月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2023年1月号〜6月号)

                                                                                                                                                                                   


2023年1月号

ロシアのウクライナ侵略戦争考

 

     1)この戦争を捉える視点の組み立て

 

 21世紀のヨーロッパでこれほど明白な侵略戦争が起こるとは、と世界が驚愕したのがロシアのウクライナ侵略戦争です。これをどう捉えたらいいのか、その全体的な組み立てがまず問題です。

☆1 初めに最低限押さえなければならないのは、ウクライナ戦争と言われるものは、ロシアによる国際法・国連憲章違反の侵略戦争であるということです。この点では、国連総会での圧倒的多数のロシア非難決議や国際法研究者による解説ではっきりしています。ところが世界の共産党や左翼政党の一部には、それを曖昧にする傾向があります。おそらく積年のソ連追従主義の惰性から来るもの(それを仮に「マルクス=レーニン主義的立場」と呼ぶ)と思われますが、その態度を克服することなしに各国人民の左翼への信頼回復はあり得ません(*補遺)

☆2 次いで、ロシアの上記の責任の明確化を前提としつつも、アメリカを中心としたNATOが、ワルシャワ条約機構の解体という好機を生かすことなく、つまりヨーロッパでの集団安全保障の道を採らず、軍事同盟の存続と強化に邁進したことへの批判が必要です。もちろんこの局面でもNATOのみならず、覇権主義的行動に終始したロシアも同罪ですが…。それに関連して、ロシア・ウクライナ関係の歴史的事情、ウクライナの国内状況の複雑さ、ウクライナ左派の動向なども見ておく必要があります。そうすることで、バイデン米大統領を中心とする西側諸国のスローガン「民主主義VS専制主義」という誤った単純化と資本主義陣営の美化を克服することができます。

 ☆3 以上は主に国際政治の問題ですが、それをきちんと解明しつつ、経済理論の課題としては、新自由主義グローバリゼーション下でのロシアのウクライナ侵略戦争の位置づけを捉える必要があります。ロシア経済はもっぱら食料・エネルギー資源依存で、まともな製造業を持たず、したがって現代的で安定した再生産構造さえ確立できていません。にもかかわらず、軍事力だけは世界的に突出しています(侵略戦争との関係では、戦前日本資本主義の再生産構造も異様であったことを連想させます。もっとも、今日の日本資本主義も対米従属と食料・エネルギーの海外依存という奇形的な国民経済となっているが)。周辺の旧ソ連諸国はロシアとの旧来からの関係を維持しつつも、新自由主義グローバリゼーション下で、中国や欧米諸国との新たな関係を模索しています。つまり奇形の国民経済を土台とする軍事大国ロシアが覇権主義的行動を取り、その周辺諸国は微妙な国際関係性に揺れるという不安定な地域構造があります。さらに格差と貧困の拡大下で、民族・宗教問題などを抱え、ロシアと周辺諸国は多くの困難に直面しています。それを伝統的ナショナリズムで糊塗する動きは、新自由主義グローバリゼーションを推進する欧米諸国とのイデオロギー的緊張関係を増し、それはNATOの動向とも相まって、軍事的緊張とも連動していることでしょう…等々、思いつくまま並べてみましたが、本格的にその底流を捉えるには、活発に展開するグローバル資本の資本蓄積のあり方を解明し、ロシアと周辺諸国がそれにどのように包摂されているのか、あるいはそうされがたい部分があるのかを考える必要がありそうです。喧伝される「民主主義VS専制主義」図式を乗り越えるには、経済的土台からの分析、特に新自由主義グローバリゼーションの展開を捉え、その中でロシアのウクライナ侵略戦争を位置づけるべきでしょう。もちろんそれは侵略戦争批判などの政治的解明を前提とするものです。

  以上はいわばウクライナ戦争の意味論です。それは現在も将来にわたっても必要な分析課題であり、社会科学がこの重大事態に直面して、そこから教訓を引き出し、世界を正しく変革していく針路を指し示せるか否かが問われています。しかし、今喫緊の実践的理論的課題は戦争終結問題です。ウクライナの人々の惨状を世界の人々は固唾をのんで見守り、自からの生活にも重大な影響が及ぶ中で、一刻も早い戦争終結を望んでいますが、当事者たるウクライナ世論はロシアに譲歩した安易な終結を拒否しています。しかしプーチンに道理ある姿勢を期待できず、逆に自暴自棄になって核攻撃を選択しないよう、配慮することさえ必要とされます。そうすると戦争終結に向けては、上記☆1☆2を総合して理論的正当(正統)性をできるだけ確保しつつも、現実適用可能な実践的提起がされねばなりません。戦況の展開を軸として、国際政治情勢の具体的動向をにらみながら、理想と現実の狭間で苦渋の妥協が選択されざるを得ないことが予想されます。

 

     2)ウクライナをめぐる複雑な状況と戦争終結の模索

 

森原公敏氏の「ウクライナ侵略の行方と世界の動き 平和への模索☆1を踏まえつつ、☆2について複雑な事実と諸関係をできるだけ取りこぼさないようにすくい上げようという姿勢で臨み、その中で「戦争終結」の課題に慎重にアプローチしようとしています。日本のメディア状況では、「民主主義VS専制主義」図式が支配しているので、☆1を前提とするのは当然としても、☆2について取り上げることはありません。単純なロシア悪玉観だけに終始しています。逆に「マルクス=レーニン主義的立場」では、そうしたメディア状況をかいくぐって、できるだけロシアに有利な情報がないかを探って、アメリカ・NATO批判で階級的分析を志向しつつも、ロシアの侵略戦争責任の不明確化に陥っています。この立場に対しては、メディアの報じる個々の事実への懐疑を追求するだけでなく、ロシアのしている民間人やインフラへの無差別攻撃という大量の事実を何よりも直視して、侵略戦争ならびにそれと不可分にセットである非人道的行為への当たり前の怒りを取り戻すべきだと言いたい。それ抜きに階級的良心はあり得ません。

そうした両極を排して、できるだけリアルに現実を直視する志向性が森原論文には見られます。もちろん私のごとき素人は情報量も少なく、そこから本質を剔抉する能力も限られているので、様々な立場が交錯する中で、相対的にそのように「見られる」と言うほかはないのですが…。論文は、歴史認識を含むウクライナ国家の二分化という中心的問題を軸に、スターリン時代・1930年代の100万人の餓死、および第二次大戦でのナチス協力問題という対立的二大事実が今日までずっと引きずられていることに注目しながら、1991年の独立から2022年のロシアのウクライナ侵略戦争にまで至る複雑な過程をできるだけ詳細に偏り少なく描き出しているように見えます(2023ページ)。そこではロシアの介入はもとより、アメリカの策動も垣間見られます。その中で、ウクライナの左翼・進歩勢力は深刻に分裂しますが、多数派は「ドンバスの戦闘でのロシアの責任を指摘しつつ、政府の排他的な民族主義的対応に反対してドンバスとクリミアの平和的再統合を主張した」(20ページ)とあります。各国の政治情勢を見る場合、必ずしも大勢を動かす力を持たないとしても、対外従属的でない自主的民主的勢力の主張と動向を注視することが重要だと思われます。

 森原論文では、ロシアとの関係の中でウクライナ戦争に直結していく、2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」(ロシア側は「クーデター」と非難)以後の事態に主に焦点が当てられていますが、全ヨーロッパ規模で、その前段としての冷戦終結のあり方に着目することも重要かと思います。その点で参考になるのが22回大佛次郎論壇賞 『分断の克服 1989―1990』 板橋拓己さん(「朝日」1221日付)という記事です。大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)を受賞した板橋東京大学教授の『分断の克服 1989―1990 統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(中公選書)は秀逸な労作であるようです。この十数年のヨーロッパは、ユーロ危機や右翼ポピュリズムの台頭、そしてウクライナ危機と次々に難題に直面しています。「いくつものひずみが出てくるなかで、冷戦終結の時に何か間違ったのかもしれないと感じるようになった」板橋氏はその遠因をドイツ統一にさかのぼり、本書では、当時のゲンシャー西独外相の構想と行動に注目して、冷戦後の国際秩序のあり方をめぐる攻防を解明しました。

 1990年東西ドイツは統一しましたが、NATOに帰属するかどうかはすんなりとは決まりませんでした。ゲンシャー外相は、旧ソ連を含む「全ヨーロッパ的平和秩序」が持論でした。統一にあたっては、東ドイツ領域にNATOを拡大させず、NATOとワルシャワ条約機構がともに軍事同盟から政治同盟へと転換し、協調的な関係を結びながら全欧安保協力会議(CSCE)へ収められて解消する――そんな「和解型」の構想を描いていました。しかし、米ブッシュ政権から突き上げられ、迅速なドイツ統一を目指すコール首相はゲンシャー外相の発言を抑制し、統一ドイツがNATOに帰属する「勝敗型」の冷戦終結へと向かいました。もし「勝敗型」の冷戦終結ではなく、ゲンシャーの「和解型」構想が実現していれば、ロシアのウクライナ侵略戦争はなかっただろう、と言うのが板橋氏の見解です。記事は「歴史は可能性の束だ」と喝破し、次の板橋氏の言葉で締めくくっています。「社会主義体制の崩壊もNATOの存続も必然であって、良かったという議論が多かった。しかし89年から90年には様々な構想がせめぎ合っていた。それに気付いてもらうために、最も和解的だったゲンシャーを取りあげてみたんです」。次に大佛次郎論壇賞選考委員の選評の中から一つ紹介します。

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 ■信頼醸成に力を入れた外交、感服 酒井啓子・千葉大教授(国際政治学)

 198990年のドイツ統一の外交史を扱いながら、その視線の先にはロシアのウクライナ侵攻という今がある。冷戦を東西融和・和解で終わらせるか、東(ソ連)の敗北で終わらせるかという、冷戦後のありように決定的な役割を果たす外交的判断の数々において、常に前者にこだわったドイツ外交の緊迫した展開が見事に描き出される。ウクライナ戦争が続く今、当時の慎重できめの細かい外交がいつ失われ、いつロシアを敗北者としてしまったのかを振り返らずにはいられない。登場する政治家たちの機動性にも感銘を受ける。対立する大国を隣に抱えて、これだけ多方面に臨機応変に、かつ真摯(しんし)な信頼醸成に力を入れた外交に感服するとともに、わが国にこれだけのことができるだろうかとも考えさせられる。さまざまに示唆に富む、学ぶことの多い秀作だ。

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 酒井氏が言うように、まさに日本外交がここからどう教訓を引き出すかが問われています。なおゲンシャー構想の中に全欧安保協力会議(CSCE)が登場しますが、これは冷戦時代の1973年の会議から始まり、1990年のパリ首脳会議で事務局設置に合意し実質的な国際機構化が始まったもので、一応東西両陣営を含む集団安全保障の機構と言えます。日本共産党の緒方靖夫副委員長2022年の欧州訪問で、オランダ社会党の政治・外交顧問に「欧州安保協力機構(OSCE)という合意がつくられていたのに、戦争が起きたが」と問うと、「政府間上層の合意で、欧州各国の国民間に根ざしていない脆弱(ぜいじゃく)性があった」と述べていました(「しんぶん赤旗」1227日付)。せっかくの機構が形骸化していたということでしょう。軍事同盟の対抗を克服する集団安全保障体制の構築には、人民的運動の高まりによって政府を実質的に動かしていくことが必要です。

 森原論文は、古谷修一・早稲田大学教授(国際法)の「『国家の戦争』から『個人の戦争』へ プーチン氏は変化を見落とした」聞き手・国末憲人氏、(「朝日」デジタル1018日付)に注目しています。私はすでに本誌202211月号の感想において言及しているので詳しくはそれに譲りますが、きわめて重要な論考であり、戦争の人権化・個人化という注目すべき論点を提示しています。ところがそれが戦争の開始と終結に関するアンビバレントな議論を生む皮肉な結果にもなっています。

 今日では、ネット・SNSの普及によって、戦災の悲惨な状況が瞬時に世界的に共有されるようになりました。それで戦争が国家の問題にとどまらず、個人個人にとってビビッドに受け止められ、戦争の個人化・人権化が生じています。ウクライナ戦争はロシアの侵略戦争という側面はもとより、無差別攻撃に代表される人道危機として意識され、戦争犯罪がすでに認定されようとしています。普通それは戦後に問題となりますが戦中から世界共通の合意になりつつあります。そうすると、一方ではこの戦争犯罪は絶対許せないということで、ウクライナ側は安易な戦争終結への妥協を拒みますし、世界的世論もそれに同情的になります。他方では、たとえば中国などが台湾の武力統一を画策しようにも、戦争の人権化の下では、世界的世論を敵にして開戦することが躊躇されそうです。これまで侵略を繰り返してきたアメリカにとっても同様でしょう。つまり戦争の人権化は、戦争を始めるのも終わらせるのも困難にしています。

 これは当面するウクライナ侵略戦争の終結にとってはやっかいな問題ですが、今後の世界平和にとってはプラスに作用しそうです。私たちとは立場が違いますが、ロシア軍事の専門家としてメディアで引っ張りだこの小泉悠氏(東京大学先端科学技術研究センター講師)は同記事に次のようにコメントを投稿しています(20221019日)。「パワーは国際関係の重要な要素ではあるのだけれども、もともとそれが全てではなかったし、今は特にそうで、規範の果たす役割が非常に大きくなっている、ということがよくわかります」。

 さて戦争終結をどうするか。そんなこと、断定的に言えるわけがありません。森原論文も慎重な言い回しです。諸々の議論の紹介に続いて、まず原則の確認です。

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 様々な和平構想を受け止めた上で、「憲章の諸原則に従い、国際的に認められたウクライナの主権と領土保全を尊重しつつ、現下の情勢の緊張緩和や、政治的対話、交渉、調停及びその他の平和的手段による平和的解決」への支持を加盟国と国際機関に求める決議が圧倒的多数で採択されたことは、今後の戦争終結への道を模索する上で重要な意味を持つ。

      19ページ

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 戦況について、ウクライナは強気ですが、支援国とは温度差があり、たとえばアメリカは、ロシアがドンバスとクリミアを失うような事態になれば、核使用の危険性があるとして、そこまでロシアを追い込むのを避ける判断をしています。ウクライナと支援国との利益は必ずしも一致していないというわけです。その裏にはアメリカや支援国の国内世論の「いら立ち」があります(2324ページ)。

 さらに非常に重要な問題として、「ロシアの軍事的劣勢の進行につれて、深刻さが増している核兵器使用への紛争拡大の懸念」についてはこう述べています。

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核エスカレーション防止のために当事国に双方に停戦を急がせるべきという声もあるが、それでは今後もプーチンによる核の威嚇が繰り返され、周辺諸国はその圧力にさらされる。それだけでなく、世界規模で核兵器拡散に拍車がかかることになる。核を使えば、徹底的な報復を受け、国際社会で完全に孤立することをプーチン氏に理解させることは無論、核の脅威をなくす唯一の道である核兵器廃絶にすすむ国際社会の明確な行動が必要となっている。      26ページ

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 これも原則の確認という性格であり、唯一の戦争被爆国日本の役割が期待される場面として重要ですが(自公政府には期待できないが)、当面する情勢の打開という点ではどうなのかとも思えます。その前に紹介されている「現実主義」の構想――「親ロシア派の住民が住むクリミアとドンバスの一部が分離したウクライナは、より安定し、防衛が可能かもしれない。自衛可能で、欧州と経済統合可能な独立した主権国家ウクライナは、恒久的な領土紛争を抱えるウクライナよりはるかに望ましい」(25ページ)――は外野から見た現実主義で、当のウクライナ人にすれば絶対受け入れ不可でしょう。さらにもっと前にあるイーロン・マスク氏の和平提案――「ロシアが併合したウクライナ4州について国連監視下の選挙で住民の意思を問う、クリミア半島はロシアの一部として承認して水の供給を保証、その上でウクライナが中立を堅持する、という条件」(17ページ)――はより現実的に見えますが、ツイッター投票で否決されています。これには先の古谷修一氏の指摘する「戦争の個人化・人権化」の影響もあるのでしょう。

 建設的議論にはならないかもしれませんが、ここで過去の戦争終結を大雑把に見てみます。たとえば、第二次大戦では、連合軍の都市空襲・植民地支配の無反省など問題点はありますが、全体としては侵略者を裁く正義の原則が貫かれました。侵略国がはっきりと敗れたからです。それに対して、第二次大戦後のベトナム戦争やイラク戦争では、侵略国が裁かれず、正義の原則が貫かれませんでした。侵略国アメリカは、ベトナム戦争では侵略戦争としては敗退したけれども、自国が焼け野原になったわけではなく、依然として最大の軍事大国として君臨し続け、国連安全保障理事会の常任理事国のままでした。イラク戦争では侵略戦争そのものは完遂し、その後の不当な占領に対する当然の抵抗に手こずって撤退するという首尾となりましたが、何の反省もなく国際社会に君臨し続けています。ベトナム戦争時よりさらに悪質な結果です(*注)。プーチンが戦犯として裁かれるべきなのは当然ですが、ブッシュが安穏に過ごしているのはまったく不当です。

 残念ながら国際社会・国連においては、究極的には正義の原則は貫かれず、力の支配が優勢であるというのが実態だということです。ウクライナ戦争も同様です。もちろん戦後の平和勢力の努力により、アメリカといえどもタテマエとしては侵略戦争を肯定することはできません。そこに依拠して、国際法・国連憲章を守れと例外なく迫っていくしかありません。ウクライナ戦争で一方的な軍事的解決が難しいし、望ましくもない以上、粘り強い和平の外交努力が求められます。しかしぶっちゃけた話、プーチンが失脚でもしない限り、正義の原則を完全に貫くことは難しく、核の脅威をにらみながら落とし所を探るギリギリの交渉となるほかないでしょう。

 以上、戦争終結に関連してアレコレ思いつくまま並べても、適切な結論は出てきませんが、森原論文の慎重な材料提供を起点にさらに考えていきたいところです。なお国際関係の政治理論的検討とウクライナ戦争の現実的見通しについては、私たちとは立場が異なりますが、国際政治学者の藤原帰一氏が「朝日」や『世界』で展開している議論に注目しています。ただし中身の検討は今後の課題とします。

 

(*注)

イラク戦後処理について、日本に対するアメリカの占領と比べるという議論が何の抵抗もなくされていましたが、前者は侵略国側が何の反省もなく占領したのであり、後者は侵略国が敗れて民主化のために正当な手続きで占領されたのですから、まったく性格が逆です。「アメリカによる占領」という外形に惑わされて、まったく意味の異なる二つの占領が同等に議論されるところに、戦争と平和に関する無概念的誤りがあります。これは日米軍事同盟下における知的退廃の象徴です。 

 日本の占領について言えば、当初はポツダム宣言に基づく民主化が目的でしたが、やがて日本を反共の砦とする逆コースに変質しました。その後、サンフランシスコ片面講和を経て、対米従属下で経済大国化を成し遂げ、その「成功体験」とともに、対米従属意識が「自然な」イデオロギーとして定着するに至っています。世論の大勢のみならず、メディア、アカデミズムに至るまで知的退廃が浸食しているのです。

沖縄を初めとする米軍基地被害だけでなく、政治経済に渡る自主性欠如をも受容してしまっている日本の現状は、自主自立への人々の想像力を剥奪し、社会進歩への重大な障害となっています。米軍を追い払ったイラク人の気概に学ぶべきではないだろうか。

 

     3)ウクライナ侵略戦争をめぐる経済理論

 

 ウクライナ侵略戦争についてのまとまった経済理論的検討については、寡聞にして知りません。本号の特集で経済問題を扱っているのは、主には西原誠司氏の「ロシアによる戦争の惨禍 試練に立つ世界でしょうか。ウクライナの戦争遂行を支えているのは諸外国からの膨大な軍事支援です。その中心はアメリカとイギリスです。「この資金はどこから調達されるかというと、援助をしている国の国民の税金であり、その武器の売却代金は、その兵器を提供している軍需企業に入っていくのである」(70ページ)という論文の指摘は、軍需企業が戦争で儲けるという事実をあらためて想起させ、そこに戦争の終わりがたい一つの原因を見いだすことができます。さらに世界の兵器生産・軍事サービス企業を概観してこう結論づけされます。

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 ヨーロッパ勢とロシアの企業は、対前年比の売り上げ額がマイナスになっており、この戦争によって利益を得ているのは、米・英の軍需企業であることがわかる。軍事的には、ロシアとウクライナの戦争であるが、経済的に見るとロシアと米・英との戦争であるという本質が浮かび上がってくるのである。        71ページ

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 論文は戦争による人的・経済的損失を具体的に告発しています。現在進行形でまだ不定・不明の部分が多い領域であり、損失を許さないという意味でもいっそうの解明が求められます。併せて上記の戦争の経済的本質規定を鑑みても、戦争を防止し、核の脅威をなくし、軍備を撤廃することこそがSDGsなど人類的課題の達成に不可欠であることが痛感されます。戦争という最大の無駄をなくし、その経済力を人類の福利向上に向けることが喫緊の課題ですから。「核戦争を阻止し、戦争のない平和な社会をつくるために、その背後にある軍産複合体の解体とあらゆる軍事同盟の廃棄が必要であり、核兵器禁止条約の批准を促進する国際的世論と国際法を守らせる運動が必要なのである」(74ページ)という結論は理想ではあってもまさに切実な課題であることがこの戦争でいっそう明らかになっています。

 さらにこの戦争の起源と本質に迫るには、新自由主義下でのグローバル資本の展開の分析が必要です。佐々木優氏の「アフリカの食料・人道危機 その根底を考えるはその一端に触れています。「アフリカは対外穀物輸入の多くをロシアとウクライナに依存している」(57ページ)ので、ロシアのウクライナ侵略戦争が大きな影響をもたらしています。しかしもともと「世界全体では需要を賄うだけの食料を生産できているが、アフリカは充分に生産できておらず、」(59ページ)「長らく深刻な食料不足に陥っており、大勢の人々が栄養失調や飢餓に苦しんでいる」(60ページ)状態です。そこで論文は「アフリカの食料危機の根本的な課題として、(1)土地に起因する問題、(2)商品作物依存、(3)自然災害、の3点を提示」しています(同前)。

 (1)では、土地生産性が向上しないこととともに、「外国資本が農耕に適した農地の大規模な買収を進めており、アフリカの食料不足に追い打ちをかけている」(同前)という問題を指摘しています。(2)では、「そもそも食料増産よりも商品作物の栽培に傾倒して」(6061ページ)おり、「現在においても農民の現金収入源は、都市部での期間労働や換金作物栽培が主である。すなわち、自国で消費する食料が不足する一方で、他国のために農作物を生産しているのである」と指摘されます(61ページ)。農民はそこでの低賃金で貧困化し、さらに価格高騰で食費が家計を圧迫しています。この転倒した状況は資本主義的商品生産と帝国主義的支配とがもたらしたものだと言えます。ちなみに日本政府は最近盛んに農産物輸出を喧伝していますが、危機的に低い食料自給率を放置して、何をか言わんや、です。しかも農産物輸出とは言っても、その中には輸入農作物を原料にした加工食品も含まれており、自国の農業危機の改善にはつながっていません。資本主義と農業危機は世界共通の現象です。というか、そこに資本主義の本質があります。(3)については、論文にはありませんが、気候危機におけるグローバル・サウスの問題があるでしょう。

 この状況が原因で、国連総会でのロシア非難決議について、アフリカ諸国においては、棄権・不参加・反対の比率が他地域と比べて多くなっていると推測されます。日本の論者も(アフリカ諸国が)「ロシアに対する人権決議を偽善と捉えている」とか、「アフリカ諸国がロシアの軍事行動を是認していないとした上で、植民地支配を経てアフリカの資源や食料を独占的に確保してきた西欧に対する反発」がある、としています(62ページ)。ロシアを擁護する積極的理由などないけれども、発展途上諸国に対して欧米諸国のもたらした負の遺産ないし現状への反発が反射的にロシアを利しているわけです。本来普遍的に支持されるべき国際法・国連憲章の実現への阻害要因がここにあります。新自由主義グローバリゼーションの害悪の一端がこのように現われており、次いでロシアや周辺諸国がそれにどう関わっているかを解明することがこの侵略戦争の遠因の究明に役立つことでしょう。それは本格的な現代資本主義論の一環として形成されます。

 

     4)日本への教訓

 

 日本人にとってのロシアのウクライナ侵略戦争の最大の問題は、それを奇貨として、戦後安全保障政策の大転換=日米軍事同盟の抜本的強化が断行され、未曾有の大軍拡と改憲(懐憲)が強行されようとしていることです。平和を維持したければ、平和に備えるのではなく戦争に備えよ、という小賢しい言葉があります。まさに自公政府にうってつけのスローガンですが、全くの妄言です。岸田政権は抑止力の強化を謳いながら、アメリカに合わせた閣議決定・安保3文書改定の一つ「国家防衛戦略」の中で「十分な継戦能力の確保・維持を図る」として「おおむね十年後までに弾薬・誘導弾および部品の適正な在庫の確保を維持、火薬庫の増設を完了する」としています。つまり抑止力強化とは「本格的に戦争するぞ、ずっと続けられるようにするぞ」という決意表明だということです。平和の維持などどこかに飛んでいます。

 一般的に、戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しいと言われます。上述のように、まさにウクライナ侵略戦争の終結は難儀を極めます。戦争を始めてはいけない。これは絶対的教訓です。その上、古谷修一氏の「戦争の個人化・人権化」の議論に学べば、今や戦争は終わらせるだけではなく、始めるのも困難になりました。ここには希望があります。戦争を抑止するのは、軍事力よりも、人権や国際法・国連憲章を重視する世界の世論です。戦争はある日突然やってくるのではない。紛争は外交努力によって戦争に発展するのを防げます。軍拡はその努力に逆行する最大の阻害要因です。

 さらにアジアではヨーロッパの教訓を生かすことが重要です。大佛次郎論壇賞を受賞した板橋拓己氏の研究に学び、ヨーロッパの冷戦終結の失敗を繰り返さないよう、「勝敗型」ではなく「和解型」を選ぶことが必要です。別言すれば、排除ではなく包摂ということです。ASEANの理念と実績に学んで、東アジアに集団安全保障の仕組みを作ることを遠望しつつ、当面する諸課題に排除でなく包摂の姿勢を貫くべきです。そこに軍拡の余地はありません。日本は他国に率先して平和外交に努めるべきです。対米従属政府にそれを望むべくもありませんが、被爆者の運動や、中村哲氏などに代表される、憲法を真に活かした実績は世界に受け入れられる日本人の偉業です。アメリカのポチという悪評を挽回するだけのものを私たちは持っているということを確認しましょう。

 ロシアのウクライナ侵略戦争の影響で、日本の世論も軍拡支持が多数派です。しかし、その財源などをめぐって批判も高まっています。そこを起点にしつつ、しかし本筋として軍拡反対の太い世論を形成し、何としても軍拡と改憲(壊憲)を跳ね返しましょう。「歴史は可能性の束」であるなら、私たちは進歩の歴史を今まさに作り出していくべきです。これまで何度も紹介していますが、スウィージー『歴史としての現在』序文から引用します。

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 現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる。

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(*補遺)旧弊・ソ連追従主義の克服と新たなグローバルスタンダードの形成

 

 日本共産党創立100周年への海外の党からのメッセージ『前衛』202210月号に掲載され17党から寄せられています。――アメリカ共産党、イギリス共産党、イラク共産党、インド共産党(マルクス主義)、キューバ共産党、コスタリカ拡大戦線、スウェーデン左翼等、チリ共産党、ハンガリー労働者党、バングラデシュ共産党、ブラジル・「市民23」党(旧社会主義人民党)、フランス共産党、ベトナム共産党、ベルギー労働党、ポルトガル共産党、ヨルダン共産党、ラオス人民革命党――

 しかし、2022715日に向けたメッセージであるにもかかわらず、その年最大の国際政治のトピックであるロシアのウクライナ侵略戦争に触れるものが少なく、しかもロシアの侵略を明確に批判しているのはフランス共産党だけでした。

 また2022225日には世界の共産党・労働者諸党の緊急共同声明「ウクライナにおける帝国主義戦争に反対する」が発表されて、アゼルバイジャン共産党、カザフスタン社会主義運動、フィンランド共産党、スウェーデン共産党、ノルウェー共産党、デンマーク共産党、ポーランド共産党、ベルギー共産党、ギリシア共産党、トルコ共産党、パレスチナ共産党、スーダン共産党、南アフリカ共産党、メキシコ共産党、エルサルバドル共産党など、32の共産党・労働者党が署名しています(『世界』臨時増刊no.9572022414日発行)。そこではさすがに、「ロシアによる軍事介入」を「ロシア独占資本のウクライナ領土内における利害と、その西欧独占資本との熾烈な競争を促進するために下されたものである」と批判しています(202ページ)。栗田禎子氏の解説では「プーチン政権の性格については幻想がない反面、かつてのソ連については全面肯定しており、評価が単純である(たとえばハンガリーやチェコスロバキア、アフガニスタンへの軍事介入への批判・検証がない)点は気になるが、少なくとも現在のロシアへの階級的視点から批判しようとする姿勢は貴重である」(208ページ)と評価されています。しかしウクライナ戦争への対し方に関して「反資本主義・反帝国主義のたたかい」(202ページ)の一環として捉えているのは、米帝国主義やNATOの「民主主義VS専制主義」図式の裏返しのセクト主義であり、国際法・国連憲章の立場からの国際世論の圧倒的結集によってロシアのウクライナ侵略戦争をやめさせるという王道に反し、無力な空言と言うほかありません。階級的視点を本当にどう生かすのか、世界の共産党・労働者党は真剣に考える必要があります。

 布施恵輔氏の「平和と尊厳、生活向上を求め声を上げる労働者」は上記のマルクス=レーニン主義的立場の共産党と同様の誤りを世界労連の声明に見ています。それは一応ロシアの軍事侵攻には反対だが、NATOの東方拡大やコソボ空爆を持ち出して「どっちもどっち」論に陥って「ロシアの侵略戦争を正面から批判できてい」ません(75ページ)。布施氏はNATOの問題を含めて、「侵略戦争と軍事同盟に反対する立場から正確に批判すべき問題だ。『どっちもどっち』という考え方に立っている限り、国連憲章違反の今回の侵略戦争を正面から批判することは難しい」(76ページ)と指摘しています。

おそらくこうした体たらくが考慮されたと思いますが、日本共産党創立100周年の記念講演の中で、志位和夫委員長はこう述べています(「日本共産党創立100周年記念講演会 日本共産党100年の歴史と綱領を語る」、「しんぶん赤旗」919日付)。

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 ここで野党外交の一つの新しい発展方向をのべたいと思います。発達した資本主義国の左翼・進歩政党との交流と協力の新たな発展をはかりたいということです。ヨーロッパの左翼・進歩政党の現状を見ますと、「軍事同盟のない世界」「核兵器のない世界」などで、私たちと協力することが可能で、かつ、それぞれの国で政治的影響力を持ち国政選挙などでも健闘している政党が、一連の国ぐにに存在しています。

 日本共産党は、それらの政党と、あれこれの理論的立場の違いを超えて、直面する国際的連帯の課題を実現するための交流と協力を強化していきたいと思います。発達した資本主義という共通した条件のもとで活動している政党が、互いにその経験を学び、交流し、一致点で協力することは、大きな意義をもつものであると考えるものです。

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 共産党という名前だけでなく、その理論政策の中身が問題であるし、たとえ科学的社会主義の立場に立たない党でも、軍事同盟反対などの重要な共通点での共同行動は可能です。この方針の下で、緒方靖夫副委員長らが11月にヨーロッパ諸国を歴訪し、12月には欧州左翼党大会に参加して、ヨーロッパの多くの左翼・進歩政党との交流と協力の新たな発展をはかりました。11月のアジア政党国際会議への志位委員長らの出席と併せて、実に戦略的で充実した国際活動で、平和と社会進歩の戦線での着実な歩みを進めていると言えます。

 緒方氏は欧州左翼党大会において、五つの共同課題を提起しています(「しんぶん赤旗」1211日付)。――1. 国連憲章に基づく平和秩序の再建と強化、2. 軍事ブロック反対、3. 核兵器廃絶と核兵器禁止条約の推進、4. 気候正義、5. ジェンダー平等――

 漠然と会議に参加するだけでなく、情勢にふさわしくその方向性を定めるイニシアティヴを発揮したのはさすがです。ただしいずれも必要不可欠な課題ですが、格差と貧困の克服が入っていないのが不可解です。国連のSDGsでさえ第一の課題として挙げており、左翼であればさらに新自由主義との闘いという中身まで加えて提起してもおかしくありません。国際的な会議の席上ですから、平和・安全保障をめぐる国際関係が中心となり、併せて政治的社会的な一般民主主義的課題(その中でもとりわけ注目度が高く闘いの焦点にあるもの)が次に来るのも分かりますが、さらに左翼のアイデンティティーとして、当面する人民の生活苦の解消とその根本的解決としての経済的土台の変革を掲げるのが重要だと思います。

 それはともかくとしても、ロシアのウクライナ侵略戦争、それに対抗する西側諸国の軍拡と軍事同盟強化という危険な情勢下で、科学的社会主義の党に限らず、あれこれの理論的立場の違いを超えて、発達した資本主義国の左翼・進歩政党との間で、軍事同盟反対・核兵器廃絶などを含む協力に踏み出したことはきわめて重要です。ついでに言えば、緒方氏の一連の訪問・会談の中で、公式的見解の確認に終始するのでなく、発達した資本主義国ならでは、ならびに最近の情勢にまつわる困難性が率直に議論され、共感を持って連帯が確認されているのが新鮮でした。

 以上は、発達した資本主義国における社会主義的変革の実現こそが科学的社会主義の本流であるという、日本共産党綱領の認識の一つの実践であろうかと思います。ただしそこで留意すべきは、発展途上諸国の問題です。20世紀の世界的変革の中でも「植民地体制の崩壊は最大の変化であり、それは世界の構造を大きく変え、民主主義と人権、平和の国際秩序の発展を促進した」あるいは「植民地体制の崩壊と百を超える主権国家の誕生という、二〇世紀に起こった世界の構造変化は、二一世紀の今日、平和と社会進歩を促進する生きた力を発揮しはじめている」という綱領的認識に鑑みると、発達した資本主義国からの「上から目線」で裁断することへの自戒も必要となります。

 たとえば、党創立100周年への海外の党からのメッセージについて、私は先に総じて批判的に言及しましたが、注意すべき点もあります。ヨルダン共産党はこう述べています。「最近、米国とEUの人権政策がダブルスタンダード(二重基準)であることがより一層明らかになってきました。ウクライナで起こっていることは非難するのに、占領下のパレスチナを植民地入植者のなすがままにしているからです」(『前衛』202210月号、216ページ)。これはまったく正当な批判です。これで旧態依然としたソ連追従とロシアの侵略責任の相対的曖昧化という誤りを相殺し合理化することはできません。しかし発展途上国の先進国への不信は十分にこれまでの経験に裏付けされ、骨髄にしみこんだものであることは明らかです。たとえば気候危機対策でCOP27に現われた「グローバル・サウス」の問題もあります。先進諸国への機械的反発が、国連総会での一連のロシアのウクライナ侵略戦争批判決議への、少なくない途上国の反対や保留という態度表明に現われています。そこで、これまで歴史的に形成されてきた社会的格差などを忘れた上からの説教は無効であるし、上記のようなダブルスタンダードは問題外です。「先進国」の新自由主義的政府がそれをまともに反省することは難しいでしょう。したがって、そのことに発達した資本主義国の変革の運動主体が特に自覚的に臨み、国際法尊重・軍事ブロック反対などが真にグローバルスタンダードとして国際世論の共感を得られるよう努力することが求められています。日本共産党の野党外交はその一環を担うという意義も有していると思います。

 

 

          分断の正体

 

 分断はいけない、と常套句のように情緒的に言われることに私は懐疑的です。客観的には1%の支配層と99%の被支配層との間に分断はあります。しかし民族、ジェンダー、経済階層等々での分断は99%の中にあり、1%が持っている差別選別のイデオロギーによって作り出されたものです。この「分断支配のための分断」はなくさなければなりませんが、1%と99%との間の客観的分断はむしろその存在を意識すべきものです。99%内部の「分断支配のための分断」は私たちの運動によってなくすべきで、客観的分断は社会変革によって初めてなくなるのであり、両者を区別することが必要です。分断一般をなくして寛容を、というスローガンは支配構造の是認になってしまいます。

 日本以上の分断社会であるアメリカについて、本田浩邦氏の「2022年中間選挙とアメリカの行方」は本質的分析を加えています。アメリカ社会の分断が顕著になったのは、共和党の戦略によります。1990年代に民主党が共和党の新自由主義路線にすり寄った結果、共和党は差別化として、人種・ジェンダー・宗教など社会的・文化的争点を押し立てました。「こうして両党間の政策争点は、差別の根源にある経済問題という本質からますます離れ、非経済的な領域に追いやられ」ました(89ページ)。この戦略によって「自らの経済的利害に反する投票行動を行う現象が現われるようになった。人々は、人種や価値観に基づくアイデンティティーによって政党を識別するようになったのだ」と指摘されます(同前)。こういう状況で「社会問題の底辺にある経済問題の深刻化に両党ともに十分対処しきれないまま、争点が拡散し、有権者からすれば、どちらも同じようにみえ、人種的、文化アイデンティティーでのみ政党を選択することから」両党の獲得議席数の拮抗が生じたとも言われます(91ページ)。この状況から生じたのがトランプ現象です。ルサンチマンが広く存在し続け、陰謀論やカルト的要素が横行する状況を本田氏はファシズムの初期段階と見ています。今回の中間選挙ではバイデンのリベラルな経済政策が一定の功を奏し、それはある程度押し返されましたが、油断はならない状況です。社会的・文化的濃霧が覆っている中でそれを晴らすべく、やはり新自由主義をきちんと克服した経済政策が本質を握っていると言えます。もっと言えば資本主義の危機に根源はありそうですが…。

 分断についての経済学者らしい分析として参考になりました。

 
                                 2022年12月31日






2023年2月号

          円安・物価上昇下での企業経営と日本経済の分析

 バブル破裂以降、庶民にとっては厳しい経済状況が続いています。基本的に物価低迷が続き、それは通貨不足ではなく実体経済の低迷を反映したものであり、日本資本主義における階級関係下(資本>労働)で賃金はそれ以上に低下し続けてきました。しかし2022年、コロナ禍の継続とロシアのウクライナ侵略戦争の開始によるサプライチェーンの切断などの供給力不足(米国などでは、それまで継続された金融緩和による過剰マネーの実体経済の流通過程への流入も加わる)などで、一転して久しぶりに物価高騰となり、それがまた庶民生活を直撃しています。経済の活況による物価高騰ではなく、相変わらず名目賃金は物価ほど上がらないので実質賃金が下がり、生活はますます苦しくなります。こうしてみると物価が下がろうと上がろうとお先真っ暗状態ですが、幸か不幸か、日本資本主義が危機的状態になっているわけではありません。物価高騰の原因として人々を苦しめる円安が上場企業の多くを潤しており、20233月期決算の予想では全産業で7.4%の増益が見込まれています(小栗崇資氏の「企業業績の動向と特徴 円安・物価高騰下で6061ページ)。支配層にとって危機はありません。さすがに我が世の春を謳歌することは世間的にはばかられる雰囲気はあるけれども、庶民の苦悩を尻目にこっそり格差構造の上にあぐらをかいている状況です。

 コロナショックからの立ち直りは、K字型回復と言われ、業種間の凸凹が強調されます。確かに業種間の格差はありますが、当初打撃が大きかった「鉄道・バスや空運の業績も復調してきている」(同前、60ページ)という状況で、上場企業では円安に関しては製造業・非製造業とも一部を除いて増益効果を享受しています。したがって、小栗論文によれば業種間というよりも、大企業と中小企業との階層格差が相変わらず問題となるようです。「上場企業の多くは物価高を価格に転嫁し円安のメリットを享受して企業業績を上方修正しているが、国内市場を中心とした中小企業の場合は円安の恩恵どころか物価高騰を価格転嫁することも難しくなっている」(63ページ)。そこで、「新型コロナ関連融資の返済が始まる中で返済資金が確保できなくなったこと」や「燃料や価格上昇、円安の影響による倒産が増大してい」ます(同前)。

 短期的に見た現状は以上ですが、問題は長期的に形成され、2000年あたりに期を画する日本資本主義の新自由主義的劣化であり、その下でコロナショックへの対応力にも格差構造が影を落としていることです。日本の全法人企業(金融・保険を除く全産業)の1995年から2021年までのデータから、論文はまず第一に「売上高が伸びないにもかかわらず諸利益が伸びていることが明らかにとなる」と指摘しています(64ページ)。これはコスト削減、その中でも人件費の切り下げによる点が大きいとされ、非正規雇用の増大をその背景に見ています(6465ページ)。そこからの当然の見立てとして以下のようになります。

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2000年以降、日本企業は90年代不況を脱して利益を増加させていくが、その一つの根本要因は人件費の抑制にある。売上が増えない中で賃下げやコスト削減に頼って利益を得ている限り、日本の経済が活性化することはありえない。賃金抑制が日本経済の体質となって構造化されているといっても過言ではない。     65ページ

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 もう一つの問題点は経常利益の動向から見えてきます。1995年度から2003年度までは営業利益が経常利益を上回っていますが、2004年度以降は逆転しています。これは「本業とは別に金融収益で稼ぐ財務構造が作られること」であり「日本企業の資産の構造が、本業のための有形固定資産を中心とするものから、投資有価証券のような金融資産に軸足を移すものに変化してきている」(65ページ)ということです。さらに言えば、強搾取でコロナ禍下でも内部留保は増え続け、それが設備投資ではなく金融投資に向けられる状況です(66ページ)。こうした企業行動の堕落にそれに迎合する政策的誤りが重なって、以下のように日本資本主義の劣化は重症となっています。

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 このように2000年を前後して、賃金抑制と金融投資に依存する収益構造へと大きく変化してきているのである。ここには日本企業が本業で活力を発揮できない深刻な状況が現われている。その結果、稼得した利益が本業に再投資され本業が拡大していくという循環構造が損なわれてきている。         65ページ

 

 …前略… 日本では依然として新自由主義政策からの脱却が図られないまま、その構造が惰性のように続いている。日本企業が本業において活性化する道は残念ながら拓かれていない。それどころか金融緩和策のツケが円安となって経済の循環を狂わせる一方、一時の円安差益による見た目の業績の上昇に甘んじる状況にある。こうした日本の企業業績の分析からは日本経済の劣化の深刻さを痛感せざるをえないのである。

                  68ページ

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 この結論は特に目新しくはありませんが、批判的会計学の企業分析によって、日本経済の問題点が誰にも分かりやすく剔抉され、その根底にある資本主義の寄生性・腐朽性が鮮やかに描出されています。

 なおこの構造は大企業が牽引していますが、残念ながら中小企業も似た傾向を持っています。違うのは、大企業はコロナショックのような事態になっても耐える体力があり、また労働者や中小企業に犠牲を転嫁できますが、中小企業はダメージを直接受けるということです(67ページ)。日本資本主義を停滞させている宿痾をその格差構造とともに変革することが必要です。

村上研一氏の「円安・物価上昇と日本経済の課題」は表題について、政策も含めて総合的に解明していますが、時間がないので特に力点がある「日本経済の需要・供給両面での衰退」(45ページ)を見ます。物価高騰の原因として円安が重要であり、その原因としてまず政策的な日米金利差が挙げられますが、もう一つ貿易赤字の定着・拡大があり、これがより根源的です。

従来長らく日本は食料・資源エネルギーを輸入に依存し、製造業による製品輸出の稼ぐ貿易黒字で輸入を賄う産業・貿易構造が継続してきました。ところが2010年代以降、輸入品価格が高騰し、輸出産業の空洞化・競争力低下でこの構造が崩れて貿易赤字が常態化しました(52ページ)。これに内需型産業も連動しています。「国内の消費財購入額に占める…中略…輸入品浸透率が顕著に上昇している。輸入品の浸透は、所得の停滞・衰退により安価な輸入品の購入が拡大した結果であるが、内需型産業を脅かし、国内供給力減衰を招いた」(同前)と指摘されます。さらに産業別純投資額の推移から、公共事業・内需向け産業・輸出産業の順に減衰していくことが指摘され、「90年代以降には内需縮小に伴う投資減退が、2010年代には産業競争力低下に伴う投資減退が、国内供給力衰退を招いたことが明らかである」(5253ページ)と結論づけられます。

 このような「需要・供給両面での日本経済の衰退は、40年来の外需依存的産業構造と、20年以上継続してきた新自由主義に起因するもので」す(56ページ)。その由来を見てみましょう。まず外需依存=内需縮小は、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた1980年代の日本資本主義の「成功」で形成されました。「日本経済は高度経済成長後、自動車・電機産業を中心に、独特の日本的労使関係・企業間関係を前提に長時間・過密労働、労賃・下請け単価抑制など徹底したコストダウンをはかる『減量経営』を梃子に競争力を高め、輸出依存的成長を実現し」ました(54ページ)。さらに「アジア諸国との競争に直面するようになった90年代以降、非正規雇用増大による競争力強化がはかられ、平均賃金も減退に転じ、内需も縮小、外需依存性は一層深化し」ました(同前)。この構造が日本の物価上昇率の国際的低位(それは欧米に比してスタグフレーションからの脱却を早め、当時の日本経済の「成功」に貢献したが)とともに経済停滞を導きました。

 次いで供給面を見ます。新自由主義的制度改革とそれに伴う企業経営の変化により、「短期的収益性を優先する『財務の経営』が広が」り(55ページ)、「中長期的観点からの投資や研究開発は削減され、産業転換が妨げられる傾向にな」りました(5556ページ)。また「分社化や人員削減、国際的提携を通じた経営改革の中で」リストラされた技術者が韓国・台湾に移籍し「研究開発能力や生産技術が流出し」ました(56ページ)。「こうして、日本産業の空洞化とともに、国際競争力は衰退し」ました(同前)。

なおこのあたりで論文は新自由主義を以下のように定義しています。「労組抑圧や市場原理導入、民営化などを通じて、スタグフレーション下の『収益性危機』を克服し、利潤原理が貫徹できる諸条件・制度の整備と、資本の収益要を阻害するあらゆる要素の除去をはかる一連の政策」(55ページ)。これは、資本が搾取強化を追求する階級的政策の核心を突く妥当な定義だと思います。

 閑話休題。それでは、需要・供給両面での日本産業・経済の根本的改革はどうするか。革新的世論では、最賃引き上げなどを梃子とした賃金全般の引き上げ、社会保障充実による所得再分配による格差・貧困の克服による内需拡大が喧伝されています。それは当然必要ですが、論文はいくつかの理由を挙げて「国内供給力強化策を欠いた内需拡大策は、円安と物価上昇をさらに深刻化させる可能性も否定できない」(56ページ)と指摘しています。したがって、「内需に応答した安定的な国内生産基盤を再建・構築すること」(同前)が不可欠です。たとえば、これまでの食料・エネルギーの輸入依存から、省エネ・再エネ技術の活用による食料・エネルギーの地産地消を実現すべきです。それを通して、諸産業の地域内循環を形成し、東京一極集中を是正する地域経済の育成に結びつけることを目指すべきでしょう。しかし「利潤原理を最優先した企業経営によっては、安定的な国内供給力の形成は難しい」ので、新自由主義からの転換が喧伝されていますが、論文はさらに「資本主義的原理に従属しない供給力の拡充を展望すること、すなわち私的所有に基づいた生産関係を変革することが構想されるべき局面を迎えていると思われる」と主張しています。それを漠然としたものに終わらせないために、「地域循環経済を実現している欧州の先進事例の中に、国有企業や自治体公社、協同組合など、利潤原理と異なる原理で運営される経営体の増大と、新たな生産関係の構築の動き」(57ページ)があることが紹介されています。

 私たちは客観的には(あるいは潜在的には)社会主義的変革を準備するそうした地道な芽に注目し、日頃の社会運動などをその文脈で捉え直すことが必要です。眼前にあるのは大方、生活防衛とささやかな制度改善の闘いなどであり、社会主義的変革ではありません。しかも私が生きている間に国民経済的規模で生産関係が変わるとは思えません。しかし現代は世界史的には資本主義から社会主義への移行期にあると考えているので、この資本主義社会の動向の一つひとつをその文脈において捉えようとしています。したがって、村上論文が当面の日本経済の問題を論じるに際しても、結論的に「私的所有に基づいた生産関係の変革」や「資本主義からの転換」にまで言及することを了とします。

以下では、社会主義的変革に関連して、国政の変革にも関わる問題を現在と歴史の両視点から考えてみたいと思います。

 

 

          社会進歩ならびに社会主義的変革の試練

 18日、ブラジルでは「昨年の大統領選で敗れたボルソナロ前大統領の支持者約4000人がルラ新政権に反対してデモ行進し、連邦議会や大統領府、最高裁に侵入しました。支持者らは、1日に発足した新政権打倒のため国軍の介入を要求して、3時間にわたり建物を占拠し、破壊活動を働きました。治安当局が支持者らを建物から排除し、少なくとも300人が逮捕されました」(「しんぶん赤旗」110日付)。今や日本でブラジルの話題と言えばこの事件であり、ブラジルのトランプと言われるボルソナロの支持者たちが、トランプ支持者たちと同様の異常な乱暴狼藉に及んだことに眉をひそめる、という状況でしょうか。山崎圭一氏の「ブラジル大統領選挙 ルラ氏勝利と政治の行方は昨年書かれているので、もちろんこの事件には触れていません。しかしそれに対して「民主主義の危機」とか「社会の分断」という一般的な嘆きで終わらせるのでなく、それぞれの国や社会のあり方を具体的に理解する中で、異常事態の把握に努める必要があり、そうした努力に資する論考であると言えます。

 日本で報道されているのは、事前の予想に反して、大統領選挙でのルラの勝利が僅差であったことくらいです。外から見ていると、ボルソナロのような荒唐無稽の候補者がまともに選挙戦になるということ自体が理解しにくい感じですが、まずは何かにつけ内在的に見る必要があります。

 初めは選挙制度について。以前に在日ブラジル人からブラジルの選挙は義務だと聞いていました。実際には、棄権者には軽い罰金と行政上の不利益が課せられるということですから、実質的に義務に近いということだと知りました(142ページ)。選挙方法としては、投票所での電子投票で公正に行なわれており、「先進国よりもむしろブラジルのほうが、より透明で効率的な選挙技術と選挙制度をすっかり定着させているのである」(143ページ)という評価は先入観を打ち破るものです。これはプラス方向への見直しです。

 2020102日の総選挙では、正副大統領・連邦下院・連邦上院・27の州知事および州議会の五つの選挙が同時に実施されたということも初耳です。さらに言えば、今回の大統領選挙では左派が勝利しましたが、今回の総選挙と2020年の統一地方選挙を通してみれば、「基礎自治体、州、連邦と、すべてのレベルで、大統領をのぞいて、中道と右派が勝利し、PTや左派の勢力は総じて後退したのである」(143ページ)とまとめられています(PTは労働者党)。コロナ禍で世界第二位の死者を出したにもかかわらずボルソナロの保守勢力はおおむね支持されました(同前)。これまでの数回の大統領選挙の結果から抱いていた、ブラジルはけっこう左派が強い、という印象は必ずしも正しくはないようです。こちらはマイナス方向への見直しです。

 この意外な結果に対して、日本在住の日系ブラジル人の9割がボルソナロに投票したというNHK報道を紹介しつつ、「この間の成長の中でビジネス・パーソンが増え、多くの人が左派にはビジネスを任せられないという気持ちを抱いているのである」(143ページ)とか、「PT政権ではビジネスが不安定になり、ボルソナロ政権だと安定すると」いう見方から「彼らの判断には、ビジネス・パーソンとして一定の合理性があると考えられる」(144ページ)と論文は評価しています。ボルソナロは奇矯な人物として排斥されるのでなく、ビジネス親和的な保守層の代表として認められているということでしょうか。さらに「総合的にブラジルの有権者は、ビジネスのことを考えて、州議会も連邦議会も、右派ないし中道を選んだが、他方貧困問題の深刻さも考慮に入れて、大統領だけは左派を選んだのである」と総括されます。

確かにこれは選挙結果の解釈としては、経済的土台が人々の政治意識を規定するという肝の部分を押し出している、という意味では説得力があるようです。ところが注釈として、ビジネス問題については別の見方も書かれています。200310年のルラ政権時代、ブラジル経済は好調で、ビジネス環境は不安定ではなく、その経済政策への評価は高かったのです。しかし201116年の後継の左派ルセフ政権時代には未曾有の景気悪化に陥り、その印象で左派の政策は経済を混乱させると思われています。しかしそれは政策の誤りではなく世界的な景気後退や資源価格の下落の影響による経済危機だ、と解説されています(145ページ)。

 この注釈の方が正しいとすれば、経済政策は客観的には正しかったけれども、錯誤によって主観的評価が悪化して、左派は選挙で後退したということになります。こういう事態はブラジルに限らず発達した資本主義諸国でもあり得ることです。経済政策に関しては、経済の実権を握っている大資本の側の保守勢力の方がビジネス適合的だ、という見方が支配的になります。そうした先入観的環境の中で、革新勢力は格差・貧困を改善する政策を通じて「優しく強い経済」を目指します。それが安定的に実現するまで一定の期間がかかりますが、支配層の妨害や世界経済の悪影響等々によって成果が得られないままに支持を失う危険性が存在します。

経済は構造と循環の両面から見る必要がありますが、選挙でもっぱら問題となるのは景気の良し悪しであり、循環の側面です。今日明日の生活をどうするが人々にとって切実ですからそうなります。「冷たく弱い経済」から「優しく強い経済」へ構造を変える道程においても、その変革と景気の維持とを両立させる課題があります(これに対して、支配層とメディアはもっぱら景気対策という循環の側面をクローズアップし、構造と言えば、逆方向の新自由主義構造改革だけを提起するので、この両面から、革新的な経済構造の変革は全く視野の外に置かれる)。経済の実権を握っていない革新勢力が民主的選挙で政府を組織しえた場合、行政・官僚機構や暴力装置などの政治的実権も手中にしていないので、変革の成否は人民の支持に大きく依存することになります。それを獲得しうる経済政策運営の意義は誠に大きいと言えます。上から政治経済の実権を握っているのは支配層ですが、下からそれを実際に動かし(され)ているのは人民大衆ですから。

 そういう中で、発達した資本主義諸国では、将来的に社会主義を展望し、それにつながりうる本格的な社会変革は未だに実現していません。それに対して、中南米諸国では本格的な社会変革が実現しているとまでは言えないけれども、様々な左派政権が盛衰を繰り返す中で、米欧の新自由主義的収奪に正面から対峙しており、変革に向かう経験が蓄積されていると言えましょう。以下では一知半解のままで恐縮ですが、大雑把な問題意識をアレコレ提起してみます。

左派と言っても中道派から急進派まで様々であり、なかでもキューバは別格です。キューバだけは強力革命によって土地を含む生産手段を(形式的に)社会化し、基本的にソ連型の社会主義体制を実現しています。ソ連・東欧では「現存社会主義」時代の経済停滞を背景に、市場経済の導入に取り組みましたが、「市場を通じての社会主義」への道の確立には至らず、1989年以降の政治変革とともに資本主義市場経済への移行に帰結しました。そうした中で中国・ベトナム・キューバなどは社会主義を標榜する下で市場化を進めて今日に至っています。それをどう評価するかは難しいところです。中国とベトナムは急速な市場化で新自由主義グローバリゼーションに対応していわば勝ち組となり、そこでの社会主義性とは何かが問題となっています。それに対してキューバは新自由主義グローバリゼーションに乗るのでも飲み込まれるのでもなく、部分的な市場化にとどまりながら、基本的にソ連型を色濃く残し、医療などで世界的に注目される成果を上げつつも、米国の経済制裁に苦しみ、ソ連型の旧弊にも悩まされています。

 他の中南米の左派政権はもはやかつての強力革命路線ではなく、議会制民主主義を通じての変革を歩んでいます。生産手段の社会化には至らず、特に私的な大土地所有を残しているのでそれは反革命の拠点となっているのではないでしょうか。ここがキューバとは違う点です。もっとも、中道左派は経済の社会主義的変革を求めず、修正資本主義にとどまるので、キューバの道は視野外であり、初めから変革基準の参考にもされないでしょう。それに対して、20世紀末からの中南米の急進左派は、レーニンの第3インター出自の世界諸国の共産党とは系譜が違うのでソ連・東欧型とは道を違えるとともに、西欧社民型とも一線を画し、中南米の独立闘争の伝統を引き継いだ独自の道を目指しています。ベネズエラのチャベスなどは「21世紀の社会主義」を標榜していました。強力革命路線ではなく、選挙による議会制民主主義路線ですが、ブルジョア民主主義を超える実質的な社会変革につながる参加型民主主義を目指しています。

 たとえばベネズエラの音楽教育組織「エル・システマ」はチャベス政権以前からあるので、「21世紀の社会主義」路線の産物ではありませんが、左派政権では、国を挙げての社会政策として取り組まれています。そこでは無料で教育を受けられ、楽器も貸与されます。子どもたちをオーケストラに参加させることで犯罪や非行を防ぎ、更正も促しています。こういう底深い社会変革が参加型民主主義の土台を形成します。

 しかし残念ながらこの新しい社会主義路線は成功していません。1999年にチャベスが大統領に就任して以降、2003年にブラジルにルラ労働者党政権が発足するなど、21世紀初頭に中南米諸国に左派政権が続々と誕生しました。その前史として、1979年にソモサ独裁政権を打倒してニカラグアでサンディニスタ革命が始まりました。その後、1990年にサンディニスタのオルテガ大統領が選挙に敗れて革命は中断しました。1989年の東欧社会主義政権のドミノ倒しに続いた形ですが、東欧の方は倒れるべきものが倒れたのに対して、ニカラグアでは長年に渡るアメリカ帝国主義の介入が背景にあって選挙に敗れる、という形で自主的変革が屈したわけで、革命勢力の民意獲得・維持の難しさが痛感させられました。しかしその後200611月の大統領選挙でオルテガが勝利し翌年サンディニスタ政権が復活し今日に至ります。

 このように1980年代のニカラグア、2000年代のベネズエラが中南米社会変革のフロントランナーだったと言えます。西欧社民型ともソ連・東欧型とも違う社会主義変革への期待が寄せられました。1980年代は後続がありませんでしたが、2000年代は第一の地域大国ブラジルも含めて一時は中南米を左派政権が席巻する勢いがありました。その後、保守政権の奪還が続いた後に、2022年にコロンビアで初めての左派政権が誕生するなど、ここ数年は左派がまた巻き返しています。ただしその中で、ベネズエラとニカラグア両国の左派政権が独裁化しており、暗い影を投げかけています。ブラジルのルラ政権の復帰も、山崎論文によれば支持基盤はかなり脆弱と言わねばなりません。

 ベネズエラでは、民衆の堅い支持に支えられてきましたが、経済政策がうまくいかないことなどもあり、支持が低下し、チャベス政権末期から後継マドゥーロ政権では強権的姿勢が目立ち、独裁化しました。その下で生活困難から周辺国への難民流出が続くという深刻な状態です。石油依存から脱却してバランスある再生産軌道を持つ国民経済の確立、という課題は当然意識されていたでしょうが、果たされずに来ました。ニカラグアでも、ベネズエラの経済悪化によって支援がなくなり、その困難下での反政府デモの武力弾圧などで国際社会から非難されています。

ところでベネズエラ左派政権の独裁化からすでに10年以上経ちます。2013年のマドゥーロ政権発足以降は、人民の生活困難だけでなく、欧米の介入もあり政治的混乱が頂点を極め、遠からず政権崩壊かという状況に、日本のメディア経由では感じられました。しかし未だ持ちこたえており、最近は報道もされなくなりました。これに対して一部研究者は、根強い人民的支持が政権を支えていると主張しています。そういう見方からは、欧米と同水準の人権や民主主義をすぐに求めて左派政権を非難するのは、新自由主義グローバリゼーションと闘う人民的政権への無理解であり、新自由主義や帝国主義勢力を利するものだということになります。

 しかしそれだけでは政権独裁化の下での生活困難や政治的弾圧を免罪することになります。歴史的に見れば、フランス革命はジャコバン独裁を、ロシア革命はボリシェヴィキ独裁を生み出しました。これに対してかつては、反革命への対抗として正当化する立場がありましたが、今日では逆に革命の意義そのものを否定する見解も多く見られます。しかしここでは議論は措きますが、大局的には、それぞれブルジョア革命、プロレタリア革命としての進歩的意義は否定すべきではなく、大枠でそれを前提にしながら、その中での困難・誤りを直視して批判的に検討すべきだと思います。革命の意義を基本的に否定する清算主義的な姿勢は社会進歩の大道から外れるニヒリズムやシニシズムへの道であり、今日的には(反知性主義を含む)アベ政治的現実に対する無力感と非常に親和的だという印象を受けます。したがって、社会変革における階級的基盤の堅持と民主的プロセスの尊重との両立――それは民主主義の内実(人民的権力の実質化)と形式(公正性・普遍性)との統一に通じる――という判断基準が重要だと思います。

 以上のように、私見は抽象的な原則を初歩的に述べるだけ終わっておりますが、参考として、ソ連史研究で著名な塩川伸明氏の問題意識を引用します。社会主義体制というものは、自由・民主主義を実現し得ないソ連型としてしか結局存在し得ない、というのが塩川氏の立場だろうと思います。自由で民主的な社会主義とは、当面の実現に責任を負わない野党的気楽さからのキレイゴトに過ぎない、と。ブントのイデオローグとして出発しながら、歴史家としてソ連研究を進めるうちに現実主義的立場に移行したところでの見地だろうと思われます。しかしながら塩川氏は自由で民主的な社会主義を追求すること自体を単に非難・嘲笑するのではなく、そういう立場でも誠実で真摯であれば十分な敬意を払っています。それは、「無理だと思うけど、目指すべき姿として実現の可能性を完全には否定したくない」という気持ちの表れではないかと私は推測します。氏のホームページの「藤田勇『ロシア革命とソ連型社会=政治体制の成型』を読む」202111月)から以下に論末の部分を引用します。

    http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/fujitaisamu2021.htm

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 今日、社会主義とか共産主義といえば、自由とも民主主義ともおよそ縁遠い、むしろその対極にあるものというイメージが優勢である。一部には、「民主的な社会主義」を考える立場もなくはないが、そうした立場に立つ人の大半は、ソ連の事例は非民主主義的あるいは反民主主義的だったので何の参考にもならず、それとは全く別の地平で「民主的な社会主義」を考えるほかないという発想をとっている。ところが、藤田は他ならぬソ連を研究対象として、生涯をその研究に捧げてきた。その際の視点は、ロシア革命とソ連はもともと自由と民主主義を目指す思想と運動の延長上に、その更なる完成としての社会主義を目指して出発したものだというところに起点をおきつつ、現実の歴史はそれとは大きく乖離し、逸脱した経路をたどったという事実をも踏まえている。いわば自己の立論にとって不利な事実から目を逸らすことなく、むしろそれを正面から見据えながら、何とかしてその意味を究明しようという知的格闘が、藤田の研究活動を貫いている。そのような姿勢は以前からも見られたものだが、「自由と民主主義」と「社会主義」の不可分一体性というテーゼにとって不利な事実はますます増大し、その格闘はますます困難を極めるものになってきた。それでもなおかつ、困難な課題から逃げようとせず、高齢の身でありながらわざわざアルヒーフ資料を含む原資料を新たに探索して試行錯誤と知的格闘を重ねている様は壮絶とさえ言える。その産物としての本書は、何らかの明快な結論に到達してはいないという意味では成功作と言いがたいかもしれない。それでも、このような姿勢を最晩年に至るまで貫いて、必死の格闘を続けてきた著者の営為には、立場を超えて胸を打つものがある。

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 「ソ連の事例は非民主主義的あるいは反民主主義的だったので何の参考にもならず、それとは全く別の地平で『民主的な社会主義』を考えるほかないという発想」に歴史のリアルな研究の立場から反対するのは理解できます。歴史的に実在した事例を参考にせず全く別の地平を考えるというのは確かに空疎です。しかし歴史を鏡として、あえて言えば反面教師として十分に参考しつつ、全く別の地平を構想すること自体は難しいけれどもおそらく不可能ではないでしょう。革命前のロシアとは全く別の地平としての資本主義世界が今は存在しているのですから。何よりもその現実に内在しながら、資本主義下での生活防衛や制度改良など当面する闘争での経験を蓄積する中で、併せて20世紀社会主義体制の歴史にも学ぶことができるならば、空疎ならざる構想を徐々に作り上げ、新たな現実の創造に資することは可能ではないかと考えます。自然環境にも人間的社会にとっても眼前の資本主義が破壊的に作用しているときに、「民主的な社会主義」の実現は避けて通れない課題でしょう。ただしその実現を目指す者にとって、「民主的な社会主義」は非現実的だという立場の研究からのダメ出しを単に反共主義やブルジョア的立場として退けるのでなく、それに正面から向き合うこともまた避けて通れない課題だと思います。

 新自由主義グローバリゼーションとして展開する現代資本主義下ではその強搾取に対抗する人民の諸運動があります。福祉国家をめぐる攻防や協同組合などの自主的組織、諸分野での民主的経営、地域社会での諸課題に根ざした各種NPO、地方自治体変革の諸運動、あるいは論者によっては企業の社会的責任の観点などによる株式会社の変革も含めるかもしれません。それらは社会というものに対する下からの実質的変革の地道な実践です。そうしたものの結集として国政の変革とそれをテコにした国民経済の変革が実現するならば、20世紀社会主義のような生産手段の社会化の形骸化を克服して、生産点でも地域生活でも一人ひとりが主人公となった社会主義社会を実現する道が見通せます。

その際でも、生産の無政府性を止揚する経済計画の設計と円滑な運用は必要です。資本主義市場経済に経済計画を導入し、市場を通じて社会主義に向かう道は、逆方向ではあるけれども、過度な中央集権的経済に市場を導入して市場社会主義を目指したソ連・東欧の経済改革の失敗に学べる部分があろうかと思います。そういう意味で、ソ連・東欧の経験は参考にならないとして、全く別の地平で「民主的な社会主義」を考えるという姿勢は考え物だと思います。

ブラジルのボルソナロ支持者の暴挙から発し、中南米の社会変革を通して、いつの間にか社会主義的変革の一般的問題点へ、それも論点の中心が経済から政治的自由・民主主義へと徒然なるままに迷走してしまいました。しかも出だしでは、ブラジルの具体的現実に着目すべきとしながら、社会主義的変革についての一般論で終わるという不首尾もあります。それは開き直って、論点を経済に戻すならば、政治変革過程において人民の支持が決定的だという点では、民生の安定を第一とする経済政策が最も重視されねばなりません。それが現実的展望を切り開きます。先に、ブラジル総選挙結果の分析と発達した資本主義諸国での変革展望で共通して指摘した論点を再確認して終わります。

 

☆追伸 ここまで書いた後で、孤崎知己氏の「失われた10年″トび? ラテンアメリカ『左派復権』の実相(『世界』2月号所収)を読みました。きちんと検討する余裕はありませんが、そこには中南米の状況に関する基本的知識が簡潔に提供されており、よく知らずにアレコレ言うことを反省しました。この地域の特殊な厳しい事情と当面する有効そうないくつかの手立てが提起してあり参考になります。しかし現状に内在的な視点は必要としても、新自由主義グローバリゼーションがもたらしたものとその本質的解決という観点はなく、諸問題の並立的提起という現象論にとどまるようにも思えます。もっとも、著者からすれば、そういう批判は特定の観点への強引な流し込みだという言い分があるでしょうが…。
                                 2023年1月31日




2023年3月号

          日本の低賃金問題へのアプローチ

 

 日本の低賃金とそれを是正すべきという認識はもはや立場の如何を問わず共通しています。もちろんその原因と対策は立場によって全く違っています。特集「日本の賃金どうすれば上がるのか」は労働者階級の立場から様々な論点が採り上げられていますが、ここでは企業経営の金融化と労使関係の問題に触れます。

 新自由主義グローバリゼーションは搾取強化と金融化を強力に推進します。搾取強化は生産と消費の矛盾を激化させ、実体経済の停滞による過剰資本の増大と金融市場でのその「活用」へと向かいます。その常態化で逆に金融投資の原資確保に搾取が強化されます。ここに賃金抑制の強力なインセンティヴの一つがあります。この資本の利益を代表する政府はつまるところ株価つり上げを中心にすえた経済政策に邁進します。株価連動内閣と言われた安倍政権がその典型であり、アベノミクスは様々な名目を掲げたけれども、結局やったことの中心はそれであり、そのために人々の生活・営業・労働は犠牲にされました。したがって、アベノミクス下での内部留保の激増に象徴される大企業の繁栄は、政策的高株価に連動していますが、同時に日本の国民経済の停滞と人々の苦難とに連動しています(日本資本主義の寄生性と腐朽性の深化)。この基本構造は、本誌2月号所収の小栗崇資氏の「企業業績の動向と特徴 円安・物価高騰下でで解明されています。本号でも野中郁江氏の「2023年春闘と賃上げの条件 付加価値分析からの検証藤田宏氏の「求められる金融収益重視経営の転換」によってさらに分析されています。

 野中論文は、財務省『法人企業統計年報』を用いた付加価値分析によって、労働分配率の低下、配当金と内部留保の増大、企業規模別格差、営業外差益と金融資産の増大などを解明しています。このうち、搾取強化に直接関係するのは労働分配率の低下です。逆説的に見えますが、一般に労働分配率は賃金の上がる好況期には下降し、賃金の下がる不況期には上昇します。<労働分配率=従業員人件費/付加価値>です。したがって、景気悪化で付加価値が減るときに、もともと低い賃金を同じ割合で下げることは難しいので、不況期には労働分配率は上昇します。逆に景気回復で付加価値が増えるときには、同程度に賃金を上げることはないので、それは下降します。問題は、そうした景気変動に伴う労働分配率の循環的変動を通して低下傾向が貫いていることです。「2019年度、2020年度に付加価値が急激に減少したが、労働分配率は、2008年度、2009年度の水準までは上昇していない。…中略…容易に労働者を職場から退場させているからであろう」(17ページ)ということですから、搾取強化の貫徹です。

 しかもそうした好況期ならびに長期的傾向としての労働分配率低下に対応するのが、配当金と内部留保の増大です(1820ページ)。これは企業経営の金融化に関わる問題ですが、それについては藤田論文に譲るとして、脱線になりますが、ここで着目したいのは、野中論文の眼目の一つが階級的分析観点の強調であるという点です。

 論文は当面する闘いの課題を以下のように的確に大きく提示する中で、経済要求の位置づけを確定しています。「2023年春闘は、岸田政権に対峙して平和を求める闘い、自治体や政府を国民のものに取り戻す闘いのなかで、労働者がさまざまな勤労市民とともに、経済要求をかかげて、暮らしの向上、富の再分配を求めて取り組まれる」(14ページ)。この経済要求の中心にあるのは労働者の大幅賃上げであり、その正当性と必要性を明らかにすべく、付加価値分析に取り組まれます。まず大前提の「哲学」として、富の源泉である「付加価値は個々の企業において、労働によって生み出される価値である。『企業が生み出す価値』ではない」と押さえられます(15ページ)。分析内容の大枠は「労働によって生み出された富の分配過程を明らかにし、労働者への分配が細る一方で、内部留保が累積していく過程を提示」することでありそれは「貧困と富が蓄積されている過程」を意味します(同前)。こうして分析の土台に労働価値論と資本蓄積論がどっしりと据えられます。

 そうした経済理論的基礎を押さえた上で、経済政策の転換を求める政治闘争が展開するわけです。そこで付加価値の捉え方が重要な意味を持ちます。付加価値を生産と実現の両面から捉える必要があります。まず生産面から。「仕入れた財やサービスも、当然労働によって生み出されており、最終商品、サービスの価値は、費やされたすべての労働時間を集計した価値であり、付加価値の合計である」(同前)。次いで、実現面は以下のように言われます。

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 付加価値は、市場で実現され、他人のための使用価値になった価値である。円滑に価値が実現するためには、国民の購買力をはじめとして安定的に市場が確保されている必要がある。付加価値額は景況に依存している。

 管理通貨制度のもとにある国では、政府や中央銀行が、物価、金融、証券市場、為替を管理、誘導しており、景況についての責任を負っている。バブル経済(景気の過熱)とその崩壊、その後の長引いた不況、また現下の極端な円安誘導による物価上昇の責任は、政府と日本銀行にある。不景気による失業は、労働者の責任ではない。  1516ページ

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 資本家は労働者の賃上げ要求に対して、自己責任論的にアレコレ難癖をつけ、十分に分け前をやる必要はないと言ってきます。しかしそもそも付加価値は労働者が生み出したものであり、しかもその付加価値の十全な実現のためには、国家独占資本主義の管理通貨制度の下では、政府の経済政策が決定的に重要です。そのように考えると、生産手段の資本主義的私的所有と産業循環の下で、労働者の生み出した付加価値が資本主義企業に取得され、しかもその実現が不安定化させられる中で、それを取り戻すのが賃金闘争と経済政策転換要求闘争であると言うことができます。失業や低生産性(これについては後述)を労働者の自己責任に帰して、雇用や賃上げ責任を逃れる支配層のイデオロギー攻撃にこうして対峙することが必要です。

 閑話休題。新自由主義の下で、実体経済の停滞によって過剰貨幣資本が増大し、その投資先を求めて金融市場になだれ込み金融が肥大化します。経済の金融化です。それがグローバル経済・国民経済はもとより、企業経営やイデオロギーなど社会全般に浸透します。貨幣資本循環の観点から、再生産の実体(実態)がどうなろうと利潤が最大限になればいいということで、価値を生まない金融的術策が追求され、金融工学が異様に美化される思考状況となります。まさにこれは資本主義の寄生性・腐朽性の深化です。特に資本主義の本体たる企業経営が金融化に冒され、銀行・証券会社・保険会社等の金融・保険業を除く全産業にまでそれが及ぶことが資本主義社会全体に大きな影響を与えています。それでこの病理を私は企業経営の金融化と呼びたいと思います。藤田論文は、本業以外の金融投資であげた収益を金融収益(=営業外収益―営業外費用)と呼び(29ページ)、金融収益重視経営の仕組みとその日本資本主義における位置づけを明らかにしています。極めて重要な解明です。

 論文によれば、2004年度を画期に、リーマンショック期の0809年度を除いて「経常利益と賃金の伸び率の差は、加速度的に拡大することとな」ります(28ページ)。04年度から21年度までの売上高の伸びが1.21倍なのに対して、経常利益の伸びは2.4倍にもなっているのが、賃金の伸びとの差を作り出しています(同前)。売上高が大して伸びないのに、経常利益がなぜ大きく伸びているのか。「経常利益=営業利益+金融収益」(29ページ)であり、経常利益に占める金融収益の割合が04年度の0.4%から21年度には29.7%にまで増加しており、同時期の経常利益増加額の61.6%が金融収益の増加分となっている(同前)のがその理由です。つまり経営戦略として、本業による営業利益よりも金融収益に軸足を移しているのです(2930ページ)。こうして04年度以降は金融収益重視経営の段階と規定されます。

 さらに藤田論文の経済政策分析上の優れた着眼点は、2004年から21年度をアベノミクス以前の0412年度(金融収益重視経営第1段階)と以後の1321年度(同第2段階)とに区別していることです。これでアベノミクスの「恩恵」がはっきりします。その詳しい内容は省きますが、アベノミクス下で、日銀資金や年金積立金が金融市場に投入されることを追い風に、第1段階平均に対して第2段階平均は、金融投資額が1.65倍に、金融収益率は1.72%から3.84%に、2倍以上に跳ね上がっています(3031ページ)。

 金融収益重視経営では金融投資の財源として内部留保がため込まれ、最大限活用されます。年間平均内部留保積み増し額を見ると、(1)金融収益重視経営以前の19912003年度:4.8兆円、(2)金融収益重視経営第1段階:8.8兆円、(3)同第2段階:12.7兆円と加速しています(3233ページ)。内部留保に対する設備投資の倍率を同様の時期区分で見ると(11.43倍、(20.89倍、(30.63倍となり、内部留保に占める金融投資の割合は(155%前後、(266.4%、(376.8%となります(34ページ)。設備投資から金融投資へ、本業重視経営から金融収益重視経営への変質が明らかです。このような内部留保のため込みはどうやって実現するのか。搾取強化によることが以下の各期の動向から分かります。

  企業配分率(%) (112.8、(222.2、(329.3

 労働分配率(%) (161.4、(257.4、(353.0

 したがって、低賃金と企業経営の金融化、さらにはアベノミクスとの関係は次のようになります。

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 金融収益重視経営のもとでは、大企業は金融市場に投資資金を投入し続けることが至上命題となる。アベノミクスは、その動きを加速し、企業が大儲けすることを可能にした。大企業は、金融市場への投資資金を確保するために、金融投資で儲けた金融収益だけでなく、企業がつくりだした付加価値をできるだけ多く自らの懐に入れようとして、労働者の賃金を削減している。つまり、「労働者の賃金が上がらない国」にすることなしに、金融収益重視経営は成立しないのである。企業の利益が上がっても、賃金が上がらないのは、金融収益重視経営の下では、当然のことなのである。     37ページ

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 この前に賃金の他に設備投資も削減することが指摘されています。そこで金融収益重視経営を転換するために、1)企業配分率をアベノミクス以前に戻して賃上げ財源を確保し、2)内部留保課税を実現し、3)「受け取り配当金益金不算入制度」や「連結納税制度」などの大企業優遇税制を是正することが提起されています(38ページ)。そのような結論は特に目新しくはありませんが、低賃金をもたらす企業経営の金融化の仕組みとアベノミクスによるその加速化がわかりやすく提示されたことはきわめて重要です。

 藤田論文は日本の低賃金の原因として、まず労働規制緩和による労働条件悪化、成果主義賃金導入、非正規雇用の拡大を挙げ、その他の要因として金融収益重視経営を指摘し、後者を詳しく展開しました。さらには、当然のことながら日本の労使関係の問題も避けて通れません。労働現場に分け入って、日本的な強搾取構造に切り込むこと抜きに低賃金は語れません。山垣真浩氏の「賃金停滞と日本の労使関係の特徴」はそれをテーマにしています。ところが例によって時間が足りなくて、しっかり読んできちんと検討するには至りませんでした。雑駁な印象を述べると、あまり左翼的でないという感じです。資本主義市場経済がもたらす通俗的観念に寄り添い、ブルジョア「経済学の常識」(65ページ)に基づいて、しかし結論的には労使関係を階級的に理解しているように見えます。労使関係論を学んでいないのでよく分かりませんが、通常の左翼的物言いではなく、ずいぶん資本側ないし労使協調路線の労組側の考え方に内在しながらも、企業別組合の現状には批判的で、その体たらくに低賃金の責任の一端を見ていることは確かです。だから積極的攻勢的な批判ではなく、「百歩譲っても」これだけは言えるという地点での主張として、手堅さがあると言えばあるという感じでしょうか。

 山垣氏は「労働組合が本来有する労使対抗団体としての側面と、従業員代表機関が有する労使協力団体としての側面」(68ページ)という「企業別組合の二重性格」は「日本の労使関係の理解にとって跳躍点となる」(79ページ)と主張しています。現時点での低賃金問題に関しては、前者の側面の欠如を見ており、その回復が主張されます(74ページ)。ただ通常の左翼的見地とは違って、後者の側面への肯定的評価があり、戦後期の戦闘的組合がその側面を欠如させたことに批判的で、新技術の導入に敵対的態度を取ったことを誤りとしています(69ページ)。さらに「パイの論理」についても頭から否定するのでなく、欧米とは違う日本のユニークな労使関係としてとりあえずその存在を認め、「生産協調・分配対立」というスローガンもいったん受容し検討しています。こうした「企業別組合の二重性格」という視点は、戦後労使関係の変遷の解釈として融通無碍に使用しうるところがあり、「左翼的な硬直的姿勢」よりも現実内在的説明力を有するかに見えます。問題は、現状の企業別組合の体たらくを批判する際に、「従業員代表機関が有する労使協力団体としての側面」をいったんは肯定してきたことは妥当なのか、ということであり、私などにはよくは分からないと言うほかありません。

 濱口桂一郎氏に倣って「無限定正社員」をなくす(75ページ)ことにキーポイントを置くのは大切です。ここからは、日本の労働現場・職場には、ヨーロッパ的な「労働社会」がなく、「企業社会」があるだけで、働き方についての労働者的な規制が全く利かない、という熊沢誠氏の観点を想起します。日本の職場ではあくまで企業の従業員として働き、賃上げ要求などでは労組で労働者として声を上げる、という実態が労使協調的潮流だけでなく階級的潮流でも一般的であり、労働者間競争を抑止すべく職場での働き方に規制を加えるという課題への取り組みが欠如してきました。この日本的労組のあり方への批判を熊沢氏はイギリス労働運動の研究などを参考に打ち出しています。山垣論文も日本の労使関係や企業別組合の現実に内在するだけでなく、欧米の労使関係や産業別組合の状況を一つの分析基準として明確に打ち出しています。日本の低賃金の一つの重要な原因として、労使関係が先進諸国に比較して劣悪であることを挙げるべきなのは明白です。「国際的にみて賃金水準は低いのに、義務は無限定的、という日本の正規社員の働き方は変えなければならない。労働組合界全体で、政府に圧をかけることが必要であろう」(77ページ)というのは一般論として当然ですが、日本の政治状況からはかなり困難です。自民党に親和的なナショナルセンター「連合」の存在一つとっても。日本の厳しい労働状況から、連合もそれなりに労組機能を発揮するかと思われる時期もありましたが、近年ではまた反共主義と野党共闘妨害が目立ちます。労働現場、下からの変革が大切なのですが、上にある政治状況をもっと何とかしないと、という焦燥感がつのります。

 以上、日本の低賃金問題について、その原因や捉え方については一定の知見を得ることができました。しかし対策については政策的方向が明らかになっても、実現の展望では労働現場と政治の双方で困難が多いのが実際のところです。最後に以下では、低賃金の原因を労働生産性の低さとする見方への批判を見ます。これは労働者階級に対するイデオロギー攻撃として看過できず、簡潔な批判が求められます。

 山垣論文は、まず「2022年版『経済財政白書』によれば、労働生産性(労働時間当たり実質GDP)は欧米と比べて遜色なく上昇している」(78ページ)と指摘しています。さらに、1990年代後半以降、企業経営は上昇基調にあるにもかかわらず賃金が下がっていることを指摘しています(65ページ)。その上で、付加価値に占める配当金や内部留保の割合が今世紀になってから急上昇しており、低賃金問題の本質は付加価値の分配問題だと断言しています(67ページ)。これは野中論文や藤田論文につながっていきます。

 工藤昌宏氏の「経済停滞の『日本化現象』 大企業主義が経済循環構造を破断は以下のようにより明確にこのイデオロギー攻撃の本質を衝いています。

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 なお、低賃金は労働生産性(労働者一人が年間に生み出す付加価値の割合)が低いからであるという意見が頻繁に登場する。付加価値を構成するのは、賃金、利潤、減価償却費、支払利息などである。そして、この付加価値全体が伸びないから賃金は伸びないのだという。だが、この理屈でいえば利潤も小さくなるはずである。配当に回す余裕も小さくなるはずである。だが、実際には付加価値は小さいと言いながら、企業の利潤や配当は高水準で推移している。結局、低賃金を労働生産性のせいにする意見は的外れで、単に賃金を上げると企業の取り分が少なくなることを隠そうというまやかしに過ぎない。

        99ページ

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 誠に平易な言葉で問題の本質を暴露しています。さらに労働生産性の問題では、野中論文が別の観点を打ち出しています。前述のように付加価値を生産と実現の両面から捉える必要性から以下のように言われます。

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 労働生産性というと働き方のイメージが浮かぶが、推移を見る限りではあまり関係がない。

 重要なことは労働した価値(労働時間)が、市場で販売される(価値が実現する)ことである。つまり適切な価格で買い手がみつかることである。もちろん付加価値の大きい財やサービスの創出によって新たな需要が喚起され、従来のものよりも高い価格が実現することで付加価値全体を大きくすることもある。しかし社会全体をみれば、購買力、安定した消費意欲が存在していることが、労働生産物の価値を実現させ、従業員一人当たり付加価値、労働生産性を増大、安定させるのである。   20ページ

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 山垣氏と工藤氏が賃金と利潤の対抗関係、分配論において「低生産性論」を批判している(働き方問題への間接的反論)のに対して、ここでは付加価値の生産と実現との関係という観点から、「労働者の働き方が悪いから低生産性でその結果、低賃金だ」という議論に直接反論しています。低賃金の原因を労働生産性の低さに見る議論は社会的常識になってしまっているので、こうした批判を普及する必要があります。なお拙文「日本の労働生産性の見方に関するメモ集(2017年編集)」では、労働生産性の見方について、付加価値の実現問題を含めて書きました。 

 

 

諸政府の戦争準備 VS 諸国民の平和交流

 

 先日、知人へのメールで以下のメッセージを届けました。

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 昨年末にタモリが「新しい戦前」と言ったのが話題になっています。ロシアのウクライナ侵略以来、日本でも政府が戦争を煽ってここぞと軍拡に邁進しています。「読売」などは積極的にそれに乗り、「朝日」などもきちんと批判せず適当に流されそうです。

 しかしさすがに哲学者の鷲田清一氏は、24「朝日」1面連載の「折々のことば」に以下のような心配の言葉を掲げて解説しています。

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戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。

 (中井久夫)

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 戦争が進行してゆく「過程」なら、平和は揺らぎのある「状態」だと精神科医は言う。それは、部屋を散らかすのと片づけるのの違いに似ていると。後者の努力を着実に続けるには戦争の記憶を次世代に語り継がねばならない。が、彼らの関心を惹(ひ)くには単純化や誇張を伴う物語が要る。だから「戦記」は多いが「平和物語」はないのだと。論考「戦争と平和 ある観察」から。

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 確かに部屋を散らかすのは簡単ですが、片付けてずっときれいにしておくのは大変です。「戦記」のような勇ましい言動が幅をきかせる中、僕はたまたま古いノートに以下のメモを見つけました。

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 今の日本人についての印象としては、もし正しくなかったら勘弁してほしいのですが、日本人の心の中には三つの段階があるように私には見えます。普段付き合うときはみんなすごく優しいし、礼儀正しい。仕事も真面目で規則も守ります。すごく教育が高いと感じます。しかし、一段階その心の奥に入ると、日本人は心の中になんとも言えない誇りを持っています。そしてさらに深く入ると、孤独や失望があるように感じられます。

  陸川「この映画の終着点は日本だ――映画『南京!南京!』をめぐって」

    217ページ

  Lu Chuan 映画監督。1970年中国江蘇省生まれ。主要監督作品として

 『尋槍(ザ・ミッシング・ガン)』(2002年)、『可可西里(ココシリ)』(2004年など)  214ページ 

 

解説

 日本侵略時の中国の悲劇と抵抗を、滑らかなモノクロ映像で描いた『南京!南京!』は、いまだ日本では商業上映されていない。二〇〇九年四月に中国で公開された本作はすでに世界各地で上映され、第五七回サンセバスチャン国際映画祭で最優秀作品賞(ゴールデン・シェル賞)を得るなど高い国際的評価と注目を浴びている。  

    215ページ

       『世界』20121月号から書き写し(20111229日)

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 今戦争を煽る側が主に押し出しているのは中国脅威論です。確かにあの国は自由や民主主義がないし、東シナ海や南シナ海で覇権主義的な行動に出ているし、「台湾有事」も心配されています。しかしそれを短絡して日本が戦争の準備をすればどうなるのか。我慢強い外交が求められているのではないか。アメリカもこれまで先制攻撃や侵略戦争を繰り返してきた国で、日本が一緒になって中国包囲網を築くのはいいのか。

 要は、日米中の政府の姿勢が問題なのですが、目の付け所を変えれば、日中両国民の相互理解を深めることが戦争の危機を遠ざけることにつながるのではないかと思います。そこで、日本人は中国人をどれほど知っているのか。上記の陸川監督の日本人への深い理解に感銘を受けました。日本人はこれくらい中国人を理解しているのか、と自問する必要があります。

 彼は日本の侵略戦争を告発する映画を作りましたが、おそらく侵略国家と国民とを区別し、日本人そのものを憎むような姿勢ではないのでしょう。現代の日本人に実際に接することで、敬意を持ってその内面の苦渋にまで迫ろうとしています。芸術家ならではの深い人間観察によるのでしょうが、日本人もメディアに中国嫌悪を煽られるだけでなく、同じ人間として生活者として理解する努力が必要です。

 各国政府が愚かな振る舞いをしても、そこで懸命に生きている人々に思いをはせ信頼することが大切です。日本国憲法前文は言う。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。

 諸国民の経済・文化交流が、陸先監督のような敬意ある深い心の交流にまで高められるとき、戦争は起こりえません。日本と世界の政府どもが戦争の準備をしている今、諸国民の活発な交流こそが平和の準備です。そうした人々の願いが各国政府の姿勢を変えられるようにするのが私たちの闘いです。人々がそう願わないように、政府やメディアが仕向けているのをなんとしても批判し続けなければなりません。

 

 

          疎外された資本主義社会と全面的に発達した個人

 

 『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」第15章「この法則の内的諸矛盾の展開」第4節「補遺」には次のようにあります。「資本の集積の増大」によって「資本の力」つまり「現実の生産者たちに対立する社会的生産諸条件の自立化」が増大します。これは「物による資本家の力として社会に対立する、疎外され自立化された社会的な力」です。そこにある「資本が形成していく一般的な社会的な力と…中略…個々の資本家たちの私的な力とのあいだの矛盾」の解消によって、「一般的・共同的・社会的な生産諸条件への変革」が実現します(Werke274ページ)。もちろんこれは生産手段の社会化を軸とする社会主義的変革を指しています。資本によって疎外された社会を人間的コントロール下に置く経験を積み重ねる中で、人間的社会が実現し、その主人公にふさわしい全面的に発達した諸個人も形成されます。しかし資本主義的疎外のさなかにも未来社会を予告する人格形成の芽を見ることは可能です。

全く商業主義化された五輪は資本主義的疎外の権化ですが、そこに参加するアスリートには未来の芽が認められます。昨年引退したスピードスケーターの小平奈緒さんは中学1年生で初めて全国大会に出たとき、父親がかけてくれた「友達をたくさんつくって来いよ」という言葉に、すごくモチベーションが上がったそうです。世界に出ても、友達づくりを目標に掲げ、言葉やものの見方などの違いを考えました。そこで、「自分にないものを人は持っていると気づくことができた。成績や順位がつくと、優劣がその人の価値と決めつけられる錯覚をすることがある。でも、人の価値はそういうことでは決まらない」(「朝日」デジタル、120日付)。そう語っています。厳しい競争に明け暮れるアスリートの言葉だけに大変な重みがあります。資本主義的疎外のさなかにあってもそれを乗り越える視点を育てているのです。ところが我々凡人は、弱肉強食の資本主義的経済競争の観点だけで人の価値を決めてしまいがちです。すべての人がたとえどんな弱点を抱えていても、個人として尊重され、その人らしく生きていける社会を作り上げること、それはすでに日本国憲法第13条にある観点ですが、共産主義的未来はそれを全面化します。

 そうした13条の延長線上の未来まで先走る前に、当面する課題として、生存権を保障する25条を単なるプログラム規定としてではなく、眼前の政策の指針として常に尊重する政治の実現があります。「冷たく弱い経済」から「優しく強い経済」への転換というスローガンはその現実的土台を表現しています。
                                 2023年2月28日





2023年4月号

          社会的連帯の追求

 

    1)日本資本主義の社会像

 

 資本家は資本の運動の人格的担い手に過ぎないので、自からの家庭にあっては良き夫や父であったとしても、彼の企業の労働者に対しては、リストラしたり低賃金や劣悪な労働条件を強いたりします。それは彼の人間性が悪いせいではなく、剰余価値を搾取しせっせと資本蓄積に励まなければ競争に敗れ企業が生き残れないからです。とはいえ労働者もまた人間として生き残るために、資本主義社会で雇用を維持し搾取に抵抗して賃上げや労働条件改善の闘争を続けます。資本主義社会における資本家と労働者との階級闘争は、資本という物象(以下、「資本物象」)とそれに支配され且つ抵抗している生きた人間との闘争です。その対決点は、様々な人間的苦難を抽象化し足蹴にして突き進むか、それを起点に具体的に解決する社会変革の方策を実現するか、という性格を持っています。

 ここで後の議論のために、資本物象による人間の抽象化について考えます。その際に、典型例としての外国人技能実習生の多くの悲惨な状況を想起することが有効です。恋愛が禁止され、妊娠が発覚したら帰国させられる、などといったことに見られるように、彼らは単なる労働力と見なされ、生きて生活している人間として扱われていません。しかしそれは確かに外国人労働者に極端に現われていますが、日本人労働者も本質的に同様の問題を抱えています。20世紀のテレビCMに「24時間闘えますか」とか「私作る人、僕食べる人」というのがありました。さすがに今こんなCMはあり得ませんが、それはタテマエが多少進化したということであって、ホンネとしてのそういう状況は広く残存しています。これらはまさに、人間が抽象化された労働力とそれを支えるケアとジェンダーの構造とを見事に表現しています。

 生身の人間は例外なく消費者であり、多かれ少なかれケアされる存在です。それなくして労働力として再生産されません。資本物象による人間の抽象化は労働力再生産の結果だけを見てその前提を見ません。消費者には生産者が対応し、ケアされる存在には(フォーマルないしインフォーマルな)ケアラーが対応します。資本物象による疎外された人間観=社会観を克服するには、生産過程だけでなく、労働力の再生産過程をも含めた社会全体を捉える必要があります。

 もっとも、資本物象に対置される「人間」とは何かということ自身が重要な問題です。「人間的な本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。それは、その現実においては、社会的な諸関係の総和(アンサンブル)である」(マルクス「フォイエルバッハに関するテーゼ」第6)。「フォイエルバッハは、したがって、『宗教的な心情』そのものが社会的な産物であるということ、また彼が分析する抽象的な個人は、一定の社会形態に属するということを見ない」(同前、第7)。この見地に立って、上記の「人間」をきちんと定義することは私にはとても無理なので、さしあたっては、「自己増殖する価値としての資本の運動に従属しない人間」という否定的表現で最小限の必要条件を押さえておくしかありません。それは過去の共同体や未来社会という、資本主義とは違った社会を捉えることによって培われた人間観=社会観であり、少なくとも、社会関係を看過した抽象的な人間観への批判を前提とする見地です。 

 閑話休題。日本資本主義のデフォルト(初期設定)は、支配層が不断に搾取を強化し、労働者・人民がそれに耐え続けるという構図になっています。これが日本社会の土台であり、日本人の生活様式とイデオロギーを規定しています。それは資本主義一般のデフォルトでもありますが、それぞれの民族・国民はそこから出発して階級闘争の様々な到達点に応じた社会のあり方を形成していきます。ヨーロッパの労働者階級は、デフォルトから離陸して職場に「労働社会」を作り、資本への一定の規制を実現しています。日本人の多くは少なくともそれを知識としてしっかりとは知らず、知っていても無経験に近いので実感が伴いません。資本への規制が極めて弱く、資本の法則が過剰貫徹するこの社会で、人々の多数派はオルタナティヴの具体的なイメージを持ち得ません。「強固な抑圧の仕組み」と「それを知るのみでそれに慣れた(あるいは少なくとも諦めた)人々」とによって形成されているのが日本社会です。安倍政権以降特に顕著になった(初めから野党は眼中にない)「保守病」による世論支配の究極の根拠はここにあると言えましょう。もちろんこういう議論は一面的・一方的であり、他方・他面には支配に抗う人々の闘いが確かにあり、社会の底流には地道に前進している部分も存在します。それにしても両者の闘争の到達点として現状があるのだから、全体像としては、第二次安倍政権以降の憲法破壊の暴走から岸田大軍拡に至る現在進行形を形成している一方的力関係はあまりにも明白です。

 

   2)切り捨てられる人間と社会

 

 資本物象を典型的に体現しているのが経団連であり、それを政治的行政的に実現する官僚機構のトップに財務省があります。佐久間亮氏の「財政制度等審議会にみる社会保障費削減への執念」は財務省の諮問機関である財政制度等審議会(財政審)の野蛮な新自由主義観を批判しています。小泉政権時代の経済財政諮問会議が打ち出した、社会保障給付費の伸びを名目GDPの伸びに合わせる、という発想を今日の財政審は引き継いでいます。本来であれば、高齢化が進めば社会保障給付の伸びが高くなるのは当然であり、それを抑制するのは、人々に無理を強いることになります。そこでは優先課題として大企業・富裕層優遇税制を是正するなどして社会保障を維持発展させ、人々の生活を守るのが政治の役割です。そうして生活の安定を実現してこそ、今日の経済停滞を打破して、社会保障財源を豊かにする基盤が築けます。憲法の要請はそこにありますが、資本物象の行政的担い手である財務省と財政制度等審議会は憲法を無視して人々の生活を犠牲にします。

 佐久間論文によれば、たとえば2022年秋の財政審の建議の認識はこうです。――生活扶助基準は本来減額改定すべきところ据え置かれてきたので、一般低所得世帯との公平の観点から、今日の物価上昇の下でもその改定は慎重であるべきだ―― その根拠データとして、コロナ禍で2020年の消費支出が19年対比5.5%減となっていることを挙げています。しかしこれは全世帯のデータであり、低所得世帯は0.5%しか減っていません。恣意的なデータ悪用で印象操作していると言うほかありません(84ページ)。

 他にも、「診療報酬の伸びが賃金や物価を上回っている」、「保育所の利益率が中小企業を上回っている」、「少人数学級が学力に及ぼす影響はないか少ない」といった主張を恣意的なデータ利用で行なっており、関係者から反論されています(8586ページ)。社会保障や教育を削減する結論ありきでこうした理屈が駆使されるのには、資本物象が命じる階級支配が根源にあり、同時にそこには人間観と社会観の貧困があります。「財務省は折に触れ、公的支援が手厚いと国民がモラルハザードを起こすという」(86ページ)。「財政審の歳出削減路線と大軍拡容認路線を結び付けているのは、国家の役割を軍事や外交に限定し、国民には自己責任を押し付ける新自由主義である」(88ページ)。

 佐久間論文はその帰結をこう指摘しています。「新自由主義の論理としては一貫していても、社会保障改悪は内需を冷え込ませ、大軍拡は国民生活にも企業活動にも関わらない軍需産業を育成することで日本経済をいっそうゆがめる。財政健全化はむしろ遠のく。激増する軍事費の一部は米国製武器の購入予算となり米国に吸い上げられる」(89ページ)。「優しく強い経済」によって克服されるべき「冷たく弱い経済」の姿がそこにあります。

 資本物象による人間生活の切り捨ての一つの典型は、マクロ経済スライドにより減る年金です。唐鎌直義氏の「『100年安心』の虚構 減る年金を改革するによれば、100年安心なのは政府であって、庶民は犠牲となり、莫大な資産を保有する富裕層と莫大な内部留保をため込んだ大企業には負の影響は及びません(54ページ)。欧米諸国が高齢者に対する社会保障を拡充させているのに、日本は縮小させています。日本では社会保障の負担と給付をめぐって現役労働者と年金者(元労働者)が分断・対立する構造が構築されています。その中で、企業における非正規代替が進行し、現役労働者の稼働所得が下がり続けてきた一方で、大企業の内部留保が500兆円超となっています(61ページ)。やはり他国に目を向ける必要があります。論文は、イタリア年金者組合の闘いをこう紹介しています。異なる年代間と男女間の平等と連帯に価値を置き、労働者と年金者はいつも一緒に賃金の改善と年金の改善を求めて闘っている、と(同前)。さらに以下のように結論づけられます。

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 デフレ経済下の資本蓄積方法に安住してきた大企業とその利害関係者は、そのデフレ・モデルを自らの力で打ち破ることができない。外部から打ち破るしかないのだが、それは労働者と年金者の世代を超えた階級連帯以外にない。 …中略… やはり資本主義社会では、どんな時も階級的利害が最大のテーマであり、それを忘れた理論や運動に本当の未来はないと感じた。   (同前)

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 これを受けて、連帯による分断の克服における階級的観点の重要性について考えます。とにかく分断はダメだという議論が良識的とされ、スローガンのように垂れ流されています。しかし支配層と被支配層との間には分断が客観的にあります。それとは別に、搾取・抑圧の体制を守るため、支配層によって被支配層内に持ち込まれた諸個人の人為的分断があります。性・人種・宗教・階層、等々、ネタはいくらでもあります。客観的分断は見えにくく、人為的分断は見えやすいだけでなく、人々の身近な日常意識を捉える強固な吸引力を持ちます。リベラルな良識は人為的分断を批判しますが、それは客観的分断にまで届きません。新自由主義による生活破壊が人為的分断を生む温床なので、そこに踏み込むには、被支配層の立場から支配層を批判する=支配構造そのものを批判することが必要となります。しかしリベラルな良識はそういう批判も分断を煽るものと見なします。つまり客観的分断の止揚を目指してそれそのものを批判するのでなく、そういう根源的な批判そのものが分断行為として批判対象とされるのです。そこには緊縮政策的「良識」からの「バラマキ批判」が随伴します。結局支配層につながる体制意識があるからそうなります。「有もしない分断を作り出して騒ぐな」。

 しかし、被支配層内の人為的分断の克服から出発して、客観的分断をも克服することが求められるのであり、後者を看過して放置すれば前者は復活します。体制内化したリベラルな良識による分断批判は分断の土台たる新自由主義体制そのもの、もっと言えば資本主義そのものの批判を回避するので、人為的分断はその温床とともに絶えることなく、逆に分断批判そのものが偽善であるかのように逆襲されることになります。そういう困った事態の中で唐鎌氏の「やはり資本主義社会では、どんな時も階級的利害が最大のテーマであり、それを忘れた理論や運動に本当の未来はないと感じた」という指摘が本質を衝いています。なおこの文脈とはややズレますが、「自律的な市民を前提に」「自律的でない無能で無責任な者たち」を公的領域から排除する「リベラルな法思想」をラディカルに批判するフェミニズム理論が注目されます(岡野八代氏の「ケアと正義――あるいは<法と女性>を語る居心地の悪さについて、『世界』20234月号所収)。

以上のように、経団連や財務省に代表される、資本物象を体現したイデオロギーは生きた人間を見ず、抽象化して切り捨てます。それに対して、諸個人の具体的生活実態とそこでの実感を的確に把握・表現し、変革の展望に結び付けることが求められます。それは個人の尊重をベースに置きつつ、経済統計を科学的に活用することで、具体的実感を客観的表現に昇華し、普遍的理論として仕上げることです。そこには人間的生活に基づくディーセントな社会像への想像力が前提されます。日本資本主義の日常への埋没を意識的に克服するために、他国の現実と運動の経験とに学びつつ、経済理論・社会理論の基礎的確認と反省が必要とされます。理論がタテマエとして学ばれているだけで、それを基にして眼前の生活苦を捉えられない、あるいは問題があるのにそれを見逃している、ということはよくあるのではないでしょうか。そこに切り込んだのが後藤道夫氏の「『家計補助労働論』を乗り越える 不規則・短時間労働の拡大とインフォーマルケア保障の脆弱であり、後に触れたいと思います。

 

   3)社会保障と新自由主義構造改革

 

 佐々木悦子・井口克郎・石倉康次・横山壽一氏による誌上討論「医療・介護・福祉 新自由主義の転換をは現場の状況を踏まえながら、社会保障構造改革の現状をどう捉え、どう転換していくかについて理論的・政策的に縦横に議論しています。その豊富な全体を捉えることは難しいですが、まず社会保障関係の労働の実態と政府の政策対応を見ます。支配層による搾取強化とそれへの労働者・人民の忍耐という日本資本主義のデフォルトは、資本物象の政治的担い手としての政府にとっては最重要であり、世界でも希有な状況でありながら所与の環境(それはあって当たり前!)でもあり、十全に活用されています。したがって、コロナ禍での医療崩壊を受けても「政府には医療従事者の増員という視点はまったくありません」という無責任な認識と姿勢であり、相変わらず漫然と「医療現場に負担だけを押し付ける施策」(14ページ)に終始しています。

 政府・財界はそうしたかけがえのない政治的資産を土台として、「社会保障の削減と市場化・産業化をワンセットで進め、社会保障の削減で市場を生み出し、市場化・産業化によって拡大した市場型サービスでさらに社会保障の削減を図る『二正面作戦』を展開してきました」(26ページ)。このような反人民的な新自由主義政策は人権原理と衝突するので、人権原理を抑え込むための様々な手法、レトリックを活用し、日本ではそれが一定効果を発揮してきました。それを打ち破って転換するためには、抽象的で大雑把な批判でなく、イデオロギーと政策とを相対的に区別しながら丁寧な政策批判が必要とされます(29ページ)。また、「仕掛けられた攻撃の手口・レトリックを見抜く運動を広げる議論」、「特に、自助共助、世代間対立や不公平論、医療・介護攻撃の地域差、財源不足などに惑わされない議論」(32ページ)が必要と提起されています。

 そうした提起に応えて、独自の新自由主義批判を展開した好個の論稿が佐藤和宏氏の「社会保障としての居住保障 自己責任論批判・社会保障運動・公営住宅です。居住政策の分野では、政府のみならず世論上も自己責任論が非常に強く、居住保障の理念を定着させるのは容易ではありません。そこで論文は、新自由主義の基本理念である自己責任論について、それ自身のイデオロギー批判と社会の合理性の観点からの批判としての格差社会批判とを併せて展開しています。

 まずイデオロギー批判として、以下のように自己責任論の矛盾を3点指摘しています(66ページ下段の要旨)。

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1.自己責任をいうのなら、自己決定が前提になり、自己決定には自己選択が前提になり、自己選択には選択肢が前提になるが、自己責任論はそれらを欠く自己責任であり矛盾している。

2.制度・親・階層的影響など多分に本人以外の責任があり、自己=本人ではない。

3.人間は一人で生きていない。自己責任論は関係性の中で生きている個人から人間関係を捨象させ、社会という観点を後景に退かせる。

 → 自己責任論は社会の矛盾から生まれ、矛盾を隠蔽する役割を果たす。

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 上記の選択肢の問題を象徴的に表現するならば、椅子取りゲームが浮かび上がってきます。それは新自由主義社会の比喩として核心を突いています。初めから少ない選択肢をめぐって競争を強いられる当事者たちを、その条件を設定した者が上から眺めているという構図です。当事者たちはその状況が理解できず、相互批判に埋没する中で、自分たちを解放する展望に到達できません(たとえば右派ポピュリズムの跳梁状況)。真のゲームチェインジャーは「状況設定者を引きずり下ろせ」と喝破する人です。グローバル資本の支配下で労働者・人民が内部闘争を克服して、支配秩序としての新自由主義=資本主義の止揚に立ち上がるということは、椅子取りゲームの構図を見破ることに通じます。混沌とした毎日の日常生活の中で、自からの状況を俯瞰できる見識と余裕を獲得することが求められます。

 論文はイデオロギー批判にとどまらず、社会の合理性の観点からの批判としての格差社会批判を次に展開しています。格差社会はどのように社会に悪影響を及ぼすか(67ページ上段の要旨)。

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1.格差拡大で貧困拡大、仕事や生活に対する満足度が低く健康状態・人間関係も悪化。

2.社会全体が不安定になる。いじめ・虐待増加、心身の健康状態悪化、短命に。他人に不寛容に、社会活動への参加低下。

3.経済成長を阻害。

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 論文は以上の観点に基づいて、居住保障が個人の居住権を擁護するだけでなく、社会の合理性を両立させることを具体的に論じていますが、それは省略します。結論として次のように主張されます。「自己責任論・格差社会拡大によって日本社会と全ての人々にとって不幸な社会を目指すのか、公的責任のもと平等で合理的な社会を目指すのか、選択肢は明確ではないだろうか」(70ページ)。自己責任論に基づく新自由主義政策の展開が格差社会拡大をもたらし、不合理で不幸な社会になる、ということに重点を置いた批判は多くの人々に理解されやすい論じ方だと思います。

 

   4)社会的連帯の可能性と将来像

 

 ここでまた「誌上討論」に戻ります。搾取強化と生活切り捨てに邁進する新自由主義政策は被支配層の分断を伴って進行します。そこで社会保障分野の視点からすれば、労働者を基軸にまず彼ら自身の団結を固め、サービス利用者の利害関係に基づく共感を得て、労働条件改善とサービスの充実とをともに実現していく闘いと経験を積み上げることが求められます。その中で、政策転換と政治変革、さらには資本主義そのものの止揚というパースペクティブを持つことも是非とも必要です。

 「誌上討論」で紹介されている福祉労働者へのネット調査での回答で、9割近くが「やりがいはある」としながら、「将来展望が持てない」が3割、正職員の6割が「忙しすぎる」としています(1718ページ)。慢性的人材不足状況がコロナ禍でいっそう厳しくなり、何とか労働者の頑張りで持ちこたえている「やりがい搾取」の実態が明らかです。「社会的責任の割には評価が低い」という回答も6割に上り、まさに「エッセンシャル・ワークの逆説」に陥っています(18ページ)。

 そうした中で、「コロナ禍のなかで保健師さんが死に物狂いのはたらきをしていることがメディアでも伝わり、庶民の共感と支持と連帯が拡がり、6万人以上のオンライン署名が集まりました」とか「子どもたちにもう一人保育士を!」という保育運動が注目されている(30ページ)という状況が高まっています。このような「福祉労働者の処遇改善をわが事ととらえる声」は「エッセンシャル・ワーカーの連帯の可能性」(同前)を示すものであり「福祉労働者は社会の再生産と勤労者の労働・生活水準を引き上げる上で、結節点としての位置にあることが社会的にも浮かび上がってきてい」ます(18ページ)。併せて、経営者との関係で次の指摘も重要です。「新自由主義の兵糧攻めで経営者がこまる。経営維持のためにともすれば労働者に犠牲を押しつける。そうすると労使対立が起きる。大事なのはこの経営者自身の姿勢をかえて、利用者国民と共に歩む福祉経営のスタンスを確保することではないか」(3031ページ)。

 ここであらためて、福祉労働者への支持と連帯の声を長くなりますが引用します。

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「社会福祉に携わる方々の賃金は絶対に大幅に引き上げるべきです。業界の人手不足やスキル不足によるエンドユーザーへの悪影響は、ひとえに従事者が低賃金且つ過重労働という悪循環に置かれているからにほかなりません。賃金が上がり、就業希望者が増えれば、長い目で見れば業界全体の人手不足の解消やノウハウの継承につながるでしょうし、既存職員にとっても、高水準の賃金が確保されることによる精神の安定が生活の安定につながり、そのことがエンドユーザーへのより細やかなサービスの提供にも寄与することになるでしょう。人に優しくするにはまず自分にあらゆる意味での余裕がなければいけません。これは精神論だけではいかんともしがたいところがあります。社会福祉は個人個人の心身の頑張りが美談として取り沙汰されることが多いですが、双方の人生にかかわる重要な仕事だからこそ、心身の頑張りだけでは賄えない部分をまずは改善すべきです。賃金や社会構造などシステム的にどうにかできる部分を改善し、個人の心身の過剰労働が美談として消費されるような時代はもうやめてください」(IT部門正規職員)   31ページ

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 これはもう(社会福祉とかIT部門とかいう垣根を越えた)現場からの下からの情理を尽くした説得力抜群の叙述であり、やりがい搾取的状況を捉える根本的視点を確立しています。同時に、その状況を克服するための俯瞰した視点をも兼ね備え、そこから、新自由主義が仕掛ける「椅子取りゲーム」的分断から脱却すべく、問題の核心を「賃金や社会構造などシステム」にある、と社会連帯的に提起しています。

 さらにもう一つ問題提起したいと思います。

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新自由主義が影響力を強めてきた背景には、戦後の福祉国家のもとで構築されてきた人権を守る様々な社会経済的な規制とそれが資本の活動と市場の機能を規制してきたこと、そのことが国境を越えて自由な活動を求めるグローバル化した資本との衝突を大きくしたことがあると思います。

したがって、新自由主義は福祉国家を攻撃し、賃金・労働条件・雇用保障・生活保障など、国民の労働と生活を守る制度の転換を求め、それらを支える税・財政の負担軽減を求め、経済活動に課せられた規制の撤廃を求め、資本と階級権力の復権を目指してきました。どの国でも規制緩和が「改革」の中心に据えられたのはこうした背景によるものです。

      28ページ

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 これは新自由主義の本質を「市場原理主義」的次元に求める俗見とは違って、資本による階級闘争と捉えている点で、デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義 その歴史的展開と現在に通じるものがあり、当を得ていると思います。この階級的対抗は通常、新自由主義VS社会民主主義という形で捉えられています。確かに共産主義にとっても当面する対抗形態としてはそのように捉え、社会民主主義との違いはその先にあると考えることも可能です。「新しい福祉国家」という構想はそのように捉えることができるかもしれません。しかしそれは社会民主主義への傾斜・埋没ではないかという捉え方もあり得ます。現状を新自由主義VS社会民主主義という対抗形態に帰することの限界を指摘する議論があり、そういう見地からの社会主義的変革の展望を瞥見してみることもアリではないか、と思っています。

 「誌上討論」から、社会保障関係の労働を基軸にした広い社会的連帯の必要性と可能性(あるいは必然性)をまず取り出し、次いで変革の展望に関連した現状認識として「新自由主義VS社会民主主義」という対抗形態の問題性を提起しました。この二つの問題意識について、最近読んだ今野晴貴氏の『賃労働の系譜学――フォーディズムからデジタル封建制へ(青土社、2021年)が刺激的な内容を提供しています。本書は、労働問題解決に努める労働運動・市民運動の現場実践に深く依拠しながら、マルクスの経済理論を搾取論のみならず、抽象的な価値論次元までも含めて踏まえて展開しており、精読に値する労作だと言えます。

 福祉や医療などにおける労働をケア労働と呼ぶとすれば、それらが社会的共感を得やすい理由を本書は掘り下げています。ケア労働を含むサービス労働の特質が重要です。たとえば運輸業では、運転手の長時間労働は事故の増加につながります。「サービス業における産業問題は消費者に即座に直結する。それゆえ、多くの人々を関係当事者として構成するのだ。しかも、産業問題は『サービスの質』にも直結して」きます(182ページ)。そこで「近年の労働事件の多くが、『産業的問題』=『社会的・消費者的問題』として表現されている」(181ページ)というわけです。これは労働運動のあり方を方向づけます。2008年末の「派遣村」に象徴される、「反貧困」の社会運動と結びついた労働運動は「世論に訴えかける社会運動としての性質」を持っています。「@労働者が声を上げ、A企業を超えた社会的問題を提起し、B世論が労働者の主張を後押しすることで、労使交渉が進展する」(171ページ)ということになります。その延長線上で、「労働運動が社会を守る」ということさえ言えます。そこにはやむにやまれぬ個別具体的な実践性があります。

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今日、労働者の権利がないがしろにされる中で、少子化が進み、サービスは劣化し、社会の荒廃は明らかに進んでいる。今日の労働運動が闘い守っているのは、社会そのものである。この闘いは、個別の労働問題や利害を通じて表現されるが、そこに社会を守る「普遍性」が内在しているのである。その普遍的な課題は、決して抽象的な政策論を起点として社会に定着することはない。個別の現場からの問いかけをとおして、はじめて社会を守る政策も実現することができる。    197ページ

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 さらに前方に論を進める前に、いったん一歩下がって、拙文の初めの方で述べたことを振り返ります。「日本資本主義のデフォルト(初期設定)は、支配層が不断に搾取を強化し、労働者・人民がそれに耐え続けるという構図になっています。これが日本社会の土台であり、日本人の生活様式とイデオロギーを規定しています」と書きましたが、こういう状況を生み出す重要な要因の一つとして、企業社会や企業別組合の問題を本書に探ります。

企業別組合は企業間競争と各企業内の生産過程とを規制せず、資本の論理の貫徹の下で労働=生活破壊が進み、社会的荒廃へと帰結します。そうして、「日本では個々人の『生存権』が尊重されず、企業や市場に依拠して生き残ることが奨励されてきた」(215ページ)とか、「『市場の論理の中でうまく行動する』という方法以外の思考・行動様式がこの社会からほとんど死滅してしまった」(218ページ)という状況があります。さらに以下のように詳述されます。

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企業主義社会においては、常に権利主張は「自粛」され、企業や市場に身をゆだねるしかない状況が続いていた。これは、決して「強制」ではないが、市場と企業の力に依存した統治であった。企業主義的社会統合は、国民全体を、市場経済を内面化したホモ・エコノミクスへと変貌させることで、「統治されやすい者」に変えていき、それが今日の「自粛」を中心とした無責任なコロナ対策をわずかな軋轢で実現していると考えることができる。       

215216ページ

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 閑話休題。前に向き直ります。こうした企業社会や企業別組合を乗り越えるような職種のあり方をケア労働に求めることができます。

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 これらの業種では企業内の「職務」の細分化に限界があり、労働者たちの職務はそれ自体、職業的な属性を持っている。端的に言って、「介護労働者」や「保育労働者」は、会社員であったとしても、小規模事業所で働き、その職業の階梯にしたがってキャリアを積むことになるのであり、企業内の同質性よりも、「介護労働者」や「保育労働者」としての属性に強くアイデンティファイしている。保育士・介護士は職種内労働移動も頻繁である。

   187ページ

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 これを一つの例として、職務の「社会的性格」を労働組合によって形成する「ジョブ型」労働運動(247ページ)を構想することができます。もちろんそれは近年財界が労働条件引き下げを正当化するために持ち出す「ジョブ型」とは全く別物であり、職務の設計や経営のあり方に介入する労働運動であり、きわめてラディカルな性格を持ちます。それについて「使用価値と価値、労働過程と価値増殖過程」の論理を駆使して以下のように説明されます。

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「ジョブ=職務」や職種は、「企業内の地位」を超える労働の素材的・具体的存在であり、普遍的な性質を潜在的に有している。そのため、これを基軸とする規制戦略は、企業を超えて労働者を連帯させ、労働の遂行方法(労働対象との関係を含む)を直接に変革する契機を内在している。     249ページ

 例えば、介護労働に対する「労働の格付け」は労働市場における「介護労働の価値」を、価格(賃金)を同一にすることで規制する。これは企業を超えた労働者の連帯を、「介護」という具体的な仕事に依拠して行うということだ。その一方で、「介護」そのものは、労働市場の価格評価とは独立に、素材的・具体的に社会に必要とされており、その有用性は価格には還元されない。したがって、「労働の価値づけ」は労働の素材的性格に依拠することを通じて、市場価格の規制の論理をも超えて、「介護そのものの在り方」を問うことにもつながり得るのである。これは「価格(貨幣)」の内部の規制から、使用価値の次元での規制へと、介護そのものが有する素材的・具体的有用性に依拠し、連続させる戦略だといってよい。この戦略においては労働の遂行方法への介入が、その実践的な課題となる。

   250ページ

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 以上は資本主義下での労働運動の戦略を論じるものでありながら、価値=剰余価値原理による資本主義社会から使用価値原理による共産主義社会(今野氏はおそらく斉藤公平氏と同様に共産主義という言葉を忌避していると思いますが私はかまわず使います)へ、という未来社会論に直結していきます。

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 重要性を増すケア労働が、資本の従属下で行われずに自律的なシェアリング・エコノミーの形態で遂行されることは、「ポストキャピタリズム」の構想においては極めて重要な論点となる。この点においても、「ジョブ型」の労働組合運動は、その実現の有効な戦略であると考えられる。「ジョブ型」の労働運動は、介護労働の職務を特定し、評価づけることを通じて、その内容に介入する労働運動となりうるからである。さらに、ケア労働においては、「労働対象」が直接的なサービス利用者となる。この点は近年の労働社会学においても注目されてきた点である。ケア労働における労働過程は、労働対象と結びつくことでより社会性が増し、その評価への介入は単なる「職務の格付け」以上の内容を持つことになる。同時に、ケア労働は地域に強く根ざすものであり、地域社会の形成とも不可分である。  

 259ページ

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 ネット上のプラットフォームを介した生産者と消費者の直接的結びつきを実現するシェアリング・エコノミーがここに登場しています。それは現状では「労働のプラットフォームはシェアリング・エコノミーに不可欠の重要なインフラストラクチャーとなり得るが、その多くは大資本に支配されてしまっている」(235ページ)ことはもちろん意識されていますが、その未来社会への可能性を含めて以下のように展開されます。

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生産技術の発展は、社会の再生産に必要な労働を減少させると同時に、新しい労働のあり方を可能にしている。すなわち、情報技術の発展は生産者と消費者を直接的に結合させることを可能にしている。 …中略… 大資本による巨大な広告や流通網を不要にするような、生産者と消費者の結合が可能になる。生産の分散化は、大企業や国家(自治体等を含む)によって労働が組織されていない、新しい協業の形態である「シェアリング・エコノミー」を発展させているのである。 

 シェアリング・エコノミーが発展すれば、企業や国家に対する雇用の増加や労働条件の向上を目的とする労働運動は不要になる。もはや、それらの生産主体は時代遅れのものとなっていくからである。むしろ、生産を自律的に組織する「アントレプレナー」の存在が重要になり、生産関係の変革はそうした経済運営主体の能力の向上や組織化の発展に期するところとなる。    233234ページ

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 ここであらためて資本主義的雇用と労働運動との関係を整理すればこうなります。日本の企業主義型労働運動では、労働過程にも労働市場にも規制を作り出さず、極めて強固な賃労働規範が形成されました(248ページ)。フォーディズム型労働運動では、労働市場への規制が主であり、労働過程への規制は不十分です(247ページ)。それを社会民主主義的とすれば、ジョブ型労働運動は共産主義的であり、労働市場と労働過程の論理を結合し、労働過程への介入を実現します(249ページ)。つまりフォーディズム段階の資本主義を背景とし、あくまで資本主義的雇用を前提に、労働市場への介入を主な主戦場とする社会民主主義的労働運動を乗り越え、労働過程そのものへの介入と資本主義的雇用の止揚を目指す共産主義的労働運動の可能性がここにあります。20世紀社会主義体制の形骸化された生産手段の社会化を批判し実質化を目指すとともに、社会民主主義的な「新福祉国家」構想を超える視点です。共産主義と社会民主主義との区別がどこにあるのかは長い歴史的議論がありますが、今野氏はそこに一つの重要な問題提起を投げかけていると思います。

 昨今の議論にからめて言えば、「冷たく弱い経済から優しく強い経済へ」というのはまず経済政策の問題として提起されていますが、先々には生産過程そのものの変革の問題としても提起されていくべきであり、将来的には生産過程の社会主義的変革が課題として登場します。生活と労働における人権の政策的実現だけでなく、生産過程そのものの変革をも見通していくことが大切です。私たちの眼前の諸困難を人権の問題として捉えるのは見えやすいし必要不可欠ですが、さらにそれを生産過程の変革につなげる発想を忘れてはならないと考えます。

 

   (補遺)現状分析へのアプローチ

 

最後に大急ぎで宿題に取りかかります後藤道夫氏の「『家計補助労働論』を乗り越える 不規則・短時間労働の拡大とインフォーマルケア保障の脆弱は、資本物象が体現するイデオロギーが生きた人間を抽象化して切り捨てるのに抗して、人々の諸困難の実態をまとめ上げて客観的にしかし生き生きと提起し、解決すべき課題を具体化しています。私たちは困難に陥った人々の実態と声を主にメディアを通じて個別具体的に知り、何とかしなければ、という思いを抱き、同時にその状況を理解する理論的枠組みを求めます。しかしなかなかその現実と理論をつなぐことは難しく、勉強不足と実践力の至らなさとであえぐことになります。そんな中で、後藤論文は、主に「労働力調査」、「毎月勤労統計」、「就業構造基本調査」といった基本統計を読み解き、現実に迫るに足らない部分は統計を組み合わせて解釈するなど工夫を凝らし、私たちが問題の核心を理解しうるように援助を差し伸べています。

 過労死に至るような長時間労働が社会的問題とされてきたのに対して(そこまで至るのが大変だったのだが)、短時間労働のもたらす貧困に十分に目が向けられてきませんでした。しかもそれが貧困問題全体を規定する重要な要素であることが意識されていませんでした。そこに光を当て、学生アルバイトや女性非正規労働者の低賃金を正当化することで、社会全体の貧困化の重しとなっている「家計補助労働論」を周到な分析で徹底的に撃破した点は見事でした。

 論文の白眉はスウェーデンの女性労働者との対比で、日本の女性労働者の困難の性格を明らかにし、休業保障の重要性を高い説得力で提起したことでしょう。その行論上、<実労働時間平均=総労働時間/従業者数>とは区別される<就業者平均労働時間=総労働時間/就業者数(休業者を含む)>という概念を創出しているのも重要です。統計の丹念な分析がもたらした成果です。そうした一連の考察の中で、就業者・休業者・従業者の三者の関係で、<従業者=就業者-休業者>あるいは同じことですが<就業者=従業者+休業者>を取り出し、日本は休業率(休業者の就業者に対する割合)が異様に低いことに問題の核心を見いだしています。問題は具体的には以下のようにまとめられます。

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 結局、こうした比較でわかるのは、日本のフルタイム女性労働者は、家にいる時間が少なく、外での労働量が多いうえに、家庭でのケアの多くが自己責任にまかされた状態であり、体調を崩しても容易には休めず、本来の意味の休暇も十分に取れていない、ということである。しかも、妻の家事時間・ケア時間は国際的にみても非常に長い。

 フルタイムをあきらめて短時間労働を選択する労働者が多いのは当然だろう。

 196070年代に「家事労働論争」が行われたが、90年代には、ILOでの議論を援用しながら塩田咲子が政策論的解決枠組みを提示し、竹中恵美子もこれを支持したことがある。家事労働の経済的価値を直接に云々するのではなく、社会保障制度によって、教育・福祉・介護の公的サービスを保障するとともに、家事労働のうちの育児と介護に限って、男女ともに労働からの一時的離脱にたいする所得を補償する、いわば、間接的な経済的評価・給付を行う、というものであった。スウェーデンの休業保障の高い水準は、こうした議論のリアリティを示したものと見なせよう。     143ページ

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 所得補償を伴った休業保障の重要性が「家事労働論争」の文脈にも絡めて言及され、社会の本質論の深みから、自己責任論を克服する社会的合理性に資する結論です。この論文についてはほんの一部にしか触れられずにタイムアウトとなり残念です。

                                2023年3月31日





2023年5月号

          政治・社会の劣化に対するジェンダー視点での批判

岡野八代さんに聞く「ジェンダー平等、ケア実践と学問の自由」はインタビュー形式なので、緻密な論理展開というわけではありませんが、極めて多岐にわたる諸問題について、実践上の労苦を背景に、ほとばしる意欲を持って鋭い問題提起が行なわれており、感じ入りました。まず「フェミ科研費裁判」です。杉田水脈衆院議員という、普通なら馬鹿馬鹿しくて相手にもしたくない人物を裁判に訴えねばならない状況は極めてストレスフルでしょう。杉田氏の社会的な影響力の大きさを考えると、捨て置けば「研究者生命が終わってしまう、深刻な問題」(98ページ)なので、裁判闘争しているわけですが、貴重な時間を割いて逃げずに闘われていることに大いに敬意を表します。

ところが地裁で原告全面敗訴という信じがたい結果となりました。「こうした判決の背景には、長年続いてきた、政府による歴史認識や歴史教育に対する強い政治的介入があり」、「この30年間、日本政府の歴史修正主義が社会に根をはる中で、司法、裁判官たちの歴史認識さえ、取り込まれている状況」(99ページ)だということです。三権分立・司法の独立という民主主義形式が保たれていたとしても、裁判官一人ひとりが支配権力イデオロギーの虜になっていれば、民衆の権力という意味での民主主義の実質は破壊されています。ましてや、最高裁による地裁・高裁への実質的支配など、裁判官が良心のみに基づいて判断することが事実上阻害されている状況では、司法の独立は相当形骸化しているというほかありません。

 脱線になりますが、最高裁の実態を暴いたのが、後藤秀典氏の「『国に責任はない』 原発国賠訴訟・最高裁判決は誰がつくったか 裁判所、国、東京電力、巨大法律事務所の系譜です。法の素人としては、最高裁判決がどのように作られるか、これで初めて知りました。担当判事が判決文を一から書くのではないというのです。実際には「全国の裁判所から選ばれたエリート裁判官」である「40人ほどの調査官」(138ページ)が専門分野ごとに提示した「調査官意見書」に基づいて判決文が書かれます。そこで論文は、この判決文をめぐってその作成過程を以下のように推測しています。……今回の判決を下した第二小法廷の4人の判事の内、判決への反対意見を出した三浦守判事は、調査官意見書に基づいて綿密な検討を行ない、その内容をおおむね採用した上で、個人的意見として多数意見に対する強烈な批判を述べている。それに対して、菅野博之裁判長と草野耕一、岡村和美判事ら多数派は、調査官意見書に基づかず、「『国に責任がある』という結論をひっくり返すために不慣れな裁判官がやっつけ仕事で」「大雑把な意見書」(140ページ)を書いたのではないか。

 問題は多数意見の3人の判事がどういう人物なのかということです。141ページの図「巨大法律事務所・最高裁・国・東京電力の人脈系譜」が全てを語っています。詳細は省略しますが、3人の判事はこの4者の密接な関係を取り結ぶ人脈系譜の中にあります。原子力規制庁もこの図の中にあります。それだけでなく、この巨大法律事務所所属の弁護士が国のエネルギーに関する審議会の委員の常連でもあります(144ページ)。これではまともな原発規制も司法判断もできるわけがありません。司法の独立は全く形式だけであり、原発推進の権力構造の中にどっぷりつかっているのが実態です。

 これだけ典型的な権力癒着構造は例外的なのか、それとも他にもよく見られるのかは分かりません。しかし沖縄辺野古新基地や生活保護費をめぐる裁判など、国政に直接関わる多くの裁判がある中で、裁判官一人ひとりのイデオロギー問題とともに、権力癒着構造にも疑惑を向ける必要がありそうです。司法の独立の内実が問われています。

 閑話休題。岡野氏は日本の政治と社会の右傾化と劣化を厳しく指摘しつつ、自由や権利をめぐる今日的状況の難しさにも目を向けています。まず、裁判闘争に際して、政治家の免責特権を考慮すると、名誉毀損の問題に集中する戦略を採らざるを得なかった、という問題があります。本来、野党の政府批判活動への弾圧を防ぐための制度が与党政治家の保身のために転用され、無責任な政治的暴言が助長される結果になっています。ここに「フェミ科研費裁判」の難しさの一端がありますが、さらにその基盤として政治の右傾化・劣化があります。そこで、政治の本来の課題とそれに逆行する現状が以下のように対照的に描き出されています。

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 30年前、慰安婦問題が提起されて以後の問題、日本の戦争犯罪に対して、しっかり向き合う必要があります。この恥ずべき禍根を残さないために、しっかりと反省し、歴史の事実を教科書に書き込む義務がある。しかし、現状では、自民党政治の歪みは、杉田氏の個人的心情の問題ではなく、自民党全体が極右政党になっていて、恥ずべき振る舞いを隠さなくなっています。結果、政治家が率先して、性暴力を許し、差別をするという底抜け状態で、政治的責任も倫理観もないところまで来てしまっているのです。  100ページ

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 この「恥ずべき振る舞い」の「底抜け状態」で想起されるのが、虐待や性搾取に遭った少女らに寄り添い活動をしているColabo(コラボ)に対する極めて悪質な妨害活動です。コラボの事業で、少女らに居場所や食料を提供する「バスカフェ」には「▽開設前から複数の男性が無言で立つ▽バスカフェの前でライターを片手に「火つけたろか」とつぶやく▽陰から望遠レンズで撮影する▽撮影したものをネットに投稿し、中傷する▽バスカフェの利用者や関係者を特定する―などの嫌がらせが多発して」いました(「しんぶん赤旗」215日付)。この異常な攻撃のきっかけは「公金の不正利用」という言いがかりです。ジャーナリストの安田浩一氏は以下のように説明しています(同前、219日付)。

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 ―コラボに対する一連の攻撃は、昨年末から今年初めにかけて、都内の男性による東京都への住民監査請求をきっかけに激化しました。

 コラボが都の若年被害女性等支援事業の委託料を受けていることについて、男性は「医療費不正」「車両費不正」「報告書の不備」などがあると主張しました。しかし、監査結果は男性の主張のほぼすべてを「妥当でない」などとして退けています。

 経費精算の一部などに「不当」「不適切」とされた部分はありますが、同時に監査結果は「実際には都の委託料以上の経費が生じており、コラボが持ち出して負担している」「都に損害をもたらすという関係にはない」と明言しています。「不法」や「違法」、「不正」が具体的に認定されたものは一切ありません。

 にもかかわらず、ネット上で一部の人たちが「コラボが行政から公金をむしり取っている」かのようなデマを広げています。リベラルとされる人の一部も影響されています。

 そもそもこの事業は都が頼んだものです。若年女性支援は本来、行政の仕事ですが手が回らずノウハウもないので、以前から事業を展開してきたコラボに委託しました。

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 許しがたいのは「自民党や日本維新の会などの国会・地方議員らがコラボに不正があるかのように描く質問を続け、攻撃をあおっていること」です(同前、319日付)。上記記事で安田氏は「『コラボたたき』もそうですが、『公金』や『血税』といった言葉を多用し、『自分たちが被害者だ』として特定の個人や団体、集団を攻撃するのが『21世紀型差別』の特徴だ」と指摘し、コラボに向けられた「公金不正」という言葉は、在日韓国人バッシングのヘイトスピーチに見られる虚偽の「在日特権」と地続きだと言います。そうした倒錯した論理による差別攻撃に加えて、コラボ・バッシングでは、「差別者の根底には、口には出さないミソジニー(女性嫌悪)があり、女性を『たたきやすい、たたいてもいい存在』だと思っている。攻撃そのものの前提に、女性差別がある」と安田氏は指摘しています。さらに「未成年者を食い物とする一部風俗産業の構造を維持したい人々」が攻撃に加担している、ということもあります。

 時代錯誤的な家父長制的ジェンダー観の存続と世界最悪水準のジェンダー・ギャップ指数という日本社会の歴史と現在こそが、政治家を含むこういう悪質な男のクズを量産しており、それが政治と社会の右傾化・劣化の重要な部分をなすことは間違いありません。

 また、岡野氏は日本学術会議に対する政府の介入を論じる際に、「学問の自由をめぐって、非常に巧妙な社会的分断がなされていること」(101ページ)に注意喚起しています。今の主流メディアに対して特権的だと怒っている人たちが、研究者の地位保障や自由に対して同様の怒りを向けるという問題があります。「ですから、学問の自由を守れと言った時、それが一部の特権者たちのものだと思われないような訴え方をしないといけません」(同前)。

 そこで、研究者の社会的責任とは、現状へのオルタナティヴを提示し、未来を展望する力を刺激する材料を提供することだとして、以下のように続けられます(同前)。

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 ですので、学問の自由を奪われることは、その未来を描くための道具を奪われることです。本を読み、言葉を使ってつけた想像する力、道具を日本社会はどんどん失いつつあります。しかも現在のように、経済的に疲弊してくると、生活だけで精一杯になってしまう。言葉によって生きる力をもつことも、市民的な力も、根こそぎにされるような事態が起こっています。まずは「衣食足りて…」だというように思われがちですが、実は言葉がもつ想像力、喚起力というのも人間の生きる糧であり、車の両輪です。そういう意味で、日本の学問の自由の状況は非常に危機的だと私は思っています。   

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 ここには、反知性主義を伴う右傾化・保守化の原因として、経済的貧困・時間的余裕の欠如と並んで、言葉のもつ想像力の剥奪といった精神的貧困も「車の両輪」という位置づけを与えられています。そう捉えることで、学術会議への攻撃に対する反撃に際して問題となる「学問の自由」が、特権者たちの精神的問題に落とし込まれてしまうのでなく、全ての人々の未来の創造(そこには経済的・物質的充足とともに精神的貧困の克服も含まれ、豊かな想像力こそが創造力の源泉となる。二つの「そうぞう」の媒介環として学問とその自由がある)に関わる問題として浮かび上がってきます。

 次に岡野氏はコロナ禍で浮き彫りになったケアの問題に言及しています。安倍政権の小中学校の全国一斉休校というコロナ禍対策(まれに見る愚策)によって、政権が子どもたちのケアの問題に全く無関心で無知であることが暴露されました。「ケアを提供する者の存在なしには社会は成り立ちません」が「こうしたケア提供者の存在、声はまるでないかのように、政府は一切耳を貸さず、放置しているのです」(102ページ)。

 そうすると学問の問題としても、ケアをどう位置づけるかを看過することは許されません。従来の経済学はもっぱら市場内に対象を限定してきましたが、市場外でのケア抜きに人間は存在できないのだから、市場内外を総合しケアをきちんと位置づけた経済理論を価値論から作り上げることが求められます。それに関して以下のように論じられます。

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 80年代にはマルクス主義フェミニスト経済学者たちにより、家庭内でも、労働市場でも女性が安く使われ、搾取されることへの批判的研究が興隆し、もっとも力のある政策提言がされてきました。そこでは、子育て、育児、家事といった労働力の再生産労働に携わる女性が無償で搾取され、それが資本主義の物質的基盤でもあると論じられました。フェミニスト経済学者たちは、家庭内労働が本来生み出す経済的価値を貨幣計算しています。それとは私の研究は違っていて、ケアが生み出しているのは、経済的価値、生産物ではなく、もっと人間的な価値を生み出しているのがケアだろうということです。負担という意味では労働なのですが、「ケア・ワーク(労働)」とは呼ばず、より判断力や経験値が養われるという意味で、「ケア実践」という言葉を私は使っています。   103ページ

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 続いて、ケア労働ならぬケア実践について、「人間の尊厳ですとか、単純に嘘をついてはいけない、約束は守ることというような、民主主義の前提となる道徳観、責任ある市民を生み出してきたのは誰か。他者への配慮、どう付き合うか、といった実践知を育ててきたのが、ケアではないか」(同前)と説明し、さらに次のように展開されています。

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 そうした人間的な価値をつくる実践にもかかわらず、歴史的にケアは人間以下の活動だとされ、哲学的な考察から外されてきた。この営みは、母性という女性の本能で行ってきたものだと、ずっと片付けられてきました。いや、そうではなく、女性たちは他者との人間関係の中で、実践知を積み上げることで、相手に敬意を持ち、たとえ相手が弱い立場でも暴力は振るってはいけないということを、学んできた。90年代以降、フェミニズムの政治学者、哲学研究者によって、ケアというのは、人間として価値ある実践であるという点から論じられてきました。     103ページ

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 フェミニスト経済学者が市場外の家庭内労働の生み出す経済的価値を貨幣計算しているのに対して、岡野氏はケアが生み出しているのは経済的価値ではなくて、もっと人間的な価値であるとして、その内容をわかりやすく敷衍しています。

 この問題提起に関連して、二宮厚美氏の「社会サービスの経済学 教育・ケア・医療のエッセンシャルワーク(新日本出版社、2023年)への山田良治氏の書評を見てみましょう。

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 本書は、サービス労働の中でも「社会サービス」労働、すなわち教育・福祉・医療分野における「エッセンシャルワーク」の重要性を指摘しつつ、それらに対する「高い社会的評価」と「低い市場的評価」の乖離・ギャップの解消という政策的課題に取り組むための理論的根拠を与え、そのことを通じて対極にある、社会的に不要かつ退廃的な「ブルシットジョブ」を奨励する政治的ベクトル(とくに「維新政治」)への批判を意図したものである。         134ページ

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 本書の問題意識がこのように提示され、次いで「サービス労働論争」に言及されます。『資本論』の労働論は「主として工業労働を対象として記述されている」けれども、今日では「資本主義的なサービス経済の本格的発展」を見ており、「物質的生産こそが生産的であるとする固定観念」(134ページ)が克服されるべきとされ、以下のように展開されます。

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 著者によれば、本書の理論的な部分における最大のポイントは、「精神代謝労働概念を中核的カテゴリーにおいている」点にある。ここで、「精神代謝」とは「人と人との関係」であり、「人と自然の関係」をあらわす「物質代謝」の対概念となる。そして、この「精神代謝労働」の特質は何よりも「労働とコミュニケーションの概念的結合」にあるとする。

 サービス労働が本質的には人を対象とする生産的労働であり、したがってコミュニケーション論との接合が決定的に重要であるという理解は経験的事実として明白であり、評者も同じスタンスである。       135ページ

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 このように、「物質代謝」の対概念としての「精神代謝」を提起することで、サービス労働も物的生産労働と同様に生産的労働であるとしています。したがって、「社会サービス」に対する「高い社会的評価」と「低い市場的評価」の乖離・ギャップの解消という「政策的課題」に対して、経済的価値の次元で解決を与えようという方向だと思われます。本書は「社会サービス」の考察なので、資本主義下では主に市場内労働あるいは公務労働の問題ですが、上記の生産的労働の規定そのものは家庭内労働にも適用され得ます(市場外労働には適用しないという考え方もあり得るが)。岡野氏とは違った見解だと言えます。

 これに対して、価値論に関わる理論問題を保留しての「政策的解決」として、後藤道夫氏の「『家計補助労働論』を乗り越える 不規則・短時間労働の拡大とインフォーマルケア保障の脆弱(本誌4月号所収)はこう述べています。

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 196070年代に「家事労働論争」が行われたが、90年代には、ILOでの議論を援用しながら塩田咲子が政策論的解決枠組みを提示し、竹中恵美子もこれを支持したことがある。家事労働の経済的価値を直接に云々するのではなく、社会保障制度によって、教育・福祉・介護の公的サービスを保障するとともに、家事労働のうちの育児と介護に限って、男女ともに労働からの一時的離脱にたいする所得を補償する、いわば、間接的な経済的評価・給付を行う、というものであった。スウェーデンの休業保障の高い水準は、こうした議論のリアリティを示したものと見なせよう。     143ページ

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 そもそも社会サービス労働や家庭内労働に対する社会的評価と市場的評価との乖離は、資本主義市場経済の機能不全を意味しています。逆に通念では、こうした乖離に対して「市場に合わせよ」となります。しかしそれは社会の人間的あり方という意味では本末転倒です。岡野氏が家庭内労働・ケア労働を経済的価値とは切り離して、「ケアというのは、人間として価値ある実践である」とするのはそれへの抗議と言えます。

 ただしそういう市場批判は正しいとしても、市場次元ではなく、社会全体での労働支出の配分という次元では労働量の問題は生じ、それは一種の経済計算の問題であり、価値概念に近接しています。上記の後藤氏の言う「政策的解決」は市場次元をスキップして(市場機能に依存せずに)、市場内外の労働の社会的連関を「所得補償」という市場的形態を利用して直接連関的に「解決」する試みと言えます。

 いつも言っているように、生産的労働論については不勉強で一定の見解を押し出せませんが、資本主義分析における理論次元の重層性という観点から、市場を相対化しつつ、政策的展開を位置づける、という方法は有効であろうかと思います。労働価値論的には、使用価値(実物)・価値(労働)・価格(生産価格)という3体系の連関をいつも意識し、資本や市場が先導する資本主義国民経済において、市場内外を含めて実物連関と労働連関がどうなっていくのかを問う視点が大切です。なお家庭内労働の捉え方における労働価値論の基本的立場については、和田豊氏の『価値の理論』第三版(桜井書店、2019年)の第11章「市場外労働と労働価値論」の第3節「家庭内労働」が一つの参考になると思います。

 以上の他に、岡野氏は日本の長時間労働の弊害を重視しています。それは一方で家庭内労働を歪め、他方で政治的後進性を強く規定しています。「日本のジェンダー構造の歪みで、女性にケア労働を一手に押し付けていることは、他方で、男性労働者の異常な長時間労働と関わっています」(104ページ)として、具体的にはフランスと対比しています。定時に仕事をビシッと終えるフランスでは政治行動が盛んで「自分の時間は自分で使うという、自由の発想がしっかり根づいて」おり、「反対に日本では人との連帯が、いかに人間的な喜びにつながるのかという経験があまりにも少ない。政治的な関心が低いこともあるけれど、時間的な自由がないことが、大きなカギだと思います」(同前)と指摘しています。

マルクスの未来社会論の核心に自由時間の拡大があることはよく知られています。それと対照的に、日本の現代資本主義社会のジェンダー・ギャップが大きく、政治的に後進的であることの核心に、他国以上に資本に自由時間を奪われた男性労働者の姿があるということです。日本の嘆かわしい政治状況の一端をジェンダー視点が照らしています。

 

          物価上昇と貿易赤字への本質的理解

 昨今、急激な物価上昇と貿易赤字の拡大が注目されます。メディアというものは、眼前の現象を手っ取り早くうまく説明することに注力する日々であり、どうしても浅い現象論に傾きがちです。そこで上記の二題は、2020年からのコロナ禍と22年からのロシアのウクライナ侵略戦争という二大原因によってもっぱら説明されてきました。それらによって、サプライチェーンが断絶・混乱することで半導体などの重要な工業製品の供給が制限された上に、資源・エネルギー価格が高騰した、という誰の目にも明らかな現象が物価論として説得力をもたらします。もちろんそれは間違いではないのですが、いわば短期・実物視点だけに基づく見方として一面性を免れません。その上に、一方で実体経済と金融との関係に留意しつつ、他方で中長期的視点を合わせて、原因をさらに深く探ることが必要です。それによって日本資本主義に起こっている変動の本質を把握し、変革の方向性を考えることができます。

小西一雄氏の「インフレーションを考える 現在の物価論議で忘れられた論点については、物価変動に関して、通常の新聞・テレビ報道などでは見られない、科学的経済学に基づく本質的見方を提供しており、行き届いた説明となっています。

 日本では長らく物価下落や停滞が続いてきましたが、2022年から急激に上昇が始まりました。その要因として、エネルギー価格の高騰や円安による輸入品価格の高騰、あるいはサプライチェーンの寸断による供給制限がもっぱら言われています。そこでは、コロナ禍対策による財政資金の散布を原因とする古典的インフレーションという側面が忘れられている、と小西氏は指摘します。そもそもそれまでの物価状況を無概念的にデフレと称していたことに表れているように、物価変動に関して科学的把握が欠如している中で、さしあたって目立つ現象で物価上昇を説明しようという姿勢が一面的見方に帰結しています。

 論文は「どのような種類の物価上昇でも、物価は需給関係の変化をとおして変動していくものであ」るけれども「需給関係におよぼす要因の違いによって、物価変動は異なる様相を示すことになる」(110111ページ)と指摘しています。物価変動の異なる様相という現象(短期的VS長期的、可逆的VS不可逆的)を理解するには、「需給関係におよぼす要因の違い」という本質を理解しておく必要があるわけです。そこでまず景気変動や商品価値の変動が検討され、それらとは区別される要因として、貨幣的要因がいっそう詳説されます。その初めに「政府紙幣の過剰投入による通貨価値の下落であるインフレーション」(113ページ)について、数量効果から価格効果へという過程を含めて説明されます。

 通常の解説では、インフレーションを紙幣減価による物価上昇と規定するだけで終わっていることが多いのですが、この論文では、その概念が現在の分析にそのままでは適用できないことをことわって、違いまで説明しています。まず現在使われているのは、政府紙幣ではなく不換銀行券であり、しかも通貨の中心は預金通貨です。それで通貨量の膨張収縮の中心も不換銀行券そのものではなく預金通貨であり、銀行信用の膨張収縮ということになります。そして兌換制下と違って、不換制下では中央銀行信用は金準備の制約なしに拡大することができます(113114ページ)。次いで、不換制下の中央銀行信用拡大の3つのルート(対政府取引の膨張、対市中銀行取引の膨張、外国為替取引の膨張)が説明されます(114116ページ)。コロナ不況からの回復過程では、経済外的要因により急減した需要が自律的に回復することとともに、中央銀行の(事実上の)国債引き受けによる対政府取引の膨張が重要な役割を果たしました。それによって「2020年以降かつてない急激なマネーストックの増大が記録されてい」ます(118ページ)。アベノミクスの異次元の金融緩和によっても、マネタリーベースの増大ほどにはマネーストックは増えなかったのですが、コロナ禍対策の財政支出では急激に増大しました。そこで、物価変動論・インフレーション論としては以下のようにまとめられます。

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 コロナ不況からの回復過程が急速な物価上昇の進展をともなったのは、エネルギー価格や小麦価格の高騰などのコストプッシュ要因にとどまらず、中央銀行の事実上の国債引き受けによる巨額な、まさに兌換制下の限度をはるかに超える財政支出がもたらした需要創出の結果であった。まさにインフレーションの進展である。したがって、米欧と日本での物価高騰は一時的な現象ではなく、物価水準そのものを引き上げる、不可逆的な物価上昇なのである。コロナ禍での財政支出は全体として必要なものであったが、目的が正当であっても、その副作用としてのインフレを免れるわけにはいかないのである。

          118ページ

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 さらに同じく財政支出による景気回復といっても、日本は欧米よりも足取り重く、物価上昇率も低くなっています。その状況については、「このような米欧と日本との経済の基調の相違は、巨額な財政支出が家計や企業の購買力として実際に支出されるテンポの相違につながっている。米欧ではそのテンポは速く、日本ではそのテンポは遅い」(118ページ)と説明されます。この相違の原因は「日本では先行き不安から、財政支出額の多くが貯蓄として滞留した」ということです(118119ページ)。日本の「コロナ貯蓄」はGDP10%超水準です(118ページ)。

したがって、「追加購買力が存在する限りでは、追加支出が行われ、その過程は追加購買力が消滅するまで続く」(113ページ)というインフレーション進行の一般的特徴からすれば、日本の物価はより高い水準まで上昇すると予想され、賃上げが不十分で実質賃金が低下した場合の長期的な経済停滞への警告と社会運動の必要性とで論文が結ばれます(119ページ)。それに加えて、最後の(注)(6)では、MMTや類似の議論の誤りが指摘されています。上記のように、コロナ禍対策による財政支出増の副作用としてのインフレーションに言及されていることと併せて、放漫財政への警告と言えましょう。消費税増税や社会保障切り捨てなど新自由主義構造改革流の緊縮財政ではなく、不要不急の公共投資と軍事費を削減し、大資本・富裕層への課税強化と庶民生活支援による経済活性化での税収増を図るなどの財政再建が必要です。

従来の物価上昇論では、エネルギー価格高騰や円安による食料品など輸入品価格の高騰、グローバルサプライチェーンの寸断による供給制限などが問題とされました。そこからの日本経済のあり方や経済政策への批判点としては、一方では、食料・エネルギーの自給率や産業空洞化など供給サイドが、他方ではアベノミクスの異次元金融緩和による円安誘導など金融政策が問題とされました。そこに財政支出によるインフレーション問題が加わることで、財政正常化の課題が押し出され、今日の日本資本主義の問題点をより総合的に検討することができます。

 供給サイドの問題について、貿易赤字を分析起点に、製造業について中長期的視点から点検したのが小山大介氏の「付加価値貿易から見た日本の貿易・産業構造の変化 『輸出立国』から『輸入依存国』へです。貿易赤字の急増が問題視され、さしあたって目立つのは、コロナ禍とロシアのウクライナ侵略戦争とによるサプライチェーンの寸断による供給制限や資源・エネルギー価格の高騰ですが、「長期的視点で読み解くと、日本の貿易構造は、リーマン・ショック、そして東日本大震災を契機として変容の道をたどっており、2010年代以降に大きな構造変化があったと考えられる」(122ページ)というのが小山氏の見立てです。それを分析するのに駆使される「付加価値貿易統計は、貿易額を国内で付与された付加価値部分と海外からもたらされた付加価値部分とに分けて分析することが可能であり、貿易統計における二重計算問題や貿易収支の過大評価を防止することで、より適切な通商政策の策定への活用や従来の貿易統計とは異なる分析視角の発掘が期待されてい」ます(124ページ)。

 この統計で分かるのは、総輸出に占める国内付加価値比率が日本では2000年代以降に急速に低下しているということです。日本企業は海外進出において、多国間でのグローバル・バリュー・チェーンを形成していますが、その中では「日本が世界への製造輸出拠点としての機能を低下させ、世界経済における中間財貿易の一歯車となりつつあるだけでなく、国内産業がグローバルなレベルでの産業競争力を失いつつあることを示唆する結果となってい」ます(126ページ)。

 したがって、2000年代以降の企業の海外進出に伴う国内産業の衰退と地域経済の活力低下によって、日本の貿易・産業構造は次のような概観を呈し、重大な問題点を抱えています。

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 一つ言えることは、現在の日本貿易収支黒字は、自動車産業の「一本足打法」によって生み出されており、その黒字幅も付加価値貿易統計で分析すると過大評価となっているだけでなく、拡大する貿易収支赤字を埋め合わせるだけの黒字幅を確保することはできなくなっている。この事実は、日本経済がグローバル競争の「負け組」になりつつあることを示しており、次の時代を担う主要産業も生まれていない。まさに日本は、これまでの「輸出立国」から「輸入依存国」へと国内経済構造が変容したのである。

 この貿易収支赤字を海外からの所得の受取によって賄うという議論があるが、海外で得られた所得は海外での再投資に回り、国内経済に本当に環流するかは疑問である。直接投資収益や証券投資収益は、貿易によって得られた所得とは異なり、直接的に地域経済を潤すことはない。       129130ページ

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 貿易収支赤字を所得収支黒字で相殺して、経常収支黒字を何とか確保すればいい、という議論は、いわば帝国主義的な資本主義の寄生性・腐朽性に棹さす方向性で感心しません(しかし現状はそうなっているが…)。かと言って、国民経済の健全な再生産構造を再建するのは難題です。「次の時代を担う主要産業」をどう構築するかという課題は確かに重大ですが、残念ながら私のようなアナログ人間には見当がつきません。それを一方の課題とすれば、他方には内需循環的な地域経済の復興が求められています。自然・伝統・文化に根ざした地域産業の振興には中小企業や中小零細業者が活躍できる政策的援助が必要です。再生可能エネルギーの活用による地域内経済循環の創出も有力な課題です。

 今日、財界・支配層からもいわば日本経済ダメ論が盛んに吹聴されています。それは例えば利潤追求と監視社会化のためにデジタル化を追求するといった方向性を持っており、強搾取構造を維持し推進したままの「改革」を錦の御旗に掲げています。それは労働者・人民への攻撃と一体です。危機感を煽って「改革」を強行する構えです。メディアやネットでは自慰的な日本礼賛があだ花よろしく咲き乱れています。それは日本経済の衰退による自信喪失と表裏一体です。財界・支配層による日本経済ダメ論の流布もこの文脈に位置づけられます。それは労働者・人民を「甘やかさない」意識改革によって搾取強化を実現する方向性を持っています。したがって、日本資本主義の停滞を正確に分析することは当然必要なのですが、新自由主義構造改革とは対極的なオルタナティヴを同時に追求することが不可欠だと言えます。

 

          軍拡への世論形成をめぐって

 軍拡推進派はいかにもマッチョな右翼的タカ派だろうと思われがちでしょうが、意外に真面目に考えている向きもあります。たとえば、危機管理学研究者・中林啓修氏へのインタビュー「有事想定の国民保護」(「朝日」412日付)を読むと「意外と良心的で、人や社会のことをよく考えているようだから、やっぱり戦時の国民保護の準備は必要なんだ」と思う人が多いかもしれません。詳しい内容紹介は省きますが、中林氏は実際のところ、国民保護の体制を整えるのは無理だ、ということも言っているのですが、それでもそれは必要だという結論です。勇ましい軍拡推進論とは違いますが、有事想定の国民保護が必要だというのは、今日の政治情勢の中では軍拡の露払いを担っているというほかありません。そのエッセンスは以下の論理です。                                      

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 「自然災害は防げないけれど人為的災害である戦争は防げる。そんな二分法的な考え方があるように感じます。しかし、何をすれば、あるいはしなければ戦争になってしまうのかを人間は完全には把握できていません。つまり、戦争という社会現象を制御できていないのです。そうである以上、万一戦争になってしまった場合に少しでも多くの国民の命を守るための準備は必要だと考えます」

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 これは結局、原発事故は自然災害だ、というのと同じです。原発がなければ福島の悲劇は起こりませんでした。「安全保障環境が厳しくなる」のは自然現象ではありません。もちろんそこには、中国・ロシア・北朝鮮などの覇権主義国家の問題がありますが、それだけでなく、同じく覇権主義国家であるアメリカに追随して戦争準備に励む日本政府自身の問題もあります。

 特に、東アジアで平和を保つには、米中対立の激化を防ぐ外交努力を日本がすることが不可欠です。にもかかわらず、ひたすらアメリカに従って対中包囲網の形成に血道を上げている日本の姿勢は戦争を呼び込むものです。外交というのは同盟国・同志国とだけ仲良くすることではなく、利害や意見の違う国とも平和裏に付き合う努力をすることです。

 「戦争という社会現象を制御できていないのです」などということがもっともらしく思われるとするならば、それは日米軍事同盟の下で対米従属外交をすることしか知らず、それが「自然」だと思い込んでいるからです。安保体制の下にあっても、独自の日本外交の余地はあります。自然と人為を区別しない者は原発事故に続いて戦争を起こします。「有事想定の国民保護」の準備とは、まさに「平和の準備」を退ける「戦争の準備」であり、その思いが真面目であったとしても絶対に許してはなりません。

 問題はこれを載せた「朝日」の姿勢です。平和と民主主義・人権を守るため権力を監視するのがジャーナリズムの使命であるとするならば、岸田軍拡に対してきっぱり反対を貫くべきでしょう。それを旗幟鮮明にする中でのこのインタビューならば、参考にして検討すべき真面目な論考の掲載という意味を持ちます。しかし「朝日」の立場は曖昧です。政権への懐疑的なまなざしはあるものの、軍拡反対をはっきり主張していません。「左寄りの立場の方々からは『戦争を招き寄せる気か』と、右寄りの方々からは『甘い』と批判されています」という中林氏の言葉を載せていますが、「朝日」の立場を彷彿とさせます。岸田軍拡に際して、「中庸をもって良しとする」がごとき漠然とした一般論(というより気分)に安住しているとするならば、今まさに歴史的過ちの最中にあり、軍拡反対への明確な転換が必要不可欠です。

 関連して述べたいのは、松竹伸幸氏の党除名問題などに絡んで、日本共産党の組織問題に関する「しんぶん赤旗」と「朝日」「毎日」等との論争です。詳論はしませんが、問題の中心である「結社の自由」に照らして、理論的には「朝日」等の批判は誤りです。

 しかし共産党の側にも問題があります。まず民主集中制の理念を認めるとしても、その運営実態はどうなのかという問題です。新版『資本論』の問題に明らかなように、非民主的な権威主義の中で科学的社会主義の理論上の重大な誤りを犯し、自浄作用が働きません。組織のあり方の実態的な欠陥がここにあります。それ以上の詳論は控えます。

 さらに言えば、「朝日」「毎日」等からの批判を、軍拡に反対する共産党への反共攻撃の一環だとするのも誤りです。共産党の組織問題に関して、「朝日」等はブルジョア・ジャーナリズムなので、革命党を理解する意思も能力もないということであり、問題はそれ以上でも以下でもありません。政府・与党とその応援団であり明確な反共的立場の「読売」「産経」等の軍拡推進勢力と「朝日」「毎日」等とははっきり区別する必要があります。共産党を批判すること自体が軍拡に資することだ、というような雑な批判は慎むべきです。軍拡に関連して、岸田首相の憲法解釈の強引さを「朝日」が批判しているのを「赤旗」が引用しているようなこともあります。軍拡反対のためのそういう接点を大切にすべきであり、曖昧な立場のメディアを正しい位置に座り直させるために、節度ある批判の姿勢が求められます。
                                2023年4月30日







2023年6月号

          平和を実現する原理と努力

 ロシアによるウクライナ侵略戦争の終息が見通せません。アメリカと並ぶ軍事大国であるロシアとNATOの支援を受けたウクライナとが互いに譲らぬ戦いを続けています。これ以上犠牲者を出さないために停戦しようにも、ロシアの占領地を認めるわけにはいかないというディレンマがあり、結局戦争がずっと続く状況です。侵略戦争をやめさせる立場においては平和と正義のトレードオフが立ちはだかっています。そういう苦渋を反映したのが、松井芳郎氏の「ウクライナ戦争と国際秩序の将来 多国間主義の可能性でしょうか。NATOによる「武器等の供与は戦争を長引かせ、その犠牲を一層拡大するという指摘があるが、」ウクライナの「自衛権の行使を国際社会が支援することは当然であろう」(91ページ)という主張に反対することはできません。とはいえ、両交戦国の主張が全く相容れない上に、どちらかの一方的戦勝に終わる可能性もない以上、「この戦争を終わらせるためには何らかの和平合意による以外はないこと」(94ページ)も明らかです。それを受けて松井氏は和平の細い可能性を探っています。

 常任理事国ロシアの侵略という事態で、国連安全保障理事会が機能不全に陥っている中で、緊急特別総会は「ロシアによる武力行使の即時停止とその軍隊のウクライナ領域からの即時、完全かつ無条件の撤退」(93ページ)など国際社会の当然の正義を議決していますが、和平実現の筋道としての集団的措置を勧告していません。多国間主義に基づく国際協調よりも、手を縛られないための単独行動主義をNATO諸国が採用しているためと言われます(9293ページ)。

 そうした中で、「何らかの和平合意」を追求する足がかりとしてまず見ておかれるのが、2022年の侵略以前の1415年の二度にわたって欧州安全保障機構(OSCE)の支援で成立したミンスク合意と、侵略直後の両国の和平交渉です。しかし後者は停戦と終戦に向けて近づきましたが、ブチャにおける残虐行為が発覚してロシアへの非難が高じる中で頓挫しました。前者についても、それを破って侵略が行なわれたという意味では無駄になったのですが、国連憲章第33条による紛争解決の地域機関としてのOSCEの存在は重要です。それは両国と加盟国との対話の舞台を提供する可能性を残しています(9697ページ)。

 また戦争のもたらした世界的な食糧危機に対処する国連事務総長のイニシアティヴとトルコの協力は積極的な経験です(95ページ)。当事者間の和平交渉が見通せない中で、「状況を改善するためのささやかな動きを地道に積み重なるほかすべがない」(96ページ)と言うほかありません。

 本年2月の中国の和平提案も注目されていますが、ロシア寄りであり、単独行動主義の枠内だと評価されます(9697ページ)。それに対して多国間主義の可能性を探る点では、「安保理の紛争の平和的解決に関する決定には、紛争当事国は投票を棄権しなければならない(第二七条三)から、ロシアの拒否権はこれを妨げることはできないはず」(97ページ)という指摘が注目されます。初耳であり、現実性はどうかという問題はあるにしても、今後留意すべきでしょう。

 その他、国際司法裁判所(ICJ)・欧州人権裁判所・国際刑事裁判所(ICC)等の持つ可能性がその関わり方の問題点とともに検討されています。また、ロシアの主張としての関連地域でのロシア系住民の「自決権」については、それ自身は認められないが「広範な自治」として和平合意に加える可能性に言及されています(99ページ)。

 以上のように、和平合意の可能性について、誠に微妙で細い線ではありますが知恵を絞った最後に、ロシアのウクライナ侵略戦争をめぐる状況が与える教訓が二点提示されます。第一に、ロシアとNATOの軍拡と同盟強化について。「このような抑止論の悪循環を脱するために、われわれは軍事同盟の単独行動主義ではなくて、国連憲章の初心である多国間主義に立ち戻って、その集団安全保障を改善し強化する道を進むべきだと思われる」(101ページ)。第二に、国際事象を見る「タテの目線」と「ヨコの目線」の必要性。前者は歴史的見方であり、「武力行使禁止原則と人民の自決権の確立、抑止論に基づく勢力均衡論の破綻から集団安全保障の成立といった、国際関係全体の歴史的発展を意味」します(102ページ)。後者は「多数国間主義を基礎づけるグローバルな見方を意味」します(同前)。これは周知の「民主主義VS専制主義」図式に象徴される「ロシアVSアメリカ(NATO)」という覇権国間の抗争という見方を排して、「植民地支配を経験した発展途上国」の「苦衷の思い」に配慮しつつ「この戦争の公正かつ永続する和平に到達すること」(同前)に資する見方です。

 泥沼化しつつある戦争を前に、すっきりした解決策を提示することは困難であり、一方で地道な和平努力の芽を逃すことなく、他方であらためて平和構築の原則を忘れないことを確認すべきかと思います。

 いささか唐突な話題転換かもしれませんが、戦争終結の困難性を思い知らされる中で、政府が軍拡に邁進する日本では、戦争開始の回避という、これも地道な努力が深刻に求められています。

 その意味では、330日に発表された「日中両国関係の前向きの打開のために――日本共産党の提言」はまさに時宜にかなっています。日中関係の改善そのものの重要性が前提ですが、亡国の岸田軍拡を何としても阻止することは喫緊の課題です。そのために、多くの必要事項がある中でも、日中両国政府に実際に働きかけ、同時に世論を正しく動かすことは問題の核心に迫る努力であり、この提言はそこに投げ込まれた直球勝負手だと言えます。

 ロシアのウクライナ侵略戦争を奇貨として、漠然とした不安を煽ることで、世論を引きつけて岸田軍拡が進んでいます。敵基地攻撃能力の保有(攻撃対象は基地に限らないけれども)を中心とする軍拡の本質は、中国包囲網形成に努めるアメリカへの従属であり、台湾有事などによる米中戦争の際には、アメリカではなく日本の国土が戦場となります。

 したがって、軍拡批判の第一はそういう本質の暴露です。この軍拡は決して自国防衛にはなりません。第二には日本世論の軍事的不安の中心にある中国脅威論の克服と東アジアの平和構築の展望とを提示することです。第三には、軍拡財源確保がもたらす社会保障切り捨て・増税などによる生活圧迫への批判があります。中でも日中外交の正常化による平和構築の展望を示すことは、中国脅威論を克服し、軍拡を求める世論上の根拠を打ち砕く中核に位置づけられると思われる。

 サンフランシスコ単独講和と日米安全保障条約締結後、日本外交は対米従属の大枠内に終始していましたが、わずかに独自性を発揮することで東アジアの平和に貢献した経験も持っています。田中角栄内閣が日中国交正常化を実現したことはその後の米中関係改善によい影響を与えました。小泉純一郎内閣は、電撃的な首相の北朝鮮訪問によって日朝平壌宣言を結び、拉致問題の解決や日朝国交正常化に踏み出そうとしました。残念ながら北朝鮮との関係はすぐに逆流に押し戻され悪化し、中国とも一時の友好関係の活発化の後、今日では中国脅威論が隆盛になるという状況です。それらには当然相手国の問題もありますが、対米従属下での軍事的抑止力優先という日本外交の根本姿勢が影を落としています。とはいえ、そのような体制下にあっても、独自の外交努力の余地があり、保守政権であっても取り組む可能性があることに着目することは大切です。

 そのような平和拡大の可能性に向けて打ち出されたのが、今回の提言であると言えます。それは、社会変革に対する日本共産党の現実的責任感から発せられています。そこで想起されるのは、1980年代に宮本顕治議長が、レーガン米大統領とアンドロポフソ連共産党書記長に対して、核兵器廃絶の書簡を送ったことです(以下は記憶に基づいて書きますので、いくらかの間違いがあるかもしれません)。

 正直言って、当時の私の第一印象は「ミヤケンはなんで無意味なスタンドプレーをするのか」というものでした。しかしすぐに不明を恥じることになります。「米ソの核戦争の危険性が増大した八四年には、宮本氏を団長とする党代表団がソ連共産党代表団と会談し、不一致点はわきにおいて、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶にかんする『共同声明』を発表しました」(日本共産党ホームページ)。アンドロポフ没後で、相手は元ブレジネフ側近で守旧派と目されたチェルネンコ書記長ですが、日本共産党の地道な努力が続けられたわけです。

 チェルネンコ没後、ソ連共産党書記長を引き継いだゴルバチョフは、レーガン米大統領と1986年レイキャビク首脳会談に臨み、核兵器廃絶を正面から議題とするに至ります。もちろんそれは実現はしませんでしたが、核軍備管理だけに終始した米ソ会談や国連安保理等のそれまでの会議の中では例外的で画期的内容でした。「核兵器廃絶を目指す指導者がいれば世界は変えられる」(吉田文彦氏)ことが夢想ではなく、現実性を持つことを示したのです。宮本書簡というイニシアティヴが水面下で利いていたと言えるのではないでしょうか。たとえそうでなくとも、少なくともその目の付け所が正しかったということは言えます。

 確か当時、宮本氏は両者に書簡を送った理由として、レーガンが「核戦争に勝者はなく、決して戦われてはならない」と日本の国会で演説(1983年)したことを挙げています。それはタカ派のレーガンの偽善的発言か単なるリップサービスとしか受け取れないように思えます。普通は。しかし見逃さず正面から受け止めた宮本氏のセンスはロマンティシズムというべきか、リアリズムというべきか分かりませんが、結果的に正鵠を得ていたことは確かです。確か、レーガンからの返書はなく、アンドロポフからは肯定的な返書があり、その後の日ソ両党会談につながりました。とにかく愚直に正論を世に問うのみならず、該当する責任者に正式に届けるという姿勢が社会変革には必要だということでしょう。

 今回の日中両国政府に宛てた提言は、膨大な両国関係史の中から、現情勢を打開するに資する合意を精選し最低限必要な3点を採り上げたものと思います。日本共産党独自の主張は措き、両政府が同意可能なものであることも極めて重要です。そして両者から肯定的反応を得て、さらにその内容の実現にしつこく努力を促すというフォローにも感心します。

 今回の提言に関する513日付「しんぶん赤旗」の志位和夫委員長のインタビュー記事には全面的に賛同します。今日の日中関係悪化をめぐる情勢・原因を解明しつつ、日本共産党独自の立場と、今回の提言ならびに党と日本政府・中国共産党との関係についてもきちんと整理されています。原則の堅持と現実的対応との両立の見本です。

 1980年代の核兵器廃絶に向けた宮本イニシアティヴと今回の日中関係への提言とに通底するDNAとでもいうべきものは、眼前の現実を変革することに向けての原則的かつ現実的で柔軟な当事者性を持った責任感です。たとえばアメリカ帝国主義に対する複眼的見方はそれを可能にしています。レーガンの核戦争反対演説を無視しなかったことはその証左です。

 「反体制派」は往々にして支配層の動きを単純に捉えて、彼らが被支配層に有利になることはしないという先入観から、その政策を全否定するようなニヒルあるいはシニカルな評価をしがちです。しかし現実を素直に見れば、支配層の施策や言動の中に社会変革に向けて活用しうるものがある――それを見極めることは重要です。少しでも現実を前に進めるのに資するきっかけを探ることは、真の責任感の発露であり、ロマンティシズムとリアリズムの結合であろうかと思います。

 歴史を必然性において捉える史的唯物論の見地を踏まえつつ、変革の立場から「歴史としての今」を捉える言葉があります。「現在がやがては歴史になるであろうことは誰でも知っている。社会科学者の最も重要な課題は、現在がまだ現在であるうちに、そしてわれわれがその形と結果とを動かしうる力をもっているうちに、それを今日の歴史として把握しようと努めることである、と私は信ずる」(ポール・スウィージー『歴史としての現在』序文)。日本共産党の当事者性を持った責任感は、戦争を阻止し平和を実現する現在を切り開くことで、歴史を創造する原動力となります。

 蛇足ながら、ここで歴史の必然性と社会変革との関係を考えてみます。たとえば、戦後日本の単独講和と日米軍事同盟の締結、その後の高度経済成長をワンセットに歴史の必然として捉えて、その理由を合理的に説明するのが史的唯物論の立場だとする見解があり得ます。存在するものにはすべて理由があるのだから、それを理解するのが科学であり、それを非難するのは感情論だというのがその含意でしょうか。これは現状肯定の「史的唯物論」的理解ともなります。いや、その現状の中に自己否定の要素を認め、今日の変革実践に活かすのだから、十分に弁証法的であり、史的唯物論であり得るという抗弁があるかもしれません。

 しかしそれは勝者の書く歴史の追認であり、現状変革の想像力の幅を狭めます。今日の変革を考えるには、過去の歴史の中にも複数の可能性を捉え、眼前の現実はその中の一つであるという捉え方が必要でしょう。そうする方が現状を「今日の歴史」として捉えて変革の様々な可能性を探る幅を広げられます。たとえば、サンフランシスコ単独講和の前には、全面講和か単独講和かをめぐる国論を二分する論争がありました。朝鮮戦争の勃発によって世論は単独講和に傾いたのですが、全面講和による平和憲法の全面実践の可能性を想像することは、今日の時点でも軍拡イデオロギーに対峙する一つの拠点を築くことに資すると思います。

自衛隊と日米安全保障条約の存在が作り出してきた既成事実が確固として積み上がってきている中で、世論上も両者への支持が圧倒的です。それは平和についても軍事的抑止力を不動の前提にする発想を支配的にしています。憲法を支持する人々の中でも大方そういう状況でしょう。しかし戦後の原点に帰って、別の道があり得たという認識を拠点にし、対米従属でなく非同盟中立・非武装で、エネルギー・食料の自給を維持したバランスある経済発展という日本社会像を現状に対置することが必要です。そうして初めて憲法の想定する社会像を十全な意味で提起することができ、軍事的抑止力を前提にした「平和」像への批判を実感を持って遂行できます。もちろん現状を前提にした当面する政策は切実に必要です。しかしそれはある意味、必要策ではあっても同時に弥縫策でもあり、その先に連続してさらなる展望を切り開く必要があるという認識もまた必要ではないでしょうか。

 歴史の必然性を極度に狭く捉えるのでなく、一定の幅の中で選択の可能性を残すべきでしょう。資本主義の実現した非常な生産力発展を前に、社会主義の時期尚早性を言う向きが支配的であるようです。しかしむしろこのような生産力段階でありながら、資本主義が居座ってきたことが人類に限りない害悪をもたらしてきたというのが真実ではないでしょうか。20世紀社会主義体制の失敗にとらわれて、未だ世界史的に資本主義の生産力段階であるという考えには同調できません。

 

 

          新版『資本論』の是正を

関野秀明氏の「アベノミクス「インフレ不況」と『資本論』 中央銀行信用バブルとインフレ調整は、「流通過程の短縮」による「架空の需要」の発生という不破哲三氏の恐慌論の論理を精緻化することとその現状分析への適用を意図しているように思われます(それは当論文で明言されてはいないけれども、新版『資本論』刊行後の一連の動きから容易に推測されます)。「流通過程の短縮」が恐慌発生の一要素である限りで、そうした理論的営為には一定の意味があります。しかし「流通過程の短縮」を主軸に据えた恐慌論、ましてや産業循環論は正しくないし、その視点による『資本論』形成史論や革命論も連動して誤っていることについては、私は繰り返してきました(「不破哲三氏の恐慌論理解について」)。したがって、今回の関野論文の現状分析はその意義と限度を踏まえて捉える必要があり、不破説の正当化という文脈に流すべきではないと考えます。

アベノミクスの主軸は異次元の量的質的金融緩和にあり、株価高騰などの資産バブル発生とは対照的に実体経済の停滞を招いています。したがって、バブル批判に主眼を置くことは理解できます。しかし今日、支配層も含めて喧伝される日本経済の没落は、長年の、特に高度経済成長破綻後のグローバル資本を含む大資本の行動とそれに従う経済政策とによって形成されてきています。そこでの産業構造など実体経済を中心とした分析が、たとえば坂本雅子氏や村上研一氏などによって行なわれています。

アベノミクスはその特異性や新奇性で注目されてきました。それは当然ですが、同時に「冷たく弱い経済」の貫徹という点では従来型の延長線上にあり、そこに手をつけない奇策であるが故に、漫然と日本経済の没落に帰結したと言えます。それは、タカ派の露骨な新自由主義構造改革の貫徹が政治的に困難であることに着目した、麻薬注入型の弥縫策という側面があります。それは「責任ある立場」を自覚する支配層の構造改革タカ派からの批判を招きながらも、「冷たく弱い経済」に帰結する新自由主義構造改革の基本線は維持しました。メディア支配(イデオロギー支配)の下で、衆院解散権の恣意的行使など様々な術策を駆使して、長期政権が実現される中で、その経済政策は、円安・株高を演出する一方、不安定雇用拡大や社会保障削減などを遂行し、実体経済の弱体化を招きました。それで今、支配層から日本経済ダメ論が喧伝されています。それは「優しく強い経済」路線への先制攻撃として、労働者・人民へのイデオロギー教化の意味を持ち、没落した日本経済を立て直すべく危機感を煽り、社会保障等に頼らず、諸個人が自己責任で頑張る覚悟を迫るものでしょう。それに対抗するには、軍縮と所得再分配・社会保障充実を先行させつつ、デジタル化などの先端技術産業の振興とともに、農林水産業の自給率向上、再生可能エネルギーを含む地域内循環型経済の再構築を進めることで、グローバリゼーションに従属ではなく対応できる国民経済を構築することが求められています。

 せっかく関野論文が具体的な現状分析を示しているのに、勝手に大雑把な話で失礼しました。次の問題は経済理論です。先日、谷野勝明氏の『蓄積論体系と恐慌論』(八朔社、2023年)を購入し、不破哲三氏の恐慌論などへの批判に当たる第1215章を読みました。不破氏の膨大な著作が啓蒙的で明快であるのに対して、谷野氏の方は稠密で難解です。真実を捉えた上でわかりやすく叙述するのはすばらしいのですが、誤った思い込みをわかりやすく提供するのは罪深いことです。それに対してわかりやすく批判できるなら上々ですが、それはなかなか難しい。谷野氏の論文は何度も読まないと理解には至らないでしょうが、その周到な論証過程を捉えることは苦労しがいがあるというものです。

 論点は多岐にわたり、それぞれに付いて幾重もの考察が重ねられる展開ですので、読むには忍耐力が要ります。そこでまずはざっと再読程度で、大まかに気づいた点を以下にいくつかだけ述べます。他にも批判点は多く提出されていますが、これだけでも核心的部分を衝いています。

 まず「流通過程の短縮」概念そのものに周到な検討が重ねられます。不破氏が強調する「流通過程の短縮」は、商業資本の介在によって、最終消費者に販売されるより前に産業資本にとって商品価値が実現することを指します。しかし本来それは、価値増殖の制限である流通期間そのものをなくそうとする資本の衝動一般を指すものであり、商業資本の介在だけにはとどまらないと指摘されます。――「『流通過程の短縮』は、価値増殖に対して『否定的に』規定する『制限』を突破するものとして『必然的に』生じてくる資本の内的『傾向』として把握されねばならないのである」(480ページ)。

 さらにそうした一面的把握と関連して、不破氏には「産業資本相互の『直接的な』『商品売買』の把握と、商業資本による売買が全てではないことの認識」(484ページ)が欠けています。これは恐慌の考察に際して、生産手段としての固定資本の問題の軽視につながります。

 商業資本の介在によって、架空の需要が累積される、あるいは架空の需要の累積がもっぱら商業資本の介在を原因とする、ということも簡単には言えません。「資本制生産がもともと大規模な見込生産なのである。こうした投資行動に関しては産業資本と商業資本とは共通している。(不破)氏が問題とするような商人の行動様式はその反映であり、それによって『不均衡』が発生しているということではない」(485ページ)し、「生産諸部門にわたる需給動向や消費動向の把握も商人の方が産業資本家たちよりも確かであろう」(486ページ)。また商業資本にとっても、商品を最終的に消費者に販売し、資本を環流させることで新たな操作ができるのだから、この販売がされる以前に産業資本家が商業資本家に販売するのは困難です。したがって、「『商人資本の介入』だけで再生産過程の『独立化』が『どんどん進行してゆ』くことは不可能なのである」(487ページ)ということになります。

次いで、不破氏が「恐慌の一層発展した可能性」を捉え損なっている点が批判されます。「『恐慌の一層発展した可能性』として、生産『諸部門間』の『均衡条件』・生産『諸部門間』の比例性の問題が指摘されてはいるが、それも、市場メカニズムの過大評価によって、結局は排除されざるをえないのである」(442ページ)。あるいは「『恐慌の一層発展した可能性』としての固定資本の償却基金や蓄積基金の積立と投下の均衡の問題を軽視や無視したりした」(499ページ)ということもあります。

 不破氏の場合、「不均衡」は、「『流通過程の短縮』という運動形態」によって問題となり、「再生産過程」の「実体的な関係」の下では問題にならない、という把握(406ページ)ですが、「『不均衡』は、先ず『再生産過程』の『実在的な関係』の下で解明されなければならないので」す(407ページ)。そこで、谷野氏の著書の「むすびにかえて」はこう締めくくられます。

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 しかし、「恐慌の一層発展した可能性」の把握が全く不十分であったので、そうした方向には進められず、そのために、「不均衡」「累積」の「仕組み」として「商人資本の介在」に決定的な役割を担わせる他に途がなくなってしまった。その「恐慌の一層発展した可能性」の内容を乏しくさせた根本的要因は、総再生産過程論での「不均衡」は市場における価格メカニズムで解明されるとの氏の理解にあったのだから、この点こそが氏の恐慌論の最奥の秘密なのである。それに気づかずに、「新しい恐慌論」と錯覚して、出版や宣伝を繰り返し、果ては『資本論』の翻訳の凡例や訳注にまで入れてしまった所に、問題の深刻さがある。           548ページ

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 ちなみにきわめて大ざっぱな言い方をすれば、恐慌論の主要な対立点の一つとして商品過剰論と資本過剰論とを上げることができます。もちろん恐慌では商品も資本も過剰になるのであり、理論は両者を統一的に捉えねばなりませんが、諸論の中では力点の違いは自ずと出てきます。日本において両論の双璧をなすのは、山田盛太郎『再生産過程表式分析序論』と宇野弘蔵『恐慌論』でしょう。前者では、生産と消費の矛盾を恐慌の究極の根拠とし、再生産表式を重視した研究が展開されたのに対して、後者では恐慌論から再生産表式を追放し、労賃騰貴による「資本の絶対的過剰生産」を中心とした研究が展開されました。 宇野理論が恐慌論から再生産表式を追放するのは、再生産の不均衡は価格メカニズムによって調整される、とするからです。これを指して高須賀義博氏は宇野理論を「マルクス経済学における新古典派」と呼びました。

 不破氏の場合も、価格メカニズムの過大視によって、「恐慌の一層発展した可能性」を再生産過程の実体的な関係において捉えられず、不均衡累積の仕組みとして商業資本の介在に決定的な役割を担わせることになったのです。宇野理論とは正反対の極論として、『資本論』第2部第3篇、つまり再生産表式論の最後に恐慌論の総括がなされるはずであった、とまで不破氏は主張しますが、そこにはある意味で宇野理論と似た新古典派的性格があると言えます。『資本論』=拡張された「資本一般」論次元において、恐慌の本質が解明され、その具体的現れが「競争=産業循環」論次元で展開される、という重層的理論構成が必要です。それによって、価格メカニズムを相対化し位置づけつつ、再生産過程の不均衡の展開を解明する「恐慌=産業循環」論の体系が形成されうると私は考えます。

 ところですでに2022年に川上則道氏の著書『本当に、マルクスは書いたのか、エンゲルスは見落としたのか ――不破哲三氏の論考「再生産と恐慌」の批判的検討――』(本の泉社)が刊行され、今回、2020年初出の論文と書き下ろしを含む谷野氏の著書が刊行されたことで、不破説に対する検討は一定の到達点を築き、その誤りは明確になりました。それをキーコンセプトとする新版『資本論』の問題点も具体的に示され、是正すべき点も明らかになりました(谷野氏の著書に指摘がある)。もはや不破説とそれによって改編された新版『資本論』とについて、有力な批判を無視して、これまでのように喧伝し続けることは学問的には不当と思われます。多くの真面目な学習者たち(特に次代を担う青年学生たち)をこれ以上ミスリードすることに心が痛まないのか、と言わざるを得ません。誤った宣伝は即刻中止すべきですが、仮にそれが無理でも、川上氏と谷野氏の著書に対する、しかるべき研究者の書評を、不破説を喧伝してきたメディアが掲載することは、公正な情報を提供するという意味で最低限必要なことです。まさに関係者の学問的良心が問われています。

 

 

          断層メモ

1

 日本共産党国会議員団事務局の村高芳樹氏の「インボイスで1000万者が廃業・倒産の危機? 消費税がもたらす『デス・ゲーム』は消費税とインボイスの原理をわかりやすく解明し、その運用実態を暴露しており非常に秀逸です。

 付加価値税の考え方として、多段階の転嫁と控除によって二重課税を防ぐ仕組みがあります。それによって国税庁パンフレットの言う「消費者が負担し、事業者が納付します」(64ページ)ということになっているはずですが、消費税法には納税義務者は(消費者ではなく)事業者であると書いてあるだけです。税率に沿った消費税額を転嫁できる保証はなく、「消費税込みの価格で市場競争に晒され、取引金額が確定するだけのこと」で「取引価格の一部が消費税というのが法律上の仕組みであ」り(同前)、「よって、税法上では『益税』など発生しない」(65ページ)のです。付加価値税の経済原理はあるにしても実際にはタテマエに過ぎず、税法の方が市場経済の実態に即しているというのは皮肉な現実です。そこにわかりにくさがあり、いろいろ読んでもすっきりしないのですが、本稿は大変に明快です。

 インボイスでフリーランスが大問題になっています。本稿では、労働法上の労働者の権利と税法上の生計費非課税原則という二重の問題側面(いずれも原点は憲法)から併せて迫っています。そうしたフリーランスの危機の対極にある電力会社等への救済措置を暴露していることはあまり目にしない問題であり重要です。何につけても、複雑な制度で煙幕を張られて、弱きをくじき、強きを助ける階級社会の実態が隠されているのですが、本質を探り出すことが大切です。メディアの言う、人々をごまかすための「丁寧な説明」を超える真実暴露が求められます。

 

2

 「朝日」56日付、竹内幹氏の「(経済季評)AIが自動化してゆく未来 人にしかできない選択とは」には以下のようにあります。

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 そもそも、すべての仕事がロボットなどの機械やAIで自動化されれば、私たちは労働から解放された桃源郷にいるはずだ。しかし、生産物や富が「必要に応じて分配」される理想社会は到来しないだろう。自動化が進んでも、生産物や富の大半は各人の貢献に応じ、労働市場を通じて分配されるはずだ。すると、自動化されてしまう業務に従事する人は、貢献が小さいので分配も十分に受けられない。自動化の進展は、必然的に所得格差をさらに拡大する。

  …中略…

 AIには不可能で、私たちにしかできないことは何か。それは「責任を取る」ことかもしれない。これは、失敗や不祥事について謝罪することではない。結果を自分ごととして引き受けることだ。その意味で、責任を取れるのは、不確実性があるときに、リスクをとって自発的に意思決定した人だけだ。

…中略…

 責任をもって意思決定するには、強い自己決定力と責任感の基盤が必要だ。それは、命令や「空気」に従う画一的な集団主義のなかでは培われない。未来を担う意思の強い個人を育てるためにも、急いで変えるべきことはまだたくさんある。

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 これは「丁寧な説明」による自己責任論ではないか。問題は個人ではなく、社会のあり方だろう。人間に対して利潤追求第一の資本が技術支配する社会から、資本の支配を脱して人間が技術を使いこなす社会へ変革しない限り新たな賃金奴隷制が続くだけだろう。もっとも、こういう抽象的な文句だけでは対抗できないけれども、ここに考え方の出発点を置くべきだと思う。
                               2023年5月30日



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