これは熊沢誠『新編 日本の労働者像』(ちくま学生文庫、1993年)の読書ノートです |
労働社会の理論
―熊沢誠『新編 日本の労働者像』読書ノート ダィジェスト版―
1995.11.10
1.問題意識と考え方
著者は、職場社会=生産点での労働者のあり方にあくまでこだわる。
なぜなら日本の労働組合運動は、労働そのもの・仲間関係・職場集団のあり方に関する独自の論理を持っていないために、資本に敗北していると考えるからである。
つまり労働者間の能力主義的競争を規制する思想・行動が職場社会にないため、労働強化
とか不利な雇用形態をもちこまれても、仲間とともに反撃できないのである。
◎この職場労働者のあり方こそが、企業別組合とか協調主義的組合という日本の労働組合
のあり方を規定している。
しかしこの日本的特質の原因は、観念的な「日本人論」によって解明されるので
はない。それは明治以来の日本資本主義の歴史的経過から説明される。
日本資本主義の急激な発展は、労働者に集団的自助の文化を培う余裕を与えなか
った。都市の自由競争の文化の中に孤独に投げ出された労働者は、長期的な生活
保障をまずは企業への定着を通じて獲得した。
◎po1itical(政治的),civil(市民的),industrial(産業内的)
政治的、市民的レベルの自由・平等は産業内レベルの自由・平等を自動的には保障しな
い。後者の獲得のためには職場や仕事そのものに関する独自の思想と闘いが必要。
2.労働社会と労働組合
組織労働者は本来、一般国民とは区別された独自の考え方と行動様式を持つ。
組織労働者の規範 ⇔ 「国民の常識」
○仲間同士の能力主義的競争の制限 ○個人主義に基づく自由競争の志向
○働き方に関する集団的な自治
組織労働者の独自性は、自分たちの職場に<労働社会>をつくることから生じる。
労働社会とは、そこに生活の具体的な必要性と可能性を共有する仲間を見いだし、その仲
間相互の間で働きぶり、稼ぎぶり、雇用機会をめぐる助け合いと競争制限の暗黙の契約(
黙契)を培うことのできる単位である。
労働組合の組織とは労働社会の制度化であり、その機能とは労働社会の黙契の意識化にほ
かならない。
ところが現代日本の職場には、労働社会はなく、企業社会しか存在しない。
労働組合はもっぱら賃上げのための機関となった。組合員は「労働者」として賃上げは要
求するけれども、日常の職場では「従業員」として働く。
3.労働者としての考え方
集団主義:普通の労働者は個人主義的競争では成功できない。
仲間との黙契を守り、仲間とともに国家や企業から自立する。集団的な自治と
自助。労働者間競争の規制。
戦後民主主義:現実には競争民主主義と受け取られている。つまり機会の平等を民主的に
保障した上での能力主義的競争。
逆に競争、能力主義を規制して、労働内容の決定権を集団的に追求すること=
労働生活の自治へと戦後民主主義を読みかえていくことが必要。
自己申告制:強制された自発性。「約束」を守るためのすさまじい働きぶりを強制する。
能力主義以外の職業観をもつ権利を実質的に奪う。「約束」を守れないという
ことで、労働者への不利益な取扱いを正当化する。
能率: 能率を高めることは労働者にとっても喜びである。しかし職場で長く生き続け
ようとする労働者にとっては、能率の犠牲にできない価値がある。仕事のしや
すさ、牧歌性、方法やベースの自己決定性、協同作業的な性格等。
働き続けること:労働密度、緊張の高まりに対しては、「この仕事を末長く続けていける
か」という観点から点検する必要がある。
職場で<守るべきもの>がはっきりしていないと、企業の言いなりに労働のあり方を調整することになる。
4.労働組合運動の展望
《分立→よびかけ→イニシアティヴ》
組織労働者は、まず「国民の常識」=個人主義的自由競争志向に決別し、「分立」しなけ
ればならない。
その上で、一@庶民が競争と個人的努力に賭けることの不確実性とA自治と協同の営みの
優位性―を繰り返し説得的によびかける。
以上、読書ノート ダイジェスト版
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以下、読書ノート 本文
読書ノート 熊沢誠『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫 '93) 1995.11.8
目から鱗が落ちる書である。そこから学ばれる多くのことを、何とか自分の問題意識と
関係させて整理することが必要だが、まだきちんと読み取れていなくて星雲状態である。
しかし感動も新たなうちに思いつくまま記録しておきたい。これ程までに労働組合の必要
性を説得的に明らかにした書を私は知らないのだから。
1.職場社会への内在
この書の何よりの特徴は、職場社会=生産点に対する執拗なまでの内在的食い下がりで
ある。それは日本の労働組合運動思想の(左派も例外でない)<陰の領域>として以下のものを挙げるからである。一労働そのもの・なかま関係・職場集団のありかたにかんする独自の論理を欠いていること一P209
「思えば高度成長期以降の日本の労働運動は、総じて労働そのものとなかま同士の関係
のありかたに鍬入れをすることができず、労働者・サラリーマンの生産点での生きざまに
ふれる《団結の社会学》を開発することができなかった。」P185
この問題を抜かしてナショナルセンターの政治方針などを論じても無意味である。職場
社会を資本の側に握られ、そのことが戦後労働組合運動の敗北の最大の原因となる。著者
がこのような問題意識を持てたのは、イギリスの労働組合の研究によって、日本とは異質
の職場社会とそこでの労働者意識を知ることができたためである。
分析基準としてのイギリス型 《離陸―労働社会一黙契一労働組合機能》
P80
離陸 ブルジョワ社会の「悪魔のひき臼」によってアトムに分解され流動させられ
ていた労働者のある層が、やがて《そこに定着し、そこで共同のなかまを見
出し、そこで抵抗の核となる黙契を培う》労働社会をつくるにいたることで
ある。
(労働者階級のなかのある階層が、資本主義社会の「貧民」または「国民」
一般から自己を分離して、やがてそのありかた、考えかたにおいてある独自
性をもつ組織労働者になること、そのプロセス―P38)
黙契 離陸前には労働者が不可避的にまきこまれざるをえなかった個人主義的な能
力発揮の競争という哲学とは対抗的な、反競争・《平等を通じての保障》・
個人的な階級脱出志向の忌避という性格をもつ。
日本型離陸 P81
労働者の孤立と生活不安を前提として、ある労働者層が、年功賃金と企業内複利施
設と終身雇用制を用意する大企業への定着を主体的に選ぶ。
こうして形成された企業社会のなかでは、効率主義や自由競争の哲学とは異質的な
黙契を育てる労働社会が自立しない。
この職場社会=生産点への内在から、ともすれば見過ごされがちな日本の労働者の生き
ざま、労働者意識の問題点を明らかにしている。それは職場の「柔構造」性の分析を前提
とする。 P105〜 111
「柔構造」:労働内容(なにをするか)と人員配置(誰がするか)がきわめて弾力的(フレクシブル)である状況。P105
従業員にある種の能力を発揮する余地を残している。
しかし同時に、従業員は自動的に自分の仕事の範囲を広げ、ノルマを高め
スピードを早める衝動に駆られる。P106
労働者は性差別、思想差別等とは闘ったが、労働の質量と人員配置の「柔構造」が労働
者間競争によって処理される状況そのものは容認した。―競争の機会が平等で、査定が虚
心であればよい― P106
能力と努力による成功、不成功に応じて昇進、昇級の違いが出てくるのは「自然」だと
いう思いが労働者に浸透した。 P107
→「柔構造」を能力主義的競争でこなす労働者の生きざまと、組合機能によるそのことの
容認は、労働の階層構造を強化する。 P109 つまり「柔構造」であっても労働者集
団に労働に係わる決定権はなく(ベルトコンベアの速度を規制するとか…)、労働者個人
間の競争の結果、決まっていく。→労働強化と労働者の分化をもたらす。
→その中で下層労働者における苦しみのやりすごしかた。
「競争において遅れをとったのだから…という彼らの自覚は、下位職務における仕事のあ
りかたをかえようとするたたかいの遂行をためらわせる。彼らは「仕事はともかくとして
の保障」をうけて黙りこむのである。」Pl10
不成功者の発生を防ぐ試み P108
職場の労働組合が、いくつかの仕事のノルマを圧倒的多数のなかまが無理なくこなせる
程度に標準化させる。それらへの配置をローテーションで平等化させる。
2.労働社会と労働組合
「一般に組織労働者とは、資本主義社会の国民的合意にほかならない個人主義的競争の
るつぼに投げこまれたままである未組織労働者や中産階級から、文化的に自己を分離させ
た人びとである.そうすることが労働者にとって可能なのは、彼ら、彼女らがある独自性
をもつ規範の通用するひとつの労働社会にたてこもるからだ。」P26
「労働者がそこに生活の具体的な必要性と可能性を共有するなかまをみいだすことがで
き、その可視的ななかま相互のあいだで働きぶり、稼ぎぶり、雇用機会をめぐる助けあい
と競争制限の黙契を培うことのできる単位、私はそれを<労働社会>とよんでいる。強靭
な労働組合の組織とは労働社会の制度化であり、その機能とは労働社会の黙契の意識化に
ほかならない。」P187
「労働組合とは本来ブルジョワ社会の「国民の常識」をこえる平等主義を通じて生活を
守る組織であり、それゆえにまた、日本の労働者の連帯を風解させる起点となっている生
産点の能力主義的競争のシステムにくさびをうちこむ、潜在的な可能性はもつ」P126
これに対して、60年代後半に成立して今日に至る日本の労働社会の存在様式の特徴は以
下のように総括される。
「@職場社会の非自立性と企業への統合―その境界が経営者の世界と、その黙契が経営
の論理と不分明であること一と、A職業社会および一般労働社会の不在または未確立の二
点」「現代日本にはいびつに拡大された職場社会としての<企業社会>しか存在しない」
P188
その中で労働組合と労働者はどうなっていくか。
「労働運動史にとって戦後の展開期以降は、労働組合がもっぱら賃上げのための機関に
なってゆく時代である。つまり「労働者」として賃上げは要求するけれども、日常の職場
では「従業員」として働く組合員が多くなったのだ。」P103
「変化の内容は、第一に資本制的合理化への対抗性の喪失、第二に闘いの場としての職
場の比重低下、第三に団体交渉から労使協議へという中心的な対処方法の推転、第四に社
内人事異動にたいする抵抗の風化、そして推定すれば、第五に正社員以外の労働者を疎隔
する痛みの忘却である。」P207
3.労働者階級のイデオロギー
資本制的合理化、能力主義、効率至上主義に対抗して労働社会を形成していくイデオロ
ギーは何か。集団主義、個人主義、戦後民主主義、競争、効率などの概念が検討される。
(1)個人主義と集団主義の弁証法
個人主義:機会均等を前提にした能力発揮、私的生活の目標達成をめざす競争志向
集団主義:ふつうの労働者はその労働を個人主義的にブルジョヮ社会にかかわらせては
やってゆけないといぅ認識に根ざした集団的な自治と自助の樹立。
なかまとの黙契を守り、なかまとともに国家や企業から自立する。反競争志
向。
→ 日本は個人主義 欧米は集団主義 P70
しかし日本型離陸により強いられた個人主義は、企業社会を共同体としてそこにのめり
込み、自己の価値観を経営の目標に統合させて「個」を喪失する「集団主義」に容易に転
化する。だから企業社会批判がしばしば「集団主義」批判として展開されることになる。
しかしこの企業外からの批判は労働者の日常意識には肉薄できない。「個」の自立論では
仕事や職場へのなじみという労働者の日常意識には迫れない。
「労働者論、労働運動論が労働者の日常性に衝迫をあたえよぅとこころみるなら、それ
はひっきよう職場、労働、なかまのありかたを彼ら彼女ら自身の手で規制する営みをこそ
理論化しなければならない。」つまり初めの意味での集団主義の実現こそが求められる。
P176,177
個人主義と集団主義のこの弁証法的関係は以下の叙述でも語られる。
「<労働社会としての労働組合>をどこまでも追う私の把握は、組合主義を近代主義・
個人主義と等置して、その敗因を「企業共同体」をささえる伝統的「集団主義」の根づよ
さにもとめる見解を拒む。…労働者はいったんアトム化されたからこそ、能力主義的競争
に解放されるとともに、唯一性を高めた企業社会に以前よりもふかく統合されたのである
。」P225,226
(2)組織労働者の規範VS「国民の常識」
組織労働者の規範:働き方に関する集団的な自治
「機会の平等」論では律し切れない保障の平等
なかま同士の能力主義的競争の制御
必要なときのストライキの選択
「国民の常識」 :ブルジョァ社会の公認哲学、個人主義に基づく自由競争の志向
両者は「分立」し、やがて@前者による後者の蚕食が行なわれる、かまたは逆に
A前者が後者に包まれて孤立する
日本では両者は未分化で「融合」している。 P27
労働組合の行動 ・賃上げ ・合理化反対 =仕事のしやすさ、牧歌性への回執 |
⇔ |
国民多数の支持する政策的価値 ・経済成長、生産性向上、物価安定、 国際競争での勝利→ それらに よって国民諸階層が経済的に潤う |
「国民諸階層のなかでもっとも生活防衛の自治的な力をもっている組織労働者を、それを
もたないために個人的努力と「よい政治」に依存せざるをえない中産階級および未組織労
働者に包囲させるわけである。この場合、もちろん影の指揮官は政財界のリーダーにほか
ならない。」P31,32 →「親方日の丸」批判の階級的本質!
以上のように、現代資本主義社会において、被搾取階級たる国民大衆が、搾取階級たる
独占資本の政府のヘゲモニーを認めるに至るプロセスが見事に描かれている。要するに分
断支配ということだが、組織労働者とその他の国民大衆との間の「分立」を直視すること
なくして、その克服はできない。日本の革新勢力は両者の要求を安易に等置することで、
支配のメカニズムを見失い、打開の展望を示せないでいる。
「分立」はまずなによりも上述のように、その意識において明白だが、これも上述のよ
うに、経済的利害においても客観的に存在する。しかしこれは、独占資本とその政府によ
る政治・経済支配を前提にした話である。労働組合の行動が国民諸階層の経済的利益に結
び付くように、経済政策を変更し、独占の行動に規制を加える経済民主主義の実現が必要
となる。この点、「国民の全体的利益」なるものが、実際には独占資本の利益を当然の前
提として語られるということに対して、著者は十分に自覚的な叙述をしていない。全体と
して、階級支配の構造を不明確にしたブルジョアジャーナリズムと同様な用語法が見られ
る。著者は必ずしもマルクス主義的方法にこだわらないそうだから、そうなるのだろうが
私には不明瞭な社会認識に思える。
それはともかく、組織労働者が国民の無理解に包囲された状況の中でも、なおかつ著者
は産業内行動の意義を認める。
@職場の問題は産業内行動のみが労働者らしい決着をつけられる。現場を離れた人々に
よる「国民の常識」に基づく決着では、生産性向上だけを重視して、労働者がそこで
仕事を続けていくのに必要な「なにか」を顧みない。
A政治と産業のテクノクラートの公約違反に対抗する物質的な力は、賃上げに固執する
ストライキしかない。→庶民にとって手応えのある民主主義の擁護という正当性。
P32
さらに著者は包囲を解く展望を語る。
「庶民が競争と個人的努力に賭けるには、成功の不確実性が大きすぎる。それらに投企
する人びとの多くは、結局は非情な企業や吝薔な行政に心細く依存せざるをえなくなるだ
ろう」P35
「組織労働者がそのありかたと考えかたにおける独自性の現代的な意義を再確認し、そ
れを草の根として組合機能を展開させる、その上で彼ら、彼女らを包囲する人びとに説得
的な呼びかけをする」P33
「組織労働者の自治と協同の営みのほうが、包囲している人びとの目に今の生きざまよ
りも魅力的な「もうひとつのこの世」と映じはじめるとき、組織労働者と「国民」とのあ
いだに、働く生活者としての高次の交通関係が生まれるのである。」P35
「この《分立→ よびかけ→
イニシアティヴ》のルートにまつわる緊張をさけ、労働運動
が日前にある国民意識に無批判なまま、はじめから組織労働者と国民が対立しないことの
みを求めるならば、ブルジョワ社会公認の哲学の側の不戦勝はあきらかだ。」P36
しかし組織労働者と国民の意識に対立があるのを認めるのは大切だが、現実に対立する
ことを辞さないのは、戦術としてまずいのではないか。
(3)戦後民主主義
日本の労働者による戦後民主主義の受容のあり方
「すぐれて個人の能力を発揮できる競争の機会を公平にする考えかたとして定着し」
「労働そのものとなかま同士の関係のありかたに組合主義(労働者間競争の制限)が浸透
じえなくなった」P104
「戦後民主主義を労働者思想の自立と労働生活の自治の契機に読みかえる……ふつうの
労働者たちが、労働そのものにかかわる権力と意味を集団的に追求すること、労働をめぐ
るなかま同士の関係を競争制御の方向で規制すること、そうすることを通じて生産点には
じまり全社会にひろがっている能力主義の基盤を動揺させること。」P128
(4)競争、平等
戦後組織労働者のあり方と考え方 Pl15,116
・労働の階層秩序の反映である職業的下層意識
・「機会の平等」が公認した競争の哲学
・それに拍車をかけられた伝統の階級脱出志向
⇒労働者がその職業的地位にあるままで
労働生活の全体をよくしようとする考え方が育たない。
自己申告制 P122
「この「自己申告」の人事考課方式が生活の安定を願う労働者に、労働支出競争への自
発的な投企、自己の売りこみ、「約束」を守るためのすさまじい働きぶりを強制すること
はあきらかでぁろう。それらになんらかの事情で耐えられなければ、これからは平凡に地
味に勤めあげることさえ覚束ない。能力主義以外の職業観をもつ権利は、実質的に奪われ
ようとしている。しかも「耐えられない」労働者は、自分が不利益な処遇をうける正当制
を自分でも納得させられるのだ。」
→強制された自発性 P339
( 5 ) 能率
「労働がひとつの目的をもつ、遊びではない行為であるかぎり、労働者がある能率意識を
もって作業にとりくむことは自然であろう。……日常的には、たとえば原材料や燃料の節
約、稼働率や歩留り率の向上のために工夫することは、労働者にとってもみずからの力能
の喜ばしい確認であろう。もともと技能を高めるということのなかにも、すばやく、たく
みに、むだなく仕事をする、つまり生産性を高めるということは含まれているのである。
しかしながら、その職場、その仕事で長く生きつづけよぅとする生活者にはまた、そのよ
うに生産者として「前向きになる」喜びのほかにも、かけがえなく大切な諸価値がある。
仕事のしやすさ、牧歌性、方法やベースの自己決定性、協同作業的な性格―たとえばなか
まと語りあいながら仕事ができること、それから自分となかまが雇用機会を失わないこと
などである。」P181,182
4.働き続けるために
QC活動の結果、労働密度、緊張は高まる。これが成功するのは、「この仕事を末長く続
けてゆけるか」という視点からQCを検証することを労働者が迫れなかったためである。
P152
「ひとつの職場で生きつづけてゆくために絶対に必要な仕事の牧歌性」P162
「職場で《守るべきもの》についての意識が明瞭でなく、企業からのたえまない変化の要
請に労働のありかたのほうを歯止めなく調整してゆく、高度成長期、低成長期を縦貫する
日本の従業員の特質」P164
5.<労働の人間化>の展望
日本的経営の実態に対する対抗戦略
「人間的な労働とは、一定のゆとりや自由とともに、ふつうの労働者たちに作業の方法や
ベースに関するいつわりない裁量権が保証される仕事である。そしてその思想性、方向性
さえあれば、日本的経営のいうフレキシビリティや「多能工」化は、従来のイギリス型を
特徴づける既存の作業方法へのかたくなな固執よりも、<労働の人間化>への営みの契機
となるだろう。経営権と「フレキシブルに動く人間ロボット」の組みあわせでなく、ゆと
とりと自治のあるフレキンブルな働き方。」P343
6.分析方法に関連して
@po1itical(政治的),civil(市民的),industrial(産業内的)
「労働者の文化的自立は、個人または核家族が孤立したままブルジョワ社会にうって出
るのでは、参政権や社会保障があってもひつきょう不可能であろう。……労働者に独自
的な思想の存否とは労働社会の存否そのものにほかならない」P74
「政治的、市民的レベルの自由・平等は産業内レベルの自由・平等を自動的に保証する
ものではなく、後者の獲得のためには職業や仕事そのものに関する独自の思想と闘いが
不可欠である」P233
「職場の性差別をもっぱら平等の法制で克服しようとする、無理な力業ともいうべき法
制主義」P234
「平等と発言権のシステム形成において、私たちの国ではcivilはpoliticalに遅れ、in-
dustrialはさらに遅れる。」P237
「私の見解のキイ概念は、個人の権利意識や法律知識ではなく、多数の、または少なく
(コメント)「個人の権利意識ではなく」という文言にもかかわらず、これは人権論の
見事な具体化である。効率至上主義に対抗するイデォロギーとしてのヒューマニズム、
人権の具体的なあり方を示している。
A労働者のあり方→労働組合の性格
「組織労働者のありかたと考えかたにおける日本的特徴の企業別組合への規定性のほうが、とくに戦後においてはその逆の規定性も決して無視できないとはいえ、ここでは注目される」P24
「労働組合運動の指導路線の批判的検討の意義は、ある意味ではかぎられたものにすぎ
ない。労働者の職場の日常、国民経済のパフォーマンス、ひいては選択される体制の質
に大きな影響を及ぼすそれぞれの国の労働組合運動の性格は、結局のところ、それを支
えるふっぅの労働者のあり方、考え方に規定されているだろう。」P336
(コメント)おそらく共産党は、政治主義として批判の対象だろう。それと対照していえば著者は反政治主義=現場主義ということになろうか。実はそこからP226にみられるように、鉄鋼労連に空想的な期待をかけたりすることになる。著者はいったい政治をどう考えているのか。政治はそのように受動的ではない。
職場 → 労働組合 → 政治 この両方向への規定性をどう考えるか。
職場 ← 労働組合 ← 政治
その他、経営者の戦略、労務管理の展開等々、まだまだノートすべきことは多いが、略。
終章を通じてまとめへ。
7.文学としての社会科学
終章の評伝「ある銀行労働者の20年」は一篇の美しい文学作品である。実は終章に限
らずこの書全体がある意味で文学なのである。例えば第2章の次の叙述を見よ。
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弾圧に脅かされ、「機会の国」アメリカに賭ける大衆に息苦しく包囲されて、ユニオ
ニズムは身をすくませていた。もちろん本当のところ非熟練工たちにとっては、現実の
アメリカは夢の「アメリカ」ではなかった。けれども、彼ら、彼女らがこの公認の支配
哲学に幻滅して「怒りのぶどう」を実らせるには、稼得賃金と雇用保障をドラスチック
に切り下げる大恐慌が必要だったのである。 P46,47
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なかなか思い入れたっぶりである。本書が研究者のみを対象にした厳密な実証論文から
なるのではなく、一般人をも対象として、著者の問題意識を読者の頭に刻み込むことを目
的とした文章からなるためであろう。しかしそれのみならず、普通の労働者の生きざまへ
のいつくしみ、競争戦から脱落しかかっている者の擁護の気持ちといった著者の心情を表
現することも、文学的表現を必然にしているのだろう。
著者の学問的営為は、その心情をこそ出発点としているのではないか。必要性のないと
ころ、深い思いのないところからは本物は生まれないのである。そしてまた必要性、深い
思いはもちろん全く根のない主観的なものではない。それは現実の中から生まれて来るの
である。それを直視する人だけが真に人間的な学問を創造しうるし、その学問は真に科学
的客観的たりえるのである。この現実から生じる、必要性、深い思いを無視することは非
人間的なだけでなく、客観的でもない。それは現実の一面しか見ていないのだ。従って「
冷血な客観主義」(大西広)は、少なくとも社会科学においては成立しえない。自然科学
的必然性をもって貫徹する経済法則を成立させているのは、さしあたっては人々の行動な
のである。この人々の思いと行動を生じさせる現実のあり方を探り、それを変革する展望
を指し示すのが、経済学・社会科学ではないのか。だから研究の出発点に「思い」がある
のは、順序として自然である。そのことは客観性を歪めるどころか、研究の深さを促進す
るものである。
「機会の平等に基づく公平な競争」への疑いなくして、この書は成立しえない。それが
なければ、後は競争的効率が貫徹して人間がその下であえぐ社会を「客観的に」叙述する
しかないだろう。この疑いを成立させたのは著者の上述の心情に他ならないだろう。それ
を出発点にして、競争哲学とそれに基づくブルジョァ社会への、根底的なオールタナティ
ヴを構築することに著者は努めているのである。
ヒューマニズムとリアリズムの統一を目指した(と私には思える)チェーホフの文学精
神こそが社会科学にも貫徹されるべきではないか。社会科学文献としてのこの著書が文学
的香りを帯びていることは決して偶然ではない。