これは2019年6月1日と2日に開催された「暮しと法律を結ぶホウネット」第16回総会の記念企画・三上智恵監督講演と映画「沖縄スパイ戦史」ならびにそれを受けたホウネット世話人会の議論についての感想です。     2019年6月18日記


      二度と戦争をしないために

       三上智恵監督講演と映画「沖縄スパイ戦史」に学び考えたこと

         〜ホウネット第16回総会・記念企画(2019.6.1/2)から〜

 

 

 今年のホウネット総会・記念企画は多くの参加者に恵まれ、内容的にも熱気に包まれて成功しました。その中で三上智恵監督の講演を中心に私の感想などを述べます。

 

◎三上監督の気概と自衛隊問題の提起

 高江や辺野古あるいは自衛隊の問題を描いてきた三上監督は、現代の「戦争と平和」の根本問題、自衛隊の問題の本質に迫るには、沖縄戦、とくに北部の「秘密戦」の真相を暴くほかない、と決意しのめり込んで行きました。その燃える胸中と鬼気迫る問題意識をあえて長い引用になっても紹介せざるを得ません(「『沖縄スパイ戦史』公式プログラム」、2018年、以下「映画パンフ」と称する、26ページ)。

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 …略…この映画の製作期間の10か月、私は休日もなく、友達にも合わず、ずっと1945年の世界に没頭していた。沖縄戦を語る人とだけ会っていた。そして山を駆け抜ける少年兵たちの残像や、谷間に染み付いた敗残兵たちの絶望や、血を吸った大地から湧き上ってくる慟哭を身体化し、共鳴することで、この島の記憶を無力化するすべてのたくらみに抵抗する力を得たいと祈った。恥知らずにも沖縄戦を忘れ去り、同じ不幸の再現に加担する者たちを焼き尽くす火炎放射器のような映画になれと呪詛しながら証言を再録し、資料を読み漁った。

 戦争の恐怖は武力攻撃だけではない。むしろ旧日本軍の圧倒的多数が敵と戦う以前に飢餓に倒れ、治る病で命を落とした。さらに非武装の民を殺し、軍隊内部で殺し合い、果ては住民同士が刃を向け合う。その愚かさこそ最大の恐怖であり、沖縄戦から真っ先に学ぶべき教訓である。艦砲射撃の雨に打たれた南部の惨状だけでなく、北部の戦争を検証しなければ、なぜ日本軍は「住民を守らなかった」のかという闇に辿り着けない。戦争につきものの「秘密戦」の内実を知らずに、これからの国防も語れるはずがない。

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 さらに、この映画のメッセージについては、フォトジャーナリストの安田菜津紀氏が寄せた美しい詩的なコメントが実に的確に捉えています(「映画パンフ」、8ページ)。

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あの戦争は、地続きだった。沖縄と、本土と。過去と、今と。

それを断絶しているのは意図的に作られた壁か、

それとも無関心という溝なのか。

背を向ければ、再び地獄は忍び寄る。

生き抜いた人々の声は、私たちへの警鐘そのものだった。

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 映画は沖縄戦という過去の沖縄のできごとを扱いながら、沖縄と本土とが、過去と現在とが、それぞれ切れているのではなく、つながっていることを見事に描き出しています。たとえば対米戦争で、沖縄は捨石とされたのですが、もし本土決戦となったならば、沖縄と同様に陸軍中野学校仕込みの「秘密戦」が展開され、住民が巻き込まれることになっただろうことを歴史学研究者・林博史氏が語っています(…過去における沖縄と本土とのつながり)。破滅的な「秘密戦」を展開した帝国軍隊を真に反省して今の自衛隊があるかと言えば、まったくそうではないことも林氏は語っています。自衛隊は沖縄戦を研究して同様の作戦に臨む姿勢です。元レンジャー隊員の井筒高雄氏も、自衛隊は国家体制を守るのであって国民を守るのではない、ということを証言しています(…軍における過去と現在のつながり)。沖縄戦と現代とのつながりを「映画パンフ」は次のようにまとめています(7ページ)。

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 軍隊は国民を守るどころか利用し、疑い、殺害した。また住民同士もお互いを死に追いやっていった沖縄戦の末路は、数々のマニュアルにある通り、破綻した日本軍の戦闘方針の産物だった。こうした体質は、はたして現在の自衛隊の行動規範から一掃されたのだろうか。陸上自衛隊の最高規範である「野外令」や「自衛隊法」には、沖縄戦の地獄を想起させる言葉が並んでいる。2016年から南西諸島の自衛隊増強が始まった。与那国島だけでなく、石垣島、宮古島へも陸上自衛隊が駐屯し、ミサイル基地が配備される計画だ。軍隊が駐留すれば、必ず秘密戦が始まる。「護郷隊」と「スパイ虐殺」と「戦争マラリア」を結ぶ一本の線。このシステムにメスを入れない限り、沖縄戦の地獄は再来する。

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 その上で現在における沖縄と本土との関係を的確に捉えることが求められます。三上監督は映画と講演を通じて、沖縄戦の教訓を踏まえるならば、石垣島や宮古島に今配備されようとしている自衛隊は住民を守るのではなく、使うのであり、それは本土であっても同じだと言っているのです。自衛隊には情報保全隊があり、住民を巻き込んだ情報戦を展開します。映画は、自衛隊が来るとはどういうことか、その本質を、過去の沖縄戦の教訓に照らして、現在の本土にも通用するものとして描き出したのです。

 したがって三上監督が講演で語ったように、「沖縄に寄り添わなければ」というのはまったく的はずれであり、もともと沖縄と本土はまさに地続きなのです。沖縄で起こっていることは対岸の火事ではなく、あなたの服に火がついているのだ、と。それは講演で明言されたように、「沖縄の基地負担を分担してくれ」というよくある言説とも違って、「沖縄にいると日本がどれだけ壊れているかがよく分かる」という立場から言われています。沖縄で民主主義も地方自治も破壊されているのは明白ですが、それは本土も同様だろう、そうでないと思うのはよっぽどおめでたい、だったら沖縄も本土もこの理不尽を本気で変えるしかない、ということです。

 三上監督は本土住民の鈍感さと無関心を本気で怒っています。本土を加害者として糾弾してもいます。しかしそれはよくあるような「沖縄を犠牲にして平和と繁栄を謳歌する本土に対する怒り」ではありません。そういう言説は日米安保体制を肯定する立場からよく発せられるし、そうでない立場からも言われるかもしれません。沖縄差別は確かにある、しかし本土の沖縄化が進む状況下で、平和と民主主義を守る共通の課題にともに立ち上がる他ない――それに気づいていない本土世論に対して本気で怒っているのが、三上監督の立場だろうと思います。

 さらに彼女は、もはや政府がどうの、安倍政権がどうのということではなく、それを選んでいる民度の低さが問題であり、安倍政権打倒などより、戦争に向かって圧倒的な流れになっている人々の意識を変えることが課題だとまで言っています。それについては後述したいと思います。

 さらに三上監督があえて自衛隊問題を提起した意義について考えてみます。米軍基地反対というと即連帯してくれる人たちが、自衛隊を持ち出すと半分くらいが引いていく現実がある、と講演で訴えられました。自衛隊基地は米軍も使用できるのに…。それで、平和は軍事力によって守られるのではなく、軍隊はむしろ住民を危険にさらすという、戦争と平和の原点に立ち返った映画がつくられたと思います。それは広範な人々の共感を勝ち取って、平和の戦線を深め拡大する成果を上げています。ホウネットの上映会でも「自衛隊は国を守るのであって、国民を守らないことがわかった」という感想が寄せられています。

このことは、たとえば「市民と野党の共闘」などにも教訓となる点があります。そこでは、できるだけ一致点のハードルを下げて、幅広い人たちが参加できるようにという、いわば幅広主義の原則があり、「安倍一強」に立ち向かう弱小野党勢力を糾合するためには必要なことです。ただしそこでも人々の生活とそこに生じる心情の奥底に届くような政策を提起するには、一定のあつれきをも恐れず協議していくことが必要です。そうしないと薄い内容の政策に終わってしまいます。幸い、戦争法反対と立憲主義擁護という極めて原則的な一致点だけから出発したこの共闘が、一致点を拡大して、消費税10%への増税反対とか、原発ゼロなども含む13項目の共通政策に結実したことは、政策における本気の共闘の実現という重要な成果です。今後とも革新勢力は、安保条約廃棄という課題を野党共闘に押し付けるのではないにしても、独自に広く人々に訴えていくことは必要であり、それが平和の世論を深めていくことにつながります。

 

 

◎国家論と自衛隊の本質把握

 自衛隊について、常識的には、何よりも災害救助隊であり、日本が侵略された時に人々を守ってくれるものだと思われています。しかし上述のように、三上監督によれば自衛隊はあくまで国家を守るものであり、住民を守るものではなく逆に戦争遂行に利用するものであり、自衛隊が来るということは、住民にとって平和を守ってくれて安心なのではなく、戦争に近づく危険なことなのです。それを沖縄戦、とくに北部の「秘密戦」の教訓とそれを反省なく引き継いでいる自衛隊の現状とを示して警告を発したのです。それだけでなく、三上講演や映画の中のピーター・カズニック教授の発言にあるように、沖縄に米軍が配備されているのは日本を守るためではなく、アメリカ帝国主義の対中国・対ロシアの戦略の最前線を担わせるためです。したがって沖縄が本土の防波堤なのではなく、日本列島全体がアメリカの防波堤になっているのです。自衛隊はその下請部隊です。

 そういったことは日米安保条約と自衛隊に反対してきた日本の革新勢力にとっては当たり前なのですが、その認識が今日では少数派に転落し、上記のような牧歌的・通俗的な自衛隊像が世論的には圧倒する状況になっており、それに伴って様々な対外脅威論をテコとした軍備増強論や9条改憲が勢いを増しています。しかしそれが多数派になったわけではないので、まだ間に合う。三上監督はもはや戦争へのコーナーを曲がったという言い方をしていましたが、そういう過剰な危機感や悲観論には同調できません。ここで自衛隊の性格把握について冷静に考えるべき点があるように思います。

 三上作品が通俗的自衛隊像を打ち破って、その危険な性格を描き出し、そこにリアリティを獲得しえている一つの理由は、今日の沖縄におけるむき出しの国家権力の行使と非暴力市民抵抗という闘争の現実です。常識・通念によれば、国家は国民のための公共機関であり、軍隊は外国の侵略から国民を守るためにあります。これを「通俗的国家論」と呼びましょう。それに対して、レーニン『国家と革命』などに代表される見方では、国家は階級支配の機関であり、軍隊はその暴力装置である、ということになります。これを「古典的国家論」と呼びましょう。私は政治学の知識はないので、大ざっぱな議論になってしまいますが、あえて先に進みます。

「古典的国家論」は単純なので、今や顧みられません。階級国家といえども、公共性をそれなりに担わなければ成立し得ないから、「階級支配機能」と「公共的機能」という二重機能の相互の関係を考える、というのが今日の国家論の課題でしょう。もちろんだからと言って「通俗的国家論」が正しいわけではありません。むしろ辺野古の現状は「古典的国家論」がそのまま当てはまるようでさえあります。自衛隊が出動しているわけではありませんが、民主主義を無視した無法の国家権力=安倍政権が非暴力市民に暴力をふるう姿に接すれば、機動隊=警察権力の先に国民弾圧の軍隊としての自衛隊の姿を想像するのは容易なことです。  

 私は学生時代に運動の中で、自衛隊とは違憲・対米従属・人民弾圧の三つの性格を持つ軍隊であると習いました。映画「沖縄スパイ戦史」はその自衛隊像を見事に描き出し、「通俗的国家論」に伴う幻想的自衛隊像を打ち破りました。ホウネット総会後の世話人会でもこもごも議論されたように、「災害救助隊」像に隠された自衛隊の本質論を浮かび上がらせたのです。

 ただしそこにはまだ考えてみるべき点もあります。自衛隊においては、「階級支配の機関としての国家の暴力装置」としての軍隊一般の本質が貫かれているだけでなく、対米従属という性質まで加重されています(というか、対米従属こそが本質)。しかしそれは同時に憲法と人民の運動に規制されてきたという側面も持ちます。世話人会の議論で以下のような発言がありました。

1)ある勉強会で「自衛隊を軍隊にしてはならない」と言われた。

2)戦争法ができて自衛隊の性格が変わった。

3)自衛隊員と米兵とでは凶暴さがまったく違う。

 ここには軍隊一般とはやや違って、平和憲法などに規制された(従来の)自衛隊の姿があります。戦後日本において憲法9条に反して、自衛隊がつくられたけれども、戦闘によって一人も殺さず、殺されず、という「実績」を積み上げてきており、それをもって戦後の平和国家日本という言い方もあります。それは、ベトナム戦争やイラク戦争のような米国の侵略戦争に、日本国家が加担した事実を看過しているという意味では不正確なのですが、ともかくも日本社会に根づいた平和主義の一端を表現してはいます。

 上記(1)は「自衛隊は軍隊ではない」という認識を示しています。それに対して、世界有数の軍事力を持った自衛隊への不当な美化であるという批判があり得ます。しかし確かに軍事力というハードは立派だが、それを動かす法的・政治的条件というソフトは十分には整っていないから本来の軍隊ではない、という言い方はできます。憲法と政治・平和運動による規制が効いているのです。もちろんそれを過大評価してはなりませんが、過小評価もせず、私たちの運動の橋頭保としてしっかり確保する視点が必要です。憲法などしょせんは偽善だ、という類のニヒリズム・シニシズムは厳に退けるべきです。

 上記(2)は戦争法以前と以後とを区別しており、以前の自衛隊をそれなりに憲法などの規制下に置かれた存在として評価するとともに、以後の自衛隊で増大する危険性へ警鐘を鳴らしています。

 上記(3)は絶え間なく戦争をやってきた米軍と、「殺さず殺されず」で済んできた自衛隊との違いを、兵の訓練などの違いという側面から捉えたものです。三上監督の講演でも、女性への暴行に及ぶ(元)米兵が、相手の膝の裏を切ることで、抵抗させず、暴行中はまだ殺さずという状態を維持する、というおぞましい技が語られていました。

 この(1)(2)(3)の議論を紹介したのは、自衛隊を見るにあたって、軍隊一般と対米従属という側面だけ(確かにそれが本質なのだが)を見るのでなく、憲法や政治・平和運動などに規制されるという側面を見落とさないことを言いたいからです。そこに私たちの運動の橋頭保がまだある、ということです。

 「通俗的国家論」とそれに伴う自衛隊像は確かにタテマエに過ぎず、本質を覆い隠すものですから、本質を暴露することは非常に大切です。三上監督はそれに最大限貢献しています。しかしすぐにその本質を変えることが不可能ならば、「タテマエ大いに結構、そのまま実現してもらおう」と迫るのも現実的対応としてはアリです。実際、災害救助隊がない現状では、自治体の共産党員首長といえども大規模災害時には自衛隊に出動要請せざるを得ません。それは社会変革の立場からすれば妥協なのですが、行政の立場からすれば当然のことであり、そういう現実を生きざるを得ないのです。自衛隊をもっぱら副業としての災害救助に張り付けておけるなら、その本業としての戦闘行為への違和感を人々に抱かせ続けられるならば、それも一つの小さな歯止めではあります。

 しかしもちろんそういう低い志では、沖縄の人々はもちろん全国の人々にもまったく申し訳なく思います。高江・辺野古・石垣・宮古などの現実を広く普及し、「武力によらない平和」の実現、東北アジアでの平和構想の実現こそが日本の平和の最も現実的な道であることを日本社会に定着させ、安倍政権を打倒することに尽力しなければなりません。

 

 

◎どう訴えるのか、回答は難しい

 民主団体の講演会では、必ずと言っていいほど、無関心層や若者にどう訴えればいいのか、という質問が出され、講師は回答に苦慮します。今回も例外ではありませんでした。

三上監督はすでに講演の中で、本土の人々の民度が低いと断じていました。そういう現状認識の当否は措くとしても、それを言った瞬間に負けている、と思うべきではないでしょうか。ただし彼女は上から目線であって、現実を見ていない、というわけではありません。自分の息子が平成天皇を褒めるなど、ずいぶんと保守的な意見を述べる様子を語り、その裏に、若者たちがとにかくいじめられないためにエネルギーを費やし、勝ち組に乗り、嫌われないようにする、という生活様式の中にあり、これでは若者の自民党支持はなくならない、と身近な問題を客観的に分析していました。

講演では、世論の保守化について批判していました。――9条があるにもかからず、強い軍隊に守られたいという思いが今一番強くなっており、軍事的なものに守られる安心を求めている。それで、「日本を守ってくれる」米軍に沖縄が反対しており、自衛隊にさえ反対しているとして、沖縄バッシングが起こっている。そこにあるのは、軍隊は私たちを守ってくれるという病気であり、そういう平和ボケした日本人の頭をかち割りたい――

誠に私もそう思います。しかしそれだけでなく、他面では、9条を守るという考えもそれなりに強く(その中身には問題があり、戦争を煽られるとたちまち同調しそうでもあるが)、ともかくも憲法の条文そのものへの支持は我々にとって、闘いの重要な橋頭堡であり、依拠すべき重要な事柄ではあります。一面的に後退面だけを見るのでなく、積極面を見ることが必要だと思います。

 三上監督の怒りはまったく正しいのですが、それを実現させることは難しく、常日頃、私たちもごまめの歯ぎしりに終始しているわけです。そういう状況を捉えているのが、今年、東大入学式の祝辞が話題になった上野千鶴子氏のかつての言葉です。

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 正論のつまらなさは、正論でなぜ人が動かないかを理解しない無知と傲慢さにある。

 対抗文化や反体制運動の退潮は、正論にしがみついているうちに、正論が通らない世の中のしくみをつかむことを、すっかり怠ってきた怠慢にある。

    上野千鶴子『女遊び』(学陽書房、1988年)より

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 この警句を知ったからと言って問題が解決するわけではなく、とにかくひたすら現実の構造とそれに規定された人々の意識を捉える努力を続けるほかありません。その上で見合った対策を打ち出さねばなりません。これは私にとってのどに刺さった魚の骨であり続け、永遠のやり残された宿題です。

 上野警句を超えて、人々の支持を大きく獲得している、という意味では、映像という大きな影響力を持った舞台において、三上監督は自身の使命を果たしていると言えます。日本中の人々が見ればいっぺんに沖縄観も自衛隊観もひっくり返るほどの内容の映画を作ったのですから。同様に、三上作品と同じく「東風」配給で、慰安婦問題を扱ったミキ・デザキ監督(日系米国人)の「主戦場」も全日本人必見の画期的作品です。そういう特別の才のない私たちが、どう自分の言葉を紡ぎ出して世の中を変えていけるのか、模索が続きます。

どうも竜頭蛇尾の内容で終わってしまいました。本来は三上作品の決して単純ではない複眼をもった豊饒さやジャーナリスト精神についてもきちんと語るべきですが、これ以上冗長な文章を続けるのは避けて閉じます。妄言多罪。

 

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