これは名古屋古書組合の機関誌『古書月報』102号(2008年10月14日刊)に投稿したものです |
遅ればせながらの拍手を
コフィ・アナン前国連事務総長は「一人の老人が死ぬことは一つの図書館がなくなるようなものだ」と述べたという。確かに一人の人間の中身は唯一無二の小宇宙であり、無限の広さと深さを持っている。それを他人は、いや自分でさえも知り尽くすことはない。長い経験とそこから生まれた知恵は尊重に値するものだ。それらを余すところなく執筆することができるなら万巻の書物になる。
わずかな人たちがその一部を何らかの方法で世にむけて表現することに成功して名を残してきた。しかしそうしなかった圧倒的多数の人々も何かを持っていたのだ。アナンの言葉はそこに気づかせてくれる。
ささやかながら古本屋の仕事もまた、そうした個人の内面をさらに豊かにすることに役立つ。そう思って古本屋の空間を見直してみたい。立川志の輔が音楽について語った以下の言葉は、そっくり本に作家に古本屋に読み替えることができる(「朝日」夕刊七月三日付)。
CDやLPは作り手がやりたい音楽の集大成。それがぎっしり並ぶ店の雰囲気が好き。「数えきれない自己主張が元気をくれる」
「好きなアーティストの曲は全部聴く。表現の幅がわかるから。それは人生とともに出来上がるもの。広ければ広いほど感銘を受ける。自分の感情と向き合った証だと思う」
CDショップでの志の輔の真剣な表情を見て、秋元康はこう語る(同記事)。
古いLPを持ち上げ、先人たちのパフォーマンスを畏敬の念で見ているのだ。遅ればせながらの拍手とともに……。
いいことを言ってくれる。そう、まさに古本屋こそ「遅ればせながらの拍手」を商売にしているのではないか。いやひっそり店を閉じても、そんな拍手さえもらえないのが古本屋の現状かもしれないが……。気を取り直して秋元康の話を聞こう(同前)。
立川志の輔の落語に感動した。…中略…これまで、見ていなかったことが悔しい。危うく、立川志の輔の落語を知らずに一生を終わるところだった。…中略…人は、誰も、世の中のいいものをほとんど知らずに、死んでいくのである。
人は世の中のいいものをほとんど知らずに、死んでいく。別に知らなければ知らないで過ぎていく。しかし知ればそこに無上の喜びが待っている(こともある)。秋元康が志の輔の落語に遭遇した感動に劣らぬものを、古本屋は顧客に与えることができる(かもしれない)。「遅ればせながらの拍手とともに」。ならば「本屋大賞」の他に「古本屋大賞」もあってよさそうだ。とはいえ古本屋はそういう組織的なおせっかいはきらいなんだ。
コフィ・アナンと秋元康の言葉を並べると、個人の内面の無限性と世界の無限性とが複雑に絡み合ってくる。人は一方では、無限大の中身を持っているのに、世界の中では点のように極小だ。驚くほど多くのことを知っているとも言えるのに、なにも知らずに死んでいくとも言える。
そこで無限の内面を持つ個人がさらに無限の外界に向かって挑戦し、それを自己に取り込もうとする。個人と世界の矛盾を克服しようとする完結しない歩み。見果てぬ夢。それが人生の一面かもしれない。しかし「人は望めば何者にもなれるけれども、自分以外のものには絶対なれない」(作家・村山由佳、「しんぶん赤旗日曜版」一九九九年一月二四日付)。完結しない歩みではあっても方向は決まっている。自分という個性に収斂していくほかないのだ。
そして最期には、平知盛のように達観できるだろうか。「見るべきほどのことは見つ」(平家物語)。