月刊『経済』(新日本出版社)編集部宛の感想文です(2025年7月号〜月号)。 |
2025年7月号
経済政策の根本的で現実的な転換
2022年以降の物価高騰が人々の生活苦を非常に増大させ、自民党の裏金問題の発覚による政治不信も相まって、物価対策とともに政治の根本的変革を求める声が大きくなりつつあります。それは真の変革に結びつく可能性とともに、右派ポピュリズム支持にねじ曲げられる危険性をも秘めています。生活苦に対する対策が弥縫策にとどまる限り、問題の根は残り、いつまで経っても閉塞感は払拭されず、民意があらぬ方向に回収されてしまう可能性が高まります。かと言って根本的解決策と称して非現実的あるいは不安定な危険性を伴う政策に迷い込めば取り返しがつかない結果を招きます。特に経済政策では。
かつて消費税減税が今日ほど政治の焦点になることはありませんでした。政府とメディアによる財政危機の宣伝が行き届いており、人々は我慢していたのです。しかし悪政に耐えて個人的に何とか日々をやり過ごすことを習性としてきた日本人の多くにしても、上記の状況から堪忍袋の緒が切れました。7月の参院選を控え、与野党各党は人々の生活苦と財政危機を両にらみにして物価対策を提起することが求められ、特に消費税減税への姿勢が問われています。
もちろん票がほしければ生活苦を改善する政策を提示する必要があります。それに対して、対米従属の国家独占資本主義体制を守る「責任政党」たる自公与党は、企業献金を受け入れつつ、大軍拡と財政危機緩和を両立すべく、あくまで消費税減税を否定し、給付金支給でお茶を濁そうとしています。それでは生活苦の改善効果はまったく一時的であり、当然不評です。同様の体制擁護と政策基調をとる立憲民主党は対象品目ないし時期を限定した消費税減税にとどめています。以上は物価高騰に対して弥縫策でやり過ごそうというものであり、経済政策の根本的転換に結びつかない以上、生活苦は解決されず、民主主義の危機をもたらす閉塞感の土壌は増殖するばかりです。れいわ新選組や参政党などのポピュリズム政党は生活苦軽減策として、財政危機を軽視して、国債増発による消費税減税ないし廃止を主張しています。国民民主党も消費税減税だけでなく、てんこ盛りの各種経済対策で30兆円もの支出増で、国債増発を予定しています。これらは財政と経済を破綻させる危険性の高い無責任な政策で得票する算段です。
それらに対して日本共産党は生活苦と財政危機への対策を両立させるため、大軍拡を止め、大企業・富裕層の応分の負担を財源とする消費税減税を打ち出しています(消費税廃止をその先の目標として)。それだけで経済政策の根本的転換とまでは言えませんが、その土台を築くことにはなります。経済政策の転換においては根本的であることだけでなく、実現可能性が高いことも必須です。地に足がついていなければなりません。変革のための経済政策の妥当性を保証する前提条件は何でしょうか。――現行制度を正しく押さえ、統計を緻密に読み込み、必要とあらば分析目的に応じて統計を加工することで、正確に経済の現状を把握し、それに応じて細かく配慮した政策を整合的に組み立てる――さし当たってそんなところでしょうか。垣内亮氏の「いまこそ消費税減税の実現を 物価高騰から暮らしをまもり、税財政の転換へ」(『前衛』7月号所収)は、5月24日付「赤旗」記事「『国債発行で消費税減税』 四つの大きな問題」を敷衍した部分を含めて、消費税減税にまつわる諸問題を総合的に解説しています。
垣内氏はこれまでもテーマに応じてしばしば統計を様々に加工して緻密に現状分析し、政策意図を浮かび上がらせてきました。消費税減税を提起するにあたっては、まず物価高騰による生活破壊の実態に迫るため、負担増をうまく可視化することが必要です。本格的な物価高騰の始まりは、ロシアのウクライナ侵略戦争による世界的な食料・エネルギーの供給混乱と異常な円安をきっかけとした2022年と見られます。しかし物価上昇率の底は21年4月なので、それを起点に「支出品目ごとにその価格上昇率を乗じて集計することで」物価高騰の影響を計算できます(14ページ)。しかし21年4月は「コロナの影響で外食や旅行などの支出が大幅に落ち込んでおり」(同前)、そうした異常時の一時的な歪みを是正しないと、平時に適用できる分析ができません。そこで論文はコロナ前の2019年の家計消費支出のデータに合せて計算しています(「コロナ以前の2019年の品目別支出額に21年4月以降の物価上昇率を乗じて影響額を計算」――「図2」の注記、15ページ)。すると21年4月に対する月額上昇額は25年4月で3.7万円であり、直近1年間(24年5月〜25年4月)の合計は38.8万円となります。ところが実際の直近年間支出は19年比で13万円増に過ぎません(年間支出の実額は21年ではコロナ禍の影響があるので19年比を見ていると思われる)。つまり物価高騰の影響の内25万円以上は支出切り詰めで対処されているのです。品目別では、旅行・小遣い・衣類・魚・肉・野菜・果物が減らされており、生活苦を増しています。こうした消費冷え込みで経済低迷に拍車がかかり、25年1〜3月の実質GDPは年率換算でマイナ0.7%に落ち込んでいます(14・15ページ)。
物価高騰による生活苦は多くの人々が実感しているところですが、論文はそこに影響額の的確な推計値を提示し、GDP統計の結果(経済停滞)に結びつけています。こうして個人生活と国民経済の密接な関係が形象化されています。以上のように、政策策定の前提となる正確な現状認識において、分析目的に合せた統計の活用(加工を含む)が重要であることがよく分かります。
政府の経済政策を批判し対案を提起するには、現行諸制度の正確な把握が必要です。さもなくば的外れな批判や空虚な大言壮語になりかねません。たとえば論文は輸出戻し税について、おそらく民主勢力内にあるだろう誤った思い込み・勇み足を冷静にいさめています。トヨタなど輸出大企業に消費税が還付されるのは、大企業優遇税制の象徴であり、消費税の納税や負担にあえぐ中小企業や庶民にとっては怨嗟の的とも言えます。しかしだからと言って、逆に消費税を廃止して輸出戻し税がなくなれば大企業に増税になるわけではありません。なぜなら、輸出戻し税に関わる不当な利益は消費税・輸出戻し税の制度そのものではなく、大企業の下請単価の買いたたきから来るからです。それをなくさない限り不当な利益は存続します(30ページ)。
タテマエとしては公正な制度が、格差構造における歪んだ経済実態の下では、不当な利益の温床と化すのが輸出戻し税の問題点です。もっとも、フランスで付加価値税が導入されたのは、輸出補助金への批判をかわすため、形を変えて実質的にそれを温存するためだと言われていますが…。一般化すれば、制度の仕組みを正確に理解した上で、それを取り巻く状況や運営の実情を把握し、両者の違いと関わりを踏まえて的確に批判することが必要となります。
論文は「輸出戻し税が減税財源に活用できる」つまり「消費税収は31兆円だが、戻し税が9兆円あるので、22兆円の財源があれば消費税を廃止できる」という議論は誤りと指摘しています。ここには単純な事実誤認があります。40兆円集めて9兆円戻した残りが31兆円なので財源22兆円では消費税を廃止できません(30・31ページ)。政府を批判する側にしばしばありうる、思い込みからの主張の行き過ぎを事前に防ぐ意味で、こうした事実確認によって脇を固めることは重要です。経済政策はイデオロギー闘争の焦点の一つなので、相手に無用の突っ込みどころを与えないような警戒心が要ります。
制度上の留意点として、論文は5%へ消費税を減税すれば歳出を2兆円程度削減でき、減税に必要な財源15兆円の一部として活用可能と指摘しています(31ページ)。消費税導入の是非が争われていた当時、反対する側から、消費税によって歳出も増えるから消費税歳入分がまるまる増収になるわけではない、という論点が提起されていました。消費税減税の際には、逆にその歳出削減効果によって財政がいくらか助かるわけです。
論文では、5%への一律減税によって複数税率を解消し、インボイス廃止を一体に提案しています。インボイス導入の根拠として、複数税率を適正にさばくためということが挙げられています。これは実務上の問題ですが、徴税上の論理としては次のようなことが挙げられると思われます。――課税業者が消費税を納税する際に、仕入税額控除が認められているが、従来の帳簿方式では、非課税業者からの仕入に対してもそれが認められる。本来、仕入税額控除は仕入れ先が納税していることが前提のはずだが、非課税業者からの仕入にも適用されれば、国はその分の消費税を取りはぐれてしまう。それを防ぐため、仕入税額控除にはインボイス提出を義務づける必要がある――。
これは徴税側としては理屈が通っているようです。しかし現実問題として、中小零細業者やフリーランスはインボイスによって大きな損害を被っています。どう考えればよいか。とりあえずの問題としては次のことがあります。消費税の制度上の考え方のタテマエとしては、本体価格がきちんとあって、それに対する消費税の転嫁がスムーズに行なわれる、ということになっています。しかし実際には、本体価格は(従ってそれに伴う消費税額も)現実の価格変動の中に埋もれており、弱い立場の事業者にとって消費税は実質自腹負担となっています。大企業による下請叩きもここに成立します。
こうした理屈(タテマエ)と現実の矛盾はもっと大きな見地から考える必要があります。そもそも消費税のような弱い者いじめの悪税は減税から廃止を目指すべきと捉えれば、諸矛盾を以下のようにまとめられます。
消費税をめぐる議論状況を整理し直すと、消費税そのものの是非を問う「大問題」と、現行消費税制度の様々な欠陥を問う「小問題」とに分けられます。世論の反対をなだめて「小さく生んで大きく育てよう」という思惑から、3%という低税率とともに(インボイスでなく)記帳方式・簡易納税制度・零細業者への免税といった制度が導入されました。ここから益税などの「小問題」が発生し(実際には損税の方が大問題なのだが)、「不純で不透明な」現行制度を「改革」して「純粋で透明な」本来の消費税を実現しようという衝動が必然となります。「改革派」にとってはこの「小問題」は格好の存在です。まず「大問題」から人々の目をそらすのに役立ちます。その上、消費税の存在を所与の前提として議論するかぎり、中小企業・自営業者の「不当な既得権益」を指摘して「改革派」の議論の正しさを印象づけることができる(実際には以上に見たようにその正しさは一面的なものに過ぎないのだが、ともかくも理論的一貫性は主張できる)のです。メディアももっぱら「小問題」に集中することで、世論を分断していますが、今こそ、「大問題」の視点から国民的共同の輪を実現せねばなりません。
つまり消費税の導入をめぐって支配層と被支配層との闘争の妥協点として取り込まれた諸制度は、その妥協的性格故に「不純」で理屈が通りません。支配層はそれを奇貨として「純粋で透明で理屈の通った」消費税制度に純化することをずっと追求してきました。そもそも弱い者いじめの悪税である消費税を成立させるという前提に誤りがあります。制度上の様々な矛盾があるとしても、それは消費税存在のための政治的妥協から生じると捉え、純粋な消費税へと理屈を通すがごとき主張は一蹴する必要があります。消費税の廃止がまともに取り上げられる現在の状況はそのことを想起させるものです。 参照:拙文「消費税について」(1999年12月)
閑話休題。論文の眼目は、以下にあると思われます。
(1)「ガソリンや電気代に関わる特定業界への補助金」や「低所得層への給付金」などの個別対策と比べて、消費税減税の持つ物価対策としての優位性を提起する。
(2)与党の消費税減税反対論を批判する。
(3)対象品目と時期を限定した他野党の減税案と比べて以下の日本共産党の提案の優位性を示す。
1)5%への一律減税 2)インボイス廃止を一体に提案
3)一時的な減税ではなく廃止に向かう減税
4)大企業・富裕層の減税・優遇を正して、恒久的な財源を示す
(4)財源問題の重要性を強調し、国債頼りを批判する。
以上の内、財源論が最も重要かと思いますが、先月号の感想において5月24日付「赤旗」記事「『国債発行で消費税減税』 四つの大きな問題」に触れながら言及しているので省略します。消費税減税反対論の中心は「消費税=社会保障の安定財源」論ですが、社会保障の財源を消費税に限るのは他国にない特殊な議論だと指摘されており、石破首相も国会答弁で、所得税・法人税も社会保障財源となることを認めています。「安定財源」を強調する議論に対しては、一方では消費税は不景気でも人々から搾り取るということであり、他方では直接税も税収に大きな振れはないことが国会論戦(参院財政金融委員会、小池晃議員の質問)で明らかになっています(「赤旗」6月13日付)。
個別の物価対策に対する消費税減税の優位性について、論文は「なんでも」「誰でも」「いつまでも」という分かりやすいスローガンを示しています。「いつまでも」と言えるのは、廃止を目指して当面減税というスタンスならではです。それに対して、立憲民主党・国民民主党・維新の会は期限限定の減税案なので先々までの物価対策とは言えませんし、税率を戻すときの混乱・落ち込みが避けられません。
他党の「食料品ゼロ税率」案に対しては、一律5%より全体として減税額が少なく(低所得層でも)、3段階税率になるのでインボイス廃止運動の障害になることが指摘されます。外食業者・農家・漁家などへの影響も細かく考察され、様々な不利益が発生することが示されています。
なお、論文は減税財源論において、国債頼りへの批判の中で、通貨の過剰によるインフレの発生を検討しています。その際に、現代の通貨の大部分は預金通貨なので、「現代の通貨である預金は、政府でなく銀行などの民間金融機関によって供給されます」(27ページ)と説明されます。内生的貨幣供給についてのこうした啓蒙的配慮は余り見ることがないのですが、物価高騰とインフレとの関係を理解する上で重要だと思います。
一般に経済では政策意図が思いのまま実現するわけではありません。経済の仕組みそのものから来る様々な動きを見て、四方八方に目をこらし政策効果を見極める必要があります。またブルジョア経済理論では、人々の利益を意図した政策がむしろ逆の効果をもたらすということが強調されます。それは、一つには政策への企業の反作用が無批判に前提されているということが挙げられるでしょう。資本への民主的規制の必要性が銘記されるべきでしょう。また民主的政権が経済政策を執行する際には、大企業の経済反応での反発の他に、政治的イデオロギー的妨害、その一つとしてSNSなどを使った大衆煽動なども考えられます。すでに「デジタル反動」とも言える社会状況がありますから、深刻な問題となるでしょう。もっとも、今のところそんなことを心配する必要などないのが残念ではありますが…。
最後に。消費税減税の財源論が問題になる状況は確かにこの間の進歩ではあります。そういう状況の中でメディアが悪質な役割を果たしています。私が購読しているのが「朝日」ですから例に挙げます。最近、目についたのは…。
☆編集委員・原真人「『バラマキ合戦』の様相 政治家は財政の危機的状況に無関心なのか」 6月21日
☆(be report)「消費減税と社会保障の財源 物価高、この先の負担と給付は」
6月21日 be on Saturday
☆高橋杏璃 田中奏子「与党『給付』、野党『減税』…競い合う物価対策、財源にはあいまいさ」 6月26日
原真人氏は今や緊縮派の著名なイデオローグですから、読むまでもないのですが、「バラマキ合戦・財政ポピュリズム」を批判しつつ、「令和臨調・超党派会議」を歯の浮くような言葉で褒めています。もちろん共産党議員は入っていない組織です。後の二つは財源論についてのまとめですが、共産党の政策は無視して健全財政を説いています。(国債に頼らない共産党の責任ある姿勢を評価した)石破首相ほどの見識さえ見られません。平和と生活を守るためには、軍拡を排して社会保障を充実させねばなりませんが、それなしの「財政規律」一本槍です。つまりアメリカ言いなりの軍拡と大企業向けの減税継続・補助金供与という放漫財政を前提に、社会保障などを削る緊縮財政で「財政規律を再建する」というのです。それを「負担を分かちあう」と称して「丁寧な説明」で人々に納得させるのが政治家の使命だというのです。「階級的搾取・収奪」を隠して、「平等・公平な社会」において負担を引き受ける、という当然の自覚の醸成にすり替えています。支配層エリートの倒錯した「使命感」をひしひしと感じます。
メディアが企業献金をもらっているわけではなかろうが、広告収入が多少関係しているかもしれません。しかしそれよりも対米従属の国家独占資本主義体制(今どき死語だけれども最適表現と思う)を信奉するイデオロギーによる立場が最大の縛りになっていると思われます。
ネット選挙の暴走をめぐって
アナログ人間には最近のネット選挙の暴走は理解しがたいところがあり、内田聖子氏と山田健太氏の対談「ネット選挙の暴走 メディアと民主主義に何が問われているか」(以下「内田・山田対談」)と冨田宏治氏の「自民党融解とSNS選挙 『分断』に抗して『包摂』の政治へ」(以下「冨田論文」)にいくらかでも学ぼうかと思います。と言っても、いくつかの話題を散漫に選んで若干の感想を付す程度にとどまりますが…。
問題に対峙する構えを「冨田論文」がびしりと据えています。まず「SNS時代にはもはや民主主義など不可能ではないか?」(70ページ)という深刻な問いを正面から受け止めることです。その上でそうした問いの抽象性を批判し、「こうした異常事態をもたらした個々の具体的要素を可能な限り冷静かつ分析的に解明し、そこから『SNS時代に民主主義を可能とするために何をなすべきか?』と建設的に問うこと」(76ページ)を主張しています。さすがに第一線に立つ活動的な研究者が持っている実践的理性の面目躍如たるものがあります。
「内田・山田対談」も冷静な分析に立って実践的な提言を打ち出しています。ネット上のプレーヤーたちを分類することでその正体に迫り、彼らによる煽動とゲームに没頭する人たちの親和性を指摘しています。さらに嘘が再生産され拡大する「ネットde真実」現象の底流に選挙が「儲かるコンテンツ」になったということがあるとされます(62ページ)。このように異常現象の大量化の仕組みの一端に迫っています。
デマに抗するにはファクトチェックが必要ですが、「一般の声として、国家にもっと法律でヘイトスピーチ、差別発言を取り締まってほしいとの要望が高まっている」ような状況の中では、「官製ファクトチェック」になる恐れが指摘されます(69ページ)。それに対して「報道機関、新聞社が共通のプラットフォームをつくって、専門知を生かしてファクトチェックにあたることができれば、一番いいと」(同前)提起されます。確かに権力の介入への警戒は重要ですが、それとは別にヘイトスピーチや差別に対して、政府にきちんとした拒絶の対応をさせることも絶対必要です。深刻な人権侵害が起こっており、日本の現状は諸外国から異常と見られています。
実際には国家権力がヘイト・差別を分断支配に利用しています。たとえば表向き自民党は統一協会と縁を切っていますが、それは反社会的行為が問題とされたからであって、主義主張は一致しているのでホンネでは付き合いたいはずです(実際にもどうなっているか疑わしい)。しかし統一協会との付き合いに限らず、ヘイト・差別など悪いものは悪いというタテマエを守らせる闘いが必要です。国連人権機関から指摘されているように、差別一般を定義して禁止する法律を制定し、政府から独立した人権擁護機関を確立することは不可欠です。ファクトチェックなどで権力に介入されない仕組みを作ることと、政府など権力機構に対して自身がヘイト・差別をしないし、そういう社会を作る責任があるということとを併せて求めることは矛盾なく実現させねばなりません。
「冨田論文」は始めに紹介した観点に基づいて問題を具体的に分析しています。2024年の都知事選の「石丸現象」以来の一連のSNS選挙の背景として、自民党の支持層が急激に融け落ちつつある事実を指摘しています。「自民党から融け落ちた『岩盤支持層』こそが一連のSNS選挙のターゲットとなり、一連の想定外の結果をもたらす基盤となったのです」(71ページ)。それを24年総選挙の比例票の出方や、国民民主党の支持層の政策指向で裏付けた後、「石丸現象」以来の一連の出来事の本質を次のように規定します。――自民党から融け落ち始めた岩盤支持層をSNSの活用によって、一定の勢力にまとめ上げようとする壮大な「社会実験」が試みられていたのではないか(72ページ)―― さらにそうした見立てを「選挙の神様」藤川晋之助氏という特定個人の具体的行動において確認しています。
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藤川氏が都知事選以来の一連のSNS選挙で試みたのは、アテンション・エコノミーというビジネスモデルに基づいたアルゴリズムのもたらすフィルターバブルやエコーチェンバー、さらにはインプレゾンビといったSNS特有の現象を意図的に引き起こし、これを最大限に活かそうという選挙戦術にほかなりませんでした。 73ページ
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私などにとって目新しいこうした用語の解説は措くとして、問題は「分断」の政治とSNSとの親和性であり、とりわけ「世代間分断」の主張が猛威を振るい、若者が強力に国民民主党を支持しました(75ページ)。「分断」の政治は、短文ポストやショート動画というSNSのコンテンツと極めて親和性が高いのが脅威です。それに対して「包摂」の政治は内容が素晴らしくても手短に伝えることが難しく、SNSとの親和性は極めて低くなります(76ページ)。そこで次の言葉を想起します。「現代は情報化の時代であると言われる。情報化の時代は短絡の時代である。だが、短絡は科学の敵であり、ファシズムの友である」(高島善哉『時代に挑む社会科学』、岩波書店、1986年、まえがき)。碩学の先見性に頭を垂れます。「冨田論文」は「分断」の政治に抗する「包摂」の政治の主戦場として「体面的対話」を挙げて結論としています(77ページ)。「内田・山田対談」の最後でもこう言われます。「ローカルな選挙ではまだ、人と人が対面で話をしながら取り組むスタイルは、そんなに廃れていないと感じます。ネットメディアも、新聞など既存メディアも、そこでの役割を果たせるように再生できることを期待したいです」(69ページ)。
ところで、「冨田論文」が推奨する「分断」から「包摂」へというスローガンは今日相当に流布しています。もちろん基本的には異存ないのですが、無限定に適用するわけにはいきません。「分断」には2種類あると思われます。ひとつには、性・人種・宗教・職業等々の差異を差別に転換したものであり、闘争に関わる性格としては人民内部の矛盾と言えます。これは見えやすく一般に喧伝されているものであり、支配層の分断支配に利用されています。仮に分断Aと呼びます。もうひとつは階級対立に基づく支配層と被支配層との間に存在する分断であり、こちらは分断Bと呼びます。これは「ウォール街を占拠せよ」運動のスローガン「1%対99%」に対応した分断であり階級社会の構造そのものですが、通常メディアなどでは問題にされません。事実上不可視になっていると言えます。
<「分断」から「包摂へ」>スローガンが適用されるべきは分断Aであり、民主的諸運動が社会変革の途上において、支配層の仕掛ける分断支配を打ち破るために必要不可欠です。ところがこのスローガンを無限定に分断Bに適用すると、支配構造そのものを変革する課題を曖昧にし、それを容認することになります。分断Bの現体制は分断Aを支配に利用する以上、分断B=支配構造そのものの温存は必然的に分断Aの存続につながります。
人権・自由・民主主義とともに「寛容」「包摂」を説くリベラルは資本主義という搾取社会を容認しています。せいぜい所得再分配による資本主義的諸矛盾の緩和以上のことは言いません。その帰結として、格差と貧困による社会的荒廃の中でも上記の「徳」たちを人々に向かって説教する、ということになります。確かにそれらはいかなる社会状況に置いても尊重されるべきことですが、今日的な社会的荒廃下においては非常に困難な課題です。分断B=支配構造そのものの克服という社会変革の課題を避けることはできません。リベラルはおそらくソ連・中国の実態をもって社会主義そのものと見なす反共主義の見地から資本主義擁護に立っているので、今日のように深刻な資本主義の諸矛盾に臨んでも所得再分配程度の弥縫策以上には出せません。そこでの「説教」は人々の胸に響かず、逆に右翼ポピュリズムへと追いやる結果となります。この「リベラルの偽善」の一つの態様が<「分断」から「包摂へ」>スローガンの無限定な適用です。
もちろん以上の趣旨は野党共闘の否定ではありません。立憲主義の確立と新自由主義構造改革の打破は喫緊の課題であり、広範な人々の理解を得て実現しなければなりません。ただし社会構造へのいっそうの理解に基づいて、中長期的課題として資本主義搾取制度の止揚を目指すことが必要であり、現時点でもそのような視点が諸問題の解明と改善にとって必要なのです。
<補注>「容疑者」呼称問題
「内田・山田対談」には、「メディアは犯人に対する呼び捨てをやめ、89年から『容疑者』呼称をつけるようになりました」(65ページ)とあります。ウィキペディアの「被疑者」項目では、「1989年11月に毎日新聞が『○○容疑者』表記をルール化したのを機に一気に全マスコミに広がった」としていますから、それを指しているのかもしれません。同項目では、1984年にNHKが「容疑者」呼称を開始したとか、1980年代半ばから末にかけてそうした記述が増えた、ともしています。その時期に変革を迎えた理由として、被疑者は推定無罪という基本的人権の立場からの呼び捨て批判が広がったことなどが挙げられています。
しかし私の実感としては、もっと早く、1976年に田中角栄がロッキード事件で逮捕されたときに「田中元首相」と呼ばれたことが強烈な記憶としてあります。逮捕されれば呼び捨てが当たり前だったのに、権力者はやっぱり違うんだ、と思いました。それをきっかけに一般の刑事事件などの逮捕者も「○○容疑者」と呼ばれるようになった、という気がしていました。その辺は記憶違いかもしれませんが、何が言いたいかというと、「容疑者」呼称問題は人権配慮というまっとうな理由ではなく、権力への忖度から始まっているのではないかという危惧があるということです。メディアの今日の体たらくを見るとそう思えてくるのです。
朝ドラ「あんぱん」の描く戦争
NHK朝ドラの近現代モノでは必ず日本の戦争が描かれ、平和と自由・民主主義の大切さが強調されます。その定番の中でも「あんぱん」は量・質ともに突出しています。脚本の中園ミホは、ドラマのモデルであるやなせたかしと個人的にも交流があったそうです。やなせの平和への思いが憑依(ひょうい)したかのようなそのストーリー展開には圧倒され、並々ならぬ決意に感じ入ります。
日本軍の兵士の多くは戦闘でなく病気と飢餓で「戦死」しています。それを隠さず体系的に明らかにしたのは、藤原彰氏などの戦後歴史学の成果です。戦争を武勇伝とは切り離し、惨めな実態を暴露することは、真のエンターテインメントの課題です。
「あんぱん」はそれを見事に果たしています。日本兵は中国の戦場で食料の配給を断たれ飢えに苦しみます。住民の老婆から奪ったゆで卵を殻ごとむさぼる場面は衝撃的でした。ここでは被害者である老婆の方が毅然としており、「飢餓が人間を変えてしまう」とつぶやきます。敵兵への憐れみさえ感じさせて。この戦場における道徳的優位性がどこにあるかをはっきりと示しています。
主人公・嵩の幼なじみである岩男の死は戦争と人間の関係を明らかにしていました。岩男は中国人の少年リンを我が子のようにかわいがっていましたが、最後にはリンによって殺されます。リンは両親が日本軍に殺され、殺したのが岩男であることを知っていました。復讐のため岩男に近づき本懐を遂げたのです。岩男は死の床でも「これでええがや」とリンをかばっていますから、真相に気づいていたのでしょう。あるいは罪滅ぼしにリンをかわいがっていたのかもしれません。
リンは「お父さんの形見の銃で かたきをとった」と言いながらも、「でも ぼくの胸はちっとも晴れない」「イワオさんは
ぼくのやさしい先生でした」と嘆きます。人間的交流の当たり前の姿とそれを引き裂く戦争の本質とがここに見事に表現されています。その戦争の責任についても、戦場を中国に設定し、日本軍と現地住民との関係を描くことで、ドラマは日本の侵略を明確にしていることを忘れてはなりません。
しかしドラマは責任追及と絶望に終わらせてはいません。餓死を覚悟した嵩の夢枕に亡父・清が立って、嵩を三途の川から追い返します。清は「バカなことを言うな。こんなくだらん戦争で、大切な息子たちを死なせてたまるか」と言い放ちます。そのうえで、人間はみじめでくだらない戦争を引き起こすこともあるが、「美しいものを作ることもできる。人は人を助け、喜ばせることもできる」と、嵩に語りかけます。戦争を克服した人間の戦後の希望を予告するものです。
戦争を徹底的に描いた朝ドラとしては2006年の「純情きらり」も記憶に残ります。宮アあおい主演で主な舞台が岡崎市でした。音楽家・画家の戦争での受難をこれでもかとばかりに描いていました。脚本の浅野妙子は、番組の収録が終了し放映がまだ残っている時期に「赤旗」のインタビューに登場し、右傾化し戦争に向かう時流への抵抗を明言していました。ここには「あんぱん」同様、そして他の多くの朝ドラ作品も含めて、戦争を描くに際しての作家の覚悟と同時代評がうかがえます。制作スタッフも「同志」でしょう。残念ながらNHKの通常のニュース報道は、もはや「公共放送」ではなく、「政府広報」と化しています。しかし決して権力への忖度一色に染まっているわけではなく、メディアの良心を貫く番組作りが残っていることを確認したいと思います。
「純情きらり」で、ヒロインをいじめる姑の役(最後には理解者になるが)で圧倒的な存在感を示したのが戸田恵子です。「あんぱん」にも出演予定で期待されます。そしてヒロインの幼なじみで夫を演じたのが福士誠治です。彼の登場したドラマ「15歳の志願兵」も戦争を描いた傑作です。
「15歳の志願兵」はNHK名古屋放送局の制作により「終戦特集ドラマ」として「NHKスペシャル」枠で2010年8月15日に放映されました。太平洋戦争末期に旧制愛知県第一中学校で起きた「予科練総決起事件」を題材としています。福士誠治演じる愛知一中のOBの配属将校が時局講演会で生徒たちに対して、国家のために個人の学識を捨てるべきだと殉国の精神を訴え、700人あまりの生徒が戦争に総決起します(その後、ドラマでは予科練志願の取り消しなど、様々な生徒と親の苦悩が描かれるが…)。
同校の生徒たちは(その父母も)エリート意識から戦争に対して斜に構えていました。しかし、配属将校は彼らの高い鼻をへし折る圧倒的なアジテーションによって雰囲気を一変させ、見事に戦意高揚を図ります。今ではその臨場感を忘れてしまっていますが、ドラマでその場面を見たときには、自分もまたそこに居合わせたなら、飲み込まれてしまっただろう、と思わせる迫力がありました。
ドラマの一つの狙いは、「昔は今と違って洗脳された人々が易々と戦争に巻き込まれていった」ということではなく、現在でも、人々の意識が戦争へ雪崩を打って行きうる、ということをまざまざと実感させることではないか、と思います。誰しも日常生活を懸命に生きており、そういう意味では毎日が変わらず過ぎていくように思えます。しかし戦争できる国家作りは着々と進められ、一面的な中国脅威論を毎日世論に注入するなどのイデオロギー操作も日常化しています。
日本の世論状況は一面的な被害者意識という点ではイスラエルと似ています。長引くガザ攻撃で、一定の厭戦意識も出ていたイスラエルですが、イランの核施設への攻撃が劇的に成功して、ネタニヤフ政権への支持が高まっています。日本の真珠湾奇襲を想起させます。当初慎重だったトランプも喜んでしまって居丈高になり、アメリカもイラン攻撃を敢行しました。正気を失っています(トランプはイランに「正気」を求めるが、逆だろう)。核施設への攻撃が極めて危険で国際法違反であることが忘れられています。日本政府も始めはイスラエル批判でしたが、その後トランプへの忖度で尻すぼみとなり、アメリカのイラン攻撃に対しては始めから支持さえしています。G7サミットが露骨にイスラエルのイラン攻撃を支持したのには驚きましたが、その後アメリカのイラン攻撃をもNATO諸国は支持しています。アメリカを中心とする帝国主義陣営にとって国際法など原理ではないことが明白になりました。そこまでひどいか、と驚いている自分の甘さ・うかつさを今さらながら思い知らされました。
この国で良心的な反戦ドラマが作りうる内に、平和への思いを強め、理論学習も強化していかなければなりません。
2025年6月30日
2025年8月号
消費税論戦と日本社会認識の課題
6・7月号の感想に続き、消費税について書きます。先の参議院選挙における消費税論戦では、代替財源をきちんと示した共産党の消費税減税政策が抜きん出ていました。大企業・富裕層優遇を正して応分の負担を求めることで一律5%への消費税減税(後戻りせず、さらに廃止を目指す)を実現するという提案によって、一方では自公与党の消費税減税否定論を克服しています。また他方では、他野党の「対象と時期を部分的にのみ実施する提案」ならびに「赤字国債を財源とする提案」についても、それらの不都合や無責任さを的確に批判できています(詳しくは垣内亮氏の「いまこそ消費税減税の実現を 物価高騰から暮らしをまもり、税財政の転換へ」、『前衛』7月号所収)。
参院選の最終盤に出された「大手メディアの思考 大企業の受益と負担こそ問え」(「赤旗」7月17日付「主張」)では、その到達点に立って、消費税論戦(特に財源問題)での大手メディア(代表は「朝日」)の偏向を斬っています。――「消費税導入と同時期に法人税・所得税が下げられ、その減収分が消費税収に置き換えられてきた事実に各紙とも目をつむっています」。したがって、各紙は社会保障の財源は消費税だという独断的立場から「税と社会保障の一体改革」による消費税増税を推進し、内需を落ち込ませる経済停滞を招きました。法人税減税や富裕層優遇が経済活性化に役立たなかったこともはっきりしています。にもかかわらず、大手メディアは今日に至るも相変わらず「公平な負担」と称して、消費税減税に反対し、一部野党の国債発行などの無責任な公約を批判しながらも、大企業・富裕層の応分の負担という、共産党のまっとうな財源論は無視しています。反論できないということです。このように論戦の決着はついていますが、「行き詰まった自民党政治の枠から一歩も出ない大手紙の思考」(同記事)がどこから来るのかをさらに原理的に問う必要があります。大軍拡を容認する姿勢を併せて考えると、そこには、対米従属の日米軍事同盟下での財界・大企業体制以外に思考が及ばないことに問題の根源があります。その批判には、資本主義社会そのものと日米軍事同盟の検討までさかのぼらねばなりません。
先の「赤旗」主張の翌日の「朝日」社説「参院選 分断と経済格差 『支え合い』を鍛え直すとき」(7月18日付)は「丁寧な啓蒙」を心がけて、「無責任なポピュリズム」を撃退しようという支配層エリートの「使命感」にあふれています。同社説の冒頭では、暮しの苦しさと将来への不安から来る政治不信・疎外感に伴う人々の不満が税や社会保険料の「負担」に向かっている、としています。一見、人々の現状と思いに寄り添っているかのようですが、同社説がその根源に触れていない以上、時候の挨拶程度の形式的意味しかありません。一応寄り添った振りをするだけで、そこに真情などまったく感じられません。
同社説は減税などの要求を、財務省解体デモなどに象徴させ、味噌も糞も一緒くたに「ポピュリズムの猛威」として批判し危機感を煽ります。ポピュリズムの原因については「グローバル化や技術革新が進むなか、中間層が細り、経済的な不平等やエリート層への不満が広がったこと」を指摘しています。これは生産関係視点の欠如した生産力主義です。不都合な問題は経済発展によって「自然に」起こったのではなく、資本=賃労働関係の劣化、つまり搾取強化が重要な原因としてあります。ポピュリズムがもたらすものについて、「扇動的で排他的な主張は世の中の亀裂に入り込むと、やがて根を張り、民主主義社会を内側からむしば」み、「政治は短期志向を強め、参院選は現金給付や消費税減税のばらまき競争になった。長い目で見た財政や社会保障の議論はかすむ」という批判も極めて雑駁です。それはポピュリズム批判としては当たっていても、責任ある減税財源論の存在を無視することで、人々のまっとうな生活要求を排除し、政治不信を放置し、結果としてポピュリズムを繁栄させるものです。ただし一応同社説は「解決の処方箋」らしきものを以下のように提示しています。
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亀裂の拡大をどう食い止めるか。経済的な不平等の是正が急務だ。特効薬はなくても、人々の生活不安や不満に向き合い、一つひとつ要因を取り除いていくしかない。
日本は長年、社会保障と税による再分配で所得格差の拡大を抑えてきた。ただ恩恵は高齢者に厚く、元手の多くは現役世代が払う社会保険料に頼る。非正規雇用が増え、現役世代の中に広がった格差にも十分対応できていない。
放っておけば、不信も分断もさらに深まる。再分配を抜本的に鍛え直すときだ。
お金の使い方では、社会の支え手となる若者や就職氷河期世代向けを手厚くすることが、大切だ。子育て支援や教育、就労支援、非正規雇用の待遇改善など、きめ細かな対応がいる。
財源は、高齢者も含め、負担能力に応じて払ってもらうやり方を広げる必要がある。所得や資産が多い人や企業への課税を強化し、中間層に重い社会保険料の構造は改める。持続可能なかたちを探らなければならない。
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「経済的な不平等の是正が急務」で、そのために「再分配を抜本的に鍛え直す」ことが必要なのは確かです。しかし経済的な不平等は自然現象ではありません。たとえば「非正規雇用が増え」たのは財界・大企業の意向を受けて自民党政府が大幅な労働規制緩和を断行したからです。要するに搾取強化の結果として、先進諸国では例外的な低賃金・貧困と格差拡大が日本社会に一般化し、「失われた30年」の有力な原因となったのです。再分配政策以前に日本資本主義における生産過程の問題、そこでの分配を含む生産関係がまず問題とされねばなりません。
またそもそも日本で再分配政策がきちんとやられてきたかのような認識が間違っています。逆進的な消費税を導入することによって、法人税・所得税における大企業・富裕層優遇が可能となり、その歳入減を消費税収が代替してきたのです。労働者や低所得層はそういう「逆再分配政策」の犠牲となりました。
さらにこの「対策」では、申し訳程度に「所得や資産が多い人や企業への課税を強化し」とありますが、中心にあるのは、現役世代の負担軽減のための高齢者負担増という議論です。ポピュリストの国民民主党と変わりません。同社説は一見、ポピュリズムをいさめる責任ある議論のようですが、世間に流布している俗論に迎合した世代分断論にすっかり乗ってしまっています。「朝日」も悪い意味でのマスメディアなのだと実感させます。
同社説は、社会の分断を防ぐ再分配の基盤として、「社会の支え合いが損なわれると、いつか自身や家族が困るかもしれない」という実感に基づく「社会を構成する一人ひとりに根づく、互いの共感と信頼」の存在を指摘しています。「再分配の倫理的土台は帰属や共同体の意識、連帯感の問題と切り離せない」という米政治哲学者のサンデル氏の言葉で補強してもいます。社会のあり方についてのこの見方は抽象的一般論としては妥当かもしれませんが、資本主義社会における再分配政策を考える役には立ちません。
共同体では人間が経済を含めた社会の主人公です。それは前近代の共同体(原始共同体・奴隷制社会・封建制社会)について、搾取の有無を問わずそうです。あえて言えば、未来社会の共同体(共産主義社会)もそう考えられています。しかし両者の中間にある資本主義市場経済を土台とする資本主義社会では、商品・貨幣・資本という物象が経済の主人公であり、それを梃子に資本家階級が政治・社会を支配しています。労働者を手段としての価値の自己増殖を本性とする資本から再分配政策は出て来ません。それを資本に強制したのは労働者階級の闘いです。共同体的共感と連帯を「再分配の倫理的土台」と見なすことは社会一般の抽象論の次元では否定しませんが、資本主義社会における現実的契機と見ることはできず、それは後述のように議論のミスリードの原因となります。
以上のように、同社説はテーマとした「分断と経済格差」の本質をまったく捉え損なっているので、その分断批判と社会的連帯擁護の言説も誤っています。先月号の感想でも触れましたが、分断には2種類あります。ひとつには、性・人種・宗教・職業等々の差異を差別に転換したものであり、闘争に関わる性格としては人民内部の矛盾と言えます。これは見えやすく一般に喧伝されているものであり、支配層の分断支配に利用されています。仮に分断Aと呼びます。もうひとつは階級対立に基づく支配層と被支配層との間に存在する分断であり、こちらは分断Bと呼びます。これは「ウォール街を占拠せよ」運動のスローガン「1%対99%」に対応した分断であり階級社会の構造そのものですが、通常メディアなどでは問題にされません。事実上不可視になっていると言えます。
<「分断」から「包摂へ」>スローガンが適用されるべきは分断Aであり、民主的諸運動が社会変革の途上において、支配層の仕掛ける分断支配を打ち破るために必要不可欠です。ところがこのスローガンを無限定に分断Bに適用すると、支配構造そのものを変革する課題を曖昧にし、それを容認することになります。分断Bの現体制は分断Aを支配に利用する以上、分断B=支配構造そのものの温存は必然的に分断Aの存続につながります。
同社説は再分配政策論において、抽象的な社会一般論を不用意に持ち込むことで、分断Bを看過し、社会の根本的変革はもちろん、当面の再分配政策にも誤りを持ち込んでいます。財界・大企業支配に切り込まずに、抽象的な「支え合い」に逃げ込むことは、人々の切実な生活要求に鈍感であり、解決の意志を持たないことを示しています。そして分断Bを看過するものが分断Aの存続に手を貸すことは、世代分断論に乗っかった同社説が鮮やかに示しています。
資本主義社会の分断支配を比喩的に捉えるとこうなります。人々の生活が大変なのは階級支配とその番頭であるブルジョア政党の悪政のせいなのですが、スケープゴートを仕立て上げ(公務員、生活保護利用者、外国人、等々)叩いて、本当の原因を見えなくするのは常套手段です。これは椅子取りゲームでもあります。用意すべき椅子をあらかじめ抜いておいて、みんなに椅子取りを争わせ、立ちんぼは自己責任と思わせます。抜いた張本人は高みの見物でほくそ笑んでいます。椅子取りゲームの参加者にとっての出口は、スケープゴートも含めて競争を強要されている点においてみな同格であることを自覚し、ゲームを仕掛けた張本人を見つけ引きずり下ろし、ゲームを終わらせることしかありません。そのときに「良識ある人」がやってきて、その張本人が見えないままに、とにかくすべての人々が「支え合う」べきだと言うのは、自分で自分の首を絞め続けるこのゲームを止めないように、というご託宣でしかありません。
この「椅子」はたとえば人権とも見なせます。すべての人の人権(自由権と社会権)を保障する政治を求めて、似非良識人にだまされないで、悪政の本質・責任のありかを見抜く眼力をみんなで磨いていくことが必要です。
原真人編集委員による「(多事奏論)国債の危機 日本版トラス・ショック防ぐために」(「朝日」7月26日付)は事実認識としては有用な記事ですが、要するに消費税減税要求を却下するための議論となっています。消費税減税を国債増発と直結させ、大企業・富裕層優遇の是正や大軍拡の中止による健全財政の追求という道は無視しています。
別件にはなりますが、重要な問題として、「朝日」が企業団体献金の禁止を主張していないことはあからさまに真の良識を欠いています(社説、あるいは「朝日」と密接な協力関係にある政治学者で令和臨調主査総括の谷口将紀氏は禁止を言わない――「令和臨調、参院選へ政治改革提言 企業・団体献金『与野党歩み寄って』」(「朝日」6月19日付)――)。以上のように、「朝日」はひたすらに体制擁護のために並々ならぬ「責任感」で論説を展開しています。その背景を考えるに当たって、渡辺周・Tansa編集長の指摘が参考になります(「3中メディアの末路」、「全国商工新聞」7月14日付)。
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朝日新聞の角田克社長・CEOの言葉に、強い違和感を覚えた。東洋経済のインタビューで、「どのようなメディアでありたいか」と聞かれ、こう語っている。
「私は『3中』と言っているが、中心的メディア、中立、中庸でありたいと思っていて、そのために中立、が必要になる」
…中略…
私には角田氏が「嫌われたくないから意見は持たない」「当たり障りのない記事でみんなに好かれたい」と言っているようにしか思えない。
意見を持って何が悪いのか。理不尽な目に遭っている人の役に立ちたい、社会を変えたい。そういう思いがあってこそ、ジャーナリストだ。私たちはAIではない。
そもそも中立、中庸の記事などない。「私はこう思う」と書かなかったところで、森羅万象の中で特定のテーマを選ぶ。取材した内容を全て報じるのではなく、さらに選ぶ。その時点で主観が入っている。
重要なことは、主張の根拠となる事実が十分にあるか、取材は尽くしたかということだ。中立であることではない。
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至極まっとうなジャーナリズム論による「朝日」批判だと思います。消費税論戦において、「朝日」が減税論を意図的に一面化し、事実上、自民党支持になっているのも、恣意的な事実選択の結果であり、減税否定の論拠も十分ではありません。政治・経済上で現体制擁護ありきになっているのが原因と見るほかありません。私としてはさらに科学的社会主義の立場から考えてみます。あらかじめ言っておくなら、資本主義企業のメディアにそれを受け入れよ、というのは無理でしょうが、私としては自由勝手に批判させてもらいます。それに対して、メディアは前記のジャーナリズム論からの批判を受容すべきであり、少なくとも真剣に自己点検すべきだと思います。
坂井豊貴氏の(経済季評)「選挙を前に現金給付・減税… 強力な『赤字の民主主義』の法則」(「朝日」7月17日付)もまた、はっきりとは言っていませんが、減税ポピュリズム批判の文脈で「赤字の民主主義」なるものを持ち出しています。「民主主義の政府は、有権者が期待するバラマキの圧力により、財政赤字を拡大し続ける」と冒頭で述べ、後半では「このことは、巷間(こうかん)で思われているより、はるかに強力な法則だ。私はこの法則を善きものだとか、財政規律を謳(うた)うのは無意味だとか言いたいわけではない。ただ、赤字の民主主義は起こり続けるのだから、個人も企業もその前提で行動する方が賢明だと考える」と受けています。
要するに、民主主義下では、みんな勝手に私利私欲を政府に押し付けるので「赤字の民主主義」は強力な法則として作用してしまう――それはよくないけど起こり続けるという前提で考えるべきだ、という主張と見受けられます。さらに、はっきりとは言っていないけれども、価値判断としては「赤字の民主主義」は悪だが、現状認識としてはそれは存在してしまうのだからそう観念するほかない――どうだ、冷静な判断だろう、しかしまったく困ったものだ――というニュアンスであろうかと思います。
学術論文ではなく、一般向けの新聞論説だから、分かりやすいというか身も蓋もない表現というか、このしばしば登場する経済学者の俗論の本性がよく出ています。誰しもバラマキと言われれば、政府に寄生しているかのようなそれなりの罪悪感を抱いてしまいがちになるでしょう。人間の本性としての利己心から出てくる悪いことかのように…。しかし、「社会保障支出」と「大企業への減税・補助金、軍事費支出」とを一緒くたにして、「バラマキ」「赤字の民主主義」と規定するのがそもそもおかしいのです。資本主義経済において、搾取・収奪される被支配層人民が生活擁護のため財政出動を求めるのは当たり前であり、悪いというのがおかしいのです。
労働者・人民が作りだした経済的価値を資本が搾取するという生産と分配の関係を前提に国家財政(地方自治体財政を含む)による再分配を考えねばなりません。社会一般でみんなが働いて、その成果をみんなで分けるという抽象的関係で捉えるなら、階級社会の財政の本質は分かりません。漠然とした社会観にあるのは、独立し平等な人々が公正な関係において、生産・分配・再分配するという「民主主義的」仮象であり、それは社会一般ないしは単純商品生産関係による表象から生じています。
しかし資本主義社会は搾取により成り立つ資本=賃労働関係という階級支配関係です。それが経済と政治を貫き、それに適合的な支配的イデオロギーが人々の精神と行動を規定することで階級支配は維持されます。イデオロギー支配において、ブルジョア・ジャーナリズムなどメディアはその重要な構成要素であり、もちろんSNSを始めとするネット世論形成もその手のひらで踊っています(どんなに「既存メディア」とははるかに違う空間を飛んでいるかに見えても、支配構造の枠内にある。そこでのトリックスターたちはさしずめ現代の孫悟空でしょうか)。したがって、資本主義的搾取の否定を前提にするブルジョア社会科学では資本主義国家の財政の本質は分からないというだけでなく、それは人々を支配構造に縛り付けるための知財の役割を積極的に果たし、ブルジョア・ジャーナリズムなどに知的基盤を提供しているのです。
話はいささかズレますが、財政の重大焦点として大軍拡があります。特にロシアによるウクライナ侵略戦争後、日本世論は軍拡支持が大勢となってきました。もちろんメディアはそれが前提です。この状況を打開するのに、一つには大軍拡による社会保障などへの財政的圧迫への批判があります。そうした生活=経済視点は大切ですが、根本的には、平和・安全保障論での反撃が必要です。ウクライナ侵略戦争を奇貨とした岸田大軍拡の以前、すでに第二次安倍政権以降は軍拡基調が定着しており、軍事的抑止力信仰は岩盤イデオロギーとして存在していることを直視する必要があります。もちろん戦後民主主義の継続としての平和憲法的な抑止力信仰批判は根強くありますが、主流ではなくなっています。ウクライナ侵略戦争によって、「今日のウクライナは明日の東アジア」という脅迫的煽動文句が世論に易々と受容されたことがそれを物語っています。
2015年の戦争法反対闘争では、日米安保条約への賛否を超えて、集団的自衛権行使容認を含む戦争法に反対する大きなうねりが起こりました。その共同戦線とその後の野党共闘の意義は極めて重要ですが、世論の圧倒的多数が安保条約・自衛隊支持で占められていることは闘争の基盤における脆弱性を形成しています。軍事的抑止力、さらに具体的には日米軍事同盟の抑止力への信仰をいかに克服するかが重要課題です。その信仰を絶対前提とするメディア状況下では、中国脅威論が当たり前の空気のように吹聴され、軍拡イデオロギーが強く浸透しています。もちろん中国の覇権主義的行動という現実的根拠がそこにあるのが、その浸透の有力な要因ではあります。しかし日米軍事同盟が東アジアや世界の脅威になっている、というもうひとつの事実が看過され、日本世論が一面的な被害者意識に染まっていることは、あの残虐なジェノサイドを支えているイスラエル世論と同様の深刻な問題です。その空気感においては、「赤旗」がアメリカの軍事戦略とそれへの日本の従属の危険性を懸命に訴えても空転するという状況になっています。
これは憲法論においても重要な問題となっています。戦争法反対闘争の戦線では安保条約・自衛隊容認派との共闘となり、集団的自衛権行使容認への反対などで主張や行動をそろえました。そのこと自身は当然必要なのですが、安保条約・自衛隊反対派の中で、軍事同盟・軍事的抑止力そのものへの批判という根源的問題が後景に退いているのではないか、それは平和の世論形成にとっても後退的性格をもたらしているのではないか、という危惧があります。憲法というものを人権尊重と権力抑制(立憲主義)という側面だけから見るのではなく、平和の積極的創造の憲章として、日米安保条約とは根本的に矛盾するという点をその本質として捉える立場が強調されねばなりません。いや、財政論との関わりで平和・安全保障論に触れましたが、問題が大き過ぎるので、このあたりで収めるとします。
ここでまたしても論点をずらして、経済と財政をめぐる留意点に触れます。選挙で争点となる消費税減税や社会保障充実などは財政による所得再分配にかかわります。もちろんそれ自身重要な問題ではありますが、再分配以前の生産のあり方もそれに劣らない重大問題です。「失われた30年」では低賃金や社会保障削減による生活不安から来る内需縮小が重大原因となりました。しかしそれだけでなく、生産そのものの停滞、供給力の縮小も看過できません。ここでは、中長期的課題として、国民経済の再生産構造の再構築が基盤的課題としてあることだけを指摘しておきます。
論点が錯綜してしまったので、まとめます。私たちの眼前にあるのは、ブルジョア社会としての日本のイデオロギー状況です。それは一つには、資本主義的搾取を認識せず、資本主義社会を社会一般ないし、独立・自由・平等の単純商品生産関係に基づく「市民社会」の表象で捉える見方です。要するに資本主義への無批判的立場です。もう一つは、戦後日本資本主義に特殊な対米従属構造と日米軍事同盟を所与の前提と見る、あたかもそれを社会的「自然」のように感じる立場です。それに付け加えれば、かつての侵略戦争と植民地支配への反省を欠き、すでに追い越されたにもかかわらず、アジアナンバーワン意識を引きずるアジア蔑視の根深い感情があります。ここに、対米従属とアジア蔑視の融合した歪んだナショナリズムが形成されています。
資本主義への無批判と対米従属的軍事同盟への無批判とは明らかに次元が違う、つまり論理的・歴史的にパースペクティヴが違うのですが、私たちが今生きているイデオロギー状況は両者の交点にある、というか二重の重層性を成しています。ここに日本の社会変革を阻害する重大な重石がある、ということが銘記されるべきです。
このイデオロギー状況が深層にある中で、表層において、大軍拡とか社会保障削減とかの攻撃が絶え間なく続けられています。喫緊の対応としては、イデオロギー支配の枠内で具体的論点において反撃するほかありません。たとえば消費税減税に関わる財源論の提起はその枠内でも説得力を持っています。その次元での細かく丁寧な理論的・政策的努力は倦まずたゆまず続けなければなりませんが、本格的な社会変革のためには、その深層にある阻害物としてのイデオロギー的重石をのける独自の努力が求められます。
したがって、変革のための日本社会認識としては、「搾取概念を中心とした資本主義把握」と「対米従属的軍事同盟とは根本的に矛盾する日本国憲法に基づいて、徹底した軍事的抑止力批判に立つ平和・安全保障論」とを、世間の空気としての支配的イデオロギーに対置する必要があります。社会変革の歴史的パースペクティヴに着目すれば、後者は資本主義の枠内での変革課題に属し、前者は社会主義的変革の課題に属します。しかし資本主義社会における生活と労働に関するあらゆる諸問題は、資本主義という経済体制、搾取の生産関係に起因する以上、前者もまた今の問題そのものです。支配階級からの止めどない攻撃に対する防衛と反撃に忙殺される日々であっても、日本社会の認識においてこの二つの視点を踏まえることが、科学的社会主義の立場で闘う者の学びの原点でなければなりません。
安倍政権以降、右翼が公共空間で市民権を得て(以前は、街宣車で軍歌をがなり立てる鼻つまみ者と見なされていたが)、世論全体も右傾化が進行し(もちろん分野別には進歩しているところもあるが、正式にして最大の世論調査である国政選挙の結果を見る限り、総合的な右傾化は否定できない)、ついに今年の参院選では、排外主義の参政党が躍進するという事態となりました。そんな中で、以上言ったことは、まったくのピント外れかもしれません。政治戦線の中心は、デジタル空間での保守・右翼の様々な傾向のトリックスターたちとの空中戦に移っているのかもしれません。しかし私としては、今さらアナログ人間が参陣しても、年寄りの冷や水に終わるだろうから、後衛で兵站を整え、地上戦の土台を固める地道な努力に徹するべきかと思っています。長いパースペクティヴを持って、理論や政策の発展に資する提起ができれば幸いです。若い人々に通じるかどうか…。
以上、素人の気楽さから、一知半解を省みず、特に財政学の基本的知識を欠く中ではありますが、思ったままを述べました。妄言多罪。
日本資本主義の停滞と株式市場
『資本論』第1部第7篇の資本蓄積論は、資本蓄積の進行によって、一方に富が蓄積され、他方に貧困が蓄積されることを説いています。資本主義が貧困と格差拡大をもたらす原理がここにあります。これは剰余価値を追求する資本主義的生産過程における拡大再生産の分析の結論です。それに対して、現代の停滞した資本主義、特に「失われた30年」の日本経済においても、貧困と格差拡大が貫徹されていますが、そこでは、生産過程での搾取強化の他に、株式会社や株式市場の機能が重大問題として挙げられます。たとえば第一には企業経営の変質、第二には政府・日銀の介入が指摘されます。
小栗崇資氏の「大企業の連続最高益と自社株買い」は2025年3月期の大企業の決算が4年連続で過去最高益となったことから書き始めています。「富の蓄積」ではありますが、資本主義的に見ても健全とは言えません。論文は各業種の損益分析を経て、四半期別法人企業統計(1〜3月期)の分析からこう結論づけています。「24年・25年は経営効率が2006年の半分にまで落ちた状態の中で、価格転嫁により売上高を上げ、人件費を抑えることでかろうじて利益率を保っていると見なければならない」(82・83ページ)。つまり「人件費を抑制して利益を創出するというコストカット経営が依然として続いていることを示している」(82ページ)というのです。同統計によれば、その利益は内部留保(利益剰余金)の増加となり、その使途としては、実物投資より金融投資が4倍になっています。本業よりも金融依存の経営姿勢です。
さらに問題なのが、自社株買いの激増です。自社株買いは資本を減少させるのだから、そもそも会社の目的を損ない、株価操作の弊害をもたらします(84ページ)。にもかかわらず、日本では禁止されていた自社株買いが、アメリカ型の経営の導入に伴って解禁されました(2001年、商法改正)。「そうした自社株買いは結果として、流通する株数を減らし株式市場を縮めていくことになる。資本主義では資本が蓄積され資本市場が拡大していくのが理論的に当然のことと考えられていたが、現在は資本が縮小し株式会社の変容が生じるパラドキシカルな状況に直面しているのである」(85ページ)。
論文が紹介しているラゾニック氏は自社株買いについて、株式市場そのものを含めて、以下のように極めてラディカルに批判しています<ウィリアム・ラゾニックさん(マサチューセッツ大学名誉教授)に聞く「資本主義の現在と未来 台頭する企業略奪者(1)〜(8)、「赤旗」6月25日 〜7月10日付>。まず「株式市場の本源的な機能は企業への資金供給だ」という社会通念は誤りだ、としてこう続けられます。
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先進国の株式市場が企業にわずかな資金供給しか行わないばかりか、むしろ配当と自社株買いによって正味では企業から価値を抽出してきたことは、企業金融に関する学術研究で実証されています。一般に考えられているのとは逆に、企業が株式市場(株主)に資金を供給してきたのです。株式市場はもともと「価値抽出制度」であるといえます。特に自社株買いの登場により、株式市場のマイナスの資金効果が強まりました。
同記事、6月25日付
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その経済への悪影響はこう告発されます。「株主による略奪的価値抽出が米国の経済活動の中心となった結果、雇用の不安定、所得の不平等、生産性の伸び悩みが生じ、持続的繁栄のための社会基盤が弱体化しました」(同前)。同記事はさらに詳細に株主資本主義のからくりを解明しています。このように通念の虚を突いた主張は説得力があり、金融化された資本主義の寄生性・腐朽性の増大と停滞下における貧困と格差拡大の一つの重要な原因を提出しています。資本主義の発展期における貧困と格差拡大の原理を解明した『資本論』に照らして言えば、現代資本主義の停滞し歪んだ資本蓄積のメカニズムを暴露し、人々の苦難の原因に迫っています。
現代では株式会社経営が変質した問題だけでなく、政府と中央銀行も株式市場に介入して、貧困と格差拡大に「貢献」しているという問題もあります。中央銀行の目的は物価安定にあります。それを純粋に公共性と言えるかという問題(恐慌をインフレで買い取る管理通貨制度という体制擁護装置を安定化させる機能ではある。しかしそれは社会主義的変革に発展的に引き継ぐべきとも思われる)はここでは措きますが、一般的にはそう思われています。ところが少なくとも近年の日銀はそうした公共性に反して露骨に階級的です。1990年の株式バブルの暴落以降、21世紀初頭から、政府と日銀が民間銀行の保有株を買い取り、2013年以降のアベノミクスでは日銀が株式ETF(上場投資信託)を大規模に買い入れました。そもそも「中央銀行による株式やETFの購入は、市場での本来の需給に基づく価格形成をゆがめる恐れがあるほか、価値の下落による損失リスクも抱えるため、『禁じ手』とされてき」ました(「朝日」7月12日付)。銀行保有株の方は10年に購入を終了し16年に売却を始めて、今年残高ゼロになる予定です。しかしETFは24年に買入を終了しても売却は始まっておらず、残高は37兆円です。「時価では推計76兆2千億円に上り、東証プライム市場の時価総額の約8%を占める。このため、日銀が売却方針を示すだけで株価の急落につながる恐れがある」(同前)ということで、爆弾を抱えている状態です。
ここではその解決という大問題は措くとして、「禁じ手」は日本経済に何をもたらしたのでしょうか。山田博文氏の「官製株式バブルと変容する経済社会 日本銀行の株式買入政策の問題点」は以下のようにまとめています。
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21世紀の日本の株式市場は、日銀が主導する官製バブルの時代、と言ってよい。日銀信用と年金積立金などが株式を買い入れ、人為的で大規模の株式需要を発生させ、株価を暴騰させているからである。日経平均株価は、21世紀の第1四半世紀に年々約2%も上昇した。
他方で、経済社会にとって有用な財・サービスを生産・販売する実体経済は停滞し、年間平均経済成長率はわずか0.6%に停滞している。 …中略…
日本株バブルの膨張は、実体経済に深刻な影響を与えただけでなく、株式を「持つ者」と「持たざる者」に日本の経済社会を分断し、国民諸階層に深刻な金融資産格差と貧富の格差をもたらした。 88ページ
平成株式バブルの崩壊以降、すでに35年間が経過したが、この国の主権者たちが見たのは、一方では、財政資金や日銀信用などの公的資金を動員し、約100兆円の不良債権や株価暴落で経営危機に陥った金融機関・大企業・内外の株式投資家を救済したことであり、他方で、そのしわ寄せを受け、悪化する国民生活と増大する税金・社会保険料負担であり、実体経済の長期停滞であった。 99ページ
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『資本論』による発展期の資本主義の生産過程の分析で、社会の一方における富の蓄積と他方における貧困の蓄積が明らかにされました。今日の資本主義は実体経済の停滞と金融化に帰結し、いわば本来の資本蓄積に反するコストカット経済という形で搾取強化を図っています。株主資本主義という株式会社経営の変質がまずそれを推進し、政府と中央銀行もまた、その「使命」とされる役割に反して、財政金融政策において、貧困と格差の拡大に拍車を掛け、それは資本主義の寄生性・腐朽性の増大をもたらしています。労働者への搾取を発展原理とする資本主義においても、主に富の増大を伴う形から、もっぱら金融的蓄積を中心とする方向へねじ曲げられてきました。搾取のあり方の堕落とでも言いうるものです。現代資本主義社会に生きる人々の閉塞感・人間疎外感の深奥にはこれがあるのではないかという気がします。実直に生きるのがバカバカしくなる。日本経済の「失われた30年」はその一つの典型ではないでしょうか。差別・排外主義の興隆を直接的に説明するものは様々にあるでしょうが、ベースには、搾取を本質とする資本主義社会において、その搾取のあり方がさらに堕落していることがあるように思えます。
アメリカ=イスラエル帝国主義の強さと矛盾
世界を見渡すと、もやもやがつのるばかりです。ガザを始め、中東地域をめぐってアメリカとイスラエルの暴虐はあまりにも明白です。かと言って、それに「対抗」する中国やロシアの覇権主義と侵略戦争の誤り、ならびに両者の結託も許すことはできません(経済制裁下において、中国の金融的援助などなしにロシアのウクライナ侵略戦争は継続不可能)。グローバルサウスと言われる諸国内でも、アメリカ・イスラエルなどの帝国主義陣営に接近したり、逆にロシア・中国の援助に頼ったりする傾向もあります。もちろんそれらは国家存続に関わる「現実主義的」対応とも言えますが、民衆的視点を逸脱した対応であることははっきりしています。それはグローバルサウス諸国内での階級対立がどうなっているのか、という問題を想起させます。
パレスチナ国家の建設はまずはアラブの大義であり、世界にとっても、民族自決の国際関係の普遍的正義に属することですが、肝心のアラブ諸国内でも、サウジアラビア・エジプト・ヨルダンなどの保守派はアメリカ・イスラエルとの連携を重視し、大義の実現に熱心には見えません。そうした疑問が渦巻く中で、松下冽氏の寄稿「ガザ戦争と『グローバルサウス』 戦争が顕在化する『グローバルサウス』空間の重層性」(上)を読みました。論旨の本格的展開は(下)に持ち越されるでしょうけれども、問題提起は(上)で果たされており、状況把握の基礎的視点を得ることができます。その問題意識を端的に表明したのが「凋落する欧米諸国/旭日の勢いをつづけるグローバルサウスという簡単な二分法で世界を見ればいいということではない」(143ページに引用)という板垣雄三氏の指摘です。論文はグローバルサウスの概念的真意と現実とを以下のようにまとめています。
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グローバルサウスは、本来、グローバルな支配および抵抗の様式によって特徴づけられる理論的ルーツをもつ概念である。そして、新自由主義型グローバル化の下で、それは搾取や疎外や周辺化といった共通の経験を有するあらゆる被支配集団と「抵抗する」諸集団を包含する政治的アクターを示す概念でもある。それゆえ、新自由主義型グローバル化の展開の重層性複合性に対応して、グローバルサウスの重層性と複合性を認識し分析することが極めて重要である。
こうした視座から、本稿は、ガザ戦争が明らかにしてきた「グローバルサウス」空間の重層性と競合性に焦点を当てて、既存のメディア空間に広く浸透している「グローバルサウス」概念の国家主義的アプローチへの批判を含意しつつ、民衆の視点からガザ戦争を問う。 132ページ
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ここには、グローバルサウスの理念と、それが直接的に顕現するわけではない複雑な現実との相克が語られています。それを指摘する目的は、広く流布している、BRICSにグローバルサウスを代表させる「国家中心的なアプローチ」(132ページ)を批判することでしょう。そこには、BRICSの示す(様々に不都合な)現実にグローバルサウスの民衆的理念を埋没させるわけにはいかない、という配慮があると思われます。
そこで、論文の展開において、以下に基調をなすのは次の矛盾です。一方に、アラブ・中東諸国の民衆にとってのアラブ・パレスチナの大義の政治的重要性(それは国際的普遍性を持つ)があるのに対して、他方に、当該諸国における政治的経済的なアメリカ・イスラエル依存(そこに限らぬ国際的広がりさえ持っているのだが)という現実的土台があるということです。前者は声高に語られるので目立つのですが、むしろ隠れた後者の強固さが現実を動かす影響力を持ち、そのことが世界の民主勢力にとっての歯がゆさを生み出しています。ただしガザにおける虐殺は、アメリカ=イスラエル帝国主義陣営の道徳的失墜を招き、その覇権の揺らぎをもたらしていることも指摘されています(133〜135ページ)。
論文は、イスラエルの本質を理解する上での「入植者植民地社会」論あるいは「植民地主義国家」論の意義と限度を語っています。ガザでのジェノサイド、パレスチナ国家建設への妨害などのイスラエルの理不尽な暴虐を理解するには、「パレスチナのシオニスト入植者の外的な起源と、彼らが追い出した先住民のパレスチナ人に対する彼らの植民地主義的、人種差別主義的な態度」(133ページ)に注目せざるを得ません。したがってイスラエルにあるのは、ユダヤ人のための民主主義とパレスチナ人にとってのファシズムであり、ヨーロッパ文明の最悪な遺産である「植民地主義とファシズムの有毒な混合物」です(同前)。この見方は、イスラエル人とパレスチナ人との関係の本質を衝いていますが、アメリカ帝国主義との「決定的な関係が十分認識されていない」(同前)という限界を持っています。論文によれば「イスラエルの基本憲法は帝国主義権力の創造物であり、その基本的機能は、中東全体を支配することにある」(同前)という点まで捉える必要があります。アメリカ帝国主義を中心とする欧米諸国に支援された植民地主義国家の使命がそこまであると理解すれば、イスラエルがあれほどの一連の暴虐を振るえる意味に納得できます。
さらには、アメリカが「アラブの専制君主たちに賄賂を送り、イスラエルの行動を受け入れる」(同前)ことを促しているという指摘も重要です。確かにサウジアラビア始め、アラブの保守派が軍事も含めてアメリカと共同関係にあり、イスラエルに融和的なのは周知の通りです。しかしこの後、論文ではその他の中東諸国も、さらにはBRICSプラス、中南米やアフリカ諸国に至るまで、アメリカ・イスラエル帝国主義陣営の深い影響力下にあることが詳述されています。これには大いに驚かされ、従来からの認識不足が痛感されました。
イスラエルといえば、軍事と諜報に優れているという程度の印象でしたが、サイバーセキュリティ分野では中南米のみならず、アメリカや中国にまで食い込んでいるというのは初耳でした(138〜140ページ)。また従前から基盤があった農業でもアフリカ諸国の開発に貢献しています(143ページ)。そうした世界的背景もあり、中東での政治経済的光景は今やこう描かれます。
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1990年代からトルコと中東がグローバル化すると、イスラエルとアラブの資本間や、域外の国境を越えた資本など、地域全体の資本の非常に重要な統合が行われた。トルコの支配者、イスラエルの支配者、湾岸の支配者の経済的利益はある意味で一致している。彼らは、パレスチナをめぐるいかなる政治的な違いにも勝る共通の階級的利益を持っている。イスラエル-サウジアラビア正常化は、金融や銀行、観光、エネルギー、建設、産業、ハイテク、贅沢消費など、大規模な投資と国境を越えた資本蓄積に、より広範な中東地域を開く決定的なきっかけになった。 140ページ (下線は刑部)
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「不動産屋」トランプ大統領の唱えた、パレスチナ人の移住によるガザのリゾート化構想が決して荒唐無稽な恣意的発言ではないことがここからは見えてきます。こうして、新自由主義グローバリゼーションという経済的土台の分析によって、政治が経済にいかに規定されるかががはっきりします。
経済の規定性は別様にも示せます。ガザの虐殺など、被占領パレスチナで起きていることは、イスラエルによるパレスチナの完全な民族浄化であり、それがアメリカの全面的支援で実施されていることが「グローバル資本主義システムによる世界政治の新たなプロセス」(136ページ)と見なされます。それはまた過剰蓄積の構造的危機に直面しているグローバル資本主義による軍事化された蓄積と抑圧による蓄積への依存と規定されます(同前)。先のトランプ構想も含めて、ガザとヨルダン川西岸地区の包囲は、イギリス資本主義を歴史的に準備した「囲い込み」にもなぞらえて、「原始的な蓄積の一形態」(137ページ)とも言われそうです(*注)。ただしそれは元祖とは違って「国境を越えた蓄積のための新しい空間をこじ開けることを狙っ」ています(同前)。それが「グローバル資本主義による軍事化された蓄積と抑圧による蓄積」――その典型としてのガザ・ジェノサイド――を伴わざるを得ないのならば、「国際社会に衝撃を与え、憤慨させ」、「大衆の抗議は高まりつつある」(同前)という反作用を必至とします。そこで「パレスチナの大義」と「グローバル資本主義の各国支配層の共通利益」という、政治と経済との矛盾の止揚が問われます。しかし論文(上)はアメリカ・イスラエル帝国主義陣営による世界制覇的状況の描写で終わっています。(下)において、その矛盾がどう展開されるかが俟たれます。
(*注)『資本論』の有名な一節が想起されます。「資本は、頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物とをしたたらせながらこの世に生まれてくる」(第1部第24章「いわゆる本源的蓄積」、新版『資本論』第4分冊1327ページ、Werke S.788)。しかしガザのジェノサイドは「新時代」の創出舞台ではなく、(長い20世紀)帝国主義の終焉を象徴する惨劇として終わらせなければなりません。
断想メモ
日本民主主義文学会所属の吉開那津子氏の言葉。「結論がわかってるようなことは最初から書くな。わからないことをこそ追求するのが文学なんだ」。「作品としての奥行きの深さは、捨てられた材料の大きさによる」(「赤旗」7月28日付、「きょうの潮流」から)。ベテラン作家と素人の雑文書きとはまったく別物なんですが、耳が痛い。
2025年7月30日
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