月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2023年7月号〜月号)

                                                                                                                                                                                   


2023年7月号

          新自由主義グローバリゼーションと世界の政治経済

 

     ☆新自由主義グローバリゼーションと国家・政府

 

中本悟・増田正人・小林尚朗の三氏による座談会「世界経済をどうみるか 米中対立とグローバリゼーションの行方は実に多様な問題を扱い、なかなか捉えにくいところがあります。おおざっぱな印象に過ぎませんが、グローバル経済の全体構造や主要な各国民経済の再生産構造がわかりやすく示されているようには見えません。むしろ経済と政治の関係あるいは国際関係などの政治的議論の方が中心になっているような気がします。もっとも、米中対立の中で、岸田大軍拡が進み、その原因を捉えて的確に批判するという現時点の最重要課題からすれば、非常に参考になると言えますが。

グローバル資本にとっての楽園が新自由主義グローバリゼーションです。それは一方では、グローバル資本が国境を超えて自由に移動できる政治経済環境です。それとともに、他方では国家権力たる各国政府が、グローバル資本の利潤追求に最適な市場整備・拡大と直接的な利益供与を含む新自由主義の経済政策を貫徹し、その結果生じる格差・貧困拡大への人民の抵抗(治安悪化を含む)を防ぎ弾圧する、イデオロギー支配機構と暴力装置として機能しています。したがって今日のグローバル資本主義を見る場合、新自由主義グローバリゼーションの貫徹と阻害の要因をともに捉えることが必要であり、その際に特に国家権力=政府の国内的・国際的双方の役割の考察が重要な課題となります。その中で、米中対立・ロシアのウクライナ侵略戦争・ASEANの意義などを解明することが求められます。よって、新自由主義グローバリゼーションと国家・政府の関係が座談会の通奏低音として鳴っています。それは岸田軍拡の背景の分析にもつながっていきます。

 まず政府の経済介入の意味について考えてみます。新古典派理論の市場原理主義から類推して、通俗的には新自由主義は政府の役割を否定するように見られていますが、実際には上記のような役割を担っています。福祉国家の破壊という意味では、通俗的なスローガン=「小さな政府」が当てはまりますが、権力的な階級支配を強化し、資本蓄積のための経済政策を推進する「強い政府」であることは必須です。その意味では「大きな政府」でもあります。

 以上は平時の問題ですが、コロナ・パンデミックのような非常時においては、資本主義市場経済の無政府性は全く無力であることが露呈し、ブルジョア国家(資本家階級の権力を本質とする国家。今日ではグローバル資本が支配の中枢を占める)はなりふり構わず、経済に介入しその瓦解を防止しました。それはリーマン・ショックによる世界金融危機の際も同様でした。そうした事態を新自由主義の破綻と見る向きがあります。しかしとりあえず危機を鎮圧し平時に戻れば上記の新自由主義政策に復帰するのだから、そうではなく、非常時の危機管理も含めた全体を新自由主義政策と見ることができます。ブルジョア国家の階級支配機構としての本質からすればそう評価すべきと考えます。

 ここで大切なのは、第一に資本主義市場経済の無政府性が根本的欠陥であることの確認です。市場の見えざる手なるものの作用しない危機的領域があることをあらためて認識することです。もっとも、それ以前に、新古典派が依拠するセイの法則では(資本主義市場経済の通常の現象である)恐慌も説明できないのですが…。第二に、「市場VS政府」という平面的認識の誤りも大切な問題です。市場が優位であれば資本主義で、政府が優位であれば社会主義というような通俗的理解ではなく、政府介入の階級的性格を捉える必要があります。グローバル資本の支配を助けるための介入ならば、国有化でも新自由主義政策と言うべきでしょう。

以上は国内政策の面ですが、もう一つ国際関係の面も見る必要があります。「WTO発足以降のグローバリゼーションは、 …中略… それ以前のグローバリゼーションとは異なり、各国の政策や規制にまで統合が及ぶ、ハイパー(超)グローバリゼーション≠ナした。そこでは、かつて東アジアで成功したといわれる政府が産業に介入する経済モデルは、もはや許されないというのがWTO協定上の措置でした」(94ページ)。極端なことを言えば、グローバル資本にとっては、単一の世界市場に単一のブルジョア国家が君臨し、最大限の移動の自由があり、世界的に統一された調整策で労働力を管理し、それを基軸とする人民支配の機構が完備されていることが理想です。であれば、各地域で発展段階が異なり、民族的特徴が様々であっても、逆にその差異を利用して、最大限利潤を搾取することが可能となります。

しかしもちろん現実には今日の世界は、国民国家が主権を持って存在し、単一政府は存在せず、国連憲章を始めとする国際法があっても、その強制力を担保する強力機構はなく、未だに侵略戦争などの不法がまかり通っています。そうした国際法の不全は世界人民にとって平和や人権・労働条件の問題などで不都合ですが、世界国家の不在はグローバル資本にとって搾取と資本蓄積の追求上で不都合となります。世界的強制力の不在に対して、世界人民は運動と世論によって平和や人権・労働条件改善などを追求し、グローバル資本はWTO体制やブルジョア諸政府の政策協調を通してハイパーグローバリゼーションを形成してきたと言えます。

ところがハイパーグローバリゼーション下の格差と貧困の拡大、産業空洞化による労働者階級の零落という事態を背景に、トランプのアメリカ第一主義が登場し、先進諸国もWTO協定違反の産業政策を行ない、国際的政策協調が破綻しました。つまりトランプの政策は様々な害悪をまき散らしましたが、「過去数十年におよぶ新自由主義のグローバルな席捲」が「各国の政策選択の自由を奪ってき」たことを暴露し、「政策選択の自由度」を広げたというプラスの意義は持ちました(85ページ)。

もちろんこれらブルジョア政府は労働者階級・人民の利益を代表するものではないのですが、少なくともその利益をある程度考慮に入れることなしに支配を継続することが不可能となり、ハイパーグローバリゼーションがほころびを見せ始めています。ただしそこに様々な差別主義を含む右派ポピュリズムが跋扈し、人権を重視した左派的な変革志向に必ずしも向かわないという重大問題があるのですが…。しかしともかく新自由主義グローバリゼーションの国際面の展開はつまずきの石を抱えています。

 新自由主義グローバリゼーションと国家・政府との関係について、以上のようにそれなりに原理的に考えてみました。次に経済過程としての新自由主義グローバリゼーションの展開そのものを見ると以下のように言われています。

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大きな枠組みとしては、WTO体制は維持されていて、知的所有権を独占する多国籍企業中心のグローバル経済は変化していないということです。 …中略…  コロナ禍の2020年を除けば、世界貿易は拡大を続けています。

人々が日常生活で必要とする消費財についていえば、グローバルな規模で構築されてきたサプライチェーンは、米中の対立の下で修正を余儀なくされていますが、グローバルなサプライチェーンを廃止して国内に回帰するというようなことが生じているわけではありません。           8182ページ

 

先端産業における技術開発競争にかかわらない分野では分断は起きていないということです。21年、22年と米中貿易総額は過去最高を更新し続けています。   83ページ

 

これまで先進国の企業が発展途上国で労働集約的な製品をつくり、それを世界各国に輸出するというサプライチェーンの仕組みがなくなるかというと、変化はあっても、基本的な構図に変わりはないと思います。多国籍企業が世界最適地に製造拠点をつくり、グローバル・サプライチェーンをつくっていく流れは変わらないだろうと思います。

93ページ

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このように座談会では、コロナ・パンデミックや米中対立、ロシアのウクライナ侵略戦争といったグローバル市場への阻害要因にもかかわらず、グローバル・サプライチェーンという土台は変わらず、新自由主義グローバリゼーションの基調は貫徹されていると見ています。これは政治的考察の前提として考慮すべき点でしょう。

 

     ☆バイデン政権の性格と米中対立

 

 それでは、新自由主義グローバリゼーションの中心であるアメリカのバイデン政権の内政と外政をどう見るべきでしょうか。そこには「労働者のための通商政策」と「中国との国際覇権をめぐる争い」(81ページ)とがあります。

先日ある学習会で夏目啓二氏に尋ねました。――岸田軍拡から言えば、それを指示しているバイデン政権は日本人民の敵だが、米国内では労働者階級など人民の利益を代表していると言えるか―― それに対して、ある程度肯定的な回答がされました。バイデン政権はそれなりに本気だと…。さらに自国の新興独占資本であるGAFAMに対して企業分割をも辞さない強い姿勢で臨んでいることについて、アメリカの伝統的な反独占政策の観点から説明されました。国際競争での勝利を目指すならば、独占が停滞を生み、自由競争が生産力発展に資するからだと。そういう意味では、必ずしも労働者階級・人民の利益を目的とする政策ではないのですが、その利益に合致する政策であるとは言えます。近年伸張している民主党内左派の影響もあり、バイデン政権は新自由主義を批判し、親労働組合を標榜しているという点では、新自由主義政権とは言えません。しかし依然として軍事同盟網に乗って世界を支配するアメリカ帝国主義を推進していることは間違いなく、それがグローバル資本に最適な活動舞台を提供している点では、新自由主義政権と言わねばなりません。

 そこで、内政の次に外政を見ましょう。もちろん中心は米中対立、より正確に言えば「中国との国際覇権をめぐる争い」ということになります。ここで、中国の性格が問題となります。中国が正しく「社会主義を目指す国」と規定できるなら、アメリカの対中政策は衰退する帝国の悪あがき、と斬って捨てられます。しかし残念ながら中国は内政は専制主義で外政は覇権主義であり、アメリカがあたかも内外に渡って民主主義の盟主であるかのように振る舞える余地を大きく残しています。

 寺島実郎氏は、かつて中国がアジア経済危機(1997年)、リーマンショック(2008年)で世界経済を支える形で急成長しながら、自己過信と内部不安を抱えて習近平専制に行き着いたとして、こう述べています。

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 私も、中国が「平和的台頭」という賢い道を歩み続けていれば、二一世紀の世界は中国主導の潮流に向かった可能性もあったと思う。強勢外交、戦狼外交は、中国に好意的だった欧州諸国からの警戒心と嫌悪感を高め、南シナ海・インド洋での強引な海洋進出や「債務の罠」はアジア諸国の拒否反応を誘発し、決して賢い展開にはなっていない。五月の広島でのG7サミットと時を同じくして、中国は旧ソ連圏の中央アジア五カ国とのサミットを西安で開催した。ロシアがウクライナ戦争の長期化で、経済・通商・金融決済などで中国への依存を高めており、中国優位のユーラシア地政学となる構図が見え始めているが、政治的影響力を高めているかにみえて、中国への信頼と敬意は必ずしも高まってはいないというのが現実である。           127ページ

 「脳力のレッスン連載253 二一世紀システムの輪郭――ロシア・中国の衰退とその意味――直面する危機への視座の探究(その4(『世界』7月号所収)

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 その前に、寺島氏はH・シュミット元西ドイツ首相の言葉を引いています。東西冷戦期に「毛沢東、ホー・チ・ミンやチェ・ゲバラ、カストロの思想と行動、そして金日成のチュチェ(主体)思想も、共鳴する多くの若者の心を惹きつけるものがあった」(同前、122ページ)が金正日の北朝鮮にはそれがなく、北朝鮮の脅威など取るに足らない、とシュミットは喝破したのです。ついでに「日本も大変だね。アジアに真の友人がいないから」と付け加えたというのも、別の文脈になりますが、ドイツから日本を見た実に重い言葉です。それはともかく、上記の思想と行動はいずれもかなりロマンティックなものであり、その中には実のあるものも幻想もありますが、冷戦末期からの新自由主義反革命を経た現代はおしなべてロマンなき幻滅の時代と言えます。そのシニカルな風潮の中で、現実的で堅実な思想と行動をもって人々を惹き付けることが課題となっています。平和・人権・民主主義そして豊かな生活(いずれもその中身が問われますが)を実現するリーダーシップが求められます。

 その点で、中国が「平和的台頭」という賢い道を歩み続けていれば、という寺島氏の指摘に対応するものとして、座談会ではこう述べられています。

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 また、中国がこれからの新しい国際秩序の構築でどのような役割を果たすのかが注目されます。アメリカは、国内に民主主義はあるが、国際関係では決して民主的ではありません。中国は、国内に民主主義はありませんが、今後の国際関係ではどうなるかです。

      95ページ

 

 アメリカは、中国やロシアは権威主義体制だ、権威主義対民主主義のたたかいなのだといってイデオロギー的、価値観的対立を主張しています。確かに、そういう側面はありますが、アメリカや日本などが対立を主張して、お互いに権威主義的になっていくなら、民主主義を語る側に、価値観としての魅力はないと思います。その点を日本も深刻に考えないといけないと思います。また、中国にも対外的に魅力のある価値観をもっと出してほしいですね。中国についていけば経済的な利益があるというだけでは、新しい国際関係をつくっていきことにはなりません。国内で民主主義を発展させることが、外交や経済での地位を高めることにむすびついてくると思います。     96ページ

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 ロシアのウクライナ侵略戦争に際して、バイデン政権が持ち込んできた「民主主義VS専制主義」スローガンは元来、対中国包囲網形成のスローガンでした。これに対して、世界の反戦・民主主義の世論は、イデオロギーや価値観を超えて、国連憲章・国際法擁護、侵略戦争反対の一致点での団結を訴えました。

 対立軸をめぐっての進歩的な国際世論のこの正当性は大前提ですが、上記引用文が民主主義論として興味深い論点を提示していることにも注意すべきでしょう。まず第一に、民主主義を国内だけでなく国際関係についても考えるということです。極めて単純化すれば、先進資本主義国は国内は民主的だが、国際関係は非民主的で、発展途上国は逆ということです(もっとも、発展途上国代表と言っても、歪んで超大国化した中国は覇権主義なので、国内のみならず国際関係も非民主的ですが)。バイデン政権の言う「民主主義VS専制主義」図式では、国際関係の民主主義の観点が欠落しています。侵略と新植民地主義を貫いてきたアメリカがそれを無視するのは当然ですが。

 さらに第二には、アメリカ等「西側」が民主主義の優等生面をしていながら、戦争準備・軍国主義化の中で国内民主主義が後退し専制化が進んでいることです。安倍政権以降の日本はその典型ですし、アメリカでは9.11テロ後のショックと愛国主義の異様な高まりの中で人権と民主主義が大幅に制限されてきています。日米等、先進資本主義国がそれを深刻に考えるべきという指摘と並べて、中国に向かっても国内民主主義を高める必要性を説いていることが重要です。

もっとも、米中の論争を見ていて面白いのは、互いに自分側の擁護ではたぶんに強弁に過ぎないのに対して、相手への非難ではなかなか鋭いところを衝き合っているということです。互いに謙虚に学び合えばいいのですが、イデオロギー対立の根にあるのは覇権争いですから、そうはいきません。自己を改善するよりも、相手を圧倒して世界一の覇権を握りたいというのが真の目標ですから、民主的で公正な世界像がタテマエだけであり、ホンネでは欠如しています。それで迷惑を被るその他大勢自身が立ち上がって、そのタテマエの実現を迫り、また自ら実践するほかありません。米中と核兵器保有国、それに日本などの核の傘下国が敵対しても、多くの中小国やNGOのイニシアティヴによって核兵器禁止条約が成立したことなどに希望の一端が見て取れます。

 バイデン政権の内政を見て、次に外政を見るというはずだったのですが、中国の問題が大きくなってしまいました。しかし米中対立の中にアメリカの本質が現われているという意味ではそうなるのも仕方ないかと…。米中経済関係の実態からすれば、中国からの輸入制限政策は「経済的合理性がなく、すぐにできることでもありません」(87ページ)。ところが「経済安全保障の観点」からはアメリカと同盟国内で高度な半導体を自給することが「焦眉の課題です」(同前)。前者では「経済が政治を規定し」後者では「政治が経済を決定するのだという動きになっています」(同前)。政治と経済のこの矛盾を抱えながら、先端産業の技術覇権争いにおける中国包囲網形成・封じ込め政策を強行するのには、やはり先発帝国主義国が後発新興国を抑え込もうとする無理無体さが見て取れます。

 「技術覇権がアメリカ経済の繁栄の基礎にあり、それを失えば、莫大な貿易赤字を生み続けているアメリカ経済の繁栄は持続不可能になる」。また「最先端技術は…中略…軍事力を支える重要な基盤にもなっています」(82ページ)。このようにアメリカ経済の歪みを隠蔽すること、そして軍事覇権を維持すること、それらの中核に技術覇権があり、それを死守するのが至上命題になっています。米中対立の底にはそういう問題があります。この「安全保障」という軍事覇権の美名を克服し、軍縮・世界平和を追求し、健全な再生産構造を確立するという好循環へと、アメリカを先頭に変革していくことが必要となります。それは中国の民主化と覇権主義の克服という課題と表裏一体だと言えます(中国の覇権主義行動が「西側諸国」の軍拡にどれだけ口実を与えているか!)。世界を不幸にする米中対立の克服には、両国人民が自国を変革する平和と民主主義に向けた闘いが必要なのですが、それが難しい中でも世界各国政府と人民が平和のために軍縮と反覇権主義に立ち上がることに重要な意義があります。各国民経済の健全な再生産構造と世界平和とは密接な関係があります。軍拡と覇権主義の下で歪められた先端技術がそこでは正しく人々の豊かな生活のために花開く可能性を得ます。

 ここで米中対立について根源的かつシンプルに再考してみます。この対立を緩和できれば、軍拡や封じ込め(軍事・経済)、輸出規制など経済的デカップリングは必要なくなります。中国にとって好都合であるばかりか、アメリカにとっても上記のような政治と経済の矛盾を解消できます。米中対立の原因は両国それぞれの政治的経済的歪みにあります。その歪みを残したままに、覇権争いの勝利で「解決」しようとしているのがそもそもの間違いなのです。それぞれの歪みを是正する努力こそが本当の解決策であり、共存共栄の実現を目指すべきです。

 その根本的努力が当面なかなか難しいなら、逆に対立緩和を進めることを先行させ根本的是正努力を容易にする環境を作り出すべきでしょう。経済戦争と軍拡競争のままではそれがやりにくいわけですから。世界の反戦・民主主義の運動が米中両国にそう強制することが人類を救う好循環を作り出します。

 

     ☆ASEANの現実主義とロシアのウクライナ侵略戦争

 

 覇権主義と軍事同盟の克服による平和追求という点では、ASEANの現実主義に注目します。現実主義というのは、中南米左派政権との対比において言っています。中南米は新自由主義グローバリゼーションの負け組であり、その搾取と社会的惨状に直面した人民の不満が左派政権を誕生させますが、経済政策の失敗、強権化や支配層の巻き返しもあり、下野や再勝利などめまぐるしく動き、まさに階級闘争の弁証法の生きた舞台となっています。こうした不安定な状態では、いまだ左派勢力が確たる実績を定着させたとは言えず、支配層との厳しい闘いで一進一退の最中にあります。

 それに対して、東南アジア諸国には開発独裁体制であった国も多く、厳しい矛盾を抱えながらも一定の経済成長を実現することで、人々の生活向上にそれなりにつながりました。ちなみに1989年に東欧社会主義政権がドミノ倒しに至った背景の一つには、1980年代以降、ソ連圏の東欧諸国よりも東南アジア諸国の方が経済発展し、社会主義経済体制の失敗と資本主義的開発の「成功」とが対照的であったことが挙げられます。過度に中央集権的な経済に市場導入して改革するという、東欧諸国での様々な試行錯誤は結局全面的な市場化、資本主義制度の復活という帰結を迎えました。発達した資本主義諸国で市場を通じての社会主義的変革を目指す勢力は、この東欧諸国の経験を真剣に検討すべきであり、ソ連・東欧諸国はしょせん社会主義ではなかったので自分たちとは関係ない、という姿勢を取るべきではありません。過度に中央集権的な社会主義経済から市場導入を通じて適度に分権的な社会主義経済への移行を目指すのと、資本主義市場経済での独占資本への民主的規制を通じて社会主義経済への移行を目指すのとでは、進行方向が正反対ではありますが、市場と計画とのベストミックスを工夫しつつ搾取のない状態を成立させようという志向では共通します。もちろん発達した資本主義諸国の社会主義的変革にモデルはなく、高度な資本主義において達成されたもの(客観的・主体的要因)と社会変革の様々な運動の経験などとに根ざした漸進的歩みを重ねることが第一だと思われます(そこは、強力革命か議会制民主主義を通じた革命かを問わず、政治革命による上からの変革で一挙に経済と社会の変革が進むとする、「マルクス=レーニン主義」の革命像とは一線を画する点です)。その際にも、より良い社会主義経済像を目指した試行錯誤を、ソ連・東欧の経済改革も含めて検討対象とすることが必要でしょう。それは人民抑圧の社会体制だから始めから問題外で無視するというのでは、人類史上の重要な経験(実態はともあれ、マルクスの名において執り行なわれた)に背を向けることになります。

 閑話休題。東欧の経験などに言及したのは、中南米左派政権と比べて、ASEANの現実主義の意義と限度を考えるためです。ベトナムが社会主義市場経済を標榜している(ラオスはどうか?)のを除けば、ASEAN諸国の政府はまったく左派ではなく社会主義とは無縁です。逆に新自由主義グローバリゼーションに乗って経済発展しています(中国もそうなのだが)。だから新興ブルジョア国家と言えますが、もともと開発独裁であった国が多いので、新自由主義政策に完全に同調しているというわけではありません。そういう意味では、新自由主義グローバリゼーションの被害者としてのグローバルサウスと同じではないと同時に、「西側諸国」にまったくついていくというわけでもありません。

 したがって、ASEAN諸国は資本主義的開発の一定の成功という安定性を土台にして、東南アジア地域の平和と経済発展を独自に追求する保守的現実主義に立つと言えましょう。それは左派イデオロギー的な進歩性は持たないけれども、新自由主義グローバリゼーションの暴走が世界を荒廃させ、格差と貧困の拡大と軍事的緊張を招いている中では、それと対照的に平和と経済的繁栄への現実主義的対応として安定しています。米中対立についても、偏ることなくASEANと東アジアの独自性を追求しています。

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 アジアでは安全保障上はアメリカが、経済上は中国が、大きな影響力と役割を果たしていますが、そのアメリカや中国といえども、アジアで抜きん出た圧倒的なパワーを持っているかと言えばそうではありません。

 日本、韓国、インド、東南アジア諸国連合(ASEAN)など、アジアのなかには一定の影響力を持つ国・地域が林立しているし、対等な関係での様々な地域協力の枠組みもあります。言い換えれば、アジア諸国がまとまれば、アメリカも中国も一目置かざるを得ないのです。そのため、米中対立の緩和や国際秩序の再構築にも大きく貢献できる潜在力があります。残念ながら、いまの日本政府にはそのような意識はほとんど感じられませんが。

     8485ページ

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 日本政府にそういう意識がないのは当然ですが、日本世論も同様です。メディアも対米従属ドグマが骨の髄までしみこんでいるので、日本の空気にはASEANほどの現実主義がありません。何事もアメリカ側からしか見ないので、上記のような、言われてみれば当たり前の事実が全く見えないのです。日本とは違った透徹した眼力で「ASEANは東アジア地域協力のなかで中心性を保持しようとしており、 …中略… 東アジアの地域協力において、安定した平和の地域をつくるという目的に向かって、バランスをとるという役割を明確にしています」(92ページ)。岸田軍拡を本当に葬り去るためには、対米従属ドグマによって世界が見通せない状況を克服し、最低限のリアリズムを回復、いや(安保体制下でずっと存在してこなかったのだから)創出するほかありません。

 ASEANはこうした独自の道を追求するために域内諸国の多様性を活かした結束――内政不干渉下での相互共存――を実現し、「それがアジアでできるのだから、世界でもできるのだと実践していくことを、目標として掲げてい」ます(同前)。その実現手法として、「二国間では、どうしても強国の意思が反映されてしまう」ので「二国間主義でなく、徹底して多国間主義を追求」しています(同前)。

 しかしこうした優れた現実性の裏には、理念が後景に退く問題点があります。「大国の争いにおいて、どちらの国にもつきたくない」(91ページ)というのは現実主義的対応・一般論として、ある程度理解できますが、侵略戦争への姿勢としては問題があります。ロシアのウクライナ侵略戦争に際して、もちろん国により態度が違いますが、ASEANとしては強いロシア非難には至らず、経済制裁にも消極的になっています。ロシアや中国との一定の経済・政治・軍事的つながりがあるという意味では、現実的にはやむを得ない側面がありますが、価値観・立場を超えて侵略戦争に反対する国際戦線の形成を阻害する一要因となっています。

 この点で座談会の90ページ当たりの議論はいささか問題があります。それは一般メディアとも共通することですが。まずロシアへの経済制裁やウクライナへの軍事支援の問題です。ロシアの侵略戦争糾弾の国連決議が圧倒的多数で行なわれたにもかかわらず、それには一部の欧米諸国などが参加しているだけです。それは侵略戦争断罪として当然の実践です。日本は軍事支援できませんし、多くの諸国もそれは難しいでしょうが、経済制裁などには本来多くの諸国が参加すべきです。「どちらの国にもつきたくない」という姿勢を個々の事情に応じて現実主義的対応として容認するのは仕方ないのですが、理屈として容認することはできません。一部の欧米諸国などだけが参加しているからダメだとも言えません。侵略戦争をなんとしてもやめさせることが必要であり、そのためにできることに反対することは誤っています。西側の軍需産業を儲けさせるための帝国主義戦争だから反対だという「左翼」的言辞も間違っています。確かに軍需産業が戦争継続を願っていることは事実でしょうが、だからといって、侵略戦争に反対するための介入に反対することはできません。もちろん戦争終結を最大限急ぐ必要はあります。ロシアが誤りを認めることはないでしょうから、現実的には何らかの妥協的停戦に至るほかないと考えられます。にしても、価値観を超えた侵略戦争反対行動に最大限結集することを追求することは、あらゆる過程において必要であり、「どっちもどっち」論を許さず、その旗を掲げ続けることが今後の世界平和にとって必要不可欠だと思われます。

 侵略戦争反対の大義を考える際に、アメリカはどうであったかが当然問題となります。たとえばイラク侵略戦争は国際社会から強い批判を受けましたが、経済制裁をかけられたわけではありません。だからといって、ロシアに経済制裁をかけるのは不当だ、とは言えません。イラク戦争当時、国連でアメリカ非難決議がされなかったということは問題であり、本来ならばアメリカのイラク侵略に対しても非難決議とともに経済制裁などが行なわれるべきだったのです。かつてのアメリカに制裁しないから、今回のロシアにも制裁しないのは「悪い公平」であり、かつてのアメリカへの制裁なしという不正義を繰り返さないのが正義です。アメリカへの経済制裁が非現実的というのは承知の上ですが、それがアメリカの侵略戦争への無反省と繰り返しにつながっていることには留意すべきです。今回のロシアの侵略に対して「どっちもどっち」的対応が許されるなら、今後アメリカの侵略への無反省を増長させることになるだろうことは確かです。一見すると、ロシアの誤りに対して強く出ることがアメリカを利するように見えながら、原理的にはその方がアメリカの今後の行動に対する牽制になると考えるべきです。

 以上、まったく散漫な議論で尻切れトンボになりましたがここで終わります。妄言多罪。

 

 

          衆議院解散の憲法原則考

 

 621日に閉会した通常国会の終盤に岸田首相が衆議院解散権をもてあそんだとして批判されました。結果的には今回「伝家の宝刀」が抜かれることはなかったのですが、安倍政権においては特に恣意的な解散が多用され、憲政史上最長の政権維持に役立ったと思われます。それに限らず従来から自民党政権は自分に都合よく解散権を行使してきました。そもそも「伝家の宝刀」たる内閣総理大臣の衆議院解散権なるものがある、というのがおかしいというのが私見です。つまり内閣不信任決議案可決のときだけ、衆議院解散は許されるという69条説が正しいと思っていますが、まったくの少数説で顧みられず、実際には天皇の国事行為を規定した7条で解散が行なわれてきました。

 今回の岸田解散もてあそびに際して、改めて憲法を読んでみて驚きました。憲法には解散の主体や要件が書いてありません。明らかに重大な欠陥であり憲法を改正して書き込む必要があります。とはいえ、日本国憲法をめぐる状況では、革新派は護憲であり改憲はタブーです。改憲と言えばもっぱら9条改定を中心とする改悪のことであり、たとえば天皇条項をなくすなどの進歩的改憲はまったく問題外とされています。改憲=改悪。これは長年の残念な政治的力関係によるものであり、少なくとも当面、革新派としては護憲を前提によりよい解釈に努めるほかありません。以下、本来ならきちんとした専門書に学ぶべきですが、とりあえずウィキペディアの情報を参考に素人議論を提起します。

 現状では7条解散が実施されていますが、これは根拠薄弱です。第7条第3号は衆議院の解散を天皇の国事行為として定めていますが、天皇は国政に関する権能を有しないのだから、ここでの天皇の権能は衆議院解散を形式的に外部へ公示する形式的宣示権に過ぎません。そこから内閣による解散の実質的決定権を導き出すことは本来できません。

 また69条は衆議院で内閣不信任決議が可決あるいは内閣信任決議が否決された場合の内閣の進退を定めた規定に過ぎず、これも衆議院解散の実質的決定権について定めているわけではありません。他にも諸説あるようですが、とにかく憲法上に衆議院解散の主体と要件が記載されていないのだから、改憲しないならば、より良い解釈を考えるほかありません。

思考基準は、三権分立と国会が国権の最高機関であるという憲法の趣旨を活かすことです。その中心は内閣の恣意的解散をどう規制するかです。三権分立とか国権の最高機関としての国会という憲法上の規定にもかかわらず、現実には行政権の優位が定着しており、内閣総理大臣が政治上の最高権力者となっています。権力の相互牽制を実質化する必要条件として、内閣(総理大臣)の衆議院解散権に対する実質的規制を挙げることができます。憲法解釈としてそれを実現するには、69条説に準ずる政治運用を採用すべきではないでしょうか。

三権分立の観点から、解散の主体、解散の実質的決定権を持つのを内閣とするのは妥当でしょう。解散の要件については、憲法上の規定としてそれらしいものは、69条にある「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」の他には見当たりません。これは直接的には内閣の進退を規定しているだけですが、解散の要件として準用できます。したがって、解散の要件としてこれだけを採用します。69条に基づく解散の実質的決定にしたがって、天皇の国事行為として73号の形式的宣示を実施します。こうすることが、天皇に実質的権能を認めない象徴天皇制の原則を厳守することにつながりますし、天皇の国事行為に隠れて内閣の権限を不当に拡大することを防ぐことができます。

 しかしそれだけでは有権者の信を問う機会があまりに限定されすぎるという意見が予想されます。ならばそういう機会であると与野党が認めたときに、形式的に内閣不信任決議案を可決して衆議院を解散すればよい。これは1948年、吉田内閣の下での解散総選挙で実際に行なわれ、「馴れ合い解散」と称されています。語感は悪いですが、憲法の条文の不備を補い、解釈によって三権分立の実質化に資する運用だと思います。現状では内閣総理大臣が与党に有利になる時を選んで恣意的に解散を実施しています。これは現実にある行政権の優位を固定化し憲法の権力規制の原理に背く行為です。それと比べれば、上記のように解散権を縛ることは、空虚な形式的運用という弱点はありながらも、立憲主義の実質化という意味でその弱点を補ってあまりあると思います。
 
                                 2023年6月30日




2023年8月号

          社会主義的変革の模索

 ここでは漠然とした思いというか愚痴から語ることになります。東海三県では朝日新聞の夕刊が5月からなくなりました。夕刊不要という読者が多いためだそうです。東京は残るのに…。夕刊は音楽・美術・演劇・映画等々の文化情報や学術関連の記事などが多い。ということは、名古屋周辺は文化水準が低いということか…。そういえば、ミニシアターの名演小劇場とシネマテークがなくなり、人文書の壮大な棚を誇る書店・ちくさ正文館本店も7月末でなくなりました。1970年代、高校生の頃に国民文庫や社会科学系の書籍などをよく買いに行ったのに。それも50年近く前か。この地域での学術・文化の地盤沈下を前に、思わず右翼的で下品な市長の顔が目に浮かんでしまいます。いや、他でももっと悪質かつ低水準な政治家を選んでいるところはいくらでもあるけど。

 名古屋出身で芥川賞を受賞した諏訪哲史氏は純文学作家で大学でも教えていますが、ときに名古屋弁を駆使することもある軽妙なコラムを地元紙などに掲載して親しまれています。しかし、さすがにちくさ正文館本店の閉幕に際しては、こんな堅い嘆きを綴っていました(「朝日」名古屋本社版、725日付)。

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 まるで母校や生家が更地になる報を聞いたような、家族写真を焼かれるような怒りの感情がわく。

 前衛映画館名古屋シネマテークに続き、ちくさ正文館本店までが閉店するとは。多種多様な作品に、液晶上の幻像ではない、物に直(じか)に触れられる貴重な場所が地元からまた失われる。図書館にもない、あの高貴な巨大文学棚。文学少年の憧れだった。

 現在、高校国語から少年の人間性を深化させる文学が事実上欠落し、国語は商取引用の偏頗(へんぱ)な論理語用術に堕し、情操教育不要論が常識のように罷(まか)り通る時代。僕ら小説家が食えないのはいい。

 しかし文学や芸術という何千年も続く人間文化の中核が貶(おとし)められる侮辱には耐えられない。醜く浅ましい欲得ずくの、吐き気のするような時代がやってきた。(寄稿)

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 まったく同感です。しかし残念ながらこういうセンスだと、人々の共感を得て社会変革することは不可能です。「醜く浅ましい欲得ずくの、吐き気のするような時代」とは人間と社会の全体と細部に至るまで資本主義の魂が浸透し尽くした状態への嫌悪感だと言えます。そのように疎外された人々(自分もまたその一員なのだが)とともにどう生き、社会変革を実現するのかが問われます。

 このままだと、今どき社会変革などと言っている者は、島崎藤村『夜明け前』の主人公・青山半蔵になってしまうかと思えます。平田篤胤の国学を信奉し、ひたすら人々のために尽くした末に、期待を寄せた維新変革に裏切られ、世に絶望したせいか精神を病んで彼は亡くなりました。弟子たちから「あんな清い人はいない」と惜しまれつつも。幕末維新期の平田派国学とは違って、科学的社会主義が現代社会とそこに生きる人々を本当につかむにはどうしたらいいかと思うこのごろです。

 テレビのニュースバラエティ番組は保守的です。出てくる若いコメンテーターも一見良識的風でスマートかつ保守的です。弁護士とかNPOの活動家とかいろいろいても、おしなべてテレビに出られるほどに資本主義市場経済で成功している者でないと、説得力がないと思われているのだろう――そう思わせるメンツです。個人の活力が資本という物象に絡め取られているので、逆に資本(企業)を批判すると個人の活力をそぐものだと見られてしまいます。様々な問題解決のためにも、ビジネスとしての成立が持続可能性として必要である、という方向に持って行く傾向もあるようです。それは自己責任論前提で政府責任をスルーする一つの仕組みのようにも見えます。

そんな中で、資本主義市場経済とは違った諸個人の活力の発揮と、それを可能にする組織のあり方を、当の資本主義市場経済の中でどう捉え実現するのか、そういった成功のスタイルを提示できるのかが問われます。それは矛盾した無理難題的な課題なのですが…。自然環境との調和の中で、無理なく協力し合う諸個人が個性的発達を実現できる社会のあり方を追求する――AIを始め、デジタル化の進展を含む最先端の生産力発展をそうした人間社会に服属させることが必要です。今喧伝されるDX(デジタルトランスフォーメーション)はあくまで資本=主人公が大前提です。その流れで活躍する個人(資本間競争で疎外された人格)が脚光を浴びることになります。しかし当たり前の無理ない生活を送る人間誰もが主人公になれるように、生産力発展を従えることを抜きに今後のまっとうな社会はあり得ません。

たとえば個人情報を各人が自己コントロールできるようにすることは、そのための最低限の必要条件ですが、EUが取り組もうとしているのに対して、日本ではデジタル化の遅れ克服の大合唱の前に、課題として意識さえされておらず、マイナカードの不祥事の混迷の中で右往左往するばかりです。それは資本主導のDXへの正当な懐疑をもたらしますが、その道しか見えない中では、その懐疑は反動的意識として断罪され、ラッダイト運動呼ばわりされています。メディアを覆う「改革」装いのスマートな保守性に対して、当たり前の生活人の効果的反抗が求められます。

 日本では、今日まで続く、バブル破裂後の長期不況下で、自信喪失、ならびにその裏腹の自己欺瞞的愛国心が蔓延し、萎縮し展望をなくした若者たちの保守性が際立っています。ところが発達した資本主義諸国では若者の社会主義への関心と支持が高まっているということです。格差と貧困が拡大する新自由主義の荒廃下ではある意味当然であり、社会主義など眼中にない日本の方がおかしいと言うべきかもしれません。もちろん社会主義支持とは言ってもその中身は定かではありませんが、20世紀のソ連・東欧・中国などの「現存した社会主義体制」は論外とされているでしょう。そこで注目されるのが市場社会主義の様々な提案であり、合田寛氏の「新自由主義の破綻と『新しい社会主義』への展望」がまとめて紹介しています。ただし極めて雑駁な感想で申し訳ないけれども、それらの内容はだいたいが「このどこが社会主義なのか」と言わざるを得ません。

 19世紀のグローバリゼーションを背景としたマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』では、世界同時革命で主要先進国から資本主義を一掃する中で社会主義建設を進めるという発想だったと思います。しかしその後の歴史的経験は資本主義や市場経済の強靱性を示し、世界一斉に政治権力の奪取を梃子に、搾取と生産の無政府生とをともに克服する事業に取り組むことの難しさを明らかにしました。世界史上初めて社会主義を目指す国を実現したロシア革命は、資本主義の生産力発展の最高の地域ではなく、第一次大戦中に、世界の帝国主義の弱い環で政治的に実現しました。両大戦を経て民族自決権が確立する中では、それぞれの段階でのグローバリゼーションによる世界経済の統合の進展にもかかわらず、各民族・各国家それぞれの事情による独自の社会変革の道が追求されるようになりました。

 世界同時革命で資本主義が一掃されているなら、社会主義建設は己が道を自由に突き進めますが、そうでなければ資本主義との競合を勝ち抜くしかありません。社会主義を目指す国は、世界市場で資本主義国と対峙し、同時に過渡期にある国内でも資本主義セクターと社会主義セクターとの競争関係を制しなければなりません。そこでは悪貨が良貨を駆逐するという問題が発生します。簡単に言えば、利潤追求第一主義を貫くべく労働強化・搾取強化によって低コスト化と開発力強化を図る資本主義が、ディーセントワークを主軸とする社会主義を圧倒するということです。この関係を中心に、確固として存在してきた資本主義経済の中から社会主義経済を生み出そうとすれば、勢い、資本主義を微調整した程度のものから出発せざるを得なくなり、淘汰される可能性が大きいと言わねばなりません。考えるほどにそういう色彩を強めてしまったのが、合田氏の紹介する諸論者による市場社会主義の諸構想ではないかと思えます。

 話が横にずれますが、そうした現実的配慮から外れた抽象的議論として、近年喧伝されているのが、『資本論』の最後、第3部第7篇の自由時間論です。そこでは、共産主義社会の本質的特徴として、生産力発展の成果を活かして自由時間が拡大することが指摘されています。資本主義では労働者にとって自由時間の拡大ではなく、剰余価値追求に費やされますから、マルクスはここでそれとの対比において、共産主義社会の本質を洞察しており、それは同時に資本主義への本質的批判ともなっています。したがって、この議論が極めて重要であることは間違いありませんが、共産主義社会の本質論ならびに資本主義社会批判論としてもあくまで原則論であり、具体的な社会変革論ではありません。そこに意義と限度があります。現代青年への普及に際しても気をつけるべき点でしょう。

 なおついでに言えば、この議論が近年発見されたかのように言う向きがありますが、たとえば内田義彦氏の有名な『資本論の世界』(岩波新書、1966年)に採り上げられるなど、多くの研究があります。それを指摘した杉原四郎氏の『経済原論1――「経済学批判」序説――』(同文舘、1973年)はマルクスの経済本質論を時間の経済という側面からも解明しており、『資本論』の当該箇所理解にとっても不可欠な研究でしょう。

閑話休題。上記の自由時間論の含意の一つとして、自由時間の拡大による人間発達(搾取から解放され自由時間が増大した労働者の創意)が生産力発展にも資するということが挙げられます。そのままでは抽象論であり、下手をすれば社会主義建設上の精神主義に堕することになりますが、具体的に活かしていく発想がないものかという気がします。というのも、上記の市場社会主義の諸構想において共通するのは、公的に所有された社会主義企業は技術革新のインセンティヴが低下する(91ページ)から、利潤最大限化を図るインセンティヴ(89ページ)を付与する制度設計をアレコレ提起しているのが問題だと思うからです。上記の「悪貨が良貨を駆逐する」問題の現状追認的解決の発想からはそうならざるを得ないでしょう。しかし資本間競争と搾取強化は一体であり、技術革新・生産力発展を自己目的化して利潤最大化を図るインセンティヴに固執するならば、そこに社会主義の要素は認められないと私は考えます。

 そのオルタナティヴは持ち合わせませんが、一つの論点としては、これまでの資本主義的生産力発展への反省を挙げます。たとえば使用価値の些末な差別化競争で儲ける一方で、生活必需品の不足する多くの人々が存在しています。地球環境問題が深刻化しています。斉藤幸平氏の議論に必ずしも同調しませんが、無駄で歪んだ資本主義的生産力発展を告発した点は重要だと思っています。利便性を追求するにしても、生活の実態を見直した上で要不要を見極める目が不可欠です。そして資本主義に対するグローバルな民主的規制を先行させ、人間本位の生産力発展のあり方を追求するという姿勢がまず求められます。

『資本論』では、集結した工場労働者の陶冶が変革主体形成の中心です。しかし新自由主義下でデジタル化が進み、労働者が孤立分散化し、新古典派のアトミックな市場経済像が実在しているかのような現実において、変革主体形成をどう新たに進めるかが問題です。しかしいずれにせよ、社会主義者にとって、労働者階級の変革主体形成は第一級の問題です。ところが市場社会主義の諸構想では、資本主義市場経済にどう適応し利用するかが第一の問題であり、この問題が後景に退いているように見えます。

紹介された市場社会主義の諸構想の中にもあるように、従来の所有論批判の観点から、株式会社を社会主義建設の主体とする議論が登場しています。現実主義的方向として注目されます。その際に労働者が企業の実質的主人公になるのを追求するのは当然として、自己増殖する価値としての資本の本性をいかに眠り込ませて、資本主義性を脱色していけるのかが問題となります。資本間競争に促迫される搾取強化を克服するには、資本主義市場経済への民主的規制が欠かせません。企業内とその外にある市場とをどう変革していくのか。政治革命による一挙変革が昔日の夢と化した以上、資本主義的に疎外された人間と社会を不断から地道に変えていく努力が必要です。それはおそらく、資本主義下での諸困難を克服すべく取り組まれている様々な要求運動と、その一部でのささやかな制度改善の積み重ねの延長線上にあるのかもしれません。

 本格的な社会変革は最新の生産力発展と正面から向き合うことを抜きにはあり得ません。AIを始めとするデジタル化は「デジタル封建制」とか「監視資本主義」という批判的言説でも迎えられています。合田論文でも、「公共スペースであるインターネットを土台にして、より広く深く搾取する資本主義」としての「プラットフォーム資本主義」の現状に対して、「プラットフォームの民主的な所有と管理」に再編成する「プラットフォーム社会主義」が提起されています(97ページ)。

 今野晴貴氏はポストキャピタリズムと労働組合運動という問題意識を提起しています。今野氏はデジタル化の下での新しい協業形態としての「シェアリング・エコノミー」や賃労働を介さない労働としての「プラットフォーム型労働」に注目し、資本主義下ではそれらは大資本の支配強化となっているけれども新たな可能性も見出しています。「シェアリング・エコノミー」では、「生産を自律的に組織する『アントレプレナー』の存在が重要になり、生産関係の変革はそうした経済運営主体の能力の向上や組織化の発展に期するところとなる」(『賃労働の系譜学――フォーディズムからデジタル封建制へ青土社、2021年、234ページ)。あるいは「プラットフォームの技術が具体的にどのような労働を作り出すのかは、社会・労働運動の側にかかっている」(同前、236ページ)と主張しています。まさに「プラットフォーム社会主義」への労働現場と運動の視点からの重要な提起です。

 最後に合田論文では、「資本主義に対する社会主義オルタナティヴを示す意義」(98ページ)として2点指摘しています。(1)オルタナティヴがないと信じ込まされている若者などに明るい未来の展望があるのを指し示すこと。(2)格差・貧困の拡大による生活不安の下でポピュリストや専制主義者の影響力が増大するのを防ぎ民主主義を擁護すること。

 次いでエンゲルスの言葉を『反デューリング論』から引いて、寿命の尽きつつある生産様式下で分配の不平等が拡大し、その不正が明白となるときの経済科学の任務を指摘しています。「この分解しつつある経済的運動形態の内部に、これらの弊害を取り除く将来の新しい生産及び交換の組織の諸要素を見つけ出すことである」(9899ページ)。まさに資本主義の中に社会主義的変革の芽を探る、という変わらぬ課題を私たちは引き継いでいますが、道はなお遠大と言わねばなりません。どうも雑談レベルに終始してしまいましたが…。

 

 

          悪政・貧困化と社会意識

 上記のように、日本とは違って先進諸国では若者の社会主義支持が拡大しています。しかし若者に限らず日本ではそういう方向とは逆に、格差・貧困の拡大と先進国でも例外的な経済停滞の中で、素直にその現状批判に向かうのではなく、屈曲して社会意識や政治意識の低位と混迷が顕著になっています。そのあだ花が日本維新の会の政治的伸張でしょう。723日に馬場代表が「共産党は日本からなくなったらいい政党」と発言し、民主主義を否定する暴論として各方面から批判を浴びています。そもそも日本維新の会の前身である大阪維新の会を立ち上げた橋下徹氏は大阪市長時代に市職員に対して思想調査を行なっており、その他にもその危険な政治性に「ハシズム」という造語が当てられていました。維新の会は事実上ファシズム政党と言うべきでしょう。馬場氏は「第2自民党でいい」とも言っていますから、早く合流した方がわかりやすいのですが、「与野党とも違う改革派」が売りなので、わかりにくいままに世論の混迷に巣くって独自に伸張することを狙うのでしょう。支配層にしてみれば、軍拡と改憲のホンネを自民党よりもあからさまかつ声高に叫んでくれる別働隊的拡声器として利用価値が高いというところでしょう。

 小松公生氏の「日本維新の会の『伸張』をどう見るか――自民党政治の現状と国民の政治意識との関係から考える『前衛』8月号所収)はそうした維新の会が伸張する背景にある政治状況と世論の構造を丁寧に分析しています。まず第二次安倍政権以降特に、民意に反する悪法が強行されてきたことが挙げられます。それはつまり「政治や社会についての国民の声や願い・要求が、徹底的に封じ込められてきたこと」(78ページ)であり、世に蔓延する「閉塞感」の「一つの大きな要因」(77ページ)です。閉塞感という言葉は漠然としており、事態の本質を隠蔽する恐れがありますが、要するに強権政治による悪政が(少なくとも一つの原因として)それをもたらしているということがピシッと指摘されています。政策への不満が渦巻いているにもかかわらず、いろいろな要因によって国政選挙で自公与党が勝ち続け、強権的悪政が長年にわたって継続するという悪循環の中で、閉塞感はますますつのり政治意識は以下のように病的様相を呈しています。

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 政治・経済・社会の現状を変革する道は、政治へのまっとうな批判や主権者としての意思表明によってこそ実らせることができる。ところが、この間の政治をとりまく異常・異様な風景は、こうした方向とは正反対のようにみえるのである。つまり、みずからの声がまったく政治に反映されない現状にたいして、前述のような投げやりやあきらめの気分が横行し、あるいは自暴自棄におちいったり嘲笑的な対応ですませることでこと足れりとしたりするような意識や空気が、現在のような政治の状態の背景・根底にあるのではないかということである。       7879ページ

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 こうした異常な空気の中で、維新の会が与野党を敵に見立てて攻撃することが「よどんだ政治を前に溜飲を下げたいと考える有権者の感情に合致した面もあった」(79ページ)と指摘されます。その上で「身を切る改革」をスローガンに支持を集める維新の会の実際の政策と行動を縦横に批判し、自民党以上にタカ派で危険な役割に警告を発した上で、論文はその人権敵視の姿勢を特に問題とします。

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 問題は、なぜこうした政党が、少なくない有権者から支持を受けるのかという問題である。そこには、冒頭で明らかにしたような閉塞感があるのだろうが、同時に、社会のなかでマイノリティの人権や尊厳は顧みなくてもいいという風潮が少なからずあるのだろう。たとえば今でも、性暴力を受け、それを告発した女性にたいして寄ってたかって非難し、生活保護を受けている人を攻撃するような状況が広く存在している。  91ページ

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 この状況を前に論文は、維新の会への「事実に即した批判と暴露」(同前)と民主的な政治変革の展望の必要性とを訴えて終わっています。

民主政治において世論に即した政治を求めるのは当然です。しかしその際に「世論はこう言っている」と、自己に都合よく解釈して実相を見誤ってしまうことがよくあります。実際には世論が間違っていることは多いし、上記のように病的様相を呈することさえあります。その際には、どうやったら是正できるか、その前に世論の誤りの原因がどこにあるかを考えることも必要となります。「世論はいつも自分たちの身方」的なタテマエにとらわれていると現状分析を誤ります。独善に陥らないように、できるだけ客観的に考察することが前提ではありますが、世論の批判的分析を避けてはいけません。

ここでやや横道にそれますが、日本の世論は現状追認的性格を強く持っています。安倍晋三元首相はそれを的確に捉えていました。「日本人の面白いところは、現状変更が嫌いなところなのですよ。だから安全保障関連法ができる時に、今の平和を壊すな、と反対していても、成立後はその現状を受け入れるのです」(同氏の回顧録より。「朝日」78日付、田玉恵美論説委員の記事から孫引き)。特に安全保障政策に関しては、世論の反対を押し切っての憲法逸脱的な政策強行と既成事実化、その後の世論の現状追認の繰り返しでずるずると悪化してきました。戦後ずっとそういう調子です。それが今日の空前の大軍拡につながっています。

 閑話休題。「世間の空気」としての社会意識・政治意識を捉える上で、貧困化と自己責任論が一つの焦点として存在しているように思います。石川路子・谷川智行・杉田真衣・葛西リサ各氏の誌上座談会「コロナ禍で社会に広がる貧困 支援の現場からみる課題は貧困の現場の厳しい実態とそれに対応する活動の様々な工夫を語り合っています。その中で自己責任論の現れ方とその克服の方向についても言及されているので触れます。

 困窮に陥った人たち自身が自己責任論を内面化して誰にも相談しないという状況があります。まさに「助けを求めてはいけないという社会を自民党政治がつくってきた。その責任は重大だと感じます」(59ページ)。「私の話なんか、とるに足らない。聞く価値もない≠ニ思わせる社会、制度を変えていく必要がありますし、それは運動によって変えていくということだと思います」(65ページ)。それを受けて「私なんか価値がない≠ニいう言葉ですが、社会から大事にされた経験がない。ここから、もう一度、つくり直していかなければならないと思います」(同前)と言われます。また逆に被援助者が援助に回って喜ばれる経験を引き合いに、「自分の行為で、他の人が喜ぶという経験が圧倒的に少ないのだと思います。人とコミュニケーションを取りながら、他者を通じて自分自身の存在を確認していくという経験は、とても大きな意味があると感じます」(同前)とも言われます。そうはいっても相談に向かう人はまだ限られており、社会運動につないでいく前提として、プライベートな問題を話したくない人が多い中で、とにかく工夫して人とのつながりを増やしていくことが第一歩だと強調されています(66ページ)。

 上記のような自己責任論の呪縛と自己肯定感の希薄化の中で生じる、痛々しい意識状況に対する一つの想像と解釈が提示されています。「自分の苦しみを軽減するために、高望みはしないと、自分に言い聞かせてきた積み重ねの結果だと思うんです。本来、こういう権利があるとか、理想や夢を持ってもいいんだと考えると、現実とのギャップが大きくなって、苦しい。だから目標を下げることで、目の前の苦しみを減らそうという意識が、精神医学上も働くのだと思います。私は支援の現場でずっとそれを感じてきました」(65ページ)。一人ひとりの状況の困難性の中で、それが政治変革に結びつくことが難しい理由を苦しみのやり過ごし方という諸個人の精神的内面に踏み込んで解説してみせています。

ここで、岡田惠和氏のオリジナル脚本ドラマ「日曜の夜ぐらいは…」(2023430日 〜 72日)で最も話題になったヒロインの台詞を紹介します。「だって楽しいことあるときついから。きついの耐えられなくなるから。……私はきついだけのほうが楽なんだよ」。なまじ何か希望があるかのように思うよりも(どうせ幻想だから)、苦しくても高望みをせず低い水準で安定していた方がまだましだ、という意識が広範にあるのかもしれません。内面に埋もれがちな感情に形を与え台詞として表出し、饒舌な会話劇を成立させるのが岡田脚本の魅力です。それは社会批判という形はあまり取っていませんが、現代人が抱えるもやもや感を捉え提示することで、その心の傷とそれを生み出す社会のあり方を示唆し、批判的社会認識につながっていきます。

縮こまってしまった諸個人の意識とそれによる社会変革主体形成の困難性とによって「自己責任論の荒野」が広がっています。その光景は「社会責任の喪失」を伴っています。『共産党宣言』は、諸個人の自由な発展が社会全体の自由な発展と矛盾しない社会を共産主義社会の本質と規定しました。対照的に資本主義社会では両者が矛盾します。かつて高度経済成長破綻後、「経済整合性」論が喧伝されました。日本経済の成長という「全体の利益」のためには賃金上昇という労働者個人(あるいは労働者階級)の利益は犠牲にされねばならないというのです。「減量経営」が合い言葉とされ、1980年代、日本資本主義は以前よりも低成長でありながら、資本主義世界での相対的地位を上げ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われました。しかし減量経営体質が内需縮小を通して、今日の先進資本主義諸国で例外的な経済停滞につながっています。

かつて歴史家の色川大吉氏は、水俣病患者を高度経済成長の犠牲者だと言うけど、むしろ水俣病を許すような社会だからこそ高度経済成長が実現できたのだ、という意味のことを喝破しました。日本資本主義では、「諸個人の自己実現欲求と人権意識」と「諸個人の貧困と悪政への耐性」というトレードオフ関係において、後者の圧倒的優位の下で「経済整合性」の内容が決められ(可能性としては、諸個人の人権優位の「経済整合性」だってありうるが)、一人ひとりがひたすら苦しみに耐えることが社会と経済の成立に不可欠な規範となっています。この歴史的に形成された実に根深い「変革よりも忍耐と諦め」体質が明るい展望を見失わせ、人間と社会を腐らせています。それが「自己責任論の荒野」であり、「社会責任の喪失」とともに克服することが求められます。

浜岡政好氏の「今日の貧困をとらえなおす 『新たな戦前』を招き入れないためにも維新の会が伸張するような社会病理の解明を論考の一つのモチーフとしています。前出の小松論文が政治意識の病的様相を指摘したのに対して、その底流にある社会意識の錯綜を詳しく分析しています。社会運動・政治運動に参加して、前進の困難性を痛感し、その原因について自分の頭で考えようとする人々にとって必読の論考でしょう。

前半では、雇用や貧困の状況の階層的な客観的分析とともに、家族の不安定化・犯罪の加害者と被害者それぞれの構成の変化・ハラスメントの増加・若年層での自殺の多さなどの社会病理的現象の広がりが指摘されています。後半では、「貧困状態が一世代を超えて長期化し、また格差として固定化しているなかで、貧困観や社会観など社会意識に変化が生じてきている」(73ページ)ことを分析しています。ここが特に大切であり、私の稚拙なまとめよりも読者各位の熟読玩味に任せるべきですが、注目点をいくらか紹介します。

 まず「格差の存在を規範的にも容認し、正当化する意識が生じてきている」と指摘されます(73ページ)。次いで、対立意識が減少し宿命主義という諦めと重ねて理解されています(74ページ)。対立意識の低下は、社会集団間の対立が個人の問題に解消される結果であり、資本に対抗する労働運動の弱体化の反映でもあります(75ページ)。これに関連して思うのは、労資対立など客観的に存在する対立を意識しないことは、社会認識上の致命的欠陥です。その中で、メディアで喧伝される「寛容」とか「分断の克服」などが、性・人種・国籍などの他にこうした対立に適用される誤りに注意すべきです(外から注入される人民内部の矛盾と人民と支配層との矛盾。両者の区別の必要性)。

 そうした中で、貧困・格差の解消責任が主に政府にあることを認識しながらも、「政治的に解決することが難しいという意識が広がっている」(同前)と指摘されます。さらに階層意識の分極化で上向移動した人々の意識を反映して、自分の成功を自助努力と結び付ける傾向が強まっているとも指摘されます(76ページ)。そういう傾向があるとはいえ、貧困・格差解消の政府責任を認め、再分配政策への支持など憲法的規範が維持されていることは確認できます。しかしそれを社会運動に結び付けるという意味では、活動参加者の減少が問題とされます。「こうした傾向は1980年代以降に強まる個人主義化、生活の商品的社会化の動きに対して、それまでの社会運動の多くが十分に対応できなかったことと関連していると思われる」(77ページ)。この指摘は核心を突いており、すべての活動家が心に刻むべきです。さらにこの消費社会化現象のもたらす政治的危険性が以下のように敷衍されます。

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家族や地域の生活共同体が崩れ、生活の個人化、商品化、商品化が進むなかでの今日の貧困は社会的孤立を伴うものとして戦前にもまして強い生活不安をもたらしている。そしてこの生活不安は大阪に見られるように「新たな」形で「強力政治」の誕生と結びつく可能性がある。「維新」現象は今日の貧困と社会的孤立のバロメーターであり、したがって貧困と社会的孤立を防ぎ、人びとの生活不安を沈静化させることこそが、「強力政治」の誕生を阻止することにつながるのである。             78ページ

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 故中村哲さんは、戦乱のアフガニスタンの荒野に井戸を掘り、運河を作って緑の農地を開拓しました。水の確保で健康を守るだけでなく、人々が傭兵に雇われることなく、農業で暮らせるよう、平和の基礎を築きました。日本でも今炎熱の「自己責任論の荒野」で枯れゆく草木に水をまき続けている人々の努力は尊い。ささやかながら、生活安定と民主主義擁護の芽を育てようと奮闘しています。それを「焼け石に水」に終わらせるのでなく、潅漑用水路の建設にまで実らせなければ。要求運動の拡大による社会改良の実現とさらには政治変革そのものが求められます。一人ひとりの心に広がる、荒廃したシニシズムの風景を、潤いある共同の風景に変えること。地道な社会運動が諸個人を変え、その総体が政治変革につながる。荒野から緑の野へ、現代社会にその王道を妨げるものは多々あるけれども、雑音と紆余曲折の中でも忘れず進みたいと思います。

 

 

          価値論の基本と搾取率・国際関係

 泉弘志氏の「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」は、国際産業連関表を駆使した分析によれば先進国では剰余価値率がマイナスになる、という萩原泰治氏の研究に対する批判的論考です。萩原氏の研究では、先進国労働者は国際的連関においては搾取する側に属する階級であるという結論に導く可能性があるが、それは誤っているというのが泉論文の趣旨です。そこでは主に国際価値論の理解が問題となります。残念ながら国際価値論も国際産業連関表もよく知らないので、この論文の全体と核心部分を捉えることは難しいのですが、以下では価値論を中心にいくつかの問題について言及したいと思います。

 論文では、国際価値論の理解に先立って、国内で通用している価値法則と搾取率について基本的なことを確認しています。おそらくその中で、極めて基本的でありながら間違いやすく、しかも当論文で後の行論上最重要と思われるのが、次の命題です。

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 同じ種類の商品に関して価値量は物量に正比例する。同一種類の生産物に関して、労働生産性の高い生産者と低い生産者が存在する場合、労働生産性の高い生産者は、同一労働量で、労働生産性の低い生産者より多くの価値を生産する。各生産者は、自己の労働量に、当該生産者の労働生産性/社会的平均的労働生産性 を掛けた量に比例する価値を生産する。     112ページ

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 なお傍論になりますが、129ページの注(4)では、労働の複雑度・強度の違いと労働生産性の違いとが対比されています。同一時間労働が価値量の違いとして現われる点は共通しています。しかしその原因が違います。前者では労働量そのものが違うのに対して、後者では労働量当たりの生産物量が違うのです。つまり、労働がより強度であれば労働支出量が大きく、複雑労働は単純労働に換算すれば労働量が多いと捉えます。それに対して労働生産性が高い場合は、労働量が変わらないにもかかわらず、生産物量が多いことによって、一物一価で個別価値が同じでも、同一労働時間での全価値量が多くなるわけです。

 閑話休題。泉氏は上記命題に関連して、陥りがちな謬見を批判しています。泉氏によれば、「生産力の高低は、本来、単位時間に生産される使用価値の分量の相違を生みだすだけであって、価値量には関係しない」というのは誤りです。その理由――「生産力の高低が、時点間の高低か、同時点での生産者間の高低かを区別する必要がある。時点間の比較の場合、時点間で生産性が異なっても同一労働量であれば生み出される価値量は同じである。しかし、同一時点での生産者間の比較の場合、生産性の高い生産者は生産性の低い生産者より多くの価値量を生み出す」(129ページ)。

 それでは、異時点間比較と同一時点における比較でのこの違いはどうして生じるのか。それは「商品交換においては、同じ種類の生産物は、その生産にどれだけの労働を要したということにかかわりなく、同一物量当たり同じ価値(他の生産物どれだけと交換できるかという力)を持つ(一物一価)」(113ページ)という原理の適用如何によります。結論的には、一物一価は、同一時点における比較では成立するが、異時点間比較では成立しないので、前者だけで、生産性の高い生産者がより多くの価値量を生み出すと言えます。

直接の論点はズレますが、同じ問題領域を扱ったのが、川上則道氏と私(刑部泰伸)との議論です。ここでの主要な議論の一つは、生産力発展を前提にした異時点間での価値比較です。川上氏は異時点間でも一物一価が適用でき、過去の生産物の価値は減価するとし、私は、一物一価は同時点間でだけ通用するので、過去の生産物の価値は減価しないとしました。私の立論は次のようなものです。――労働価値論は、同一労働量は同一価値量を作り出すという基本命題と、一物一価という補助命題とから成る。後者は同時点で競争関係にある場合に必要となり、異時点間で競争関係にない場合には成立しない。売れ残った過去の生産物には現在の競争関係の中で一物一価が適用され減価するが、そうでない過去の生産物一般には適用されない。現在が過去を減価するというのは不当な一般化である――(川上則道氏の『『資本論』で読み解く現代経済のテーマ』/新日本出版社、2004年/同書所収の第3章「経済成長と価値――討論・国民所得は価値か使用価値か――経済成長の意味、異なる時点間の価値をめぐって」より)。なお、この「討論」に対して、泉氏は私と同じ意見のようです(『投下労働量計算と基本経済指標 新しい経済統計学の探究/大月書店、2014年/87ページ、残念ながら私はこの労作を積ん読状態ですが)。

 ちなみに上記の「生産力の高低は価値量には関係しない」という謬見は、泉氏の指摘するように、生産性の違う生産者について、異時点間の比較と同時点での比較とを混同したものです。異時点間の価値比較を考える際には、同一時点での生産者間の生産性の高低の問題は考慮外となります。それを不用意に同一時点での比較にも援用してしまい、一物一価原理を忘れてしまった結果だと言えます。

 以上のように、同一時点での生産者間の生産性の違いを前提すれば、一物一価原理の下で、投下労働量と価値量に違いが出てきます。その場合、「搾取率を計測するさいには、賃金財は投下労働量ではなく価値量で計測するのがよい」ので「輸入賃金財に関しても投下労働量ではなく価値量で計測するのがよい」(118ページ)とされます。生産性の低い国からの輸入賃金財には同種の自国品よりも投下労働量が多いので、価値量ではなく投下労働量で搾取率を計測すると低くなってしまい、上記の萩原氏の研究のようにマイナスになることさえあります。これは「計算としては理解できても搾取の実態との関係では、不可解である」(119ページ)ということになります。実際には輸入賃金財の低い価値により搾取率は高くなります。したがって、投下労働量ではなく価値量を採用した「この計測の方が先進国労働者と先進国資本のおかれている経済的実態をリアルに計測できる」(同前)と言えます。

 雑駁な紹介となりましたが、論文の中心的検討テーマである「先進国では搾取率がマイナスになる」というパラドクスを避けるためには、搾取率を投下労働量ではなく価値量で計測するのがよいという結論です。その前提として、同時点では一物一価原理によって、生産力の違いによって同一時間労働でも(生産物量が違うので)価値量が違う、という認識が挙げられています。

 搾取率については別の観点からの論及もあります。まず価値量と生産価格量とではやはり価値量で計測すべきという結論です。その理由は以下の通り。

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 なぜなら、生産価格は、それぞれの産業で搾取されて得られた剰余価値が、産業間の利潤率が均等になるように配分されて、利潤になった時の価格であり、それぞれの産業の労働者の搾取率は価値量に基づく剰余価値率が示すと考えるからである。剰余価値が、産業間の利潤率が均等になるように配分されるのは各産業の資本間の問題であって、労働の搾取の問題ではない。      116ページ

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 ところが別の問題もあります。労働生産性の高い企業で働くAさんと低い企業のBさんとでは、両者の労働時間と賃金が同じならば、生産する価値量がA>Bとなるので搾取率もA>Bとなりそうです。しかし泉氏はA=Bと考えます。なぜなら、両者にとって「どれだけの労働をしたかということが重要であり、それがどれだけの価値になるかは彼らを雇用している資本家にとっては重要であるが、雇用されている労働者にとっては直接の問題でないからである。この意味では価値量で計測した『搾取率』は、厳密な意味での搾取率を示さないといえる」(115ページ)からです。ここでは価値量ではなく、投下労働量を採用すべきとなります。それは価値を生産しない労働にも適用できます(同前)。

 生産価格の問題と労働生産性の違う企業間の問題という二つの問題に対して、資本家の立場ではなく、生産過程で搾取される労働者の立場で捉える、という共通の視点で搾取率を定義すると上記のような別様の結論に達しました。この共通の視点を活かすためには、搾取率について価値量ではなく投下労働量を採用すべきでしょう。生産価格の問題では、生産価格量ではなく、価値量という結論でしたが、価値量からさらに投下労働量に下向しても問題ないからです。

 ところがそれでは、前記のように、先進国労働者の搾取率がマイナスになるというパラドクスが生じます。ここでは先進国と途上国との労働生産性の違いによる、先進国労働者にとっての輸入賃金財の問題(価値量<投下労働量)があります。このパラドクスを回避するには、国際価値論の観点から、搾取率の計測では、価値量ではなく投下労働量を採用すべきというのが泉氏の上記の結論です。これについては後に別様の考え方にも触れてみたいと思います。

 以上、投下労働量ではなく、価値量を基準とする考え方によって、先進国労働者の搾取率がマイナスになるというパラドクスが解決され、先進国労働者も搾取されていることが示されました。ただし、先進国と途上国との労働生産性格差に基づく不等労働量交換の問題は残されています。それを搾取と捉えるのかどうかという問題を含めて、各国内という平面での搾取と国際間という立体的な搾取(収奪?)との全体構造をどう捉えるかがそこでは課題としてあります。もっとも、不等労働量交換の観点から言えば、国内での農業と工業との関係が国際関係と絡み合って問題とされねばなりませんが…。

 他に個別の論点として、国民的労働生産性をどう捉えるかがあります。論文では、<国民的労働生産性=実質国内純生産/国内総労働>と定義されています(120ページ)。現実的に使用可能な指標としては適当かと思いますが、厳密に言えば問題があります。実質国内純生産は付加価値です。付加価値は生産過程だけでなく、流通過程での実現問題も含みます。生産過程における労働者の立場から捉えると、<それぞれの使用価値量/労働量>が物的労働生産性です。もちろんこれでは使用価値が異なれば通算できません。そこで、それぞれの使用価値ごとに労働生産性の変化率を指数化し、それぞれの使用価値を基準年の実質国内純生産内でウエイト化し、それによって加重平均することで、国民的労働生産性指数を算出します。基準年の実質国内純生産にこの指数を掛けることで当該年の国民的労働生産性の国際比較が可能となるように思います。そのような考え方が正しいか、正しいにしても労働生産性指数としては近似的なものにすぎませんし、また実際に計算可能かも分かりませんが…。

 以下では、和田豊氏の『価値の理論』(第三版、2019年、桜井書店)を参考に若干の問題を検討してみます。同書は『資本論』のオルタナティヴとしての労働価値論を提示し、体系的に確立しています。もとより私の能力ではこの労作を十分に理解することは不可能ですし、泉論文が抽象的理論を起点にしつつも現状分析に直結する内容であるのに対して、これは主に抽象的な理論であることからも、かみ合わないかもしれませんが、理論構築上は見逃せないように思います。

10章「労働価値論の国際的適用」第2節「分析の枠組み」では、国際価値論の方法を提示し、既存の研究への評価をまとめています。特に「国際価値論展開の諸前提」と題した部分(278281ページ)では和田氏の価値論を簡潔に要約し、その国際価値論への適用方法を厳密に定式化しています。

和田氏の労働価値論は、労働過程論の視角と不等労働量交換を基軸とします。まず交換価値の実体を、通常の「蒸留法」によらず、「労働過程論の視角」から投下労働に求めます。商品の価格は当該商品の投下労働ではなく支配労働を表わします。そこでは個別経済主体にとって、通常、投下労働と支配労働とが量的に一致せず、不等労働量交換が発生し、抽象から具体へと上向する理論体系のそれぞれの段階で両者の差異の根拠が問われます。ここでは資本主義経済にとって不等労働量交換は通常の原則とされます。

 なおここで規定される「支配労働」とは「商品と引き換えに雇用可能な労働量」ではなく、「使用価値の生産に投下された労働を使用価値の需要者の側から捉えた概念であって、投下労働と同じく歴史貫通的な生産一般のレベルで成立して」います。したがって、「個別の経済主体にそくしてみれば、当該経済主体が何らかの使用価値を生産するために投下した労働と、その使用価値と引き換えに獲得する他の使用価値の投下労働(すなわち当該経済主体からみれば支配労働)とは別の実体であり、かつ量的にも一致しないことのほうが普通である」(25ページ)となります。実は泉氏にも「価値(他の生産物どれだけと交換できるかという力)」(泉論文、113ページ)という表現があり、事実上これは支配労働を意味しています。

 和田氏の価値論は「投下労働体系・再生産労働体系・労働価値体系・生産価格体系・市場価格体系」(278ページ)というふうに上向・展開します。ここでの投下労働は、社会的平均的な抽象的人間労働ではなく、そうした抽象以前の生の現実的具体的な投下労働です。社会的平均的な抽象的人間労働を実体とする価値はここでは「労働価値」と表現されます。したがって、通説の「投下労働」を実体とする「価値」が価値論の出発点という特権的地位を持つのに対して、「労働価値」は一物一価原理に基づく市場経済一般における支配労働という位置づけになります。

それを考慮すると、泉氏が「価値量は、労働量や価格と異なって、直接観察できるものではない」(泉論文、117ページ)と言うとき、この労働量は直接観察できるとされているので、それは生の投下労働量であり、通説的な抽象化された社会的平均的な投下労働量ではないということになります。実際問題、統計上の労働量は前者でしょうから、市場経済における理論上の取り扱いとしては、熟練度・強度・複雑度を考慮し何らかの加工を施すことが求められるでしょうが、現実的には困難かもしれません。

 和田氏の体系では、「投下労働」の次に「再生産労働」が続きます。「投下労働が諸商品の生産に歴史的に『必要とされた』諸労働であるのにたいして、再生産労働は『必要とされる』諸労働を意味してい」ます(91ページ)。過去に実際に投下された労働ではなく、今再生産するのに必要な労働ということです。これは通説の「投下労働」もそのように考えられています。和田氏の体系において、さらに次に来る「労働価値」を投下労働ではなく、再生産労働をベースとして規定する理由は以下のように説明されます。「諸商品の再生産労働は、あらゆる商品が現存する生産諸条件のもとで生産され続けてきたと想定した場合に計算される理論上の『投下労働』として、諸商品の価格水準にたいする過去の生産諸条件の影響を分析から捨象する役割を演ずるのである」(93ページ)。

 ここで前述の問題を振り返ります。泉氏が「投下労働量ではなく価値量による搾取率指標」(泉論文、119ページ)を採用し、先進国労働者の輸入賃金財を価値量で計測したことで、搾取率がマイナスになるというパラドクスを回避しました。投下労働量ではなく価値量を採用する論拠として、上記の「再生産労働」の論理を挙げることもできるでしょう。途上国で実際に多くの投下労働量を要したという過去の生産条件を捨象し、先進国で現在再生産されたとすればどうなるかという想定に近づける。――投下労働量ではなく価値量を採用することは結果的にそういう役割を果たすことになると言えます。

 以上、例によって、いくつかの論点をまとまりなく散漫に採り上げてしまいました。妄言多罪。

 

 

          『資本論』における差額地代と絶対地代の順序

 先日、ある学習会で、『資本論』第3部第6編の地代論における問題として、差額地代と絶対地代との叙述順序に関して講師から次のように説明されました。――現行エンゲルス版では差額地代が先であり、これが正しい。ここでは資本主義地代を、価値・剰余価値、利潤・超過利潤で論じており、農業にも資本主義が浸透していることを示している。労働価値説の延長線上に地代論があるということ。差額地代は市場価値法則そのものであり、一般商品と同じ仕組みとして、資本主義適用のひな型となっている。資本主義適用が制約された絶対地代はその後で論じる。絶対地代を先にすると、差額地代を出してくる論理をまた改めて述べなくてはならない。不破哲三氏は絶対地代を先にすべきとしている。大谷禎之介氏も草稿オリジナルの順にこだわって同様の主張だが、理論的には説得力ない。テキスト的にはマルクス草稿の付け足しメモを重視すべきだ。新書版『資本論』にはあるが、新版『資本論』では削られている。―― 

 そこで第3部第6編地代論の第37章「緒論」の最後の注を新書版と新版で比べます。

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*〔草稿にはこの区分線はない。草稿では、「a) 緒論」に続くのは「c) 絶対地代」(はじめはこのc)B)であった)の草稿(第四五−四七章)であるが、その冒頭に「b)のところでまえもって差額地代が取り扱われるべきであり、このことはc)の取り扱いにあたって想定されている」と記されている〕

新書版『資本論』第12分冊、1124ページ

 

*〔草稿では、このあとに「C) 絶対地代」(第四五−四七章に相当)が続いている〕

新版『資本論』第11分冊、1158ページ

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 草稿では、「緒論」に「絶対地代」が続いていますが、その冒頭に「差額地代」が先に論じられるべきだという注記があります。新書版にはそれがそのまま掲載されていますが、新版では「まえもって差額地代が取り扱われるべき」という部分が削られています。

 差額地代と絶対地代の叙述順序について、理論的検討そのものがまず重要ですが、『資本論』の編集に際しては、マルクスがどう考えていたかが独自の問題としてあります。もちろん両者は関連あり、理論的検討結果とマルクスの考えとが一致するのが自然で望ましいのは言うまでもありません。しかし『資本論』の編集においては、とりあえずその一致は措いて、マルクス自身がどう考えていたかが優先されねばなりません。あえて言えば、今日の時点でマルクスの考えが間違っていると判断されるようなことが仮にあるとしても、それを忠実に反映する叙述とする必要があります。そういう意味で、新版『資本論』の注において、新書版にあった草稿のメモの一部がわざわざ削られ、絶対地代が先に論じられるべきかのようにしているのは問題があります。

 差額地代と絶対地代の叙述順序について、上記学習会講師の「差額地代」先行論の理論的説明は説得力あるように思いますが、「絶対地代」先行論の内容を知らないので、その点は保留します。最後に繰り返すと、テキストを正しく尊重し、自説に有利に歪めることがないようにすべきことは前提です。
 
                                 2023年7月31日




2023年9月号

          中国の実像と米中・日中関係

 

 特集「経済大国・中国の実像」に関連して、二つの問題意識が喚起されました。一つは、岸田大軍拡との関係で、米中対立をどう捉え、それに規定される日中関係にどう立ち向かうかということです。もう一つは社会主義を自称する中国の政治・経済の本質をどう捉えるかということです。

 今の日本で最大の問題はもちろん戦後空前(絶後にしたい)の大軍拡です。その本質は、米中対立の中で対米従属の日本政府がバイデン政権の対中政策に盲従しているということであり、「安全保障環境の悪化」に備えるというのは口実に過ぎません。ただしロシアのウクライナ侵略戦争、北朝鮮の度重なるミサイル発射、そして東シナ海・南シナ海での中国の覇権主義的行動がある中では、もっともらしく思われるので、対米従属の問題をきちんと打ち出していく必要があります。それとともに中国脅威論や台湾有事問題についても、米中対立および習近平政権の性格などと関連させて考えていくべきでしょう。

 まず米中対立の土台にある両国の経済関係について、中川涼司氏の「米中経済関係の行方―対立と相互依存―」を見ます。論文は「はじめに」で、トランプ政権とバイデン政権の対中強硬政策が「単にリーダーの個性によるものではなく、米中関係の構造的変化に基づくものである」(37ページ)と言明しながら、「しかし、にもかかわらず、2022年の米中貿易額は史上最高水準となった」(38ページ)と指摘しています。その上で、両政権の対中強硬政策と中国の反応を具体的に跡づけながら、以下のように結論づけています。

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 以上から、アメリカの対中政策は「封じ込め政策」に回帰できないし、また、そのような選択もされていない。以前のような「同化を促す」関与政策から、激しい対立も含みつつも、「相互依存関係に基づく共存関係を維持発展できる」関与政策に代わっただけである。中国側から見ても、アメリカは「必然的に没落する資本主義」ではなく、競争対立しつつも大国として共存する相手国である。

 また、米中の対立は、国際公共財の供給において供給競争が起こるのであれば、促進要因にもなる。日本の取るべき方向性の議論として、米中の対立と相互依存の両面を正しく認識したうえで、世界の国際公共財供給を促進する立場から、米中間の調整や補完・誘導の役割をいかに果たすべきかを議論すべきであろう。       45ページ

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 このように「米中の対立と相互依存の両面を正しく認識し」、特に土台としての経済関係の不可分性をしっかり踏まえて、いたずらに対立を煽ることを排すことが必要です。日本は「米中間の調整や補完・誘導の役割をいかに果たすべきかを」真剣に考えるべきであり、たとえ日米軍事同盟下にあっても、現状のように極端な自発的従属政策で、ひたすらアメリカの対中包囲網に加担するだけという異常事態は是正されねばなりません。

 井手啓二・梶谷懐・山本恒人・及川淳子各氏の誌上討論「習近平政権と中国」においても米中対立は検討されています。米中対立の根本にあるのは、中国が購買力平価換算のGDPにおいて、2017年段階でアメリカを追い抜いたことです。その危機意識が、約50年続いた「対中関与政策」から「デカップリング」への劇的な転換を促しました。そこには「米国権力の中枢・軍産複合体の意志があると」思われます(25ページ)。こうして「新興国が勃興する中で生じる覇権国の危機意識や両国間の緊張が戦争を不可避にしていく状態」としての「トゥキディデスの罠」が想起される事態となっています(同前)。

 誌上討論では、この状況を中国側から見た議論も展開されています。それによれば、「中国の独り勝ちが続くのではないかというアメリカ側の恐れ」により、「米中対立は、米側がアグレッシブで異常で」あり、「米中対立はアメリカの戦略的判断の誤りから生まれたものです」(26ページ)と評価されます。これはその通りと思います。争いの中心が科学技術であり、中国の研究・教育の水準向上により、「アメリカの敗北は避けられません」(同前)とも言われます。ここは議論の分かれるところかもしれませんが、現状の勢いからするともっともらしく感じられます。

 しかしそもそも勝ち負けの問題とするところに思考の陥穽があります。現実的でないと思われるかもしれませんが、覇権国の交代(とそれへの抵抗)という捉え方自体が問題です。本来ならば、国際法の支配下における民主的な国際秩序が確立し、平和な共存共栄ができているべきです。それは覇権国なるものが存在しない状態です。しかし実際には、資本主義的帝国主義国のアメリカと、自称社会主義で覇権主義国の中国との闘争であるから、覇権国の交代をめぐる争いとなっています。それぞれ経済的土台の歪みがその原因の一つとしてあるので「覇権国状態」は簡単にはなくせません。しかし現実はそうであっても、それを評価する基準は別にあって堅持されるべきです。日本国憲法も国連憲章も蹂躙され続けていますが、現に存在し、それに基づく運動がある以上、覇権争いは現実ではあるが、是正されるべきだ、という観点があってしかるべきと考えます。

 と言いながら現実に目を戻すと、台湾有事やロシアのウクライナ侵略戦争をめぐって、米中両国の思考と行動には危ういものがあります。アメリカは「一つの中国」をタテマエでは認めながら、「台湾有事」を演出しようとしています。米議会で審議されている「台湾政策法」案は「危機にある一極覇権を維持するために中国を挑発し、それに過剰反応して中国が軍事行動にでる、その中国を同盟国や周辺を巻き込んで叩き、中国の国際的威信を地に落とす、というもので」す(31ページ)。ベトナム戦争時に、「ベトナム問題とはアメリカ問題である」と喝破されましたが、トランプの議論に典型的に表れているように、産業空洞化による労働者階級の没落など、国内矛盾を中国敵視に転化する転倒した思考が超党派的にアメリカを覆っています。

 ロシアのウクライナ侵略戦争をめぐって、中国がそれへの支持表明をせず、「12項目和平提案」において「主権の尊重」を明記し、核兵器の使用や威嚇に反対していることなどをもって、「中国の和平に向けての努力が新しい可能性に道をひらきつつあることは確かでしょう」(33ページ)と座談会の中で評価する向きもあります。しかし現実にはロシアの侵略戦争を手助けし、日本近海でも中ロで共同演習していることを見れば、あまりに甘い見方だと言わねばなりません。

 そのように米中両国の行状が不適切であっても、両国関係を究極的に規定する深部の力は経済的相互依存関係でしょう。「欧米諸国の動向を見ると『デカップリングは無理だ』というのが共通認識になって」(35ページ)います。もちろん両国関係のみならず「これからも産業におけるグローバルな相互関係は続いていくし、日本経済の発展も中国との関係も含んだそれらの相互依存の状況を活用することによってしかありえない」(同前)と言えます。かと言って、経済的土台が自動的に上部構造を規定するものではありませんから、政治次元では、暴発を防ぐ理性的対応が不断に求められます。その中で岸田政権の「安保三文書」閣議決定とそれに基づく大軍拡はまったく逆行するものです。「米国によって作られた『台湾有事』を丸ごと前提にした戦争体制を整え」(3536ページ)るのではなく、侵略戦争と植民地支配への反省を踏まえて、「ASEANはじめ東アジア諸国の大勢」である「米中を含む地域包括型の国際協力の実現」(36ページ)に向け、異常な対米従属外交ではなく、米中対立を緩和できる独自外交に転換することが求められます。

 誌上討論は特集「経済大国・中国の実像」の一環として、習近平政権を評価しようとするものですから、社会主義との関係で、中国の本質を探ることは必ずしも主要な課題とはなっていませんが、ある程度触れられています。中国は内政的には非民主的な専制支配の政治で、対外的にも覇権主義であるという点では、大方異存はないでしょう。それは中国脅威論の宣伝と日本の軍拡の正当化に最大限役立てられています。このマイナスイメージは虚構ではなく事実に立脚しているだけに深刻です。隣国日本の社会進歩勢力がそれによっていかに大迷惑を被ってきたかは筆舌に尽くしがたいものがあります。他方で「現在の中国は、富裕化、教育水準の向上、科学技術の躍進により、世界で最も活力に富んだ社会となってい」(20ページ)るというのも事実でしょう。貧困の克服という点でも成果を上げています。そうした達成は社会主義がもたらしたものかということが一つの論点です。

 社会主義論に踏み込む前に、中国のこの長短両面をもたらしたであろう歴史的経緯を探ってみるのが重要です。誌上討論では、「一党支配体制」は共産党以前の「辛亥革命」の孫文に負うもので、「主権在民」でなく「主権在党」の「政党国家(党国)政治体制」として特徴付けられた後、その意義と役割が次のように解明されています。

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 近代国民国家形成のための政治的凝集力を担う「党国体制」は必然的に中国共産党にも踏襲されたのですが、その「一党支配体制」は日中戦争における総力戦体制としての軍民結合体制によっても、さらにコミンテルン、スターリンによるプロレタリア独裁型の中央集権体制によっても、より強権化されたと思います。

 「党国体制」もしくは「一党支配体制」は、第二次大戦後の東アジアにおける「開発独裁」の経験にも見られるように、それがもつ凝集力やリーダーシップが発展へのダイナミズムとして機能する場合、大きな経済的社会的結実をもたらしてきたわけです。

        17ページ

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 こうして見ると、専制政治と経済的成果の両方がよく説明されるようで、結局「開発独裁」と同じか、となりかねません。しかし少なくともマルクス主義を掲げる共産党政権への評価としては不十分で、社会主義との関係(無関係という見方も含めて)を捉える必要があります。そこで誌上討論の中で「中国の社会主義市場経済化路線の選択は中国の成功の最大の原因」(21ページ)とする立場からの説明を見ます。

 そこでは、サミュエルソンが社会主義と市場経済は相容れないという見方から、社会主義市場経済論は「悪い冗談」だとしていること、池上彰氏などの「下部構造は資本主義、上部構造は社会主義の根本的矛盾、経済は資本主義、政治は一党独裁の社会主義」等の議論(同前)を謬論として紹介しています。なお、本誌本号の阿古智子氏の「習近平政権の統治手法と世論の反応 白紙運動や白髪運動にみる中国の人々の声においても「改革開放政策で開始した『社会主義市場経済』(中国の特色ある社会主義)も、計画経済であるはずの社会主義に市場経済を導入するという矛盾を孕んでいる」(67ページ)とあるので、これも謬論と見られていると思われます。

その上で「中国の経済学者のほとんどは、すでに社会主義と市場経済の両立論を受け入れ、これまでの経済学の不備を承認している。つまり20世紀社会主義の観念は否定され、根本的に転換しています。この点を理解していないと現代中国は理解できないでしょう」(同前)と主張しています。さらに「市場が資源配分機能を果たすためには、生産要素市場の形成が不可欠です」(同前)として、土地・労働力・資本の市場形成の進行を見ています。

 もっとも、「社会主義市場経済は矛盾」と規定するにしても、その矛盾の捉え方として、池上氏は「経済は資本主義で政治は(一党独裁の)社会主義」とする(矛盾観A−経済と政治の間に見る)のに対して、サミュエルソンは「市場経済と社会主義」間、阿古氏はより明快に「市場経済と計画経済」間に矛盾を見ています(矛盾観B−経済の内部に見る)。

 矛盾観Aでは、経済は資本主義と規定した上で、そこには矛盾は見ず、(一党独裁の)社会主義の政治との矛盾を見ています。この政治論は典型的なブルジョア的俗論で、社会主義とは一党独裁だという認識は少なくとも今日の科学的社会主義とは無縁です。しかしマルクスの描いた自由で民主的な社会主義体制は未だ存在せず、マルクスの名を冠して社会主義体制として現存していたのはそういう形しかなかったのは事実なので、この俗論は常識として定着しています。これは一つの現実として認識する必要はありますし、ソ連史研究の塩川伸明氏による「社会主義体制はそもそも民主主義と両立しうるのか」という問題提起(塩川氏は否定的)は重く受け止める必要があります。

 その問題はとりあえず措いて、形式的に問題を整理すると、「資本主義VS社会主義」の体制対抗をまず規定するのは経済体制であり、どちらの経済体制であろうともその政治的上部構造として一般論としては民主主義も独裁もあり得ます。たとえば、資本主義経済上の独裁政治は枚挙に暇がありません。矛盾観Aは、「資本主義経済=民主主義政治」と「社会主義経済=独裁政治」という勝手な図式を前提しているので、「社会主義経済=民主主義政治」というタッグはあり得ず、矛盾だと主張しているわけです。それは一般論としては間違いだけれども、現実の検証を含めた理論の深化は課題として残っています。

 矛盾観Bへの回答として上記の「社会主義と市場経済の両立論」があります。しかし誌上討論に見る限りでは、その「両立」の中にどのような社会主義的性格があるのかという説明はありません。それは単なる資本主義市場経済ではないのか、という疑問は拭えないということになります。

この両立論において、社会主義市場経済の確立に向かって、「市場が資源配分機能を果たすためには、生産要素市場の形成が不可欠です」として、土地・労働力・資本の市場形成の進行を見ています。そこから分かるのは、社会主義市場経済という場合、この市場は単純商品生産市場ではなく、資本主義的搾取の舞台としての市場だということです。労働力の市場化はまさにそうですし、「資本」とは貨幣資本(ゲルト・カピタルとマニイド・キャピタル)を主に指し、今日では金融化につながり得るものです。したがって、生産要素市場の形成とは、新自由主義グローバリゼーション下で、資本主義的搾取関係の全面化に向かうと見るのが順当でしょう。20世紀後半における東欧諸国の経済改革がたどったのがその道であり、漸進的改革の困難を尻目に、1989年の諸国政権のドミノ倒しを機に歯止めが外れて急進化され、グローバル資本と先進資本主義諸国の餌食になりました。もっとも、同時期の中国の経済改革はグローバリゼーションの勝ち組になったという点で対照的ではありますが、そこに社会主義的性格を看取しうるかが問題となります。

 ただし誌上討論では「中国は1213年以後、市場の役割が決定的とし、生産要素市場の形成を進め、同時に政府の機能・役割の改善につとめ、高水準の社会主義市場経済体制の構築にむかっている」(21ページ)とされているのに留意が必要です。政府とは言っても、中国のそれが「労働者階級の権力」という実質を備えているとはとても言えないと思いますが、この周辺の議論を見ましょう。

 「習近平政権の経済運営はいわば、『党指導下の市場経済』つまり党指導の強化、国家主導に舵を切った『国進民退』状況にあるのではないか」(23ページ)という否定的疑問に対して、「中国の社会主義市場経済路線では、国有企業の役割を低める方針はありません。やはり一定規模の社会的所有がないと社会主義たりえないわけで、そこはブレていないと思います」(同前)と答えています。さらに「国有企業についてはその配置・構造調整改革にとりくみ、 …中略… 痩身健康体になってきています」(22ページ)として、私的セクターも発展しているので「国進」「民進」だとしています(23ページ)。この国有企業が社会的所有の実質を担っているのかという問題は措くとして先を見ましょう。

 社会主義市場経済の根本問題は以下の議論に現われています。

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 問題は、国有資本も産業資本としての利益を追求する以上、それに伴う労使間の矛盾も必然的に拡大する、ということです。一方の民営企業も、国有資本からの投資を受けている以上、完全な私企業ではないという面もある。こういうグレーな状態が現状だと思います。だから、国有企業を民営化すればよいとは思いませんが、現状が望ましい形かといえば決してそうとは言えない。むしろ国有資本であれ、私的資本であれ、産業資本の野放図な拡大に歯止めをかけ、利益を社会的に還元する仕組みが必要ではないか。そうでないと、社会主義の理念に沿うことにはならないのではないか、と思います。

  …中略…

中国が経済成長をグローバルな市場や資本の自律的な運動に依拠する限り、産業資本が増殖し経済が成長していけば搾取も拡大するという矛盾からは逃れられません。これを果たして現在の政治体制の下で解決できるのか。具体的にはこれから労働者への分配をどうしていくのか、という点に注目したいと思います。    24ページ

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 社会主義市場経済における資本主義的搾取の存在を正視し、当面する問題として、労働者への分配をどうするかがあります。さらには企業の生産現場において労働者の主権性をどこまで伸ばしていけるかが問われます。とてもそこまで見通す段階ではないだろうと思いますが、社会主義を名乗る者の課題がそこにあることを忘れるわけにはいきません。

現実問題として、資本主義的搾取を廃絶した社会主義経済がすぐ現出するわけはなく、社会主義的変革を目指した後に、長らく多セクターの共存が続く事態が予想され、その共存の場を提供し国民経済や世界経済を形成するのは市場に他なりません。それを前提に、企業や市場への民主的規制を含めて、国民経済のマネジメントをいかにこなすかが試行錯誤を含む実践的課題として残されています。

 中国経済を見る場合、その本質規定をどうするかが一つの大問題ですが、とにかくその現状をできるだけありのままに見た上で、その内政の専制主義・外政の覇権主義との関係(あまり関係ないという見方も含めて)を考えることもまた重要であろうと思います。岸田大軍拡に直面する日本において、その一つの重要な口実とされる中国脅威論の虚実について、経済体制のあり方も含めて冷静に見極めることは今後長らく必要とされるように思います。

 

 

          日本経済停滞への危機感

 

 最近では、賃金も韓国に抜かれたという体たらくで、バブル破裂後、とくに21世紀突入後、日本経済の低迷は目を覆うばかりです。それは人々の生活と労働の危機を伴っていますが、メディアなどではむしろ国民経済的危機として強調され、日本の諸個人にとっての生活と労働の問題というより、日本というもの自体の零落への危機感という文脈で語られています。そこでは、高度経済成長期へのノスタルジーを伴う、現状への失望感、それと裏腹の(正当な反省を「自虐」と揶揄するセンスでの)自慰的な「日本すごいね感」等といった非建設的な諸感情が渾然一体となっています。それは新自由主義と保守反動の野合というアベ政治の反映であり、また逆にアベ政治はそうした負の感情を土壌として咲き狂っていた(る)とも言えます。

 低賃金・生活苦という一人ひとりの重い実感を「日本の没落と危機」に連動させ、諸個人の生活改善のための政治経済変革ではなく、逆に諸個人がこらえ頑張って、政府への「不毛な批判」を排して、日本が馬鹿にされないように立て直そう、とでもいうような「愛国的」空気を支配層が煽っているように見えます<☆補注>。ロシアのウクライナ侵略戦争を奇貨とする大軍拡アピールと軌を一にして。

 もちろん私たちはそうした問題点のすり替えを許さず、負の感情の蔓延の土台には、新自由主義とアベノミクスの失敗があることを明らかにして、変革の展望を示す必要があります。そうして負の感情の暴走によるファッショ化を防ぎつつ、支配層の「健全な」生産力主義的危機打開策へのオルタナティヴの普及を目指すべきでしょう。

したがって、議論の出発点はあくまで諸個人の生活と労働の改善であり、手っ取り早くは再分配政策の復活・強化です。これは生産関係視点からの政策要求の一つです。しかしそれは一面化すると、悪く言えば「モノトリ主義」に陥り、経済発展を抑える方向に作用しかねませんし、生活優先政策ではあっても、野放図な金融緩和と財政支出は物価上昇等の危険性を伴います。したがって、その不十分性に対して、生産力視点からのアプローチを補う必要があります。村上研一氏は「国内供給力強化策を欠いた内需拡大策は、円安と物価上昇をさらに深刻化させる可能性も否定できない。/そこで重要なのが、内需に応答した安定的な国内生産基盤を再建・構築することである」(「円安・物価上昇と日本経済の課題」、本誌20232月号所収、56ページ、以下「232月号の村上論文」)と指摘しています。

 なお、村上氏は21世紀を迎えて後の20余年の日本経済の衰退について、新自由主義的経済政策の失敗を中心に簡潔に振り返っています(「日本産業・経済の停滞・衰退――その要因と研究の課題――/政治経済研究所編『政経研究』No.120 2023.06/所収の巻頭言)。 

それによれば、小泉政権下で不良債権処理が強行され、短期的利益を上げられない企業・産業が淘汰されました。その税制・会計制度改革は企業の競争力強化への支援であり、雇用・労働条件は、リストラ・非正規雇用増大により企業の競争力強化の犠牲とされました。2000年代は第二次ベビーブーム世代の結婚・子育て期に当たりましたが、1990年代の就職氷河期・非正規雇用化により、経済的理由で結婚・出産は諦められました。こうしてあるべき「第3次ベビーブーム」が不発となりました。ここには日本経済・社会の停滞・衰退につながる重大な政策的誤りがあります。

2010年代、安倍政権下では、円安期待の金融緩和策、原発・化石燃料に依存したインフラ輸出戦略、公共事業による景気テコ入れ、法人減税を含む企業負担減、雇用流動化が推進されました。これらは競争力強化・企業支援策を中心とする従来型の成長戦略と言えます。

2010年代以降、経済成長率は停滞し、実質賃金は下落しました。企業負担軽減策で財政赤字が累積し、公共事業拡大は頓挫しました。消費税増税と福祉削減は生活への脅威です。輸出産業は空洞化し、競争力が衰退し、円安下でも輸出が増えません。企業収益維持のため非正規雇用が拡大されました。雇用増大した介護・保育分野でも、福祉削減の結果、低賃金が放置されました。

コロナ禍を経て22年以降は円安による物価高騰が生活を破壊しています。<円安→輸入品価格上昇・物価高騰→実質賃金低下・生活水準悪化→内需縮小→安価な輸入品の購買増→国内産業衰退>という悪循環に陥った日本の産業実態を直視せず、既得権益層・輸出産業の利益優先の従来型の成長戦略が続けられることで、需要・供給両面から日本経済は縮小・衰退しました。

日銀は10年来の量的緩和策で巨額の国債を保有し、国債価格暴落・金利急騰リスクから出口なき金融緩和に陥っています。金融緩和策での円安下でも、産業の供給力衰退に伴い輸出は停滞し、貿易赤字増からますます円安が進行しています。供給力衰退により、各種消費財、半導体など中間財ほか各種品目・産業で輸入依存に向かっています。これでは外貨獲得困難から食料・エネルギー輸入にも悪影響が及ぶ事態が懸念されます。

結局、20年来の政策基調としてのサプライサイド重視の市場原理・収益性原理を最優先する新自由主義は日本産業の競争力衰退に帰結したことが指摘され、最後に今後の研究課題が提示されます。「このような2020年代日本が直面する課題の解明と克服をはかるには、日本経済・社会についての理論・現状分析両面での検討、政治や国際関係を含めた体系的・俯瞰的な研究のさらなる深化が不可欠であると考える」(2ページ)。

以上は新自由主義・アベノミクスの政策的誤りを中心に、需要・供給両面から日本経済が縮小・衰退したことを描いています。それに加えて、232月号の村上論文では、供給面について、新自由主義的制度改革に伴う企業経営の変化に着目しています。「短期的収益性を優先する『財務の経営』が広が」り(55ページ)、「中長期的観点からの投資や研究開発は削減され、産業転換が妨げられる傾向にな」りました(5556ページ)。また「分社化や人員削減、国際的提携を通じた経営改革の中で」リストラされた技術者が韓国・台湾に移籍し「研究開発能力や生産技術が流出し」ました(56ページ)。「こうして、日本産業の空洞化とともに、国際競争力は衰退し」ました(同前)。

 そこで対策として、「内需に応答した安定的な国内生産基盤を再建・構築すること」(同前)が不可欠であるとされ、たとえば、省エネ・再エネ技術の活用による食料・エネルギーの地産地消などが課題としてあげられます。さらには「利潤原理を最優先した企業経営によっては、安定的な国内供給力の形成は難しい」として「資本主義的原理に従属しない供給力の拡充を展望すること、すなわち私的所有に基づいた生産関係を変革することが構想されるべき局面を迎えていると思われる」とまで言及されます(57ページ)。

 日本経済の長期停滞を見る視点について、以上では次のような順序で考えてきました。まず、労働者・人民の生活と労働の改善への即効性の立場から所得の再分配政策(税財政と社会保障)の必要性があげられます。これは、経済停滞による生活犠牲への対策であるとともに、生活改善が内需拡大を通じて経済の活性化に資することになります。これはいわば生産関係視点に基づいた議論であり、社会運動や政治運動では喧伝されてきました。しかしそれだけでは不足しており、「内需に応答した安定的な国内生産基盤を再建・構築する」課題が残されています。生産力視点からのアプローチです。

 村上氏は両視点を踏まえて、政府の新自由主義的経済政策への評価を中心に具体的に現状分析と対策を提起しています。それに対して主に生産力視点から、政策次元より原理的で、かつ中長期的パースペクティヴに構えた議論を展開しているのが、本誌本号の田中祐二氏の「日本経済の長期停滞を考える 動学的比較優位と国際価値論の視角からでしょう。この論文は啓蒙的に書かれているのだから、十分に理解し、その論理構造に即しつつ、個々の論点についても併せて内在的に検討すべきですが、私の力では果たせていません。以下では遺憾ながら外在的感想にとどまっていますが、現時点で言いうることを述べます。

 ごく簡単に論文の柱を捉えるなら、資本主義の歴史的発展とその中での現状の位置づけ、ならびに日本経済の長期停滞の打開策について、生産力視点から以下のような論述が注目されます。まず提示されるのが、「欧米日の先進資本制諸国は、概ね繊維、鉄鋼、電機および自動車の四つの寡占部門が、順に比較優位の位置をしめてきたとするなら、最後の自動車産業がピークアウトをして次に新しい産業を展開しようとしている過程に身を置いていると考えられる」(129ページ)という大筋としての発展観です。ところが現時点で諸外国では新産業の展開が着々と進んでいるのに、日本は後れをとっています。そこで「日本経済停滞の打開策は、イノベーション活動に基づく新製品の開発・生産による高付加価値の創造であると考えられる」(128ページ)。あるいは「生産性の拡大による価値水準の引き下げ、つまり価格の引き下げを実現して、競争力をわがものにしなければ、スムーズな産業転換は実現しない。新たなイノベーション(技術革新)に基づく高付加価値新産業の創出こそ、長期的停滞の打開のカギをにぎっていると言えるであろう」(124ページ)ということになります。重複する部分もありますが、こうした打開策とその展望する未来の生産力像が以下のように打ち出されます。

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 したがって、新たな生産性の向上はまずもって新産業部門の創出による高付加価値の獲得が重要な政策課題でなければならないと考える。それは、これまでの寡占産業のような重厚長大型の生産様式が主要都市部に集中して発展する形では最早なく、IT技術を生産に埋め込んだ軽薄短小型の、しかもベンチャービジネスを中心とした産業クラスターの地域における形成を基盤に分散的に発展する形をとるものであると考えられる。

    134ページ

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 論文が描き出しているのは資本主義的経済発展、その過去・現在・未来です。日本経済はそれに沿って発展しなければならないとされます。特にプロダクト・イノベーションと新産業部門創出がそのカギとされます。問題はそれが労働者・人民にとってどうなのかということですが、触れられていないようです。

 確かに資本主義的経済発展・生産力発展の大勢に日本経済が後れれば、グローバル競争下でその国民経済的発展が難しくなり、ひいては人々の生活にも悪影響が出るということになります。しかしその生産力発展が新自由主義グローバリゼーションとして展開されることへの批判がここにはありません。そこでの世界経済と国民経済の発展は、労働者・人民にとって有意義なものなのか。たとえばデジタル化が監視資本主義となるのか、それなりに民主的規制下に置かれるのか、あるいは社会主義的生産関係下での新たな生産力発展の基礎となるのかということは検討すべき問題です。

 論文で象徴的なのは、日本の雇用関係が最初と最後に採り上げられていることです。最初に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」時代に「世界の手本とされた」「電機・自動車などの寡占企業の日本的雇用関係」が提示されます(123ページ)。それは現実に存在したものですが、最後には今後の課題として、「ITを組み入れた生産様式の変化に照応したビジネス組織のフラット化の進展」(134ページ)などに対応し、労働組合組織形態の転換をも視野に入れた雇用関係が提示されます。対照的な雇用関係ですが、採り上げる問題意識としては、資本主義的生産力発展にいかに資するかということで共通しています。もちろんそれは現状分析や政策提起上の重要課題ですが、雇用関係という場合に、階級闘争の観点、搾取はどうなるのかという問題を捨象するわけにはいかないだろうと私は考えます。

 こうして見みてくると、論文の方法として、ここでは生産関係視点をとりあえず捨象しているということか、そもそもそれは重要でないと考えているのか、ということが問題となります。前者であれば、とりあえず措いた問題を補うことが今後の課題となりますが、後者であれば生産力主義的偏向に陥っていると私は思います。

 資本主義発展の論理について、論文では、近代経済学の学説とともに、マルクスや『資本論』の理論が参考にされています。マルクスにとって、資本主義経済は革命によって打倒する対象であり、短くない一定期間における資本主義国民経済のマネジメントという発想がそもそもなかったと思われます。しかし理由はこの際措くとして、現代の共産主義者にとってはそれが課題としてあります。そうすると、マルクスの資本主義発展の論理とその課題とはどういう関係にあるのかを考える必要があります。

『資本論』などで解明されているのは打倒されるべき資本主義経済の客観的あり方(資本の持っている生産力主義の発揮された姿)であり、いわば突き放した経済像でしょう。すると、(資本主義の枠内での変革という当面する現代の課題に不可欠な)資本主義国民経済のマネジメントに、マルクスの上記の経済像をそのまま望ましい資本主義発展のあり方として重ねるのは筋違いではないかという気がします。時代が違うということだけでなく、課題意識が違うということです。

 資本主義の枠内での変革は、社会主義的変革への国民的合意ができていない段階で、資本への民主的規制を通じて生活と労働の改善を重ねていく段階でしょう。革命勢力はその経験をテコに社会主義的変革への同意を追求します。資本主義国民経済のマネジメントを果たしつつ、それを実施します。最低限経済破綻を招かないという意味での現状維持をクリアしながら経済発展を実現させて人々の生活を守りつつ、同時に、資本への民主的規制を、経済政策という政治次元において、社会運動などの市民社会次元において、各企業内での労働者の実権の拡張という次元において様々に追求します。

 もちろんそれは政治次元では未経験の領域であり、現状では、発達した資本主義諸国でそうした変革的政権は存在していません。だから経済政策の根拠となる現状分析の基本が、資本の運動の全面的発揮を前提とするものとなり、その意味では、マルクスの資本主義発展の論理がそのまま適用されるのは妥当です。しかし新自由主義政策の破綻が明確になり、それによって資本主義批判も一定の勢いを持っている今、ブルジョア政権に対置して、資本への民主的規制を含めた経済像を人々に提示することが求められます。マルクスの資本主義発展の論理を現状分析に適用するとともに、経済社会変革の展望を考え人々にそれを指し示す局面では、資本への民主的規制の論理をそこにどう組み合わせて打ち出すかが課題となります。

 現状分析と変革の方向性との関係についてアレコレ冗長に書き連ねてしまいましたが、論文の中の注目点に戻ります。グローバル競争の激化を所与の条件とするならば、「地域に埋め込まれ自らの存続と雇用維持をめざす集団的意思を持った経済主体」=「現場指向企業」(127ページ)はどうやって生き残っていくべきか。それについていくつかの言及があります。「雇用創出の課題と人材育成が、同一商品の改良に止まるのではなく、新製品の開発、新産業部門の創出につながれば、労働節約的技術革新による生産性の拡大と雇用保障を同時に実現することになるであろう」(同前)。ここで新製品の開発が有効需要の創造につながるということから、厳しいグローバル競争の下でも「生産性向上と有効需要創造により生き残り、目標利潤率を確保するケースも多い」(128ページ)と指摘されます。以上から「イノベーション活動に基づく新製品の開発・生産による高付加価値の創造」が「日本経済停滞の打開策」(同前)と捉えられます。先に、新自由主義グローバリゼーション下においてそれが労働者・人民にとってどういうことになるのかが問題だと書きました。それは必要な指摘ですが、とりあえず地場産業を支える中小企業の経営指針としては、上記の「現場指向企業」論は有用な視点を提供しているでしょう。

 論文はマルクスの資本の有機的構成高度化論から「労働集約的産業から資本集約的産業への転換は必然化する」として、「その過程は、さらに、生産技術のソフト化に伴い、技術・人的資本集約型へと転換していく」(同前)と主張します。もちろんこの前半がマルクスによるのに対して、後半は今日一般の言説によります。それはさらに、マルクスの論理と対照的な形で次のようにも表現されます。「これまでの寡占産業のような重厚長大型の生産様式が主要都市部に集中して発展する形では最早なく、IT技術を生産に埋め込んだ軽薄短小型の、しかもベンチャービジネスを中心とした産業クラスターの地域における形成を基盤に分散的に発展する形をとるものであると考えられる」(134ページ)。これは資本主義発展の論理の新形態でしょうか。

 ここには、マルクスの論理と現代資本主義との関係をどう考えるかという問題があります。資本の有機的構成高度化論は利潤率の傾向的低下の法則と関係ありますが、デジタル化による軽薄短小型化はそこから逃れるものなのか、GAFAMの超過利潤がその例証なのか、そうだとしてもリーディング産業のデジタル化は国民経済全体をそうした新現象で覆ってしまうのか…等々が考えられねばならないように思います。

 しかしより興味深い問題は、上記の産業未来論に関して、始めのデジタル化による主導の部分よりも、後の地域分散型を提起している部分にあります。今後の国民経済のあり方として、グローバル競争の論理を批判しそれへの規制を不可欠としつつ、食料・エネルギーの地産地消による内需循環型地域経済の構築が構想され、それを抜きに今後の日本経済の展望はあり得ないと思われます(<☆補注(2)>)。 

 最後にまた考え方を振り返ります。先に「議論の出発点はあくまで諸個人の生活と労働の改善であり」と書きましたが、それだけでは生産関係主義に陥ってしまうので、生産力視点で補う課題が残されており、若干の論考を見ました。とはいえ、「議論の出発点」そのものは厳守すべきであり、その観点から資本主義的生産力発展への批判とオルタナティヴの提示が欠かせません。その際に、現実的には遠い目標とはいえ、社会主義的変革の視点を基準として持ち続けることが必要と思われます。

 

 

<☆補注>

1

 日本の経済停滞の捉え方として、諸個人の立場からか、国民経済の立場からかという違いがあります。というか実際には、前者は人民の立場から出発して国民経済を捉えるということであり、後者は支配層の体制維持の立場から出発して国民経済を捉えるということになります。しかし始めに述べたようにまずは<個人VS日本全体>として現われてきます。

多くの人々が貧困を始めとする諸困難に陥っているとき、対処する政治・行政のあり方について、諸個人に直接よりもその周囲の社会的制度や環境整備に、また個人に対しても、単に施すのではなく自立できるように、という原則が主張されることがあります。それは一般論として妥当であることもあり得ましょうが、多くの場合、支配層の階級的利害としての「公共性」(被支配層の立場の「公共性」もあり得る)にくるんだ政策パッケージを正当化する思惑がそこに貫徹されています。

 それを考えるわかりやすいテーマとして、災害の罹災者への支援のあり方を取り上げます。井上洋氏の『明治前期の災害対策法令 第一巻(一八六八ー一八七〇)(論創社、2018年)に対して、アマゾン・サイトのカスタマーレビュー(2018522日)が激賞していました。それによれば「本書は、1868年から1870年までの3年間について、『法令全書』から災害対策に関係する法令をすべて抜き出し、発布順に配列して注解を付したもの」であり、「第一級の史料集であると同時に恐るべき告発力をもった研究書」です。さらに「井上洋氏の災害対策観と歴史認識と、そして現状への批判が、控えめな口調ではあるが、確実な証拠をともなって語られる。価格も高いし、分厚いが、歴史研究者や災害研究者だけでなく、まずは、災害対策に当たる諸省庁や地方自治体の関係者にぜひ読んでもらいたいし、災害対策に関わる諸運動・団体や政党の方々にも読んでもらいたい」と推奨されています。なお本書では、本体たる明治前期の災害対策法令の注解に先立って序説があり、その中では現代の原発震災など広範な対象についても言及されています。

 <個人VS日本全体>をどう捉えるかという問題でしたが、自然災害を例に取る場合、<自然VS人間社会>という問題が先立って出てきます。これについて井上氏は、荒唐無稽な自然改造案で、「異常な自然現象それ自体を人為によって管理するという発想」を批判し、「これは我々のなすべきことではない。災害に対して我々がなすべきことは(そして我々にできること)は自然への畏敬の念を持ち、我々の領分である社会を強くすることである。我々の社会(国家国土ではない)を強くするとは、我々ひとりひとりが自然の摂理と社会のあり方について知識と考察を深めることであり、そのようなひとりひとりの間の繋がりを多様かつ堅実なものしていくということである。発災後についても我々ができるのは、そしてなすべきなのは、社会の側の仕事、すなわち災害に対する応急対処(救助など)であり、これは危機(緊急事態)管理と呼ぶ必要はなく、災害応急対応とありのままに捉えるのがよい」(79ページ)と主張しています。また地震学者の石橋克彦氏が「大規模地震に対しては『技術的防災』ではなく、社会経済システムの変革(「私たちの暮らし方の根本的転換」)で対応すべきことを唱えた」(73ページ)ことも紹介しています。

 防災や災害対応と言えば、技術的発想に傾きがちになるのが普通でしょうが、井上氏としては、上記のように社会科学研究者の責務としての主張を行なっています(そこには緊急事態条項での改憲を含めて、「危機管理」という非民主的なショック・ドクトリンへの警戒もあるでしょう)。ところが自然科学研究者である石橋氏もまた社会科学研究者顔負けの主張をしていることが注目されます。石橋氏は阪神大震災後1年の時点で、それ以上の巨大地震によるより大きな災害が起こることを警告しつつ、「都市という器の在り方を不問に付して中身だけを技術的にいじる震災後の多くの防災都市論議が、いかにも空疎に響く」と喝破して、以下の卓見を述べています。

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 地震に強い都市づくりとは、結局、都会と田園のバランスのとれた分散型の国土と社会をつくることに帰着する。それは、自然の摂理に調和した国土づくりということであり、災害に強いばかりではない。地球の環境と自然、自然の一部としての人間の身体と精神を守ることによって、より高度な文明の実現につながる。

                「朝日」夕刊 1996118日付

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 石橋氏のこの時点での肩書は建設省建築研究所国際地震工学部応用地震学室長です。自然科学・技術の研究者であるとともに国家公務員の技官としての本来の立場を真に踏まえた発言だと言えるでしょう。翌97年には「原発震災」に警鐘を鳴らし、不幸にして予言は的中しました。自然と社会に対するこの慧眼に敬意を表します。

 また、本誌20174月号での弁護士と歴史学者の対談が「地震などの自然現象は災害の誘因にすぎず、むしろ、災害の本来の原因は、我々の自然の利用の仕方にあり、これは社会現象であるという考え方」の上で「地震学・噴火学などのみでなく、工学や人文科学・社会科学をふくむ学際的な学問分野として、災害科学をつくり出さなければいけない」(津久井進氏と保立道久氏の対談「巨大災害の時代に問う 災害法、予知と歴史」109ページ)と指摘しているのも重要です。

なお、地震学・地震工学専攻で、名古屋大学減災連携研究センター特任教授の武村雅之氏もちょうど100年前の関東大震災について、明治政府の都市計画失敗による人災と断じています(「しんぶん赤旗」日曜版、827日付)。それによれば、道路や公園などの近代都市としての基盤整備を行なわず、軟弱地盤の上に広がった木造家屋の密集地域を放置しました。震災直後に立案された「帝都復興事業」は、公共性を第一として、耐震・耐火だけでなく、都市の美観・景観まで考えた計画でした。しかし戦後復興では、都の都市計画課による公共性を持った案が安井誠一郎都知事によって握りつぶされ、都市整備は進まず、今日では首都直下地震の脅威におびえる状況となっています。

2

ところで脱線ついでに言えば、原発震災は生産力とその発展の捉え方に重要な問題を提起しています。丸山惠也氏は以下のように主張しています(「原発問題と経営学 電力独占とエネルギー転換」、本誌20145月号所収)。

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 資本主義経済の「炉」ともいうべきエネルギーが原子力によって賄われていることの問題を、生産力という基本的概念の検討から始める。生産力を一般的に「物質的財貨を生産する力」と理解し、これを歴史貫通的なもので、社会発展の原動力と捉えるのは間違いである。生産力をいかに効率的に高め、経済的につくりだしていくかということが社会を発展させ、人々を幸せにするものではないことを、原発事故が明らかにした。重要なことは生産力の「量的拡大」ではなく、「社会的質」を問うことにある。

   88ページ

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その上で丸山氏は原子力エネルギーと自然エネルギーとの生産力としての特徴を対比し、前者から後者への移行を推奨しています。そして自然エネルギーの生産力としてのあり方を以下のように社会変革との関係から捉えています。

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 自然エネルギー事業は、もともと小規模・地域分散・自然資源依存の特質をもち、地域住民、地方自治体などが事業主体となるのにふさわしいシステムなのである。しかも、この取り組みは自然エネルギーの創出にとどまらず、地域社会の活性化、地場産業の活性化と新しい農村工場の設立、地域雇用の創造などを通じて地域循環型社会、そして持続可能社会の構築を目指す運動と繋げることに大きな意味がある。

       96ページ

 

 これまで電力会社に独占されてきた電力エネルギーという生産力を、地域住民が自分たちの手に取り戻し、それを自ら管理するということは、今日の日本社会を変えるという課題に結びつく重要な意味を持つ取り組みである。これは、これまでの住民と社会との係わりを根底から問い直すことでもある。

 エネルギーについての住民参加、住民事業、住民管理の根底をなすコミュニティ・パワーは、原発に象徴される巨大な電力会社の電力エネルギー独占支配を崩し、日本社会を原子力エネルギーから自然エネルギーへと転換させ、安全で、豊かな社会を構築するための原動力である。         97ページ

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 つまり原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換は、地域循環型社会などの新たな社会のあり方への転換を意味し、電力エネルギーという生産力を独占資本から地域住民に取り戻すことをも意味するのだから、あきらかにそれは社会進歩であり、それを生産力発展と呼ぶべきだという含意があるように思われます。つまり生産力の「量的拡大」ではなく、「社会的質」を問う、という問題意識に則して言えば、生産力のあり方として、「量的拡大」で優位の原子力エネルギーではなく、「社会的質」で優位の自然エネルギーを採るべきであり、それが生産力発展であるという捉え方でしょう(詳しくは拙文「本誌20145月号の感想」の「資本主義を捉える (3)生産力をどう捉えるか」参照)。

3

 閑話休題。<個人VS日本全体>の問題に戻ります。井上氏は原発震災に際して、危機の捉え方が二つに分かれることを鋭く指摘しています(井上前掲書、8083ページ)。

 《危機の捉え方@》多くの人の健康と生活を破壊するおそれが差し迫っていること

 《危機の捉え方A》「原子力政策の推進をめぐって形作られてきた官産政学の利益共同体が維持できなくなる」という恐怖感(原子力政策の破綻の現実化)

 「危機管理」という言葉を使うにしても、通常は@だと思われるでしょうが、政府・支配層のホンネはAにあるわけです。なおこれは独断的に言われているのではなく、本書では菅直人首相官邸や経済産業省、原子力安全・保安院、東京電力などの原発事故当時の動向を具体的に分析して論定されています。事故当時の首相官邸は@の立場でしたがそれは一時的例外的であったことは周知の通りで、政権交代を経て現岸田政権では完全に事故以前に回帰しています。

原発震災の他、災害対策一般に関して、井上氏は本書での研究対象(明治前期)を超えて、現憲法下でも、国家の向き合い方、一般的な行政の哲学として、「しかたがないから」救援するという姿勢が現在まで続いていると考えています。「罹災者の救援を産業政策の立場から考えるのが政府与党の立場であり、罹災者の生活を直接的に支援することを考える視点を忌避する傾向があ」り、「政府与党(とその背後にある行政官庁)の基本的な態度は、政府の援助により産業が立ち直ればそこで働く人びとの生活も自動的に立ち直るという意見であって、それゆえ救助は罹災者個人には向かわず、まず何よりもインフラストラクチャーの復旧を含む産業の復興に政策的力点が置かれることになったのである」(井上氏の「明治前期の災害対策法令(第4輯)(その2)」/南山大学紀要『アカデミア』人文・自然科学編第26号、20236月/所収、234ページ)と指摘されます。この「行政哲学」は(本来資本主義企業ではない政府が)資本の運動の担い手としての非人道的性格を持っていることを表わしています。その陥穽はすぐさま端的に指摘されます。この「救援哲学」では、「高齢者が増えて、産業の復旧・復興を介した仕法では救援されない(生活を立て直せない)層が大きくなった現在の日本では、救援の機能不全が発生し、最終的には夥しい数の棄民が生じる恐れがあること」(同前、235ページ)が忘れられてはなりません。

 以上を見ると、<自然VS人間社会>問題と<個人VS日本全体>問題の結節点に日本社会のあり方があることが分かります。それはまず資本主義的搾取制度の土台上に、現代では対米従属的国家独占資本主義体制として存在し、個人の尊厳に対して資本主義的開発を優先する「公共性」を持っています(現憲法第13条にもかかわらず)。明治以降の近代化、戦後高度経済成長期の土建国家体制、高度経済成長破綻後の新自由主義体制というように、資本主義体制としての本質的変化を経ながらも、この「公共性」は貫徹されています。資本主義搾取制度とこの「公共性」とを墨守する前提下では、<自然VS人間社会>問題においては、自然を支配する技術のあり方だけが操作の対象です。<個人VS日本全体>問題においても、資本主義的開発体制が維持・優先される方策に応じて、諸個人のあり方は歪められ切縮められます。そのように忍耐強く「フレクシブル」な諸個人だけがそうした社会経済体制を許容します。「水俣病は高度経済成長の犠牲だと言うけれども、水俣病を許すような社会だからこそ高度経済成長が実現した」(色川大吉氏)ということです。この墨守される日本の社会経済体制は通常当たり前のものとして、つまり社会的「自然」として受容されており、したがって、<自然VS人間社会>関係と<個人VS日本全体>関係は現状で固定化されています。しかし社会経済体制それ自体の変革が両関係を根本的に変え、それは併せて生産力とその発展のあり方の把握にも反省を迫るものです。井上洋・石橋克彦・丸山惠也各氏の問題提起はそのように敷衍できるのではないかと考えます。

 なお、井上氏の『明治前期の災害対策法令』は第1巻の後、第2巻(2020年)、第3巻(2023年)も、学生時代の知人として私に贈られました。門外漢の私には「猫に小判」であり、それは今も変わりませんが、つい最近ネット上の上記の書評での激賞に接することでほんの少しその真価を理解することができました。井上氏は本年3月に南山大学を定年退職され、その直前にお会いして、大学人としての長年の苦労の一端を拝聴しました。まさに労作の名にふさわしい大著を刊行され、同テーマの研究を続行されることにエールを送りたいと思います。
                                2023年8月31日





2023年10月号

          チリ・クーデター50

 

 「9.11」と言えば、2001911日のアメリカ同時多発テロを指すのが定番ですが、他にも、2000年の東海豪雨というのも名古屋あたりでは言われます。しかし私にはなんと言ってもちょうど50年前、1973年のチリ・クーデターが想起されます。もっとも、関心はあってもあまりよく知らないというのが実態で、本田浩邦氏の「チリ・クーデター50年 アメリカの関与を中心にからは多くのことが学べました。それに関連して私の問題意識としては二つあります。一つは、現情勢下でロシアのウクライナ侵略戦争の暴虐ぶりに焦点が当てられる(それは当然のことだが)のに対して、これまでアメリカ帝国主義が世界中でやってきたことが忘れられ、まるで正義の味方面しているということです。二つは、十代からの関心事である社会主義的変革のあり方です。

 論文の副題が「アメリカの関与を中心に」となっているように、チリ・クーデターの本質がアメリカ帝国主義による合法政権打倒政策にあることが詳しく解明されています。このことは現在極めて重要です。岸田大軍拡が世論の一定の支持を得て暴走している裏には、ロシアのウクライナ侵略戦争によって戦争の脅威が煽られ、軍事的抑止力の強化が不可欠だという空気が蔓延していることがあります。その際に、ロシア・中国・北朝鮮という悪のブロックに対して、アメリカを中心とする正義のブロックが強化されねばならないという観念が不動の前提とされています。日米軍事同盟によって日本は守られているのだからそうしなければならない、と。

 (軍事同盟志向自体の問題性はひとまず措きますが、)そこでは、アメリカがベトナムやイラクに対して侵略戦争を行なったのを始めとして、世界中で侵略とクーデター支援に手を染め、反共なら軍事独裁政権でも利用する、という帝国主義の本質がまったく忘れられています。対米従属下での外国攻撃能力保有など岸田大軍拡が、日本を守るどころか、アメリカ帝国主義の盾となって戦争に巻き込まれる、という事態の本質が理解されていません。日米安保条約下では、アメリカが矛、日本が盾となって日本を防衛するというのが従来のタテマエでした。それに対して、日本政府が集団的自衛権行使容認に進んだ現状では、日本も矛の役割を分担することで日本防衛を果たさねばならない、と言われています。しかし実際には、外国攻撃能力保有という矛は日本防衛ではなく、アメリカのアジア・世界戦略の補完であり、日本がアメリカの盾になるという意味を持っています。たとえばいわゆる台湾有事での米軍介入に際して、日本が集団的自衛権を行使して中国を攻撃すれば、反撃によって日本が焦土となります。中国がアメリカとの全面戦争を避けるならば(おそらくそうなろう)、アメリカ本土への攻撃はありません。つまり日本はアメリカ本土の盾(=捨て石)の役割を果たすわけです。そういう観点で「従来のタテマエ」を見直せば、日本が盾となるといっても、それは実際には日本防衛のためではなく、侵略の出撃基地としての在日米軍基地のためだったということが分かります。「矛と盾」という言葉を不用意に使うと、過去に対しても現状に対しても、タテマエに隠された実際の目的を見失うことになります。何のための「矛と盾」なのか。日本防衛ではない。

 閑話休題。そのような日本との関係については後で別に見るとして、まずはチリ・クーデターにおけるアメリカ帝国主義の役割を本田論文に追いましょう。それによって「介入政策というアメリカの宿痾がいかなるものであるかを改めて理解する」(110ページ)ことができます。まず教えられたのは、1970年のアジェンデ政権誕生前後、すでにアメリカ主導のクーデター計画があったということです。アメリカ企業やチリ財界が持ちかけ、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官らが呼応しながらも、その時点では未遂に終わりましたが、その火種が1973年のクーデターに「結実」することとなります(112113ページ)。

クーデターへのアメリカの関与について、アメリカ議会の調査委員会の1975年のレポートは政府の直接の結びつきは証明し得ないと結論づけましたが、後に秘密解除された資料によれば、アメリカ政府中枢はクーデターの推移を熟知していたことが明らかとなっています(115ページ)。さらに驚くべき基本的事実があります。介入政策の中心を担うCIAの設置目的は「国際共産主義と世界中において対抗し、その努力を衰退させ、信用失墜を図ること」と規定され、「他国での破壊工作、秘密工作、抵抗運動への支援を行うこと」が可能とされ「予算の使途を議会で報告する義務すらない」というのです。「つまり、アメリカが他国でクーデターをしかけることは法制度上可能であり、その活動がアメリカ国内法で裁くことができない。このことは今日に至るまでの世界中でアメリカが介入政策を常態化している制度的条件でもある」(118ページ)。まさに公然たる法制度的基盤上にアメリカ帝国主義は実在しているのです。クーデターは完全な立憲主義無視であり、「自由と民主主義をあまねく世界の隅々にもたらす」というアメリカの「明白な運命」(119ページ)という看板に偽りありです。特にチリ・クーデターで成立したピノチェト軍事独裁政権においては、「死のキャラバン」「コンドル作戦」など殺害が常態化しました。アメリカ政府は人権侵害の状況をつかんでも「政権の暴走をくい止めるような影響力を行使しえなかった」(120ページ)のであり、クーデターへの自らの関与がピノチェトらによって暴露されるのを恐れて「自らがつくり上げた怪物にアメリカ政府自身が囚われてしまったので」す(121ページ)。「しかし企業にとっては、国有化政策のおそれのない軍事独裁政権というのは極めて居心地のいい体制であ」り、ここにこそクーデター支持の根拠としての「大企業が持つ反民主的体質がある」(120ページ)と論文は的確に指摘しています。

ただしここで注意すべきは、心あるジャーナリストの告発に押され、議会が調査委員会を設置して、チリ・クーデターへのアメリカ政府の関与を解明する努力が行なわれたということです。つい最近、921日にも、民主党進歩派のサンダース上院議員とオカシオコルテス下院議員ら上下両院の6議員が、チリ・クーデターにアメリカが関与したことに米議会として「深い悔恨の意」を表明するとした決議案を提出しました。サンダース氏は、「米国は国外で時には民主主義擁護と正反対のことを行ってきたことを認めねばならない」「永続するパートナーシップを構築するには、信頼と尊重の基礎をつくる必要がある」と述べました。オカシオコルテス氏は「自らの複雑な過去について認めなければ、米国は民主主義を促進する信頼できるパートナーとして姿を現すことはできない」と強調しました(「しんぶん赤旗」923日付)。ここに私たちは、アメリカという国の帝国主義の顔の他に、草の根民主主義というもう一つの顔の反映を見ることができます。

翻って日本の現状を見ると、もちろん民主勢力は頑として存在しますが、政権・与党の劣化にはすさまじいものがあります。特に安倍政権以降、歴史改ざん主義が横行し、過去に無反省で、近隣諸国と「信頼と尊重の基礎をつくる」ことができず、「民主主義を促進する信頼できるパートナーとして姿を現すこと」もできていません。それどころかたとえば最近では、松野官房長官が記者会見で、関東大震災における朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べ、歴史的事実の有無への言及を避けました。政府としての教訓や反省についても一切答えませんでした「しんぶん赤旗」831日付。もちろん研究者たちはこれを明確に批判していますが、ここでは省略します。政府のこうした確信犯的対応の裏には、近隣諸国との間に信頼と尊重に基づく平和的関係をつくるよりも、逆に歴史に無反省な自国美化史観(自虐ならぬ自慰史観)で日本人の排外主義を高揚させ、政府の悪政への批判の矛先を外国に向け、併せて軍拡を煽るという「好循環」を狙う意図があると思われます。それに寄り添うメディアが世論形成を担っています。

たとえば福島原発の汚染水の海洋放出は政府の原発政策の破綻を示すものですが、中国の反対を奇貨として、政策破綻の結果を逆に愛国心の踏み絵に転用しようとするキャンペーンが盛んです。――日本の水産物を食べようと言いつつ、汚染水の海洋放出を批判するのは「反日」とする扱い。汚染水という言葉自身を処理水に変えよという罵倒。―― 確かに、同じ海域で取った水産物でも、日本漁船によるものは輸入禁止で中国漁船によるものは容認する、という明らかな矛盾を示しているように、中国は例によって覇権主義から発する理不尽な自国中心的対応を行なっておりまったく信頼に値しません。しかしだからといって、そういう「悪」を批判する日本側が「善」であるわけではありません。ここではある「悪」が別の「悪」をたたいているに過ぎません。

 福島第一原発の廃炉への展望はまったく不透明です。その中で、流入水への抜本的な遮蔽壁を作らないので汚染水は今後も発生し続け、汚染水のモルタル固化処理とか大型タンクの設置という提案の検討もされていません。放射性物質の総量が不明なままに、何十年か分からないがとにかく目の前の基準より薄めて海洋放出すればいい、という安易で無責任な方策の結果、どのような環境悪化を招くかは不透明です。「しかも、事実上潰れている東京電力が長期間それを担う。重大事故を引き起こしながら経営責任を一切問われていない倒産ゾンビ企業に原発を運転させたり、汚染水処理を任せたりすること自体、究極の安全神話であり、前代未聞のスキャンダルである」(金子勝氏の「岸田政権がもたらす経済衰退のメカニズム」、『世界』10月号所収、198199ページ)と言わねばなりません。

 またも閑話休題。アメリカ内部に民主主義の良心はあるものの、チリ・クーデターに典型的に見られるように、歴代政権は反民主主義な帝国主義政策を追求してきたことをまず確認して、次にアジェンデ政権を一つの参考に、社会主義的変革について考えましょう。

 さすがに通常の日本メディアもクーデターそのものを支持するわけにはいきませんが、アジェンデ政権の政策の方にもいろいろ問題があったとして、あたかも「政権崩壊はやむなし」的な見方がこれまでよく流されてきたように思います。左翼に同調しないブルジョア・ジャーナリズムとしては当然でしょうが…。それに対して本田論文は、アジェンデ政権の政策が社会変革の本質を捉え、人民の多数から支持され、逆にアメリカ資本・チリの財閥・大地主から敵対されたとしています。アメリカは政権の承認を拒否し、あらゆる手段で徹底的にチリ政府を攻撃し、経済を危機的状態に陥れます。そうした不安定化工作にもかかわらず、人民連合は選挙での一定の支持を維持しますが、軍の一部による反乱が起こり(1973629日)、その鎮圧後もストライキや破壊活動が蔓延する中で、クーデター側に回る軍人が増え、911日を迎えます(114115ページ)。

 9.11クーデターでピノチェト軍事独裁政権が誕生します。その政治的暴虐は前述のとおりですが、経済運営はどうでしょうか。通常、クーデター後の経済成長は「チリの奇跡」ともてはやされますが、論文の評価は辛口です。新自由主義ならびにシカゴ学派の総帥、ミルトン・フリードマン自身、1975年にチリを訪問しており、ピノチェトはシカゴ大学留学経験者たち、通称「シカゴ・ボーイズ」を経済顧問として起用しています。彼らは再民営化や土地制度改革の巻き戻しなどを行ないますが、物価と失業率は急ピッチで上昇し、1975年のGDPと工業生産はマイナス成長となっています。1976年に底を打つも、198283年にGDPはマイナス成長に沈みます。「チリの奇跡」の実態はIMFや世界銀行からの優遇や欧米からの資本の受け入れによって演出されたものだと指摘されます。何よりも重要なのは、経済成長に庶民の所得が追いつかず、福祉・教育が削減され、経済格差が広がったということです(116117ページ)。

1989年の国民投票の結果、1990年にピノチェトは大統領を退き、民政移管が実現します。彼は大統領退任後も影響力を保持し続けましたが、国内外での逮捕や裁判の後、2006年に91歳で死去しました(117ページ)<*補注>。チリでは軍事独裁政権の終焉後、民主化の過程で紆余曲折がありながらも今日では中道左派政権が成立し、「世界で最も革新的な憲法」の草案を国民投票に掛けたけれども否決されています。しかし政権は再び新たな憲法草案を問う構えです(同前)。これは20世紀末のベネズエラ革命以来、中南米において対米自立と反新自由主義を目指す社会変革の一環として捉えることができるでしょう。そこには「新しい社会主義」を標榜する左翼政権とともに改良主義的な中道左派政権も含みますが、大きくは社会進歩の大道として包括しうるでしょう。中南米各国において右派との政権争奪の繰り返しや、ベネズエラとニカラグアの左派政権の専制主義化など、様々な問題を孕みながらも、社会主義的変革路線を軸の一つとして展開していくであろう中南米の行方に目が離せません。

それでは、新自由主義の覇権期以前で、はや半世紀前となってしまった1970年代のアジェンデ政権はどういう位置づけを持っていたのでしょうか。論文では、「クーデターの検証」という一節の中の「反共のためのクーデター」という一項で検討されています。端的に言ってアメリカ帝国主義がどう見ていたかということです。アメリカ政府関係者は、アジェンデ政権が経済的にアメリカに大きなダメージになるとは見ていませんでしたが、イデオロギー的には相当に重大な問題と捉えていました。「アジェンデ政権は、ソ連型の抑圧的権威主義とアメリカ型の資本主義の双方に距離をおき、政治的自由を維持しつつ社会主義への平和的移行を展望するという点ではキューバとも異なっていた」(118ページ)。そこで「民主的社会主義改革の実例」(119ページ)を提供する「アジェンデがカストロよりもはるかに深刻な脅威と」(118ページ)映っていたというのです。それは1960年代末からのフランス・イタリアなどのユーロコミュニズムとも関係して、アメリカの懸念を高めており、それらを食い止めるという目的の手段としてチリ・クーデターが敢行されました(119ページ)。

このような見方は、リアルタイムで見守っていた少年時代の私の観点とまったく一致しますが、アメリカ政府が「民主的社会主義改革」をまともに受け止めて脅威を感じていたということがむしろ驚きです。その後、実際にはソ連・東欧は経済改革(過度に集権的な計画経済に市場経済を導入する)の試行錯誤を続け、1989年以降は、当地での政権崩壊を機に急進的な新自由主義改革の草刈場と化しました。もちろんアジェンデ政権やユーロコミュニズムは始めからソ連・東欧とは違った路線を追求していました。しかし政治的自由の問題は別として、これらの経験を通じて、経済において「市場と計画」問題の困難性はリアルに提起されたと言えます。つまり1970年代あたりの「民主的社会主義改革」像は経済についてはたぶんにまだナイーヴなものであったと言うほかありません。アメリカは買いかぶっていた。

チリ・クーデターから50年。新自由主義の覇権の確立、つまり資本主義がむき出しの搾取強化の方向に進む一方、他方では社会主義の理論・運動・体制としての後退というのがこの間の大雑把な傾向と言えます(理論は発展・精緻化したかもしれないが、現実を捉え動かす課題からは決定的に遅れている)。それは様々な点で人類を不幸にしました。今日では新自由主義つまり資本主義の混迷は深まっています。それと対峙する運動の積み重ねと新たな理論化、下からの社会変革と併せて政権奪取へ。新たな民主的社会主義変革の展望は未だしとはいえ、そこに希望を見出して考え前進するほかないと思います。

いささか筋違いかもしれませんが、社会主義像という点では、望月爾氏の「納税者の権利の国際的保護の視点と消費税 『電子インボイス』義務化の動向も含めてに興味深い問題があります。マイナ保険証が多くの混乱を生み大不評ですが、紙の保険証の廃止という暴挙を含めて、マイナンバーカードの実質的な義務化に突き進んでいます。医療費・社会保障費の抑制、さらには、個人情報の国家管理と資本によるビッグデータ利用という監視資本主義化が狙われています。こうしてデジタル化の中でも危険な方向性を持っています。インボイスに対しても、フリーランスを含めて大反対運動が起こっていますが強行突破しかないと言わんばかりの政府の対応です。インボイス導入では非課税業者への攻撃で税収を拡大し、複数税率のいっそうの拡大を含む消費税率引き上げがさらに狙われています。そこにマイナ保険証=危険なデジタル化の狙いを重ね合わせると、電子インボイス義務化というこの先の方向性があるのではないかと思われます。今日の政府の強硬姿勢の裏にはそういう狙いもあるのではないでしょうか。

 論文によれば、EUや南米諸国で「付加価値税(VAT)の電子インボイスの義務化と取引監視が重要な問題となってい」ます(56ページ)。そこで導入されようとしている継続的取引管理(CTC)とは「電子インボイスの発行と税務当局への送信を義務づけ、そのデータをリアルタイム、あるいは、ほぼリアルタイムに集中管理するシステム」です(同前)。これについて以下のように評価されています。

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 このようなCTCの導入の拡大は、税務当局にとっては税務行政の大幅な効率化につながる可能性があり、VATギャップと呼ばれる付加価値税の徴収漏れの防止にもなると思われる。しかし、税務当局による取引監視につながり納税者のデータを保護される権利やプライバシーの侵害につながるおそれが指摘されている。     57ページ

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 これは見方によっては、社会主義計画経済の基盤になるかもしれません。記憶が曖昧ですが、もうずいぶん古く、1970年代あたりに、ソ連の研究者がコンピュータ化によって社会主義計画経済ができる、と主張する内容の岩波新書が確かありました。読んではいませんが…。ところで、2022414日に、『ウクライナ侵略戦争――世界秩序の危機という『世界』臨時増刊no.957が発行されています。その最後に、栗田禎子氏による「資料と解説 異なる視点――第三世界とウクライナ危機があります。そのテーマそのものについてはここでは措きますが、そこで知ったのは、未だにソ連を美化している共産党や労働者党が世界には多くあるという事実です。20世紀のマルクス・レーニン主義という名のスターリン主義が生き残っているのです。日本の研究者の中にも、ソ連の国有化社会主義は基本的に正しかったのであり、資本主義市場でのPOSシステムとか、大規模小売店舗の様々な管理システム、デジタル化の手法などをもって、事前的な需給調整の可能性など将来の社会主義化の基盤となる、あるいは中国のデジタル化はうまくいっている、といった主張をする向きもあります。私には何だか素朴で危険な計画経済論と思えます。市場の克服というのがそんなに簡単にできるのか。監視資本主義の発想が監視社会主義計画経済に転用されているだけなのではないか、等々…。

 自分が資本主義市場経済に浮遊する零細自営業者だという階級的限界があるのでしょうが、小商品生産者の自由の問題を考えざるを得ません。すべて国家に取引監視された自営業者の存在が生産発展に資するとは思えません。もちろん少なくとも近未来の社会主義経済像としては、主要な大企業の生産手段が社会化され、それによって社会主義国民経済の屋台骨が形成されるので、中小企業や中小零細業者の取引監視までは必要ないでしょう。やがては人類史的課題として、市場という疎外物(人間が生み出しながら人間を支配するもの)を何らかの形で止揚することが考えられます。しかし、新自由主義などという怪物と闘っている野蛮な歴史的段階にある私たちに、その課題について具体的に想像できることは限られているというほかありません。

 蛇足ながら、チリ・クーデター(1973911日)をめぐっての個人的感慨に触れます。1970年に中学生となり社会主義への関心を深めていきました。3年生のときに大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』1964年、岩波新書)を読んだのが、マルクス主義関係で最初の著作です。73年に高校へ入学し、クーデター以前に、レジス・ドブレ著、代久二訳『銃なき革命チリの道 アジェンデ大統領との論争的対話風媒社 、1973/1/1)を読みました(ドブレはフランスの著名な左翼知識人・活動家であり、1981年からのフランソワ・ミッテラン政権に外交顧問として参画している)。この本の内容は大方忘れていますが、印象的な一点を。アジェンデの属するチリ社会党は当時マルクス・レーニン主義を掲げていました。それなら何故、共産党と別なのかという、ドブレの質問に対して、共産党はコミンテルンに縛られて発足して自由でないから、といった回答をしていたように記憶しています。しかしさすがにマルクス・レーニン主義を掲げるほどですから、西欧社会民主主義とは違った根本的な変革を目指しており、共産党などとの連立政権は、本格的な意味で、一方に希望を他方に警戒をもたらしたのでしょう。私にとって、クーデターによる左翼政権の挫折は大きな失望でした。1976年以降の学生時代には学内で映画をよく見ました。その一つがチリ・クーデターを描いた「サンチャゴに雨が降る」です。ビクトル・ハラを思わせる歌手が虐殺されるシーンが思い出されます。ウィキペディアによると、音楽を担当しているのはアストル・ピアソラですね。

 当時の私の問題意識としては、強力革命ではなく、議会制民主主義を通じた革命は可能なのか、それがマルクス・レーニン主義(当時は科学的社会主義をそう呼んでいた)に叶う道なのか、という革命路線の問題が一つありました。もう一つ、社会主義体制において政治的自由は可能なのか、マルクス・レーニン主義ではどう考えているのかということがありました。ソ連経済などに見られる非効率性をどう捉えるのか、ということも多少意識していたようにも思います。しかし政治の問題が中心でした。そういう問題意識の下、不破哲三氏の『人民的議会主義』(新日本出版社、197012月)を読み、大方納得していました。今日的には歴史的制約が認められる著作かもしれませんが、科学的社会主義が自由・民主主義と両立することを確信させるものでした。社会民主主義では資本主義体制を克服できないが、そうかと言ってマルクス・レーニン主義で政治的に大丈夫かという問題意識にひとまずの決着をつけることができたのです。

 とりとめのない話はこのくらいにしておきます。妄言多罪。

 

 <*補注>

アウグスト・ピノチェトとミルトン・フリードマンがともに2006年に死去していることは、新自由主義の本質を象徴し、その行く末を暗示しているように思えます。新自由主義の最初の実験を担ったのがクーデター後のピノチェト軍事独裁政権であったことは、ショックドクトリンの典型例であるとともに、新自由主義の暴力的本質を体現しているとも言えます。新自由主義は現象的には市場原理主義と言われ、自由競争の権化のように見られますが、資本の本性としてのむき出しの搾取強化にこそその本質を捉えるべきです(自由ではなく強圧)。国有化政策のおそれのない軍事独裁政権を歓迎して、クーデターを支持する姿勢に「大企業が持つ反民主的体質」(120ページ)を見ることが必要であり、新自由主義とはまさにそれなのです。新自由主義の総帥としてのイデオローグとその暴力的実践者とが亡くなった翌々年、2008年に、新自由主義はリーマンショック後の世界金融危機によって打撃を受けました。2020年からのコロナパンデミックにおいても、医療・社会保障削減による被害の拡大、ならびに市場経済(生産の無政府性)の無力さは新自由主義のみならず、資本主義そのものへの根本的批判を招いてもいます。無政府性のもたらす危機に直面して、財政出動を始めとするなりふり構わぬ政府介入だけが社会的崩壊をかろうじて食い止めたのです。ならば始めから、資本主義市場経済への民主的規制を働かせ、医療を充実させ、社会保障を含む所得再分配政策によって、格差と貧困を緩和しておけば、人々にとって事態はもっとましであり、救えるはずの多くの命を救えない、ということは防げただろう、という現体制批判に説得力をもたらしました。

しかしグローバル資本の支配が現存する以上、新自由主義グローバリゼーションは依然として続いており、アカデミズムで制度化され、国家の経済政策に深く埋め込まれた新自由主義のイデオロギー覇権が揺らいでいるとは言えないでしょう。2006年におけるフリードマンとピノチェトの死去を、人類が新自由主義を克服する前兆であったと言えるかどうかは、今後の世界人民の闘いにかかっているとともに科学的経済学・社会科学の真価も問われます。

 

 

          岸田大軍拡に対峙する根本的視点

 

 岸田大軍拡の前提として、ロシアのウクライナ侵略戦争や中国の覇権主義的行動、北朝鮮の度重なるミサイル発射を受け、安全保障環境の悪化が強調されます。先述のように、そこでそうした悪に対して、アメリカが正義の味方であり、日米軍事同盟で守ってもらわなければならない、という不動の観念が軍拡を後押ししています。前記「チリ・クーデター50年」ではアメリカが正義ではないことを押し出しましたが、軍拡反対には、平和論や軍事同盟論などがさらに必要となります。

 日米安保条約と自衛隊に対する支持が世論の圧倒的多数である、という状態になってすでに久しくなります。そうした中で「安全保障環境の悪化」から軍拡を導き出すのは容易です。そこで軍拡に反対するには、「大砲よりもバター」という生活と経済で攻める行き方がまずあります。平和・安全保障論で言うならば、多数派世論を前提にした場合、「専守防衛に反する」という、支持の得やすい一部の有力な条件を押し出すとか、あるいは「軍事的抑止力強化よりも外交努力の方が先だ」という、これも多数の支持が比較的見込める一般論を持ち出すこともありです。時々の情勢の具体的展開の問題を措くとすれば、リクツの次元ではそういった議論になるように思います。

 世論状況を考慮すれば、それはそれで大切なのですが、軍拡反対の中心を担う革新派は安保条約・自衛隊と憲法との矛盾、軍事的抑止力批判という根本問題に常に立ち返り、平和の世論を真にどうやって作っていくかを同時に考える必要があります。むしろ現状は、「現実主義」に流れて軍事的抑止力の論理に屈服している状況が一部にあるようです。そういう状況を克服すべく、平和についての理想と現実の認識論とでもいうべき試論を提起したのが拙文「平和について考えてみる」2014年)です。今日でも依然として間違っていないように思っています。

そこでは、戦後の平和問題の原点として、サンフランシスコ講和会議での片面講和と日米安保条約の締結を挙げました。全面講和か片面講和かが国論を二分する中で、朝鮮戦争の影響下においてそうした針路を選んでしまったことが、いわば最初のボタンの掛け違えです。以下順に掛けていったボタンが平和憲法に反する状況を作っていったのですが、途中では順番に掛けていけるので、やがて中段の人々はその誤りに気づかなくなり(むしろ誤りに気づいて直そうとする人がそう言っても、逆に「順番の秩序を壊すから黙れ」と口を塞がれる)、最下段で食い違いに気づかざるを得なかったのが沖縄の人々です。中段の人々に向かって、「ボタンを掛け直せ」と呼びかけても、間違った状態を自然だと思い込んでいる人々は、逆に「今さら直す必要はない。そっちこそ我慢しろ」と言い返す始末です。あるいは聞こえないふりか無関心です。

 憲法違反で平和を脅かす既成事実の積み重ねこそが戦後の政治状況であり、その危険性に慣れ親しんで普通だと思ってしまっているのが今日の世論状況です。「最初のボタンの掛け違え」の最重要なきっかけが朝鮮戦争だったのですが、その深刻な意義について教えてくれたのが、林博史さん(関東学院大学教授)に聞く「加害の出撃基地としての在日米軍基地――朝鮮戦争における爆撃と日本のはたした役割(『前衛』10月号所収、以下<林A)と同氏の著書『朝鮮戦争 無差別爆撃の出撃基地・日本』(高文研、2023年、以下<林B)です。この論文と著書からは、研究者の社会的責任と歴史責任、研究姿勢・方法への反省、日本人の歴史・政治意識の歪みへの強烈な批判などがほとばしり出ており、その的確な問題提起は必読です。

 ベトナムやイラクに対するアメリカの侵略戦争などへの自国の加担を考えれば、「戦後の平和国家日本」などと不用意に言うべきでない、と私も常々言ってきました。しかしその原点を朝鮮戦争までさかのぼり、かつそれが今日の日本人の平和意識におよぼしている影響までを含めて、もっと深く捉え返すべきだと思い知らされました。

 「アメリカ軍の空爆というのは、第二次大戦期ももちろんひどい無差別攻撃でした。しかし朝鮮戦争では、日本やドイツに対しておこなった無差別攻撃に加えて、その時には攻撃しなかったような細かな対象まで軍事目標だという名目をつけて、徹底して無差別攻撃をおこないました」(<林A178ページ)。さらに朝鮮戦争での北朝鮮の責任から説き起こして、日本の戦争協力体制の形成(それが今日まで続く)までが述べられます。

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 もちろん北朝鮮による侵攻に戦争の最大の責任があることは言うまでもありません。北朝鮮が戦争を始めたことは非難されてしかるべきです。しかし、これに対し、アメリカ軍は自分たちが反撃されないという状況の中で、ともかく考えられるありとあらゆるものを標的にして北朝鮮にいる人や建造物をともかく破壊しました。相手に打撃を与えることによって、こちらの停戦条件を飲ませる、政治的圧力を加えるために徹底して人と物を破壊したのです。ここまで徹底した爆撃、つまり非人道的な行為をまったく反省することもなく遂行してきたのです。日米安保体制はこうしたなかから始まってくるわけです。このアメリカ軍の非人道的行為に、日本政府、日本社会がそれに協力していくという仕組みがここでつくられていく。その出撃基地が日本で、日本政府も日本の多くの労働者も、そこに協力した。       <林A179ページ

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 この加害への加担を日本人は認識せず、「逆に拉致問題と北朝鮮の核ミサイル開発によって、日本があたかもずっと北朝鮮による被害者であるかのような意識で固まっています。朝鮮半島の平和を実現する上で、日本は植民地支配の問題から、戦後の朝鮮戦争にいたる歴史をもう一度認識し直さないといけないのではないか」(180ページ)と指摘されます。それは次のように戦後史全体の見直しにつながります。

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 戦後の一九四五年以降の日本を考えるとき、戦後改革が大きく取り上げられ、日本国憲法の制定やいろいろな民主改革があり、その後、逆コースという占領政策の展開があったと言われます。しかし、大事なことは、朝鮮戦争下における平和条約、安保体制、そして入管体制という、ある意味で事実上憲法に優越するような歪んだ差別的な体制がつくられていったことです。その問題に対する認識が日本人のなかではとても弱いのだと感じます。

         <林A181ページ 

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 「憲法に優越するような歪んだ差別的体制」はさらに展開し、今日の日本の恥ずべき状況につながっています。

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 自らの戦争犯罪を認めず戦争責任を取らないという点では日本も米国も同じである。日米同盟とは、侵略・加害について反省しない者同士の軍事同盟であるという顕著な特徴が朝鮮戦争のなかで作られていったのである。侵略・加害の出撃基地・兵站基地としての米軍基地は朝鮮半島を対象としたものからベトナム戦争をへてさらに世界的な地域に広がっている。そうしたことへの無反省無自覚な日本の出発点に朝鮮戦争があったと言えるかもしれない。       <林B250ページ

 

 朝鮮戦争の出撃・輸送・兵站基地だった日本は今日では東半球全域(西太平洋、アジア全域からインド洋、中東、東アフリカなど)への米軍の出撃・輸送・兵站基地となっている。七〇年前の日本ではまだ朝鮮戦争の出撃基地化に対していくらかの抗議行動がおこなわれたが、今日の日本は加害への加担を認識し批判する市民の取組みは七〇年前に比べても進んでいるとはとうてい言えないだろう。加害意識の欠落した日本政府も日本社会も米軍が自国を守ってくれるという幻想にしがみついてそうした実態から目を背け、軍事力信奉から抜けだせないままであり続けている。      <林B253ページ

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 こうして「アメリカによる加害と、それへの日本の加担という問題は全て捨象され、日本人の認識から切り捨てられてい」く中で、「今の日本では、アメリカと一緒になって、アメリカの軍事力で全部抑えろという議論が中心です。それどころかアメリカ軍の先兵となって中国と戦争しようとする準備まで進めています」(<林A184ページ)。これこそが岸田大軍拡を支える政治意識の本丸です。それを本当の意味で克服しようとするなら、戦後史の出発点での朝鮮戦争への加担と、同時期におけるサンフランシスコ片面講和と日米安保条約締結の意味を直視することが必要です。さらにそれらに基づいて以降に展開された、憲法平和主義に敵対する既成事実の積み重ねとそれに規定された(軍事的抑止力信仰への)世論の変質を正面から捉え、それを変える課題に向き合うことが必要です。

 <林B>の最後の方には、「朝鮮戦争が与えた影響」という項があります。それによれば、戦後当初アメリカは「他国本土に平時から恒常的に基地を設置することは想定」していなかったのですが、朝鮮戦争を機に「世界に基地のネットワークを張り巡らせることに」なります(246ページ)。その他にも「もし朝鮮戦争がなければ、あるいは少なくとも国連軍が三八度線でとどまり中国軍の参戦がなければ、そして米国が英国と同様に中華人民共和国を承認していれば東アジアの冷戦構造はまったく違ったものになっただろう」(246247ページ)とも指摘されます。北朝鮮についても以下のように言われます。

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 米国の核兵器による脅しに繰り返し直面した北朝鮮が中ソへの核依存を強め、ソ連の崩壊、中国の米日韓との国交正常化などのなかで核兵器を独自に開発する動きを進めたのは朝鮮戦争での米軍による核使用の脅しや徹底的に破壊された無差別爆撃の経験なしには理解できないだろう。米韓軍事演習などの際に米空軍の重爆撃機が参加することへの過敏な拒否反応の背景にも朝鮮戦争の経験があるだろう。    247ページ

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 韓国に「あれほどの暴力的な反共軍事独裁体制」ができた原因も朝鮮戦争であり、それがなければ「北の体制がもう少し穏健なものになる可能性もあったのではないだろうか」(同前)とも言われます。ここに「別の東アジアの可能性」(同前)を想像することもできます。

 日本への影響については前述の通りですが、さらに言えば、サンフランシスコ体制での「独立」が真の独立ではなかったことと併せて、近代日本の侵略戦争と植民地支配を真に総括するという意識が、朝鮮戦争への実質的参加で吹き飛んでしまい、逆に経済的利益を得て、米軍が何をやっても関係ないという姿勢に終始することになります。中国や東南アジアとの関係でも侵略戦争への反省を避け、主に日本企業の経済進出に邁進することになります。さらに朝鮮への植民地支配への無反省は今日の入国管理制度全般の反人権的性格につながっています(248249ページ)。

 歴史にifは禁物と言いますが、反省は必要です。本当に反省すれば、「最初のボタンの掛け違え」に思い至って、かつてありえた別の戦後史の可能性への想像力を働かせることはできます。それは現状に対する批判の基軸となり、日本の近未来を切り開く歴史創造力がそこにあると思います。

 なお、チリ・クーデターに関連して、帝国主義を反省するアメリカの民主主義的側面に触れました。同様のことを林氏も述べています。氏の著書はアメリカ空軍を厳しく批判していますが、それができたのは「米空軍が史料を保存し誰に対しても分け隔てなく公開提供してくれるからこそ」(<林B258ページ)と敬意を表しています。同時に「こうした情報保存・公開は自由民主主義の基礎ですが、日本はいまだに自由民主主義社会と言う資格のない状態を続けています」(同前)と批判しています。一貫して日本への批判が厳しいですが、それは自国に本当にまともな国になってほしいからであると思います。

 

 

     <付記>

 

 小泉悠氏の「ウクライナ戦争をめぐる『が』について」(『世界』10月号所収)に対して、憲法学者の青井未帆氏は次のように評価しています(「論壇委員が選ぶ今月の3点」、「朝日」928日付)。

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<評>ロシアの侵略は許されるものではない「が」という枕詞(まくらことば)。「が」という逆接辞を付す余地はない。いかなる「複雑さ」が存在しようとも、武力による解決は認められない。血みどろの歴史の末に、我々は「戦争は起こしてはならない」という当たり前を国際秩序の原則とするところまでは到達した、と筆者は言う。

 理念を嗤(わら)い、法を軽視する雰囲気が醸成されつつあるが、「当たり前のこと」として国際秩序の原則を安全保障の専門家が確認し、「大事にしたい」と言い切ることは重要だ。

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 この評価そのものには私もまったく同意します。一部の左翼に、ロシアの侵略への批判を曖昧にする傾向があることは問題です。保守派の軍事研究者であっても小泉氏はそれなりの慎重さをもっており、その原則的姿勢がここに現われています。しかし問題はそういう小泉氏もまた「日米同盟の堅持と日本の防衛力増強、という筆者の結論」(52ページ)を彼にとってアウェイである『世界』の読者に向かって宣言しているということです。その理由としては結局、アメリカに対する一定の批判的視点等々は持ちながらも、次のような凡庸な認識でしょう。――中国・ロシア・北朝鮮という邪悪な仮想敵国があって、日本の脅威となっている。アメリカという自由・民主主義の国の軍事力が抑止力となって守ってくれている。だから日米安保条約が絶対必要であり、自衛隊はその補完として重要。日本が他国の脅威だとは夢にも思わない。―― さほど素朴ではないとしても、おそらくそう違わないでしょう。メディアはこれを大前提にして日々世論に訴えています。それは権力への忖度というより、自からもそこに同化しているということでしょう。

 いかにも右派の軍拡論者という体ではなくても、岸田大軍拡を支持する向きに対しては、上記の林博史氏のような根底的な歴史認識と現状把握を対置する必要があります。戦後史の原点から思考の基軸を持ってくるなら、日本支配層の安全保障論・政策はマッチポンプだと評価し得ます。平和憲法ではなく軍事同盟の道を選択し、仮想敵国を設定するなど自から反平和的状況を作り出しておいて、軍事的抑止力で対処するほかないと主張しているのですから。

 とはいえ、現状として日本政府は日米軍事同盟下で大軍拡に乗り出しています。そこで平和を論じる姿勢としては、当面する問題への弥縫策と目指す方向・理想とを意識的に区別する必要があります。たとえば台湾有事を防止するなど、中国との関係をどうするかを具体的に考える必要があります。日本共産党は日中関係についての政策提言を発表しています。それは切実に重要な提起ですが、あくまで現時点での弥縫策であるという認識も同時に持つ必要があります。当面は何とかするしかないが、目指すべき安定的状態の構築がその先の課題としてあります。日米軍事同盟からの脱却がその一段階ですが、そこに至るのも遠く、その前段階で時々の情勢に応じた具体的対応が求められます。ただその際に、無原則な現状追随主義に陥らないためには、戦後史の原点をきちんと把握した上での憲法平和主義の追求という岩盤を据えることが必要です。考えるべきことは無限にありますがこのくらいでひとまず終わります。

 

 

          断想メモ

 

 橋本基弘氏の「『自由な解散権』が政治を劣化させる」(『世界』10月号所収)は、首相が恣意的に衆議院を解散できるという現状とそれを合理化する「理論」に対する極めて説得力ある批判を展開しています。特に象徴天皇制の本来のあり方と国民主権の観点から、「7条解散」なるものの理不尽さを根本的に解明しています。69条の内閣不信任状態における内閣の対抗としての衆議院の解散以外に、主権者の声を聞きたい場合はどうするかについても回答を与えています。「かつて、長谷川正安が指摘したように、最高機関である国会が、たとえば国会法の中で解散を決定できる場合やその手続きを定めることもできる」(177ページ)。

立憲民主党が解散の手続きを定めた「手続き法案」などを秋の臨時国会に提出するそうです(「朝日」927日付)。提出に意義は認めますが、手ぬるい内容です。解散について衆議院に通知し質疑を義務づけるというだけで、解散権をきちんと縛る内容になっていません。上記のように、改憲によらずとも国会法で解散を決定できる場合やその手続きを定めるべきです。

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 日本の裁判所はたまにはよい判決を出すけれども、権力側に立った愚にも付かない判決が目立ちます。

憲法53条の定める国会召集要求に安倍内閣が長期間応じなかったことが違憲かどうかについて、912日、最高裁はその判断には踏み込みませんでしたが、内閣が召集の「義務」を負うと判決文に記されました。原告側は「政府への牽制(けんせい)になる」と評価し、野党からは早期の法整備を求める声が上がりました(「朝日」913日付)。しかし厳しい評価もあります。

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 早稲田大の長谷部恭男教授(憲法)は「訴訟で問われたのは、政府が道理に反して違法な選択をしたとき、司法がブレーキをかけられるかどうかだった」と指摘する。

 臨時国会の召集が内閣の義務だと司法が認めたことは一定の前進だとしつつ、個々の議員に賠償請求権はないとして憲法判断に踏み込まなかった点について、「政府の法的責任の追及を放棄した。裁判所が役割を果たしたのか深刻な疑問が残る」と話す。

 その上で政治に対し、「今回の判決は召集先送りを適法なものと認めたわけではない。政府はそれを肝に銘じる必要がある」と注文をつけた。   同前記事

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 司法が当たり前の責任を果たさないのが通例になっている中で、原告が前進面をかろうじて評価したということであり、長谷部氏の言うように、「個々の議員に賠償請求権はないとして憲法判断に踏み込まなかった」のはいかにも形式的で内容に踏み込まず、「政府の法的責任の追及を放棄した」というのが妥当な評価でしょう。

914日、森友学園問題で、財務省による公文書の不開示決定を追認する判決を、大阪地裁が言い渡しました。原告の赤木雅子さんが、法廷で倒れこむほどひどい判決です。国は、任意提出された文書の存否を明らかにすると「将来発生しうる同種の事件の捜査に支障を及ぼす」と主張し、それをそのまま認めたのです。これもまた時の首相への忖度で公文書を改ざんするという、権力犯罪の内実には決して踏み込まず、形式論の屁理屈でガードしたものです。

「国が『将来の同種事案』って主張したの? 何だそれは。また改ざんをするというのか」(「おはようニュース問答 森友文書訴訟 大阪地裁の判決はひどい」、「しんぶん赤旗」923日付)。これが当たり前に健全な庶民の声でしょう。

 そして決定版はこれです。辺野古新基地建設に関わって、軟弱地盤の発覚に伴って防衛省が申請した設計変更を承認するよう国が沖縄県に「是正指示」を出したのは違法だと県が訴えた訴訟で、最高裁第一小法廷(岡正晶裁判長)は9月4日、県の上告を棄却する判決を言い渡しました(「朝日」95日付)。

 同日の「朝日」社説はこう糾弾します。

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 県は不承認の理由として、地盤の調査不足や環境破壊への配慮の欠如、長期の工事への懸念をあげた。住民の安全を守るため、工事の内容を点検するのは知事の当然の仕事だ。公有水面埋立法でも、環境保全や災害防止への配慮は重要な要件だ。だが最高裁はこうした点に触れず、「行政庁の裁決は関係行政庁を拘束する」といった形式論を述べるだけだった。あまりにそっけなく、門前払いに等しい。

 是正指示とともに県が取り消しを求めていた国交相の裁決をめぐる訴えに至っては、最高裁は上告を受理すらしなかった。

 不承認に対しては、事業主体の防衛省沖縄防衛局が「私人」の立場で不服を申し立て、「身内」にあたる国交相が審査庁として判断。県の処分を取り消す裁決を出した。だが裁決後も県が承認せず、国交相が是正指示した。政府内部での審査のキャッチボールには、「国による私人なりすまし」「権利救済制度の濫用(らんよう)だ」と多くの行政法学者が批判の声明文を出している。

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 ここでもまた司法(最高裁)は問題の内実に踏み込まず、形式論で門前払いにしています。しかもその形式論さえ破綻しています。「国による私人なりすまし」「権利救済制度の濫用」という多くの行政法学者のまったく当たり前の批判にさえも答えない。ここまで来ると司法の独立はどこに行ったのかと言わざるを得ません。始めから権力の守護神なのか。

 以上を見て、簡単に言えば、これがブルジョア民主主義の実態だということです。民主主義には形式と内容があります。本来、形式は公平性・公正性を保証し、民主主義の普遍性を確保するためにあります。しかしそれが内容の検討に踏み込むのを妨げるガードに利用されているのです。それを可能にしているのは、階級的な経済支配を土台とする政治支配であり、イデオロギー支配がそれを補佐しています。残念ながら、「司法の独立」というタテマエを掲げながら、それを体現すべき裁判官の多くが権力側のイデオローグにとどまる限り不当判決はやみません。被支配層の人々の利益よりも、現体制秩序の護持を優先しようという心性はエリート層の多くに共有されているでしょう。それを揺るがすものは何か。司法の独立も元来は、絶対王政・封建制支配に対するブルジョア階級の闘争で獲得されたものです。しかしそれ自身は歴史貫通的な普遍性を持ちうるのであり、それを実現するのは労働者階級を中心とする現代の人民の闘争と言わねばなりません。

                                2023年9月30日



2023年11月号

          日本社会のあり方と変革の方向性

 

     ◎個人に無理を強要する日本社会

 

特集「子ども・子育てに希望を」の冒頭、阿部彩・川村雅則・寺内順子・浅井春夫各氏のオンライン座談会「子どもと日本社会のあり方を問う 『こども未来戦略』の検討は、多岐にわたる問題を縦横に議論しており、的確にまとめるのは難しいですが、私の問題意識からは二点に注目します。まず、苦境にある多くの諸個人の実態と、それを招きかつ解決する方針を持たない政治への批判があります。したがって、その政治を変革し諸個人の困難を解決することが必要とされますが、その際に現実主義と理想主義との対立があります。

 子ども・子育てにおいて、まず貧困問題の解決が重要です。不安定雇用と低賃金については、川村氏が包括的に提示しています。さらにそれがもたらす生活現場を寺内氏がヴィヴィッドに描いています。コロナ禍では非正規雇用への影響から「女性不況」という言葉が生まれるほど女性の犠牲が大きく、特にシングルマザーの貧困問題が深刻でした。その実態について、寺内氏が「シンママ大阪応援団」の活動から報告しています(2223ページ)。「コロナ禍以前、応援団に寄せられるSOSDVのことや離婚のことなど相談から入ってくるケースがほとんどでしたが、コロナ禍の中では一変し、」失業や収入減で食べられなくなったという「SOSばかりとなりました」(23ページ)。しかしあくまでコロナ禍で貧困が深刻化し、可視化されたということであって、女性やシングルマザーはもともと貧困でした。そして「女性の貧困の要因は日本特有のものがいくつもあり、複合的です」(24ページ)。

 まず非正規労働者としての貧困です。賃金は概ね最賃レベルで、税・社会保険料・家賃・水光熱費等々を払えば食費はわずかしか残りません。しかもシングルマザーは一人で家事・育児を担うので短時間労働に追い込まれます。子ども・一人親の医療費助成制度を利用するためには、医療保険が必須であり、低所得に占める社会保険料の割合が高いことが貧困を拡大しています。子どもが成長すれば、教育費が高くなり、ますます食費が圧迫されます。労働状況や教育と社会保障制度のあり方によって、女性やシングルマザーは平時から貧困に追い込まれており、その解決のためには、最賃の引き上げと社会保障制度の拡充が必要不可欠です(2425ページ)。

 なお、後藤道夫氏の「『家計補助労働論』を乗り越える 不規則・短時間労働の拡大とインフォーマルケア保障の脆弱(本誌20234月号所収)が、短時間労働とケアの全面自己責任との克服方向として、「家計補助労働」イデオロギーへの批判を展開しつつ、スウェーデンに倣って、休業補償を伴う正規雇用化を提起しています。シングルマザーの苦境によくかみあった議論だと言えましょう。

 こうしたいつも崖っぷちを歩かされているようなシングルマザーの状況は、ケアを始めとする女性への無理の押し付けによるものです。いささか雑駁な議論かもしれませんが、彼女らの問題だけでなく、日本資本主義社会においては、諸個人へ困難を押し付け、「社会全体」がようやく回っているという状況が一般化しています。と言うか、現場・当事者・弱者にしわ寄せして、支配者・強者が上から「全体の利益」や秩序を説教している状況、それを正当化するイデオロギーが政府・教育・メディアを通じて広く支配的に浸透しているのが日本社会です。たとえば、何につけても財政の厳しさを理由にして、「制度の持続可能性」が不可欠だと言って、社会保障など政府のなすべきことを放棄している状態を正当化し、世論を「納得」(諦め)させています。人々の「生活の持続可能性」にはほおかむりです。こうして「無理が通れば道理が引っ込む」現実が多くの人々の受容で成立しています。あるべき「道理」の理解が進めばこの状況打開への第一歩に踏み出せますが、そこにはほど遠く、わけが分からない中で、客観的には無理が強行・強要されて生活苦と労働苦が蓄積され、主観的には諦観と憤懣が背中合わせに蔓延し、そこに右派ポピュリストがつけ込んで、差別的・ファッショ的な「解決」に突き進む危険性といつも隣り合わせです。

 無理の押し付けの例として、たとえば、日本は世界有数の長寿国として、国際比較では優良な健康水準を維持していますが、医師数は非常に少ないことが挙げられます。「人口 1,000 人当たり医師数は日本では 2.4 人、OECD 平均は 3.5 人である。厚生労働省の医師数推計から計算すると、日本の人口 1,000 人当たり医師数は 2030 年前後に 3 人程度になる」(日医総研リサーチエッセイ No.77 医療関連データの国際比較−OECD Health Statistics 2019−日本医師会総合政策研究機構 前田由美子2019 9 17 日)。コスパ良好のきわめて「効率的な」医療が行なわれているということになりますが、それは医師の超長時間労働に支えられています。そこで、時間外労働を「過労死ライン」にあたる年960時間以内に短縮するには、国立42大学の病院では医師3千人の増員が必要となり、業務の効率化などを含めた経費は年226億円かかるとの試算が発表されました(国立大学病院長会議による)。960時間自体がべらぼうな時間外労働ですが、現行では、特例基準に該当する大病院の医師については、時間外労働を過労死ラインの約2倍・年1860時間まで容認し、2035年度末までに年960時間以内への短縮を目標としています(「赤旗」20231022日付)。医師の労働時間の実態は無理の強要の典型であり、日本社会はこれで「成立」しているのです。

 運輸労働者にも「物流2024年問題」があります。「トラックやバスなど運転労働者の労働条件は厚生労働省の『改善基準告示』で定めています。来年4月から適用の改正『基準告示』では、トラック運転手の年間拘束時間を最大3516時間から3400時間とわずかに短縮します。/物流業界はトラック運転手の長時間労働がまん延しています。来年4月から拘束時間が短くなることで運転手不足となり、荷物総量の3割が運べなくなるとする試算もあります。/この対策として、警察庁は高速道でのトラックの速度規制を今の80キロから引き上げる検討を始めました」(「赤旗」918日付)。このように日本社会の無理強要は安全性の無視に至ります。

 カジノ導入の露払いで、かつ問題だらけの「維新の大阪万博」は各国のパビリオン建設のめどが立ちません。日本国際博覧会協会は、遅れ解消に向けて、来年4月からの建設労働者の時間外労働の上限規制を、万博工事だけ適用除外するよう政府に要請しました。維新幹部その他からも同様の声が…。万博「成功」のためには法律も曲げよと。当たり前のごとくにそういう声が出る。もうここまで来ると、やはり日本社会ではそれもありか、という失笑が漏れそうですが、笑い事ではない。労働者の命と健康を何だと思っているのか。

こうした「我慢の現場」の感情は社会的に広く共有されています。岡田惠和氏のオリジナル脚本テレビドラマ「日曜の夜ぐらいは…」2023430日 〜 72日)で最も話題になったヒロインの台詞――「だって楽しいことあるときついから。きついの耐えられなくなるから。……私はきついだけのほうが楽なんだよ」。――切ない言葉です。社会的矛盾を原因とする諸個人の困難を独りで日々何とか心の中でやり過ごそうとして、ますます自分を追い込んで行く姿がここにあります。日本社会とは、そういう諸個人の聞こえぬうめき声の集成上に成り立っており、一見堅固だが実は砂上の楼閣ではなかろうか。

 

     ◎変革の現実主義と理想主義

 

 もちろん諦観は何も解決しません。この社会を変えねばならないのですが、そのやり方では考え方の相違があります。オンライン座談会で、阿部氏は本誌の基調への異論を提起していると思われます。その報告では、財政の厳しさ(第一の問題)が強調され、「どの政策にお金をつぎ込むのか、そして誰がその負担をするのかの国民的議論が必要です」(16ページ)として「子育て世帯も含め所得の状況はよくなってきています。子どもの貧困対策のためには、中間層も含めた負担は必要だと思っています」(15ページ)と主張されます。後段の認識の根拠として、厚生労働省「国民生活調査」から「子育て世帯全体が貧困化しているのではなく、全体としては所得が伸びている中で一部が貧困に残されているのです」(17ページ)と指摘しています。さらに再分配前の貧困率が高くなっている(1986年:8.6%→2018年:14.7%)ので「この差をすべて政府からの再分配で埋めるのは無理で」あり、「必要なのは賃金を上げることです」(18ページ)と主張されます。

 ここでは、生活を成り立たせる手段として賃金と社会保障との割合をどうするかという第二の問題が提起されています。阿部氏は社会保障による生活保障には限界があるとして、賃金上昇に打開策を求めています。これについて、社会保障や労働経済の研究者の中には、日本における「賃金依存度」の高さを問題視して、社会保障制度充実による生活保障のカバー拡大を主張する向きがあるように思います(たとえば29ページ下段の川村発言)。そこには自己責任的発想に対する福祉国家的発想の優先(もちろん現実的にはall or nothingではなく、両者の割合の問題なのだが)があり、経済社会観の議論となりますが、阿部氏が賃金上昇をより重視するのは、それよりも、財政危機という第一の問題による目前の促迫によるものと思われます。

 ただし1986年から2018年にかけての再分配前の貧困率の大きな上昇は、非正規雇用の拡大とそれによる「労働組合の交渉力の低下」とによって「労使間の所得分配構造が大きく変わり、景気拡大が雇用や賃金に連動しない状況が作りだされてきたことが大きい」(33ページ)という問題がまずあります。したがって、財政危機や社会保障との関係で賃金上昇をどう見るかという問題以前に、労資間の所得分配構造の大変化による低賃金化そのものの克服が課題だと言えます。

 なお、経済社会観について原理的に言えば、生活保障のあり方=賃金依存度の問題は、国民所得(国民経済における付加価値=価値生産物、VM)の分配次元(労資関係)と再分配次元(税制を通した経済政策)との関係ということになります。歴史貫通的に捉えるなら、(本来の)社会主義国家では、VMに相当する部分(国民所得)について、労働者階級の権力にふさわしい形で(V優位で)、分配・再分配の両次元をうまく組み合わせて、人々の生活保障が実現されねばなりません。

それはあくまで未だ実現していない理念的モデルに過ぎませんが、それとの対照において資本主義国家を捉えると、ブルジョア階級の権力の下で(M優位で)、両次元において階級闘争が展開し、労働者・人民の生活保障はその力関係に左右されます。そこで、分配と再分配の組み合わせは、各国民国家の文化・歴史下で形成された政策的到達点を前提に、階級闘争の進展に応じて様々に生成展開していきます。日本資本主義においては、高度経済成長期に形成された強固な企業社会の下で、分配次元優位によって、労働者の企業への包摂を通した生活保障が形作られ、政府による再分配次元は補完的でした。ところが高度経済成長破綻後の新自由主義グローバリゼーション下では、企業型生活保障は放棄され、政府の経済政策による再分配が期待される中で、財政危機による機能不全という事態に立ち至っています。

労働者・人民の立場からは、政治変革による再分配次元主導によって、V優位を起動力として、生産と消費の矛盾を克服し、経済と財政を再建する危機対応が求められます(供給力の劣化の改善という課題も同時にあるが)。労働に対する資本の圧倒的優位という、日本資本主義の現状下では、労働運動による分配改善を先行させることは難しく、政治変革を先行させて経済政策を変え、再分配の強化を手始めに生活保障を再建していくことが必要でしょう。

もっとも、政治次元においても小選挙区制採用後、また特に第二次安倍政権以降、保守の圧倒的優位が固定化していますが、悪政継続による人々の不満蓄積を的確に捉えうるなら、政権交代も不可能ではありません。かつて民主党への政権交代で、高校授業料無償化が実現しました。長年の社会運動によっても難しかった課題が実現したことに当時驚きました。残念ながらその後の民主党政権の失敗と自公政権の復帰がいわば政治的トラウマとして日本の政治意識の劣化を長らく規定し、政治変革そのものを有権者の多数派の視野から外しています。しかし政権交代による要求実現の着実な積み重ねこそが社会の質を変える大きな要素となります。高校授業料無償化政策に対しては自公政権による反動がありましたが、その政策自身を当たり前とする社会意識は定着しており、社会変革の好循環の萌芽を見ることができます。それだけに逃がした魚は大きかったのですが、釣り直しに挑戦する意義も大きいと言うべきでしょう。

 閑話休題。社会が個人に無理を押し付ける、社会責任を個人責任に転嫁するという、もともとある構造が財政危機を背景に増幅しています。オンライン座談会の討論の部において、 1 子どもの貧困と低賃金構造 の中の「生活保護制度と最低生活基準の共有」では、それに関連して突っ込んだ議論が展開されています。いわばホンネの問題提起が阿部氏の以下の発言です。

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 私も最低生活費の調査を委託研究で手掛けてきて、試算もしてきたのですが、そうすると、生活保護基準よりもかなり高い、平均収入に近い数字になります。現実的には、これを生活保護基準にはできません。生活保護基準を2倍にしようなんて話はできないし、現実的な議論ではないといわれる状況です。財源をどうしますか、増税してもいいですかという話で、実現不可能です。そうした状況のなかで、どこが最低限か、絶対にキープすべき基準はなにか、ということですね。     30ページ

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これは「現実」と「理想」というよりも、「現実」と「基準であるべき規範」との乖離を示しています。最低生活費の試算が平均収入に近いということは、半数近い人々の収入が最低生活費に届いていないということです。おそらくその原因としては、非正規雇用・不安定雇用が増大して、労働力の価値以下の賃金が横行している状況が挙げられるでしょう。異常な強搾取の資本主義によってまともな生活が剥奪されています。この現実から出発する以外ありませんが、あるべき規範そのものを安易に切り下げることは問題があります。「社会が個人に無理を強要し、それが容易に通用する」という日本社会の状況は、資本主義諸類型の中でも特殊な資本優位型(資本の法則の過剰貫徹型)であり、そこを打破する方向をあいまいにしたままにずるずる後退する姿勢では、わずかな前進を勝ち取ることも難しいと思われます。

阿部氏の発言の含意としては、左派の原則的なタテマエ論ばかり並べていても一向に進まないから、まずは現実的な妥協ラインを見つけよう、という意図があるように思われます。どのみち何かにつけても、闘争状況と力関係によって何らかの妥結を甘受するということの繰り返しになる、という結果論からすれば、そういう議論も理解できます。しかし明確な原則に基づく一定の基準をあくまで掲げることは闘争主体にとって力の源泉であり、世論獲得上も必要です。多くの人々の社会意識は劣悪な現実に埋もれており、別の現実があり得るという提起やよりましな外国事例の紹介などで、凍った心を揺り動かす必要があります。学費は家族負担が当たり前という日本人の意識に対して、むしろ世界的にはそれは例外的で、日本の教育費の公的支出がOECD諸国内で最低水準であるという事実の提示は、世論に影響を与えていると思います。

このように「現実的な議論」にただ押し流されるのではなく、生きた人間の生活と労働にとってのその無理無体ぶりを広く暴露し共感を獲得する努力を払うのが、実際の妥協の前に行なわれるべきことでしょう。あからさまにひどい現実の糾弾だけでなく、もう一段上がって、「生活と労働のまともな水準」を目指すのが当たり前という意識の共有も大切です。原則や基準はそうして打ち立てられます。そうして、原則論と妥協結果とは別物であると言うことが、あるいはその乖離ないし矛盾が、次の運動の起動力となり、それによって原則の確認や見直しも含めて、運動を常に新たに継続していくことができます。もっとも、原則的運動といっても、なかなかそうはいかず、タテマエ論のマンネリに陥りがちだということはあるでしょうから、現実主義からの批判も必要な刺激であり、それが理想主義を鍛えることになるとは言えます。

 上記の阿部氏の問題提起に対して、浅井氏は、最低生活基準の国民的共有に向けての研究者の努力の必要性を認めつつ、生活保護の捕捉率の低さを問題視する国の意思がない、という論点に転戦しています。それに対して阿部氏は、生活保護基準の審議会委員を10年以上していたときに、脅迫メールがいっぱい来た経験から、自己責任論の刷り込みを問題視し、国の意思より国民意識をまず変えねばと指摘しています。浅井氏は「分断をあおってきた組織や政治家がいることが問題だ」とし、川村氏はそれに加えて、「日々の仕事のあまりのしんどさが、働いている人たちをバッシングに向かわせている面もある」と答えています。川村氏は続けて、そういう支援のない人たちにも届く「ユニバーサルな社会保障メニューの拡充が求められています」と主張しています(3031ページ)。一般的には、煽動される側よりも煽動する側の責任が重要であり、それ以上に、煽動される側の客観的状況を把握してその解決に努めるというのが問題把握の本道であろうかと思います。

 オンライン座談会最後の討論 5 「子ども未来戦略」の財源問題 でも阿部氏が現実主義的観点から問題提起しています。「日本の財政状況は最悪」という「基本認識」を「ふまえて財源議論をする必要がある」として、「一番生活が厳しい方々以外は、みんな少しずつ自分のできる限り負担しましょうというスタンスでいくしかない」(39ページ)と述べています。それに対して浅井氏が軍拡への財政投入を批判すると、阿部氏は共感を示しつつも、「それを主張しても通らない。もちろん国民的合意を得て政権を覆すぐらいの気概があればよいのですが、それはますます難しい。だから、現実的に見て、妥協できる点を見つけるほかない」と答えています。さらにメディアや政治の現状から「一番国民から嫌われている生活保護とかがさらにカットされます。 …中略… 軍事派やらそのほかのいろいろな人たちも交えて妥協点を探っていくしかない」(40ページ)とも述べています。

阿部氏は生活保護基準の審議会委員のときの脅迫メールがトラウマになっているようですが、ネット上の右派の見解は膨大な件数ほど実際の人数は多くないし(ネット空間ではノイジーマイノリティーの声が過度に強調されるので「ネット世論」は歪んでいることを山口真一氏が実証している。「朝日」915日付)、コロナ禍後、国会での追及を受けて、政府も生活保護は国民の権利である旨を宣言しています。生活保護基準について全国各地で争っている生存権裁判でも最初は原告が負け続けていましたが、最近は逆転しつつあります。もちろん自己責任論や生活保護バッシングはまだまだ根強く優勢でしょうが、運動の成果は少しずつ現われているようです。

 それはともかく、社会保障などの財源論一般として言えば、軍事費削減とか、大企業と富裕層への増税などのメニューを並べて、財政の組み替え提案をすることになります。その際にまず金額上の整合性は前提ですが、その上に歳入・歳出それぞれの変更項目の政治的実現可能性が問われることになります。阿部氏の議論はそこを衝いています。財政はまさに政治と経済の交点にありますから。

それについても、まずは社会保障などの必要な歳出額を出し、それを賄う歳入の諸項目と金額、ならびに削るべき歳出の諸項目と金額を、一貫した政治方針に基づいて提起することが必要です。そのようにして、野党としては変革の旗印を掲げ、世論の同意を獲得し政権奪取を目指す必要があります。もちろん政権交代以前においても少しでも改良の成果を上げる必要があります。その際にも、現政権とは異なるポリシーを押し出して世論の後押しを受けることで、いくらかの譲歩を引き出すべきでしょう。妥協はいずれしなければなりませんが、まずは対決点を明確にすることが必要です。切実な要求を掲げて闘っている社会運動とともに進んで、世論を変えていくことが、財政を改善する政治的実現可能性を高めることにつながります。

 以上の叙述と重複したり、いささか図式主義的になるかもしれませんが、変革における現実主義と理想主義についてまとめてみます。現実主義は理想の正しさをつきつめるよりも、変革の現実的条件を優先的に考察します。したがって、そこで提示される政策は現実妥協的となり、それが実現した暁には、政策内容がどれだけ現実を本当に変革できるかが改めて問題とされます。それに対して、理想主義は理想の正しさを原理的に示し、それに即した政策を提示します。そこで提示されるのは理想主義的政策となり、実現可能性が課題となり、クリアできなければ空想主義と見なされます。政治変革の理想の実現可能性は財政的根拠を必要とし、財政的根拠は歳入・歳出の諸項目についてそれぞれの変革を政治的に実現する可能性に依存します。

現実主義はしばしば困難な現実を諦め受け入れることで、現実の不当性を減殺してしまい、現実の固定化に帰結しがちになります。理想主義はしばしば現実の困難性から目を背けて、理想をタテマエ化し、「立場の正しさ」に寄りかかった無力化に帰結しがちになります。現実の内在的・具体的把握を十分ふまえた理想主義が求められます。

以上、オンライン座談会の多岐にわたる議論のほんの一部を採り上げました。特にジェンダー問題が本来かなり重要なのに大方スルーしました。今後の課題です。

 次に理想主義的立場(と私は思う)から岸田政権の「異次元の少子化対策」を批判した石井拓児氏の「子育て・若者支援と高学費・奨学金を変える」(『前衛』20238月号所収)を紹介します。論文はまず、少子化の根本原因を指摘しています。1970年代以降、社会保障政策が進展せず、同時に日本型雇用の収縮により、生活保障機能が失われ貧困化が進みました。その中で、子どもの貧困、結婚期・出産期にある若者たちの貧困が少子化の根本原因となっています(47ページ)。

 児童手当について所得制限をつけるのは様々な弊害があり、世界的にはないのが常識で、「異次元の少子化対策」でその撤廃などを言っているが、それは当たり前で「異次元」ではありません。「異次元の少子化対策」では、児童手当の理念がなく、財源として扶養控除の廃止は本末転倒です。また現物給付より現金給付を優先するのは、社会保障サービスへのビジネス参入の手助けと思われます。働く人々、特に若い層への支援という観点が欠落してもいます(4851ページ)。

 大学授業料の値上げは1971年にスタートし、これは少子化と歩調を合わせています。平均的な家庭の収入では賄えず、奨学金の受給率が2010年代以降ほぼ50%になっています。卒業後、返済の滞りや生活圧迫が深刻化しています。アメリカの大学授業料が高いと言われますが、返済不要の奨学金、大学独自の割引措置、教科書・食事・住宅給付などがあるので、実質的には富裕層以外は安くなっています。ヨーロッパでは授業料無償が原則で、住宅費・交通費無償の国もあります(5154ページ)。

 授業料の他に「隠れ教育費」もあります。――(1)教材費、(2)制服代・体操服代・体育館シューズ代等々、(3)給食費・遠足代・修学旅行代・クラブ活動費、(4)筆記用具・ノート、(5)通学手段や交通費―― 

 授業料無償に加え、(1)〜(4)を無償化するのを「修学費無償」といい、そこにさらに(5)も加えれば、「教育費完全無償」と呼びます。世界の流れはそれも視野に入れています(5456ページ)。

社会保障が脆弱な上に、日本型雇用による保障も失われ、貧困化に直面する若者たちの苦境、未来への不安が少子化をもたらしました。したがって、すべての人の学ぶ権利の保障を理念として、学生支援と若者支援を一体に捉えた以下の政策パッケージが必要です。

  ・授業料無償化 ・給付型奨学金の創設と大幅な拡大 ・奨学金返済の帳消し

  ・賃金の大幅引き上げ ・安価な住宅や公共交通機関の提供

授業料無償の範囲は専門学校など職業訓練も含み、大学生・専門学校生への生活費給付と同額を若者へも支給すべきです。さらに少子化対策に欠かせないのは労働時間短縮です。パートナーと関係を育む時間が必要であり、家庭を形成する障害として、非正規雇用・派遣労働・単身赴任を改善することも求められます(5657ページ)。

 以上の政策を若者と議論し運動化することが大切です。その際に、今後の学生だけでなく、すでに奨学金を借りている学生、また奨学金返済で苦しい生活を余儀なくされている若年労働者をも含めるため、「授業料無償化+給付型奨学金創設+奨学金返済帳消し」という運動でなければなりません。

生活苦の若年層との徹底的な対話・アンケート活動から相談活動へ結び付け、政府がなかなか動かないなら、自治体や事業者に働きかけ、交渉する仲間を作っていくことが重要です。「授業料無償化+給付型奨学金創設+奨学金返済帳消し」=三つの課題は必ず実現できることを諸外国の事例を示して、若者とともに確認しながら進めます。その際に、「若者支援」のメニューとパッケージを多様に示し、特に、住宅支援と交通費支援の拡充がポイントとなります(5759ページ)。

 そうした若者との対話の中でも最後には財源論が問題とされます。「国にお金がないから若者支援は期待できない」。どう説得するか。論文では、「この問題が多くの人にわかりやすい形でクリアになりつつある」(60ページ)という認識を示しています。文末に、子ども手当の拡充に消極的な財界を批判し、日本型雇用を縮小して巨額の内部留保を蓄えた大企業の社会的責任を衝いています。その前に岸田大軍拡を批判して、軍事費を「今後五年間で現在の一・五倍、一〇兆円以上も上乗せしようとしています。 …中略… このことは一方で、これだけのお金を子育て支援や若者支援、国民の生活支援に振り向けることのできる可能性があることも示すものです」(同前)として、税金を軍事費と国民生活向上のどちらに使うのか選択が提示されたと見ています。だからわかりやすい、と。

些細な問題かもしれませんが、大軍拡に対してこういう捉え方を最近よく見かけるのには違和感があります。5兆円レベルで漸増してきた時期に、たとえば2兆円あれば、社会保障などがこれだけ充実できるという言い方で、軍事費を削って社会保障充実へ、ということはずっと言われてきました。ところが今は大軍拡で増える分を回せば、○○ができるという話で、そもそも大軍拡が大増税か財政破綻に導くものであり、決して許してはならないということが後景に退いてしまいます。大軍拡で米日軍需資本が大儲けの期待に胸をときめかすのと同様に、軍拡部分の転用で人々が社会保障充実を期待する、というわけにはいきません。無責任な支配層に対抗して、生活防衛・社会保障充実と財政再建を両立させる責任あるオルタナティヴを提起することが求められます。

 もちろん石井論文が学生支援と若者支援を一体に捉えた政策パッケージを提示したのは正当であり、さらにそのメニューとパッケージを多様に示しているのも、闘いの豊かな旗印を掲げるものです。政府とメディアの示す財源論に縛られて要求を萎縮し、不戦敗を喫することをまずやめねばなりません。その上で、財源論のオルタナティヴを提起する必要があります。その際に、財政だけを切り離すのでなく(それは緊縮論に傾きやすい)、疲弊した日本経済そのものの立て直しと併せて論じるべきです。また、社会保障を単にコストとみなすのでなく、それ自身、経済活動の一部であることに留意すべきです。そこで、財政論を含めた、日本経済の再建政策として、「日本共産党の経済再生プラン 30年におよぶ経済停滞・暮らしの困難を打開するために――三つの改革で暮らしに希望を」2023928日、以下「経済再生プラン」)が「国民的討論と合意のうえでのたたき台」(「赤旗」9月29日付)として注目されます。

 「経済再生プラン」の解説記事をまず見ましょう(「赤旗」1021日付)。「社会保障は企業の税や社会保険料負担を増やし、経済の足を引っ張るという財界の言い分」によって社会保障が削減されてきましたが、次のように反論しています。「社会保障は個人の力だけでは対応できない問題に社会全体で備える仕組みであり、健康で文化的な生活を保障した憲法25条に基づく、国民の大切な権利です。社会保障は同時に経済でも大きな役割を演じています。/例えば公的年金です。島根県の場合、高齢者が受け取る公的年金は年間約3千億円超に上り、同県の県民所得の18%、家計最終消費支出の23%に相当します。厚生労働省も、公的年金には地域経済を支える役割があると認めています。生活保護制度にも同様の機能があります」。

 そこで「経済再生プラン」では、人々の生活を守り、経済を活性化させ、財政を立て直す基本的見地が以下のように提示されます(「赤旗」9月29日付)。

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B国民にとって積極的かつ健全な財政運営をめざします。

 現在の財政状況からすれば、税・財政の改革によって、新たな財源を確保したとしても、政府の借金額それ自体は増加していくことになります。「借金を減らす」「財政赤字がたいへん」などを口実に、消費税を増税したり、社会保障を削減したりする緊縮政策を行えば、暮らしは破綻し、景気がさらに悪化して、その結果、財政危機もいっそう深刻化します。借金が多少増えても、経済が成長していけば、借金の重さは軽くなっていきます。国民の暮らしを応援する積極的な財政支出によって、健全な経済成長をはかり、そのことをつうじて借金問題も解決していく――そうした積極的かつ健全な財政運営をめざすことが必要です。

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 人々の生活も国家財政も危機的であれば、「積極的かつ健全な財政運営」にならざるを得ないと言えます。いわば二兎を追うこの積極予算提案の具体的内容は省きますが、その基本的実現はもちろん政権獲得によります。現行の政治的配置からそれは空想的です。しかし野党はまず、人々が支持しうる政策を提示する能力を示す必要があります。その旗印を掲げることで、切実な諸要求に基づく多様な社会運動と結んで、財政の変更を実現するための政治的裏付けを作り上げていけます。たとえば、最賃引き上げのため、中小企業支援の財源用に大企業の内部留保増額分に時限的課税することについては、その理論的根拠の提示とともに、世論の支持を獲得することが重要です。どこまで財政を民主的に変革できるかは、その裏付けとなる世論の支持などの政治情勢が重要な要素です。そうして政権獲得以前の部分的改良の体験が重なれば、やがて政権交代につながって、財政の基本的変革を実現できます。それはありうる例の一つに過ぎませんが、現実的かつ魅力的であり、本質的変革につながりうる政策提示は、どのような道筋であれ最も重要な出発点です。

 

 

          断想メモ

 

 政策提言そのものは大切だけれども、以上では、それを実現しうる政治力・世論の支持調達がさらに必要だという話をしました。要は選挙で勝たねば、というのが中心になります(もちろんそれだけではないが)。そこで、無党派層や他党支持層から日本共産党がどうやって支持を獲得するかが重大問題で、それが可能となる、政治意識の流動性を分析したのが、田村一志氏の「SNSの本格活用でこんどこそ総選挙勝利を――若い世代、真ん中世代に党支持をどう広げるか(『前衛』202311月号所収)で、興味深い内容です。

 未だガラケーでSNSに無縁なアナログ人間には、かなり「猫に小判」な論文ではありますが、40代以下の世代に「党として初めて本格的な独自調査をおこな」って(61ページ)、政治意識を捉えようとしており、非常に評価できます。調査の分析から、「若い世代に党支持を大きく広げていく伸びしろは十分すぎるほどあり」、「巨大な変化をおこせる」(62ページ)可能性を見出していることは心強い限りです。

 一つ注目した点について述べます。「いまは他党支持でも、共産党支持に変えられる」(62ページ)ことを検証するための質問項目がユニークです(a,b,c,dは刑部が便宜的につけました)。

a主義主張に共感できるし、日本共産党にそれを実践できる党を目指してほしい

b主義主張に共感はできるが、日本共産党がそれを本当に目指しているか?疑わしい

c主義主張が正しいかどうか?わからない

d主義主張に賛同できない

 

 bがなかなか微妙な質問項目で、政策への支持の流動性を探る工夫と言えます。他党支持者でも政策によっては、好意的反応(abの合計)が過半数を大きく超えるものがあると指摘しています。そこで、63ページの「他党支持層が日本共産党をどう見ているかA 自由民主党支持層・女性」(20236月、日本共産党調査)というグラフにおいて、厳しい項目を見てみます。数値は%。

 

格差拡大、環境破壊など、資本主義は未来永劫続く経済体制ではない。人類は将来、資本主義ではない新しい社会をつくることができる

a 13.1  b 31.0 c 33.3 d 22.6

 

日米安保条約はやめて、代わりに日米友好条約をむすぶ

a 7.1  b 27.4 c 44.0 d 21.4

 

自民党支持者でも、abがそこそこあることにまず注目します。さらには、資本主義批判・未来社会志向よりも日米安保条約反対の方が賛同が少ないということも重要です。やはり安保条約支持が日本の社会進歩の重大な障害物であり、体制選択よりも重い意味を持っているという現実があるようです。資本主義の矛盾がそれなりに大きく感じられている、という解釈もありえますが、それよりもやはり安保条約固執の強さを重視したく思います。
                                2023年10月31日





2023年12月号

          コストカットの30年を克服する経済政策

 田村智子さんに聞く「政治の責任で『失われた30年』を打開する 『日本共産党の経済再生プラン』928日に発表された共産党の経済政策提言を解説しています。もとより包括的な政策であり、ここで全体に言及することは難しいので、(1)「30年というスパンに着目したところが一番のポイントになります」(12ページ)ということと、(2)税・財政改革(18ページ)との二つに注目して触れます。

 「今、コロナ危機からの経済回復での物価上昇と、ウクライナ侵略戦争の影響でのエネルギー・食料等の高騰に、世界中が襲われてい」る(12ページ)中で、日本政府も対策(しかし的外れな)に追われています。岸田首相も「コストカットの30年」という核心を突く経済認識を私たちと共有している(!!)わけですが、まるで人ごとのように、財界と自民党政権の責任には無自覚で、今こそ30年の誤りを正すという姿勢にはなっていないので、眼前の弥縫策だけしか視野に入っていません。もっとも、DXとかGXとか喧伝し未来志向のつもりかもしれませんが、財界ファーストなので経済再生には結びつかず、人々の生活と労働の苦難は放置されています(GXの正体については、後述の大島論文に関連して触れます)。

 それに対して、共産党の経済再生プランは人々の今日の生活苦の根底に、賃金の停滞や税・社会保障負担増の「失われた30年」を見て取り、そうした構造的な問題の解決と緊急政策とを結合させています。緊急政策に関連しては、インボイス中止や賃上げなど当面する切実な要求実現に向け、労働運動・社会運動などの重要性が強調されています。それに対して構造的な問題の解決については、「既得権益」にしがみつく勢力の抵抗と真正面から対決する必要に触れ、「財界の目先の利益優先の政治の改革を綱領に掲げる日本共産党だからこその政策提言であり、党が大きくなることが、この政策実現に不可欠となります」(20ページ)と宣言されます。本格的に政策実現するには政権奪取が必要となります。そこに不可欠な支持獲得はどうすればいいか。それに関連して「日本共産党第10回中央委員会総会 田村副委員長の討論の結語」(「赤旗」1116日付)に次のように言われます。引用が長すぎるかもしれませんが、重要なのでご容赦を…。

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 社会の発展のためには、その主体となる国民の多数者が、自らの置かれている客観的立場を自覚する。自分たちを苦しめる根源と、それを解決するには何が必要かを理解し、日本の進むべき道を自覚する。そうした国民的な自覚が成長することが必要です。

 この自覚と成長は、自然には進みません。国民は、支配勢力とメディアが流す情報を日々、圧倒的に受け取っています。そういう情報にさらされている。そこからは変革の展望は見えてきません。変革の展望への自覚を妨げる、自覚を眠り込ませるような状況におかれています。また、妨害、攻撃、困難にも常にさらされます。こうした国民全体の現実におかれた状況を見れば、日本共産党が、どんな困難にも負けない不屈性、科学の力で先ざきを見通す先見性を発揮して奮闘し、国民全体の自覚と成長を推進することなしに統一戦線に国民多数を結集することはできない。このことは明らかではないでしょうか。

 これは、「経済再生プラン」、「外交ビジョン」、「気候危機打開2030戦略」、あるいは「ジェンダー平等社会の実現を」という政策、こうした政策を国民に届ける。対話する。ともにたたかおうとよびかける。入党をすすめる。「しんぶん赤旗」を読んでもらう。これらすべてが国民の自覚と成長を推進する活動そのものだということも強調したいと思います。

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 社会変革は日本社会に生きる一人ひとりが主人公となる事業であり、その意思の集合力による他ありません(多数者革命の立場)。それにはまず、現状へのオルタナティヴとなる政策を人々に届け、変革の展望を示すことが必要です。そこで問題となるのは、それがなかなか染み込んでいかない土壌があるということです。現状では、多くの人々が、客観的には自らに不利益になる政策を掲げる政党を支持するか、判断をしないという立場にあります。なぜそうなるか、様々な階層の置かれたそれぞれの状況、あるいはデジタル化など新たな社会状況、そしてそこに生まれる生活意識・社会意識・政治意識をきちんと分析することが必要です。社会運動・政治変革に取り組む人であれば、活動上で得られる手応えを、そうした客観的状況と意識状況に結び付けて考え総括することを(意識的にか無意識的にか)実践しているでしょう。

 確かに一人ひとりの社会進歩の自覚を妨害するものとして、支配勢力とメディアの流す情報、その基にあるイデオロギーをまず挙げることができます。しかしそれだけでなく、上記のような社会の構造と意識の現状を捉えることを抜きに、世論を変え社会変革に結び付けることはできません。そうした現状把握は社会学的分析ということになるでしょう。人々の意識を変えることは、「勉強の足りない人を啓蒙する」という姿勢では達成できないでしょう。相手の置かれた状況とそこに生じる意識を理解すべく、情理を尽くした相互交流が求められます。もちろん言うほど簡単ではありませんが、気をつけておくべき点です。

 一例として、メディア論研究者がネガティブな社会意識が発生する仕組みの一端を解明しています(「『こっちの方がつらい』弱者争う社会 成蹊大・伊藤昌亮教授に聞く」、「朝日」112日付)。不安定雇用の増加など「日本社会の構造変化によりあいまいな弱者が増えている」けれども、「元々の国の福祉規模が小さいので、増えた弱者全員を救えません。また、あいまいさゆえに共感も向けられにくいです。その不満が、生活保護バッシング、在日外国人へのヘイトスピーチ、反フェミニズムといった形で出ています」。各種バッシングなどの歪んだ社会意識を人権意識の欠如として説教するだけでなく、それを生み出す経済社会構造までさかのぼって変革することが必要であり、それを社会的同意に高めることが求められます。

 教育のあり方も大問題です。同時にそれを克服する子どもも登場しています。内容の紹介は省きますが、大阪の中学1年生、川中だいじさんの活躍と教育批判がたいへん参考になります。 → 「『日本中学生新聞』を一人で始めた少年 岸田首相に聞きたかったこと」(「朝日」デジタル1016日付)、「『学校で政治の話はタブーなの?』教育評論家・親野智可等氏に《日本中学生新聞》が聞いてみた」FRIDAY DIGITAL 118日付)

 私の二つ目の注目点としての税・財政改革について、田村氏は簡潔に触れています(1718ページ)。より詳しくは、垣内亮氏の「三つの改革で暮らしに希望を――日本共産党の『経済再生プラン』について(『前衛』12月号所収)が展開しています。垣内氏は「失われた30年」やコストカット型経済についても詳しく解明し、共産党の「経済再生プラン」全体を解説していますが、ここでは論文の最後に位置する 財源提案の考え方について を見ます(6973ページ)。

 その始めに、「経済再生プラン」に「金融政策についての柱がない」という疑問に回答しています。もちろん「異次元の金融緩和」からの転換は必要だけれども、「金融政策の具体的内容については、どこまで政治が言及すべきかという問題があります」(69ページ)と指摘しています。たとえば消費税の税率は政治が決めることですが、金利の誘導は日銀の仕事です。「経済再生プラン」は政府のすべきことを述べたので、金融政策を詳細に論じる柱は立てなかったということです(6970ページ)。しかし、日銀が政府から事実上の財政ファイナンスを押しつけられていることが金融政策の行き詰まりの一因であるので、財政再建は金融政策で日銀が正常な役割を果たす前提となるということを指摘し、財政と金融のつながりに言及しています(70ページ)。

 ついで財源提案の基本的な考え方としては、一方では、緊急時・時限的な財源は、国債の発行など臨機応変な対応が必要であり、他方では、社会保障・教育などの恒久的制度の拡充は、税・財政構造の転換で持続可能な財源を確保する必要がある、という原則を提示しています(7071ページ)。その上で、積極的かつ健全な財政運営の中身を解明しています。予算規模や国債の発行高だけを見て「積極財政」と「緊縮財政」を区別するのは誤りであるとします。たとえば、かつての日本の戦時財政は予算規模・国債発行高だけからすれば「積極財政」だけれども、人々に緊縮生活を強いたということでは「緊縮財政」だ、と切れ味鋭い解説を付しています(今日の岸田大軍拡にも当てはまる)。そこで、積極的かつ健全な財政運営の意味を以下のように提示しています。

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 国民にとっての「積極財政」とは、暮らしを応援する予算がきちんと組まれているかどうかです。政府は、「財政赤字が大変だから」といって暮らしの予算を削ろうとしますが、そんなことをすれば暮らしは破綻し、景気がさらに悪化して、財政危機もいっそう深刻化します。国民の暮らしを応援する積極的な財政によって、健全な経済成長をはかり、そのことをつうじて財政危機も打開していく――こうした積極的かつ健全な財政運営をめざすことが必要です。          71ページ

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 論文の終わりには、一部の自民党議員のマヌーバーにだまされないようにという警鐘が鳴らされています。100人以上の自民党議員が参加する「責任ある積極財政を推進する議員連盟」が消費税・所得税の減税などの大型補正予算(真水20兆円規模)を提起しています。しかし財源は示していないので、選挙目当てに「消費税減税を主張した」というアリバイ作りということが明らかです(73ページ)。岸田首相の失政と不人気が自民党をそこまで追い込んでいるとも言えますが、わらにもすがりたい人々にとっては、そんな不誠実な議員が投票先になってしまいかねず、苦笑や無視で済ませるわけにはいきません。

 財源問題では、「日本共産党の財源提案の基本的考え方 大門政策委員会副委員長に聞く」(「赤旗」118日付)がさらに参考になります。この中で、大門実紀史氏は緊縮政策の本質を解明しています。「一部の評論家の人たちは、財務省が緊縮政策の本丸といいますが、実際に緊縮政策を自公政権に強く要求し実行させてきたのは経団連や経済同友会など財界です」。非常に重要な指摘です。したがって、「国民には緊縮財政、財界と軍拡にはばらまきの放漫財政というのが、自公政権の財政政策であり、この政策に正面からたたかってきたのが日本共産党です」ということになります。

 そこでまず大切なのは、国債発行の考え方の違いを脇に置いて、緊縮政策に反対する大きな共同が必要だとされます。そういう政治的前提を置きながら、理論的には「日銀の国債引き受けは高インフレ招き、暮らしに打撃与える危険な政策」と主張しています。MMT(現代貨幣理論)を念頭に、以下のような批判が展開されます。

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 日銀の国債引き受けを主張する人たちも、政府が国債を増発していくといずれ高インフレが起きる危険性は認めたうえで、それは増税などで抑制することができるといいます。しかしそんな保証はどこにもありません。いったんインフレが起きたら簡単に止められないことは歴史的に見ても、また現在のアメリカがインフレを抑制するために四苦八苦していることを見ても明らかではないでしょうか。

 そもそも高インフレで最も苦しむのは庶民です。高インフレのときに増税などすればますます暮らしが破壊されてしまいます。

 また政府が日銀に国債を引き受けさせる方針を表明しただけで、一気に円の信頼が失われ、海外勢がそれを投機のチャンスととらえ、為替をつうじた日本売りを仕掛けるなど、円の暴落、物価急騰、円建ての債券の売り浴びせが起こる危険性も否定できません。

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 1128日、日銀は保有する国債の9月末時点での評価損が、過去最大の10兆5千億円に膨らんだことを公表しました。金融政策を修正して金利が上がり、国債の市場価格が下がったためです(「朝日」1129日付)。日銀と専門家の見解は以下の通りです。

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 日銀は10月の会合で、1・0%の上限を「めど」に改め、さらなる金利上昇も認めることにした。今後金利が上昇し、評価損はさらに膨らむ可能性がある。

 日銀は国債を満期まで保有する限り、損失は発生しないと説明する。植田和男総裁は9月の講演で「一時的に赤字や債務超過になっても、政策運営能力は損なわれない」と述べた。

 ただ、専門家の間には懸念の声もある。わずかな金利上昇でも含み損が膨らむことについて、かつて日銀審議委員を務めた野村総合研究所の木内登英氏は「大量に国債を買ってきた副作用」とみる。

 「巨額の含み損は、日銀の財務の健全性に対する信認を低下させ、それが通貨、物価の不安定化をもたらすリスクもある」と指摘。円安が急速に進んだり、国債の価格が急落(金利は急上昇)したりするおそれもあるとしている。

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 グローバル経済は金融化によってカジノ資本主義と化しています。一歩間違えば、投機マネーが国民経済に大打撃を与える危険性があります。人々の生活を守りつつ財政再建を進める「積極的かつ健全な財政運営」を着実に実現して、財政金融政策の綱渡りから脱出することが求められます。

 

 

          気候危機と原発問題の政治経済学

 私はそういう幻想は毫も持ちませんでしたが、岸田政権は宏池会だから清和会の安倍政権より多少はましではないかという「期待」が世の一部にはあったようです。しかし、安全保障政策では、2015年の戦争法強行採決を始めとする安倍政権のタカ派路線をまっすぐ引き継いで増幅し、安保三文書を閣議決定で押し通し、日米軍事同盟・集団的自衛権発動としての外国への先制攻撃を具体的に可能とする大軍拡を爆走しています。そして「脱炭素」の名目で、原発再稼働と老朽原発の延命策という最悪の選択に踏み込んでいます。2011311日の福島の悲劇が風化しつつある中で、235月には、そういう原発政策を含むGX(グリーン・トランスフォーメーション)関連法が成立してしまいました。何だかひたすら悲観的な状況に見えますが、大島堅一さんに聞く「エネルギー政策の真の変革へ 岸田GXを問うは、そこに至る過程を見据えるとともに、日本社会は基本的にはよい方向に変わってきたと指摘しています(34ページ)。ここには、若いときから研究者と同時に社会運動家としても環境や原発の問題に取り組んできた人の重み――悪政による逆流の下でも冷静さと希望を堅持する姿勢――を感じさせます。この論文はわかりやすい語り口の中に、現実に対するブルジョア経済学の一面的な抽象化を許さない、政治経済学の本領を発揮しています。

 岸田政権の露骨な原発再興政策を見ると、自公政権ではもともとそんなものだったかのような錯覚に陥るのですが、ホンネはともかく、公式には安倍政権でも「原子力への依存度をできるだけ下げる」と表明していました。始めからたどると、福島第一原発事故当時の民主党・菅直人首相は、20117月に、それまでの政府の原発推進策を転換し、原発ゼロの日本を目指すと表明しました。続く野田政権で、20129月に国家戦略会議分科会のエネルギー・環境会議は「革新的エネルギー・環境戦略」を決定し、「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、グリーンを中心にあらゆる政策資源を投入する」ことが謳われました(22ページ)。当時多かった「即時原発ゼロ」の世論からすれば、たるい方針と思われましたが、ともかくも政府が原発ゼロを掲げたのは重要でした。

 しかし、それは法制化されることなく、201212月の総選挙で民主党政権は終わり、自公連立の第二次安倍政権が発足します。1226日、政権発足当日に国家戦略会議を廃止することで、安倍政権は原発ゼロ方針を止めました。民主党政権による再生可能エネルギーの普及と電力システム改革の実行は引き継がれましたが、原発維持のメカニズムが組み込まれました。しかし原発ゼロの世論は依然として強かったので、上記のように「原子力への依存度をできるだけ下げる」とは表明していました(22ページ)。

 岸田政権も当初はその方針を維持していましたが、政府のGX実行会議(2022824日)での首相発言は、実質的には「GXを名目に、政府として原発の再稼働、運転期間の延長、さらに新型炉の開発・建設を全面的に推進していくこと」(23ページ)を表明しています。GX実行会議は「非公開であり、構成員は閣僚や経団連会長などで、一般公衆の参加はありません」(同前)。235月の国会で、GX推進法とGX脱炭素電源法からなるGX関連法が成立し、グリーンを免罪符に原発推進の法整備が進みました。

 原発推進策はもともと自公政権のホンネではあっても、世論を意識してか、抑制的な表現であったのが、岸田政権であからさまな方針とされた背景として、大島氏は、22617日の最高裁判決を挙げています。最高裁は福島原発事故被害者訴訟において、国の責任を認めませんでした。(この判決が出された理由について大島氏は、後藤秀典氏の「『国に責任はない』 原発国賠訴訟・最高裁判決は誰がつくったか 裁判所、国、東京電力、巨大法律事務所の系譜/本誌20235月号所収/が参考になるとしています)。これは「政府が原発回帰を決断する大きな契機となったと考えることができ」、「きわめて政治的で、その判決をだした裁判官の道義的責任は重いといわざるをえません。岸田政権の政策転換を司法の面から後押しすることになりました」(24ページ)。このように、忖度判決がお墨付きとして悪政を増長させているので、これ以降さらなる忖度を生み……という悪循環が形成されるでしょう。沖縄辺野古新基地建設問題も同様ですが、司法の独立が形骸化している(その理由が問題ではあります。もともと司法エリートは体制側であって「司法の独立」はタテマエに過ぎないと捉えるべきかもしれませんが…)ところでは、まさに政府と最高裁が同志として悪政を支え合い増幅する構造ができています。これはネット上における右派世論のエコーチェンバーを想起させますが、リアル空間において国家権力が内部でそれをやって暴走しているのが不毛の現実を作っていると言えます。

 GX関連法の内容に戻れば、原発推進の免罪符としてグリーンを掲げながら、その実質を備えていません。大島氏は「まずこれは日本として気候危機・温暖化対策はまともに行いませんということを宣言した法律だといえます」(25ページ)とバッサリ斬っています。たとえば、石炭火力を存続させながら、CO2削減につながらない水素やアンモニアの開発や、コストがかさむCCS(炭素回収・貯留技術)に莫大な投資をするものです(27ページ)。したがって、環境政策という仮面を剥がせば、政策的評価は以下のようになります。

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 GX基本方針の中身を見ていくと、ほとんどが産業政策です。脱炭素と銘打って、国が産業界にどんどんお金を出すものになっています。GX関連法の参考資料では、例えば水素インフラや次世代革新炉にいくら投資するなど、金額や期限が事細かに書かれています。肝心の石炭火力発電を退出させていくための計画や、省エネの推進、街づくりなどのプランはありません。既存の産業構造を転換していくというビジョンはないのです。時代錯誤が甚だしいものになっています。    2728ページ

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 とてもじゃないが、GX=環境問題解決へのトランスフォーメーション(構造を変えること)などとは言えない代物だということです。GX関連法の一環としての「原子力基本法改正では、原発を温暖化対策として位置づけて、原子力開発を推進し、国家による原子力産業保護を規定しています。これは原子力産業の永久化をはかるものです」(25ページ)。たとえば、「使用済み核燃料の中間貯蔵施設の整備」に国が積極的に関与していますが、「本来、事業者がやるべきことを国が全部肩代わりし、最終的に負担と危険を国民に押しつけるようになっています」(26ページ)。

 大島氏は「求められる環境・エネルギー施策への転換」を実現するための環境問題対策の三原則として、予防原則・公衆参加の原則・汚染者負担原則を挙げています(29ページ)。ところが岸田GXでは、予防の段階をとっくに過ぎているにもかかわらず、再エネ・省エネに踏み込まず、財界と閣僚などだけが非公開で政策決定し、原発などの負担と危険を企業には負わせないというように、三原則の正反対を実施しています。それよりも企業利潤が最優先という原則が事実上あるからです。

 以上のような原子力産業保護・推進を含むニセ環境政策が実際には産業政策であることは、いわば(今や死語だが)国家独占資本主義の常套手段であり、最近では半導体企業への巨額支援が典型的です。一般論としては、国民経済のバランスある発展のために産業政策は必要とされます。たとえば、食料とエネルギーの自給率を高めることは安全保障上も最重要な課題ですから、農林水産業の振興や再生可能エネルギーの普及による地域経済の復権などが求められます。しかしそれはネグレクトされ、企業利潤最優先の産業政策が実施され、動機の不純さも相まってこれまで失敗続きとなっています。

 「朝日」1124日付の「半導体、国の巨額支援に危うさ ラピダスに1兆円規模」は歪んだ産業政策への警告記事です。1990年代まで日本の半導体生産は世界トップでしたが、今は世界シェア1割を切っています。そこで、日本の半導体復活をかけた国策会社「ラピダス」が官民合同で次世代半導体の国産化を目指し、1兆円規模の国費が投入されます。日本の半導体生産の凋落の原因について記事はこう説明しています。

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半導体は数年単位で技術革新が起こるため、多額の投資が必要だ。海外では開発や製造などの各工程で分業が進み、投資を集中させたが、日本はこの流れに乗り遅れた。86年に結ばれた日米半導体協定の影響も大きい。日本市場での海外製品の使用促進や日本製を輸出する際の最低価格制度の導入など、日本メーカーに制約を課した。

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 金融化の下で企業が本業の投資を怠り内部留保を増大させ、また坂本雅子氏などが指摘しているように、対米従属の経済政策が悪影響をもたらしたということでしょうか。その挽回策として国策会社への巨額支援でしょうか。そこには「岸田政権が前例のない支援に乗り出した背景には、経済安保の台頭」(同記事)により、米中対立下で日本の役割が上昇するということや(相変わらずの対米従属)、コロナパンデミックによる製造業サプライチェーンの断絶、さらには安倍政権以降、政府内で経産省の影響力が高まったことなどが関係しているようです。しかし「国策事業を率いる経産省には、苦い過去がある」(同前)。「エルピーダメモリ」は2012年に経営破綻し、「ジャパンディスプレイ(JDI)」は経営難が続いています。「いずれも寄り合い所帯だけに、責任の所在があいまいになり、意思決定が遅くなったと指摘される」というのです(同前)。では今回のラピダスに展望はあるのか。同記事デジタル版に加谷珪一氏(経済評論家)はこうコメントしています。

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半導体企業への支援策は、何を目的としているのかによってその評価は大きく変わってきます。日本の半導体産業はもはや壊滅状態であり、政府が巨額支援を行って最先端の半導体を日本で開発し、かつての半導体大国の復活を目指すというのはまったくの夢物語といえるでしょう。  …中略…  最大の問題は政府与党と産業界が、目的やビジョンを整理せずに一連の案件を進めていることです。政府内部ではいまだに、半導体大国復活を主張する声がある一方、現実を分かっている産業界は冷めた目で眺めています。ちなみに本気で最先端の半導体を日本が独自開発しようとするのなら、1兆円や2兆円程度の資金では到底足りず、ケタを1つ多くする必要があります。

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 もっとも、主要国も半導体への支援合戦をしているではないか、という声もありましょう。しかし同記事によれば、欧米と違って日本の補助率は異常に高く、その歯止め策もありません。なりふり構わず失敗に突き進んでいるように見えます。結局、これまでの企業と国策の失敗に反省もなく、人々の生活苦を尻目に、無謀に巨額の国費を投入しているというほかありません。利潤第一主義以上にひどい状況です。

興味深いのは、ここには人民一人ひとりにいつも求められる自己責任論が大企業に対してはないということです。さらに言えば、諸個人に向けられる自己責任論で対極的に免責されているのは、国家・政府等の政治責任(たとえば憲法25条の遵守)なのですが、大企業支援においては、その自己責任も政治責任も等しく放棄され、結果的に増税・社会保障削減あるいは財政危機に起因するインフレなどに帰結するでしょう。そこで困難に陥った諸個人に対しては再び自己責任論が強調されるという事態に回帰します。これは様々な具体的問題を抽象化して一言すれば、階級社会の本質というほかありません。

 大島論文に戻れば、半導体生産以上に、「日本では原子力は完全に行き詰まっています」(32ページ)。原発の新設は中断し、輸出プロジェクトもすべて失敗し、供給網の存続危機に陥っています。核燃料サイクルが破綻しているにもかかわらず、放射性廃棄物(ガラス固化体)が大量に存在しているかのように説明して、その処理が切迫しているので地域に金を出すというのです。しかし「原発のごみを受け入れることに対する対価ではなく、原発ゼロを目指し、グリーンで持続可能な社会を構築することにどうお金を使うかを考えれば福祉も向上するのです」(33ページ)。政府がどんなにタテマエを粉飾しても、経済政策の実際の目的が本末転倒しているので、地域経済を再生するのでなく、寄生体質化し破壊する結果となります。

 ここでも辺野古新基地建設と同じです。選挙・住民投票などで表明された民意を無視して、無理を力ずくで(札束も使って)押し通すので、地域の人々に厳しいしわ寄せが行きます。こうして見てくると、エネルギー・環境問題は重層的で、その基礎に科学・技術の問題があり、その社会的展開上では経済の問題がありますが、全体としては政治問題が決定的ではないかと思えます。もちろんそれぞれの次元においても複雑な問題があり、単純化はできないでしょう。しかし政策目的をどこに置くか、大企業の利潤か人々の生活と労働・営業かの政治的決断が全体状況を決します。論文の終わりの方でこう言われます。

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 本来、国会は国民にもっとも開かれた場であり、そこでの真剣な議論を通じて政策が決定されていくはずです。しかし実態は、国会以前に政府・与党のなかで調整してしまい、結論があらかじめ決まってしまっています。その結果、特定産業の利益のための政策や法律がつくられていく状況にあります。環境の危機的状況に対処するためには、何より環境保護を優先する議員が多数派になっていかなければならないと思います。

     34ページ

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 これは民主主義形式についての当たり前のことが言われているに過ぎない、と思う向きがあるかもしれません。しかし、エネルギー・環境問題は科学・技術あるいは経済で固有の難しい問題があるために困難に陥っているのではなく、政治の問題、政策判断の誤りにその原因があり、それを打開するのは、主権者が判断するという民主主義内容の核心である、ということが語られているように思います。

 それでは問題のそういう全体構造の中で、経済学の任務はどこにあるのか。その課題については、経済理論・現状分析・経済政策の各次元において追求すべきでしょう。ここでは、ほんの一つだがそれなりに大きな課題を採り上げます。資本主義の本質を捉える政治経済学のあり方を前提にした経済政策の一つの論点です。経済理論的には、資本主義市場経済の操作可能性をどう捉えるかということです。私などにきちんと分かることではないのですが、ブルジョア経済学の立場からよく言われるのは、人々のためによかれと思って経済に介入しても、各経済主体の自由な行動の結果、結果的には逆作用に導かれる、という主張です。おそらくここには、市場における資本の自由の絶対視があると思われます。しかし資本主義市場経済を前提にしても、資本への規制の実効性を確保することは可能ではないか、もちろんそこには何らかの限界はあろうけれども…。そのあたりの詳しいメカニズムは措くとして、資本主義市場経済における経済政策の本質は、利潤追求の放任を止め、規制によって望ましい社会的目的に向け誘導することだろうと思います。環境問題での具体例が以下のように言われます。

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 環境破壊型の活動に経済的な負荷をかけることは効果的です。炭素税は高率なものを導入し、税収は社会保険料の引き下げによる還元や、エネルギー価格の上昇で不利益を被る低所得者への補償などを行うべきです。排出量取引も速やかに実行すべきです。いったん枠を決めてしまえば、産業界はそれに応じた行動をとるようになります。

      3132ページ

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 19世紀イギリスの工場法による労働時間規制は科学技術発展による生産性向上を導きました。20世紀の自動車産業に対する排気ガス規制(米国のマスキー法など)をクリアした日本の自動車産業はその後の繁栄を築きました(搾取強化の問題は措く)。気候危機への対応は、資本主義そのものの克服を求めているようにも思えますが、時間的切迫はそれを待てません。資本主義の枠内であっても実効性のある政策展開が求められます。そんなとき、原発再稼働・運転期間延長などという、国家による原子力産業保護政策は問題外というほかありません。日本の主権者による政治的決断が最重要です。

                                2023年11月30日




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