これは名古屋古書組合の機関誌『古書月報』103号(2008年12月2日刊)に投稿したものです |
思い込みの話
「ゆだし」ってご存じだろうか。あ、いや、知らないのは無理ない。これはある小学六年生と私しか知らないのだから。彼は「輸出」を「ゆだし」と読む。こういうときは決して笑わないで、正しい読み方を教えてあげなければいけない。
勘違いや思い込みのたぐいは誰でもある。童謡の歌詞なんかだと「うさぎ追いしかの山」を、「うさぎが美味しいあの山」という意味だと思っていたりする。これはよく聞く。私なんかは「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」を、ヒッチコックの「鳥」みたいに、赤とんぼの大群に追われてみたのかと思っていた。
仰げば尊し「和菓子の恩」という、信じ難い思い込みも聞いた。思い込みをユーモアに転ずる例もある。作曲家の池辺晋一郎は大学で教えていて、弟子に俳優の加藤剛の息子(名前は忘れた)がいた。彼は卒業のお礼にと、恩師に「和菓子の恩」と書いた菓子折りを贈った。この場合はもちろん思い込みではない。作曲だけでなく、駄ジャレもしっかり教えてくれたであろう池辺に学恩を返したのに違いない。
何年か前までNHKFMに「おしゃべりクラシック」という番組があった。パーソナリティは俳優の渡辺徹で、レギュラーの相棒が一、二年ごとに変わって、熊本マリ、伊藤恵(けい)、長谷川陽子など、今をときめく女性演奏家たちが努めていた。曲の合間には、クラシックの話やその他のシビアーな話もたまにはするが、基本的には世間話などが多く、「お笑いクラシック」という宛名でもリクエスト葉書が届いたらしい。
この番組の中に「こんだらコーナー」というのがあって、上記のような勘違い・思い込みのたぐいをリスナーから募(つの)っていたのである。その中に「浦島太郎」の歌があって、確かその五番とか六番とかいうところに(そんなに長い歌なんだ!)、帰ってみれば「こはいかに」という歌詞があるそうだ。すっかり景色が変わっていて「これは如何に(こりゃ何だ)」と驚いたんだろう。これを「恐いカニ」と勘違いして、せっかく家に戻って来たのに、恐い蟹にあってかわいそうだと思っていた人がいたのだ。
ところでなぜそういう話を集めるのが「こんだらコーナー」なのかというと、渡辺徹の思い込みから来ている。アニメ「巨人の星」のオープニング。タイトルバックには、大きなローラーを引いてグラウンド整備に汗を流す場面が出てくる。主題歌が流れる。「思い込んだーら試練の道を…」。渡辺徹は、大きなローラーをなぜか「コンダーラ」という名前だと思い込んでいて、「重いコンダーラ試練の道を…」というふうに主題歌の歌詞を聞いていたのである。
話を戻す。冒頭の「ゆだし」は誰も知らないだろうが、「ふしゅう」とか「みぞゆう」「はんざつ」なら知っている人がいるかもしれない。麻生首相の発言である。「ふしゅう」は「踏襲」(とうしゅう)の、「みぞゆう」は「未曾有」(みぞう)の読み間違いで、「はんざつ」は、「頻繁」(ひんぱん)と言うべきところを、「はんざつ」(繁雑?煩雑?)と言い間違っていたのだ。これだけ出てくると、ちょっとした勘違い・思い込みのたぐいではなくて、明らかに無教養である。
ブッシュ大統領は、何年か前にブラジルの大統領に会って、貴国に黒人はいるかね、と尋ねたという。彼は野球は好きなようだが、サッカーを見たことはないのだろうか。その他にもブッシュ馬鹿語録には枚挙にいとまがない。初めはそういうことが面白おかしくたくさん報道されたが、だんだんと聞かなくなった。おそらく彼が賢くなったのではなくて、みんなが飽きたのか、笑ってる場合ではなくなったのだろう。
大統領や首相が無教養だから、イラクに侵略したり、二兆円給付金などという愚策が出てくる、などと、そこまでは言わない。様々な政治的経済的要因があるのだから…。それに人間にとって教養があることよりも誠実であることのほうが大切だとも思う(彼らが誠実だとも思えないが、隣人ではないので本当のところはわからないとしておこう)。しかしこれが一国や世界の指導者だと思うと情けない。
かつて哲学者ヤスパースは、「知的であること」「誠実であること」「ナチス的であること」の三つが共存することはない、と言ったそうだ。知的であって誠実であれば、ナチス的であるはずはない。知的であってナチス的であれば、誠実であるはずはない。誠実であってナチス的であれば、知的であるはずはない。善男善女がだまされて戦争に向かっていったのはドイツも日本も同じだ。そしてそれが過去に解決済みだとも言い切れないところが恐い。
首相の無教養よりもはるかに恐ろしいものが出てきた。田母神俊雄航空幕僚長が軍国主義時代さながらの論文を発表して更迭された。その内容については、体制派とか右よりと目される学者たちもこぞって事実に即して徹底的に批判している。彼らにしても田母神と同類だと思われるのは迷惑なのだろう。つまり田母神「論文」なるものは、立場がどうのこうのという以前の幼稚な思い込みの駄文に過ぎないのだ。トンデモ本のたぐいである。こういう人物が統幕学校長として幹部自衛官を教育していたのだ。ぞっとする。
重ねて言うけど、教養が一番大事だと主張するつもりはない。多くの古本屋にとっては娯楽の本に囲まれているのが日常だと思う。しかし娯楽と教養との間にはっきりした一線があるわけでもない。生活への慈(いつく)しみ。それを原点にして全方位に広がっていけるのが古本屋の世界ではないか。それはまともな世の中を作っていく底辺の地道な歩みとして、間違いを許さない人々を生み出す、というと僭越(せんえつ)だから、そういう人々とともにある存在だと思っている。
<追記>
この文章の発表は『古書月報』発行の12月2日だが、書いたのは11月16日で、2週間の間に情勢が驚くほどに進展してしまった。初めは麻生首相の漢字誤読も、さほどにクローズアップされていなかったのだが、その後の暴言連発でバカ殿ぶりがまさに国民的に定着するに及んで、すっかり有名になってしまった。
ところで「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」という公的医療保険制度を否定する発言を首相がしたのは経済財政諮問会議でのことだ。出席していた河村建夫官房長官によれば「その場の雰囲気は、みんなうなずいていた」というのだから、とんでもない事態だ(「しんぶん赤旗」11月28日付)。首相の数々の暴言は無教養のせいばかりではなくて政権の本音だと疑ったほうがよさそうだ。
それとこれはあくまで古書組合の機関誌の読み物として書いているので、田母神「論文」については馬鹿馬鹿しさを笑うにとどめている。しかしことはもっと重大で、このようなものが自衛隊の中から出てきた状況は深刻であり、言論クーデターという評価もあながち誇張ではない。ついに海外派兵に踏み出したことによる増長ぶりと、にもかかわらず憲法上などの制約があることへの苛立ちとが相まって、今回の「勇み足」に及んだと思われる。自民・民主などの保守政界の右傾化も背景にあろう。まず自衛隊内の異常な歴史・政治教育を一掃しなければならない。