としてきわめて重要です。それはJRを公共交通の担い手としてのまともな企業に変えていく闘いでもあります。

 

5)交通権と資本主義市場経済の論理

 先に農村と都市との不等労働量交換の問題に触れました。そこでは地方における困難の根源に、コスト割れの米価に象徴される農産物価格の低迷、それによる農業所得の減少が引き起こす地域経済の停滞があります。都市の労働者の賃金も低迷していることは農産物価格の低迷と連動しており、その意味では農村と都市とは低いところで均衡しているのですが、低賃金は強搾取の結果であり、それは大企業に莫大な利潤をもたらしているので、やはり全体としてみれば、農村経済は都市経済に対して劣位にあります。その上で農業機械の高価格と農産物価格の低迷を見れば、農村と都市との不等労働量交換が地方の疲弊・地域経済の停滞の土台にあることが分かります。さらにそこに資本の強搾取による低賃金の問題を併せて考えれば、地域間格差は階級間格差と関連があり、そこを逆転して農家と労働者が共に豊かになる道が求められるべきです。低賃金の故に低価格の農産物を求めるという状況から、適正な賃金を得て適正な価格の農産物を求めるという状況に変え、農業機械の高価格を是正する、という方向に進めば、農村と都市との不等労働量交換は緩和され、農家と労働者の生活が共に多少なりとも改善されます。

 ただし農産物価格と農業所得の低迷はそれだけで説明されるとは思われず、農産物輸入など対外経済関係が重要であることは明らかです。そのように様々な要因があります。公共交通について見ると、EUの公共サービス義務(PSO)補償を紹介した際に、PSOとして補償されるのは一般的利益から必要とされる旅客輸送サービスであり、それは不採算であっても、社会的に望ましいサービスだ、ということを見ました。社会的に望ましいサービスがなぜ不採算になるかが問題です。人間の存在にとって不可欠な農業が不採算であるのも同様な問題を抱えています。

 商品生産においては、独立してそれぞれ勝手に行なわれる私的労働が、社会的労働でもあることを認定されるのは、私的労働の生産物である商品が市場で交換される、つまり売れる(=価値が実現する)ことによります。ならば、売れない商品・サービスに投じられた労働は社会的労働ではなく、単なる私的労働に過ぎないことになります。そうした商品生産の論理=市場の論理によれば、不採算の公共交通を担う労働は単なる私的労働であって、社会的労働ではないことになります。社会的労働と認められない私的労働は不要とみなされて市場では淘汰されます。資本主義市場経済の論理を純化した新自由主義の政策では、不採算の公共交通は切り捨てられます。実際にはそれでは人間社会は成り立たない、という見方が多いでしょうから、すべてストレートに行くわけではありませんが、「抵抗勢力」が微弱であれば切捨てが断行されます。

 それにしても、たとえ不採算でも公共交通はまともな社会にとっては必要だ、と多くの人々によって認められると思いますが、それが市場の論理では淘汰される、ということの意味を考える必要があります。これに類似したことは、近代経済学の教科書では「市場の失敗」という項目で取り上げられて、あれこれ考察を加えられています(それについて本来勉強しておくべきですが、私にとっては宿題として残されています)が、マルクス経済学ではどう扱っているのでしょうか。私が知らないだけかとは思いますが…。あるいは、そんなことはそれぞれの問題の具体的な状況に応じた原因があるのだから、不必要に一般化するのは誤りだ、とか、商品=貨幣関係の次元という意味での市場経済ではなく、資本の再生産・蓄積論の次元の問題だから、市場の論理という形で問題にするのは誤りだ、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、公共交通の維持など、まともな社会運営にとって必要なものが、その経済システムで充足されないということが構造的に起こっている以上、格差・貧困の拡大の問題と同様に、それも資本主義市場経済の欠陥であることは確かです。

 やや大げさに言えばこの問題は人類史的に捉える必要があります。本特集からは外れるのですが、三輪定宣氏の「教育無償化・奨学金と『2018年問題』 迫られる政府の国際人権A規約13条履行義務は、教育無償化の問題を次のように実に気宇壮大に捉えています。

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 同条(国際人権A規約13条…刑部)は、人類史700万年の視野からみれば、その99.9%を占める共同体における無償教育の伝統から貨幣経済のもとで有償教育へと偏向する人類の劣化の歩みを軌道修正した進化の復元力の証であり、未来への羅針盤にふさわしい。有償教育は、教育費の自己負担により、教育を私的利益の手段とし、利己的・打算的人格形成を促すが、無償教育は、教育費の社会負担により、教育を公的利益の手段とし、他利的・無償的人格形成を促す真の教育費の形態である。有償教育は、人間の尊厳に反する利潤・競争社会を助長するが、無償教育は、人間の尊厳に適合する無償・共同社会の基盤となり、人間らしい社会の発展、進歩の推進力となる。無償教育は、21世紀に予感される「文明の暴走」を制御する教育の力の根源、人類の存亡にかかわる価値として認識され、発揚されなければならない。            137ページ

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 経済学の観点では、物質的刺激による効率化・生産性向上、あるいは利己心の発揮による独立した人格の形成なども含めて、市場経済の歴史的存在理由を認めます。それに対して三輪氏の議論は遠大な人類史を語りながらも、市場経済についてはもっぱら倫理主義的に断罪しているという意味では非歴史的議論のように感じられる部分もあります。しかしグローバリゼーション下、新自由主義のイデオロギー的覇権が確立して以降、無批判的な市場礼賛(実質的には資本主義市場経済への礼賛)が跋扈している今日では、人間の尊厳と共同社会の観点からする市場経済批判は未来を切り開くものとして必要です。確かに私たちの眼前には、三輪氏の指摘するように、21世紀に予感される「文明の暴走」や人類の存亡にかかわる問題が現存するのであり、その際に、資本主義市場経済の発展期の価値観にとらわれるのでなく、それを批判的に継承しつつ、新しい共同社会をつくり出す価値観へと移行していくことが求められます。無償教育の実現は、資本主義市場経済である現在の中に未来の共同社会からの飛び地をつくることであり、それは未来へのテコとして「人間らしい社会の発展、進歩の推進力となる」と言えます。

 公共交通があらゆる人々の交通権を実現するようにその潜在力を解放するのは、資本主義市場経済を止揚した未来の共同社会においてです。しかし今日においても、人々の運動とそれに後押しされた政府・自治体による公共交通の充実は、諸個人の発達と地域経済の発展を通じて未来社会を切り開くテコとなるでしょう。

 以上、理屈をこねるばかりで、統計などを用いた現状分析がないので、拙文の議論の実証性は心もとない限りですが、問題提起として書きました。

 

(注)池澤夏樹氏における文学と社会認識

 

 池澤氏はかつて「朝日」夕刊「文芸時評」を連載していました。そこから文学と社会認識に関する発言を紹介します。

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文学は美的対象としてそれだけであるのではなく、哲学や社会科学と並び立って、国と地域と言語と時代を表現している。    1996924日付

 

文学は目の前の飢えた子供を救うことはできないが、十年後の飢えた子供を何人か減らすことはできる。原理的には文学は時代にコミットする力を持っている。

                    1997225日付

 

小説家はジャーナリストの後からやってくる。その到着には数年から数十年かかるのが常だ(歴史家や哲学者はもっと遅いかもしれない)。

大きな事変が起こって、たくさんの人が巻き込まれる。多数の死者が出て、社会の枠組みが根底から変わり、人々の心に深い傷が残る。報道はすぐに行われる。その日ぐらしのジャーナリストがかけつけて、その時点で事実と思われることを片端から言語や映像にしてゆく。そのしばらく後、小説家が登場する。事実の全容をつかみ、かかわった人々全員が被った害を計り、後世にとっての意味を探り、フィクションの形で記述する。それは互いに矛盾するさまざまな見方を包み込むべき弁証法的な仕事だから、小説という器が最もふさわしい。              1997625日付

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 池澤氏は社会的発言を積極的にする人ですが、そこには以上のような方法論的自覚があることを私たちは知っておくべきでしょう。

 この「弁証法的な仕事」をフィクションではなく法則認識の形で果たすのが社会科学ではないでしょうか。現実を前に、社会認識においては社会科学も文学と同じスタートラインに立っています。両者の関係について、内田義彦氏は「人間の全体把握において、文学のみの養いうる想像力」(『作品としての社会科学』岩波書店、1981150ページ)を指摘し、「科学的研究方法による正確さが、文学的に確かな手ごたえを導きの糸にし、より的確な把握に向って動員されねばならぬ」(同前、183ページ)と主張しています。感性と知性、「人間の全体把握」を経過した社会認識と変革的実践への道を見据えられるようにしたいものです。文学と社会科学の相互作用の意義は大きい。

 

 

          朝鮮半島蔑視が日本人を不幸にする

 ヘイトスピーチをあからさまに支持するような人はさすがにごく少数でしょうが、残念ながら日本社会においては未だに韓国・北朝鮮とそこに暮らす人々を日本(人)より下に見るような(潜在)意識があるのではないでしょうか。それが、空気のようにある対米従属意識とあいまって、日本人の政治意識を遅らせ、戦後最悪の安倍政権を支える一因となっているように思います。北朝鮮の核・ミサイル問題で、安倍政権が対話拒否を貫き、それのみならずトランプ政権を強硬姿勢へと煽っており、そんな姿勢でありながら、メディアで強い批判も受けずにいるという異常事態がありますが、それを支えているのが朝鮮半島蔑視の意識ではないかと思います。メディアが朝鮮半島蔑視をさまざまに煽っていることがこの世論をつくりだしている点も見ておく必要がありますが。

 そうした意識の根底にあるのが、歴史への無反省でしょう。日本の支配層が侵略戦争と植民地支配をいまだに十分に反省しておらず、日本人の多くが、教育やメディア支配を通じてその影響下にあります。日本軍慰安婦問題で安倍政権がやったのは、被害者を置き去りにしてとにかく口先だけのお詫びを発して金を払い、もうこれで決着として、後は一切文句を言うな、という「解決」です。ただただ終わりにしたいという思惑だけがぎらついて、そこに一切の誠意がないので、被害者は納得できません。日本の世論はおおむねこういう政府の姿勢を容認しています。慰安婦問題に限らず、アジアでの歴史問題については、右翼的言説にあからさまに同調することは少ないにしても、「いつまで言われ続けなければならないのか」という開き直りに近い心情が大勢です。世論に真摯な反省が弱いために、右翼的政治家の失言が後を絶たず、彼らがのうのうとのさばっている現状にアジア諸国からの批判がなくならない原因があります。

北朝鮮蔑視では、政権と人民とが区別されていません。北朝鮮は暴虐な独裁政権だからといって、それに支配される人民も同様に蔑視するのは誤りです。彼らは、将来、いや今からでも、経済・文化交流を通じて豊かな東アジア地域をともにつくり上げていくべき仲間です。日朝国交正常化を通じて、政権の変化を徐々に促していくという道を探るべきでしょう。日本経済にとって北朝鮮市場が開かれることは大きなチャンスであり、文化交流による友好の醸成は平和に大いに貢献することは間違いありません。北朝鮮人民に対する蔑視は、そうした想像力が発揮されるのを邪魔しており、それはせっかく開かれる可能性を持った東アジアの未来を閉ざす心情です。

北朝鮮蔑視では、ただ単に北朝鮮の政権を軽蔑するだけでなく、その外交上のしたたかさを強調することもよくあります。それは対象をバカにするだけでなくあたかも冷静に見ているかのような印象を与えます。しかしそこには腹黒い狙いがあると見るべきでしょう。  

安倍政権のみならず、メディアでも北朝鮮との対話拒否論が大勢になっています。ここには一つには、戦前における軍拡と侵略への同調に似て、勇ましいことを言う方が受ける、というメディアの浅薄な姿勢があります。それだけではありません。「北朝鮮の微笑み外交」などと揶揄し、核・ミサイル開発の時間稼ぎに、日韓あるいは米韓の離間を狙っているのだから、それに乗ってはいけないと、北朝鮮外交のしたたかさに対する警戒を小賢しく主張しています。政府とメディアが一体となったこの状況をどう見るか。

これが日米あるいは米韓の軍事同盟絶対視から出ている、という点はここでは問わないにしても、不思議なのは、いつもあれだけ北朝鮮をバカにしながら、外交上の振る舞いについては「敵ながらあっぱれ」とでも言わんばかりに持ち上げて、警戒に値すると評価していることです。「児戯に等しい北朝鮮の独裁政権に対して、自分たち民主主義の政権は成熟した大人の外交をできる」という自負があるならば、「微笑み外交」を仕掛けてきた北朝鮮に対して逆手に取って非核の方向に導く外交へと引きずり込むべきではないのか。

もちろん日本外交にそんな能力も意志もありません。能力がないのは、対米従属で自分の頭で考えることができないからだし、意志がないのは、暴虐で危険な北朝鮮政権が存在することを自らの利益とするのが現政権だからです。日本自身の軍拡だけでなく武器輸出もして軍需産業を潤すことができ、政治献金へのお返しができるというものです。北朝鮮の脅威を煽ることは念願の改憲の必要条件でもあります。北朝鮮との対話を拒否する真の理由はそのあたりにありそうですが、それを隠すために、「北朝鮮のしたたかな外交にだまされないように、今はひたすら圧力だけ、対話のための対話は意味がない」と言い続けています。

その延長線上にあるのは、トランプ政権のすべての選択肢を支持する、として米国の先制攻撃も容認し、はては自国についても、専守防衛は難しく、自衛のためには先制攻撃する方が容易だ、という意味のとんでもない安倍発言です。ある憲法学者が、これは日本国憲法違反どころか、国連憲章違反の暴言だと言っています。なぜこんな重大発言が見逃されているのでしょうか。本当なら即刻クビでしょう。

 退任した外交官や官僚の中には、日・米と北朝鮮との対話の必要性を説いている人もいます。だから現役の人たちにしてもみんなが間違っているとか、ましてや無能というわけではないでしょう。度し難い政権の姿勢がすべての悪事の原因ですし、それを支えている経団連などの支配層に責任があります。

メディアでの韓国、特に文在寅(ムンジェイン)政権への蔑視は目に余ります。安倍政権といっしょになって、北朝鮮に取り込まれるな、とエラそうに説教しています。戦後最悪の安倍政権を支えている日本のメディアが、(反動的な朴政権を民衆が倒して登場し、)少なくとも安倍政権よりはずっと進歩的な文政権をバカにするというのは笑止千万。

彼らは、日本にとっては韓国が保守政権であるのがよく、進歩的政権は不都合だと見ていますが、それは日本人民の立場ではなく支配層の立場に立っているからです。慰安婦問題にしても、結局「日本の沽券にかかわる」という体の報道姿勢でいいのでしょうか。日韓どちらであろうとも、慰安婦問題にまじめに取り組まない政府の下にいる人民は不幸であり、それにまじめに取り組む政府の下にいる人民は幸せなのではないでしょうか。「国益」なるものの中には支配層の利益に過ぎないものがあることに注意すべきです。社会進歩の見地から見た普遍的な利益に照らして「国益」の性質を判断する必要があります。多くの人民がナショナリズムに囚われて社会進歩の利益を見失っているのが、日本の現実です。

平昌(ピョンチャン)五輪では、日本のメダル獲得についてのナショナリズム的な報道が圧倒的に多かったです。しかし小平奈緒・李相花(イサンファ)両選手の友情物語など、国境と勝敗を超えた交流も伝えられました。それはスポーツを通じて人間の普遍性・共同性を描くものであり、これが平和の祭典と言われる五輪の目指す姿です。そうした中でも、ひたすら韓国と北朝鮮を揶揄の対象としか見ない一部の日本人の存在は本当に恥ずかしい限りです。こういう「愛国者」が日本人を不幸にしています。
                                 2018年2月26日





2018年4月号


          安倍政権と政治スキャンダルを捉える

 

◎公文書改ざんの衝撃と安倍政治の本質

 

 森友学園をめぐって財務省の公文書改ざんが大問題になっています。すでに防衛省による南スーダンPKOの日報隠蔽、厚労省による裁量労働制のデータねつ造が暴露されています。情報や記録の問題とは別に、前川喜平・前文科省事務次官の公立中学校での授業に対する自民党や文科省からの圧力といった問題も起こっています。こうした一連の問題は、以下の動向の下で生じていることが重要です。――特定秘密保護法・戦争法・共謀罪法の制定、集団的自衛権行使容認の閣議決定、そうした解釈改憲に留まらず引き続く9条明文改憲の策動、といった、政府による情報管理と弾圧体制の強化を不可欠の要素とする「戦争する国家づくり」が民主主義・立憲主義破壊とともに進行している。――

日本国憲法下の平和・人権・民主主義体制へのこのように全面的で乱暴な破壊策動が一連のスキャンダルを必然的に生み出したと言えます。自民党=安倍一強状況が独裁政治体制を生み、もはや恐れを知らず何をやってもおかしくない、というところまで安倍政権は来たか、――そんなある種の感慨さえもよおす今日この頃です。

 このような事態とそれを起こした安倍政権をどう捉えるかについて様々な見方があり得ます。トランプ政権になぞらえて「フェイク政府」と規定するのも有力な見方です。斎藤貴男氏は「国民を己の支配欲を満たすための駒か道具としてしか捉えていない現政権は、嘘に嘘を塗り固め続けてきた」(「全国商工新聞」319日付)と糾弾しています。その根拠として、「森友」公文書改ざん・南スーダンPKOの日報隠蔽・裁量労働制のデータねつ造だけでなく、使用者側に都合の良い「働かせ方改革」を労働者にとっての「働き方改革」と見せるべく政策名を偽るネーミング詐欺、実質GDPの算定基準変更によるかさ上げ、日銀と年金による操作で実現した高株価、社会保障の充実と称して消費税増税が実は法人減税や軍事費に費消されている問題などを挙げています。つまり広範な政策領域が嘘に満ちていてまさに「フェイク政府」と呼ぶにふさわしいわけです。そういう状況に対して「彼は下衆な事実を暴露されるたびに、報じた側を、フェイクニュース≠セ、ねつ造≠セと嘲笑し、それがまた一部ネット右翼の喝采を浴びるデジタル社会の反知性メカニズムの中でのさばり続けてい」ます(同前)。「フェイク政府」に踊らされてそれを支える人々がおり、そういう社会状況が根強くあるのです。

 「朝日」編集委員の大野博人氏はさらに安倍政権の悪質さの深層を読み解き、「クーデタ」政権と規定します(同紙、325日付)。フランスの碩学ガブリエル・ノデが1639年に出版した『クーデタをめぐる政治的考察』が参考になるというのです。「クーデタ」とは当時の意味では、「国家が社会に加える打撃」です。ノデは以下のように主張します。

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 君主や宰相たる者は、道徳や法律を尊重しているだけではダメだ。そこから外れても公益のためなら、ごまかし、だまし、ときには暴力的手段も使わなければならない。つまり「クーデタ」という手法。君主の正義や徳、誠実さはほかの市民とはいささか異なる。「隠し偽ることができない者は、統治することもできない」

 なぜなら大衆は「獣より百倍も愚か」だからだ。 …中略… そんな大衆には秘かにあるいはいきなり衝撃を与え、操る――。

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 森友文書に見るように「今も為政者はその手法に頼るが、目的は公益というより権力の維持」です。

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 法や道徳を棚上げし、公文書を改ざんして問題点を隠蔽(いんぺい)する。愚かで気まぐれな大衆や「ペテン師」のようなメディアに余計なことを知られると話が面倒になるからとばかりのふるまいだ。それがばれても、「誤解させる」ための改ざんを「誤解されない」ためだったと人を食ったような一撃で切り抜けようとする。

 今月、改ざんの事実は明るみに引きずり出された。けれども、国民が正しい説明を受ける機会を奪われたままだった昨秋、安倍晋三首相は解散総選挙に踏み切り、それに勝った。ノデ流にいえば、社会に対する「クーデタ」は成功し、権力を維持したというわけだ。

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 大野氏によれば、前川喜平・前文科省事務次官の公立中学校の講演に対する文科省の「調査」も「クーデタ」政権による教育現場への一撃だと言えます。先述のように齊藤氏は「フェイク政府」を支える社会状況を指摘しました。大野氏も「クーデタ」政権の支援者の醜悪な役割を描いています。

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 「クーデタ」政権がつねに気にするのは正統性の弱さ。それを補強する言説を振りまき、疑いのまなざしをそらす情報戦略は欠かせない。森友文書や講演調査の問題でも、ひたすら政権の擁護に走ったり、官僚をあしざまに言ったりする国会議員や言論人が登場した。その姿にノデが本で触れている伝承話が重なる。権力を握ろうとする者が人々をたぶらかす方法について語る中に出てくる。

 人々にあがめられたいと願うプサフォンという男がいた。彼はおびただしい数のインコやオウムを飼育し、「プサフォンは神だ」という言葉をしっかり覚えさせた。そして、解き放った。あちこちから繰り返し降ってくるこの言葉を耳にした人々が、彼のことをほんとうに神だと信じるようにするために。

 プサフォンが放ったインコやオウムは今も、私たちの空を飛び交っていると思った。

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 安倍首相から罵倒されてきた「朝日」は「インコやオウム」としっかり闘うのみならず、今こそ「クーデタ」政権打倒の狼煙を上げるときではないだろうか。

 以上のように、財務省の公文書改ざんに代表される一連の事態は、民主政治の前提である公正さをかなぐり捨てて、権力支配の維持のためにはだましと弾圧が当然となることを白日の下にさらしました。さらに脅威となるのは、それを支える社会的空気をその担い手とともに作りだし、まともな世の中を作ることを諦めた体制順応主義とシニシズムが蔓延する社会への変質が促進されることです。安倍政権におけるその帰結は民主主義の破壊のみならず平和の喪失に直結しています。したがって安倍政権打倒の意義は、単なる一つの政権交代ではなく、平和と民主主義を救出するということです。安倍晋三氏がその政治的原点として「戦後レジームの転換」を唱え、それを政権奪取後も一貫して政治理念の中心に置いてきたことにはもちろん注目してきましたが、その深刻な意味を改めて戦慄を持って実感させたのが、財務省の文書改ざんに代表される一連の事態です。今この政権を打倒し損ねることは、後々まで響く歴史的悔恨となることは間違いありません。そうならないため世論の怒りをさらに高め、内閣支持率を奈落の底に落として、与党が雪崩を打って安倍おろしに動く状況をつくり出すことが当面の現実的展望ではなかろうかと思います。

 「フェイク政府」とも「クーデタ」政権ともいえる安倍政治のあり方を、一連の事態の中で財務省の公文書改ざんと文科省の前川前事務次官に係る教育現場への介入とに代表させれば、前者は嘘と隠蔽つまりだましであり、後者は弾圧です。他に弾圧の例としてさらに深刻なのは、辺野古や高江に代表される沖縄の米軍基地問題であり、ここでは住民の意思を無視した問答無用のあからさまな暴力による権力支配がまかり通っています。菅官房長官などは「日本は法治国家だ」といってこの問題を正当化し開き直っていますが、選挙や住民投票の結果を無視した「法」なんてありえないのであり、安倍政権は日本を「無法放置国家」にしているのです。

このように権力支配のために安倍政治は主にだましと弾圧に頼ってきました。一般論としては人民の積極的同意に基づく権力支配もありうるわけですが、安倍政治はそうではありません。だましと弾圧に基づく権力支配を捉える際に、「だまし」に重点を置いて見るのか、全体としての「権力支配」を重視するのか、という違いがあり得ます。

財務省の「森友」公文書改ざんの衝撃が余りにも大きいので、今はもっぱら「だまし」に着目した議論が優勢です。「だまし」を防ぐべく、公文書管理に始まり公務員のあり方などを含めて、民主主義との関係で行政のあり方が論じられ、それは普遍性を持った一般論にもつながり、極めて重要な意義を持ちます。本来の規範はどうあるべきで、一連の事態における現実はどうなっているのかがともに明らかにされるべきです。しかしその先に、なぜ規範と現実が乖離するのかが問題とされねばなりません。それは「権力支配」のあり方に切り込むことになるでしょう。

「行政のあり方一般」論自身は確かに重要であり、それは普遍的意義を持った論点ですが、一連の事態を見るとき、むしろ「安倍が悪い」という素朴な見方の方が本質を衝いているように思います。それは一見すると、問題の個別矮小化のようですが、普遍的意義を十分持っている、ということを以下では述べます。

 

◎安倍暴走を資本主義社会の原理までさかのぼって捉える

 

資本主義的生産関係は商品=貨幣関係を土台に資本=賃労働関係が展開します。商品=貨幣関係は「市場経済」を形成し、その等価交換の世界は、諸個人の独立・自由・平等・公平・公正の経済的基盤です。そこから民主主義の政治と市民法が成立します。資本=賃労働関係は「搾取経済」であり、資本と労働者との支配・従属関係が生じます。搾取関係による資本蓄積の進展は政治における資本家階級の権力の経済的基盤であり、その支配に対する労働者階級の闘争の反映として社会法が成立します。資本主義経済はそうした「市場経済」と「搾取経済」の二層構造を持っていますが、前近代の搾取社会とは違って、独自の「領有法則の転回」を介して搾取関係は市場経済の等価交換の外皮に包まれ同化されることで隠されます。よってその社会の公認のブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。

したがって発達した資本主義社会は民主主義の政治と資本家階級の権力という二重構造を持っており、その歴史的本質はいわば民主主義的階級支配社会と規定できます。民主主義と階級支配とは本来両立不可能ですが、ここで民主主義を形式と実質とに分けて考えてみます。一方で形式は、たとえば普通選挙権のように、普遍性や公正・公平を保障するものです。他方で実質は、デモクラシーの語源である人民の支配を意味します。日本国憲法を例に考えてみると、それは国民主権を謳っていますが、一貫して日本政治の実質は対米従属の独占資本に握られており、内実としての国民主権は実現していません。しかしあまりに問題が多いとはいえ、曲がりなりにも普通選挙権や議会制民主主義は存在しており、形式的・制度的には国民主権が整い、実質的な民主主義を実現する可能性は残されています。そのようなことを考えると、発達した資本主義社会は民主主義的階級支配社会である、という命題は、それは民主主義形式を具えた階級支配社会である、と言い換えることができます。

ところで資本主義社会ではブルジョア・イデオロギーが支配しており、労働者階級の多くもその影響下にあります。上述のようにブルジョア・イデオロギーでは資本主義経済は単層の市場経済であり、搾取の存在は否定されます。その政治的反映によれば、当然、資本主義社会は単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではないことになります。これは資本主義社会におけるタテマエであり、実際にはそのホンネである階級支配の要素が顔を出しタテマエを常に脅かします。資本主義社会における階級闘争――経済闘争・政治闘争・イデオロギー闘争――はどれをとってもこのタテマエとホンネの矛盾から発し、労働者階級はむしろブルジョア・イデオロギーを盾にとってそのタテマエの実現を迫ることができます。民主主義形式の破壊を許さず、その実質の充実を実現するという形で階級支配に対抗することができます。

ここで日本国憲法を見ると、一方で市場経済を反映して、政治的民主主義、市民法に対応する市民的・政治的自由が規定されています。他方、29条の財産権の不可侵は市場経済次元の見方では、人民の小所有を擁護する規定となりますが、一般的には消費資料だけでなく生産手段の私的所有の原理であり、資本主義経済したがって搾取の自由の根拠ともなります。ただし公共の福祉の概念によって経済的自由には一定の規制が加えられることで、社会法に対応する生存権・労働権など各種の社会権を実現する基盤が与えられています。そういう意味で日本国憲法は、(1)単に政治的民主主義と市民法に対応する内容をよく規定し、民主主義形式を整えることで資本主義社会のタテマエをきちんと表明しただけにとどまらず、(2)社会権を明確に規定することで、資本家階級の権力へ一定の規制をかけ、民主主義の実質の一部の実現を図り、(搾取の護持と階級支配の実現という)資本主義社会のホンネに一定の歯止めをかけるという性格も併せ持っています。

 改憲ないし解釈改憲=憲法の空洞化を目指す米日支配層と護憲=憲法の実現を目指す民主勢力との対決が、戦後日本政治史の一貫した基調であるのは、こうした日本国憲法の先進性の故であり、民主主義の形式と実質の両面をめぐる階級闘争において人民にとって有利な舞台として憲法が存在し続けたのです。

 さて安倍暴走です。お友達優遇による国政の私物化というのがその到達点であり、それは独裁による腐敗現象という他なく、今日の支配層の利益という観点をも超えています。ましてや資本主義社会の原理から考えた上記の理解がそのまま当てはまらないのは当然です。しかし安倍暴走政権といえども資本家階級の権力の一形態であり、その強権支配の出発点が資本家階級による支配である点で例外ではありません。国政私物化という特異性を持ちながらも、その政治全体を見渡せば、米日支配層の要求に応えて「よくやってきた」と評価されているでしょう。したがって安倍政権をめぐって日々メディアが伝える政治闘争の様子を見ても、それが資本主義社会のタテマエとホンネの相克であることは、主権者の公僕であるべき官僚が権力の下僕に成り果てている実態を見ても明らかです。

 しかし安倍政権も資本家階級の権力の一形態だというのはきわめて抽象的な規定であり、その暴走の本質を捉えるほんの出発点に過ぎず、もっと具体化する必要があります。それはグローバル資本主義の時代にあって、新自由主義と保守反動との野合政権であるという性格を持っています。現代資本主義を支配しているのはアメリカなどの巨大多国籍企業=グローバル資本であり、そのイデオロギーと政策である新自由主義は発達した資本主義諸国の政府にとって必携です。日本の対米従属政権がその例外であろうはずがありません。ただし安倍晋三氏の出自は保守反動派であり、美しい田園風景などを称揚するそのセンスは新自由主義とは本来は水と油ですが、現代の権力者としてその点はわきまえ、米国と財界の期待に応えるべく新自由主義政策を強力に推進してきました。従来の首相と比べてもその実現力は高く評価されており、支配層から保守反動の地金を警戒されつつも(「中国で商売できなくなるようなことだけはやめてくれよ」とか…)、適度に抑制して、ついに戦争法を制定するに至ったことは前人未到の「快挙」です。安倍氏のように議会制民主主義と世論を無視し悪法の強行を粛々と連発する首相はかつてなく、その蛮勇は「知的で上品な」支配層にとって望外の価値があります。彼らにとっては、この政権のご威光でネトウヨなどの反知性主義が隆盛になるような品の悪い事態も、気にするより分断支配に利用できるというものです。

ところで先に見たように、発達した資本主義社会は本質的には民主主義形式を具えた階級支配社会ですが、ブルジョア・イデオロギーにおいては、それは単なる民主主義社会であり、階級支配社会ではないことになります。これは資本主義社会におけるタテマエであり、実際にはそのホンネである階級支配の要素が顔を出しタテマエを常に脅かします。このタテマエとホンネとの相克のあり方が、資本主義社会のタイプによって様々に異なります。 

安倍政権は従来の自民党政権と比べてもきわめて強権的であり立憲主義無視と民主主義破壊が突出しており、まさに階級支配としての資本主義社会のホンネがむき出しになっています。この点では、新自由主義もまたケインズ主義などと比べれば、むき出しの階級支配という性格を持っています。労働運動への強圧的姿勢や社会保障の削減が当然のように追求されます。もっとも、企業別組合が主流の日本においては労働運動がもともと弱体で、初期の新自由主義政権である中曽根内閣が断行した国鉄分割民営化による国労の実質的解体と官公労の没落により、それ以降今日までストライキが実質的に消滅するなど、労働運動の抵抗はとるに足らないものになり、搾取強化と社会保障の削減が粛々と進行してきました。

新自由主義は生産過程における搾取強化、ならびに金融肥大化・カジノ化を本質とし、労働者階級への支配強化とともに資本主義社会の寄生性・腐朽性を進行させます。アベノミクスによる貧困・格差の拡大とそこから必然的に生じる実体経済の停滞と過剰貨幣資本による金融利益の拡大は新自由主義の矛盾と階級支配の拡大を示しています。搾取強化と貧困・格差の拡大を糊塗するために、「働き方改革」のように政策名を偽るネーミング詐欺や賃上げ・奨学金・待機児童対策・幼児教育など、アリバイ程度の政策を針小棒大に誇大宣伝するなどスローガン乱発のだましにこれ努めているのが安倍政権の実態であり、むき出しの階級支配を「印象操作」で少しでもごまかそうとしています。

 その一方で、一連の「戦争する国家づくり」を政治的・法的に強力に推進しており、これもグローバリゼーション下に生きる対米従属的新自由主義政策の一環です。新自由主義の「小さな政府」のスローガンは強権的国家となんら矛盾しません。もっとも、安倍政権は「小さな政府」を喧伝するわけではなく、労資関係にも介入するような強大な国家権力を誇示していますが…。

 以上のような新自由主義政策の推進はむき出しの階級支配の現れであり、安倍暴走の一つの強力な根拠であり、支配層の利益に合致しています。この過程で議会制民主主義破壊はもちろん、立憲主義の無視にまで及ぶ暴挙は、民主主義形式の乱暴な蹂躙であり資本主義社会のタテマエからまったく逸脱していますが、支配層の支持の下、強力的に断行されました。安倍政権の強権性はこのように新自由主義的性格から説明されますが、保守反動的性格によって増強されていることは言うまでもありません。侵略戦争美化の歴史修正主義者であり、戦前日本の体制に憧憬をもつ安倍政権中枢が単なる新自由主義者より強権的であるのは当然です。ただし政権の強権性を保守反動性だけから説明するのは誤りであり、それ以前に新自由主義そのものの持つ強権性(さらにはその源泉は資本主義社会そのものが持つ階級支配社会という性格にあることも要注意)があることが忘れられてはなりません。

 安倍暴走の現今の問題は、そのような支配層の利益に合致している段階を通り越して、個人独裁による腐敗の域に達してしまったということです。安倍氏らの蛮勇と反知性主義が支配層の方針を強力に推進しているうちはいいのですが、お友達優遇の国政私物化は支配層の利益にもかなわず、世論の離反を招くという意味では階級支配に反する事態になり得ます。戦争法の国会審議当時、世論の多数は成立に反対しました。しかし政策として賛成派もあり、反対派もこれはあくまで政策の問題であるとは考えていましたが、モリ・カケ問題のような国政私物化はいかなる意味でも政策問題ではなく政治腐敗であり到底世論の支持は得られません。

 この国政私物化について、白井聡氏は政権の保守反動性の面から説明しています。

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 (森友学園は)極右の学園だからこそ、便宜を図ってもらうことができたというわけです。

 この事件をめぐっては「極右の幼稚園」と「国家の私物化」という二つがキーワードになるわけですが、共通点は「あの戦争の未処理」ということに関わるんですね。

 あの戦争に「負けた」ということを、「なかったこと」にしてごまかすことによって成り立っている政治・社会の在り方を、私は「永続敗戦レジーム」と呼んでいます。安倍首相の政治そのものです。

 戦前は国土や国民が天皇の持ち物であるかのように扱われてきました。前近代国家の考え方だったんです。安倍政権になって、戦前への反省を欠くだけでなく、むしろ賛美する勢力が大手を振るようになった。極右的な森友学園の経営者が便宜を図ってもらえたのはその象徴です。戦前への反省がないから安倍首相は、国家の私物化も平気でやったのだと思います。   

  白井聡・小池晃緊急対談、「しんぶん赤旗」日曜版、325日付より 白井発言

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 戦後民主主義の時代であるはずの現代に安倍首相は、「国土や国民が天皇の持ち物であるかのように扱われてき」た戦前を賛美するだけでなく、まるで当時の天皇の地位についたがごとくに「国家の私物化も平気でやった」というわけです。前人未到の多くの政策・立法を実現してきた全能感から来る傲慢さがなせる業かもしれません。

 以上、「国家の私物化」にまで至った安倍政権の暴走の根拠を、資本主義社会の原理から始まって、新自由主義の強権性を経て、兼ね備わった保守反動性による増強という道筋で順番に見てきました。極めて非合理で恣意的に見える現象を、客観的基盤からできるだけ段階的・合理的に解き明かそうとしたのです。それにしても、支配層の利益に反するような汚職にまで至ったのは何故か、という問題は十分に解明されていません。

 それは新自由主義グローバリゼーションの矛盾の激化とその克服の困難性に求められるのではないでしょうか。貧困・格差の拡大、それによる実体経済の停滞と金融肥大化の下で、その矛盾を糊塗しつつ、対米従属下の軍事大国化を成し遂げるという重大な課題を支配層は抱えています。議会制民主主義や立憲主義にそれなりに配慮するような普通の保守政権にそれを託すのは無理であり、新自由主義的合理性をも超えて、反知性主義で保守反動的蛮勇を持って、だまし・ゴマカシを駆使しつつ強権性を十全に発揮する政権でなければならなかったのだと思います。世論の支持を得るには人々の感情を喚起するナショナリズムに訴えることも必要です。人権や民主主義をタテマエとしては立てつつも、ネトウヨのような政権の別動隊に「反日」なる社会的排撃言語を日常化させ、中国・北朝鮮脅威論を煽り、人権・民主主義破壊のホンネを吐かせ、社会全体にシニシズムを行き渡らせる状況がつくり出されようとしました。議会制民主主義と世論を無視する強行採決を乱発し、したがって主要政策への支持を失いながらも、内閣支持率だけは高止まりを実現してきた背景の一つがこのあたりにあるようです。

しかしそれは新自由主義で荒廃した社会状況の中に閉塞感と精神の腐敗を広げさせるのみではありません。政権中枢でも「安倍・自民一強」という独裁状況下での全能感・傲岸不遜さにともなって、理性と抑制が失われ、「国家の私物化」に至ったのではないでしょうか。つまり、新自由主義グローバリゼーション下での矛盾の激化を克服するため、支配層は異常な政権にその課題を託すほかなく、そのことが極めて異常な国政私物化の原因となったと思われます。そういう民主主義破壊の時代精神として反知性主義は象徴的です。

支配層の思惑をも超える安倍政権の変調を前に、世論の怒りを高め結集して政権を退陣に追い込むこと、今はこれしかありません。

 

◎民主主義の復権

 

 安倍暴走に対してできるだけ階級的に見てきました。ここでは、立憲主義の階級的本質について考えてみます。立憲主義は当初、封建制末期の絶対主義権力への規制であり、ブルジョア階級の利益を代表していました。今日の世界では諸国家と世界経済を支配しているのはグローバル資本ですから、日本国憲法かそれに近い民主的憲法を戴く立憲主義はグローバル資本の権力への規制となる可能性があり、労働者階級を始めとする人民の利益を代表することになります。

 もちろん本来立憲主義は、個人と国家との関係に関わり、個人の尊厳を国家権力から守るためにそれを規制するものです。それは絶対主義との階級闘争から生まれたけれども、階級関係に関わらず普遍的に一般論として通用します。たとえば経験則として「権力は専制化し腐敗する」という命題は普遍的に妥当し、被支配階級が権力を奪取して民主主義的政治体制を確立しても、それが専制体制に転化する場合が多くあるので、抽象的な「個人VS国家」から出発する立憲主義はなお有効です。

ただしそのことを踏まえた上で、憲法の役割を具体的な政治情勢の中で考える場合は立憲主義の階級的考察は必要だと思います。安倍暴走が蹂躙している立憲主義とは、まず第一に「個人VS国家」関係から発する立憲主義の原像あるいは一般像であるのは当然です。保守反動としての安倍政権がこれには関わります。もう一つ、新自由主義政策を断行する安倍政権が蹂躙する立憲主義は、グローバル資本の権力を規制するという意味での現代的なそれであるといえます。このように階級視点を踏まえて、安倍暴走が蹂躙する立憲主義を二重に捉えることが必要です。

 次に社会変革の反面教師として、ソ連・東欧・中国などの20世紀社会主義体制を見ます。先述の民主主義における形式と実質という見方によれば、そこではブルジョア民主主義が形式的だとして批判され、プロレタリア民主主義こそが実質的民主主義を実現するとされました。しかし実態としては、それはブルジョア民主主義未満であり、民主主義形式さえ具えない前近代的非民主主義社会でした。

アグネス・スメドレーの『偉大なる道』に活写された中国革命に至る過程での解放区の姿などを見ると、被搾取人民が国家権力を奪取して主人公になる人民民主主義体制が民主主義の形式と実質をともに実現するのではないか、という展望を抱きたくなります。しかし残念ながら歴史の事実としては、中国に共産党の一党独裁権力が成立することになります。このことは抽象的な立憲主義の有効性とともに民主主義形式の重要性を示しています。しかしなお上位の課題としての民主主義の実質化が残されていることを忘れてはなりません。マルクスとエンゲルスは民主共和制が労働者階級の権力に適合した形態であることを述べています。これは、民主主義形式の徹底を通じて民主主義実質の拡大につなげていく道を展望するものでしょう。

 安倍政権に限ったことではないですが、そこに典型的に見られるように、民主主義実質が少なく、階級支配が非常に優勢な政治においては、民主主義形式の破壊が進みます。小選挙区制・ベからず公選法などの従来からの悪い制度に加えて、今回は公文書改ざんなど、政権の都合にあわせた不公正で悪質な情報支配が暴露されました。すくなくとも民主主義形式の破壊に歯止めをかけて改善していくことが最低限必要です。小選挙区制を廃止し、まっとうな政策宣伝を可能にする公選法へ改正し、公文書管理を適正化し情報公開を拡大して行くことは喫緊の課題です。

さらに言えば、民主主義形式の徹底は必要条件ですが、それだけでは支配層の経済力・政治力の優位によって民主主義実質は拡大しにくく、階級支配の実質は続きます。たとえば、改憲の国民投票におけるテレビコマーシャルの問題があります。べからず公選法に比べると、国民投票法では大幅に運動が自由化されています。それ自身は良いように思われますが、実際のところ、誰でも自由に宣伝できるという形式的平等は金力を握った改憲勢力に有利に作用します。投票の2週間前まではテレビコマーシャルが自由なので、テレビが改憲派に乗っ取られる事態が予想されます。民主主義形式の真の徹底のためには政治力・経済力を考慮した公正さの追求が必要です。

 安倍暴走についてわざわざ資本主義社会の原理から出発する以上の議論は、観念的で現実味が薄いという印象を与えるかもしれません。そこで民主主義形式の徹底から民主主義実質の拡大に向かう地道で現実的な実践例を紹介します。藤田安一さんに聞く「最低賃金審議会に民主的ルールを 『鳥取方式』の経験からは、鳥取地方最低賃金審議会の会長を2008年から5年間務めた藤田氏が、最賃審議を全面公開させ、最賃額を一定上昇させた経験を語っており、たいへんに教訓的です。

 「鳥取方式」と呼ばれる最賃審議会運営の民主的ルールは<(1)審議会の全面公開、(2)意見聴取の実質化、(3)傍聴の自由化、(4)水面下での交渉の禁止>という内容です。もともと審議会は原則公開なのですが、実際には、集中して審議が行なわれる専門部会が非公開でした。これを全面公開させたのです。この改革で危惧された混乱は起こらず、今日までスムーズに運営されています。案ずるよりも産むが易し、です。この改革が実現したのは、藤田氏が長年委員を務めた上で会長に就任したことで、その提案が当たり前だと見られてすんなりと受容されたことと、審議会と専門部会の議事録(そこには審議内容が発言者名も明記されて詳しく記録されている)がすでに公開されていたということによります。長年の地道な努力が実ったということでしょう。藤田氏は改革の狙いを以下のように語っています。

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 本来、私が審議会の完全公開によってめざしたことは、これまではあまりにも最賃決定の過程が不透明で、国民の知る権利が侵害されている、そうした状況を是正することにありました。透明性や公平性が求められる行政は、もっと積極的に情報公開に努める必要があります。

 原則公開とうたいながら、肝心なところは非公開となっている審議会のあり方を是正したかったからです。そうすることによって、私は国民の監視が強まり憲法25条が提唱している健康で文化的な最低限の生活を保障する最賃額に決まることを期待しました。

                    102ページ

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 まさに民主主義形式の整備が民主主義実質の充実に向かうことが期待されているのです。また最賃審議会の独自性も指摘されています。他の審議会と違ってただ意見を出すだけでなく、最終的に最賃額を決定して労働局長に答申しなければならず、かなりの熟練を必要とするのです。特に公益委員の役割と負担は大きく、労使双方の委員から攻撃され険悪な関係となることもありメンタルの強さが求められます。それ以上に経験の蓄積に基づく審議会運営の技術が要求されるということで公益委員の任期は長くなります。こうした下地があって信頼を得た藤田会長の提案による最賃審議会全面公開の改革が実現しました。

 審議内容に関しては、最賃制度の存在意義の確認が重要だと言います。使用者側委員が「国が賃金額を決めるのはおかしい」という意見を言う場合があります。それに対して、――労使の力関係により生存権が保障されない賃金となってしまう、という事態を防ぐ必要が国の社会政策にはあり、それは憲法25条が法的根拠になっている――といった最賃制度の原則をきちんと述べて納得してもらう必要があります。会長にはこうした見識をしっかり示す姿勢が求められます。

 その上で、最賃額の決定に際して「事実上、経営者の賃金支払い能力が優先されるということ」(105ページ)が問題となります。これに対して、2008年のリーマンショック以降、不安定雇用と低賃金が拡大して、最賃のあまりの低さが注目され、2010年の閣議決定で、20年までの早期に全国最低800円を確保し、全国平均1000円を目指す、とされたように、新たな動きが生まれました。

 そうした中で、鳥取では20年前の最賃500円台から今では700円台になりました。中小零細企業ばかりの鳥取でのこの現実をどう説明するか。企業の経営が劇的に良くなって支払い能力が増大したわけではないし、企業の倒産が増えてもいません。要するに以前から支払い能力があったにもかかわらず、企業が最賃の引き上げを渋っていたのです。そこには日本の企業社会の存在とそれに付随する社会意識の問題があることを藤田氏は指摘しています。

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 これまで最賃額がなかなか引き上げられなかったことについては、企業の支払い能力を重視するあまり、労働者の生活を支えるに足る賃金の最低限を保障するという最賃法の趣旨が、しっかりと理解されてこなかったということです。審議会において、その理解を進めていく必要があります。

 この課題は、とくに日本の場合、企業社会といわれるように、企業の力が強く、それが当然のことだと認められてきたわが国社会の風潮と大いに関係しています。最低賃金はこうした日本社会のあり方と密接に関連していることなので、社会意識の改革と結び付けて考える必要があります。         107ページ

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 通常の研究においてもこのような主張は可能でしょうが、最賃審議会の実践を通じての言明には独自の重みがあります。藤田氏は、最賃制度のそもそもの存在意義を明らかにし、それを使用者側委員との共通理解にする努力をした上で、最賃が低く抑え込まれてきた原因を審議会の論議の中に見ています。このように最賃審議会の全面公開と議論の実質化を進めることは、民主主義形式の徹底化であり、それによって現行の最賃の問題点が鮮明になり、結果的に最賃の上昇に結びつくならば民主主義実質の充実となります。

そこにまた憲法25条に基づく最賃制度があるということの意義が決定的です。現代日本における階級闘争の一つの形態においては、そうした既存の民主的制度の到達点を踏まえ、たとえばこのような審議会運営への参加を通じて経験と熟練を重ねながら、民主主義形式の破壊を許さずその徹底を求め、民主主義実質の充実を実現すべく努力することになります。それは武器を手にしての強力革命と違うのは当然ながら、民主的な選挙闘争とも違う、極めて地道な普段からの不断の闘いです。

 このように見てくると日常の行政の民主化が重要な課題として浮かび上がり、森友問題ともつながり、公文書管理や公務員のあり方が問われます。「佐川とならず前川となれ」という警句もあるようですが、公務労働の公共性をどう考えるかも問題です。それについてはこれからさんざん議論され、私のまとまった考えはまだないですから、問題が振り出しに戻ったところで、公文書改ざん問題などに見る安倍暴走の性格の捉え方について、独自の私見を提起することはこの辺で終わりたいと思います。

 

 

          断想メモ

 日本資本主義の全体像と展望を描くことは経済学の最重要課題の一つです。その際に、大競争の渦中にあるグローバル資本などが担う時代の最先端の生産力、地域経済と人々の生活に密着した農林水産業や中小企業の生産力などのそれぞれのあり方、さらには資本と労働との生産関係のあり方といったものは欠かせません。

友寄英隆氏の「AI『合理化』と人口減少社会 『失業増大』と『人材不足』が同時に進行する時代は、一方でIoTによる「見える化」とAIによる「分析」を結合して最新の「高効率生産モデル」を達成した日立製作所大みか工場の「生産改革」などを詳しく紹介しています(7880ページ)。他方で人口減少問題については「急速に進む生産年齢人口の減少を女性や高齢者の労働力化の面から補うことができなくなる時代が来るという意味で、『2020年代は人口減少社会の本格的はじまりの時代』なのである」(77ページ)と、厳しくリアルに指揮しています。両方をにらみながら、新自由主義の労働政策では、AIによって人口問題が解決するどころか、逆に「失業増大」と「人材不足」が同時進行する時代が来ると警告しています。

大林弘道氏の「中小企業の廃業問題と『国民的経済力』の再建は「戦後中小企業数の傾向的増加から傾向的減少への転化を推進した要因」は「戦後過程における大企業と中小企業の『一体的な』関係の形成と90年代におけるその『解体』」である(137ページ)としています。こうした中小企業の衰退が社会問題の重要な原因となっています。今日、非正規労働の若者の貧困と並ぶ高齢者の貧困の原因として、中小企業労働者の住宅所有・貯蓄・年金・保険等が元来不十分であったことと近年における就業の喪失が指摘されます(139ページ)。

藤田実氏の『戦後日本の労使関係 戦後技術革新と労使関係の変化』への大木一訓氏の書評によれば、藤田氏は労働組合運動の停滞の原因を、産業構造や雇用構造の変化で職場構造が変化し、団結基盤が縮小したことに求めています。それを「戦後日本資本主義の全過程にわたって論証してみよう、という試み」(90ページ)が本書です。

これらの論文・著作はこれまでの日本資本主義の展開がもたらした(あるいはこれからもたらすであろう)労働者などの困難を直視した日本資本主義批判であり、問題の本質を鋭く指摘しています。ただし状況を打開する展望の点ではいずれも不十分であるように思われます。


                                 2018年3月31日




2018年5月号

          自然・社会・人間と労働

 稲生勝氏の「マルクスと自然」は、生産的労働と自然環境についてこう指摘します。

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  …略… あまたの俗流経済学が現実の経済活動を貨幣を介した「ゲーム」としてのみ考え、そのとき、人間を「自己の利益を最大にすることを計算するプレイヤー」として扱うのに対し、マルクスの経済理論は、生活の根幹をなす労働を重視し、労働を自然環境との連関として捉えることができたのである。 …中略… 

 つまり、マルクスが労働を重視したのは、人間社会の経済活動を市場のなかだけに閉じ込めて把握するのではなく、自然環境の中に存在していて、自然環境とのやり取りこそ、人間社会を成立させている必須の条件であるからである。人間社会は自然との媒介を前提にしている。

 では、労働とは何か。マルクスの主張に即していえば、労働とは、人間が自然環境に目的意識的に働きかけ、人間の生活に必要な様々なもの、直接、消費するものもそれの手段も、さまざまなやりかたで生産することといえるであろう。さらにいえば、人間は、労働を通じて、人間のさまざまな能力を発揮し、発展させてきた。つまり、労働は、人間が生活するうえで、必要不可欠な生産活動である。     5657ページ

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 日野秀逸氏は、「人間らしい医療」「人間らしい社会保障」等々の根幹を定めるため、「人間という類にとっての、他の生物と異なる、独自の健康を把握」しようとする中で、「人間の、環境に対する意識性・能動性という視点」をマルクスから学び、以下のように述べています(「健康論をめぐるマルクスとの出会い」164ページ)。上記の稲生氏の言葉と響き合うところがあります。

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 私は、人間の生活活動の独自性が、環境・外界と自己自身に対する意識的・自覚的・能動的な働きかけ、すなわち変革にあり、変革概念が人間の健康を把握する鍵である、ということをマルクスとエンゲルスから学んだ。変革の主な内容が、自然の変革(狭義の労働)、社会の変革、自己の変革、を含むことは明らかであろう。    同前

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 日野氏は、人間の意識的・能動的活動全体を語っているので必ずしも労働に限っているわけではありませんが、その中でも労働が重要な要素であることは間違いないと思います。稲生氏は人間(社会)と自然(環境)との媒介としての労働の意義に着目し、さらに自然と人間自身を変革するものとしての労働の意義にも言及しています。日野氏は労働を含む人間の生活活動の環境に対する意識性・能動性を強調しながら、その独自性・意義として、自然・社会・人間自身の変革を指摘しています。

 このように、人間はその生存条件である自然環境に対して労働によって働きかけ、それを起点にその生活活動全般を通じて、自然環境だけでなく社会と人間自身をも主体的に変革します。自然・人間・社会に対して占める労働の枢要な位置をここで確認したいと思います。稲生氏がそれを俗流経済学との対比で強調していることも重要です。

 以上のことを確認したのは、価値の実体が労働であることについての『資本論』冒頭での証明方法にかねてより疑問を持っていたからです。商品Aと商品Bを等置したとき、具体的使用価値を捨象して残るのは労働生産物という性質だけだ、という説明に対しては、ベーム=バヴェルクの古典的批判以来異論が繰り返されています。残念ながら、そこで言われるように、労働生産物以外にも共通性はいくらでもある、という主張の方が説得的です。そこでその成否は別としても、たとえば効用を共通物として効用価値説がつくられます。

以上に対して、私が労働価値論の根拠としてより説得力があると考えてきたのが、マルクスのクーゲルマンへの手紙(1868711日付)や『資本論』第1部の物神性論の論述です。あらゆる社会は社会的労働によって成り立っており、そのことが商品経済においては商品の価値性格として現象してくる、という論理です。――「社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのです」(マルクス=エンゲルス『資本論書簡(2) 1867年−1882年』、国民文庫、162163ページ)。――このように、人間社会にとっての労働の普遍性・不可欠性から出発することは否定できない重みがあります。

もう一つ、生産過程における労働の主体性に着目することも重要だと考えてきました。大西広氏は近代経済学からの上記のような批判を承認した上で、労働価値論の根拠として次のように主張します。「生産活動とはとりもなおさず人間の主体的判断によってなされるものだから、人間のみが唯一持っている投入要素こそが問題で、その意味で『労働』だけが本源的なのだという形で説明している」(「『資本論』のコア思想とその数理化 「読む会」と慶應義塾の経験から、『経済科学通信』2018.3 No.145所収28ページ)。

 稲生氏と日野氏の上記の議論は、この「生産過程における労働の主体性」をさらに敷衍して、自然環境との関係、自然・社会・人間の変革という視点を加えることで、労働の意義を総括的に解明し、経済的価値実体の根拠としての労働の地位をさらに強化します。そうした労働の意義を看過すれば、「人間社会の経済活動を市場のなかだけに閉じ込めて把握する」ことになり、自然・社会・人間を大きな不可分の関係において捉え得ず、それらの変革を課題として提起し得ず、したがって資本主義経済・社会の本質と発展(及び消滅)を捉え損ないます。

商品の価値は市場の中に現れるものですが、価値の実体は市場の中だけを見ていても発見できず、時間的・空間的にもっと全体的・包括的な見方を持って見出すべきです。つまり一方では、歴史貫通的な社会のあり方一般とその商品生産段階における特殊な現われ方において、他方では、市場の中だけでなく、自然(環境)と人間(社会)との関連の全体、また特にその重要な環としての生産過程(労働過程)において。両者の交点に意識的・能動的したがって主体的要因としての労働を見出すことで、経済を全体的・発展的に捉えることが可能になるように思います。それが社会認識における労働価値論の意義であろうかと思います。

 

          新自由主義下、階級支配の変貌

 先月は、国政の私物化まで進んだ安倍暴走について、資本主義社会の原理から始めて、新自由主義的支配ならびに保守反動の特質、安倍政権と支配層との関係などを含めて考えました。そのように多段階に捉えることで、戦後最悪の醜態をさらす安倍政権を、原理的なところから眼前の現象まで包括的に把握しようとしたのです。今回は、この多段階の中間項たる新自由主義的支配についてさらに考えてみます。したがって、現在目まぐるしく展開しているヴィヴィッドな政治スキャンダルに直接は届きませんが、ここで腰を落ち着けて捉えることも必要かと思います。

高田太久吉氏の「現代資本主義の『金融化』と格差問題」の主要テーマは、金融化と格差拡大の相互関係の解明です。そこからは外れますが、この論文から、金融化が現代の資本主義社会全体に影響を与え、私たちの前に立ちはだかる新自由主義的政策の一つの重要な原因となっていることが分かります。高田氏によれば、金融化とは、「現実資本の価値増殖から乖離した貨幣資本の過剰蓄積」(67ページ)を背景として「金融市場の証券化が進み」(同前)、「現代資本主義が資本市場主導型の資本主義――企業、家計、政府、および金融機関の経済活動が資本市場の動向によって基本的に制約される資本主義――に向かう傾向として概念化」されます(68ページ)。それは次のような世界を形成します。

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 このように、先進国を中心にGDPをはるかに上回る金融資産が景気循環の周期を超えて長期的に蓄積され、それらが日常的に天文学的な規模の市場取引を生んでいる資本市場主導型資本主義のもとでは、企業、家計を含む経済全体の運行が、資本市場の動向によって大きく制約されるようになる。このため、政府・中央銀行の政策運営の主要な目標は、経済成長や雇用確保ではなく、何よりも株価の維持あるいは押し上げ、インフレ抑制、企業と富裕層のための減税、資本市場の活性化の障害となるあらゆる制度の改廃、資本市場を仕切っている大手金融機関の優遇になる。       68ページ

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 金融化の企業経営上の最も顕著な現象は「株価重視の経営が急速に普及したことであ」り(66ページ)、「経営者は企業利潤を株価に直結しない投資、研究開発、雇用増に振り向けることを控え、株価押し上げに直結する配当増、自社株買い、M&A、金融投資などに振り向ける傾向が高まる。これらの形態での利益処分は、いずれも株式市場に流入する貨幣資本を増大させ、相乗的に株価を押し上げる」(67ページ)ことになります。

 「さらに、このような相乗効果による株価の上昇傾向は、株式市場に焦点を当てた年金制度や保険制度の改革、様々な投資信託の普及と相まって、中間層を含む家計の資本市場への期待と依存を高めることに結びつ」きます(同前)。

 金融化によって、企業と家計という個々の経済主体の行動原理がこのように変質することを通じて、上記のように経済政策の基調が、健全な実体経済の拡大型から、資本市場の自由化を中心とするバブル指向型かつ格差拡大型へと寄生性・腐朽性の増大を伴って変調していきます。こうして、安倍政権が株価連動政権などと呼ばれ、富裕層優遇堅持の姿勢を崩さないなど、その悪政の根拠は金融化の進展の中に位置づけることができます。そうすると、アベノミクスは多くの企業行動と中間層以上の一定の部分での家計行動とにおける意識性・能動性をそれなりに反映していることになり、そのような経済基盤と社会意識に支えられていると言えます。これは新自由主義の階級支配が内発的に受容される仕組みの一端を現わしています。

 佐貫浩氏の「子どもの成長と教育の価値を国家の数値指標管理に委ねてはならない――現代日本の新自由主義と教育政策の特質」(『前衛』5月号所収)は、新自由主義政策の展開が、子どもと教師における競争を組織し、競争戦における規範を内面化・主体化する仕組みを見事に描いています。

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 橋本内閣に始まり、小泉、安倍内閣と展開していった新自由主義政権は、それまでの福祉国家体制や日本的雇用制度による国家的な富の国民・労働者への一定の再配分システムを、グローバル資本の世界競争戦略への障害として一挙に破壊、解体し、資本の側への富の蓄積を拡大し、労働者階層への富の配分を急激に切り下げる権力として展開した。そのために、人権や労働権や生存権保障の仕組みを一挙に切り下げた(「規制緩和」)。@雇用の低賃金化、格差化、不安的化、A各種の福祉の切り下げ、B貧困階層の増大、ワーキングプアの大量形成、一部の富裕層の創出を伴う格差社会の出現、が展開した。その結果、学校教育は、安定した雇用確保のための激しいサバイバル競争の場へ変貌し、若者の多くが、この不安定雇用や貧困への不安、競争とリスクに曝され、将来への見通しと希望をつかめない不安社会が九〇年代後半から到来した。       218ページ

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 グローバル資本の人材戦略として、一方では上記のような低賃金・不安定雇用化を進め、他方に「高度の技術や経営戦略の担い手としての知的人材形成に最大限の力点を置」(219ページ)いています。本来ならば、すべての人間の労働能力・労働権を実現する社会を目指すべきですが、「格差・貧困を招いた社会の失敗を放置して、競争に勝てる能力のない者は社会の厄介者だというメッセージを送り、『自己責任』意識を押しつけ、多くの子どもや若者から自身と将来への希望を奪」っています(221ページ)。

 そのような「新自由主義の教育要求を公教育に具体化する方法の特質」(222ページ)を見ると、それは従来のような分かりやすい権力的抑圧とは違って、あたかも諸個人が自発的に協力していくかのような、いわば「強制された自発性」とでも呼ぶべきものです。

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(それを検討する―刑部)ためには、ほぼ二〇〇〇年までの教育に対する権力支配の方法と現代のそれとの質的な違いを把握する必要がある。それは、上から価値を押しつける権力とそれに抵抗するもの――労働組合や各種の中間組織などの抵抗集団――との間に「対抗戦」が行われるというのではなく、日常生活空間で、人びとの一挙手一投足に規範があてがわれ、その規範にしたがって生きることを強制される仕組みである。その中で競争が組織されているがゆえに、その規範をどれだけ達成したかが競われ、その競争のなかでその規範が内面化(「主体化」)される仕組みが機能している。そしてそれが権力的統制として、一人ひとりの内面でより緻密に機能する。その手法として、目標管理とPDCAシステムが緻密に組み込まれた。        222223ページ

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 論文では、さらにそれに向けての教育行政の整備と現場での管理体制(数値管理を含む)強化に詳しく言及され、手法の技術的効果だけに焦点が当てられ、何が教育的に望ましいかという問いが忘れられる――目的が所与で手段だけが追求される――状況が批判されます。

 これは教育政策・行政・現場における新自由主義的支配の貫徹様式を描いていますが、おそらく経済全体にも当てはまるものではないかと推測します。目標管理とPDCAシステムはもともと生産現場の手法で、それが今日では教育に応用されているわけですから。利潤追求という資本の目的が、労働者間競争を通して諸個人に内面化され、労働者諸個人がそれを主体的・能動的・意欲的に追求するということを、もちろん個別資本は組織しています。それだけでなく、国家の政策としての労働規制緩和や、金融化がもたらす「株価重視の経営」と「資本市場に期待・依存する家計行動」などが総体として労働者間競争を強化し、「強制された自発性」に投企していく労働者像を増産しているように思います。

 歴史的に見れば、前近代の階級社会では搾取が明白であったのに対して、近代資本主義社会では搾取が見えません。それでも低賃金や劣悪な労働条件などを通して、労働者が意識的にか無意識的にか事実上搾取とたたかうことはよくあります。そのような階級的自覚に対抗して今日では「ホモ・エコノミクス」(経済人)が形成されます。「個人は、企業家として自己の労働力という『資本』から所得(賃金)をより多く引き出すという利害関心に立って、『ホモ・エコノミクス』として『主体化』され、新自由主義の競争と自己責任のシステムに同化する競争主体として形成され」ます。そのための環境は新自由主義の諸政策です(佐貫論文、221ページ)。この「ホモ・エコノミクス」の論理はミシェル・フーコーに依拠して展開されており、原典に当たっていないのでよく分からないのですが、ここで見る限りは、「労働力」とか「賃金」が出てきますから、「企業家」というのは労働者が自分をそう見なしている状況を表わしていると思われます。

ところで、原理的には、労働力は労働者と資本主義企業との取引においては商品であり、生産過程においては資本にとって可変資本として機能します。したがって労働力が労働者自身にとって資本であるというのは虚像なのですが、資本に魂を売り渡した労働者においてはそれが資本として自覚され、無限の利潤追求に向かって自己を投企することに追い込みます。それは客観的には超搾取に自身をさらすことです。

流通過程において労働力商品は等価交換されるけれども(労働力の価値どおりの賃金の支払い)、生産過程では所有者たる資本主義企業の意のままに使用される、というのが元来の資本の論理です(「買ったものをどう使おうと自由だ」)。搾取の源泉がそこにあるのですが、それではあまりにひどいと言うので、国家が(本来、資本の私的領域である)生産過程にも介入し、ある程度規制して、過度の搾取を抑えるというのが、人権の現代的原理(近代的原理を超えるもの)として20世紀に成立した社会権の一種である労働権の論理です。労働者自身が自己の労働力を「資本」と見なすというのは、そういう論理と歴史に照らしてみると、論理を自虐的に破壊し、歴史に逆行するものです。これは元来の資本の論理をも超えたその過剰貫徹の一形態だと言えます。ひょっとして過労死の犠牲者の内面と客観的状況はそういうことなのでしょうか。もちろんそのような言い方は、彼らの自己責任を問うのではなく、そこまで追い込んだ資本の超搾取を糾弾することですが。いや、おそらくは資本の論理の内面化というよりも、資本の専制支配によって休む自由を奪われていただけのことだとは思いますが…。

閑話休題。私が言いたかったことは、前近代の搾取社会から近代資本主義社会への移行において搾取の不可視化が生じ、その上さらに、資本主義段階の中でも新自由主義の出現で、全社会的階級支配が見えにくくなり、諸個人の自発性を介して階級支配が貫徹されるようになったのではないかということです。上述のように、佐貫氏によれば、教育における権力支配の方法が変わりました。上から価値を押しつける権力とそれに抵抗するもの、という対抗図式ではなく、諸個人が競争の中で権力の規範を内面化していく、という形で支配が貫徹されます。先の稲生氏と日野氏の論述にあるように、労働を始めとする人間の生活活動が意識的・能動的・主体的でかつ変革的である点が重要であり、そういった人間活動の持つ積極性(それは諸個人にとってぜひ発揮したいものである)が資本によって管理・利用されることがこの支配方式の強みです。

これをどう打開していくのか。その処方箋までは描けませんが、必要な視点の転換だけは提起できます。いわば主体性の偽装とその悪用は諸個人それぞれに起こることなので、社会全体で見るとそれはどうなのか、と問うてみることです。新自由主義的競争が支配する社会に対してオルタナティヴを思い浮かべることです。「歴史的に見ると最高の豊かさに到達している富を、社会の持続とすべての人間の労働能力、労働権の実現という視点から再配分し、普通の能力をもった人々が新しい協同によって、豊かさと安心のもとに生きていけるという展望」(佐貫論文、220221ページ)を押し出し、現状の社会の非人間性をはっきりと自覚することが必要です。

新自由主義的競争の論理を内面化し、偽装された主体性に突き動かされて決起している人々は、隣の人々とイス取りゲームを血眼になって戦っています。それを続けている限りは救われません。その決戦場から一度退出して、やや高いところから俯瞰してみれば、多くのイスを取り上げて高笑いしている者が見えてきます。切実な思いで毎日を暮らし働いている人々に、この新自由主義の社会の仕組みを分かりやすく伝えることが、今日の社会科学の最重要な任務ではないでしょうか。

 

 

          金融化とまともな実体経済

 高田太久吉氏の「現代資本主義の『金融化』と格差問題」の主要テーマからはまたしても外れてしまうのですが、金融化の源泉は何か、また格差拡大の他にもそれは経済にどういう作用をもたらすのか、という問題があります。

金融化について「もっとも重要な現象は、資本市場(架空資本市場)の急激な拡大であ」り(65ページ)、「この間の金融化が全体として証券ベースの金融取引、言い換えれば資本市場の拡大とイノヴェーション(技術革新)によって牽引されてきた」(66ページ)と説明されます。実体経済と量的に比較すれば、「金融資産が経済成長率をはるかに上回る速さで増大し続けてきた」とか「GDPをはるかに上回る金融資産が景気循環の周期を超えて長期的に蓄積され」(68ページ)ていることが指摘されます。

こうした急激な金融化と実体経済との関係については次のように言及されます。「…略… 金融化してきた背景には、実体経済から遊離し、資本市場の内部で価値増殖する貨幣資本の増加が作用している。金融化に伴う顕著な現象である金融市場、金融資産、金融的利得の急激な膨張、金融証券化の普及、金融市場における競争激化と金融革新の加速、頻繁かつ深刻な証券バブルとその崩壊は、いずれも現実資本の価値増殖から乖離した貨幣資本の過剰蓄積に起因している」(67ページ)。そうすると「労働過程が生み出した価値の分配」(72ページ)との関係はどうなるのかが問題です。「実体経済から遊離し、資本市場の内部で価値増殖する貨幣資本」とは、まるで無から有が生じるようにも見えます。この問題については、高田氏や他の研究者も論じているのでしょうが、私は不勉強でよく知りません。なかなか難しそうでもあり、社会的総資本の再生産との関係で分かりやすく示してもらえれば、とも思います。

伊東光晴氏は「安倍経済政策を全面否定する 円安をひきおこしたものは何か(『世界』5月号所収)において、アベノミクスの特徴として輸出景気を指摘しています。輸出大企業の好景気が賃金上昇に結びつかず、社会全体に波及しにくいことを問題視しています。そこで碩学は問題を経済史と経済学史の中で考えています。「海外市場優先型の経済か・国内市場優先型の経済か=Aという問題意識」(87ページ)で大塚久雄・内田義彦という両巨匠が戦前・戦後の日本経済を捉えています。「人々が貧しいがゆえに国内市場が狭く、それゆえの低賃金が武器となって海外市場で販路を拡大しゆく」(同前)というのはかつての中国進出から戦争の原因ともなったのですが、今日の輸出景気にも同様の構造があります。伊東氏は今日の構造まで明言しているわけではありませんが、国内経済の発展を促す経済政策が平和な国際関係をもたらすという問題意識がそこにあることは明らかです。

海外市場をめぐる争いの背景として「富は金≠ナあるとする誤った考え」(同前)に基づく重商主義があり、それを批判したアダム・スミスの『国富論』は「富は労働によって作られた生産物である」(同前)としています。伊東氏はこの論文で金融化に触れているわけではないのですが、実体経済から遊離した金融市場ばかりが急拡大するということは、まさに「富は金≠ナあるとする誤った考え」に基づく重商主義への逆戻りであるように思います。それは貧困と戦争に導くものであり、スミスのように「富は労働によって作られた生産物である」と考え、国内の実体経済を重視する政策に転換することが是非とも必要です。ここでようやく「金融化」と格差問題というテーマとそれなりに結びついたようです。

 

 

          改憲をめぐる議論の焦点

 9条改憲をめぐって様々な議論があります。その中で重要な視点は、単なる条文解釈や抽象的な「平和・安全保障」論に陥るのではなく、戦後日本政治を貫く、(対米従属的な自衛隊の形成と存続・拡大を含む)日米安保条約体制と日本国憲法との矛盾(対立的共存)という現実を見据えることです。

 「朝日」201832324日付は、「オピニオン&フォーラム 憲法を考える 『護憲VS改憲』を超えて」と題して6人の知識人――山崎望(駒澤大学教授)、松竹伸幸(ジャーナリスト・編集者)、山元一(慶應大学教授)、中西寛(京都大学教授)、中島岳志(東京工業大学教授)東浩紀(批評家)――の意見を載せています。だいたい周知の対立項を「超えて」と言う場合は、いかにも気の利いたことを論じるように見せながら、実のところミスリーディングな議論で、現状改悪かせいぜい追認に終わることが多いのですが、これも例外ではないようです。

 全体として、おおむね保守的論調で、安倍流の本質的には急進的な(やり方は狡猾に「穏健」だが)改憲には懐疑的で、それなりに民主主義をじっくり守ろうとしているのは評価できるし、その点での個々の論点は考慮に値します。ただし全体に、「憲法を活かして現実を変革する」という護憲派の議論は一つもありません。あたかも、憲法を守るなどと言うのは後ろめたいことか思考停止か、とでもいうようなムードです。憲法の積極的内容を中心にして考えようという姿勢はありません。日米安保条約と自衛隊に対する批判はなく、おそらくその存在は暗黙の前提、つまりそれくらい当たり前で疑うべからずの現実と観念されているようです。同時に「武力によらない平和」という発想も希薄なようで、「武力による平和」だけを暗黙の前提にしているようにも見えます。これでは憲法の精神を活かして東北アジアに段階的に平和の秩序を築くという展望は描けません。

まず山崎氏と東氏は9条をめぐる議論を「神学論争」と揶揄しています。これは、9条の形成と解釈・論争の背景にある現実を見ず、それを紙の上の文字解釈・理屈操作だと見なす姿勢を現わしています。そのような観念論ではなく、唯物論的見方を田中角栄から学ぶ必要があります。

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法律というものは、ものすごく面白いものでしてね。生き物だ。使い方によって、変幻自在、法律を知らない人間にとっては、面白くない一行、一句、一語一語が、実は大変な意味を持っている。(中略)/それを活用するには、法律を熟知していなければならない。それも、法律学者的な知識ではなく、その一行、その一語が生まれた背後のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、それらを知っていて、その一行・一語にこめられた意味が分かっていることが必要です。

田原総一朗『変貌する自民党の正体』ベスト新書,2016,100頁、「法律を使いこなした田中角栄」。著者が、1980年にインタビューし、「なぜ、あなたは法律を使いこなせるのか」と尋ねたところ、こういう答えが返ってきたと紹介。

「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻151号)」2017.2.1()より

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 これは憲法については、その生成だけでなく、解釈・論争の経過にも当てはまります。ベトナム戦争・イラク戦争など、戦後の情勢を背景として、安保体制との激しい矛盾の中にあったことを抜きに憲法とその解釈・論争について一言も語れません。

 「護憲VS改憲」を超える、というこの特集記事のモチーフに最も忠実なのが松竹氏の議論です。松竹氏によれば、日本の安全は確保したいけど、海外派兵はよくない、という点では、改憲も護憲も目指しているものは似ています。だから護憲派が改憲派を「戦争する国にするのか」と批判するのは当たらない、というのです。

 この議論は、改憲派の中にある、「対米従属下の『戦争をする国』を目指している政権や支配層」と「その真意を見抜けず平和のためになると思って支持している善意の人々」とを区別していません。これまでもそのような混同を利用して、「改憲派の議論を一方的に決めつけて、いかにも現実離れした悪意を護憲派が煽っている」かのように「印象操作」されてきました。松竹氏の議論はそういう支配層の立場に沿ったものであり、もはや護憲派という自称は詐称と言わねばなりません。

しかしこうした言い方には一見説得力があります。それをどう克服して本当のことを理解してもらうかに我々の重要な課題があります。その点では、安保条約支持の体制派である「朝日」の記事にも参考になるものがあります。

 同紙4月23日付では、「平成の30年は、専守防衛の原則に立つ日本の安全保障政策が徐々に変質してきた時代だった。F35の導入はその変化の象徴だ」と指摘しています。その意味をさらに敷衍して次のように続けます。

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 導入の背景には、北朝鮮の脅威、中国やロシアの航空戦力の近代化がある。領空侵入を阻止し、自国の空域を守ることが長く空自の主任務だった。だがこれからは、日米が同じ機体で編隊を組み、データをリンクし、敵地を攻撃する共同作戦も視野に入ってくるということだ。

 ある空自幹部はこういぶかる。

 「町の交番に、特殊部隊を配置するようなもの。F35を使いこなせるようになったら、周辺国は日本を専守防衛の国とは信じなくなるだろう」

 その活用は憲法論も絡む高度な政治問題となる可能性があるのだ。

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 冷戦終結後には、支配層の中にも安全保障政策を多少手直しする動きが表れたことがあります。1993年、非自民の細川連立政権の「防衛問題懇談会」のいわゆる「樋口リポート」(渡辺昭夫氏執筆)は、国連やアジア太平洋地域諸国との連携を念頭にした「多角的安全保障協力」という考え方を盛り込み、その後に「日米安保の機能充実」と続けました。この順番が、大きな波紋を呼び、米側の専門家の批判を招き、国内からも同調者が出る、という状況になりました。結局、96年の日米安保共同宣言、97年の新ガイドラインで日米同盟強化の路線へと収斂し、米国の超党派日本専門家のアーミテージ・ナイ報告(2000年)ではこうなりました。

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 そこには、有事法制、秘密保持の法律の整備、集団的自衛権の行使が、課題として列記されていた。以後、日本は宿題をこなすかのように、秘密保護法を制定したほか、14年には集団的自衛権行使をめぐる憲法解釈を変更し、15年には安保関連法案を整備した。

 なぜ同盟強化の一本道になったのだろうか。冷戦の時代、日本は主に経済に力を入れていればよかった。だが、その時代は去り、米国は二国間ベースの安全保障面で責任分担を一層求めてきた。複数の国が共同で米国と向き合う欧州とは異なり、単独で向き合う日本にとって米国の圧力はより大きい。北朝鮮の核・ミサイル問題、中国の台頭も、同盟強化路線を後押しした。

 そしていま浮上しているのが、敵基地攻撃能力だ。自衛隊は専守防衛の「盾」に徹し、米軍が敵基地などをたたく「矛」を提供するのがこれまでの基本。憲法論議に波及するこの問題について、アーミテージは軍事的観点から「日米で二つの『矛』を持つことになる」と積極的に評価する。

 日本政府内では、06年から水面下で敵基地攻撃能力の保有を議論。現在は、最新鋭ステルス戦闘機F35に搭載する長距離巡航ミサイルの購入も検討している。また、導入を昨年末に決めた陸上配備型の迎撃システム「イージス・アショア」は、米軍との情報共有で精度を上げる。

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 このような対米従属による軍拡路線に対して、同記事のまとめとして「肥大化する防衛費、ひたすら進む防衛協力。だが、それで日本を取り巻く安全保障環境は好転したのだろうか。軍拡競争に陥らず、緊張を緩和する道はないのか」と批判しています。

 軍拡路線を貫く9条改憲の本質はまさにここにあるのですが、表面的には北朝鮮・中国脅威論を前面に立てて、あたかも日本の安全保障に資する自主的行動であるかのように描かれています。実際には米国の要求であるものを日本の平和に資するかのように偽装することが一貫して行われてきました。にもかかわらず、平和憲法の日本というイメージをオブラートとして利用してきたため、実際にはずいぶんな軍拡路線(兵器というハードでも、制度というソフトでも)を取っても「戦争する国」を目指しているようには見えにくい、という状況がありました。しかし秘密保護法や戦争法など一連の立法・政策は、安倍政権による「戦争する国」実現の策動です。それは首相・支配層自身の軍事大国化の野望もさることながら、米国からの圧力もあいまって現実のものであり、決して護憲派がためにする非難をしているのではありません。

 戦争法を始めとする一連の安倍政権の策動に関連して、たとえば「専守防衛」とか「敵基地攻撃」とかの問題について、日本自身の安全保障のあり方として戦争と平和をめぐる一般論次元の議論も不要だとは言いません。しかしそれだけでは安倍政権の大国主義に基づく軍事力強化路線だけが問題とされ、平和国家・日本のイメージ(それがまったく虚妄だというのではなく、現実的要素もあるのだが)の惰性で、世論上の印象としては、それが相殺されやすくなります。……たとえば、「この平和な日本でそんな危険なことが実現することは無いだろうから、まさか政権がそういうことは狙わないだろう」という思い……。したがって、一般論だけにはまるのではなく、実際には対米従属国家の現状があり、米国の圧力・要請に満額回答を繰り返してきた結果として「戦争する国」へと大きく舵を切っている、という分かりやすい事実を強く訴えることが必要です。そうすることで安倍政権が「戦争する国」を目指しているという批判が正当であり、決して護憲派の誇張した扇動ではない、と世論にアピールする上でより説得力を持ちます。

「朝日」44日付の投書欄には「どう思いますか」という特集があり、「憲法 みんなで考えてみませんか」と題して、「9条護憲に矛盾はないだろうか」という224日付投書の問題提起――今の9条は日米安保条約があるから成り立っているのではないか――に関する4人の投書が掲載されています。

1人は明確な改憲派であり、それなりに論旨明快で筋が通っています。他の3人はそれぞれの立場で安倍改憲には反対ですが、改憲派の投書のように明快ではありません。問題提起の投書の主張に反駁できず、前提にしてしまっているためです(本来は各投書の内容を丁寧に紹介し検討すべきところですが時間の関係で大ざっぱな評価で済ませます)。この議論に見られるように、平和を望み、できれば護憲に好意的でありたいと思っている人々の中で、憲法と安保・自衛隊との関係を正しく捉えられていないために、改憲論に反論できず、護憲平和の心情との齟齬に陥っている例が多いと思われます。結果として、「護憲は単なる感情論であり、改憲こそ冷静な議論だ」という誤解が広範に生じてしまっているのではないでしょうか。平和の感情は絶対的に価値があり、単なる感情論として貶めることは誤りですが、それにしても理性的にも改憲派に打ち勝つことを大衆的に実現させねばなりません。

憲法と安保・自衛隊とは確かに「共存」していますが、激しい矛盾の中にあり、「安保条約があるから9条が成り立っている」ような関係にはありません。安保条約は日本を米国の戦争に巻き込んできたのであり、ベトナム戦争などに日本は加担してきました。にもかかわらず戦後ずっと自衛隊が戦闘しないで済んだのは、9条の「抑止力」のおかげです。「安保条約があるから9条が成り立っている」ように見えるのは「武力による平和」を絶対視しているからです。実際には「武力による平和」の安保・自衛隊と「武力によらない平和」の憲法との対抗的均衡において戦後日本の「平和」は保たれてきました。それは国土が戦火にまみえることなく、自衛隊が戦闘をしなかったという限りにおいては確かに平和だったのですが、ベトナムやイラクへの米国の侵略に加担したという意味では平和ではありませんでした。

軍事的抑止力による壊れやすい「平和」ではなく、紛争を外交的に解決する、さらには紛争の原因となる構造的暴力をなくす努力を重ねる、といった安定した本当の平和を実現するにはどうしたらいいかを課題として意識しなければなりません。このあたりの基本的説明については拙文「平和について考えてみる」2014年、「文化書房ホームページ」所収)を参照してください。

安保・自衛隊と憲法との矛盾という視点で明快に安倍改憲を論じたのが、愛敬浩二氏の「日米同盟下ノー′セえぬ政府 無制限の集団的自衛権行使へ」(「しんぶん赤旗」45日付)です。それによれば、対米従属下、何でも日本政府が米国言いなりの病的状況を考えないで、9条改憲を議論するのは非現実的であり、かつて韓国がベトナム戦争に参戦したのと同様になります。実態としても、日米軍事一体化がどんどん進んでいます。また、自衛隊の存在に合わせて改憲するという「立憲主義」の主張について言えば、現状を追認するために自衛隊を明記しても、それに対する有効な立憲的統制はできません。日米同盟の下で自衛隊を自律的に統制できないのです。つまり単に現状追認の改憲提案は立憲主義的ではありません。

以上の「朝日」紙上に見る知識人6人と読者4人の議論を見ると、改めて安保廃棄・自衛隊解消派の原則的議論が、当面する安倍改憲反対の闘いの中でも必要だと思います。安保条約を廃棄し、将来的には自衛隊を解消して真の平和に接近するためには、何十年にもわたって何段階も経る必要があります。対して、喫緊の課題は安倍改憲を許さず戦争法を廃止することです。それには平和の将来展望での違いを超えて、安保・自衛隊支持の広範な人々を結集しなければなりません。そうした「国民的対話」の中で、ともすれば抽象的な安全保障論に終始して、やはり軍事力に頼ることが重要だ、ということを前提にするような議論を克服することが必要です。

議論を現実的基盤に乗せ、戦後政治が、安保・自衛隊と憲法との矛盾を軸に展開し、自衛隊は対米従属下にあり、自国防衛ではなく米国の世界戦略の必要に応じて軍拡が進んできたことを知らせることが非常に大切です。それは、さしあたって安保・自衛隊そのものに対する賛否を超えて、日本の安全保障に関する客観的情勢を正確に認識して、戦争法や安倍改憲がどういう意味を持っているかを明らかにする作業です。それを自覚的・中心的に担えるのは安保廃棄・自衛隊解消派を措いて他にはありません。
                                 2018年4月30日






2018年6月号

          社会保障を充実させるために

「ない袖は振れない」は万人を黙らせる強力な言葉です。しかし本当に袖はないのか。しっかり見ようとしないから、あるものを見逃しているだけではないか。たとえば以前に紹介したように、本誌4月号所収の藤田安一さんに聞く「最低賃金審議会に民主的ルールを 『鳥取方式』の経験からによれば、鳥取では20年前の最賃500円台から今では700円台になりました。企業の経営が劇的に良くなって支払い能力が増大したわけではないし、企業の倒産が増えてもいません。要するに以前から支払い能力があったにもかかわらず、企業が最賃の引き上げを渋っていたのです。そこには日本の企業社会の存在とそれに付随する社会意識の問題があることを藤田氏は指摘しています。「企業の支払い能力を重視するあまり、労働者の生活を支えるに足る賃金の最低限を保障するという最賃法の趣旨が、しっかりと理解されてこなかったということです」(107ページ)。

 結局、何を重視するかという価値観と政策判断の問題になります。安倍政権下で社会保障の引き下げが続いており、それを批判すると、少子高齢化とかGDPの倍の借金を抱えた財政を持ち出して、社会保障費の増大と財源不足を理由に、社会保障制度を改悪して負担増と給付削減を実施し、さらに消費税を上げるしかない、という「責任ある正論」が返ってきます。確かに財源論は重要ですが、その前に社会保障ならびに財政の本質とあり方を明らかにし、それを支える経済のあり方を問題にしなければなりません。

これまでの社会保障・財政・経済のあり方を前提にして「ない袖は振れない」と言っていると、人々の生活を犠牲にすることになります。ここでは「旧体制」が独立変数であり、人々の生活は従属変数です。それを逆転させることが社会進歩です。

ここでいう「旧体制」とは、グローバル資本の立場でグローバリゼーションを推進する国家やその新自由主義的政策体系を指します。それは現に存在しているという意味では現体制であり、今なお残る福祉国家的要素を古いものとして「改革」し、社会保障削減を進めるという意味では「新」体制でさえあります。しかしそれは個人の尊厳を犠牲にしてグローバル資本の利益を最大化する体制であるという意味では極めて反人民的であり、社会進歩の観点からは止揚されるべき「旧体制」と呼ばれるべきだと考えます。

「旧体制」は、従来のあり方は温情的で経済発展を阻害していると「反省」し、ドラスティックに冷徹な新自由主義的「構造改革」を断行します。それは「旧体制」に囚われた頭で考えると、あたかもとても「新しくて正しい」ことをしているかのように見えます。しかしそれは反人民的政策の純化であり「旧体制」の強化に過ぎません。

その「旧体制」下における医療制度「改革」の具体的手法を、横山壽一氏は次のように5点に整理しています(医療制度改革の現局面と保険・財政の転換4445ページ)。

1.都道府県による医療・介護のコントロール

2.医療・介護の見える化と地域データによる見直し

3.診療報酬改定による抑制と誘導

4.予防・健康づくりによる制度利用の抑制と市場型サービスの拡大

5.全世代型社会保障への転換論を使った費用負担の引き上げ

これらは行政の仕組みと市場原理を使った需給双方からの医療費抑制策です。「見える化」とか「地域データ」の活用などから、科学的で透明性を確保し公正であるように見る向きがあるかもしれませんが、「旧体制」を変えずに医療費抑制の目標を貫徹するという前提が置かれていることを見逃してはなりません(データ利用の問題点についての批判的指摘は同論文49ページ。また「全世代型社会保障」という一見良さそうな言葉については後述)。

 こうした「改革」を主導する「理念」によれば、たとえば社会保険は「公助」から外し、「共助」しかも自助の共同化として位置づけられます。それは「社会保険のもつ社会的な性格、つまり社会保険によるサービスの利用と提供は国の責任で権利として保障するものという社会保険の最も核心の部分を否定し、保険の側面だけみて助け合いの仕組みとする見方で、社会保険の基本的な理解を欠いた謬論で」す(52ページ)。

横山論文は医療制度改革をテーマにしていますが、石倉康次氏の「21世紀型の社会政策に求められる基本点は貧困の進行の現状分析を起点に、社会保障全体を対象に論じています。石倉氏は人々に痛みを押しつける政策の中に、「社会保障費の給付と負担の日本的な特徴、ゆがみ」(21ページ)を見ています。それは<1.「必要充足」の原則が貫かれていないこと  2.「生計費非課税」「応能負担原則」の不徹底と利用抑制に結び付く高額の利用者負担料という問題  3.国家責任を回避し、民間社会福祉法人、地域住民の助け合い、家族・親族の負担、さらには家族からも孤立した個人へと、より下位に責任転嫁をしていく構造が形成されていること>です(同前)。

 これらは「旧体制」がこれまで形成してきた現状であり、今後さらに徹底しようとする方向でもあります。そのような現状と徹底方向を前提に「全世代型社会保障改革」が取り組まれようとしており、その三つの戦略を論文は指摘しています。

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一つめは、国民に「痛み」を強いると同時に、「痛み」には耐えられない声が上がるまで放置するか、勤労者や住民同士の相互扶助や助け合いにゆだねようとする戦略である。二つめは、社会保障領域の財源負担は消費税分であてるとして「消費税率の引き上げやむなし」との同意を国民に迫る戦略。そして三つめは、本来非営利の社会保障領域を大企業の投資領域に開放し解体していく戦略である。     18ページ

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 このように現状の歪みとそれを前提にさらに促進する「改革」の戦略の下では、多くの人々にとってますます「ない袖は振れない」がリアリティを持って感じられ、「改革」が進む、という悪循環に陥ります。そうした「改革」を阻止するには、根本的な対案を共通認識にする必要があります。石倉氏は社会保障制度立て直しの基本源則を提示しています(25ページ)。

 まず「朝日訴訟」の「東京地裁浅沼判決」(196010月)から二つの原則。……1.現実の最低所得層の生活水準をもって生活保護法の保障する「健康で文化的な生活水準」に当たると解してはならない。2.「健康で文化的な生活水準」の保障は「その時々の国の予算の配分によって左右されるべきものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである」。…… 次いで社会保障制度審議会の「62年勧告」から救貧と防貧のために国に課される優先順位。……1.税金による公的扶助により最低生活水準以下の者の引き上げ。 2.税金による社会福祉により低所得層に対する積極的計画的に行なう組織的な防貧対策。 3.「公の財源」による公衆衛生により「防貧対策の基盤」として「国民すべての層を通じて健康な生活水準の防壁」とする。 4.「広く国民一般を対象とする」医療保険、公的年金、失業・雇用保険などの社会保険制度。応能負担を徹底し国家負担を厚くする。……

 1960年や62年に提起されたこれらの原則が忘却の彼方から、リアリティを持ってよみがえってきているのが貧困化の進んだ昨今です。ここにあるのは、現実の低所得層の水準に合わせて生活保護費を削減する安倍政権の施策にぴたりと照準をあてたかのような批判原理です。それを新たな「国民的常識」に高めていかねばなりません。

「ない袖は振れない」原則に代わる「必要充足」の原則や、生活保障が予算によって左右されるのではなく、逆であるという原則――私の言葉でいえば、「旧体制」が独立変数であり人々の生活は従属変数である現状を逆転させること――に関連して、社会保障を消費税で賄おうとする認識を石倉氏は次のように批判しています。

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 社会保障や教育のような国民の基本的な人権保障にかかわる財源には、すべての財源を動員して、その必要額の確保が優先されなければならない。それを消費税収に制限する発想は、結局社会保障を消費税収の範囲に縮減し、他の税源を、巨大公共事業や軍備や大企業減税、国債削減と金利償還などによって大企業を利するために費消されるのを許すことになる。             23ページ

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 ところが残念ながら、消費税によって社会保障費を賄う、というのがあたかも常識のように語られています。というか、支配層の戦略としてメディアで系統的に流布されています。しかし梅原英治氏の「消費税は社会保障に使われているかによれば、消費税の「社会保障財源化」はレトリック(言葉によるごまかし)(56ページ)に過ぎません。以下に言うように、制度として実態化されていないからです。

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 消費税と社会保障4経費を管理する特別会計は設置されていない。一般会計内でも、両者を対応させて経理することはしていない。それは当然で、一般会計ではすべての歳入でもってすべての歳出を賄い経理するので、特定の歳入と特定の歳出を他の歳入・歳出と区別して経理することはないからだ。区分経理すれば一般♂計ではなくなってしまう。

               61ページ

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 ついでながら梅原論文では、「必要充足の原則」を財政の「量出制入(出ずるを量って入るを制する)の原則」と関連させて説明しています。この原則によれば、必要な歳出を決めてから歳入を決めるのであり、社会保障に必要な歳出は人権保障実現に必要なものを充たすこと、すなわち「必要充足の原則」に基づく歳出だとされます(65ページ)。さらに梅原氏は「必要充足の原則」は「不必要不充足の原則」でもある、として軍事予算などを批判します。ただしそうした不必要な歳出の見直しなどを行なっても「なおしばらくの間は公債に依存せざるをえない。日本銀行の独立性を尊重しつつ、債務を適切に管理し、段階的・計画的に進めることが要請される」(66ページ)と、財政学者の責任感からか、慎重に断っています。

 上述のように、石倉氏は社会保障制度審議会の「62年勧告」のなかに、「救貧と防貧のために国に課される優先順位」を想起しました。それは格差と貧困が拡大し、それを解決するにも国家財政が困難である中では現実適合的な提起であるように思えます。それに対してむしろドラスティックな問題提起をしているのが、高端正幸氏の「『分断社会』を超え、『分かち合い』の社会保障へです。優先順位をつけて段階的にというよりも、財政の原則をいっぺんに変えてしまおうというのです。高端氏によれば、日本の社会保障は「残余主義」であり、そのポイントは、人は自立して福祉に頼らないのが普通であり、例外的な弱者を救うのが社会保障の役割だというのです。

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 それに対し、普遍主義では、不安定な市場経済の下、家族環境、生活条件も異なる人々の生活は、自力で維持できるものではない、という理解がベースになります。それは、必要なニーズを権利として、社会保障でカバーすべきだという考えにつながります。年金、医療、介護、子育て、障害者福祉、生活保護も、ニーズのみに応じて全員に保障される。それによって、人間の生活は初めて、安定し、人々が自由を獲得できるというのが、普遍主義の考え方です。             29ページ

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 普遍主義を実現できれば、社会保障は一部の人々の利益ではなくなり、生活保護のスティグマもなくなります。翻って現実を見ると、残余主義の下で、自己責任論が支配し、さながら「不幸比べ・我慢大会」(エキタス・藤川里恵氏の「伝説のスピーチ」より)状態を呈しながら、弱者が別の弱者をバッシングする悪循環に陥っています。この分断社会を克服するには、誰もが苦しいことを認め、その原因を直視することから始めねばなりません。

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 現状ではもはや、一部の明らかな貧困状態にある人だけでなく、一見普通の、一般の暮らしも十分、苦しいのです。そうした多くの人たちが、自分たちも苦しいのに、自分たちが払った税金によって、一部の人だけが助けられるのか、と思ってしまう。ネットにあふれているバッシングの言葉の背景には、そういう思いがあります。しかし、そこで考えなければならないのは、ではなぜ自分はこんなに苦しいのか、ということです。生活を自分の力だけで成り立たせるのが当たり前だ、という社会的圧力に、多くの人たちが押しつぶされそうになっているからです。

 ですから、生活のための基礎的なニーズを一部の人に限定しないで保障する目的は、貧困を防止するためではありません。同じように生活が苦しい人たち――数多くのワーキング・プアと、困窮して生活保護を受けている人たちが、分断され、叩き合う状態を避け、お互いの連帯の可能性をつくっていくための戦略でもあります。誰もが等しく社会によって支えられているという意識をつくっていかないかぎり、苦しい者がより苦しい者を叩き、共倒れしていく状況が深まるばかりになってしまいます。     3334ページ

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 ここで言われていること自体に異存はありませんが、問題を別の角度から見る必要もあります。「不幸比べ・我慢大会」とバッシングは、「椅子取りゲーム」をさせられている人々が、「競争」の名の下に、お互いの中で必死に傷つけあっている姿です。自己責任論の地獄です。それは、あらかじめ椅子を取り上げてゲームを強いている者たちの存在と責任に気づかないところに生じます。「生活を自分の力だけで成り立たせるのが当たり前だ、という社会的圧力」に問題の根源を見るのは、社会一般の視点から生じるのであり、それ自身は正当です。しかしそれだけでなく階級社会の視点から、苦しさの原因として搾取を見ることが必要です。また財政・社会保障の仕組みを通じた再分配政策の喫緊の重要性は言うまでもありませんが、それとともに非正規雇用をなくし、強搾取を規制するといった、雇用と生産のあり方を改善することで、連帯の可能性をつくり出すことも大切です。搾取論からすれば、普遍主義的な社会保障の財源の多くを「あらかじめ椅子を取り上げてゲームを強いている者たち」に負担させねばなりません。

 高端氏は「考えるべきなのは、闇雲に高所得者、大企業から税金を取れと言っても、幅広い国民の支持は得にくいという点です。みんなが望んでいるのは、公平な税制です」(35ページ)として、資産性所得の分離課税の是正を例示しています。問題は一致点としての「公平な税制」の中身を拡大していくことです。高所得者・大企業の負担は不可欠です。そうでなければ普遍主義の社会保障の財源は結局消費税で確保すべし、ということになりかねません。とはいえ、現実政治の変革においては大衆的一致点をどう確保するかは大切です。したがって、理論的に可能な財源はこれだけある、ということを指摘するだけに済ませず、それにどう共感を広げていくかという現実政治の視点が不可欠です。そこに気づかせるという意味で高端氏の言説は有意義です。

 それに関連して、社会保障の財源論からは幾分か外れますが、政治変革における経済政策の打ち出し方について、中野晃一氏の「終わりがはじまった安倍政権と改憲を市民と野党の共同で葬り去る」(『前衛』6月号所収)が興味深い論点を提示しています。

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…略…今の日本の言論状況においては、社会や経済政策にかかわってくるとすぐに「財源はどうするか」と言われるということをふまえる必要があります。実際、いきなり大きく財政構造まで転換しないとできないようなことだけを掲げていても、すぐにうまくいくわけはいかないことが多いのです。官僚制からの既得権益を守ろうとする反撃も考えられ、実際に政権を取った後に、それらを一気にやるのは難しいと思います。そこで、お金のかからないシンボリックな問題についての政策も出していかなければいけないと思います。

            40ページ

経済や労働にかかわる政策というのは、白か黒かの政策ではなくて、何にどの程度のお金を使うかの度合いの違いによって差の出る政策になります。そのため、野党側がせっかくいい政策を打ち出しても、安倍政権がそれを真似て度合いが違うにしても似たような政策を打ち出すことは割と容易にできてしまうのです。

4041ページ

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 ということで中野氏は「白黒がはっきりしていて安倍政権が絶対に乗れないような政策を打ち出すこと」(41ページ)を推奨し、改憲反対、戦争法廃止、選択的夫婦別姓、セクハラ問題などを提示しています。

 もともと戦争法反対の一致点から出発した野党共闘の課題として、身近な生活・経済問題での政策提示が弱く、その点で与党のアドバンテージ(「××に予算をつけられるぞ」という宣伝など)に負ける、ということがありました。ここでの中野氏の議論はさらにそのむずかしさを強調する結果になっていますが、それでも考えることを避けては通れない問題であることは確かです。中野氏によればオルタナティヴな経済政策は「やらなければいけないが、それだけではいけない」(同前)ということで上のようなそれ以外の政策の打ち出しとなっています。でも「やらなけばいけない」のです。

 失敗した民主党政権ですが、高校授業料無償化だけは鮮やかな成果として記憶に残っています。長年の要求ではあるがなかなか実現しないだろうと思われていた政策が一挙に実現したことは望外の驚きでした。これを実現するのに、財政構造全体に対するオルタナティヴを実現する必要はなかったでしょうから、こうした政策効果の高いものを、限られた条件の中でも打ち出していくことが大切です。何かそういった「小手先の工夫」と「オルタナティヴな経済政策」との並行した追求が必要です。経済政策は質(立場)とともに量(金額)が重要なだけに、あれかこれかだけでないグラデーションでの工夫の余地があります。

 閑話休題。社会保障の財源論について、検討の立場についてあれこれ考えてきました。財源論の中身そのものの検討は宿題として残されています。しかし社会保障と財政それぞれの本質・理念について確認するとともに、それを政治的に実現する方途にまで問題意識を及ぼしたことは意義があると思います。

 

 

          安倍政権の行状

「無理が通れば道理が引っ込む」と言う言葉はまさに安倍政権のために作られたのかと思えます。戦争法などあまたの悪法案の国会討論はまったく議論になっていません。野党の追及に対して、安倍首相や閣僚・官僚たちは、何も言わないと議論に負けたことが明白になるから、的外れでも何でもいいから何か言う。ただ時間が過ぎればいい、とばかりに。実際には国会の委員会討論で答弁に立てなかったり、言葉に詰まったりしょっちゅうしていますが、幸いNHKニュースはうまく編集してきちんと答えたかのように形を作ってくれます。その編集材料を提供するためにも、何でもいいからしゃべります。

「丁寧な説明」で「国民の理解」を得ることが大切、というのが首相らの常套句ですが、これはまったく無意味なまくら言葉に過ぎません。始めから道理にもとづいて議論する気はなく、時間が来たら強行採決するだけ。これが安倍政権の立法に対する姿勢です。彼らにしてみれば、過半数の議席があるのだから、そもそも議論など無用なのです。

モリ・カケなど政治スキャンダルについて、野党が証拠を示せ、と言う首相の好きな言葉に「悪魔の証明」があります。「ない」ということは証明できない(「悪魔の証明」)のだから、「ある」と言う方が証明しろ、というのです。それは一般論としては正しいかもしれませんが、首相の場合は、実際には「ある」ものを「ない」と主張することをごまかすために「悪魔の証明」を持ち出しています。一般人と違って、権力者は「ある」ものを隠蔽し改ざんすることができ、その上で「ある」ものを「ない」ものにして、「悪魔の証明」はできないと開き直っているのが首相のやり口です。実際にも、一連の安倍政権スキャンダルでは、政権が「ない」という物は必ず「ある」のが実績です。追及する側にすれば、「ある」ことが分かったのだから勝負ありです。「悪魔の証明」を持ち出す余地はありません。しかし何がどうなろうとも自分の非を認めず、一切責任を取らないのが安倍政権の不動の方針です。これは政治に対してだけでなく、日本人の精神にも深刻な打撃を与えるでしょう。全国革新懇第38回総会(519日)において、あいさつの中で市民連合の山口二郎氏は次のように述べています(「しんぶん赤旗」520)。

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 日本の政治の劣化は前代未聞です。今年3月、森友、加計問題でさまざまな犯罪が明らかになりました。もう安倍政権も終わりかと思いましたが、恥を知らない人たちというのは、本当に始末におえない。これだけの権力犯罪が露呈したにもかかわらず、まだ安倍政権は権力の座にしがみついています。

 最近の国会論議はSFの世界といいますか、フランスの不条理劇のようです。言葉が全然通じない。日本語が崩壊している。議論をそもそも否定するような状況です。これが続くと、ばかばかしくなって政治を論じることがいやになる。おかしいことをおかしいという人間が無力感に陥る。これが安倍政権の狙いでしょう。力を使わない言論の抑圧。安倍政権は21世紀型の言論の抑圧を発明した。とんでもないことです。  …下線は刑部

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 「基地負担軽減」「沖縄の人々の気持ちに寄り添う」などと空文句を言いながら、実際には問答無用で辺野古基地の新設を暴力的に推し進めるのも同様の狙いがあることでしょう。こうした不条理を解決して、日本社会にニヒリズムやシニシズムが蔓延するのを防ぐには政権打倒しかないという状況です。

 以上、安倍政権が駆使する言説の詐術とその効果を見ました。それが政権の延命に一役買っています。他にも今日の異常状況を説明する事柄について考えてみたいと思います。

 ここ数年、安倍政権の支持率がなぜ高いか、という疑問をずっと引きずっています。戦争法を強行した2015年あたりではすでにこの政権が戦後最悪であることは確定的でした。経済・社会保障・軍事・外交等どれをとっても反人民的政策を断行してきました。もちろんそれは従来からの自民党政治の延長なのですが、その財界・アメリカ奉仕ぶりは突出しています。過去の政権では民意への配慮が多少はあったのですが、安倍政権においてはわずかばかりのお恵みを針小棒大に宣伝し、後は欺瞞的なスローガンを並べて世論を欺くばかりです。さらに上述のように、国会での議論を徹底的に軽視し、野党には言わせるだけで何も答えず、時が来たら強行採決、というパターンを繰り返しています。つまり安倍政権は政策が悪く、議会制民主主義を踏みにじっているという意味で、戦後最悪の政権であることは明白でした。その上、昨年からは、モリ・カケ疑惑の登場で、首相自身の国政私物化がはっきりし、それを隠蔽するために、嘘つき・文書改ざんと何でもアリで、官僚機構そのものを決定的に劣化させています。それでも開き直って退陣しない。戦後最悪をはるかに超して、極悪非道政権とも言うべきです。

 にもかかわらず、内閣支持率が3割とか4割あるのが驚きです。政策の問題だけでなく、国政私物化と嘘・改ざんを受けてもそんな状況だというのはいったいどうなっているのか。拙文では以前より、政策への支持がないのに内閣支持率が高いのをアベ・パラドクスと称していろいろと考えてきましたが、ここに及んでは、明白な汚職を抱えながらも支持がたいして減らない、というアベ・パラドクス増強版を見せられています。この増強部分の原因はいったいなんでしょうか。

 首相やエリート官僚が嘘を言っているということは、ほとんどの人は否定しないと思います。嘘と改ざんを承知の上でこの安倍政権高支持率なのです。支持者は世の中そんなものだ、と思っている、あるいは諦めているのです。財務事務次官のセクハラ問題がありました。これはモリ・カケなどの安倍政権スキャンダルと無関係ではありません。さらに言えば日本大学のアメリカンフットボール部の反則タックル問題にも似た構造が見て取れます。これは監督・コーチによるパワハラ事件です。支配構造の上位に立つものが権力をふるってやりたい放題。国政私物化、嘘・改ざん、パワハラ・セクハラ…何でもアリ。

財務事務次官のセクハラ問題ではテレビ朝日の被害者の女性が、日大アメフト部の問題では加害者とさせられた20歳の学生選手が勇気をもって告発しました。その宮川泰介選手は記者会見に臨み、関西学院大のクォーターバックの選手に対する悪質タックルが監督とコーチの指示で行なわれたことを明かしました。普通なら隠れて時がたつのを待つくらいですが、彼は名乗り出て顔を出して謝罪の上、真実を語り、問題の本質を明らかにすることで自らの責任を果たしたのです。なかなかできることではない立派な身の処し方であり、感動しました。人の本性は、重大な間違いを犯したときどう対処するかに現れます。宮川選手に対して、安倍首相や佐川・柳瀬などといった官僚たち、また周辺の人々のやり口がいかに恥ずかしいものか、一目瞭然となりました。こうして見ると、権力者が嘘と力で真実を隠蔽するなら、権力を持たない者は真実を語り、ひどい現実を告発することによって、人々の共感を引き出しそれを力とするのが最上の策であることが分かります。

このように重大事態への対処法としての典型例として安倍型と宮川型を上げることができます。もちろん世論上は宮川型に拍手喝采なのですが、実は世間では意外に安倍型が多いのではないかと思います。アベ・パラドクス増強版の増強部分を理解する鍵がこの辺にありそうです。モリ・カケ問題、財務省の公文書改ざん、厚労省の統計偽造、防衛省の日報隠蔽、財務省のセクハラ、文科省の公立中学校への不当な圧力等々、安倍政権スキャンダルはすべてその権力構造に根ざして起こっています。日大アメフト部の問題も権力構造の病理です。

これらはいわば「日本のおじさん問題」と言えます。支配の仕組みの上位にあるものが、都合の悪いことを嘘と権力でなきものにして、下の者を支配したり責任転嫁したりします。こうした中央権力のミニチュアとして、職場や家庭などの小社会に小安倍として君臨しているおじさんたちにとって、真実を語る反乱は許されるべきではありません。彼らにとってパワハラ・セクハラは日常であり、嘘や抑圧は必要悪です。道理はともかく、心情的に彼らが安倍型であり、宮川型に違和感を抱くのは当然でしょう。タテマエは宮川型でもホンネは安倍型なのです。ここに安倍政権の一つの支持基盤があるように思えます。

 とはいえ、「日本のおじさん」の大多数は客観的には労働者階級の一員であり、日本資本主義の強搾取の下で劣悪な労働条件に耐え、自らの家庭を形成しながら、日本経済の屋台骨を支えてきました。その厳しさの中で、小社会における小安倍として小権力をふるうのがせめてもの慰めなのかもしれません。もちろん根本的な解決策は強搾取を規制し、民主的な社会・職場・家庭を築くことなのですが、それは労働者階級の一員としての自覚に基づくものであり、経営者サイドの資本の論理を内面化した「日本のおじさん」にとっては、せめてもの既得権(圏)を維持することが優先されます。こうして考えてみると、ここでも結局、安倍政権への対案を野党と市民の共闘が分かりやすく指し示すことが大切だということになります。家庭・職場・地域の草の根から国政の頂点まで、総がかりで民主化が求められています。

 

 

          非武装平和主義について

 安倍改憲阻止が当面の緊急課題です。安倍改憲においては、何と言っても9条に自衛隊を加憲することが本丸です。問題の焦点は自衛隊が違憲か合憲かではなく、米軍と共に海外で戦闘ができる状況を許すかどうかにあります。安倍首相は自衛隊違憲論をなくすための改憲で、現状と何も変わらないから心配無用だと言いますが、それがいつもの嘘であることは明白です。この論点については多くの解明がありますからここでは触れません。

 新聞の投書などで9条改憲についていろいろと議論されています。そうすると必ずしも上記の様に問題を整理して、当面する課題に集中するわけではありません。どうしても9条と自衛隊のそもそもの関係から安全保障政策まで広い話題で議論が繰り広げられます。それはどうしてもそうならざるを得ません。憲法と安保=自衛隊との矛盾を基軸に、戦後日本の歩みから今日の平和をめぐる複雑な状況の総体が私たちの眼前にあり、9条改憲は将棋に例えるならばその焦点に打ち込まれた駒だからです(飛車だろうな。暴れさせたらとんでもない破壊力。逆に打ち取ってしまえば恒久的勝利につながっていくだろう)。したがって、一方では議論を当面の課題に引き寄せる努力をするとともに、この際それだけでなく、錯綜する議論の中でそれぞれについて原則的な見地を明らかにすることも同時追求することが先々をにらんで大切です。「武力によらない平和」という考え方を基礎に置くことは、どのような情勢・歴史段階においても威力を発揮するものですから。

 以下では、改憲の対象である9条の非武装平和主義について考える際に必要だと思う基本的視点を簡単に提示します。自衛隊違憲=解消論に対しては、非現実的で無責任だという非難が必ずあります。そこには自衛隊合憲論から同違憲=改憲論までいろいろありますが、それはここでは問いません。そうした非難に対して、同違憲=解消論の立場の一部に、あえて挑発的にか悟ってか、丸腰でいる覚悟が大切だ、と応じる向きがあります。そういう言い方について私は究極的には否定はしませんが、少なくとも論戦上は現実的な対応ではなく、政治的に勝つ気がない(ようにさえ思われる)という意味では無責任な言説だと思っています。それでは多くの人々の共感を得られません。

 第一に強調したいのは、今日から将来に向けての段階的見方です。日本は非武装で行くと言われたら、多くの人々はすぐさま北朝鮮や中国などの状況を思い描いて、とてもそんなことはできない、と結論づけるでしょう。それは無理もない。ここには大きな誤解があります。そういう誤解を招くような言い方をしてはいけません。9条を完全に実現すべく非武装化するのは、今日の情勢下ではなく、何段階もの措置で情勢を変えた末のことです。

今日でいえばまず戦争法を廃止しなければなりません。6ヵ国協議を活性化させて朝鮮半島の非核化、朝鮮戦争の終結を実現し、6ヵ国の信頼醸成が進むことが戦争法廃止の努力と並行するでしょう。そうした平和環境の進展の先に日米安保条約の廃棄が現実的課題となってきます。ここでは米国との対峙を平和的に乗り切る国民的団結が試されます。仮想敵国をなくし軍事同盟から脱却することで真の平和外交の基盤が確立されます。

 それらを前提に、今日の自衛隊のもっている対米従属性と支配層に奉仕する国家の暴力機構としての性格を徐々になくしていくことが必要です。国内外に向けたそうした武装機構から災害救助隊としての性格に移行していくことが現実的改革の道かもしれません。

 そうした何段階もの過程を経て、もはや武器は無用の長物だという理解が進む中で9条の非武装平和主義が実現されていきます。もちろんこれは日本だけでなく世界全体の平和への努力とともにあります。2017年に国連で核兵器禁止条約が採択されたことはその重要な一環です。

この段階的アプローチで重要なのは、それが単なる現実主義だから段階的になっているということではなく、「武力によらない平和」という理想を一貫して掲げ追求することが段階を一歩一歩上がる推進力になっていることです。

そうした理想追求的な政策イニシアの例として、最近の北朝鮮情勢をめぐる韓国の文在寅政権の姿勢を挙げることができます。日本の安倍政権のような対話拒否=圧力一辺倒路線とは対照的に、「戦争を絶対に起こさせない」という決意の下、まず南北朝鮮対話を実現し、米朝首脳会談実現に最大限の努力を払いました。昨年の米朝一触即発の危ない情勢を想起するなら、ここまで現実を変革した政治実践に深い感銘を受けます。日本の政権・支配層のみならずメディアでは軍事力信仰が支配的であり、政治対話への想像力・構想力を欠き、朝鮮半島蔑視も根強く(それは少なくとも韓国に対しては無根拠であり、北朝鮮との共存共栄の可能性を断っている)、それらと不可分の情勢の見方としてのニヒリズム・シニシズムが蔓延していました。その間違いは今では明白ですが、おそらく本質的な反省は行なわれていないでしょう。その状況を克服することが私たちの課題です。今回の文在寅政権の努力方向に学びながら、「武力によらない平和」という憲法の理想を高く掲げつつ、現実的な一歩一歩の長い歩みを追求するその先に非武装平和主義が実現されるでしょう。

 もう一つ重要な視点があります。一面的な被害者意識的脅威論を克服することです。善良な日本の付近に、中国・北朝鮮・ロシアなどの邪悪な国があり、それが脅威になっているのでアメリカが守ってくれている、と考えているのが多くの日本人の安全保障環境観ではないでしょうか。これでは他国から笑われます。もちろんこの近隣三国はそれぞれに覇権主義とか独裁権力とか問題が多く、日本にとっての脅威があることは事実です。しかし彼らから見れば日本も脅威なのです。

 まず日本はかつての侵略戦争をきちんと反省していないと警戒されています。確かに公式にはいわゆる村山談話などにおいて日本政府は侵略戦争の反省を表明していますが、それはタテマエであって、ホンネではないと見られています。よく日本人はうんざりした顔で、何度謝ればいいのか、と言います。しかしアジア諸国にすれば、何度も謝る必要はないが、政府の公式見解に反して侵略戦争を美化する多くの政治家の妄言がある限り信用できないのです。当然です。妄言政治家とは違って日本世論の多数は侵略戦争を認めていますが、彼らを選挙で落とすくらいでないといけません。アジアにおいて、日本がかつての侵略戦争の反省をしっかりしていると認められることが、今日の日本の信用を確立し、周辺諸国の要らぬ警戒を解いて、自国の平和を守ることにつながります。

 次にアメリカの見方です。日本人の多くは、アメリカは自由と民主主義の良い国で日本の友好国であり軍事的にも守ってくれていると思っています。しかしアメリカはいつも戦争をしている好戦的な国家で、第二次大戦後もベトナムやイラクなどへの侵略戦争を数多く敢行してきたまぎれもない帝国主義国家です。確かに北朝鮮は邪悪な独裁国家であり、暴虐な国際事件をたびたび起こしていますが、朝鮮戦争以降、侵略戦争をしたことはありません。そういう意味ではアメリカの方がはるかにならず者国家なのです。

 日本はそのアメリカと軍事同盟を結び従属国となっているのですから、仮想敵国とみられている中国・北朝鮮・ロシアにとって日本は軍事的脅威です。北朝鮮が日本を攻撃するならば、その理由は在日米軍基地があるからです。

 一面的な被害者意識的脅威論があるために、日米軍事同盟で守ってもらおうとか、自衛隊を増強して守りを固めようという発想になります。客観的に安全保障環境を見るならば、周辺国からの脅威は確かにあるけれども、日本と日米軍事同盟による脅威もあり、これを相互になくしていく信頼醸成の努力こそが必要なのだと分かります。武力ではなく対話なのです。経済・文化交流を進めることがその土台をつくります。日本外交がその道を進むならば、「武力によらない平和」という憲法の理念はさらに輝きを増し、国際的信用を獲得するシンボルとなって、日本の平和環境を揺るぎないものにしていくでしょう。

 以上のように、――(1)非武装平和主義の段階的アプローチ、(2)一面的な被害者意識的脅威論を克服して客観的に国際情勢を見ること―― この2点が、憲法と平和をめぐる議論において不可欠の視点であろうと思います。これを比喩的に表現すると……

 

1)裸で狼の群れの中に飛び込むのではなく、周りを羊のように変えて仲良くなる中で鎧を脱いでいく。

2)自分だけが羊で周りが狼だと思うのは大間違い。自分も狼。周りと一緒に羊のようになっていく努力が必要。ただし比喩をより正確化すると…日本は1945年までは狼。1951年以降は虎の威を借る狐。45年から51年の間は羊になる可能性があったが道を誤った(サンフランシスコ単独講和と日米安保条約締結)。

 

 初めに述べたように情勢の焦点は安倍改憲です。そこに議論を集中し、効率よく反対世論を形成することが必要です。ただし改憲が問題となると、どうしても憲法そのものと平和・安全保障について様々に論及することになってしまいます。

日本の平和を考えるときに、憲法と安保条約=自衛隊との矛盾は常に問題の核心であり、それを外しては意味の薄い抽象論に終わります。矛盾する両者が格闘しながら共存し、世論の多数派は矛盾した共存をそのまま受容しています。そこには果てしなく問題があり、それをどう捉えるかが難しくも変革のキーでもあります。そうした中で、非武装平和主義は憲法から現実に投げられた鋭い「問い」であり、それに正面から対峙することを通じて、平和の本質とその実現への構想を考え続けることはいかなる情勢・歴史段階においても有意義であると思います。とりあえずそこで必要ではないかと思われる二つの視点を以上のように提起しました。
                                 2018年5月30日


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