これは月刊『経済』の感想から抜粋して編集しました |
日本の労働生産性の見方に関するメモ集
「『経済』2007年7月号の感想」(2007.6.20)より
「朝日」5月23日付の「労働生産性 日本なぜ低い」という記事は見逃せません。社会経済生産性本部の「2006年版労働生産性の国際比較」によれば、2004年において日本はOECD加盟30カ国の19位で、主要先進7カ国では11年連続で最下位。1時間当たりの生産性も19位です。感覚的にはまったく信じられない結果で、考えもまとまりそうもないので、誰かきちんと分析してくれないか、という気持ちで、思いついたことを以下ランダムに並べてみます。
ここでの労働生産性の定義は「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出する」とあります。また購買力平価に換算して比較します。細かいことをいえば、付加価値の総額(V+M)は国民所得であって、GDPではありません。しかしこれはおそらく減価償却費の会計上の扱いの複雑さからくる統計上の困難を避けるために、通常GDPを国民所得の代替的指標として利用しているのでしょうから、仕方ありません。またこの定義でも「1時間当たり」でも日本は19位ということは、日本の労働生産性の国際比較においては、労働者一人当りでも1時間当たりでも近似的に扱うことができるということです。
ところで根本的な問題をいえば、この定義は要するに付加価値生産性です。「これはあくまでも貨幣単位によって示されるので、物的な生産性ではない。単位労働時間当りの所得を示すから、不等価交換の尺度としての意味をもつ。しかし、資本家的な立場からはこれが生産性として理解される」(『大月経済学辞典』、松田和久氏による「労働生産性の測定」から)。価値量と使用価値量を俊別し、本来の労働生産性とは単位労働時間当たりの使用価値の生産量であるとすれば、同じ使用価値については労働生産性の国際比較が可能ですが、様々な使用価値を含む国民経済全体どうしでのその国際比較は不可能だといわねばなりません。
しかしこれは身も蓋もない批判で、せっかくの統計だからそこから読み取れるものがあるかもしれないし、この記事が提起している問題について考えるべき点があるかもしれません。この統計が俄然注目されたのは、日本のホワイトカラーの生産性が低いことを示す根拠としてであり、それをもってホワイトカラー・エグゼンプション(WE)導入の論拠とされたためです。ただこの記事を見る限りでは日本の「労働生産性」(厳密には付加価値生産性であり資本家的観点による労働生産性だが、以下では「労働生産性」と表記する)全体が低いことは分かりますが、ホワイトカラーのそれが国際比較において低いかどうかは分かりません。関連した指標として参照しうるのは、社会経済生産性本部の2004年についての試算です。全産業の平均を100とした場合の日本の産業別「労働生産性」は以下のようになります。
農林水産業:31 製造業:116 電気ガス:355 建設業:69
飲食卸小売業: 76 運輸通信:117 不動産金融:428 サービス業:78
国内比較とはいえ、ホワイトカラーの「生産性」は低いどころか圧倒的に高いのです。ブルーカラーの多い製造業が116であるのに、ホワイトカラーばかりの不動産金融は428です。しかしそれを見て思うのは、やはり付加価値生産性をもって労働者の働き方の善し悪しを云々することの荒唐無稽さです。この数字から、たとえば銀行員は農民の13.8倍、工員の3.7倍もよく働くなどと言えますか?いくら何でも同じ日本人どうし、働く人々の間で産業によってそれほどの能力の差があるはずがありません。つまり大変な不等労働量交換があるのですが、その根拠を考えるのは重要な課題です。いずれにせよ「労働生産性」はホワイトカラー・エグゼンプションの導入根拠ではありえないことは明白です。
ここで思いついたのが、では一人当たりGDPの国際比較はどうなっているのか、ということです。上の「労働生産性」にそろえて購買力平価で比較します。「国民経済計算」によると2004年で日本はOECD加盟30カ国中16位です。「労働生産性」をどうこう言う前にすでにこの低位です。どうやら社会経済生産性本部のこの統計は、GDPを人口で割った「一人当たりGDP」に対して、GDPを就業者数で割って「労働生産性」と規定しただけのようです(違っていたらすみません)。一人当たりGDPにおいては、日本は米ドル単位で29567で、イタリア(27312)、ドイツ(28605)、フランス(29554)をわずかに上回っています。ところが「労働生産性」では、日本(59651)は、フランス(74626)、イタリア(73680)、ドイツ(65824)に大きく水をあけられています。おそらく日本は全人口の中での就業者の割合が多いということでしょう。それで一人当たりGDPで16位であるのに対して、「労働生産性」ではさらに19位に落ちています。
為替レートで比較すれば日本の順位は上がるでしょうが、購買力平価の方が、使用価値量を基準とした本来の労働生産性に近いので問題はより深刻だといえます。先に国民経済全体における本来の労働生産性は国際比較不可能だといいましたが、購買力平価を使って修正した付加価値生産性は本来の労働生産性にやや近づいたものだから、本来は不可能な国際比較の代替的指標として使用することがある程度できるのかもしれません。そうするとやはり世界に冠たる「カローシ」大国の「労働生産性」が低いというパラドックスは生き返ってくるのであり、結局初めの疑問はそのままです。このパラドックスが正しいとすれば、日本が世界第二の経済大国たる所以は、第一に労働力人口が多いためであり、第二には、購買力平価に比べて円高の為替レートによってGDPが過大評価されているためだ、ということになります。為替レートが円高なのは、一部の異常な生産性=競争力をもった貿易財が稼ぎ出す貿易黒字が主な原因であり、国民経済全体では生産性はたいしたことない、ということになりそうです。どのような産業や企業にあっても長時間かつ過密な労働をいとわない労働力による高い生産性が経済大国を支えているという「実感」は錯覚なのでしょうか。日本人はみんなで骨折り損のくたびれ儲けをしているのだろうか。こういうばかばかしいことではなく、人間らしく働いて生産性が高いというパラドックスがあるのならそうしたいところです。天皇制には反対でも愛国者の端くれのつもりなので、考えこみます。
「朝日」の当該記事では設備投資とサービス業の問題が指摘されています。まず設備投資については、情報通信技術への投資の伸び率が日本は欧米に比べて低いので「労働生産性」が上がらないのではないか、といいます。設備投資によって本来の労働生産性が上がり生産される使用価値量が増大すれば、使用価値1単位あたりの価値は下がり(使用価値量全体での価値の総量は不変)ますが、価格が不変かそれに見合うほど下がらなければ、特別利潤が生じます。通常、市場競争によってやがては価格が下がり特別利潤は消えますが、何らかの要因でそうならなければ、特別利潤が固定化し付加価値の格差が生じ、「労働生産性」の差として認識されます。貿易財以外では国際競争の影響が及びにくいので、こういうことが起こり、異なった国民経済の間で、設備投資の差による「労働生産性」の差が生じるかもしれません。
サービス業について記事は興味深い指摘を紹介しています。「日本は無料で質の高いサービスが得られるサービス天国。不親切な社会になればサービスにお金を払う人が増え、生産性は上がるかもしれないが、それがいい社会かどうかは別問題。生産性の数字だけを目標に掲げるのではなく、サービスの質の向上と両面で考えるべきだ」(明治大学大学院の近藤隆雄教授)。ここには価値と使用価値との関係があり、市場が使用価値のどの部分までを価値として包含するか、という問題があります。実際には同じ状況にあっても(たとえば同じサービスをしても)国によってその経済的意味が異なってくるということです。この場合、本来の労働生産性は同じでも「労働生産性」つまり付加価値生産性は違ってきます。なお本来はサービス労働などにかかわる生産的労働論の問題がありますが、ここでは措きます。
設備投資の問題でもサービス業の問題でも付加価値生産性の問題点を考慮することが必要です。
以上、統計の読み方はまったく大ざっぱであり、価値論上の勘違いもあるかもしれませんが、取り急ぎ拙速を省みず問題提起として書いてみました。妄言多罪。
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「『経済』2009年10月号の感想」(2009.9.20)より
投下労働と価値との乖離という視点を持って国際比較を見ると興味深い問題点があります。2007年5月23日付の「朝日」記事によれば、日本の労働生産性は主要先進国の中で最低になっています(詳しくは拙文「『経済』2007年7月号の感想」参照)。労働生産性とはいっても単位労働時間あたりに生産される使用価値量ではなく「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出」(同記事)したものであり、実際には付加価値生産性です。日本はOECD加盟30ヶ国中19位で、主要先進7ヶ国では11年連続最下位です(同記事)。サービス業の生産性の低さが目立つのですが、これに対しては「日本では、接客がいいのは当然とされ、金を払う文化がない。このため、サービスの質の高さはGDPに反映されにくく、生産性の数字も上がらない」(同記事)という解説がつけられています。「サービス労働が価値を生産するか否か」という論点は捨象して、統計と同じ立場(「生産する」)を前提するならば、日本のサービス業では投下労働と価値生産との乖離が生じています(「生産しない」立場なら、投下労働に見合った価値の分配がない、ということになる)。ここから類推すると、日本がヨーロッパより生産性が低いとされるのは投下労働と価値との乖離が大きいからではないでしょうか。つまりヨーロッパは投下労働が比較的に価値実現する市場をもっており、日本の市場では投下労働が比較的に価値実現しにくい、と考えられます。ヨーロッパの市場のイメージは以下のようなものです。
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こうした本質的機能追及型の産業・企業は、個性的で創造力・想像力のある人材と技能・熟練および地域固有の資源を大切にする。また地域密着型経営スタイルを基本としているので、多様なタイプ・条件・能力の人間が定住できる雇用と所得を地域に提供することができる。その結果、地場産業・農林漁業・商店街を大切にするドイツやイタリアの都市を見ればわかるように、安定した個性的なコミュニティが形成されやすい。また、オリジナリティを持った柔軟な企業間ネットワークが形成されるので、地域内での仕事や原材料のやり取りが活発化し、地域内での経済循環と再投資力あるいは「地産・地商・地消」型の経済基盤が強化され、地域経済の自立性・自律性が向上する。
吉田敬一「内需型産業をどう展望するか」 59-60ページ
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このように自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済が内需循環型であれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じるのではないでしょうか。
外需依存で国際競争力至上主義の日本の「労働生産性」が低いというのは、とんでもない逆説に見えますが、それは字面にとらわれているためです。比較されているのは「労働生産性」とはいっても実は付加価値生産性だということに注意すべきです。輸出大企業が労働者と下請企業を搾取・収奪して低価値の製品を大量に生産する(=労働生産性が上がり競争力が強化される)ことが主柱になった国民経済では、生活が縮小し国内での付加価値(価値生産物、V+M)が伸びずに、投下労働の結晶の多くの部分が安く海外に流出することになります。強い国際競争力は、高い生産性のもたらす商品の低価値に大きく依存しており、したがって付加価値生産性が低いこととは両立しうるといえます。
ただしここでさらに考えなければならないのは、統計上、日本において、製造業のような国際競争にさらされる産業の付加価値生産性は高く、サービス業のような内需型産業のそれは低くなっていることです。これは一見、やはり国際競争によって「労働生産性」が高くなり、国際競争にさらされない産業はそれが低くなるという通念を支持し、国際競争の影響で付加価値生産性が下がるという上記の私見は正しくないように見えます。確かに国際競争に鍛えられて輸出産業の付加価値生産性が上がるのは事実でしょう。個別商品の価値低下を上回る販売量を確保して全体としての付加価値量を増大してきたのが「集中豪雨的輸出」をもって知られる日本の大企業の姿ですから。しかし国民経済全体がこの輸出大企業を支える形で編成された日本では、何度も述べてきたように「悪魔のサイクル」で内需が不振となり、自立(律)的な地域経済が育っていない中で、内需型産業といえども、グローバリゼーション下、多国籍企業の戦略の影響をもろに受けてしまいます。
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アジアへの生産移転が国内製造業に対して与える影響は、輸出向けの仕事の海外移転に留まらず、完成品の逆輸入や部品の海外調達という形で内需向けの生産基盤をも掘り崩す方向に作用している。不況下で注目を集めているユニクロ・ブランドのファーストリテイリングの経営戦略(企画・デザインは日本で、生産は中国で行い、低価格商品を日本へ逆輸入する)は、その代表例である。 同前 56ページ
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つまり輸出大企業や多国籍企業自身が単位商品の低価値を実現量で取り戻して付加価値を確保しても、低価値を支える国内産業はそうはいかず、日本全体の付加価値生産性は低くなるということです。
資本主義経済の主役は資本であり、今日では貨幣資本が特に注目され、経済とはカネだという通念が支配的です。しかし本来経済とは人々がみんなで働いて社会全体を支え合うことです。その原点から出発して眼前の経済の歪みを分析し正すことが必要です。グローバリゼーションの時代、投機マネーが飛び交う下でも、内需循環型の地域経済(およびそれを基礎とした国民経済)を構想し実践することはこの原点にたいへん具体的に近づくことだと思います。以上の拙文は現状分析への接近としてははなはだ抽象的なものに留まり、唐突に価値論に触れましたが、転倒した資本主義経済を前に正気を維持するには労働価値論が不可欠なものだと考えている次第です。
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「『経済』2010年2月号の感想」(2010.1.31)より
日本の労働生産性は低いか
「しんぶん赤旗」1月4・5日付に作曲家の池辺晋一郎さんとピアニストの仲道郁代さんの対談「生誕200年 ショパンは美し」が載っていて、実に楽しく興味深い内容です。ご両人はショパンを多角的に分析していて、たとえば音楽的にはベートーヴェンやシューマンなどとの対比が行なわれているし、社会的にはポーランドへの思いとサロン生活とのジレンマが指摘され、同時代の最先端の様々な芸術家たちとの交流にも言及されています。そこから浮かび上がってくるのは、クラシック音楽を通して見た大陸ヨーロッパの熱い歴史、そして豊饒で成熟した文化の香りです。さらにそれを支える経済社会のあり方に思いを馳せたくなります。
その前、元日の「赤旗」にはやはりピアニストの小川典子さんと志位和夫日本共産党委員長との「新春連談」があります。志位委員長がピアノについて蘊蓄を傾けているのも楽しいのですが、印象に残ったのは小川さんが語る日本人の働き方の話です。
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私は職業柄、いろいろな国に行くし、外国に住んだ経験も長いわけですけれど、一番感じるのは日本人ほど一生懸命働く、働こうという気持ちのある人たちは、ほんとうにみたことがないんです。この哲学はまれにみるというか、ほかに例がないといってもいいと思うんです。国民一人ひとりが、机に向かって、あるいは道路や鉄道の整備で働いてこれだけのことをやったということで、この国を動かしているということをもっと自覚した方がいいと思います。外国の人々は日本人ほど勤勉ではないし、不便も多いんです。日本では、すごく欧米志向が強いけれど、いろいろな人が夜遅くまで働いて、日本はここまで立派になったということをいってほしいと思います。
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日本では確かに「至れり尽せり」の働き方だから、利用者や消費者としたらこんなに便利な社会はないでしょうけれども、働く方は本当に一生懸命で大変です。そうじゃないかと常々思っていたことを実際に世界中を飛び回っている人が言ってくれて、我が意を得たりです。
これに対して志位氏が、勤勉はいいけど、それをいいことに「働かせ過ぎ」なのは良くない、として自由時間と人間発達の意義を強調しています。
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私たちは、社会主義・共産主義の社会をめざしていますが、私たちのめざす未来社会の一番大事な点は、労働時間を短くして、すべての人間が全面的に発達することができる自由な時間を豊かにすることだと考えているんです。自由な時間で、すべての人が音楽や美術や文学や科学やスポーツや、それぞれの潜在的能力を全面的に発展できるような社会が理想なんです。
人間はいろいろな才能をもっています。小川さんは特別に音楽の才能をもっていらっしゃるけれど、そういう人は実はもっとたくさんいるはずでしょう。
いまとりくんでいる労働時間短縮の運動は、その第一歩としてとても大切です。夕食は家族だんらんでゆっくり食べる。バカンスを何週間という単位でゆっくりとる。そういうなかで、人々がもっている力を、いろいろな形で発揮できるような社会をめざしていきたい。
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このようにマルクスの未来社会論の助けを借りれば、資本主義社会の中で短く切り縮められた人間観から脱して、本来の人間発達の大きな可能性とその人々が形成する真に豊饒な社会を想像することができます。それはもちろん空想ではなくて、資本主義社会の中で陶冶されその変革に立ち上がっている人間像の中にその萌芽を見ることができます。科学的な未来展望があれば、現状への批判力が強くなります。
ヨーロッパでは労働運動などの伝統により、相対的には働く者にとって人間的な経済社会となっています。日本社会は、一方に過労死、他方に失業という、労働時間の決定的なアンバランスを抱えていますが、今それを変革する闘いに労働者が立ち上がっています。こうしてルールある経済社会をつくることが目指されています。小川さんは「私たちがもっている勤勉さを保ちながら、それをやったらかなりいい線いくと思いますよ。(笑い)」と言い、志位氏が「いい線いきますよ(笑い)。勤勉さはいいことですから。日本人は勤勉なわけですから、もっと短い労働時間でも、社会の仕組みをかえたら、ずっと豊かな社会になるはずなんですよ」と受けています。
まったくそのとおりですが、現状は真逆で、勤勉さが逆用され、人間発達どころか、人間の貧困化・切り縮めに帰結しています。国際競争力至上主義で人件費を初めとしたコスト削減が最優先され、したがって内需不足となり、ますます外需に頼って「競争力」「競争力」の連呼…この「悪魔のサイクル」から日本資本主義は抜け出せません。「デフレスパイラル」に陥っているのは日本だけだ、などと言われます。物価が下がり企業収益が悪化し賃金も下がり需要不足でさらに物価が下がり…。しかしこうなっているのは、通貨の問題ではなく実体経済が疲弊し縮小しているのだから「デフレスパイラル」という用語は間違いです。むしろ日本資本主義の国民経済が陥った現状は「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと私は思います。
小川さんによれば世界一働き者の日本人ですが、統計的には先進諸国の中で最も労働生産性が低いとされます。この大きな逆説の中に日本資本主義の宿痾が表現されているのではないかと今考え初めているところです。この逆説については、拙文「月刊『経済』の感想 2007年7月号」分において問題提起し、同じく「2009年10月号」分で若干の回答らしき試見(私見)を書いておきました(http://www2.odn.ne.jp/~bunka から「店主の雑文」へ)。
もともとは「労働生産性 日本なぜ低い」という「朝日」記事(2007年5月23日付)を読んだのが発端です。この記事が紹介する社会経済生産性本部「2006年版 労働生産性の国際比較」によれば、2004年において日本はOECD加盟30ヵ国の19位で、主要先進7ヵ国では11年連続で最下位、1時間当たりの生産性も19位です。ショッキングな内容ですが、まず問題は労働生産性の定義です。ここに重要な問題点があります。それは「各国が生み出した付加価値の総額である国内総生産(GDP)を全就業者数で割って算出」します。それを購買力平価に換算して比較します。本来の労働生産性は、単位労働時間当たりに生産される使用価値量によって計られます。しかしこれでは、たとえば鉄鋼の生産性の国際比較は可能ですが、異なった使用価値どうしでは比較ができないので、各国の国民経済全体どうしの労働生産性の比較はできません。そこで上記の定義で国際比較をしますが、そうするとこれは労働生産性そのものの比較ではなく、正確には付加価値生産性の比較となります。使用価値量によって計られる労働生産性は、生産過程そのものの効率を表現しますが、就業者一人当りあるいは1時間あたりの付加価値生産性は価値実現を前提するものであり、生産過程のみならず流通過程をも含みます。したがって本来は付加価値生産性であるものを労働生産性と称して、各国国民経済の労働生産性を論じると、価値実現過程の問題を含んだものをも生産過程の問題だけに押し込んでしまうというミスリードが生じます。事実、この国際比較を利用して日本の資本側は労働者の働き方に対して非効率的だという攻撃を加えています。
問題は生産過程の内部ではなく、価値実現過程にあるのではないか、と私は考えます。このことは、日本資本主義が今次世界恐慌において他国よりも落ち込みがひどく、外需依存から内需主導型への転換が課題とされている事情と大いに関係があります。この課題については『前衛』2010年2月号の座談会「中小企業の発展こそ日本経済再生の力」で縦横に論じられており、全体を熟読したいものですが、さしあたっては参加者の一人、吉田敬一氏の議論を参考に拙文の当面のテーマに言及したいと思います。
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日本の製造業はあまりにも機械系三業種に特化した構造になっていて、ここが日本の輸出の主力を形成してきました。しかも売り先が主にアメリカだったということは、二重の意味で奇形的でした。だからアメリカという主力マーケットが経済危機に直面して、非常に大きなダメージを受けたのです。 130ページ
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機械系三業種とは一般機械、輸送機械、電機機械です。吉田氏はこの前に「日本に外国の製造業が入ってこないのは、日本の製造業の競争力が強すぎるからです」(129ページ)と述べています。「競争力が強い」ことと「労働生産性が低い」こととは本来は矛盾するはずですが、これは上記のように言葉の錯覚であって、「競争力が強い」ことと「付加価値生産性が低い」ことが両立しているのです。
井内尚樹氏は日本とヨーロッパを比較して興味深い指摘をしています。日本ではコストダウンと品質アップを両立させることを追求しますが、ヨーロッパでは労働者の削減につながるコストダウンを避け「品質を向上させれば価格はあがるもの」だと考えている、というのです(「井内直樹の腕まくり指南」第103回、「愛知商工新聞」2009年10月12日付所収)。吉田氏のいう「二重の意味で奇形的な」外需依存構造は広範な産業連関を通して国民経済全体を規定しているわけですが、その競争力を支えるのはコストダウンによる低価格(低付加価値)でしょう。輸出大企業や多国籍企業自身が単位商品の低価格を実現量で取り戻して(それは低価格のもたらす競争力による世界市場支配で可能となる)、付加価値量を確保しても、この低価格を支える国内産業は(狭い国内市場にぶつかって)そうはいかず、日本全体の付加価値生産性は低くなるということではないでしょうか。
昨今は低価格化ブームとなっていますが、ユニクロの1000円を切ったジーンズと250円弁当とは区別すべきだ、と井内氏は言います。前者は「企業が低価格化戦略を採用し、中国での低賃金を大いに活用したということ」であり、後者は「この戦略に翻弄され、闇雲に追随した企業が『低価格』に向けて消耗戦を繰り返しているのです」(同前第106回、同新聞2010年1月4日付所収)。一応前者は価値通りの価格だけれども、後者は価値を下回る価格で再生産が困難となります。日本資本主義が落ち込んでいる「コスト競争の悪魔のサイクル」はこの両者によって形成されているのであり、この中で一部の前者は拡大できるけれども、消耗戦に落ち込んだ多数の後者は没落していきます。こうして国民経済全体としては低付加価値にあえぎ、社会経済生産性本部がいうところの低労働生産性(実は低付加価値生産性)に帰結することになります。膨大な投下労働の一部は価値実現されずに「サービス残業」状態となります。これはいわばグローバル市場に向けた国民経済全体のダンピングであり、一種の飢餓輸出体制であり、「タダ働き・価値流出型縮小再生産」経済と呼ぶべきではないかと思うのです。すでに対米輸出の黒字累積とドル下落傾向とから日本経済の「タダ働き・価値流出」は広く認識されていますが、この関係にとどまらず、「コスト競争の悪魔のサイクル」体質そのものにそれは潜んでいると考えられます。資本と賃労働との階級対立の中で労働分配率が低い(搾取率が高い)ことが問題ですが、労働分配率の分母である付加価値量そのものが対外流出し国内でもそれに合わせて低いことがもう一つの苦しみの元凶となっているようです。小川典子さんが感心する世界一勤勉な日本人の投下労働はこのように報われないのです。
それでは日本とヨーロッパとの価値実現力の差はどこにあるのでしょうか。先の『前衛』座談会で吉田氏はこう指摘します。
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ヨーロッパでは、五○○人、一○○○人という小さな町や村でも、きちんとコミュニティが形成されています。そのカギは「食」と「住」です。これが地産地消で循環していれば、そこそこの雇用と所得は確保できます。 136ページ
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このように自立(律)的な地域経済が形成する内需循環型市場においては、グローバル競争にさらされる以前に投下労働が価値実現することができます。自立(律)的な地域経済を持たずに初めからグローバル競争に吹きさらされる日本では投下労働のダンピングが起こりやすくなります。つまり国民経済が内需循環型であれば、投下労働が価値実現されやすく、外需依存型であれば価値実現が難しく投下労働との乖離が生じるのではないでしょうか。
クラシック音楽は大陸ヨーロッパの文化的成熟を象徴するものだと思いますが、それを生み出した彼の地のこのような経済社会のあり方に学ぶことが大切です。固有の国民文化と地域文化を保存しうる生活基盤は内需循環型の地域経済・国民経済に求められます。伝統が尊重されその上に新たなものが重なっていくあり方です。日本では対米従属下で資本の論理が過剰貫徹し、伝統文化や生活様式の破壊の上に新たなものが作られてきました。
しかしもともと日本がヨーロッパに劣っているわけではありません。さだまさしさんの名曲「案山子」(かかし)は、都会にひとり出て行った若者を気づかう故郷の家族の気持ちを見事に歌い上げています。この歌は、日本資本主義の原始的蓄積期以来続いてきた農村から都市への労働力流出にまつわる心情・風景を詩情豊かに描いたといえます。それだけでなく、日本資本主義そのものが世界経済の大海に雄飛して米国に次ぐ経済大国になりながら、今や深く傷ついてしまった現状に符合するように私には思えます。手紙も書かず電話もしないでまるで故郷を喪失したように脇目も振らず世界を相手にがんばってきたのに行き詰まってしまった。「案山子」は呼びかけているのではないか。実はこの苦境からの脱出は、故郷を見直し、そこに宝を見い出すことから始まるのだろう、と。つまり農林水産業を復興しそれと連携した商工業を発展させて地域経済を充実させることで、その総体としての国民経済が豊かな可能性を発揮していくのではないか、と。日本には美しい自然と優れた伝統文化・生活様式があり、別にそれを特に世界に誇る必要はないけれども、少なくとも、それを破壊することで人間的生活と独自の国民経済をスポイルしてきたこれまでの道を反省して新たな発展を目指すことは可能でしょう。
内需主導は今や立場を超えたスローガンとなっています。しかしそれを大資本の剰余価値追求の手段にしてしまうのか、人民の生活と労働を改善し、人間発達を促す方向に向けるのかが問われます。吉田敬一氏はこう指摘します。
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内需振興に力を入れるのは当然ですが、内需進行のためには地域産業振興と雇用拡大という観点も必要です。そうしないと、結局、多国籍型・逆輸入型の企業が発展するだけです。これでは再び亡国への道です。
公共事業でも、再生可能エネルギーの活用でも、うまくやればそれぞれの地域の仕事になるけれども、下手をすると大企業だけがもうかるということになります。「外需主導から内需主導へ」という大きな方向は正しいけれど、何を目的にするのかが大事だと思います。
地域産業が新たに発展することによって地域内の経済循環力(仕事とお金が地域内で循環する仕組み)を高める、その結果として雇用を安定させるという大目標に向かって、内需を拡大していくということが必要です。 前掲座談会 155ページ
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まさにこの「地域内の経済循環力(仕事とお金が地域内で循環する仕組み)」こそが、投下労働を正しく実現し、タダ働きを防いで、人間発達と国民経済の真の充実を実現するカギなのです。
以上の議論は感覚的思いつきの域を脱しておらず(それ以前に大きな勘違いかもしれないけれども)、しかも統計的検証が欠けているので、本当はもっと理論的・実証的にしたいのですが、他日を期します(できるか?)。他にもあれこれの問題で思いつきはありますが、勉強量と能力の圧倒的不足を感じ、まとめるには至りません。困ったことですが、これも理論的ハングリー精神と考え、できの悪い試見(私見)であっても適当に表出することで、かっこ悪さをバネに前進しようとするしかないか、と思っております。
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「『経済』2010年4月号の感想」(2010.3.28)より
『前衛』4月号から最後に、山家悠紀夫氏と大門実紀史氏との対談「日本経済の健全な発展への道 『構造改革』から『ルールある経済社会』への転換」を取り上げます。
強い国際競争力と停滞する経済成長との共存という日本資本主義の矛盾を解く一つの鍵は、生産性と競争力との関係を反省してみることです。大門氏のいう生産性は物的労働生産性ですが、資本家的経営の観点からすれば、労働コストに対する生産量の割合が「労働生産性」と捉えられます。したがって「不安定雇用や賃金切り下げ」もその生産性を上げる重要な要素です。さらに大企業は下請企業への買いたたきなども加えて強力にコスト削減することで、商品単価抑制=価格競争力強化を実現します。この競争力で世界市場を制圧すれば、低い単価を販売量で補って余りあります。しかしその裏では労働者と下請企業は低所得にあえぎます。国際競争力のある一握りの大企業が世界市場で高利潤を実現しても、それを産業連関の頂点とする裾野では労働者が低賃金に、中小企業が経営難にあえいで内需が縮小すれば、そういった資本主義国の国民所得は低迷することになります。こうして強力な国際競争力が経済成長を抑制するという逆説が成立するのではないでしょうか。経済成長が抑制されると、就業者一人当りのGDPも低迷し、事実日本のそれは今やG7でも最低となっています。就業者一人当りのGDPは統計的には「労働生産性」と呼ばれ、したがって日本は主要国中、「労働生産性」が最低だと言われています。長年にわたる貿易収支黒字を抱え、世界有数の外貨を蓄積するほどに国際競争力の強い国の労働生産性が最低だという逆説?! 実はここでいう「労働生産性」とは物的労働生産性とは区別されるべき付加価値生産性です。物的労働生産性が高いだけでなく、労働コストも低いとなれば、強力な価格競争力を持ちますが、それは同時に前記のように国民経済的には低所得に帰結するので付加価値生産性も低くなります。それが「低労働生産性」と呼ばれているのです。こうして強い国際競争力が低い「労働生産性」をもたらすことになります。これは悪循環であり、大門氏の言うように「不安定雇用や賃金切り下げによる競争力の強化」ではなく、「技術革新によって(物的労働)生産性と製品の性能を向上させればいいのです」。これが生活向上と経済成長とを両立させる好循環への道です。
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「『経済』2014年10月号の感想」(2014.9.30)より
日本の生産性は低いか
佐藤修氏の「グローバル経済と雇用劣化 経済『好循環』政策と『働き方』改革」の中で「日本再興戦略改訂2014」から「日本企業の生産性は欧米企業に比して低く、特にサービス業をはじめとする非製造業分野の低生産性は深刻」という記述が紹介されています(48ページ)。これは従来から日本の支配層が労働者階級に対して加えてきた「もっと働け」「ちんたらするな。効率よく働け」という攻撃に他なりません。働き過ぎの日本労働者が反論しないでどうするのか。
資本家側はどう考えているのか。富山和彦氏(企業再生に取り組む経営共創基盤CEO)へのインタビュー「成長戦略の『勘違い』」(「朝日」9月9日付)は面白いところもあるし、この問題へのヒントも含んでいるのですが、当該部分では、経済学を知らない資本家意識の混乱を示しています。「主要国の中で、特にサービス産業の生産性の低さは歴然です」という富山氏に対して、インタビュアーが「商店にしろ交通機関にしろ、米国より日本のほうがよほどテキパキして生産性が高そうですけど」と当然の疑問を呈しているのを受けて、富山氏は「日本のサービスが過剰なんです。生産性は労働時間あたりの付加価値なので、日本人はサービスに対価を払っていないことになります」と答えています。
富山氏は、生産性とは付加価値生産性なのだと的確に答えていますが、おそらく生産性と言えばそれしかないと思っているのが問題なのです。商品の二面性、使用価値と価値を想起しましょう。本来生産性とは、単位労働時間当たりの使用価値生産量です。インタビュアーが、米国より日本のサービス業の生産性の方が高いと言っているのはこの本来の生産性を無自覚に念頭に置いているのです。しかし富山氏の答えがそれとはすれ違っていることは分かっていません。資本にとっては生産の目的は剰余価値の増殖であり、使用価値は手段に過ぎないのだから、付加価値生産性が問題であり、使用価値量は問題ではありません。
問題は生産された使用価値の実現された商品価格です。一部が過剰であってそれに対しては「サービスに対価を払っていない」ということは、商品価値の一部が実現されていないということです。これではどんなに効率よい生産を行なっても付加価値生産性は低くなります。国際比較で日本の生産性が低いという原因はここにあるのではないか。これが私の仮説です。
徹底的な賃金抑制・人員削減などコストカットで輸出競争力を強めることに注力し、その関連産業を中心にして国民経済が構築されてきた日本資本主義では、そのために内需が不足し内需型産業では十分な価値実現が困難になりました。輸出製品では、たとえ低価格でも世界市場相手に数量で稼ぐことができるので、先端輸出製造業では付加価値生産性は比較的高いのに対して、内需型産業ではそれができないので低くなります。国際比較で日本のサービス産業の生産性の低さが問題になるのはそういうことではないでしょうか。
懐の深い内需循環型の地域経済があれば、そこで十分に価値実現が可能です。ところが何でも国際競争にさらされる環境ではそれができません。これは生活の質の問題です。何でも安物の輸入品で済ませるのか、作り込まれた伝統や文化の香りのする地域の産品を添えるのか。消費生活のあり方の問題を含めて、付加価値生産性の問題は生産過程よりも実現過程にあるのではないか、という気がします。
以上、まあきわめて乱暴な議論で、生産的労働論とか、価値と価格の問題とか、穴だらけですが、とにかく問題を提起し考えるべきだと叫びたいのです。なおこれについては、拙文「『経済』の感想」の「2007年7月号」と「2009年10月号」にあれこれ書いております。
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「『経済』2014年11月号の感想」(2014.10.31)より
日米サービス産業の労働生産性が比較される際のその定義は、<GDP÷就業者数>です。これは付加価値生産性の比較であって、労働時間当たりの使用価値量(サービス量)の比較ではありません。それぞれ異質なサービスの使用価値量を比較することは不可能なのでそれは仕方ないのですが、ここでは投下労働量とそれが実現される価格との間にギャップが生じることが自覚されていなければなりません。付加価値生産性ではそれがそのまま生産性の格差として認識されますが、そこに陥穽があります。
飯盛氏によれば、対企業サービスの中身において、米国では専門的サービスが大きく拡大したのに対して、日本では代行型・人件費削減型が大きく伸びており、まずここで生産性格差が生じています。さらに専門的サービスの中身についても、「米国の専門・技術サービスは高生産性・高賃金であり、雇用規模も大であるのに対し、日本では生産性・賃金ともに高くはなく雇用規模も小さい」(154ページ)とされます。ここまで見ると(飯盛氏が直接そう言っているわけではないが)労働の複雑度に差があることが原因となって同一労働時間でも生産される価値量が違い、それが(付加価値)生産性の格差となっているように思われます。
そうした要因があることは否定できないでしょうが、それがすべてでしょうか。「米国の成長型サービス産業では高利益率→高賃金・優秀な人材→高生産性→高利益率という好循環がみられる」(155ページ)にしても、問題は最初の高利益率にあります。米国において、高利益率をもたらす高付加価値がどう作られるかについて、二つ考えてみるべきことがあります。
一つ目は、日本ではしばしばサービスが無償で行なわれる(日本では「サービス」という言葉そのものが「無償」という意味で使用されることがよくある)のでその分、付加価値が低くなり、(付加価値)生産性が低下するのに対して、米国では「所得介入」によって付加価値が増加しその分、(付加価値)生産性が上昇する傾向があります。
都留重人氏は所得介入によるGDPのかさ上げを問題視しています。都留氏によれば、所得介入とは「なくても済むサービスが、社会なり経済なりの仕組みで不可欠にされてしまっているため、そのようなサービスを提供する職業がそこでは市場性を獲得し、サービスの対価として受け取られる所得は、いわばそこへ割りこんだ形のものでありながら、利用者としては省くことができない種類のもの」と定義されます(『経済の常識と非常識』岩波書店、1987年、33ページ)。この言葉を好んで使ったシュンペーターはその例として米国における弁護士業を挙げています(同前、34ページ)。弁護士業が過度に必要とされるがために専門サービスの生産性が高い、というのは社会として良い状態ではありません。
「米国は法律・会計・コンサル・情報サービス・特許などで圧倒的な競争力をもっている」(飯盛論文、153ページ)わけですが、その中の幾分かは米国社会における所得介入の流儀をグローバリゼーションの名の下に世界に押しつけた結果ではないでしょうか。本当の意味でのグローバル・スタンダードを築いて、特定国に合わせた所得介入をなくし、専門サービスの高生産性の中の歪んだ部分を是正することが必要です。異常な低賃金に基づく日本流無償「サービス」も米国流「所得介入」高付加価値も不健全であり、双方を見直す上では、サービス産業の生産性比較において統計数字の裏を読むことが必要だと思われます。
二つ目は、こちらの方が重要ですが、WTO体制下での知的所有権の独占をテコにした高付加価値です。たとえば2012年の米国民間サービス貿易の「黒字額はロイヤルティ・ライセンス料が4割を占め」ています(飯盛論文、155ページ)。グローバルな生産体制の中で、パソコン等の製品価格における分配構成を見るならば、米国等多国籍企業の知的労働と途上国の現場労働との極端な不等労働量交換が明らかです。このような強搾取体制の生み出す超過利潤が米国などのサービス産業の高利益率とそれを起点とする「好循環」の土台にあるのではないでしょうか。
もちろん高度情報社会は社会進歩の一形態であり、そこでの専門サービスには歴史貫通的意味において必要な部分があるでしょう。しかし上記のように新自由主義グローバリゼーション下で、特殊米国社会的な部分や多国籍企業の利潤追求にのみ意味がある部分もあります。それを考慮するならば、「米国の専門的対企業サービスの輸出競争力の圧倒的強さは米国企業のグローバル展開の結果として生じたものであり、そのなかでIT資本蓄積、ソフトウェア投資が進んだと考えられる」(156ページ)という叙述は、米国サービス産業の努力による成果という肯定的評価だけでなく、表裏一体のものとして、米国覇権下のグローバリゼーションの強搾取体制によるものだという否定的評価をも含めて理解する必要があります。
飯盛氏が日本サービス産業の低賃金・代行型の性格を批判して「1990年代以降我が国経済の長期停滞の背景には、企業の人材育成関連投資の停滞があったこと」(同前)を指摘するのはまったく正当です。しかし米国サービス産業における専門サービスの高生産性を評価して、あたかもそれを目指すかのような文脈においてそれが述べられるとミスリーディングではないか、と思います。そこには生産力主義的観点があり、生産関係視点が抜けてはいないか、という疑義があります。その高生産性が米国のグローバル覇権下でもたらされた側面があるのではないか、という疑問からは、その正当性とともに、わが国への適応可能性に対する疑義も生じます。逆に「日本の専門サービス業は地元中小企業を対象とする小企業がほとんどである」(154ページ)という欠点の指摘は、「ローカリゼーション基盤の環境・国民生活充実型への転換をすすめる」(151ページ)のに役立ちうるという長所として裏読みすることができます。日本サービス産業の進路は、米国流専門サービスの後追いとは違ったところにあるのではないでしょうか。
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「『経済』2016年2月号の感想」(2016.1.31)より
以上の問題については後で藤田実氏の論稿を参照してさらに考えたいのですが、その前に、労働生産性について一つの問題点を指摘します。資本側が労働生産性の問題に固執するのは労働者階級へのイデオロギー攻撃の一環です。「ダラダラ長時間働いて、労働生産性が低い」という類の非難で、日本資本主義の不調の責任を労働者に転嫁しています。しかし少なくとも通常の現状分析論や政策論で言われる「労働生産性」で、生産過程における労働者の責任を問うことはおかしいのです。本来の労働生産性は、一定の投下労働量(分母)に対してどれだけの使用価値量(分子)を生産したかという指標です。しかし通常の議論での「労働生産性」における分子は商品の市場価格ですから、それは純粋に生産過程の問題に限定されることはなく、流通過程における実現問題の影響もうけます。今日のような内需不振下では販売量が少なく、単価も価値以下の価格が横行しています。しかも、これは誤用の類だろうと思いますが、一定の人件費に対してどれだけの生産量(現実にはこれも実現量によって規定される部分があるが)があるか、というのが資本側にすれば「労働生産性」として観念されかねません。そうなると「賃金が低いほど生産性が高い」ということになってしまいます。後に藤田論文で見るように、通常の「労働生産性」指標で考えても資本側の攻撃に理はないのですが、そこにはすでに実現問題が混入しているので、生産過程における労働者の責任を問うのは始めから筋違いだ、という認識が必要だろうと思います。
アベノミクスに限らず新自由主義の経済政策では国民経済における内需の問題が軽視されています。それはグローバル資本の観点や「供給側重視」の理論などによるものでしょう。その根底には全般的過剰生産を否定するセーの法則に立脚する新古典派理論があるのではないでしょうか。実際に存在する実現問題をパスするそのような目で、生産過程における労働者を見て、「もっと労働生産性を高めよ」と叱咤しているのが財界・政府の労働生産性偏重論でしょう。事実はまったく逆で、実現問題は生産過程にさえも浸透していると捉えるべきです。
藤田実氏の「財界戦略とアベノミクスは労働者国民に何をもたらすか」(『前衛』2016年2月号所収)は、労働政策を軸にアベノミクスを全面的に分析し、財界・政府の戦略が日本の国民経済を悪循環に導いていることを批判した充実しまとまった論稿です。その中でも特に、アベノミクスが(新自由主義と本来矛盾する)国家介入を行なっていることに焦点を当てて、その意味を解明している点が注目されます。その紹介の前に、先に触れた労働生産性の問題に立ち寄ります。藤田論文によれば、財界・政府が惹起した日本経済の悪循環において、労働生産性と賃金の関係は以下のようになります。
2015年3月期決算を見ると、経済成長しない中で多くの企業が過去最高の利益を計上しています。つまり財界は国民経済や国民生活の状況とは関係なく、企業が成長できる体制を目指しているのです。それは経済財政諮問会議・産業競争力会議を通じて労働者を自由に使役できる労働環境をつくり(搾取強化)、国民経済は空洞化させつつ、グローバル展開によって企業を成長させるという方向です。しかしその下で、日本経済は企業収益を拡大させようとする個別企業の行動が、国民経済を縮小させるという悪循環に陥っています。したがって悪循環を断ち切るには、リストラ・非正規雇用の抑制、賃上げが必要にもかかわらず、財界は賃上げの条件として「競争力の強化」「生産性の上昇」を言いつのります。しかしたとえば2000年代において、労働生産性は16.4%上昇しているのに、実質賃金は0.4%しか上昇していません(164ページ)。ここから、現在の不況は労働生産性が低いからではなく、それに見合って賃金を上げなかったから生じたことが分かります。