これは、政治経済研究所編『政経研究』第86号、2006年5月、所収の拙稿「生産力発展と労働価値論」です


 

        The development of production capacity  and the labor theory of value

                         Osakabe Yasunobu

 

         生産力発展と労働価値論

                       刑部泰伸   

 

《要旨》

 異時点間の価値の比較について、「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」とする見解と、「あくまで同一労働量は同一価値量を作り出す」とする見解がある。本稿では、使用価値と費用価値との逆方向への運動と、生産力発展による両者の統一、という杉原四郎の歴史貫通的視点を参考に、価値・使用価値の二重分析の観点から後者の見解の正当性を主張する。前者の見解は生産性上昇による価値・使用価値の平行的増大という立場になり、物量分析への一元化の中で、生産物価値の減少の意義が見失われ、労働時間短縮=自由時間増大という人類史の課題とそこにおける資本主義段階の位置付けが不明確となる。

 

 

1.国民所得・経済成長と価値をめぐる討論の経過

 

 本稿は、2004年に刊行された、川上則道氏の『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』の第3章「経済成長と価値」を検討するとともに、価値論の観点から現状分析における視点に対して若干の問題提起を行うものである。

 この第3章は、もともとは川上氏と私(刑部)との手紙での討論を川上氏が編集して『経済』20005月号に発表したものである。問題の発端は、政府統計における国民所得は労働価値論においては価値と捉えるべきか使用価値と捉えるべきか、という刑部の疑問である。それを敷衍すると以下のようになる。……バブル破綻後の一時期などを除けば、高度成長終了後の低成長期においても少しずつでもGDPは増大している。労働力人口と労働時間が伸びず、従って国民総投下労働量が停滞する中でも経済成長が持続するということは、そこでいわれている国民所得の増大とは、価値量ではなく使用価値量の増大と考えられる。ならば普通マルクス経済学において、国民所得は価値と考えられているようだが、実は使用価値ではないか。

 これに対して川上氏は初めに以下のように回答している。「現在、使われている『国民所得』は、価値(=労働量)概念ではありません。では、使用価値かといわれると、単純にそうだとも言えません。なぜなら、それぞれの商品生産物ごとに異なるのが使用価値ですから、これを総合計することはできません。価値と価格が生まれて、初めて諸生産物(諸使用価値)を同じ単位で測り合計することができるようになります。したがって、『国民所得』とは、ある時点の価格(価値)で測った諸生産物=諸使用価値の量と捉えるのがよいかと考えます」(前掲書47ページ)。ある時点の価値で測るということは、その後の生産性上昇による個別生産物価値の減少を捨象して、増大する使用価値量を捉えるということになる。しかし川上氏はすぐに考えを訂正して次のように回答し直している。労働生産性が上昇すれば、同じ生産物の価値は減少するので「過去の1労働時間が表わす価値は、現在の1労働時間が表わす価値から見て、生産性の上昇分だけ減少します」(同前49ページ)。「ある年度とその前年度について、労働生産性の上昇率が10%、国民の総労働時間は同一とします。このとき、ある年度の国民所得(=価値)を100とすると、前年度の総労働時間のつくる価値は、ある年度より10%だけ減価しますから、100÷1.1ということになります。ということは、前年度を基準とし、前年度の国民所得(価値)を100とすると、ある年度(今年度)の国民所得は100×1.1ということにな」(同前50ページ)る。従ってマルクス経済学においても国民所得を価値と捉えることができる。つまり川上氏は「同一労働量は同一価値量を作り出す」ということを修正して、「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」という見解に立つことで、生産性上昇による国民所得の増大を価値の増大とみなし、よって国民所得を価値と捉えることになった。

 これに対して刑部は、以下のように批判している。労働価値論では、「同一労働量は同一価値量を作り出す」という基本的命題(論理A)と、「一物一価」という補助的命題(論理B)が組み合わされて価値実体が説明される。川上氏が生産性の異なる過去と現在の労働の作り出す価値を同一とみなさないのは、そこに「一物一価」を適用しているからである。なぜならそれは同じ使用価値は同じ価値を持つということであり、その際、投下労働量が違っておれば単位労働あたりの価値量が違うことになるからである。つまり同じ生産物に対して、投下労働量の多い過去の労働の1時間あたりの価値は小さく、投下労働量の少ない現在の労働のそれは大きくなる。しかし「一物一価」という補助的命題は「同一商品について同時点での生産性格差を考慮にいれて、価値論を成立させるための論理」(同前52ページ)であって、それを過去と現在の比較にまで適用すると基本的命題が破れてしまう。

 川上氏は、論理Aと論理Bとへの刑部の整理を受け止めつつも、両者は基本と補助ではなく「どちらも基本命題として一体の関係にある」(同前54ページ)とする。川上氏は、売れ残った生産物が過去の価値ではなく現在の価値を反映する価格で販売せざるを得ない(生産性が上昇すれば価格が低下する)ことに注目する。ここで論理Aは同一の生産物についての過去と現在の価値の変化を説明しているのに対して、論理Bは過去の価値は現在は通用しないということをいっている(一般に諸生産物の価値は現在の生産によって決まる)。従って論理Bを「同一商品について同時点での生産性格差を考慮にいれて、価値論を成立させるための論理」(刑部)に限定せずに、生産性の変化した過去と現在に適用しても労働価値論が破れることはないし、刑部が価値論の破綻を心配するのは、労働価値論を論理Aと同一視しているからであって、論理Aと論理Bの全体が労働価値論であることを理解するべきである、というのが川上氏の批判の中心点である。さらに氏は論点を補強して、価値を生産物から切り離して労働量そのものとしてとして把握するのは不十分であり、価値概念を労働量と生産物とが一体化したものとして理解することが必要であり、従って論理B(=「一物一価」)も労働価値論の基本命題として捉えるべきである、としている。

 これに対して刑部は、まず労働価値論のアイデンティティを論理Aとして、論理Bの適用範囲を新たに規定して「生産性の格差のある生産物が同時点で競争関係にある場合」とする。従って違う時間の中にあって競争関係にない過去の生産物が減価することはないので、現在が過去を減価するというのは不当な一般化である、とする。

 以上、討論経過の概要を追ってきた。そこでは政府統計における国民所得は労働価値論においては価値なのか使用価値なのか、という刑部の疑問から出発して、生産力発展を背景とした異時点間の価値をどう理解するかという価値論の根本問題に議論は発展した。以下では討論の理論内容をさらに詳しく検討し敷衍したい。一見スコラ的に感じられるこうした問題は、一方では経済社会と労働の本質的あり方、その未来像にかかわるものであり、他方では物価下落をともなう深刻な不況に陥った日本経済の現状認識と対策にもかかわるものだと思われるのである。

 

 

2.刑部による問題提起の理論的内容

 

 労働価値論の立場からは投下総労働量が同じならば総価値量も不変のはずだが、近年のように労働力人口・労働時間が停滞していても少しずつでもGDPは増大している。この場合、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の原則は誤っている、あるいは少なくとも何らかの修正が必要である、と考えるのが普通であろうが、そもそも政府統計のGDPは価値を表わしていないと考えることもできる。

 実は『経済』20005月号に川上・刑部論文が発表された後に気がついたのだが、『経済理論学会年報第8集』(1971)に、山田喜志夫氏の「『経済成長』について」という報告があり、それに対して大島雄一氏が次のような意味の疑問を出している。

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 付加価値統計を見ると、昭和30年で製造業一人一ヶ月当たりで3万円ぐらいが、42・3年になると15万円くらいになっており、物価の上昇を差し引いた以上に上がっている。経済原論では生産性上昇の場合、一労働時間が生み出す価値は完全に同じだと説明しているが、現実の統計と合わない。生産性が上昇した場合は旧労働に対して複雑労働化して作用する。

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 大島氏は労働価値論の教科書的説明に疑問を呈して一定の修正を加えている。しかし物価の上昇を差し引いただけでは価値は出てこないのであって、政府統計の実質値は価値を表現していない。従ってそれによって労働価値論の基本命題の妥当性を問題にするのは的がはずれている。この点、一般に誤解があり、逆にそれをクリアすることが問題のカギだといえる。

 物価指数はきわめて重要な統計指標だが、「一物一価原理の時系列への適用」というその性格がしばしば見過ごされている。一物一価原理は同じ使用価値は同じ価値を持つということであり、労働価値論の観点からいえば、投下労働量が違っていても同じ使用価値ならば同じ価値とみなされるということになる。労働価値論の価値実体論では、同一労働量は同一価値量を作り出すという基本的命題(論理 A)に、一物一価という補助的命題(論理 B)が組み合わされている。共時的(クロスセクション、横断的)分析においては、競争関係にある諸生産物には論理 Bが適用される。この場合、生産性格差にかかわらず適用され、格差をめぐる競争が生産力発展を促すことが解明される。通時的(タイムシリーズ、時系列的)分析においては、時間が異なり競争関係にない諸生産物に論理 Bは適用されない。ここでは競争の結果としての生産力発展により、生産物1単位当りの投下労働量が減り、従って価値量が減少することが時系列的に確認される(論理 A)。このように労働価値論においては相矛盾する2つの論理が巧みに組み合わされて、労働生産性をめぐる<格差→競争→発展>の構造が解明されているのである。

 物価指数は一物一価原理を時系列に適用する。以下、数値例で説明したい。

 過去において1労働時間かかって生産された使用価値が100円で売られ、現在では30分で生産され150円で売られており、これが社会的平均を表わしているとすると、現在の物価指数は1.5となる。ところで物価はインフレ(=不換通貨の膨張によるその減価)に比例するが、生産性の上昇に反比例する。後者はしばしば見過ごされている。例では価値は1/2につまり生産性は2倍になっており、不換通貨価値は1/3つまりインフレは3倍になっており、3÷21.5が物価指数である。ここで物価指数は、かつて100円で売られていた使用価値が今では1.5倍の150円で売られているということだけを反映しており、価値がどう変化したかにはかかわらない。一物一価原理を時系列に適用すると、過去も現在も同じ使用価値=価値の商品が今ではかつての1.5倍で売られている、通貨価値が1/1.5つまり2/3になった、と映るが、実際には通貨価値は1/3になっている。

 この例では現在の名目国民所得を過去との比較のためにデフレートするには物価指数の1.5で割るのではなくインフレ指数の3で割らねばならない(インフレが進み、生産性が上昇している場合には、物価上昇以上にインフレは進んでいる)。こうすれば労働価値論上の国民所得価値(VM)の比較ができる。

 ところで名目国民所得を物価指数の1.5で割ったものは政府統計上の実質国民所得だが価値論的にはこれはどういう意味を持っているのかが次の問題となる。 

 

      物価指数=1+物価上昇率

      インフレ指数=1+インフレ率(単位労働量を表示する不換通貨量の増加率)【注】

      労働生産性指数=1+労働生産性上昇率 

  (以下単に生産性指数)             とすれば

 

      物価指数=インフレ指数/生産性指数 

      政府統計の実質国民所得=名目国民所得/物価指数

                            =名目国民所得/(インフレ指数/生産性指数)

                            =(名目国民所得/インフレ指数)×生産性指数

                            =価値表示の実質国民所得×生産性指数

                            =年間国民総投下労働量×生産性指数 

 

  【注】通常、インフレ率は物価上昇率と同じ意味で使用される。しかし本稿では、

  物価上昇率は商品側要因と通貨側要因との両方を反映したものとして(従って通常の

  意味で)使用するのに対して、インフレ率は通貨側要因だけを反映したものとして独

  自の意味で使用する。従ってインフレ率は「不換通貨の膨張率、そこからくる不換通    

  貨の減価率」となるが、究極的には「単位労働量を表示する不換通貨量の増加率」と

  いう定義になる。上の例では、過去には1労働時間を100円で表示し、現在は0.5労働時間を150円で、つまり1労働時間を300円で表示しているので、インフレ率は、

  (300-100)/1002となり、インフレ指数は、123となる。

   近年ではマルクス経済学においても不用意にインフレ(率)=物価上昇(率)とす

  る傾向があり、価値論が不明瞭になる危険性がある。これはデフレ=物価下落という

  用語法への同調にも連なり、現状分析の歪みにつながる恐れもある。

   インフレ率という用語については最後の補論で改めて論じることとする。

 

 上式からわかるように、政府統計の実質国民所得(以下では単に「実質国民所得」とする)は価値表示の実質国民所得(以下では単に「国民所得価値」とする)に生産性指数を乗じたものであり、いわば「偏倚した価値」としての性格を持つ。ここで実質国民所得は価値とも使用価値ともいえない両義的概念である。偏倚した「価値」とはいっても生産性の上昇に応じて増大するという意味では使用価値的である。では使用価値なのかといえば、そもそも異なった諸使用価値量を集計することは不可能であり、価値量に還元するしかない。その点では価値的である。

  実質国民所得のこの両義性は以下のように解釈できる。…まず価値概念によって諸使用価値を一つの集計量(国民所得価値)にする。次いでこの国民的諸使用価値の総品目セットをあたかも一つの使用価値に擬制する。この一つの使用価値とみなされた国民総生産物量(中間生産物は除く)が生産性の上昇に応じて増大する。…実質国民所得はこのように迂回した形で国民所得と経済成長を(価値的にではなく)物量的に表現するものである。

 以上のように、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の基本原則を堅持しつつ、政府統計の概念について価値論的解釈を与えることができる。

 

 

3.川上則道氏の批判の理論的意味

 

 ここでは川上氏の前掲書から、刑部の議論に対する批判点を見たい。

 川上氏は労働価値論の観点からも政府統計の実質国民所得は価値であるとしている。そうなると先の大島雄一氏の議論と似たように、同一労働量は同一価値量を作り出すという労働価値論の基本原則を修正して、生産性の上昇に応じて労働の価値形成力が増大していく、という論理になる。

 「一般的に言えば、ある生産物についての労働生産性が上昇すれば、同じ生産物についての価値は減少します。この原理は過去と現在との比較においても成立するはずです。つまり、労働生産性が上昇すれば、過去の1労働時間が表す価値は、現在の1労働時間が表す価値から見て、生産性の上昇分だけ減少します」(川上前掲書49ページ)。

 「一般に、諸生産物の価値は、今年の、現在の生産によって決まります。客観界の基準は現在の生産です。したがって、労働生産性が上昇した場合は、過去の労働の生産した価値はその分だけ減価するということになります。現在が過去を減価するのです。したがってまた、もし概念の側で過去の労働を基準とすれば、現在の同一量の労働が生産した価値は増価するという計算になります」(同前55ページ)。

 つまり川上氏によれば、労働生産性が上昇する場合、過去の生産物の売れ残りが減価するのと同様に、過去の労働の生み出した価値も減価する(基準は現在である)が、これを過去から現在に向かって見れば、労働生産性の上昇とともに価値形成力が上昇することになるのである。

  刑部は、労働価値論の価値実体論は、同一労働量は同一価値量を作り出すという論理 Aと一物一価原理という論理 Bとの統一によって形成される、とする。さらにそこでは論理 Aが基本的命題であり、論理 Bは補助的命題とされる。これに対して川上氏は「この二つの命題は基本と補助という関係にあるのではなく、どちらも基本命題として一体の関係にあるものとして捉えなければならないと考えます」(同前54ページ)。

 ところで論理 B(一物一価原理)は、投下労働量の違いを問わず、同一使用価値量は同一価値量として評価されることだから、論理 Aとは対立する。論理 Aは労働価値論のアイデンティティであり、論理 Bは他の価値論とも共通している。この対立した二命題を労働価値論として統一するには、やはり前述したように、論理 Aを全体の基調としつつ、共時的な競争関係の分析においては論理 Bを適用し、通時的(時系列的)分析においてはそれを適用しないという、棲み分けが必要となる。川上氏の場合は、論理 Bを通時的分析にも適用しているため、事実上、論理 Aに対して論理 B優位の下に両者が統一されている。つまり投下労働量による価値規定よりも一物一価原理が優位な論理となっているのである。

 川上氏はこの論理を補強するために、労働量と生産物の一体化を強調し、労働量だけを価値に結び付けるのでなく、この一体化したものとして価値概念を把握する必要があることを主張している。この一体化を行うのは現在の生産(労働)である。

 これは結局、歴史的に存在する(した)様々な投下労働量を持った諸生産物の価値を、同じ使用価値であるということで、現在の生産性水準に応じて同じ価値に統一することになる。こうして時系列へも適用された一物一価原理によって、投下労働量による価値規定は後退するのである。

 

 

 

4.和田豊氏(『価値の理論』)による総括的批判

 

 川上氏と刑部とが対極的な論理展開を見せる中で、和田豊氏は、労働価値(「価値」の言い換え。この用語については『価値の理論』120ページ参照)の異時比較の一般的方法を提示している。

  刑部が一物一価原理を現実の競争関係のある共時的構造の中に限定し、過去の生産物の減価を否定するのに対して、川上氏は一物一価原理を通時的分析にも適用して、現在の基準で過去を減価させる。和田氏は労働価値期間(労働価値規定の前提となる期間)は分析の必要に応じて自由に選択可能である(可変的タイムスパン)として、両者の議論をより一般化して止揚する。

 可変的タイムスパンの下では労働価値の異時比較の方法として三つが可能である。

  [1]入れ子型:相対的に長期の労働価値の中で短期の労働価値が規定される

  [2]個別価値型:市場価値論を異時点間に適用する

  [3]単純な異時比較型:離れた期間の労働価値をそのままで比較する 

 和田氏によれば、刑部の議論は、一物一価原理の実在的根拠を問題とする限りでは本質的問題はないが、それを極度にタイトに捉えているため価値概念の応用可能性を狭めている。他方、川上氏の「過去の労働価値がすべて最新の現在基準で減価する」という主張については次のように批判する。「諸商品の労働価値を『現在』の再生産条件にもとづいて規定することは、選ばれた労働価値期間に生産された諸商品の価格にたいして当該期間よりも過去の歴史的諸条件が与える影響を理論的に排除することを意図したもので、労働価値が当該期間に実現する全諸商品の生産諸条件によって規定される平均概念であることとは矛盾しないということである。過去に生産されて売れ残った商品の労働価値を求める場合には、その商品が過去に生産された際の諸条件を、その商品の数量に応じて現在の諸条件に加え平均化しなければならない」(同前117ページ。売れ残り商品の扱いについては刑部も川上氏と同様なのでこの批判が該当する)。従って川上氏の誤りは「労働価値概念の通時性を共時性に一方的に解消してしまった点」(同前ぺーじ)に求められる。両者の論争点についていえば、年々の労働生産性の上昇を把握するためには、減価の議論を放棄した「単純な異時比較型」が基本型であり、刑部の方に基本的な正当性がある、とされる。

 

 

5.価値論(価値・使用価値の二重分析)の意義

  経済本質論(杉原四郎著『経済原論1-「経済学批判」序説』)、未来社会論の観点から

 

 ジョーン・ロビンソンは次のように労働価値論を根本的に批判している。

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 生産力や、国民所得の成長というのは、財の産出量の流れと理解されている。そこで注目しなければならないものは、まさに、一人一時間当りの物質的産出量の変化である。ところが、価値表示においては、一時間は、あくまでも一時間である。一定の労働時間は、年々、同じ価値しか生産しない。しかし問題はそこにあるのではない。われわれの知りたいのは、一定の労働時間がどれだけの物質を生産しているかということである。

        『経済学の考え方』71ページ

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 こういう批判にあわてて、生産性の上昇による使用価値量の増大を価値量の増大として表現したいのは、経済分析での有効性を確保するためであろう。しかし前述のように労働価値論的意味づけを明らかにして、政府統計の実質国民所得などを実物的指標として分析すればよいのであって、価値論を変更する必要はない。一物一価原理を時系列に適用して、使用価値量の増大を価値量の増大とするのは、価値量を物量に解消する擬似価値論である。それではせっかくの価値・使用価値の二重分析という労働価値論の特性を放棄して物量分析に一元化し見失うものが出てくる。以下ではそのことについて経済本質論という歴史貫通的観点から述べてみたい。

 杉原四郎氏は資本主義把握に先だって、歴史貫通的な経済本質論を解明する。そこでは富は使用価値と費用価値という二重性格を持つが、それは労働の二重性格(具体的有用的労働と抽象的人間的労働)に由来する。人間は生活に必要な経済財を調達するために、有限でかつ色々に使用可能な時間とエネルギーの一定部分を労働として支出せねばならない。つまり労働は人間が生きていくために支払わなくてはならない本質的な費用であるので、抽象的人間的労働が作り出す価値をあえて費用価値と呼ぶ。富を消費する人間としては、使用価値のできるだけの質的量的な向上がのぞまれ、富を生産する人間としては、費用価値のできるだけの量的節約がのぞまれ、両方を解決するために生産力の発展を軸とする富の拡大再生産が求められるのである。

 人間生活にとって最も本質的な資源として時間があり、労働時間がその時間の基底的部分を構成し、生活時間から労働時間をさしひいた残りの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能になるので、労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえない。そしてこの認識に基づくことで、労働生産力の発展が人間の歴史を貫く基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望も開ける。生産力の発展と合理的な時間配分とは、労働時間の節約のための二つの本質的な解決策である。

 以上の杉原氏の主張では、使用価値と費用価値とについて、前者の増大と後者の減少という逆の動きが期待され、それを同時に実現するのが労働生産力の発展であることが指摘されている。生産性の上昇によって生産物一単位あたりの費用価値は減少し、消費される使用価値量の増大を上回って生産性が上昇するなら、労働時間が節約され自由時間を増やす可能性が生まれる(これは逆に、ムダな使用価値量の追及によって生産性上昇の効果が労働時間短縮につながらない可能性をも示唆している)。ここでは当然大前提として、一定時間の労働投下はあくまで一定の費用価値であって生産性のいかんにかかわらず費用価値は変化しないことが重要である。また費用価値としての労働時間は、生活時間から自由時間を奪う時間であるので、その物理的時間の長さが問題であって、その時間内での生産性は問題とはならないのである。

 使用価値の増大と費用価値の減少、そのための生産力の発展と合理的な労働時間配分という人類史の基本方向は、資本主義経済ではどのように貫かれるのであろうか。大まかにいえば市場メカニズムと恐慌=産業循環によるが、その際、問題なのは資本の運動の推進動機は価値増殖だということである。これは人類史の法則に逆行する。しかし価値増殖の方法として特別剰余価値の取得をめぐる競争が展開されて生産性が上昇し、結果的に商品価値の減少が実現される。そしてまた減少した価値を新たな出発点として価値増殖に邁進する、というのが、下りのエスカレーターを登るような矛盾に満ちた資本の運動原理である。生産性上昇下で投下労働総量が一定ならば、同一労働量は同一価値量を作り出すという原則からは、総使用価値量は増大しても総価値量は不変である。ところがその際に生産性上昇とともに労働の価値形成力が増大するとみなせば、総使用価値量だけでなく、総価値量も増大することになる。生産力発展の下での使用価値量と価値量との平行的増大というこの見方(価値論の物量分析への一面化)からは、生産力発展が価値増殖に直結することになる。これは一方では上記の資本の矛盾に満ちた運動を捉えられない表面的な見方であるし、他方では資本の運動をも貫く人類史の法則を看過することになるのである。逆に同一労働量は同一価値量を作り出すという原則の見地から、費用価値の減少という人類史の課題を資本主義分析の中にも折り込むことから生まれる批判意識こそが重要なのである。

 資本主義が人類史の一時代として存在理由の弁明を許されるのは、この時間論の観点からは、そのたぐい稀な生産力発展によって自由時間の飛躍的増大の可能性を作り出すという点にある。しかし「資本の傾向はつねに、一方では自由に処分できる時間を創造することであり、他方ではそれを剰余労働に転化することである」(『経済学批判要綱』)ので、資本の本性からは労働時間は短縮されず、潜在的自由時間は搾取の対象に転化してしまうのである。資本は常に剰余価値の担い手たる使用価値を追い求め、それを人々の生活に押し付ける。人々は自分の自由時間に自分で工夫し自身の生活を組み立てるのではなく、資本の提供する商品に生活を埋もれさせるという消費社会のスタイルに漬かってしまう(手間ひまかけずに金かける)。そういう「豊かな消費生活」を支えるために生産者としては過剰労働が強制される。グローバリゼーションの中で24時間眠らない都市があたかも当り前で、それをしなければ大競争から脱落するという強迫観念が存在する。しかし病院とか警察などが24時間可動体制をとるのは必要なことだが、工場や商店が24時間開いているのは、人間生活の必要からでなく、資本の価値増殖の必要に過ぎないのである。資本が人々の自由時間を盗んで労働時間に転化して価値増殖を強行しているのに対して、実は費用価値の縮小=自由時間の拡大こそが人類史的法則であり、そのためには生産力の向上だけでなく、やみくもな使用価値の増大を控えることも必要なのである。今日のグローバリゼーション・「構造改革」とは、資本の価値増殖に合わせた形での生産力拡大、労働時間増大=自由時間の縮小=生活の希薄化(全生活時間の資本への従属)のいっそうの追及であり、そこでの新商品の開発とは価値増殖の担い手としての使用価値の発見であり、そうである以上は物量の追及は人々の生活時間の剥奪に他ならない。それに対して人間的生活時間の充実=自由時間の拡大=労働時間短縮を目的とした生産力のあり方と使用価値のコントロールの立場で対抗することが必要である。24時間社会を許さないグローバルな闘いが求められる。それは資本の価値増殖活動に一定の規制を加えて生産力増大の成果を人間生活に還元させることである。

 

 

 

6.まとめ

 

 生産性上昇下における異時点間の価値の比較について、あくまで「同一労働量は同一価値量を作り出す」とする立場と、「生産性上昇に応じて労働の価値形成力も上昇する」とする立場がある。後者は物価指数の原理である「一物一価原理の時系列への適用」から生じる。ここで政府統計の実質国民所得は、名目国民所得を物価指数で除した値であるため、後者からは価値と認められるが、前者からは、物量的性格の強い、価値・使用価値の両義的概念とされる。後者は、投下労働による価値規定という労働価値論の基本的原則よりも、経済の物量分析に有用な価値概念という狙いに合わせた修正だともいえるであろう。しかし前者ならば、労働価値論の基本的原則を保持した上で、実質国民所得などの政府統計の価値論的意味を明確にして物量的分析に利用することが可能である。

 生産性上昇による価値・使用価値の平行的増大という後者の立場は、労働価値論の特質としての価値・使用価値の二重分析から、物量分析一元化への後退と思われる。そこでは主に物量の増大が注目され、生産物価値の低下の意義が軽視され、人類史と資本主義という観点からいって、以下の三つのことが見失われることになる。

 1.生産力発展の持つ歴史貫通的意義(使用価値の増大と費用価値の節約という矛盾的な課題の解決)。

 2.資本主義的生産にも上記の意義は当てはまるが、資本は価値増殖の追及を目的とするためきわめて矛盾した過程を通して貫徹されること。

 3.費用価値の減少を通した労働時間の短縮=自由時間の拡大という人類史的課題が資本主義的生産にも貫徹されるべきこと。

  【注】ここでの「費用価値」は杉原四郎氏の歴史貫通的用語で、商品経済段階ならば

  「価値」に当たる。資本主義段階ならば、<CVM>の内の<CV>のことではな

  く<CVM>全体に当たる。

 

 

 

<補論> インフレ率(インフレ指数)という用語について

 

 拙論では、生産力発展による商品価値の低下を視野に入れて国民所得の変化を価値論的に分析するために、デフレータとしては物価指数に替えてインフレ指数を使用した。つまり物価上昇率に替えてインフレ率という用語を使用した。これについては用語法上の問題と経済分析におけるこの概念の有効性の問題という2点での疑問がありえるだろう。

 

1)インフレ率の用語法上の問題

 この問題は、通常、インフレ率という言葉は物価上昇率と同じ意味で使われているので、別の意味で使うのは混乱を招くということである。拙論ではインフレと物価上昇一般とを区別する、つまり物価変動の要因としての通貨側と商品側とを区別する、という立場から、物価上昇率とは区別して、インフレ率を「単位労働量を表示する不換通貨量の増加率」という意味に限定して使用している。これはより過程的・現象的には「不換通貨の膨張率、そこからくる不換通貨の減価率」【注】といえるものを、労働量の次元まで抽象化した定義である。「生産力発展による商品価値の低下を視野に入れて(価値量と使用価値量との変化を峻別しながら)国民所得の変化を価値論的に分析する」という目的のためにはそのように抽象的な定義が適切である。このようにあえて定義を明確にして独自の意味で使用することで、通常使われているインフレ率=物価上昇率という用語法の曖昧さに光をあてて拙論の意義を強調できるであろう。物価変動要因としての通貨側と商品側とを区別しない「デフレ」用語法が今日のデフレ論の理論的・政策的混迷を助長していることからも、これは重要である。

  【注】「不換通貨の膨張率」は本来、流通必要以上の膨張の度合を表わす用語である

    から商品の価値量と不換通貨の流通速度を考慮に入れれば、正確には

    「不換通貨の膨張率×不換通貨の流通速度/価値量増加率」 となる。

 なお労働量にまで下向したインフレの定義に関しては以下のような置塩信雄(中谷武)氏の所説があり、問題の要点が実に簡潔に整理されている。一般的なインフレ率・インフレ指数(=物価上昇率・物価指数)の定義は下記(イ)のインフレ概念に、拙論でのインフレ率・インフレ指数(≠物価上昇率・物価指数)の定義は下記(ハ)のインフレ概念に準拠しているといえる。

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 インフレーションという場合、次の三つを区別する必要がある。

 (イ)貨幣1単位で購入しうる物量の減少

 (ロ)貨幣1単位が代表する金量の減少

 (ハ)貨幣1単位が代表する投下労働量の減少

 通常、近代経済学では(イ)の意味でマルクス経済学では(ロ)の意味でインフレーションという言葉を用いている。われわれが本節で示したのは(ハ)の意味での測度である。これはもし金の価値が一定ならば(ロ)の意味での測度と一致する。(イ)-(ハ)はそれぞれ異なった概念であり、問題に応じて区別して議論すべきである。

 <置塩信雄『マルクス経済学』第2章「価値の測定」第4節「不等価交換に関する要因の分析」(126ページ)より。ただし本節は中谷武「投下労働量と価格-戦後日本の場合」(『季刊理論経済学』昭和514月)の転載である>

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2)インフレ率概念の有効性

 今日では、現金通貨(不換中央銀行券)の他に預金通貨や様々な準通貨が激増し、「通貨量」と「実現取引量」との関係はきわめて決め難くなっている。その中で不換通貨膨張率(不換通貨減価率)という意味のインフレ率にどれほどの意義があるか、ということが問題となりうる。現金通貨・預金通貨・準通貨の量的関係の分析は現在の私の手に余る課題であり、またそれらが必ずしも安定的な比率にあるわけでもないということからいえば、インフレ率概念の有効性を量的な意味で説くことは困難である。しかし通貨全体の中での現金通貨の規定性を確認すれば、インフレ率の規定的意義も基礎的にいうことができよう。準通貨は「現金・預金通貨の形態に転化することによってはじめて通貨機能を果たすものとなる。金融資産を『準通貨』たらしめる基本的な条件は、その所有者の支払いの必要なさいにおける、通貨へのそれらの即時・円滑な転換性とその確保にある」(原薫『現代の通貨』140ページ)といえる。また預金通貨も現金通貨との交換性に基づいて流通している。そこで通貨全体の安定的な流通を支えるのは、現金通貨としての不換中央銀行券の商品購買力(=物価)と対外価値(=為替相場)とを安定的に維持することであり、そのための政府・通貨当局の経済政策運営が必要となる(同前136137ページ)。やはり現金通貨の減価が全流通に影響する以上、まずインフレ率を出発点に措定し、実体経済と金融との絡み合いにおける現金通貨・預金通貨・準通貨の量的関係の解明の上に、「実現取引量」に至るという、「通貨量」から「実現取引量」への階梯的認識が必要であろう。実際の統計的認識は困難であるが、この階梯的関係を前提すれば、理論的にはインフレ率概念が必要であり、その上にこの関係に沿って現状分析を豊富化していくことが求められよう。

 ところでこの階梯的関係は、貨幣数量説的に、通貨量の増加が一方的に物価上昇に結び付くものではなく、あくまでその可能性を高めるにとどまるものであって、その現実性は実体経済の資金需要によって規定される。従って「通貨量」と「実現取引量」との関係の難しさという問題は、預金通貨・準通貨の増大だけでなく、通貨量と実体経済との関係からも生じる。現に日銀の超金融緩和政策による「ジャブジャブ」の資金供給にもかかわらず、物価は上昇していない。不況の中で「ジャブジャブ」な資金が経済のあらゆる段階で滞留し、不換通貨が「畜蔵貨幣」化していたためである(松本朗「超金融緩和政策と『デフレ』とが共存する条件」)。このような通貨量と物価との逆説的関係においても通貨膨張率としてのインフレ率という用語は無効ではない。物価変動要因としての通貨側と商品側(金融と実体経済)とを区別するという観点がなければ、この逆説は解明できないわけで、その観点を体現するものとしてインフレ率という用語は存在しうるからである。

 

 

参考文献

1)川上則道『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』、新日本出版社、2004

2)山田喜志夫「『経済成長』について」、『経済理論学会年報第8集』所収、青木書店、1971

3)和田豊『価値の理論』、桜井書店、2003

4)ジョーン・ロビンソン、宮崎義一訳『経済学の考え方』、岩波書店、1966

5)杉原四郎『経済原論1「経済学批判」序説』(マルクス経済学全書1)、同文舘、1973

6)置塩信雄『マルクス経済学 価値と価格の理論』、筑摩書房、1977

7)原薫『現代の通貨』、法政大学出版局、1990

8)松本朗「超金融緩和政策と『デフレ』とが共存する条件」、『武蔵大学論集第五十巻第三号』所収、2003

9)刑部泰伸「ゼロ成長の国民所得論」、1999年、「文化書房ホームページ」http://www2.odn.ne.jp/~bunka 内の「店主の雑文」所収

10)同「物価下落をどう見るか」、2003年、同前所収

11)同「月刊『経済』の感想、20037月号」、2003年、同前所収

12)同「不況対策に賃下げ?!」、2002年、同前所収

 

               (おさかべやすのぶ 文化書房店主)

 
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